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第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題

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第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題
19
研究ノート
第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題
大
〔要
平
陽
一
旨〕 ロシア革命のために祖国を捨てた亡命者の多くが回想録を残したことにつ
いては,革命によって失われた古き良きロシアを記憶しておきたいという亡命者特有の
願いによって,さらにはその記憶を後世に伝えたいという願望によって説明されること
が多い。だが,革命前のロシアを理想化して描いているのは,第一波亡命者の回想の一
部,年長世代の回想に過ぎず,年少世代は内戦期のロシアの悲惨について率直に語って
いる。回想のなかのロシア像に反映されているこうした世代差は,第一波亡命文学につ
いてしばしば論じられてきた世代差と平行性を示している。そしてこの推測は,ギムナ
ジウムの生徒たちが
年と
年に書いた作文によって裏書きされるように思われる。
〔キーワード〕 回想,第一波亡命文学,世代,
《庵》
,ロシア語ギムナジウム
.はじめに:問題としての亡命ロシア人の回想
小論では第一波亡命ロシア人――すなわち,ロシア革命の結果,祖国を捨てた旧ロシア帝国
の国民が書き残した回想を取りあげる。ただし,ある理論に基づいて亡命者の回想の分析を試
みたり,それらの回想に基づいて理論的仮説を提起しようとするつもりはない。この研究ノー
トの目的は,あるまでも第一波亡命者の亡命者の回想を紹介することにあるが,これらの回想
に国外ロシア
の歴史と文化がどのように反映されているのかといった問
題を考察する上での参考にはなるだろう。
それにしても「亡命」と「回想」という二つの単語の間に,ある親縁性のようなものを誰し
も感じるのではないだろうか。筆者自身,「回想は亡命者のもっとも重要なジャンルのひとつ
だ」( )と断言され,「誰もが,作家も俳優も音楽家も画家も哲学者も政治家も軍人も皇族も
『私人』も回想録を書いた」( )と言われると首肯し,「ソ連でも回想録は書かれたが,亡命地
におけるほどではなかった」と指摘されると無意識に納得してしまう。しかし,それはなぜか
と改めて問われると,即答することはむずかしい。
こうした疑問に対して,たとえば,論文「問題としての回想録」の著者 F.P.フョードロフ
は,十月革命によって失われた「ロシア的な経験を,ロシア的な精神世界を守り,未来に伝え
ようという亡命者特有の熱意」( )が多くの回想録を書かせたのだと答える。つまりロシア時
代の経験を記録,保存しておこうという謂わば「記憶術」的な動機によって「革命以前の生活
を一望におさめる巨大なパノラマ」( )がもたらされたというにとどまらない。その記憶術的
衝動に,自分たちの知るロシアを末裔に伝えなければならないという使命感が結びついたため
に,回想という営為が第一波の亡命ロシア人にとってひじょうに重要な地位を占めるようにな
ったというのである。
同じく『国外ロシア文化における回想録』所収の論文「実存の空間としての回想録」で
天理大学学報 第 巻第 号
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O.R.デミードヴァは,第一波亡命者たちの集合意識の中では「時間と歴史についてのきわめ
て特殊な表象が,そして亡命以前の表象とはまったく異なる時間・歴史双方の知覚の仕方が形
成された」( )と主張する。
第一波の亡命者たちの集合的意識において唯一の基準点となったのは,
「革命以前・革命
以後」であり,亡命のある部分にとって時間は止まったまま,第二の部分にとって時間は
後ろ向きに流れ,第三の部分にとって時間は霧消した。時間と歴史は,亡命者の自意識と
経験の中で,連続的なカテゴリーから離散的なカテゴリーになってしまったのである。そ
の結果,「過去・現在・未来」の三分法は,日常のレベルと自己感覚のレベルにおいて,
