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何のたわごと車ません

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何のたわごと車ません
大供
匡:
︱︱ 管仲 の前半生ll
。
″
﹁
忠臣は二君 に仕えず﹂という のは、観念論をも てあそぶ儒学者 の たわごと″ である 真 の
、
一君主 のために死 ぬことはしな い。 この篇 は管子が
政治家は国 のために生命を投げだすが、
。
か つて敵対 した桓公のもとで宰相となるまでのいきさ つである
こ と ば
﹁
子を知るは父 にしくなく、臣を知 るは君 にしくなし﹂
﹁
社 稜 宗 廟 を持する者 は、事を譲らず、間を広しく せず﹂
、
﹁
人臣たる者 は、君 に力を尽くさずば、親信 せられず。親信 せられずば 言聴かれず﹂
﹁
召忽 の死や、その生くるに賢 るなり。管仲 の生や、その死するに賢 るなり﹂
良臣は仕 事を選ば ぬ
斉 の倍公 には、諸児、純、小自 と いう 二人 の公子が いた。信公 は末子 ・小自 の教育係 として、臣下
の飽叔をえらんだ。 だが飽叔 は、病気 を 口実 に辞 退し、家 に引き こも ってしま った。
同僚 の管仲 と召 忽は飽叔を訪 れ、 そ のわけをたず ねた。飽叔 は、
﹁昔 から、子供 のことなら親 に問 け、臣下 のことなら君主 に聞 け、 と いう ではな いか。 わたしのこと
は、だれよりもわが君が ご存知 のはず。 わが君 は、わたしが無能だとお考 えにな ったから こそ、小自
さま の教育係 と いう閑職 を申 し つけられた のだ。 これは、わたしなど いなく ても いい、 と いう ことで
はな いか﹂
召 忽はす っかり同情 した。
﹁よし、わか った。 そう いう ことならあくまで辞 退す べきだ。 このさ い、わたしから、き みの病状 が
思わしくな いと申 し上げ てお こう。 き っと この人事 は撤 回なさるにちが いな い﹂
﹁そうしてもらえれば ありがた い。 ぜひ頼 む﹂
そば で聞 いていた管仲 が、 日をはさんだ。
﹁それはまず い。国 の大事 をあず か る以上、どんな仕事 でも辞退す べき ではな いし、 いか に閑職 とは
いえ、任務をおろそかにす べき ではな い。だ いいち、だれが つぎ の国君 にな るか決ま ったわけではな
いのだ。 やはり、引き受 け る べきだ と思う﹂
。
そ こで、召 忽 と管 仲 の議論 と な った。 召 忽が い った
0
、
﹁いや、 わ た しは そう は思 わ ん。 斉 の国 にと って、 わ れわ れ 二人 は いわば鼎 三本 足 のよう なも の
、
。
だ。
一本 欠 け ても鼎 は倒 れ てしまう。 こ こは、慎 重 に考 えねば ⋮ ⋮ 小 自 さま は とう て い後 継 ぎ に
な れ る方 ではな い のだ から﹂
、
﹁いや、 そう と決 ま った わ け ではな い。純 さ ま は、母 君 が国 中 の人 々から憎 ま れ て いるた め ご自 分
。
一方 、晨 臨 ぎ ま は実 の母 君 が いな い ので、世 間 の同情 を買 って いる 諸 児 さま
も 不 利 を握 チ て いる。
。
は、 なん と い っても ご長 男 で、 いちば ん有 望 だ が、 母 君 の ご身 分 が低 いと いう難 点 が あ る いず れも
一長 一短 、 にわ か に判 断 を下 す こと は でき な い。
し か し、結 局 、将来 の斉 を背負 って立 つのは純 さま か小 白 さま だ ろ う。 わた し は小 自 さま を買 って
。
い る。 あ の方 は、小 智 を弄 せず 、大 所高 所 から物 事 を とら え ると いう タ イプ のお方 だ 人 物 の スケ ー
、
っ
。
ルが並 みはず れ て大 き い ので、 な か な か ひ と に理解 され な い あ の方 の ことが ほん とう にわ か て
いる のは、 わ た しく ら い のも のだ ろう。
、
順 序 か ら いけば札 さま が先 だ が、不 幸 にし て将 来 、 わが斉 が天 から わざ わ いを受 け た場合 札 さま
、 国 家 安 泰 のた め、飽 叔 の力 が いる のだ ﹂
その関係を整理すれば、 左
﹃
史記﹄では董公︶の公子。
︿
諸児、れ、小白﹀ いずれも斉の倍公 ︵
で は と ても乗 り切 れ ると は思 えな い。 そう な った とき
図のごとくである。公孫無知は次々革に登場する。
子
管
︿飽叔﹀ 管仲 の親友。名は叔牙。 管仲 の才能を最もよく理解した男 で、 管仲は、﹁
われを生 みし
者 は父母、われを知る者は飽子﹂と い った。管仲を引き立てるために飽叔はいつでも損な役を引
き受けた。管仲は自分 の才能よりも、飽叔 の友情によ って出世したというのが、も っばら の評価
だ ったという。
︿乱忽︶ 飽叔ととも に管仲 のよき理解者 であり、心から の友 でもあ った。管仲と い っし ょに公子
純 の教育係 にな っていたが、後年、札 の後を追 って殉死した。
︿母君が国中 の人々から憎まれている﹀ 純 の生母は魯国 の公女。魯は斉 の隣国 で、両国間には、
