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Kobe University Repository : Kernel

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Kobe University Repository : Kernel
Kobe University Repository : Kernel
Title
姫路市における都市機能の立地と都市形成
Author(s)
真次, 秀一 / 大嶽, 幸彦
Citation
兵庫地理,30:42-56
Issue date
1985-03
Resource Type
Journal Article / 学術雑誌論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90002343
Create Date: 2017-03-29
姫路市における都市機能の立地と都市形成
真次秀
大獄幸彦
序章研究の目的と調査地織の遇定
1.研究の目的
姫路市は,江戸幕政時代の城下町を母体として
ハ
│
今日まで発展してきた。従って,明治以降の都市
+
の近代化において,その影響は大きなものであっ
i
たと考えられる。しかし姫路市は第 2次世界大
戦の戦災により,市街地の大部分が焼失したため,
戦災後は,それまでの近代化とはまた違った発展
駅北部の市街地の過密化が進んだため,姫路駅南
余部村
過程を見ることになった。さらに現在では,姫路
部ζ
i, 、新市街地'が形成されつつある。
乙のような過程を経て発展してきた姫路市は,
当然それぞれの時代において, その都市形成の様
相が異なっているのは明らかである。そこ 7で本研
究では,姫路市 φ都市形成に重要な役割を果たし
ている都市機語ら立地の分析を試みることにより,
図 l 姫路市の市域の変選
資料)姫路市役所:姫路市統計要覧, 1
9
8
3
姫路市が明治維新以降,どのように形成されてき
たかを明らかにしようとすることを研究の目的に
昭和 2
1年 3月 1日 飾磨市,白浜町,広畑村,網
した。
2
. 調査地城の概況と調査方法
干町,大津村,勝原村,余部村
2
年4
姫路市は兵庫県の南西部に位置し,明治2
月の市制施行以来,数次にわたる周辺市町村との
村合併
9
年 7月 1日 曽佐村,飾磨郡余部村,糸引
昭和 2
合併により,現在では面積 271
.64k
知
附
T
4
村,八木村,太市村合併
を擁する播磨地方の中核都市として発達している。
昭和3
2
年1
0
月 1日 四郷村,花田村,御国野村,
今回の研究でで、対象とした地域は,昭和2
1年 3月の
別所村合併
飾磨市,広畑村,網干町等の合併以前の市域の市
昭和3
3
年 1月 1日 飾東村,神南町,的形村合併
街地にあたる部分に限定した。乙の地域は旧城下
昭和 3
4
年 5月 1日 大塩町合併
町を母体とし,現在の姫路市の中心市街地を形成
昭和4
2
年 3月 5日 林田町合併
している。
また調査方法としては,明治・大正・昭和の地
I章 都 市 機 能 の 立 地 分 布 と そ の 変 動
1
. 明治
図および各種統計を基礎資料とし,現在のものに
第 2次世界大戦前の都市機能の変化
1- 1 姫路城下町の構造
ついては,実態調査をも含めて都市機能の立地を
それぞれの時代ごとに分析し都市形成がいかに
姫路城は 1
5
7
7(天正 5) 年,織田信長の命を受
して行われてきたかを明らかにしていこうとする
けて中園地方の平定にあたった羽柴秀吉によって,
ものである。
現在の姫路市姫山に三層の城郭として築かれ,そ
の後姫路の繁栄は進んだ。しかし姫路城下町が
本格的に作られたのは,江戸時代に入って池田輝
一42-
政が播磨に封ぜられてからであり, 1
6
0
9 (慶長 1
4
)
して備前門付近の堀を埋立て,鉄道開通後まもな
年には五層の姫路城が築かれ,江戸幕政時代,西
く北条口門から飾磨口門に至る外堀も埋池となる
国街道筋に位置する 1
5
万石の城下町としての繁栄
というように都市化と共に城濠・土塁の埋立・
をみるきっかけとなった。池田輝政は姫路城下町
撤去が進み,市街地の構造が変化することになっ
を作るにあたって三重の城濠を螺旋状にめぐらし,
T
こo
内・中・外の三曲輪を設け,内曲輪には城郭施設,
中曲輸には高級武家屋敷,外曲輸には下級武家屋
敷・寺町・商人・職人町を配し,市街地ベまとん
どを郭内に取り入れるよう計画したため 1
(,城郭
そのものの規模は大きく,明治以降姫路市街地の
発達に大きな影響を与えることになった。
1-2 姫路城下町の解体と軍隊の進出
姫路城下町は,他の城下町がそうであったよう
に分国統治における政治的・経済的中心地とし
て存在していた。明治維新後,廃藩置県により,
糊の政治的機時姫路藩庁,姫路県庁,さらに
飾磨県庁の所在地として政治的中心地としての地
位を引きついだが,明治 9年飾磨県の兵庫県合併
に及んで,その政治的機能は消失してしまうので
ある。しかしその政治的機能に代わり,明治 7
年以降,新たに軍事機能が加えられてくるのであ
る
。
乙
明治 6年,わが国で徴兵令が施行され,各地 l
Ll
鎮台(師団)が設置される乙と同つ去が,姫路
城はその当時陸軍省によって管理され,なおかっ
@陸軍教化隊
姫路城は内・中曲輪だけでも面積 107ヘクタール
⑧姫路連隊区,師団司令部,第 8旅団
(325,
875坪)と広大であったので陸軍のために
@軍用犬訓練場
0
連壊
利用された。まず明治 7年大阪鎮台歩兵第 1
図 2 姫路市における軍隊施設 0937
年)
が編成され内曲輪に屯営し,本城を仮兵舎とした。
資 料 ) 姫 路 毎 日 新 聞 舗 万 2千分の l 最新姫
路市全図, 1
937I
とより作成
翌年兵舎を新築したが, その後兵舎の増築が進み,
本城の一部・向屋敷・東屋敷と中曲輪の侍屋敷は
ほとんど姿を消すこととなった。次いで,明治 1
8
年歩兵第 8旅団が編制され,司令部を中曲輪桜町
1-3 近代工業の発達
9
年には策1
0
師団が編制され,
に置き, さらに明治2
姫路藩は,家老の河合寸翁による殖産興業以来,
司令部を内京口門内に置くなど,中曲輪はこの頃
播磨木綿の産地として有名であったので,まず,
までに軍事施設で満たされることになった。
明治 1
1年に宮営の姫路紡績所が設置された。そし
また,城下町の特色である城濠・土塁は,城郭
て,明治中期以降になると,播磨紡績,龍田紡績
防衛のために造られたものであるが,明治維新後,
など、の綿織物工場や大同マッチ,山陽皮革などの
その役割は失われ,また都市化が進むにつれ交通
民間工場が作られた。さらに,わが国の繊維工業
等の障害になるという理由で, その埋立・撤去が
の発達をみた大正期に入ると,姫路製綿,日本毛
進められた。姫路城下町における城濠・土塁の埋
織,日本
立・撤去は明治 1
1年頃から始まり,姫路中学校の
係の工場の進出が相いついだ白また,前述のよう
校地造成のため,外京口門付近の土塁の撤去-と外
に姫路市には,鎮台(師団)が置かれていた乙と
堀の一部が埋立てられ,明治 1
2
年には小学校地と
もあり,第 2次世界大戦が勃発すると,軍需工場
1
7エルト,東洋紡績というように繊維関
組処
っ.
