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玉川上水サミット

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玉川上水サミット
「玉川上水サミット」
報
告
書
平成24年9月29日(土)
目
次
概
要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
宣
言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
発言内容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
資
料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
1 広報・報道
2 ウェルカム映像
3 基調講演 レジュメ
4 パネル展示
5 アンケート
日
時
平成24年9月29日(土) 午後2時30分∼午後4時30分
場
所
津田塾大学 小平キャンパス 新館 特別教室
主
催
小平市
開催目的
・国の史跡である玉川上水を、流域区市が共有する貴重な財産として再認識する。
・流域区市の首長が一同に集まることにより、連携を図り、さらなる利活用のきっ
かけとする。
・小平市制施行50周年記念事業のひとつとして実施する。
協
力
立川市、小金井市、西東京市、武蔵野市、三鷹市、杉並区
津田塾大学(飯野学長 基調講演、会場提供)
武蔵野美術大学(ポスター・リーフレット作成)
小平アーカイブスの会(ウェルカム映像作成)
小平第三小学校、小平第四小学校(パネル展示)
内
容
基調講演 「玉川上水と津田塾大学」
講
師 津田塾大学 学長 飯野 正子 氏
パネルディスカッション
コーディネーター 津田塾大学 学長 飯野 正子 氏
パ
ネ
ラ
ー 立
川
市
長 清水 庄平 氏
小 金 井 市 長 稲葉 孝彦 氏
西 東 京 市 長 坂口 光治 氏
武 蔵 野 市 長 邑上 守正 氏
来場者数
三
鷹
市
長 清原 慶子 氏
杉
並
区
長 田中 良 氏
小
平
市
長 小林 正則
411人(事前申込者数525人)
1
【署名入
入りの宣言
言書】
(宣言書の
の内容は次ペー
ージ参照)
【7区市
市の首長と津田塾大学
学 飯野学長】
】
武蔵野市 邑上
武
上市長
三鷹市 清原市
市長
西東京市 坂口市
西
市長
小
小平市
小林市
市長
小金
金井市 稲葉市長
市長
津田塾
塾大学 飯野学
学長
2
立川市
市 清水市長
杉並区 田中区長
玉川上水サミット
宣
言
玉川上水は、江戸時代の承応3(1654)年、江戸市中への給水を目的として開削された上水
です。
多摩川を水源とし、多摩川中流の羽村取水口から四谷大木戸まで延長約43キロメートル、
幅約5.5メートルの自然流下による素掘りの開きょでした。
江戸時代の開削から現代まで、分水路を含めて江戸・東京の都市機能を支え続けてきた
玉川上水。
大正13(1924)年には、現在の小平市の小川水衛所跡から武蔵野市の境橋までの区間が、
名勝「小金井(サクラ)
」に指定されました。
また、平成11(1999)年には、宮本橋から四谷大木戸までのうち開きょ部分が東京都の歴
史環境保全地域に指定(平成14(2002)年に追加)され、さらに、平成15(2003)年には、
羽村取水口から四谷大木戸に至る水路敷のうち開きょ部分約30キロメートルが国の史跡に
指定されました。
中でも、素掘り開きょが残されている小平監視所から浅間橋までの中流域約18キロメー
トルの区間は、昭和40(1965)年から流れが途絶えていましたが、玉川上水を愛する人々の
尽力もあって昭和61(1986)年、清流復活事業によって流れが戻りました。
現在は、身近な水と緑の空間として、広く親しまれています。
この歴史的価値の極めて高く、多くの方に愛されている玉川上水を後世に残していくこと
はわたしたちの重要な責務です。
玉川上水中流域のわたしたちは、ここに、4つのことを宣言します。
一 開削から現在にいたるまでの先人の歩みとその労苦に敬意を表すととも
に、国の史跡指定文化財として貴重な歴史的土木遺構であることを再認識
し、次の世代に玉川上水を継承します。
一 都市における貴重な緑の軸線として、関係機関と連携を図り、今後も周辺
の環境やまちづくりと調和した玉川上水の景観等を大切にしていきます。
一 地域住民の憩いの場や交流の場として、また観光や地域活性化等の舞台と
して、玉川上水の活用を図ります。
一 玉川上水中流域自治体における継続的な連携を推進します。
平成24年9月29日
3
4
○司会
皆
皆様、大変お
お待たせいた
たしました。た
皆様にこのよ
皆
うな形でお
お目にかかることができ
だいまより、玉川上水
水サミットを
を開会いたし
しま
まして、本当にうれしく、そして光
光栄に思って
て
す。
おります。
お
本日の司会を
を務めさせて
ていただきま
ます、
私は、本
ばらしい企画
画をしてくだ
ださいました、
こんなすば
小平市 企画
画政策部 政策課の照井
政
井と申します
す。
そしてこうい
そ
いったところ
ろでご一緒で
できますこと
どうぞよろ
ろしくお願いいたします。
。
しております
を心から感謝
を
す。
(拍
拍手)
では初め
めに、津田塾
塾大学学長
この企画の
のことを伺い
いましたのは
は、かなり前
前
先生
飯野正子先
のことですが
の
が、大変魅力
力的な企画で
であると思い
い
による基調
調講演でござ
ざいます。飯
飯野先生、ご
ご登
まして、私自身が個人的
的にもひきつ
つけられまし
し
壇ください
い。
た。
た
玉川上水を
を共有することで、市や
や区のきずな
な
皆様、拍
拍手でお迎えください。
(拍
拍手)
また地域の
が強まって、
が
の人々との結
結びつきが強
強
まるというの
のは、本当に
にすばらしい
いことだと思
思
それでは
は、基調講演
演に先立ちま
まして、飯野
野先
生のご経歴
歴を紹介させていただきま
ます。
います。
い
私自身、この後に続きます市長様
様、そして区
区
飯野先生
生は、ここ津
津田塾大学 学芸学部
学
英
英文
学科をご卒
卒業後、フル
ルブライト奨
奨学生として
てア
長様のお話を楽
長
楽しみにして
ております。
メリカに留
留学、ニュー
ーヨーク州シ
シラキュース
ス大
これから30分の間に、
、私がお話を
をさせてい
学 大学院で
でアメリカ史
史を学ばれま
ました。
ただくことは
た
、レジュメに
に書きました
たが、レジ
帰国後、 津田塾大学
学助教授、 教授を経て
て、
ュメはお手元にございます
すよね。
2004年
年11月、学長に就任され
れました。
文部科学
学省 中央教育
育審議会委員
員、日本私立
立大
学連盟 常務
務理事などを
を歴任され、著書も多数
数あ
り、カナダ
ダ首相出版賞
賞、国際カナ
ナダ研究カナ
ナダ
総督賞を受
受賞されております。
詳しくは
は、お手元の
の資料に記載
載してござい
いま
すのでご覧
覧ください。
それでは
は、飯野先生
生、よろしくお願いいた
たし
ます。
その「はじ
じめに」とい
いうところで
では、今日の
の
(拍
拍手)
ろの一つであ
ある地域を知
知
この企画の目指すところ
子氏
○飯野正子
改めま
まして、飯野
野でございま
ます。
ることの重要
要性といった
たことを少し
しお話したい
い
と思います。
本日は小平
平市制施行50
周年記念事
事業として企画
私自身は、小平市では
はなく、大阪
阪府豊中市で
で
されました
た、玉川上水サ
生まれまして
生
て、18歳までその豊中
中市で過ごし
し
ミットの開
開催、おめでと
て、そして津
て
津田塾大学に
に入学してこの小平市に
に
うございます。
まいりました
た。このキャンパスにあ
ある寮に入っ
この記念
念すべきときに、
たわけなんです
た
す。
5
れは市の何かだったんでしょうね。広い講堂で、
豊中市といいますのは、かなり立派な広報紙
を出しておられまして、その担当の広報課から
津田塾大学の学長の藤田たき先生からお祝いの
数年前に私のところに電話をいただきました。
言葉をいただいたことを覚えております。
そこに、「我がふるさと」という連続記事が掲
このような小平市の行事に、地方から来てい
載されているんですが、豊中についての思い出
た、私を含めてたくさんの寮生が招かれたとい
を書いてほしいというご依頼だったんですね。
うこと。そのことのありがたさは、若いころは
私の答えは、自慢話でよろしければ書きます
それほど感じなかったかもしれませんが、そこ
ということだったんですが、それでお引き受け
から小平市と私の間のきずながしっかりしたも
いたしました。
のになったということは確実です。
その自慢話という意味ですが、私自身は、こ
そして最近では、いろいろな場で津田塾大学
の地域で育ったということが、その後の自分自
の学生が、小平市を初め、玉川上水地域の行事
身の生涯、あるいはキャリア、いろいろなとこ
に参加させていただいて、地域の人々との接点
ろにこんな影響を及ぼしていると思い出すこと
を非常に大切にしております。これもありがた
ができる、あるいはそれを誇らしく思う、そう
いことだと思っております。
いったその自分のふるさとについて書けるとい
こんなふうに、自分のかかわる地域の歴史を
うのは、非常にうれしいこと、ふるさとを自慢
知ること、あるいは地域を守ること、そういっ
できるというのは大変ありがたいことだと思っ
たことの重要性を私は強く認識しているつもり
ているんですね。
でおりますが、その認識を強めるきっかけにな
要するに、私は、人を育てるのは地域である、
ったのは、小平とそして私の生まれた豊中とい
う、そうしたふるさと経験に加えて、外国での
地域が人を育てるのだと考えた次第です。
ちょっとした経験もあります。
ですから、我がふるさとを誇りに思うという
玉川上水サミットのこの企画のお話をいただ
意味合いで、小平は、今の私にとりましては、
いたときに、これだとすぐ思い出したことがご
やはり我がふるさとだというわけです。
ざいまして、その中の2つのエピソードをちょ
私が津田塾大学に入学したのが、ちょうど小
っとお話ししてみたいと思います。
平市が市制を施行されたときなんですね。考え
1つは、20年も前、カナダのケベック州に
てみるとちょうど50年(49年かもしれませ
あるモントリオール、もう皆さんご承知だと思
ん)前になります。
それ以来50年、もちろん途中何年か留学と
いますが、フランス系の街ですね。カナダは英
か、いろいろなことでこの土地を離れましたが、
語とフランス語と2つの言葉を公用語にしてい
私はずっと小平にお世話になっていると思って
ますが、ケベック州では断然フランス語優勢で、
おります。
建物の中で話している言葉がたとえ英語であろ
うとも、外の表示は全てフランス語でなければ
思い出に残る最も古い、私の小平市の思い出
といいますのは、48年前の1月15日、成人
いけない。そういう非常にユニークな土地柄で、
式です。私は寮に住んでおりましたが、その私
そのユニークさを大事に大事にしているところ
に小平市からご案内が届きました。成人式への
ですね。
私はマギル大学で1年教えるということで招
お誘いです。
かれたわけですが、マギル大学は幸いイギリス
どこでしたか、今は記憶にありませんが、あ
6
結びついたというわけです。
系、つまり英語系の大学でしたので、私は助か
った、フランス語で教えるなんてとてもできま
もう1つの経験というのは、この大学を創設
せんでしたから、英語で教えてよいということ
した、津田梅子先生の研究を私がしていた30
で伺ったんですが、公立の小学校も、中学校も
年ぐらい前のことでした。
津田先生の子ども時代の留学中の資料を持っ
高校もフランス語で授業が行われていたんです
ている方が、アメリカのニュージャージー州に
ね。
モントリオールに行くときに、私は、ちょう
いらっしゃるということなので、その方に会い
どそのとき中学3年生になったばかりの娘を連
に出かけて行ったんですね。その方は、津田先
れて行きました。主人は会社員で、研究所に勤
生が子ども時代11年間アメリカにいた間の世
めておりましたから、もちろん日本を離れるわ
話をした、ランマン家の子孫でしたが、その方
けにはいかない。それから子どもの世話をする
が紹介してくださったのが、その地域に住んで
わけにはいかないということで日本に残りまし
いる、いわゆる郷土史家というんでしょうか、
たので、娘と私はモントリオールで母子家庭だ
その地域の歴史の研究をしている人だったんで
ったわけです。そして子どもを現地の中高一貫
すね。その方の研究のテーマが津田先生だった
の学校に入れました。
というわけです。
そこはもちろん英語系の学校でした。当地で
19世紀後半に日本から来た子どもが、この
は非常に数少ない英語系の学校です。そこで娘