いざ こざが絶えなか った。したが って、魯国出身 の女性は斉 では人気がなか ったのだろう。
先物買い 支配体制がゆらぎ つつある春秋時代、お家騒動は常識 であ った。その間 にあ って、
それぞれ異母公子の後見役 に任命された重臣同士の議論は、″
先物買 い″ をめぐ って興味深 い。
す でに次子 ・れ つき の教育係を命ぜられていた管仲は、むしろ小自 の将来性 に期待し、親友飽叔
に教育係就任を説 いているのだ。
匡
斉僣公生公子諸児、公子れ、公子
小自、使飽叔博小白。飽叔辞、称疾
不出。管伸与召忽往見之。日、何故
不出。
飽叔 日、先人有言、日、知子英若
斉 の僣公、公子諸児 。公子札 。公子小自を生 み、飽叔をして小自
に博 たらしむ。飽叔、辞し、疾と称して出 でず。管仲、召忽ととも
。
に往きてこれを見 る。曰く、﹁
何 の故 に出 でざ る﹂
飽叔 曰く、﹁
先人言えるあり、
曰く、 子を知るは父 にしくなく、
。
って賤臣をして小自 に博 たらしむるなり 。賤臣 、棄 てらるるを知 る﹂
臣を知るは君 にしくなし、と。今、君、臣が不肖を知 る、 ここをも
召忽曰く、﹁
子固く 辞して出ずるなかれ。 われ権 に子に任ず るに
父、知臣莫若希。今君知臣不肖也、
是以使賤臣博小白也。賤臣知棄実。
。飽叔 曰く、﹁
子かく のごとく
死亡をも ってせば、必ず子を免ぜん﹂
に及び、而 して小自 の母なきを憐れむ。諸児 は長ず れども賤し。事
然らず。 それ国人、純 の母を憎悪し、 も って純 の身
管仲 曰く、﹁
自を観 るに、必ず後とならず﹂。
一を去るときは必ず立たず。われ小
磐うるに鼎 げ足あるが ごとし。
これを
不可なり。 われ二人 の者 の斉国におけ るや、
召忽曰く、﹁
子それ出 でんか﹂。
を広しく せず。国を有たんとする者は、 いまだ知る べからぎ るなり。
不可なり。社程宗廟を持する者 は、 事を譲らず、 閲
管仲口く、﹁
。
ならば、なん の免ぜられざ ること これあらんや﹂
召忽日、子固辞無出。吾権任子以
死亡、必免子。飽叔日、子如是、何
不免之有乎。
管仲日、不可。持社程宗廟者、不
譲事、不広開。将有国者、未 可知也。
子其出乎。
召忽 日、不可。吾 三人者之於斉国
也、警之猶鼎之有足也。去 一焉則必
不立尖。吾観小自、必不為後実。
管仲 日、不然也。大国人憎悪札之
いまだ知 るべからぎ るなり。それ斉国を定む るゆえんは、 この二公
母、以及純之身 、而憐小白之無母也。
諸児長而賤。事未可知也。夫所以定 子 の者 にあらずば、やむなからんとす。小自 の人となり は、小智な
く、場 にして大慮あり。夷吾 にあらずば、小白を容るるも のなから
斉国者、非此 二公子者、将無己也。
死ぃ
ん。天、不幸 にして禍を降し、
を斉 に加う。純、立 つことを得
小自之為人、無小智、揚而有大慮。
非夷吾、英容小自。天不幸降禍、加 と いえども、事 は済らざらんとす。子、社製を定む るにあらずば、
。
狭手斉。純雖得立、事将不済。非子 それはたれぞ や﹂
定社稜、共将誰也。
だ れ のた め に死 ぬか
管仲の意見を煎じ つめれば ﹁
札が失敗すれば次は小自。 いま飽叔が小自の教育係にな っておけば、
き っとそのとき役に立 つ﹂というものである。これを聞 いて、召忽はび っくり仰天、はげしい調子で
反論する。
﹁な にを いう。 かり にも わ た し は純 さま の教 育係 を命 ぜ ら れ て い る。 将 来 、侵 公 がなく な った あ と で、
かり に純 さ まが地 位 を奪 わ れ る のを黙 って見 て いるよう な こと が あれば 、 それ は君命 に背 く こと にな
る。 そ のとき には、 わ た し は生 き て いな い つもり だ。 た と え斉 の国 を 、 いや天 下 を お ま え に や ると い
わ れ ても 主 君 は裏 切 れ な い。 君命 を奉 じた から に は、 そ の責任 を身 命 を賭 し て送 行 す る。 これ が臣 下
た るも の の義 だ﹂
管仲 は い った。
﹁いや、 わたしはそう は思わな い。臣下 と いうも のは、君命 を奉 じた以上、国 の安泰 をはかり宗廟を
守 る ことをまず第 一に心がけ るべきだ。純 さまおひとり のために死 ぬ必要 はな い。 もし死 ぬとすれば、
それは国が敗 れ るか、宗廟が滅 びるか、先祖 の祭りが絶 えるかしたときだ。 この二 つの場合 でなけれ
ば、命 をす てよう とは思 わな い。 この管仲 が いてこそ斉 の国 は安泰 な のだ。 わたしが死ねば国も危う
い﹂
飽叔 は、 二人 のやりとりを聞 いて いたが、 ここで管仲 に向 か ってたず ねた。
﹁それ では、わたしはどうすれば よ い﹂
﹁出仕 して君命 を受 けることだ ね﹂
と、管仲 は こたえた。
結局、飽叔 は管仲 の意見 に従 い、君命 を受 けて小自 の教育係 とな った。
就任 にあた って飽叔 は、ど のよう に仕 えたらよ いかを管仲 にたず ねた。管仲 は、
﹁まず主君 のた めに全力を つくす ことだ。 さもな いと信頼 されな い。信頼 されなければ、 な にを建議
し ても採用されな い。 そうなれば国を安泰 にす ることはできな い。 な によりもまず 二心を抱 かな いこ
と、 これ が臣下 の道 だと思う﹂
