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医療行為・製薬イノベーションを めぐる法律問題:欧米最新動向
知的財産セミナー報告 医療行為・製薬イノベーションを めぐる法律問題:欧米最新動向 〈日 時〉 2010年6月26日 13:00 〜 17:30 〈場 所〉 東京医科歯科大学 臨床講堂 第1部:治験をめぐる法律問題 〈講 師〉 Prof. Patrcia Kuszler(Director, Health Law Program, Professor of Law University of Washington School of Law) Prof. Beth Rivin(Director, Global Health & Justice Project University of Washington School of Law) 萩原 正敏 氏(東京医科歯科大学大学院 疾患生命科学研究部 教授) 〈司 会〉 竹中 俊子(Director, CASRIP, Professor of Law, University of Washington School of Law) 第2部:ビルスキー最高裁判決・エリアッドCAFC大法廷判決の比較法的考察:医療行為発明 の特許保護とベンチャービジネスインセンティブ 〈講 師〉 Dr. Andrew Serafini(Fenwick & West LLP, Seattle, U.S.A) Dr. Jan Krauss(Boehmert & Boehmert, Munich, Germany) 窪田 良 氏(Acucela Inc. 取締役会長兼CEO) 〈司 会〉 高林 龍(Director, RCLIP, 早稲田大学 教授) 〇飯田准教授 本日は特別講演会「医療行為・ いします。 製薬イノベーションをめぐる法律問題」にお越 〇森田教授 ご紹介いただきました森田です。 しいただきましてありがとうございます。本日 本日はお忙しい中お集まりいただきましてあり の講演会は早稲田大学グローバルCOE知的財 がとうございます。本講演会の開催にあたりま 産法制研究センター,ワシントン大学ロース して主宰者を代表して一言ご挨拶申し上げます。 クールCASRIP,東京医科歯科大学知的財産本 本日の講演会「医療行為・製薬イノベーショ 部の共催にて開催いたします。はじめに,東京 ンをめぐる法律問題:欧米最新動向」は,ワシ 医科歯科大学研究担当理事・副学長の森田育男 ントン大学ロースクール教授兼早稲田大学客員 教授よりご挨拶申し上げます。森田先生,お願 教授の竹中俊子先生と,早稲田大学法学部教授 5 の高林龍先生のご協力の下,豊かな経験を持つ ただき遠路よりお越しいただきました講演者の すばらしい講演者にお集まりいただいています。 先生をはじめ,本講演会の企画運営にご協力い 本学のような医学系の大学にとって,今回の ただきました高林先生及び竹中先生に厚く御礼 ような文理融合というかたちで社会科学の立場 申し上げますとともに,本日ご参集いただきま から産学連携を考える講演会は大変重要な機会 した皆様のますますのご発展とご活躍をお祈り と考えていまして,幅広い議論に展開するもの 申し上げまして私の挨拶とさせていただきます。 と期待しています。 今日はどうもありがとうございました。(拍手) 現在わが国の医薬品業界では,2008年ごろか 〇飯田准教授 森田先生,ありがとうございま ら2012年ごろにかけて次々に大型医薬品の特許 した。では,さっそく講演会を始めます。 切れの時期を迎えるといわれ,未だ有効な治療 第1部では,まず,ベトナム及びカンボジア 方法がない医療ニーズや従来の治療体系を覆す における医療援助について,東京医科歯科大学 新薬への挑戦として,今後一層,産官学の連携 大学院疾患生命科学研究部の萩原正敏教授より が求められると考えています。そして,医薬品 お話をいただきます。次いで,ワシントン大学 の開発に向けては是非とも大学に潜在する質の ロースクールの医療法の専門家であるPatricia いい基礎研究力や大学病院におけるトランス Kuszler教授とBeth Rivin准教授から,治験をめ レーショナルリサーチ力を持って貢献したいと ぐる法律問題,研究倫理などに関するお話をい 考えていますが,それと同時に,関係する法令 ただきます。それから,ワシントン大学ロース や倫理面への配慮が必要だと考えております。 クールの竹中俊子教授の司会でパネルディス そこで, 本日の講演会の第1部では, 「治験を カッションを行います。 めぐる法律問題」として,医療法が専門である, それでは竹中先生,お願いします。 ワシントン大学ロースクール教授のPatricia 〇竹中教授 ご紹介ありがとうございます。ワ Kuszler先生と,准教授のBeth Rivin先生,そし シントン大学の竹中です。今日は暑い中お越し て,本学にてバイオベンチャーを立ち上げるな いただきましてありがとうございます。これか ど活発な産学連携をおこなっている疾患生命科 ら非常にヒートアップしたいろいろなディス 学研究部教授の萩原先生からお話を伺います。 カッションが行われ,なおさらこの部屋の中が この医療行為をめぐる法律問題は,産学連携を 暑くなるのではないかと考えております。 実施する組織としてとても重要なお話をいただ ワシントン大学では,昨年医療法のLL.M.プ けると考えております。 ログラムを開始しました。これは弁護士だけで さらに,第2部では,アメリカの最新判例を はなく医療関係者をも対象とし,例えば医療過 題材とし, 「医療行為発明の特許保護とベン 誤の問題ですとか,病院の経営の問題ですとか, チャービジネスインセンティブ」として,医学 研究倫理の問題ですとか,知財の問題ですとか, 博士であり特許弁護士のAndrew Serafini先生, また,非常に幅広くアメリカの法制度,比較法 ヨーロッパ特許弁護士のJan Krauss先生,そし の観点からも勉強できる,そのようなブログラ て,アメリカにてバイオベンチャーを立ち上げ ムです。 て順調に研究開発を進めているAcucela社の取 それでは,さっそく第1部を始めます。最初 締役会長兼CEOの窪田良先生にご講演いただ に萩原先生から,特にグローバルヘルス関係の きます。 様々な医療扶助の活動についてご報告いただき この講演会が,医学研究及び医療技術の発展 ます。次いで,そこで問題になる治験の倫理基 に寄与することとなり,その最新事情と動向に 準の問題ですとか,いろいろな研究の素材の所 ついて皆様のご理解の一助となりましたら幸い 有権の問題等を,法律上の問題としてPatricia であります。この講演会へのご参加をご快諾い Kuszler先生とBeth Rivin先生からご報告いた 6 だきます。最後に,会場のみなさんからご質問 した。で,フランスから独立した段階でそのフ をいただくことができればと思っております。 ランス語読みを英語表記にしました。その結果, それでは,萩原先生,よろしくお願いいたしま ベトナムの地名や人名はベトナム人以外には理 す。 解が困難になっています。