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Title 劉宋の司馬飛龍の亂をめぐる一考察 Author(s)

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Title 劉宋の司馬飛龍の亂をめぐる一考察 Author(s)
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劉宋の司馬飛龍の亂をめぐる一考察
宮川, 尚志
東洋史研究 (1964), 23(2): 115-139
1964-09-30
http://dx.doi.org/10.14989/152669
Right
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Journal Article
publisher
Kyoto University
劉宋の司馬飛龍の観をめぐる一考察
,
,
'tE
ー
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士品
第二十三巷第二挽昭和三十九年九月蛮行
宮
中園古代末期から中世初葉にかけ、顕著な歴史的・祉曾的役割を演じたのは流民の起事である。責巾 の乱や 、劉 ・石を
始めとする五胡 の侵入も、その底流には産業を失い、他郷・他園に流亡し た群集がある。 晋の南渡前後の江南 ・嶺南の多
くの兵乱や、少し早く巴窃に成 (
漢
﹀ を建てた巴忌李氏の活動はも っとも明らかに流民を主髄とし て いL。
後漢の統一はその中に多くの異種族を包含しており、彼らの漢化の程度 にも差等があった。 言語 ・習俗を異にし た彼ら
を結集し 、 ときには土着民とも一致して官憲に抵抗させたのは宗教 ・政治的権威を具現したカリス マ的人格を中心 にする
連帯精神であり、彼らを駆りたてたのはみじめな生活を抜けだし良い祉曾を見出だそうとい う闘心 ・要求 であ った。彼ら
の破壊活動に脅威を感じ、武力銀座に出た貴族 ・豪族の連合勢力に封抗するこれらの反乱指導者の意識には 、長年の儒教
の感化で培われた槽威主義が 、儒教のわくからははみでた道教やこれより古い民間信仰の観念形態にまつわりつき、流民
-1-
尚
fw久布。ル
1
1
5
集闘 の中 にも侍統的な階居秩序 を持 ち こんでレね。
魂菅の過渡期 の混乱が小康をえて、 桓温の北伐や班水 の戟 の後、江南が北方勢力にただ ちに屈服す るも のでなく、江南
貴族政摘が相封的 に安定であることが明らかになった。 江 南を永住の地 と定めた からには、 土地の開護促進と財政確保が
四川省 は 一時前秦に陪 り(萄・ 江陽のみ。三七三│八三﹀のちに 諜縦が反乱(四 O五i 二ニ)を
重要であると菊づ いた矯政者や軍閥に より積極政策が推進されると、そ のしわょ せを受けた 東南海岸の 農・漁民は孫恩 ・
直循の天師道徒 の反乱につニ 九九│四 O二、 四一一 )参加し、 戟線は長江中流から嶺南・ヴ 占トナムに及んだ。 三四七年、
桓温が回復した成漢の故土、
起し潜かに虚循に 通じたといわれ る。北府系統の精兵をひき い陸海の征戟をつづ け、江北に まで兵威をかがや かした宋の
武帝劉裕の遺業を つぎ、元嘉の治を出現 した文帝も、 その昇卒のかげに巴 萄 における六年に わたる反乱を経験 せ、ざるを え
なかった。これが本論で扱おうとする 、 いわ ゆ る司馬飛龍の 凱である。
局漢の故土盆州は西音では 梁 ・盆・ 寧 三州に分かれ、梁州治漢中には東菅 の時、南秦僑州が おかれ、宋では梁州刺史が
南秦州を品兼ね領し た。なお上述四州は 荊 ・務等の州と ともに 東菅以来、ず っと荊州都督に隷し、 長江上流にわた っていら
諜縦の鋭の起 りは盆州刺史毛藤が局兵 をして桓玄の徐黛 討伐のために外征させ ようとしたこ とであ る。またこ の際漢中
に忌王楊盛の勢力がのび、挑興が成都王を自稽した諜縦を萄 王に封じたよ うな北方政樋の干渉もあっ た。また 盆州の管戸
李騰がこの 凱に参加しむ σ つまり萄土著 人の自閉的自主性、これと逆に間切に強制移住された 軍戸の 不満と いう要因が数 え
られるが、これはそのまま司馬飛龍の凱にも再現する。
本論では﹁司馬飛龍の乱﹂とい う名で よぶが正確にい えば 最初この名を稿し た流民許穆之が 起こ した軍事行動と、彼の
あっけない戦死ののち、少し聞をお いて彼がなお在世す るかのように宣停し衆を集めた贋漢郡伍城ハ五城・今中江 蘇東)牒
民趨慶の反観、やがて後、死んだ司馬一飛龍の替玉にされた道人程道養ハ改名し て司馬龍興 Vを推戴 した越慶・張専らの 乱を
あわせ呼ぶことにすも
"
.2 一
1
1
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1
1
7
なおこゆ乱の設起にあずか ゥて方あ ?たのは前記、楊盛の孫ト難嘗ハ町二九│四二在位 ﹀であるか忌旋楊氏が後漢末から
南北朝まで数百年間、今の甘粛省 の東南透、 成 燃 の 西 、 西 漢 水 上 流 の山地、仇池山を線接とし 、甘 ・峡・ 萄三省の 交 界
を領 し、南北南朝の聞に巧みに保身 の途を講じ、十 六代 三百五十年にわたる牢濁 立園を建てていたことは忘れてはな らな
い吋これまで司馬飛龍の乱についてはもちろん、届楊氏(仇池 王・武輿園) の活 動につい て概説書は 別とLて
、 専論した
、
ものがなさそうな こと はむしろ意外の感がする。
さ てこの 凱 の記事は宋書 四五・ 劉梓停附劉遁糖停 (また南史 一七﹀が詳しい。 唐の許嵩の建康貫録巻一一一は 誤脱多くあ
- 3一
まり役 立たないが、資治通鑑宋紀を利用して、まず事件 の骨 組を年月をおい述 べ'ておこう。
) 東晋末、仇池の楊難嘗の もとに 投じた四方の流民に許穆之とい う者あり 、菅の宗室と 自稽し、司
馬飛龍と改名した。
(
)
(。& 元嘉九(四三二)年、楊難嘗は宋の盆州刺史振武将軍劉道酒(四二九着任 ﹀が 緩撫和を失 うと聞き、 飛 龍 に兵力を興え
萄に侵入させた。飛龍は綿竹 (徳陽豚北﹀で萄人千絵を招き合 し 、 巴 輿 (途寧郡脇。 今の蓬渓豚西﹀牒令王貞之を殺し、陰卒
(徳陽西北叫太守沈法輿を追うた。道済は軍を遣わしこれを討ち斬った。
九年、伍城牒民、越責・南島奴は私怨と猪思により鯨民を扇動し、 ﹁
司 馬股下はなお陽泉(綿竹豚)山中に います﹂と
衆を安心させる必要が生じた趨慶は 、 陽泉帝 に司馬殿下 を迎えにゆくと三千人を従え羽儀を備え出量した。陽泉寺の道人
。 趨贋は道携を成都城にかこんだ。司馬飛龍の名のために馳せ参じ た のにその姿を見ないので疑いだした兵
九年九月
萄土の僑奮倶に反した。
洛城ハ梓澄郡治洛師脚。今綿竹田肺﹀を陪れた。 巴西・梓温・南漢中 (盆州の僑郡﹀ ・
浩陵 ・江陽・ 迭寧の各太守は域を棄て走り、
、 慶 漢(郡治は錐) で州兵五百を破った。 巴西 (滑に寄治する梁州 の僑郡﹀の人、 唐頻こ れに臆じ
言いふらし 、数千人を集 め
(
3
)
(
4
)
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1
1
な
甘府導 河豚)の 人、程道 養 を脅迫し、﹁これ飛龍なりと言わば則ち坐 して 富 貴を享けん。従わずんぽ 卸 日す
(沙門)柏牢 (
のごとくで
わち斬らん﹂と言い承諾させた 。道養は窃王と稽し泰始元年と僑年競を立てた 。そ の他官厩を 置 いたが 、別表
ある(六頁)。
一三十六鐙を菟じ卒
道養を奉じ成都に還り包囲を績行した。兵力は数首円から十数寓にふくれ上 った。遭慣 はさきに呉丘
つが。賊軍は道済
民とし宋輿 ・宋寧二郡を立口 、商賀を招集 しおよ び道俗 の奴僅を克じ 東西 の勝兵 四千人ば かりで域を守
に向かい 、州 の行政の貫際 上 の責任者費謙 ・張照の身柄引渡 しを要求、かな えら札いたら解散す ると言った。
。参軍梁僑之は賊
制 九 年 十 一月。成都攻防戦なお輝く。 中兵参軍斐方明 (のち梁 州刺史)は賊 管の積集 した 軍需を焼 いた
叫
た。 しかし方明
議楊孟子を誘い踊順し内臨胞を約させたが、この密謀が遊覧し、菅原(成都の西。 崇慶蘇東)郡に戟線がのび
者の兵力合
は連戦して賊に打撃を興え、道養は資漢に 、越由民は道養の弟 長沙 王道助 の擦る渚域︿今の綿暢蘇﹀に退いた。 雨
して一高二千に減 って いた。
。
九年十二月 末。成都城中食壷く。さきに別駕張照が太倉の穀を域内人民に椀下げたため包圏 三月で食糧が底つレた
。
でに病気
食を求めて出撃した 袈方明が敗れ還り、道一済がなけなしの食を供し涙の封面をするという一幕がある 道一演はす
。
