...

自己愛的甘えに関する理論的考察

by user

on
Category: Documents
2

views

Report

Comments

Transcript

自己愛的甘えに関する理論的考察
Kobe University Repository : Kernel
Title
自己愛的甘えに関する理論的考察(A Discussion of
Narcissistic "Amae")
Author(s)
稲垣, 実果
Citation
神戸大学発達科学部研究紀要,13(1):1-10
Issue date
2005-09
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000628
Create Date: 2017-03-29
(
1)
神戸大学発達科学部研究紀要
第1
3
巻 第 1号 2
0
0
5
研究論文
自己愛的甘えに関する理論的考察
A Di
s
c
us
s
i
o
no
fNa
r
c
i
s
s
i
s
t
i
c'
'
Ama
e
'
'
稲
垣
実
果*
Mi
kaI
NAGAKI
e
ud か らFe
r
e
nc
z
i
,Ba
l
i
nt
に至 る精神分析的歴史 を概観す る中で ,Fr
e
udの 自己愛概念の
要約 :本論文では, まず初めに,Fr
定式化か ら,自己愛の発生 を受身的対象愛の問題 とする変遷について論 じ,受身的対象愛 と土居の 「
甘え」概念の間に共通性
甘 え」理論 について概説 し,「
甘 え」の定義 ,「
甘 え」の多義性,素直な甘 えと屈折 し
があることについて指摘 した。次 に,「
甘え」理論 と自己愛理論 との関係 について論 じ,Fr
e
udの 自己愛理論 に対する土居
た甘えな どについて説明 した。そ して,「
(
2
0
0
0
b)の批判 を紹介 した上で,i居 (
2
0
01
)が提唱 した 「自己愛的甘え」の性質について理論的に考察 した。 さらに,自
2
0
0
4)が示 した 「
屈折的甘え」「
配慮の要求」「
許容への過度の期待」の3
つの概念か ら捉 えうることを
己愛的甘 えは,稲垣 (
論 じた。最後 に, 自己愛的甘えにまつわる間蓮 として,甘えの二重性 を持てないことや,「
幻滅」 としての甘えのあ きらめの
nni
c
o
t
t
の理論的観点か ら,自己愛的甘 えに関 して対象関係論的に考察 した。
問題 などについて触れ,Wi
Ⅰ 精神分析理論の歴 史 と 「
甘 え」
的機能そのものを重視 し,そのような治療関係体験その ものが転移
1.Fer
en
c
z
i
の発達論
の中で再生 される歪んだ幼児期の対象関係を再構成する力を持つ と
e
udの時代 と,Fr
e
ud以後現在 に至
精神分析の歴史的発展は,Fr
考えた。
e
udの時代 に新 しい
る時代 に大別 される。 しか し実際にはすでにFr
r
e
nc
z
i
は,Fr
e
udが前提 としていた外的な現実存在
このようにFe
い くつ もの流れが生 まれている。Fr
e
udは1
8
9
5
年から1
91
6年 ぐらい
としての母親の役割 を, もっと積極的にその理論構成の中に取 り入
までのあいだに治療方法 と理論 としての精神分析 を確立 したが,そ
れようとし,Fr
e
ud以後の精神分析 における母子関係の重視 と,自
e
udと弟子達のあいだに,さまざまな相互作用が起 こっ
の途上でFr
我発達におけるその現実的な役割 を研究 した。Fr
e
ud (
1
91
1
)によ
た。その一つに,1
91
0年代か ら1
9
2
0
年代 に,基本的にはFr
e
udの枠
れば,人間の最 も初期の段階である快楽原則が支配 している段階か
組みの中にとどまりなが らも,それぞれ独自の理論的展開を示 した
ら,やがて現実原則に従って,この快楽原則の支配する心理過程を
弟子達の流れがある。なかで もFe
r
e
nc
z
i
は,Fr
e
udに対抗する革新
e
udは夢,神経症の症状,幻
抑圧する段階に到達する。 しか し,Fr
的な着想 を生み出 し,Fr
e
ud以後の精神分析の理論 と技法論 に新 し
想,神話などにあらわれる快楽原則の支配する一次的段階から,現
い動向を与えた (
小此木 ,1
9
85)
。彼 は,Fr
e
udの精神分析療法 を
実原則に従 う合理的思考 と認識の支配する二次的段階に,心的なも
より能動的,かつ柔軟 なものにし,この試みによって治療効果を増
のがどのような移行段階を経て発達 してゆ くかについては明 らかに
大 させ,治療の拡大 をはかる努力 と,Fr
e
udに比べてより早期のエ
しなかった。
デ ィプス期以前の発達段階 と母子関係の交流に精神分析理論の力点
Fe
r
e
n
c
z
i
は,一次的段階から二次的段階への移行過程 における中
r
e
nc
z
i
の精神療法上の基本態度 としては,
を置 き換えようとした。Fe
間的な段階を 「
現実感の発達段階」 とよんだ。そ して,彼は,自我
現在,いま,ここの治療状況を重視 し,治療者が患者に向ける人間
の発達,硯実検討の発達,運動行動による外界支配力の成長が,こ
的愛情 を強調 し,さらに技法の能動性 と柔軟性に工夫 をこらして,
のような移行の動因になるとした。快感原則が全面的に支配する発
精神分析的な精神療法 に多大の影響 を残 した。例 えば,Fr
e
udが転
達初期の段階では,現実への認識 を欠 くために,かえって主観的な
移を言語的解釈 と洞察によって解決することに限定 したのに対 して,
全能感が大 きい。つ まり,現実感の発達 と全能感の縮小は比例関係
Fe
r
e
nc
z
i
は分析医が患者に誠実 さ,受容,人間的愛情 を向ける現実
を持つ としたのである。 しかも,このような全能感 と現実感のあ り
*神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程
i:
:
:
:
:
∴
I 1-
.I
.
:
二 .
(
2
)
方は,乳幼児自身の自我発達 と,それぞれの発達段階に応 じた母親
す。例えば,強迫神経症の患者における魔術的身振 りへの迷信的期
のかかわ りという二大要因によって決定 される。小此木 (
1
9
8
5
)は,
待や誇大的な全能感は,こうした魔術的身振 りや思考の段階への退
この意味で個体論的発達図式 と見誤 られがちのFr
e
udの心的発達請
行 として理解 される。
e
udの認識 を積
に潜む母子間のコミュニケーション機能に対するFr
Fe
r
e
nc
z
i
は,この四段階を経て自我の知的能力や運動機能が発達
t
z,Wi
nni
c
o
t
t
,
極的に取 り出 し,これに具体的な内容 を与え,Spi
するにつれて現実感が相対的に発達 し,それとともに全能感は減少
Ma
hl
e
rらの母子関係論へ と媒介 した点 にFe
r
e
nc
z
i
の大 きな功績が
してゆ くと考えた。
あったと述べている。 また,渡辺 (
1
9
9
5) ち,Fe
r
e
nc
z
i
は,Fr
e
ud
以上のように,快楽原則から現実原則へ,全能感から現実感へ と
がエデ ィプス ・コンプレックスを中核 に据えて理論化 した精神分析
いう移行過程 を,対象関係論 における一着関係から二者関係への移
の辺縁に置かれていた母親の役割 を,もっと積極的にその理論構成
行段階としてとらえるならば,魔術的身振 り・言葉による全能感は,
の中に取 り入れようとしたという点で,母子関係の重視 と,乳幼児
母親によって差 し出される適切な支持 との一致によって成立する錯
の 自我発達 における母親の役割の研究の先鞭 をつけたもの として
覚の意味を持つ。そして,小此木 (
1
9
8
5
)は,この認識は,Wl
n
nl
C
O
t
t
Fe
r
e
nc
z
i
には価値があると述べている。
の錯覚一脱錯覚論の起源をなす ものではないかと述べている。 また,
Fe
r
e
nc
z
i
は,①無条件の全能感の段階,②魔術的幻覚的全能感の
Fe
r
e
nc
z
i
は,Fr
e
udが最初,強迫神経症の思考の全能について明 ら
段階,③魔術的身振 りによる全能感の段軌 ④魔術的思考 と言葉に
かにした,内的主観的な空想が思考の外的客観的な現実に対 して優
よる全能感の段階,の四つの段階を経て,硯実感が発達 してゆ く過
位であるという信仰,外界を自己の願望のままに支配 しようとする
程 を明 らかにした。小此木 (
1
9
8
5
)は,このFe
r
e
n
c
z
i
による幼児的
全能的コントロールの優勢,そ してこの全能的支配に制限を加えて