アメリカで勉強をする。それが日本とアメリカ
の授業の様子を折々に聞いていましたら、社会
の中の関係をどういうふうに変えたかと、どう
科の授業が非常におもしろいと思ったんですね。
いう影響を地域の人々が受けたのかとか、そう
いった研究をしていらしたんです。
社会科の授業の中で一番先に教わるのがモン
トリオールのことなんです。モントリオールの
このことに私は大変感銘を受けました。こう
ことが終わったら、今度はフランスのことを学
いった形で、その地域のことを知ろうという努
ぶんです。そしてやっとカナダという国のこと
力があらわれるんだと思ったわけです。
つまり、自分が住んでいる、あるいは自分が
を学ぶ。
そういった順序で学ぶことでその土地のユニ
属している地域を知るということが、行政の面
ークさが保たれている、と言いますか、自分が
からだけではなく、教育の分野でも、あるいは
育っているところがどういう地域なのかという
アカデミックな研究の分野でも、重要であると
ことを、子どもたちはまず学ぶということです
いうことですね。
ね。それは非常におもしろいと思いました。
最近では日本の教育の中でも、そういう制度
がとられているかもしれませんが、私自身は、
自分の住んでいる地域ではなく、まず日本とい
う国について学ぶことから社会科の授業が始ま
るという、そういった社会科の勉強になれてい
ましたので、目からうろこという気がいたしま
した。
前置きはこのくらいにいたしまして、玉川上
それが今回のその小平の玉川上水サミットに
7
水と津田塾
塾大学のかか
かわりということですが
が、
それから、これはその当時の久右
右衛門橋です
す。
これも大変
変興味深いものがございま
ます。
府中街道の玉川
府
川上水にかか
かっている橋
橋です。
そのレジ
ジュメのとこ
ころに幾つか
か項目を並べ
べて
みましたが
が、今日のこ
この話の準備
備として、小
小平
市の資料も読ませていただきました
た。
そういう中にも、そ
その津田塾大
大学のことが
が少
し含まれて
ておりまして
て、例えば、『小平市3
30
年史』、『
『小平の近現
現代基礎資料
料』、それか
から
『玉川上水
水事典』、『
『玉川上水ワ
ワンポイント
ト』
など、かな
なり勉強をさ
させていただ
だき、楽しま
ませ
ていただきました。
当然です
すが、津田塾
塾大学の9 0周年史と か
これが建設
設前の耕地、ここを大学
学が買ったわ
わ
100年史
史、こういっ
ったものも参
参考にしまし
した。
けですが、それから府中街道、ちょうど
1930年ごろということです。
まず、最
最初の玉川上
上水と津田塾
塾大学の出会
会い
というとこ
ころですが、これはちょ
ょっとパワー
ーポ
イントで写
写真を見てい
いただけたら
らと思います
す。
時間をとら
らないように
に、さっと8
8枚流してい
いた
だきます。
これが、当時の耕地で
です。今のここに当たる
ところです。
これが1930年代の玉川上水で
ですね。
それから、その次が1931年に
に完成した津
津
田塾大学です。
。これは1931年です
すね。
8
塾を拡張しな
塾
なければいけ
けないと考え
え始めて、そ
そ
して寄付を募
し
募っています
す。1919年ごろから
その寄付が始
そ
まっています
す。
案というのは
は、五番町の
の
もともと、その拡張案
校舎を大きく
校
するということがあったわけです
す
が、話し合い
が
いのうちに、都内の高い
い土地を買っ
て校舎を広げ
て
げるよりも、郊外に土地
地を求めたほ
ほ
うがいいので
ではないかという話が出
出てきました。
そして1921年から候補地の調
調査が始まり
その次、これが大学
学の前の道で
です。ちょうど
のときに4つ
つ候補に挙が
がった土地が
が
ました。その
府中街道沿
沿いの生垣です。
あります。
あ
1つが武蔵
蔵野線の沿線
線の石神井、それから保
保
谷、清瀬、そ
谷
そして中央線
線沿線に小平
平と。決まる
のは早くて、
の
1年以内、1922年
年にはもう小
小
います。
平に決定して
平
の名称は北多
多摩郡小平村
村大字小川と
そのときの
いうんですね
い
ね。小平に決
決定したときの記録には
は、
次のような描
次
写があります
す。
徳川4代将
将軍家綱の1653年に
に江戸に通ず
ず
る水道として
て開かれたという「玉川
川上水が清く
これが1931年の
の鳥瞰図です
す。津田塾大
大学
澄み、両岸に
澄
にはナラ、クヌギの自然
然林が美しか
か
った。晴れた
た日には西南
南の空はるか
かに富士が望
望
です。
写真を見てい
いただきまし
したが、津田
田塾
さっと写
まれ、北に広
広く開かれた
た畑地のかた
たなには、青
青
大学が始ま
まったのは、もうご承知
知の方が多い
いと
梅街道が東西
梅
西に延び、この街道沿い
いにはケヤキ
キ
思いますが
が、1900
0年、女子英
英学塾として
て麹
と連なって
の並木が高々
の
ていた。青梅
梅街道と上水
水
町の五番町
町で津田梅子
子先生によっ
って創設され
れま
との間を斜め
めに貫いてい
いる畑の道が
がたかの街道
道
した。
で、新耕地は
で
は正式には東
東京府北多摩
摩郡小平村小
小
番町にあった
た、女子英学
学塾がここに
に移
その五番
平字たかの街道
平
道外と呼ばれ
れた。」
ったのは1931年な
なんですね。なぜその玉
玉川
小平に決め
めた理由とし
しては、静け
けさ、広やか
か
上水の地域
域に大学が来
来たのか、そ
それが津田塾
塾大
な眺め、そう
な
ういうことが
が挙がってい
いました。
学と玉川上
上水の出会い
いですが、女
女子英学塾と
とい
1922年12月14日にはもう売
売買が決定し
し
うのは初め
め、10人の
の学生で始ま
まっているん
んで
て、登録が済
て
済みます。2万5000坪10万円
すね。その
の10人の学
学生がどんど
どん増えまし
して、
と書いてありました。
また第一次
次世界大戦後
後は景気もよ
よくなり、女
女子
関東大震災が
が起きる9か
か
これが1923年の関
の教育が必
必要だということが謳わ
われ始めたと
とき
月前のことなんですね。
関東大震災
災が起きて、先ほどからお話しして
て
で、高等女
女学校も増えてきます。
0年にできた津田塾大
いた、190
い
大学の前身、
女子英学
学塾も、学生
生が増えたの
ので、そろそ
そろ
9
女子英学塾
塾、その五番
番町の校舎は
は記録による
ると
あたりのこと
あ
は、先ほど
ど申し上げました『小平
平
「灰塵に帰
帰す」となっ
っているんで
ですね。何に
にも
市30年史』
市
とか、基礎
礎資料にも書
書いてありま
残らなかった。
す。
す
ら、関東大震
震災からの立
立ち直りとい
いう
ここから
年に津田塾大
大学がここに
に移ります。
1931年
ことで寄付
付を募り始め
めて、これは
は主としてア
アメ
ついでですが
つ
が、当時の東
東京商科大学
学が小平に移
移
リカからの
の寄付によっ
って校舎がで
できるだけの
のお
転したのは、
転
2年後の1933年。この小平に
に
金が集まる
るわけですが
が、それを使
使ってこの大
大学、
一橋ができた
一
たということは、今後の
の津田の歴史
史
ここでの校
校舎が新しくできた。そ
それがさっき
きパ
になります。
にも残ること
に
。
それで、少
少しスピーデ
ディに、津田塾大学の発
発
ワーポイン
ントで見てい
いただいたも
ものだったわ
わけ
です。
展と玉川上水
展
水ということで、パワー
ーポイントを
を
1927
7年には建設
設計画ができ
きて、そして
て建
ます。
見ていただき
見
設計画がで
できたときに
に、まず第一
一に何に手を
をつ
けたと思い
いますか。玉
玉川上水から
らの連想で考
考え
てみてくだ
ださい。何に手をつけたか
か。
耕地をな
ならすとか、そういった
たことではな
なく、
まず防風林
林をつくったんです。
これは、春先に季節
節風が吹くと
と砂じんが舞
舞い
上がってし
しまう荒地だ
だったということで、ま
まず
防風林、松
松とかカシ、ヒノキなど
どを植えつけ
けま
した。それ
れが1929年
年です。
こうして
て、今のこの
のキャンパス
スの緑というも
これは第二
二次世界大戦
戦のころです
す。これは傷
傷
のが始まっ
ったわけです
すね。これが
がその玉川上
上水
病兵の慰問と
病
いうことで
で、戦争でけ
けがした兵隊
隊
とのいいマ
マッチングと
というか、コ
コントラスト
トに
さんをこのキ
キャンパスに
に招いて、学
学生が慰問を
を
なっていくわけです。
しているとこ
し
ろです。
1929
9年の秋には
はもう設計図
図ができて、た
だし、19
900年にこ
この女子英学
学塾をつくっ
った
津田先生は
は、その年に
に亡くなりま
ます。この校
校舎
が完成する
るのを一生懸
懸命待ってい
いたそうなん
んで
すが、それ
れを見ずに亡くなってしま
まいました。
病を押し
して、この土
土地を見に来
来た先生がそ
その
とき一緒に
にいた人に言
言った言葉 というのは
は、
「自分は校
校舎が建つの
のは見られな
ない。だから
らせ
めて門だけ
けでもお建て
てなさいよ」というもの
ので
それからその次も、そうですね。
した。とも
もかくこの校
校舎ができる
るのが待たれ
れて
いたということです。
そして1931年に
に校舎ができ
き上がりまし
した。
それがさっ
っきここでお
お見せしたも
ものです。こ
この
10
これは、傷病兵もそ
そこにいます
すが、「津田
田子
その次も「子
子供の家」で
です。
供の家」と
というのが1939年に
にできます。こ
最初に開所
所したときに
には、一挙に
に90人もの
の
申し込みがあ
あったのとい
いうので、そ
そういったも
れは託児所
所です。
今はどこ
この大学も託
託児所を持っ
ったりしてい
いま
のが必要とさ
の
れていたということが
がわかると思
思
すが、津田
田の場合は地
地域への貢献
献として、戦
戦争
います。
い
に行く人た
たちの子ども
もを、それか
から野良仕事
事に
出なければ
ばならない女
女性を助ける
るためにとい
いう
ことで、子
子どもをお預
預かりするん
んですね。こ
この
託児所が1939年に
にできて、地
地域の人たち
ちと
非常に親し
しくなったと
という記録が
が残っていま
ます。
この開所
所式には小平
平市の市長様
様、当時は村
村長
様ですね、が参加して
てくださった
たという記録
録が
あります。
これは戦争
争中、この土
土地が畑にな
なって、学生
生
がお芋を植え
が
たりしている
るところです
す。
それでそこに書きまし
したが、もう1つ、これ
れ
は玉川上水と
は
いう言葉が
が記録の中に
に出てくるの
の
でちょっと有
で
有名なエピソードを。門
門標紛失事件
件
です。
で
ご承知の方
方もあるかもしれません
んが、これは
は
『玉川上水事
『
事典』にも出
出ていました
た。1945
は「子供の家」の中ですね
ね。
その次は
年のことです
年
す。このキャンパスが軍
軍のものにな
な
って、東部第
第二部隊が貸
貸与していましたが、そ
そ
の部隊の門標
の
標を塾の正門
門の両側に掲
掲げたという
ところから始まります。
正門の両側
側に、ここは
は軍のもので
であるという
門標がかけられた。津田塾大学とい
い
ことを示す門
11
という話をしましたね。
う門標を外して。
それが気に入らなかった津田の学生が4人、
それで、この玉川上水べりの遊歩道は、いわ
夜中に、その軍の門標を外し、そして運んで、
ゆるラバーズレーンになりました。一橋の学生
玉川上水に捨てたんです。それでこれは大変な
さんが津田の学生を迎えに来て、一緒に遊びに
騒ぎになりました。軍法会議にかけるとか、そ
行くとかね、ともかくこの遊歩道、玉川上水の
の学生を見つけて連れてこいとか、その当時の
ほとりから、たくさんのカップルが生まれたん
星野あい塾長は、大変困られましたが、でも毅
です。
然とした方で、その上官のところに出向いて行
私のお友達の中にも、一橋のボーイフレンド
き、責任は全部自分がとるので、学生の名前を
をこういう形で持った方がありましたし、それ
出すのは勘弁してほしいと。そして交渉したん
からその後結婚した方もあります。私はそうい
ですね。正門の両側に軍の門標を掲げるのでは
うことには恵まれなかったほうなんですが。
ただし、そういう形でその玉川上水を覚えて
なく、片側にだけは津田の名前を残させてほし
いる人ばかりではなくて、この玉川上水べりの
い。軍の名前は片側だけにしてほしいと。
かなり長い問答があった挙句、軍のほうが折
道が、サークル活動では非常に過酷な、全力疾
れたんだそうです。門の片側に軍の名前が掲げ
走のコースだったと覚えている人もいるようで
られ、片側には津田塾という門標が残るという
す。
いずれにしてもその卒業生の思い出の中には、
