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内容の要旨及び審査結果の要旨(第6集)(PDF 1.04MB)
博 士 学 位 論 文 内 容 の 要 旨 及 び 審 査 結 果 の 要 旨 第 6 集 平 成 25年 3 月 大 手 前 大 学 は し が き 本冊子は、学位規則(昭和 28 年 4 月 1 日文部省令第 9 号) 第 8 条による公表を目的として、平成 25 年 3 月 19 日に本 学において博士の学位を授与した者の論文内容の要旨及び論 文審査の結果の要旨を収録したものである。 学位記番号に付した「博第○号」は学位規則第 4 条第 1 項 によるもの(いわゆる課程博士)であり、「乙第○号」は学 位規則第 4 条第 2 項によるもの(いわゆる論文博士)である。 目次に記載の報告番号は学位規則第 12 条によるもの(文 部科学省への報告番号)である。 目 次 学位記番号 [ 報告番号 ] 学位 論博第 2 号 [ 乙第 2 号 ] 博士(文学) 博第 7 号 [ 甲第 7 号 ] 博士(文学) 氏名 そん ようせい 孫 容成 論文題目 中巌円月の思想と文学 ハイクとスペインの近代詩―マチャー た ざわ よし こ 田澤 佳子 ド・ヒメネス・ロルカとカタルーニャ 詩人を中心に 頁 1 9 氏 名 そん よう せい 孫 容 成 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 論博第 2 号 学位授与年月日 平成 25 年 3 月 19 日 学位授与の要件 学位規則第 4 条第 2 項該当 学位論文題目 中巌円月の思想と文学 論文審査委員 (主査)大手前大学大学院教授 上 垣 外 憲 一 (副査)大手前大学大学院教授 丹 羽 博 之 (副査)京都府立大学教授 上 田 純 一 論 文 内 容 の 要 旨 中巌円月(1300 ~ 1375)は鎌倉末期から室町前期にかけて活躍した五山の禅僧である。こ の時代、中日両国の間では、民間レベルにおいては活発な文化交流が展開されていた。とくに、 禅僧がその最も重要な担い手として両国の間を往来し、大陸文化の日本への伝播、紹介に寄与 したことは広く知られている。彼らは禅宗を日本に伝えただけではなく、儒学をはじめ、水墨 画や書籍、陶磁器などの文物の移入にもつとめ、さらに喫茶や葬儀などの生活習慣をも日本に 伝えた。また、彼らによって創出された五山文学と呼ばれる禅林文学は、日本漢文学史上にお いて輝かしい位置を占めている。 本論で取り上げる中巌は、1325 年から 1330 年にかけて、中国に留学し、帰国後、さまざま な紆余曲折を乗り越え、上皇から一般庶民まで多くの帰依者を持ち、五山最高格の建長寺の住 持にまで勤め、臨済宗大慧派の日本における継承者として、禅思想のみではなく、儒学、文学 の面でも、当時の社会をはじめ次の世代の五山の発展に大きな影響を与えた。 こうした彼についての研究は、全体的に研究が立ち遅れている五山文学研究において、比較 的豊富であり、すでに伝記、思想、文学の多方面からなされている。しかし、未解決の問題も 依然として多く残されている。 まず、伝記研究について。中巌が日本の始業師である東明慧日のかわりに、留学中師事した 大慧派東陽徳煇に嗣法したことは、彼の生涯において最も重要な事件の一つであるが、従来、 それに起因する東明派の迫害といったマイナス影響がもっぱら強調されてきたが、大慧派で何 を学び、またそれが後年の中巌の「とんとん拍子」といわれる早い出世とどういう関係がある かについては論じられていない。また、中巌と当時の主流派である夢窓派との関係についても 究明が不足している 次に、その思想について。