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Kobe University Repository
Kobe University Repository : Kernel
Title
現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する
図工・美術系教科カリキュラムについて : ノルトライン
=ヴェストファーレン州における芸術教育学の伝統(上
)(National Standard and Pedagogical agenda for art
education at the elementary schools in Germany :
Reflections about art Education in Nordrhein-Westfalen
with respect to the conflicts between globalization and
Pedagogy of Art Education there)
Author(s)
鈴木, 幹雄 / 石川, 潤
Citation
神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究
紀要,4(2):155-170
Issue date
2011-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002993
Create Date: 2017-03-29
(389)
神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要第
神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 4 巻第 2 号 2011 調査報告
第1
4 巻第of1
2 the
号 2011
号 Graduate
2007
Bulletin
School of Human Development and Environment Kobe※研究紀要の定形ヘッダが入るので、このスペースは確保しておくこと
University, Vol.4 No.2 2011
現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する
現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・美術系教科カリキュ
ラムについて -ノルトライン=ヴェストファーレン州における芸術教育学の伝統-(上)
図工・美術系教科カリキュラムについて
―ノルトライン = ヴェストファーレン州における芸術教育学の伝統―(上)
National Standard and Pedagogical agenda for art education at the elementary schools in
Germany ——Reflections about art Education inGermany
Nordrhein-Westfalen with respect to the conflicts
National Standard and Pedagogical agenda for art education at the elementary schools in
—Reflections about art Education in Nordrhein-Westfalen with respect to the conflicts
between globalization and Pedagogy of Art Education there——
between globalization and Pedagogy of Art Education there—
鈴木幹雄*
石川 潤**
**
Mikio SUZUKI*
Jun ISHIKAWA**
鈴木幹雄* 石川 潤
Mikio SUZUKI * Jun ISHIKAWA **
要約:本稿では、北西ドイツのノルトライン・ヴェストファ−レン州における基礎学校図工・美術系教科カリキュラムを事例に
取り上げ、当該教科の関係者が「教育スタンダード」に方向づけられた現代的要請に対してどのように対応しようとしているか、
研究調査の報告をする。
2004 年以来基礎学校の表現教科名が連携教科「人間、自然、文化 Mensch, Natur u. Kultur」に切り替えられた南西ドイツ
のバーデン・ヴュルテンベルク州に対して、北西ドイツの同州の基礎学校カリキュラムでは、教育科学の知恵と、芸術大学出身
者達が切り開いてきた芸術教育学的知恵とをともに評価し、両者を手掛かりに、現代的・現実的要請とこれまで貯えられてきた
芸術教育の遺産を統合しようと試みられた。グローバリゼーションの要請は現代の芸術系教科の教育にとって不可避な課題であ
るが、そこには現実的要請や形式的な一般教育学的論理の「大命題」の下に、成長世代を造形表現の基礎へ柔軟に導き入れる努
力を空洞化させてしまう危険性が生み出されている。そこで本研究調査では、ノルトライン・ヴェストファ−レン州にみる現代
的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する当該教科カリキュラムの実情と知恵の背景を調査研究した。
。
2)研究目的は、同研究から得られた視点 2)を焦点化した課題意
本論構成:
上:
識、即ち、グローバリゼーションの下、グローバリゼーションの要
1. 現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・美
請に屈服することなく、自州の芸術教育学と芸術教育学者達の伝
術系教科カリキュラム
統・遺産を踏まえてカリキュラムの現代的再構成を図ろうとする姿
2. 歴史の断面(1):ノルトライン=ヴェストファーレン州にみる芸
勢と動向を、ノルトライン・ヴェストファーレン州の教育界・芸術
術教育学の伝統――1960 年代の事例
教育界に即して調査・研究すること、であった。
3. 歴史の断面(2):デュッセルドルフ美術アカデミーにおけるクレ
ーの教育活動とその波紋
3)研究活動は、次の二つのアプローチから構成し、また申請者
と研究協力者(石川 潤(宇都宮美術館)
)で分担する形で進められ
下:
た。アプローチ1:現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位
4. 現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・美
置する図工・美術系教科カリキュラムの現状について(中心的題材:
術系教科カリキュラムの現状について
ノルトライン・ヴェストファ−レン州にみる図工・美術系教科カリキ
ュラム/手掛かりとした方法:同州にみる図工・美術系教科カリキ
はじめに
ュラム編成アプローチの形成過程の分析、ならびに同州とバーデ
1)本研究の解説:本研究の端緒は、
「教科等の構成と開発に関す
ン・ヴュルテンベルク州にみる図工・美術系教科カリキュラムの比
る調査研究」の協力(担当:ドイツにおける図工・美術関連教科(平
較に基づいた本テーマの研究)
。アプローチ2:ノルトライン・ヴェ
成
12-18)
)1)、並びに「戦後ノルトライン・ヴェストファーレン州
ストファ−レン州における戦前・戦後芸術教育界・芸術界の動向(題
の芸術教育学伝統とグローバリゼーションの下同伝統をふまえてカ
材:ノルトライン・ヴェストファ−レン州における芸術教育学の伝統、
リキュラムの現代的再構成を図ろうとする教育的・教育学的姿勢に
ノルトライン・ヴェストファ−レン州における芸術界の伝統)
。
ついて」
(平成 20 年度 人間発達環境学研究科研究推進支援経費)
にある。
*
4)研究成果解説:本研究は、申請者達が従来から行ってきたア
カデミックアカデミックな共同研究に対して、どちらかといえば「
*神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授
神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授
宇都宮美術館学芸員
**
宇都宮美術館学芸員
**
− 155
-1-−
(
2007 年 9 月 1 日 受付
2007 年
9月
日
受理
2010年
9月
301日
受付
2011年 1月 7 日 受理
)
(390)
現実主義的な」研究に位置する。しかし我々のアカデミックな研究
また後者の基礎学校のカリキュラムは、教育科学の知恵と、芸術
の意味を現代性という視点から浮かび上がらせ、同時に芸術教育学
大学出身者達が切り開いてきた芸術教育学的知恵とをともに評価し
的遺産の戦後芸術教育界への貢献という事象をドイツの具体的な工
ながらも、それを前提に、現代的・現実的要請とこれまで貯えられ
業州に即して解明しようと試みた。現代の具体的な州の取組みに即
てきた芸術教育の遺産を統合しようとした試みであった。
してこの点を解明することにより、我々のアカデミックな研究で見
前者の試みでは、
「自己」という個から、開かれた世界、環境、文
化へ拡がっていく一般教育学的コンセプトが貫かれている。
しかし、
落とされてきた点を補おうと試みた。
子ども達が第3-4学年に至るまでに、例えばどのようにして<時間
注
1.国立教育政策研究所『教科等の構成と開発に関する調査研究』研
の諸経験を様々な形で描写する>という運用能力を身に付けていけ
究成果報告書(16)、2003 年、並びに山根徹夫編著『諸外国の教育課
るのか、その可能性の動態的プロセスは希薄であり、加えてその教
程 : 教育課程の基準及び各教科等の目標・内容構成等』国立教育政
育内容も並列的である(表1、参照)
。
他方後者の試みからは、次のようなカリキュラムが提出された。
策研究所、2007 年(担当:ドイツ班、美術系教科)
、参照。
2.拙稿「現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図