ことになった。
それで、その玉川上水というのは非常に有名
津田塾大学に入る、つまり「東京の」大学に行
になりました。後で玉川上水を探したら、その
くと故郷を出てきたのに、ここに来てみたら、
軍の門標が出てきたのだそうです。
「ここが東京かしら?」って思ったという人が
それから、その次に書きました
たくさんいるわけです。
たき落ち川
というのは、余りこういうことは公表してはい
率直にそういうコメントをしてくれる学生が
けないかもしれませんが、私が学生だったとき
いるんですが、そういう人たちが卒業して、津
に学長の藤田たき先生があの玉川上水をお友達
田塾大学の何が一番心に残っていますか。記憶
と散歩していらして、そのお友達がぽんと向こ
の中で何が一番鮮やかですかって聞かれると、
う側へ渡ったたんだそうです。でも、藤田たき
この地域の自然の四季の移り変わりだったとい
先生って、割と背が低くてらしたので、その方
う人が多いんです。
が、藤田先生、渡るのはおやめなさいとおっし
それは大変ありがたいことだと思います。津
ゃったのに、それぐらい平気よって、渡って、
田の思い出が、この玉川上水に支えられた四季
ぽちゃんと落っこちてしまわれたという、それ
の移り変わりの美しさだったということ、これ
で、玉川上水のその部分を
は玉川上水が私たちにとって非常に大きな財産
たき落ち川
と呼
であることだと思います。
んだのだそうです。
ちょっと急ぎますが、レジュメに「将来に向
それは、私が入学したころに上級生から聞い
けて、玉川上水とともに」と書きました。
て、印象に残っています。
それからラバーズレーン、または全力疾走の
これからの社会において、自然との対話とい
ための残酷なコースと書きましたが、さっき一
うのは、教育的に見ても一層重要になると思い
橋大学が1933年にこのあたりに移ってきた
ます。
12
けですよね。
今の卒業生のコメントにあったように、大学
での生活を終えたあと、人間の心に何が残って
私自身はやはり、育った場所にいる人たちの
いるか。その教育の内容は、もちろん、その人
影響、その人たちを信頼して育ったということ、
のキャリアにかかわるわけですが、その人を育
それが自分にとって非常に大事ではなかったか
んでいくことの中では、自然というものが非常
なと思います。そしてこれからも大事ではない
に重要な価値を持っていると思います。
かと思います。
私どもはそういうことを考えて、今度新しい
玉川上水のそばで育った人たちが、自分はあ
建物を建てました。7号館といいますが、片側
そこで育って幸せだったと、これが自慢できる
を全部、床まで窓にして、まるで教室の中にい
んだと思うこと、それが非常に大事なことで、
ると緑の中で勉強しているような気になるんで
そのために行政が努力してくださっているとい
すね。そこからまた玉川上水が見えるような錯
うこと、これは大変ありがたいことだと思いま
覚に陥るようなところなんですね。
す。
そういった環境を、もちろんつくらなければ
こういった後押しがないと、なかなか個人で
いけないということも当然ですが、そういった
の環境つくりは難しいことだと思います。けれ
環境がどういう意味を持つのかという意識を、
ども、そのときに、住んでいる人たち、その行
私どもは常に持っていなければいけないなと思
政のもとにいる人たちが、それをただありがた
います。
い恩恵であると感じるだけでなくて、その地域
もう一つはその地域との交流ということです
を期待されているような地域にするべく、そし
ね。一つのものをみんなが共有する、みんなが
て住む人々が誇りに思えるようなところにする
大事だと思う。そこから何かが生まれてくると
べく、それぞれに努力すべきだと考えています。
既に玉川上水の地域では、そういった努力、
いう、その気持ちですね。
そのきずなというのは、その地域を発展させ
つまり行政の、そして人々の努力が、とても立
るためにも、そしてその人を育てるためにも非
派な、すばらしい成果をもたらしているわけで
常に重要なことだと思います。
すね。
私がいつも思っている、その地域が人を育て
これが、ますます大きな成果になりますよう
る、この地域で育ったということが、自分の生
に、そして次の世代、その次の世代にも引き継
涯の中でどんなに重要な意味をもつのか、そし
がれていきますようにと願っております。
ありがとうございました。
てそれを自慢できるというありがたさですね。
(拍手)
それを考えると、本当にこの地域をよくする、
それは人を育てていくんだということを、みん
なそれぞれが感じて実行していかなければいけ
○司会
すてきな心温まるエピソードを交えた
ないと思っています。
ご講演、飯野先生、どうもありがとうございま
した。
最初に、私は豊中広報の「我がふるさと」の
(拍手)
ことをお話ししましたが、どこで育ったのかと
いうこと、つまり誰に囲まれて育ったのか、何
飯野先生におかれましては、この後もパネル
に囲まれて育ったのか、ということは、何の影
ディスカッションのコーディネーターとしてご
響を受けたのかということにつながっていくわ
登壇いただきますが、ここでいったん降壇いた
13
初めに、立川市の清水庄平市長さんです。皆
だきます。ありがとうございました。いま一度
様拍手でお迎えください。
拍手をお願いいたします。
(拍手)
(拍手)
続きまして、今回のサミットの開催市であり
それでは、パネルディスカッションを行うた
ます、小平市長の小林正則です。
めに、壇上の準備をいたしますので、皆様しば
(拍手)
らくお待ちください。
続きまして、小金井市の稲葉孝彦市長さんで
お待ちいただいているこの間に、今回のサミ
ットについて少しご説明をさせていただきます。
す。
(拍手)
ご案内のとおり、玉川上水は羽村市から新宿
続きまして、西東京市の坂口光治市長さんで
区までの約43キロメートルを通る水路でござ
す。
います。
せんげん
(拍手)
小平監視所から杉並区の浅間橋までの約18
続きまして、武蔵野市の邑上守正市長さんで
キロメートルは、「中流域」として一時期通水
す。
がストップしておりましたが、昭和61年に東
(拍手)
京都の清流復活事業によって、通水が復活し、
続きまして、三鷹市の清原慶子市長さんです。
現在は下水の高度処理水が流れております。
(拍手)
この区間は、武蔵野の原風景が残っていると
続きまして、杉並区の田中良区長さんです。
されており、名勝小金井桜が存在する区間でも
(拍手)
あります。
本日のパネルディスカッションは、基調講演
そして、先ほど基調講演をしていただき、こ
をしていただいた津田塾大学 学長の飯野先生の
のパネルディスカッションのコーディネーター
コーディネートで、玉川上水「中流域」の7つ
をお願いしております、津田塾大学学長の飯野
の自治体の市長、区長によるものでございます。
正子先生です。
(拍手)
このサミットのポスターやリーフレットは、
それでは、ただいまより、パネルディスカッ
小平市内にあります武蔵野美術大学の学生さん
ションを行います。飯野先生よろしくお願いい
のご協力をいただき、作成いたしました。
たします。
また、会場出入口付近には、玉川上水を題材
に、環境学習を行っている小平第三小学校、及
び小平第四小学校のパネル展示も行っておりま
○飯野正子氏
それでは、これからパネルディ
すので、後ほどご覧いただければと存じます。
スカッションを始めさせていただきます。
先ほどは拙い講演をご清聴いただきまして本
皆様、大変長らくお待たせいたしました。檀
当にありがとうございました。
上が整いましたので、本日のパネルディスカッ
これからは、玉川上水沿いの各自治体の市長
ションのパネラーの方々をご紹介いたします。
様、区長様にいろいろなお話を伺いたいと思っ
各市長、区長の皆様は上流に位置する自治体
ております。
からご紹介いたしますので、ご紹介の後にお1
市長様、区長様、どうぞよろしくお願いいた
人ずつご登壇、ご着席ください。
します。
それでは、ご紹介いたします。
14
強い思いが高
強
高じまして、この津田塾
塾大学のすぐ
ぐ
近くでござい
近
いますが、小
小平市の津田町に引っ越
越
してまいりま
し
した。
まず初め
めに、「各自
自治体と玉川
川上水のかか
かわ
りの現状」について順
順番にお話し
しいただけれ
れば
す。
と思います
お1人お
おおむね5分
分程度でお願
願いできれば
ばと
思っております。
ひらくし でんち
ちゅう
それでは
は小平市の小
小林市長から
らお願いいた
たし
小平市には名誉市民として平櫛 田 中 さんとい
い
う彫刻家がお
おられますが
が、この平櫛
櫛田中さんも
ます。よろ
ろしくお願いいたします。
。
玉川上水をこ
玉
よなく愛し
し、終の住み
みかとして玉
玉
○小平市 小林市長
川上水のある
川
小平市に住
住んでおられ
れました。現
現
皆さんこんにちは。
在も平櫛田中
在
中彫刻美術館
館として市民
民や玉川上水
水
ご紹介いただきまし
を散策される方
を
方々に親しま
まれておりま
ます。
玉川上水に
には、私や平
平櫛田中さ んのように
に
た 、小 平市
市長 の小 林
正則でござ
ざいます。
人々をひきつ
人
つける特別な
な魅力がござ
ざいます。私
私
本日は、 大変お忙
は従来からこ
は
の魅力を多
多くの皆さん
んとともに共
共
大勢の方にご
ご来場いただ
だきまして、誠
しい中、大
有をしたいと考
有
考えておりま
ました。
にありがとうございます。
平成25年
年度は、玉川
川上水が開削
削をされて
て
また、飯
飯野学長さん
んにおかれま
まして、この
のよ
360年にな
なります。また、平成24年度は、
うなすばら
らしい会場を
をご提供いた
ただきまして
て、
小平市が誕生
小
生してちょうど50周年
年の節目の年
年
貴重なお話
話をお聞かせ
せいただきま
まして、誠に
にあ
になります。
に
この機会に
に、玉川上水
水サミットという形で、
りがとうご
ございました。
そして、何よりも、中流域の区
区長さん、市
市長
原風景に最も
原
近い形で残
残っている中
中流域の皆さ
さんにおか
かれまして、この玉川上
上水サミット
トの
んとこの企画
ん
をさせていた
ただきました
た。
趣旨にご賛
賛同いただき
きまして、大
大変お忙しい
い中
本日は、各
各自治体の首
首長さんに玉
玉川上水につ
つ
ご参加をい
いただきまし
して本当にあ
ありがとうご
ござ
いて、さまざ
い
ざまなご意見
見を伺いたい
いと思ってお
お
いました。
ります。よろしくお願いい
いたします。
さて、「
「各自治体と
と玉川上水の
のかかわりの
の現
状」ということで、ま
まず私がトッ
ップバッター
ーで
お話をさせ
せていただきます。
もう30
0年ほど前に
になりますが
が、私は玉川
川上
水に特別な
な思い入れを
を持っておりまして、そ
その
15
多くあり、今
多
今日も多くの
の皆様方が参
参加をしてい
い
ただいており
た
ますが、さまざまな角度から自主
主
民活動が展開
的に活発な市
的
開されており
ります。
待ちいただい
いている間に
に流れていた
た
本日、お待
映像も、昔か
映
から玉川上水
水の写真を撮
撮り続けてい
い
たボランティ
た
アの方々に
により作って
ていただいた
た
ものでございます。
また、市内
内には、舞台
台上にも置い
いてございま
すが、「玉川
す
川上水」とい
いう銘柄のお
お茶も販売し
し
改めて、小平市のこ
ことになりま
ますが、小平
平市
ております。
て
内には玉川
川上水が東西
西約8キロに
にわたり流れ
れて
おり、この
の玉川上水を
をはじめ、野
野火止用水な
など、
市内をぐる
るっと1周で
できる21キ
キロメートル
ルの
水と緑の散
散歩道のグリーンロードが
があります。
平成16年には、「
「美しい日本
本の歩きたくな
00選」にも
も選ばれまし
した。玉川上
上水
るみち50
に隣接した
た保存樹林も
も多く点在し
し、玉川上水
水と
一体となった緑地空間を形成してお
おります。
昔から現
現在まで玉川
川上水を愛す
する多くの皆
皆様
また、樹木
木の伐採など
ど、市民個人
人の要望を市
市
方が、土の
の道の散策な
などで楽しん
んでいただい
いて
おります。
民団体が受け
民
け止めて、行
行政と一緒 に解決する
「小平方式」
「
と呼ばれる手法があり、適正な植
植
を買っていた
生管理に一役
生
ただいており
ります。
さらに学校
校現場におきましては、玉川上水沿
沿
いの小学校に
い
におきまして
て、玉川上水
水を題材とし
し
た環境教育を
た
を行っており、本日の会
会場内にも学
学
習の成果を展
習
展示させてい
いただいてお
おります。ぜ
ぜ
ひ、お帰りの
ひ
の際にご覧い
いただければ
ばと存じます
す。
まず、私か
からは以上で
でございます
す。ありがと
うございました。
水が乏し
しかった武蔵
蔵野台地に潤
潤いを与えた