u
とになった。まず,第 2次世界大戦末期の昭和 20
が作られるようになった。
以上,述べてきた乙とより,姫路における都市
年 6月2
2日の空襲で,城東の天神町付近に爆弾が
投下され,戸数1.351戸,人口 10,
220人が羅災
機能の変化を次にまとめてみたい。
した。続いて周年 7月 3日夜半から 4日未明にか
明 治 時 代
今井酒造
製
所
糸
姫路紡績所
姫路時計製説庁
高井織物
大村マッチ
播磨紡績
電燈会社
龍田紡績
大同マッチ
山陽醤油
姫路ガス
山陽皮革
1
8
6
8
1
8
7
6
1
8
7
8
1
8
8
5
1
8
9
0
1
8
9
6
1
8
9
6
1
8
9
8
1
9
0
1
1
9
0
5
1
9
0
7
1
9
1
0
1
9
1
1
大 正 時 代
姫路製綿
日本毛織
日輪ゴム
日ノ出紡績
米谷紙管
姫路電球
メリヤス工場
日 本 フ エ jレト
牛尾工業
東洋紡績
片倉製糸
の組製糸
けては,都Jザを中心として戸数 10,
287戸
,
人
182人が羅災するに達したロこれら 2度の
口 45,
1
9
1
2
1
9
1
3
1
9
1
4
1
9
1
5
1
9
1
5
1
9
1
6
1
9
1
6
1
9
1
7
1
9
1
8
1
9
1
8
1
9
1
8
1
9
1
8
空襲により,野里と船場の一部を残して,市街地
,
乙
の大部分は焦土と化してしまうのである o 次 i
姫路における戦災の復興はどのように行れたので
あろうか,みてみたい。
2-2 戦災復興計画
粁余曲折した道路と,武家時代以来の古い家屋
で知られた城下町の姫路も,昭和 20
年における 2
度の戦災で,市街地の大部分は廃虚と化したが,
1年 9月に復興計画が完成し新しい家
終戦後は 2
屋は続々と建ち並び,兵舎跡には官公庁や学校,
アパートなど,旧城南練兵場には営団住宅や市場
などが,旧市街地を埋め尽くすほどに建設されて
表 l 姫路市における主要工場の設置年代
いった。このようにして短期間のうちに,家屋は
資料)糸田恒雄:城下町の解体と姫路市街地の
地域構造,内地留学生研究報告書,姫路
建設されていったのであるが,乙の当時の市街は
市教育委員会, 1
9
6
3,
P.
14
3
復興計画を出したにもかかわらず,乱雑たる状態
1-4 都市機能の変化
ζ
l陥いろうとしていたのでそれに再検討を加え,
まず姫路は,明治初期までは,江戸幕政時代と
同様,政治的・経済的中心地としての地位を保っ
昭和 25
年度から 5ヶ年計画で,新たに戦災復興土
乙705,
地区画整理で社葬とされた復興区域は,実 l
ていたのであるが,明治 9年の飾磨県の兵庫県合
000坪にも及びJ道路は新姫路駅玄関前から姫路
併と共に,その政治的地位を失うこととなった。
城大手桜門に至る幅員50m
の大手前通りを始め,
し か し 明 治 7年の大阪鎮台歩兵第 1
0
連隊の屯営
3
線
.などを縦横に走らせることなどが計
幹線道路 1
に始まる軍隊の進出とともに,新たに軍事的性格
画された。
を帯びるようになる。また,交通手段の近代化は,
このようにして,姫路市では戦災を契機 I
C,そ
従来の西国街道に沿う宿場町の性格を変え,地方
れまでの曲折の多い狭い道路は完全に姿を消し
経済の中心としての新要因を生み,乙れに伴い日
市街地の構造が大きく変わる乙とになるのである。
清・日露戦争後に綿工業を中心ζ
l各種工業が勃興
3
. 第 2次世界大戦後の都市機能の変化
3-1 姫路市街地の商業的機能の発達
第 2次世界大戦前の姫路市は,市街地およびそ
した。従って,姫路の近代化は,軍事・交通・工
業を軸として進められていく乙とになるのである。
2
. 第 2次世界大戦による戦災状況と復興計画
2-1 第 2次世界大戦による戦災状況
の周辺に,商業・工業・官公庁・住宅などが未分
化とはいえ,それぞれの地区を形成していた。し
年の市制施行以来,市の軍都化,
姫路市は明治22
商工業の発達,さらには周辺町村との合併により,
市制施行当時,面積 3.03k
n
i,人口 25,
487人であ
かし戦後,それら各機能地区は大きな変化を示
すのである。
まず第 1I
C工業であるが, 乙れは戦前において
0
年同面積3
2
.