そのような歴史的な 〇萩原教授 ご紹介いただいた萩原です。私は 経緯を有する国です。ただし,中国の文化の影 7月1日から京都大学に移るので,先日の最終 響を受けているためか料理はとてもおいしいで 講義でサイエンスについてお話しいたしました。 す。 今日はもう少しプリミティブなお話をさせてい ベトナムの空港をでると,車が自転車やバイ ただきます。 クの大群に囲まれるという光景に出くわします。 最近友人とメコン・メディカル・エイドとい 現在少なくとも上海や北京では車が整然と走っ うNPO法人を作りました。これは,メコン地域, ていますが,20年前に中国に行かれた方はその つまりベトナム,ラオス,カンボジア,ミャン ような光景に出くわしたと思います。ベトナム マー,それから中国の南部も含みますし,タイ はだいたい15年ぐらい前の中国の状況に似てい の一部も含みますが,そのような地域に医療援 ます。おおまかな印象ですが,病院のレベルや 助を行うNPO法人です。アリソワ総合病院に事 法律整備の状況も15年か20年ぐらい前の中国に 務局を置いて,ボランティアで,単に金銭的な 近いのではないかと感じます。バイクが大活躍 寄附を行うというのではなくて医療機器,医薬 していて,バイクで豚はおろか牛さえも運んで 品や様々な技術を提供するという活動を行って いる光景に出くわします。 います。それを通していろいろなことが見えて 今,日本では宮崎で口蹄疫が流行っていて,い きましたので,そのことをお話しいたします。 つどこに飛び火するかということで大騒ぎに Patricia Kuszler先生やBeth Rivin先生も治 なっていますが,ベトナムではそんなことは 験の話をされると思いますが,日本の臨床試験 まったく気にされていません。ですから,ある 機関などから,中国での治験のコストも上がっ 牛が口蹄疫に感染しているかどうかわかりませ てきているのでベトナムで治験を行いたいから ん。ベトナムに口蹄疫に感染している牛がいる 協力してくれと頼まれています。しかし,まだ 可能性はかなり高いと思います。このような状 お引き受けしていません。今日の話を聞いてい 況ですから,周辺の地域の医療水準やメディカ ただくと,なぜ引き受けると言えないかという ルサイエンスのレベルを上げないと,日本だけ のを分かっていただけると思います。 でいろいろ対策を立てても感染を防ぐというの ベトナムは,人口は8,500万人,面積32万9千 は難しい時代になっています。 平方キロですから,37万平方キロの日本より少 例えば鶏も何十匹とバイクにくくり付けられ し小さい国です。人口もあと15年か20年で日本 て運ばれています。この鶏が鳥インフルエンザ とベトナムの人口は逆転するそうです。ですか にかかっていない保証はどこにもありません。 ら,決して小さな国ではありません。 私が共同研究者に鳥インフルエンザに対する新 もちろんベトナム語は独自の言葉ですが,ベ 薬の試験をしたいと相談すると,「じゃあ,その トナムは広い意味で中国の文化圏の一部で,古 辺の鳥を10羽捕まえてくれば1羽ぐらいは鳥イ いお寺に行くと漢字が書かれています。ベトナ ンフルエンザにかかっているよ」と言われます。 ムの人の名前はなかなか読みにくいのですが, ですから,鶏をバイクで運ぶ人は当然鳥インフ 読みにくい理由は,基本的に中国名であるから ルエンザの脅威にさらされていることになりま です。ベトナムの地名や人名は,漢字で書くと す。 日本人にも理解できます。ところが,フランス 少し古い統計によれば,ベトナムでは鳥イン の占領下にあって漢字をフランス語読みにしま フルエンザで年間100人以上の方が亡くなって 7 います。 鳥インフルエンザで年間100人以上亡く 実に治験のデータをとるというのは極めて困難 なっている国はインドネシアとベトナムだけで です。これが,ベトナムで最大といってもいい す。ベトナムの人口はインドネシアの3分の1 バックマイ病院の現実の姿です。 程度ですから,人口あたりにするとベトナムは 私の友人であるハノイ医科大学のロイ副学長 鳥インフルエンザの密度が最も大きい国といえ に,このような状況でいいのかと聞いたことが ます。日本ではどこかの鶏が鳥インフルエンザ あります。しかし,もし病院が1ベッドに1人 に感染するとその周辺の鶏をすべて殺処分する しか収容しないということに決めたら,ここに という騒ぎになりますが,ベトナムでは鳥イン いる人たちのほんの一部かしか収容できないと フルエンザは常に存在しています。鳥の間に常 のことでした。ですから,ハノイ医科大学もそ 在し,ある確率で人に感染するという定常状態 うしたくてやっているわけではないのです。押 になっています。その他にも様々なウイルス性 し寄せる患者に対して医療設備が決定的に不足 の疾患があります。例えばベトナムやメコン地 しているというのが今のベトナムやその他のメ 域にはデング熱の患者もたくさんいます。 コン地域の国々の状況なのです。 このようなウイルス性疾患をなんとかできな また,我々は,日本のJSTのサポートを受け いかと思ってベトナムと共同研究を始めました。 てハノイ医科大学や国立ワクチン・微生物研究 1つは,ハノイ医科大学のバックマイ病院です。 所と新薬開発に向けた共同研究を始めました。 もともと私と友人とでハノイ医科大学に人工透 その一環として,日本に留学生を送ってもらい, 析器を寄附する活動をしていました。日本では 留学生このような技術開発にも参加してもらう 人工透析器は1台一千万円以上する高価な機械 と同時に,将来的に治験がきちんと行えるよう なのですけれども,日本の患者は最新の機械で な教育を受けていただこうと考えています。 の透析を希望するので,病院などでは5年くら また,ベトナム保健省のチェン副大臣は,医 いして新しい型が出ると機械を買い換えてしま 師でもあり,すごく若くで,おそらく保健省の います。そこで,まだ使える中古の機械をメン 次期トップになるだろうといわれる方ですが, テナンスして無償でハノイ医科大学に寄附して そのチェン副大臣を訪問し,単に建物を建てる いたのです。そして,その受取先がハノイ医科 というODAではなく,技術開発や感染症の新薬 大学のバックマイ病院でした。このような人工 開発等のプロジェクトを立ち上げました。現在, 透析器を寄附するという活動を今も続けていま ハノイ医科大学の医師が私の研究室で抗ウイル す。 ス薬の研究をしています。 それが契機となりまして,何回も現地に行き, このように,ハノイとはいろいろやっていま いろいろな病棟を見せてもらいました。バック すが,大阪の高槻市のロータリークラブに協力 マイ病院の敷地内には,患者とか患者の家族で していただいてカンボジアとも日本脳炎ワクチ 人があふれ,こうした方が病院の構内でいろい ンプロジェクトを行っています。カンボジアは ろなものを食べたり座り込んだりしている状況 ベトナムの隣の国で,人口は1,300万人ぐらいと でした。また,感染病棟を見せていただきまし ベトナムより小さな国です。医療水準等はベト たが,1つのベッドには平均して2人,多いと ナム以上に遅れています。 きには3人の患者が寝ていました。