即ち、内容及びその配列は、教材や教科内容を並列的に描き固定化
開かれた可能性の提示とする。
教授者の視点は、
工・美術系教科カリキュラムの現状について−−ドイツ二州の基礎学 させることを避け、
校図工・美術系教科カリキュラムの調査と報告」大学美術教育学会
第1-2学年から第3-4学年への授業の展開可能性とその可能性の
『大学美術教育学会誌』40 号、2008 年。
ダイナミズムに目が向くように提示されており、また授業の可能性
が動態として提示される(表2、参照)
。
3)図工・美術系教育のカリキュラムにおいては、一般的に、一
方で現代社会の要請を受け止め、それを教育科学的に深く省察しな
1. 現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・
がらも、他方では教育学的視野と造形表現教育に長年関わってきた
美術系教科カリキュラム−−−ドイツ二州の基礎学校図工
・美術系教科
人達が貯えてきた知恵や視野とを統合せざるを得ない。
というのも、
カリキュラムの現状を手掛かりとして
現代社会の要請や教育科学的視野だけでは子ども達を
「自分自身の」
表現に導き入れ、同時に造形的・美的活動を通して子ども達を世界
鈴木幹雄
や文化にいかに導き入れていくのか、このプロセスを具体的に構築
(1)現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・
できないからである。
制作・表現の基盤を現実的要請にあわせ、一般教育学的な相対化
美術系教科カリキュラムについて
1)かって執筆者は、当該教科の教育において、教育的スタンダ
の結果としてもたらされがちな<当該教科の教育観と指導力量の成
ードに象徴される現代的・現実的要請を受け止める際の対応と知恵
熟度低下>をいかに回避するかという問題は、教育の空洞化を回避
を、ドイツにおけるバ−デン・ヴ
ュルテンブルク州とノルトライン・
する意味で、わが国の当該教科の教育課程編成の今後の課題にとっ
ヴェストファ−レン州基礎学校カリキュラムの事例に即して分析し
て重要な意味を有しているように思われる。
た
1)。それら事例は、対照的コントラストをなす二つのアプローチ
ノルトライン・ヴェストファ−レン州の場合、基礎学校における図
工・美術系教科の導入の仕方は時代の要請についてばかりでなく、
として教えてくれる。
バ−デン・ヴュルテンブルク州では2004 年、基礎学校のカリキュ
ラムは「ビルドゥングスプラン Bildungsplan2004」2)に改定された。
芸術系の教科の授業に必要とされる「プロセス性としての芸術」に
ついて芸術教育学的によく熟慮されたものとなっている。
同改訂に伴い、従来からあった「造形芸術 bildende Kunst」と「織
例えば、色彩を用いた表現を事例とした場合、特別なテクニーク
物 textiles Werken」という二つの芸術系関連教科名に代わって、
を必ずしも必要としない<純粋な色彩と混ぜた色彩を識り活用する
連携教科「人間、自然、文化 Mensch, Natur u. Kultur」が創られ
>という第1-2学年の制作課題は、続く第3-4学年では<色彩を
た。同教科では、従来からあった「造形芸術 bildende Kunst」と
意識的に活用しその効果と相互影響効果を観察する>、或いは<色
「織物 textiles Werken」という二つの芸術系関連教科領域は、
「人
彩の塗装用具を用いた諸々の経験を拡大する>という次のステップ
間の生活」
、
「文化的諸現象と環境」
、
「自然現象と技術」という三つ
の制作に導き入れられていく(表2、参照)
。
教授者の視点は、授業の展開可能性とその可能性のダイナミズム
の領域に組み込まれた。
他方、ノルトライン・ヴェストファーレン州では、従来からあっ
に目が向くように提示されており、また授業の可能性が動態として
た教科名「芸術」は変更されることはないが、カリキュラムは、2003
提示されている。その際同州基礎学校カリキュラムでは、次のよう
年の基礎学校のカリキュラム 3)(暫定版)や、2005 年の基礎学校の
に説明されている。
「[材料と道具を用いた実験:]生徒は、制作過程
4)(確定版)に改訂されている。ギムナジウムの場合
の意図的・実験的端緒の中で、
材料と道具を用いた経験を体験する。
には、
1993 年のギムナジウム第1段階のカリュラムが適用されてい
/…芸術の授業では、…生徒達は、コラージュや、結び付けること
る。
の中で、周知のもの、発見したもの、偶然的なものから…新しい表
カリキュラム
2)前者の基礎学校のカリキュラムは、1990 年代以降の現代的・
現実的要請を教育科学の視点から受け止め、それを前提に芸術教育
の課題性を統合しようとした試みであった(責任者:精神科学的教
育学者H・ヘンティッヒ)。
現形式を形造る。
」
「実験 Experimentieren/好奇心と探索…と新た
な検討こそ、創造性を促進する授業の構成要素である。
」5)
(2)ノルトライン=ヴェストファーレン州における遺産として
の<造形芸術上の近代>
− 156
-2-−
(391)
1)グローバリゼーションが叫ばれる現代社会の下、今日教育的
同時期に、経験的芸術教育論から理論的芸術教育学への橋渡しを行
スタンダードの要請は現代の芸術系教科の教育にとって不可避な課
った。その際、彼は自らの考えを次の言葉で言い表わした。
「芸術の
題となっている。しかし、判断を単純化させた時、そこにはとかく、
領域でなされる実験」(1964)。
「生徒は、造形的経験を経験する…こ
現実的要請や一般教育学的論理の「大命題」の下に、成長世代を造
の経験は、
生徒がその経験を自己の造形的行為の中で実現する限り、
形表現の基礎へ柔軟に導き入れる努力を希薄化させてしまう危険性
自己形成的経験となる」8) (同上)と。
が生み出されてしまいがちである。そして、この危険性をいかに克
服するかという事柄は、子どもたちにいかに豊かな制作・表現の世
界を保障し続ける事が可能かという我々の教育(学)的知恵の課題
でもある。
注:
1. 拙稿
「現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図
工・美術系教科カリキュラムの現状について−
−ドイツ二州の基礎学
2)ところで、
「生徒達は、コラージュや、結び付けることの中で、
周知のもの、発見したもの、偶然的なものから…新しい表現形式を
形造る」
、
あるいは「実験Experimentieren/好奇心と探索…と新た
な検討こそ、創造性を促進する授業の構成要素である」————一
校図工・美術系教科カリキュラムの調査と報告」大学美術教育学会
『大学美術教育学会誌』40 号、2008 年。
2. Bildungsplan 2004 Grundschule. Ministerium fuer Kultus,
Jugend und Sport Baden-Wuertemberg, 2004.
見何気ないこれら命題の中に、戦後芸術大学と芸術教育学の遺産を
3. Richtlinien und Lehrplaene zur Erprobung fuer die
見ることができる。例えばそこには、P・クレーの造形表現コンセ
Grundschule in Nordrhein-Westfalen. Kunst. Ministerium fuer
プトやベルリン国立芸術学校出身の芸術教育学教授 R・プフェニッ
Schule, Jugend und Kultur des Landes Nordrhein-Westfalen,
ヒの、表現のプロセスを<材料・素材-実験>と理論化したコンセプ
2003.
4. Richtlinien und Lehrplaene fuer die Grundschule in
トを見ることができる6)。
芸術大学・教育大学における芸術教育、芸術教育学の戦後改革は
先ず、ワイマール共和国の時代に学業期や修業期を過ごした年長世
Nordrhein-Westfalen. Kunst. Ministerium fuer Schule, Jugend
und Kultur des Landes Nordrhein-Westfalen, 2005.
代によって先鞭をつけられた後、1910-20 年代に生まれ、1950-1960
5. この点については、拙稿「ドイツにおけるアンフォルメルの芸術
年代に学問的探求期を過ごした次世代の芸術教育者・教育学者によ
と芸術教育学との接点について——芸術教育学者R・プフェニッヒの
って用意された。両世代の世代間連携を通して今日の現代的な芸術
場合に即して——」美術科教育学会『美術教育学』第24 号、平成1
教育観と芸術教育学の輪郭が形作られた。
5年、参照。
1930 年代初頭にデュッセルドルフ芸術アカデミー教授に就任し
6. 拙稿「ベルリン国立芸術学校出身教授 R・プフェニッヒによる分
たクレーの存在と造形表現コンセプトは、戦後のノルトライン=ヴ
析的・構築的な現代的芸術教育学の模索--1950-60 年代オルデンブ
ェストファーレン州における造形芸術上の遺産の形成に重要な貢献
ルク大学における芸術教育学研究の足跡を手掛りとして--」
『神戸大
を果たした。クレーは、ドイツの造形芸術の世界に「人間の内面表
学大学院人間発達環境学研究科 研究紀要』第1巻第2号、2008
出の世界を伝達可能なものにする」7)(W・ハフトマン)可能性を
年。
明らかにし、同時にドイツの芸術教育学の世界に造形芸術上の近代
7. W・ハフトマン著、西田秀穂・元木幸一訳『パウル・クレー 造
形思考への道』美術出版社、1998 年、14 頁。
の精神を方向づけた。
また第三帝国崩壊後の 50-60 年代に活躍した、パイオニア的芸術
教育学者であるプフェニッヒは、
ドイツ教育学の成熟期を作り上げ、
8. R. Pfennig: Gegenwart der bildenden Kunst. Erziehung zum
bildnerischen Denken. 1970. S.114.