禅思想についての研究は皆無に近いといっても過言ではない。 -1- 儒学思想についての研究は比較的多いが、主に次の二つの問題が未解決のままである。 一、朱子学との関係。従来の研究では、 中巌の学を程朱学にひきつけて説明するものが多いが、 実際先学によって指摘されている、中巌の文における朱注に依拠する、あるいは朱注と同一と される部分も、原典との間に違いがあるものが多いのは事実である。 二、中巌の儒学研鑽における政治提言的傾向について。各時期に書かれた個々の文章の解読 はある程度行われているが、かれの生涯を通じて認められる一貫した傾向やあるいは変容につ いて、ほとんど言及がないのが現状である。 文学について、解決が待たれるのは、まず、その詩風の問題。つまり、中巌の詩が唐詩的か、 宋詩的かということについては議論が分かれているままである。次に、彼の作品の中で比較的 多く研究されているのは、現代文学の評価基準あるいは研究者個人の好みでもって選ばれたも のが多く、今後 当時において影響の大きかったものについての考察をより深めるべきと思わ れる。 史料の問題については、中巌本人の作品で、活字化されていない写本をはじめ、未読の史料 が多く残っている。既読史料でも、誤読されているものが多いのである。また、留学当時の中 国側の史料の検証が行われていない。新資料の掘り起しと既読史料の読み直しが待たれる。 以上の問題を踏まえて、本論文では、史料を丁寧に読むことによって、三章に分けて、中巌 の思想と文学について考察した。 第一章では、彼の禅について、思想、及び禅宗社会における人間関係の二つの角度から考察 した。第一節では、まず、留学中師事した東陽徳煇のもとで習得した禅の復元を試みた。主に、 五山官寺の住持に初めてなった時の就任式での嗣法拈香と、東陽の訃報に接した時に書いた追 悼文を読むことによって、東陽との出会いは中巌にとってきわめて強烈な体験であったこと、 そして「点鉄成金」といわれるような学人の素質を生かした東陽の指導を受けた結果、中巌は 思考様式を変えて「本来具有」の真意を会得し、 「破落戸」と言われるような何の束縛をも受け ない境涯に達したことを明らかにした。 次に、乾明山万寿寺で行った「小参」をはじめ、関東の上級武士上杉氏との交渉の内容や、 光明法皇に書き与えた「太上法皇尊号説」の解説を通して、東陽の下で開いた悟りの内容を、 後年、中巌が日本で道俗に向けて行った説法のなかでも守られていたことを明らかにした。 第二節では他派の人々との交渉を考察することによって、当時の禅林における中巌の位置づ けを明らかにした。まず、中巌は若いときからその才能を回りから嘱目されていたにもかかわ らず、その官寺出住は必ずしも早くなかった理由については、従来の研究は主に嗣法問題に起 因する東明派との不和に求めていた。本論では、東明派との葛藤よりも、五山住持の人事権に 影響力の強い夢窓の中巌評価にこそ、その出世を遅らせた原因があると考えた。また、彼の官 寺出住の実現には、龍山徳見などの留学僧の支援があったことを推測した。さらに、夢窓亡き あと、春屋妙葩や義堂周信など次代を担う夢窓派の重要人物が中巌と緊密な関係を持ち、尊敬 していたことに注目し、大慧派という立場は、初期こそ、東明派から反発を受けたものの、の -2- ちには周囲から認められ、尊敬されるようになっていったことを明らかにした。 大慧派の特徴は、禅の提唱と同時に、本来外学として排斥される文学や儒学への外学にも造 詣の深い人が多く、また士大夫との交流を重視し、政権とも積極的に関わり、政治への関心も 高い点にある。これらの特徴は中巌においても認められた。それについては第二章と第三章で 考察した。 第二章では、中国留学中と帰国後という二つの時期にわけて、中巌の文学活動について論じた。 