7
6
k
n
i,
人口 95,
699
ずこが,昭和 1
は,市街地の周辺部に一大地区を形成していた。
人と近代都市として発達した。ところが,姫路城
1年 3月に現市域南部であ
ところが,戦後の昭和2
下には 1
0
万の人口がある乙と,師団所在地である
る飾磨市,広畑村,網干町などとの合併により臨
こと,航空機その他の軍需工場がある乙となどに
海工業地帯が発達し,市街地周辺部は大工場はほ
より,第 2次世界大戦時に敵軍の攻撃を受ける乙
とんど建設されず,中小工場がわず、かに見られる
-44-
f~度/となってしまったので、ある円
図られている。また
そのような駅南の開発と共
第 2I
ζ官公庁であるが, これは,中曲輪の旧軍
に金融・商!苫街などが形成されつつある。しか
用地との関係が深い口というのは,戦前の官公庁
し駅南開発は最近のことであり,まだ発展過程
は市街地の中央部付近に集中していたが,戦後,
にあるため,各機能の分化は明確ではなく,これ
広大な旧軍用地は官庁および学校用地となったの
から後も注目していく必要があるであろう。次 i
,
乙
である。そのため,官公庁地区は,戦後,市街地
都市機能の立地 l
乙関し検討を加えてみよう O
中央部から押し出された形となっているの
第 3に住宅地は,外曲輪や郭外も明治以降,住
E章
明治 第 2次世界大戦前の都市機能の立地
宅化が進んだが,戦災後の都市計画ζ
l従い改変さ
第 2次開界大戦前の姫路市街地は,軍事・交通
れ,また市街地の拡大により新たに住宅地となっ
.[業を核として,大戦後は商業を核として発展
卜二所前,北条口,下寺町など
してきたことを I章で述べてきた。確かに大戦後,
の旧住宅地は,戦後〉大道路が作られたため,商
d
間各市街地は,商業機能を中心 l
こ発展してきたの
白,事務所に変わるといった現象も見られた。従
i
であるが,大戦前は,軍事・交通・工業を中心ζ
た地区も生じた。
って,住宅地区は,結果として市街地の拡大と共
発展してきたとはいっても,やはり市街地の中央
に,旧市街地の外部へ押し出されるという形にな
部においては,商業機能が発達していたのである O
ったのであるつ
従って,
I章においては,
1章で行ってきたよう
な姫路市街地を形成する中心的都市機能という観
第 41乙商業地は,戦前から市街地中央部に位置
し,工業の臨海部発達,官公庁の市街地中央部か
点ではなく,姫路市街地内で
ら周辺部への移動,住宅地の市街地拡大に伴う移
中央部に位置し発達していった商業機能を中心と
一貫して市街地の
動の現象から,戦後は市街地中央部に大きな商業
して,その立地を考察し市街地内でもその、都
地区を形成するようになったのである。
心グ的地区が,どのように形成され,変容してい
ったかを述べていきたい。
i
以上から,戦後の姫路市は,旧市域の市街地ζ
1
. 明治前期における都市機能の立地の概観
関する限り,商業機能を中心に発展していったと
姫路は慶長年聞において池田輝政の姫路城築城
予想しうるのではなかろうか。
3-2 新市街地の発達
の後行われた城下町建設に際して,それまで城北
方面を東西に走っていた西国街道が,城下繁栄の
戦後の姫路市は市街地拡大と共に,都市機能の
分化が明確になりながら発達していった。しかし
ために,京口,国分寺町,大里町,元塩町,二階
国鉄姫路駅北部の旧来の市街地は,拡大したとは
町,俵町,福中町,竜野町を結ぶ城下の道路 l
と引
いってもそれは限られており,結果として市街地
き込まれる乙とになった。そのため,江戸幕政時
内部の密集化が進んだため, ここでは徐々に開発
代においては,城下の西国街道筋には,本陣,脇
の余地が無い状態に陥ってしまうのである。そこ
本陣,伝馬,人足問屋,旅寵その他の交通施設,
で注目されたのが,国鉄姫路駅南部である。駅南
木綿,切手会所その他の軍?経済施設が集まり,
地区は戦前,工業地区を形成していたのであるが,
城下ーの繁栄を誇っていた。また明治になって姫
前述のように戦後の臨海工業地帯の発達とともに
路の商業が活況を呈するよう Kなっても,江戸時
消滅しその後は開発が遅れていた地域であった。
代以来の中心であった西国街道筋は,姫路商業銀
駅南地区の開発は,ます昭和3
5
年の駅南地区区
行,三十八銀行を始めとする金融施設,山陽座な
画整理事業の着子から始まり,昭和 4
7年には,駅
どの娯楽施設,旧旅寵町の福中町付近には旅館な
北部の大子前通りに匹敵する駅南大路が完成し,
1年の山陽鉄道開通に伴う姫路
どが集まり,明治2
駅南地区の道路網が整備された口さらに,昭和5
5
駅の開設後も相変わらず繁栄していた口これを裏
年には旧軍用地にあった姫路市役所がここに移転
づ け る 伊 と し て , 明 治3加と出版された『姫路
しそれに続いて旧軍用地内の他の官公庁も,そ
名勝誌』の「姫路の名勝,古蹟を巡覧せんと欲す
のほとんどがこの地区に移転するのである。そし
る外来の土は,姫路停車場に下車して適当な旅館
て,官公庁移転後の跡地には,哨附年,県立歴
に投ぜよ。…略…されど姫路の繁華地を望む人は
史博物館,市立美術館が開設され j市の活性化が
進んで国道に向い福中町に行くを要す。福中町ζ
l
A
﹁
hu
必斗
は花屋・紺庄・金吾・赤松などといえる佳良な旅
館多かり。…略…今国道筋なる山陽街道に沿える
有名な町をあげれば第 1等は福中町にて内町の西
端にあり…。J
は有名である。
以上の乙とから,明治前期の姫路市における、
都心'的地区は,城下内の福中町を中心とした西
国街道筋にあるといえるが,まだ都市は未発達で
あり,金融街,商居衝を形成するなどといった機
能分化は進んでおらず,西国街道筋 i
と雑然と集ま
っていたので、ある。
2
. 明治後期 第 2次世界大戦前の都市機能の
立地
2-1 銀行の立地
銀行は銀行法とその付属および関係法令によっ
て,営業の免許から合併,転換,またその配置に
およぶまで,行政上の枠が厳しい業種であるにも
かかわらず,企業のオフィスや小売業などが集ま
る都心地区 1
[
.,強い集積力をもっ企業である。銀
行の主要な業務は民間企業などへの資金供給,一
般市民に対する金融サービスなどであるが,都心
構成要素としては重要であり,かっ,都心の構造
L
.
t
を解明する際の指針ともなると思われる。
図:3 1
9
3
0
年の銀行の立地分布
a. 1
9
3
0
年
, 1
9
3
7
年の銀行の立地分布
1年の第三
姫路市における銀行の開業は,明治 1
十八国立銀行が最初で、あり,明治2
9
年には,姫路
商業銀行が開業した。そして,大正 6年までには,
姫路市内には,三十八銀行,姫路商業銀行をはじ
特して博融銀行,高里銀行など 8つの銀行が開
業したが,そのほとんどは,例えば,三十八銀行
は西呉服町,姫路商業銀行は福中町,博融銀行は
博労町,高里銀行は大黒町というように西国街道
筋に立地したのである。
19304{)19374
の姫路市街地の銀行分布を見る
ため,図 3,図 4を作製した。その結果,銀行の
集積には, 2つの傾向が見られる。 1つは西国街
道筋であり,他の 1つは御幸通りである。
西国街道筋の銀行は,前述のように大正 6年ま
では,三十八銀行を始めとする主要銀行が立地し,
