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見る/開く - 茨城大学

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見る/開く - 茨城大学
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学:
スウェーデン・アカデミーでの調査報告として
西野, 由希子
茨城大学人文学部紀要. 人文学科論集(32): 49-67
1999-03
http://hdl.handle.net/10109/2177
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学
一スウェーデン・アカデミーでの調査報告として
西野 由希子
1.はじめに
1995年8月,私はストックホルムのスウェーデン・アカデミーにおいてノーベル文学賞に関す
る調査を行った。1)ノーベル賞の選考・授賞に関わる事項は,ノーベルの遺言により,授賞年から
50年間は非公開となっている。私は特に中国やアジアの作家について,1901年の第1回から1944
年までの資料を調査,閲覧した。
調査に赴く前は,私が研究してきた中国の作家・林語堂と,ノーベル文学賞との関わりや,魯
迅ら中国の作家が文学賞の候補になっていたのかどうかなどそれまで噂の域を出ていなかった事
項について,資料に基づいて明らかにできれば,と考えていた。調査の許可が急におりたのと,日
本でできる準備に限界があったため,アカデミーにどの程度の,またどのような種類の資料が保
存され,どこまで閲覧を許可されるのかといったこともわかっておらず,期待しすぎるのはため
らわれる気持ちがあった。結果としては,学問・研究の目的にはせいいっぱい応える,というア
カデミーの姿勢により,これまで十分に知られていなかった多くの新しい事実を明らかにするこ
とができ,またそこから考えていくべき問題も多々出てきた。
本稿では,まず調査によって明らかになった事実を整理し,提供することにしたい。その上で,
資料から見えてくるもの,即ち,ノーベル賞を手がかりとしながらヨーロッパーそして世界が,
中国近現代文学とどのように接し,それを受けとめていったかという問題を考察する。そして,
ノーベル賞の意味や中国文学の世界文学史上の位置づけという点へ話を進めていきたい。
ll.スウェーデン・アカデミーでの調査
(1)資料の種類
スウェーデン・アカデミーで調査・閲覧を許可された資料の種類を,賞選考の経過とあわせて,
はじめに記しておく。2)
スウェーデン・アカデミーは1786年に創設され,文学芸術方面でさまざまな活動と貢献をして
いるスウェーデン王立の研究機関である。ノーベルの遺言により,ノーベル文学賞の選考や授賞
に関する一切が,ここに委ねられている。
文学賞の選考は,まず前年の秋ころ,世界各国の800名ほどに候補者となる人の推薦を依頼する
ことから始まる。この人たちはそれぞれの国のアカデミーのメンバー,文学研究者,過去の受賞
『人文学科論集』32,pp.49−67. ◎1999茨城大学人文学部(人文学部紀要)
50 西野 由希子
者,ペンクラブの代表などだが,オープンにはされていない。翌年の1月末までに,例年で100人
から150人くらいの作家の名前が推薦されてくる。これは第一次推薦である。
この中から,スウェーデン・アカデミーのメンバー18名のうち5名で構成される「ノーベル賞
選考委員会」が候補者を選ぶ。このとき作成される「候補者リスト」(Nobelprisf6rslag)が,私が
閲覧できた第一の資料である。リストには多い年で40名近く,少ない年でも10名ほどの作家が並
んでいた。この人たちはその年ノミネートされた「候補者」(prisf6rslag)ということになる。
候補者がリストアップされると,選考委員会は候補者について情報を集めはじめる。各候補者
についてその作家やその国の文学に詳しい専門家(sakkunnig)が意見をまとめた公式の「報告書」
(Utlatande)が提出され,アカデミーの図書館である「ノーベル・ライブラリ」が作品や資料を提
供する。ノーベル・ライブラリはスウェーデン語,英語,ドイツ語,フランス語などで書かれた
り訳されたりした世界の文学作品を積極的に収集しており,現在20万冊以上の蔵書がある。選考
委員会は毎週木曜日に開かれる習慣になっていて,夏休みをはさんで各作家に関する議論が続く。
やがて9月はじめ,委員会はそれまでの議論を公式な「議事録」(Utlatande)3)にまとめ,アカデミー
に提出する。そして,その議事録を参考に,10月はじめころ,アカデミーメンバー全員による投
票が行われる。メンバー18名のうち,12名以上が投票に参加しなくてはならず,そのうちの過半
数を得る必要があると決められている。投票の結果が「議事録」の意見を覆すこともよくあるよ
うだ。こうして受賞者が決定し,発表されるが,96年からはインターネットでも即時に流される
ようになっている。授賞式はアルフレッド・ノーベル逝去の日である12月10日である。
以上でわかるように,公式の保存文書には「候補者リスト」「報告書」「議事録」があり,さら
に推薦人からの候補者推薦の手紙や著作目録などの候補者に関するデータが,年度や作家ごとに
ファイリングされて保管されていた。
(2)「候補者リスト」
私が閲覧させてもらった「候補者リスト」は,各年度のリストであるB4たての紙を製本し,“ス
ウェーデンの色”と言われる青い色の表紙をつけたもの。背表紙に「FORSLAGS−LISTOR SVEN一
SKA AKADEMIENS NOBEL−KOMMITTE I 9014949」とある。決まりだから,と言うことで,
1945年から49年までは見えないようにとめてあった。
リストはすべてスウェーデン語で書かれていて,1901年から06年まではインクの手書き,その
あと,20年まではその年により手書きのものとタイプで作成したリストがあり,21年以降はすべ
てタイプである。ただ例えば25年のように,候補者20人がタイプで打たれているあと,手書きで
「NO21 George Bernard Shaw」と書き加えられている,というような年もある。これはリストが
いったん作成された後,メンバーの強い意見で追加された作家と考えられる。ちなみにその25年
の受賞者は書き加えられた作家バーナード・ショーであった。
候補者の数は前にも書いたが,少ない年で19年の12人,15年の13人など。多い年では35年と37
年が37人,28年が36人である。リストには,Noのあと,作家名が書かれ,その作家を推薦した
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 51
人の名前と簡単な肩書きが添えられている。例えば,38年には「No 6 Pearl Buck. F6rslag av herrar
Bergman, Fogelqvist, Hedin och Schuck.」とあり,パール・バックをベルイマン,フォーゲルク
ヴィスト,ヘディンとシュックの4人が推薦したことがわかる。いずれもアカデミーのメンバー
なので肩書きの注記はない。
このリストを一枚ずつめくって候補者名を見ていった結果,中国の作家で最初にリストに登場
するのは,1939年の「Hu−Shih」すなわち「胡適」であった。推薦者はスウェン・ヘディンである。
次いで翌40年に「Lin Yu−Tang」(林語堂)の名前がみつかった。こちらの推薦者はパール・バッ