第一節では、中巌の作文・作詩能力の本格的な習得およびそれへの自信は留学時代、特に大 慧派下において培われたことを明らかにした。これまで取り扱われなかった資料である、百丈 山大智寺で作成した「上梁文」を解読し、さらに金華智者寺で書いた惜別の詩など( 「和儀則堂 韻謝琳荊山諸兄見留」「儀則堂の韻に和して琳荊山諸兄が見留めらるるを謝す」 )を読み直すこ とによって、彼の漢詩(文)の作成能力の高さを検証すると同時に、揚雄や黄庭堅からの影響 など、帰国後の創作活動につながる特徴を見出した。 第二節から第四節までは、帰国後の様々な文学活動を取り扱った。第二節では、彼が夢窓派 の人に書き与えたものを七点取り上げた。いずれも従来の研究で読まれていなかった作品であ るが、当時の五山禅林においては影響力のあるものだった。たとえば、そのうちの春屋に和韻 した詩四首は、中巌の詩集に収録されていないため、これまで全く注目されていなかったが、 次のような背景で書かれたものである。1359 年春、中巌が開山の利根吉祥寺が諸山に列せられ た時に、春屋妙葩から祝賀の偈が来た。中巌がそれに和韻したのを皮切りに、諸老の和韻が来て、 たちまち六十二首となり、義堂周信がそれを一幅の軸としたのである。当時の禅林において一 大盛事であったことが分かる。その六十二首のうち、現存しているのは中巌のこの四首と鉄舟 徳済の一首のみであるが、中巌の詩と鉄舟の詩を比べると、前者は後者より、難渋であること がわかる。また、典故の応用と変容などの点からみれば、この四首の場合はあきらかに、宋詩 とくに江西詩派の詩風の影響を受けているものだと結論付けられた。 夢窓派のなかで、春屋のほかに、中巌を特に尊敬していたのは義堂であった。本論では、中 巌が義堂の詩文集『空華集』のために書いた序を取り上げ、特に同序において見られる詩は禅 と不即不離の関係にあるとする中巌の文学観に注目した。中世の日本禅林では、ほとんどの禅 僧は漢詩文の作成に力を入れ、後に五山文学と称される膨大な作品群を残しているが、文学と 禅の関係については、認識の変化があった。中巌は文学を禅より一段低くみなす初期、文学に 禅と同じ価値を認める中期への転換点に立っていると言える。中巌のこの文学観はのちに義堂 によっても認められ、さらに景徐周麟などへと繫がっていくと思われる。 中巌は自ら詩文を作成すると同時に、講義や注釈などを通じて、詩文の普及や教育にも尽力 した。第三節では『挿注参釈広智禅師蒲室集』という注釈書の原本調査を通じて、その執筆の 動機や引用漢籍及び漢詩について考察した。同書は、1358 年に、春屋の依頼により執筆した『蒲 室集』の注釈書である。『蒲室集』は元代の大慧派禅僧笑隠の詩文集であり、日本禅林に多大な 影響を与えた書物で、多くの注疏類が作製されたが、中巌のこの挿注参釈はもっとも早い時期 -3- のものである。この『挿注参釈広智禅師蒲室集』は、現在わずか足利学校史跡図書館に写本が 一本伝わるのみであるが、挿注という題名通り 、 五山版『蒲室集』( 六冊 ) 詩文部分 ( 第一冊巻 一から巻四二頁目までと第二冊と三冊の一部分 ) の余白部分に 、 漢文で注を書き込んだもので ある 。 本論では現存写本は江戸時代の閑室元佶の手によるものと判断したうえで、そこに引用 されている漢籍と漢詩 ( 文 ) ついて詳しく考察した。それにより、中巌の博学ぶりを具体的に 示すことができた。たとえば、今まで十五世紀の禅僧惟肖得岩が始めて読んだとされていた『莊 子鬳斎口義』という書物を、実は中巌が既に読破していたことは、その代表的な一例であろう。 第四節では韓愈と揚雄という二人の中国の文人に対する中巌の評価を考察することによって、 中巌は両人の生き方を自分の処世のモデルとして考えていたことを明らかにした。