飽叔 は、大きくうなず いた。
忠誠 のあり方 自分が直接 つかえる主人 に殉じようと いう飽叔。自分も主人も ふくめた全体的
組織 こそ忠誠 の対象 であるとする管仲。 ふたり の考え方 は、忠誠 のあり方 の 二つの対照的方向を
召忽日、百歳之後、吾君卜世、犯
君命、而廃吾所立、奪吾純也、雖
五[
れ生きぎ るなり。 いわんやわ れに斉国の政を与うるをや。君命をう
わが立 つところを廃し、わが純 を奪う や、天下を得 と いえども、わ
一
不している。
得天下、吾不生也。兄与我斉国之政
けて改めず、立 つると ころを奉じ て済さぎ るは、 これわが義なり﹂。
召忽曰く、﹁
百歳 の後、
わが霜、 世を卜る、わが濯命を犯して、
也。受君命面不改、本所立而不済、
管仲 日、夷吾之為粛臣也、将承君
って宗崩を持 せんとす。あに 一札 に死 せんや。夷吾 の死すると ころ
管仲 曰く、﹁
夷吾 の君が臣たるや、君命を承け、 社程を奉じ、 も
命、本社製、以持宗廟。豊死 一純哉。
は、社製破れ、宗廟滅し、祭祀絶 ゆれば、夷吾 これに死せん。 この
三者 にあらぎれば、夷吾生きん。夷吾生くれば、斉国利なり。夷吾
是吾義也。
夷吾之所死者、社程破、宗廟滅、祭
。
死せば、斉国利あらず﹂
たる者は、君 に力を尽くさずば、親信 せられず。親信 せられずば、
飽叔、 管仲 に湘 いて日く、﹁
何をか行なわん﹂。 管仲曰く、﹁
人臣
なり﹂。飽叔許諾す。 すなわち出 でて令を奉ず、
ついに小白にぽ た
飽叔日く、﹁
然らば いかん﹂。管子曰く、﹁
子出 でて 令を奉ぜば 可
祀絶、則夷吾死之。非此二者、則夷
吾生。夷再生、則斉国利。夷吾死、
則斉国不利。
飽叔 日、然則奈何。管子日、子出
奉令則可。飽叔許諾。及出奉令、遂
博小自。
飽叔謂管仲日、何行。管仲日、為
人臣者、不尽力於君、則不親信。不
親信、則 百不聴。言不聴、則社稜不
定。夫事藩者、無 二心。飽叔許諾。
謀 反 のたく ら み
言聴かれず。言聴かれずば、社稜定まらず。それ君 に事うる者 は、
。飽叔許諾す。
二心なし﹂
。 だが、 新君 ・襲公はしょせん君主の器で
襲公︶
やがて僻公は世を去り、長子の諸児が即位する ︵
はなか った。以下の数章、その無道ぶりがえがかれる。
僣 公 には夷仲 年 と いう弟 が あ ったが、 こ の夷 仲年 には公孫 無知 と いう息 子 が いた。 倍 公 は こ の公孫
諸児︶と同等 の待 遇 を与 え て いた。
無 知 を可愛 がり 、 衣 服 を は じ め、 あ ら ゆ る面 で、太 子 ︵
やが て倍 公 が死 に、長 子 であ る諸 児 が跡 を継 いだ。 これ が襲 公 であ る。 一
製公 が即位 した とた ん無 知
にた いす る待 逃 は 一変 した。無 知 は一
装公 にた いし、 心中 おだ やか な らぎ るも のが あ った。
あ るとき、 裏 公 は連称 と管 至 父 と いう 二人 の大夫 に、 辺境 の葵 丘 の守 備 を命 じた。 そ のさ い裏 公 は
﹁今 ち ょう ど 瓜 の時 期 だ が、来 年 の瓜 の時 期 には交 代 さ せ る﹂ と約 束 し た。
二人 は赴任 し、約 束 ど おり 一年 つと め たが、 裏 公 か ら はな ん の音 沙汰 も な い。 交 代 を願 い出 たが、
そ れ も許 され な か った。 つい に 二人 は、 ク ーデ タ ーを決 意 し、襄 公 に怨 みを抱 く 公孫 無知 を か つぎ出
え た。
そ,
9と考﹁
子
僻公之母弟夷仲年、生公孫無知。
倍公のW噺夷仲年、公孫無知を生む。僣公に寵あり。衣服祖機、
有寵於僣公。衣服礼秩如適.倍公卒。
適のごとし。僧公卒す。諸児長ずるをも って君となるを得たり。こ
以諸児長得為君。是為襄公。襄公立 れを襄公となす。襄公立ちて後、無知を細く。無知怒る。
後、細無知。無知怒。
公、連称 ・管至父をして葵丘を成らしめ、曰く ﹁
瓜の時にして往
。期まで成るも、 公の間至らず。代わ
公令連称管至父成葵丘、日、瓜時 き、 瓜の時に及びて来たれ﹂
而往及瓜時面来。期成、公間不至。
らんと請うも、許さず。故に二人、公孫無知によりても って乱をな
請代、不許。故 二人、因公孫無知以 す。
作乱。
魯 の桓 公殺 人事 件
話はさかのぼるが、魯の桓公が、斉を親善訪間したことがある。桓公は大人を同行したが、これに
たいして、斉の襄公は⋮⋮。
魯 の桓 公 の夫 人 は、文 姜 と いう。 も とも と斉 の公女 であ った。 桓 公 は斉 訪 間 にさ いし、文 姜 を同行
さ せよう と し た。 大 夫 の申 会 が これ を諫 め て、
﹁これ は、 いか が なも ので ござ いま し ょう。 女 には夫 と いう も のが あり、 男 には妻 と いう も のがあ っ
て、 た が い に相 手 を裏 切 ら ぬ︱︱ これ が礼 と いう も のです﹂
だ が、 桓 公 は これ を無視 し て、 文姜 を連 れ て出 発 し、斉 の襄 公 と深 の地 で会 見 した。
と ころが、 こ こで事件 が起 き た。 文 姜 が裏 公 と密 通 した ので あ る。 これ が夫 桓 公 の知 ると ころ とな
り 、桓 公 は文 姜 を責 めた てた。 文 姜 は、夫 の仕 打 ち を要 公 に訴 え る。 これ を聞 いて、 襄 公 は頭 に血 が