。 賊は方明戟死のデマをとばしついで道済病死 のうわさが域内に流れた
にかかっており。中央軍(蜜兵﹀の来援を待っ た
しか し参寧梁僑之らの計略で財物を投じ志願兵を募 り、人心を安定させ、雁募者日に 千徐もできた。
も死を
十年(四三三)二月。刺史劉遁済病死。梁 ・裳の二参寧は秘密のうちに彼の死瞳を居室(務 V後に葬り、遺族 に
、
知らせず、 彼の数命と詐り文書に答えた。 程道養は成都の段金橋で郊天の撞を行ない登壇した が 方明はその 軍を大破
し、廃漢鯨に敗走させた。
刺史﹀兵力
荊州の都督 ・刺史臨川王義慶(四一ニ-一│三九在任﹀は巴東太守 ・督巴西等五郡諸軍事周籍之(前寧州、後の盆州
、
破h、趨賓
二千を源し、成都を救わせた叫彼は方明と合撞し 都問料︿成都西北、今同名)から慶漢豚にわたる百鈴の織替を
- 4一
5)
(
)
7
(
)
8
(
十年四月。官軍が有利にな った。道済のため 登喪。 それとともに凱の原因と な った 地方官の失政を糾弾する空気が生
ーば庫民漢を棄て浩江にそい北の伍域・洛懸を保った。
ω
じたらしく、梁 ・南秦二州刺史甑法護は 刑政治まらず、 忌発の 和を失 ったかどで克官。庭分中の粛思話を復権させ後任と
した。
制 十 年 五 月。官軍勝利。方明は情城を進撃、張尋 ・唐頻を破 リ
h 、司馬龍伸こと程道助を捕斬し、趨庚ら逃散した。七
十年九月。九年十一月の護令後、 ほとんど 一年目に新任刺史甑法崇は成都 に入 域。責任者費謙を誕伸し た。張尋 は南陰
月、盆・梁 ・寧三州に曲赦。盆州に宋寧 ・宋輿二郡を置く。 (本紀。註側参照)
ω
制十三年六月。将軍粛在之は道養を郵江口に敗。、鳥居奴は司馬飛燕を殺し降服。
帥十四年(四三七)四月。周籍之、盆州刺史となる。 越庚・張等ら部曲をひきい踊降。 賊将王道恩、郵 山に逃げ こんだ
道養を斬り首を遺 ってきた。徐黛ことごとく卒らぐ。
江蘇宜興蘇南 )令の司 馬敬琳と謀反を計り
十六 年 (四三九)十二月。ー
降服後、 京師に移されていた越慶 ・張尋は園山 (
とを組たなか った。東菅代またそれ以後も江北六夷の境で威光のあ った 司馬帝室の姓と、 この 観初護のスポンサーの感あ
眉賊が劉盆子を奉じ、調勤僻下生と宣俸した元の韓山童も宋の徽宗の子孫とかつがれ、清代 に朱姓を 名のる命同黛首領はあ
この反乱の概略を述べたが種々な閥連ある問題を検討す る必要を感ずる。まず司馬飛龍 の姓名を問題にしよう。漢の赤
伏諒した。
ゅ
。
- 5一
卒鯨を攻め、道養を奉じ二千徐家を つれ 、,
郵山(途寧西﹀にこもる。その他の賊も山谷にかくれゲリラ載に移 った。
、同十二年︿四三五﹀八月。盆州に南青脊・南新巴郡を立 て僑流を安置した。九月、萄郡賊張尋が冠をなした。
1
1
9
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2
1
越石子 ¥
越際
向上
鳥 長 奴O
O 秦 州 刺史 張 寧
佐虜将軍
銀軍将軍
反凱軍 人 物 官 続 一 覧
銀北将軍
梁 穎 O 梁 州刺史 杜 承 ×
﹁本文
尋O 一参照 一・ 唐 頻 ・案 玄 子 ×
忌
胡
俸
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罰王・車間制大将軍・盆梁二州牧司馬路興(程道措置)ム
宮城不詳
.
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る忌 楊氏の動き を調べ
九
てみ よう。
と崎書
記事に先立ち述べる 。
と、元嘉九年の侵 入の
人所殺。
菅室近戚。康之尋矯
之自云名康之。云是
穫之自云名飛龍。依
首。並改姓潟司馬。
之 ・郁恢之 二人、投難
先是四方流民有許穆
よ
一方、劉道務停に法 、
6-
←
長沙王 ・際 騎 将 軍 ・奈 娘 二 州 刺 史 司 馬 施 伸 (程 道 助 ) ×
ムは山名。 < >は僑
oは県名。
治の県名。
る宋
張
郡。 河川名の ( )内のものは今名。
O 印 降 服 。× 印 戦 死 。 ム 印 味 方 に 殺さる 。
。は郡名。 そ の 下 の ( )内は郡
置は益州治。
奈泊
ぺ
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関係地名
司馬飛龍の商L
術将軍司馬飛燕ム前将軍
殿 湿×
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× 輔 闘 将 軍 王 道 恩O F
僕
世
A 仇;
1
2
1
初有司馬飛龍。自稽菅之宗安号菅末走仇池。
と記す。改姓は仇池の楊氏に投じた以前のことか。以後であるか。ま た何時、仇池に至っ たか。
清の周溝はその菅略三六に、菅警には専俸を立てない揚氏のための列俸をか かげ、
西膏之表、唯涼州鯵守臣節。仇池内附、涼使得遇、雄割操弾丸、抑亦梁盆之門戸也。強弱遁更、委質僧籍、勢非得己。
。,
と好意的に論じている。宋書忌胡伝等で見られるとおり、楊氏は南北凱離の際に保身に浪々とし南面外交にさおきし た
NW
闘
東育の威が江北に及ばないと見るや、前越・成・後趨に朝貢した。 !その後、 同じく前漢白馬耳の後である略陽・臨滑
(甘粛秦安蘇東南)の底持氏が勢力をうるとこれに従い、荷堅の敗亡後も、武王楊定ハ三ん四 1九四在位)は前秦に忠誠を誓
った。また替の孝武帝は彼のため仇池郡を立て(三八五 ﹀天水略陽をも勢力下 においた。 彼が 乞伏乾舗に滅ぼされ たあと
彼の従弟、恵文主盛会一九四│四二四在位)は四山の忌莞を二十部護軍の銀成に分治する軍制をしき、北競・東育のほか 後
秦にも従属し、宋の武帝からは武都王に封ぜられた。彼は 子の玄︿孝昭主 。四二五│入在位﹀に向かい、﹁吾年己老。嘗矯育
臣。汝善事宋帝﹂と遺言していたが、玄は宋の武都王を襲封した元嘉三年に なっ て、宋の正朔を奉じた。玄は善く土を待
帥帥
ち流奮の懐く所となると言われるが、漢中を守る兄の子楊撫を除いたような内紛もある。一玄死し て弟 の難賞は玄 の子、保
慶して幽閉し、自分が位を嗣いだ。 難賞は義照元年(四O五)人質になり後秦挑輿のもとにいたことがあ る。ときに
宗をノ
江北でも高
菅の宗室で後秦に逃げた者に司馬園藩・叔潜兄弟、つい で休之があり、これ ら有能な菅の宗室の人物の繋望はい
かった。許穆之らが宗室と儒帯したのはそのためであり、その時期は晩くとも元嘉三 年以前、お そらく楊盛在位中の膏末
のことであろう。
同
難賞の代に楊氏の内紛あり高司馬康之 と稽した部俊之も人に殺されたが、飛龍も身の不安を感じ 、難嘗もまた宋との関
彼を扱いにくくなった 。元嘉九年にたまたま仇池はききんで梁盆は豊作 であっ た。しかも東菅の 地方政治は 二州とも
係でー
飛龍に兵力を奥え、宋の領内で食を求めんとする流民がお そらく馳せ参じた。し
に乱れて いた。 難嘗は一石二鳥を策し、 ,
-7-
かし飛龍はあえなくも討伐をうけ死んだ。 一
前 述 の ご と く 難 嘗 は こ の 期 に 漢中に 出兵した が、 元嘉 一四年 (四三 七)に上表
二O│=三在任) が
謝罪 した中 に、 ﹁前任刺史 の既法護(四 一
、 臣 が 飛 龍 を し て西窃 をさわ がさせたというのは謹言 である。
刷
宋廷に 申し聞きのため 涙した使者 は宋寧 に殺され、 蓋 軍 の 討伐をうけたが、 ま氏の 丘
(
は 奏 州 の流民で戟意はなか った﹂と
述べ、﹁臣は歴代、藩を守る。:::あに妖妄に偲託し成功を鼓敗せんや﹂と 言う。
0
飛龍 の行動が妖妄 と形容されている が、 のちに沙 門 を名目 上 の首 領 にかつ いだような宗数性が嘗初から存した のか明ら
、 : :、
・刀司 4ωL
飛龍とい う名は いかにも天位を窺観 す る者の好みに合うようだが 、 楊難雷の租先に飛龍とい う者あり 、 西菅武帝 から征
刷
、
西将軍を仮せられ略陽に還り居た 。彼の外甥で漢人令狐氏の子戊捜を養子とし、彼のころから闘中 の士民で彼の根操たる 仇
刷
- 8ー
池(百頃)山に流寓 す る者がふえた。 つま り 許 穆 之 の 改名は 司 馬 帝 室 の威光と楊尽の 祖 先 の名撃を 合 わせ獲たの である。
東 菅末に江 北に亡命した司馬氏一族 は少 く な い 。 彼 ら のある 者 は 鐙 中 に入り 、沙 門 に 身 を やっ し盗賊の群に投じ た。菅
代諸王のれ っきとした子孫のほかに 素姓 明 ら か で な く ま た 僑稽 の 者 も 混 って レ弘
江北では胡族同士で支配・屈従の閥係が 錯 綜 し 、 有 力な 胡族 が 人 材 を 司 馬 氏 宗室 や 一 般漢族人士に 求めれば、 無力な雑
胡 もまた 司馬の 家名に あこがれ、その 一族 ま た は そ う 白梅する 者の多少の 才 能 に助けを借ろ うとした。