1
9
3
0
年
, 1
9
3
7年と年を経るに従い,その相対的地
位は低下しているが,姫路市の銀行の発生地区で
あるという点で注目される口
1
9
3
0
年
, 1
9
3
7
年の銀行の分布をみると,御幸通
りへの銀行の立地が進み,西国街道筋を凌ぐよう
になってきている。これは,御幸通りの繁栄が進
9
3
7年の銀行の立地分布
図4 1
-46-
んナごこともあるが,大正末 l
と市内最大の銀行であ
伊礎づけているものは,需要者の購買条件であ
る三十八銀行が逸早く西呉服町弘?御幸通りに面
るとされる。従って,需要者である人々は, 日常
した中呉服町に,本屈を移転した乙となども影響
生活における必需品は,住宅地の近隣で購買する
していると思われる。
乙とを望むわけであるから,そこに最寄り品商!苫
b唱明治後期
第 2次世界大戦前の銀行の
が立地するのである O それに対して,自分の居住
区域ではない都心部では,人々は必需品以外の商
立地とその移動要因
1
9
3
0年
, 1
9
3
7年の銀行の立地分布は,どちらも
品を求めるので,そこには買廻り品商屈が立地す
昭和に入ってからのものであるが,明治に入って
るわけである。この乙とから,都市には中心商居
からの銀行の立地がどのように進んでいるかを如
街と周辺商居街というこつの小売商業地区が形成
実にあらわしている口確かにこの時期は,銀行の
される。このうち,中心商庖街の小売業地区は,
立地が西国街道筋から御幸通りに移動しているの
都市の市街地の構造を明らかにする際に,最も重
であるが, その要因はど乙にあるのであろうか。
要な要素の一つになると考えられる。
こ乙で明治後期から第 2次世界大戦前の商屈の
その要因を求めるためには,御幸通り開通の頃の
市内の様子を考察することが,大きな手がかりと
立地と立地変動の要因について述べておきたい。
なろうり
明治3
6
年の御幸通りの開通は,都心構成要素とし
1年の山陽鉄道開通に伴う姫
姫路市では,明治2
て重要である銀行の立地変動をもたらしたが, こ
路駅の開設をきっかけとして,姫路駅から西国街
の傾向は市街地の商居街についてもいえるのであ
道筋に通ずる南北幹線道路を建設するにあたり,
る。すなわち,明治2
1年に鉄道が開通しても,御
小溝小路の拡張工事が計画されたが,地元市民の
幸通りの開通をみるまでは,旧城下町の商居街(
反対で実施されず, そのため,鉄道開通後も駅前
西国街道筋)は引き続き繁栄し,東から,東二階
は繁栄するに至らなかった円しかし明治3
6
年の
町,二階町,西二階町,竪町,俵町,福中町付近
軍隊の大演習の際に,姫路駅から城南練兵場,城
が中心商!苫街を形成した。そして,御幸通り開通
北の軍用地を結ぶ南北幹線道路である御幸通りが
後は,前述のように駅前付近が繁栄するようにな
完成した己御幸通りは市街地での幅員 8 m, その
り,また,大正 昭和初期にかけて工場建設が進
他の地区では 12mの近代的道路で、あったばかりで
み,商業活動が活発となったこともあって,駅前
なく, それまで、の姫路市内交通の西国街道を中心
付近および御幸通りが中心商庖街を形成するに至
とした東西型に大きな影響を与え, その結果とし
った。
2-3 官公庁の立地
て,その後の駅前の繁栄をもたらすきっかけとな
特に,大正 1
2年には山陽電鉄の姫
姫路市は,明治 7年に鎮台が設置され,内・中
路駅前への乗り入れ,昭和 3年の姫津線(現在姫
曲輪の市の中心部が陸軍用地としてあてられたた
新線)の開通,またノム?は大日年から姫路駅前
め,民間施設は,市街地内に立地することに守
ったのである
O
4
?
を起点として運行するといったことなどは,姫路
た。図 5は
, 1
9
3
7年における官公庁の立地分布を
駅と市内外各地を結ぶ御幸通りの役割を増大させ
表したものである。これによると,市役所・税務
ることになったのである円
所が北条口,郵便局は古二階町,警察署は元塩町
以上のことから,
この時期における銀行の立地
というように,そのほとんどが外曲輪に押し出さ
の移動の要同は,明治3
6年の御幸通りの開通に伴
れ
, H
H和初期jの中濠の埋立,中曲輪の土塁の切り
う姫路駅前の繁栄により
それまでの西国街道筋
崩しゃ第 1
0連隊の大陸転出などで,公会堂,商工
よりも,姫路駅と市内外各地を直結する御幸通り
会議所などが,中曲輪の一部に立地したぐらいで
の重要性が高まり, そのために,概して市街地の
ある。また,この図によると
中心部に立地する企業である銀行が司御幸通りに
ところどころに立地し官公衛地区を形成してい
官公庁は市街地の
移動していったと考えられる。
ない。もちろんこれは,軍隊の進出のため,官公
2-2 向日の立地
庁が,ほとんど余地のない市街地に立地せざるを
得なかったという乙とが,原因として働いている
一般に,商山の位置や取り版い商品の種類・質
量の決定は,白山科g-!i-自身であるが, その決定
のである口
A斗
ゐ
ワt
ているのであり,やはり官公衛地区は形成されて
いない。
(
3
)この時期においては,市街地を構成する都市
機能の立地が,内・中曲輪の軍隊進出のために大
きな影響を受け,市街地の近代化にはマイナス要
因となっていることである。すなわち,官公庁の
分布でみてきたように,軍隊の進出のために都市
•
機能の分化が遅れたことは否めない事実であり,
そのため,市街地は,雑然たる様相を呈していた
といえるのである 。
皿章
第 2次世界大戦後の都市機能の立地
l 第 2次世界大戦戦災復旧後の都市機能の立
地
1- 1 銀行の立地
。
a
.1
9
6
3
年の銀行の立地分布
姫路市は第 2次世界大戦の戦災を受け,市街地
1000ml
の大部分が破壊されたが,戦後は, すぐに復興が
進み,昭和3
0
年には大手前通りが完成するに至っ
図5 1
9
3
7
年の官公庁の立地分布
た
。
大手前通りが完成し市街地が整ってきた 1
9
6
3
2-4 明治後期 第 2次世界大戦前の都市
機能の立地
以上の考察から,明治後期から第 2次世界大戦
に至るまでの市街地内の都市機能の立地とその立
地変動とから,次のような乙とが明らかになった。
(1)明治後期から第 2次世界大戦に至るまでの期
間は,城下町時代からの‘伝統的'な市街地の構
造に変化がみられた乙とである。すなわち,城下
と、
町時代から明治初期にかけては,西国街道筋 l
都心'的地区が見られ,それを中心に市街地が形
成されていたのに対し,都心構成要素と考えられ
る銀行の立地分布と小売業の立地より,駅前付近
および御幸通りに、都心'的地区が移動し,今度
はそ乙を中心として市街地が形成されていったの
である。
(
2
)明治後期から第 2次世界大戦に至るまでの期
間は,市街地を構成する都市機能は,未分化の状
態である o すなわち,乙の時期においては,確か
に,銀行,小売業の立地分布により,
、都心'的
地区が西国街道筋から駅前付近および御幸通りに
移動しているが,金融街,中心商!苫街を形成する
までには至っていないのである。また,官公庁の
立地をみると,市街地内のところどころに立地し
-48-
図6
1
9
6
3
年の銀行の立地分布
年の銀行の分:tf
J
5
.
