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沖電こおける近代化の希求糸︸v
論説 論 説 沖電 こvおける近代化の希求 糸︸ l太田朝敷の論説を中心として一 置県後の社会変貌 旧慣温存方針の確定 同化による近代化 対等性の言説としての日琉同母論 結びにかえて 石 田 正 治 64 (1 ●21) 21 旧慣温存と近代化 理論的位置付け 五四三ニー序 論説 序 クサメ ﹁沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せる事であります。極端にいへぼ、嘘する事ま で他府県の通りにすると云ふ事であります﹂。これは、太田朝食が明治三三年︵︼九〇〇年︶におこなった﹁女子教 エ ちょうふ 育と沖縄県﹂と題する講演の一節である。太田は沖縄の代表的言論人であり、明治二六年︵一八九三年︶に﹃琉球新 報﹄の創設に参加して以来、大正八年︵一九一九年︶から昭和四年︵一九二九年︶まで﹃新報﹄を離れた以外は、昭 和=二年︵一九三八年︶の死にいたるまでこの新聞を主要舞台として健筆をふるった。この一節は、﹁クサメ論﹂と して喧伝され、同化論者としての太田像を決定的にしたものだが、講演の眼目はこの部分にあったのではなかった。 太田の主張の要点は、この表現の直後にあったi﹁︵沖縄は︶全国の百分の一位しかない地方でありますから、其 れ位な勢力では、到底従来の風習を維持して行くことは出来ない。維持が出来ない者とせば、我から進で同化するか、 又は自然の勢ひに任すか、取るべき道は此ニツであります。即ち積極にやるか消極にやるかのニツであります。若し 消極的に同化させやうとすれば、優勝劣敗の法則に支配されて、幾多の不利を感じなけれぼならぬやうになります。 大木の下にある小木が成長しないと同様な理屈でありますから、斯う云ふ場合には、寧ろ人為でも︵小木を︶引延ば して大木に圧倒されぬやうに致さなければなるまいと思ひます﹂︵括弧書きは筆者︶。比屋根照夫はこの発言について、 ﹁没主体的、従属的な形で他者へと模倣・同化せよ﹂というものではなく、﹁同化そのものを﹃我より進んで﹄主体的 な意志・決断において選択するのか、あるいは置県以後の政治過程で展開されたように消極的な形で﹃自然の趨勢﹄ のま﹀に沖縄が押し流されていくのか﹂という問題提起であると指摘しているが、積極的な同化を太田がやむをえざ ハヨ る方策として提示したことはあきらかである。 64 (1 。22) 22 沖縄における近代化の希求(石田) ﹁全国の百分の一位しかない地方﹂というだけでは、なぜ太田が﹁従来の風習を維持﹂できないと主張したのか、 かならずしも判然としないが、彼が、この講演の半年ほどのちの明治三四年︵一九〇一年︶五月に﹃琉球新報﹄に掲 載した論説﹁新沖縄の建設﹂は、それをより明確にしている。太田はつぎのように述べた ﹁動もすれば県の内 外に差別の観念を惹起せらる﹀ものは人種民族の異同にあらず民知の高低にあらず貧富の差別にあらず要するに社交 上に改良を加ふるときは他府県と一致調和せしむること実に易々たるのみ﹂。言語、風俗、社会慣習の他府県との相 の状態の異なると言語が比較的甚だしき相違なると風俗に幾分か支那的の形跡あるの二一二の原因に過ぎず此等二一二の る 違は、沖縄にたいする蔑視感をつくりだすものだというのである。この認識の背後に、最初の県費留学生として学習 院に派遣され、のちに慶応義塾に学び、さらに﹃琉球新報﹄の通信員として三年間を東京にすごした太田の体験があ ると考えるのは、唐突ではあるまい。太田が、﹁今実際に於て本県人民の嗜好を視察するに実に単純にして少しも趣 味の掬すべきものなし﹂と述べ、さらに﹁置県以来は上下を通して嗜好野鄙となり随て人間の品位までも下落したる の有様に陥入り本県の楽事と云ひ人民の嗜好と云ひ別に本県特種のものとてはこれなく高尚になればなるほど内地流 になり自然の結果として全国と一致するに至るは必然の勢ひ﹂であると断言するのをみれば、この推測はより信懸性 を高めるように思われる。廃藩置県以後の沖縄は、﹁首里の上流社会﹂が保持していた﹁随分高尚の嗜好﹂をうしな ら い、すでに誇るべき固有の文化を喪失していて﹁内地流﹂の文化に対抗することはできないと太田の眼には映ってい た。﹁娯楽的の事物は大に輸入して此れを高尚の域に導くは社会改良上野に有要の事項なりとす﹂という主張がなさ れる所以である。内地の文化はいまや疑問の余地のない上位文化︵三σqず。三ε﹁①︶であり、それをすみやかに受容す ることが、沖縄が他府県から蔑視されないための主要な手段だったのである。 沖縄に帝国のなかのしかるべき場所をえさせるためには、同化によって自己の文化を放棄することも辞さないとい 64 (1 ●23) 23 論説 う太田の主張は、明治三六年︵︸九〇三年︶に太田が﹃琉球新報﹄に掲載した論説、﹁琉球新報は何事を為したる乎﹂ においては、さらに切羽つまった調子をおびている。一﹁我輩の眼中には﹃如何にせば沖縄県をして他府県と同等 の勢力を有せしむべき乎﹄と云ふの出立の問題もなし若し片髪を結び大幕を纏ふて以て全国民と比肩するを得ば我輩 ア は強て散髪も勧めざるなり四書五経の知識を以て全国民と比肩するを得ば我輩は敢て新教育をも奨励せざるなり﹂。 同化は、﹁他府県と同等の勢力を﹂得て﹁全国民と比肩する﹂ための手段であった。そのような手段をとることは自 らを既めることにはならない。﹁読者我輩を以て小志となす由れ偏狭となす勿れ﹂。沖縄につきつけられた現実は、否 応のない同化を必要とした。太田はいう、﹁読者若し旅程に上り同行者に後れなば之に追付けんとするの外他を顧み るの暇あらんや﹂。太田にとっては、他府県は資本主義体制の導入とそのための社会的文化的改革へむかう旅程にお いて先行する﹁同行者﹂であった。﹁同行者﹂においつくことが当面の課題であって、他府県がおこなっていること の是非は問題ではなかった。同化とは﹁有形無形を問はず將善悪良否を論ぜず一から十まで他府県に類似せる事﹂で あり、そうする外に道はないと太田は主張したのである。 太田のこのような主張の背後に、﹁内地流﹂の文化を上位文化とする認識と同時に、置県後の沖縄社会の頽落ぶり にたいする苛立ちと悲しみをみることは、むしろ容易であろう。この苛立ちと悲しみは、薩摩侵攻以前の琉球王国、 すなわち古琉球にたいする伊波普猷の関心と共鳴した。太田は、明治三六年︵⋮九〇三年﹀一月=二日の﹃琉球新 い は ふゆう 報﹄に掲載された﹁海の沖縄人﹂という伊波の文章を病床で読んで﹁忽ち冷水をあびる様な心地がしたが又忽ちにし て全身の熱が頭に集まった様になり一時は眩冷して枕にうつ伏して居た﹂と述べて、﹁吾々はさしも勇敢な祖先の血 を分けたものである然も境遇は斯くも意気地なき種族に変化せしめたかと思へば境遇の力が恐ろしくもなるし又区々 たる人為の抵抗に打勝つことが出来ず今日の様に他動的の人民になって仕舞つたかと思へば恥ずかしくもなる﹂とい 64 (1 024) 24 沖縄における近代化の希求(石田) り う感想を記している。眩量をおこしたとまで太田に書かせた伊波の文章は、古琉球における統一王権の誕生とそれが 築いた海上王国を記述したものであった。伊波は、﹁琉球の南洋貿易は十五世紀に至りて著しく発展﹂しつつあった と指摘し、さらに﹁琉球船は本国の位置の偏せるにも拘らず遥にスマトラの東岸までも航行せり﹂という﹁リース博 士の記事﹂を紹介して、﹁何等の快事ぞ!﹂と快哉を叫んだ。伊波は、この海上王国のありさまを次のように描いて みせる一﹁読者試みにこの内外両面よりの記録によりて徐に父祖の沖縄を推測せんか、 ︵那覇港内に浮かぶ︶御物 城下に邊羅、ボルネオ、フイリツピンの商船碇漏して那覇市中に顧客の往来繁きを忌む。更に眼を転じて南の方マラ ッカ海峡の辺を見ずや、数隻の︵琉球の︶ヤンバラー船が金、銀、絹糸、磁器、胡椒、香料、象牙、檀香等の物品を け 荷積みしつ︾今しも本国に向って帆かけんとするの光景を絡む﹂︵括弧書きは筆者︶。 古琉球の海上王国についての伊波の記述はその壮麗な輝きを活写して間然しないがハその描写が雄弁であるだけに、 文末における、薩摩支配下に身をかがめた王国への言及の苦さは際立たざるをえない一﹁ここに至てさしも盛な りし尚氏の海上王国は終に変じて島津氏の宝庫となり嘗って南洋の津々浦々を遍歴せし波濤の健児を遂にいつしか石 原小石原の陸生動物と化し去りぬ﹂。伊波がこめた苦渋は、また、太田が共有したものであった。その苦々しい思い は、太田に沖縄の社会的文化的改革を叫ばせつづけたバネであった。太田はこの感想の最後に、﹁今こそは奮励一番 沖縄種族の本色を発揮する秋だ此大任に当る者誰ぞと思へば又何となく爽快になった﹂とのべ、さらに﹁我輩は君 ︵伊波︶がますく県民を鼓吹せんことを切望する﹂と伊波にたいする共感をあきらかにしたのである︵括弧書は筆 ほ 者︶。 伊波にたいする太田の共感は、薩摩侵攻以前の沖縄人の活躍にたいする誇りであり、それに比較したときの現状に たいする悲哀であったが、それだけではなかった。伊波は東京帝国大学で言語学をまなび、古琉球の歌謡である﹁お 64 (1 ●25) 25 もろ﹂の研究をはじめていた。彼は卒業後、明治三九年︵一九〇六年︶七月に帰郷し、一〇月から翌年一月にかけて 郷土史にかんする連続講演を開始した。太田が、﹁伊波文学士の琉球史講演は本県の発達に貢献すること実に大なる ものありと信ずる﹂という記事を﹃琉球新報﹄にのせて、伊波の講演にたいする期待を表明したのは、一連の講演が おこなわれる前日であった。太田はそのなかでつぎのようにいう一﹁元来本県人は自家の人種的価値を自覚しな いから此小島に生れたものと大国に生れたるものとは天賦の価値に於て高下があるものと誤認して居る⋮⋮近来多く の学者の研究に依って琉球民族が大和民族と同一根幹たることが殆んど決定されて居る諸君が之を自覚するの時は即 ち吾々が大和民族として大手を振って世界を闊歩するの時期である之を自覚するのは自家の歴史を知るにありとすれ ば琉球史の研究が尤も大切なること勿論である﹂。すでに明治二八年︵一八九四年︶には言語学者のチェンバレン レ ︵bd鋤ω障国⇔=07鋤ヨσO﹃一国一つ︶がイギリスで二分同祖論を発表しており、太田は伊波がチェンバレンの説を支持している と知っていたのであろう。太田は、歴史研究によって日琉同祖という認識が一般化し、それが帝国臣民としてのあら たな誇りを沖縄人にあたえることを期待したのである。 伊波の講演の詳細についてはいまだに資料を得ていないが、伊波はこの年、すなわち明治三九年︵一九〇六年︶の 一二月に﹁沖縄人の祖先に就て﹂と題する論考を五回にわけて﹃琉球新報﹄に寄稿しているので、時間的にみても、 この論考は講演の内容を集約的に反映していると考えて間違いあるまい。このなかで、伊波はチェンバレンの説に依 拠しながら、言語・文学・宗教上からみて﹁沖縄人の祖先が九州にみた﹂と主張して、つぎのような結論をしめした まはないと思ふ幸にして余が研究の結果は沖縄人が日本人たる資格はアイヌや生蛮が日本人たる資格と自ら別物であ 実が多く上ったら余は此の議論を棄てるに躊躇するものではない余は事実であったら食肉人種の子孫といはれてもか ⋮﹁以上は吾が沖縄人種論である至って散漫ではあるがとにかく事実を根拠とした人種論であるモシ他日反対の事 論説 64 (1 026) 26 沖縄における近代化の希求(石田) ることを教えた﹂。﹁アイヌや生禅﹂があらたな被征服民であるのにたいして、沖縄人は、本来、ヤマト人と同一集団 に属していた人間だというのである。﹁シカシニ千年の間この南島に彷復したことであるからいくらか変種になって みるに相違ない﹂。そして、﹁今や吾等は二千年前に手を別つた兄弟と運甘して同一の政治の下に生活するやうになっ た﹂のだから、歴史の経過によってヤマト人と沖縄人のあいだに生じた差異をどうするかが問題になる。伊波が考え たのは太田よりも徹底した同化論であった一﹁余は常に沖縄の言語風俗習慣等を内地のソレに同化させる外に双 方の血を混ずるといふことは国民的統一の点から見ても沖縄人の幸福の点から見ても然るべき手段と思ふ興れ二千年 といふキレメをつなぐ唯一の手段である﹂。太田の期待は充分にかなえられたのである。 め 伊波はこの﹃琉球新報﹄に寄稿した論考を、二年後の明治四二年︵一九〇九年︶二月に﹁琉球人の祖先に就いて﹂ と改題して﹃沖縄毎日新聞﹄に掲載して日豊同祖の主張をくりかえし、さらにこの年の年末にはおなじ題の文章を雑 誌﹃東亜の光﹄に掲載し、その二年後の明治四四年︵一九一一年︶三月には﹃琉球人種論﹄という書名で単行本とし め て出版し、この本の内容を再度﹁琉球人の祖先について﹂と改めて、伊波の主著となる﹃古琉球﹄のなかに収録した。 この反復の頻繁さは、伊波にとって、日琉同署を学術的にあきらかにすることよりも、むしろ同化論を一般に提示す ることが重要であったということを示唆するものではあるまいか。伊波に師事した比嘉春潮が明治四四年︵一九一一 年︶四月の日記に記した次のような感想をみるとこのような推測は的外れではないと思われる一﹁琉球人種論。読 了。日本人種であるとの結論。伊波先生の持論である。併し先生がなぜこんな論を公にせらる﹀かに就いてはわけが ある。先生の考えでは、今の琉球人は早く日本人と同化するのが幸福を得るの道である。其為めに右の様な論をする。 ⋮⋮伊波先生は勿論︵向象賢や察温などのような︶支那崇拝ではないが琉球人を文明人として恥ぢざる人種否或る特 殊な文明を造り得た又造り得る人種として種族的自尊心を持って居られる。⋮⋮それで自分でも時々琉球人は大義名 64 (1 ●27) 27 論説 分を唱ふべき境遇でない、今こそ日本人と同種と云ふて居るが、如何なる時勢の変によりて、沖縄の指導者を以て任 レ ずる人の口から支那同族論が唱へられるか知らぬと︵伊波はいう︶﹂︵括弧書きは筆者︶。かりに比嘉の観方が正しいと すれば、伊波が日置同祖論にもとづいて同化を主張したのは、日本帝国の支配下にあるという動かしようのない現実 に沖縄人が適応するためだったことになる。いかなる大義名分も、この苛酷な現実のなかで沖縄人が十全に生きてい くという現実的要請のまえには、重さをうしなうということであろう。﹁至る特殊な文明を造り得た又造り得る人種﹂ である沖縄人は、そのようにしてまでも自己を発展させるだけの価値があるというのが、伊波の﹁種族的自尊心﹂ だったのではなかろうか。 太田と伊波は当時の沖縄を代表する知識人であった。両者の愛郷の思いの烈しさは否定のしょうがない。それにも かかわらず、彼らは日本帝国への同化を唱導した。なぜか。彼らのいう同化がやむを得ざる手段であったとしても、 彼らが渋々それを主張したとは思われない。彼らが依拠した同祖論にしても、それは同化を正当化するための道具と いう意味を帯びていた。伊波も太田も、同化によって沖縄人が繁栄を享受できるという確信があればこそ、これほど までに綿密な主張をおこなったのではあるまいか。しかし第二次世界大戦にいたる後の歴史は、同化の推進によって も、沖縄が他府県と同等の地位をえるにはいたらなかったし沖縄人の﹁幸福﹂もえられなかったことを、如実にしめ している。では、太田や伊波にそのような確かな期待を、より正確にいえば幻想を、抱かせたものは何であったか。 当然のことながら、太田も伊波もこの問いに直接答えてはいない。しかし、彼らの書き残したもののなかに手がか りを見ることは可能である。太田は明治三三年︵一九〇〇年︶の論説に、﹁要するに我輩は世界文明の新思潮を此地 に輸入し国民的同化を促進して以て我沖縄の発達を助成せんとするに過ぎず﹂と記している。また、伊波は大正三年 繹齊l年置、喜捨場朝賢の﹃琉球見聞録﹄に﹁琉球処分は一種の奴隷解放也﹂と題した序文をよせてつぎのように (一 64 (1 ●28) 28 沖縄における近代化の希求(石田) 述べている一﹁︵薩摩支配下︶当時の琉球人がもし第三者の位地に立って、自分の立場を観察する事が出来たら、 彼等は廃藩置県によって他府県同様明治天皇の仁政に浴し、その上三百年間取上げられた個人の自由や権利を獲得し、 む 個人の生命や財産の安全を保証されたことを心ひそかに喜んだであらう﹂︵括弧書きは筆者︶。太田がいう﹁世界文明 の新思潮﹂が同化による近代化を意味しているのはあきらかであり、伊波の文章にみえる﹁個人の自由﹂や﹁権利﹂、 ﹁生命﹂﹁財産﹂の安全という言葉は近代化の果実であった。帝国にたいする彼らの期待をもたらしたものが、沖縄社 会の近代化への希望と密接に関係していたと考えることは可能であろう。そうであれば、さきにあげた課題は、太田 や伊波に代表される知識層にとって帝国への同化と沖縄の近代化はどのように結びついてみえたか、という形に再構 成できる。本稿では、この課題を追求する最初のこころみとして、おもに太田の論説を手がかりとして考察すること にする。 なお、本稿においても、筆者の従来の論考と同様に、原則として、北海道、本州、四国、九州とその沿岸に存在す る島喚をふくむ地域を﹁ヤマト﹂とよび、首里輝輝の支配地域および廃藩置県後の沖縄県の管轄範囲を﹁沖縄﹂とよ ぶことにする。また﹁幕藩制国家﹂という表現は江戸幕府の支配体制をさし、﹁琉球﹂という呼称は首里王府の支配 システムをさすものとする。﹁日本﹂あるいは﹁日本帝国﹂という呼称は、ヤマトと沖縄を包摂する中央集権国家に のみ適用する。また、以下の行論に散在する引用箇所において丸括弧は原文中に存在するものであり、角括弧は筆者 が補足した部分をあらわして い る 。 64 (1 ●29) 29 論説 嗣 置県後の社会変貌 太田朝敷は昭和六年︵一九三一年︶にあらわした﹃沖縄県政五十年﹄のなかで、沖縄における地方制度の沿革を回 顧して、つぎのように述べているi﹁明治十二年より二十八年に至る十七年間は﹃事勿れ主義﹄の時代で、教育 と裁判警察の外は何もかも旧慣存続であり、明治二十九年より四十年に至る十年間は、県民も漸やく時勢に目醒め、 政府もそろそろ改革に手を下したが、画一的地方制度に至る受験準備の時代といふてよからう﹂。制度面についての 変革が着手されるのは日清戦争を経た明治二八年︵一八九五年︶以降であって、それまでは﹁教育と裁判警察の外は 何もかも旧慣存続﹂であったというのである。﹁﹃事勿れ主義﹄の時代﹂といい﹁何もかも旧慣存続﹂といい、いずれ もこの日清戦争以前の時期の政策にたいする太田の不満を感じさせるに十分な強勢をおびているが、そのためにこの 一文は、この時期沖縄の社会全体がなんらの変化もなしに冬眠状態におかれていたかのような印象をあたえる。この 時期は﹁旧慣温存期﹂と呼ばれることが現在では一般的であるので、この印象は一層つよい。しかし、あらたに登場 した統治権力が旧体制をそのまま維持するはずもない。一般的にいって、あらたな権力は、みずからの正統性をしめ して被支配者の支持をえる必要がある。無用な混乱は避けねばならないとしても、支持をえるための最小限の変革は おこなわざるをえない。旧慣温存期でも﹁教育と裁判警察﹂における変革はおこなわれたというのであれば、帝国政 府の沖縄統治も例外的ではあるまい。政府は、統治の最初期において、どのように沖縄の社会を変えたのであろうか。 その変化の態様は、その後の沖縄社会の進路をなんらかの形で規定し、太田の言論活動に影響をあたえたにちがいな い。 しかし、置県直後から日清戦争にいたる時期の社会変化を、当時の文献資料で追うのは困難である。最初の新聞で 64 (1 ・30) 30 沖縄における近代化の希求(石田) ある﹃琉球新報﹄が創刊されたのは明治二六年︵一八九三年︶になってからであり、しかも明治二〇年代の新聞資料 は戦火で散逸している。のちの時代に書かれた資料による以外にはないが、太田の﹃県政五十年﹄は、おそらくは当 時の政策にたいする彼の消極的な評価を反映して、この時期については、彼の個人的な回顧や価値判断をまじえたご く簡単な記述しかなされていない。管見のかぎりでは、真境名憂事の﹃沖縄現代史﹄がおそらくは最良の資料とおも まじき なあんこう われる。﹃沖縄現代史﹄は、真境名が大正一二年︵一九二一二年︶に沖縄県の委嘱によって完成したもので、当時は参 照しえた豊富な資料をもちいて綿密に社会変化を記述しており、包括的なてがかりを提供するものと考えられる。真 境名は、すでに日清戦争以前におこなわれた社会改革として、まず警察制度と医療公衆衛生面での施策を記述してい る。 明治五年︵一八七二年目に明治政府が琉球王国を琉球藩として支配体制下にくみこんで四年後、政府は沖縄に内務 省出張所をおいて警視庁から警部巡査一五名を派遣していたが、これが廃藩置県直後の明治一二年︵一八七九年︶に 沖縄警察本署に改編され、さらに那覇・首里に警察署がおかれ、各警察署のもとに宮古・八重山にいたるまで分署が 配置された。処分直後の時期、旧藩役人は明治国家にたいして反抗的な態度をつづけており、明治=一年目一八七九 ハヨ 年︶春には、彼らがことごとく政府の禁令を無視してみずからの手に﹁貢賦銭穀﹂を徴収した。周知のように、藩政 の段階までなんらの変更なく維持された首里王府の支配体制は、首里那覇以外の地域を行政単位としての四一の間切 に分割し、さらに各間切の内部に五から二〇以上の村をおいていた。