クとやはりヘディン。以上の2人のほかには中国の作家の名前はなく,アジアの作家に広げてみ
ても13年にタゴールが推薦され,受賞した以外には日本人作家も含めてみつからなかった。では,
39年と40年の詳しい状況を整理する前に,候補者リストを調べて気がついたことをいくつか紹介
しておく。
(3)リストの傾向
候補者リストを見てまず気がつくのは,40年代以前のノーベル賞の初期において,賞の対象者
がスウェーデン,ヨーロッパ,そして世界へと広がっていることである。受賞者を見ても気づく
ことではあるが,候補者を見るとよりはっきりする。この問題についてはあとの章で改めてふれ
る。
候補者は,リストに登場したその年に受賞する場合もあるが,何度もリストに名前があがって
いる場合が多い。例えばアナトール・フランスは1909年,11年,13年などにリストにはいったあ
と,21年に受賞しているし,ヘッセも31年や38年など何度もリストにはいり,受賞は46年である。
もちろんリストにあがりながら受賞しなかった作家も多く,ゾラは1901年や02年に,トルストイ
はOl年,03年などにノミネートされているが受賞はしていない。4)これら多くの作家は何年も有力
な候補であり続けながら,なんらかの決定的な要素が認められなくて受賞のきっかけを逃してい
る。そのあたりの事情は「議事録」を見るとかなり具体的にわかる。「議事録」では,以前から引
き続きリストに残っている人について先にまとめてあるが,前回の討議後,新しい変化があった
かどうかが注目されている。一方,その年に新しくリストに加わった人や有力な候補者は,「議事
録」の後半に並べられ,念入りに検討されて,「今後に期待する」とか「今は時期尚早」「委員会
はこの候補者を選ばない」といった具合に評価が下されている。
またリストに入っている作家でも,日本ではあまり知られておらず,世界文学辞典程度では調
べがっかない作家が多いのに驚かされる。私の不勉強という以上に,それぞれの国における外国
人作家の知名度・注目度について考えさせられるものがあるし,まだ評価の定まっていない現代
作家を選考することの難しさも感じる。
さらに,ノミネートや授賞が広義の「文学」とされていたのも最初の時期の特徴である。02年
受賞のモムゼンは歴史学者だし,08年受賞のオイケン,27年のベルグソンは哲学者である。候補
者では彼らのほかに,例えば中央アジアを探検した地理学者スウェン・ヘディンが12年と13年に
52 西野 由希子
ノミネートされているし,40年,41年には思想家として知られるホイジンガの名前も挙がってい
る。この状況が変化したのは,53年以後のことで,チャーチルへの授賞がきっかけであった。
チャーチルは歴史学者としての受賞だったのだが,現職の首相だったこともあって物議を醸し,こ
の年にアカデミーは「以後は授賞の範囲をいわゆる純文学に限定する」と発表している。5)
候補者リストには,推薦した人が書き添えられているので,その人の文学的な関心や評価を知
る手がかりにもできるだろう。例えば,40年に,アメリカの作家で30年の受賞者シンクレア・ル
イスが,詩人カール・サンドバーグを推薦している。それぞれの研究者はどう見るのだろうか。
III.1939年の選考過程
(1)33人の候補者
さて,1939年,胡適がノミネートされた年の選考を詳しく見てみよう。この年の候補者リスト
には33人の名前がある。うち,新規に検討された候補者は,胡適のほか,オーストラリア人女性
作家ヘンリー・ハンデル・リチャードソンなど10人である。
胡適は,1891年上海生まれ。1910年,アメリカに留学し,コーネル大学とコロンビア大学で文
学や哲学を学ぶ。留学中の17年,中国の雑誌《新青年》に〈文学改良鋼議〉を寄稿,白話文学を
提唱し,これが中国のいわゆる文学革命の出発点となった。帰国後は北京大学などで教職にっく
一方,多くの評論などを発表し,白話文運動や国故整理運動といった文学や文化面の中心的存在
として活躍していった。ノーベル賞委員会は,このような胡適の活動のどの点を,どう評価した
のだろうか。
(2)白話文学の提唱者
「報告書」はアカデミーのメンバー,ペール・ハルストルムによって提出されている。6)この中で
ハルストルムは,入手できた限られた英文の資料と,胡適自身による自伝を見ての評価であると
ことわった上で,胡適の文学活動史を整理している。彼はまず,胡適が自覚して取り組んだ任務
は,「高等教育を受けた層と,全く教育がなくほとんど文盲である層に二分された国民のために,
いろいろな方言を話す人たちがすぐにも使える共通の言語を作り出すことであった。」とし,その
成果について,「ここに一つの仕事を成し遂げた歴史上の創設者がいる。言語を作った人としでは,
グーテンベルグやルターに匹敵する業績である。」という表現で高く評価する。そのほかに,胡適
は「宗教と哲学にも改革をもたらした。」「純文学作家としての胡適は実質的に活動はしていない
と言える。自分の新しい言語で詩を書いているが,その詩は彼の大きな業績の中で重要なものと
は言えない。」と書く。そして結論としては「彼はノーベルが遺言で意図した作家たちとはカテゴ
リーを異にしている。客観的に見て,彼の意義は決してそれほど大きくはないようだ。」とまとめ
ている。
このハルストルムの評価は,本人が言っているように十分な資料や作品が手に入らなかったは
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 53
ずであるにもかかわらず,的確で,胡適の本質によく迫ったものと言える。アカデミーの質の高
さを示すと同時に,学問的な誠意も感じられる。具体的な作品ではなく,「白話文学」を提唱した
そのことに胡適の存在の意味があるという評価一しかもその意味は非常に大きいという評価一
は異論の出ないところだろうし,それに対して賞を送るのは無理だというのももっともである。
(3)逆転による授賞
さて,「報告書」の提出などをうけて,選考委員会が行った討議の結果が記されている「議事録」
には,かなり具体的でシビアな言葉が並んでいる。
まず「議事録」の冒頭には,「形式上の障害もなく,審査の対象となった授賞候補案は33件であ
る。作家の数はこれと同数挙がっている。これらのうち,10件が新規に出されたものだが,それ
らはいつものように後ろの方に並べた。そして,それに加えて,委員が特に注目してきた,再度,
候補にあがった作家がいる。以下の者が候補である。」と概況が述べられている。以下作家ごとに,
「報告書」の要点,委員たちからの意見,その候補者に対する委員会としての態度が書かれている。
全体に,専門家が「報告書」で述べた意見がかなり重視されており,「授賞に値しない」といった
判断は討議や結論に相当影響している。
胡適のところには,「この中国人の改革者についての「報告書」一と言ってももちろん専門知識
があるとは限らない一は,この人の意義,たぶん世界史規模の意義を探っている。しかし,どう
見てもノーベル賞作家のカテゴリーには属さないとも見ている。委員会も同様の意見である。」[以
上全文]とある。これが委員会の結論である。
この年,委員会で有力だったのは,ヘッセとホイジンガであった。ヘッセについての記述は他
の人に比べてかなり長く,以下のようなものである。「彼の叙情詩人としての非常にすばらしい成
長については,昨年の報告に述べられている。彼が書いた最高レベルの詩は,疑いなく彼に,同
時代の詩人の中で高い地位を用意するものである。」 ただ,今年の新作は,これまでの作品を集