た玉
(拍手
手)
川上水を中
中心として、小平市はこ
これまで360
年を歩んで
できたといっ
っても過言で
ではございま
ませ
○飯野正子氏
○
氏
ん。このす
すばらしい玉
玉川上水を古
古くから守っ
って
どうもあ
ありがとうご
ございました。
それでは、続きまして
て、立川市の清水市長様
様、
よろしくお願いいたします
す。
きていただ
だいた方々に
には、本当に
に敬意を表す
する
次第でござ
ざいます。
ここ最近
近は、玉川上
上水に関連す
する市民団体
体も
16
○立川市 清水市長
清
こ
こんにちは。
立川市長の
の清
水でござい
います。
本市と玉川上水の
かかわりと
というのは、
、
一番その象徴的なの
は、中央線
線の立川駅、
、
これが明治22年、
1889年
年ですが、甲
甲武鉄道とし
して新宿から
ら立
川まで鉄道
道が延びてま
まいりました
た。敷設され
れま
現在は、立
立川の北部を
を東西に約10キロ走っ
した。
ております。
て
先ほど小林
林市長は8キ
キロとおっし
し
そして、立川駅をつ
つくるときに
に、当時は蒸
蒸気
ゃっておりましたが、立
立川は約10キロ接して
て
機関車であ
ありますから
ら、機関車の
の車体を洗っ
った
おります。そ
お
それで、唯一
一多摩川の原
原水が流れて
て
り、その蒸
蒸気機関車の
の蒸気をつくるために、大
いるんですよ。
い
。
量の水が必
必要だったんですね。
立川に流れ
れている玉川
川上水が小平
平との市境の
の
ところで東村
村山浄水場へ
へ全て原水は
は行ってしま
います。飲料
い
料水用の原水
水は行ってし
しまうんです
す
ね。
ね
立川と小平
平市境のところへ、昭島
島にあります
す
下水処理場の
下
の三次処理水
水をポンプア
アップして、
そしてそこか
そ
から新たに中
中流域に流し
しているんで
で
すね。
す
玉川上水
水から用水を
を、柴崎用水
水というんで
です
が、この用
用水を掘って
て現在の立川
川駅のところ
ろま
で引っ張っ
ってくれば、蒸気機関車
車の水は確保
保で
きるということで立川駅ができたん
んです。
そのほか
かにも、立川
川は台地の上
上にあるもの
ので
すから、全
全く水がありません。そ
そのために、生
活用水の砂
砂川用水をつ
つくったり、先ほど言い
いま
した、その
の柴崎用水が
が立川駅の蒸
蒸気機関車用
用の
そんなことで、唯一立
立川だけが、その飲料水
水
水になった
たり、そうい
いうことで歴
歴史的にかか
かわ
が流れている
が
。そしてし
しかも三次処
処理水もほん
ん
ってまいりました。
の数百メート
の
ルなんです
すがね、流れ
れておりまし
し
極言をす
するならば、玉川上水が
がなければ、現
て、そんなか
て
かかわりが今
今あるところでございま
在の立川の
の発展というのは考えら
られなかった
た。
す。以上でご
す
ざいます。
(拍手
手)
こういうつ
つながりがあ
あるわけです
す。まさに立
立川
市の命の水
水であったわけであります
す。
17
○飯野正子
子氏
ありが
がとうござい
いました。長
長さ
本来であれば
本
ば、江戸時代
代からの花見
見の名所とし
し
で競うことになりました。
ては、玉川上
て
上水堤で、ここでヤマザ
ザクラを観賞
賞
それでは
は、続きまし
して小金井市
市の稲葉市長
長様、
お願いいた
たします。
するのが、本
す
本来のお花見
見ではないの
のかなと思っ
ております。
て
そういう時
時代を取り戻
戻していかな
な
ければならな
け
いなと思って
ております。
○小金井市
市 稲葉市長 皆さんこん
んにちは。ご
ご紹
介をいただ
だきました、
小金井市長
長の稲葉で
ございます
す。
本日は、 小平市市
制施行50
0周年を記
念しての玉川上水サ
ミットの開
開催、おめで
でとうござい
います。心か
から
お喜びを申し上げます。
すが、私は出
出身が千葉県
県の銚子市な
な
私ごとです
また、玉
玉川上水に隣
隣接する、こ
この津田塾大
大学、
んですね。銚
ん
銚子の偉人としては、国
国木田独歩が
が
小平キャン
ンパスで開催
催されること
とも、先ほど
どの
おります。国
お
国木田独歩は
は銚子で生まれましたの
の
飯野学長先
先生のお話に
にもありまし
したように大
大変
で、銚子の人
で
人たちの誇りなんですね
ね。ですから、
意義深いものだなと考えております
す。
私たちは子ど
私
どものころか
から意味もわ
わからず「武
武
小金井市
市は、ここ小
小平市の南側
側に位置して
てお
蔵野」を読ま
蔵
されていたん
んです。
りまして、行政面積は
は11.33
3平方キロと
とい
それで、あ
ある程度にな
なるとやっと理解する。
うことで、小平市の約
約半分ぐらい
いの面積とな
なり
最近はよく理
最
理解できるようになった
たんですが、
ます。
「武蔵野」は
「
は、私も読ん
んでからかな
なりたってい
い
先ほどか
からちょっと
と距離を競っ
っております
すが、
るので記憶が
が定かじゃな
ないんですが
が、確か信濃
濃
うちの場合
合には3キロ
ロということ
とでございま
ます
町の停車場か
町
から武蔵境の
の停車場に降
降りて、北に
に
が、これも
も三次処理水
水でございま
ますので、ち
ちょ
2町ほど行ったところに
に玉川上水が
がある。桜橋
橋
っと立川市
市さんには勝
勝てないなと
と思ったりし
して
を渡って、そ
を
そして左に折
折れる、上流
流のほうに行
行
おります。
くと小金井の
のほうに来るわけですが
が、多分この
の
ど市域の中央
央を東西に中
中央本線が走
走っ
ちょうど
主人公は友人
主
人と2人で、この満開の
の桜を見たの
の
ております
す。そして南
南側ははけが
があって、野
野川、
ではないかな
で
なと、そんな
なふうに思っております
す。
武蔵野公園
園、野川公園
園というのが
があります。北
大正13年
年に、国の名勝に指定されたわけで
で
側は玉川上
上水、今日の
のテーマであ
あります玉川
川上
すが、生育環
す
環境の悪化な
などから徐々に衰退し、
水があり、小金井公園
園があるとい
いうことで、自
大変景観が変貌
大
貌してしまっ
っております
す。
然環境に恵
恵まれている
るのは小平市
市、そして近
近隣
小金井市としては、この名勝地を
を、そして小
小
の市と同じ
じように自然
然が豊かと思
思っておりま
ます。
金井桜を復活
金
活させるため
めに、東京都
都の「史跡玉
玉
小金井と
と言えば、桜
桜というふうに私も宣伝
伝し
川上水整備活
川
活用計画」を
を受けて、「
「玉川上水・
ているんで
ですが、春の
の小金井公園
園は桜の名所
所と
小金井桜整備
小
備活用計画」を策定して
て、それに取
取
して大勢の
の方々でにぎ
ぎわっている
るわけですが
が、
り組んでいるところであります。
18
今後は、名勝小金井
井桜の復活を
を目指すとと
とも
○西東京市
○
坂
坂口市長
西
西東京市の坂
坂口光治です
す。
に、史跡に
に配慮しなが
がら玉川上水
水の緑道や景
景観
ど う ぞ よろし
しくお願
スポットの
の人道橋の整
整備などを進
進めていきた
たい
い申し上げます
い
す。
なと考えて
ております。
今日はこの
のような
すばらしい場
す
場を設け
ていただきま
て
ました、
飯野学長初め
飯
め、津田塾大
大学ご当局、それから小
小
平市の市制5
平
0周年を記
記念してのこのようなサ
サ
ミットであるわけでござ
ざいますが、小林市長及
及
び関係者の皆
び
皆様方に心か
から感謝を申し上げたい
い
と思います。
玉川上水の
の魅力というのは、先ほ
ほど学長さん
ん
毎年行わ
われておりま
ます、小金井
井桜落ち葉回
回収
からもお話が
か
がありました
たように、本
本当に水が命
命
大作戦など
どにも多くの
の中学生など
ども参加して
てい
を育てて、そ
を
そしてまた緑
緑や周辺の環
環境が地域を
を
ただいてお
おります。
育てていると
育
いう気がして
てなりません
ん。
玉川上水
水の小金井区
区域というの
のは、北側や
や西
上水を開削 した当時、
おそらく、 この玉川上
側は小平市
市であります
す。玉川上水
水の桜並木復
復活
1653年に
に完成ということのようですが、こ
のためにも
も、小平市や
や関係市と力
力を合わせて
て頑
れだけの人が
れ
がこの地に集
集まって、このようなサ
サ
張ってまい
いりたいと思
思っておりま
ますので、お
お力
ミットを開催
催するということは予想
想だにしなか
か
添え願いた
たいなと思っております。
。
ったことではないかと思い
います。
市制50
0周年、そし
してこのサミ
ミットの開催
催、
そこに歴史
史の重みと、この玉川上
上水のすばら
まことにお
おめでとうご
ございます。ありがとうご
しさがあるの
し
のではないか
かと、そのように今つく
ざいます。
づく感じてい
づ
るところでご
ございます。
(拍
拍手)
ちょっとスライドを用
用意してまい
いりましたの
の
で、それをご
で
覧いただきた
たいと思いま
ます。
子氏
○飯野正子
ありが
がとうござい
いました。そ
それ
では、続き
きまして、西
西東京市の坂
坂口市長、よ
よろ
これは、西
西東京市、旧田無市にご
ございます、
しくお願い
いいたします。
田無神社の本
本殿に彫られ
れております
す嶋村家の8
代目になります
代
す嶋村俊表の
の作品です。
19
これは、東京都の指
指定文化財に
にもなってい
いる
とおり、この
の田無用水、田柄川用水
水によって約
約
んですが、何をあらわ
わしているか
かといいます
すと、
4キロ、それ
れから千川上
上水、これは
は板橋を流れ
れ
田無のまち
ちができたの
のは、江戸幕
幕府開府慶長
長8
て、さらに豊
て
豊島に至る水
水路でござい
いまして、そ
そ
年、160
03年である
るわけでござ
ざいますが、そ
の先は地中を
の
をこの木管で
で埋めまして
て、江戸市中
中
のときの江
江戸城の拡張
張ですとか江
江戸のまちを
をつ
まで行ってい
いたと言われ
れております
す。その千川
川
くるのに、この石灰が
が必要であっ
ったと言われ
れて
上水に2キロ
上
ほど接して
ております。その取水口
おります。
の一部でござ
の
います。
それを、この陸路を
を運搬するた
ための継場と
とし
て、田無の
の宿ができま
ました。しか
かしながら、武
蔵野台地に
にできました
た田無の宿で
でございます
すの
で、水がほ
ほとんどありませんでした
た。
や
と
約1.5
5キロ離れま
ました谷戸地域、これは
地
は鎌
よこ やま
まみち
倉街道横山道
山 があると
ところでござ
ざいますが、そ
こまで水を
をくみに行っ
って、飲み水
水とか生活用
用水
を使ってい
いたというこ
ことでござい
いまして、こ
この
田無神社の
の本殿は、江
江戸の末期に
にできた彫刻
刻で
これは曙橋
橋のちょっと上流の清流
流復活後の生
生
あるわけで
でございます
すが、先人の
のご苦労と労
労苦
態といいます
態
すか、コイ等
等が復活して
て泳いでいる
に対するね
ねぎらいの意
意味が込めら
られておりま
ます。
模様でござい
模
ます。
これは中
中国ではやっ
ったと言われ
れる、24の
の親
きょうし
孝行物語の
の一場面で、「姜詩図」と呼ばれる
る絵
きょ
ょうし
図でござい
いますが、真
真ん中におりますのが姜
姜詩
という人で
であるわけで
でございます
すが、水くみ
みの
場が彫られ
れております
す。これが、田無神社の
の本
殿のテーマ
マにもなっております。
橋周辺の清流
流復活後の情
情景でござい
い
これも曙橋
ます。このようにすばらしい水と緑
緑が、私ども
の生活に潤い
の
いを与えるだ
だけでなくて
て、子どもた
た
ちのいろいろな環境学習
習、先ほど飯
飯野先生から
もございまし
したが、子ど
どもたちの情
情操を豊かな
な
ものにしてい
いるということができるかと思いま
これは、玉川上水か
からの取水口
口ですね。お
おそ
す。
す
た が ら がわ
わ
新田、田無用
用水と田柄川用水というの
らく保谷新
がございま
まして、実は
は玉川上水に
に接している
る部
分は700メートルぐらいしかございません。
しかしな
ながら、先ほ
ほどのお話で
でも示しまし
した
20
話のとおり、
話
この地域に
にとって大変
変大切な貴重
重
な資源だと思
な
っています。
。
この玉川上
上水の開削に
によって、当初は江戸町
町
民の用水であ
民
あったわけで
でございます
すが、当然そ
そ
の用水を利用
の
用して周辺の
の集落が発展
展していく。
私どもの武蔵
私
蔵野地域の集
集落もこの玉
玉川上水の開
開
削以降に発展
削
展をしてきた
たという歴史
史がございま
す。
す
農村として
ての発展は、やがて農村