しかも,家 日本ではアンコールワットなどの遺跡のイ 族が床で寝ていたり,感染病棟を子どもが走り メージが強いと思いますが,現地は当然1,300万 回っていたりという状況でした。窓も開けっ放 人の人々が暮らしていて,まだ戦争の傷跡も完 しです。このような場所で治験をやれといわれ 全には癒やされておらず,街中にはがれきのよ ても, 一体何をやるのか分からなくなります。 で うな状態の部分も残っています。トイレに行っ すから, 患者はたくさんいるのですけれども, 現 ても紙のないところもたくさんありましてこの 8 ような場所に行くと困ることになります。ただ, ています。感染症の子どもを治せるような薬が 政府の建物はなぜか立派です。 できたら,そしてそのような薬を量産してNPO 東南アジアでは日本脳炎で死ぬ子どもがまだ 法人が現地に配って患者さんに飲んでいただけ たくさんいるといわれています。正式な統計が れば,このようなことに日本のODAが資金を提 ないので,一体何人が感染して何人が死んでい 供してくれれば,あのような建物を作るよりは るかという実数さえ分からないという状況です。 はるかに有効な援助になるのではないかと考え ワクチンさえあれば日本脳炎は治るのですが, ます。 カンボジアではほとんどワクチン接種が行われ イラク戦争の際に,日本はアメリカのアーミ ていません。そこで,ロータリークラブに協力 テージ国務副長官から「Show the flag」と言わ していただいてカンボジアに日本脳炎ワクチン れました。わたしの提案は,これこそShow the の接種を行うという活動を行っています。 flagであると。それも平和的なShow the flagに ただ,ワクチンをカンボジアに送ってもそれ なるのではないかと考えます。以上です。どう だけでは意味がありません。現地で接種が行わ もありがとうございました(拍手)。 れなければいけないのです。ここが医療援助の 〇竹中教授 萩原先生ありがとうございました。 難しいところで,現地の病院に協力していただ 開発途上国では治験をやりたくてもやれないと かないとこのようなことができません。セン いうことでしたが,そこには設備などの物理的 ソック国際大学というのは,私立で初めての医 な問題のほか法律上のリスクを伴うということ 科系の大学だそうですが,そこの大学病院の協 もあるかと思います。また,医療サービスが人 力を得てワクチンの接種をすることになりまし 体実験などというようにいわれてしまってはそ た。活動を開始してみると,資金はロータリー れこそ困るわけで,これから世界的な基準を定 クラブが出すのですが,日本でワクチンを買う 立していくことが必要かもしれません。そのよ と異常に高いということに気がつきました。い うな大きな試みを,わたしの同僚であります ろいろ調べると中国のワクチンは半額であるこ Beth Rivin先生に講演していただきます。 とが分かり,さらに調べたらタイのワクチンは Beth Rivin先生も,Patricia Kuszler先生も, さらにその半額であるということが分かりまし ロースクールに来る前は医師として実際に医療 て,結局タイ製のワクチンを買って隣国のカン サービスを行っていた方であります。そのよう ボジアに持っていくということになりました。 な実務経験とまた理論を一体化させて非常に このように実際にメコン地域のいろいろな活 チャレンジングなトピックについてお話いただ 動に参加してみると,日本の大学にいただけで きます。では,Beth Rivin先生,お願いいたし は分からないことがいろいろ見えてきます。何 ます。 で日本ではこんなにワクチンが高いのだろうと 〇Beth Rivin准教授 皆さんこんにちは。本日 か,そのようなことも疑問も浮かびます。厚生 は,資源に乏しい国と正義の先端の問題に焦点 労働省が安全なら高価でもよいという考えを捨 をあて,研究の倫理についてお話しします。 てて,安全で安いものを調達するという当たり まず,我々が把握すべき歴史といくつかの基 前の感覚を持ったら,医療コストもずっと下が 準についてグローバルな観点から簡単にコメン るのではないかと考えます。 トします。それから,アメリカの裁判例につい バックマイ病院の新しい病棟は日本のODA てお話しします。これは,Abdullahi対Pfizer社 で建てられました。病院にある小さいパネルに の,ナイジェリアのケインで1996年に起きた事 日本のお金で建てられたことが記されています 件です。最後に,資源の乏しい国での正義につ が, 現地の方にはほとんど知られていません。 私 いて述べます。 は今の技術では治らない人の病気を治そうとし グローバルフォーラムによる2008年のデータ 9 によれば,ヘルスリサーチの研究費が指数関数 10のガイドラインを示しますが,1つ目は任 的に増えています。民間のもの,官のもの,そ 意の同意です。これは本当に重要です。2つ目 れからNPOのもの,いずれも増加しています。 に科学的に厳格であれと述べられています。ま ここで,グローバルヘルスリサーチという概念 た,6つ目にはリスクは問題の重要性と比較考 には臨床研究だけではなく公衆衛生に関する研 量しなくてはならないとされています。これは 究も含まれます。また,疫学に関する研究も含 後でまた話します。 まれます。つまり,グローバルヘルスという言 バイオテクノロジーや研究倫理の規範は進化 葉には非常に広い意味に用いられています。 を遂げてきました。この進化にはいくつかラン 世界には大きな不平等が存在しています。研 ドマークとなるものがあります。ニュルンベル 究開発について議論をする際にはこの点を理解 グ綱領の後に,ワールド・メディカル・アソシ することが必要です。10対90のギャップという エーション,世界医師会,ヘルシンキ宣言など ことがよくいわれます。1990年に公表された 様々なルールが作られましたし,改定も行われ 1986年のデータによれば,世界全体の疾患の ました。一番最近のものは2008年の改定です。 90%に費やされている研究費は疾患についての このように,第二次世界大戦後,研究倫理に 世界全体の研究費の10パーセンド未満にすぎま 関して新しい理解が台頭していますが,この動 せん。 コミッション・オン・ヘルスリサーチ, こ きは人権の動きとルーツを同じくします。つま れはグローバルフォーラムと名前を変えていま り,世界人権宣言には研究倫理の規範といろい すけれども,2003年,2004年の調査をみると,こ ろな共通事項があるということもいえます。 の10対90のギャップは現在でも続いていること 1979年には生命医療及び行動研究の被験者保 がわかります。これをなんとか是正しようとい 護についての国内委員会からベルモント報告書 う動きは出てきてはいますが,今のところ小さ が出ました。この文書は研究倫理の基盤を述べ な動きにとどまっています。 るだけではなく,それまでされていなかった正 もともと我々の研究倫理に関しての規範はど 義の話を述べています。自治や個人に関しての こから始まったのか。これは端的にいうと搾取 尊厳といった人権に関する用語がインフォーム から始まりました。