第一の要素(過去)の著しい優勢に対して,それに続く一つないし二つの構成要素(すな
わち現在と未来)が存在しないがために,欠如的な三分法にならざるを得なかった。(
なるほど,
(
―
)
年の総選挙で国会議員になった立憲君主党のウラジーミル・オボレフスキイ
)の『過去の印象』は,
年にベオグラードで出版された回想録だが,そこで
の生彩に富んだ描写が捧げられているのは,当時,このリベラル派の政治家が亡命生活を送っ
ていたパリではない。オボレフスキイの回想録の巻頭におかれたエッセイの表題は「ペテルブ
ルク」であり,そこで語られるのは「私の子供時代のペテルブルク」,「あの壮麗な世界的都市,
革命前にそうであったような威風堂々としたペトログラートによりもずっと[……]プーシキ
ンの時代のペテルブルクに似ていた」( )ペテルブルクなのである。そこでは,とうの昔にな
くなった鎖橋について,「フォンタンカ運河にかけられた[……]この驚嘆すべき幻想的な橋
は,若い世代のペテルブルクっ子たちの記憶にはない」( )とノスタルジックに語られる。作
者のいう「若い世代」とは革命前のロシアの若い世代を指すというのだから,現在とは遠く隔
絶した時代の回想だ。
親密な語り口が魅力的なオボレフスキイの回想録とちがって,
元モスクワ大学・歴史学教授のアレクサンドル・キゼヴェッテル(
―
紀の狭間で:回想
年にプラハで初版の出た
―
)の『二つの世
年』は,学者・政治活動家としての回想録であり,より公的な性
格が強い。このことは目次からうかがい知ることができる。
第
章「学生時代の回想」
,第
の時期」
,第
第
章「沈滞」
,第
章「立憲制のロシアで」(
章「心の独裁制:スラヴ主義的な妥協」
,第
章「蘇生」
,第
章「危機の前夜」,第
章「反改革
章「専制の崩壊」
,
)
しかし,その公的性格以上に目を惹くのは,立憲君主党の有力メンバーであったキゼヴェッテ
ルの回想録が「革命以前」についてしか語っていない点であろう。
年にボルシェヴィキ政
権によってソ連から追放され,短期間ベルリンに滞在した後,チェコスロヴァキア政府から援
助の申し出を受け,
年になくなるまでの十数年間をプラハで過ごしながら,その後書き継
がれた回想「我が獄中生活」( )がカバーしているのも
年から
年の間でしかない。
このように見てくると,フョードロフとデミードヴァの仮説は正鵠を射ているように思えて
くるが,果たしてそうだろうか。戦間期の亡命生活が「現在」である時点で書かれたものだけ
に限定して第一波亡命ロシア人の回想を論じることには,そもそも無理がある。
生まれた作家が,有名教授や元国会議員のように,
年前後に
年前後に回想録を出版することは,ほ
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とんど不可能だったにちがいない。
プラハの文学サークル《庵》の有力メンバーだったとはいえ,他の同人の多くと同様,あま
―
り発表の機会に恵まれなかったヴァジム・モルコーヴィン(
)が第二次大戦後に書
き, 世紀になってようやくその一部が活字になった回想録に描かれているのは,すでにソ連
の首都になった革命後のモスクワであるし,オボレフスキイの描く美しいペテルブルクとはお
よそ無縁のロシアだ。
アルバート広場の旧アレクサンドル士官学校の建物の前に掲示板があって,そこには国内
戦の戦線がすべて書き込まれた地図が貼り出されていた。私は歩み寄り,子細な検討に取
りかかった。「そんなふうに見るもんじゃない」
。背後で荒々しい声がした。「そんなふう
じゃないなら,どういうふうに?」と振り返りながら,私は尋ねた。銃を手に近づいてき
た赤軍兵士は,返事の代わりに私の頬に
発平手打ちを食らわせた。思いがけないことに
私は立ちすくんだ。「とっとと行け!」
,兵士は私を押しやった。たった一分前には誇らし
さを胸に白軍の退却経路に見入っていたというのに…無力感と胸を焦がすような屈辱感の
ために,この戦争に私は関心を失ってしまった。(
)
年にモスクワで刊行された「白系亡命者」ドミートリイ・メイスネル(
―
)の
回想録『幻影と現実』に紹介されている笑い話には,亡命者一般における《過去=記憶》の優
越性が反映されている。しかし,その筆致には,むしろ若い世代の亡命者が年長世代に対して