一方 、力 自慢 の公 子彰 生 に桓 公殺害 を命 じ た。
上 った。 宴 会 に招 待 す ると称 し て、 桓 公 を さ そ い出 す。
。
彰 生 は桓 公 を車 に扶 け乗 せる や、 いき な り そ の胸 を押 し つぶし た。 こう し て魯 の桓 公 は車 上 で死 んだ
二月 にな って、魯 から つぎ のよう な中 し入 れ が あ った。
。
﹁わが国 の主 は、貴 国 の ご主 君 に敬 意 を表 わ し、親善 を深 め るた め、貴 国 を訪間 いた しま し た そ の
、
。
あ いさ つはす で に終 わ った にも か か わらず 、 いまだ帰 国 いた しま せん われ われ と し ては だ れ を と
。 でき ます な らば 、下手 人 であ る
が め てよ い のやら、諸 侯 への聞 こえも あり、 途 方 にく れ ており ます
彰 生 ど のを貴 国 で処 置 し て いただ ければ と存 じま す﹂
そ こで斉 では彰 生 を処 刑 し て、魯 に謝 意 を表 した。
従妹をふくめた広義の妹︶であり、
女弟﹂︵
史記﹄によれば文姜は襲公の ﹁
文姜は斉の公女﹀ ﹃
︿
魯 の桓公に嫁ぐ以前から襲公と関係があ ったという。親善旅行をき っかけに、この不義の関係に
。
ヨリが戻 ったというわけである。申愈の謙言も、これをふまえてのものと思われる
、
魯桓公夫人文姜、斉女也。公将如 魯 の桓公の大人文姜は、斉女なり。公、斉に如かんとし 夫人と
不可なり 。女に家あり、男に室あり、
ともに行く。中念諫めて曰く、﹁
斉、与夫人皆行。中念諌日、不可。
。
。
女有家、男有室、無相演也。調之有 あい演すなし。これを有礼と調う﹂ 公聴かず ついに文姜をもち
いて、斉侯に深に会す。
礼。公不聴。遂以文姜、会斉医十澳。
子
文姜通於斉侯。桓公間、責文姜。
文姜、斉侯に通ず。桓公聞きて、文姜 を責む。文姜、斉侯に告ぐ。
文姜告斉侯。斉侯怒、饗公、使公子 斉侯怒り、公を饗し、公子彰生をして魯侯を乗らしめ、これを脇く。
彰生乗魯侯、脇之。公売於車。⋮⋮ 公、車に売ず。⋮⋮
二月、魯人告斉日、寡君畏君之威、
二月、魯人、斉に告げて曰く、﹁
寡君、君の威を畏れ、あえて寧居
不敢寧居、来修旧好。礼成而不反。
せず、来たりて旧好を修む。礼、成りたれども反らず。死を帰する
無所帰死。請以彰生除之。斉人為殺 ところなし。 請う彰生をも ってこれを除かん﹂
。 斉人ために彰生を
彰生、以謝於魯。
殺し、も って魯に謝す。
た た り
襄公の無道あいつぎ、 ついに公孫無知のクーデターが起こる。その結果⋮⋮
し
盤 が とび出 した。 従 者 が
そ の後 、 五月 のあ る日、襄 公 は貝 丘 で狩 を催 した。 突如 、
一行 の前 に、
大 声 で、
﹁あ っ、 彰生 さま だ !﹂
﹁な にを い っと るか!﹂
襄 公 は従 者 を叱 り つけ るなり、弓 に矢 を つが え てそ の猪 を射 た。
そ の瞬 間 、猪 は、人 間 のよう に 二本 足 で立 ちあが って、 晴 いた。 仰 天 し た裏 公 は、 車 から ころげ落
ち 、足 にけがを したう え、 く つを な く し てしま った。
、
、
っ
か ったと い
帰 ってから襄公は、狩 に同行 した費 と いう小者 に く つを出 せと い ったが 拾 てこな
、 り ら宮
、
か
と
お
。
う。費 は血 が出 るま で、むち打 たれた ようやく許 された費 が 門 のところまで来 る
。
げょ
。観F針 一味 の反乱軍 にば ったり出 あ った かれら は費 をおどして縛りあ
廷 に押入 ってきた連称 ,
、
うとした。 だが費 が肌を ぬいで背中 を見 せ
﹁わたしは こんな目 に遇 ったのです。 なん で手向 いいたしま し ょう﹂
、
。
っ
を
、
と い った ので、 かれらはす っかり心を許 し 費 を案内役 に立てた 先 に宮廷 に入 た費 は 襄公
、
げ 。 業公 のそば
物 かげ にかく し、外 へと って返 して反乱軍 に立ち向か い 力 つき て内庭 で最期をと た 一
。
っ 、 ベ ッド に
にひかえて いた石之紛如も戦 って、階 の下 で討死 した ま た孟陽 は襄公 の身代り とな て
、
、
ふせていて、反乱軍 に殺された。 しかし かれらはすぐ に
﹁これは偽物だ﹂
、
襄公 はドアのかげ にかくれ て いたが 下 から足が のぞ い
襄公をさが した。一
と、まちが いに気づ いて一
、
。
したのであ
て いるのを見 つけられ、 ついにとらわれ て殺 された こうして反乱軍 は 公孫無知 を擁 立
′
つ。
、 公子 彰生な
。
、
、
五月、襄公田於貝丘、見琢屁。従 五月、襄公 貝丘に田し 家義を見 る 従者曰く ﹁
。 これ
、
。
んぞあえて見えんや﹂
い
ず
く
生
子
彰
公
者 日、公子彰 生也。公怒日、公子彰 り﹂ 公怒りて曰く ﹁
ぅ
、
僚げ屈 を戯
を射る。家、足郵げ てぼく。公艘 れ、車下 にビ ち 足を
生安敢見。射之。琢人立而喘。公燿、
墜於車下、傷足亡履。
うo
2
4
反、誅履於徒人費。不得也。鞭之 反り て、履を徒人費 に誅む。得ず。 これを 眈ちて血を見 る。費、
ぎ