めた短編集であり,過去の小説と比較して特別に評価が高いというわけではない,とも書かれて
いる。結論は「委員のうち,この候補案を一位と決めている人が二人いる。」である。ホイジンガ
に関しては,「専門家ハンス・ラーションはこの思想家を非常に高く評価しているが,今のところ,
授賞を求めてはいない。ただ,アカデミーが氏の今後の発展を大きな関心を持って見守ってほし
い,としている。委員のうち2人がこの候補への授賞に同意している。」[以上全文]と簡潔な表
現である。
「議事録」の最後にはまとめとして,「委員会での議論をまとめると,以上の記述でわかるよう
に,どの案を第1位に位置付けるかについて合意にいたっていない。2人の委員(ハマーショル
ド氏とハルストルム氏)はオランダ人哲学者であり,歴史家であるJ.M.ホイジンガを1位とし,
2人(ウステルリング氏とフォーゲルクヴィスト氏)がドイツの詩人(スイス市民)ヘルマン・ヘッ
セを推し,1人(ブーク氏)はフレミッシュの小説家であり詩人であるシュタイン・シュトロイベ
ルスを推している。ストックホルム1930年9月21日 ペール・ハルストルム」[以上全文]とあ
54 西野 由希子
る。3人の有力候補に意見が割れたのである。
この「議事録」がアカデミーに提出され,メンバーで投票を行った結果,この年の授賞者は,有
力だった3人ではなく,フィンランドの作家シッランパーに決まった。ちなみに「議事録」はシッ
ランパーについてこう書いていた。「候補案は1930年以来6回出されてきた(2人の作家が推薦。)」
「委員の一部は彼を非常に高く評価しており,アカデミーの他のメンバーの支持もないわけではな
い。しかしながら,その声は大多数にはなっていない。委員会は今のところ,案を選ぶことを望
まない。」39年のシッランパーへの授賞は,決定にあたってこのような逆転も珍しくはないとい
う例になるだろう。
以上のように詳しい選考の過程を知ることによって,この賞の性格やそれをとりまく状況が見
えてくる。また,胡適がなぜノミネートされたのか,中国の作家がどう見られていたか,という
こともわかってくる。林語堂がノミネートされた1940年についても,事実を整理しておきたい。
lV.1940年の選考過程
(1)パール・バツク
● 40年の「候補者リスト」には19人の名前がある。ヨハン・ファルクベルゲット,イェンセン,ガ
ブリエラ・ミストラル,ホイジンガ,ヴァレリー,林語堂,カール・サンドバーグ,コスティス・
パラマス,ジョルジュ・デュアメル,エドモンド・ブランデン,などである。
「リスト」には林語堂の推薦者として,パール・バックとヘディンと書かれている。パール・バッ
クは38年に受賞して,推薦人の資格を得ていたのである。また前にも紹介したように,そのとき
彼女を推薦した4人の中にヘディンも入っていた。ここで林語堂とバール・バックの関係をまと
めておく。
林語堂は1895年福建省生まれ。父はキリスト教の牧師という環境で育ち,ミッション系の上海・
セント・ジョーンズ
聖約翰大学で英語などを学んだ後,アメリカとヨーロッパに留学。ハーバード,イエナ,ライブ
チッヒ大学で哲学と言語学を修めた。帰国後は大学で教える傍ら,新聞や雑誌に評論や雑文を発
表。30年代初期には,新しいスタイルの散文「小品文」を提唱して自ら雑誌を編集・発行し,大
きな反響を集めていた。また同じころ,英字紙窃6C配ηαCr1漉に英語のコラムを担当,彼の書
くThe Little Critic欄は人気コラムであった。
パール・バックは31年に『大地』第一部を出版,32年にはピュリッツアー賞を受賞し,第二部
の『息子たち』を発表するなど活躍していたが,中国滞在中に林語堂のコラムを読んでファンに
なり,面会を望んでいた。33年ころから二人の往来が始まる。パール・バックは林語堂に,アメ
リカ人に向けて中国人の生活や思想をわかりやすく伝える本を書くよう勧めた。こうして書かれ
たのが〃yCo朔〃ッαη4物Pεop187)で,35年,アメリカでパール・バックの夫ウォルシュの経営
するジョン・デイ社から出版されると,たちまちベストセラーとなったのである。8)この成功と,
パール・バックの強い誘い,また日本軍の侵攻などで上海での今後の生活に不安を感じていたこ
■
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 55
ともあり,林語堂は36年夏,家族を連れてアメリカに移る。パール・バックと林語堂は公私にわ
たって親しく往き来し,林語堂がアメリカで書いたその後の作品はいずれもジョン・デイ社から
出版されて,経営に大きく貢献した。パール・バックのほうも林語堂の本に序文を書くなどして
宣伝し,林語堂がアメリカで受け容れられる素地をつくった。よき理解者であり,お互い助け合
う関係にあったのである。ノーベル賞推薦人の資格を得たパール・バックが,数冊のエッセイで
好評を博した後の39年,小説乃40膨η”ηPε死’ηg9)を発表し,それが大ベストセラーになっていた
林語堂を推薦したのは,以上のような二人の関係から見て自然なことである。パール・バックに
すれば,中国通としての自分の立場からも中国の作家を応援したかっただろうし,とりわけ林語
堂については自分を置いて他にない,という気持ちがあったにちがいない。lo)
パール・バックの推薦状は便箋4枚にわたる詳しいものである。彼女は林語堂のこれまでの作
品とその文学活動の概要を紹介した後,彼の新作であり,推薦に値する作品としてMo膨捌πP8一
た’π8を挙げ,自分が書いた序文の一部を引用して作品を賞賛している。あわせて学歴など現在ま
での経歴を記し,最後は,アカデミーが林語堂と,彼を通して中国文学に栄誉と評価を与えてく
れ,そのためにさらに情報が必要であるならば提供したい,と結んでいる。このような熱のこもっ
たパール・バックの推薦に比べれば,ヘディンの推薦文はシンプルで,内容には触れずにパール
バックからの推薦に同意する,という形である。ID
(2)カールグレンの評価
さて,林語堂に関する「報告書」は,高名な言語学者ベルンハルト・カールグレン12)が提出し
た。長くなるのだが,資料としての意味を考えて以下にできるだけカールグレンの表現のままで
紹介する。
「胡適と彼の支持者たちによる言語改革運動で厚い氷が破られて以来,ここ20年間に,無視でき
ない数の口語で書かれた文学作品が世に出た。その多くは文化,政治,社会問題に関する随筆で
ある。」「このような議論文学と平行して,かなりの数の純文学の作品,すなわち短編や長編小説
も中国に登場した。」「新文学作家のなかで最大の重鎮であった魯迅はつい最近亡くなっている。」
「成功している中国の若い作家のなかで林語堂は,自国民のために中国語で書くだけでなく,英語
で書いて,中国人の心のあり方とその生活の特性を,広く西洋の人たちに理解してもらおうと模
索する,と決め,それを自らに課している点で,特異な存在である。」「彼が中国語で書いたもの
の中では,文学や文化全般の問題について書かれた随筆が,明らかに最も重要である。数がかな
り多いのだが,私が読むことのできたいくつかの文章は,躍動的で,可能性を秘め,好感の持て
る白話文で書かれている。あちこちに気の利いたユーモアが散りばめられていて,気分を爽やか
にしてくれる。」「しかしこれが西洋の言語に翻訳されたとき,さまざまな言語で書かれた,各国
から届く,たくさんの他の同類の随筆よりも優れている,というものでもないだろう。中国語の
作品では,林語堂は,大勢の作家の中でいい線まで行っているが,大文豪ではない。」「林語堂の