表1:バーデン・ビュルテンベルク州基礎学校の場合(改定版)
第1/2学年
第3/4学年
[単元4:] 空間と時間を体験し表現する
[単元4:]空間と時間を体験し表現する
生徒達は
生徒達は
-自らが知っている空間を意識的に知覚し、様々な感覚を用い -自然空間を意識的に知覚し、自らに対して開き、それらの中で方向設定を
て推定し、それら感覚の中に自分の位置を確かめることができ することができる
る
-空間、そしてまた運動空間と響きあいの空間を様々な形で意図的に表現す
-様々な形で空間、しかも運動と響きの空間を表現できる
ることができる
-事件や体験を時間的に構成されたものとして理解できる
-より大きな時空間の中で自ら方向設定し、様々な出来事と体験を時間的に
-音楽の中で行為しながら簡単な時間的構成を遂行し、区別す 秩序づけることができる
ることができる
-音楽の中に表現された時間的構成を識り、区別し、歌唱や楽器演奏にその
-時間的な取り決めの必要性と計画を識ることができる
経験を応用することができる
-過去を思い浮かべ自分自身の生活形態の中に関係づけること -時間の諸経験を様々な形で描写することができる
ができる
-主観的な時間体験を反省し、舞台として表現し、客観的な基準を発展させ
-自身の芸術的諸形式の中に時間を表現することができる
ることができる
− 157
-3-−
(392)
-時間上の単純化と時間的なプランの単純化を洞察することができる
-歴史的な諸現象や諸過程が未来の生活現実に対して意味を有していること
識ることができる
教育内容:造形的きっかけとしての教室空間/色彩、フォル 教育内容:様々な芸術的意図から空間を表現する/芸術史、歴史的建築、
ム、材料、テキスタイルを用いた空間の表現/響きの表現[創 並びに現代建築の中での様々な空間描写/テキスタイルや他の材料を用い
造]/音楽的な識別の目安/リズムとメロディーのような様々 てなされる空間の修正と空間の表現/古い音楽と現代音楽に見られる響き
な石材から小さな遊び道具を作り上げること/それに関連した 合いの空間、音楽上の識別の目安、響き合いの色彩、響き合いの詩、騒々
出来事、年間のお祭り行事や儀式、リート、ダンス/芸術とメ しい音、メロディーの経過、トーンの高さ、グラフィックな総譜、音楽的
ディアの中に表現された過去と未来
イメージMusikbild/近い空間と遠い空間への志向/空間と時間の有限性と
無限性への問い/時間空間と時間
[経過?]Zeileisten の描写/韻律、
テンポ、単純な拍子、リズム、リズム言語、音符の価値、音楽上の設計図
[単元5:]郷土の様々な痕跡を捜し、発見し、表現する
[単元5:]郷土の様々な痕跡を捜し、発見し、表現する
(1)生徒達は、
生徒達は、
-子どもの為の生活の場、住居の場、学習の場、社会の場、 -郷土の様々な把握の仕方を知り、同時に反省的にその把握の仕方に親しむ
遊びの場として場を経験し、探索し、そのような場と積極的に -他の人の見方に対する敬意や価値評価を発展させ、単なる知識の増大とは
違ったものであることを経験する
格闘する
-郷土の空間の中に自然、芸術、文化の様々な痕跡を知覚し、 -自分の郷土感情を反省的に知覚することによって、自己イメージを強く発
そこから郷土の生活空間についての自分自身のイメージを創る 展させる、
-郷土の空間の芸術と文化の歴史から様々な事例を識る
-身近なものと疎遠なものとに対する自分自身の表現形式を発
見し、他者に対する理解と敬意を発展させる
-郷土空間を熟知し、その空間を探索し、一緒になって積極的に形造る
(2)生徒達は、
-自分達の文化的、社会的生活状況を発見し、それらを表現、描写し、反省
-生徒達の郷土感情に対する言語、身体、音楽の表現、描写の し区別することができる
表現を発見する
-過去、現在、未来の郷土空間の変更を識り、郷土空間に対する責任意識を
-個々人に対する「郷土」と「郷土以外のもの」の意味を識る 発展させることができる
-地域の文化財、ルーツとなる国の文化財、並びに生徒達のル -郷土史に見られる文化的痕跡を意識的に知覚し、そこから自分自身の造形
ーツとなる国の文化財を識る
的表現形式を発展させることができる
-衣服のフォルムや衣服の外的理由を意識的に知覚し、テキス -労働、労働現場、生産の領域にみられる重要な事柄を識ることができる
タイルのテクニックを試してみる
教育内容:職業と労働の場、買い物の可能性/様々なきっかけ 教育内容:自然空間と文化空間の構成/カード上のオリエンテーリング、
の為の音楽/表現の遊び、並びにリズム、メロディーの表現に デッサン、プランの描写、モデル/居住場所、都市部の歴史の研究、/
見られるリートと詩歌/芸術のコレクション、記録、プレゼン 様々な時代や文化の中に住んでいた様々な社会的グループの子ども達の生
テーション/絵画のきっかけとしての郷土というモティーフ/ 活/自然の体験空間/教育サービス、自由時間の提供、公的施設、教会、
メディアにみられる郷土/郷土の空間の中にある歴史と詩
文化的施設/郷土空間や、生徒達のルーツとなる国に由来する祭りや文化
/自分の周囲にある音楽、我々の先住者の音楽、ドイツ国歌、国家/郷土
空間の歴史と詩/建築と組み立てられた景観/郷土の芸術史、文化史の事
例、ケルトとローマ・・・/昔と現代のテキスタイル製造と衣服製造/テ
キスタイルを製造することとプレゼンをすること
[単元6:]人間、動物、植物:驚嘆する、保護する、保持す
る、描写する
[単元6:]人間、動物、植物:驚嘆する、保護する、保持する、描写す
る
(以下、省略、⑧参照)
(以下、省略、⑧参照)
表2:ノルトライン・ヴェストファ−レン州基礎学校カリキュラム<教科の領域>
課題項
第1・2学年時の教材
第3・4学年時の教材
目
空 間 の 表 -作ることや付け加えることによりフォルムを発展さ -造形的制作意図を考慮して彫塑的材料と方法を選択し意図的に使う
現
せる
-空間的諸要素を造形的表現に結び付ける(空間を創造し、調整する。例
-様々な道具や材料を結合させることを識る
えば学校空間、遊びの空間、小空間、響きの空間)
-空間、包むこと、彫塑的な対象物、レリーフを発見 -構造とテクスチャーを取り上げ、加工し、結合させる
し、制作すること
-フィギュラティフな描写とノンフィギュラティフな描写をレリーフ状
− 158
-4-−
(393)
-フィギュラティフな描写フォルムとノンフィギュラ に、そして完全に彫塑的に制作する
ティフな描写フォルムを識る
-日常生活品と拾得物を反省的に解釈する
-日常生活品を造形表現手段として経験する
-色彩を意識的に活用し、その効果と相互影響作用を観察する
色 彩 を 用 -純粋な色彩と混ぜた色彩を識り、活用する
いた表現 -最初の色彩塗布用具(筆、版)を識り、様々な扱い方 -色彩の塗布用具を用いた諸々の経験を拡大する
-色彩や色彩用具を用いた諸々の経験を拡大し、自然の材料から色彩を創
を試してみる(彩画し、軽くたたき、塗る)
-様々な色彩の濃さを試し、色の塗方を変えることに り出す
-色彩をより一層分化させて用い、フィギュア-とベースの関係を意図的
よってテーマに即した塗方を用いる
-色彩を用いて組み立て、飾り、アクセントを付け、 に生み出す
色の染みと色の平面を表現に活用し、フィギュア-と -色彩の材料、絵画作品、絵画諸要素を解釈し、解釈し直し、修正する
-コラージュのテクニカルな可能性とコラージュの効果に造形表現的に取
ベースの関係を認識する
-色彩材料(テキスタイル、紙、壁紙、自然材料等々)り組む
を集め、それらを用いて制作する
-絵を描くことによって表現する
グ ラ フ ィ -なぐりがき絵から反省的な行為へ導く
ッ ク な 表 -造形表現手段としてのバター塗り、染み付けを用い -テクスチャー、平面、絵を生み出し、同時に空間的関係や動きを生み出
現
す為、造形表現手段としてのグラフィックな手段を活用する
る
-造形的表現手段としての点、線、模様、ハンチン -様々な材料や道具を用いた経験を拡げる
グ、フロッタージュといった造形表現手段を造形表現 -描画の効果を意識的に活用する
-平板、凸版版画の分野で版画技法の経験を積む
手段として識る
-絵画道具と描画材料を用いた経験を踏むこと
-繊細な手の動きに即して人物、動物、事物をより造
形的に描写すること
-描画を的確に割り当て、整理する(フィギュア-とベ
ースの関係、背景-前景)
-単純な版画の方法を用いた経験を積むこと
テ キ ス タ -単純な日常生活用具を形造る
-複雑な日常生活用具を形造り、造り上げる
イ ル の 表 -繊維とテキスタイル表面の性質や特質を用いて実験 -構造的な特質やテキスタイル生地について調べる
現
する
-テキスタイル生地の生産、入手法法、加工を識る
技 術 的 ・ -カメラの経験を積む
-カメラとイメージ加工を用いた経験を積む
映 像 的 メ -複写工程の中で画像を実験する