な現実感の発達の四段階を以下のようにまとめている。
ゆ く自我の現実検討機能の未発達などの精神状態が,正常な心の発
①無条件的全能感の段階-胎児の保護や温かさや栄養を全て母親か
達の初期の段階で も普遍的にみ られるという観点をあ きらかにする
ら与えられ,本能の満足が常 に与えられるために,胎児は何 も望む
ことによって,自我機能の各発達段階と精神病理学的状態の関連 を
必要は無い。自分は全能だ,望むものは全てかなえられる,という
系統づけた。
段階である。
このように,Fe
r
e
nc
z
i
は自我発達 (
身振 り,言葉,思考の象徴機
②魔術的幻覚的全能感の段階-新生児は自分自身では絶対的に無力
能の発達)が,子 どもの側の表出を信号 として読み取る外的な対象
な存在である。 しかもこの自我の最 も原始的な状態は,Fr
e
ud (
1
9
0
0
)
としての母親の機能によって初めて可能になるという,Fr
e
udにお
が 「
夢判断の心理学」の中であきちかにしたように,即時に得 られ
ける母子関係のコミュニケーションと自我発達の相互性の認識 を明
ない願望の幻覚的満足を得ることで快楽原則の支配を全 うする。新
e
udとSpi
t
z
,Ma
hl
e
r
,Er
i
k
s
o
n,Wi
n
ni
c
o
t
tらの研究 を結
確化 し,Fr
生児が幻覚的方法 (
むずがった り叫んだ りする)で得る全能感は,
ぶ役割を果た した。
まだ自分が胎内にいるのと同 じような保護 と安定を得ているという
錯覚である。実際にそのような全能感は,母親の存在 と活動によっ
て与えられているのに,新生児はこのことについてまった く何 も知
2.受身的対象愛 と 「
甘 え」
前述のように,Fe
r
e
nc
z
i
はFr
e
udの リビ ドー論 を対象関係論的な
らないという段階である。
枠組みの中に統合 し,Fr
e
ud以後の精神分析 における母子関係の重
③魔術的身振 りによる全能感の段階〟やがて願望の充足が得 られな
要性 と,自我発達における現実的な役割 (
現実感の発達段階などの
い場合に,子 どもが泣 き叫んだ り,むずがった りすることが母親の
外界支配力の成長)について研究 した。そ して,精神分析の中で最
注意を引 き付け,子 どものこのような運動の放出が魔術的信号 とし
pa
s
s
i
veo
b
j
e
c
tl
o
ve
)
」を提唱 した。Fe
r
e
nc
z
i
初に 「
受身的対象愛 (
て用いられるようになる。願望は発達 と共に特殊化 してゆ くが,そ
によれば,最初の愛情対象-乳房は,母親 (
対象)から与えられる
れ と同時にその願望の表現 も特殊化 してゆ く。例えば,摂食をした
pr
i
ma
という意味で,乳児の側にあるのは,最初の受身的対象愛 (
い と思 うときに,口をバクバ クさせた り,欲 しいと思 う対象に手 を
Fe
r
e
nc
z
l
,1
9
2
4)
0
r
ypa
s
s
i
veo
b
j
e
c
tl
o
ve)であると述べている (
伸ば した りする。このような身振 りによって願望 を表現すると,母
そ してこの受身的対象愛は 「
硯実感の発達」の中でFe
r
e
nc
z
i
が'
乳
親はその願望を満た して くれるという感情 を抱 く段階である。
児の全能感 を支 える母親 の愛■
'
と述べ た もの と表裏 をな している
(
彰魔術的思考 と言葉の段階-次の段階になると,子 どもは自分の願
,
(
小此木,1
9
8
5
)
0
望や自分の求める対象を言葉 と結び付けた表象の形で思い浮かべ,
Ba
l
i
nt
は,Fe
r
e
nc
z
l
か らの教育 を受け,Ba
l
i
nt
独 自の 「
受身的対
さらにそれを口にすることによってそれを表出する。身振 りが目の
象愛」の定義づけを試み, さらにこの考察を自己愛論へ と結び付け
前の直接的な対象にしか,かかわることが出来ないのに対 して,言
た。 もともと,精神分析 において, 自己愛 ない しはナルシシズム
葉によって時間的にも空間的にもこうした制約を超えた対象 とのか
(
n
a
r
c
i
s
s
i
s
m) という概念は,Fr
e
udによる,精神分裂病をリビ ドー
かわ りを表現 し,それらに対する願望 を表出することができるよう
(
l
i
bi
do)論で解釈 しようとする試みから生 まれた。 リビ ドーとは,
になる。 このようにして表象機能が発達 してゆ くが,そのためには
性欲動 という生得的な精神的エネルギーのことで,これによって彼
子 どものこうした言葉による表出が意味するものを,母親が読み取っ
は心的活動 を説明 しようとした。彼は,精神分裂病は, リビ ドーが
てその願望 を満たす ようなかかわ りが必要である。そ してこの経験
外界から引 き離 され,内界の自我そのものに向けられるというもの
は,子 どもに自分 自身が思考 と言葉を表出することだけで,願望 を
であるとし,その状態をナルシシズム (
自己愛) と呼んだ。つまり,
満たす ことので きる魔術的能力を持 っているという錯覚を引 き起こ
対象関係からリビ ドーが撤退することがナルシシズムであ り,彼が
- 2-
(
3)
述べた 「自己愛神経症」 とは,分裂病性の自閉の状態だったのであ
るという体験から,患者の願望は対象指向的であると述べている。
る。 自己愛 を分裂病の状態 と等 しいと考えるこの議論は,一般 には
さらに,治療の最終段階になると,患者は今 まで忘れていた幼児的
9
9
8)
。 しか し,Fr
e
udのナルシシズム理
普及 しなかった (
岡野 ,1
本能的願望を表現 し始め,周囲がその願望 を満たして くれることを
論は分裂病論だけには留 まらず,ナルシシズムに関する概念 を展開
求めるようにな.
ると述べている。つまり,幼児的本能的願望 を満た
,
一次的ナルシシズム」 は赤ん坊が自
させていった。そ して彼は 「
すことがで きるのは,外的世界,周囲だけであ り,自体愛的,ナル
分の体の一部 を愛情対象 とする 「自体愛」の時期から,他人を愛情
シシズム的に解消することは不可能であるという事である。 さらに,
対象 とする 「
対象愛」へ移行する際の,両者の中間に位置する過渡
Ba
l
i
nt(
1
9
6
5
)は,幼児的本能的願望 を満た して欲 しいという,隻
的な段階として考えたのである。このように, リビ ドーが自我に引
身的対象愛の満足が適切な瞬間に適切な程度で達成された場合には,
き上げられる前,そもそも外界の対象に振 り向けられる前,自他の
その満足の経験は非常 にひっそ りと起 こるため,ほとんど目に止 ま
,
一次的ナ
区別が未分化な時期 に自我の中にこもっている状態 を 「
らない微弱な反応になると述べている。この快の体験は,い うこと
ルシシズム」 とし,これに反 して精神分裂病のように,発達後,本
なしという静かな穏やかな感覚 と表現で きるが, もしこの願望が満
来は対象に向けられるべ きリビ ドーが自己へ充当された結果起 きる
たされないままにされるならば,満足が熱烈に求められ,その結果
,
ものを 「二次的ナルシシズム」 と呼んだ。 したが って ,Fr
e
udは
Ba
l
i
n
t
,1
9
6
5)ので
生 じる欲求不満は,激 しい反応 を引 き起 こす (
自己愛の状態 においては,対象関係は成立 していないと考えたので
ある。このように,Ba
l
i
nt
は,受身的対象愛が,満足の中では静穏
ある。
であ り,不満によって激 しい反応を引き起こす性質を持つと考えた。
l
i
n
t(
1
9
6
5
)は,自己愛を対象関係論的に理解 し,
これに対 し,Ba
そ して,土居の 「
甘え」 も,満たされた時に静かに沈黙 しているが,
受身的対象愛が,精神の最初の働 きであるとした。 この受身的対象
満たされないとわがままで要求がましい,厄介な形で表に出て くる
愛 とは,母から自己が受身的に愛 されることを求める情緒的な愛情
とい う性質を持っている。
要求で,対象を愛するというのではな く,対象に愛 されたいと思 う
心の働 きである。彼は,このような対象関係は,かな り早期の発達
,
受身的対象愛」 と 「
甘え」は,非常 に近い概念
以上のように 「
であ り,共通性がみられる。
段階にみ られ,受身的対象愛を一次的対象愛,原始的対象愛 と考え
e
udのいう,対象関係の成立 していない 「一次的ナ
た.そ して,Fr
Ⅱ
ルシシズム」 を批判 し,対象に愛 されたい という欲望が一次的なも
1 「
甘 え」の定義 と日本社会における 「
甘 え」の重要性
「
甘 え」理論
.