一番の存在意義は,英語で書く,その文筆活動にあり,中国人の生活と考え方を海外の人々に紹
56 西野 由希子
介するという彼の役目にある。英語で書かれた重要な作品は三つある。ゐ4yCo槻〃y侃41晦P80p18,
Z肋1〃2pOア∫伽CεげL’V’ηg 13)そしてMo〃26η〃ηP6ん’η8である。これらのうち,最初の物COπηの・伽4
晦Pθop16は,いわば世界的な大成功を収めた作品であり,疑う余地なく有意義な仕事である。こ
れは中国と中国人を実に見事に解説した,重要な作品である。」 このあとカールグレンは作品の
欠点を挙げ,章によっては,読者があらかじめ中国のことをよく知っているかのような書き方が
されていて,知らない人にはむしろ混乱した像を見せてしまうだろう,と指摘する。しかしそう
ではあっても「この本ほど,中国の社会生活と精神生活のエッセンスを,そしてその特異性とニュ
アンスを,きちんと把握し,紹介している本を私は知らない。文学と芸術についての章が特に際
だっている。一から十まで説明してはいないが,中国人の精神生活における微妙な神経の糸に,非
常に繊細な感性で,そっと指を触れている。全くすばらしい出来栄えと言わざるを得ない。」「め
ざましい成功におされ,氏はさらに先へ進むことになった。そして,より大部の作品一丁加加一
ρoπ侃c6σL醒π8において,中国精神を理解する幅をさらに広げようとした。」「この本で扱って
いる基本的なテーマは明らかに前冊と同じである。表現はユーモアにあふれ,意表を衝く観察眼,
しかも愉快で機転の効く評言。」 しかし,「この本では前に挙げた欠点が一層色濃い。」そして林
語堂という人が「その経歴ゆえに,西洋的にものを考える人であることが,第一作よりもっとよ
くわかる。」「話はアメリカ風に民主的であり,個人主義的な座右の銘哲学といったものになって
いて,それに中国的である楽観的な気質と幻想をもたないところが加わっている。」「この本は全
体として,ノーベル賞の対象になるいい見本とは思えない。」 ところで「林語堂は,中国を西洋
の国に理解してもらえるようにする,という立派な意図と願いを抱いてきた。そして生粋の純文
学畑にとうとう飛び込み,長編小説み40鷹η∫加P8肋8を発表した。」「この作品は与えてくれるも
のが多く,ドキュメントとして価値の高い作品である。」中国人の家庭を「物質的なことにしても,
精神的なことにしても,文学として表現する中で理解してもらえるようにするのは非常に難しい。
それは中国に生まれて,知的な教育を受けた者にだけ解ける課題である。彼は私を高いところに
運んで,全体を見渡せるようにしてくれた。林語堂は上述の課題を概ね上手にこなしており,細
部にわたる描写が本物で,信頼できるものであることは言うまでもない。それどころか,中国の
大家族が実際にはどのようなものであるか外国人の読者に見せたい,という思いが強烈であるた
めに,ところどころ,ほとんど人類学の論文に近いまでになっている。総合的に判断して,ここ
に書かれたものはあらがいがたいまでにおもしろい。これは現代中国の生活のドキュメントであ
り,並ぶものがない作品である。」それでも「この著書にはいくつか目に見える問題がある。」「中
国上流階級の一番かぐわしい香であり,非常に特殊である士大夫気質が」「うまく描ききれていな
い。」「ほとんどの人物が通行人のように通り過ぎるだけで,少しも人間のにおいがしない。」 さ
らに「1900年から38年にかけての時代を描いたこの中国の叙事詩に一番欠けていると思えるのは,
中国の精神思潮が変動した,その内的なメカニズムに関わる説明である。」「よかれあしかれ西洋
の影響があちこちに描かれているが,それらはほとんど例外なく,表面的にそれとわかる,形の
あるもの一電話,車,ダンスのできるモダンなホテル,軍事施設など ばかりである。少しず
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 57
っ姿を変えていく内的な変遷については,血の通った暖かい,生きた概念は得られない。私の考
えではこの点が,この数十年間の知識人の精神的な変動のさまを解釈するという意図をもって書
かれたこの作品の最大の弱さであることは明らかである。こうした欠点にも関わらず,私はMo一
耀捌ηPθ勧gは,これまで文学として手に入らなかった世界を描き,すぼらしい描写ゆえに,大
きな価値を持った小説であると思うし,氏の言語と表現技術は非常にレベルが高い。林語堂と他
のノーベル賞候補者を比較して価値を判断する任務は負っていない,と理解している。それは私
の能力を超えている。私は中国人の生活と心のドキュメントとしての価値,という視点から,彼
の重要な作品の特徴を述べようとしてみた。まとめとして言いたい。私が思うにル1yCo槻砂研4
〃yP60p1θとMo〃26耐’ηP8ん’ηgはともに得難い価値のある作品である。ストックホルム 1940
年5月6日 ベルンハルト・カールグレン」
以上が,カールグレンの「報告書」の大部分である。かなりの長さがあり,分析は詳細かつ明
快で,とりあげた作品3作についての優れた評論になっている。ハルストルムの書いた胡適の「報
告書」でも感じられることだが,カールグレンの高い見識と知性,学問的な誠実さがよく表れて
いる。ただ,だからこそ,気になる点もなくはない。
まずカールグレンが「林語堂の一一番の存在意義は,英語で書く,その文筆活動にあり,中国人
の生活と考え方を海外の人々に紹介するという彼の役目にある」としている点である。林語堂の
文学生涯を通して研究している私は,五四期の評論も,「小品文」の主張や実作もそれぞれ十分重
要と見ていて,むしろそのときどきに自分の書きたいものを書いているようでいて,実は環境の
求めるものを敏感に察知してそれに応じて書いていった,その変化のありように林語堂の個性が
あると考えている。浅いという批判もできるが,そこはやはり才能もあり,器用でもあり,ある
種マーケティング戦略的な先見の明があったからこそ可能だったと思うのである。しかしこの点
は,林語堂をとらえる角度の違いかもしれない。
次にカールグレンが,小説Mo〃2翻’πP6ん’π8の欠点として挙げた「登場人物に人間らしさがな
い」「中国の精神思潮の変動の,内的なメカニズムが描かれていない」といった問題である。この
批判自体はかなり鋭い指摘でもあり,納得できるものではあるが,と同時に,そこに異質なもの
に出会っても揺らぐことのない西洋的な文学観の強さと傲慢さ,鈍さも感じられる。つまり,林
語堂はム40〃26班加P面η8を“現代の紅楼夢”として書こうと試みたので,作品に敢えて伝統的
な中国の白話小説のスタイルを援用している面がある。もちろん現代的な味付けを加えてはいる
のだが,登場する人物一特に周辺の人々の存在感や個性がやや散漫で希薄だとしたら,それは伝
統的に中国の白話小説が持ってきたスタイルから来るもので,そこにむしろ西洋の小説とのちが
いがあるのである。14)しかし,「報告書」にも「議事録」にもこのような視点は欠けているように
見える。自らの価値に対する反省なしに,自らの価値で他者を理解したつもりになる一いわゆる
ヨーロッパのオリエンタリズムの一面がここにも表れていると言うべきだろう。この問題は,ス
ウェーデン人すなわち西洋人であるアカデミーが,どの位置に立って作家や作品を評価するのか,
ということであり,難しさと危うさを感じさせられる問題でもある。
58 西野 由希子
最後にもう一点。林語堂は小説の中で,社会の変動とともに侵略・戦争の悲劇を力をこめて描
き,ファシズムや日本帝国主義をはっきり非難しているのだが,カールグレンがこの点について
