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帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代
【書 評】 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 Schmoll, Friedemann (2004) Erinnerung an die Natur: Die Geschichte des Naturschutzes im deutschen Kaiserreich, Frankfurt am Main, Campus, 508 S., ISBN 3-593-37355-6. 千葉大学公共研究センター フェロー 浅田 進史 1. 「自然保護」への問い ドイツのボン近郊の山地、ジーベンゲビルゲに所在する「財団 自然保護 史 Stiftung Naturschutzgeschichte」は、2003 年以降、「自然・環境保護の歴 史 Geschichte des Natur- und Umweltschutzes」シリーズを公刊している。 フリーデマン・シュモル著の『自然についての記憶――ドイツ帝国における自 然保護の歴史 Erinnerung an die Natur. Die Geschichte des Naturschutzes im deutschen Kaiserreich』は、 その第 2 巻として刊行された 1。著者は、 テュー ビンゲン大学ルートヴィヒ・ウーラント実証的文化学研究所 Ludwig-UhlandInstitut für Empirische Kulturwissenschaft の研究員であり、本書は彼の教 授資格取得論文でもある。 本書は、ドイツ帝政期(1871−1918)の自然保護運動の思想と実践を明ら かにするものである。著者によれば、1970 年代以前のドイツの自然保護運動 1 本シリーズの第 1 巻は、Joachim Radkau/ Frank Uekötter (Hrsg.), Naturschutz und Nationalsozialismus, Frankfurt am Main: Campus, 2003(「自然保護とナチ ズ ム 」)、 第 3 巻 は、Frank Uekötter, Naturschutz im Aufbruch. Eine Geschichte des Naturschutzes in Nordrhein-Westfalen 1945-1980, Frankfurt a. M.: Campus, 2004(「勃興期の自然保護:ノルトライン・ヴェストファーレン州における自然保 護の歴史、1945−1980」)、第 4 巻は、1945 年以降の自然保護・環境保護運動を テーマに扱った論集、Franz-Josef Brüggemeier/ Jens Ivo Engels (Hrsg.), Naturund Umweltschutz nach 1945. Konzepte, Konflikte, Kompetenzen, Frankfurt am Main: Campus, 2005(「1945 年以降の自然・環境保護:概念・抗争・能力」)である。 316 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) の歴史は、主に自然保護に実際に携わった行政担当者・専門家によって叙述さ れていた。しかしその歴史叙述は、ドイツの自然保護運動とナチズムの思想・ 体制の間に密接な関係があったにもかかわらず、そうした事実について触れず に、自然保護の歴史を政治的な局面からまったく切り離すものであった。しか し環境保護運動の高まりとともに、70 年代末以降、環境史が新たに提起され ると、自然保護運動は環境保護運動の前史として位置づけられ、そしてそれ以 前の自然保護の歴史叙述自体も、再検討されるようになったのである。 その新たな研究潮流では、自然保護運動は、いかに西欧諸国の近代化から ドイツが逸脱していたかという問題意識を研究の出発点とする「特有の道 Sonderweg」のテーゼに合致するように、理解されてきた。そのために自然 保護の歴史は、保守的で反動的な文化批判として理解され、さらに 19 世紀の ドイツのナショナリズムとナチ期のフェルキッシュ(民族主義的)な社会ユー トピア像を架橋する審級として位置づけられた 2。 こうした見方に対して、著者は、むしろ自然保護運動の近代的な性格に着 目する。本書でシュモルは、自然保護を、物質的にも非物質的にも人間と自然 との関係を規制する近代社会の特有の文化的実践ととらえることで、自然保護 運動に孕まれた二面性――自然の収奪と崇拝の二極化を明らかにしようとする。 