のであることから,受身的対象愛を一次愛,原初愛 とも呼んだ。ま
「
甘え」 とは,その 「
甘え」 という単語が 日本にのみ存在すると
l
i
nt (
1
9
6
5)は,このような受身的対象愛の 目標 を■
■
私 は愛
た,Ba
いう事実から土居 (
1
9
71)によって指摘 された概念であ り, 日本人
されるべ きであ り,満足 されなければならない, しかも私の側から
の心理の鍵概念であるとされている。
9
9
9,p9
8) と述べてい
は何 もお返 しをしなくてである‖(
邦訳書 ,1
,『甘え』 とは,「他者の好意に依存 し,
土居 (
1
9
7
1
,2
0
0
0
a
)は
る。 さらにBa
l
i
n
t(
1
9
6
5
)は,この目標が直接達成 されない場合の
それをあてにする」 ことを意味 し,語源的には味覚を示す 「
甘い」
迂回路 として,‖もし世界が私 を十分愛 して くれず,十分満た して
と結び付いていると説明 している。つ まり 「
甘える」 という語に
くれないのなら,私は自分を愛 し,自分を満足 させなければならな
は 「
甘 さ ・優 しさ」 という感覚があ り,乳児の精神がある程度発達
,
い'(
邦訳書 ,1
9
9
9,p9
8) とい う自己愛 をあげている。実際,徳
して,母親が自分 とは別の存在であることを知覚 した後に,その母
が臨床上で観察するナルシシズムは必ず,悪い対象や言 う通 りにし
親を求めることを指 していう言葉であると述べている。このように,
て くれない対象に対する防衛であった。
甘え始めるまえまでは,乳児の精神生活は母子未分化の状態である
l
i
nt
は受身的対象愛 を対象希求的なものである
以上の ように,Ba
が,精神の発達 とともに自分 と母親が別の存在であることを知覚す
とし,ナルシシズムの発生はこの受身的対象愛に関係すると考えた。
る。そ して,その別の存在である母親が 自分に欠 くことので きない
このような,母子関係の対象関係論的な洞察や,受身的対象愛の概
ものであることを感 じ,母親に密着することを求めることが 「
甘え」
念は,土居の 「
甘え」概念 を,Fr
e
ud以後の精神分析理論の流れに
であるといえる。また,この 「
甘え」は,子 どもが必ず世話 をして
位置付けるうえで,重要な役割を果たすことになった (
小此木,1
9
8
5
)
0
くれるし,母親 も子 どもが世話に応えて くれるという相互的な信頼
土居 (
2
0
01)は,もともと 「
甘え」は,母親を求める乳児につい
て 「この子はもう甘える」 というように,非言語的な心理を示 して
があって成 り立つ ものである。 この信頼関係がなければ,子 どもは
甘えられな くなり,甘えは成立 しないのである。
いると述べてお り,甘えは明らかに乳児の心理 と結び付いている。
さて,このような乳児が母親に 「
甘える」 という現象は東洋 ・西
これは,相手に対する受身的態度であ り,愛情 を受動的に要求する
洋を問わずみられるものである。 ところが,この語は,成人同士の
とい う特徴 を持 っている。 また,土居 は,"
Ba
l
i
nt
が受身的対象愛
関係 を表現するときにも用いることがで き,この場合の日本語に相
という用語で示 したものが,甘えたいという欲望以外のなにもので
当する英語の単語はない。このことは
,「甘え」の心理が英語圏の
0
0
0
a
,p1
5
) と述べている。
もないことは明 らかであろう"(
土居 ,2
国民 には全 く未知の心理であるとい うことなのではな く, 日本社会
このように,両者は受身的特質を持ち,一次的で生得的なもの とし
では甘えたいという欲求を表現することが社会的に許容 されている
て,共通 に位置付けることがで きる。
2
0
0
0
a
)■
は述べている。つ まり, 日本社
とい うことであると土居 (
また,Ba
l
i
nt(
1
9
6
5
)は,分析の仕事が深い段階 まで進む と, し
会においては親への依存が育 まれ,そ してこの行動パ ターンが社会
ばしば患者たちが原始的な願望を充足 させることを期待 し,要求す
構造にまで制度化 されているのに対 し,西欧社会においては,そう
- 3-
(
4)
でない傾向が一般的なのである.
なく辛 うじて踏み とどまり,つながっているのが 「
すね」や 「ひが
このことは, 日本人が対人関係主義の傾向が強いことと関連 して
いる。J
o
hns
o
n(
1
9
9
3
)など,多 くの論者 も述べているように, 日
本人の間では個人意故や自己呈示 よりも,人間関係における役割の
組み合わせ,相互作用的な行為,状況によって異なる文脈の中で詳
み」であ り,その他前述のような心理なのである。
このように,表面的には甘えと無関係のように見えても,内面的
には甘えを求めていると思われる心理がある。
,
甘え」は,多義性 を伴 った概念である。
以上のように 「
細に決め られている社会的活動などから概念化 されている自己が重
視 されている。 これは, 日本人には個人という意識がないというこ
3.素直な 「甘え」 と屈折 した 「甘え」
,
とではな く, 自己呈示において,個人の存在や潜在的な行動につい
前述のように 「
甘え」 には多義性があ り,これ らを整理 して,
ての意識は,状況によって異なる特定の文腺 における他者 との対人
土居 (
1
9
71
,2
0
01)は甘えには健康で素直な 「甘え」 と屈折 した
J
o
hn
s
o
n,1
9
9
3
)
0
関係的結び付 きを基に して形作 られるのである (
「
甘え」があると述べている。
その中で社会化 されるにつれて儀礼的な謙遜や謙譲や自己誇大感の
まず,健康で素直な 「
甘え」 とは,相手 との相互的な信頼に根 ざ
否定 (
「
遠慮」)を身に付けるが,その代わ りとして一時的な自己愛
した甘えである。それに対 し,屈折 した 「
甘え」 とは,一方的に甘
(
愛着を求める欲動)が特別な配慮を受け,ほ しいままにさせても
えを要求するという形をとった甘えである。つまり,屈折 した甘え
らえる 「
甘える」 ことに関する意識 という形で保たれるのである。
を持つ人は,甘えを与えることと受け取ることのバランスをとるこ
,
また 「
甘え」は,相互関係 として,それを互いに実現 しあ うと
とがで きないのである。また,甘えの二重性 を持たず,甘えたいけ
いう形で現れる。つ ま り,与えることと受け取 ることによって,
れど甘えられないという相反する心理の中で,甘え自体がアンビバ
,
「
甘え」はや りとりされているのである。 さらに 「
甘え」 とは,
レント (
同価的)な性質を帯びているともいえる。健康 な甘えとい
相手に対する受身的態度であるが,受身的態度そのものを進んで追
うのは,相手が自分の方を向いて受け入れてくれるという感覚があっ
い求めているという面 もある。
て維持 されるものである。逆に,屈折 した 「
甘え」は,信頼の基礎
このように,土居による 「
甘え」は,支持 と愛情 とを 「
受動的」
がなく,いつ甘えられるかわからない し,いったん甘えられないと
に渇望 して,世話や保護 を言語的および非言語的に要求するという
なるとまたいつ甘えられるようになるか分か らない とい う点で,
特徴を顕著に持 っている (
J
o
h
n
s
o
n,1
9
9
3
)
。 また,J
o
hn
s
o
n(
1
9
9
3
)
「
甘え」は頼 りな く,気 まぐれなもの となる。つ まり 「
甘え」は
は,もう一つのきわめて重要な特徴は,多 くの欧米の文化 と違って,
その満足が全 く相手次第で,傷つ き易い という面 を持 っているので
日本では 「
甘え」が幼い子 どもの時期だけのものではな く,生涯を
ある。
通 じて,弱められはしても明白に認め られたまま許容 されるという
点であると指摘 している。
,
このような甘えたいのに甘えられない という状況において 「うら
む」 という心情が起 こる。そ して,以上のように信頼に根 ざしてい
以上を踏 まえると,日本では,甘える感情 を非常に重視 し,甘え
,
甘え」 と 「うらみ」が同時 に存在する精神状態はアンビバ
ない 「
ることは日常の人間関係 を円滑にする一つの重要因子だといえるの
レンス (
相反する心理が同時に存在する)の原型であ り,つまり,
である。
屈折 した 「
甘え」 とは,アンビバ レンスであるといえるのである。
このように 「
甘え」には二つの異なった現れがあるのだが,土居
2.「甘 え」の多義性
(
1
9
7
1
)が述べているように,素直な 「甘え」 を求めているという
,
さて, 日本語においては甘えの心理 を示す ものとして 「
甘える」 点で根は一つである。ただ,信頼関係 ・相互関係 に何 らかの問題が
という言葉以外 にも多数の言葉がある。甘えられない心理に関係 し
,
。
」
」
ている言葉 として,土居 (
1
9
7
1
)は 「
すねる 「ひがむ 「ひね く
」
あった場合,素直に甘えられず 「