をみるため医1
6を作製した。その
た。またパスも,神姫パスが山陽電鉄姫路駅の南
結果,銀行の分布の特徴は竜次の 2点にまとめ ι
に,市営パスが大手前通り東側に発着場が移動し,
れるハ
全交通施設が大子前通りの南端に結集する乙とに
(
1
1
1963年の銀 i
Jの集積は,市街地内に立地する
なった。
2
1銀行のうち, 1
0銀行が集司 lしている大手前通り
以上のことから, この時期における銀行の立地
に見られる。ここには〉住友銀行,ミ和銀行のよ
移動の要因は,戦前,中心街路が西国街道筋から
うな全国的規模の銀行の支日をはじめ,地方銀行
御幸通りに移動したのと同様,大手前通り南端に
一大交通ターミナノレが形成されたことによって,
の本・支屈が集積し,金融街を形成している。
(
2
)
第 2次世界大戦前ζ
i市街地で一番の繁栄をみ
姫路駅と市内外各地と直結する大手前通りの重要
5銀行が立地するが, その地位
性が高まったため,銀行もそこを中心として立地
た御幸通りには,
していったのである口
は低下し,中心街路としての性格は大手前通りに
1- 2 商応の立地
奪われたといえる。また,城下町時代から明治初
a 新興商居街の誕生
期にかけて,繁栄していた西国街道筋には銀行は
戦後,大手前通りの開通と共に.同地域で商業
存在せず, その凋落ぶりは注目されるところであ
を営んでいた人々は,山陽電鉄姫路駅付近に集団
る
口
b. 第
移転したために, そこでの商庖街化が進んだ。し
2次世界大戦戦災復旧後の銀行の立
かしこの汁近はもともと後背に忍町の卸売商居
地とその移動要因
街があった土 1
(,大手前通り開通に伴い,大手前
1963
年の銀行の立地分布は,戦後の都市計画が
一応の完成をみてからのものである。確かにその
通り以東との関係が絶たれた乙ともあり,商庖街
立地分布から,大手前通りが中心街路としての性
一
語
性 のきざしがあったことも
格を帯びていることがわかるのであるが,その要
l,飲食庖,
理由として考えられる。こ乙では主ζ
0
因を追求する場合,やはり大手前通りが終戦後 1
飲食物,身の廻り品を扱う商屈の立地がみられる。
4
新興商庖街誕生の
b. 戦前からの商居街
年自にしてやっと完成した前後の市内の動向を考
察する乙とが最大の手がかりとなる。
戦前からの主な商広街としては,御幸通り商庖
大手前通りは,姫路駅と姫路城の大手門聞を結
街と西国街道筋の二階町通り商居街であるが,戦
ぶという外曲輪の中央部を南北に走る道路であり,
後の大手前通り開通は, これら旧商庖街の構造変
またそれが通称 50m道路と称せられるように幅員
化と,機能分化を促進することになった。
は50mで,戦前の御幸通りの幅員 (8m) とは比
御幸通りは明治36年の開通以来,姫路市の金融
較にならないほど大規模であったため, その建設
街的性格,中心商居街的性格をもっ中心街路とし
は手間ど、った。すなわち市街地を走り,
しかもそ
ての地位を保ってきた。しかし昭和 3
0
年に幅員
の規模が大きかったために、立退き家屋の数も多
にして御幸通りの 6倍以上を誇る大手前通りが完
萄屈が続出したこともあり,
く,また不法占居の l
成した後は,御幸通りは中心街路としての地位を
3年に始まった工事は難航したのである。し
昭和 2
失い,完全に裏町通りへと転落してしまった。す
か し 昭 和2
5
年の住宅金融公庫の発足,大手前通
なわち,御幸通りは,前述のように金融街的性格
り敷地内の居鮮の移転先の斡旋などで,そこの
を失い,被服・時計・貴金属などを主とした買廻
住宅は姿を消すようになり,ようやく昭和3
0
年に
り品商!苫街あるいは,飲食庖,喫茶屈などを主と
完成するのである。
した商居街としての性格を,より一層強めること
このように,大手前通り建設工事は難航の末ょ
うやく完成したが,完成後は姫路市内ではかつて
になるのである。
また,戦前においては御幸通り商庖街と並んで
なかった近代道路であったので,市街地内の交通
有名であった西国街道筋の二階町通り商居街は,
網は大きな変化をみせるのである O まず,戦前は
大手前通りの開通に伴い,西二階町通り商居街と,
御幸通りに面していた国鉄および山陽電鉄の姫路
中・東二階町通り商百街に分断された。その結果,
駅は,昭和 2
8
年に山陽電鉄が大手前通り西側に,
中・東二階町通りは,御幸通りとの連鎖性を強め,
4年に国鉄が大手前通り正面ζ
i移動し
そして昭和 3
←
被服などの買廻り品専門の商庖街的性格を一層帯
49-
御
海
幸
筋
通
臼
手
通
大
堅
銀
町
町
中二
西町
階
二俵
j拒 一 酉
東町I 階町
前
所半 所
前半
十通
。
4
3
ノ
〈 ー
37
13
1
5
8
洋品・被服
90
28
9
7
4[ 37
タノぜコ
4
5
2
3
3
時
写
計
真 ・貧金属
5
12
4
3
2
5
2
食
8
9
3
4
6
3
4
E
書籍・文具
。
4
。
3
3
。
。
電
日 気用器品
具
3
5
2
5
2
デパート
スーノマー
。
その
7
化 粧 ・薬 品
ロ
(
J
ロ
言
十
他
11
7は1
9
6
3
年における官公庁の立地分布を表したも
4
5
飲食・喫茶
qpした。図
のである。乙れによると,官公庁のほとんどは旧
9
娯楽機関
消滅とともに官公庁は旧軍用地
十通
3
13
26
13
軍用地であった,内・中曲輸に市街地内から移転
1
6
し,内曲輪の旧軍用地跡に迎賓館・図書館分室,
中曲輪の西倉庫跡に市役所,兵器支廠跡へ消防署
・測候所,調馬場・将校集会所跡に裁判所・税務
163
4
1
1
2
3
5
2
。。
10
10
102
55
31
63
24
56
署・労働会館・商工会議所,被服庫跡に郵便局,
oI
2
4
55
20
69
5
41
して城西の旧 3
9
連隊跡には,検察庁・神飾税務署
2
。
。
。
旧城南練兵場の一部跡に保健所・電話局分室,そ
23
45
.県作物統計事務所・職業安定所・建設省などの
にして旧軍用地には,官公衛地区が形成されたの
であるが,そればかりではなく,姫路東高校・賢
明女学院・淳心学院などの学校も,乙乙 l
と立地し
文教地区をも形成したのである o
表 2 道路別業種別主要商庖戸数 0963
年 2月)
•
資料)糸田恒雄:城下町の解体と姫路市卸也の
地域構造,内地留学生研究報告書,姫路
市教育委員会. 1
9
6
3
. p.