具体的には、 文章によって立身しようという考えであるが、その文章とは何かについて、中巌は自ら定義は していないが、その後の行動からみると、 「原民」や『中正子』のような政治議論文が重要なも のであることは間違いないであろう。 第三章では中巌の書いた政治思想的内容の含まれた文章を時代順に点検することによって、 彼の儒学思想の特徴の究明に努めた。第一節では後醍醐政権の下で書いた『上建武天子表』や『中 正子』(とくに「革解篇」「経権篇」)を分析した。また、両方とも有名な文章であるにもかかわ らず、今だに現代語訳がないため、その現代語訳に挑戦した。1333 年に書いた『上建武天子表』 と同時に奉った「原民」 「原僧」は彼の政治思想の初披露とでもいえる作品であり、 儒学思想をもっ て政治の指針とすべきだという彼の基本的な立場は、はっきりと表れている。彼は後醍醐天皇 の政権の正当性を「得命於天」というように、儒学的立場から説明した。また、理想的な政治 を文治に求めながらも、一時的な武力行使を容認し、後醍醐による強い中央政権の樹立を期待 していた。しかし、具体策として提示している僧兵の禁止という内容は、大友貞宗という当時 の彼の支援者の所属階層には有利であるが、実質的には後醍醐の政治姿勢と相反するものであっ た。 翌 1334 年に書いた『中正子』では文治の必要性や旧弊を改める必要性を再び儒学の経典を引 きながら、論理的に説明しているが、前のものに比べると、後醍醐政権の安定性に対する不安 が顕著に現れている。現実には後醍醐にはかつて自分が期待していたほどの強い軍事力を後ろ 盾にしていないことに気付いたためであろうか。 なお、 「革解篇」、「経権篇」の両篇については、入矢義高氏によって既に訓読と解説が施され ていますが、解釈が不十分なところや、誤読されている箇所が残っているため、それについて も補足、訂正をした。たとえば、「経権篇」においては、孟子の影響がみられること、煩雑とさ れる「革解篇」は、実は、それ自体の議論は整合性を持っており、はっきりした構成をもって いることなどである。 第二節では、足利政権下での著述活動について考察した。足利幕府が成立してまもない 1339 年ごろに書かれたと思われる「奉左武衛大将軍 代実翁」という文章では、中巌は足利政権を 革命政権というように表現している。しかし、これは決して天皇の存在の否定を意味しないこ -4- とは、この時期に書かれた「東明和尚累住建長上表」や「與竺仙和尚」に、北朝の天皇の存在 と地位を認め、将軍が天皇を補佐するという内容があることから分かる。日本には天皇の存在 がまだ必要であると、 中巌が意識したのだと思われる。中国の「革命」説を日本への移入に当たっ ての、変容の工夫ともいえる。つづいて 1341 年、中巌は『日本書』を著述し、そのなかで、天 皇の祖先である国常立尊は中国の呉太伯の後裔であると説いた。この時代の国常立尊への関心 の高まりは、 『日本書』より二年前に、南朝の北畠親房が『神皇正統記』で国常立尊を天皇家の 祖神としたことで分かる。三種の神器の保有によって南朝の天皇の正統性を述べた北畠と比べ ると、天皇家の権威の源泉を中国の聖人の後裔であることに求めた中巌の説は、北畠の唱える 南朝の正統性の否定につながるものである。このように、中岩の日本書の著述は当時の思想界 の関心の高い問題を正面から取り上げたものともいえるが、従来の研究では、 『日本書』に対す る後世の批判のみが指摘され、同時代人の評価については見落とされている。本論では、中巌 の『日本書』を義堂が高く評価していたことを指摘し、中巌の考えは後世には特異なものとし て批判される運命になるが、王権が危機にある当時において、これは決して天皇家の権威を落 とすためではなく、むしろその存在の合理性を説明したもので、賛成者もいたことを明らかに した。 