甘え」が屈哲 し,いつ までもそこ
に留 まって先 に進めな くなることも考えられる。「
甘え」の病理 と
」
れる 「うらむ」などをあげている 「
すねる」のは,素直に甘えら
される 「
気がす まない 「くやむ」 などの病的な心理 も,屈折 した
れないということから,すねなが ら甘えているともいえる。 また,
甘えが根づいた結果起 きているのである。
」
「
ふて くされる 「やけ くそになる」 とい うの もすねた結果起 きる
健康 な (
素直な)「
甘え」 と,病的な (
屈折 した)「
甘え」の問題
現象であ り,甘えの一種 と捉えられている。「ひがむ」のは自分が
については,小此木 (
1
9
6
6
)
,手塚 (
1
9
9
9
)
,西園 (
1
9
8
8
)によって
不当な扱いを受けているとひね くれて解釈することで,自分の甘え
ち,とりあげられている。
の当てがはずれたことか ら生 じるものである。「ひね くれる」 は,
まず,小此木 (
1
9
6
6
)は,甘えには自我の適応パ ターンである健
甘えることをしないでかえって相手に背 を向けることであるが,そ
康的な側面 もあるとし 「
甘え」は 「自我に奉仕する一時的 ・部分
れはひそかに相手 を意識 してのことである。結局,甘えないように
的退行」であるとしているO
,
,
見えて も,根本的には甘えがある。「うらむ」 は,甘えが拒絶 され
また,手塚 (
1
9
9
9
)は,健康的な甘えでは,状況に応 じて甘えの
たことで相手に敵意を向けることであるが,この敵意は甘えと絡み
表現を柔軟に調節 した り,甘える役割 と甘えさせる役割を柔軟に交
合った敵意であ り,やは り甘えの心理である。
代することによって,対人関係 を円滑に進めることが可能になる。
土居 (
2
0
01
) も述べているように,これらはすべて何 らかの形で
これに対 して不健康な甘えでは,このような柔軟性が欠けるために,
相手につながっている,引っかかっているという点で一致 してお り,
相手から期待する反応が得 られず,甘え欲求が満たされないことが
その意味でまさに甘えを志向 しているのである。つまり,相手に対
多いとしている。
し不満などがあっても,それで相手 との関係 を切ろうとするのでは
1
9
8
8
)は,甘えさせる側は甘える相手 を非難 しつつも,ど
西園 (
- 4-
(
5)
こかでその人を受け入れている部分がある し,甘える側は相手 をと
は,幼児の一次的ナルシシズムは,直接の観察 によって確かめるこ
ことん余ろうとする強欲 さはな く,相手 にうまく依存 しなが ら,あ
とは難 しいが,他の考察か ら演禅的に導 き出す ことはで きるとし,
る程度の満足 を手 に入れるとし,健康 な甘えに特徴的な部分性や穏
愛情深い親たちが彼 らの子供たちに向ける態度が,彼 ら自身の,以
やか さの要素 を強調 している。
前に (
子供時代 に)放棄 されたナルシシズム (
一次的ナルシシズム)
つ まり,これ らを総合すると,健康 な甘えとは柔軟性,一時性,
が再生 した ものであるのではないか と,主張 している。つ まり,梶
部分性,穏やか さをもっているのに対 し,不健康 な甘 えはそれ らが
本的には子供 っぽい両親の愛情 は,一見,対象愛 に変貌 しているよ
欠けてお り,結果 として極端で激 しく,柔軟性 を欠いた非適応的な
うにみえるが,それ以前の性格 (
幼児の一次的ナルシシズム) を明
ものになっているのである。
白に示 していると考察 している。 これは,親たちの子供たちに対す
,
この ように,土居の屈折 した甘 えや不健康 な甘えは 「
甘 える」
る愛情深い態度 に関する考察 を用いた, リビ ドー論 における基本の
や りとりの失敗であ り,自分か ら与えることの出来ない, 自己愛的
-つである幼児の一次的ナルシシズムについての説明である。土居
で,他人に素直に依存することが出来ない状態が続いている成人に
(
2
00
0
b) は, このFr
eudの説明 を疑問視 し,親 たちの愛情深い態
ohns
on (
1
9
9
3) は述べている。
み られるか もしれない と,J
度は,昔のナルシシズムの再生 とい うよ りも,親 自身にもともと愛
2
001)は,屈折 した甘えはアンビバ レンスの他 にナ
また,土居 (
されたい欲望があって,そのために子供 に愛情深 く揺するのではな
ルシシズムとも結びついていると述べている。つ まり,屈折的甘え
いか と述べている。そ して,Fr
e
udのナルシシズム理論 によると,
は,甘 えをや りとりする際,相手 との相互的信頼の基礎がな く,甘
ナルシシズム とは自我 にだけ リビ ドーが向け られて他か ら閉鎖 され
えたいのに甘 えられない という, 自己愛的な一種の欠乏状態 を指す
e
udの主張は, 自我が他
ている状態 を指す にもかかわ らず, このFr
と考 えられる。
にリビ ドーを与 えないのではな く,他か らリビ ドーの供給 を求める
以上の ように,屈折 した甘えは,甘 えたい という欲求はあるがそ
000
b)。 この
状態の存在 を暗示 している とも述べ ている (
土居 ,2
れが受け入れ られない とい う状態で,甘えたいのに甘えられず,甘
ような点か ら,定義上ではナルシシズムは自己閉鎖的であるのに対
」「ひが む」「ふて くされる」
し,これの証明 としてフロイ トが挙げる事実は,む しろいわゆるナ
えが一方的な要求が ま しい 「
すねる
ルシシズムが密かに外界 と関わ り合い,外界に対 しある欲求を持つ
「くや しい」 などの自己愛的な要求の形 をとるのである。
なお,甘えたいのに甘えられない という甘 えの変形 した心理 をあ
2
0
0
0
b)は指摘 している。
ことを示 していると,土居 (
らわす屈折的甘 えは,その甘えの追求が独 りよが りで,相手 と一体
さらに土居 (
1
9
65)は,他動的 ・受動的愛 (
受身的対象愛)に基
化 しようとして極端 に激 しく自己の充足感 を得 ようとするものでな
いたナル シシズムの再定義 は,精神病理的現象 を解明す る上で,
ければ,程度の差はあって も全ての人に生 じるといえるであろう。
Fr
e
udの定義 よ りももっと効果的であるとした。土居 (
1
9
65) は,
また,屈折的甘 えを相手が一方的で要求が ましい もの と捉 えなけれ
愛 されたい欲求,すなわち依存欲求は最 も基本的なもので,それ自
ば,それは甘えが成功 した といえるのか もしれない。
体本能的なものである とし,愛 されたい,甘 えたい とい う欲求があ
しか し一方で,相手 との信頼関係 ・相互関係 に問題がある場合が
るにも関わ らず,依存欲求が満たされない時には,それが幼ければ
多い屈折的甘 えは,相手 に しがみつ くような一方的な激 しさ,要求
幼いほど,甘 えの対象 を失い,本能衝動は現実的に満足 させ られな
が ましさを持 ち,ナルシシズムなどの病的な心理の基底に存在する
いので自体性欲的また自己破壊的な現象が起 こるとしている。 また,
と考えられる。
この状態は現実 との接触が全 く失われた精神病の場合に相当すると
述べている。 もちろん,このような状態が幼い時,実際 にお きて継
Ⅱ
続すれば生存は不可能であるため,それを至急収拾 しなければなら
自己愛的甘 えに関 す る理論
1.甘 え理論 と自己愛理論
ないが, このように して招来 される結末がナルシシズムである。す
前述のように精神分析 において, 自己愛 ない しナルシシズムとい
なわち,このような痛みに耐 えられず,心的防衛の結果生 じた もの
e
udによる,精神分裂病 をリビ ドー論で解釈 しようと
う概念は,Fr
がナルシシズムであ り,この状態 において自己充足感, または全能
する試みか らうまれた。彼 は,対象関係か らリビ ドーが撤退するこ
感の幻想が始 まるのである。土居は,前述の ような欲求不満が非常
とがナルシシズムであると考 えた。 さらに, リビ ドーが 自他の区別
に早い場合に起 きるときは,依存欲求が芽生えのなかに摘み とられ
,
が未分化 な時期 に自我の中にこもっている状態 を 「
一次的ナルシ
るかまたは固定する危険があ り, この場合は自他の区別があいまい
シズム」 とし, これに反 して発達後,本来は対象に向けられるべ き
で,自体性欲的 また自己破壊的傾向を内蔵 してお り,精神病の素質
,
二次的ナルシシ
リビ ドーが 自己へ充当 された結果起 きる もの を 「
となるナルシシズムであるとしている。次 に,同 じ幼時で も自他の
e
udは自己愛の状態 においては,
ズム」 と呼 んだ。 したが って,Fr
区別がで きて自己の観念がおぼろげなが ら成立 し,甘えるとい うこ
対象関係 は成立 していない と考 えたのである。
とを十分知 った後 に欲求不満 を経験するときは, 自分に甘 えまた自
これに対 しBa
l
i
ntは,前述の ように, 自己愛 を対象関係論的に理