全く触れていないのも興味深い。小説第一部に描かれているような,清末の中国が好きだという
個人的な好みはあったとしても,意図的に触れないで済ませているとしか言いようがない。緊張
していた世界情勢に配慮したという面もあるかもしれないが,これもやはり,カールグレンの文
学観を反映していると考えたほうがよいのだろう。文学の芸術性だけを問題にし,現実の政治状
況を反映した戦争や抵抗などの描写は文学作品にはむしろ不純物だという考え方である。これも
また一種の伝統的な西洋の文学観と言える。
このように気になる点を挙げてはみたが,ともかく,林語堂に対するカールグレンの評価は全
体に高いものであった。それがどのように委員会に受けとめられたのか,この年の「議事録」に
目を移そう。
(3)授与の中止
「議事録」の林語堂のところには以下のように書かれている。「ベルンハルト・カールグレン教
授は権威ある「報告書」で,氏の作品一特に優れた作品であるルfy Co翻η砂研4ル1yP60p16,〃o一
膨η”πP6ん’ηgについて,その価値を強調している。」「委員会としても,この2冊の著書が非常
に価値の高い,現代における「中国人の生活と精神に関するドキュメント」であることに疑いを
もたない。」ただ,表現技術はすばらしいが,人物の性格描写の貧弱さ,中心主題である西洋の
影響を受けた中国世界の変動が書ききれていないなど欠点もある。「ノーベル文学賞授賞にあたっ
ては,純粋なる小説の芸術性が決定打となる。新中国の文学が西洋の評価を得るべく提示される
のであれば,審美的に優れ,心奪われる作品でなければならない。専門家があらかじめ出した授
与しないとの結論同様,委員会も今のところはさまざまな点で非常に魅力的なこの候補者に賞を
与える心の準備はできていない。」結論はこうなってはいるが,他の候補者と比べて,林語堂は
かなりの紙幅を割かれている。つまり十分な討議の対象とされ,丁寧かつ慎重に結論が出されの
だと想像される。
他の候補者の中で,ヴァレリーについては「1929年以来,この候補案はあまり間を空けること
なく,しかるべき権威をもった提案者によって提示されてきた。彼の詩は祖国では非常に高く評
価されているが,専門家にとっても委員会にとっても,ノーベル賞のユニバーサルな性質をもっ
て賞するにはあまりにもわかりにくく神秘的である。」「この授賞案は敬意を払われながら否まれ
てきた。今回,これまでの態度を変えさせるような新しい作品は出ていない。」とある。ここで使
われている「ノーベル賞のユニバーサルな性質」については後で取り上げる。
ギリシャの詩人コスティス・パラマスについては,何度も繰り返し提案されてきたが,翻訳の
レベルが不ぞろいで,「そのために毎回保留にしてきた。もっと信頼できる翻訳が登場し,批評さ
れるのを待っているが,この姿勢を変える理由がみっからない。」「これまで何度もあったように,
さまざまな面で魅力的な候補者である氏を選ぶのを控えるしかない。」という結論である。翻訳の
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 59
問題も,あとで触れる。
この年,委員会が選んだのはガブリエラ・ミストラルである。「議事録」には「専門家の「報告
書」を通して,また届けられた推薦理由書からも,ガブリエラ・ミストラルの叙情詩がラテン・
アメリカ全土でいかによく知られ,いかに高く賞賛されているか非常によくわかる。」「かつては
多かれ少なかれヨーロッパの文豪とか流行の思潮に追従したような,亜流的な性格を持っ作家た
ちのことを知るだけだったが,この女流詩人は間違いなく天性の才能をもった人で,強靭で,個
性的である。彼女は広域にわたる大陸を代表するだけの力量をもつ文学者である。判断を下す上
でまだ躊躇させるのは,叙情詩の場合いつも問題となることだが,翻訳というベールを通して原
作を十分正確に理解することのどうにも避け難い難しさである。これは形式についてそうだとい
うだけでなく,我々の感情生活との違い,表現方法としての詩の伝統にも関わることである。異
質なものの中に,真正なものをみつけることに慣れるしかない。」「委員会は授賞者として本案を
選ぶ。」と書かれている。そこで,「議事録」末尾の結論の部分にも「委員会は上記のように,ガ
ブリエラ・ミストラル候補への授賞という案に満場一致で賛成した。来年に持ち越すことになれ
ば,この詩人の叙情詩を十分知るだけの時間をとることができるのでいいことだと言えるだろう。
ストックホルム 1940年9月5日 ペール・ハルストルム」とある。
ところが,「議事録」はアカデミーに提出されたものの,この年,メンバーによる投票は行われ
なかった。戦争の影響でノーベル賞は全ての賞で授賞中止と決まったのである。投票が行われて
いたら,という仮定に意味はないだろう。選考委員会の提案どおりガブリエラ・ミストラルに決
まっていたかもしれないし,そうでなかった可能性もあり得るが,林語堂が受賞できたかどうか。
いずれにしても賞は43年まで授与中止になり,再開された44年はイェンセンが受賞,ガブリエラ・
ミストラルは45年に賞を受けた♂5)
V.ノーベル賞と中国の作家
(1)ヘディンのはたらき
さて,44年までに中国人作家2人のノミネート両方に関わっていたのは,探検家スウェン・へ
ディンであった。彼はどのようなはたらきをしたのだろうか。16)
ヘディンは中央アジアの探検で知られているが,楼蘭を発見したのは1901年のことである。私
は,彼が1912年と13年にノーベル文学賞の「候補者リスト」にはいっているのを確認した。前に
も書いたように当時は文学賞の範囲も広かったし,スウェーデン人として大きな仕事をした人を
評価したいと考えた推薦人がいたとしても不思議ではない。ヘディンはその13年にアカデミーの
メンバーに選ばれた。今度は自分が推薦の資格を得たのである。
ヘディンは中国の作家を推薦したいと考えた。しかし,彼自身はそれほど文学に通じているわ
けではなく,中国語も十分ではなかった。そこで,言語学・東洋学の権威で,中国語にも中国文
学の事情にも詳しいカールグレンに相談した。カールグレンは胡適梁啓超,章柄麟の3人の名
60 西野 由希子
前を挙げた,と言う。いずれも文学者というより思想家,革命家である。17)魯迅の『狂人日記』が
1918年である。新文学の若い書き手が育ち,海外の文学からも多くを学びながら次第に文学の層
に厚みが出てきた30年代まで,中国の作家を推薦しようとするのは無理だったとも言える。ちな
みに梁啓超は29年,章柄麟は36年に亡くなっている。
(2)魯迅の推薦
それでは,魯迅はどうだったのか。魯迅のノミネートについてはこれまで,1927年9月25日,台
静農あての手紙18)が資料とされてきた。「ノーベル賞を辞退する手紙」として知られているもので
ある。先に背景を説明すると,27年,1月にヘディンは新彊上空の飛行計画の認可を受け,調査等
のために中国に来た。その際,劉半農と相談し,魯迅を候補者に推薦することを決めて,台静農
を通して魯迅の意向を確認しようとしたのである。魯迅の書簡は,9月17日付台静農の手紙への返
事である。アカデミーでの調査結果とあわせて読むとより興味深い。
魯迅はまず,「半農先生に,私のため,また中国のためのご好意に感謝しているとお伝えくださ
い。しかし申し訳ないけれども,ご好意は辞退します。」と書く。
ノーベル賞は梁啓超はもちろん,私にもその資格はありません。世界には私より優れた作
家がいくらでもいますが,彼らはまだ受賞していません。私が翻訳したあの『小さなヨハネ