著者は、そのような性格をもつ自然保護運動の社会的な位置づけを適切に行う には、先行研究のように思想史的・心性史的な分析にとどまらずに、公的ある いは民間の諸制度の形成、そしてそのプログラムの実践を含めて、包括的に考 察する必要性を主張する。 本書は、4 部構成になっており、第 1 部「世界の新たな創造――工業化時代 における自然と景観」では、ドイツにおける工業化が自然にあたえた影響につ 「フェルキッシュ völkisch」という言葉の多義性とその歴史的背景については、 ジョージ・L・モッセ/植村和秀・大川清丈・城達也・野村耕一訳『フェルキッシュ 革命―ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ―』柏書房、1998 年(George L. Mosse, The Crisis of German Ideology. Intellectual Origins of the Third Reich, New York: Schocken Books, 1981)を参照。 2 317 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 いての概観が示される。第 2 部「自然の維持と文化的な記憶」では、自然保 護の行政機関による制度化と、民間、とくに市民層による様々な協会による自 然保護運動を取り上げ、その実践を正当化する自然保護活動家たちの思想が分 析されている。第 3 部「人間と動物」では、人間と動物の関係を理論的に考 察した後、とくにドイツで幅広く支持者を得た鳥類保護の運動を通じて、その 実践と思想が論じられている。最後に第 4 部「郷土と景観」では、自然保護 の協会活動の上部組織であった「郷土保護同盟 Bund Heimatschutz」の活動 家が自然保護活動をどのように認識していたのかが論じられている。以下では、 本書の分析の中心である第 2 部から第 4 部をとりあげ、最後に私見を述べたい。 2.自然の維持と文化的な記憶 帝政期ドイツにおける自然保護運動のモデルとなったのは、「天然記念物 保存 Naturdenkmalpflege」事業であった。この発想を体系化したのは、古 生物学者であったフーゴ・コンヴェンツ Hugo Conwentz(1855-1922)であ る。彼は、1906 年にダンツィヒに設立された「天然記念物保存局 Staatliche Stelle für Naturdenkmalpflege」で、初代局長としてプロイセンの天然記 念 保 存 事 業 を 主 導 し た(1910 年 に ベ ル リ ン に 移 転、 開 設 は 1911 年 )。 こ の機関は、ヒトラー政権期の 1935 年に「自然保護国家局 Reichsstelle für Naturpflege」に改組され、戦後になっても、この機関はイギリス占領地区で 活動継続を認可された。1962 年および 1976 年の改組を経て、現在、「自然保 護・景観環境学連邦研究所 Bundesforschungsanstalt für Naturschutz und Landschaftsökologie」に改称されている。 コンヴェンツの天然記念物保存の発想は、すでに先行していた文化財保存事 業をモデルにしていた。文化財保存が過去の文化を記憶にとどめ、現在までの 歴史を確認する行為であるとすれば、天然記念物保存は自然の歴史を確認する ための事業であった。ドイツでは 18 世紀以降、林業の合理化が進められ、そ の結果として森には収益性の高い種類の木だけがみられるようになった。こう 318 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) した合理化の進展による景観の変化は、逆に同時代の人びと、とくに市民層の 間にロマン主義的な傾向を強めることになり、稀少となった木々の保護が要求 されるようになったのである 3。そこでは、稀少な植物が始原的な自然を体現 していると考えられ、高い価値が置かれるようになった。当初の天然記念物保 存の対象は、こうした稀少性を有する動植物に限定されていた。 著者は、こうした自然保護の思想は、自然と社会を相互関係性のなかに置く 発想ではなかったと指摘する。両者は自立した存在であり、保護されるべき対 象は文化に脅かされている自然=「残存種 Reliktart」であった。コンヴェン ツは、 「残存種」に自然の発展史の考察という学術的な価値を見出し、そのた めに保存を訴えたのである。このような彼の「天然記念物」保存の試みは、現 存する自然の対象を過去の存在とみなして、人間の文化的な記憶のなかに位置 づけようとする営為であった。 