抱いていたいら立ちが読み取れるのではないのか。
パリのビストロの丸テーブルに二人の尾羽打ち枯らした亡命者が座っている。片方の足下
にはみすぼらしい小犬がうずくまっている。
リットル
フランの酸っぱい赤ワインのグ
ラスを傾けながら語り合う二人は,かつてのロシア,そしてもちろん自分自身の過去も思
い起こしつつ,ロシアの未来について論争している。一人が,足下の小犬を指さして言っ
ている。「ロシアにい た 頃,こ い つ は ど れ だ け 立 派 な セ ン ト バ ー ナ ー ド だ っ た こ と
か!」(
)
この笑い話に登場する「典型的」な亡命者にはもちろん,回想するオボレフスキイにも,フョ
ードロフが次のように主張する「理想化」の要因が働いている。
亡命者について二つの重要な要因について述べなければならない。理想化の要因と非理想
化の要因だ。その際,双方ともに神話を生み出す。革命前のロシアは「肯定的神話」に高
められる[……]
。国外ロシアは異国なるが故に,難民にとっては住みにくい異境の地な
るが故に,否定的神話に貶められる。(
)
しかし,亡命者の誰もがロシアを理想化して懐かしんでいたわけではないことは,先に引用
したモルコーヴィンの文章からも明らかだ。モルコーヴィンとオボレフスキイの回想にあらわ
れるロシアのイメージの相違は,オボレフスキイが
あるのに対して,モルコーヴィンが
年,キゼヴェッテルが
年,メイスネルが
年生まれで
年生まれという事実と無関係で
はないだろう。同じ「第一波亡命者」に属するとは言い条,そこには複数の世代が共存してい
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た。少なくともロシア本国で功成り名を遂げた後に亡命した人々と成人する前に母国を離れた
亡命者との間で,ロシア観が異なるのは当然と言える。フョードロフやデミードヴァのもっと
もらしい主張は偏頗なものでしかない。実際,メイスネルは,先の引用文の直前で次のように
亡命ロシア人内部の世代差を指摘している。
かつてある一定の役割を果たしていた――人によってはとても大きな役割を以前のロシア
で果たしていた――そんな年長の亡命者たちの向ける視線が,大抵の場合,過去に向けら
れ[……]過去を出発点としていたのに対して,若い世代にはこの支えさえなかった。い
にしえのロシアといわれても,彼らはそのロシアをよく知らなかった。(
)
こうした第一波亡命ロシア人内部の世代差を初めてはっきり指摘したのは,ウラジーミル・
ワルシャフスキイである。
年に初版の出たいみじくも『見おとされた世代』と題された著
書において,ワルシャフスキイは次のように述べている。
彼らの大多数は今世紀の最初の十年間に生まれた。彼らはロシアで初等教育を受けただけ
で,中等教育を未修了の未成年として亡命する羽目になった。
[……]大多数がほとんど
子供として祖国を捨てた。彼らはまだロシアを記憶しており,異境の地で自分を追放者だ
と感じている。[……]しかし,彼らのもつロシアの思い出は,それによって生きるには
あまりにも少なすぎた。そこに彼らと年長世代のちがいがある。(
.第一波亡命文学と世代(
)
)
亡命ロシア文学に描かれた革命前のロシアと聞いてまず思い浮かぶのは,第一波亡命文学最
大の作家イヴァン・ブーニン(
―
)であろうか。亡命後に書かれた彼の作品に描かれ
ているのは,年長世代の亡命者の回想録に描かれているロシアと似た記憶の中のロシアばかり
だ。ブーニンと面識があったメイスネルは,第
回ノーベル文学賞を受賞し,一躍世界的名声
を得た後の亡命生活について次のように書いている。
ほどなくして彼は,パリに住むことさえ好まなくなった。孤独を愛し,ごく親しい人たち
に囲まれて,田舎に暮らすことを選んだ。彼の思いはいつも,そして何よりも,いにしえ
のロシアへと向かっていた。(
)
第一波亡命者たちの文学に見られる世代の問題については,すでに諫早勇一が『えうゐ』
号所収の論文「第一次亡命文学と世代」において詳細に論じているので,ここでは諫早の論文
に依拠しつつ,議論を進めることにしよう。
第一次亡命ロシア文学はこれまで通例二つないし三つの世代に分けられてきた。二つの世
代とは年長(古い)世代と年少(若い)世代をさし,その区別は年齢によるものではなく,