このように建武新興期や幕府成立初期のころの中巌の政治的関心は、政権の合理性などの比 較的観念的な問題にあったのに対して、一四世紀六十年代以降、中巌の政治的関心は財政政策 などより具体的な問題に向けられるようになったことは、晩年の著作『文明軒雑談』の内容か ら窺える。また、天龍寺火事に関する記述を考察することによって、彼は、政治事件の処理に あたって、依然として、中国をモデルにする立場に立っていたことは明らかである。さらに、 二条良基に書いた「龍躍池記」を読むことによって、彼は為政者の儒学の師範としての性格を 有していたこと、またかつて『中正子』で述べた「徳治」の重要性を依然として強調している ことを明らかにした。全体的には、帰国当初と比べ、 『文明軒雑談』に記される経書や史書の経 典や故事は、宋元のものがより多くなった。それこそ、中国文化に一番近いところにいる禅僧 に対する世間の期待であったからであろう。ただ、仏教徒という立場上、彼は朱子本人を尊崇 するような行動を見せていない。たとえば、中巌が一番造詣の深い易についていうと、朱子の 書物より、『周易玩辞』という南宋の易書をよく利用していた。 従来、中巌の人生については、迫害や不遇が強調され、孤高のイメージが定着しているが、 以上見てきたように、蟄居の時期や、あるいはその提言が直ぐに聞き入れられなかったことも あったが、総合的には、彼は、多くの知遇者、友人、追随者に恵まれていたのである。 まず、中国の東陽派下の経験の解明によって明らかになったのは、彼は東陽に認められたこ とによって、彼は中国で次世代の禅宗の中心となる流派の一員となり、さらに東陽を中心とし た文学(儒学を含む)グループに仲間入りしたのである。そのグループは、地元の文人はもち ろん、薩天錫や黄溍など当時随一の文人ともつながりのあるグループで、中巌がその中で評価 され活躍していたことは、中日文化交流史の上で特筆すべきことである。実際、帰国後の行動 -5- についてみると、儒学の著述や文学創作という点では同時代人中、彼の右に出るものはなかっ たと言える。また、『大慧普説』、『百丈清規』 、 『蒲室集』など、大慧派関係の書物の講釈で、第 一人者として活躍した。そのため、公武双方から帰依され、中でも夢窓なきあとの夢窓派に与 えた影響が特に大きい。夢窓派は室町時代を通じて禅宗の主流派であることはよく知られてい るが、夢窓の示寂後、二代目のリーダーである春屋をはじめ、のちに義満の儒学の師匠として 知られる義堂など、夢窓派の重要人物が、いずれも中巌を尊敬し、大慧派への傾倒、文学創作、 儒学の研鑽という点では、夢窓以上の影響を中巌から受けたともいえる。また、時代を超えて、 杜甫詩への傾倒、黄山谷詩の受容など、中巌に見られる中国文学受容の特徴は室町時代を通じ て禅林における大陸文化受容の最大の特徴となっているものが多い。さらに時代が下って、 『莊 子鬳斎口義』のように、中巌が日本人として最初に読んだもので、江戸時代になってはじめて 流布される書物も多数存在する。 本論文は禅、文学、儒学という三つの角度から中巌円月という人物について分析してみたが、 まだ十分に解明されていない問題がたくさんある。今後も引き続き研究を続けたい。 -6- 審 査 結 果 の 要 旨 「中巌円月の思想と文学」は、鎌倉末期に中国に留学した禅僧、中巌円月を、文学と思想の両 面から理解しようとした試みである。従来の中巌円月研究は、儒学をもって混乱状態の日本の 政治を正す、という儒学の唱導者という中巌円月の姿に焦点を当てたものが主流であった。 本論文は、円月の活動の一半をなす文学活動にも目配りして、円月の儒学思想と彼自身の文 学観の双方を総合して、新しい中巌円月の全体像を提出するものである。 