コンヴェンツの考えでは、自然は人間が作り出した文化と対置されるもの であり、人間の接触の度合いによって、 「純粋な」自然かどうかが判断された。 実際に、コンヴェンツは、保存対象種のランク付けを試みたが、ある単体の動 植物でその基準を定義することはきわめて困難であった。そのため、自然美・ 景観美という基準が新たに加えられ、 保存の対象も単体だけではなく、 空間 (「自 然保護区域 Naturschutzgebiet」 )に拡大されることになった。 天然記念物保存は公的機関の事業として推進されていたが、それとは別に、 主に市民層によって担われた民間の自然保護運動も存在した。民間では、学術、 動植物の保存・保護、あるいは生活全般にかかわる文化刷新などの多様な目的 3 ロマン主義は、合理化ないし物質主義的な文明に対する批判として、自然と人間の 本来的な結びつきを強調する思潮であり、ドイツでは 19 世紀初め以来、文学を中 心に広まった。ロマン主義的な思潮を基盤にもった社会的な運動の例として、ワン ダーフォーゲルを挙げることができる。ウォルター・Z・ラカー/西村稔訳『ドイ ツ青年運動―ワンダーフォーゲルからナチズムへ―』人文書院、1985 年(Walter Z. Laquer, Young Germany. A History of the German Youth Movement, London: Routledge & Kegan Paul, 1962)。 319 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 をもっていた協会が設立された。このような協会活動は、自然と文化を区分す るのではなく、両者を一体の社会空間と理解する傾向があった。また著者は、 他の社会運動と異なる特徴として、自然保護運動が階級やジェンダー横断的な 紐帯を作り出したことを指摘する。もちろん、実際に何らかの協会に加入する 場合、社会的地位によって差別化が存在したが。 これらの様々な協会の活動家たちは、著者によれば、自らの活動を社会的 に正当化するために、自然保護運動を主に次のように理解していた。まず、自 然保護運動は、文化政策上の国民的課題と位置づけられていた。それは強い 民族主義的な論理に裏付けられており、 「ドイツ民族」が生まれた自然を守る ことは「祖国」を守ることであるとされた。しかしそれと同時に、国民国家の 中央集権化・同質化の論理に対抗する地域主義的な運動という理解も並存し た。自然保護運動は、地域特有の景観の保存という目的をもつことで、同質 化・均質化に対抗的なアイデンティティを形成することになったのである。最 後に、自然保護運動のなかにあった地域主義は、ナショナリズムの同質化の論 理に対抗する一方で、国民国家そのものに対抗することなく、むしろローカル な郷土と想像上の国民を結びつける役割を果たした。地方ごとに異なる「郷土 Heimat」は、ドイツの歴史的発展の過程の特殊例として位置づけられるので はなく、それを構成する部分として提示されたのである 4。このような自己理 解が絡みあった結果、ドイツ帝政末期には、民間の自然保護運動は国民的な運 動へと拡大することになった。たとえば、1909 年にミュンヒェンに設立され た「自然保護公園協会 Verein Naturschutzpark」は 1910 年に個人・団体会 「郷土 Heimat」の言葉の歴史的変遷については、Rolf Petri, Deutsche Heimat 1850-1950, in: Comparativ, 11 (2001), S. 77-127 を参照。ペトリは、「郷土」は地理 的に限定できる概念ではなく、一個人の心理のなかでも、発話される場面において 地域・国家から家族まで伸縮される概念であったとしている(たとえば、ヨーロッパ、 ドイツ、州、市、村)。どのような「郷土」が語られるかは、 一方で、個人のアイデンティ ティのあり方によって規定される場合と、もう一方で、ある社会集団の合意によっ て規定される場合があるだろう。 4 320 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) 員を合わせて、2273 件の加入を数え、さらに 1913 年には 1 万 6000 名の個人 会員と 600 以上の団体会員を数えていた。 また著者は、この時期の協会活動がいかにロマン主義的な性格をもっていた かを示す例として、上述の「自然保護公園協会」の活動を挙げている。同協会 は、1910 年頃に、現在のニーダーザクセン州にあるリューネブルガー・ハイ デを「自然保護公園」として景観美を保存する運動を組織した。