亡命前に既に名をなしていたか否かの違いによるというのも,今日なお最も権威あるピョ
ートル・ストゥルーヴェ(
ってよい。
(
)
―
)の『追放のロシア文学』
(
)以来の定説だと言
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この二項図式に対して三項を区別する見方は,
「中間世代」としてロシアで創作活動を始め
てはいたものの,亡命後に成熟の域に達した世代を加えたものである。しかし,多くのロシア
亡命文学論において,この中間世代の分類に関しては見解の相違が目立つ。こうした食い違い
が生まれてくる理由のひとつが,「中間世代」が若い世代にとって敵か味方かという発想から
生まれた恣意的な区分であることにあるのではないか,と諫早は推測する。たとえば,マル
ク・アルダーノフ(
―
)は,若い世代が創作活動を始めようとしていた時,すでに既
成の文学者の側にいて,とうてい自分たちと同じ世代とは考えられなかったのに対して,ゲオ
ルギイ・アダモヴィチ(
―
)はパリの若い詩人たちの理論的指導者であり,味方であ
ったが故に,年長世代とは見られなかったというのである。
若い世代の敵か味方かという恣意的な基準が「中間世代」なる概念の背後にあったことは,
ウラジーミル・ナボコフ(
―
)の例が別の角度から裏付けてくれる,と諫早は指摘す
る。
生年からしても,また本格的な文学活動が亡命後だという点からしても彼を年少世代に数
えることは,今日ほとんど自明のこととされている。だが,
年「若い亡命文学につい
―
て」と題した戦闘的論文を『現代雑記』に掲げたガイトー・ガズダーノフ(
は,ナボコフを「若い亡命文学とは何らのかかわりも持たない」と断罪した。(
)
)
こうした評価が生まれた背景を,ナボコフがテーマ面でも自分たちの切実な課題をないがしろ
にするゆえだと,つまり僅か
歳年上だというにすぎないのに(アダモヴィチよりも
歳も年
少であるにもかかわらず)
,味方ではないという理由でガズダーノフはナボコフを若い世代に
加えなかった,と諫早は説明するのである。
これが恣意的な世代区分であることは否定できないとしながらも,ガズダーノフとナボコフ
の間の
歳の年齢差が決定的な意味をもっていることを,二人の作家のテーマの相違をもたら
した可能性を諫早は示唆する。先述の通り,ガズダーノフはナボコフ作品の主題に大きな違和
感を抱いていたらしい。諫早は「かれを失われたロシアへのノスタルジーにとらわれつづけた
作家と呼ぶことは不当だろう」としつつも,「それでもなお,処女小説『マーシェンカ』
(
)を始めとするいくつかの小説,さらにはもっと生の形では詩において,彼が繰り返し
美しい過去のロシアのイメージをうたいつづけたことも事実」であり,ナボコフにとって過去
のロシアは「亡命者となった自分を裏から支える光源にもなぞらえられるポジティヴな価値を
持ったものだ」( )という。
それに対してガズダーノフの描くロシアはどうだったか。たとえば初期の短編は,いずれも
舞台をロシアに置かれているが,そのロシアはナボコフのロシアとは明らかにちがう。
そこに描かれるロシアは革命前の古き良きロシアというよりは,内戦時の価値観の混乱し
たロシア,裏切りや暴力といった人間の卑しい面が発揮されたネガティヴなロシアと言え
るだろう。[……]結局,彼にとってのロシアとは今日の自分の存在を裏から支えるポジ
ティヴなものではなく,むしろ現在の不幸の源となったネガティヴなもの,そこから早く
手を切るべき忌むべきものと言ってよい。(
)
このようなロシアのイメージの違い,オボレフスキイの回想とモルコーヴィンの回想の間に
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見られたのと似かよったロシア像の違いが,実はロシアで受けた教育の差と結びついているの
ではないかというのが諫早の仮説である。
結局,テーマに関する限り,重要なのは亡命前に文名があがった否かではなく,何才でロ
シアを離れたか,どこまで教育を終えていたかの方だと言えるだろう。(
)
年生まれのガズダーノフは中等学校を途中で放棄して白軍の志願兵となった。彼がよう
やく中等教育を終えたのは,亡命先のブルガリアにおいてであった。そんな彼の描くロシアは,
理想化された古き良きロシアからはほど遠くても当然かも知れない。