間切は惣地頭の、村は脇地頭の支配下にあって、 る 間切には間切番所、村には村屋がおかれ、そこに、王府にたいする貢納を徴収し首里那覇に集住している地頭層の権 力を代行するために、地頭代以下の農民出身の村役人が配置されて農民の支配・管理にあたっていたのである。旧藩 役人は、みずからの支配力がいまだに実効性をもつことを誇示したことになる。那覇の警察は、旧藩役人のこのよう 64 (1 ・31) 31 論説 な行為を﹁国人を煽動し官命を品格する﹂ものとして、旧高官はじめ多数の旧官吏をつぎつぎに那覇砂糖座に拘引し て苛烈な﹁拷糾﹂をおこなった。痛苦による彼らの﹁放箕輪実﹂は﹁二三町﹂に響き、﹁之を聞くや人皆疾首疹胸し ら 戦傑墨摺せざるなし﹂と喜舎場歌選は記録している。さらに、この数カ月後の七月には、宮古島で、旧支配者層を中 核とする組織的抵抗運動が、サンシー事件とよばれる対ヤマト協力者殺害事件に発展し、警察の一隊が那覇から鎮圧 に出動し薦㌍社会制度の急変のなかで治安を維持するためだけでなく、依然として民衆にたいする実質的な強制力を もっていた王府の旧役人層を効果的に統御するためにも、全域にわたる警察力の展開は急を要したのであろう。警察 組織は、日清戦争にいたるまで、さらに頻繁に廃置分合をくりかえしながら拡充されていくのであり、政府が警察力 の有効性を確保するためにいかに腐心していたかを示唆している。 この警察力は、治安維持のための強制力としてのみ機能したのではない。サンシー事件の鎮圧を現地で指揮した二 等警視園田安賢は、その報告書のなかで、捜査が進行しつつあった八月中旬に﹁流行病﹂が発生して島民のあいだに 拡がり、一〇日ほどのあいだに﹁死亡せし者幾拾人か或は百人以上に到りし哉相分かり不況﹂という事態になったと 述べているが、この事態を救ったのは園田一行が島民にあたえた薬であり、教授した﹁予防法及び消毒法等﹂の衛生 知識であった。警察の行為は島民にたいする宣撫工作の一環だったのであろうが、それは民衆にはじめて医薬品らし い医薬品をあたえ衛生知識をさずけて島民の信頼をすくなからずかちえたのである。これ以後、島民は態度を一変さ マ せて﹁那覇辺同様機器者日に多き﹂にいたったと園田は述べている。警察は、新秩序の圧倒的な強制力として立ち現 れると同時に、民衆の日常生活を保護するあらたな権力の一部分としての姿をしめしたのである。帝国政府の権力が このようなかたちで発揮されたのは、宮古島だけに限られたものではなかったし、この時期に限られたものでもな かった。政府が沖縄に那覇医局を設置したのはサンシー事件がおこったのと同時期であり、那覇のあらたな医療機関 64 (1 .32) 32 沖縄における近代化の希求(石田) にはすでに民衆が頻繁に訪れていた。医療施設はその後地域的にも拡充をつづけ、医者の養成も急速にすすめられた。 このように医療制度が急速に整備された直接的な理由は、おそらく、琉球処分直後の明治一二年︵一八七九年︶初 夏に発生したコレラ禍であろう。真境名は、﹁本県は素と交通不便なりしを以て、他府県より病毒を輸入せしこと殆 どなかりしも、置県下に至り、漸く交通の頻繁なるに従ひ、諸種の病毒を齎し来たれり﹂と指摘している。沖縄には マラリア、フィラリア等の原虫類や寄生虫による風土病はあったが、病原菌による疫病は稀であった。それだけに、 疫病を予防するための衛生観念は比較的希薄だったのであろう。しかし、処分以降は沖縄も病原菌の浸透をうけるこ とになり、それがこの時のコレラの蔓延となって表面化したのである。五月、六月の﹁炎暑の候﹂に名護に発生した コレラは﹁夫より各間切を襲ひ﹂、七月半日に那覇周辺におよぶと﹁忽ち熾烈の勢を以て四周に蔓延﹂し、発生か ら二三〇日以上にわたって猛威をふるった。真境名は惨禍の規模を、﹁患者一万千二百六人にして、死亡六千四百二 十二人を算し、防疫費六千八十六円を要せりといふ﹂と記している。被害の拡大をもたらした原因について、真境名 は﹁検疫防禦等不十分を極め﹂たという以外にも、﹁新制度を喜ばざりし﹂民衆が﹁病者を隠匿﹂したという事情も あったと述べている。彼は﹁翌十三年より諸種の衛生的施設﹂が講ぜられたと述べて、﹁屠獣場及食料品の販売規定﹂ の制定、﹁飲料水販売営業者﹂の取締り、﹁墓地の設定﹂、﹁海港検疫の励行﹂、﹁避病院の設立﹂などをあげているが、 県庁はこの他にも、明治=二年︵一八八○年︶、那覇に辻便所を設置すると同時にこの地における養豚・畜犬を禁止 し、さらに、﹁道路掃除下水疎通心得﹂をさだめた。養豚・畜犬の禁止については民衆の苦情によって明治一六年︵一 八八三年︶に撤回し辻便所も﹁当時の民度と習慣に適合せざりし為﹂明治一九年︵一八八六年︶に廃止したが、同時 にあらたに養豚規則をさだめた。とくに﹁道路掃除下水疎通心得﹂については、明治一五年︵一八八二年︶、警官を 動員して各戸毎に検査をおこなってその徹底をはかり、さらにこれを遵守しない者にたいして違警罪を適用するとい 64 (1 ●33) 33 論説 う強硬な政策を実施した。県の施策は、明治一九年目一八八六年︶にふたたびコレラが発生するのを未然に防ぐこと り はできなかったが、流行は一一四日間でおわり、患者数一、五八九名、死者一、〇三四名、防疫費二、五五〇余円と、 前回ほどの惨禍にはいたらなかった。おそらく、種々の公衆衛生面での指導がおこなわれる際にも、警察は有効な強 制力として陰に陽に機能していたのであろう。 このような権力のあり方は、あきらかに王府時代のそれとは異なっていた。農村では、一八世紀末以来、正史﹃球 陽﹄によっても、たびかさなる﹁疫痛磯謹﹂と収奪によって農村が﹁積年困弊﹂し農民は﹁苦疲﹂して﹁餓死﹂ ﹁失 命﹂する者が跡を絶たないという状況が記述されるようになっていたにもかかわらず、王府の関心は﹁督理﹂を厳し くして諸賦を完納させることに集中していた。この異質性は、王府権力を崩壊させた帝国権力が民衆を獲得するうえ む で、重要な意味をもったのではあるまいか。フーコー︵ζ一〇げ①一 男○¢O鋤=一樽︶はつぎのように指摘している一﹁プロ レタリアートにあたえられた生活条件、とくに一九世紀前半のそれは、その身体と性にかんする︹支配権力の︺関心 はなかったということを示している。そのような人々の再生産はいずれにしてもひとりでに片がつく問題であり、彼 らが生きるか死ぬかはたいした重要性をもたなかったからである。プロレタリアートが︹労働能力だけでなく︺身体 と性行動︵ω①×舞一一畠︶をも持っていることを認められるには、社会問題︵。§霞。什︶︵とくに、都市空間にかかわる問 題、すなわち、雑居、密集、環境汚染、一八三二年のコレラの蔓延のような疫病、あるいはまた売春や性病︶が必要 であった﹂。西欧では労働力の都市集中がすでに一八世紀にはじまっていて、都市下層階級は苛酷な労働条件と劣悪 お な生活環境を余儀なくされていた。これらの貧民の道徳的頽廃とそれにともなう性病の蔓延、さらには疫病の発生は、 あらたな近代国家の発展にたいする深刻な障害となった。フーコーがいうように、そうなってはじめて、民衆の道徳 的・身体的健全さの維持獲得は重要な政策目的となったのである。 64 (1 ●34) 34 沖縄における近代化の希求(石田) たとえばイギリスでは、一八三〇年代初めに救貧法︵勺oo﹃ピ鋤薯︶が改正されたことをきっかけとして、民衆のお かれた状況にたいする関心が急速にたかまり、そのなかで一八四二年には﹁大英帝国の労働階層の衛生状態にかんす る報告書﹂︵菊80﹃白房。匹Φω曽冨﹃賓8民三80h含量90霞一図Oob旨旨80h9Φ碧じd﹁冨ぎ︶が発表された。民 医学的公衆衛生的状態にかんする調査は、この後もつづけられ、いくつもの報告書がだされた。これらの調査にもと づいて、一八四四年、一八六六年、一八七五年には、地域的な給水施設と下水網の設置・管理にかんする公衆衛生法 ︵℃=げ一一〇︼田Φ蝉一什ゴ>Oけω︶が公布され、同時に、不法行為の取締りから死体の埋葬法にいたる一群の法律が制定された。 レ オズボーン︵↓﹃oヨ9。ωOωび。ヨ①︶は、一八世紀には﹁公共﹂︵窪σ一一。︶という言葉自体がほとんど使われなかったと指 摘したうえで、一九世紀のイギリスにとって民衆の健康状態は、﹁それが特別の専門分野の関心事にとどまらず、政 治と不可分であったという意味で、公共の健康状態︵旨ミ呼N帖ら ゴ①倉Ω一什げ︶﹂だったと述べている︵強調は原文のまま︶。つ ヘ ヘ へ まり、﹁病気は、財政、とくに救貧法の運営にかんする財政に影響するという意味で、公共問題︵陰ぴ一一〇圃ωω二Φ︶だっ たが、また、病気と不潔にみちた街区がより健康的な地域に影響するかもしれないという認識によっても、公共問題 だった﹂というのである。明治=二年︵一八八○年︶と一九年二八八六年目のコレラ禍にかんする真境名の記述を ハゆ みると、彼が依拠した公的資料には疫病の伝染経路と対策のための公的出費が記載されていたものと推測できる。そ うであれば、この明治一三年︵一八八○年︶の時期にすでに県庁は疫病を公共問題と認識していたことになる。西欧 の衝撃を契機として誕生したあらたな帝国の体制は、すでに西欧諸国の政策技術をみずからのものとしていたのであ る。 沖縄を直接統治下においた日本帝国の権力は、このように、その最初から西欧諸国と同様に公衆衛生の確立を政策 目的の一つとしていた。そのためには、医療施設の拡充やたんなる防疫対策だけではなく、﹁道路掃除下水疎通心得﹂ 64 (1 ●35) 35 論説 の公布と警察力による強制にみられるように、民衆の日常生活に介入してそれを監視し規律することが必要であった。 沖縄にたいして、下府時代とは異なったあらたな社会的規律がしめされ、それに服従することが求められたのである。 あらたな社会的規律とはいかなる性格のものであったか。フーコーは、一九世紀以後の社会を﹁規律・訓練的﹂と形 あ 容する。彼のいう﹁規律・訓練﹂とは、民衆の一人一人の行動を詳細にわたって束縛し、ある範型に合致するように 訓練し、各人の活動の一部始終を取り締まるような支配形態を指している。このような支配形態は、﹁人間の多様性 レ の秩序化を確保する﹂ことを、すなわち、封建的社会秩序の崩壊によってつくりだされた人間の多様性をあらたな秩 序のなかに埋め込むことを目的としていた。沖縄にあらたな秩序を樹立するには、警察力の充実や公衆衛生の確立に よって社会的混乱を抑制することだけでは、あきらかに不十分であった。より積極的に、あらたな秩序への民衆の支 持と自発的な参加を獲得して、この秩序をつくりあげた支配機構の影響力が﹁最大限の強烈さをともなって達し、失 ド 敗もなく隙間もつくらずに可能なかぎり遠くまで広がるように﹂するための方策が必要であった。種々の法律はその ための有効な装置であり、帝国政府は明治一〇年代からつぎつぎに西欧的な刑法、民法、商法などを制定したが、し かし、沖縄にたいしては、太田の表現を借りれば﹁何もかも旧慣存続﹂という方針にしたがって、王府統治下の土地 制度・租税制度などの法制度を温存した。旧来の法制度を維持したうえで、なおかつ、新秩序を定着させるにはどう するか。 政府が重視したのは教育制度の改変であった。真境名はつぎのようにのべている1幽置県后草創の際、未だ一 周年を出でずして諸制度尚緒に就かざりしにも拘はらず、教育の急務なることは夙に当局者に認識せられ、師範学校、 中学校、及び小学校の設立を見るに至りしなり﹂。このような教育重視の方針について、太田も、県の政策は﹁回り 教育に限り断然革新の方針を採り、︹明治︺十三年から着々敢行﹂したと指摘し、その背景を、﹁当時の一般県民は新 64 (1 ・36) 36 沖縄における近代化の希求(石田) 時代の情勢には殆ど盲目﹂であって﹁支那に対する因襲的︹帰属︺観念﹂が強かったために、﹁︹琉球︺藩政の末期 に﹂すでに政府は﹁匙を投げ﹂ており、﹁一般県民は到底済度し難きものとして、旧慣旧制の空気の中で余り神経を とがらさぬようにそっと撫付けて置いて、二代目から根本的に改造するといふのが、即ち当時の政府及び県当局の採 った教育に対する特定方針であったやうだ﹂と椰楡をまじえて推測しているが、たしかに、明治=一年︵一八七九 年置一二月に沖縄県から大蔵省に提出された上申書は、﹁言語風俗ヲシテ本州ト同一ナラシムルハ石井施政上ノ最モ れ 急務ニシテ其法喜ヨリ教育戸外ナラス﹂とのべていて、太田の推測をうらづけている。﹁四書五経の知識﹂をあたえ るものとはまったくちがつた﹁新教育﹂の急速な普及は、法制度改革を延引する一方で新秩序を確立するという難問 に た いする解答であった。 帝国政府が、﹁教育集権の実を促し、全国に画一的の教育制度を布くの必要﹂から、小学校教則と中学校教則を発 布して﹁四民平等なる国民教育の基礎﹂を築いたのは明治五年︵一八七二年︶だったが、琉球処分の翌年、明治=二 年︵一八八○年︶末には改正教育令が制定された。これによって小学校の課程は、初等三年間、中等三年間、高等二 年間とされ、それぞれの区域と設置や廃止は﹁地方長官﹂の権限にゆだねられた。さらに明治一四年︵一八八一年︶ には小学校教則綱領、中学校教則大綱、師範学校教則大綱がさだめられ、沖縄においてもこれに準拠して各種の学校 が設置された。沖縄における教育制度の普及は廃藩置県の直後からヤマト各地と並行して進められたのである。もと より、このような方針は十分な民衆的支持と財政的基盤のうえにおこなわれたのではない。明治一〇年代から二〇年 代初めにかけての児童の就学率は﹁新教育を喜ばざる父兄多かりしを以て﹂男子で一一パーセント、女子で一パーセ ント強にすぎず、学校運営のための財政の貧弱さは﹁教育の拡張も殆んど期すべからざりし﹂という状況をつくりだ していた。県当局は就学率をあげるために、﹁児童の就学数を各村に割当募集﹂させ、﹁金品を給与し、書籍文具類を 64 (1 ・37) 37 論説 貸与﹂し、学校に在籍している期間の﹁夫役若くは公費を免除﹂し、卒業後には﹁間切の吏員に採用するの資格﹂ま であたえた。このような方策も日清戦争以前には﹁充分なる効果を奏する﹂にはいたらなかったが、真境名は、﹁当 時の為政者は、総て教育万能主義を執り、之に依りて、積年の随習を打破し、以て新文明を鼓吹して、県民を誘導す るに努めた﹂ものと評価し、さらに、この﹁教育万能主義﹂はすみやかに﹁西洋の制度文物を模倣﹂することを目的 とした﹁実利主義の教育﹂を内容としていたと指摘している。 お ﹁西洋の制度文物の模倣﹂は公衆衛生や教育だけにとどまらなかった。すみやかな西洋化をめざした実利主義の教 育は民衆の積極的な支持をえるにはいたらなかったとしても、沖縄社会の外貌は急速に変わりはじめていた。明治一 七年︵一八八四年︶に着手された道路網の整備はこの変化の重要な部分であった。真境名は、一連の整備事業の最初 であった那覇首里間をむすぶ那覇街道改修について特筆して、改修記念碑の漢文の碑文を相当な長さにわたって書き 下して紹介している。その一部を転記するとi﹁那覇は沖縄の要港なり、首里は其首府なり、其間一里程、人馬 往来、百貨運搬の要路たり。⋮⋮回路の位置たるや、丘阜に就て線を立て、迂回乱悪にして、不便尤も甚だし。⋮⋮ 跣足にて、崎嘔を泊り、硝石を蹟む、鳴呼客情頑として便宜を解せずと錐も、下民の難難特に憐むべきなり。⋮⋮瞼 を夷ぐること毎間に九寸、迂を縮むること一町有半、幅を広くすること三間三尺、費を支ふ殆んど五千金、夫を雇ふ 三万九百人、石匠七千九百工、悉く官費を給し、一金を賦せず、一民を煩はさず、恩遇の異等なる生民の幸福に過ぐ ること甚だしと謂ふべきなり﹂。﹁悉く官費を給し、一金を賦せず、一民を煩はさず﹂という一節は、この工事の一九 世紀的特質を充分に表現している。それは﹁下民の銀盤﹂を救済するための政策の一環として、公的負担においてお こなわれたのであり、その意味で、公衆衛生と同様に﹁公共﹂事業であ﹂つた。しかも、道路の改修がおよぼした影響 はそれだけではなかった。真境名は、沖縄では古来車をもちいることがほとんどなかったが、これは﹁専ら道路の瞼 64 (1 ・38) 38 沖縄における近代化の希求(石田) 悪なりし﹂ためであったと推論した。首里街道の改修とそれにつづく首里与那原問の与那原街道改修は、﹁人力車及 び荷車の使用﹂を促進し、とくに、﹁明治三年東京に撃て初めて製造せられし人力車は、忽ち海南の島国に迄普く使 ハお 用せられ、明治二十六年には首里那覇間に約九百を算する﹂にいたったのである。 真境名は、このような社会の様変わりをつぎのように要約している一﹁置県後、年を逐ふて、生活の改善あり しは、顕著なる事実にて、敢て累点するを要せざるべし。顧ふに、旧藩制は⋮⋮家屋等にも制限を附せられしものに て、⋮⋮首里、那覇の外は﹃瓦葺﹄の建設を民家に許されざりしが、此等の制限︸朝廃れしょり、各所に大度高楼を 見るに至りしなり。⋮⋮食物も亦、置県後、変遷を来たし﹀が如し。薄れ交通運輸の便宜なりしと倶に、米穀其他食 品の輸入多くなりしと、甘黒作︹を維持するため︺の制限を解除せられ、漸く藷圃の減少を来し﹀より、一般に米食 の風を助長せしやの観あり。型置錠前には、農業を保護する為に、牛の屠殺を禁制し、且つ一定の季節の外、之を食 する者なかりし︹が︺⋮⋮漸次洋風の浸潤するに従ひて之を尊重し、豚肉と相並びて広く嗜食せらる﹀に至れり。而 して牛乳も漸次飲用せられしことは、﹃明治十九年に、牛乳の滋養なるを暁甘し、需要者、日を追ふて増加するの有 様なる故に、牛乳営業取締規則を制定せり﹄とあるに徴しても知るべきなり。其他料理屋、蕎麦屋の如き、娯楽機関 ハが たる常設の劇場の如きは、皆置県後に出でたるものなり﹂。 あらたな権力によって強制された社会変化は、沖縄の思想状況にも一定の変化を惹き起こさざるをえなかった。真 れ 境名は日清戦争にいたる時期を﹁新旧思想推移の過渡期﹂と表現している。当時の沖縄の﹁思想界﹂においては﹁保 守復旧の気﹂がまだ一般的ではあったが、一面では﹁社会の新気運﹂にともなって、﹁現代文明に歩武を進めし一種 の基調﹂もみられたというのである。﹁此等は畢蔵するに、時代の理解と必要とより出でしものにて、後年新沖縄を 経営せし主潮となりしものなり﹂。真境名はこのような﹁基調﹂のあらわれの一つとして男子の散髪をあげている 64 (1 ・39) 39 められた。この逆説的な社会変化をどのように位置づけるべきだろうか。 社会的風潮の巨大さを認識していたからであろうと思われる。しかし、このような変貌は旧来の法制度の枠内ですす て全国と一致するに至るは必然の勢ひしであると主張したのも、すでに民衆の日常空間に浸透しつつあったあらたな 維持して行くことは出来ない﹂と断言し、沖縄の文化的状況が﹁高尚になればなるほど内地流になり自然の結果とし のこのような傾向を示唆するにたるものである。太田が、明治三三年︵一九〇〇年︶に、沖縄は﹁到底従来の風習を れを示す直接の根拠をあげることはできないにしても、真境名が記述した民衆の日常空間の変容は、それ自体、民衆 べたように、明治二〇年代に書かれた資料は新聞をふくめて散逸しているので、この日清戦争以前の時期についてそ 会文化にかわるあらたな状況を容認し、さらには積極的に受容するという傾向をうみだしたのであろう。さきにも述 清関係の復活に固執する一部の旧支配階級はべっとしても、那覇や首里に在住する民衆のなかに、首里王府以来の社 した。このような社会変貌の実質が強制的なヤマト化であったことは言を侯たないが、そのような変化の進行は、対 あらたな規律・訓練的権力は、沖縄社会の外観と思想文化を変化させ、公共政策によって民衆の生活の改善を強制 を暗示するものということができよう。それは﹁時代の理解と必要﹂の産物であった。 幕藩制国家の思想文化を象徴するものであったことを考えれば、この変化は、沖縄における旧体制の思想文化の崩壊 の如き﹂も変化していったと、真境名は指摘している。男子の髭が、ヤマトにおいても、たんなる風俗にとどまらず かれしが、一両年にして漸く此の風習を助長するに至れり﹂。これにしたがって、﹁其他衣服、帽子、履物、使用品等 が より漸く、学生、官公吏等に少数の散髪者を出し、一般社会よりは蛇蝋視せられ、家庭よりは、殆ど孤立の悲境に置 一﹁沖縄は、明治十二年後の置県後に至りても、数年間は結髪束帯の旧習にのみ、支配せられ、同十八、九年の頃 論 説 64 (1 。40) 40 沖縄における近代化の希求(石田) @旧慣温存と近代化 理論的位置付け 旧慣温存下での社会変貌をどう位置づけるか。それを﹁近代化﹂の範疇にいれるべきかどうかを論じるには、まず、 旧慣温存政策とはどのようなものであったかを要約的にでも見ておかねばならない。西里喜行は旧慣温存政策の内容 をつぎのように三点に要約する一﹁第一、旧地頭層︵有禄士族︶の﹃家禄﹄が置県後も保障され、しかもそれは 一九〇九年︵明治四十二︶まで﹁金蔓﹂で支給されたこと︵翌明治四十三年に公債処分”秩禄処分がおこなわれた︶。 第二、王府時代以来、農村統治の末端の地位にあった地頭代以下の地方役人層が、置県後もその地位と特権︵ある種 の免税︶が据置かれたこと、第三、農民支配・収奪の体系である土地制度・租税制度および地方統治のための﹃内法﹄ が、そのまま存続させられたこと﹂。