もともとハイ デの景観は、中世以来の略奪農法による土地利用と数百年にわたる森林の荒廃 によってできたものである。しかし、その砂地とわずかな木々からなる景観は、 1800 年頃までには、人間の手の入っていない自然本来の姿というイメージが 形成され、感傷的・幻想的な土地というロマン主義的な解釈が付け加わり、「自 然保護公園」として保存の対象になったのである。 ここで挙げられている自然保護運動の論理は、先述したとおり、現存する自 然を過去の遺物として保存し、人間の社会と切り離すものであった。この論理 とは異なり、自然と人間の社会の協同を唱え、自然保護を生活文化の改革と結 びつけたのが、後述する郷土保護運動である。 3.人間と動物 著 者 に よ れ ば、 近 代 に お け る 人 間 と 動 物 の 関 係 の 特 徴 は、「 収 奪 Ausbeutung」と「崇拝 Anbetung」の二極化であった。ある動物が人格化さ れる一方で、ある動物は単に人間の食料として大量に飼育され殺害されている。 近代は、そうした人間と動物の関係の二面性が急進化していく過程であった。 こうした近代における「収奪」と「崇拝」の二面性は矛盾ではなく、同時に進 行した一つの過程の構成部分であった。自然に対する徹底的な効率化は、同時 に人間の行為に明確な規制を必要とする。著者は、こうした人間の行為に対す る規制を「タブー化」と呼ぶ。一般に豚やニワトリが人間の寝室に入ることは 許されないのに対し、イヌやネコであれば許されるといったことや、ある動物 が絶滅の危機にさらされるようになると、稀少種として、過去の遺物=記念物 321 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 として大事にされるといったことは、表裏一体の関係なのである。 著者は、こうした「タブー化」の例として、鳥類保護に焦点をあて分析 している。ドイツでは、1837 年にシュトゥットガルトで最初の動物保護協 会が設立され、その後各邦で類似の協会が設立された。鳥類保護は、まず それらの協会で訴えられることになる。1875 年には、「鳥類学協会 Verein für Vogelkunde」がハレで設立され、会員数は 230 名を数えた。1878 年に は「ドイツ鳥類保護協会 Deutscher Verein zur Schutz der Vogelwelt」に名 称が変更され、その会員数は 1892 年には 1232 名となり、さらに 1899 年に は「鳥類保護同盟 Bund für Vogelschutz」が設立され、会員数は発足時にす でに 3500 人を数えた。会員の構成は主に貴族、教養市民層・中間層からなり、 1914 年には 4 万 1323 人を擁する大規模な団体となった。 鳥類保護の動機としては、まず害虫を駆除する益鳥を保護するという経済 的理由が挙げられた。したがって、猛禽類や雑穀を食べるスズメは害鳥として 迫害の対象とされた。1900 年頃になるとこうした経済的理由に、倫理的な動 機が加わった。鳥類を保護することは、市民的徳目に数えられるようになった。 具体的な例としては、林業の合理化と都市化の進展によってかつての森林が消 失し、自然のなかに鳥類の巣が不足したことは、鳥類保護に説得力を与えるこ とになり、1899 ∼ 1913 年の間に、鳥の巣箱が 7 万 5387 個も作られたという。 巣 箱 の 設 置 の ほ か に、 鳥 類 保 護 の 具 体 例 と し て、 鳥 類 の 敵 を 排 除 す る 動きも指摘されている。鳥類学者ハンス・フォン・ベルレープシュ Hans von Berlepsch は、 ネ コ を 鳥 類 保 護 問 題 の 主 要 因 と 名 指 し し、「 絶 滅 戦 争 Vernichtungskrieg」を唱えた。ベルレープシュがモデル・ケースとして紹介 したハンブルクでは、1893 ∼ 1896 年の間に、6226 匹のネコが殺害されたと いう。スズメも他の鳥との巣穴の獲得をめぐる競争で勝ち抜いてしまうため に害鳥扱いされた。ベルレープシュはスズメの絶滅プログラムを作成し、年間 2000 ∼ 3000 羽を駆除することを提案している。しかし、1900 年頃に鳥類保 護に倫理的要素が加わったことで、このような「絶滅」プログラムが語られる 322 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) ことはなくなったと指摘されている。 またもう一つの保護運動として、鳥の羽根飾りをあしらった流行への反対運 動があった。19 世紀以降、婦人用帽子への羽根飾りをつけることが流行となり、 たとえばパリでは、1914 年時点で、およそ 6 万人もの労働者がこの産業に従 事していた。