今,我々は規範のある世界 ドコンセントやそのプロセスに具現化されてい にいますが,第二次世界大戦前は,ヨーロッパ ます。 でも太平洋地域でもこのような規範はありませ 研究倫理においては,最近になるまで正義と んでした。当時はすべての研究に関して規範が いう概念が十分に発展してきたとはいえません。 必要であるという理解には到達していなかった ただ,このベルモント報告書には,後日実際に のです。 研究を応用するときに利益が得られないような ニュルンベルグ綱領というものがあります。 被験者を選ぶべきではないという,興味深い言 これはすべての研究倫理の基盤となっている綱 葉があります。したがって,いわゆる分配の公 領です。その中には10のガイドラインがありま 正という概念がここで生まれたということがで す。そのうち, 「The voluntary consent of the きると思います。 human subject is absolutely essential.」という 立場が弱く特別な保護を必要としているのは ものが最も重要です。被験者の任意の同意が絶 どのような人々でしょうか。また,その特別な 対に必要だということです。特にアメリカでは 保護とは何なのでしょうか。社会で一部の人た これに関して様々な議論ができるでしょう。 ちがほかの人たちよりも脆弱ということがあり 我々は非常に個人主義だからです。どのような ます。何に脆弱なのかというと,研究における 研究においても,ボランタリーコンセントとイ 搾取に対してです。子供たちは脆弱でしょうか。 ンフォームドコンセントは研究倫理の本質です。 もちろん脆弱です。本質的にそうなのです。ほ 10 とんどの子ども,特にある年齢未満の子どもは Pfizer社は,クテリア性の髄膜炎が流行って 自分で十分に自分の意思を発言できませんし, いるナイジェリアのカノで,ナイジェリアの医 両親が子どもの意思や希望をちゃんと伝えられ 師とPfizer社の研究者と共同して,子供を被験 るとも限りません。同意とは,何らかの子供に 者として無作為に治験を行いました。彼等は感 ふさわしいやり方で説明して承諾を得ることを 染病院の同意を受け,ナイジェリアの役所も いうのです。 Pfizer社に対して文書をもって承認を与えたと それから,1949年に設立された国際医学団体 されています。しかし,本当に病院で倫理面の 協議会が包括的なガイドラインを出しています。 検討がなされたのか,そのような倫理検討委員 最近では2002年に改正されました。このガイド 会はなかったのではないか,ということが問題 ラインは,研究は脆弱な患者が属するグループ となっています。 に恩恵を与えるという治療的な意図を持つべき 治験は被験者を二分して行われました。1グ だと具体的に述べています。また,もし研究が ループには連邦食品医薬局が小児用としては承 非治療的なのであれば呈するリスクが最小のも 認していない薬を投与し,他のグループには連 のでなければならないとしています。したがっ 邦食品医薬局が抗バクテリア薬として承認して て,治療的な研究がリスクに比して本質的なメ いない薬を投与しました。これはセフトリアキ リットを提供するものなのかを検討しなくては ソンという薬で,バクテリアの髄膜炎には良く いけません。 効くものですが,通常子どもに投与されるより グローバルヘルスリサーチでは,歴史的に搾 低い量が投与されました。その結果,11人の子 取や被験者の募集,臨床試験に正義という概念 供が亡くなり,多くの子供が麻痺や,耳が聞こ の焦点が当てられています。瑕疵がある,又は えない,目が見えないといった深刻な神経的後 雑な手続で同意を得ることや,提案された研究 遺症を抱えました。一方のグループで5人亡く に対する国や地方の倫理レビューがきちんとな なり,他方のグループで6人亡くなっています。 されていないこと,一部の研究者に十分なスキ この事件はアメリカに持ち込まれましたが, ルがないことは,正義に関する重大な問題です。 この後の推移をみていく必要があります。この では,搾取とはなんでしょうか。研究倫理に 事件には国際的な法的規範に違反するのではな ついての先導的な学者は,次のように広範な定 いかという深刻な研究倫理の問題,インフォー 義を与えています。搾取が起きるのは裕福な又 ムドコンセントなどの問題があります。ですか は権力を有する個人や機関が,貧しい,力のな ら,推移をみていく必要があるのです。しかし, い,又は他に依存している者を利用するとき起 研究倫理の規範は今日普遍的なものではありま きる,と。つまり,自分の目的を満たすために, せん。もしこの事件を最高裁が審理してPfizer 力のない,恵まれない者を適切な代償を与える 社が敗訴するということになると,資源の貧し ことなく使うこと,これを搾取と呼ぶ,として い国で研究を行っている企業や研究者へ警鐘と います。 なるでしょう。 ここで,Abdullahi対Pfizer社のアメリカでの 裕福な国が貧しい国で研究を行う際,正義と 裁判が想起されます。この事件に言及しないと いう観点からどのようなことが必要になってく 不十分な講演になってしまいます。この事件は, るのでしょうか。被験者やコミュニティ,国に 第2巡回控訴裁判所から上訴され,最高裁が実 対して,スポンサーや研究者は何を負っている 際に審理するかどうかという状況にあります。 のか。これらの関係者にどのような負担や利益 外国での不法行為がアメリカの裁判制度におい があるのか。もちろん不平等は世界中で存在し て対応可能かどうかが問題となっていますが, ています。国の間でも格差はあるし,資源が貧 その中で搾取があったと主張されています。 しい国の中でも不平等や格差があります。 11 ここで,以下のような2つの考え方があるこ 委員会はインフォームドコンセントとリスクと とを指摘しておきます。ひとつは,医療や医薬 利益の分析に焦点をあてています。 の問題は,世界に存在する様々な不平等のひと アメリカの諮問機関は,治験の研究者やスポ つに過ぎないという考え方です。もうひとつは, ンサーは,治験の開始前に,全参加者の治験へ これは極端かもしれませんが,医療や医薬は人 のアクセスを保障するよう,合理的な努力をす の健康の維持,改善に必要不可欠であるのだか べきだと述べています。そして,そのようなこ ら,市場のシステムから分離するべきであると とがなされていない場合には,研究者は倫理レ いう考え方です。これは,公衆衛生の義務につ ビュー委員会に対してその理由を説明しなけれ いての人権的な面からの分析と整合性がとれた ばならないとしています。 考え方でありえます。医療や医薬品を単なる製 アメリカの規則では治験の成果物へのアクセ 品ではなく特別なものであるとする考え方です。 スは要求されていませんが,ヘルシンキ宣言は 貧しい国で正義にのっとったことを行うため 他の国際ガイドラインと同様にもう少ししっか に,また,臨床という環境で正しいことをする りしています。アメリカは治験の成果物等への ために,乗り越えなければならない様々なもの アクセスに関しては最低限のことしか定めてい があります。