-造形的表現のプロセスの中でイメージ複製のフィルムを知り、活用する
デ ィ ア を -単純なレイアウトの作業手段としてのコンピュータ -ポスター、招待状、ちらし、ドキュメントの作成
用 い た 表 ーを識る、単純なレイアウトとして(例えば、書体、 -インターネットを用いる(例えば絵画、アルキーフ、バーチャル美術
現
館、芸術家の履歴)
ポイント、切り抜き)
-視覚的メディアの映像言語と映像情報をその主張やメッセージを基準に
批判的に検討し、活用する
演 劇 に よ -様々な身体表現の可能性をテストし、活用する
-様々な身体表現の可能性を試し、活用する(例えば、運動、ダンス、パ
る表現
ントマイム)
-メーキャップと衣装を用いた変装
-様々な人形劇を作り、それら人形を演じてみせる(例 -メーキャップ、衣装による変装、マスクを用いた仮装
えば、人業劇用の(棒付き)人形、影人形)
-コスチューム、仮面、劇場、舞台装置をプランし、作成する
-人形劇用の人形を作りそれらを上演する(例えば黒い光、影絵/幻影、
棒人形、仮面劇)
(1)ノルトライン=ヴェストファーレン州芸術教育シンポジウ
ム(1962-64)
2. 歴史の断面(1):ノルトライン=ヴェストファーレン州にみる
1)戦後の 1960 年代初頭、ノルトライン=ヴェストファーレン州
レックリングハウゼン市で、ドイツ全州規模の戦後初回芸術教育シ
芸術教育学の伝統——1960 年代の事例
鈴木幹雄
ンポジウム「芸術と教育」が開かれた 1)。音頭をとったのは、同州
の義務教育学校教員の養成に主導的役割を果たしていたミュンスタ
− 159
-5-−
(394)
ー教育大学に勤めていたハンス・ロンゲ教授であった。加えてまた
て非常に独自な何かが含まれている。即ちそれは、新しい経験をす
同市は、戦後いち早く新しい造形芸術の展覧会「西側の若者達
る為に未知のものを研究する衝動であり、即ち予め形造られていな
Junger Westen」が開催され、造形芸術上の新時代の発信地でもあ
い材料や他の多くのものや、予め形造られていたものを修正しよう
った 2)。
とする衝動である」6)と。
第一回のシンポジウム「芸術と教育」は、1962 年5月 28 日、レ
ックリングハウゼン市、エンゲルスブルク大ホールで開かれ、芸術
教育改革への道が暗中模索された。同報告には未だ明確な方向性と
結晶化が見られなかったが、初年度の論議は、第二年度の1963年
(2)R・プフェニッヒの第一年度報告「今日の芸術教育の諸々の
方法」
1)
1962 年、
プフェニッヒは第一年度報告
「今日の芸術教育の諸々
の方法」で、自らの芸術教育学的見解を提出した。
シンポジウムに一定の端緒的糸口をもたらした。ハンス・ロンゲの
彼は先ず、新教育の芸術教育の下に提出されてきた「子どもの創
他、ヴォルフガンク・グレツィンガー博士(ミュンヘン)
、ヴォルフ
造性」という考え方を問わねばならないとして次のように指摘する。
ガング・クラフキ博士(ミュンスター)
、ラインハルト・プフェニッ
「…問題としなければならないことは、次のような…見解である。
ヒ教授(オルデンブルク)等が参加した同シンポジウムの中で、重
即ち、青少年の諸能力、その主観的な諸力、創造的なものを開花さ
要な役割を果たしたのはハンス・ロンゲとラインハルト・プフェニ
せることが重要である… [という-筆者]。
」7)
ッヒであった。同第二年度の論議は、第三年度に芸術教育学論議の
成熟と発展をもたらした。その中で一貫した論理をもって、現代芸
2)その際彼は、新しい芸術教育と芸術教育観の必要性に触れ、
次のように語る。
術教育学の輪郭を描き方向づけを行うことに貢献したのは、プフェ
「教育的行為 paedagogische Aktion は以前とは違った形で考察
ニッヒであった。そこで以下の(2)ではとりわけ、シンポジウム
されなければならない。…一方では、生徒の自発性、表現欲求…、
の経緯を追いながら、とりわけプフェニッヒによって同シンポジウ
他方では芸術という極めて複合的なもの…[それら]両方の側面を力
ムで明らかにされた 1960 年代の芸術教育学的伝統について解明し
動的にバランスをとり、相互の再規定が生徒達の理解と陶冶の段階
たい。
に影響を及ぼしうるように、相互の再規定を行う事は可能なのだろ
更にまたハンス・ロンゲは、第二年度のシンポジウム「芸術と教
育Ⅱ」
(1963 年5月 28 日)の基調報告「本ディスカッションのテ
ーマについて」で、芸術教育に対する現代芸術の現代的要請につい
て次のように論じた。
うか…」8)と。
(3)第二年度報告「芸術教育における制作過程」
(プフェニッ
ヒ)
1)第2年度シンポジウムに於いて、プフェニッヒは「芸術教育
「…常に変化するのは芸術だけではない。教育も…新たな目標に
従わなければならなくなる。
…教育は、
社会の中で生まれてくる諸々
における制作過程」と題した講演を行った。先ず最初に彼は、
「色彩
の意義」に触れ、自らの芸術教育観を次のように展開させた。
の動きの下で変化し、同時に青少年の置かれている状況の変化や、
「既に 1920 年代の研究によって、子ども達には色彩という点で
社会が成長世代の人間に課す諸々の要求や変化を考慮に入れる」3)
一定の優位性が見られるということ…が明らかにされている。…/
と。
…色彩の領域における制作過程は、芸術教育学研究の領域における
また続けて、ロンゲは、第一年度のシンポジウムの成果を<現代
芸術との格闘を課題としうるような授業の必要性>と要約し、次の
ように論じた。
最も重要な課題に思われる」9)。
2)またプフェニッヒは、新しい時代で要請される芸術教育観の
中心的視点をバウマイスターの「創造的視覚」という視点を引き合
「1962 年には、
現代芸術がはっきりと視線を設定して論議された。
…問題となったのは、現代芸術との格闘を主な課題としうるような
いに出して、
「開かれた」芸術教育の必要性と人間の自立について指
摘し、次のように主張した。
授業とはどのようなものか…、…現代芸術を教授の対象とすること
「…偶然的なもの、即ち形作られ、平面の中に広がる材料と、材
ができる可能性はどのようにして成立するのかという問いであった
料を芸術現象へと形造る人間との間に今起こる格闘の中で、その中
…」4)と。
で制作過程が拡がりとして観察され、しかもこのようにして幅広い
2)他方、芸術教育学者シュヴェットフェーガーは、1963 年の報
プロセスにおいてますます一層影響力を獲得することになる格闘の
告「現代芸術と学校」 において、芸術の授業における新しい可能
中で、人間は自立する」
。
「バウマイスターは、理念的な道からのこ
性について次のように主張した。
の方向転換を<創造的な視角 schoepferische Winkel>と特徴づけ
「子どもは触覚的、力動的な物質経験を集める。色彩との交流も、
触覚的な材料体験というメルクマールを有している。授業の指導に
おいては、これらの諸力を覆ってはならない」5)と。
た」10)と。
3)その際彼は、子どもの制作プロセスにおける「偶然性」とそ
の意味への配慮の必要性について触れ、次のように語っている。
「弁
また 1963 年の報告において、プフェニッヒは、制作過程の開放
証法的なプロセスの中では、偶然(性)は促進的な原理であり、子
性に触れ、芸術教育に求められる開放性こそクレーが<造形的思考
どもの制作の中で偶然を活性させる可能性が豊富に存在する。…そ
>と呼んだものを開花させることができる、と主張した。
こには、未知の材料との、できる限り多様な材料との格闘が存在す
「制作過程のこのような開放性 unabgeschlossenheit…/…芸術
る。
」11)
批評が>タッシスム<と評価を貶めて言い表している、モダン・ア
更にまた彼は自らの見解を、M・エルンストの<偶然に現われて
ートの現象を、我々の教育(学)的思考の中に据えることがきわめ
くるものとのやりとりの中に存在している教育的可能性>という命
て重要であるように思われる。そこに、子どもの遊び[Spiel]にとっ
題を引用して、次のように主張した。
− 160
-6-−
(395)
「偶然に現れてくるものとのやりとりの中に、マックス・エルン
ストが<詩的な客観性 poetische Objektivitaet>と呼んだものが存
在している。この概念の指し示すものは、発明、発見、覆いをとる
こと Enthuellen である」12)と。
Vermenschlichen である。生徒はこの格闘において、その変化にお
ける独自な実験の中で、芸術を自らのものに獲得する」17)と。
(5)ノルトライン=ヴェストファーレン州における芸術教育学
的コンセプトの伝統
4)プフェニッヒは、以上の省察を通して、芸術教育の課題と可
1)授業のパッサージュと個人的なパッサージュとの交替の可能
性を構想する:プフェニッヒは、この事柄を言い換えて、
「前提的理
能性を次のように規定した。