15
3
びるようになった。一方,西二階町通りは,戦前
は買廻り品専門の商庖衝を形成していたが,大手
前通り出現l
とより中・東二階町通り商居街および
御幸通り商店街との連鎖性を失ったため,次第に
卸売り商居街としての性格を強めるようになった。
c. 市街地の商庖街の機能分化
姫路市街地においては,戦後の大手前通り完成
とともに,戦前の中心商店街で、あった御幸通り商
庖街,および二階町通り商庖街に機能の変化を生
じさせた。そして,大手前通りの出現によって,
山陽電鉄姫路駅付近には,新興の商居街が誕生し
たしまた,その他の商庖街では,小溝筋商庖街
は,小規模で被服関係を主に扱う商庖街,白銀町
・堅町筋商庖街は,飲食居,被服屈などを中心と
した昔ながらの商店街というように,機能変化が
進むとともに,その分化も進んできた。ただ市街
地内の商庖街の全体的傾向として,戦前は市街地
に散在していた商庖街は,御幸通りを中心とした
小地域に集中しており,その他の商庖街は凋落傾
向にあるといえる。
図7 1
9
6
3
年の官公庁の立地分布
以上述べてきたように,旧軍用地には官公庁ば
かりでなく学校施設が立地し,官公衛・文教地区
1-3 官公庁の立地
を作りあげたが,そ乙に,乙れらが立地した要因
戦前,主に市街地内に立地し, しかも官公衛地
区は形成されず散在していたのが,戦後の軍隊の
としては,旧軍用地として利用された内・中曲輪
の面積は 107ヘクタールにもおよんだため,広大
-50-
a
. 1983
年の銀行の立地分布
な用地を必要とする官公庁・学校等の立地に適し
現在の銀行の立地分布をみるため,図 8を作製
ていたこと,戦後,旧軍用地は,大蔵省に管理が
移り,公共施設への転地が容易であったことなど
した。その結果,銀行の分布の特徴は,次の 2点
が考えられる。
にまとめられる。
1-4 第 2次世界大戦戦災復旧後の都市機
(
1
)
1983
年の銀行の集積は,市街地内に立地する
3
4
銀行のうち 1
4
銀行が集中している大手前通りに
能の立地
以上の考察から,第 2次世界大戦戦災復旧後の
9
6
3
年の銀行の集積と同様で
見られ,この傾向は 1
市街地内の都市機能の立地と,戦前との比較によ
あるが, 乙の当時よりさらに大手前通りの金融街
るその立地変動から,次のような乙とが明らかに
化が進んでいる乙とがわかる。また,戦前の金融
なった。
街であった御幸通りは
(1)姫路市においては,第 2次世界大戦の戦災に
わずか 3銀行が存在する
だけである。
(
2
)
姫路市においては,市街地は戦前から国鉄姫
よって,戦前見られたのとは比較にならないほど
大きな市街地の構造の変化がみられたことである。
l形成され,駅南の開発は遅れていたが,
路駅北部ζ
つまり,戦前は,御幸通り付近に、都心'的地区
1
9
8
3
年の銀行の立地分布では,姫路駅南に播州信
が見られ,そ乙を中心として市街地が形成されて
いたのが,戦後は,画期的な大通りである大手前
通りの出現によって,御幸通りは裏町通りにその
地位が低下し,代わってその大手前通り付近に、
都心'的地区が形成され,そこを中心として市街
地が形成されたのである。
(
2
)
第 2次世界大戦後,市街地を構成する都市機
能の分化は,かなり進んでいる。まず,大手前通
りは前述のように
‘都心'的地区を形成し,そ
乙は金融街となっている。そして戦前の‘都心'
的地区であった御幸通りは,金融機関は大手前通
りに移動したが,従来からの商店街としての性格
は持続し発展させて中心商庖街を形成するに至
っており,さらに,中・東二階町通り商庖街,小
溝筋商店街との連鎖性を強め, これらとともに小
売り商店街を形成している。また,西二階町通り
商庖街は,戦前の小売り商庖街から卸売り商庖街
へと移行している。以上,商業的機能の分化をみ
てきたが,市街地北部の旧軍用地には官公衛・文
教地区が形成され,また I章で述べたように,住
宅地区は市街地周辺部に(工業地区は,姫路市の
臨海部に移動した) ,というように,都市機能の
分化が,かなりの段階まで進んでいったのである。
(
3
)
第 2次世界大戦後は戦前に比べ市街地の拡大
が見られたが,市街地の機能地区は逆に戦前と比
べて縮小している。すなわち,姫路駅付近を中心
とした小地域に、都心'的地区,中心商庖街地区
が形成されていったという乙とである。
9
8
3
年の銀行の立地分布
図8 1
2
. 現在における都市機能の立地
2-1 銀行の立地
唱BA
Fhu
2-2 商屈の立地
用金庫の本庖が建設されたのをはじめ,駅南地区
第 2次世界大戦後,姫路市街地の商庖街の機能
にわずか 5銀行ではあるが立地しているのが注目
分化は進んだが,現在においても前段階とほぼ同
される。
じような機能分化の状態である。すなわち,中心
b. 駅南地区の銀行立地の要因
1
9
8
3
年の銀行の立地分布から,大手前通りは以
商庖街としての地位をそのまま引きついでいる御
前よりも金融街化が進み,市街地の中心街路とし
幸通り商庖街とか,中・東二階町通り商庖街は,
て不動の地位を誇っているが注目すべきは,銀
買廻り品商庖街あるいは飲食・喫茶屈などを主と
行の駅南地区への立地である。姫路市においては,
した商庖街としての性格をさらに深めていった他,
明治以降、都心'的地区は
その当時としては活
市街地内の他の商庖街も,戦後形成された機能分
気的な新道路建設によって移動してきたが,銀行
化を強めながら発展していったのである D しかし
の駅南地区への立地も駅南大路という新道路建設
近年になって,市街地内の乙れらの商庖街の発展
と大きな関係がある。
に大きな変化が生じてきた。
とあった東洋紡績姫路工場の閉鎖弘
特に,野里 i
1章で述べたように,駅北
部の旧来の市街地が密集化したのを受けて進めら
の跡地に,大型スーパー 2盾舗を含めた商庖街な
7
年に駅南大路が完成すると共
れたが,まず昭和4
どが立地し,
駅南地区の開発は
、姫路の北部副都心'が形成された
に駅南地区の道路網が整備された。乙の道路の
i立
現在では,姫路駅前の交通のターミナル付近ζ
開通は駅南地区にとっては画期的なことであった
地するという強味に依存してきた市街地内の商庖
カ
え さらに,昭和5
5
年には駅南パスターミナノレが
街も,安閑とはしていられない状況にさしかかっ
開設され,交通条件だけをみれば,駅南地区は駅
ているのである。すなわち,
可臣路の北部副都心'
北地区とほぼ同等の条件を得るのである。そして
は巨大な交通ターミナルが存在しない代わりに,
同じ昭和 5
5
年に市役所が駅南地区に移転したのを
現在におけるクルマ社会に合致した駐車場スペー
スの広い大型庖舗の存在によって補い,そ d 也位
始め,官公庁のほとんどが乙乙に移転したため,
まだまだ駅北地区
を高めているのである。
また,駅南地区においても,現在はまだ商庖街
にはおよばないものの,その地位を高めてきた駅