言葉や文化のほか,健康や病気に ません。ヘルシンキ宣言は,研究の成果につい ついての理解もそうです。インフォームドコン て知らされる権利,その成果から生じるメリッ セントの過程でどのように説明するかという点 トを受ける権利があるとしています。 でもそのような国の人々の理解は我々の理解と 国際医学団体協議会は,開発された製品がそ は異なります。例えば,雑菌がどのような悪さ の人々や共同体にとって利用可能となるとしま をするのかということが分からなければ,人々 す。しかし,共同体とは国全体ということなの は疾病に対してちゃんとした理解を持つことが でしょうか。共同体の定義が問題になります。国 できません。 際連合エイズ合同計画のガイダンスは分配の公 研究の分野で正義を求めて頑張るのはとても 正という意味では一番厳格なものでしょう。治 困難な状況です。まず,医療のインフラがあり 験により得られた医薬等へのアクセスに関して ません。あっても不十分です。また, 多くの人々 は。安全・有効と実証されたいかなるHIV予防 は母国による正義も享受していません。適切な ワクチンも可及的速やかにその治験参加者全員 サービスにアクセスができないのです。 では, 研 が利用可能となるようしなければならないとし 究者がそのような環境において臨床試験をする ています。また,高いHIV感染リスクに晒され というのはどのような意味を有するのでしょう ている他の集団にもそうすべきであるとしてい か。やはり研究の利益と負担とを検討しなくて ます。このルールは,多くの市民グループが関 はいけません。治験後ワクチンや医療機器が自 与してできあがったものです。 分の会社に何十億ドルをもたらす場合において, では,裕福な国の治験審査委員会はこの文脈 何をすることが公平なのでしょうか。 そして, 倫 でどのような役割を持っているのでしょうか。 理のレビューシステムがそもそもないか,あっ そして,研究者は,我々がこの分配の公正の基 ても非常に不適切な場合には,裕福な国が倫理 準を形成しようとしているときにどのような役 レビューをやらなくてはいけないのではないで 割を担っているのでしょうか。貧しい国で研究 しょうか。 を行っている裕福な国の研究者は,その役割を また,倫理レビューとはどのようなことを意 拡大し,かつ,新しいことを学ばなければいけ 味しているのでしょうか。分配の公正やより研 ないと思います。もしかしたら途上国の政府や 究による利益の公平な還元に焦点を当てるべき 自国の治験審査委員会に対する交渉者としての なのでしょうか。いまのところ,倫理レビュー 役割も担わなくてはいけないのかもしれません。 12 ご清聴ありがとうございました。 (拍手) 場合です。そのような場合に,その患者の組織 〇竹中教授 次の講演者は,LL.M.プログラム が後日の研究のために組織バンクで保管された のディレクターであるPatricia Kuszler先生で ことを患者に知らせなくてはならないのでしょ す。先生には,研究の成果としての,細胞や体 うか。しばしは,患者や被験者は自分の組織が から採取したものの所有権の問題と倫理の問題 研究に用いられることを知っています。そうす をお話ししていただきます。 ると,その人達はRivin先生が述べたような,利 〇Patricia Kuszler教授 ご紹介ありがとう 益を享受する特別な権利を持っているのでしょ ございます。今,アメリカで,また世界中で活 うか。また,患者でもなく被験者でもないが,公 発に議論されていることについてお話しします。 共財,社会善として自分の組織を提供したいと 遺伝子や細胞組織を使う研究について,長年保 か,特定の目的のために組織を提供したい人が 管されている試料や,新薬,治療法の開発に有 いたとすると,その提供するものの性質は変わ 用であるかもしれない資源の権利はどうなって るのでしょうか。 いるのかということです。 対象が個人ではなくコミュニティであったら 権利の問題としては,誰がこのような物質に どうでしょう。アメリカや世界中で,さまざま 対する権利を持っているか,そして,その権利 な民族からのDNA,細胞や組織の採取につい の強さや広さはどのようなものであるかが問題 て,採取に民族の同意があったかどうかという となります。成果に貢献した人たち,すなわち, ことが問題になっています。そういった民族は 試料を提供した人たち,あるいは自分の体から 研究者と同じ地位を有する協力者であると主張 組織を採取された人たち,その物質で実験をし することがあります。被験者,患者,ドナーか た研究者の権利はどのようなものかということ ら何らかのかたちの同意を得なくてはならない です。その物質は変化しているかもしれないし, とすれば,そのプロセスの機能や効力はどのよ していないかもしれない。しかし,彼らは新し うなものでしょうか。 い療法や技術を開発するための希望をいだいて 通常の医師と患者の同意と,研究者と被験者 生産的な研究をするのに従事したのです。また, の同意は異なります。また,コミュニティには 大学や研究のスポンサーがどのような権利を持 コミュニティコンセントという概念があり,被 つのかということも問題です。 験者たる個人に加えてコミュニティの長老から 遺伝子の研究には特有の問題があります。世 も同意を得なくてはなりません。また,個人の 界で議論されていますが,特にアメリカとイギ 権利というのがあるのであれば,それは何年間 リスにおいて問題とされています。社会全体の 続くのか,死後もその権利は存在するのか,コ 利益つまり公共の福祉のために,社会にどのよ ミュニティの権利とはどのようなものであるか, うな権利を認めるか, ということや, 関係者各々 が問題となります。これらの問題が争点となっ が有する権利は,同意する権利なのか,典型的 た裁判もあります。これらの点は実際の訴訟に な財産権か,売買する権利なのか,知的財産権 おいて非常に複雑化されています。 なのか,それとも全く新しい財産権,例えば一 よく知られているのは,Moore対カリフォル 部の学者がいっているような情報財なのか,と ニア大学の,いわゆる盗まれた脾臓の裁判です。 いうことです。 原告のMoore氏はカリフォルニア大学の患者で まず,個人の所有権であったらどうなるかと した。彼は,当時5年生存率が5%以下という いうことを考えてみましょう。貢献の性質が重 非常に悪性のヘアリーセル白血病にかかってい 要でしょうか。また,その人が患者であったら ました。治療の一環として彼の脾臓が切除され どうでしょうか。疾患を治すため,組織や遺伝 ましたが,非常に興味深い脾臓であったそうで 子,細胞が治療や外科手術において切除された す。彼の担当医は研究も行っており,彼の脾臓 13 を使って細胞株を作りました。数年後に, Moore コミュニティの権利に関しては,最近アメリ 氏は自分の脾臓から細胞株を作ったのだったら, カで大きな訴訟がありました。グランドキャニ 私もその細胞株に基づく利益を受けるべきだと オンの谷底に住んでいるインディアンのハバス 主張しました。 