「芸術教育は、次のような引き合いに出される諸々の見解、経験、
体験、認識を生徒に可能としなければならない。/未知のもの、偶
解を崩すこと(修正 Korrektur)
」というコンテキストに即して次の
ように語った。
然現れてくるものを制御し、変える能力/材料を還元し、作品の中
「低学年の子ども達の油彩画は、ここでは遊びの地平で興ってく
に新たな記号として実現し、この世界の色彩、フォルム、材料との
る。大きい子の場合には、色彩はもはや遊びの意味で操作されるの
持続的な対話の中にこの世界を表現のアプローチを用いて修正し、
ではなく、反省、感情移入、目の前に起こる色彩の諸現象に対する
人間的基準に基づいて秩序づけること。/制作過程を課題とするこ
反応の意味で操作される。素朴な遊びから、色彩の響応の意識的な
とは、…同時に生徒達に造形的思考を要求すると同時に、…諸力の
修正としての造形的に思考する遊びが生じてくる。それ故に内的な
開花を促させる。
」13)(下線-筆者)
体系の根拠づけの第二の端緒は、学業時の生徒の意識の変化から得
5)以上のような芸術教育観を、プフェニッヒは「パッサージュ」
というカテゴリーで特徴づけた。1963 年の時点では、この視点は端
緒的なものでしかなく、
「この…事象は、私が>パッサージュ<と呼
られる。我々の教科に於いて…私はその変化を、生徒達の個人的パ
ッサージュと呼ぶ。
」18)
「…授業における本質的な部分は、前提的理解を崩すこと(修正)
んだもの、即ち生徒達がある制作から、他の制作へ発展し、生徒に
である。前提的理解を崩すことは、生徒を—内側に引き込むので—助
とって自分の問題が明らかにされる…」14)と語られているのみであ
けてその関心へと導く。…前提的理解を崩すことは、意識の覚醒化
る。しかし次年度のシンポジウムでは、それを、自らのコンセプト
に役立ち、自立と自由に役立つ。/個々の生徒に即してなされるこ
として練り上げていく。
の崩すことは、授業における教育(学)的基準であり、…/根源的
(4)第三年度報告「芸術教育の内的な体系の可能性について」
な才能は、受け入れられるべきものではなく、保持されるべきもの
である。才能は、教育の中で初めて明らかとなるものであり、課題
(プフェニッヒ)
1)1964 年の第3回シンポジウムで、プフェニッヒは、
「芸術教
として与えれられたものの実現の中で初めて明らかとなる。…」19)
育の内的な体系の可能性について」と題した講演において、自らの
2)芸術教育は内的な体系に基づいて基礎づけられる:
「芸術教育
芸術教育学的コンセプトを明確にした。
は諸々の関心を通って才能へと導くことから、
意識の向上へと至り、
彼は先ず、一方で、造形的思考について触れ、次のように語る。
生徒達を新しいことの実現と新たなことへの参与に関して自由に参
「造形的思考という概念は、…パウル・クレーによって特徴づけら
加させる。このような教育プロセスは、…生徒達を、この未来が生
れた」と。続けて次のように語る。
「…ここに選ぶのは、…セザンヌ
徒に課す課題に対して開いてくれる。未来の要求を前にしてなされ
の晩年の作品…それは、サント・ヴィクトワール山シリーズの作品
る芸術教育は、外的な体系に基づいて基礎づけられるのではなく、
…。…セザンヌは、…要素として活用した小さな部分、筆のタッチ、
内的な体系に基づいて基礎づけられる。未来の要求を前にした教育
そしてまたそのように得られる色彩平面から、またそれらの群れ、
は、…形式的な文法であり続けることはできない」20)と。
関係から色彩の運動のある組織を発展させる。…この色彩の運動か
らは、全てのイメージの構造が浮かび上がってくる。
」15)
3)<変化のプロセスとしての芸術>は生徒の意識の中で開かれ
る:
「芸術的現象は、全ての[生徒の]意識状態の中で…知覚可能とな
2)同省察を踏まえて、彼は、自らの教職経験と造形的課題をめ
りうる。…変化のプロセスとしての芸術は、限りなくより一層開か
れ、我々をより一層導いてくれる。
」21)
ぐる生徒達の才能について触れ、次のように語る。
「私は、25年間の間に及ぶ、芸術教師としての足跡で、そして
またそのちの18年間の間の、一般陶冶学校との緊密なコンタクト
彼はこの視点に基づいて、授業のパッサージュと個人的パッサー
ジュとの交替を次のように説明する。
の中で、他の考え方を発展させ、また試すことができた。…子ども
「私は、体系の下に以下の点を理解する。/…3.授業のパッサ
は確かに、造形的思考への前提と可能性を身に付けて生まれてくる
ージュと個人的なパッサージュとの交替。その際、後者の個人的パ
が、しかし授業によって初めて、即ち諸々の課題を手掛かりに、造
ッサージュは、我々の授業の基準を修正する際の諸条件を与えてく
形的思考への能力が獲得され得るのである。
」16)
れる。/4.全てのパッサージュの方向設定の中に見られる十全な
3)結論として彼は、芸術の授業とその中で学習過程に求められ
動き。その際その方向設定は、生徒に、より一層深い、そして異な
った視野を可能にし、…生徒が自分自身の形成的経験を可能とし、
ることを次のように特徴づけている。
「それ故に我々は、…学習過程はどのように行われねばならない
新しい視点を得ることができるように、生徒の造形的思考を造作る
ことができるようになる為のものである。/…芸術教育は、…自分
のか、と問わねばならない。…
1.
授業の中で学びとられねばならないことは、
生徒と事物 Sache
自身の行為との対話の中でおこる。造形芸術と社会との間の…意志
との、即ち表現とそれによってある全体が生まれてくる秩序との想
疎通の障害の中で、芸術教育は造形的思考の社会化という使命を担
像的格闘へと至らねばならない。…/2.課題は、…所与のものの
う。
」22)
変化を要求する。それ故に、変化は人間化すること
(6)ベルリン国立芸術学校出身教授プフェニッヒによる分析
− 161
-7-−
(396)
であり、…その対話の中にこそ現代芸術の教育(学)的意味が明らか
的・構築的な現代的芸術教育学の伝統
1)ところでナチズム政権崩壊後、ドイツの教育界はナチズムか
らの脱却、教育の民主化といった新しい時代の要請をうけて出発し
た。それに伴い、芸術教育の世界でも、社会の文化的担い手、自立
的な主体をいかに形成するかという課題をその実践的・学問的課題
に据えることが求められた。
となる」26)。
またR・プフェニッヒは、同書で、その芸術教育学的視点の凝縮
的な部分を、次のように要約している。
「…作品とその発生過程は、共通の構造を有している。造形的思
考はその際、変化するこの影響に対して、絶えず反応する中で生ま
しかし、その教育的・教育学的課題は、すぐに解決できた訳では
れてくる諸力を知覚し、
それら諸力を導き、
秩序づけることである。
なかった。
芸術大学を中心とした芸術教育・芸術教育学の世界では、
この発生過程の中に…相互変化と造形表現との対話が反映され、そ
多くの教育者の思考が、アカデミックな「石膏像デッサンによる芸
の対話の中にこそ現代芸術の教育(学)的意味が明らかとなる」と 27)。
術教育」に代表される戦前からの芸術教育観や、ナチズム時代の芸
彼が最終的に提出した芸術教育学的視点は次のような命題であった。
-「固定的な空間が、…動きのある空間に変わると、今や自律的な
術教育構想に規定されていた。
芸術大学・教育大学における戦後の芸術教育、芸術教育学の改革
は先ず、ワイマール共和国の時代に学業期や修業期を過ごした年長
世代によって先鞭をつけられた後、1910-20 年代に生まれ、
1950-1960 年代に学問的探求期を過ごした次世代の芸術教育者・教
表現手段との格闘 Auseinandersetzung mit der autonomen
Ausdrucksmitteln が始まる」28)。
-「この学習過程は、思考の中に変化を、それ故に人間の中に変化
を引き起こす。
」29)
育学者によって用意された。両世代の世代間連携を通して今日の現
代的な芸術教育観と芸術教育学の輪郭が形作られた。
注:
第三帝国崩壊後の 50-60 年代に活躍したこのパイオニア的芸術教
育学者達は、ドイツ芸術教育学の成熟期を作り上げ、同時期に、経
1. Ein Bericht über 3 Podiumsgespräche, Recklinghausen 1962,
1963, 1964.
験的芸術教育論から理論的芸術教育学への橋渡しを行った。
その際、
2. Junger Westen.
その中心的な人物は自らの考えを次の言葉で言い表わした。
「芸術の
3. Ronge, Hans(Hsg.): Kunst und Erziehung. Ein Bericht über 3
領域でなされる実験」(1964)。
「生徒は、造形的経験を経験する…こ
Podiumsgespräche, Recklinghausen 1962, 1963, 1964. 1966. S.