村集落の中に
に
これが境
境橋のところ
ろに立ってお
おります千川
川上
雑木林等が出
雑
出てきますの
ので、その雑
雑木林がやが
が
水の分岐点
点です。約2
22キロ流れ
れまして、巣
巣鴨
て武蔵野の原
て
原風景となってくるとい
いうことでご
ご
のところま
まで行ってい
いたと。そし
して江戸市中
中に
ざいますので
ざ
で、玉川上水
水がこの武蔵
蔵野のイメー
ー
行っていた
たと、江戸の
の6上水と言
言われたようで
ジをつくって
ジ
てきたのでは
はないかなと思っていま
ございます
すが、その一
一つだと言わ
われておりま
ます。
す。
す
その後、先
先ほどの立川
川市長さんが
がお話のとお
お
それでは
は、私からは
は以上で終わ
わりにさせて
てい
ただきます
す。ありがとうございました。
り、明治22年に甲武鉄
鉄道が開通し
し、今の中央
央
(拍
拍手)
線ですね。そ
線
その開通によりまして、農村集落か
か
ら、今度は住
住宅都市へと転換がなされてきたの
の
○飯野正子
子氏
ありが
がとうござい
いました。写
写真
ではないかな
で
なと思います
すので、この
の2つの大き
を見ながら歴史を振り返ることがで
できました。
な軸、玉川上
な
上水の軸と、中央線、線
線路の軸とい
い
それでは
は、続きまし
して、武蔵野
野市の邑上市
市長
うのが、私ど
ども多摩地域
域の大きな都
都市発展にと
様、お願い
いいたします。
ないものだと認識をして
ているところ
って欠かせな
でございます。
で
。
○武蔵野市
市 邑上市長 皆さんこん
んにちは。武
武蔵
野市長の邑
邑上でござ
います。
小平市の
の市制施行
50周年、 まことに
おめでとう
うございま
す。そして
て今日は、
このように
にすばらしい
い、憧れの津
津田塾で、い
いい
ですね。多
多分目を閉じ
じると、平日
日は多くの女
女子
学生がいっ
っぱいいるん
んじゃないか
かなと浮かび
びま
さて、個人
人的にはほか
かの市長さん
んに負けない
い
すが、目を
をあけると、昔若かった
た皆さん方が
が来
ぐらい、玉川
ぐ
川上水を愛し
してございます。武蔵野
野
ていただい
いているんじ
じゃないかな
なと思ってい
いま
市生まれ、育
市
育ちでござい
いますので、玉川上水で
で
す。
うぶ湯を使い
いというわけ
けでございませんが、幼
幼
さて、玉
玉川上水は、それぞれの
の首長さんが
がお
いころから玉
い
玉川上水を見
見て育ってまいりました。
21
しかし、残念なこと
とに、一時期
期、玉川上水
水の
水が流れな
なかったとい
いうこともあ
あって、その
の時
期、一時期
期でございま
ますが、私実
実は、若かりし
青年のころ
ろ、上水の空
空堀の中を、ボランティ
ィア
活動で清掃
掃活動をずっ
っとしていま
ました。毎月
月第
1日曜日の
の午前9時か
から12時と
ということで
で、
5年ぐらい
い続けたんですね。
その間、やはり、玉
玉川上水の清
清流復活とい
いう
運動もあわ
わせて参加を
をさせていた
ただきまして
て、
通水が復活
活できたなと
と、大変喜ん
んでいるとこ
ころ
ただ、いず
ずれにしまし
しても、玉川
川上水という
のは人がつく
の
ったもので
であります。そして、周
周
でございます。
辺の植栽等に
辺
につきまして
ても、人がつ
つくってきた
た
ものだと思っております
すので、大自然とは違う
わけですね。
わ
ですので、より一層人
人が入らない
いということ
ではなくて、
で
やはりこれ
れからも手を
を入れていか
か
なければいけ
な
けない。人が
が手を入れて
て守り育てて
て
いかなければ
い
いけないと思
思っておりま
ます。
その意味で
では、玉川上
上水沿いを歩
歩ける空間と
いう整備が、
い
ぜひこれか
からもなされ
れるべきでは
は
中から見
見ますと、大
大変空堀のす
すごさ、素掘
掘り
ないかなと思
な
思っておりますし、うらやましいと
ですね。土
土を掘ったま
ままの、そういう玉川上
上水
ころがござい
いましてね、三鷹駅から井の頭公園
園
が目の当た
たりに見えて
てございます
すが、水が流
流れ
に行く「風の
に
の散歩道」という、三鷹
鷹市さん側に
に
ないところ
ろはどんどん
ん崩落をして
ていくんです
すね。
あるのですが
あ
が、ああいうすぐれた散
散歩道をいろ
それを見て
てきましたの
ので、大変通
通水について
ては
いろな沿線で
い
でつなげられ
れたらいいの
のではないか
か
強く訴えを
をさせていた
ただいたとこ
ころでござい
いま
なと思ってお
な
ります。
私どももそ
それに負けな
ないような道
道を、散歩道
道
す。
自慢をします
すが、羽村の
の堰
そして、私は実は自
をつくって、
を
幅広のその
の水と緑の軸
軸を広げてい
い
の久我山の先
先まで歩いた
たことがある
るん
から杉並の
きたいなと思
思っているところでござ
ざいます。以
以
ですね。そ
その結果、私
私の個人的な
な見解から申
申し
上でございます
上
す。
(拍手
手)
まして、玉
玉川上水沿い
いの中で一番
番いい景観の
の一
つが、この
の津田塾あたりじゃないか
かと。
もう一つ
つは、やはりこの玉川上
上水をずっと
と下
○飯野正子氏
○
氏
どうもあ
ありがとうご
ございました。
って行くと
と、三鷹市さ
さんと武蔵野
野市の間にま
また
足で歩いてご
足
ご覧になった
たご経験など
ど、大変興味
味
がります井
井の頭公園が
があるんです
すね。その井
井の
深く伺いまし
深
た。
それでは続
続きまして、三鷹市の清
清原市長様、
頭公園の中
中の玉川上水
水の周辺とい
いうのは、大
大変
ます。
お願いいたし
お
豊かなところではないかなと思って
ています。
22
○三鷹市 清原市長 皆様こんにちは。三鷹市長
の清原慶子です。
小平市市制施行
50周年、本当にお
めでとうございます。
そして、玉川上水が
結 ぶご縁 で、 玉川上
水サミット2012に参加することができまし
まずご紹介したいのは、玉川上水を守る取り
て、本当に光栄に思います。
それでは、三鷹市と玉川上水の現状について
組みです。「玉川上水クリーン作戦」と称して、
これからお話をさせていただきます。
平成14年からその上水沿 いの町会の皆様、駅
前の住民協議会の皆様、事業者の皆様、また、
児童、生徒の皆さん、ボランティアの皆様と一
緒にクリーンアップ作戦をしてきましたが、そ
れは文字どおり、玉川上水の沿道を美しく保つ
ということだけでなく、文化財としての、土木
遺構としての玉川上水の価値を知っていただく
こと、そしてボランティア活動を日常化してい
ただくための取り組みでもありました。
古い自転車が投げ捨てられていたり、本当に
私たち三鷹市は、今年の3月に第4次三鷹市
嘆かわしい10年前と比べまして、今はほとん
基本計画を策定いたしました。そして、「緑と
ど、日常的に皆様が清掃してくださっているの
水の基本計画2022」も策定しました。
で、このクリーンアップ作戦も成果がなくなっ
三鷹市のまちづくりの基本目標は、「緑と水
てまいりました。本当に皆様の愛情に心から感
の公園都市」を目指してということです。言う
謝をしたいと思います。
までもなく、三鷹市も今までお話しされた各市
と同じように、住宅都市として発展してきまし
たが、住んでくださっている多くの市民の皆様
は、玉川上水、都立井の頭恩賜公園の池、そし
て仙川や野川などの水と緑を愛し、だからこそ
住み続けてくださっています。
三鷹市は玉川上水を緑と水の公園都市の重要
な軸線として位置づけて、これまで市民の皆様
とさまざまな取り組みを重ねてまいりました。
さて、玉川上水を活かす取り組みも大切に進
めてまいりました。先ほど武蔵野市長さんから
23
もご紹介い
いただきまし
したが、三鷹
鷹市域を流れ
れる
まん すけばし
し
玉川上水の
のうち、JR
R三鷹駅南口
口から万助橋
橋ま
での距離8
800メート
トルの区間で
ですが、都市
市計
画道路とし
して、平成13年11月
月に整備を完
完成
しました。
沿道の市
市民の皆様、そして来訪
訪される皆様
様に
愛されてい
いますが、沿
沿道の市民の
の皆様からの
のご
提案を受け
けて、電線を
を地中化いた
たしました。そ
のことによ
より、文字ど
どおり、バリアフリーの
の道
となってお
おり、市民の
の皆様の公募
募によりまし
して、
そして、玉
玉川上水を活
活かす上では
は、農地、樹
樹
「風の散歩
歩道」という名前をつけ
けさせていた
ただ
林を活かした
林
た、牟礼の里
里も代表の一
一つです。こ
きました。
のあたりは、
の
農地とそし
して玉川上水
水、緑が醸し
し
出す牟礼の里
出
里を市民の皆
皆様が守って
て活かしてく
ださっています
だ
す。
さて、もう一つ。玉川上水を渡る、つなぐ橋
橋
もかけがえの
のないもので
です。橋は、玉川上水で
で
隔てられた地
隔
地域を結ぶ、人々の生活
活に欠かせな
な
しています。
い機能を果た
い
。
玉川上水
水が育む歴史
史文化と言え
えば、「風の
の散
歩道」を都
都立井の頭恩
恩賜公園に向
向かって歩い
いて
行くと、途
途中に三鷹市
市ゆかりの作
作家、太宰治
治文
学サロン、そして大正
正時代の建物
物、山本有三
三が
多くの作品
品を残した、山本有三記
記念館がありま
す。
先の、都立井
井の頭恩賜公
公園
そして、行き着く先
飯野学長がおっしゃった、ラバー
ーズレーンで
で
にできました
た、三鷹市立
立ア
の中には、11年前に
もある橋。これを三鷹市
市では架け替
替えました。
ニメーション美術館、「三鷹の森
森ジブリ美術
術館」
新橋の架け替
新
替えは大変な
な苦労を伴い
いましたが、
がございます。
今も市民の皆様
今
様をつないで
でいます。
24
す。その暗
なっておりま
な
暗渠の上層部
部は遊歩道と
か公園になっ
か
ているわけ
けですが、開
開渠の部分、
これは非常に
にみどり豊か
かな場所となっています
す。
当区は今年
年の3月に、基本構想を
を策定いたし
し
並区を見据え
えたこの構想
想
ました。10年後の杉並
を、これは私
を
私が区長にな
なったのがちょうど2年
年
前でございま
前
すが、この
の間この構想
想づくりをや
や
ってきたわけです。
その中で、スローガン
ンとしては、「支えあい
い
最後に、市民に愛さ
される玉川上
上水というこ
こと
共につくる安
共
安全で活力あ
あるみどりの
の住宅都市杉
杉
で、三鷹市
市が2年前、市制施行60周年を記
記念
並」とちょっ
並
と長いスローガンです
すが、これが
が
して、市民
民の皆様から
ら「三鷹市風
風景100選
選」
10年後の杉
杉並の将来像
像としています。その中
中
を募集いた
たしました。100以上
上集まったの
ので
で5つ目標を
で
を掲げていま
まして、そ の一つに、
すが、その
の中には、言
言うまでもな
なく玉川上水
水が
「みどり豊か
「
かな環境にや
やさしいまち」という目
含まれてい
います。
標を掲げて、
標
10年後の
の姿として、屋敷林や都
都
愛し、愛
愛され、私た
たちも愛し、愛しての玉
玉川
市農地という
市
もの、あるいは民間の
の緑、公園、
上水。現状
状は本当に暮
暮らしの中で
で息づく文化
化と、
た公共の緑
街路樹といっ
街
緑、それから河川沿いの
の
そして人の
の交流を促す玉川上水です
す。
水辺環境を守
水
守るといった
たことを重点
点策として位
位
三鷹市も
もそれぞれの
の市の皆様と
とご一緒にこ
この
置づけています
置
す。
玉川上水を
を守り、活か
かし、これか
からも守り続
続け
杉並区は、ご存じのように住宅都
都市でありま
ていきたい
いと思います
す。どうもあ
ありがとうご
ござ
良好な住宅
して、今後も
し
宅都市を目指
指していく、
いました。
住宅都市とし
住
しての価値を
を高めていくということ
(拍
拍手)
が、私のこの
が
目標でもござ
ざいます。
そういう中
中で、住宅都
都市の価値を
を高める、付
付
子氏
○飯野正子
ありが
がとうござい
いました。続
続き
加価値を高め
加
めていくとい
いうことには
はいろいろな
な
まして、杉
杉並区の田中
中区長様、お
お願いいたし
しま
面があると思
面
思います。医
医療だとか福
福祉だとか教
教
す。
育だとか文化
育
化だとか治安
安といったことも大事で
で
すが、みどり
す
というのは
は、その中で
で決して外す
す
田
○杉並区 田中区長
ことはできな
ない大事な柱
柱だということでありま
杉
杉並区長の田
田中良です。杉
並区は、今日こうし
す。
す
てお集まり
りをいただ
その意味で
では、この玉
玉川上水の清
清流を復活し
し
いている、 それぞれ
ていく事業は
て
は、大変すば
ばらしいことだと思って
て
の各首長の
の皆様方の
おります。
お
中で、一番