見 血。費走而出、遇賊於円。脇而東 走り出 で、賊 に門 に遇う。瞬か
してこれを束る。費、社 てこれに背
之。費祖而示之背。賊信之、使費先 を示す。賊、 これを信じ、費をして先ず入らしむ。公を伏 せて出 で
入。伏公而出闘死手間中。石之紛如 聞 い門中 に死す。石之紛如、階下に死す。孟陽、君 に代り て体 に寝
死手階下。孟陽代君寝於林。賊殺之。
ぬ。賊 これを殺す。曰く 、﹁
君 にあらず、類ず﹂。公 の足を戸下 に見
日、非君也、不類。見公之足於戸下。
る。 ついに公を殺して公孫無知を立 つ。
i立公孫無知也。
遂殺公j
F
I
矢 は 金具 に当 た った
かくて、まず君位についた長子諸児 ︵
薬公︶はあえなくも最期をとげた。では、次子札、三子小自
は、この混乱期にあたり、どのように身を処したか。はたして、どちらが、斉君の座につくのであろ
うか⋮⋮。
公 孫無知 の反乱 の前 後 に、 二人 の公 子 は いず れ も国外 に逃 れ た。 す な わ ち、飽 叔 牙 が小 自 を奉 じ て
菖 に、管 仲 と 召 忽が純 を奉 じ て魯 に亡命 した。
無 知 のク ーデ タ ー政 権 も長 く は続 かず、 翌年 の春 、無 知 は塾 凛 と いう男 に怨 みを買 い、 この男 の手
にか か って、 あ っさり殺 され てしまう。
。
、
戯
ここ にお いて、 君 位 を めぐ って 小 陣営 と 純 陣 営 の争 いが始 ま った まず小 自 が先 に菖 か ら帰
、 純 を斉 の新 君 と立 てる べく軍隊 を出 動 さ せ、 こう して小 自
一方 、 純側 は魯 が後 立 てと なり
国 す る。
側 と純側 の両 軍 は乾時 にあ いま みえた。
、
、
こ の戦 いで、 純側 の管 仲 は みず から弓 を射 て あわ や小 自 を仕 と め たか に思 われ たが 矢 は帯 の金
、小 自 が
。
、
具 に当 た って、 ことな き を得 ると いう 一幕 も あ った 結局 純 を推 す魯 軍 が この戦 いに敗 れ
。桓 公 は魯 に圧 力 を か け、純 を殺 さ せ、 かく て斉 の混乱 はよう やく終 息 を つ
桓公︶
斉 君 の位 に ついた ︵
げ た のであ る。
、
、
、
を
飽叔牙奉公子小自奔菖、管夷吾召 絶叔牙 公子小白を奉じて菖に奔り 管夷吾 。召忽 公子純 奉
じて魯に奔る。
忽奉公子純奔魯。
、
、
、
、
、
九年、公孫無知虐於秦凛、業凛殺 九年、公孫無知 な凛を虐し 室凛 無知を殺すや 桓公 菖よ
、
、
。
し、乾時に戦う。
無知也、桓公自菖先入。魯人伐斉納 り先ず入る 魯人 斉を伐ち 公子純を納れんと
、位を践む。こ
。
、
。
、
。
公子純、戦於乾時。管仲射桓公中鉤 管仲 桓公を射て鈎に中 つ 魯の師 敗績す 桓公
塀か
し、魯をして公子純を殺さしむ。
魯師敗績。桓公践位。於是劫魯、使 こにおいて魯を
魯殺公子純。
飽 叔 の進 言
。″
こうして、斉の君位争奪戦は終わり、 小自が勝 って純が負けた 敗軍の参課″ 管仲は召忽ととも
に魯にとどま った。かれは、
この新しい事態にどう対処するか。 君位についた小自は、″
仇敵″管仲
をどう処置するか⋮⋮。
小白︶は飽 叔 にたず ね た。
桓公 ︵
﹁わ が斉 国 の安 泰 を はか るに はどう す れ ば よ いか﹂
﹁管 仲 と召 忽 が いれば 、 お国 は安 泰 で ござ いま し ょう﹂
﹁あ の 二人 は、 いわば わ たし の仇敵 に当 た る輩 ではな いか﹂
と、桓 公 は心外 そう に い った。 そ こで、 飽 叔 はか つて管 仲 から桓 公 に仕 え るよう にす す めら れ た い
き さ つをう ち あけ た。 桓 公 はす ぐ に納 得 し た。
﹁そん な ことが あ った のか。 では、呼 べば来 てく れ るだ ろう か﹂
﹁す ぐ手 をう つべき か と存 じます。 ぐず ぐず し ては いられ ま せん。 な にし ろ、魯 の国 には施 と
伯 いう
人 物 が いま す。 あ の男 が管 仲 の器 量 に目 を つけ な いはず はあり ま せん。 き っと魯 国 の政 治 を ま か
せよ
う とす る でし ょう。 も し、管 仲 が これ を引 き受 けます と、魯 はわ が斉 の勢 力 を弱 め る ことが でき ます。
そ の反 対 に、引 き受 け な ければ 、施 伯 は管 仲 が斉 L 戻る ことを 恐 れ て、 か れ を殺 し てしまう 恐 れが あ
り ます﹂
﹁管 仲 は施 伯 の申 し出 を引 き受 け るだ ろう か﹂
﹁断 わ ると思 いま す。 かれ は純 に殉 死 しよう と しま せん でし たが、 それ はわ が斉 の安泰 を はか ると い
う大 目 的 をも って いるから であり ます。 も し魯 の政 治 を引 き受 け れば 、 逆 に斉 の国力 を弱 め る結果 に
、
なり ます。 そ れ に、管 仲 は 二心を抱 く よう な人 物 では あり ま せん。 殺 され る ことがわ か って いても
魯 の申 し出 を断 わ る に違 いあり ま せん﹂
﹁そう か、 あ の男 はそれ ほどま で にわ た し のた めを思 ってく れ る のか﹂
﹁恐 れ な がら、管 仲 が そう します のは亡 き先 君 にた いし て のこと で、 わが君 にた いし てでは あり ま せ