反対論者は、帽子の羽根飾りを生産するために、アフリカ内地で、 鳥が大量に捕獲・殺害されていることを、 「大量殺戮 Massenmord」、近代文 明の退廃、自然に対する敵対行為として非難した。鳥類学者カール・R・ヘン ニケ Carl R. Hennicke は、1898 年ベネズエラだけで、153 万 8738 羽のサギ がモードのために殺害されたと告発した。 著者は、鳥の狩猟のタブー化の条件として、益鳥のもつ経済的な価値を認識 すること、自然の美を守るという感性、狩猟を野蛮とみなすことの 3 点を指 摘している。狩りは、もともとは貴族層にとって身体の教練を意味し、男性性 の象徴でもあったが、市民層は、狩猟を野蛮なものとみなすことで、貴族層に 残酷性を付与するようになった。帝政期ドイツでは、1888 年に大量の鳥を捕 獲することが全国的に禁止され、1902 年には、農業に「有益な鳥」を保護す ることで合意がなされた。また 1913 年に、ドイツ植民地統治下のパプア・ニュー ギニアでは極楽鳥の捕獲を1年半の間、禁止する命令が出されている。著者は、 このような鳥類の捕獲・食料のタブー化を、人間が自然を新たに分類・秩序化 していく過程と捉えている。 4.郷土と景観 ドイツ帝政期の自然保護運動は、当初、コンヴェンツなどのような行政担 当者や専門研究者が主要な担い手であった。それがアマチュアの自然愛好家、 芸術家、建築家、文学者などを含んだ運動へと社会的に広がった主な原因と して、自然破壊に対する批判が美意識にもとづくようになったことが挙げら れている。 「郷土 Heimat」と「景観 Landschaft」の美の消失は、「郷土保護 Heimatschutz」という思考によって自然問題をめぐる議論に持ち込まれるこ 323 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 とになった。 著者は、郷土保護運動が、単に景観を保存することにとどまらず、「固有の」 文化・自然の保存を目的とした社会全体の刷新のプログラムであり、当時の社 会改革運動と結びついたものであったと指摘する。郷土とは、自然の秩序にも とづいた人間環境であり、それは近代的な生活への対抗構想であった。1904 年に「郷土保護同盟」が設立され、郷土保護運動が制度化されるようになった が、それは郷土を「真の固有の文化 eine wahre eigenartige Kultur」の前提 条件として保存しようとするものであり、その意味で著者は「郷土保護」運動 が文化改革的なプログラムであったと主張している。 ドイツ・ロマン主義的な自然保護にもとづいた「郷土保護」の主唱者は、音 楽家エルンスト・ルードルフ Ernst Rudorff であった。1880 年代末より彼は 自然保護に関する著作を出版している。その視点は、工業化による環境の変化 を、自然の有機的な社会秩序から目的にそくして合理的に計画された秩序に転 換される過程としてとらえるものであった。彼は、自然への内的な深い感情が 本来的にゲルマン的存在の根幹であるとし、ドイツ民族が失った人間と自然と の間にあった結びつきを再生しなければならないと訴えた。 郷土保護運動を担った活動家たちは、コンヴェンツの天然記念物事業を厳し く批判した。彼らによれば天然記念物保存事業は、現在の自然を過去の遺物と して「博物館化」し、自然と文化を切り離すものであった。それに対して、郷 土保護は、自然と文化の共同を目指した生活全体の改革運動であると主張され た。その際の保存の基準は、生物学的な知識ではなく、自然に対する美意識に もとづくものであった。 こうした郷土保護運動による自然保護は、工業化に対して妥協的かつプラ グマティックな態度をとっていた。たとえば、国民経済学者カール・ヨハンネ ス・フクス Carl Johannes Fuchs は、ドイツの郷土の美を損なうことのない 限りで経済を優先すべきと唱え、また風景画家・建築家であり、後に NSDAP (ナチ党)の党員となったパウル・シュッツェ=ナウムブルク Paul Schutze324 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) Naumburg も、伝統と近代、工業と自然の和解を唱えた。民俗学者で後に人 種主義的な移民理論を唱えた、ロバート・ミールケも文化の退廃を批判し、近 代的な新しい生活様式を伝統的に成長したものと有機的に結びつけることを訴 えた。また 1900 年頃にライン川上流でスイスの国境沿いにあるラウフェンブ ルク Laufenburg に当時のヨーロッパで最大の発電量をもつ水力発電所の建設 計画が持ち上がったときに、郷土保護運動家たちは反対するものの、景観を損 なわないように工事するということで和解することになった。 