を形成するまでには至っていないが,銀行の立地
南地区の中心街路である駅南大路に,銀行が立地
するに至ったので、ある 。
と共に商庖の立地がみられるようになってきたこ
駅南地区の地位はさらに高まってきたのである。
乙のようにして,現在では
とは,乙れからの状況が注目されるといったと乙
ろであろう。
以上のように,戦後の商庖の立地は,市街地内
の商庖街の機能分化と共に進展してきたのではあ
るが,現在に至って,
、姫路の北部副都心'の商
庖街の地位向上,および駅南地区の開発によって,
市街地内の商業地区は岐路に立たされているとい
えるのではなかろうか。
2-3 官公庁の立地
戦後の姫路市における官公庁のほとんどは,旧
軍用地に立地した。しかし近年,旧軍用地から駅
南地区へ,ほとんどの官公庁が移転するに至って
いる o 図 1
0は1
9
8
4
年における官公庁の立地分布を
。デパート
5年に市
表したものである。これによると,昭和 5
‘コ東洋紡績地路
工場跡地
役所が安田に移転したのをはじめ,北条 l
とは,県
総合庁舎,裁判所,税務署,法務局,公共職業安
図 9 姫路の北部副都心の銀行・デ‘パートの立地
定所などが移転を済ませ, そこに官公衛地区を形
分布 (
1
9
8
3
年)
Fhu
つ白
成している o そして,旧軍用地内には,現在では,
街地が形成あるいは形成されつつあり,その結果
として,市街地の拡大化が進行しているといえる
のである。
(
2
)
戦後,市街地内の都市機能は分化して立地し
たが,近年の市街地拡大化に伴って,それまでの
都市機能立地地図は,大きく改められることにな
った。つまり,野里付近の‘姫路の北部副都心'
には,商業地区が形成され,また姫路駅南地区に
•
は,官公衛地区の形成あるいは,商業地区(銀行
などの金融業も含めて)が形成されつつあり,そ
れに伴って,旧来の市街地内においても,都市機
能の立地に変動がみられるのである。
(
3
)
戦後の姫路市は,市街地内の大手前通りを中
心とした姫路駅付近の小地域に、都心'的地区が
形成され,一つの核を成していたが,近年の‘姫
路の北部副都心'の出現は,駅前付近の繁栄には
マイナス要因となっており,また姫路駅南地区の
開発によって,姫路市街地内のー核中心型の構造
は,崩壊しつつあるように思われる。
町章結論ー姫路市にお目る都市機能の立地変動
の要因と市街地の形成一
本論で述べてきた点を,都市機能の立地変動と
その要因と市街地形成の観点から整理し,かっ考
図1
0 1984
年の官公庁の立地分布
察を加えてみたい。
1
. 都市機能の立地変動
中央保健所,消防署など 4つの官公庁が残るだけ
姫路市街地の発展には,第 2次世界大戦の戦災
となり,駅南への官公庁移転後の跡地は,県立歴
史博物館,市立美術館,公園などが作られ,市街
を受けた乙とが大きく影響している。つまり,大
地の活性化カ三図られているのである。
戦前の城下町時代の影響を受けた市街地,大戦後
の近代化が進んだ市街地の 2つに分けられるので
以上述べてきたように,旧軍用地に立地した官
公庁は,昭和5
5
年以降にはそのほとんどが駅南地
ある。
1- 1 第 2次世界大戦前の都市機能の立地
区に移転したのであるが, その要因としては,姫
変動
路市街地の拡大・密集化による再開発の一環(駅
姫路市は,江戸幕政時代の城下町である。従っ
南地区開発も含めて)として行われたという乙と
て,明治以降においても,その影響を強く受ける
が考えられる。
2-4 現在における都市機能の立地
ことになる。すなわち,明治初期には,城下町時
代からの中心街路であった西国街道筋が繁栄し,
以上の考察から,現在における都市機能の立地
に関し,次のような乙とが明らかになった。
それを中心として,都市機能が立地し,市街地が
(
1
)
姫路市は,戦後,大手前通りを中心として,
6
年,当
形成されていくのである。しかし明治3
鞠百からの市街地域の土台の上に市街地が形成さ
時としては画期的な規模の御幸通りの出現に伴い,
れていったが,近年になって市街地の拡大化が進
御幸通りは,市街地内の中心街路としての地位を
行している。すなわち,姫路市街地に隣接する野
築き,その一方で,西国街道筋は表えをみせる乙
里付近に‘姫路の北部副都心'が開発され,また,
とになり, その結果,御幸通りを中心とした都市
姫路駅南地区の開発が進んだ乙とによって,新市
機能の立地が進み,市街地が形成されていく乙と
O
﹁
q
δ
なって繁栄していた。しかし明治2
1年の山陽鉄
になるのである。
1-2 第 2次世界大戦後の都市機能の立地
道開通に伴う姫路駅の設置,明治3
6
年の市内随一
変動
の広路である御幸通りの開通で,駅前付近に山陽
姫路市は,第 2次世界大戦の戦災により市街の
電鉄の姫路駅設置,姫津線(現姫新線)の開通,
大部分が破壊されたことによって,戦前の粁余曲
パスの姫路駅前を起点とした運行などのように,
折した道路網が走る都市から,近代都市への変貌
交通の焦点が出来, それによって御幸通りが中心
をみるための新しい都市計画が可能となった。そ
街路としての性格をもつようになるのである。
2-2 第 2次世界大戦後の都市機能の立地
の都市計画に基づいて建設されたのが大手前通り
である。乙の道路の出現は
変動の要因
それまでの中心街路
であった御幸通りを裏町通りへと転落させること
第 2次世界大戦をはさんで,姫路市街地の都市
になった。そして,市街地ーの規模を誇る大手前
機能の立地は大きく変動したが, 乙の原因も戦前
通りが中心街路としての性格を帯びるようになり,
と同じく中心街路の移動によって生じており,ま
それを中心として市街地が形成されていくのであ
たその中心街路の移動の要因は,交通の焦点の移
る。しかし近年になって都市機能の立地は新た
動に伴ったものである。
第 2次世界大戦後,都市計画に基づいて大手前
な変動をみせる乙とになる。
通りが建設されたが, それによって,戦前御幸通
姫路市は,乙れまで述べてきたように,姫路駅
北部の城南地区に市街地が形成されその市街化
りに面していた国鉄および山陽電鉄の姫路駅が,
の特徴として,その当時としては画期的といえる
大手前通りに面するように移動し,またパスもこ
道路の建設に伴って,市街地が形成されるという
の駅前付近に発着場を移転した。そのため,大手
歩みをみせてきた。すなわち,姫路市は,城南地
前通り南端は,一大交通ターミナルを形成するに
区という範囲内で,
至り,大手前通りが中心街路としての性格をもつ
、都心'的地区が移動し,そ
ようになるのである。
れを中心として,都市機能が立地し,市街地が形
そして近年,前述のように、姫路の北部副都心グ
成されたのであって,市街地の核心は, この地区
内に見い出せるのである。と乙ろが,近年の、姫
路の北部副都心'の出現と
および駅南地区の開発により,都市機能の立地変
開発途上にある姫路