番玉川上水
の下流に位
位置してい
るという自治体でございます。
杉並区の
の中の、この
の浅間橋から
ら下流は暗渠
渠と
25
そこに、い
いろいろ地域
域の課題が集
集約されてい
い
八道路から抜
抜けていく放
放射5号線と
まして、東八
いうものとか
い
か、それから東京都の都
都市計画公園
園
としての高井
井戸公園とい
いう、これか
から始まる事
事
業があります。
業
。
玉川上水
水の牟礼橋か
から浅間橋ま
までの、この
の間
が約1.2
2キロでござ
ざいますが、これが、そ
その
周りにいろ
ろいろなみど
どりの拠点が
がございます
すが、
そういった
たものと一体
体となって、みどり豊か
かな
地域となっ
っていくとい
いうことが、大事なポイ
イン
トかなと思
思っております。
これからの
の区内の中で
で、この玉川
川上水の絡む
む
地域が大変重
地
重要なポイン
ントになって
てくる。将来
来
は井の頭公園
は
園、神田川とか、それか
からこの玉川
川
上水といった
上
たところを非
非常に豊かな
なみどりの回
回
廊というか、
廊
回遊性のあ
ある環境にし
していければ
ば、
しいことだな
非常にすばら
非
なと思ってお
おります。
以上です。
(拍手
手)
○飯野正子氏
○
氏
どうもあ
ありがとうご
ございました。
りがとうござ
皆様本当にあ
皆
ざいました。
実は、玉
玉川上水があ
あり、それか
からちょっと
と北
部に井の頭
頭公園から神
神田川、それ
れから善福寺
寺公
各自治体と玉川上水の
のかかわりの
の現状という
園から善福
福寺川が流れ
れているとい
いうふうに杉
杉並
テーマのもと
テ
で、各自治
治体のこれまでの取り組
組
区はなって
ているんです
すが、一番近
近い神田川、井
みなどについ
み
てお話を伺い
いました。
それぞれに
に、玉川上水
水に並々ならぬ愛を持っ
の頭公園か
から来ていま
ますが、ちょ
ょうど久我山
山の
あたりまで
で、ずっと並
並行して来て
ているわけで
です。
て、いろいろ
て
なことを工
工夫していらっしゃると
いうことがし
い
みじみ感じられたと思い
います。
そのあた
たりは非常に
にいろいろな
な取り組みが
が、
それでは、今度は、今
今後のこと、将来の玉川
川
地域の方々
々によって自
自主的に行わ
われています
す。
上水について
上
てお話を伺え
えればと存じ
じます。今回
回
特に一番に
にぎわいのあ
あるのが、ホ
ホタル祭りと
とい
は、開催市の
は
の小平市様が
が市になって
てから50周
周
う地域のイ
イベントです
す。大変にぎ
ぎやかに、5
5万
年ということ
年
ですから、その50年
年よりもっと
人ぐらい集
集まって毎年
年、大体6月
月に開催をさ
され
遠いことを考
遠
考えると、一
一層、その近
近い将来では
は
ているとい
いうところです。
なくて、思い
な
い切って50年後、「50年後の玉
玉
26
川上水に向
向けた夢」と
としてお話し
しいただけれ
れば
今着々と進ん
今
んでおります
す。これをぜ
ぜひ、すばら
と思います
す。
しい公園にし
し
していくことが大事だな
なと思ってお
お
順番です
すが、先ほど
どは小平市の
の小林市長か
から
ります。
伺いました
たので、今度
度は逆の方向
向でお話しい
いた
に、あたり一
一帯の環境を
を発展させた
た
これを機に
だければと
と思うんです
すが、よろし
しいでしょうか。
いと思ってお
い
ります。
神田川のもう少し下流
流には、東京
京電力のグラ
杉並区の田
田中区長様からお願いいた
たします。
ウンドもありまして、そ
それを買いましたので、
○杉並区 田中区長
田
5
50年後の玉
玉川上水に向
向け
杉並区のもの
杉
になりました
た。
た夢ということですが
が、実は、こ
この10月1日
区は区制施行80周年を迎
迎えます。
で、杉並区
この激し
しい時代の変
変化の中で、なかなか5
50
年後を予想
想するというのは難しい
いことではあ
あり
ますが、夢
夢ということ
とでイメージ
ジを持って生
生き
ていくとい
いうことは、大事なこと
とだと思って
てい
ます。
先ほど触れま
ましたが、自
自然
そういう意味で、先
が見られるよ
ような清流と
として復活で
でき
にホタルが
これも神田川沿いであ
あり、そうい
いった河川に
に
ればすごくすばらしいなと思ってお
おります。
久我山の
のお祭りのお
お話をさせて
ていただきま
まし
つながるとこ
つ
ろに大規模
模にみどりが
が残っている
たが、玉川
川上水沿いの
の皆さんが、将来もいろ
ろい
地域なので、
地
こういうところの玉川
川上水やみど
ど
ろな協力、連携を図りながら、そ
そういう夢を
を共
り等の相互の
の関係というものを意識
識したまちづ
づ
おります。
有できたらすばらしいなと思ってお
いくことで、自然、みど
どり、水辺環
環
くりをしてい
境というもの
境
のの価値を高
高めていきた
たいと、こん
ん
な夢を持って
な
おります。
(拍手
手)
○飯野正子氏
○
氏
ありがとうございました。50
年後ではなく
年
将来、ホタル
ルが飛んでほ
ほ
て、近い将
しいですね。
し
それでは、続きまして
て、三鷹市の
の清原市長、
お願いいたし
お
ます。
ら、浅間橋の
の近くから北
北側には、先
先ほ
それから
ど触れまし
した都市計画
画高井戸公園
園の計画があ
ある
○三鷹市
○
清原
原市長
先ほ
ほど、最後に
にご紹介しま
のですが、企業グラウンドがあるん
んですね。
した、新橋と
し
いう橋を架
架けかえまし
した。昔は新
新
これはN
NHKと印刷
刷局と王子製
製紙です。そ
それ
しい橋だった
し
たのですが、老朽化が進
進んだので、
からその周
周りの民有地
地や京王線の
の用地も含め
めて、
前をつけるわけにもい
古橋という名
古
いかず、新橋
橋
東京都の都
都市計画公園
園の計画があ
あり、事業化
化に
として改めて
て架けかえた
たのですが、そのとき、
27
橋の名前を
を、地域の小
小学生、中学
学生に書いて
ても
くださった、この玉川上
上水サミットは、一つの
の
らいました
た。
節目として、
節
未来を切り開いていた
ただくことに
に
それは、この橋をま
また架け替え
えて、新たに
に未
いかと思いま
なるのではな
な
ます。
て、子どもた
たちがこの橋
橋の未来をつ
つく
来に向けて
には、地元の自治体だけではなくて、
そのために
り出してほ
ほしいという願いを込め
めて、公立小
小中
東京都、また流域18キロの、先
管理者である
管
先
学校3つと
と、地域の私
私立の学校の
のメンバーで
で、
ほど杉並区長
ほ
長さんも提案
案されたような、企業で
で
本当にたくさんの応募
募の中4枚を
を選んで張ら
らせ
あるとか、団
あ
団体であるとか、そうし
した皆様の連
連
ていただい
いています。
思います。
帯が必要だと
帯
玉川上水
水を未来にと
というのは、皆様共通の
の願
三鷹市では
は、緑と水の
の回遊ルート計画という
いだと思い
います。私は
は改めて、今
今日玉川上水
水サ
ことで、流れ
れをそのまま皆様の上流
流から下流に
に
ミットの場
場で、流域自
自治体の連携
携強化を、そ
そし
だけではな
流れてしまう
流
なくて、それ
れぞれの場所
所
て流域住民
民の皆様の協
協働を、さら
らには土木を
を初
で回遊する、
で
つまり一方
方的に流れて
て終わってし
し
め、技術者
者の皆様の活
活躍を提案し
したいと思い
いま
まうのではな
なく、その流
流れを一つの基準にして、
す。
皆様でその場
皆
所をめぐり、
、そして 訪ね合い、滞
訪
滞
守ること
と、維持する
ること、活か
かすこと、そ
それ
在し、交流す
在
するというようなまちづ
づくりを進め
め
は交流し、つなぎ継承
承していくこ
ことにつなが
がる
ています。
て
と思います
す。
その中で、玉川上水は
は重要な基軸
軸の一つです
す。
でもこれ
れは、決して
て容易ではあ
ありません。第
当時の土木技
技術、測量技
技術は、相当すぐれてい
い
二次世界大
大戦直後、玉
玉川上水はか
かなりの激流
流で
なければ、江
な
江戸時代、東
東京の発展を
を支える玉川
川
尊い命が失
失われるほど
どの流れでし
した。でもそ
その
上水は実現し
上
しなかったと思います。専門家によ
後、多くの
の皆様のご努
努力がなけれ
れば水は流れ
れな
土木技術だということで
れば、見事な
れ
です。
三鷹市でも、環境活動
動の一つとし
して、ライト
くなる。そ
そんな枯れた
た玉川上水に
になったかも
もし
れません。
ダウンキャン
ダ
ンペーンとい
いうのを実施
施しておりま
そうであ
あるならば5
50年後、今
今のままとは
はい
すが、この玉
す
玉川上水の関
関連の自治体
体で、環境を
を
かないかも
もしれません
んが、流れを
を維持し、そ
そし
守り、そして
守
て活かしてい
いくために、江戸時代、
て人々にと
とってかけが
がえのないよ
よりどころと
とな
ちょうちんの
の灯りで測量
量をしたとい
いうような前
前
る地域の誇
誇りとして、継続するた
ために何をす
すべ
例を聞きます
例
すと、ちょうちんというわけにはい
い
きか。私た
たちは、今日
日小林市長さ
さんが提案し
して
LEDのランプなどを掲げながら、
かないので、
か
28
その沿道が
がライトダウ
ウンし、そし
して逆に新し
しい
未来を切り開く環境の
の取り組みと
としても、あ
ある
いはまちづ
づくりの取り組みとして
ても、玉川上
上水
が帯のように意味を持
持っていけば
ばありがたい
いな
と思ってい
います。
今日お集
集まりの皆様
様は、それぞ
ぞれのご縁で
で、
玉川上水と
と深くかかわ
わっていらっ
っしゃると思
思い
ます。ぜひ
ひこの機会に
に、市域を超
超えて、区境
境を
超えて、私
私たちがつな
ながるということが、玉
玉川
上水を50
0年先、いい
いえ、もっと
と先につなげ
げる、
だから、圧
圧倒的に武蔵
蔵野市に流れ
れている玉川
川
大いなる第
第一歩になる
るのではない
いかと思いま
ます。
上水の反対側
上
側は、ほかの
の、隣の自治
治体というこ
ぜひ、今
今日の日を未
未来への扉を
をあける日に
にで
とを再認識したところでご
ございます。
きればと思
思っています
す。ありがと
とうございま
ます。
(拍
拍手)
どちらかというと、そ
その市境とい
いうのは、行
行
政の目がなか
政
かなか行きに
にくいんです
すね。両側が
が
市域であれば
市
ば、それぞれ
れの街づくりを一緒にし
し
子氏
○飯野正子
ありが
がとうござい
いました。そ
それ
ていこうとい
て
いうことが極
極めて容易な
なのですが、
では、続き
きまして武蔵
蔵野市の邑上
上市長様、お
お願
市境というの
市
のはなかなか
か手が回りに
にくいという
いいたします。
こともあります
す。
○武蔵野市
市 邑上市長 武蔵野市は
は大変狭い市
市域、
面積であります。10.73平方キ
キロでござい
いま
この自治体の
の中で一番小
小さいのかも
もし
すので、こ
れませんね
ね。ですので
で、玉川上水
水の距離は先
先ほ
ど控えさせ
せていただき
きましたが、正直申しま
ます
と4.6キ
キロもあるんですね。
狭い割に
には、意外と
と延長あるな
なというふうに
思いました
たが、特徴と
としては、市
市境になって
てい
る部分が極
極めて多いんですね。
しかし、そ
それであって
てはいけない
いなと思って
て
昨晩我が
が家で距離を
を測ってみま
ました。小金
金井
おりまして、
お
大いに玉川
川上水を中心
心に、顔を向
向
市さんとは
は250メー
ートル。西東
東京市さんと
とは
けた、玉川上
け
上水に顔を向
向けたまちづ
づくりをすべ
べ
700メー
ートル。三鷹
鷹市さんとは
は2300メ
メー
きじゃないかなと思ってい
います。
ちょうど東
東京都が、景
景観条例で、玉川上水景
景
トルという市境なんです。
観基本軸とい
観
いう指定をされておりますので、そ
そ
ういうことを
をまた活用し
しながら一体
体となったま
ちづくりがで
できないかな
なと考えてい
いるところで
で
ございます。
ご
あわせて、橋の数、歩
歩いた人間としては橋の
の
29
数も数えて
ておりますが
が、ちょうど
ど羽村から杉
杉並
思っています。
思
。
区さんまで
で約100橋
橋あるんです
すね。武蔵野
野市
そして同時
時に、玉川上
上水というの
のは、川でつ
つ
の中では2
21橋ありま
ました。とこ
ころが、江戸
戸時
ながった都市
な
市空間の一つ
つであります
すので、この
の
代からそん
んなにはふえていないんで
ですね。
中流域の7区
中
区市の連携ということもさることな
な
東京都なくしては、これはなかな
がら、やはり
が
な
江戸時代
代の資料を見