分 を甘やかす状態が招来 され,これは神経症の素質 となるナルシシ
解 し, 自己愛の発生は受身的対象愛 (
対象に愛 されたい と思 う心)
1
96
5) は述べている。 この ように土居 は,ナル
ズムであると土居 (
が満 た されない ことに関係する と述べ た。土居 (
1
965) ち, この
e
udの定義 と異 なって,常 に二次的な形成物である
シシズムを,Fr
Ba
l
i
nt
の一次的ナルシシズムを否定す る考 えは, 自分 自身の所論 に
とした。
2
0
00
b) は,一次的ナルシシズムに
近い としている。 また,土居 (
また,土居 (
1
971,1
997,2
000a,2000
b) は,屈折 的 「甘 え」
e
udの説明 に対 し,矛盾がある と指摘 している。Fr
e
ud
ついてのFr
とナルシシズム とが密接 な関連があることを指摘 している。そ して,
- 5-
(
6)
屈折 した甘 えは明 らか にナルシステ ィツクである とも述べ てお り
(
土居 ,1
9
9
7
)
,一種 の精神的弱みや欠乏状態である自己愛的な状
態は,甘えたいのに甘えられない,一方的で要求がましい性質をもっ
た屈折 した甘えの心理 に近いのである。
え尺度 を作成 し,探索的因子分析 (
主因子法
確認的因子分析 によって, この3因子構造 を確認 した。 自己愛的甘
え尺度は以下の三つの概念 を測定する ものである。
① 「
屈折的甘え」
谷
(
2
0
0
0
)は,「甘 え」尺度 を作成 し,「甘え」の構造 について因
子分析の結果か ら,「
甘 え」概念は,「
直接的甘 え」「
屈折的甘 え」
2.自己愛的甘 えの理論 と構造
これ らのことか ら,屈折的甘 えは 「自己愛的甘え」 ともいえるの
であるが,土居
・Pr
o
ma
x回転)及び
(
2
0
0
1
)は精神的弱みや欠乏状態 を, 自己愛的また
「とらわれ」の 3因子構造か らなることを明 らかに した。 この 3因
子の中の 「
屈折的甘え」 は,土居
(
1
9
9
7
)の「
屈折 した甘 え」に対応
(
1
9
7
1
,2
0
0
0
a
,2
0
0
0
b)は, この 「屈折 し
はナルシステ ィツクと形容詞 として使われることが注 目すべ き点で
す る ものである。土居
あると述べ ている。そ して,Fr
e
u
dのい う自己愛の概念 と, 自己愛
た甘 え」 は, 自己愛的であると指摘 している。そ して,「
甘 えたい
(
2
0
0
0
b)によ
のに甘 えられない」「
他者 に自分 を認めて もらいたい」 とい う基本
る と,Fr
e
udの自己愛 とい う概念は,成長 した人間が この幼児的な
的欲動が転換 し,不棟嫌 (
すねる),軽い被害妄想 (
ひがみ),公然
状態 に退行すれば病理的なものであるとされているが,その一方で
とした敵意 (
ふて くされる),屈辱 (くや しい)などの形態 をとる。
的 と形容詞的に用い られる もの とを区別 した。土居
正常の 自尊心 または理想我の形成の基礎 ともなるとしている。つ ま
この ように,「
屈折的甘 え」 は,甘 えをや りとりする際,相手 との
り, もともとは同性愛 ・分裂病の特性 を説明するために遣 られた自
相互的信頼の基礎がな く,甘えたいのに甘えられない とい う,自己
己愛の概念が同時 に正常の理想的な状態 を指 しているのである。
愛的な一種の欠乏状態 を指す と考 えられる。 また,甘えたい とい う
(
2
0
0
0
b)も批判 し
欲求はあるが,それが受け入れ られない という状態で,甘えたいの
(
2
0
0
1
)は自己愛的 とい うのは,単 に正 しく自己を愛
に甘えられず,甘えが一方的で要求が ましい, 自己愛的な要求の形
この ことは,概念の混乱 を招 くとして,土居
ている。土居
することとは違い, 自己中心的,利己的なものであ り,それはどの
をとる。
ように利己的であるのか とい うと,精神的な弱みからくる欠乏状態
② 「
配慮の要求」
によって,対象関係 において,わが ままで要求が ましい状態 を伴 う
他者か らの特別の配慮 を受けるに値すると感 じ,そのような配慮
としている。つ ま り,Fr
e
udの定義 した自己愛の概念が病理的な も
が得 られないと不満や怒 りを感 じやすい傾向である。そ して,この
の と正常 な理想的な状態の二重の意味 を持 ち,矛盾が生 じているの
ような傾向の背後には特別な配慮がない と心理的安定や 自己評価 を
に対 し,前述のように形容詞的に自己愛的 と表現することで,それ
保てない とい う脆弱性 とともに,ある種の特権意識や誇大性が存在
が精神的な弱み をさしているとい うとい うことが一義的に定 まるの
している。 これは,露骨 な優越感や 自己顕示 とは異なる形での誇大
である。
性の現れである。
また, 自己愛的要求 という表現 も専門家の間で 日常的に使 われて
日本社会においては,意識の二重構造が土居
(
2
0
0
0
b)によって
お り,これは,何か特 に自分 にして もらいたいことがある場合,そ
指摘 されているが,これは,建前 (
外面 ・表) と本音 (
裏 ・個人の
のような要求 を指 して言 うとされている (
土居 ,2
0
01)。そ して,
主観性) を区別する意識のことである。そ して, 日本社会において
(
2
0
0
1
)は,一方的で要求が ましいのが 「自己愛的甘え」の特
は,本音 を読み取るには,つ ま り建前の下に潜むものを推定する為
徴である としている。 さらに,健康 な甘 えが非言語 的で,本人 に
には,他人の隠された動機,情動 を判断する共感や洞察力が必要で
「
甘 えている」 とい う自覚が ないのに比べ て, 自己愛的甘 えは,
ある。そ して,これ らを読み取 り,首尾 よくやってい く力が, 日本
「
甘 えたい」欲求 として甘えが 自覚 される。 このような要求が まし
における心理社会的能力や洗練度の指標 となる
土居
く一方的な性質 を持つ 自己愛的心理は, 自分 に対する誇大性の心理
(
J
o
h
n
s
o
n,1
9
9
3
)
のである。
とい うよ りも,「
甘 えたい」願望 を他者が満た して くれることを一
このような,「
表現 されない意識 に気付 くこと」は,「
配慮」 とい
方的に要求するとい うような, 自己愛的要求 を伴 う関係性の中での
えるが,これを適度 に他人 とや り取 りす ることで 「
存在意義 を認め
誇大性 として表れて くると考 えられよう。
られている」 という実感 を持つのではないだろうか。 しか し,周囲
以上のことか ら,ナルシシズムは,受身的対象愛が満た されない
とそのや りとりのバ ランスが崩れた り, また,周囲がそ うした期待
ことによる二次的産物であ り,それは 「
甘え」が満た されない,甘
に応 じて くれないと自己は満たされず,不満や怒 りを感 じることに
えた くとも甘 え られないが故 に自己愛的要求 を伴 う,「自己愛的甘
なる。 これは,「自分 は もっと配慮 されるべ き人間である」 とい う
え」 に相当すると考 えられる。 また, これによってFr
e
udの概念 に
誇大的自己イメージや, 自己をはっきりと主張 していないにも関わ
基いた自己愛理論では説明 しきれなかった自己愛の特性が説明で き
らず,存在意義が認め られた り,賛同されるだけでは足 りず,取 り
るといえる。つ まり,愛 されたい欲求 (
甘 えの欲求)が満た されな
巻 きによって特別にちやほや されることを求めている。
い時に,その欲求不満の結果 として,ナルシシズムが同園に対 して
③許容への過度の期待
自己愛的要求 を持つ ようになるとい うことが,ナルシシズムを 「自
山口
己愛的甘 え」 と再定義することで明 らかになると考えられる。
(
1
9
9
9
)は,「不適切 な行動」 に,それが許容 される との
「
期待」が加わったとき,それを 「
甘 え」 と呼ぶ としている。そ し
(
2
0
0
4
)は, 自己愛的甘え概念 を,「屈折的甘 え」「配
て, ここでい う 「
不適切 な行動」 とは,その人の年齢や置かれた状
慮の要求」「
許容への過度の期待」 の 3つの下位概念 に整理 した。
況などか らすべ きではないことを した り,すべ きことをしないこと
そ して,その 3つの下位概念 に対応する項 目群か らなる自己愛的甘
である。そ して,この行動 は, 自己利益の為に行われているとみな
そこで稲垣
- 6-
(
7
)
するにつれて自己が成長 してい くことであるとJ
ohns
on (
1
993) は
されるものである。
つまり,「
甘え」 とは,「
不適切な行動を許容 されると期待するこ
,
述べている。
と」である。 しか し,その傾向が極度 になった場合,つ まり 「ど
例えば,甘えは 「
甘えの二重性」 を持つか持たないかが,甘えの
」「自分の不適切 さ
んなに不適切な自分でも認められて当然だろう。