作家だけでなく,読者の側も亡命文学における世代の差を感じていたことは,当時の若者の
回想からうかがい知れる。たとえばドミートリイ・ゲッセン(
―
)は,あるインタビ
ューで,年長世代の文学にほとんど興味が持てなかったと告白している。ブーニンの本は,父
親からが誕生日の贈り物にもらったので読むには読んだが,何の印象も受けなかったと言い,
「私たちは何か新しいものを待望していた,私たちの時代にもっとふさわしいものを必要とし
ていた。大抵あの人たちは革命前のロシアについて,しかも以前ロシアで書いていたのと同じ
文体で書いていた」( )と述べている。
こうして見てくると,第一波亡命文学に世代差を見出すことは容易であり,必然的とさえ言
えそうだが,さて二つないし三つの世代を弁別する特徴が何かとなると,それを名指すことは
容易ではない。小論ではそうした弁別特徴の発見は断念し,回想におけるロシアの描き方とそ
こにあらわれる具体的なモチーフに焦点を当てることにしたい。そして,幾つかのそうしたモ
チーフを抽出するために,まずロシア語ギムナジウムの生徒の作文を取りあげようと思う。
.作文にあらわれた年齢差とテーマの相違
それにしても,どういう事情で私たちは,
年代に書かれたギムナジウムの生徒たちの作
文をいま読めるのであろうか。
年 月 日,チェコスロヴァキア共和国,モラヴィア地方の小さな町モラフスカー・ト
シェボヴァーにあるロシア語ギムナジウムで,授業を二時限分費やし,全生徒に「
年から
ギムナジウム入学までの私の回想」というテーマで作文が課された。これらの作文は翌
ラハで『難民になったロシアの子供たちの回想』
(セルゲイ・カルツェフスキイ編)と『
年プ
人
のロシア人児童の回想』(ヴァシーリイ・ゼニコフスキイ編)として刊行されて注目を集めた。
この
冊が大きな評判を呼んだため,
語ギムナジウムに学ぶ
年にはさらに規模を拡大し,ロシア国外
のロシア
名もの生徒を対象に,同じテーマで作文が課された。そうして集め
られた膨大な数の作文から,識者が適宜引用しながらコメントを付した論集『亡命の子供た
ち』が翌 年に出版されたのである。こちらの本は,資料体が大きい反面,
『難民になったロ
シアの子どもたちの回想』のように子どもたちの作文をそのまま掲載していないため,生徒の
声を直接聞くことはできないが,断片的な引用からでも,革命とそれに続く内戦が子どもたち
の眼にどのように映っていたのか,それが彼や彼女の心にどんな傷を残したか,痛いほど感じ
ることができる。
これらの作文を書いた生徒たちは,亡命地のギムナジウムに在籍しているのだから,ワルシ
ャフスキイのいう「初等教育を受けただけで,中等教育を未修了の未成年として亡命した」世
代ということになる( )。しかも,『難民になったロシアの子供たちの回想』の編者カルツェフ
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スキイと『亡命の子どもたち』の解説者ニコライ・ツリコフが,生年ないし学年に基づいて,
作文を書いた生徒を三つのグループに分けていることからも,二人が生徒の作文にミクロな
「年代差」を想定していることがうかがえる。
まずカルツェフスキイによるグループ分けについて紹介しよう。
『難民になったロシアの子
― 年当時
どもたちの回想』では,生徒が,
― 歳だった年中組(
年―
― 歳だった年少組(
― 年生まれ)
,
年生まれ)
,そして現在 ― 歳か,事情によってはもっと
年上の場合もある年長組の三グループに分類された上で,それぞれのエージグループごとに作
文が掲載されている。
『亡命の子どもたち』のツリコフも,カルツェフスキイ同様,生徒を年少,年中,年長の三
つのグループに――第一のグループが入学準備学年と
の後半と , 年生および
年生の前半,第二のグループは
年生
年生の一部,第三グループはそれ以上の学年というふうに――分類
する。しかも,ツリコフの場合は,学年の差がロシアの記憶のあり方の違いと結びついている
ことを,そしてそれが書かれた回想にある程度反映されることをはっきり示唆している点が注
目される。ツリコフによれば,第一グループは亡命者というより亡命した両親の子供であって,
祖国ロシアの記憶はあっても漠然としており,したがって生徒たちの故郷はもはやロシアでは