四 一四年十二月、河内 (
河 南め陽鯨﹀ の人、司馬順宰なる者、晋王と自稿、 説 軍に立ち向かい、 翌年、河西 の機胡 は胡
制
人白血栗斯、 ついで劉虎を草子に推し 、 建 卒 と 年 暁 を立てたが 順宰がこ の凱の 謀 主 で あ った。 四 一六年九月、叔孫建に卒
定されたが降卒十鈴寓あった。 四 一七年、天帝の命を 受 け常州封龍山(ま た飛龍 山。河 北獲 鹿蘇南 ﹀で 天 子 と 稽 した司馬順
之(一ニ九一一丁四一七﹀の反あり、なお名と場所と年代を列島苧すれば 、四 二八年東莞の司馬朗之・元之 ・可之 の兄九、四 六入
制
、 山東 に嵐を起した 司馬 悪 御 は 沙 門 で 自
の慶漢郡の司馬龍駒がある。最後の例は飛龍の乱の後縫かも知れない。四九O年
制
年 の 徐 州 の 司 馬 休 伽 、 四 七 一 年 の 斉 州 (山東祈水 蘇)の司馬小君同
、 四 八O 年 太 山 の司 馬 朗 之 、 四 八 一ll
四年 の聞に、 南 済
1
2
2
、
嗣
。
ら聖王と言 った。こ れらの翫では司馬氏自穏と、雑胡と の連合 および宗教性 の有無が注意され る
ι言語は異なり中国語の遇需を要したが漢
同
最初の例の河西胡とは稽胡 ・山胡と同じもので漢に降 った旬奴の子孫である
人と雑居した。 白氏 ・劉氏等はその著姓である。 漢人司馬順宰 はその漢族 らしい謀略の才智をも ってこれら勇敢な胡族の
同
4 や巴 底李氏 の天師道と
さて嘗面 の初代司馬飛龍の宗教的背景は分からな いが、彼の後纏として沙門が選ばれた。 底・ 元
二五六以前生 。三O五死 )は恵帝の代、開中都督の 河 間 王 顛 2 50│六在任 ) に寧敬された。皇甫重 (二九 四│
の閥係は強調されてレるがここで一言すべきは楊氏と悌教の関係である。
自巾遠 (法 祖
三O五在任)に代わり秦州刺史にな った 張輔にも尊信され、﹁還俗して軍園の顧問になれ﹂ と言われたのを固僻して議論の
、
はて殺された。彼の名撃を慕う臨上 の発胡五 千騎は彼を歓迎に来たのに、彼はすで に殺さると聞き憤激 して 復仇を誓い
、 富整に殺された。張輔が彼を 利用せ んとしたのは チベ ット族封策のためであろう。
このさわぎの中に張輔 も怒れる部下
、
漢族が不 穏分子である チベッ ト族 を 漢 人 の高僧(法租 は河内世間氏の 出身﹀をして懐柔さ せよ うとしたの であろ う。これ
につづいて彼の弟の法俳(二五Ol七生 。三O六│二二死 )が 兄とよ く似たいきさつで梁州刺史張光 (三O六 │一三在任)に殺
され、楊難敵が張光を殺すに至る記事があり、期せ ずして卒行 的な因縁語をなしている。
張光は法租が反服(還俗)を肯んぜず張輔に殺されたのを以て、 また弟の法鮮に逼り罷道せしめんとしたが、 彼は執志
堅貞、死を以て誓となし、 ついに光のため害された。 のち張光は難敵 に固 まれて憤死した。なお群胡は法租 の怨を 雲 いだ
ので喜び、法租 の屍を分かち各 々塔廟を起した とい う。なお吊法租が天師道祭酒王浮と道併の宗教諭宇をしたことは有名
同
であ旬。このころ巴広李氏は明らかに道教に傾き、 及品元も多 く張魯の敢闘の感化にあ ったわけで、お そらくこの兄弟 の沙
門は、先輩で敦燈菩薩と稽 せられた竺法護合 一三七上三四)の 跡を つぎ天師道が優位な教線をのばした チベヅ ト人 への悌
教開拓俸道に努めたため漢人官吏の誤解に遭 ったものであろう。もしそうなら老子化胡説をめぐる 道悌二 数 の争いはこの
- 9一
参謀にな り北貌と戟 ったのであろう。
3
2
1
4
2
1
場合ではチベ ット族布教 に闘して展開されたわけである。
。
ただし楊難敵が張光を殺したのは後述(一二頁)の理由があり、彼の奉併を 謹す ることはで きない 楊氏と傍教の閥係
、
は、司馬飛龍の保護者である難首に至り明らかになる。梁停 一一・紳 異 科 ・宋高昌理 法 朗 に附す智整俸にレ う
時涼州復有沙門智整。亦貞苦有異行。 矯 土主楊雑首所事。後入寒峡 山石穴中不反。
さらに難首の孫楊大眼(│五一七)は宣武帝の初め(五 OO)孝文帝のために造像した記がある。 現書の 彼 の俸 によると い
かにも広の出身 らしく、膳気あり、長い縄を警につけ鳥より速く跳び走 った といい、のち不貞 のため 彼に殺された 妻潜氏
、難嘗の場
は騎射を普くし職場に 出ふん出しかし造像記だけで見れば大限の信仰は首時北説 の胡漢の悌数者 と一般であるが
0一
-1
合は紳異借に心ひかれたわけである。
楊氏と悌数 ・道教との閥係は本題をはずれたようだが 、 ついでに南斉末に飛龍の乱と性格も地域もよく似た趨績伯の乱
三月、 巴西の薙道稀は洛令李腐を攻めた。十月、越績伯また反し、悌輿
が起こ ったことを附記したい。
。
永元元年(四九九)九月、彼は五域の令を殺し、十月、菅原の人、李難嘗がこれに謄じ州軍を大破 翌年正月、 越と同
郷、新城(一ニ筆賂﹀の人自巾養、 途寧郡をおそい、
帥
に乗り、 天より車内石の玉印を獲たと稽した。刺史劉季連に討伐され捕われ慮刑されたが、﹁す ぐに 飛び去らん﹂と道教の
丘(解の読を信じ加 。 とにかく萄の反凱 に特殊な宗教性があるのは一般的原因のほかに地域性も考 えねばならない。
られたものであることを考え、中世初頭に著るしい流民につき一言する必要があろう。
.
天歩簸難、始自吾州。州黛流移、在於荊土。其所遇値、蔑之如遺。頓伏死亡者、略復過牢。備嘗奈毒。
前節で司馬飛龍本人の身許を洗ったわけだが、彼の軍事行動が楊難嘗にせきたてられ梁盆に食を求める流民により支え
四
、
その反乱を指導した、 萄郡の秀才、 もと盆州別駕
これは西菅末(三一一│一五)荊州に流移せる局の流民に推戴され
。
くれた南卒太守鹿倉に封し、 自分の苦衷を述べた有名
張(字景文﹀が自分を荊州の酷陵(湖南 今同名の鯨)令に推薦して
同
政策応反封し、李特のひきいる秦州六郡の流民に同情し
な書簡の冒頭である。盆州刺史羅尚やその腹心の州の綱紀の弾塵
軍の巨頭になり討伐軍の陶侃から清議で責められるに至
たため官を棄てた儒家的ヒューマニストである彼が、十鈴高の反
る事情は史を讃む者を感動せしめる。
安全とを求める哀れな存在ではあるが 、 中 には郷里の土
流民は郷里の土 地を失い、他郷に集圏をなして避難し、 食糧と
同
。一方、その才幹と聾窒をも って流 民集圏の指導者にな
族も混 っておりうまくゆけば寄寓地で任用され人生の再出量する
、必要に陸じて地方官たちに贈賄してその集
った者は、部下が略奪 ・暴行するのを歎認し、金・銀・絹などの資貨を貯え
に目をつけ、枚賄だけで満足せず、関税や直接行動によ
闇の存立を講ずる機略を有した。貧欲な地方官は流民集圏の財力
-11一
土
本
る資貨強奪さえ計った。
え 巴萄に寄食せんと朝
、創閣をこ
りに
さ入ら
川に
漢、
とき
は
流民
のた
乱量し
元 康 六 年 ( ニ 九 六 ) 底 帥 棺 円 高 年 が 闘 中 を大
の貨賂を受け、﹁十徐高人もの流
。 しかし流民慰労のため中央から振遣された侍御史李芯は流民
廷に乞い許されなか った
は倉儲あり豊作だ﹂と上表し、 ついに李特らにひきい
民を漢中だけで賑給できない。荊州に下るには舟行危険である。萄
同
踊還命令が出たのを李特が延期方を願っているが、この
られた流民は梁盆に分散し統制つかなぺなった。その後、彼らに
職官吏・辛舟 ・李芯(前件付御史) 二太守は、李特が、萄
時も李特は御史の慧該や盆州刺史羅尚に贈賄した。羅尚の下の汚
、流民の出費を督促しつつ、北に通ずる交通路に賞る梓
で自立を計った前刺史越底討伐に功があり賞せられるのを妨害し
寸羅侯は貧れども断なし﹂ と評したが、寸羅尚は流民か
温太守に命じ閥所を設け流民の賓貨を浪枚せんとした。二太守は
い。李特を保護者と仰ぐ流民は家族もばらばらになり萄
ら枚賄するだけで強奪する決心はつかぬ﹂とレう意味かも知れな
はあっても穀物はそう豊かな貯えなく、濁人の村盤 に供
の地主のため傭賃し、秋をすぎれば食糧がない。流民集圏は資貨
5
2
1
,
6
2
1
し
即
給を 仰ぐため人員を分波させて レた。 進退きわま り起兵し 一時成功した李特 の凱が 、羅尚 の封村壁工作によ り失敗に 肱
の 機をつかん だ成の
﹂
てしま ったのは 、流民 と土着 民 と の感情的疎遠を 利用し た漢 人地方官の巧みな方略であ ったが 、行動する流民集聞にと っ
。
ては 何商人も の放中の食糧まで確保できなか ったとい う事情も存したろ う
、
永嘉元年三一 O七)巴西太守張燕は漢中を抄略する秦州の流民都定らの賄賂を受け討伐をや め
李維が漢中を陪れた。新任梁州刺史張光は張燕を斬り、漢中を回復したが 、彼もアンタ ッチャブル ではなか った。建輿元