パイ族は,糖尿病罹患率が高いことから,1990 しかし,裁判所はいったん切除された脾臓は 年代中ごろ,彼らの遺伝子調査を行おうとする 彼の所有物ではない,すなわち,そのような脾 研究者に無償で試料を提供し,試料を糖尿病の 臓 に 古 典 的 な 財 産 権 は 存 在 し な い と し て, 研究に用いることに同意しました。時が経ちそ Moore氏は何らの補償を受ける権利を有しない の試料がいろいろな研究所を行き交うようにな としました。ただ,担当医がインフォームドコ り,その試料を使って精神分裂症についての調 ンセントと受託者義務を破り,Moore氏に研究 査を行う研究者や,また,その試料を使ってア 目的で脾臓を使うことを伝えていなかったこと ルコール依存症についての調査を行う研究者も は問題でしょう。 出てきました。ついにはその試料を使ってもと もう1つ,数年前のGreenberg対マイアミ児 もとこの部族はどこから来たのかという先住民 童研究大学の事件を紹介します。これには複数 移動理論の検証をする民俗学研究者も出てきま の家族が関与しています。これらの家族は自分 した。しかし,ハバスパイ族はその試料を糖尿 たちの子どもの疾病の治療法を探していました。 病の研究に使うことしか同意しておらず,試料 その病気は,カナバン病という幼児の死亡率が をこれらの研究に使うことには同意していませ 非常に高い深刻な遺伝子系の病気で,アシュク んでした。 ナージュ・ユダヤ系の人たちに多くみられるも そして,彼らは研究者が糖尿病の研究以外の のでした。これらの家族は共同である研究者に 目的で使っていたことを発見し,精神分裂症や 接触し,突然変異を発見することができる試験 アルコール依存症というのは部族のイメージを を開発し,このような疾患にかかった子どもが 低下させるとして不満を訴えました。さらに,彼 いる家族を助けてほしいと依頼しました。事前 らは,自分たちの起源は今自分たちが住んでい に試験することによって,生まれてくる子ども るグランドキャニオンの谷底であって,先祖が がこの疾患にかかるかどうか知りたいというこ ベーリング海を渡ってきたのではないというこ とです。 とを宗教的,精神的に信じており,民俗学の研 これらの家族は研究者に研究資金を提供する 究は言語道断であると主張しました。一か月前 とともに,無償で試料を提供しました。これに に,アリゾナ州立大学はハバスパイ族にすべて 基づいて研究者は問題の遺伝子を発見し,試験 の試料を返還し,損害賠償として7千万ドルを の特許を取得しました。 これらの家族は怒り, 遺 支払うという内容で和解しました。これは非常 伝子疾患で苦しんでおり安価な試験の手段が欲 に高額な損害賠償額です。 しいからその研究者に依頼したのに商業化され コミュニティの権利,民族の権利というのは てしまったとして提訴しました。裁判所は,単 アメリカにしかない権利だろうと思うかもしれ なる遺伝子試料の提供は,ドナーに対してそれ ませんが,2週間程前,ブラジル,ベネズエラ による成果に何らの権利を生じせしめるわけで のヤノマモ族に1960年代,1970年代のフィール はないとする一方で,研究者がこれらの家族か ドワークで使った血液試料を返還しなくてはな ら提供を受けた研究資金は不当利得であり,こ らないという命令が下されました。ヤノマモ族 れらの家族は研究に投資したのだから投資利益 は後々その試料がそのような用途に使われるこ を得るべきであるとしました。このように,誰 とついては同意していなかったということです。 がその組織と遺伝子を所有するかということは ここまで,ドナーの権利は,被験者の権利は,患 非常に複雑な状況になっています。 者の権利は,そして地域社会の権利は,という 14 ことについて話してきました。 と被験者の関係はどうなるでしょうか。過去の 次に,もし権利が存在するのであれば権利に 例をみると,研究者と被験者の関係というのは 時間的限界があるのかという問題について述べ 短期であり,それほど実体性はなく,ご都合主 ます。ヤノマモ族の事例では,問題となった組 義的であることがわかります。研究者は自分が 織は1960 ~ 1970年代から研究所に存在してい 培養した細胞にずっと関心を持ち続けるわけで ました。多くのドナーはすでに死亡していたの はありません。 ですが,ヤノマモ族は部族内のDNAだから部族 数年前の事例ですが,ワシントン大学はカト 全体で所有しているのだと主張したのです。 ローナという研究者を雇いました。カトローナ また,最近,ヒーラ細胞の成り立ちを綴った 博士は前立腺がんの研究を行い,いろいろな前 『The Immortal Life of Henrietta Lacks』とい 立腺がん患者から細胞を取得しました。彼らは う本がベストセラーとなりました。ヒーラ細胞 細胞を前立腺がんの研究のために無償供与しま は,1950年代にヘンリエッタ・ラックスという した。ワシントン大学にはバンクがあり,そこ ボルチモアの非常に貧しい女性のガン患者から に何年間か細胞を保存していました。カトロー 分離された細胞から成立した無限増殖細胞です。 ナ博士は別の大学に移るにあたり,細胞を持っ 彼女は自分の細胞を無限に増殖して,多くの ていって転出先で研究を続けたいと言いました。 国々で,小児麻痺からガンから風邪,インフル ワシントン大学は,細胞は大学の冷蔵庫にあ エンザといった様々な研究に用いることに同意 り,大学が保存,管理を続けてきたのであるか していませんでした。しかし,1951年当時はイ ら,大学の所有物であって研究者の所有物では ンフォームドコンセントという概念はそれほど ないと主張しました。裁判所は,細胞のドナー 発達していませんでした。また,その増殖を行 も細胞の提供を受けた研究者も継続的な所有権 い培養に成功した研究者は,それを無償でほか を有するわけではないとして,大学の主張を認 の研究者に渡したのであって,彼はそれで利得 めました。所有権はワシントン大学に帰属する を得たわけではなく,知財を獲得したわけでも ということです。技術移転法でも大学に所有権 なく,有名になったわけでもありませんでした。 が与えられています。 この本は,ヘンリエッタ・ラックスの子孫に 遺伝子情報になるとさらに複雑です。従来の ついて述べています。彼女の子孫は,やはり十 医療モデルでは,遺伝子情報は,試料の元とな 分な教育を受けられないほど貧しいのですが, る,あるいはDNA配列の元となる患者のもので 自分たちはお母さんやおばあさんの細胞に対す あるはずです。ところが,従来の研究モデルで る権利を有しているのだと信じています。血縁 は,それは研究組織のものであります。また, 者の細胞が自分の体内にある者はその血縁者の ジェネティック・アライアンス・モデルという 細胞に対する権利を有するということになりま 新しいモデルも出てきています。これはグリー すと,未来永劫権利の問題が生じ得るというこ ンバーグ一家ではありませんが,かなり深刻な とになります。では,組織の研究を行った研究 遺伝子疾病があり子供たちが苦しんでいる一家 者の権利はどうでしょうか。組織に対してなさ が,同じような疾患にかかっている子どもを れた操作や変化は権利にどのように影響するで 持っている家族と結束して,DNAと試料につい しょうか。 