ス』を,私はとても創作することはできませんが,この作者からして受賞していない。
『小さなヨハネス』の作者とはオランダの作家フレデリック・ファン・エーデンのことである。
そしてエーデンは,私の調査では28年の「候補者リスト」に入っていた。ノーベル賞委員会は魯
迅と同じくエーデンに注目していたのである。
私に好都合だとすれば,中国人だからかもしれません。「中国」という2文字によるもので
しょう。だとすれば,陳換章がアメリカで《孔門理財学》を書いて博士の学位を得たのと違
いはない。我ながら滑稽です。中国には実際,’ノーベル賞に値する人はまだいないと思いま
す。スウェーデンは我々を放っておいて,誰にも与えないのがいいでしょう。黄色い顔をし
ているからといって,特別待遇し寛大に扱ったら,かえって中国人の虚栄心を増長させてし
まい,外国の大作家と肩を並べたと本当に思い込むことになって,結果はよくないことにな
る。
私の眼前に見えているものは依然暗黒です。いささか疲れ,意気消沈しています。今後創
作できるかどうか今は未知数です。もしこれが通って,その後書けなくなったりしたら,申
し訳が立ちません。またもし書けても,宮廷の文書みたいなものになってしまって,見るべ
きものがなくなるかもしれない。やはり,これまでどおり,名誉もなく,貧しいままでいる
のがいいでしょう。[以上全文]
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 61
魯迅は重要なことを2点述べている。第1には,中国近現代文学はまだ世界的レベルに達して
おらず,「中国」だからという理由で授与されたならば,それはむしろ悪影響をもたらすだろうと
いうこと。第2には,仮に賞をとったとして,それはその後の自分の作家活動によい影響はなさ
そうだということ,である。常に真摯で,自分にも周りにも厳しかった魯迅らしい思慮である。
特に第1の点だが,推薦しようとしたヘディンがそういう意識で動いていたことは間違いない。
ヘディンが,林語堂を推薦したときの推薦文を以下に掲げる。
「紳士諸君へ 林語堂自身は少なくとも今のところ考えていないと思うが,私は喜んでパー
ル・バック案に賛同する。そして私からも,西洋で,特にアメリカで賞賛されているすばら
しい作家・林語堂に今年のノーベル文学賞を手渡すことを提案する。しかも私にとって重要
なことは,全体的にレベルが高く,高貴な中国の文学一地球上で一番古く,三千年も前から
学問があり,地球上で一番大きな人口を持つ国である中国の文学は,栄誉を与えられなけれ
ばならないということだ。この選択は,日本だけは例外だが,きっと世界中で認められるこ
とになるだろうと私は確信している。昨年,我々は少数民族の代表に賞を渡したが,19)ロシア
とドイッを除いた世界中の共感を呼んだ。今年,同じように英雄の魂をもって自国を損失か
ら守り,その文化を暴力から守ろうとしている国民に賞を与えることはすばらしいことだ。つ
まり,林語堂にノーベル賞を。 貴殿の忠実な友人 スウェン・ヘディン 1940年1月26
日」[以上全文]
ここでは,林語堂の創作活動の中身や作品にはまるで触れられていない。ただヘディンが中国
の作家に賞を贈りたいと思っているらしいことはよくわかり,その点では魯迅の推測は正しかっ
たと言うことになる。中国と接する機会の多かったヘディンは,中国の文化や文学を西洋の芸術
評価の基準で,同列に論じることは不可能だと知っていたのかもしれない。その上でその「異質
さ」にこれもまた一方的に評価を与えているという意味で,ヨーロッパ的なオリエンタリズムの
もう一つの面が表れていると言うべきなのかもしれない。
魯迅は手紙ではなにも書いてはいないが,当時の中国でヘディンは疑惑を持たれ,かなり反発
を受けてもいた。新彊の飛行計画にしても,資源探査や軍事目的ではないかという疑いや,文化
財や考古文物を持ち出すのではという不信感のために抗議を受けて,難航していた。結局この調
査は中国・スウェーデン合同遠征隊とすることで合意され,33年に自動車を使って実行されたの
だが,ヘディン=スパイ説はそれなりに根強く広まっていたようだ。魯迅がヘディンの「推薦」を
断った背景にはそういう事情もあったと思われる。
ヘディンやその他の誰かによって,その後も含めて魯迅の推薦が一度もなかったのかどうかは
わからないが,少なくとも「候補者リスト」には魯迅の名前は残っていない。
62 西野 由希子
(3)胡適推薦の理由
では,ヘディンが胡適を推薦した理由はどうだろうか。ヘディンがカールグレンに相談をした
とき,胡適を推薦されたことは前にも紹介した。しかし,実際に胡適が「候補者リスト」に入っ
たのは39年である。
胡適は30年代になると国民党政府の文化官僚として多忙な日々を送る。37年9月,非公式の外
交使命を帯びてアメリカに赴任。38年にはアメリカとカナダを講演して歩き,中国の抗日戦争に
対する同情と支持を訴える。7月,ロンドンへ移動。9月,国民党政府により駐米全権大使に任命
されて,10月,ヨーロッパからアメリカへ戻る。こうして胡適は42年まで,すなわち中国が戦時
下におかれた厳しく難しい時期に,アメリカで外交官としての任に当たることになった。
ヘディンが胡適を推薦した時,このような胡適の文学以外の活動もなんらかの形で影響してい
たと考えられないだろうか。少なくとも,アメリカやヨーロッパで比較的知名度があったほうが
ヘディンとしては推薦しやすかったことは間違いない。また,より高い政治的判断が働いていた
可能性もある。ヘディンは当時,スウェーデン国王との個人的なパイプとその経歴から,スウェー
デンのために非公式な外交活動を担う役割を果たしていた。特にナチスドイッとの微妙で複雑な
関係が知られている。その分世界的な政治状況に敏感であり,またその中で特定のはたらきをし
ようという積極的な気持ちも持ち合わせていたと言われているからである。2°)
いずれにしても,林語堂の推薦がそうだったように,胡適の推薦も,胡適個人を文学的に評価
したと言うより,中国の作家に賞を与えたいという強い気持ちからのものだったと言って間違い
ない。そしてその「中国びいき」も,中央アジアや中国の専門家,としての自負や責任感という
以上に,もう少し複雑なものであったと考えられるのである。
VI.ノーベル賞の意味
(1)ノーベル賞の視野
以上,スウェーデン・アカデミーでの調査結果を整理してきた。資料としての価値を考え,で
きるだけ原資料の表現でまとめた。
これまで知られていなかった事実としては,例えば胡適のノミネートがそうで,噂のような形
でもとりざたされたことはなかったから,その価値等の問題はひとまず措くとして,想像されて
いなかった新事実ではあった。
林語堂のノミネートについても候補になった年度を44年とするなど,これまでは誤った形で言
われてきた。それについて今回の調査で確定できたことになる。21}そのほか,林語堂は72年にも候
補者になったと書かれている資料があるが,これは「台湾ペンクラブ」から推薦をした,という
第一一次の推薦のことであり,「候補者」になったかどうかをもし調べるとすれば2022年まで待っこ
とになるだろう。
ここでまとめとして,ノーベル文学賞の意味を考えてみたい。
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 63
「候補者リスト」や「議事録」等を調査してわかるのは,ノーベル文学賞即ちスウェーデンが,
世界の文学を視野に入れていった際の時差である。別の言い方をすれぼ,時代とともにノーベル