ん。管 仲 にとり ま し ては、 わが君 より も純 のほう が親 し い間 柄 でし た。 そ の純 のため にす ら死 のう と
しな か った のです から、 わが粛 のた め に生命 を捨 て るよう な こと は しな いで し ょう。 しか し、 わが君
が ほん とう に斉 の安 泰 を お求 め にな る ので したら、 ただ ち に管 仲 を迎 え る こと です﹂
﹁も う間 に合 わ な いかも しれ な い。 どう し たも のだ ろう﹂
﹁施 伯 は、切 れ者 です が、冒険 はしま せん。 こちら か ら先手 をう てば 、 わ が国 の仕 返 しを恐 れ て、管
仲 を殺 す よう な こと は しな いでし ょう﹂
﹁ではそう しよう﹂
管飽の交り﹂というのは、この故事から出ている。
管飽の交り 無 二の親友を形容するのに ﹁
現代感覚からすると、飽叔のほうが貸方勘定が多 いようだが、友情とはそれを越えたところにあ
酒肉朋友﹂という椰楡的なことばがある。酒席での
るのであろう。中国にはまた、これと逆に ﹁
友人は、本当の交りではないというのである。
管
桓公問於飽叔日、将何以定社稜。
飽叔日、得管仲与召忽、則社程定実。
公日、夷吾与召忽、吾賊也。飽叔乃
桓公、飽叔に間 いて曰く、﹁
。
何をも って社程を定めんとするか﹂
。
飽叔日く、﹁
管仲と召忽とを得ば、 社程定まらん﹂
公曰く、﹁
夷吾
と召忽とは、わが賊なり﹂。飽叔すなわち公にその故図を告ぐ。
べし。董かにせずば、得 べからぎ るなり。それ魯 の施伯 は、夷吾が
人となり の議あるを知 るなり。その 謝、 必ず魯をして政を夷吾 に
公曰く、﹁
然らば得 べきか﹂。飽叔曰く、﹁
もし 壺 かに召さば、得
公日、然則可得乎。飽叔日、若董
召、則可得也。不藁、不可得也。夫
告公其故図。
魯施伯、知夷吾為人之有警也。其謀
えて曰く、﹁
君 のためにするにあらぎ るなり、 先君 のために するな
り。その君 におけるは、純 に親しむ にしかぎるなり。れ にこれ死 せ
。飽叔対
公曰く、﹁そのわれにおけるや、すなわちかく ごときか﹂
。
いえども、必ず受けぎるなり﹂
斉国 の社程を定めんと欲するがためなり。今、魯 の政を受くれば、
これ斉を弱むるなり。夷吾 の矛に事うるは、 二心なし。死を知ると
か﹂。飽叔対えて曰く、﹁
受けざらん。それ夷吾 の札 に死せぎるは、
公口く、﹁
然らば夷吾は魯 の政を 受けんとするか。
それ否らぎる
致さしめんとす。夷吾 これを受けば、かれよく斉を弱むるを知 る。
夷吾受けざれば、かれその斉 に反らんとするを知 る。必ず これを殺
。
さんとす﹂
必将令魯致政於夷吾。夷吾受之、則
彼知能弱斉尖。夷吾不受、彼知其将
反於斉也。必将殺之。
公日、然則夷吾将受魯之政乎。其
否也。飽叔対日、不受。夫夷吾之不
死純 也、為欲定斉国之社程也。今受
魯之政、是弱斉也。夷吾之事君、無
二心。雖知死、必不受也。
公日、其於我也、曽若足乎。飽叔
対日、非為君也、為先君也。其於君、
46
ず、しかるを いわんや藩をや。君もし斉 の社程を定めんと欲 せば、
不如親純也。純之不死、而況粛乎。
韮かにこれを迎えよ﹂。
君若欲定斉之社槻、則菫迎之。
、﹁
。
それ施
叔
曰
いかん﹂
飽
く
おそらくは及ばざらん。
公日、恐不及。奈何。飽叔日、夫 公曰く、﹁
、
。
施伯之為人也、敏而多畏。公若先反、 伯 の人となりや、敏 にして畏れ多し 公もしまず反さば 怨みを注
。
。公日く、﹁
諾﹂
ぐを恐れ、必ず殺さざ るなり﹂
恐注怨焉、必不殺也。公日、諾。
﹁子は生臣となれ、忽、死臣とならん﹂
桓公の跡をついで即位︶にこう進言 していた。
そ のころ、魯 の国 では、施伯が荘公 ︵
、
﹁管仲 は有能な男 であります。事 に敗 れ、 いまわが国 に身を寄 せていますが ち ょうどよ い機会 です
、
から、かれに政治をまかせたら いかがでござ いまし ょう。も し、かれが承諾すれば 斉 の力を弱める
ことができます。 断わるようでしたら、殺 しまし ょう。 そして斉 には、貴国 の仇敵 に当 たる管仲を殺
してあげた、 と い ってやりまし ょう。 いず れ にしましても、 このまま放 っておくよりはましでござ い
ます﹂
﹁よし、わか った﹂
と ころが、魯 がまだ管仲を召 し抱 えな いうち に、早くも斉 から使者がや ってきた。
﹁いま貴国 に亡命 している管仲 と召忽 の両人 は、わが国 の逆賊 である。両人 の身柄 をお引き渡 し願 い
た い。 お引き渡 し願 えぬときは、不本意 ながら貴 殿を逆賊 に味方す るも のと考 えぎ るをえな い﹂
途方 にくれた荘公は、施伯 に相談 した。
﹁引き渡す以外 に手 はありますま い。斉 の桓公は野放図 で、な にかと いえば倣慢 に振舞う人だ と聞 い
ております。 たとえ賢人を抱 えたとしても、うまく使 いこなせるとは限りま せん。またかり に、使 い
こな せた場合 には、管仲 は多年 の政治理想を実現す ることになります。 かれは 一国 の利益 にとらわれ
ぬ天下 の大人物 であります。 その管仲 が いれば、ど の国も斉 に服従 せざ るをえなくなります。 いちが
いにわが国 の不利 とは申 せますま い。