ない。「ロシアは両親の話で知っているだけだ」
,「ぼくは小さかったからほとんど覚えていな
い」
,「一週間後に故郷セルビアに帰った」( )といった作文が書かれる所以である。これに対
して,年長組は事件への直接の参加者であり国内戦の記憶が生々しい。革命前のロシアを理想
化することこそないが,戦闘経験を誇らしげに語る傾向があると,ツリコフは言う。
カルツェフスキイ以上に,年齢差と回想のテーマとの関係に意識的なツリコフがもっとも関
心を示すのが年中組である。彼によれば,その特徴的なモチーフによって,この年中グループ
の書き手には幾つかのタイプが区別されるのであり,そのことによって亡命体験が子供に及ぼ
した影響を考えるにあたって多くの示唆を与えてくれる。それは小論にとっても同様であり,
ツリコフが年中組の中に区別する語り手のタイプが,若い世代の亡命文学に特徴的なモチーフ
と重なり合うように思える点が,筆者にはことのほか興味深い。この年中組の生徒たちは,白
軍に加わっていたために教育を受けられず,かなりの年齢になってからギムナジウムに編入さ
れた生徒は例外だろうが,その大半が
年前後の生まれであり,若い世代の作家ガズダーノ
フよりもさらに若い世代の書き手ということになる。
このテーマ的な基準による年中組内部の下位区分という興味深い問題の検討に移る前に,ま
ずは 編の作文がほとんど手を加えずそのまま掲載されている小冊子『難民になったロシアの
子供たちの回想』から生徒たちの生の声を聞いてみよう。
最初に年少組から一編紹介する。これらの作文に描かれているロシアは,小論冒頭で紹介し
た「理想化」――フョードロフが亡命者の回想に特徴的なロシアの「理想化」とは無縁であり,
むしろガズダーノフ作品にあらわれるロシアに近い。
沢山の人が飢え死にしたり凍え死にしたりした。通りの至る所に餓死寸前の子どもが倒れ
ていた。誰もそんな子どもたちに注意を払わなかった。誰もが食べ物を探し,手に入れる
ことに忙しかったから。(
)
続いて年中組の作文を紹介しよう。ユダヤ系のカルツェフスキイが意図的にその種の文章を
選んだのかも知れないが,年中組の回想にはポグロムの描写が多い。ただウクライナから亡命
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した生徒が多かったのは事実らしい。
[……]ペトリューラ派( )がやって来て間もなく,S将軍によってユダヤ人の虐殺が始
まった。こわかった!
店という店の品物が略奪され,
人以上のユダヤ人が虐殺され
た。隣の奥さんが赤ん坊を抱いてやって来たので,ママは彼女をかくまわないわけにはい
かなかった。(
)
年までの自分の人生は,ぼんやりとしか覚えていない。ぼくたちが幸せに暮らしてい
たこと,何ひとつ不自由したことがなかったという記憶しかない……その後,革命が始ま
ったことを覚えている。窓ガラスが割られているのはなぜか,通りに死人が横たわり,酔
っ払いの叫びが聞こえ,闇雲な銃声が終わらないのはなぜか,ぼくは理解していた。もし
誰かうちの人が外出すると,帰ってくるときは担架に乗せられているか,あるいは全然帰
ってこないかのどちらかだということが分かっていた。しかし,実際にそんなことは起こ
らなかった。(
)
つぎに年長組の作文から,革命直後のロシアのギムナジウムの様子を伝えてくれる作文を一
部紹介したい。
校長先生はもう訓戒をやめ,そのかわりに政治の話をするようになった。話の最後にぼく
たちは,「神よ,皇帝を守り賜え」と歌わなくてはならなかった。数日後,校長先生が殺
され(陸軍大佐だったのだ)
,ギムナジウムは閉鎖された。最初に心に刻みつけられ嫌な
出来事は,うちのギムナジウムの上級生の何人かが拘引され銃殺されたことだった。(
)
どうやら編者のカルツェフスキイは,年齢別にグループ分けしているものの,年齢によるテ
ーマの相違,年齢と特徴的なモチーフの相関を意識していたわけではなさそうだ。これに対し
て,『亡命の子どもたち』の解説者のツリコフは年齢差と作文にあらわれるモチーフとの関係
をはっきりと意識している。年齢とモチーフとの相関関係を認識していたからこそ,ツリコフ
は年中のグループに注目し,書き手に五つのタイプを区別したにちがいない。しかし,作品を
生の形で掲載していないためもあって,その分類に十分な説得力があるとは言いかねる。