文学賞の選考範囲は明らかに広がって行っている。このことは受賞者を見ても容易に気づくが,
「候補者リスト」ではよりはっきりする。例えば,第1回1901年の「候補者」25人の内訳は,フラ
ンス人ll人,ドイツとスイス各3人,オーストリア2人,他にフィンランド,イタリア,スペイ
ン,ポルトガル,ルーマニア,ポーランド各1人で,フランス人作家が多いのは,アカデミー・
フランセーズが,スウェーデン・アカデミーの推薦依頼に積極的に応じたことと関係がある。22)以
後,「リスト」に挙がるのは,北欧とヨーロッパ圏の作家ばかりである。受賞者についてならば,
国籍とは関係なく,選考した結果が結果として偏ることもあり得るかもしれないが,「リスト」が
すでにそうなので,選考の対象範囲そのものが偏っていたと言わざるを得ない。唯一例外に見え
るのはインドのタゴールだが,これも英語で書いてイギリスで刊行された詩集が対象だったので,
状況はあまり変わらない。
「リスト」と受賞者から見て,対象範囲が広がったのは30年代の,それも後半のことである。30
年にアメリカ人としてはじめてシンクレア・ルイス,38年に中国を題材にしたパール・バックが
受賞,同年にはムハンマド・フサイン・ハイカルというアラブ人作家も「リスト」に入っている。
胡適,林語堂のノミネートもこれに続く。
この時期にノーベル文学賞が視野を広げた理由を考えるならば,やはり世界が戦争に向かって
いく時代になって,ヨーロッパとアメリカの目が同時代のアジアー特に中国と日本に注がれ始め
たことが一番の背景だろう。ときにそれはアジアを自分たちの世界の枠組に引き寄せ,組み込ん
でいこうという動きともなった。そして,さまざまな意味で世界の情報は近づき,現代文学にも
関心が向けられた。ノーベル賞にはそういう時代状況が反映されているし,逆に言えばそれを知
るための手がかりともなる。
中国では,この頃はちょうど新しい口語文学がほぼ定着し,海外のいろいろな文学流派に学ん
でさまざまな作家や作品が現れて来た時期であったが,まだ中国の作家たちが十分に世界に紹介
されたり,評価されたりするところまでは行っていなかった。中国近現代文学の世界での受容と
いう点から言えば,まずその第一歩は林語堂や胡適ら「英語で書く」作家から始まったのであり,
しかも彼ら自身がアメリカへ行って活動したのであった。それでもこれが中国新文学が世界で受
けとめられていく最初の一歩だったのであり,大事な第一歩でもあったと言える。
(2)翻訳と基準
タゴールも林語堂も「英語で書く」作家だったが,ノーベル賞の選考には翻訳の問題も関わっ
てくる。
40年,ギリシャの詩人パラマスに対する「議事録」の評価にあったように,よい翻訳が手に入
るかどうかということは選考に大きく影響している。アカデミーの限られたメンバーが選考にあ
たる仕組み上,全ての地域,全ての言語に通じて,きちんと目配りするというのは至難の技であ
64 西野 由希子
る。それを補うのが,第一次推薦の制度であり,専門家からの「報告書」ではあるのだろうが,実
際問題としてはヨーロッパ語および英語のよい翻訳があるかどうかということになる。世界で評
価されるということはより多くの言語に翻訳されるということでもあり,しかも翻訳がよいでき
ばえであることが前提だというのは理解できる。その意味ではよい紹介者,翻訳者の存在は,文
学の世界への広がりに欠かせないということである。
34年,アメリカ人ジャーナリスト,ハロルド・アイザックスは,魯迅茅盾,張天翼ら23人の
作品を選んで翻訳し,《草鮭脚》(5’rαw距η4α15)というタイトルでアメリカで出版しようとした。
残念ながら引き受ける出版元がないまま企画は挫折し,この本が出版されたのは72年のことにな
る。23)林語堂の成功とは対照的であり,ますます文学を測る難しさを思わずにいられない。文学的
に価値がある,よく読まれる,売れる,知名度がある,翻訳がたくさん出版される……それら全
てが並び立つことはなかなかないだろう。
ノーベル賞選考委員会はその点では,文学的な価値を第一に考えて授賞者を決めようとしてい
て,基準もないわけではない。例えば「報告書」や「議事録」によく使われる言い方一ヴァレ
リーについて書かれたノーベル賞の「ユニバーサルな性質」であるとか,林語堂について言われ
た「純粋なる小説の芸術性」,またノーベルが遺言で使った「理想主義的傾向」などがその基準で
あるようだ。こういった表現自体,非常に曖昧で,かつ西洋中心的なものだが,それでも少なく
ともそういう基準を考え,それで判断しようと努めていたこと,また委員や専門家がそれぞれで
きるだけ真摯に,誠意をもって作品の価値そのものを探ろうとしていたことは伝わってきた。パー
ル・バックは林語堂の文学を評価して推薦し,カールグレンと委員会はその「芸術的な価値」で
比較して,林語堂よりもヴァレリーやミストラルのほうを買ったのである。
世界の文学を公平に評価する,のは実際には不可能に近いことのように思われるし,作家を選
んで賞を贈る,それを受け取るということ自体への疑問もないわけではない。“作為”や“政治的
意図”と完全に無縁ではありえない現実もわかっている。わずか18人のメンバーが,文学の内な
る価値という不確かなものを基準に,しかし真剣に世界の作品と取り組んできた。その誠意,そ
の精神こそがノーベル文学賞を支えていることは確かだが,ノーベル文学賞の意味を問うことの
難しさがここにあると言えるだろう。
(3)林語堂の世界での受容
最後に,林語堂研究という視点から付け加えておきたい。
今回の調査は,林語堂の経歴上の気になっていた点を確認しておこう,という気持ちから始まっ
たものであったが,この調査を通して,30年代後半から40年頃,林語堂がアメリカやヨーロッパ
でどう受けとめられたかの一端を知ることができた。林語堂が当時アメリカで活躍したのは,本
人が選択してのことだったのには違いないのだが,やはり大きな意味で時代が彼にそうさせたと
いう感じも受けた。また,時代,そしてアメリカの読者が求めていたものを感じ取り,しかもそ
れに合うものを書けた林語堂という人は,相当特異な存在だった気がする。今後は40年代以降の
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 65
林語堂の評価,世界での受容という点についても考察し,改めて林語堂の文学生涯を位置付けて
いくことにしたい。
また,アカデミーの調査で私にとって一番の収穫だったのは,カールグレンによる「林語堂論」
を読むことができたことであった。彼が展開したル10〃28配∫ηPθん’η8分析に並ぶものはいまだに
ないと言ってよく,大きな啓発を受けた。私自身は前にも書いたように,「中国人の生活と思想の
ドキュメント」や「中国の大家族の説明」と言う面よりも,もっと小説としての構造自体を問題
にし,いずれ作品をきちんと分析したいと考えている。その際には,林語堂は何を『紅楼夢』に
借り,何を西洋文学に学んだのか,また人物の描き方などカールグレンの挙げた問題をどう見る
か,検討したい。
註
1)調査結果に関しては,1995年10月20日,現代中国学会大会(大阪大学),同年12月2日,お茶の水
女子大学中国文学会(お茶の水女子大学)において口頭で報告・紹介した。また,1996年10月には
「ノーベル文学賞の舞台裏」(共同通信社配信)という紹介記事を書いた。これらと本稿の内容とは
重複しているところがある。
2)選考過程に関しては,A静84/Voわ61伽4’加1Voわ8’Pr’z6z, The Swedish Institute l993,τHE〈10BEゐ