西里は、さらに、廃藩置県以前の﹁封建的搾取・収奪関係﹂に言及して、﹁首里 ユ 王府︵藩老︶﹂が農民にたいして租税徴収権をもつのとは別に、﹁村落共同体︵村あるいは間切︶の領主たる地頭﹂は 領地の農民にたいして﹁首里王府︵藩庁︶から給与されるべき知行︵作違︶﹂を直接徴収する権限をもち、さらに、 ﹁仕明地︵11開墾地、地頭地を含む︶を私有する地頭﹂は、その仕明地を耕作する農民から﹁相対掛増︵一種の小作 料︶﹂を徴収することもできたと指摘する。この、さなきだに苛酷な農民の税負担は、大量の地方役人層がもつ特権 によってざらに加重されていた。農民が徴税体制から脱出することを防止していたものが、地割制度とよばれる土地 制度であった。これは、原則として農民に土地私有を認めず、農耕地は村落共同体が管理する﹁官有地﹂とし、この 農耕地を共同体が個々の農民に分割配当し、地方によって四年から三〇年の期間ごとに割替をおこなうというもので あった。この制度のもとでは、農民は﹁ほとんど貢租を調進するがために官の土地を耕作するの奴隷﹂という外観を しめしていた。 ヨ 64 (1 ●41) 41 一一 論説 このような旧支配層による農村支配体制を維持したうえでおこなわれた社会変革を、﹁近代化﹂とよぶことには逆 説的な響きがっきまとう。真境名が記述した社会変貌をどのように解釈すべきだろうか。この問いに答えるには、 ﹁近代化﹂という概念が内包するものを、より一般的に考察しておく必要がある。 ムーア︵ぐく−自び①﹃ひ︼円●り㍉OO﹁①︶は近代化を、五世紀ほどまえのコロンブスやヴァスコ・ダ・ガマの時代にはじまり現 在もなお進行しつつある﹁全世界的な社会変化﹂であると主張する。この﹁近代化という理念﹂に実質をあたえたも のは、﹁︹西欧で︺﹃自然﹄を支配するべく考案された技術と、人間関係を秩序づけるべく考案された社会的技術 ︵ω06芭80ぎ。δひq凶。ω︶との世界的拡散﹂であった。しかし、その拡散は世界を画一的なものにしたのではない。それ は世界を、西洋化を実質とした近代化という﹁パッチワーク﹂で覆ったのだと、ムーアは考える。﹁世界のどの地域 も、本質的に﹃西洋化﹄であったもの︵芝ゴ簿≦霧Φωω窪9ξ..芝①。。8﹁三N讐Op、”︶から免れることはできなかった﹂ のだが、﹁近代化のイデオロギーあるいは教義は、ある意味で、国民化された︵コ鋤け一〇昌鋤嵩NΦ山︶﹂というのである。 なぜ﹁本質的に西洋化﹂であるような近代化が、パッチワーク状の多様性を帯びながらも、世界的に拡散しえたの だろうか。スコチポル︵↓げ①量ω騨080一︶は、近代化を、﹁経済的発展に前後しながら随伴する、非経済的領域にお ける諸変化をともなう、社会内的経済発展過程︵帖ミミあ○α簿巴寓08ωωo︷Φ。80邑。α①<巴8露Φ葺︶﹂というだけでは なく、﹁世界史的社会問的現象︵曽≦○ユ阜三ω8旨§ミーω。9Φ欝一9Φp。ヨΦpOづ︶﹂でもあると考えるべきだと主張する ︵強調は原文のまま︶。近代化とは一つの社会の内部における経済面を中心とした総体的な変化だが、それは内発的な ら 変化である以上に外部世界との関係によって規定されているというのである。スコチポルは、ホプキンス︵日章Φ9① 紅霞8臨湯︶とウォーラーシュタイン︵一ヨヨ鋤P二Φ一ノく鋤一囲Φ﹁ωけ①凶づ︶の﹁ある社会の近代化の必要条件は、近代の初期に まず西ヨーロッパにあらわれ、今日ではある意味で、世界があたかも諸社会からなる単一の網目︵鋤ωヨαq竃器暑○葵 64 (1 ・42) 42 沖縄における近代化の希求(石田) o胤ωoo凶①梓一Φω︶を構成しているかのようにみえるほど、地球上の人々の大部分を包摂している歴史的に類をみない諸社 会の網目に、その社会が組み込まれることである﹂という主張を紹介しながら、諸社会からなる近代化という網目 ︵ヨ。住三三Nぎσqぎ8﹃−ωOo一当巴這這。蒔︶がそれ以前の社会間の相互作用と異質な点をつぎのように指摘する一﹁第一 に、それが、独立国家督の戦略的政治的軍事的な競争にもとつくだけでなく、商品の交易と製造業に基礎をおいてい たということであり、第二に、イギリスが西ヨーロッパ中心の世界市場において商業的覇権を獲得すると、この覇権 がイギリスの﹃最初の︵自己推進式のωΦ引鷺8巴ぎσq︶工業化﹄を現実のものにしたということである﹂。 こうして世界市場の中心部に形成された近代化の網目は、世界史的社会間的現象として世界中に拡大していくこと になる。スコチポルはその進行過程をつぎのように模式化してみせる一﹁最初の︹イギリスにおける︺商工業の画 期的発展︵耳$耳耳。⊆αqヶ︶のあと、近代化への圧力は世界中におよんだ。世界的近代化の最初の局面では、イギリス の徹底的な商業化と世界市場における覇権の獲得、産業の拡大⋮⋮が、ヨーロッパ諸国家間の伝統的な敵対の手段と 目的を変容させ、他のヨーロッパ諸国、とくに有効性に欠ける金融機関しかもたない諸国に⋮⋮改革へむかわせる直 接的な圧力をかけた。第二の局面においては、ヨーロッパが近代化されてその影響力をさらに地球全体に拡大するよ うになると、直接の植民地化をまぬがれて多くの場合すでに分化し集権化された国家制度をもつようになっていた非 ヨーロッ疋諸国にたいして、︹すでに植民地化された国家が経験したものと︺同様の軍事的強制という圧力がくわえら れるようになった﹂。イギリスに端を発した近代化の波はまずヨーロッパ諸国に急速な改革を余儀なくし、ヨーロッ フ パ諸国が近代化を達成すると、この波がヨーロッパの近代的軍事力にささえられて全世界におよんだ。こうしてみる と、非西欧世界における近代化は西欧諸国の軍事的強制の結果であるということになる。 それでは、西欧近代と慰留するまえから非西欧世界において進行していた﹁社会内的経済発展の過程﹂は、意味を 64 (1 ●43) 43 論説 もたなかったのだろうか。近代化の方向性をさだめるうえで、そのような内的発展と外部から強制されたh世界史的 社会間的現象﹂としての西欧型の近代化とはどのように関係するのだろうか。スコチポルは、近代化の態様を基本的 に左右する要因として、国家官僚と大土地所有者との関係のあり方に注目する一﹁初期的な近代化を進めつつあ る農業的官僚制社会︵鋤αq鑓﹁壁昌び霞8蝦。轟9Φω︶の︹世界的な近代化圧力への︺適応性︵鋤α碧賦くΦ器ωω︶は、国家の上 級および中級行政官僚がどの程度大土地所有者によって占められているかによって顕著に左右される。伝統的な土地 所有上流階級とあきらかに一線を画した国家機関のみが、土地所有上流階級の財産や特権をほとんどつねに侵害せざ るをえないような近代化改革に着手できる﹂。上・中級の行政官僚が伝統的な支配階級からどれほど自立しているか によって、国家の近代化政策がどれほど伝統的なものを変革できるかが決定されるというのである。この議論は、 ﹁初期的な近代化を進めつつある農業的官僚制社会﹂が外部的に強制された近代化をすみやかに受容できるかどうか は、その社会の伝統的支配層の政治的影響力に左右されるということを説明するものではあるが、経済的発展を中心 とする社会内的な変革過程が世界史的現象としての近代化とどのように関係するかについては、十分野説明をしてい ない。ムーアが指摘するような、近代化が﹁国民化﹂されていく機序はどのようなものであろうか。 この疑問への答えをさぐるには、近代化が包含する社会的範囲をスコチポルよりも広げて考えることが必要ではあ るまいか。アイゼンシュタット︵ωげbピ﹄Φ一20曽げ]円一ω①づωひ①山け︶は、近代化についての議論を、拡大する文明とそれの影 響をうける文明との葛藤として展開している。アイゼンシュタットも、近代化という歴史的な現象の本質は西欧化で あるという認識においては共通していて、﹁近代化と近代性︵ヨ。α①§ξ︶はヨーロッパに源を発して世界中に拡がり、 とくに第二次世界大戦以後はほとんど全世界を覆っている、ある特殊な型の文明︵o器呂8強6蔓罵。眺ユく田鎚鉱§︶﹂ であると述べているが、そのような近代化の過程が﹁すべての社会に共通する進化の可能性を現実のものにする﹂と 64 (1 ・44) 44 沖縄における近代化の希求(石田) みなすべきではないと主張する。彼は、近代西欧文明の﹁形成と拡大﹂は過去の﹁大宗教や大帝国﹂のそれと﹁似て いないこともない﹂が、この近代文明の拡大は過去のものとはちがって﹁ほとんどつねに経済的、政治的、イデオロ ギー的要素をともな﹂っていたという。﹁まさに歴史上の︹大︺文明が拡大していった時のように﹂、近代性は世界的 に広がり他の社会を組み込んでいったのだが、その際、それに組み込まれる社会が成り立たってきた﹁象徴的制度的 前提﹂︵9①昌ヨび。一一。β。巳ぎω餓け&oロ巴鷺Φ艮ωΦω︶をこれらのあらたな要素が動揺させて﹁内部からの反応﹂を惹きお こし、つぎにはこの内部からの反応が、これらの社会を﹁あらたな選択肢と可能性﹂に導くことになった。﹁近代的 社会あるいは近代化しつつある社会﹂の﹁きわめて大きな多様性﹂が現れてくるのは、この﹁内部からの反応﹂の過 程で、それらの社会が﹁自己の文明がもつ伝統と歴史的経験﹂と﹁固有の西欧文明︵oユσ曵ぎ巴ミ①ω8ヨ9≦一N巴8︶ のもつ主要な象徴的前提と制度的編成︵一︼Pωけ一筒口け凶O昌O一 hO﹃5P9け凶O口ω︶﹂との双方を﹁選択的にとりこむこと︵ω98けぞΦ 冒8弓。轟けδコ︶﹂によって自己変革の方向を形づくるからだと、アイゼンシュタットは論じる。この選択の多様な複 合が、﹁近代性という拡大しつつある文明︵①×oきα貯oq9<ま富鉱。昌︶とアジア、アフリカ、ラテンアメリカの諸文明 り との相互作用︵一Pけ①﹃鋤O口O昌︶﹂のなかから、きわめて多様な近代性を出現させたというのである。このように考えれ ば、スコチポルの議論から惹起された疑問は解決できよう。すなわち、西欧近代との接触以前に進行しつつあった社 会内的な初期的近代化は、西欧諸国の軍事的圧力のもとで強制された西欧文明の摂取の仕方を規定したのである。 非西欧世界のそれぞれの社会は、このようにして近代化を﹁国民化﹂した。しかし、非西欧世界の近代化が西欧諸 国の世界支配の過程で強要された現象であったにもかかわらず、なぜ、圧倒的な軍事的圧力のもとでも、﹁固有の西 欧文明﹂のなかから受容すべき﹁象徴的前提と制度的編成﹂を選択することが可能だったのだろうか。なぜ、帝国主 義は非西欧世界に選択の余地をあたえたのだろうか。ロビンソン︵菊。昌巴α幻。げ貯ωoロ︶は近代帝国主義について論じ 64 (1 ●45) 45 説 払 面冊 るなかで、つぎのように述べているーー﹁工業化時代における帝国主義は、膨張しつつある社会が、﹃ドル﹄外交や ﹃砲艦﹄外交、イデオロギー的説得、征服と支配によって、あるいは自国民の植民によって、より弱小な社会の中枢 に、また多少とも自分自身のイメージにあうように、それらの弱小な社会を形成あるいは再形成することである﹂。 部分にたいする傑出した影響力あるいは支配力をえる過程︵”O﹃OOΦωω︶である。その目的は、自国の利益にあうよう 帝国主義は、支配下におこうとする社会の変革を目的としていた。アプター︵目︶彊白︿一α国.﹀℃δ①﹃︶は、植民地支配下で、 市場と財源をもった通商・産業資本が導入されて商業化と近代化が進展したことを根拠として、﹁最良の植民地主義 ね は近代化のきわめて有用な装置︵ヨΦOず鋤旨一ωbρ︶であった﹂と指摘する。たしかに、帝国主義による従属社会の﹁形成 あるいは再形成﹂が西欧諸国のいだく﹁イメージ﹂にそったものである以上、それは被支配地域の近代化を始動させ る役割をはたしえた。そうであれば、非西欧世界における近代化のあり方は、そこにおける西欧帝国主義の支配のあ り方として論じることが可能 で あ る 。 ロビンソンは、ヨーロッパ諸国の膨張の動機は﹁あらたな植民地域と過去の農業帝国を、市場や投資先として統合 するための経済的進出﹂と﹁世界的な権力政治における敵対国家に対抗して市場や投資先の安全を保障するという戦 略的必要﹂だったとしたうえで、そのような動機だけで支配が成功するものではないと指摘する一﹁しかし、い かなる社会も、いかに優越していたとしても、他の︹ヨーロッパ以外の︺大陸にある不可解で稠密な人口をもつ文明 や白人の入植地を、たんにもてる軍事力の大部分を投入するだけで意のままにすることはできない。支配︵αo含欝− けδゆ︶は、外国︹帝国主義︺の勢力が現地の政治経済の状況に反映されるかぎりで現実的であるにすぎない﹂。では、 実効的な支配はいかにして可能か。ロビンソンは、それは非西欧世界の側が帝国主義にどのように対応するかにか かっていると指摘する。帝国主義支配の成功を保障するものは、帝国主義があらわれるまえからその地域を統治して レ 64 (1 。46) 46 沖縄における近代化の希求(石田) きたエリートの協力であった。﹁︹被支配地域を治めてきた︺統治エリートの自発的な、あるいは強制された協力﹂が なければ、﹁経済資源をうこかすことも戦略的権益をまもることも、外国人にたいする悪感情や変化に対する伝統的 お な抵抗を封じ込めることも﹂、すべて不可能だったとロビンソンは指摘する。 みずからの本意は別としても結果的に帝国主義支配に協力した統治エリートを、ロビンソンはなんらの侮蔑的な意 味をもこめずに﹁協力者﹂︵8一一菩。δ8邑あるいは﹁仲介者﹂︵ヨ①岳鉾。邑と呼ぶが、協力者は帝国主義の側に とって有用であったというだけではない。協力者をつくりだすものは、帝国主義勢力への協力を拒んだ場合の﹁報復 にたいする恐怖﹂だけではなく、﹁︹優越した︺大きな社会が貿易や資本、技術、軍事的あるいは外交的援助の領域で 提供しうるもののもつ魅力﹂でもある。協力者にとってみれば﹁侵略者はそれまでのものに代わるあらたな富と権力 の源泉をもたらした﹂のであり、それは﹁伝統的秩序における現地エリートの立場を改善する﹂ために利用すべきも のであった。﹁やむをえず帝国主義と立場をおなじくした﹂アジア・アフリカの﹁社会的エリート﹂は、伝統的制度 とそれを構成する者とを代表して帝国主義側と交渉しなければならなかった。ロビンソンは、この交渉には、被支配 あ 地域の伝統的秩序を維持するという枠があったと指摘する一﹁協力体制︵8=筈。轟早くΦω︽ω梓Φヨω︶の皮肉は、白人 の侵略者は統治エリートに圧力をかけることはできても、統治エリートの仲介なしにはやっていけないという事実に あった。たとえ交渉は不平等におこなわれたとしても、侵略側は︹仲介側との︺共通の利益と相互依存を認めなけれ ばならなかった。仲介者が︹帝国主義側から︺十分な裁量の余地をあたえられなければ、彼らの統治する人民にたい する権威は失墜し、危機が発生し、そして膨張しつつある勢力︹帝国主義勢力︺はみずからの利権を放棄するか、あ るいはその利権を擁護するために直接行動にうつるかを選ばなければならなかった。また、︹直接侵略の︺あとで帝 り 国主義勢力が、ばらばらの人間の無秩序な集合となった従属社会を支配者として治めることも不可能だった﹂。ヨー 64 (1 .47) 47 論説 ロッパの世界支配は、ヨーロッパ近代との亭号以前から存在してきた伝統的支配秩序との妥協のうえに進行した。そ のことが、非西欧世界が近代化をおこなううえで、アイゼンシュタットが論じたように、みずからの主体性にもとづ いて固有の西欧文明からその要素を選択的に取り込むことを可能にしたのである。 このように、近代化という社会現象を考察したうえで、われわれは沖縄についての議論に立ち戻ることができる。 問題は、真境名が記述した旧慣温存下の沖縄社会の変貌を近代化とよぶことができるか、ということであった。沖縄 に登場したすぐれて一九世紀的な帝国政府の権力は、沖縄を実効的な支配範囲にくみこむために公教育を開始し、公 衆衛生政策を実施し、道路を改修した。近代化を、拡大しつうある文明が必要とあらば強制力をもちいても伝統的な 文明を糾合していく過程と、これに対応して進行する内発的な社会変革の過程との、二重の変動過程であると考える ならば、真境名が記述した琉球処分後の沖縄の社会変化の過程は、現象的にみれば、沖縄が外貌的に近代化を強制さ れる過程であるといってよい。この外から強制された変化が内発的な変革を惹き起せば、沖縄の近代化は、ヤマト支 配下であっても、非西欧世界に一般的なかたちをとって進行するはずであった。しかし、封建的な土地制度も租税制 度も旧来のままにしておくという政策のもとでは、個々の農民は経済活動の主体たりえず、重層的に張りめぐらされ た課税システムのなかで村落共同体と土地に緊縛されざるをえない。ギデンズ︵﹀謬蝕げ○コ︽ ○一鳥α①コω︶は、近代性の一 つの表現を、社会関係が地域的な限界から解き放たれて﹁無限の時空間の拡がりを越えて再構築﹂されることだと述 べている。彼はそれを﹁脱埋め込み﹂︵臼ω①ヨσ①蝕ぎσq︶とよんで、﹁資本主義市場の拡大﹂は﹁近代にもっとも特徴的 な脱埋め込み形態のひとつ﹂だと指摘するが、旧慣温存のもとでは、脱埋め込みの過程は進行のしょうがない。農村 部におけるこのような伝統的支配構造の維持は、外的に近代化を強制するという政策のなかで、どのような位置を占 め て いたのだろうか。 64 (1 048) 48 沖縄における近代化の希求(石田) アイゼンシュタットは、植民地支配下で進行する近代化について論じて、植民地社会においては﹁﹃中心﹄部 DO①]P四目ロ一℃℃ 蝉吋①⇔ω︶における変化は地方レベルにおける変化と符合しない﹂場合があると指摘する。﹁植民地権力に よって直接間接に導入された変革の大部分は、その社会の中心的な政治的あるいは経済的制度︵8三邑℃o一三。巴。門 880巨6宣ω象亀8ω︶にむけられてきた﹂が、同時に、﹁植民地権力﹂あるいは﹁現地の伝統的支配層﹂は、これら の変化を、﹁現存の制度とみずからの利権﹂の枠内に限定することを課題とした。社会全体を管轄する制度的なもの は﹁均質な行政システムの導入、課税制度の統一あるいは体系化、近代的な司法手続きの確立、そして後の段階では 限定的な代議制度﹂の導入によって大きく変わるが、各地方のレベルでは、支配者層は社会変動を﹁既存の伝統的な 体制の枠内に封じ込めようと努め﹂るのであり、彼らの行政努力の大部分は﹁現存の組織と︹社会︺関係を強化し、 安寧と秩序をたもち、課税制度を再構成する﹂ことにむけられる、というのである。制度の中心的な骨格は植民地支 配のもとで合理化されるが、各地域における変革は、伝統的支配層の権益を侵さない範囲に限定されざるをえない。 ロビンソンが論じたように、植民地支配は、それを支える被支配社会の伝統的支配者層を必要としたからである。 ヘ ヘ へ 帝国政府の沖縄統治体制の実体がヤマトの権力であったことは自明であり、それが、ロビンソンのいう﹁膨張しつ つある社会﹂の権力として、﹁より弱小な社会﹂である沖縄を支配下にくみこむために琉球処分をおこなったと理解 すれば、アイゼンシュタットの議論は旧慣温存政策を理解するうえで重要なてがかりとなる。沖縄を帝国の国境の内 部にくみこむことは、べつの機会に論じたように、あらたな中央集権国家として再生することに成功した日本帝国の、 国民形成運動としてのナショナリズムの発現であり、国境のなかに異質な領域の存在をみとめないという帝国政府の 意志の表明であった。帝国政府は沖縄にヤマトと同質の地方制度をしき、支配制度の中心的な骨格をそれに対応する ものに変更しようとした。この変更を円滑におこなうために旧支配層の権益を保護することが必要であり、そのため 64 (1 ・49) 49 (、 説 に農村部における伝統的支配体制を維持せざるをえなかったのではあるまいか。真境名が記述した都市部の急速な社 会変貌は、帝国政府の沖縄統治体制の確立過程で強制された、沖縄的に歪曲された近代化の一局面だったのではある こそが、旧慣温存という政策方針の源流であった。なぜ松田は、社会改革にたいして慎重であるべきだと主張したの ここにのべられた﹁美治ノ急施ヲ要ム可ラス﹂、すなわちヤマト並の社会改革を急がないという﹁県治ノ一大主義﹂ 旧藩処分上穏当ヲ失シタルモノ・覆轍ヲ踏マサルコトヲ注意シ只租税上営業上警察上教育上宗旨上等二就キ旧規ヲ改 ユ 良シテ士民ノ便益トナリ又情願ニモ適スヘシト確認スルモノ・ミヲ改正スルニ止ムヘシ是彼ノ県治ノ一大主義ナリ﹂。 俗や営業や凡ソ該地士民旧来ノ慣習トナルモノハ勉メテ破ラサルヲ主トシ就中家禄ノ処分山林ノ処分等ノ如キハ内地 の県政の方針についてつぎのようにのべた一﹁将来ノ県治二於テ下簗シテ美治ノ急施ヲ要ム可ラス土地ノ制や風 とする具体的な実行計画案を提示したが、そのなかで彼は﹁処分長官其奉命事件ノ始末ヲ了へ県令二引渡﹂したのち て﹁御下単二従ヒ琉球藩処分方法愚案ヲ草シ謹而呈ス﹂という報告書を提出して、﹁廃藩置県藩王東京住居﹂を骨子 一月のことであった。琉球処分にさいして処分官として中心的な役割をになった松田道之は、内務卿伊藤博文にあて 旧慣温存という方針が帝国政府の内部で具体的にしめされたのは、琉球処分の前年の明治一一年︵一八七八年︶一 三 旧慣温存方針の確定 れさせたかをみてみる必要がある。 まいか。この仮説を検証するには、旧慣温存政策がどのようにして決定され、それが沖縄の社会をどのように立ち遅 論 64 (1 。50) 50 沖縄における近代化の希求(石田) だろうか。 さきに述べたように、琉球処分は帝国の国境の内部に異質な領域が存在することを認めないという政府の意志の表 明であった。