の経験は、
生徒がその経験を自己の造形的行為の中で実現する限り、
48-49.
自己形成的経験となる」23) (同上)。
2)芸術史の研究を糸口に、芸術家修業の世界に入った芸術教育
4. Ibid. S40.
14. Ibid. S89.
5. Ibid. S107.
15. Ibid. S121.
学者R・プフェニッヒは、1948 年から 50 年代にかけてニーダーザ
6. Ibid. S90-91.
16. Ibid. S123.
クセン州オルデンブルク大学で教職に就き、60 年代には、第二次世
7. Ibid. S42.
17. Ibid. S124.
界大戦後の芸術教育学研究のパイオニアとなった。
8. Ibid. S41.
18. Ibid. S127.
9. Ibid. S88.
19. Ibid. S126.
その際、彼は初期著作で次のような基本的概念を基礎づけようと
10. Ibid. S88.
20. Ibid. S126.
11. Ibid. S88.
21. Ibid. S127.
Beweglichkeit」
(同上)/「動的なバランス」
、
「動的なコンビネー
12. Ibid. S89.
22. Ibid. S127-128.
ション」
(同上)/「空間的力動性」
(同上)/「色彩的に動きのあ
13. Ibid. S90.
る光の空間」
(同上)/「構造的な組み立て」
(同上)/「
「空間、運
23. R. Pfennig: Gegenwart der bildenden Kunst.
動、光、並びに色彩」からなる構成物」
(同上)/「表現の高揚」
「色
zum bildnerischen Denken. 1964. S.131 u. 24.
面の高揚」
(同上)/「作用する作品[絵画]空間」
(同上)/「構
24. Derselbe: op. cit. 1959. S.9.
造的な作用が発生する」
(同上)
。
25. Ibid. S.13.
した。
「空間を創造する可能性」
(1959 年)/「生き生きとした動き
彼はそれら諸概念と論理を自らの芸術教育コンセプト《絵画の造
Erziehung
26. Derselbe:Die ungegenstaendliche Malerei als paedagogische
形表現原理−空間を創造する可能性−世界の表現》
として特徴づけた。 Problem. In: Kunst u. Werkerziehung. 1962. S.21.
3)その後、彼は次のような芸術哲学的考察を行う。
27. Derselbe: Gegenwart der bildenden Kunst.
「人間は、芸術表現によって、自然界と並んで自らの表現と自ら
bildnerischen Denken. 1964. S.16.
Erziehung zum
の視点の自律的な世界を世界の中に設定する。
」24)更に次のようにも
28. Derselbe: op. cit. 1959. S.83.
語る。
「…そこから、…外の空間から内の空間への、そしてまたその
29. Derselbe: Gegenwart der bildenden Kunst. Erziehung zum
」25)
逆への流れを形造るような、空間を創造する可能性が得られる。
bildnerischen Denken. 1970. S.114.
その後彼は、1964 年の著書『造形芸術の現代−−造形的思考への教
育』で次のように主張した。
「…作品とその発生過程は、共通の構造を有している。造形的思
考はその際、変化するこの影響に対して、絶えず反応する中で生ま
れてくる諸力を知覚し、
それら諸力を導き、
秩序づけることである。
3. 歴史の断面(2):デュッセルドルフ美術アカデミーにおける
クレーの教育活動とその波紋
この発生過程の中に…相互変化と造形表現との対話が反映されるの
− 162
-8-−
石川 潤
(397)
ルリンのナショナルギャラリーでフーゴ・フォン・チューディ、ル
(1)はじめに
ートヴィヒ・ユスティという二代の館長を補佐して美術館人として
10 年間務めたバウハウスを辞したパウル・クレー(1879-1940)
のキャリアを積んだ。チューディ(在任 1896-1908)は、国粋主義
はその後、1931 年から 1933 年まで、国立デュッセルドルフ美術ア
的な立場の人々から反発を受けながらもフランス近代美術の収集を
カデミーに在職した。この短い期間のうちにクレーは、生涯の代表
敢行し、彼を継いだユスティ(在任 1909-1933)は、表現主義に重
作と言うべき《パルナッソスにて》1932.2741)を描くなど画業の頂
点を置いたコレクションの形成を進めた人物である。彼らの薫陶を
点を極めるとともに、ナチスの政権掌握に伴ってその政治的-文化的
受けたのち、ケースバッハは 1920 年にエアフルト市立美術館の館
施策に巻き込まれ、教授職から追放されて故郷スイスへ逃れるとい
長に就任した。とともに、1922 年には故郷メンヒェングラートバッ
う受難を体験する。
ハの市立美術館に財団を設置して、自ら精力的に収集する表現主義
本稿では、バウハウスの教育的成果の波及、ナチス政権下におけ
るバウハウス関係者の態度決定、バウハウスに連なる人脈が第二次
美術コレクションの拠点を築いた。その充実ぶりは当時のドイツで
屈指と評される。
大戦後のドイツ美術界に果たした役割、という三つの関心から、デ
1924 年、
プロイセンの美術行政を担っていた改革派の美術史家ヴ
ュッセルドルフでのクレーの教授活動がどのような意義をもってい
ィルヘルム・ヴェーツォルトによりデュッセルドルフ・アカデミー
たのかを考えてみたい。
の校長に送り込まれた 6)ケースバッハは、元来が反アカデミックな
(2)国立デュッセルドルフ美術アカデミー
ものであったモデルネ美術の市民権獲得という課題を、美術館から
――校長ヴァルター・ケースバッハの時代
学校教育へと場を移して継続していくことになる。
彼の学校改革は、
1)最初に、クレーとバウハウスとに関連するかぎりで、デュッ
主として教員人事を通してなされた 7)。とくに、クレー招聘に先立
セルドルフ美術アカデミーの沿革に触れておこう。国立デュッセル
つ人事采配として、1926 年に、「ライン表現主義」の動向に関わっ
ドルフ美術アカデミーの歴史は古く、
1773 年にプファルツ選帝侯が
た画家、ハインリヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk
美術・彫刻・建築のアカデミーを開いたことに始まる。その後、ナ
1889-1957)を教授に招いていることが注目される。このほか、1928
ポレオン戦争後の1819年にはプロイセン王立アカデミーとなった。
年には建築家クレメンス・ホルツマイスター
(Clemens Holzmeister
これが現在のアカデミーの直接の前身である。
1845 年からはアーノ
1886-1983)
、1931 年にはクレーの彫像を制作したことでも知られ
ルト・ベックリーンとアンゼルム・フォイヤーバッハが学生として
る彫刻家のアレクサンダー・チョッケ(Alexander Zschokke
同時に籍を置くなど、美術界に重要な貢献を果たしている。
1894-1981) 、 1932 年 に は画家 オ ス カ ー ・ モ ル (Oskar Moll
ところで、この学校のカリキュラムに「工芸」は含まれていない2)。 1875-1947) と彫刻家エーヴァルト・マタレ(Ewald Mataré
つまりバウハウスなどとは異なり、純粋美術と応用美術を統合し
1887-1965)が教授陣に加えられた。彼らの作品を概観するなら、
て生活世界全体の刷新を図る、という美術学校改革の流れを汲む教
そこには、整理された形態と抑制の効いた叙情性、という共通した
育施設ではない。制度的な枠組みの上で、ここはあくまで伝統的な
傾向が認められ、その陣容は、洗練を重んじるケースバッハの志向
アカデミーなのである。
とともに、
「表現主義」
の成熟・展開を物語るものだと言えるだろう。
このことは、当時のデュッセルドルフの芸術文化の特質、つまり
ケースバッハは 1929 年 3 月、クレーにアカデミーへの就任を打
保守勢力の根強さを物語っていよう。他の都市と同じく、デュッセ
診した 8)。交渉を経て就任が最終的に確定したのは 1931 年 7 月 6
ルドルフにもまた、アカデミーとは別に工芸学校(1883-1919)が
日のことであるが 9)、その日はちょうど、デュッセルドルフで行わ
存在した。1903 年から 1907 年までそこで校長として指導にあたっ
れていた大規模なクレー展の最終日にあたる。同展の主催はライン
たのが、AEG 社のデザイン顧問となる前のペーター・ベーレンス
ラント・ヴェストファーレン芸術協会なのだが、企画の実質を担っ
(Peter Behrens 1868-1940)である。予備課程-専門課程-工房コー
たのは、ベルリンの画廊主アルフレート・フレヒトハイム(Alfred
スというカリキュラムを新たに編成するなど、彼は改革的な教育活