PRZZE∬1V LπE凡4TσRE, The Swedish Academy 1987, Fαc’5αわo㍑π加∫WEDI3H ACAD、肌fγ, The
Swedish Academyに拠っている。
3)スウェーデン語では,上の「報告書」と同じだが,内容から「議事録」と訳した。本稿では以下「報
告書」と「議事録」と呼び分けることとする。
4)フランス,ヘッセ,ゾラ,トルストイについて挙げた年度は私がリストで確認し記録をとったもの
で,彼らはそれ以外の年も何度も,ずっとリスト入りしている。ノーベルの遺言には,ノーベル賞
は前年の業績に対して贈る,という一文があり,その点で大きな動きがあると授賞のきっかけとな
りやすいようだ。
5)「純文学」は“belles−1ettres”。これ以後,いわゆる哲学者や歴史学者のノミネート,授賞はなくなっ
た。64年のサルトルは,文学者として授賞,と見なされている。但し,本人は受賞を辞退した。
6)ハルストルムは作家。08年にアカデミーのメンバーとなり,長い間選考委員会の委員長を務めた。以
下の「」内は「報告書」(原文はスウェーデン語)からの引用である。本稿では,[以上全文]と
断ったものは本文どおりの全文で省略はない。他は「」で示した引用文を使いながら,内容を紹
介していく。
7)ジョン・デイ社,1935年9月。日本語の訳題は『我が国土・我が国民』。
8)以上の事情は,林語堂著W’∫h’ov8侃〃roηy(『愛と風刺』)(ジョン・デイ社,1940年11月)に寄せ
たパール・バックの序文に書かれている。また,以下では,合山究著「全盛期の林語堂 アメリ
カにおける圧倒的な成功一」(『樋口進先生古稀記念中国現代文学論集』,中国書店1990年,所収)
を参考にさせていただいた。
9)ジョン・デイ社,1939年ll月。日本語の訳題は『北京好日』など。
10)林語堂とパール・バックとの関係が良好だったのは55年ころまでのことである。はっきりとした理
由は不明だが,それまで林語堂の出版物を全面的に引き受けてきたジョン・デイ社との金銭的なト
ラブルと言われている。彼らは以後,往き来を絶ち,林語堂の本は別の出版社から出されるように
なった。
66 西野 由希子
ll)この推薦文は,あとの章, V(2)に全文を引用した。
12)1889−1978。ヨーロッパにおける現代中国語学の創始者とも言われ,中国語方言学,音韻学,文字学,
古代語文法,古典文献学などの分野で大きな業績をあげた。
13)ジョン・デイ社,1937年11月。日本語の訳題は『生活の発見』など。
14)この点について,例えば井波律子氏は「中国白話短編小説の展開」(『中国的レトリックの伝統』,影
書房1987年)で,「登場人物の心理や性格といった内面的世界よりも,あくまでも登場人物の相互
的な関係性や継起する事件といった,外的条件や外的世界の描写が中軸に据えられる点では,中国
の白話短編小説も長編小説も,その手法上,基本的に同質なのである。」と述べている。
15)45年には委員会の意見はほぼ,ヴァレリーへの授賞という結論に固まっていた。しかしヴァレリー
は7月に亡くなり,賞はミストラルが受賞することになった。
16)以下,ヘディンの経歴などについては,金子民雄著『ヘディン伝一偉大なシルクロードの探検者
一』(中公文庫,1988年)等を参考にした。ヘディンは若いころから,ノーベルの一家と関係が深
かったが,そのこととこのノミネートが関連するかどうかは不明である。13年には,スウェーデン・
アカデミーと,スウェーデン科学アカデミーの両方のメンバーになっていて,スウェーデン・アカ
デミーでは,文学賞選考委員会の委員長も務めた。
17)このことは,アカデミーでの調査中,現在のメンバーであるゲーレン・マルムクヴィスト氏より直
接うかがった。氏はカールグレンの高弟であり,師から聞いた話とのことだった。また氏に最近の
選考について質問したところ,巴金が候補者になったことがある,1989年の六・四事件(天安門事
件)のあと数年にわたり,詩人の北島が候補者になっていた,とのお話であった。北島の詩はその
根底に体制批判・政治批判の精神が流れている。彼のノミネートの背景には,六・四事件での中国
政府の武力行使に対する欧米の抗議の気持ちや学生及び反体制知識人たちへの支持など,政治的な
配慮が働いていると言うべきであろう。
18)『魯迅全集』11巻,人民文学出版社1981年。
19)39年の受賞者シッランパーはフィンランドの作家である。ヘディンが言っている少数民族という意
味については,調べることができなかった。
20)戦時中のヘディンについては,金子民雄著『秘められたベルリン使節一ナチ・ドイッ日記一』(中
公文庫,1990年)を参考にした。
21)彰歌著〈林語堂與諾貝爾〉(台湾《聯合報》,1988年1月19日)や〈林語堂:諾貝爾文学奨四度提名〉
(《読書生活報》,1995年6月1日)は最初のノミネートを44年としている。また,後者はその後,1972
年,73年,75年にもノミネートされたと書いているが,これは台湾ペンクラブからの「推薦」に過
ぎないようだ。彰歌《林語堂筆会與東西文化交流》(紀念林語堂百年誕辰学術研討会発行)には,72
年に彰歌が書いた台湾ペンクラブからの推薦文が掲載されている。72年の推薦の時には林語堂本人
にも了解を得たそうだが,この時点の「推薦」では「候補者」とは呼べないことは本稿で紹介した
とおりである。日本の本では,柏倉康夫著『ノーベル文学賞一作家とその時代一』(丸善ライブ
ラリー,1992年)が,ノーベル賞の事情に詳しいスウェーデン人外交官シェル・ストレムベリィ氏
の言葉として,「ノーベル文学賞の候補リストに極東出身者の名前が初めて登場したのは,一九五〇
年のことであった。それは日本の作家ではなく,中国の哲学詩人林語堂であった。一九三八年度の
ノーベル賞受賞者であり,中国通として知られるパール・バックの推薦により,林語堂は候補者名
簿にその名を連ねる資格を得たのであった。毛沢東の主権掌握以来,この詩人に関するうわさはも
はや聞かれなくなってしまった。」と紹介している。ノミネートの年が誤っているし,林語堂に哲学
詩人という表現もあたらないだろう。また,ノーベル賞全体について扱った書に,矢野暢著『ノー
ベル賞一二十世紀の普遍言語一一』(中公新書,1988年)があるが,ノーベル・ライブラリについ
ての紹介などは,その後,変化した部分がある。私が訪れた際には,ライブラリはフロアに可動式
の書架が並び,司書たちは各自パソコンに向かって仕事をしていた。日本や中国のコーナーも,広
い書庫の中のほんの一列ではあったが他国の書架と並んでいて,若い作家,現代の作家の作品がよ
く集められていた。
「ノーベル文学賞から見た1930年代までの中国近現代文学」 67
22)「リスト」の調査では国籍までわからない作家があり,矢野暢著『ノーベル賞一二十世紀の普遍言
語一一』(註21),p.139を参考にした。
23)中国近現代文学作品の中で最も早い時期に海外で翻訳されたのは,魯迅の作品のロシア語訳で1929
年である。また,敬隠漁訳で『阿Q正伝』『離婚』などが,29年フランス語で,30年ロンドンで英語
版が刊行されている。
*この調査を許可されたスウェーデン・アカデミー,秘書のステユーレ・アレン氏,またアカデミー
においててきぱきと,かつ暖かく応対して下さり,いろいろと調査の便宜をはかってくれたモニカ・
ホーリュグルド女史に感謝いたします。
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