解消されるべき沖縄の異質性が何であったかは、松田の主張を理解するためのてがかりとなるはずであ る。明治五年︵一八七二年︶一月に鹿児島県から藩政改革のために琉球藩に派遣された伊地知貞馨は﹁琉球処分起 源﹂のなかでは、首里出府は﹁︹島津の侵攻以後︺全ク変革等ノ事ナク今日二至リ依然旧法ヲ固守シ自ラ一小天地ヲ ナシ⋮⋮国取暴敏ノ意ナキコトアタハス⋮⋮殊二世上ノ沿革形勢二丁ツテ四更二何事タルヲ識別セス⋮⋮維新ノ日二 当リ不都合ノ至﹂と、王府がヤマトの変革に追随していない点を強調しているが両属にはふれていないし、王府にた いして指示した改革の内容にも冗官冗費の削減と民生への配慮は記されているが、両属の解消は含まれていない。前 年明治四年︵一八七一年目七月に鹿児島県が政府に提出した﹁琉球一條取調書﹂でも、薩摩藩が琉球王国の両属体制 を、﹁貧弱ノ小国﹂で﹁不転両属候テハ難立行不得止国情ニテ﹂という理由で﹁名義不当﹂ではあるが許容してきた ヨ と説明されているので、両属自体は主な問題とはされなかったとおもわれる。沖縄の異質性は、王府の支配体制が旧 態依然で苛酷であるということに集約されていたのである。しかし、明治五年︵一八七二年︶五月三〇日付けで大蔵 大輔井上馨が正院に提出した琉球処分を提起する建議書では、﹁彼従前支那ノ正朔ヲ奉シ冊封ヲ出営由相聞我ヨリモ 又其金武ノ罪ヲ匡正セス上下相蒙曖昧ヲ以テ数百年打過行トモ不都合ノ至二候ヘトモ君臣ノ大体上ヨリ論シ候ヘハ仮 令我ヨリ溺容スト錐モ彼二於テハ人臣ノ節ヲ守り脚惇戻ノ行不可有義勿論二候況百度維新ノ今日二至リテハ到底御打 捨聖賢翠雲ニモ無言二付従前曖昧ノ随轍ヲ一掃シ改テ皇国ノ規模御拡張ノ御措置有之度﹂と、問題の中心は沖縄が両 属を維持していることにあると明確に主張されている。松田はこの論旨にしたがって、明治八年二八七五年︶九月 る に太政大臣三条実美に提出した﹁第一回奉使琉球復命書﹂において、琉球藩が帝国に﹁天然隷属﹂しているにもかか 64 (1 ●51) 51 論説 わらずいまだに日清両点を放棄していないことを非難して、﹁両属ノ体ナルモノハ世界ノ道理二於テ為ス可ラサルモ ら ノニシテ之ヲ措テ問ハサルトキハ葦子独立国タル体面ヲ段損シ万国公法上二於テ大二障碍ヲ来スコトアリ﹂とのべた。 帝国政府にとって解消さるべき沖縄の異質性の中核は、もはや統治の時代錯誤的性格にではなく、両属状態にあると 認 識 されたのである。 廃藩置県によって沖縄を両属状態から離脱させて異質性を除去し、藩王の権力を、世界的にみても﹁大体ノ条理二 背カサル﹂方法で剥奪して、沖縄を帝国政府の直接統治下に合法的に組み込むことが、松田がはたすべき課題であっ た。松田は、﹁土人二重テハ藩王アルヲ知テ天皇陛下ノアルヲ知ラス藩政府アルヲ知テ本邦政府アルヲ知ラス随テ藩 王ヲ尊信スルノ厚キ実二無量ニシテ藩王ノ為ニハ生命ヲ絶チ財産ヲ棄ルモ決シテ惜マサルノ情アリ﹂という状態では あっても、処分そのものは強権を背景とすれば遂行できるという見通しをもっていた一﹁其処分ノ初メニ於テハ 一時置非常ノ形勢ヲ発シ即チ士民一般痛哀不知所受業ヲ廃シ食ヲ忘レ狼狽動揺殆ント狂気ノ如ク必死ヲ以テ処分ヲ拒 ア ムヲ是事トスヘシ⋮⋮而シテ固ヨリ孤島ノ人民ナレハ到底拒ミ得ルノカナク遂二野令二従フコト必セリ﹂。 しかし、藩王の権力の剥奪に成功してもその後の直接統治が混乱すれば、両界状態からの離脱は沖縄にあらたな異 質性を付与することになろう。松田は、強権によって処分をおこなっても、得られるものは人民の﹁畏服﹂であって ﹁心服﹂ではないと指摘する。そのようなことになれば、﹁隠顕百般ノ所為ヲ以テ政治ノ妨害﹂がおこなわれるであろ う。その場合に予想される最大の問題は士族であった。それも、﹁家禄ノ処分﹂がとくに強調されたことに暗示され るように、旧藩のもとで役職につき社会的影響力と禄とをえていた有禄士族であった。コ不平徒﹂となった士族は、 ﹁土民字ヲ知ル家憲ナク言語通セサルヲ以テ政令ヲ布キ政治ヲ施スニ皆士族以上ノ者ヲ用ヒテ愚直媒介ヲナサシメサ ルヲ得ス﹂という状態を利用して、﹁上意ヲ豪家シ下情ヲ詐申シ実二土人二便益ナル事件モ之ヲ不便不益トシテ告知 64 (1 ・52) 52 沖縄における近代化の希求(石田) スル等雍蔽離間至ラサルナク以テ政治ヲ妨害スルノ好手段トナス﹂であろう。結局は、﹁恰モ盗閉講ヲ保管セシムル カ如﹂き状態になって、県政は﹁終始障碍アルヲ免カレ﹂ず、ついに﹁内地ノ廃藩置県ノ意外二容易ナルノ比ニァラ サル﹂困難に直面するであろう、と松田は論じた。彼らを懐柔しなければ円滑な統治は望みがたい。しかも、明治六 年︵一八七三年︶の佐賀の乱をはじめとして明治一〇年︵一八七七年︶の西南戦争にいたる士族反乱の記憶は、帝国 政府の脳裏に生々しかったであろう。﹁家禄ノ処分山林ノ処分等ノ如キハ内地旧藩処分上穏当ヲ失シタルモノ・覆轍 ヲ踏マサルコト﹂として、村落構造の基本にかかわる杣山などの共有地制度の変更だけでなく、士族の既得権益を侵 害するような改革が特に躊躇されたのは、そのためであった。 松田が提言した﹁県治ノ一大主義﹂は、その後、明治一二年︵一八七九年︶三月に松田が沖縄県令心得となった木 梨精一郎と連名で発した﹁旧琉球藩下一般ノ人民二告諭ス﹂のなかの、﹁旧藩王ノ身上及ヒ一家一族二郷テハ優待ノ 御処分ヲ以テ将来安堵セシメ且ツ士民一般ノ身上家禄財産営業ノ上二型テモ苛察ノ御処分無之勉メテ旧来ノ慣行二従 フノ御主意ナルノミナラス却テ旧藩政上苛酷ノ所為又ハ租税上納物言ノ威逼ナルモノハ追テ御詮議ノ上相当寛減ノ御 沙汰可有之﹂という一節に表現された。この告諭は、廃藩置県という事態に直面して﹁今後如何様可成行ヤト苦神﹂ する者にたいして﹁其主意ノ大略ヲ告示﹂することを目的としており、﹁世上ノ流言風説二惑ハス安ンシテ各自ノ家 業ヲ励ム﹂よう勧告七たものであった。この目的からして告諭は士民一般に呼びかける表現をとってはいるが、主眼 は﹁不平徒﹂になりうる有痛士族層におかれていたはずである。実際彼らは、当面馬従来の家禄を保障された。その 結果、旧士族にたいする秩禄支給額は、明治一二年度︵一八七九年度︶の予算一〇万五千余円のうち三万八千円を占 めることになった。そのための財源があらたに求められたのではない以上、農民の負担は従来と同様であった。旧士 む 族層の動向にたいする政府の懸念は、農民の負担の苛酷さにたいする配慮をはるかに凌駕していた。 64 (1 。53) 53 論説 明治一二年︵一八七九年目五月に赴任した初代県令鍋島直彬がその年の一〇月、内務卿・大蔵卿にあてて提出した くら ﹁本県士族江従前之家禄高湿米ヲ以更二御壷給方之儀阿付伺﹂とそれへの政府の対応は、士族層の帰趨にたいする関 心の高さを明示している。この文書は、要点をつぎのように記述している一﹁本県士族⋮⋮県治ノ体裁ト為りシ 以上ハ依然領地等ヲ有シ其思入ヲ直二収取スルノ謂レ無導因テ自今以後ハ庫米ヲ弟御昇給相成方陣之可憐最モ各府県 士族禄制ト同視シ難ク就テハ特殊御詮議ノ次第モ可被乾煎⋮⋮何卒格別ノ訳ヲ以従来ノ禄高ハ不相変上米ニテ下賜給 ハほ 相成候様仕度然ルニ於テハ士族一般モ愈朝恩ヲ奉戴シ速二皇化二面ヒ候道モ随テ相開ケ可申候条⋮⋮﹂。首里王府は 士族のうち﹁勲功重キ者﹂には禄として﹁庫米﹂を給与すると同時に領地をあたえ、﹁軽キ者﹂には領地だけをあた えていたので、士族は自分の領地から米や雑石を直接とりたて、居住する農民に賦役を課していた。ヤマトではすで に明治九年︵一八七五年︶に士族が得ていた秩禄をすべて金禄公債に置き換えていたが、県令の文書は、沖縄の旧士 族にたいしては特別扱いをして、士族が旧制度のもとでえていた収入に見合う分を﹁庫米﹂で支給してほしいという 要請であった。そうすれば彼らが﹁愈朝恩ヲ奉戴シ装甲皇化歯舞﹂う可能性も﹁開ヶ﹂るであろうというのである。 この、あきらかに宥和政策をもとめる上申書にたいして、内務卿伊藤博文と大蔵卿大隈重信は、金鉱処分をしばらく 猶予して﹁両三年ハ石代ヲ以相客﹂すことにするが、この明治一二年︵一八七九年目にかぎっては﹁制外ト視倣シ勉 メテ旧慣ノ如ク支給スルノ外有之間敷﹂という判断をしめした。 士族にたいする同様の宥和策は、翌明治=ご年︵一八八○年︶三月に県令が政府に提出した﹁沖縄県士族従来ノ役 知玉葉昨年十二年分二限リ御支給之義二付伺﹂にもしめされている。士族は旧藩のもとで﹁役知計俸﹂をえていたが、 置県後は職を失ったのだから当然このような給与をあたえる必要はないことになる。しかし、士族は﹁俄二生計ノ目 途ヲ失ヒ⋮⋮至極困難ノ趣無二慰量スベキ情状﹂がある。旧体制下での給与は、﹁其実家禄同一ノ性質ヲ含﹂んでい 64 (1 054) 54 沖縄における近代化の希求(石田) て勤功を積んだ者は辞職後も給与をえる﹁旧例﹂だったので、この旧例をいかして﹁昨年十二年分山留リ特別ノ御詮 お 議ヲ以テ御言宰相成長様支度﹂というのが、この﹁伺﹂の趣旨であった。この﹁伺﹂にたいしても、大蔵卿と内務卿 は、これらの給与は﹁家禄﹂に似ていても﹁其実役俸﹂であるので﹁断然廃止スヘキ筋﹂ではあるが、﹁俄二廃止ラ レ レ候テハ忽チ生計ヲ失シ景趣事情潤然二相聞へ思量⋮⋮特旨ヲ以テ賜給﹂することに同意した。士族宥和策としての 旧慣温存という方針は、こうして具体的な事案の処理に着実に反映されはじめたのである。 旧慣は、士族救済の外にも、たとえば旧藩政のもとで﹁各間切諸島﹂へ﹁救助﹂の名目で米を給付していた慣例を 維持することなど、﹁人心ノ帰背ニモ関係﹂するとみられた場合には民生面でも維持された。旧慣維持の目的が秩序 め 維持にあり、その中核に士族宥和がおかれていたことは、さらなる贅言を要すまい。西里が三点に要約した旧慣温存 政策は、こうして、旧地頭層の家禄保障を中心とした農村支配体制の維持政策であると、さらに要約できよう。この ような旧慣にもとつく具体的な施策は、沖縄県令から発議されて中央官庁に提示され、それを中央が﹁やむを得な い﹂として認可するという形でつづけられた。この手続はほぼ定型化されていたようにみえる。松田が﹁県治ノ一大 主義﹂と強調した旧慣温存の方針は、上申においても認可においても直接の根拠として言及されることはなかったが、 政府と県庁のあいだの暗黙の前提になっていたのであろう。これらの個々の実績のうえに、明治一四年︵一八八一 年︶五月、県令は﹁従来ノ慣例当分之走査シ落度義二付伺﹂を提出して、﹁施政上妨害アル重大ノ事件﹂については 個別に判断を仰ぐという限定をつけてではあるが、﹁本県ノ義数百年来慣行ノ久シキ自カラー種特別ノ例規トナリシ モノ多々枚挙二黒アラス而シテ人民ノ智識未タ遽二開進二等ラス因テ当分ノ処大体二妨碍ナク施政上二弊害ナキ分ハ め 是迄ノ福野慣例ヲ存シ置土﹂と包括的な旧慣温存を上申した。大蔵卿と内務卿は、﹁大体二妨碍ナク施政上弊害ナキ 分二三慣例ヲ存シ置度主意二止リ船上﹂と、慣例の存置が限定的なものであることを強調したうえで県令に同意し、 64 (1 .55) 55 論説 レ この年の七月、﹁沖縄県従来ノ慣例当分ノ処存置ノ事﹂という政策方針が政府によって正式に決定された。 政府は、こうして決定された旧慣温存の方針を慎重に墨守した。もとより、処分以前の一八五九年に国王尚泰みず からが﹁民憔埣⋮⋮余深く之を憂ふ﹂と表現した農村の疲弊は、旧来の慣行のすべてを維持することは不可能にして おり、農民にたいする負荷は、旧支配層の権益を大幅におかすことのない範囲内で、鍋島県令のもとでも若干の軽減 がはかられた。たとえば、租税の一部として琉球藩が農民から強制的に買い上げていた砂糖の値段を、明治=二年 ェ八○年︶、一〇〇斤につき一二銭という名目的な値段から三円二〇銭にひきあげ、おなじ年には、村吏が﹁役給 地低層が依然として事実上支配していた領地において、農民を監督して支配者の権益を代行する役割をになっており、 千胃弱におさえこみ、その差額を教育・勧業などの新規事業に充てようとしたのである。しかし、地方役人層は、旧 る、地方行政機構の全面的な再編を上申した。そうすることで、現在一五万八千円程度かかっている人件費を六万七 八八二年︶三月、旧藩の農村支配機構であった各地方役場を全廃してあらたに戸長と組合を配置することを骨子とす 後半年もたたない明治一四年︵一八八一年︶末から全県下の農村を巡視し、その結果にもとづいて、明治一五年二 れる上杉鷹山の精神を継承して、農民のおかれた状況にたいする関心を支配秩序の維持に優先させていた。彼は着任 上杉は、おそらくは、農村復興に力を傾注して天明の大王饅にさいしても一人目餓死者をもださせなかったといわ 応酬に如実にあらわれている。 ないという政府の対応は、きわめて厳格であった。そのことは、鍋島のあとを襲った旧米沢藩主上杉茂憲と政府との 年︶五月余﹁情実無余儀相聞候﹂として裁可されている。しかし、旧士族層の権益に深刻な影響をあたえることはし む という理由で、これを廃止して夫役に見合う金銭をあたえたいという上申がおこなわれ、翌明治一四年︵一八九一 ノ︸部分﹂として農民に課していた夫役労働についても、﹁多分ノ夫役二世﹂って﹁民間ノ疾苦農事ノ障碍﹂となる (一 64 (1 D56) 56 沖縄における近代化の希求(石田) 地方役人に旧体制下の地位とある種の免税特権を保障することは、西里が指摘していたように、農村支配構造維持の 根幹であった。上杉も、この上申についで﹁御参考二供﹂するために提出した文書のなかで、﹁吏員ノ改正ノ義ハ年 来ノ慣習ヲ改メ一時人心ノ装甲ニモ関係有之等御賢慮可有之﹂とのべており、そのことは十分承知していた。しかし、 置県以来﹁最早三年ノ星霜ヲ経ルノ今日二至リ候テハ人心モ大二定﹂まっており、彼の目には改革を躊躇する理由は 失われていた。かくして、上杉は改革の必要性について力説して、村吏の存在が農民をいかに損なっているかを詳論 した。彼の目にうつった沖縄の農村が如何なるものであったかをみるために、以下、上申と参考文書をやや細かく紹 介 す る ことにする。 上杉は、村落が﹁大ナル所四百数十名小ナルモノハ数十名﹂の吏員を抱えており、その多くは﹁冗職質官﹂である と指摘した。しかも、彼らの給与は﹁官庫二極クノ外数万円ノ俸給ヲ民費二仰﹂いでいる。これらの吏員は農民出身 テクゴ だが、ほとんど世襲的に、首里王府統治下の地頭代以下文子にいたる役職を継承していた。彼らは、﹁飽マテ民二取 リ民ヲシテ一銭ノ余財ナカラシムヘキモノ・様心得﹂ていて、廃藩のうえは民生上有害無益な存在となっていた。彼 らは﹁時二月二事二托シ物脚付キ冥々中柱民二取ルモノ﹂があって﹁其幾許ナルヲ知ラス﹂という状態である。その 他、吏員は公務にかこつけて、小間切でも年間千円、大間切では幾らになるかわからないほど浪費していて、﹁人民 ヲ愛養シ智識ヲ勧奨候等ノ事﹂にはまったく意を用いない。上杉は、巡回の際にもみずから﹁訓諭﹂したが、﹁其組 織を一変セサレハ其弊決シテ除クヘキモノニ非ルナリ﹂と、この面からも改革の必要を強調した。そもそも、﹁廃藩 置県ノ際数千ノ官吏旧藩治ト共一二時廃セラレ﹂て、その後そのなかから二〇名あまりが県の官吏に採用されたにす れ ぎないのだから、﹁間切吏員ノ如キモ⋮⋮已二旧制ノ永存スヘカラサルハ言語ヲ待タス﹂というのである。 これらの吏員をかかえた農民の情況は、上杉には絶望的におもわれた。すでに旧藩書下で貢租上納のために蓄積し 64 (1 ・57) 57 た﹁各間切各島原其共同負債ノ高﹂は﹁数十万円﹂に達していた。それにもかかわらず、﹁本県賦税ハ旧藩ノ慣行ニ シテ之ヲ他府県烈震スルニ幾層ノ重キヲ加へ人民ノ負担不容易﹂という状態であり、農村の情況は﹁窮迫甚敷殆ント 進退維谷﹂しており﹁不可忍姿勢﹂である。彼は参考文書のなかで、農民の生活状態をつぎのように描いてみせた 他日施政上ノ障害ヲ醸生スルニ至ル﹂可能性がある。そのように考えれば、いまは﹁可成彼レノ政治慣行ヲ破ラ﹂な こせば、彼らはますます﹁厭新傷旧ノ情﹂を強め、﹁其疑催ノ念ト共二固ク結ンテ﹂解ける機会がなくなり、﹁恐クハ 曾有ノ一大変動ヲ喫著シ驚悸未タ全ク治ラス猶疑催ヲ抱﹂いているのであり、﹁今又役場吏員更正ノ激変﹂をひきお 上杉の上申を却下する意向をあきらかにした。山田の論理は明快であった。廃藩置県に際して沖縄県人民は﹁古来未 二年︶五月、内務卿山田顕義は太政大臣三条実美にあてて﹁沖縄県地方役場吏員更正セサル義二付伺﹂を提出して、 上杉は﹁改正ノ時機ハ已二熟セリ﹂と強調したが、これは政府が容れるところではなかった。明治一五年︵一八八 お 疲困ノ状ヲ坐視スルニ止マリ日夜憂慮二堪エズ候﹂というのである。 二銭金一勺米﹂賦課することはできないのであって、県令として﹁牧民ノ職﹂にある身としては﹁徒ラニ人民蒙昧 のような事態では﹁県治上盤緊急トスル所ノ教育勧業其他諸般ノ事業﹂のための資金を得ようとしても、これ以上 来の意識の﹁進歩﹂によって、すでに一部の間切では村民が﹁村吏ノ不正ヲ訴フル﹂という事態もおこっている。こ ス一尺ノ反響自ラ衣ル能ハス⋮⋮一県ノ黎庶三十七万余人ノ内僅々タル数百人ヲ除クノ外人間社会中些少ノ快楽アル お コトモ聖上セサルモノトス其是ノ如キヲ以テ人智ノ度他府県二比スレハ氷炭ノ相異ルカ如キアリ﹂。しかも、置県以 畜シ人ノ畜類ト許多ノ区別ナキモノ・如シ終年ノ内男耕女織汲々邉々タリ⋮⋮︹しかも︺一粒ノ上程自ラ食スル能ハ 風雨ヲ蔽フニ苦ミ冬夏ヲ分タスーノ麓悪ナル芭蕉布ヲ衣終年ノ食ハ一二甘藷ト蘇鉄トニ止リ⋮⋮鶏豚牛野鳥家中二雑 i﹁﹁︵首里那覇以外の︶各間切諸島ノ如キハ僅々村吏等ノ家ヲ除クノ外家屋ハ小丸木ヲ柱トシ葺クニ茅草ヲ以テシ 論説 64 (1 .58) 58 沖縄における近代化の希求(石田) いように努め、﹁彼ヲシテ冥々ノ中二旧ヲ忘レ新二饗フノ心ヲ寛容セシムル﹂ことが﹁要務﹂である。農業にしても 教育にしても、不十分ではあっても﹁島民営業二差支ユル訳ニモ無量﹂、﹁干渉奨励﹂をしても﹁目下該県民ノ情態二 適セサル所﹂であるから、﹁今日ハ只方向ノ指導二塁メ徐々歩ヲ進﹂めても遅くはない。要するに時機はまだ到って いないのであって、﹁今日ハ姑ク従前之通リ据置キ馬方施政ノ得策ト存候﹂というのである。政府の決定がこの﹁伺﹂ と同一であったのはいうまでもない。上杉が﹁終年ノ内男耕女振汲々邊々タリ﹂と表現した農民の窮迫は、さほど深 刻なものとは受け取られなかった。沖縄の状況にたいする政府の認識は、上杉のそれと大きく隔たっていた。 政府の認識は、上杉の上申を却下したのちの明治一五年目一八八二年︶七月、施政状況を視察するために沖縄に派 遣された尾崎三良の﹁沖縄県視察復命書﹂によって、一層確固としたものになったと思われる。尾崎は明治八年︵一 八七五年︶の識諺律・新聞紙条例の策定に井上毅とともにたずさわって、言論取締りに辣腕をふるった人物であり、 上杉の巡回にも同行して農村の実態を視察した。尾崎の復命書がくりかえし強調したものは王府の高位高官以外の大 多数の士族層の窮状であり、それに比したときの農民の状況改善であったi﹁置県以来尤モ不幸ヲ得ルモノハ士 族ニシテ尤モ幸福ヲエタル者ハ独リ農民ナリ其貢租高二士テハ固ヨリ旧二減スルコトナシトイヘトモ政治上ヨリ種々 お ノ恩恵ヲ被ルモノアリ第一買揚糖第二夫役現使ヲ廃ス第三山雑物井田其他ノ雑物ヲ廃ス﹂。そのために農民は﹁貢租 重苛ナリトイヘトモ活計却テ容易ナルカ如シ﹂と、尾崎は報告した。置県によって醸成された主要な矛盾は、農民の 生活にではなく将来の展望をうしなった士族層のうえにあらわれているというのである。 しかし、農民の生活にたいする尾崎の認識が復命書の通りであったかどうかは、疑問の余地がある。尾崎は、上杉 の巡回に同行した際の日誌では、別の表現をしているからである。彼は、島尻の農村で目にした七人家族の農民の暮 らしを、つぎのように記しているi﹁公分田丸ソ黒歯ヲ耕ス家屋尤卑随ニシテ床ハ僅二小竹ヲ以テ之ヲ編ミ藁莚 64 (1 ●59) 59 論説 ヲ敷キ綾二寝居二供ス男女汚機ナル一芭蕉布ヲ身二手ヒ子女ハ裸体ナリ終日耕シテ得ル所得皆租税博愛シ只蕃薯ヲ食 スルノミ其臼取実二憐ムヘシ﹂。しかもこの家族がおさめる貢租は、金額に換算すれば﹁四十五六円二才ラス﹂とい う。尾崎は﹁実二重事ヲ極ム其辛苦欄察スヘシ﹂と再度嘆息して、﹁金二十銭﹂をあたえたと記録している。この記 述が上杉の参考文書のそれとほとんど同質であることはあきらかである。尾崎の目にも農民がすべて﹁活計却テ容易 ナルカ如シ﹂とは見えなかった。それにもかかわらず士族層の不遇の方を強調せざるをえなかったのは、旧士族層が 救済をもとめて積極的な行動をくりかえし、政府の目にも﹁騒擾ケ間敷挙動﹂を起こしかねないとみえたのにたいし て、農民は﹁概シテ愚蒙希望スル所甚少﹂く、﹁茅屋蕃薯芭蕉布ヲ以テ足レリトスルノミ﹂という状態にあったから であろう。尾崎のなかでも、支配秩序の維持にかんする顧慮は、農民の窮迫にたいする憐欄にはるかに優越していた。 れ 政府は、尾崎の復命にもとづいて上杉の更迭に傾き、明治一五年︵一八八二年︶一二月、上杉に﹁二障治二就テハ ⋮⋮旧ヲ革メ新二就クノ馬櫛於テ尤モ特別ノ処分ヲ要スルヲ以テ今検査院長岩村通俊ヲ差遣﹂すから﹁其指揮ヲ受 ケ﹂るよう命じ、岩村が翌年四月、﹁県庁旧慣ト事実二暗シ全体施政ノ方向ヲ誤り且権、下ニウツリ困難ノ場合二付 一時ノ弥縫又二三ノ修正ニテ県治ノアガルヲ侯更二見込ナシ﹂として、上杉を転任させて自分に県令を兼任させるよ う電報で要求すると、ただちに上杉を更迭した。