動がみられるが, この要因は,明治以降の姫路市
駅南地区の存在は,市街地の拡大と共に,城南地
街地の都市機能の立地変動の要因としての交通条
区以外の範囲で新しい核が誕生,あるいは誕生し
件だけが関わっているのではなく,市街地の密集
つつあるという現象を生み, その結果として,市
化に伴う市街地の再開発の一環として建設された
街地内の中心街路を中心としたー核中心の構造か
ことに端を発し,それによる交通条件の整備から
ら多核化構造へと変り,それに伴って都市機能の
きているのである。
3
. 姫路市街地の地域構造
立地も変わる乙とになるのである。ただ, このよ
中
うに多核化傾向はみせているものの, CBD (
乙れまでに,明治以降の都市機能の立地とその
心業務地区)は,戦後以来,常に中心街路として
変動およびその要因を考察してきたが,乙こでは,
の性格をもっ大手前通りを中心とした姫路駅付近
それらを基にして市街地の地域構造を明らかにし
にある。
ていく。
3-1 第 2次世界大戦前の市街地の地域構
2
. 都市機能の立地変動の要因
2-1 第 2次世界大戦前の都市機能の立地
、
F←
-
1
旦
第 2次世界大戦前の市街地の地域構造は, その
変動の要因
戦前における都市機能の立地変動は中心街路の
守s
J
,
C、グ的地区が移動したために,商業地区内の
移動によって生ずるのであるが,中心街路が移動
移動はみられるが, その他の構造はほぼ同じよう
した要因の最も大きなものは交通要因であろう O
な傾向を示す。
明治初期における中心街路である西国街道筋は,
第 1I
C商業地区は,姫路城南側の城南地区に形
江戸幕政時代の宿場町となっていたと乙ろであり,
成されている。ただ,商業地区内部では,御幸通
乙の当時においても市内外各地への交通の焦点と
り開通後, それまでの西国街道筋から御幸通りに
A
hu
﹁
A斗
中心が移動しそれにつれて,金融業・小売業商
すなわち,戦前から変わらず商業地区を形成し
庖も移転しているのである。
ている城南地区,戦後の工場の臨海部移転ζ
i伴い,
第 2,と工業地区は,市街地周辺部の姫路駅南側
城東・土山付近にわずかの工場しか残っていない
と城東付近に形成されている。
工業地区,城南地区を取り囲むように,野里・城
第 3,
ζ,住宅地区は,商業地区を取り囲むよう
東・北条口・船場などに形成されている住宅地区;
i移転した官公衛・文教地区と
中曲輪の旧軍用地ζ
に立地している。
第 4,乙官公衛地区であるが, 乙の時代にはまだ
いうように,都市機能が分化しながら,大戦後に
地区と呼べるほどのものは存在せず,市街地中央
おいては,新しい地域構造が作られていったので
ある。そして近年,官公庁は姫路駅南地区にほと
部付近の商業地区内に分散して立地している。
んどが移転し,そこに官公衛地区,ま九
その他として戦前最も重要であるのは,軍事地
、姫路
医の形成である。乙れは姫路城の内・中曲輪内に
の北部副都心'では新しく商業地区を形成し,地
立地したのである。
域構造も日々刻々として変化しているという状況
なのである。
3-2 第 2次世界大戦後の市街地の地域構
、
'
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.
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(上越教育大学大学院院生)
第 2次世界大戦後,市街地の地域構造は変貌を
(上越教育大学社会系)
とげることになる。
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注および参考文献
1)本研究では各種都市機能の中で,経済的都市機能に重点を置く
参考となった。藤岡ひろ子 神戸の中心市街地,大明堂,
2)姫路市役所姫路市統計要覧
O
なお,下記の著書は,本研究において大いに
1983, 247P
1983
3)稲見悦治-城下町の戦災復興と地域構造の変貌一姫路城下町の場合 ,人文地理16-3, 1964,p.226
4
)明治 4年比姫路県が設置され,同年飾磨県と改称された。姫路は,姫路県庁,飾磨県庁の所在地であった。
5)姫路城は,明治 2年兵部省に管理され,明治 5年の兵部省廃止後 陸軍省が置かれると共に,そ乙で管理され
る乙とになった。橋本政治:姫路城史,下巻,
1952, p.342
6)大阪鎮台第1
0
連隊が本城に置かれる際,それまで本城にあった飾磨県庁は.薬師山下l
乙移った。
糸田恒雄城下町の解体と姫路市街地の地域構造,内地留学生研究報告書,姫路市教育委員会, 1963,p.146
7)橋本政治:姫路城史,下巻,
1952,p.344
8)糸田恒雄:城下町の解体と姫路市街地の地域構造,内地留学生研究報告書,姫路市教育委員会,
1963,P.147
9)稲見悦治:前掲書(
3
),p.229
1
0
) 姫路市役所:姫路市史,第 l巻,地理篇,
1950,p.160
10橋本政治:前掲書(7), pp.
408- 409
1
2
)橋本政治:前掲書(7), pp.
41
2- 413
1
3
)市街地内では,土山方面,城東付近ζ
l工場の立地が見られるぐらいである。
1
4
)姫路市役所:前掲書(
2
),pp.8-10
1
5
)稲見悦治:前掲書(
3
),p.228
1
6
)矢田正夫:姫路名勝誌,
1899,pp.4-11
p
.354- 355
1
7
)姫路市役所:前掲書問)1,p
1
8
)平田幾治: 1万分の 1,姫路市全図,
1930より作製
1
ω 姫路毎日新聞舗: 1万 2干分の 1,最新姫路市全図,
1937より作製
2
0
)姫路市役所:前掲書叩)1,p.355
2
1
)糸田恒雄:前掲書(
8
),p.147
2
2
)稲見悦治:前掲書(
3
),p.229
2
3
)桑島勝雄:都市の機能立地,大明堂,
1984,p.65
2
4
)姫路毎日新聞舗:前掲書(19
)より作製
2
5
)糸田恒雄:前掲書(
8
),p.149,図 3の 2より作製
,) p
p
.234-235
2
6
)稲見悦治・前掲書(
3
2
7
)稲見悦治:前掲書(
3
),p.235
2
8
)糸田恒雄:前掲書(
8
),p.151,図 4より作製
2
9
)稲見悦治:前掲書(
3
),p
p
.233- 234
2
),p.9
3
0
)姫路市役所:前掲書(
31)昭和5
0
年の東洋紡績姫路工場の閉鎖後,昭和53
年には,花北モール開発株式会社が発足し開発が進められる
ことになった。
3
2
)県立歴史博物館,市立美術館の建設は,それまでは姫路城以外に見るべきものがほとんどないという現状から,
観光開発を進めるという意味も乙められている。
3
3
)糸田恒雄:前掲書(
8
),p.156
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