年(一一二三)王如の徐縫、窃人李運 ・
王 建 ら が漢中に西上 し、 これを迎撃し た 張光の参軍五日遡に賂を贈り無傷で錦順 した
のを彼は歎 認した。 流民の珍賓の多いのに驚いた参軍は みな奪っ てやろ うと考え﹁彼らは錦農せず兵器を修理し ている﹂
。
と説き、彼らを攻め殺した。王建の婿、楊虎は怒 って張光と戦った。ときに仇池の楊戊捜は隻方か ら援軍を 求められ た
川河
て一の刺激となり、自尊心・を固めさせたようであ加。
東菅が成漢を滅ぼし局地を回復してから、この地に臨んだ刺史は 、累代名望ある武門から輩出した 。汝南の周氏は訪の
2一
-1
これより前に戊捜の子、難敵は養子をして梁州で奴隷買買をさせた。張光は 違法の かどでこの 養子を鞭殺 した が、難敵は
怒っ て、﹁ 張光は着任の時は尽の食糧で助か ったのにこんな小罪で人の子を死刑にすると は﹂と言 った。難敵はいま父の
命で張光のため来援したが、敵の楊虎の勧めに従い 、菅 迦が まきあげた流民 の珍貨をも ってい る張光を討つこととし、
いに宿敵を敗死せしめた。
をはらすべく城邑を やき長吏を殺し 、彼に臆じた。 同 五年、荊州に流移せる巴萄の流民数高家は醤百姓に侵苦され た怨恨
。
を、初人李駿 ・杜崎らの反観に参加することではらした 。土着 民側の反感は善良な他 郷 の民まで反乱に追いや っか
流民と土着人、すなわち僑奮の封立 ・疎隔は一般的である 6 異種族なら ﹁非我族類
、 其心必異﹂ とろこつな感情 がで
帥
る。永嘉三年会一Oル)王摘が河南省を侵すや、頴 川・ 汝南等にいる他郷の流民は居民に櫨せられず苦し められ て いた怨
コ
萄人はその地方が大陸の奥座敷ともいうべき別天地であるため 、自立 ・自聞の気象があ った。局漢の 建国は萄姓 にと っ
同
J
同
子、 撫 │
│ 楚││唆、仲孫と三世田十一年、盆州や梁 ・寧な ど萄漢の盆州 を分割して出来た州 の長官たり、 ついで河南の
刷
戴く萄人の乱となり、藤は弟の瑳や一族と皆殺しにな った。 劉裕が萄を回復する軍を 出す や、理の子、修之は復仇にもえ
て従軍を願い容れられなか ったと の話がある。
さて李特 の乱の とき、 ﹁流人 は剛剰に して萄人は 儒弱、客主あ い制する能わず﹂ と言われたよ うな雨者九 越 魔 の 再 起
輔
のときは僑奮ともに反したのはなぜか。羅尚は庸才とはいえ、叔父羅憲の残した撃望のせいもあ り、僑奮を分割統制でき
たのに、劉道機はいかなる失政をしたのか、次にこの問題を考えたい。
帥
あがらなかったという。
同
劉道関は荊州都督江夏王義恭(四二九l三二在任 )の直鹿をうけた戎挽 (振武将軍 ・四品)を帯びた刺史であ った
。
り翠車刺史で はないから兵を領し州官のほかに 箪府を有した。判明する州府の要職は左の如くである。
方が重 い。貫にこの凱卒らぎ任沓之は軍事に 任じなか った が功により正員郎にな った。
ω司馬(任菅之 ・粂窃郡太守。章慮伯 ・粂南漢中太守﹀司馬は 卒時 では長史に次ぐ要職だが戟時におレてはむしろ この
例だが、費謙は例外的にそうでなかった。
同
ω長史(費謙﹀ 府佐 の首で 、事あれば 府主に代わり行府州事の職を行なう。首郡││ 盆 州 な ら ば 萄 郡 │ │太守を帯びる
つま
う。文帝はこれを聞知し 、 ﹁清省 を旨 とし殖貨をさし ひかえ法をもって 下 僚を御 せよ﹂と 詔し戒めてい たが、 改善の賓が
劉道演の失政は彼自身と いうより、 彼が信任し た長史費謙 ・別駕張照 ・参軍楊徳年 らがみな褒数し 利 を興したためとい
五
川判参軍(梁僑之 ・揚徳年 ・程展曾﹀参軍には諮議 ・録事 ・記室 ・功 曹 ・芦曹等種類多い がこの三 人がどれかは分から
-13-
紫陽の毛氏から 穣 之 l
l
│ 藤が東菅末、鎮守した。局兵をして荊州に出征させようとしたことから そ の反感を招き、諜縦を
1
2
7
8
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1
o しかし道横死後、梁は後事をあずかったから筆頭の地位にいたのだろ う e
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、
:
,
判 中 兵 参 軍 (裟方明 ・任浪之)兵務 ・寧器を総べ 、 征伐にも従う。この凱で斐方明の功は最も大 で、乱後、虎貧中郎特
五 品)に援用された 。 (以上が府佐﹀
(
以 上州官﹀
(
。
同別駕従事(張照)刺史と乗物を 別 にし 、任は刺史の宇に居り、主吏 ・選翠など庶務を総べる
似治中従事(李抗之)別潟に次ぐ。衆曹の文書を主る。
吋
ぺ
。
ほかに盆州もしくは梁川の領する郡勝の守令で名が載 っているのが 若 干 あ るが重要でない から省く
、
それよりも道済の腹 心と考えられる費帯らがどんな悪政を したのかと 言うとその褒数 ・興利 の具鰻例と して
4一
-1
、
商人の取締りの巌しさ。 遠方商人多至窃土。 資貨或直数蔦者。 謙等限布締綿各不 得過五十斤 馬無善悪限濁銭 二
私鋳禁止と鍛器専貰。府叉立冶。 一断私民鼓錯。市貴 賓錨器。
同
・梁額をもって 参軍・ 督護にそれ ぞれ任用し よう とした のを、費謙が固執して輿えなか っ
四三 六│五一)つぎ立ち 、中国との
。 元嘉の治 世に首 り、吐谷海には慕墳ハ 四-三 │三五﹀ ・慕利延 ︿
尭 の住地の産であろ う
.,賢 二州と古 くから 通商路が聞いたことは言うまでもない。商人がもたらした馬とはおそら く吐谷、緩 や仇池すなわち氏 ・
まず遠商のもたらす馬の 債格を 一律に局銭二 高に公定し た事につ いて考 えよう。 巴萄と 漢中を へて涼州 やまた南方の 交
が穆げられ る。 このため、商披仔嵯し、百姓みな凱をなさんと欲した。
たこと。
ω道関が五城 の人、南底奴
のニ項があげられ、直接の動機として
。
高
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1
2
9
同
商業 ・政治関係は次の拾寅ハ匹五二四八 O)時代の盛況 の準備期間だ ったと思わ れる。 県別馬は 務停牛と ともに吐谷揮の産 で
。
あり、 萄馬と言 って も、この場合萄で見られる馬と同種の秦西の馬を意味す る
同
梁末に十七年にわたり 巴窃にほとんど自立した武陵王粛紀が開震に努 め、 南は寧州、 西は吐谷揮に通じ、・﹁外は商貰遠
方の利を通じ、財用を殖やし、馬入千匹を有し、上足の馬は内厩に置いた﹂という。局地の産物 には米 ・絹 ・盟 ・錨が
あ ったが 、馬は輪入が主だ ったらしい。
伺
都陽王依が盆州刺史の時(五一四│一七)成都と新城間の五百里の騨俸に従来百姓の私馬を訂したのを、官で千匹の馬を
同
買い上げたうえ、各人に交付し必要な時、徴費したとい う。百姓も馬を有す る者が多かったが、 やはり刺 史 ・太守など官
僚が軍用目的で善馬を集めることが普通であった。
さて二高銭という馬の債格であるが、参考にすべきは粛恵闘が盆州刺史をやめ資財二千蔦を散施しながら建康に還る直
一匹一高 六千絵銭に なるから、 二高銭は安いとは 言えな い。しかし萄銭 というのは 何か 。
前のこと として(四六八)彼 の録事'
参軍到希微が萄人に負債百高あり、未返済のため出震できなか ったが、 彼は馬六十匹
μ
を輿え償bせたとい
けん
宋の洪遵﹁泉志﹂によると後漢の建安一九年ハ一二四﹀、成都に入城した劉備が劉巴の議により、直百銭(奮譜云径七分
また直百銭も三呉の外、 張台に擦ると、 巴萄より裏漢までの昭烈の奮地 に甚だ多 いという。 洪遵
霊四鉢﹀と停形五録銭(漢の五妹と同形質)とをいた。梁の顧短によると、今 (
梁代)萄銭という所は後者であり、京師 ・三
奥で用いられている。
も、明らかに劉備のいたものだが、すべて四種あり 、中には粗悪で文字が不明になったのもあ ると言刊。
清朝嘉慶の人、侃模の古今銭略六には後局銭として李薄が三三八年にいて年挽に因み漢輿銭とよんだもの、顧垣らが前
漢の爽銭と誤ったものを拓本により成漢の銭としてかかげている。 しかし梁代に萄漢の銅銭が その故土で用いられた と い
う梁人の謹言は、 南朝で銭少く古銭を通用したという吠態から見て信頼される。 ところであ たかも元嘉七年 (四三O) に
は文帝は銭署を立で 四録銭をいてお り、 ﹁輪郭形製、 輿五録向。 用費損無利。 故百姓不盗錯。﹂ (宋書 七五・顔峻停﹀
U
、
戸Ti
と
あ
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13
一男撃古銭 以取銅 ﹂と
り、 これは良質の銭 らしい。 しかるに同六六 ・何尚之停 に﹁先是患貨重 、鋳 四録銭。 民間頗盗器、多