見ますと、8
82あったと
とい
ません。
か整備ができ
か
うことでご
ございますの
ので、それほ
ほど多くの橋
橋が
ふえていな
なかったということもございます。
しかし、部分的に見
見ますと、私
私どもの市の
の中
でも、橋の
の間隔が長い
いところがあ
あるんですね
ね。
ここが渡れ
れたら三鷹市
市さんのほうにすぐ行け
ける
のにな、山
山本有三記念
念館もすぐ行
行けるのにな
なと
いったようなところも
もあるのです
すが、もう少
少し
玉川上水の
の両側の歩道
道を整備する
るときには、回
遊性を増す
すための、そ
そういう架橋
橋ですね。歩
歩道
で構わない
いと思います
すが、人が渡
渡るような橋
橋が
そして、さらに上流域
域の皆様方とも連携して、
架設できな
ないかなとい
いうことを、今お願いを
をし
ておるので
ですが、なか
かなか文化資
資源、土木遺
遺構
玉川上水が一
玉
一体的なつな
ながりある空
空間整備、景
景
ということ
とで、余り手
手をつけるな
な、かけるな
なと。
観整備をすべ
観
べきではない
いかなと思っております
す。
それからもう一つの課
課題として、水の問題が
が
あります。上
あ
上水だからこそやはり水
水が必要であ
あ
ります。
案内いただきましたが、この中流域
域
先ほどご案
高度処理水で
ですね。水質
質
というのは、下水道の高
は余り心配は
は
はないのです
すが、水量だ
だとか、水温
温
だとか、その
だ
の辺がどうし
しても自然の
の環境を維持
持
するには、ち
す
ょっと物足
足りないなと思っており
ますので、今
今後の長期的
的な、将来的
的な夢と問わ
わ
先ほど私
私が話をしま
ました、土の
の素掘りの状
状況
れれば、ぜひ
れ
ひ上水の清流
流のさらなる復活をぜひ
ひ
を維持する
るんだということで、橋
橋は余り架け
ける
すべきではな
す
ないかなと、目指してい
いくべきでは
は
なというこ
ことで、文化
化庁からは余
余りいい返事
事を
っております
ないかなと思
な
す。
どうぞこれ
れからも、この玉川上水
水がそれぞれ
れ
いただいて
てございません。
しかし、人工物とい
いう、先ほど
どお話をしま
まし
の自治体をつ
の
つなぐ、大きな、大きな
な水と緑の基
基
たとおり、より一層魅
魅力的な空間
間をぜひつくっ
軸として皆様
軸
様と一緒に育
育ててまいりましょう。
きではないか
かなと思って
ておりますの
ので、
ていくべき
ありがとうご
あ
ざいました。
。
回遊性の問
問題、それか
から防災の面
面からも含め
めて、
(拍手
手)
より一層こ
これからの玉
玉川上水の機
機能というこ
こと
をもっと考
考えていって
てもいいので
ではないかな
なと
○飯野正子氏
○
氏
30
どうもあ
ありがとうご
ございました。
それでは、続きまして
て、西東京市
市の坂口市長
長様、
お願いします。
中には田んぼ
中
があります。
。
しかしなが
がら、水利が
が悪かったた
ために、水田
ができなかっ
が
たんですね
ね。そんなことを克服し
し
○西東京市
市 坂口市長 この武蔵野
野台地が開け
けた
てくれたのが
て
が、この喜平
平橋のところから分水さ
歴史を見て
てまいります
すと、府中、国分寺が古
古代
れました玉川
れ
上水であり、
、田柄川用水
水です。
これは田無
無を潤しただ
だけではなくて、お隣の
の
聖武天皇の
の詔勅で国分
分寺ができた
た時代、また
たは
府中ができた時代から開けてまいりました。
練馬、板橋を
練
を経て、石神
神井川に落ちているんで
で
府中、国
国分寺を中心
心とした歴史
史というのは
は、
すね。
す
かなり資料
料として残っ
っているんで
ですが、この
の武
それから、先ほど申し
し上げました
た、1696
蔵野台地の
の歴史というのは、先ほ
ほど鎌倉街道
道横
年、これが田
年
無用水ので
できた年であ
あり、また千
千
山道と言い
いましたが、大変希薄な
な部分がありま
川上水のでき
川
た年でもあ
あるんですが
が、この千川
川
す。
上水は、私ど
上
どもの市、武
武蔵野市さん
んとの市境を
を
その背景
景に何がある
るかというと
と、先ほど各
各市
通って、練馬
通
馬、板橋、そ
そして豊島区
区巣鴨まで行
行
長さんが言
言われました
たが、やはり命の水、水
水が
っているんで
ですね。江戸
戸を代表する6上水の一
一
なかったということがあるんですね
ね。
つとなってお
つ
ります。
ですとか、石
石神井川です
すとか、仙川
川で
多摩川で
については玉
玉川上水とい
い
もちろん、城西地域に
すとかいろ
ろいろありま
ますが、第一
一には水がな
なか
うことになりますが、今
今申し上げました千川上
上
った。それ
れが致命的で
であったとい
いうことでご
ござ
水は、城北地
水
地域の飲み水
水ですとか、生活用水を
を
います。
満たしていた
満
と言われてお
おります。
そこに、この玉川上
上水ができた
たことによっ
って、
それぐらい
い、江戸、東
東京の発展に
にとって、大
大
命の水が供
供給された。あわせて農
農業ができる
るよ
切な用水であ
切
あったということであります。今日
うになった
た。
の江戸、東京
の
京があるのも、これが全
全てではござ
ざ
玉川上水の
いませんが、
い
の恩恵によるところが大
大
きいのではないかと考えて
ております。
鈴木新田
田をはじめ多
多くの、例え
えば、私のほ
ほう
でいいます
すと、保谷新
新田ですとか
か、田無は田
田無
という名前
前でございま
ますが、実は
は田んぼのあ
ある
都市の魅力
力といいます
すのは、一つ
つにはヒスト
まちでござ
ざいます。全
全国に4つぐ
ぐらい田無と
とい
リーと言われ
れております
す。歴史です
すね。それか
か
う地名があ
あるというこ
ことですが、この歴史を
を調
らもう一つは
は、ドリームアンドビジ
ジョン。今い
い
べる者の調
調査によりま
ますと、そこ
こには全部田
田ん
ろいろなビジ
ジョンが語られましたが
が、夢ですと
ぼがあると
ということで
ですね。今で
でも東大農場
場の
か、将来に向
か
向けてのビジ
ジョンと言わ
われておりま
31
す。
(拍手
手)
それから
ら幾つかありますが、も
もう一つ挙げ
げる
とすれば、サイトシー
ーイング、景
景観という軸
軸が
○飯野正子氏
○
氏
挙げられようかと思います。
それでは、続
そ
続きまして、小金井市の
の稲葉市長お
お
ことからいた
たしますと、この水と緑
緑の
そんなこ
どうもあ
ありがとうご
ございました。
願いいたします
願
す。
コリドール
ルといいます
すか、水と緑
緑だけではな
なく
て、この津
津田塾大学も
もこの武蔵野
野台地の広々
々と
○小金井市
○
稲
稲葉市長
来
来年がどうな
なるのかと予
予
した土地と
と、それから
ら水を求めて
てやってきた
たと
想するのも難
想
難しい時代で
でありますが
が、50年後
後
いうお話で
でした。
の玉川上水が
の
がどうなって
ているかとい
いうのも、極
極
そういっ
ったことから
らいたします
すと、文化を
をも
めて想像する
め
のも困難であ
あります。
ただ、3年
年とか5年とかいうことで発言する
育んでいる
ると、そして
て歴史をつくっていると
とい
と責任が問わ
われますが、50年後の話をすれば
ば、
うことにな
なります。
ですから
ら、水と緑と
と文化のコリドールとい
いっ
責任を問われ
責
れることはな
ないだろうと思っており
てもいいの
のではないか
かと思います
すが、これを
を大
ます。
切にしてい
いきたいと思
思いますし、先ほどいろ
ろい
関係市のこの連携が保
保たれていけ
けば、きちん
ん
ろな首長さ
さんからござ
ざいましたと
とおり、連携
携を
が、次の世代
代、次の世代
代というふう
とこの財産が
して、この
の水と緑のこ
このコリドー
ールをさらに
に豊
に相続されて
に
ていくことに
になるだろうと思ってお
お
かなものに
にしていけたらいいなと思
思います。
ります。
そしてこの
の連続した空
空間というの
のが、ただ、
けではなく、上流に向か
かって、そし
し
この中流だけ
てまた下流に
て
に向かってい
いくのかなと思っており
ます。
大分開発されてしまっている下流
流部分に関し
し
ても、つち音
て
音が聞こえて
てくるときが
が来るのでは
は
ないかなと考
な
えたりしてお
おります。
50年後
後とありまし
したが、50
0年後は410
年というこ
ことになりま
ますね。50
0年後は見届
届け
ることがで
できないもの
のですから、10年おき
きぐ
らいに、小
小平市さんに
にご苦労をい
いただきまし
して、
歴史的な検
検証をしてい
いくことが、玉川上水を
を守
り、この地
地域で活用し
していく源に
になっていくの
ではないか
かと思います
すので、ぜひ
ひ次は60年
年、
小金井市に
にとりまして
ては、どうし
しても小金井
井
70年後へ
へとつなげて
ていっていた
ただければあ
あり
がたいなと考えています。
桜ということ
桜
になります
すし、また玉
玉川上水の桜
桜
どうぞよ
よろしくお願
願い申し上げ
げます。ありが
を復活させた
を
たいということで、今取
取り組んでい
い
とうござい
いました。
るわけですが
が、江戸時代
代からのこの
の桜の名所を
を
32
再び復活さ
させていくの
のが、大きな
な目的になる
るだ
次の、次の世
次
世代が参加し
し、盛大に開
開催されるこ
ろうと思っております。
とになるだろうと思って
ております。そのときに
に
非常に困
困難になって
ていくのは、五日市街道
道の
は、この50
は
周年を祝った、この玉
玉川上水サミ
交通渋滞で
ではないかな
なと思ってお
おります。非
非常
ットが懐かし
しく語られるのかな、報
報告されるの
の
に交通渋滞
滞が激しく、道路幅がな
ないというこ
こと
おります。
かなと思って
か
です。都市
市計画事業を
を進めていくということ
とに
我々の先達
達が当時の英
英知を集めて建設された、
なれば、果
果たしてどうなってしま
まうのかとい
いう
この貴重な財
財産である玉
玉川上水が、いつまでも、
ことは大きな課題であります。
いつまでも多
い
多くの方々に
に愛され、保
保存され、活
活
そういう意味では、新交通シス
ステムの導入
入な
用されること
用
を心から願う次第であり
ります。
し、今の五日
日市街道、小
小金井市域な
など
どに期待し
ですから、遠
遠くからその
の様子を見さ
50年後で
においては
は、歩行者専
専用のような
な形になって
てい
せていただき
せ
たいなとい
いうふうに考
考えておりま
ければいい
いなと、そうすればウォ
ォーキング、ジ
す。ありがと
す
うございます
す。
ョギング、バードウォ
ォッチングな
なども、十分
分に
(拍手
手)
楽しめるよ
ようになって
ていくのかな
なと、夢かも
もわ
かりません
んが、50年
年後には期待
待したいなと
と思
○飯野正子氏
○
氏
います。
それでは、続
そ
続きまして、立川市の清
清水市長様、
また、先
先ほどから出
出ているように、清流を
を復
どうもあ
ありがとうご
ございました。
ます。
お願いいたし
お
活させるこ
ことによって
て、ホタルが
が復活すると
とい
うのも、大
大きな期待で
ではないかな
なと、そうい
いう
○立川市
○
清水
水市長
東京
京のど真ん 中、東西に
に
ことにも期
期待していき
きたいなと思
思っておりま
ます。
40キロにも及ぶ一大グ
グリーンベル
ルトがある。
関係市が
が玉川上水を
を守るということで、お
お互
これはただ単
単に、一自治
治体の宝とか
か、そういう
いに連携を
を深めること
とによって、友好を深め
める
東京都民、あ
あるいは日本
本
ことではなくて、私は東
ことによっ
って、これが
が果たされて
ていくのでは
はな
国民の非常に
国
に大きな財産
産であると思
思っておりま
いかなと思
思っております。
す。
す
小金井市
市としまして
ては、桜を通
通じて、奈良
良県
の吉野町、それから茨
茨城県の桜川
川市、そして
て岩
これを前提
提にちょっとお話をさせ
せていただき
手県の北上
上市はもちろ
ろん、多くの
の地域との交
交流
たいのですが
た
が、私は津田
田塾大学に初
初めて、今日
を活発に続
続けてほしいなと思ってお
おります。
させていただ
足を踏み入れ
足
だきました。
びっくりし
しましたのは
は、赤松が、大木がたく
小平市の
の市制施行100周年に
には、私たち
ちの
33
さんあると
ということな
なんですね。赤松というの
は、非常に
に公害に弱い
いと言われて
ています。
松
私は詳しい
いことはわか
かりませんが
が、おそらく
そういうこと
そ
で赤松がな
なくなってきたんだと思
思
女
というぐらいの別