ての所有権を保持するとともに,研究者と契約 Diamond対Chakrabarty事件判決では,自然 を結んで研究が終わるまで知的財産を共有する 発生細胞は特許の対象とならないが,それに手 というモデルです。 をかけて加工してできたものは特許の対象にな ジェネティック・アライアンス・モデルは非 るとされています。では,どれだけ加工すれば 常にポピュラーになってきており,いくつかの 特許の対象となるのでしょうか。また,研究者 遺伝子疾患においてすでに実施されています。 15 自らのバンクにおいて試料を保管し,研究目的 親側に傾いていたのか,被告は500万の試料を家 に試料を使う研究者は,特許の一部を譲渡する 族に返還して和解せざるを得ませんでした。 とともに,何らかの利益が得られたならばその このような考え方は,この種のデータベース 利得の一部を支払うという契約を締結すること が新薬研究,新しい治療法の研究,遺伝学の働 になります。 きに関する研究にとって重要であるという社会 遺伝子学においては,遺伝子情報というのは の利益に反すると主張する人もいると思います。 個人のものですが個人だけのものではありませ そのような研究資源は研究と社会にとって非常 ん。血縁者は皆同様の遺伝子情報と遺伝子とを に価値が高いから,個人にそこまで権利を認め 有しているからです。アイスランドでは医療 るべきではないと主張する人もいるでしょう。 データベースの構築が法定されました。その法 しかし,例えば腫瘍登録についてアメリカ政府 では,アイスランド市民から通常の医療目的へ が大型データベースを構築することは困難と の使用の推定同意の下で試料を集め,企業で解 なっています。また,私たちは,現在アメリカ 析してアイスランド人に特有の病気も含めた疾 中から遺伝子のサンプルを集めたゲノム全体の 病のための治療法を開発することとされていま 研究データベースを有していますが,それはい す。 ろいろな批評を受けています。 アイスランドの人々は遺伝子学的に均質的で 研究者は,我々はグローバルな公共の利益を 希少であるため,このユニークなデータベース 追求しなくてはならないのだから,大型データ を構築することによって,アイスランドの人々 ベースを無駄にしてはならず,適切なる個人の はそこから開発された新薬を安く手に入れるこ 保護,例えば匿名性というものを担保した上で とができるはずでした。しかし,16歳の女の子 しっかり活用するべきだと主張します。しかし, が,アイスランド共和国政府に対し,政府が所 この問題についての細かい点は未決のままです。 持している私の父親のDNAは私のDNAでもあ 研究をグローバルな公共の利益として見るので り,したがって私のプライバシーが侵害されて あれば,新薬,イノベーション,治療方法につ いるとして,訴えを起こし,彼女が勝訴しまし ながる起業などはどうなるのでしょうか。もし た。つまり,医療データベース法の正当性が否 個人や部族の権利を重視し,これを大きなデー 定されたということです。 タベースをも崩壊させてしまうような位置づけ このように,プライバシーの権利という個人 をした場合に,どのように起業などを促進する の権利と,遺伝子研究の成果といった公共の利 ことができるでしょうか。また,プライバシー 益が問題となります。アメリカでもミネソタと や所有権は研究を制御するまでのものでしょう テキサスで訴訟が生じています。一方は現在係 か。ジェネティック・アライアンスは知財も眼 争中ですが,新生児の血液サンプルについて両 中に入れていますが,そのような権利はどのよ 親が争っているという事案です。多分日本でも うに認識されるのでしょうか。 そうだと思いますけれども,代謝疾患などの検 他方,部族や新生児の親は,自分たちはもっ 査のために新生児からサンプルを採取し,それ と権利を有するべきであると主張しています。 がずっと保存されるからです。 ワシントン大学が一緒に研究している部族は, 研究者にとって,データベースは迅速にいろ 知財以外にも,研究者による公表を拒否する権 いろな遺伝子情報を得られる貴重な手段です。 利を有していると主張しています。どのように しかし,両親は,データベースの試料が匿名で して研究の自由とのバランスを図るべきでしょ あったとしても,自分達の子供のDNAを明示的 うか。 な同意なくして研究者が使用するのは許されな 研究者の権利と義務とのバランスがとれてい いと主張しました。テキサス裁判所の心証が両 るかと振り返ると,とてもそうは思えないで 16 しょう。同意が問題の発生を抑えることができ のすべてについて解決を与えることができるも るでしょうか。現行の研究についてだけでなく のではありません。将来はグローバルな医療問 て将来の研究についても同意を形成することが 題を解決するために細胞バンク,遺伝子バンク, できるでしょうか。将来のガンの研究は同意す 組織集積所の活用が図られるでしょうから,こ る,インフルエンザの研究にも同意する,しか のことはさらに我々の頭痛の種になっていくで し民族移動理論の研究には同意しないというよ しょう。ご清聴ありがとうございました(拍手)。 うな,個別の同意をするのでしょうか。 〇竹中教授 それでは,パネルディスカッショ また,それは古典的な財産権と理解すべきで ンを始めます。はじめに,これから治験をしよ しょうか。被験者,ドナー,患者が,組織の所 うとしている萩原先生からおふたりに対して, 有権を付与され組織を自らの意思に基づいて市 何か聞きしたいことやコメントしたいことはあ 場で売買できることにより,研究が促進され成 りますか。 果が活用されるでしょうか。知的財産権はこの 〇萩原教授 搾取についてひとつの例を紹介し ようなさまざまな権利に対応できる十分な柔軟 ます。ベトナムではほとんどの透析膜を生産し 性があるでしょうか。 ていますが搾取の問題で使えません。そこで搾 ジェネティック・アライアンスの経営者であ 取を減らす一つの手段として人工透析機の無償 るシャロン・テアリーであれば, 「もちろんそう 供与を始めたのです。わたしの専門分野はRNA だ。我々は知財に関する契約を結んで目的を果 スプライシングですから,遺伝子情報はスプラ たそうとしているのだ」 と主張するでしょう。 し イシングの解析で使っております。最近,高速 かし,大学の研究者は被験者やドナーを常に知 DNAシーケンサーが登場しました。近い将来, 財の共有者として認めるのでしょうか。そのよ 個人ですべての配列を特定できることになるで うな仕組みは公平なのでしょうか。機能するの しょう。研究者はそのような情報を使用する時 でしょうか。それとも新しい財産制度が必要な 点では所有者の名前を知りません。個人情報を のでしょうか。個人情報に関する権利は個人が 知らないから個人の権利を侵害しないというわ 所有し使用許諾契約により管理するという著作 けではありませんから,研究者にとって非常に 権的なアプローチをすべきであるという学者も 深刻な問題でしょう。どのようにしたらその権 います。 利問題を解決できるか分かりません。 