郷土保護活動家たちは、資本主義経済に対して、利便性の追求、物質主義、 拝金主義、利己的と批判した。だがこのような批判は、市場経済における競争 原理あるいは資本主義の生産関係を視野に入れるものではなく、感情的な表現 に終始していた。さらに、こうした視点は、資本主義の工業システムを自然破 壊の原因ととらえるのではなく、 「症候」としてみなすものであり、工業化が 理念的な文化概念によって保証されていないときに資本主義は破壊的になると いう見方であった。こうした資本主義批判はつねに懐古主義的であり、のちの ナチズムにみられるような反ユダヤ的反資本主義的な批判につながる問題が内 包されていた。 著者は、さらに郷土保護運動において敵としてイメージされていた存在と して、政治的左翼を挙げている。ルードルフらの郷土保護運動の主唱者たちが 参照したヴィルヘルム・ハインリヒ・リール Wilhelm Heinrich Riehl は、民 族と国民を自然の有機体と理解し、なかでも農民を近代化によって堕落してい ないものとみなし、そこに国民の未来像を託していた。それに対し、プロレタ リアは、有機的な身分制社会 ständische Gesellschaft を破壊する存在であり、 また歴史と祖国をもたない存在であるとして、それが故に否定された。 5.ドイツの自然保護運動史のパースペクティヴ これまで見てきたように、本書は、帝政期ドイツの「自然保護」が近代化に 対して退行的であるという従来の解釈に対し、自然保護運動に内包される近代 325 帝政期ドイツにおける「自然保護」の近代 の二面性、すなわち徹底的な合理化と自然の「タブー化」が不可分に同時並行 的に進められたことをきわめて説得的に提示していると言えよう。また著者は、 「自然保護」が単に自然の維持にとどまらずに、オルタナティヴな社会像を提 示していたとする。そこでは、様々な社会層が有機的に結合する社会が想定さ れており、その「有機的」なイメージとは、現実の社会的格差を不問にしたま ま、自然への道徳的感情に訴えかけ、社会統合を図るものであった。 著者は、ドイツの自然保護運動の特徴として、ロマン主義的で、民族主義的 な性格を指摘している。すでにドイツ帝政期に、自然保護運動は国際的な運動 となっており、そこでは近代の潜在的な破壊力に対して自然の美を擁護するこ とは普遍的な善であると主張されていた。著者は、ドイツの自然保護運動にも そのような性格があり、国際的な連携があったものの、1914 年以後には、民 族主義的な潮流が優勢になったという。本書の対象時期を越える問いであるが、 評者は、帝政期とナチズム期の自然保護運動の連続と断絶について、より明確 に論じる必要があるのではないかと思われた。 しかし本書が提示する図式も、1914 年以前の国際的な自然保護運動の主流 が「普遍的な善」であり、それに対してドイツの自然保護運動が「民族主義 的」であったと二項対立的な理解の枠にとどまっている。それは著者が批判し た先行研究の「特有の道」 (西欧=普遍/ドイツ=特殊)の図式と同じ問題を 孕むのではないか。むしろ当時の「普遍的な善」そのものの時代的性格とその 問題性を問い直した上で、ドイツの自然保護運動を位置づけることはできない だろうか。 「自然保護」がもつ近代の二面性は本書で説得的に展開されているが、 その「収奪」と「保護」の二面性はまさに当時世界大に拡大していった植民地 主義の本質にかかわる問題であろう。たとえば、森林の体系的な保存と水質汚 染に対する予防措置の最初の実験は、すでに 18 世紀末に植民地統治下のモー リシャス・カリブ海・インドなどで行われていた 5。イギリスやフランスの植 民地主義と自然との関係については、すでに先行研究が蓄積されており、その ような成果とドイツの事例を比較していくことが必要ではないか。また、本書 326 千葉大学 公共研究 第2巻第2号(2005 年9月) で指摘されているように、ドイツ植民地においても「自然保護」が取り組まれ ていた。そうした試みは、本国のドイツにおける自然保護運動にとってどのよ うな意味をもっていたのだろうか。植民地主義との関連から、ドイツの自然保 護運動を問い直すことは、また新たな知見を導く糸口になろう。 (あさだ・しんじ) (2005 年7月 28 日受理) Sebastian Conrad (2002),‘Doppelte Marginalisierung: Plädoyer für eine transnationale Perspektive auf die deutsche Geschichte,‘Geschichte und Gesellschaft, 28: 156. 5 327