岩村は、三ヵ月間会計検査院長に在職のまま県令を兼ねて、明治一 六年︵一八八三年︶八月置太政大臣にあてて復命し、上杉のもとで﹁県治概ネ旧慣ヲ破り内地府県ト津山ノ勢ヲ有ス 依之人心悔悔到ル処愁訴勘シトセス﹂という状態であったが、﹁御委任ノ大旨二基キ苛モ施政ノ弊害ト認メ雪隠旧慣 二背馳シ人民ノ愁苦ヲ来スモノ悉皆之ヲ改正ス﹂とみずからの業績をしめした。この﹁人心鼻翼到ル処愁訴砂シトセ ス﹂という状況は主として旧士族層にかんするものとして、誤りではあるまい。上杉の側近であった池田成章の悲憤 するところによれば、尾崎は、岩村の派遣にさきだって主だった旧士族二名に密書をおくって岩村の来県を予告し、 64 (1 ●60) 60 沖縄における近代化の希求(石田) ﹁士族之情実﹂を﹁委曲御陳述相成度﹂と示唆していた。実際に二名が岩村に﹁陳述﹂したかどうかは不明だが、そ れ れ以外にも旧士族はなんども集団で県庁に陳情をくりかえしていたし、岩村はなんらかの形で旧士族層の陳情をうけ いれたと考えられるからであ る 。 旧慣の温存は、かくして、施政方針の原則としての位置を再確認されたことになる。政府は、沖縄に植えつけた県 制度というあらたな中心的な制度的骨格の維持を至上目的としていて、これを危険にさらすような可能性はすべて回 避しようとしたのであり、アイゼンシュタットとロビンソンが別々の角度から指摘していたように、各地域における 変革は、そのために、伝統的支配層の権益を侵さない範囲に限定されねばならなかった。真境名が記述した社会の急 速な変貌は、この範囲のなかに慎重に封じこめられていたのである。換言すれば、帝国政府と県庁が首里・那覇を中 心とする急速なヤマト化をやすんじて進行させえたのは、旧慣温存のもとで農民が旧体制下とおなじ苛酷な貢租を負 担し、地割制度によって土地に緊縛され、﹁概シテ愚蒙希望スル所甚少﹂く﹁茅屋蕃薯芭蕉布ヲ以テ足レリトスルノ ミ﹂という状態にあまんじつづけて、県が旧士族層を宥和することを可能にしたからであった。しかし、まさにその ために、沖縄社会は全体的な構造変化を抑制されざるをえなかった。西里は、明治=二年︵一八八○年︶から明治二 七年︵一八九四年︶にいたる一五年間、﹁むしろ地方農村の人口の県全体の総人口に占める比率は増大する傾向を示 している﹂と指摘する。労働力の都市集中はまだはじまっていなかった。﹁資本主義的経営方式をとり入れた諸企業﹂ の﹁成立、普及﹂が本格化するのは、土地整理の完了による地割制度の廃止をまってのことであり、廃藩置県後、じ ハ ぬ つに二〇年以上が経過してい た の で あ る 。 64 (1 ●61) 61 論説 四 同化による近代化 旧慣を改変しないという政府の方針が変化したのは、明治二八年置一八九五年︶の日清戦争終結以後のことである。 清帝国の威信は、琉球処分に抵抗して旧体制を保持しようとする士族層の思想的な拠り所であった。一木喜徳郎はさ きに触れた明治二七年︵一八九四年目の調査報告のなかで、﹁置県以来今日二至ルマテ警察上常二注意ヲ要セシバ慕 旧主義則チ藩政復旧ノ論徒﹂であったと指摘して、そのような﹁論徒﹂のうち﹁開化党﹂以外の、,﹁黒党頑固党﹂と よばれる部分は、前者は﹁清国専属﹂を主張し後者は﹁日清両属﹂を主張するという違いはあっても、ともに﹁清国 二僑リテ復旧ヲ図ラントスル﹂部分であって、﹁置県ノ際ヨリ頻々脱航清国政府二救援ヲ嘆願シ内二在ッテ二折二三 レ事序托シ一意ノ出ル毎二陰茎非評上下ノ人心ヲ離間セント試ミ﹂ており、また戦争がはじまると﹁清国政府︹が︺ 救護ノ為メ軍艦ヲ差向ケルナドト捏造流言以テ暗二人心ヲ収撹セント試﹂みるなど﹁専心復旧ヲ計画﹂してきたと述 ユ べている。一木は、﹁清国帰縛﹂の真の目的は、清がしめしてきた支配の寛容さに頼って、﹁自己二利益ナル旧慣ヲ恢 復シ及保持スル﹂ことにあると推測している。この推測は、清帝国が敗北すれば、旧慣の改廃にたいする旧士族層の 抵抗の可能性は大幅に縮減するということを意味していた。そして清帝国は敗北した。清に脱出していたいわゆる脱 清人も帰国するようになった。開化党の運動は、この後も、王家であった田家を世襲的に県令の地位につけることを 目的とした公同会の運動として残ったが、これはすでに政府にとってはなんらの脅威でもなかった。もはや、﹁美治 ノ急施﹂を抑制するものはなくなったのである。 を閣議に提起し、﹁今日ヲ以テ改正ノ時機ト定﹂めるべきであると主張した。野村は、おそらくは前年の一木の調査 内務大臣野村靖は、明治二八年︵一八九五年︶、戦争の帰趨があきらかになった段階で﹁沖縄県地方制度改正ノ件﹂ ヨ 64 (1 062) 62 沖縄における近代化の希求(石田) にもとづいて、すでに旧慣温存のもとで、吏員が﹁頗ル冗多ナルト其ノ器ヲ得サル﹂ことがあきらかになり、﹁民智 ノ漸ク啓発セル﹂にしたがって民衆のなかからも﹁旧慣ノ弊濱﹂を﹁公然論議シテ苦情を唱フル者﹂がでてくるよう になったと指摘したうえで、つぎのようにのべた一﹁従来本県ノ人民黒田士族輩ハ頑然藩制ノ旧套ヲ脱セス甚シ キハ清国二対スル関係ノ復旧ヲ期待セル者アリシナリ然ルニ清国我ト事ヲ起スニ及ヒ清国毎二我優勢一二着ヲ輸スル ヲ視ルや即チ彼ラ百年ノ長夢ヲ警醒シ殆ント向背二迷ヒツ・アリタリシ民心ハ菰二概シテ適帰スル所ヲ得タルモノ・ る 如シ﹂。清国敗北の衝撃は﹁裕二本県第二次ノ変遷期ヲ成シタルモノ﹂であって、﹁宜シク此ノ時機ヲ利用﹂すべきで あるというのである。太田のいう﹁事勿れ主義の時代﹂はようやく終りをむかえた。旧慣の﹁改正﹂は二期にわけて 構想された。第一期の主要な改革は、地租の確定を可能にするために、二八○年間放置されていた﹁土地ノ丈量﹂を おこなうことであり、これに並行して、旧慣のもとでも例外的に宅地が商取引の対象にされていた那覇首里にたいし て、農村部にさきだって、個人の財産を確定するための新制度を定めることであり、各間切を郡に編成することで あった。第二期は、土地測量の完了をまって、土地所有権の明確化と地価の査定によって地租を確定し、地方税の徴 集を開始し、最終段階では﹁間切二施行スヘキ制度ヲ定﹂めることが予定された。野村は地方制度改革の仕上げの段 階についてつぎのように予測した一﹁土地ノ所有権ヲ明ニシ地租ヲ改正シ兼テ地方税ヲ起ス日二至レハ公民ノ資 格ヲ定ムル要件二二シカラス又下級団体力自己ノ費用ヲ給スルニ於テ賦課ノ標準ヲ求ムルニモ容易ナリ此ノ時二至リ 始発テ間切及島喚ノ地二行フヘキ適当ノ制度ヲ定ムルコトヲ得ヘシ﹂。野村は、明治二六年︵一八九三年︶に沖縄県 庁が提起した地方制度改革が見おくられた理由を論じて、本島の百姓地、八重山においてこれに該当する上納田など 大部分の耕地が﹁其ノ性質上人民ノ私有二属セ﹂ざる状態では、県庁の案は﹁地方制度ノ組織二於テ実二其ノ骨子ト 為ルヘキ議員ノ選挙権被選挙権ノ⋮⋮資格上子必要ナル財産上ノ要件ヲ欠ケ﹂ざるをえなかったと指摘しており、 64 (1 ●63) 63 説 葭隔 払 ﹁間切鴨島填ノ地二行フヘキ適当ノ制度﹂の中心に内法の改正などとならんで制限選挙制度がおかれていたことは明 らかである。財産の共同体的所有を私的所有に解体して、私有する財産にみあった租税を負担すべき個人を析出し、 さらに制限選挙実施への途をひらくことが構想されたのである。 野村の建議が臨時土地整理事務局の設置によって実行にうつされたのは、明治三一年︵一八九八年︶七月であり、 ﹁沖縄県土地整理法案﹂が議会に提出されたのは翌明治三二年︵一八九九年︶一月であった。土地整理法案の理由書 は、旧慣諸制度の不合理さを列挙したうえで、﹁抑モ置県以来侃此ノ如キ旧慣ヲ存続セシメタル所以ノモノ当時ノ事 情已ヲ得サル算出テタリト錐現今二於テ該県ノ状況復昔日ノ比ニアラス﹂とのべている。土地整理が完成して土地整 理事務局が廃止されたのは明治三六年︵一九〇三年置であった。この間、明治三三年︵一九〇〇年︶には沖縄に二名 の衆議院議員定数がわりあてられた。廃藩置県以来ほぼ二〇年を経て、沖縄の制度改革は旧体制の核心におよんだこ とになる。政府にとってはこの遅延は、支配秩序の混乱を抑止しながら置県という変革の核心を達成するための﹁巳 ヲ得サル﹂代償であった。しかし、その遅延は、制度の変革の遅延であると同時に、税を負担し政治に参画する主体 ア としての個人の出現が遅れたということでもあった。外発的に強制された近代化に惹起されて出現するはずの内発的 な改革をになう主体の形成が、それだけ遅れたのである。沖縄が旧慣諸制度のもとにあった明治一九年︵一八八六 年︶からの一〇年間に、日本の会社数は一、六五五から四、五九六へ、総資本額は五千万円から四億円へと急速に増 大していた。旧慣下でひらきつづけたヤマトとの格差は、沖縄の知識層にとって﹁已ヲ得サル﹂ものと達観しておれ る も のではなかった。 太田は、﹃琉球新報﹄の発刊から丸一五年たった明治四一年︵一九〇八年︶九月一五日置﹁拾有五年間吾人の立場﹂ と題する論説を掲載して往時を回顧しながら、明治二六年︵一八九三年︶九月一五日の創刊のおりに太田の同僚が社 64 (1 064) 64 沖縄における近代化の希求(石田) 説として掲載した﹁宣言﹂の概略を紹介した一﹁今時日本内地の形勢は如何なるぞ、⋮⋮︹政争は激烈をきわめる が、内地の論客は︺琉球あるを知りて琉球は如何なる所なる乎を質さず、全く之を不問に附し寧ろ此れを度外視し、 ⋮⋮︹琉球問題を︺社会上経済上の問題として講究するの徒を見ず、百有余方里の皇土五十有余万の王民︵大島群島 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ を含む︶南冥雲濠々の裡に隠れ、不随習の中に坤吟し、宇内の活気を観ず、文明の妙味を覚らず、轟乎として原始社 へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 会の模様にあり⋮⋮﹂︵傍点は筆者︶。太田はこの一文が、﹁琉球の天地を社会的に将た経済的に、内外に向かって紹 介し、而して又た本県下のことを全たく閑却せる中央の言論界に向って如何に注意を喚起せんと欲する希望と目的と を有したりしかを見る﹂に十分であると指摘するが、廃藩置県によって帝国に統合されたにもかかわらずヤマトと同 等の改革がおこなわれないという事態にたいする、旧慣温存下の知識人の焦慮をよみとることは容易である。 しかも、この日清戦争前夜から戦中にいたる段階は、士族から農民にいたるまで多くの者が﹁向背二迷ヒッ・﹂ あった時期であった。太田は明治三四年︵一九〇一年︶五月に﹃琉球新報﹄に掲載した﹁古手帖﹂というコラムで、 ﹁明治二七八年は⋮⋮本県にては愛に革新の動機熟し社会のあらゆる方面に於て改進保守の思想相衝突し社会は殆ん ど懐疑の雲を以て掩はれたり﹂と回想して、当時﹁朝夕胸問を往来﹂してはいても﹁一々紙上に発表するを得ざるも の﹂をしるしておいた﹁古手帖﹂を紹介している一﹁沖縄の真の利害は果して全国と一致するを得ざるか、今や 余は斯問題を説明せざるべからざるの不幸に遭遇せり内には到底一致せずと誤認する所の頑固輩あり外には沖縄人の 思想は悉く全国の利害に衝突する者との疑念を抱く狭量にして猜疑深︹く︺功名に急にして不親切なる内地人あり﹂。 このような状況では沖縄の変革はむずかしい。﹁彼を破り此を解くにあらざれば到底沖縄をして文明の域に進ましむ ること能はざるべしし。日清戦争の帰趨は、このような混沌とした状態に終止符をうつものであった。太田はこの回 顧を﹁我輩は爾来精力の過半を斯問題に注ぎ来れり然るに今や三尺の童子もこれが説明を求むるものなし本県も亦五 64 (1 。65) 65 論説 六年前の沖縄にあらざるなり﹂と結んでいる。太田のみるところでも、すでに、帝国への十全な統合という方針の現 実性を疑うものはいなくなっていたのである。 問題は、帝国への十全な統合をどのようにして果たすかということであった。太田にとって帝国への十全な統合と は、沖縄と沖縄人が﹁他府県と同等の勢力﹂をもち、﹁本県とか内地とか云ふ感情を去り双方を調和せしむる﹂こと であった。そのためには、一方で、沖縄が旧慣諸制度を清算して、すでに急速に資本主義を発展させつつあるヤマト ル 各県に追いつくだけの経済発展をとげることが必要であり、他方で、ヤマトの文化に同化して﹁内地化﹂すると同時 ハね に、沖縄人が沖縄に在住している内地人に対等にまじわることが必要であった。 旧慣諸制度の清算の方は土地整理によって一段落した。太田は、明治三四年︵一九〇一年目一月の論説で、﹁土地 に関するの旧制度は本県の針路を塞ぎたる最も大なる障害物﹂だったが、それが除去されれば沖縄はコ潟千里の勢 お ひを以て進歩する﹂にちがいないと主張した。﹁土地の相場﹂は﹁経済法則に支配﹂されるようになり、﹁全県下の経 済事情が総て其面目を一新するは必然の勢い﹂である。﹁本県今日の事業界﹂は﹁事業の基礎誠に薄弱しであるが、 ﹁田舎の小百姓﹂が﹁故土に恋々たらず自然の法則に促され﹂﹁利を逐ふて﹂流動するようになれば、﹁此に初めて資 本主労働者の区画整然となり農工業共器械的の大仕掛を利用するを得るに至るべし﹂というのである。その陰では、 ﹁大部分の農民﹂が﹁従前の生活﹂をつづけられず、都市の﹁労働者となるか﹂あるいは﹁田舎に止まりて旦雇稼ぎ をなす﹂かの﹁二者択一を撰ばざるべからざるの運命に迫ら﹂れるであろうが、太田にとってはそれは﹁勢いの免か るべからざる所﹂であった。彼は、﹁実業﹂が発展し沖縄が﹁進歩﹂するなかで、農民は労働者としてのあらたな生 レ 活をえるものと考えたのであろう。農民が都市労働者になれば、社会は根底から変動せざるをえない。﹁農家の状態 お 一変すれば一般の経済事情も亦随って一変するを信ず﹂。では、農民の﹁従前の生活﹂とは、どのようなものであっ 64 (1 。66) 66 沖縄における近代化の希求(石田) たか。太田は、この論説とほぼ同時期に、﹁芋の葉露︵田舎生活︶﹂と題する連載記事を書いて、中頭地方の農村の生 活を描写している。彼の近代化への展望は、農村生活の実態にたいする認識にもとづいていたと思われる。以下、こ の記事を一瞥しておくことに す る 。 太田が目にした農村の生活は、上杉茂憲や尾崎三良が二〇年前にみたものからそれほど隔たってはいなかった。家 屋は﹁穴屋﹂とよばれる﹁掘建小屋﹂が普通であって、それは﹁三間半と三間の母屋と三間四方の納屋と二棟続きの ものが上等の部類﹂であり、﹁軒の高さは五尺に足らず出入りもシャガンでする位ひ﹂である。板戸がたてられてい ることは﹁甚だ稀﹂で、大部分は竹で編んだものが代用にされている。これは﹁指先にて一寸と押せば捻る﹀程なれ ども盗難の憂ひ﹂はない。﹁田舎に盗賊なきにあらず盗む物なければなり﹂。床は﹁丸竹﹂を縄で編んだものであり、 ﹁敷物には雷雨を敷き歩行く度に淋の竹が動いてその毎に音をたてる有様﹂である。この﹁掘建小屋﹂にすむ住民の ︵藁︶ ︵16V 主食はあいかわらず芋であって、芋は﹁田舎の生命﹂であった。彼らが身にまとうものは、仕事着と普段着を兼用し たもので﹁そのま﹀寝起き﹂する。﹁これが夏冬各二枚﹂。寝具にいたってはコ枚の赤毛布を有するものさへ誠に 稀﹂で、﹁これ気候温暖のありがたさ﹂ではあるが、それでも冬の夜は﹁華氏四十六七度︹摂氏八度程度︺に降る﹂ レ こともしばしばであり、﹁斯る寒夜にても布団にくるまりて暖かき夢を結ぶものは一村中一二あるかなしか﹂である。 正月などたまの祝宴に﹁米の飯を炊き豚大根冬瓜豆腐の煮しめを馳走する﹂のが農民にとっての﹁無上の美味﹂であ る。太田は、彼らが﹁都人士が携ふる所の弁当︵天麩羅をさいに□たるが上等なり︶を見て生涯に一度はあの様なも の のに舌を潤す﹂ことがあるだろうかというのを聞いて、﹁覚へず涙を催ふしたることあり﹂と記している。この余裕 のない生活のなかでは﹁婦女に属すべきものとては一個の櫛の外には殆ど皆無﹂であり、コ面の鏡を有するもの﹂ はきわめて稀であった。太田は、この連載の冒頭で、﹁社会の程度を見るにはその生活の情況を視察すること最も捷 り 64 (1 。67) 67 論説 径なり生活は資力の権衡にして又知識の尺度なり﹂として、﹁社会の進歩と云ふもつまり生活の進歩を意味するに過 ぎず﹂と指摘していた。彼にとっては、土地整理によって農民が土地から引き剥がされ、このような生活から解放さ れることが﹁社会の進歩﹂だったのであろう。 しかし、土地整理という外的要因によって制度的な﹁障害物﹂が除去され、経済的な発展の可能性がえられたとし ても、なお、沖縄人が内地人と対等にまじわるようになるという展望をひらくのは容易なことではなかった。太田は、 ﹁古手帖﹂のなかで、明治二八年︵一八九五年越九月二五日に目撃した小事件のことを書いている。これは彼が友人 をたずねた折りのことであった。友人宅の向かい側にあった内地人の菓子屋に﹁首里の士族らしき風俗の婦人﹂が やってきて重箱に菓子をつめさせたのだが、おそらくは同じ菓子に﹁円形﹂のものと﹁花形﹂のものがあって、その 重箱には両方がまざっていた。彼女は﹁小僧が詰めて渡したる重箱﹂をながめて﹁丁寧なる語調﹂で、﹁この円形の は体裁わうし同じくば花形のみにしてほし﹂といった。ところが、そばで菓子をつくっていた主人は﹁声をあら﹀ げ﹂、﹁汝は八釜敷ことを云ふもの哉此方より渡したるものはよければこそ渡すなれ﹂と﹁最横柄に恰も下山でも叱 る﹂ように﹁半慢語しでいったのである。怒りもせずに﹁是非にと望む﹂墨客にむかって、小僧までが﹁早く銭を出 ぬ して帰れ﹂と怒鳴り、結局、婦人は﹁銭を払ひ渋々立去﹂つたというのである。このような、あたかも身分制のもと にでもあるかのような内地人と沖縄人の関係は、制度改革が本格化したのちも残存した。そのことは太田の愛郷心を 刺激し、多くの論説をうみださせることになった。そのなかでも、明治三五年︵一九〇二年︶六月、彼が﹃琉球新 報﹄に六回にわたって連載した﹁与K、S論時事﹂と題する論説は、前年来深刻化した不況にくわえて飢饅が本島に 拡大しつつあるという状況のなかで、沖縄と沖縄人がおかれた現状を薩摩支配から旧慣温存政策におよぶ統治の歴史 との関係において論じたもので、切実な危機意識をよみとることができる。 64 (1 ◎68) 68 沖縄における近代化の希求(石田) 太田は、毎回﹁K、S君足下﹂という呼びかけではじまるこの連載の第一回で、長期にわたる旧慣温存政策が沖縄 の将来を困難にしたという認識をしめした一﹁想ふに藩の名称を廃してより、今日に至るまで二十四年⋮⋮新沖 縄の誕生は実に難産と云ふべし、難産の児は、其生育概ね不良なり、此難産児の生先に当ては、我輩煩慮せざらんと お 欲するも能はざる也﹂。旧慣温存という﹁現状維持の精神﹂によって帝国全体の﹁革新の勢﹂に対応しようとするこ とは、﹁既に根本に於て時勢と相容れず、其経過の遅緩且つ難渋なるは寧ろ当然の事﹂であった。そのような政策は、 あきらかに、沖縄を他府県から差別するものであった。旧慣を維持するという政府の方針に、太田は、沖縄をあらた に併合した植民地のようにあつかう姿勢をみたのである。﹁足下よ、沖縄は決して日本の新領土にあらず、我輩沖縄 県人も亦決して爾く思はざるなり、然れども政府は槌に新領土を以て沖縄に擬せり﹂。実際、政府がおこなってきた 政策は﹁教育の外一も見るべきもの﹂はないし、教育にしても﹁国民的精神の統一を期す﹂以外、沖縄人を啓発する ことを避けてきた。沖縄人が廃藩置県に抵抗せず﹁時勢の風潮に柔順﹂であったら、政府はここに﹁教育を普及する の必要﹂さえ感じなかったであろう。沖縄は教育以外はなんら﹁他の営養物を供給﹂されず、﹁実質を発達せしめ﹂ られなかった。その結果、沖縄は﹁将に全身衰弱に瀕﹂している。﹁当路者は如何にして此病症を治せんとするか、 我同胞は如何にして其精力を回復せんとするか﹂と太田は問いかけたのである。 お 太田は、これにつづく論説で旧慣温存期を回顧し、この期間を﹁一貫する﹂ものがあるとすれば、それは﹁保守的 精神﹂であったと指摘した。この精神は日清戦争によって駆逐され、日清戦後の沖縄は﹁宛も別天地の観﹂を呈して いる。このあらたな状況は﹁随分革新の業﹂を可能にするはずだが、﹁今尚ほ前世紀の方針を踏襲して以て、新時代 の要求に応ぜんとするの傾向﹂がある。﹁本県には如何にして法令を円満に実行すべきかの問題ありて、如何にして ム 県民の福利を増進すべきやの問題なし、本県の諸官衙は、上級官衙の都合をあはすに忙はしくして、遂に深く人民の 64 (1 ●69) 69 論説 疾患を顧みるに邊なきが如し﹂。その結果が﹁金融の逼迫、農民の惨状﹂であり、﹁当路者は決して其責任を□する﹂ ︵25︶ ︵辞︶ ことはできない。官吏はヤマトからの﹁寄留人﹂であり、そのなかには﹁所謂大国風を吹して愚民を虐遇するもの﹂ が少なくない。太田は、自分が主張する沖縄人と寄留人との﹁調和﹂は、﹁対等に於ての調和﹂であって、﹁県民をし て彼等の膝下に降伏して、感情の衝突を避けよと云ふ﹂のではないと強調した。太田の眼には、二四年間におよぶ旧 慣温存も、日清以後の旧態依然たる政策も、ともに沖縄と沖縄人にたいする蔑視の表現であると映っていた。もとよ り、彼も旧慣下で進められた民生上の改善などを否定していたわけではない。