一方 、もし管仲を殺したらどう でし ょう。 かれは飽叔 とは親 し
い問柄 ですから、飽叔が黙 っていま せん。き っと これを口実 にして、わが国 に難題をもちかけてく る
でし ょう。 そんな ことになれば 一大事 でござ います。 この際 は、黙 って引き渡 されたほうが得策 かと
存 じます﹂
荘公は管仲 と召忽 の二人を召 し捕 った。管仲が召忽 に聞 いた。
﹁き みはこわくな いか﹂
﹁なん の。 と っく に死は党悟 しているから、 こわくはな い。 いまま で生き のびたのは、故国 の将来 を
見とどけたか ったからだ。 いま や斉 は安定 した。 おそらくわれわれは左右 の大臣 に迎 えられるだろう。
だが、主粛を殺 した相手 の臣下 に取り立 てられ るのは、わたしの 潔 しとす ると ころではな い。き み
は生き のびて斉 のためをはかれ、わたしは死を選 ぼう。大国 の宰相 に迎 えられると知りながら、しか
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︱ は、 純 さま は殉 忠 の臣 を も った と い ってほめ た たえ るだ ろう。 き みが生 き残 って
︱
も 死 を選 べば 、世 ︱
︱
、
斉 の覇業 を完 成 す れば 、 世間 は、 国 のため に命 を ま っとう し た臣 下 をも った と い って やはり純 さま
を たたえ る ことだ ろう。 わた し は死 ん で義 を守 る。 き みは生 き て名 を あげ てく れ。 名 を あげ るため に
は生 き なく ては なら な い。 だ が、義 を守 るた め には 死 ぬ以外 にな い。 純 さま のた め にも そ れ ぞれ にふ
さ わ し い道 を選 ぼう で はな いか﹂
。
国境 を越 え ると、召 忽 は みず か ら首 を はね て死 んだ。 そ して、管 仲 はそ のまま斉 に帰 った
こ の エピ ソードを伝 え聞 いた当 時 の識 者 たち は こう批評 し たと いう。
﹁召 忽 が 死 を選 んだ のは生 き のび るより はり っばだ。 管 仲 が生 を選 んだ のは死 ぬより はり っぱだ﹂
管仲急あり。その事済らず。今、
施伯進対魯君日、管仲有急。其事 施伯進みて魯君に対えて曰く、﹁
不済。今在魯。君其致魯之政焉。若 魯に在り。 粛それ魯の政を致せ。 もし これを受くれば、 斉は弱む
べきなり。もし受けずば、これを殺せ。 これを殺しても って斉に説
受之、則斉可弱也。若不受、則殺之。
。粛曰く、
き、
なお己むに賢らん﹂
ともに怒りを同じくすとせば、
殺之以説於斉也、与同怒尚賢於己。
。
﹁
諾﹂
粛日、諸。
曰く、﹁
夷吾と
魯米及致政、而斉之使至、日、夷 魯 いまだ政を致すに及ばぎるに、 斉の使い至り、
吾与召忽也寡人之賊也。今在魯。寡 召忽とは寡人の賊なり。今、魯に在り。寡人願わくは、これを生得
。
人肛、生得之。若不得也、足対与寡 せん。もし得ざれば、これ霜は寡人の賊と比するなり﹂
子
人賊比也。
朴=問加伯。施伯日、君与之。臣
︱嶽孵。雖得贅、庸必能
聞、斉烈暢︱
︱
︱
用之乎。及斉ガ之能川之也、管子之
事済也。夫管仲天下之大型也。全︲
彼
反斉、天下皆郷之。豊独魯乎。今若
殺之、此絢叔之友也。飽叔此囚以作
魯君、施伯 に間う。施伯曰く、﹁
君 これを与えよ。 臣聞く、 斉君
は傷 にして董 かに騎る、と。賢を得 るといえども、なんぞ必ずしも
よく これを用 いんや。斉君 のよく これを用うるに及ばば、管子の事
済らん。 それ管仲は天下 の大聖なり。今、かれ斉 に反らば、天下 み
な これに郷わん。あにただ魯 のみならんや。今、もしこれを殺さば、
これ飽叔 の友なり。飽叔 これにより ても って難をなさば、君必ず待
。
つ能わざ るなり。 これを与う るにしかず﹂
魯君すなわち ついに管仲と召忽とを東縛す。管仲、召忽に調 いて
。 召忽日く、﹁
曰く、﹁
子催 るるか﹂
なんぞ燿れんや。 われ蚤く死せ
難、対必不能待也。不如与之。
魯君乃遂束縛管仲与召忽。管仲調
ざ るは、定まるところあるを行たんとするなり。今す でに定まる。
を辱ずかしむるなり。子 は生臣となれ。忽、死臣とならん。忽や、
召忽日、子燿乎。召忽日、何慨乎。
令子相斉之左、必令忽相斉之右。雖
然、殺尉而川吾身、是再辱我也。子
万乗 の政を得るを知り て死 せば、公子純 、死臣ありと調う べし。子
吾不蚤死、将背有所定也。今既定実。
為生臣。忽為死臣。忽也、知得万乗
生きて諸侯 に覇たらば、公子れ、生臣ありと調う べし。死者は行な
子をして斉 の左に相たらしめば、必ず忽をして斉 の右 に相たらしめ
ん。然り といえども、君を殺してわが身を用うるは、 これ再びわれ
之政而死、公子純 、可洲有死臣失。
。すなわち行きて斉 の境 に入り 、
子それ これを勉 めよ。死生分あり﹂
いを成し、生者 は名を成す。名 は両立せず、行な いは虚しく至らず。
子生而覇諸供、公子紀、可調有生臣
尖。死者成行、生者成名。名不両立、
行不虚至。子其勉之。死生有分実。 自刻して死す。管仲 ついに入る。
乃行入斉境、自刻而死。管仲遂入。
君子これを聞きて曰く、﹁
召忽の死や、
その生くるに 賢るなり。
。
君子間之日、召忽之死也、賢其生 管仲の生や、その死するに賢るなり﹂