本論文は、中巌円月の基本資料はもとより、春屋妙葩、義堂周信、龍山徳見など中巌円月と 交友のあった禅僧の著述、円月か典拠として引用している中国古典文学などを博捜して、円月 の交友関係と古典文学の関係性から、中巌円月の人と思想を照らし出すことに成功している。 杜甫、韓愈といった、朱子学・儒学の観点から高く評価される文人を実際に中巌円月がどう 読んでいるか、も資料に十分当たって考察されており、優れた考究であると評価できる。 資料の取り扱い方が幅広く、そして堅実であること、そこから導き出される新知見が数多く あること、中巌円月の全体像として現時点で最も優れたものであること、などから本論文を博 士学位にふさわしいものと判断する。 -7- 氏 名 た ざわ よし こ 田 澤 佳 子 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 博第 7 号 学位授与年月日 平成 25 年 3 月 19 日 学位授与の要件 学位規則第 4 条第 1 項該当 学位論文題目 ハイクとスペインの近代詩 ―マチャード・ヒメネス・ロルカとカタルーニャ詩人を 中心に 論文審査委員 (主査)大手前大学大学院教授 柏 木 隆 雄 (副査)大手前学園学術顧問 川 本 皓 嗣 (副査)東京大学大学院教授 齊 藤 文 子 論 文 内 容 の 要 旨 本論文の目的は、俳句がどのような形でスペイン語圏に伝播し、そしてスペインの詩にいか なる影響を及ぼしたかを明らかにすることである。 本論文の構成は以下の通りである。 序章 第一章 俳句受容の玄関口―パリとロンドン 第二章 スペインの三大詩人と俳句―マチャード、ヒメネス、ロルカ 第三章 俳句伝播の拠点「学生寮」 第四章 「ウルトライスモ」と「グレゲリア」の役割 第五章 カタルーニャの詩人・文化人と俳句 結語 まず序章では、俳句が二十世紀初頭にメキシコの詩人ホセ・フアン・タブラーダによってス ペイン語圏に導入されたという、オクタビオ・パスの説の検証から始め、この分野における先 行諸研究の紹介、検討を行った。その結果、第一に、タブラーダ以前にも俳句がスペイン語圏 に入っていたことがわかった。第二に、スペインへのハイクの導入を研究するためには、ある 特定の個人や事象を導入のきっかけとみなすのではなく、ヨーロッパ全体を視野に入れて「伝 播のネットワーク」という観点から見ていかなければならないと考えるにいたった。 第一章では、当時のヨーロッパにおける二十世紀の「俳句ブーム」の放射の中心であったパ -9- リとロンドンに注目し、スペイン語詩人との関係を探った。スペインの詩人の中には、パリで 新しい文学潮流に直接触れた者がいたばかりか、そこで創作活動を行った者もあった。また、 パリやロンドンとスペイン国内は、人や書簡、雑誌などによって密接につながっており、情報 はすぐさま伝わったのである。 またこの論文の特徴の一つは、スペインのカタルーニャ地方の役割に目を向けたことである。 カタルーニャでは独自の言語が話されているが、スペイン語とカタルーニャ語の関係は非常に 近く、知識人の間では言語の違いによってお互いの理解が妨げられることはなかった。実は、 カタルーニャ人の文学者アウジェニ・ドースは、スペイン国内でもっとも早い時期に、自分の コラムでハイカイを紹介し、自作の「ハイカイ」まで載せていた。俳句伝播のネットワークに はカタルーニャも含まれていた。もはや誰がいつスペインに持ち込んだのかなどということが 問題になりえないほど、俳句はスペインを含む当時のヨーロッパ文学界に「雰囲気」として蔓 延していたのである。 