たとえば、前年明治三四年︵一九〇一 年︶に書いた記事では、明治一七、一八年︵一八八四、五年︶の頃は入浴の習慣は一般的ではなく、﹁那覇の市内で さえ湯屋を業とするもの﹂はいなかったし、﹁婦人の如きは⋮⋮厳に人目を避けて以て年に何回と腰湯を使ふ﹂にす ぎなかったが、近頃では田舎でさえコ寸繁昌する所には町湯なき露なく﹂、﹁上下共に男女を問はず三日にあげず入 ハ 浴せざれば心持ちもよからずと云ふ程﹂になっていて、清潔にすることが習慣化したと評価していた。しかし、眼前 の沖縄の窮状と内地人の専横を論じるとき、旧慣温存のもとでおこなわれた社会改革は、すでにまったく色槌せてみ えたのであろう。それに、そのような改革は沖縄人が主体として内発的にすすめたものでもなかった。 太田は、沖縄における﹁本県人民﹂と﹁内地人﹂の関係は、数のうえでは﹁二十と一の比例﹂であるが、勢力のう えでは﹁凡そ一と百の反比例賦をなしていると指摘する。しかも、それは﹁単に政治上のみ﹂ではなく、﹁社会上に 於ても然り、商業上に於ても亦薫り﹂である。このままに放置しておけば、両者は﹁奴隷と主人、若くは被征服者と 征服者の関係﹂にならざるをえない。しかも、内地人にとって沖縄は﹁いはゴ一時的の腰掛け地﹂であり、彼らは ﹁一時的の旅客しにすぎないのだから、﹁子孫永遠の為めに謀るもの﹂は少数であろう。太田は、そのような寄留人あ るいは内地人によって牛耳られる現状にたいして、慨嘆せざるをえない一﹁詳言足下よ、我県民は旅客の指金を 64 (1 。70) 70 沖縄における近代化の希求(石田) 待って、自家の社会を建設せざるべからざる程愚なるか﹂。この状況は変えなければならない。﹁我輩今日我県民に鞭 冒する所以のものは、一日も早く内地の各地方と並行せしむるにあり、被征服者の地位を脱せしむるにあり、真正の 価値を発揮せしむるにあり﹂。これらのことを実現するための最大の障害は、﹁一と百﹂という沖縄人と内地人の勢力 格差であった。なぜ、このような格差があるのか。太田は一七世紀以来の薩摩支配に言及する。﹁慶長年間以来門人 が威を当地に振ひたることは実に過酷にして⋮⋮当地の人民を見ること虫けらの如し、当地の人民は薩人と見れば忽 ち萎縮し⋮⋮然して三人は即ち所謂大和の代表者にてありき﹂。この薩摩の支配にかわって登場したものは帝国政府 の﹁兵隊と巡査﹂であり、﹁政府および県庁の役人﹂であった。彼らは﹁武装して県に臨み、電光石火数日の間に於 て、藩王始め数千の士族の位ひを奪ひ職を奪ひ、数百年来の制度を廃して置県の処置をなし﹂た。かくして﹁沖縄人 民はさながら食客の境遇に陥り、政治上より社会上に至るまで⋮⋮沖縄の士民は唯々諾々たゴ其制に服従するのみ﹂ という状態になり、﹁所謂大和人の前には、犬に対する猫の如く、猫に対する鼠の如く、其声を聞いても身を縮むる 程﹂であり、﹁如何なる無理も御尤を以て通し﹂てきたというのである。﹁沖縄人民は実に意気地なしの骨頂﹂であり ﹁全く木偶と其伍を同じ﹂くし、﹁社会とは全然縁を絶つの姿﹂であった。 最終回にいたって、太田は、旧慣温存のもとで二〇年以上にわたってこのような事態がつづいたことが、いかに沖 縄人を欝屈させたかを強調する。このあいだに、沖縄人は﹁継子的に生育﹂し、その結果として、﹁偏癖多き事、引 込み思案に富める事、颯爽快活の精神に乏しきこと﹂など﹁継子に発生すべき性癖は概ね之を具備﹂し、また、﹁士 民の趣味﹂は﹁殆ど極点にまで下落﹂した。﹁恐怖と猜疑を以て充たされたる所の人民﹂が﹁品性の堕落を来したる れ は当然の結果﹂にすぎない。﹁誉れ全く治者の責任﹂であって、﹁今日の現状を見て以て直ちに種族に等差あるが如く 考ふるものは実に早計﹂である。このような状態におちいる以前の沖縄は、﹁察度、尚巴志の如き英傑﹂も﹁向象賢、 64 (1 ・71) 71 論説 察温の如き政治家﹂も輩出した。とくに﹁察温の如き﹂は岡山藩の家老で儒学者であった﹁熊沢怨讐﹂にも匹敵する。 決して沖縄人の伝統がヤマトに劣るものではない。だから、現状は﹁置県以来特発の現象﹂と見るほかないではない アうして太田は一連の論説をとじるのだが、その筆鋒の冴えは愛郷主義者の面目を遺憾なくしめしている。太田 には﹁話さへ砥に出来ず勿論品位とて微塵も﹂ない﹁全く山出しのもの﹂が、二年後に帰郷したときには﹁姿勢と云 空気に接触せしむるにある﹂と指摘した。そうするためには軍隊における教育でさえ有意義であった。入隊するとき さきにあげた明治三三年︵一九〇〇年︶=一月のコラムで、﹁沖縄を発達させるに最も早道は県民をして多く文明の 思想の程度﹂を向上させて、社会の近代化を推進するにたるものにするかという点に集中せざるをえなかった。彼は、 其活動を遅鈍﹂にさせており、﹁縦令ひ︹旧慣温存の二〇余年がなく︺他府県と同一の発足点より出発﹂したとしても、 が この欠点を克服しなければ﹁到底︹他府県と︺比肩すること﹂はできない。太田の関心は、いかにして﹁一般人民の 彼が﹁継子﹂的性格と呼んだものと同様だが、そのような欠点はコ個人の行動たると社会的行動たるを問はず総て 的な不利にくわえて﹁世界の文明に相伴ふには他府県人よりもより多くの群籍を有す﹂と主張した。この﹁散点﹂は かった。問題は﹁一般人民の思想の程度﹂であった。太田は、翌明治三四年︵一九〇一年︶八月には、沖縄人は地理 お どのようにするか。太田の認識では、﹁社会の程度﹂というものは﹁一般人民の思想の程度﹂を越えるものではな 制度的な栓桔が解消されたにもかかわらず、近代化をになうべき主体が沖縄人のなかに形成されないという事態を、 現状にたいする苛立ちとやり場のない憤りを読みとることは、容易であろう。 いるという認識を明快にしめすものであった。そこに、帝国政府と内地人官僚にたいする敵聖心と同時に、沖縄人の 的の旅客﹂にすぎない内地人官僚の百韻をゆるし、そのことが、内発的な近代化をになうべき主体の出現を阻害して の議論は、旧慣温存政策が、薩摩支配のもとでつくりあげられた沖縄人の︼般的な卑屈さをも温存し、さらに=時 妬一 64 (1 072) 72 沖縄における近代化の希求(石田) ひ態度と云ひ挙動と云ひ我輩が東京で見た兵士と少しも異なる所はない﹂。﹁軍隊教育の行き届いていること﹂はあき れ らかであり、﹁県民は軍隊に向って感謝せねばならぬ﹂というのである。軍隊教育によって沖縄人一般の﹁思想の程 度﹂がかわって社会変革が進展すると太田が真剣に考えたわけではあるまいが、そのような表現をせざるをえないほ ど、彼の眼には沖縄人がふがいなく見えたのであろう。そのような憤懸は、この六年後には一層激しい調子で語られ ることになる。 太田は、明治三九年︵一九〇六年︶六月のコラムで、警視庁が東京にいる乞食の処理に手を焼いて沖縄に送りこも うとしているという噂をとりあげて、真偽はともかく、こんな噂がたつこと自体、沖縄人が外部から軽んじられるほ ど﹁自ら劣等人種として卑屈﹂覧になっているということだと論じた。﹁本県民が何時までも旧態に甘じ所謂大国の人 は違ひますと云ふ精神で少しも遠大の志望がないから外からもヂキジンと侮って︹沖縄県は乞食を放りこんでおくた めの︺塵溜の様に思はる﹀のだ﹂。沖縄人は﹁本県人同士だと何事も直ちに競争を初めて忽ち共倒れ﹂になるくせに お ﹁他府県の人と衝突する場合には理非を問はず卑怯にも勤めて之を避け﹂る傾向がある。﹁自ら劣等人種として卑屈に なるのは之を奴隷根性と云ふ﹂のであり、﹁自信力が強くなければ到底進歩はしない﹂。そのような根性では沖縄は、 キンタマ いつまでも、対等性を獲得して﹁世に独立﹂することなどできはしないll﹁本県の諸君自ら其睾丸を見て最少し しつ 緊かりし給へ﹂。このような民衆の状態をなんとかしなければ、近代化の主体形成はおぼつかなかった。 太田にとって近代化をになうにたる心性とはどのようなものだったのだろうか。それが、卑屈な﹁奴隷根性﹂と無 縁のものだったことはあきらかだが、ヤマト人と対等に競うことができる心性は、どのようにして可能であろうか。 彼は、明治三三年︵一九〇〇年︶七月の、﹁平民社会﹂の青年のあいだに﹁士族的気風﹂が﹁浸潤﹂していることを 問題にした論説で、﹁文明の代価は極めて高額のものにて文明社会を建設せんとする時は先づこれに払ふべき代価を 64 (1 ●73) 73 論説 持へざるべからず﹂と指摘し、﹁西洋文明の諸国﹂も﹁有形物質の進歩をも促して遂に今日の文明を致した﹂のであ 必要なものは、青年の﹁殖産の精神﹂であった。このように物的進歩を重視する彼の姿勢は、翌明治三四年︵一九〇 れ り、﹁物質進歩せざる時﹂はいかに﹁精神の側のみ﹂が進歩しても、﹁完全なる文明﹂には到達できないと主張した。 ハお 一年︶八月の論説のなかでは、﹁時代は実業的行動を要求﹂しているという主張となり、さらに明治三六年︵一九〇 三年︶一月には﹁物質の文明﹂の進展こそが﹁十九世紀の特色﹂であるという指摘になった。太田にとって、近代化 は物的進歩の果実にほかならなかった。しかも、社会の物質的進歩は日常生活の進歩以外ではない。近代化をにない うる心性とは、殖産の精神で日常生活を律することのできる心性であり、強い﹁自信力﹂をもった心性であった。太 田の眼が、早い時期から沖縄人の日常生活に集中したのは、このような認識によるものであった。彼にとって、沖縄 人の獲得すべき日常的行動指針とはどのようなものであるべきであったか。 太田は、明治三四年︵一九〇一年︶三月末から五月末にかけて一〇回にわたって連載した﹁新沖縄の建設﹂と題す る論説のなかで、新沖縄を建設するにあたって﹁世界的文明﹂を輸入する一方で、﹁日本帝国の一局部たるに恥ざる れ 様﹂にしなければならないと指摘して﹁標準を国民的精神に﹂とるようもとめた。﹁国民的精神﹂を標準にするとは、 具体的になにを意味するのか。太田は、﹁例へば本県の葬式は如何にも支那めきて誰が目に見ても日本国民の葬式ら しき所なし其他全然儒教より来たりて日本全般の習俗と一致せざるもの少なからず﹂として、これらは﹁宜しく改良 せざるべからず﹂と主張し、さらに、﹁日本国民としてのコンモ︹ン︺センス︵常識︶の中にも最もコンモンなる感 覚﹂をもっために﹁普通語の普及﹂を主張し、衣服についても、﹁︹ヤマトから︺美術家が来りて本県婦人の衣服を称 賛﹂しているが﹁美術眼﹂ではなく﹁社会眼﹂をもってすれば﹁全国に融和せざるべからざる時勢となりたる以上は 如何なる特徴あるも筍も融和に害あらば忍んで改めざるべからず﹂と主張し、﹁社交の状態﹂、﹁風俗﹂についてまで 64 (1 ●74) 74 沖縄における近代化の希求(石田) な も細かな議論を展開した。これは上位文化としてのヤマト文化への生活全般にわたる同化の主張であった。 太田は、全般的な同化によって﹁県民をして多く文明の空気に接触﹂させ、﹁自信力﹂をもった近代化にたえる心 性をつくりだし、旧慣温存政策によって延引された沖縄の内発的な近代化の過程を急速に始動させようとした。ヤマ ト人にたいする対抗意識は、向象賢や薬温を生んだ沖縄の誇るべき伝統を彼に意識させたが、﹁沖縄県をして他府県 と同等の勢力を有せしむ﹂という彼にとっての至上命題は、そのような誇りをヤマトと文化的に対抗するという方向 にはむかわせなかったのである。ヤマトへの文化的同化を不可避とする認識と、沖縄の伝統にたいする誇りと表裏︸ れ 体をなすコ時的の旅客﹂としてのヤマト人にたいする不快感とは、太田のなかでは別々の次元に属していたように 思われる。しかし、そうではあっても、一方で文化的同化を主張し、他方で沖縄人としての自負とヤマト人への憤愚 とを語ることは、あきらかに居心地の悪さをともなうものであった。この居心地の悪さを解消して二つの主張に説得 力をもたせるために、太田はあらたな論理を必要とした。日琉同硬論はこの必要をみたすものだったのではなかろう か。伊波普猷の屈折した﹁種族的自尊心﹂が日琉開祖論を展開させたように、太田にとってもこの理論は彼の主張に 足場をあたえるものだったのではなかろうか。 五 対等性の言説としての日琉同指間 ﹃琉球新報﹄が日差同祖の主張をはじめて正面にかかげた論陣を張ったのは、明治三九年︵一九〇六年︶六月のこ とであった。﹁過去の県治﹂と題するこの無署名の論説は、六月六日から一〇日まで五回にわたって連載された。伊 ユ 64 (1 。75) 75 論説 佐眞一はこれが太田が書いたものかどうかは不明だと指摘するが、たしかに、論旨の展開の仕方は、太田の他の論説 ハ とちがって、明晰さを欠き同一の主張が何度もくりかえされていて、彼がみずから筆をとったかどうかは疑わしい。 しかし、論旨それ自体は太田のそれまでの考え方の延長線上にあり、太田らしい言い回しも散見される。この論説の 随所に太田の筆と示唆がくわえられたのであろう。また時期的にみても、太田が伊波の同祖論講演にたいする熱い期 待を表明し、この講演によって﹁琉球民族が大和民族と同一根幹たること﹂を沖縄人が﹁自覚﹂すれば、沖縄人が ヨ ﹁大和民族として大手を振って世界を闊歩するの時期﹂が到来するとのべる三ヵ月ほどまえである。太田の同筆論の 普及にたいする熱の入れ方をみても、この論説は太田の主張を代弁するものと考えられる。 長文の論説の第一の主旨は、言うまでもなく、日琉同祖の主張であった。﹁︹沖縄人とヤマト人とは︺人類学上其の 根幹を同一にし同一血管を興る﹀同一の血液が時々刻々日常の生活に於て同一の鼓動を爲﹂しているのであり、また ﹁歴史的考究の結果﹂からみても、﹁吾々県民の宗祖は帝国本土の主幹人種たる天孫人種若くは大和民族と称するも の﹀祖先と同︼根幹﹂であって﹁今日に於ける我が帝国的文明の主導的人種は乃ち吾人と其の宗祖を同ふするもの﹂ である。このように、日盛同祖は学術的に裏付けられている。したがって、﹁其の人種上の根幹を共にしたる是等両 イ 土の人民が時節到来して親密なる関係に復旧すれば其の親善共通の度合ひ及び其の諸点は予想外に多きもの﹂があり、 ら ﹁其の法律命令の如きは之を行ふ上に就き予想外なる好結果を収め得て黒まるを見る﹂のである。しかしながら、太 古に同祖であったとしても﹁其の帝国本土と琉球諸島との関係が一時は中絶﹂し、ヤマト人の現状と沖縄人のそれと のあいだに大きな隔たりができていることは事実ではないのか。論説は、それは﹁皮相の観察﹂だと主張する。﹁成 程其の皮相の観察よりする時は本県々民は⋮⋮荘厳なる建築の何物をも有せざる也崇高霊位なる宗教の何ものをも有 せざる也﹂。そして、﹁県民は住ふに扇屋の裡に在り着るに華麗燦々たるの衣紋なし其の生活低く其の態度は謙抑な 64 (1 976) 76 沖縄における近代化の希求(石田) り﹂。宗教についてみても﹁県民の宗教心は粗末なる御嶽に到るを以て満足﹂するのであって﹁他邦人の見て以て彼 等の発達を疑ふ種ともなる﹂であろう。しかし、﹁之れ寧ろ皮相﹂であって、﹁其の皮相なる生活状態の下には彼等の 血液が純潔崇美なるが如くに心霊の発達は驚くべき細密正良の方向を探て進み来れる﹂ことを知らねばならな撃 論説は、この沖縄人の生活の質朴さこそは、じつはヤマト人と共通の祖先をもつ天孫民族の伝統の本来の姿なのだ と主張する。天孫人種には﹁質素謙抑の美徳﹂があり、﹁必要なしには妄りに動くことなき沈着の気風﹂があり、﹁目 的の定かならざる事業には寧ろ退いて其の手を出すことなき堅固の精神﹂がある。これは当然に﹁大和民族﹂の本来 の姿でもある。﹁見よ彼の日本本島の歴史的主幹なる大和民族の上古は︹天智天皇が皮を剥ぐこともしないで丸木のま まで建てた︺黒木の御所さへありたるにあらずや﹂。大和民族は﹁僅かに黒石の頸飾りを付けたるのみ﹂で他には何 ら﹁長喜﹂をつけなかったのであり、﹁質素を貴ぶ彼等が祖先の風習﹂は﹁大聖伽藍の建築物﹂を必要としなかった し、﹁錦当面子の華麗なる美術の装飾品﹂を要求しなかった。その宗教もまた﹁印度若くは猶太等の夫れの如に深き 遠里的のもの﹂ではなかった。現在の状態は﹁後世支那に交はり現今は泰西に交﹂わって、﹁能く是等の文明を咀囑 し応用﹂するようになって、﹁始て中古以後今日に至るの文明を有する次第﹂になったのではなかったか。﹁斯くの如 くに我が沖縄県民もまた大鷲伽藍の壮観を有せず堅実なる木綿の常服を着け芭蕉の軽杉を翻し以て其生活を楽めり彼 等が御嶽に至るの真実心は取りも直さず宗教心の簡単なるを意味するものにして天孫人種の特徴と見るの外なし﹂。 過去の沖縄人の状態は、まさに中国文明摂取以前の﹁大和民族﹂の本来の姿に他ならない、というのである。 このように、沖縄人こそは﹁大和民族﹂の本来の伝統を継承するものであると主張すれば、必然的に、沖縄人の歴 史は、史実の如何にかかわりなく、輝かしいものでなければならなくなる。そして、これが主旨の第二であった。論 説は自信にみちて呼びかける一﹁見よ我沖縄県民の昔時は如何にして其生活をなし来たりしか彼等は実に其の日 64 (1 ●77) 77 論説 本支那の両国の間に介在し此の両勢力に対して如何なる巧妙の政策を探り来たりしか﹂。また﹁其の国家を治むるに 就き最要欠くべからざる一切の武力を廃撤﹂して、なお﹁其の長き年月の間を治め来﹂たった。そこでは統治はなん らの強迫によるものではなく、支配をうけるものはそれに喜々として従い、権威の象徴としては一本の扇子で足りた。 会組織の如何に完全に殆きもの﹂であったかを示唆するに足るものである。この社会組織に支えられて、彼らは海洋 ﹁所謂治者は垂操以て之を治め被治者は之を悦びとし官民上下扇子の一本をさへ儀容の粧飾たり﹂。それは﹁彼等の社 王国を築いた。この海洋王国の歴史こそは、沖縄人が﹁天孫人種﹂としての面目をしめすものであった。﹁我等県民 の祖先が其の太平洋上の順風を利用し日本海上の波浪を渡りて支那若くは南洋諸島に冒険なる航海を試み貿易を行ひ たりしが如きは更に其の有心落々たる天孫人種の気象を発揮し得たるものにして後世子孫努力以て之に倣はざるべか らざる所なりとす﹂。そのような歴史は﹁決して野蛮蒙昧の歴史﹂ではなく、ヤマト人の歴史に比してもいささかの 遜色もない。﹁沖縄県民の善良にして進歩的なることは歴史的及び其の血族的関係より見るも帝国本土の人民に譲る べき□の理由一も之れなし﹂と論説は主張したのである。 け しかし、帝国政府はそのようには認識しなかった。論説の主旨の第三は、置県以後の政府がどのように認識をあや まり、その結果、沖縄がどのように発達を阻害されたかということであった。論説はつぎのように問題を提起する ﹁過去における中央政府が沖縄県民に対する取扱振りは或は其の見当違ひより割出されたるものにあらざるなき ド 乎﹂。論説は、その疑問の根拠の一例として、政府が明治二五、二六年︵一八九二、三年︶に宮古島で、隷属民で あった名子制度を廃止したときのことをとりあげた。名子は役人に終身隷属して粟と労働力を提供するものであり、 この制度の廃止にたいして役人層は強硬な抗議をおこなったが、このとき政府内では、この抗議を﹁琉球民族の一大 ハお 謀反﹂とみなし、﹁軍艦をさし向け之を鎮圧せざるべからず﹂という議論がおこなわれたというのである。もとより 64 (1 ●78) 78 沖縄における近代化の希求(石田) このようなことは﹁当時に於ける琉球人民の夢にも想ひ浮ばざりし﹂ことであって、彼らが信頼し依存していた﹁中 央政府の神経﹂がこのように﹁些細なること﹂に﹁如斯き調子外れの微動﹂をしめしたことは、﹁呆れる外なき所﹂ であった。たしかに、政府がこのような過剰反応をしめしたことにはそれなりの理由があった。﹁吾人雄心れに対し て同情なきにしもあらず﹂。しかし、それは﹁沖縄県民が自から求め﹂たことというよりは、対清問題など﹁中央政 む 府が斯く神経的ならざるべからざる周囲の事情に制せられ居た﹂ためという方が﹁穏当﹂であろう。 政府の政策がどのような理由によって形成されたかは別として、﹁過去に於ける中央政府の県治上の政策﹂が﹁是 等善良にして進歩的なる県民をして其の思ふがま﹀に発達を遂げしむるに足るべきもの﹀み﹂でなかったことには違 いがない。﹁手近き一例が前述の神経作用﹂のようなものであり、それは﹁政策を誤る主たる源因の=であった。 しかも﹁其の神経的作用﹂は﹁県下に対する政道を完全に導くこと﹂を不可能にしただけでなく、﹁︹政府当局者の︺ あ 本県に対する耳目をして充分に開くこと﹂をも不可能にした。﹁寄れ過去に於ける本県発達上著しき障害たりき﹂。 ﹁中央政府及び其派出官吏たりし過去の県吏員等﹂は、こうして、﹁万事に就けて神経的に且つ自から求めて盲目的﹂ であって、沖縄人の﹁貴重なる歴史﹂を完全に無視し、﹁小学児童の記憶﹂からこれを﹁取去り了せんと企画﹂した ことさえあった。それがいかに理不尽なことか。﹁賜れ何れの人か父母なからむや何れの人民か歴史なからむ牛に憤 あ あり馬に駒あり琉球民族独り亡牛の末にもあらずまた其の木馬の末にもあらざるなり﹂。もしも﹁過去に於ける本県 統治の要論﹂が沖縄人の﹁美はしき歴史を悉く埋没に帰せしめんと欲するに在﹂つたとすれば、﹁彼等が本県々民に 対する所以のもの﹂は﹁所謂忍なかれかしを祈りたるもの﹂といわざるをえない。﹁本県々民が之によりて蒙むる所 の損害また甚だ大なりと云はざるべからず﹂。そのような愚昧きわまる政策は﹁中央の政治家木馬に鞭︹打︺つの策﹂ である。﹁蓋し其の数十万の人民をして彼等の父母を忘れしめ彼等の歴史的記憶を埋滅し去って而して其の人民の上 64 (1 ●79) 79 論説 レ に政治を施行せんと欲す詣れ乃ち県民を以て木馬となし之に念せんと欲するものにあらずして何ぞや﹂。