999)。土居
健康度 を規定す る一つの重要な要素 になる (
水 田,1
の為にどんなに人に迷惑をかけても許 してもらえるだろう。
」 といっ
(
1
971
) によると,甘えとは分離の事実を否定 し,分離の痛みを止
た期待 を持つ人は,依存関係 において情緒的 ・社会発達の初期の段
対象 と一体ではないことはよくわかっ
揚することである。つまり,「
階にとどまっている。つまり,母親 との一体化の関係から抜け出せ
ていなが ら,心のどこかでは対象 との分離を否定 している」心 と,
「
対象 と一体であると感 じなが ら,同時に心の どこかではそ うでは
ていない状態か もしれないO
日本の文化は甘えや依存に許容的であるので,彼 らは日本の社会
ない (
対象 と一体ではない)ことがわかっている」 という心の相反
で何 とかやっていけるかもしれない。 しか し,社会の枠の中で一応
する二つの心的態勢の同時的な共存である。水田 (
1
99
9)は,この
いつ も誰かがなんとか して
は機能で きても,大人にな りきれず,「
甘えの二重性の理論 に基いて,健康な甘えを 「
甘えの中のあ きらめ
」「どんな不適切な行為 も結局は許 してもらえる。」 という,
くれる。
とあ きらめの中の甘え」 と定義 した (
水田,1
99
9)。分離 を否定す
受身的で,なおかつ他人に多 くを要求する態度 を取 り続けるのであ
る心的態勢 (
甘えの態勢)をAとし,分離 を認める心的態勢 (
甘え
る。彼 らは,甘えの対象を特定せず,他人との,甘え的,自己愛的
ない態勢) をBとすると,甘 えの二重性 とは,Aが優勢な時 にもB
一体感を求めた り,ほ しいままにさせてもらうのが当然だというよ
は心のどこかに位置 を占めてお り,分離は幻想的,妄想的に否定 さ
うな意識 を持っている。
れたままになることはない。 また,Bが優勢な時には,その状態は,
このような執掬で露骨な 「
甘える」欲求は,成長途中の子 どもの,
あ きらめ と捉 えられることが多いが,Bの どこかにはAが意識 され
何で も欲 しがる, しがみつ くような頑固なふるまいに似ている。そ
てお り,Bに伴 う痛みや悲 しみの感情は和 らげられるというものな
して,依存関係の中で,度を越えた助力や,特別扱いを要求 しても
甘 え」 と 「
あ きらめ」 を
のである。甘 えが非適応的 となる場合 ,「
許 されるだろうという態度で周 りの人々に接するようになる。
対極に位置づけ,両立不能になっているという状態なのである。
以上の ように,稲垣 (
2
004) は,「
屈折的甘え」「
配慮の要求」
「
許容への過度の期待」から自己愛的甘えを捉 えうることを示唆 し
た。
2.「甘え」のあきらめと錯覚一脱錯覚論
土居によれば,前述のように,素直な甘えは,甘えの二重性 (
対
また,自己愛的甘えの概念 を通 して理解できる現代社会の風潮 と
象 と一体であると感 じなが ら,同時に心のどこかではそうではない
2
00
4)は,人間関係が一般的に稀薄に,または一方的
して,土居 (
(
対象 と一体ではない)ことがわかっている)を持つ。 また,水田
になってきていることをあげてお り,このような現代社会の特徴 を
(
1
9
99)の述べるように,健康 な甘えとは 「
甘えの中のあきらめと
自己愛的であると述べている。つ まり,人間は独 りでは生 きていけ
あきらめのなかの甘え」 と定義 される。それに対 して甘えが非適応
ないのであ り,家族や地域,国家など,周囲によって支えられ,世
甘え」 と 「
あきらめ」
的となる場合 (
屈折 した,自己愛的甘え),「
話になっているのであるが,現代人はそのことに気付かないことが
を対極に位置付け,両立不能になっているという状態である。
多 く,その結果,周囲にひどく依存 していなが ら依存の事実を素直
甘え」の心理はもともと分離 を前提 としてお り,
このように,「
に認められない。また依存 している事実にたとえ気付いていても,
「
甘え」 によって相手 と合一することは不可能なのだという,空虚
そのことに自己嫌悪 を感 じた り,他人の評価をひどく気にすること
感 ・幻滅を伴 うことのない 「
甘え」のあきらめがで きるかどうか と
2
0
0
4)は述べている。この現代人の自己
が しばしばあると,土居 (
いうことが重要な観点であると考えられる。
愛的特徴は,自己愛的甘えの概念 を通 して理解で きるといえる。
さて,Wi
nni
co
t
t
は,英国対象関係論学派の代表的な存在で,小
現代社会における自己愛的な人は,たとえ周囲にひどく依存 して
いる状況であっても,それを認めないために甘えの欲求はいつまで
児科医であると同時に精神分析科医で もある。彼の理論体系の中核
は,早期乳幼児期の発達理論 にある。
も満たされないのではないだろうか。そ してその結果,甘えは自己
Wi
nni
co
t
t(
1
9
65) は,母 と子の-者関係 か ら二者関係への移行
愛的な要求の形をとると考えられる。この甘えは,相手があって甘
期 (
移行対象 との関係)の世界 を解明 した。彼の述べる 「
乳幼児の
えている素直な甘えではない,誰 と関わるかという相互関係 とは無
依存の諸段階」の第一段階 (
絶対的依存の段階)では,乳幼児は母
関係にただ甘えることだけを求める,一方的で要求が ましい甘えで
親に全 く受身的に依存 してお り,母親の役割は 「
抱 きかかえること
(
hol
di
ng)
」であるとしている。 この役割は,「
乳児の求めるもの
ある。
このように,現代の人間関係 における特徴 として考えられるナル
シシズムの問題 も,自己愛的甘えを通 して考えることによって,よ
り理解が深 まるのではないかと思われる。
を適切に読み取って,適切なときに与える母親の乳児に対する適応
(
l
i
vi
ngors
e
ns
i
t
i
vea
da
pt
a
t
i
ont
oi
nf
a
nt
'
sne
e
d)早,「
母親 また
ma
t
e
r
na
lore
nvi
r
onme
nt
a
lpr
o
vi
s
i
on) などの
は環境からの供給 (
樺能を給括 したものであるO土居 (
2
00
2)は,この 「
抱 きかかえる
Ⅳ
こと (
hol
di
ng)
」の考え方が,「
甘え」 と非常 に近いと述べている。
「
甘 え」理論 の広が りと自己愛的甘 えの問題
1.「
甘え」の二重性
2
003) によれば,Wi
nni
c
ot
t
のい う成熟過程 とは,一着
小此木 (
「
甘える」 ということを是認 される創造的なや りとりの方向に,
e
udのいう一次的自己愛の状態 (自他の区別が未分
関係,つ まりFr
バランスをとりなが らもってい くことが,心理社会的な目標を達成
化で,客観的な自己と母親 との依存関係は認知 されていない状態)
- 7-
(
8
)
,
から,二者関係,つまり自己と区別 される全体的な対象 としての母
脱錯覚」 は,対象喪失の外傷 を伴 う
き,この中間領域 によって 「
親像が確立 し,環境 としての母親 (
外的対象 としての母親で,外に
「
幻滅」 とはならず,現実の価値や希望,楽 しみを失わないものと
存在する依存の対象 としての母親) と対象としての母親 (
乳幼児の
なるのである。「
錯覚」から 「
脱錯覚」への小 さい移行 と中間領域
内的な世界における主観的な対象 としての母親)が一致 してゆ く状
には,何が子 ども自身の主観により創造 されたのか,あるいは何が
態への発達である。その発達過程は,Ⅰ.まず,絶対的な依存の段
外から与えられた現実 として受け入れられるのか, というような二
階の幼児は主観的な経験の中で,対象 と関係する。 このような主観
985),これは 「
甘
分法を問われないという特徴があるが (
北山,1
的対象は幼児の側の主観投影を含み,幼児の全能的な支配下に置か
え」の概念においても同 じようなことがいえる。
,
れている。Ⅲ.ところが,次の相対的依存の段階に至ると,対象が
nni
cot
t
のい う中間領域的な
つま り,健康的で素直な甘えは,Wi
この全能的支配のままにならないこと (
母親が幼児の欲求に適応す
要素 を持 っていると考えられる。そ して,この ような要素がなけれ
ることに失敗すること)が経験 される。 しかも,幼児はこの欲求不
ば 「
甘え」と 「
あきらめ」は対極に位置付けられ,両立不能になり,
Ⅲ.しか し,幼児のこう
満によって対象に対 して攻撃性 を向ける。
外傷的体験 を伴った 「
幻滅」 としての 「
甘え」のあきらめ となり,
した対象への主観的破壊にもかかわらず,客観的対象は生 き残る。
,
「
甘え」は自己愛的になるのである。
この経験 を通 して,自己の全能的支配を越えた存在 としての外的対
3.本当の自己と偽 りの自己
象が確立 されるのである。
,
この中で彼のいう対象に関する 「
錯覚」 とは,自分にとって良い
前述のように 「
錯覚」は常に現実検討 によって 「
脱錯覚」に至