Flechtheim 1878-1937)と、同画廊のデュッセルドルフ支店を率い
動を推進した 3)。だがその努力が彼の辞任後、着実に根付いたとは
ていたアレックス・フェーメル(Alex Vömel 1897-没年不詳)であ
言えない。第一次大戦直後の 1919 年、ヴァイマールで美術学校と
る。展覧会はいわば「挨拶」として、クレーの実力を公に示すこと
工芸学校が合併されてバウハウスが誕生したのと同じように、デュ
で彼のアカデミー就任を円滑に進めようという意図に発するものだ
ッセルドルフでも二つの学校を統合する動きがあった。が、当時ア
ったに違いなく、そこには画家-画商-教育者がモデルネ美術のため
カデミーの校長だった歴史画家フリッツ・レーバーは、工芸学校の
に陣営を組んでいた様子を窺うことができよう 10)。じっさい、ケー
うち建築クラスだけをアカデミーに組み入れることで、学校解体・
スバッハの改革路線には学内外で大きな抵抗があった。
それはまず、
再編の波を最小限に食い止めた 4)。アカデミーにはもともと建築学
基本的には保守的なアカデミーという環境の中に、摩擦を伴いなが
科が存在したから、組織構成自体に変化はなかった。
ら新しさを導き入れようとする試みだったのである。のみならず、
2)けれどもだからといって、デュッセルドルフ・アカデミーが
ケースバッハの擁護が「表現主義」系の作家に偏していたことは、
クレーの在任当時、改革的動向と無縁だったというわけではない。
「ライン分離派」など、改革を志向するグループのうちにさえ、反
なぜなら、レーバーの逝去を受けて 1924 年より校長を務めたヴァ
発を引き起こしていたことが指摘されている 11)。
ルター・ケースバッハ(Walter Kaesbach 1879-1961/在任
(3)クレーにとってのデュッセルドルフ
1924-1933)は、表現主義美術の熱心な擁護者だったからである 5)。
1)逆にクレーの側にしてみれば、デッサウからデュッセルドル
クレーと同年、1879 年に生まれたケースバッハは、1907 年よりベ
フへと移ったことは、急進化したモダニズムの先端から離脱して世
− 163
-9-−
(398)
Hannes Meyer
1928.4-1930.7
12)
1929.51
1929.60
1929.90
13)
1929.232
−-164
10 - −
(399)
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Frieda Kessinger 1905-1959¡
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13 - −
(402)
とどのような関係を保つのかという問題は、ますます切実なものと
ドルフを舞台に行われた迫害への文化政策的な贖罪であり、ドイツ
なっていたはずである。
美術界のリハビリテーションを基礎づけたものと評価される。しか
11 月に家財道具や蔵書を処分したクレーは、12 月 23 日の晩、デ
ュッセルドルフを後にし、ベルンへと発った。
「いま片付けをすませ
し購入当初、それが大きな反対に遭ったことは、記憶に留めておく
べきだろう。
ました。何事もなければ明日の晩、ここを去ります。そうしたら美
以上瞥見したように、アカデミー再建においても、新美術館建設
しいクリスマスがやって来て、どの子どもの頭の中にも鐘の音が鳴
においても、ナチスの芸術政策を贖おうとする動きには根強い反対
り響くことでしょう」39)。
勢力が存在した。裏を返すならそれは、過誤から脱皮することの困
現在、宇都宮美術館が所蔵するクレーの水彩《腰かける子ども》
難とともに、モデルネ美術がやはり、いまだ広範な理解と支持を得
1933.64(図 10)は、この亡命の年に描かれた。ばら色の無垢なほ
てはいなかったのだという前提の存続を意味していよう。質ではな
ほ笑みが広がるのは、ごく脆弱な紙の上である。台紙に貼られたこ
く表現傾向によって芸術を否認する営為の抜きがたい政治性と、被
の薄い本紙には、全面に皺が寄り波打っている。帰るべき場の表象
害からの復権をそのまま高い芸術的価値に直結してしまうことの政
を、今もこの絵は投げかけ続けるように思われる。
治性は、芸術それ自体への理解を置き去りにして(理解できないが
(7)おわりに:クレーと戦後デュッセルドルフ
ゆえに/理解を装って/理解しつつも無理解を利用して)芸術を政
1)本稿第 2 節で、デュッセルドルフ・アカデミーの校長だった
治に回収するという構造を共有する。ふたつの政治性の狭間でモデ
ヴァルター・ケースバッハが呼び集めた教授陣の顔ぶれについて触
ルネ美術の遺産を正当に評価するという課題が、戦後ドイツ美術界
れた。このうち、戦後デュッセルドルフの美術界との関連で重要な
の基本条件となるだろう。
のが、エーヴァルト・マタレの存在である。
1933 年 1 月、デュッセルドルフでマタレの「就任記念展
注
Antrittsausstellung」が開催された。会場となったのはやはり、フ
1. クレーはみずから作品総目録を作成しており、作品には年ごとの
レヒトハイム画廊である。同展を訪れたクレーは、その印象を妻リ
作品番号が付されている。クレーに関する文献では、制作年と作品
リー宛の手紙で以下のように報告した。
番号をあわせて表記するのが通例となっている。本稿もそれを踏襲
「芸術的に洗練されているが、どこか審美趣味に走りすぎたとこ
する。
ろがあり、とても狭い世界だ。木彫の大作《母と子》は新しい試み。
2. 今日でも「工芸」はカリキュラムに含まれておらず、
「造形芸術
だがやはり、いまだマニエリスティックな未成熟の段階にある。本
と建築の統合 Integration Bildende Kunst und Architektur」とい
人は若々しくて感じがよかった」40)。自分自身が克服してきたもの
う呼称のコースが設置されている。現在の学科構成の上で注目され
るのは、写真が重要な一角を占めていることだ。とりわけ、1976
を踏まえた上での、批判と期待が合い半ばする評言であろう。
同年中に失職し、1937 年にはミュンヘンの「退廃芸術展」で作品
年から 1996 年まで、20 年の長きにわたって教壇に立った写真家ベ
が展示されるという運命をクレーと共有したマタレは、戦後、再び
ルント・ベッヒャーの存在は重要である。彼が妻ヒラとともに探求
デュッセルドルフ・アカデミーで教鞭を執った。1945 年、大学再開
した「タイポロジー」と呼ばれる方法に基づく作品は、まさにバウ
時に校長に就任するものの、すぐに校長職を辞去して一教授となっ
ハウスがその渦中にあった「モダン」の即物的側面の可能性と危う
ている。それは、ナチス政権に協力した者を教授職から除名するこ
さを、投げかけられた未完の課題として第二次大戦後ドイツに引き
となどを盛り込んだ彼の改革案が受け容れられなかったためだった。 継ぐものと言えるからだ。
1946 年から 1953 年まで学生として在籍したヨーゼフ・ボイス
3. 田所辰之助「デュッセルドルフ工芸学校におけるペーター・ベー
(Joseph Beuys 1921-1986)は彼の教え子であるが、マタレの挫折
レンスの教育活動について」
:
『日本建築学会計画系論文集』第 479
――芸術上の挫折ではなく、芸術を文化政策の傷から解放し得なか
号、1996 年所収、223-232 頁。
ったという挫折――は、芸術の社会性を主題化するボイスのその後
4. James A. van Dyke, Paul Klee und das Kunstproletariat, in:
の活動にも影響を及ぼさずにはおかなかっただろう。
なおマタレは、
Uta Gerlach-Laxner und Frank Günter Zehnder (Hrsg.), Paul
第 1 回(1955 年)および第 2 回(1959 年)のカッセル・ドクメン
Klee im Rheinland, Ausst.Kat., Bonn 2003, S.183f.
5. ケースバッハの業績を回顧する展覧会が2008 年にドイツで開催
タに参加している。
2)いっぽう、戦後デュッセルドルフの美術館事情はどのような
された。以下のカタログを参照。Christoph Bauer und Barbara
ものであっただろうか。ノルトライン=ヴェストファーレン美術館
Stark (Hrsg.), Walter Kaesbach. Mentor der Moderne, Ausst.Kat.,
の礎石となったのは、1960 年、州政府により 88 点のクレー作品が
Lengwil 2008.
購入されたことだった。これらの作品はアメリカの実業家トンプソ
ンのコレクションに入っていたもので、購入はバーゼルの画商バイ
エラーの仲介により、州政府首相フランツ・マイヤースの指揮のも
とに行われた。購入価格は、現在の貨幣価値に換算して 320 万ユー
6. van Dyke, a.a.O. (Anm.4), S.184.
7. このほか、運営方針の上では、商業的業績に重点を置く方向づけ
を行った。Ebd.