第二章では、スペインの三大詩人アントニオ・マチャード、フアン・ラモン・ヒメネス、フェ デリコ・ガルシア・ロルカの作品をとりあげ、その俳句的な雰囲気が彼らの作品にいかに反映 されているかを、彼らの人生と重ね合わせつつ詳細に検討した。 マチャードは、 若い頃にパリに滞在し、 現地の文学界に多くの知己を得た。俳句の流行が始まっ てからは、それらの関係を駆使して情報を得ることができた。また、国内ではヒメネスと親し くし、情報の交換を行っていた。彼の初期の詩には俳句と見まがうばかりの作品が少なからず ある。またその後の代表作『カスティーリャの野』などにも、俳句に触発されたとしか考えら れない新しい自然描写が見られる。マチャードは、常に新しい詩を作りあげることを目指して おり、そのための刺戟として様々な形で俳句の諸要素を取り入れたのだろう。 ヒメネスも早い時期から、海外の文学に関心のある文学者のグループや、フランス語や英語 の雑誌などを通して俳句について知ることができる立場にいた。ヒメネスの 『新婚の詩人の日記』 など、後期に属する詩には俳句の受容があると言われてきたが、それ以外の作品、その中には『プ ラテロと私』のような散文詩にさえそれが認められるのである。ヒメネスは英語、フランス語 の詩を読んだり、タゴールの詩を翻訳することによっても俳句の理解を深めていき、後期の「裸 の詩」と彼自身が呼ぶスタイルに到達する。 ロルカの周辺にも早くから俳句と触れることのできる環境があった。大学時代にマチャード のもとを訪れて、俳句に触発されたと考えられる詩の朗読を聞いたり、日本に行った友人から 情報を得たり、といった具体的な事実もさることながら、何よりもヒメネスらによって形成さ れていたスペイン文学界における俳句流行の雰囲気が、ロルカに大きな影響を及ぼしたと思わ れる。 ロルカの詩には、初期から俳句との関連をうかがわせる要素が認められる。ただ、ロルカ自 身は、「ハイカイ」と題する詩まで作っていながら、ハイカイをストレートに取り入れることに は抵抗感を示しており、葛藤が見られた。しかしその後の作品を見ていくと、結局彼は、自分 なりにハイカイを咀嚼吸収し、詩の中に溶け込ませたと思われる。 - 10 - 第三章では少し観点を変えて、俳句伝播の拠点としてのマドリードの「学生寮」について論 じた。二十世紀前半に自由主義的な思想に基づき、先端的学問を若者に伝授することを目標に 作られたこの施設では、その後、スペインを代表する知識人、芸術家となる人々が多く学んで いた。また、そこを訪れた内外の知識人たちも錚々たる顔ぶれであった。 ロルカは寮生としてここで生活した。ヒメネスはテューター的な存在として寮生と接してい た。マチャードは居住したことこそなかったが、学生寮の教育方針に共鳴し、密接な関係を持っ ていた。このほか、モレノ・ビリャ、ディエス = カネドなど、詩人として、あるいは出版人、オー ガナイザーとして様々な形で俳句の普及に貢献する人々が学生寮周辺に集まっていた。また、 この章ではロルカら寮生たちが楽しんだ短詩遊び「アナグリフォ」についても、俳句との関連 という観点から論じた。 第四章は、 「ウルトライスモ」と、ゴメス・デ・ラ・セルナが始めた新しいジャンル「グレゲ リア」の分析に当てられている。ウルトライスモはモデルニスモと二十七年世代の狭間にあっ て影が薄く、一流の詩人を輩出したわけでもないが、俳句への関心は大変高く、見過ごすわけ には行かない文学運動である。とくに、ゴメス・デ・ラ・セルナは自ら編み出した「グレゲリア」 という短詩で、 現実を鋭く切り取って提示し続け、 文学史に名を残した。その詩形の短さとウィッ トには俳句に通ずるものがある。 第五章では、カタルーニャの詩人・文化人の役割について考察した。スペイン詩を論ずる場合、 これまではスペイン語で書かれた詩ばかりが対象となっていたが、実は、カタルーニャ語の詩 にも優れたものが多く、スペイン語とカタルーニャ語の詩は相互に影響を与え合っていた。