ものを全て自分の もの と幻想する自己愛的段階から,自分から独立
nni
c
ot
t
は現実検討 を受け
る可逆性 を持 っている。 この過程で,Wl
した自分の思いどお りにならない客観的な外的存在でもある良い対
る可能性がな く,パーソナリティ全体 に統合されることもないとい
象を,同時に主観的に自分のもの として知覚する体験である。外的
空想すること」が,解離の現象 として起 こると述べた。解離
う 「
な対象をあたか も自分の感情や願望 を満たす存在であるかのように
は,まず第一に発達初期の未統合な自然の心性 としてとらえられ,
,
i
l
l
us
i
onofomni
pot
e
nce)
」 は,やがて乳
錯覚する 「
万能の錯覚 (
二次的には,現実の否認や主観的な全能感を維持する自我の防衛の
児の側に現実検討能力が発達すると,そのような錯覚からの 「
脱錯
意味 を持 っている。この二次的な防衛規制 としての解離は,成熟過
覚」が進む。 このような 「
脱錯覚」のプロセスで,欲求不満が生 じ
程で生 じる基本的なものとしては,本当の自己 と偽 りの自己の解離
るが,このようにして乳幼児の自我は現実を受容する段階に発達 し
である。
てゆ く。
1
99
5) によれば,本当の自己では,母親 に絶対的に依存 し
牛島 (
北山 (
1
9
85,2
0
01
)は,この過程が急激で,取 り返 しがつかず外
ているなかで,母親が幼児の求めるものを察知 して適切に満た して
傷的な場合は 「
幻滅」
,現実への関心 を失わない形の順調な移行の
あげることが基盤になっている。それは,ただ単なる欲求の満足で
r
o
f
t(
1
96
8) ち,正常の
場合は 「
脱錯覚」 とよんでいる。 またRyc
はな く,察知や満足のさせ方 まで含めた母親全体 を乳児が取 り入れ
幻滅 とは現実 を支配で きるという万能感 についての幻滅だとして,
るという過程を必要 とする。これは自発的,内発的なものを母親の
外界についての関心 を失 う幻滅 と区別 している。
表現手段 を借用 しなが ら表現するようになる幼児の姿の土壌であ り,
この過程は,全能感から現実感への成熟過程 ともいえるが,この
さらには幼児は全 くの受身の位置から主体性 を持 った自分 となり,
1
96
5)のナルシシズムと甘えとの関係の中で も共通
現象は,土居 (
主体的に環境 と関係 を結ぶ状況が出現する。このように,本当の自
するものがみ られる。彼は,病的なナルシシズムが依存欲求の不満
己は自発的な身振 りによって表現 され,現実感 を持 ち,創造的であ
に由来するとするならば,健康 な自己愛は依存欲求の心の満足ない
錯覚」
り,健康 な自己愛の基盤 となる。同時に,主垂
那勺な自己は 「
,
し,その克服 を契機 として生ずると述べている。また,それは低い
と「
脱錯覚」の繰 り返 しのなかで客観性を帯び,対象の変化に見合っ
段階での依存の満足にとどまらず, したがって単なる甘えを超えて
1
9
95)は,こうした構
た自己の発達を遂げてゆ くのである。牛島 (
信頼のなかに自分は愛 されているという確信 を持つことであると述
造を基盤 にしては じめて人間は,自らの存在感 を実感できるのであ
べている。 さらに,自己の発見は
,「甘 えられない」 という苦い経
り,成長が進むほどに,つまり大人になるほどに,外界に接する部
験 を契機 としておきることもあるが, もしそれだけで愛 と信頼を経
分はより客観性 を帯び,内奥になればなるほど,より主観的自己と
験 しないならば,そのような自己はナルシシズム的自己となるとし
主観的に知覚 されている対象が優勢になると述べている。また,こ
ている。そ して,その結果 「
甘え」が自己愛的甘えにならざるを得
の本当の自己の部分は自己中心的ではあるが,実在感 を与える中核
ないのである。
部分 となると指摘 してお り,特 に遊びや文化活動などの中間的領域
,「脱錯覚」
世界の中心であった乳児のニー ドである 「
錯覚」 は
を通 して,願い,希望,そ して信頼 という価値的なものへ と転化す
,
において顔を出すような構造になっているという。
,
2
000
b) によると 「自分」の意識 は,甘 える関係の中に
土居 (
985)が,前述 したように 「
甘え」
ることが見込 まれる (
北山,1
埋没 して失われていた自分を,甘えていた対象か ら分離 して見つめ
においても 「
甘えへのあきらめ」 を経験 しなが らもそれは愛 と信頼
るところに生起すると述べている。そ して
,
,「自分 を大事 にしなけ
甘え」 を知 った上でその依存欲求 を克服 してい く過程
を経験 し 「
ればならない」 というような自分に対する積極的な感情 も含んでい
が,健康的で素直な 「
甘え」 を形成する基盤になると考えられる。
る。 この 「自分がある」 という意識は
,
,「自分が出来る」過程で相
さて,Wi
nni
co
t
tによれば 「
錯覚」 と 「
脱錯覚」 を繰 り返す,外
手 との相互的な信頼 を軸にした甘えのもとで素直な甘えを共有する
的現実 と内的現実の中間領域は,遊びや文化的活動へ と発展 してゆ
nni
co
t
t
の述
とい う経験 を持 ってお り,土居のい う 「自分」 は,Wi
- 8-
(
9
)
べた本当の 自己に相当すると考 えられる。 また, この本当の自己の
な自我の基盤が作 られるとした。 さらに, この ような安心で きる人
中で素直な甘えがや り取 りされると考 えられる。
2
0
01)
間関係の中に身をおいている状態における 「
甘え」 を,土居 (
これに対 して,母親か らの適切な自我支持 を与 えられなかった偽
落 ち着
は,信頼 に裏打 ちされた 「
甘 え」 と述べ てお り,それは,「
りの自己がパー ソナ リテ ィを支配するようになると,自分の自発性
く」心理 を含んでいる と述べている。つ まり,本当に落 ち着ける場
を完全に隠蔽 した,物真似や環境への服従,迎合や拒絶 による偽 り
合は,自覚 していないか もしれないが,誰か身近 な者に甘えられて
の関係が繰 り返 されるようになる (
牛島,1
9
9
5)
。偽 りの 自己が正
いる場合である とい うことがで きる。なお 「
落ち着いた人」 とい う
常 な場合には,本当の 自己を守るような社交的態度 となるが, これ
ようにこの語 を人間の形容 として使 うことがあるが,このような人
が極端 な場合 には,偽 りの自己がその人その ものにな り,本当の自
は実際 に落 ち着 く場所 を持 っているとい うよ りも,内的に落ちつ く
己は周囲にも自己にも隠 され,空 しさと絶望の感覚が大 きくな り,
ところを持 っていると考 えられ,言い換 えれば, このような人は身
対人関係の中で破綻 を生 じ,その恐怖 にさらされるという危険があ
近なところに甘 える対象がな くて も,精神内界 に甘 える対象を持 っ
る。 さらに,そのような偽 りの自己を形成 した人格は,外部 との連
ているので, どこに居 て も落 ち着いた状態 を維持で きると考え られ
絡 (
外部 との客観的な関わ り)がないままに,隔絶 されているので,
0
01)のである。
る (
土居 ,2
実在感 を体験で きず,真の遊びも文化活動 も出来ないままに終わる
9
9
5
)
。
のである (
牛島,1
一方で,信稗関係が成立 しないか,成立 して も微弱の時は,依頼
心は強いが,信頼心 は乏 しい とい う, 自己愛的甘えの現象が起 きる
前述の ように,健康的で素直な甘えが中間領域的な要素 を持 って
甘
いるのに対 し, この ような中間領域が持 てない とい う状況は,「
1
9
6
5
)は述べている。 また,人間関係の基本に信頼や安心
と土居 (
落 ち着 きがない」状態 にな り,土居 (
2
0
01)は,
が欠けている と,「
甘
え」の概念か らみれば,「自己愛的甘 え」 になると考えられる。「
このような人たちは結局甘 えられないので悩 んでいるということが
え」があることが実感で きない,つ まり,本当の 自己を経験で きな
できるだろうと述べている。 また,甘 えた として も両価的であると
い,「自分がない」 とい うことが,対象 によって 自分 自身が左右 さ
いう,自己愛的甘えになるので,真の意味で満足が得 られない。土
れるとい うような偽 りの自己に支配 された人格 を形成 し,対象に対
2
0
01
)は,現代 において,落ち着 きのない人,自分の居場所が
居 (
する 「
甘え」が 自己愛的になるのである。
ない,居心地が悪い と訴 える人が非常 に多い と述べている。
以上のように,素直な甘えは,甘えていた対象か ら分離 して自分
以上の ように,素直 な甘えは,人間関係の基本に信頼や安心があ
を見つめることがで きる,「自分がある」 という意識や主体性 を伴 っ
り,相互的な信頼 を軸 に してお り,「
落 ち着 く」心理 を含 んでいる
て形成 される,本当の 自己を基盤 にしているともいえるのである。