あり矛盾す るが 岡崎博士は前 者は孝建元年(四五四﹀以前、 後者 は元嘉 二十四 年 (四四七 )以前を指す ので共に事賀で ある
と 論 ぜ ら れ ヤ 泉 志 ニ の 張 台 の 言 に よ る と 、径七分重 二銑 以下といい、洪遜 の獲 たものは 重さ ニ鉢 四黍である。かつ奮譜
には ﹁文に四鉢といい重さそ の文の 如し﹂とある。 これ で見 ると元嘉四銑銭 にも良悪さまざまあ ったこと、孝建 四銑銭の
場合 と同 じら しい。
さて費謙が馬の代償に支掛 った萄銭は遊行後まもない良質の 元嘉銭より は劣 ったものであ るのか。 また局漢の大鐘 をそ
則文皆古家。 既非下走(僕使 )所 識。 加或漫滅、 尤難分
の名 目債値で強制的に受け取らせたの だ ろうか。前掲の四四七年の 何尚之 の奏に 、
鉢五鉢
四。
止知於
問大。
其格
則未
又銭之形或大小多口
銭若
直云
明。 公私交乱、宗訟必起。
と言い 、江夏王義恭が大鐘嘗雨をいんとしたのに反謝している。前述した萄銭も流通していたのは悪貨が多か ったのであ
ろう。
、同
梁初では梁・盆 二州 は京師 ・三呉 の先進一地域同様、 銭を用いた と言わ畑、 元嘉二五 (四四八 )年 以前では漠 川 はこ とご
とく絹を貨と したが刺史劉秀之 が銭を用いさ せ百姓これを便としたとい う
。 ところが盆州で は遵慣は軍府 に冶を立 て銭 を
いて、人民の私鋳を禁止し たのが失政の 一に数えられてい る
。 盆州の 物資集散の 盛大は銭貨 の必要を促がし 、道機もお そ
らく元嘉四鉢に刺激され白州の通貨を蛮行しようとしたものか。 局で銭をいたので有名なのは南斉の 永 明 八 年 (四九 O)
同
前撲の郵通の開いた膿道の銅 山だとい う南底郡ハ珠豚西南 ) 蒙 山下 の銅をとり、 一千蔦銭をいた が費多く して やめたとあ
同
。 しかし劉道慣はこの 事件の牢世紀前に萄の軍府で鼓鰭を 行な ったことになる。 はじめ宋武帝 の時、議者は民間 の銅器
る
等の私銅を買い上げ 五銑銭をいよ Kノとしたことあり、道済がこれになら ったとすれば民有の銅鍍や古銭安﹄禁止 したと思 わ
れる。
6一
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1
3
1
つまり萄銭二蔦は民間で歓迎されない銭貨であり、かつ吐谷海から総選したような名馬も萄近在の駄馬とひとし く公定
債格をつけられたとすれば、遠商 や馬の 所有主の怒り を買ったわけである。
ただ乱が起るや道演があわてて成都近傍の商買を招集して味方に引き入れたのは雄厚な資本を有す る遠方商人に封す る土
反感を持つに至る。総じて州政府のとる経慣統制は南朝版園で経済的に成長しつつある盆州住民 にとって迷惑であ った
。
る親近感を抱いたであろう。しかも遠方の商人に高く生産物を買ってもらえる機舎を制限されるなら萄の富民も州政府に
を有する流民は動産資本を有する商人とも言える。彼らをどう迎えるか分らない萄の官吏や世間に封し彼らは同類あいよ
流民が窃に入ってくる道も遠方商人が通行する道もいずれ金牛 ・米倉または陰卒道 で道伴れにな ったであろう刷、資貨
かったと言える。 また銭器を専買で高く買りつけたのは農民や商 工者一般を苦しめた。
て徴集したり、賄賂をと って限外の取引を歎認したのではなかろうか。言レかえれば商力を有効 に利用する方策を知らな
盆州政府は強機をも って、遠商の善馬を、質質債値低い銭貨で官府に、買上げようとし、一方遠商が萄の富裕な農家か
ら買おうとする衣料品の,
取引高を制限した。商人と買手である百姓隻方の自由な取引に干渉して、臨時の折課にかこつけ
局地で取引しうる額は三者合しても百高銭よりはるか以内と概算しうる。
ぅ。この布を絹布ととって、匹二三千文で教えても一 OIl- 五高銭になり、費貨数百高という資本を持 ってくる 遠商が
同
つぎに布・綿・総の取引高を各五十斤に制限したことである。 四六O年ごろ の 史 料 に 瞬 一雨 三四 百銭という。 五十斤
(斤は 十六商﹀なら二 四1 l三二蔦銭になる。締の債格を示す史料がなく、 布を斤で量るのも不審で 匹 の脱したのかと思
/¥
着商人の反感を利用したのであろう。 かかる他力主義は自等・自閉、 ﹁萄犬日に吠ゆ﹂ 底の州の上綱費謙らの考えと見れ
ばよ心。
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2
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柿
しかし反乱の直接のきっかけは玉城の人、鳥島品奴・梁顧を刺史が参軍に任用するというのに費謙が反封したとい う こと
一般の物
である。吊姓は漢人としては極めて珍らしレが、胡姓と見る理由もない。しかし萄姓と呼ば るべき名のなかったことは考
えられる。それが萄の大姓の地方的貴族主義に妥協する州府の立場から相手にされなかった。
紹望と憤激により彼らは盗賊的行震をなし、九年七月、玉城令に着任した羅習が道慣の腹心とレうので恐れ、
情も凱を欲しているのを察し、牛を殺して盟い、要誓を結び共にあい禁検す││結祉の規約を立 てた。首謀にな ったの は
﹂とにな った
越魔である。彼は吊底奴とともに、 郷人をおどしすかし、﹁官の殺牛の禁を無現した以上 お尋ね者になるのは必定﹂ゆ
ぇ、共に大事を立てば功名立つベく、然らずば立ろに滅び久しからず﹂と衆を激働した。殺牛盟誓 という方式は民間信仰
いつわ
陽がり て 鳳 輩 の 巡 を な す ﹂
﹁門
り名、
こ無
である市ここに司馬殿下の威光をかつぐ必要が
の沙
いに
つお
わけである。
この乱は中央軍の来援により終結に近づいた。そして賊黛の中に分裂も生じた。程道養は全くかつがれた偽備のようだ
っ
が最後は自分の直系寧をもって載 った。それにしても朝廷の慮分はわりに軽かった。首謀者趨慶とこれに後から加わ た
っ
大帥張尋も監踊のため京師に迭られるに止まり、そこでまた陰謀をするゆとりさえあった。そして州政の貫植を振る た
同
費謙は後任刺史のため鹿刑された。悪代官目あての百姓一授の成功したような感がする。
乱後十年近くしてなお盆州は張尋・趨慶の兵冠の徐で政荒れ民擾いだ。 元嘉二三ハ四四六﹀年盆州都督刺史になった陸
徽は、際郎、方あり、威恵象ね著われ、冠盗静息し、民物股阜になり、萄土安んじ説び、今に至りてこれを稿すという。
梁盆二州は土境盟富で前後の刺史は褒蓄を轡まざるなく、多き者は高金を致した。携える所の賓僚はならびに京邑の貧
同
士で、出でて郡牒を矯め、皆、有得をもって自賛した。 しかし、 元嘉三十 (四五三)年梁州から盆州に柏崎じた劉秀之 はこ
こでも清潔な政治を行なったとい句。
その後、 よりが庚つためか、前述した粛恵聞や郵元起のまうな豪著な生活をした長官をせおうほど萄は南朝の賓庫であ
-18-
3
3
1
すた。宋廷の取ったこの反乱封策にはそうした事情への配慮がうかがわれる。結巳刷、劉道総伺仇りや ゥた商業統制は地方から
仰乙の除平は盆州に廃する南陰平僑郡 (
蔓陽│徳陽豚西北に治
頁による 。 そ こ に 系 闘 を の せ て い る 。
川 こ の 数 え 方 は 銚 後 元 北 朝 胡 姓 考 (五八年 ・北 京)三四五
は尋の誤りかも知れない。
いない。なお同黛大帥張寧を秦州刺史としたと宋香に記すが、寧
て震道養はもともと司馬飛龍 の身代わりの はずで改名せぬ のがよ
いように見える 。 なお張尋は重要人物だのに儒官醐酬が記されて
に岡崎衛将軍司馬飛燕の名あり、程氏の族かどうか分からない 。 き
養 の 弟 、 道 助 は 司 馬 施 伸 と 稽 し た 乙 と が 後 文 で 分 か る 。 なお宋書
-とあり、越賓が程道養の名を龍興と改めたのである 。 なお道
も中央からも歓迎されないものであり、 この反乱は東菅初の流民の反凱とは性格がちがったもので、 それ以後、南朝国家
宮 川 六 朝 史 研究政治枇曾篇 の 第 一章 第 三 節 に お い て 、 流 民
において商業の占める地位は漸増したと思われる。
詮
ω
の位曾史的意哉、とくに四川の流民の起事について述べた。また
膏
中国史上の反鋭、幾民暴動、宗教的秘密結祉などの観念形態
末各族﹁後鋭﹂的経過(貌膏南北朝史論議一四二頁﹀を見ょ。
武 仙 卿 西 膏 末 的 流 民 暴 動 ( 食 貨 半 月 刊 一 九 三 五 ) 、唐長蒲
ω
する﹀を指す。 南陰平 ・綿竹二蘇一
を領す c 戸一二四O (宋 書三 八
・州郡 士山)と記される 。 梁・袋二州にそれぞれ南北陰卒僑郡があ
・ ωEY(施 文 忠)ωoヨゅの乞ロ冊目白閉山市 -u巾 。
に つ い て ︿58Eペ・