すなわちそ れは﹁民を愚にするの政策﹂であって、﹁発達すべき人民を抑へ附け以て其の統治上の目的を達せんと欲する﹂もの だから、﹁本県民を木馬となして之に鞭︹打︺つが如き政策さへも﹂おこなわれたのである。﹁鞭︹打︺つ政治家の愚 なること素より云ふ迄もなし﹂。そのような政策は、また、沖縄にあらわれた内地人のふるまいにも影響をあたえた。 ﹁当時僅かに西洋文明に触れたるか触れたらざらんか怪しげなる内地人の如きは早くも自から文明進歩の人と心得 の 揚々として沖縄県民を圧迫するの状今よりして之を想像するも余りに心地宜しとせず﹂。 しかし、このような政策はようやく過去のものになった。それは﹁日清の戦ひ日露の大戦争を経て﹂帝国が﹁世界 列国の認識尊敬﹂をかちえるようになって﹁自覚的念慮の動かすべからざるものあり自から其の神経も平静に帰し た﹂ためであった。﹁我県下に対する施政の手心なるもの﹂が﹁著しく変化した﹂ことによって、﹁県民の生活状態は 俄かに生々として来たりたるもの﹂があり、﹁殖産に興業に將た又た教育其他百般のことに叢りて一時に勃々たる気 勢を帯び駿々として止まざる状態﹂となった。これは﹁心大に喜悦の情﹂を禁じえないが、それも沖縄県民がもつ ﹁他の文明諸国民と等しく文明の彼岸を望み大に其の発展を齢すべき実質﹂が﹁今に及んで発露し来れるもの﹂で あって、﹁其の心意に於てまた其の生活状態に於て自由を享受するに於ては本県民が敢て他に遜色なき進歩的民族な る﹂ことを﹁証する﹂ものに他 な ら な い 。 れ 政府の政策は変更されたが、しかし、この論説にしめされた政府にたいする不信感と不満が過去のものになったわ けではないように思われる。論説はいう一﹁︹沖縄人は︺不幸にして天孫人種てふ高等なる民族にして而かも其の 皮下を流るN血液は他の民族の挙れに比すれば純潔にして且つ活発のものにてありけり単に純潔活発なるのみならず の 熱情に富み誠実にして且つ組織的頭脳を有したるものにてありければ其の苦痛惨憺たるはまた云ふ迄もなし﹂。﹁不幸 64 (1 ・80) 80 沖縄における近代化の希求(石田) にして﹂、沖縄人は﹁民を愚にするの政策﹂のもとでも、痛痒を感じないまでに愚になることはできなかったという のである。そうならなかったのは、彼らがヤマト人とおなじ﹁天孫人種﹂だからである。彼らの苦痛は惨憺たるもの であった。彼らにそのような苦痛を耐えさせたものは、ただ﹁同一根幹より出でたる大和民族と相ひ近づく﹂ことが できたという﹁諦てもの心の慰謝﹂だけであった。そのような苦痛のなかでも保持してきた沖縄人としての﹁美はし き歴史の記憶﹂は、﹁県政の改善﹂とともに、沖縄人を﹁雄心落々たる昔時の天孫人種の真面目に復帰﹂させようと ゐ しつつある。しかし、これからも過去の政策がくりかえされないという保障はない。﹁返す返すも将来に於ける県治 の過去に於けるが如き誤りたるものならざらん事を祈るものなり﹂という結語は、そのような不安と不信感の表明で あ っ た。 ’ 日琉同士という立場からみて旧慣温存政策が不当であったという論説の主張は、帝国政府とヤマト人にたいする不 信につながっていた。しかし一方で、太田は、この論説の以前から、ヤマ小との対等な調和をもとめるという立場を とりつづけていた。この論説をみる限りでは、日琉同祖という議論は、ヤマトとの対等性を主張する根拠ではあって も、ヤマトへの同化という主張とヤマト人およびその政府にたいする不快感とを整合させるものではないように思わ れる。日量同祖論によって両者を整合させるには、太田にとってはさらに別の理論装置が必要だったはずである。そ のような理論装置がそれとして明示されているわけではないが、われわれは太田が明治三四年︵一九〇一年︶五月に かいたつぎのような文章のなかにそれを窺うことができようi﹁政府が本県に対し冷淡なるは今猶ほ昔に異なる ことなしそれに引換へ 聖上陛下の大御心を注がせ給ふこと一視同仁今回御手元より侍従を派遣せらる﹀こと四十余 万人民の感泣に堪へざる所なり﹂。これは、まえにも紹介した﹁古手帖﹂というコラムの最後の部分である。太田は ハあ このコラムで、﹁沖縄の真の利害﹂が﹁全国と一致﹂可能であるという確信をしめし、その一方で、いまなお散見さ 64 (1 ●81) 81 論説 れる﹁内地人﹂の横暴と、あいかわらずヤマト各地と沖縄という﹁土地の遠近﹂によってはなはだしい﹁親疎﹂があ る政府の措置とを批判した。そのコラムの最後に置かれたこの文章は、二つの主張を統一する役割をになうものでは あるまいか。そのように考えれば、この文は、たんに天皇を頂点とする支配体制のもとでの常套句をならべただけの ものではなく、すこし立ち入った分析をこころみるだけの価値をもつものとみるべきであろう。 一見してあきらかなように、この文の前半は、政府の政策が依然として沖縄をヤマト各県と対等にあつかっていな いという批判である。その直接の根拠としてあげられているのは、人頭税がなお先島地方に存続していることを政府 が放置しているということであった一﹁両先島に苛酷なる人頭税存し結婚移住の自由さへなきは政府の夙に知る 所なり然るに今猶ほ之が改正をさへなすこと能はず之に引換へ内地に於ては足尾銅山鉱毒事件起りてさへ内務大臣の 態々視察するに至る土地の遠近に依り政府の措置に親疎あること斯の如し﹂。政府は、足尾銅山の鉱毒事件にたいし ては内務大臣を派遣したが、先島島民の怨嵯の的である人頭税の廃止請願はすでに明治∼七年︵一八八四年︶からは じめられていたにもかかわらず、大臣の派遣はおろか、なんらの対応措置をもとろうとしない。この政府にたいする 不信は、﹁それに引換へ﹂という言葉で、後半の、天皇にたいする信頼の表明につなげられる。天皇が沖縄に﹁大御 心を注がせ給ふこと﹂は、天皇がコ視同仁﹂、すなわち、沖縄とヤマトを親疎の別なく同一にみているということ であり、それは、この頃、天皇が﹁本県教育の実況を始めとし其他百般の状況を視察せしめ給へる御主意﹂によって め 侍従を沖縄まで派遣したことにあらわれている。政府の冷淡さに苦渋をしいられてきた沖縄人は、その天皇の配慮の 寛大さに﹁感泣﹂せざるをえな い 。 ここにみられる論理は、天皇と帝国政府を区別してあつかうというものである。そうすることで、あいかわらず ﹁本県に対し冷淡なる﹂政府にたいする不信の表明が、一視同仁の天皇とその統治する国家とにたいする信頼を損な 64 (1 ●82) 82 沖縄における近代化の希求(石田) わないようにすることが可能になる。いわば﹁君﹂と﹁君側﹂とを区別することで、政府にたいする批判と天皇が統 治する帝国にたいする忠誠とを両立させることができるのであり、そうであったからこそ、沖縄人をヤマトから異化 するかのような政府の施策にたいする批判の呵責のなさが可能であった。このような論理は、明治三六年︵一九〇三 年︶四月、大阪でひらかれた博覧会の﹁学術人類館﹂に、﹁台湾の生蕃北海のアイヌ等と共に﹂、沖縄の娼婦が展示さ れたことに激しく抗議する文章のなかでもしめされた。彼はつぎのように記している一﹁︹沖縄県人民が︺万事日 を追ふて他府県と一致せんとするの今日⋮⋮︹困難な問題は︺感情の十分融和せざるの一点にあり⋮⋮︹他府県人と 沖縄人のあいだには永い隔離の結果若干の違いはあるが︺王政維新の沢万方に均煙し本県の如きも藩を廃し県を置かれ て以来一視同仁の 皇沢に浴し爾来風の醇ならざるものは之を醇にし俗の異なるものは之を改め全国帰一の旨に戻ら ざるに汲々たり然るに浅慮浮薄の徒多く動もすれば本県人を目して劣等種族となし何の遠慮もなくいきなり呼捨扱ひ をなすもの多きをみて我輩感慨に堪へざること屡々なり﹂。ここでも、天皇の徳は、彼が平等理念をコ視同仁﹂と して体現するところに見いだされた。ヤマト人が沖縄人の同化の努力を評価せずに﹁劣等種族﹂視するのは、その天 皇が統治する国家にそぐわない。﹁斯の如きは果して教化の旨意なるか政治の本領なるか﹂。 アンダーソン︵じdΦ昌①α凶Oけ ﹀昌α①﹁◎◎O昌︶は、近代国民国家においては﹁国民という集団﹂︵墨一一8︶は、国境によって 限定され、神の権威に還元されえない﹁主権﹂︵ωo<臼蝕ひq昌︶をもち、そして﹁集団のなかにたとえ現実には不平等と 搾取があるにせよ﹂、﹁つねに、水平的な深い同志二つながり︵8日建α①ω匡b︶﹂として、﹁心に思い描かれる﹂ ︵冒β。αqぎ①α︶と指摘した。天皇制の日本帝国においてもこの指摘はあてはまる。帝国の内部にはごく少数の皇族と華 ゆ 族が存在したが、それを例外属すれば、幕藩体制のもとで存在した身分制度は四民平等という理念によって崩壊し、 中世以来維持されてきた非人身分も制度的には消滅し、彼らは﹁新平民﹂とよばれるようになった。このような平等 64 (1 ●83) 83 論説 性の外見は、たしかに近代国家たる日本帝国のもつ一側面であった。﹁一視同仁﹂は、その国家がかかげる一君万民 的平等理念を保障すべき天皇の機能であり、天皇の統治に服する国民は、﹁一視同仁﹂の天皇のもと、一坐万民の平 等な国民を構成する人間集団であった。ゲルナー︵国四四Φωけ ︵甲Φ一一質Φ吋︶は、ナショナリズムは、政治的正統性の理論︵餌 ことによって、太田と﹃新報﹄の目標が実現されるという展望をあたえた。そのことが、政府の政策の如何にかかわ あったからであった。一視同仁の天皇に体現された帝国の平等主義は、沖縄人が﹁国民的精神﹂にかなう人間になる む ﹃琉球新報﹄が﹁沖縄県をして他府県と同等の勢力を有せしむ﹂という目標を明示しえたのは、そのような認識が 沖縄は決して﹁日本の新領土﹂ではなく、沖縄人は﹁帝国本土の主幹人種たる天孫人種若くは大和民族と称するも ま の︾祖先と同︼根幹﹂であり、国家によって他府県人と対等にあっかわれるだけの十分な根拠をもっていた。太田と 処分とそれにひきつづくすぐれて近代的な権力支配は、帝国のナショナリズムにたいする期待をもたせた。しかも、 を進行させつつあった他府県と同一の日本帝国という﹁皇土﹂に住む、平等な﹁王民しの一員だからであった。琉球 様にあり﹂。沖縄人が衝心以来の﹁旧随習の中に坤吟﹂することが、なぜ問題なのか。それは彼らが、すでに近代化 れ 民南冥雲言々の裡に隠れ、旧曲輪の中に陣鉦し、宇内の活気を観ず、文明の妙味を覚らず、轟乎として原始社会の模 味があきらかになる。再度引用すると、﹁宣言﹂はつぎのようにのべていた一﹁百有余方里の皇土五十有余万の王 そのように考えれば、さきに引用した﹃琉球新報﹄の創刊﹁宣言﹂が、﹁皇土﹂、﹁王民﹂という言葉をつかった意 付与し、その帝国に近代国民国家の相貌をあたえるものであった。 によって担保されることになる。日本帝国についていえば、コ視同仁﹂という天皇の属性は、彼の統治に正統性を ナリズムによって形成された近代国家において、支配の正統性は、国民という集団が平等を構成原理としていること 昏①o蔓ohO9けド鋤=Φσq三ヨ8︽︶であり、国民という集団をつくりだすものであると主張する。そうであれば、ナショ 64 (1 ●84) 84 沖縄における近代化の希求(石田) らず、またヤマト人の偏見にもかかわらず、ヤマトに同化することによってのみ沖縄人とヤマト人との対等な調和は 可能であるという、太田の確信の根拠となったのであろう。 沖縄の経済的発展の本格化は、この確信にもう一つの根拠をあたえた。太田は、明治四一年︵一九〇八年︶九月、 ﹁拾有五年間吾人の立場﹂と題する論説で、明治二九年︵一八九六年︶と三九年︵一九〇六年︶の沖縄県の経済統計を 比較して﹁大に感懐の動くを禁じ得ざる所以﹂であるとのべた。彼がしめした両年度の対照表は多岐にわたっている が、たとえば、﹁那覇輸出﹂は一五〇万円弱から三六〇万円強に、﹁那覇輸入﹂は一五六万円から二一二万円に、﹁銀 行預金年末現在﹂は三万円弱から六三万円強に、﹁年末現在貸附金﹂にいたっては七万円から七〇四万円弱に、それ ぞれ増大している。また郵便物の﹁取集﹂と﹁配達﹂は双方をあわせて三二万個から二一二九万個へ増加した。沖縄の 経済は急速に活性化した。さきに引用したように、真境名早言が、大正二年︵一九=二年︶、﹁置県後、年を逐ふて、 生活の改善ありしは、顕著なる事実﹂としるしたのは、このような経済的変容を念頭においてのことだったのであろ ︾箏﹃沖縄県政五十年﹄のなかで、太田が、沖縄は﹁大正九年十年に至り県制市町村制を始めとして、衆議院の選挙 権や、貴族院の多額納税議員に至るまで、日本帝国の一地方として押しも押されもせぬ地位に進められた﹂として、 ﹁私はここまで書いて既往を回想する時、長い悪夢からでも覚めたやうな気がする﹂とのべるのをみると、同化に よって対等な調和が実現されるという彼の確信は、第一次世界大戦後のいわゆる蘇鉄地獄の経験によっても揺るがな かったようにおもわれる。太田の愛郷主義は、日書証講論と天皇の﹁一視同仁﹂性とを媒介として、沖縄人がヤマト め 人と対等に調和して生きる国家を眼前の差別的状況の彼方に展望した。そして、この展望は、彼にとっては、たしか な現実性をもっていたのである 。 64 (1 ・85) 85 論 説 結びにかえて 琉球処分によって沖縄を直接の支配下にくみこんだ帝国政府は、すぐれて︸九世紀的な性格をそなえていた。あら たな支配権力は、苛敷諌求を事とした王府とはちがって、民生に配慮し、規律訓練的に民衆の生活を改善した。首 里・那覇における社会変貌は、このような政府の政策による強制的なヤマト化の反映であった。ヤマト化による民衆 の日常生活の改善は、それが警察力を背景としたものではあっても、沖縄人にヤマト化を﹁文明﹂化として、すなわ ち近代化として認識させた。琉球処分によって沖縄は薩摩支配下の困窮から解放されたという認識は、太田や伊波だ けのものではなかった。旧高官層を中心として旧体制への執着は残存していたにしても、多くの部分にとって、ヤマ トの文明はあきらかな上位文明であり、ヤマト化の進行は、たんに物理的に抗いがたい情勢であるだけではなく、積 極的な価値をもつものだったの で あ る 。 そうではあっても、帝国政府にとって、沖縄が日清両面の支配権力のもとにあった異質の領域であることにちがい はなかった。そこにある支配体制の中心的な骨組みを廃藩置県によって変換したうえで、なお、混乱をさけて秩序を 維持するには、伝統的な支配層の反発を最小限に抑制しておかねばならなかった。あらたな支配体制の確立と矛盾し ない限度で、彼らの既得権益を保護することが必要であり、そのために、伝統的な農村支配機構と地割制度との維持 を中核とする旧慣温存政策が構想された。この政策は功を奏して、明治二〇年代の対外的にも対内的にも不安定な時 期において、秩序が維持され、あらたな支配機構の整備も進捗した。しかし、その一方で、農民は旧態依然として土 地に緊縛されつづけることになり、資本主義化の前提となる都市部への労働力移動もおこらなかった。外的に強制さ 64 (1 .86) 86 沖縄における近代化の希求(石田) れた近代化によって惹起されるはずの沖縄の内発的な近代化の動きは極端に抑制されざるをえず、薩摩支配のもとで なんらの変革もないまま維持されてきた社会体制は、急速に資本主義化しつつあるヤマト各県からさらに大きく立ち 遅れることになったのである。 都市部の日常空間における外的に強制された限定的なヤマト化の進行と、それとは対照的な沖縄社会の全般的な停 滞状態は、一方で内地人の横暴をゆるし、他方で沖縄人の萎縮した心性をさらに萎縮させた。旧慣諸制度それ自体は、 日清戦争後、段階的に改廃され、沖縄を二〇年以上にわたって資本主義的発展からひきはなしていた足枷はようやく 取り除かれた。しかし、それにもかかわらず、沖縄人は、薩摩支配下で形成され旧慣温存期に助長された﹁継子﹂的 心性から遅々として脱却せず、行政面と商業面における内地人の支配力も依然として強大であった。県費留学生とし て東京に派遣され、ヤマトの先進社会を経験していた太田にとって、沖縄人のこのていたらくは、政府の差別的な政 策や内地人の横暴ぶりに劣らず、我慢のならないことであった。彼の認識では、沖縄ができるかぎり速やかにヤマト 各県と対等な地位をしめるためには、沖縄人がはやく﹁文明の空気﹂にふれることが必要であった。この焦慮は、社 会の進歩の実質は生活の進歩でしかないという彼の見解とあいまって、﹁文明の空気﹂にふれるために日常生活のあ らゆる場面においてヤマト文化を模倣するという主張をうみだした。沖縄がヤマトと対等の地位をしめるにはそうす るしかないというのが、太田の苦渋にみちた確信であった。この確信が、彼に口をきわめて沖縄人を叱咤させた。彼 の筆鋒の鋭さは彼の愛郷心の熱さとそれゆえの憤愚をしめしている。 太田のこのような同化の主張は、その目的からしても、沖縄人がヤマト人のまえに膝を屈するということを意味し たのではない。沖縄の現状をつくりだした旧慣温存政策の理不尽さと、その現状を奇貨として勢力をほしいままにし ている内地人とを告発する太田の論説は、それを雄弁に物語っている。太田にとって、同化の進展は対等性の獲得と 64 (1 。87) 87 説 弧 鵡 同義であった。彼は、沖縄人が沖縄人としての誇りを保ったままで、ヤマトとの同化をはたすようよびかけた。日三 面祖論は、ヤマト人にたいする対抗意識をもってヤマト文化へ同化するという、この一見矛盾した課題を実行可能な ものにする論理であった。彼が伊波の同祖論に共感したのは、そのためであった。この論理によってのみ、薩摩支配 と旧慣温存によって内発的な近代化の可能性を奪われてきた沖縄人は、ヤマト人との日常的な差異をのりこえて、朝 鮮半島や台湾の住民とはちがった十全な資格をもった、独自の輝かしい歴史をもった帝国臣民として自己主張するこ とが可能であった。しかし、そのように日琉同類を主張し、沖縄人の歴史を美化し、旧慣温存政策の差別性を告発す ることは、帝国政府にたいする不信をあおり、さらに、廃藩置県と日本帝国それ自体とにたいする反発を再燃させか ねない。それは、太田の持論であった同化論の説得力をかえって弱めることになるであろう。 天皇と政府とを区別することの意味は、この矛盾を回避することにあった。天皇は一君万民的な平等主義理念を体 現するものと想定された。そのかぎりで、天皇は、近代化の世界的な波及のなかで自己を形成した日本帝国の、国民 国家的性格を担保し象徴する存在であり、日本における近代的国民形成運動としてのナショナリズムの核心に位置し たのである。 視同仁、沖縄とヤマトを親疎の別なく同︼視する天皇と、沖縄を特殊沖し差別する政府とを区別する ことで、日琉争奪論は沖縄人の誇りを、天皇を頂点にいただく﹁大和民族﹂としての誇りに一致させる装置となった。 かくして、同化は、沖縄人が他府県人と同等の﹁王民﹂として帝国の進展に参入し、﹁大和民族として大手を振って 世界を闊歩する﹂ための手段として位置づけられた。近代化によって沖縄と沖縄人にヤマトとの対等性を獲得させる という太田の愛郷の思いは、沖縄人を十全にヤマト化させるという主張となったのである。 あや この論理がもつ殆うさは、あきらかである。沖縄を他府県と同等にあっかわねばならないという帝国にとっての現 実的な必要がないかぎり、沖縄にたいする政策が他府県にたいするものと同等になるとする現実的な根拠はない。天 64 (1 ●88) 88 沖縄における近代化の希求(石田) 皇の一視同仁という理念は政府の政策立案に影響するものではなかったし、言語学的人類学的な日七回祖論も沖縄人 にたいするヤマト人の認識を変えるものではなかった。実際、ヤマトの支配権力は沖縄にたいする支配の正統性をか たりはしたが、沖縄でかたられたような日算同母論をかたったことはない。天皇制の平等主義理念も日合同祖論も、 帝国政府の沖縄政策を左右するものではなかった。そのように、沖縄が現状を是正すべきたしかな手段をもたないま まで同化を進行させることは、結果的には、沖縄人が、帝国のたんなる一辺境の住民として統合されるということを 意味せざるをえないであろう。のちの歴史がしめすように、国策としての合理性が要求すれば、この統合はどのよう にでも強権的かつ差別的なものになりうるのである。 しかし、すでに廃藩置県がくつがえしようのない現実として存在していた明治の後半期、帝国の先進部分としての ヤマトが達成しつつあった近代社会の輝きは、帝国の圧倒的な権力とあいまって、十全な同化による対等な統合とい う主張に必然性をおびさせた。同化以外の途は考えられなかったか、あるいは説得力をもちえなかったであろう。琉 球処分以後の時代に登場した知識人たちの認識においては、それほどまでに帝国は強大で先進的であり、それほどま でに沖縄は貧弱でたちおくれていた。ヤマトと沖縄のこの目の眩むような対照は、太田の情熱と明晰をして、数世紀 にわたる停滞と惨憺たる現実の向こう側に、具体的な戦略をもたないままに、天皇の平等主義にみちびかれた近代国 家としての日本帝国を、たしかな希望として描かせたのであろう。太田が体現した沖縄の愛郷主義は、こうして帝国 比屋根照夫・伊佐眞一編﹃太田朝典選集﹄中巻、第一書房、五八頁。︵以下﹃太田朝敷選集﹄と略記︶ 64 (1 ●89) 89 のナショナリズムに接合したの で あ る 。 ↑序 説 払 百冊 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 19 18 17 16 15 14 ﹃太田朝敷選集﹄中巻、五八−五九頁。 ﹃太田朝敷選集﹄下巻、五〇三頁。 ﹃太田朝敷選集﹄上巻、二五八頁。 同書、二五八−二五九頁。 同書、二五九頁。 同書、二七七−二七八頁。墨池は琉球風の髭であり、大帯は琉球士族の服装を意味する。 同書、二七八頁。 同書、二七八頁。 ﹃太田朝敷選集﹄下巻、一一頁。 服部四郎他編﹃伊波普猷全集﹄第一〇巻、平凡社、一九七六年、一八頁。︵以下﹃伊波普猷全集﹄ 同書、一九頁。 ﹃太田朝敷選集﹄下巻、一一頁。 ﹃太田朝敷選集﹄中巻、二七一頁。 ﹃琉球新報﹄明治三九年=一月七日、一二月九日。 ﹃伊波普猷全集﹄第一巻、五三七i五三八頁。 と略記︶ たが、学問的にも伊波と同様の立場をとり、大正五年︵一九一六年︶に﹃琉球の五偉人﹄を伊波と共著で出版し、伊波が県立 校長の差別的な教育方針に反抗して﹁ストライキ事件﹂としてしられる学生運動を指導し、終生、伊波と親密な交遊をつづけ ︵2︶ 真境名安興は、伊波普猷とともに沖縄学の代表的な研究者である。伊波普猷とは沖縄尋常中学校の同期であり、ともに、 ︵1︶ ﹃太田朝敷選集﹄上巻、五五−五六頁。 一 置県後の社会変貌 喜捨場朝賢﹃琉球見聞録﹄、発行者親泊朝里、一九一四こ口序四頁。 ﹃太田朝敷選集﹄中巻、五一頁。 比嘉春潮編﹃比嘉春潮全集﹄第五巻、沖縄タイムス社、一九七三年、二九五頁。 1312111098765432 64 (1 ●90) 90 沖縄における近代化の希求(石田) 図書館長を辞任したのちにはその後を引き継いだ。しかし、この著書は、県政の混乱によって、彼の生前には出版されないま まであった。富島壮英他編﹃真境名安興全集﹄第二巻、琉球新報社、一九九三年、四三八一四三九頁。︵以下﹃真境名安興全 集﹄と略記︶。 ︵3︶ ﹃真境名算勘全集﹄第二巻、六七一六八頁。﹃全集﹄所載の﹃沖縄現代史﹄には那覇・首里に分署がおかれたように記されて いる。しかし、その直後には那覇警察、首里警察署のもとに分署がおかれたと書かれているところをみると、那覇・首里におか れたのは警察署であって、本文の誤植あるいは誤記であろうと思われる。 ︵4︶ 旧慣の改変が検討されていた明治二七年に内務書記官一木喜徳郎が調査した時点では、一個の間切が有する人口は最大で 一万六〇〇〇、最小で一八○○以上であり、大きな村は数百戸、小さな村は二、三〇戸で構成されていた。一木の報告では、 間切が最下級行政単位だが、戸籍にかんしては村が最小単位であって法人格をもつとされている。﹃沖縄県史﹄第一四巻、五一 〇頁参照。 ︵5︶ 喜捨場朝賢﹃琉球見聞録﹄ず発行者親泊朝擢、一九一四年、一八六頁。 ﹃平良市史﹄第四巻、二一−二二頁。 ︵13︶峯。ゴ巴閃。⊆8巳け︵貫ξ菊。げ㊦諄=巨①く︶”§Q§8建黛貯§、軌条誤§§き§ミ§矯く。こく葺p。ゆq①bご。。冨点り刈。。も・一ト。O・ 九七四年、四八九、四九三、五〇四、五三九、五八四 ︵6︶ サンシー事件については、石田正治﹁沖縄における﹃ヤマト化﹄についての予備的覚書−歴史的理解のために﹂︵﹃法政 ) ) ) ) 研究﹄六一巻二号、一九九四年、一七七i一八五頁︶参照。 五八五頁。 例示すると、球陽研究会編﹃上陽︵読み下し編︶﹄、角川書店、 同書、七一頁。 同書、七〇一七一頁。 ﹃真境名安興全集﹄第二巻、七一頁。 石田、前掲論文、一八四頁。﹃真境名安興全集﹄第二巻、七〇頁。 1211 10 9 8 7 ) ) 一 ㊤Oρ窓.HO甲一〇ω・ 豊Φ匹4きミ§ミ、§謬言Nミミ肉§§%卜§§駐§、ミ巳§ミ駐§§栽§職§ミミ禽9鷺竃§§§味︶リ¢Oい国①ω。。98&。戸 ︵14︶ ↓げ。ヨ器Oωσoヨρ、、ω①8葺︽四&︿詳巴津零屋轟ぎρま臼巴δ霧雪ユoo≦臼ぎ夢①三器82窪8つε望.、︵﹀巳お宅bご鋤昌︽①げ 64 (1 ●91) 91 論説 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 一σごこ℃b﹂8山OS ミシェル・フーコー︵田村下訳︶﹃監獄の誕生一監視と処罰﹄、新潮社、一九七七年、 同書、一四二頁。 同書、二一八頁。 同。 ﹃真境名安興全集﹄第二巻、七一頁。 ﹃太田朝敷選集﹄上巻、五八頁。﹃沖縄県史﹄第=一巻、四一〇頁。 ﹃真境名安興全集﹄第二巻、九二頁。 同書、九二一九四頁。 同書、一〇三頁。 同書、一〇ニー一〇三頁。 同書、一二四!一二五頁。 二一八頁。 にわたっていた。これらの取締規則は、﹁科蘭科鞭日晒身売所払等﹂の制裁規定をともなっていたが、一木が調査した段階では、 締﹂﹁納税ノ取締﹂﹁租税滞納処分﹂﹁風俗ノ取締﹂﹁吏員ノ勤務﹂などにかんするもの、さらには民法に類するものまで、多岐 いるが﹁豊富一種ノ習慣﹂であり、﹁予メ公布セラレタル法令﹂とは同一視できないものである。その内容は、﹁山林田野ノ取 ために制定されたもので、明治一八年に各間切の内法を届け出させたために、成文法の形式をある程度備えるようになっては て、﹁其行為﹂が﹁科律二等レサルモノ及科律二触ルルモ罪科軽クシテ特別ノ取締ノ目的ヲ達する半帖サルモノ﹂を取り締まる ﹁内法﹂は、内務書記官一木喜徳郎が明治二七年に作成した報告書によれば、﹁農務二怠慢ナル者風俗ヲ素ス者等﹂にたいし ︵1︶ 西里喜行﹃沖縄近代史研究−旧慣温存期の諸問題﹄、沖縄時事出版、一九八一年、七八頁。 二 旧慣温存と近代化−理論 的 位 置 付 け ﹃太田朝敷選集﹄下巻、五〇三頁。﹃太田朝敷選集﹄上巻、二五八−二五九頁。 同書、一二三一一二四頁。 同書、九二頁。 64 (1 .92) 92 沖縄における近代化の希求(石田) 科銭以外の制裁は廃止されていたという。﹃沖縄県史﹄第一四巻、四九三!四九五頁参照。 ︵2︶ 西里、同書、七九頁。 ︵3︶ 同書、三九頁。 ︵4︶芝まΦ自国・竃8﹁ρ§ミ織ミq§§画Nミ§、トミ駐黛O§ミミミ須田。。①≦9︵Z①≦く。蒔︶藁㊤刈㊤もb・b。㌣b。ド誤● ︵5︶日冨9ωざ89曽ら貯、ミミ、ミ艦§の§ミ鳴ミ。魯§ミ。ミ”OΦヨげ脚気σq①¢易く●準Φωω﹂8戯も﹄ω0● ︵6︶量α.も。お①● ︵7︶宣α.も。●Hω①山ωN ︵8︶ 冒αこ差置H 農業的官僚制社会とは、﹁社会的統制が準官僚的国家と土地所有上流階級との分業と協調とに依拠しているよ うな農業社会﹂であり、幕藩制の日本はこの分類に適合するとスコチポルは考えている。o暁﹂玄山・もb.お◎辰一. スコチポルの議論は、一つの社会の構造変化とそれがおかれた外的環境との関係に着目する点でパーソンズ︵日巴8辞℃碧. ω8ω︶の社会システム進化論の延長上に位置するといえよう。パーソンズは、﹁進化の普遍的要因﹂︵①︿o一&o轟著§守①δ鋤一ω︶ という概念を提示して、それは﹁複数の構造とそれらの構造の発展過程の相互作用とが一体となった複合物︵①8ヨ亘。×︶﹂で あって、﹁所与の分類に属する生体システム︵豪ぎひq紹ω冨ヨω︶の長期的な適応能力を大きく増大させ﹂るものを指す。そのた めに﹁このような複合物を発展させることのできるシステムだけ﹂が、﹁より高次の全般的適応能力﹂をもっことができるよう になるとされる。スコチポルのいう伝統的支配階級から自立した国家官僚群は、このような進化の普遍的要因にあたると考え られる。日巴oo↓℃餌﹃ωopρ、国く。言ユ。づ帥蔓d多く臼。。巴ω一つωooδざ.︵︾§目篭§§⑦09ミ濃“らミ謁§見置く。部PZ9ωしO①餅暑●ω心O −ω自.︶ ︵9︶Q。冨ヨ環色2・田ω雪ω♂α戸き§きSミ魯§駄ミ斜§帖鑓”¢珍くΦ蔓質ohOぼ8αqo等。ωωし㊤㊤窃も●ωα. ヨ。自白藩邸は普通﹁近代﹂と訳されることが多いが、そのようにすると近代化の結果として実現された﹁近代的なるもの﹂ をあらわすヨ。α臼巳蔓が、世界史的な時間軸における時期区分としてのヨ。α9ロと混同されるおそれがあるので、本論では ﹁近代性﹂という訳語をあてることにする。 ︵10︶ 害凶αこO弓.ω叩も。O. §ミ鳴ミs建ミ噺§Q嵐ミ詠ミ℃ピ。嵩ぴqヨ①戸=①巳。≦浮ω①×藁O刈N”℃・HH㊤︶・ ︵11︶ 菊。コ巴ユ幻。げ貯ωoP、Zo口自口﹁8$口8⊆コα障。鉱。閉。暁国産。℃9ローヨb①ユ巴一ωβ”︵幻。αq20≦9更し口。びQo三〇まhΦ︵巴ω.︶℃のミ§ 64 (1 ●93) 93 説 弘 百冊 ︵12︶9≦α中﹀冥①5ミ、ミ薄噛亮ミミ§ミ§汁ミq§§§職§導b魯§§§§§職き無§ミQミぎ§歩ω餌αqΦ︵9ま。噌三層︶レ㊤。。メ 燭 bα. ︵13︶ 閑○σぎωoP8.αけもヒ㊤齢 ︵14︶ 一ぴ置・ ︵15︶ 守㎞魁●も.同卜。P ︵1 6 ︶ 守 一 畠 ● も O . 一 b 。 O − 這 ド ︵17︶ ヨ一鳥●も.一ト。一. ︵18︶ ﹀簿ぎ塁9&窪ρ§僑O§G。ミミ§ら携旦ミミ飛ミ§鴇℃o一一重量⑦ωω︵ON婆娑こひqΦ︶し80も℃.・。一b①. ︵19︶ 田ω9ω什巴倉oPα肝こ℃℃・二N山一ω● ︵20︶ 石田正治﹁統合の言説としての書崩同三論﹂︵﹃法政研究﹄第六一巻三−四号、一九九五年、二八四一二八六頁。︶ 三 旧慣温存方針の確定 ︵1︶ ﹁第こ回奉還琉球始末付録﹂︵﹁琉球処分﹂下、州立ハワイ大学宝玉叢書編纂委員会監修﹃琉球所属問題関係資料﹄第七巻、 一九八○年、本邦書籍、一〇三一一〇四頁︶。 ︵2︶ ﹁琉球処分起源﹂︵﹁琉球処分﹂上、州立ハワイ大学宝器叢書編纂委員会監修﹃琉球所属問題関係資料﹄第六巻、一九八○年、 本邦書籍、三、五頁︶。 ︵3︶ ﹁処蛮始末抜粋﹂︵﹁琉球処分し上、州立ハワイ大学宝玲叢書編纂委員会監修﹃琉球所属問題関係資料﹄第六巻、一九八○年、 本邦書籍、こ頁︶。 ︵4︶ 同文書、四−五頁。 ︵5︶ ﹁松田内務大様第一回章使琉球始末﹂︵﹁琉球処分﹂中、州立ハワイ大学高峯叢書編纂委員会監修﹃琉球所属問題関係資料﹄ 第六巻、一九八○年、本邦書籍、三一九頁︶。 ︵6︶ ﹁第二回奉使琉球始末付録﹂︵﹁琉球処分﹂下、州立ハワイ大学宝玉叢書編纂委員会監修﹃琉球所属問題関係資料﹄第七巻、 一九八○年、本邦書籍、九八頁︶。 ︵7︶ 同文書、九二、九五頁。 64 (1 ●94) 94 沖縄における近代化の希求(石田) 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 同文書、九五−九六頁。 一九八一年、一〇三頁。 同文書、九五一九六頁。 松田は役職について事事や領地をあたえられている者を念頭においていたのであろう。 同文書、一七五頁。 縄 県 史﹄ 二 巻 、 三五〇1三五二頁。 ﹃ 沖 第 一 同書、三五八−三五九頁。 同書、四九九頁。 同書、四九八一四九九頁。 同書、四九七−四九八頁。 同書、五八五頁。 同書、五八五一五八六頁。 ﹃真境名安興全集﹄第一巻、四二四頁。 ﹃沖縄県史﹄第一二巻、五ハニー五八三頁。 同書、八〇二頁。 同書、八〇四、八〇六頁。 同書、七八九、八〇三頁。 同書、七八九頁。 同書、七八八一七八九頁。 ﹃沖縄県史料﹄近代三、=頁。 同書、四三頁。 ﹃沖縄県史﹄第一二巻、七六七頁、﹃沖縄県史料﹄近代三、四六頁。 ﹃沖縄県史料﹄近代三、八六一八八頁。 同書、九〇頁。 ﹃那覇市史﹄資料編第二巻中4、六四五一六四六頁。 西里喜行﹃沖縄近代史研究−旧慣温存期の諸問題﹄、沖縄時事出版社、 64 (1 ●95) 95 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 論説 ︵32︶ 同書、 四ニー一四三頁。 四 同化による近代化 ︵1︶ ﹃沖縄県史﹄第一四巻、四九八頁。 ︵2︶ 同書、四九九−五〇〇頁。 ︵3︶ ﹃沖縄県史﹄第一三巻、六〇二頁。県史所収のこの文書の日付は﹁明治二八年 月 日﹂としてあり、正確な月日はわから ないが、内容からみて、威海衛を日本軍が占領し、清国北洋艦隊が降伏した二月前半以降に書かれたものと推測できる。 ︵4︶ 同書、五九八一六〇二頁。 一木が報告のなかでしめしたコ間切及一町村ノ事務件数軍吏員数比較表﹂は、群馬、栃木、茨城、長野を平均した吏員数 が七であるのにたいして沖縄は一八であり、吏員一名が担当した事務件数はヤマト四県の平均が明治二五年二八九二年︶で 六九四であるのにたいして沖縄は明治二六年︵一八九三年︶で一五二にすぎなかったことを示した。一木は、さらに、農民は 現在のところは吏員が私腹を肥やしていても唯々諾々として吏員にしたがっていて紛議は稀であるが﹁将来貢租公費ヲ居住人 又ハ寄留人二負担セシムルニ至ラハ吏員︹と民衆︺ノ間二紛擾ヲ生スルノ原因タルハ蓋シ疑ヲ容レサルナリ﹂と指摘した。な お、一木の説明によると、居住人と寄留人はおなじ意味で、もともとは無禄の士族であり、那覇首里で生活ができないために 間切に移り住んだ者をさす。彼らは地割をうける権利がないので百姓地などを小作して生計をたてていた。また、間切の運営 にかんする協議に参加する資格もない。そのかわりに貢租・公費の負担をおわないが、 ﹁今日二於テハ勧業教育衛生ノ三費目﹂ に限って負担し、﹁島尻及国頭二心テハ公費予算協議会二列席スヘキ総代ヲ選挙スルノ権利﹂を得た。彼らのなかには﹁多少文 字ヲ解シ理非ヲ弁スルモノ﹂がいて﹁徒二吏員ノ命二黙従﹂しない。実際、一木が目撃したところでは、﹁教育費増加二対スル 不平ヲ訴工之力救済ヲ求メ﹂たものも﹁予算協議会二於テ盛二議論ヲ闘ハシタルモ﹂居住士族の総代であった。﹁想フニ将来地 方行政上ノ紛紙墨必ス是等士族ノ輩ヨリ出ツルナルヘシ蓋シ今日二歩テ各間切二吏民間ノ紛議少キハ居住士族力貢租公費ノ負 担ヲ受ケス人民ノ協議二与奪ラサルヲ以テナリ﹂、と一木は観察していた。﹃沖縄県史﹄第一四巻、五一一、五一五、五一ご一頁 参照。 ︵5︶ ﹃沖縄県史﹄第=二巻、六〇三−六〇四頁。 ︵6︶ 同書、五九九頁。 64 (1 ●96) 96 沖縄における近代化の希求(石田) ) ) ) ﹃太田朝敷撰集﹄上巻、二六三一二六四頁。 同書、二七七頁。 同書、二六四、二七八頁﹄ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、一〇四−一〇五頁。 ︵26︶ 同書、二六九−二七〇頁。 ︵ 25︶ 同。 ︵24︶ 同書、二六九頁。 ︵23︶ 同書、二六七頁。 ︵22︶ 同書、二六六頁。 し来ったもの﹂であるという論拠とされている。﹃太田朝敷選集﹄上巻、二八九頁参照。 り上げられ、﹁従来彼等︹鹿児島商人︺が我が琉球人に対し来りたる挙動と云ふものは品柄で暴慢で圧政で而して尚ほ之を虐待 この事件は太田に鹿児島商人の横暴ぶりを鮮烈に印象づけたとみえて、明治三九年︵一九〇六年︶八月の論説のなかでも取 、 二六四頁。 ﹃太田朝 敷 選 集 ﹄上 巻 一〇七頁。 =一頁。 一=二頁。 一=頁。 一〇八−一〇九、 =二頁。 同書、一〇五頁。 同。 、 、 、 、 、 ) ) ) ) ) ﹃太田朝敷選集﹄下巻、一−二頁。 同書、六九三−六九四頁。 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 ) ) ) ) ) 同書、二一頁。 21 20 19 18 17 ︵27︶ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、=一〇頁。 64 (1 ・97) 97 同同同同同 書書書書書 ) ) 説 面簡 甑 ︵28︶ ﹃太田朝敷選集﹄上巻、二七一頁。 ︵29︶ 同書、二七二頁。 ︵30︶ 同書、二七二一二七三頁。 ︵31︶ 同書、二七四一二七五頁。 ︵32︶ 同書、二七五頁。察度は天女から生まれたとされる王で、在位一三五〇i九五。仁政を施し海外貿易を盛んにした。尚巴 志は第一尚王統二代目の王で、在位一四二二一三九。三王国に分裂抗争していた琉球を武力統一した。言下賢︵一六一七一一 六七五︶と察温︵一六八ニー一七六一︶は、いずれも薩摩支配下の王国を建て直した政治家。 ︵33︶ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、七八頁。 ︵34︶ 同書、一三八頁。 ︵35︶ 同書、八八頁。 ︵36︶ ﹃琉球新報﹄明治三九年六月一五日。 ︵37︶ ﹃太田朝敷選集﹄下巻、一頁。 ︵38︶ 同書、三頁。 ︵39︶ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、一四六頁。﹃太田朝敷選集﹄下巻、=二頁。 ︵40︶ ﹃太田朝敷選集﹄上巻、二五二頁。 ︵41> 同書、二五三−二六︼頁。 ︵42︶ 同書、二七七頁。 五 対等性の言脱としての日琉同祖論 ︵1︶ 伊佐眞一﹁沖縄近代史における太田朝敷﹂︵﹃太田朝敷選集﹄下巻、五二五頁︶。 ︵2︶ 同。 ︵3︶ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、二七一頁。 ︵4︶ ﹃琉球新報﹄、明治三九年六月六日、七日。﹁天孫人種﹂という表現は、おそらくは琉球初代の王朝とされる天孫氏に由来す るものであろう。首里王府の正史﹃球陽﹄は、﹁︹はじめてあらわれた支配者を人民が︺呼んで天帝子と称す。天帝子三男二女 64 (1 ●98) 98 沖縄における近代化の希求(石田) を生む。長男を天孫氏と為す、国君の始なり﹂と記して、さらに﹁天孫氏二十五紀国丑に起り、 二年に尽く﹂としている。﹃球陽﹄︵読み下し編︶、九三i九四頁参照。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月六日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月九日。 丙午に尽き、一万七千八百有 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月一〇日。御嶽は神域であるが、神殿などの建築物は一切設置されない。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月九日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月八日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月九日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月七日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月六日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月六日。名子制度については﹃沖縄大百科辞典﹄、沖縄タイムス社、一九八三年を参照。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月七日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月七日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月八日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月八日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月九日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月一〇日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月六日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月七日。 64 (1 ●99) 99 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月九日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月八日。 ﹃琉球新報﹄明治三九年六月一〇日。 ﹃太田朝敷選集﹄上巻、二六五頁。 同。 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 論説 ︵27︶ 沖縄県私立教育会﹃琉球教育﹄六四号、︸九〇︸年、一五三t︸五四頁。 ︵28︶ ﹃太田朝敷選集﹄中巻、二=ニー一=四頁。 64 (1 。100) 100 ︵29︶ UごΦ器島9︾a9ωoP§禽軌§ミ9ミミ§ミ髪長寒ミ§軌§ミ鳴O多多§概昼鳶ミ旦﹀ミざ§駐ミ︵おく蕾二巴三8γ い8αoP<①おρH㊤㊤押O.刈・ 墨賦§を、﹁みずからをある国家に帰属していると意識する人間の集団﹂、あるいはアンダーソン流に、そのように﹁想像す ) ) ) ) ) ) ﹃太田朝敷撰集﹄下巻、二一頁。 ﹃太田朝敷選集﹄上巻、二六六頁。﹃琉球新報﹄明治三九年六月七日。 なお、侍従の沖縄派遣にかんしては、那覇市文化局歴史資料室の大城康洋氏のご教示をうけた。 ﹃琉球新報﹄は沖縄県立図書館所蔵のマイクロフィルムを使用した。 ﹃太田朝敷選集﹄上巻、五六頁。 ﹃真境名安興全集﹄第二巻、一二四頁。 同書、二七七−二七八頁。 3534 付記 国ヨ①ω併O①ぎΦびき職§肋§儀き嚇“§ミ傍§讐O×ho旦ごd器出bd冨6犀≦㊦=し㊤。。ωもpどG。9 る﹂人間の集団を意味すると考えると、通常の﹁国民﹂という訳よりは﹁国民という集団﹂とした方が適当であろう。 33 32 31 30