別名があるぐ
ぐらいですか
から、
います。
い
な木なんですね。
ナイーブな
黒松は丈
丈夫です。で
ですから海岸
岸線とかそうい
うところに
にあるのは、
、もう全部 黒松ですね
ね。
荒々しい気
気候には耐え
えられないの
のは赤松であ
あり
ます。
それともう一つ、ホタルの話があ
ありました。
独自に下水
立川市では、
立
水処理場を持
持っておりま
す。小さな川
す
川があるんで
ですね。根川
川という小さ
な、湧水を水源
な
源とする川で
です。
ここの水が
が枯れてしまいましたの
ので、立川市
市
私が子ど
どものころ、もう半世紀
紀も前になりま
ている下水
の独自で持っ
の
水の処理場か
から、高度処
処
す。玉川上
上水べりには
は赤松がたくさんありま
まし
理水をそこへ
理
へ引きまして
て、今流して
ております。
た。なぜ赤
赤松がたくさ
さんあったの
のを覚えてい
いる
10年ほど前
前にホタルの復活をそこでやろうと、
かといいま
ますと、実は
はあの当時は
は、玉川上水
水で
たんです。
実験をしてみ
実
泳ぎました
た。体育の時
時間に体育の
の先生が、夏
夏に
そうしたら、どうして
てもそのホタルの餌にな
な
なると、今
今日は行こうということ
とで、体育の
の教
るカワニナの
の生育が悪い
い。いろいろ調べてみま
師を先頭に
に玉川上水で
で泳がせてい
いただきまし
した。
したら、三次
し
次の高度処理
理水でもリン
ンと窒素、こ
はだしで
で、裸で上水
水の岸辺を歩
歩くものです
すか
れの除去がな
れ
なかなかうまくいかない
いんだそうで
で
ら、松の木
木にぶつかる
ると肌が痛い
いんですね。は
す。
す
だしの足に
には、松の木
木の松ぼっくりや落ち葉
葉が
そのリン分
分が多いと、カワニナが
がうまく育た
た
あります。足の裏がと
とっても痛い
いんです。そ
そう
ない。カワニ
な
ニナが育たな
なければ、ホ
ホタルの餌が
が
で厄介な木だ
だなと思いな
ながら、その
の当
いうことで
ない。こうい
な
う循環になります。
それで、これからまた
たもう一度、そのリン分
分
時は思って
ておりました。
今、ほと
とんど玉川上
上水べりには
は赤松がありま
をうまく処理
を
理できる方法
法がないかということで
で、
せん。これ
れは、全体的
的に、30年
年、40年前
前の
民間の団体の
民
の方々と、少
少し今手をつ
つけ始めまし
し
東京の空気
気が汚かった
た。排気ガス
スによって、一
た。うまくい
た
いったら、中
中流域の三次
次処理水が流
流
酸化炭素が
が多いガスを
を車が吐き散
散らしていた
た、
れている川沿
れ
沿いの皆さん
んにも、その
のノウハウが
が
これも大き
きな原因であ
あろうと思い
いますが、そ
それ
お伝えできる
お
のかなと。
ともう一つ
つ、やはり住
住宅が迫って
てきて、ナイ
イー
これは1年
年や2年では
はちょっと難
難しいなとい
い
ブな木には
は住みづらい
い気候になっ
ってきたんで
でし
うふうに言わ
われています
す。4、5年
年かかるかな、
ょうね。
そんな気持ち
そ
でおります
すが、50年
年後には、玉
玉
34
川上水の中
中流域にホタ
タルが舞って
て、そして赤
赤松
いうのが高ま
い
ったと思っております
すので、今後
後
が、あの美
美しい赤松の
の木が、玉川
川上水べりに
には
の玉川上水の
の
の周辺環境を
をどうしてい
いくのか、こ
生えている
るんだろうと
と、こんな玉
玉川上水にな
なっ
れはみんなで
れ
で一生懸命考
考えるべきだ
だと思ってお
お
たらいいな
なと願ってい
います。ありがとうござ
ざい
ります。
小平市にお
おいても、幅
幅広い意見を
を持った市民
民
ました。
(拍
拍手)
の方が大勢お
の
おられます。実際にそこに住んでい
い
る市民の皆さんがこの地
地域のことを
を決めていく
子氏
○飯野正子
ありが
がとうござい
いました。赤
赤松
覚悟と責任、
覚
自覚というものがこれ
れから必要だ
だ
ろうと思っております。
とホタルが
がとても楽しみでございま
ます。
それでは
は続きまして
て、小平市の
の小林市長様
様、
お願いいた
たします。
○小平市 小林市長
小
そ
それでは、私
私が最後にな
なり
ますが、ど
どうぞよろしくお願いいた
たします。
50年後
後の玉川上水
水に向けた夢
夢について、少
しお話をさせていただきます。
50年後
後と言えば、玉川上水は
は開削400
0年
を超えます
すが、非常に
に貴重な史跡
跡であり、そ
それ
ぞれの首長
長さんも、こ
この玉川上水
水そのものが
が適
一方で、玉
玉川上水は、 羽村から新
新宿まで、
正に保存さ
されていくと
ということが
が重要だとお
おっ
13の自治体
体にまたがる大きな水路
路でもありま
しゃってい
いただきました。
す。それぞれ
す
れが、好き勝
勝手にしてい
いたら、玉川
川
上水の価値は
上
はどんどん失
失われていくものと思っ
ております。
て
やはり、広
広域的に一定
定程度のルー
ー
ルといいまし
ル
しょうか、つ
つながるとい
いう意識を持
持
つことが必要
つ
だと思ってお
おります。
本日は、せ
せっかく中流
流域の全首長
長さんに集ま
っていただきましたので
で、50年後
後の価値ある
玉川上水のた
玉
ために、この
のような自治
治体同士のつ
つ
ながりを今後
な
後も継続をし
して、情報の
の共有などに
に
努めてまいり
努
たいと思って
ております。
そして周
周辺のみどりは多くあっ
ったほうがい
いい
さて、今後
後の時代を想
想像したとき、今までの
の
という意見
見や、開削当
当時の桜だけ
けでいいとい
いう
高度経済成長
高
長期から安定
定的な時代を
を経て、昨今
今
意見など、さまざまな
な考え方があ
あろうかと思
思い
の経済情勢な
の
などを考えますと、これ
れからはもの
の
私はそういっ
った多様な意
意見をもとに
に、
ますが、私
の豊かさから
の
時代がさらに
に
心の豊かさを求める時
市民や行政
政、東京都も
も含めて、大
大いに議論を
を深
進行すると思
進
われます。
現在も、玉
玉川上水沿い
いを歩く方は
は大変多くお
お
めていくべ
べきだと思っております。
。
周辺環境
境の状況によ
よって、玉川
川上水の価値
値と
られますが、その理由は
はやっぱり、土の道を歩
歩
35
く心地よさや癒される気持ちだと思
思います。
した。市長様
し
様、区長様の
の夢、そして
てその熱い、
50年後
後も心地よい
い玉川上水を
を大勢の方が
が歩
玉川上水にか
玉
かける熱い思
思いについて
てお話しいた
た
き、心が豊
豊かになるよ
ように、玉川
川上水の周辺
辺環
だきまして、感
だ
感動いたしま
ました。
境などを大
大切にしてい
いくべきだと
と考えておりま
それから驚
驚きましたの
のは、市長様
様も区長様も
す。
すごいですね
す
ね。時間の厳
厳守というの
のは、これは
は
また、周
周辺の住民だ
だけではな くて、多く の
ちょっと大学
学では見られ
れないことだ
だと思いまし
し
方々に訪れ
れてもらえる
るように、ウ
ウォークラリー
た。
た
ともかくも、国の史跡
跡として指定
定されている、
や水際まで
で玉川上水に
に降りられる
るような場所
所を
つくるなど
ど、仕掛けも
もしていく必
必要があると
と思
この玉川上水
水の意味を非
非常に深く認
認識されて、
います。
区長様、市長
区
長様、それぞ
ぞれにいろい
いろな工夫を
を
なさり、努力
な
力をなさって
ていて、非常
常にいろいろ
お話が楽しく
お
伺えました
たが、この努
努力というか
か、
そして熱い思
そ
思いというの
のは、きっと、きっと将
将
来につながっ
来
ていくことと、私自身
身信じており
ます。
のあたりは、玉川上水と
それから、昔は、この
いうのは緑が
い
がなかったというお話で
で、今は緑豊
豊
かな玉川上水
か
水というふうになってい
いるわけなん
ん
ですが、今の
で
の様子からし
して、近代化
化された都市
市
玉川上水
水を維持管理
理するだけで
ではなくて、私
の中の貴重な
の
な緑、これを
を大切にして
ていきたいと
はもっと積
積極的に利用
用する、そし
して活用する
ると
いう皆様のお
い
お気持ちが非
非常に強く感
感じられまし
し
いうことが
が重要だと考
考えておりま
ます。小平市
市に
た。
た
先ほどお話
話にありまし
した言葉の中
中には、水と
立ち返ってみますと、50年後は市制施行
100周年
年を迎えることになります
す。
緑のコリドー
緑
ール、そして
て水と緑と文
文化のコリド
ド
先ほども
もありました
たが、私も当
当然生きてい
いな
ールというこ
ー
と、これは
は目指してい
いきたいもの
の
いわけであ
ありますが、小平市とい
いう枠組み、こ
と思いました。
。
れもあるか
かどうかわか
かりません。50年後も
も玉
いずれにい
いたしまして
ても、私も含
含めまして、
川上水にか
かかわるさま
まざまな団体
体が連携して
て、
今小林市長の
今
のお話にもあ
ありましたが
が、玉川上水
水
より盛大に
に大きなイベ
ベントが行わ
われることを
を期
が今ここにあ
が
あって、市民
民生活、あるいは学生生
生
待をしてお
おります。
活に非常に貴
活
貴重な役割を担っているということ、
玉川上水
水がみんなに
に親しまれる
る形で、50年、
そして、それ
そ
れを認識しな
ながら前向きに、さらに
に
100年と
と残っていくことを願っ
って、私の5
50
利用、活用し
利
していきたい
いということ、これが皆
皆
年後のイメ
メージとさせ
せていただき
きます。ありが
様の共通の見解
様
解ではないか
かと思います
す。
とうござい
いました。
ここに集う自治体の皆
皆様が、先ほ
ほど出ました
た
(拍
拍手)
言葉では、夢
言
夢を共有するということ、これはす
す
だと思います。私もぜ
ばらしいこと
ば
ぜひぜひ応援
援
○飯野正子
子氏
させていただ
だきたいと思
思っております。そして、
皆様本
本当にありが
がとうござい
いま
36
その次の世代、その次の世代、50年後、
100年後につなげていきたいと願っておりま
す。
それでは、ちょうど時間ですね。ここでマイ
クを司会の方にお返しいたします。
(拍手)
○司会
飯野先生、各市長、区長の皆様、あり
「玉川上水サミット宣言」
がとうございました。
一
(拍手)
開削から現在に至るまでの先人の歩みと、
飯野先生におかれましては、基調講演をはじ
その労苦に敬意を表するとともに、国の史跡指
め、パネルディスカッションの進行まで、本当
定文化財として、貴重な歴史的土木遺稿である
にありがとうございました。ここで飯野先生は
ことを再認識し、次の世代に玉川上水を継承し
降壇されますので、いま一度拍手でお送りくだ
ます。
一
さい。ありがとうございました。
都市における貴重な緑の軸線として、関
係機関と連携を図り、今後も周辺の環境や街づ
(拍手)
くりと調和した玉川上水の景観を大切にしてい
さて、本日、この玉川上水サミットを開催す
きます。
るにあたり、中流域の7つの自治体において、
一
今後の玉川上水に関する基本的な共通の考え方
地域住民の憩いの場や交流の場として、
また観光や地域活性化等の舞台として、玉川上
について、宣言を作成してまいりました。
水の活用を図ります。
この玉川上水サミットの締めくくりといたし
一
まして、宣言の読み上げを行います。
玉川上水中流域自治体における継続的な
連携を推進します。
それでは、市長、区長の皆様、舞台前方へ移
平成24年9月29日、宣言をいたします。
動をお願いいたします。
(拍手)
また、報道関係でお写真などを撮られる方は、
前へどうぞお進みください。
(移動)
それでは、小平市の小林市長、よろしくお願
いいたします。
○小平市 小林市長 それでは、各市いろいろと
お立場はございますが、お互い合意したところ、
○司会
小林市長、ありがとうございました。
共通のところは前向きに進めていこうというこ
皆様、盛大な拍手をもう一度お願いいたします。
(拍手)
とで、宣言を読ませていただきます。
市長、区長の皆様ありがとうございました。
前文がありますが、割愛させていただき、4
それでは、各市長、区長の皆様が降壇いたしま
項目の合意事項を宣言いたします。
す。ありがとうございました。
37
(拍手)
これをもちまして、玉川上水サミットを閉会
いたします。本日はお忙しい中、たくさんの方
にお越しいただきまして、誠にありがとうござ
いました。
ご記入いただきましたアンケート用紙と鉛筆
は、出入口付近の回収ボックスにお入れくださ
い。
本日は誠にありがとうございました。お気を
つけてお帰りください。
38
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