し かも、地理的にもフランスとスペインの間に位置するカタルーニャは、本論文においても非常 に重要な位置を占めている。 アウジェニ・ドースのハイクに関係する仕事についてはすでに触れたが、彼は学生寮ともか かわりを持っていた。そこでも、スペイン語詩人にハイカイを伝える役割を果たしただろう。 他方、ジュゼップ・マリア・ジュノイはハイカイに非常に強い関心を示し、生涯、質の高い「ハ イカイ」を書き続けた。カタルーニャの国民的詩人ジュアン・サルバット=パパセイットも、 俳句を取り入れて独自の詩の世界を実現した。 結語。従来、スペイン語圏への俳句の伝播の研究は、いつ誰が導入したかということに偏り がちであったが、俳句がヨーロッパで流行した時期にはスペイン語圏もその範囲内に含まれて おり、そのような視点は意味がない。スペインの詩人たちは多様なネットワークによってフラ ンスや英国などと繋がっており、それを伝って俳句が導入された。スペインの主な詩人たちは、 俳句に触れてそれを吸収し、 自分の作品に活かしていった。その度合いや形態はさまざまである。 また、俳句によって変容した詩に触発されて新しい詩を作った詩人たちもいた。一見、俳句と は直接関係がなさそうな詩はこれまでハイク研究の対象にはなっていなかったが、それらの中 にも俳句の痕跡がある。スペインが誇る三大詩人もこれまで考えられていた以上に俳句と大き な係りを持っていた。さらに、言語が違うために、今まで研究対象となっていなかったカタルー ニャも俳句伝播において重要な役割を果たしていた。 - 11 - 審 査 結 果 の 要 旨 本論文は、日本の俳句がどのようにスペインに導入され、スペインの詩人たちの詩作品にど んな影を落としているかを、詩人たちの文学的な履歴と具体的な諸作品を提示、分析すること によって明らかにしようとしたものである。第1章は 20 世紀初頭のパリとロンドンでの俳句の 紹介状況と、スペイン詩人たちの受容と創作の実態を検討し、第2章は近代スペインの3大詩 人、アントニオ・マチャード、ファン・ラモン・ヒメネス、フェデリコ・ガルシア・ロルカの 詩作の中の「俳諧」的要素を摘出、第3章はヒメネスやロルカが俳句に接するきっかけとなっ た「自由教育学院」とその「学生寮」、俳句的発想につながる「アナグリフォ」遊び、さらには 「学生寮」を中心に若い詩人たちを巻き込んだ詩人たちのネットワークなどを詳述しながら、彼 らの個々の作品を分析し、第4章は俳句と密接な関わりをもつ詩の革新運動「ウルトライスム」 と短詩型「グレゲリア」を論じ、第5章はカタルーニャの詩人や文化人、とりわけカタルーニャ の国民的詩人とされるジュアン・サルバット・パパセイットを取り上げて、その3行詩、4行 詩が俳句的世界を想起させることを述べ、結語で全体を総括する。 本論は、近代スペインを代表する大詩人たちのほか、従来あまり紹介されてこなかった多数 の詩人たちの作品を取り上げて、彼らの制作のひとつの大きなファクターとなった俳句の痕跡 を詳細に探ったこと、20 世紀初頭の欧米における俳句受容について多くの資料や論文を精査し、 「自由教育学院」の存在とその「学生寮」が果たした大きな役割を初めて明らかにしたこと、そ してカタルーニャの詩人たちの経歴や作品をくわしく紹介・評価したことなど、新しい知見を もたらした諸点が高く評価される。博士論文として一定以上の水準を示したものと審査員一同 認めるものである。 - 12 - 博士学位論文 内容の要旨及び審査結果の要旨(第 6 集) 平成 25 年 6 月 1 日発行 編集・発行 大手前大学大学院 〒 662-8552 兵庫県西宮市御茶家所町 6-42 ℡ 0798-32-5009