のである。そ して,その ような心理 を基盤 に して,利己的で要求が
それに対 して,偽 りの 自己がその人その ものになって しまうと, 自
ましく,一方的な自己愛的甘 えか ら脱却す る
甘 え」
己は主体性 をな くし,対象によって自分 自身が左右 され,「
い られない, 自分 を大事 に しな くてはいけない。
」 と自覚する) こ
は自己愛的甘 えになるのである。
とが,素直で健康的な甘えにつながると考 えられる。
4.信頼 ・落 ち着 きと 「
甘 え」
Ⅴ 最後 に
(
「いつ まで も甘 えて
これ まで,素直 な甘 えには,甘えのあ きらめ (
脱錯覚),甘 えが
このように,ナルシシズムを 「自己愛的甘 え」 と再定義すること
あることが 自覚で きているか (
本当の自己の形成) とい う過程が重
e
udの概念 に基づいた自己愛理論では説明 しきれなかった,
で,Fr
要であることを述べて きたが,脱錯覚や,本当の 自己の形成 に必要
nni
c
o
t
t
自己愛の特性 を説明で きる。 また,「自己愛的甘え」 とは,Wi
な中間領域は,素直な甘 えの根底 にあるとされている信頼や落ち着
のいう中間領域的な要素 を持 たず,外傷体験 を伴 った 「
幻滅」 とし
きにつながると考 えられる。 よって,次 に健康的な甘 えの基盤 とな
ての 「
甘え」のあ きらめ となってお り,偽 りの 自己が主体 となって,
る相互信頼 と,「
落 ち着 く」 とい う心理 について触れる。
自己は主体性 をな くし,対象 に よって 自分 自身が左右 されている
1
9
6
5)は,自己の発見は,甘 えられない とい う体験 を契機
土居 (
「自分がない」状態である。そ して,人間関係の基本に信頼や安心
にして起 こるが,それは,信頼 を経験 しないならば,そのような自
が欠けてお り,依頼心 は強いが,信頼心 は乏 しく 「
落ち着 きがない」
己はナルシシズム的 自己 となると述べている。
状態で,甘えられな くで悩んでいるか,甘 えた としても利己的で要
つ ま り, 自我が他者喪失の痛み を体験 した時に,信頼 とい うもの
それ自体が,その痛みへの防御 として用い られるのである。
求が ましく,一方的な甘 えになるのである。
以上のように, 自己愛的甘 えは広が りをもった概念であ り,精神
さらに精神分析の中で,対象関係理論 においては,親の役割 には
的な事象及び病理の説明において,重要 な概念 になるであろう。
まず第一に,一体感幻想,あるいは良い関係 を踏 まえて 「きずな」
や対象 との基本的信頼 を育てることにあ り,その後,一体感幻想や
基本的信頼関係 とい う理想化 された関係 は,時間 とともに,ほどよ
0
01)。 また,土居
く非外傷 的 に幻 滅す る とされている (
北 山 ,2
謝
辞
本研究論文 を作成す るにあたって,丁寧 なご指導 を賜 りました神
戸大学発達科学部助教授
谷 冬彦先生に心か ら感謝申し上げます。
(
1
9
6
5
)は,母子 間の信頼関係 は,乳児が甘 えを経過 した後,母親
か らしば らく離れることに耐えることを学ぶ に至 った際,成立する
引用文献
ことが出来ると述べ,乳児は単 に母親 に甘 えるだけでな く,母親 を
バ リン ト,M.森
信頼す るようにな り,母親 もまた乳児 を信頼 し,そこに乳児の健康
- 9-
茂起 ・析矢和子 ・中井久夫 (
共訳)1
9
9
9 一次
愛 と精神 分析技 法
Ba
li
nt
,M.1
95
2Cr
i
t
i
c
al
みす ず書房 (
(
1
0)
No
t
e
so
nt
h
e7
7
1
e
OT
yO
ft
h
ePr
e
g
e
n
i
i
a
LOr
g
a
ni
z
at
i
o
n
so
ft
h
eL
J
b
f
d
o
,
牛島定信
Pr
i
mar
_
VLov
eand Ps
yc
hoanal
yt
i
cTe
c
h
ni
qu
e,London:The
渡辺智英夫
Ho
gar
t
hPr
e
s
s
.)
土居健郎
1
9
65 精神分析 と精神病理
土居健郎
1
9
71 「
甘え」の構造
土居健郎
1
9
97 「
甘 え」理論 と精神分析療法
土居健郎
2
00
0
a 土居健郎選集2 「
甘え」理論の展開 岩波書店
土居健郎
2
00
0
b 土居健郎選集1 精神病理の力学 岩波書店
土居健郎
2
0
01 続 「
甘 え」の構造
土居健郎
2
0
02 甘え 小此木啓吾 (
編) 精神分析事典
医学書院
吾 ・妙木浩之 (
編)精神分析の現在
山口
:Ps
ychoa
na
l
ys
i
s.Quar
t
e
r
l
yl
nc.
(
i
フロイ ト選集 1
1
,1
2
日本教文社)
Fr
eud,S.1
911 For
mul
at
L
'
onson t
het
wopr
i
nz
'
pl
e
so
fme
nt
al
f
u
n
c
t
L
'
onL
'
n
g. S.
E.
,1
2:21
81
2
26,London:Ho
gar
t
hPr
e
s
s,
1
95
8
式」
(
井村恒郎 (
訳) 1
97
0
「
精神現象のこ原則 に関する定
フロイ ト著作集6 人文書院 Pp.3
641
.
)
稲垣 実 呆
2
00
4 日本的自己愛の構造 に関する研究
日本心理学会
第6
8回大会発表論文集 ,68.
J
ohns
on,F.
A.
,1
993 De
pe
nde
nc
yandJ
a
pane
s
eSoc
i
al
i
z
at
L
on:
Ps
yc
ho
a
nal
y
t
l
Cand AnE
hr
o
pol
o
gl
C
all
nv
e
s
t
t
g
at
1
Oni
nt
oAMAE,
Ne
w Yor
k:Ne
w Yor
kUni
ve
r
s
i
t
yPr
e
s
s
.(
江口重幸 ・五木田
9
97
紳 (
共訳) 1
研究一
「
甘 え」 と依存一精神分析学的 ・人類学的
弘文堂)
1
9
85 錯覚 と脱錯覚- ウイニコッ トの臨床感覚 岩崎学
北山 修
術出版
北山 修
2
001 幻滅論
水 田一郎
1
9
99 青年期患者 と甘 えの二重性
みすず書房
北山 修 (
編)
47-1
61
.
「
甘 え」 について考 える 星和書店 Pp.1
1
9
8
8 甘えの二重構造一母子関係理論への提言一
西園昌久
精神
分析研究 31
,1
3
3.
岡野憲一郎
で-
1
99
8 恥 と自己愛の精神分析一対人恐怖か ら差別論 ま
岩崎学術出版社
小此木啓吾
1
9
85 現代精神分析の基礎理論
小此木啓吾
2
0
03 精神分析 の中の ウイニコッ ト 妙木浩之 (
編)
ウイニコッ トの世界
弘文堂
2-1
0
4.
至文堂 Pp.8
ライクロフ ト,C.神 田橋保治 ・石川 元 (
共訳) 1
97
9 想像 と現
実
岩崎学術 出版社 (
Rycr
of
t
,C.1
968 I
nagL
'
nat
i
onand
Re
al
i
y,London:TheHo
t
gar
t
hPr
e
s
s.
)
甘 え」の構造 相模女子大学紀
谷 冬彦 2
0
0
0 青年期 における 「
要 6
3
A,1-8.
手塚千鶴子
1
99
9 セラピーにおける 「
甘 え」 と言葉- ある個人的
体験 をめ ぐっての一考察一
北山 修 (
編)
「
甘え」について
考 える 星和書店 Pp.6
7
82.
-
勧
1
999 日常語 としての 「甘 え」か ら考 える 北 山 修
(
編)「
甘 え」 について考 える 星和書店 Pp.31
45.
岩崎学
4
8,85
9
3.
上 ・下
岩崎 学術 出版社
(
Wi
nni
c
ot
t
,D.W.1
96
5 7
7
1
emat
u
r
at
i
o
n
alpr
o
c
e
s
s
e
sa
n
dt
h
e
弘文堂
Fr
e
ud,S.1
900 TheL
'
nl
e
r
pr
e
t
at
L
'
O
no
fdr
e
a
ms
.S.
E.,415
Pp.1
45
-1
5
3.
1
97
7 情緒発達の精神
f
ac
L
'
l
i
t
at
z
'
n
ge
nv
i
r
o
n
me
n
t
,Lo
ndon:TheHo
ga
r
t
hPr
e
s
s.
)
as
s
a:A t
h
e
or
yo
fge
nt
'
l
al
i
t
y,Ne
w Yor
k
Fer
e
nc
z
i
,S.1
92
4 Thal
夢判断
至文堂
分析 理論 - 自我 の芽生 え と母 なる もの -
金剛出版
2
0
0
4 精神分析 と文化の関連 をめ ぐって 精神分析研究
95
5
橋義孝 (
釈) 1
至文堂 Pp.1
2
3
-1
33.
1
99
5 英国中間学派の仕事-バ リン トなど 小此木啓
ウイニコッ ト,D.W. 牛島定信 (
釈)
弘文堂
-1
0.
術出版 Pp.9
土居健郎
1
9
95 ウイニコッ トとプレエデ ィパルな世界 小此木啓
吾 ・妙木浩之 (
編)精神分析の現在
1
0-
Fly UP