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1沼田)・は西洋との接鯛以
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前に階級聞の後動をきたした革命
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べ、村松祐次
った。(宋紀四・胡三省註)
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2275司・君 主EWE-P EE
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ーミ ﹀・ は 非 儒 数 ( 亙 ・ 道 ・ 悌) 的 信 仰・儒教の天命観・中華思
同清陵郡は萄漢置く。今の彰水蘇に治し西耳百の時、相桝師榊に移
る。 東膏末、毛徳組・文虎茂(著 書 八一 ・毛壕停) 太 守 た り、 宋
酬明種﹀の同類の住地 。 また腹君の種た る巴轡 (巴夷 ・賓 人 ・巴
底﹀とも隣りする 。 五 斗 米 道 信 仰 は 彼 ら の 簡 に 普 及 し て い た 。 唐
ている。肺線 ・彊の民多く、臥同州 ・油貯陽蝿置すなわち武陵五渓嵐官 (
禦
徐 文 箔 東 吾 南 北 朝 輿 地 表 ( 補 編 五 )は恐らく本記事により加 え
初援したが、文帝の時復活したものか 。州郡士山には見えないが、
組・均産を翠げ、儒数も異端も世界の精一例的支配者と特別な資格
ある人聞の仲保者の盤験の信仰を共通にしたといい、階級と思績
との複雑な組合わせを指摘する 。
宋 沓 ・南 史 と も に 道 養 抱 竿 人 也 。 底改名詞局総 興 。 挽臼萄王
著書一 0 0 ・議 縦 得。 管戸については註側を見よ 。
同 級 耕 笠 中 園 地 方 行政制度史上編三。 第 一 章 ( 以 下 ﹁ 緩 氏
上﹂三と略記﹀。
ω
ω
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1
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4
になる 。
りとすれば、こ の三郡は浩江 ・長 江 ぞ い に 賊 箪 K席出世されたこと
(今の崇磁燃に治す) に始ま る。 東 江 陽 賀 郡 ( 漢 安 に 治 す ﹀ の 誤
と思われ るが 、との方面に戦線がのび た のは本文に述べ る否原 郡
郡には同名の燃はな い﹀。 江陽は 成 都 西 南 の彰 山際に治した僑 郡
沿う今 の途寧豚東 北。 郡治は附凶漢豚(庇漢郡とは別である 。 臨凶漢
長抑制泡長生興巴忌拙四回別的側 係 (歴史研究五四│四、一一五 頁 以
下。 また猿 否南北朝史論議級編) に詳しい 。 さて途寧 郡は 浩江に
各 千 絵 を ひ き い 戦 った。 方 明 はのち 二千、三千をひきい官軍の 主
数 千 の 賊 の た め 貨 漢 郡 で 敗 れ た 。 裂 方明 ・任 浪 之 の 雨 中 兵参軍は
め討伐に向か った 参 箪 程 展 曾 ・治 中 本ナ抗 之はわずか 五百の兵力 で
帥 奴 償 を 設 し 兵と する例 は、 銭 儀 吉 補 同 国 兵 志 (補編三) を 見
ょ。 商 費 や倍一戸中の 枇丁と ともに四千の 兵 力にしたも のか。 はじ
郡士山に見える 。
の、資州の 宋康郡は 本高涼西部品で元 嘉 九年 K立てたとい う例 が州
孝建元 年 ( 四五四 ) 刺 史 朱 修 之 が 寧戸を菟 じ襲 陽 に 寄 治 し たb
二郡と も に 成 都 の北 方 に 寄治した 。 なお宋 代には、 薬 州 建昌郡は
川 陽 泉 寺 。 匙印刷貫録湯泉に 作 るは 非 。 底 漢 郡 の 陽 泉 豚 ( 徳 腸
力であ った。 し か し 州 軍 は 徴 的 に 劣 勢だ ったとと が分かる 。
同 賊 織の江陽の 人
、 楊 孟子を 梁参寧が説得し 勧降 し、ついに彼
燃商)の名に悶んだ も のか 。削指 仰に は見 えない 。
僚 とは 督代七草・五 校以下の 部 隊 を 指 し そ れ に 属 す る 兵士を
は 入 城 し て 刺 史 に 曾 い 州 主 簿 を 板 授 さ れ た。 (乙れは 自 降 で き
側
家族とも 低 戸 ( 兵 戸 ・箪戸)とよぷ 。 北 朝 の管 戸については、油田
賊 将自巾忌奴 のため二 人 共 に 戦 死 。
同 宋 番 五一 ・臨 川 武烈王 道規 侍 附。 武帝の 弟の子 。 (四O 三l
四四 )。また南史一 三
。 世 設 新語の撰者。 荊州 刺 史 は 荊 ・湘 (四 三
る。)越瞭 乙れを 覚り‘同防は 雷原太 守文仲興に走 り自ら固めたが 、
口 童 劇 博 士 北 朝 の 史 料 に 見 え た 雑 戸 ・雑 径
・管戸について
一
戸
(
山梨大曲学問学臨世間宇部 研 究 報 告 八 ) 谷 川 道 雄 慕 容 燕 の 機 力 構 造
(名古屋大祭文闇宇部 研 究報告二 九)あり、後 者 はとくに州都 戸 と径
一
戸との相側性を強調する 。 同穴兵が速く盆州にいたのは膏末義照中
一年駿 ) ・寧・抗措 ・梁 ・ 盆 ・南 秦 ・北奈 の 八 州 (七州)諮軍事を
殺し剛
宋 書七八 ・南 史 一八。 惑 関 の 父 。 なお乙の 梁 州 刺 史 交 代 の す
きをおらい、北曲掛かる南秦王 記封ぜら れ た 楊 難 賞 は 官 馬 ( 成 都 蘇
ω
ザAVρ
の 地 か ら 成 都 を 包 囲 す る 賊 管 ま で の全線 に総攻獲をかけた ので あ
底 漢 、 の ら に 小 漢 と よ ば れ た 、 賊 軍 の 最 後 の 媛 貼 鄭 山 花近いこ
もこの場合はやはり途寧である 。長江に沿い西下した墓箪 が
対 小
帥耐凶漢師脚の名は寧閣制郡の領豚にもあり乙れは成都に近い 。 し か
都督す るのを常と した 。
会州刺史沈叔任の伴っ たも の か ( 音 書 八九 ・抗動停)‘ま た は江
南土 着 人 を 信 用 し な い 朝 廷 が 移 駐 さ せ た も のか 。 宋沓 州郡志によ
ると、宋醐州都は勉卒後を免じて立て、四九六戸 ・一九四三人。 宋
寧郡は央 俸を苑じ 僑立し、一 O 三六一戸・八三四二人である 。 道
隣仰では九年に二郡が出来たようだが 州都士
山
は 十年 の こ と と 明 記
し 、 本 紀 に も 十 年 七 月。 曲赦盆 ・梁 ・秦 三 州 。於 盆 州 立 宋 寧 ・宋
興 二 郡。 とある 。 お そ ら く 道 済 は 飢 が 起 る や 管 戸 を 解 放 す る と の
約 束 で 央 兵 三 十 六 倍 を 飢従 か ら の 誘 惑 か ら 守 り 、 守 減 に 動 員 し た
a
v
κも梁・南秦二州に幽赦してやる。
のでゐろう。 な お 十 一 年 五 月
,
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0ー
1
3
5
記すのは乙れらの巻を指す。
九 ・氏楊民ト梁書五四 ・武輿闘 U お周番 町九 ・氏
ト 南史七九 ・乱
輿 圏 、 北史九六・ 具。 以下、 楊氏 の記述に ついて正史の名 のみを
東南・民感 南)度粛(回耽化蘇東南﹀ の 二・
闘から攻め法護ぞ這いだ
し漢中を占領。 十一年、なー
お 袈 陽 に い た 驚 思 話は粛承之を先鋒と
われた堅が﹁小発﹂ ﹁五胡次 序無汝美名﹂ と ののし ・
うた。堅の死
後 、存否 ・登 らが復仇心にもえ挑輿ちと戦ったことは載記花著る
仰 北 朝 胡 姓考。三 三九頁以下 。 氏 族 は 発 族 に比し漢化 の程度高
く
、 音書一一 四・ 存 堅 載 記 に よ る と 、 挑 裳 か ら 停 国 盤 を 譲 れ 主 言
し 、 成 都 か ら 北 上 す る 裂 方 明 と と も に 漢中 を 卒 定 し た 。 難 笛は宋
に奉表 謝罪す るだけで 済んだ 。難暗闘にとっては 司馬飛砲を萄 に迭
りこんだ失敗を取り返すつもりであったの,たろう。宋世百九八 ・忌
胡停を見ょ 。
った
帥 南 史 七 0 ・循兎縛。しかし乙こでは彼は永初中、江陵令とな
倒 貌 害 三 七 & 司 馬 叔 落 待 。 ま た 北 史 二九 ・司馬楚之 縛 附。河関
太卒 策字記 一五 ・闘右道成州 の係。 成 都 の 上 禄 '天水の西蘇
を割く 戸
閥
しい 。
で南郡に僑居する 。
ζと の み の べ る 。 宋 書 七 八 ・ 粛 思 話 停 に よ れ ば 中 山 無 極 の 人
仰 乙 の 二 郡 は も と 梁 州に属した 。 なお梁州の巴西 ・梓澄 ・宕渠
王曇 之 (三八四死) の子。桓玄の鋭の際 (四O 五│ 一O) 南
部
⋮の
κ近接する厳漢郡もはじめ 梁州に属し た。