そうすると,取引コストが莫大になり,多層 〇Patricia Kuszler教授 ご指摘の点は重要 的なライセンシー契約になり,同意の問題や公 な問題です。匿名化すれば遺伝子や細胞を使っ 平な使用の問題と結びついて遺伝子の研究が複 ていいという人や,ドナーは他人に対する善意 雑になります。さらに,サイエンスにおいては, から提供するのだから問題とすべきでないとい データバンクの中で長年保管されていたものも う人もいます。しかし逆の主張もあります。高 含め,ますます細胞,組織,遺伝子やDNAの利 速シーケンシングが可能になったためにますま 用が増大しています。研究者や起業家とドナー, す遺伝子情報の匿名化ができなくなり,簡単に 被験者,患者との間での対立が存在することは 血縁者が判明してしまいますし,配列が実験室 明らかですし,潜在的には,大学と現在その保 にとどまらずインターネットで売買の対象と 管を担当しているスポンサーとの対立も存在し なってしまうと,どのDNAが誰のものか,どの ます。 家系のものかが簡単に判明してしまいます。で 遺伝子試料やデータの問題も複雑となり,い すから,DNAや遺伝子試料の匿名化など不可能 ろいろな緊張が生じています。どうやってこれ だと主張する人もいます。したがって,この問 を全部解決するかということは我々全員にとっ 題は遺伝子研究における非常に深刻な問題です。 ての課題です。現在のどの制度のこれらの問題 〇Beth Rivin准教授 国際基準はまだありま 17 せん,とだけコメントします。 づいて活動する。それが慈善につながります。他 〇竹中教授 PatriciaとBeth,萩原先生の発表 方,世界中で行動の規範として認識されている についてコメントはありますか。 ものとして,国際人権法のような法律が存在し 〇Patricia Kuszler教授 はい。特に最後の部 ます。我々は公正を追求すべきであり,政府は 分ですけれども,あれはすばらしい例だと思い 市民のために現実に公正や正義を追及する義務 ます。つまり,何らかの貢献をしたグループに があります。その問題は世界中で大きくなって 利益を提供するとともに,社会でそれを活用し きています。もちろん,正義それ自体が何かと て医療改善にも役立てている。もともと組織の いうことについてはずっと議論がなされていま ドナーは,本来であれば透析を受けることがで す。 きない人々でしょう。ですから,萩原先生の研 1800年代の正義は現代とはかなり違います。 究を伺って,試料を提供した人に透析膜開発の 当時は植民地主義の下にあり,そのような歴史 恩恵を与える,すばらしい例だと思います。研 を踏まえての再分配が期待されます。単に富の 究者,大学,製薬会社もこのように何らかの利 再分配だけではなく,情報やサービスへのアク 益還元をする方法を探しているのだと思います。 セスの再分配です。特に公衆衛生については改 〇萩原教授 大切なのは法律ではなく自分たち 善の議論が重要です。 のやり方だと思ったので,NPOを始めました。 〇Patricia Kuszler教授 正義にはもちろん 科学者である私としては自分の分野の科学の発 いろいろな見方があります。Beth先生や我々が 展に寄与したいと考えていますが,それには社 議論している正義は,分配的な正義という,研 会の支持が必要です。自分たちの社会からだけ 究作業に貢献する人は何らかの財やサービス, ではなくて,ほかの国の社会からの支持も必要 成果の分配を受けるべきだというものです。し なのです。法律だけでは必ずしもすべてを解決 かし,分配の正義というのは正義の一側面です。 できません。非常に大きな貢献をしてくれるの 我々は補償の正義についても考えています。例 はやはり善意だと思います。それがわたしの個 えばハバスパイ族の事件では,多額の損害賠償 人的な意見です。 が支払われました。これはある意味では補償的 〇Beth Rivin准教授 議論を吹っ掛けるつも な正義のひとつです。同様に,試料の変換とい りはないのですが,萩原先生は正義対慈善とい うのも補償の正義です。奪われたものを補償す うことに言及しましたが, これについては, 我々 るという考え方です。 がやることは正義なのか慈善なのかという議論 それから,人々は結論や薬,分配的な正義を が様々な場面で行われています。我々はやはり 獲得するための議論を行う手段を有するという, 人権のことも研究倫理のことも考えて分配の公 手続的正義もあります。アメリカですと通常そ 正を追いかけていかなければいけません。もち れは司法制度ですが,そうではない国も多数あ ろん慈善が悪いというのではありません。ただ, ります。そうした国では行政により手続的正義 分配の公正という正義を追い続けていかけてい が実現されているのかもしれません。 かなければならないということです。 慈善と正義の線引きについて,被験者と研究 〇竹中教授 日本人にとっては,公正と慈善の 者との間の連携を強化しようという試みが世界 明確なる定義も存在せず,両者の線引きは難し 中で生じています。例えば,先住民や部族を対 いでしょう。公正と慈善についてすこし説明し 象とした研究で,アメリカの研究者が特定の部 ていただけますか。 族の生活の中に入り込むというコミュニティ 〇Beth Rivin准教授 慈善,これは道徳的な理 ベースの参加型研究がみられます。つまり,被 解から生じます。個人や組織があるほかの個人 験者あるいは長老などが研究パートナーになり, や組織に対する道徳的な何かがあり,これに基 このような正義の問題を契約対象として事前に 18 契約を結ぶのです。これは近年盛んになってき ている研究形態です。 もちろん,全然資源がない国や交渉力を有す るリーダーがいない部族ですとうまくいきませ んが,結果が出てからどうしようかということ を考えるのではなく,成果をより公正に分配す るために,例えば透析膜が開発される前から契 約を結ぶわけです。 〇Beth Rivin准教授 補足として簡単にコメ ントします。このような参加に関するコアとな る諸原則は,人権に関するコアとなる諸原則の 一部であるということです。また,生命倫理と 人権のルーツについて述べますと,母集団の意 思決定に影響を受ける人たちの参加というのは 最も重要な人権であり,研究倫理の場合にもそ れが重要なのです。 〇竹中教授 ありがとうございます。もし参加 者の中から質問があればお受けしたいと思いま すが,いかがでしょうか。 日本の病院や大学は患者から採取したものを どのように管理しているのでしょうか。日本は アメリカほど訴訟社会ではないから,訴えられ ることはないのでしょうけれども,日本も大き な問題を抱えているのではないかと感じました。 では,これで第1部を終了します。講演者の 皆さんに大きな拍手をお願いします(拍手) 。 「第2部:ビルスキー最高裁判決・エリアッド CAFC大法廷判決の比較法的考察:医療行為発明 の特許保護とベンチャービジネスインセンティブ」 は,渋谷達紀=竹中俊子=高林龍編『I.P.Annual Report知財年報2010』(商事法務,2010)263-277頁 に掲載されています。 19