也。管仲之生也、賢其死也。
覇者 の道
桓公 ︵
小白︶は飽叔の意見に従 って、管仲を迎えた。
一度は自分の命をねら つた人物、しかもかね
てから自分の将来性を認め、そのために友人を教育係に就任させていたという。桓公は大きな期待を
も って、管仲を宮廷に呼んだ。この会見を機に、桓公の考えは、大きく転換することになる。
管 仲 が進 み出 ると、桓 公 はさ っそく本 題 に入 った。
﹁国 の安 泰 を求 め る には、 ど うす れば よ いだ ろう か﹂
管 仲 が こた え た。
﹁あ な た が天下 の覇 者 にな る こと です。 それ以外 に、国 家安 泰 の道 はあり ま せん﹂
﹁天 下 の覇 者 だ と ? そ こま では望 ん でおら ぬ。 わ たし は斉 一国 の ことを聞 いて い るのだ﹂
管 仲 はも う 一度 、覇 者 にな る よう要 請 した。
﹁いや、 それ は でき な い﹂ と桓 公が こた え る。 と、管 仲 は、
﹁一命 を お助 け いただ いた こと は、 心 か ら感謝 し ており ます。 し かしな が ら、 わ たく し が あ え て死 を
選 ば な か った のは、 あく ま で国 家 の安 泰 に微力 を尽 く さんが た め。 も し国 政 に参 与 しなが ら
目 的 が果 た せな い のでは、 なん のた め に生 き な がら え た のかわ かり ま せん﹂
こう いう なり、 も は や これま でと席 を立 って退出 し た。
、肝 心 の
戻る よう に命 じ た。 管仲 は再 度 、桓 公 の
だ が、宮 廷 の門 ま でき たと ころ、使 者 が追 いかけ てき て、一
前 に進 み出 た。 桓 公 は具合 悪 げ に い った。
﹁わ か った。 国 家 安泰 の道 が ほか にな いのな ら、 わ た しは覇 者 にな るよう に つと め よう﹂
管 仲 は深 々と頭 を下 げ た。 そ し て頭 を あげ ると、
﹁覇 道 を お つと め にな るな ら、 わ たく しも 全身 全 霊 を投 げ打 ってお仕 え いたします﹂
そう い って、 ただ ち に宰相 の座 に つき、政 務 の指揮 を とり はじ めた。
。管仲対えて日く、
社程定まるべきか﹂
管仲至。公間日、社稜可定乎。管 管仲至る。公問いて曰く、﹁
。
君糊王たらば、社製定まらん。署、覇王たらずば、社程定まらじ﹂
仲対日、君覇王、社稜定。君不覇王、 ﹁
﹄ざ
それ大なり。 社程を定め
われ、あえてここに 琺 さずヽ
社稜不定。公日、吾不敢至手此、其 公曰く、﹁
。
。管仲また請う。粛曰く、﹁
能わず﹂
んのみ﹂
大也。定社程而己。管仲又請。君日、
君、臣を死より免ぜしは、臣の幸なり。
管仲、君に辞して曰く、﹁
不能。
。
管仲辞於君日、君免臣於死、臣之 然れども臣が純に死せざりしは、社稜を定めんと欲せしがためなり
。
幸也。然臣之不死純也、為欲定社稜 社程定まらずば、臣、斉国の政を禄して、純 に死せざるなり 臣あ
也。社程不定、臣禄斉国之政、而不
。
えてせず﹂
でて日く、﹁己むなくんば、それ覇を勉 めんか﹂。管仲、再拝稽首し
すなわち走り出 で門 に至る。公、管仲を召す。管仲反る。公汗出
乃走出至門。公召管仲。管仲反。
て起ち て曰く、天﹁日、君、 覇を成さんとせば、 臣貪りて命を承け
ん﹂。趨り て相位 に立 つ。すなわち五官をして事を行なわしむ。
死純也。臣不敢。
公汗出 日、勿己、其勉町乎。管仲再
拝稽首而起 日、今 日君成覇、臣貪承
命。趨立於相位。乃令 五官行事。
︽
解説︾ ﹁
匡﹂は正す、教化する、と いう意味 である。 斉 の種公は、 呑秋五覇 の 一に数えられ、
名宰相管仲 のおかげ で天下 に刑を称えることが できた。桓公が天下や斉国を教化指導した事績を
述 べた のが、﹃
管子﹄ の中 の ﹁
大匡﹂ ﹁
中匡﹂﹁
小匡﹂ の三篇 である。 大 ・中 ・小 という のは上 ・
中 。下というような意味 である ︵一説 には、大には天下を正したこと、中には斉国を正したこと、
。
小匡は管仲が君主を教えた ことを いう。しかし、 これはいささかこじ つけめいている︶
﹁
大匡﹂は、管仲が いかにして桓公に仕えるよう にな ったかを説明し、桓公に仕えた後 の管仲 の
献策を、断片的 に記している。 ここでは、両者 の出会 いの部分を訳出 した。 この エピ ソードは、
管仲 の性格を研究するにふさわしい。解題 でも触れたよう に、管仲にた いする褒貶はさまざまで
ある。そして、管仲が攻撃されるのは、 この篤 によるところが大き い。
3
飽叔に仕宙をすすめたのはかれ 一流 の処世術 であ ったと難ず る説もあるし、召忽とともに斉に
子
きみはこわくな いか﹂ と召忽に聞 いたのは、
送り返されるとき、﹁
ひと つには管仲自身も不安だ
ったからだという見方もできる。 いず れにせよ、後人をして ﹁
管仲 の生や、その死するに賢る﹂
といわしめたのは、宰相としてのその後 の成果があ ったれば こそである。中国史上、最も偉大な
る宰相 のひとりとして名声を残した管仲 の人間くさ い面を示す意味 でも、この篇 は興味深 い。
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