・南漢中、秦州 の懐寧 ・安 固 の 六 郡 は 元 嘉 十六年(四 三九﹀に 盆
著書三七 ・議 剛 王 遜 侍 附。 父 の 敬 王 倍 ( 三 九O) は桓湿の
封抗勢力 として簡文 ・孝武の朝 に霊堂あり、その子 に尚之 ・恢 之
・允之 ・休之あり。 休 之 は 兄 の尚之が桓玄と 戟 い 敗 死 し た (四O
帥
をくりかえした 。
慕 容 超 に 投 じ 、 南 燕 ほ ろ ぴ 後 秦に 、 ついで 夏をへて北貌に亡命し
(四二七 ﹀ 子 孫 は北朝に仕えた 。 四O 六 │ 一四 の閥、 准 上に侵攻
州に鶴岡脚した 。 成 都
側 宋 香 五 ・文帝本紀には九年九月の肱慨に、妖賊越騎冠盆州、陥
民郡 豚、州 府 討卒之 。 とあ り、そ の後の成都攻防職の記事なく、
由
十 二年に張尋のととを述べる 。
ζれだけでは別別の反飢のように
越贋が悶黛の蓑玄之をして膏原を攻めさせたと下文にあり、﹁同
二)
の ち北府の沓将劉敬宣・ 高 雅 之 ら と 洛 陽 に 走 り 、銚興の後援で
いうのは用法不明だが、最初の首脳でなく 後 に合同したもの か
。
さえ見える 。 同 に 示 唆 し た よ う に 同 然 大 帥 張 寧 (H尋)の同議と
った。張尋は浩城におり 十 年 二月 に
篤﹂ の 絡 は 越 康 の 医 虎 に も 入一
見て、南燕慕容徳 に投じた が、 彼 の名撃を知る後秦や北貌からも
。 南部⋮でも青州 の大姓や 鮮 卑 の豪帥 と結び兵獲
誘 いかけがあら た
をくわだて、 失敗 して准澗 の聞に走り、 桓 玄 失 脚 後 、 東 膏にもど
り 荊州刺史 になっ た が、 劉裕に忌まれ危5 くなったので挑輿に走
ったが、後秦が劉裕 に滅ぼ されると北軸却に逃れ 死 んだ (四 一七﹀。
募兵し 彰城に 還り屯した 。 劉裕が し きりに功臣・宗室を除くのを
二高 の兵を 有した 。 ま た越出回 ・張尋 ・梁穎の 三賊首は部曲 をひき
い十四年に降服した 。
帥 岡 山 燃 は 太湖の 西で、奥の孫飴 の時 の祭りで 有名な﹁栂 闘 山
碑﹂のあ る園 山 がある。も と陽 羨鯨の 地。符瑞に満ち司馬氏が鯨
令とあれば 妖般 の謀反気がか きたてられた ろう。
酬刷楊忌の た め立凶博するのは朱書九八・ゑ胡停の ほか、南薦書五
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1一
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1
倒宋書七八・驚恩話待。
岡山宋官官ゑ胡得。
帥宋書によれば錫氏は略陽(甘粛)清水誌と記きれる。(今の
略陽は侠西漢中道にあるがこれは越宋に始まる﹀。清水は滑水の
北、今の清水豚酉にある 。 五胡時代に 活隠した存氏 ・ロ白氏も略陽
その後、千高という者曹貌の百頃氏王に奔し、平首間の子 孫 に飛龍
c
ありという 。 しかし年代を考えると飛龍は千高之孫 であ ろう 戊
授は北史は茂授、南費量盲は茂狼(本 字 は努 K A火 叉を 重ねて 書
く)陀作る。北朝胡姓考、歴代各族胸骨 記曾編 ニ編 下 情 ( 中 央 民 族
皐院刊)を参照。史料として外に軸雲仙 三O引・貌略西戎停は祉曾
.風俗を述べてあり重要である 。
三 九O l四六四)はその近親
貌書三七 ・司 馬 楚 之 待 。 楚 之 (
MW
が劉裕のため殺されたので、十七歳のとき沙門に嬰袋し、江を渡
﹀
脚
り鹿陽(安徽和師肺﹀から義陽︿河南信 陽蘇)・寛陵 (湖北鍾鮮 問
氏といわれる。彼らはともに漢代武都郡(前一一一立)に原住し
た白馬氏の子孫である。郡治の武都鯨は成麻西八十皇(今の武都
畿中氏入った 。 ときに司馬休之は刻州に銀し、恐らく彼も措置中か
印ち階州より山をこえた北)にあり、後漢では東寄りの下緋に治
した。後漢書一一七・函発停にその中心は河池一名仇池というが
ら休之と機脈を通じ劉裕に封抗したものか。休之敗れて彼もま
た汝・績の閥に逃れた︿四一五)。彼は節を折り士 を待ち 司馬順
河池豚は今の徽鯨の西に留る。白馬民は白馬闘の名から出たと思
明・道恭らと所在に黛を集めた。 ζの 二人の系譜は分明でない。
うが、氏族は西北は酒泉(嫡州)から訴(侠西西部の水名)・臨
(終南山脈北に速なる甘粛東部の臨底﹀にかけ散在し、王を稽す
貌容には自云とただし書する﹀と宋将裂方明を磁り仇池を占領し
戸は橡州の四郡に安置さ
之 ら と と も に 彼 も 貌 に 投 じ 、 後 に 従 う民 一
元 類 の子とい う が
れ た 。 の ち に 彼 は 休 之 の 子 、 文 恩 や 司馬 天 助 (
また北貌の明元帝が宋の文帝を討 つや、青州にいた司馬愛之・秀
辛氏の三秦記や水経注二 0 ・ 深 水 注 等 を 参 照 で き る 。 理 堆 ・ 仇 維
た(四四三﹀。
仇池の地形につき後漢書八六・西南夷傍白馬&の停に方百頃図
る族長のもと K多くの部落に分かれた。
・仇宮内ともいわれる仇池は山名 で、山上に 池あり、この池を天地
面斗紹とあり、李注および太卒策字記一五O に引く、漢代の人、
大津ともいう。水経注には寸上に卒回百頃あり、土を煮て穏と成
側副蝿書三 ・太宗紀。 同二九・叔 孫建停。
働 問 ・ 太 宗 紀、泰常 二年。
側同七上斗両直紀、太利昭年。謝元縛
停附元卒原停。
J
倒 同 六 ・ 頼 組 紀 、 皇 興 二 年 。 同 五0 ・尉元簿。
側 同 七 上 ・ 高 祖 紀 、 延 輿 元 年。 同 一 六 ・ 道 武 七 王 ・ 河 南 王 摺
帥同右、泰常七年。
す﹂という。周囲九千四十歩というから、山上の土地の周圏はか
なり曲りくねっていた。﹁自然の横櫓、却敵分置調均す﹂という
ごとくである。(もしとの歩敏で固形であると仮定すれば面積は
κ
三倍位になる)。東西の紹墜の下を三十六 回 ま わる七里の盤 道 を
上っ てゆく 。岡阜・泉源ある山上に数高家あり、国間 氏の 宮 室 ・困
。
倉など板屋がある@ 出柳田・名馬・学・漆・蜜・揮を産する まと
と 軍事・経済の要地"でゐる。後漢宋ぷ楊磁・その子の駒ゐり、
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湖
M 南躍問書二六 ・
陳顕逮捕博。
倒 貌 香 七 下・ 高 組 紀 、 太 和 十 四 年。 塚本善隆博士
北貌の悌数
遊猟多歪刻州。 ・・・乃下郡勝使安慰之。須朝廷旋返、途選本業。
また杜 景 文 の 賊 中 に 金 資 自 に 溢 れ るばかり多いのに 、 征伐した感
流民
量屈が目も く れず、 た だ 図 書 の み 取 ったというのは(奇書 七O)
中のインテリの存在を知る 。
側 残 高 年 が 後 漢 初 の 湾 鍾 留 ( 後 漢 書 二 六 ・南 轡 停 ) と 同 系 と す
れば武都出身でゐるが楊氏は彼にくみしなかった 。 来 書 氏招待。
。
北朝 胡 姓 考 ・外篤三 ・旬 奴 諸 姓 。 特 に 二九 四頁
著書四・惑式市紀。 同二八 ・周 慮 停。 同六0 ・孟観停。李特 につい
例
匪(支那悌数史研究二六O頁﹀。
西 域 文 明 所 蚊 ) に ま発 の歴史をのべ、南詔は品売に属し 、品売は誌に
側 向 達 南 詔 史 路 論 ( 歴 史 研 究 、 五四年二続。また唐代長安奥
含まれるほど密切な関係あり南詔の天師道信仰はゑ売に由来する
ては同一二 0 ・後 萄 載 記 。 華 陽 園 志 八。
納 膏 書 一 二 0 ・李特載記。また 註
ωを見ょ。
と説く。しかし著者が張道陵は尿売の宗教信仰を彼が経歴した隆
膏書五七 ・張 光 待。 筆陽園志入 。
側 同 五 六 ・江統待。従 戎 論 の 語。 また李特載記 。 盆州長史杜淑
ω
側 同 一 0 0 ・王調停。
山 郡 の 鱒 鳴 山 に お い て 事 ん だ と い う の は 言 い過ぎであろう。それ
なら天師道はチベット族の民族宗教になってしまうが、しかし乙
れも道教師ち中国の民族(的)宗教という論者にとっては他山の
側 同 右 ・ 杜 技 停。
.司馬張祭が刺史越威主言った。
帥同右奮長安曇摩羅利(漢詩法護)待。
石になろう。
倒 梁 慈 絞 、 高僧得一 ・膏 長 安 息 逮 縛 附 法 詐 。
萄志二 ・先主。肇陽園志六
倒萄志一五・楊戯の季漢腕巨賛 (
は節略)によ ると、 巴 西 の 人 、 震 畿 は 先 主 の 東 徒 に 従 軍 、 敗 走 し
にあり。
帥 膏 書 五 八 ・周訪停。 仲孫は撫の弟、光の子。
倒同八一・毛賓待。
見える。
ったというが胡 三省 の 通 鑑 に 注 す る と と く そ の 士 気 を 察 せ し め
る。 萄亡びてのちも軍士王室が 諸 葛 都 議 ( 戦 死 し 殉 園 し た 瞬 │ 亮