8. ケースバッハは、クレーの水彩作品《みんな流れてしまうので》
ロ。クレー作品の昨今の市場相場からすれば格安と言えるが、これ
Weil alles fliesst(1929 年頃)を所蔵していた。この作品はクレー
を高過ぎるとした激しい反対が、州議会では繰り広げられることと
の自筆作品総目録には登録されておらず、作品へのタイトルの書き
なった 41)。
込みもクレーの筆跡によるものではないので、タイトルがクレー自
この収集行為は今日、20 世紀を代表する画家に対してデュッセル
身によるものかどうかは留保される。現在は作品から剥がされてし
−-168
14 -−
(403)
まった台紙の裏面には、クレーの息子フェリックスによる以下の書
26. Ebd., S.19. (Zumfarbigen Gebiet).
き込みがある。
「この水彩はパウル・クレーが 1931 年に描いた「み
27. Ebd., S.5. (Einleitendes).
んな流れてしまうので」である。フェリックス・クレー 1954 年 4
28. Ebd., S.63. (Franz Marc).
月 19 日」
。その記述にも関わらず、
『パウル・クレー カタログ・
29. 例えば 1917 年の『日記』より以下の記述を参照。
レゾネ』が制作年を 1929 年頃とした根拠は示されていない。本作
「ポリフォニー絵画は音楽に勝る。時間的なものはここで、よりい
品の現在の所在は不明である。Paul Klee Stiftung, Kunstmuseum
っそう空間的なものとなるからだ。同時性という概念が、そこには
Bern (Hrsg.), Paul Klee. Catalogue Raisonné. Bd.5, Bern 2005,
ひときわ豊饒に立ち現れる」
。
S.409.
Paul Klee Stiftung (Hrsg.), Bearbeitet von Wolfgang Kersten,
なお、刊行されているクレーの書簡集には、ケースバッハの名が数
Paul Klee, Tagebücher 1898-1918. Textkritische Neuedition,
回登場するものの、
その人物像にまで踏み込んだ記述はみられない。
Bern 1988, S.440f. (Nr.1081).
9. Felix Klee (Hrsg.), Paul Klee. Briefe an die Familie 1893- 1940.
30. すでにそれを望むところにまで来たがまだ最終的に到達はして
Bd.2, Köln 1979[以下 Briefe と略],S.1156. (6.Juli 1931).
いない、というこの状況は、本人によるクレーの自己定式と符合す
10. Vgl., Christine Hopfengart, Klee. Vom Sonderfall zum
る。
Publikumsliebling. Stationen seiner öffentlichen Resonanz in
「この世で僕をつかまえることはできない/僕は死者たちのもとに/
Deutschland 1905-1960, Mainz 1989. S.95f.
そして未だ生まれざる者たちのもとに住まうのだから/常の世より
11. van Dyke, a.a.O. (Anm.4), S.184. ヴァン・ダイクは、元来が反
は幾分か、創造の核心に近づいた/けれどもまだ十分に近いとは言
ブルジョワの自律的美学に拠って立つモデルネ芸術がその自律的な
えない」 。
非妥協性を保持したまま、ヴァイマール共和国で社会的・経済的な
クレーの墓碑にも選ばれたこの言葉の初出は、彼の世間的評価を決
成功をほぼ独占してしまったことが、モデルネ芸術自身の破局の条
定づける最初の大規模な個展のカタログである。
同カタログには
「日
件をなしていたのではないか、という問題を提起している。
記より」という典拠の表示があるが、没後刊行された彼の『日記』
12. Vgl., Felix Klee, in: Briefe, S.1153.
にはこれと合致するテクストはなく、個展のため、いわば名刺代わ
13. 《大通りと脇道》の準備素描として位置づけられる《大通りのあ
りに画家の存在を印象づける銘句として書き下ろされたものと推測
る発掘現場》1929.43 もまた、この作品系列に属する。
される。
14. 連作素描は全4 点から成り立っている。
《空間研究Ⅱ》
について、
Der Ararat. Zweites Sonderheft. Paul Klee. Katalog der 60
タイトル内にカッコで付した「合理的かつ非合理的結合」の語は、
Ausstellung der Galerie Neue Kunst. Hans Goltz. Mai-Juni
作品台紙への題名書き込みには見られず、クレーの自筆作品総目録
1920, München 1920, S.20. u.A., Leopord Zahn, Paul Klee. Leben
の中に記されたものである。
《空間研究Ⅰ》タイトル内のカッコ書き
/ Werk / Geist, Potsdam 1920, S.5. Felix Klee (Hrsg.), Paul Klee.
「合理的結合」は、台紙、目録ともに記されている。
Gedichte, Zürich / Hamburg 1960, S.7.
15. マイヤーの辞任後、
1931 年に始まる「モデル」と名づけられた
31. クリスティーネ・ホプフェンガルトは、
《パルナッソスにて》に、
製図的な素描の一群も、この探求の延長線上にあるものと考えられ
当時クレーが味わっていた充実した状況への言及を見出し、それを
よう。
理想への接近と解している。ただし、古典主題とアカデミーとの関
16. Briefe, S.1166. (21.November 1931).
連については触れていない。
17. Uta Gerlach-Laxner, Klees Zeit an der Düsseldorfer
Christine Hopfengart, Alpengipfel, Pyramide und Musensitz. Ad
Akademie, in: Paul Klee im Rheinland (Anm.4), S.194.
Parnassum als metaphorische Landschaft, in: «Ad Parnassum» -
18. Ebd.
auf dem Prüfstand. Kunsthistorische und konservatorische
19. Ebd. それらの生徒の名前は以下のとおり。テオ・ケルク(Theo
Fragen rund um ein berühmtes Bild, Bern 2006. S.25f. u. S.36.
Kerg)
、ヴァルター・エルベン(Walther Erben)
、ゲオルク・ヤー
32. Zit. nach: Otto Karl Werckmeister, From Revolution to Exile,
コプ・ベスト(Georg Jakob Best)
、フーベルト・ベルケ(Hubert
in: Carolyn Lanchner(Ed.), Paul Klee, Exh.Cat., New York 1987,
Berke)
。彼らによる生徒作品等については、今後さらに調査するこ
p.48 and p.61 (Note 64). 引用部分の和訳は以下による。ミヒャエ
ととしたい。
ル・バウムガルトナー、ヴィリー・アーテンシュテット、クリステ
20. クレーの生徒のうち、戦後にかけて最も目立った活動を展開した
ィーネ・ホプフェンガルト、ゴンチャ・クレーリ、アンドレアス・
のがオイゲン・バッツである。彼は 1959 年の第 2 回ドクメンタに
マルティ、ディルマン・オスターヴォルト/柿沼万里江訳『パウル・
も出品した。バッツの画業と戦後美術界への貢献については、稿を
クレー・センター ベルン』BNP パリバ・スイス財団、スイス美
改めて考察したい。
術研究所、2006 年、87 頁。
21. Petra Petitpierre, Aus der Malklasse von Paul Klee, Bern
33. Hendrik, Abgetakeltes Mäzenatentum. Wie Flechheim und
1957.
Kaesbach deutsche Kunst machten, in: Die Volksparole, 1.April
22. Ebd., S.5. (Einleitendes).
1933.
23. Ebd.
34. Briefe, S.1234. (1933.April 6).
24. Ebd., S.8. (Gesetzliches).
35. Stefan Frey und Andreas Hüneke, Paul Klee. Kunst und
25. Ebd., S.11. (Abstrakt).
Politik in Deutschland 1933. Eine Chronologie, in: Pamela Kort
−-169
15 -−
(404)
und Helmut Friedel (Hrsg.), Paul Klee 1933, Ausst.Kat,
München / Bern / Frankfurt / Hamburg 2003-2004, S.290.
36. 若い頃からクレーは、サインの位置にはきわめて自覚的だった。
一例を挙げるなら、 素描作品《イェルサレム、わが至上の悦び》
1914.161 では、彼にとって成就や終止符を意味する記号フェルマー
タに、同じく完成を意味するサインが重ねて記されている。
37. クレーはアカデミー就任後も、
デッサウとデュッセルドルフを2
週間ごとに行き来する生活を送っていた。1932 年、バウハウス・デ
ッサウの閉鎖に際しベルリンへと向かう僚友カンディンスキーを、
ク レ ー は デ ッ サ ウ で 見 送 っ て い る 。 Vgl., Briefe, S.1207
(11.Dezember 1932).
38. Magdalena Droste, Bauhaus-Maler im Nationalsozialismus.
Anpassung, Selbstbefremdung, Verweigerung, in: Winfried
Nerdinger (Hrsg.), Bauhaus-Moderne im Nationalsozialismus.
Zwischen Anbiederung und Verfolgung, München 1993, S.113.
引用はヴィンフリート・ネルディンガー編/清水光二訳『ナチス時
代のバウハウス・モデルネ』大学教育出版、2002 年、106 頁による。
39. Briefe, S.1240. (22. Dezember 1933).
40. Briefe, S.1217. (11.Januar 1933).
41. Armin Zweite, K20K21 oder die kurze Geschichte eines
Museums in zwei Häusern, in: K20K21. Kunstsammlung
Nordrhein-Westfalen, München 2003, S.10f.
16 - −
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