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連載:素人映画論
中村 修也 アメリカ・オーストラリア 教育学部助教授 二〇〇〇年 監督:ラッセル・マルケイ 出演:アーマンド・アサンテ、レイチェル・ウォード 今、世界で問題になっているのはイラクへの参戦問 題である。ドイツが中立の立場を表明したことが十月 二十九日のニュースで報道された。中東問題はアラビ アのロレンスでも映画化されたが、本来、アラブ民族 とトルコの問題であった。それにヨーロッパ諸国が主 導権を争って参加し、フランスの介入でアラブとユダ ヤの宗教問題へと複雑化したのである。少し前までは ソ連とアメリカの大国の代理戦争の体をなし、軍需産 業の貴重な市場とされていた。 戦争は絶対悪であるというのは、誰しも認めるとこ ろではないのか。なぜ他人の国に軍隊を派遣したがる のか。その理由はエゴ以外のなにものでもない。小泉 首相の提唱する有事法制というのは、他人の国に軍隊 を送るということであって、自国防衛の強化ではない。 国を守るため、家族を守るためという大義名分すらな い。ただただアメリカと一緒に戦争がしたいという個 人的関心によって軍事法制化がなされようとしている。 人間とは、かくも愚かな生き物なのであろうか。 戦争が勃発する。その結果、北半球は放射能汚染によ 国と台湾の武力衝突にアメリカが関与して、ついに核 この映画は、二〇三○年の近未来を描いている。中 る。町ではすでに放射能障害の症状が出ている住民も していた。早いか遅いかの違いに過ぎなかったのであ 他の乗員はメルボルンへ帰るが、結局は彼らも被爆 張していた科学者が、真っ赤なスポーツカーに乗って いた。町は荒 れ、市庁の前では自殺用の毒薬が配布さ プロローグの原子力潜水艦のシーンは、一見、この 見廻る。その間、映像は静かに流れる。音は一切ない。 って全滅し、南半球にわずかに人類が生き残ったとこ 映画を戦争映画かと思わせるが実はそうではない。こ 無音の世界である。世界の終局なのだ。女優の一人が れていた。その街中を、最初から放射能の危険性を主 の映画では戦闘シーンはひとつもない。それどころか、 呟く。 ﹁この光景を核のボタンを押した奴に見せてやり ろから映画は始まる。 原子力潜水艦一隻以外、軍事関係のものはなにも登場 たいわ﹂と。 科学者はサーキットで車を走らせ、ノーブレーキで しない。むしろこのプロローグのシーンはへたな誤解 を生む素とも考えられる。 そこへ船長が現れる。二人は抱き合う。しかし二人 激突死を選ぶ。放射能患者の乗員を乗せた潜水艦は港 潜水艦はオーストラリアのメルボルンを目指す。長 には未来はない。ラストの一○分は、人々の終焉の様 怖いことだが、この映画は、すでに核戦争が起こっ い航海がおわり、やっと外の空気が吸えた喜びも束の 子が映し出されるだけである。普通の映画なら、ここ を出港する。軍部の一人は妻と娘とともに静かに服毒 間、オーストラリアにも放射能は三ヵ月後に広がって でなんらかの希望なり、幸運などんでん返しがありそ てしまった後 の世界を描いているのである。死と絶望 くるとの情報が入った。だが、老博士の新説では、破 うなものであるが、ここにはない。 ﹁復活の日﹂では南 自殺をはかった。その義姉は一人シャンパンをあけ、 壊されたオゾン層からの光線によって放射能が弱まっ 極にそれがあった。どこまでもこの映画では、 ﹁実際の の世界をどのように描けばよいのであろうか。よくぞ、 ている地域が北半球に存在する可能性があるという。 核戦争では、そんな希望的観測が入り込む余地はない﹂ 自分を置いて出港した船長を恨 む。 また、北半球から電子メールが届いているともいう。 ということを厳しいまでに提示しているのだ。なんと この難問に挑戦したものと感心する。 わずかな希望を賭けて、再び潜水艦は北へ向かう。 た現実は、ソーラー電池のいたずらによる自動発信の 人類の最後である。我々はそれをどのように 迎えたい しかし、ありうることである。自分の最後ではない。 もやりきれない映画である。 メールであった。たしか私の記憶では、旧作ではブラ のであろうか。 危険を冒して北を目指した乗組員たちが突きつけられ インドに結ばれた紐が風でモールス信号を打電してい た。さすがに隔世の感がある。潜水艦がサンフランシ スコの故郷に寄港したとき、黒人の乗組員はひとり潜 水艦を降りた。放射能の中で四、五日の自由を楽しむ 方を選んだのである。 図書館ホームページ:http//:www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib (3)