の子 ! の乙と ﹀ と掴憎し飢をなしたと と が 華 陽 闘 志 八 ・ 大 同 志 に
停による正、後主の命で復員する 兵士 ら は 怒 っ て 刀 を 抜 き 石 を祈
たとき﹁吾軍に在るや未だ敵の潟に走るを習わず、いわんや天子
に従いて危うきを見るをや﹂と壮語し醐斬死した 。 萄士山一四 ・萎 維
帥 貌 書 七 三 ・北史三七 ・楊大限待。彼の造像記は金石率編二八
倒 梁 書 ニ0 ・劉季逮捕博。また南史一三・後浦侯烈王道規侍附季
連停。南史には越がその郷人李弘を奉じ聖王としたといい、玉印
をうけたのは李弘(老子の別名といい道数での聖名である﹀とな
っており、越康と程道養との関係に相似する 。
帥 階 書 二 九 ・地理志 ・梁州の係の張魯の遺風ありという記述は
示唆的である 。
榊 奇 書 一 0 0 ・杜段侍。
制 同 六 六 ・劉弘侍。時流入在剤州十徐高戸。務悠貧乏、多箆盗
滅 。 弘 乃 給 其 田 種 糧 食 、 擢其賢才、随資叙用、時情聴意大祭伶人、
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1
同 同 一 二 0 ・李特 訓明記。 永康元年(三OO)盆州刺史にな った
一 一二頁以下 。 宋諮六一 ・江夏王義恭
前成都内史秋際の
吉。
一
回
叫漢の代に 生 まれ西 替 に仕えた 。
側 同 五 七 ・羅 績州内。 窓は 閉
師 宋 書 劉 道 崎 明 仰。
噂。
。 以下 の記述、 官制
取氏上三 ・ 一八四 頁 以下 。 質 例 をあげ る
間
、
員
問問般 氏 上三 ・六 一一
帥
については般民 参 照。 事賞 は 宋 書 道拙開仰による 。
側組曲山・張尋・程道養の箪に攻められ郡を棄てた太守に巴西・
川
。 乙の
梓 泊 、 雨 模 中 、 洛 段 、 江 陽 ・途寧 ・否 原 (刑判死)がある
、
中 、 巴 西 ・梓滋は宕渠とともに梁州に岡崎するが、漢中とは遠く
剣陶以南にあ り萄と成敗を一にするので、軍事上盆州刺史の監督
下におかれた 。 (高田香殿仲堪同開 。 般氏上三 ・四 四頁﹀。 宋代ではこ
の外に南波中、奈州の刷出寧・安園、合せて六郡が盆州都督匿に入
。
った。 元 嘉 十六 年 (四 三 九 ) 六 郡 は 正 式 に 盆 州 に 編 入 さ れ た な
お岡田郡の 北 方 脱 漢 郡 は 梁 州 領 で あ る 。 朱 書 三八 ・州郡士山・翁州は
大 明 八 年 ( 四 六 四 ) に正しているから ζれ ら 諮 郡 は 会 州 二 十 七 郡
の中に列している 。 武 帝 の と き は 十 三 、 文 帝 の 時 は 賀 郡 十 四 ・ 僑
郡十一であった 。 (徐文仲川山 東 膏 南 北 朝興地表補編五 ・七三頁以
下)。
。 車中陽剛志四お
刷 局 中 の 資 氏 は 犠 潟 南 安 ( 爽 江 豚 西 北) の 大 姓
κ
よび街志一一・貨詩 仰 注、孫盛﹁田割世譜 ﹂ を見ょ 。 後 者 いう、
﹁ 詩 子 立 。 替 散 野 常 侍。 自 後盆州諸費有名位者多是詩之後也﹂
と。 し か し 雨 明 の 軍 府 の 将 佐 は 府 主 に 従 い 進 退 す る の で 本 籍 人 で
ない場合が多い 。 漢 代 地 方 長 官 は 本 籍 人 を 用 いず 、 属 更 は 必 ず 本
籍人を用い ると いう制度は六朝 では 地方 豪族 の 有 利 な よう に愛 更
された 。 ゆえ に費 謙 に つ い て は 断 定 を控える。(般氏上三 ・三 八
二頁以下
)
。
。
例 制 督 護 は 附 佐 であるが外遣の任 ではじめは臨時の織で あっ た
般氏三上 ・ニO八頁以下 。
。
側 松 田市 W男 吐 谷 海 遺 使 考 (史 事 雑誌 四八 の 一一 - 一二 昭 一
二)。特 に一 二の 六六頁以下。﹁ 秦 西 巽 北貨 に開制多し ﹂ と は南旗門書
四七・王融仰にあり。 永明十一 年 (四九 三) 主 客 郎 と し て 貌 使 宋
弁と肺応酬した 言 にある 。
二 ・武陵王紀仰末に見える 。 間博中には﹁紀在萄関 建寧
制南史五 一
越出向貢献方物十倍前人﹂とゐる 。 彼 は 大 同 三年(五三七 ) 都督盆
州刺史。 五五一 年自 立。 天 正 と 改 元 。 五五三年死。
梁 謹二二 ・郁陽 王 恢 停。
倒
裂方明が金貸・ 善 馬を減匿(舶慨を へら し て 報 告 、 私 物 化 し た )
側 通 鑑 宋 紀 六 。 元 嘉 二十年の係。 先 に 仇池 を卒らげた劉 道田県 ・
し たかどで下獄して死んだ 。
制宋嘗八七 m恕 闘 停。
m
。 顧 短 は 梁 の 人 。 階志にその銭譜を著録す 。 際
開
M 事 津 討 原 七集
世百三OK停のある顧野王(五一九│五八 一)の 父 で信威臨賀王 記
室余本郡五 官 援。 以 儒 術 知 名。 という。 呉 郡突 の 人。 侯 景 の乱の
際に死んだ 。
側 岡 崎 文 夫 南 朝 の 銭 貨 問 題 (南 北 朝 に お け る 位 曾 経 済 制度一
二O │四 一頁 。 昭 十)。博士 の 裁 に よ る と 元 嘉 七年 │ 二 四 年 (乙の
年 大 銭 が 鍛 造 さ れ た) は 盗 鎗 多 く、 そ れ 以 後 孝 建 ま で に な く な っ
た。 呂 思 勉 雨 音 南 北 朝 史 下 一 一O 四 頁 に よ る と 、 何 尚 之 は ﹁民
4一
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9
3
1
聞ややハ頗る﹀盗錦﹂と言うから茜しくはなか守たと解する。頗の
- g H H )は
ζ の矛盾
字、岡崎博士は脱する 。 孝 建 以 後 、 銭 薄 小 に な り 盗 鋤 が ふ え た 。
するこ史料を剖裂しているが、史料の配列の仕方から見ると、元
狂 士 銀 南 北史補志未刊稿・ 食 貨 志 ( 補 編 五
嘉 七 年 、 初 回 の 四 鉱 鎖 以 後 、 二 十 四 年の大銭鋳造の前に、貨少い
ため︿新たに質の惑い)四妹銭を造ったと解したのかも知れな
い。 その下文で顔峻仰を引き、孝建以後に背なかった路補聞がはげ
書 ニ 六 ・ 玉 敏則 仰 に の せ る 覚 陵 王子良の言によると 、 宋 初 匹 千 文
で元 明
粛 に な り 一 束 (十匹。 匹 は ふ つ う 幅 慶 ニ 尺 四 寸 、 長 四 十 尺 )
O 二四頁以下)。
、 物償 工 貿 蛍 産 (一
章
六千、以後匹 三百と下る 一方とい うが乙れは良質の古銭について
事述べる場合である 。 川 勝 義 雄 侯 の 飢 と 南 朝 の 貨 幣 経 済 (東 方
島
県
穆 報 三 二 ・ 京 都 ・昭三七) 呂 恩 勉 雨 奮 南 北朝 史 下 叩 第 十 九
漢 人では 後漢書列伸二 ・
る。 北 朝 胡姓考 三 七一頁(西日明諮姓
﹀
。
李懲仰に彼を斬り漢に降った軍士、揖削(安徽)の人、 鳥 意 が漁浦
侯となるとあり、李注に向市民は宋の鳥産の後という。 一脚仙縛七に
間向逮南詔史略論(倒の著書二ハ一頁)。
問問旭康賀線に自に作る 。 勉 蕊 閣 の 王 姓 の 場 合 も 白 ・ 鳥 通用す
側隔世百二四 ・食 貨 志。 通 典 九 ・ 食 貸 典 九 ・ 銭 幣 下 。
仰 宋 番 八 一 ・劉 秀 之 得。
由巾和字仲理あり 、 遼 東 の 人 と い う。
しく銭質態化し商貨行われなくなったという。泉志に元鶏四鉢銭
にも霊さの遭うのがあるというのに相府服する 。
問 南 野 書 ・ 三 七 ・ 劉 俊 体。 ζれは建元四年(四八二﹀孔頒が鈎
側宋
、 百姓
菅香石勅載記に 、 中 絹 匹 千 二 百 、 下 絹 八 百 で 官 絹 を 出 費 し
伺前僚の祝儀文停に、民間、絹を貿うに匹とと二三千とあり、
同 同 八 二 ・抗 懐 文 偲。 なお民間では絹匹二三千で買うという 。
間 宋 者 六 0 ・沼 泰 伸。
制 梁 書 一 0 ・南史五五に停あり 。
側 宋 書 九 二 ・良吏 ・陸 徽 待。
側同八一
・劉秀之侍。
教鱒)を見よ 。
柿 の 研 究 ( 六 朝 史 研 究宗
的 儀 離 を す る こ と に つ い て は 宮 川 項 羽一
朝 律 考 三 二 七 ・三 八五頁を見よ 。 漢以後の ζの禁をおかし 宗教
・南湾・北貌に食牛 ・殺 牛 の 禁 が あ っ た 乙 と は 程 樹 徳 九
銭均質の議を上り漢五鉢銭を模範として銭を造れと 言 ったのが事
情でのびのびになったものである 。
の私買の債格はそれぞれ四千、 二 千 で あ ったという。 しかし 南湾
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