まず,年齢を問わずカルツェフスキイの選んだ作文すべてに特徴的だと思われる悲惨な現実
をリアルに描く姿勢は,ツリコフの分類ではどうなるのだろう。どうやら年中組では少数派に
過ぎない「年長のグループの子どもたちと同様,事件に直接参加した『主人公』
」のタイプか
(第三のタイプ。第一・第二のタイプについては後述)
,あるいは第四のタイプ,すなわち感
覚が麻痺して老成してしまった《子供=大人》
,そして第五のタイプである「目撃したことが
心に深く刻まれ,意識の表面に浮かび上がってこない児童」( )のどれとも対応するように思
われる。ツリコフのいう第四のタイプの典型例を読んでいただきたい。
いくらか時間がたつと,完全な人間嫌いの状態が私を襲った。私は生きることに疲れてし
まった。当時の私の年齢からするとこんな言い方はおかしいかも知れないが,本当に生き
ることに疲れてしまったのだ。(
)
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この作文を読む限り,第四,第五のタイプは截然と区別できるとは思えない。どちらも大き
なショック,深く内向したトラウマが多感な少年・少女を無感覚な大人に変えてしまった状態
と解釈できるのではないか。ツリコフによると,第三・第四・第五のタイプの過酷な経験を綴
った回想は――ということは,『難民になったロシアの子供たちの回想』に収められている作
文の多くのような悲惨な経験を述べたものは――必ずしも多数派ではないらしい。多数派をし
めるのは第二のタイプに分類される語り手,悲惨な体験への言及を頑なに避けつつ出来事を
淡々と書き綴る語り手なのだという。しかし,この第二のタイプにしても,第四の感覚が麻痺
し,老成してしまった子供との区別が難しそうだ。
こう考えてくると,データによって出来事を記録しようとする「旅人=難民」となった子供
たち――往々にして「町や場所をデータや事実を引きながら列挙することでもって作文を履歴
書にかえている」( )語り手を,多数派でもない第一のタイプにしていることに納得がいく。
このタイプは回想のテーマが難民としての体験と密接に結びつきがはっきり見てとれるからだ。
彼らの作文には,亡命の子どもたちに特徴的なモチーフが浮かび上がってくるように思われる
のである。典型的な例を読んでいただきたい。
ぼくは
年
月 日にプスコフで生まれ, 月 日にヴィテプスクへ移った。
にキエフに移った。
だ。
年
月
日にハリコフに移り,
月 日にノヴォロシイスクに移った。
月 日
月 日,そこで妹が三歳で死ん
月 日にアフリカに移ったが,そこでの暮
らしはとても良かった。 月 日にフェオドーシヤに戻り,
年にぼくはクロアチアの
バカルに着いた。
このタイプの書き手にとっては,人生が旅や放浪に,個人史が地理に変わっている。ある少
年は作文を「これがぼくの旅のすべてです」と結び,別の少女は自分の作文を「手短な伝記」
とはせずに,「手短な地理」と名付けたという。モラフスカー・トシェボヴァーでは,作文と
ともに絵も描かせたが,そこで故国ロシアの自分の家を描いたのはたった一人だけであり,ほ
とんどの絵には汽船や異国の風景が描かれていた。移動の連続の中で,時間の流れと空間の移
動との見分けがつかなくなったとしても,不思議はない。
『亡命の子どもたち』からもう一例,
「旅人」の書いた作文を引用しよう。
黒海の濁った水に囲まれた二週間の間,僕たちの船がコンスタンチノープルに向かって進
んでいた日々,ぼくは子供時代が自分から遠ざかっていくのを,時として人生がいかに苦
しいものになるかということをずっと感じていた。(
)
この作文をツリコフは,第四のタイプの「無感覚になった子供=大人」の例としているが,
この文章に含意されている作者像には,第一のタイプと第四のタイプの両方が共存している。
年齢差とモチーフとの関係に着目した点でツリコフの解説文は大いに評価すべきだと思う反面,
五つのタイプの間に明確な境界線を引くことは難しい。
最後に『難民になったロシアの子供たちの回想』に戻り,年中組の少女の長い作文を読んで
いただきたい。
子供時代の大部分を,私はママがお医者さんとして働いていたS村で過ごした。今でも緑
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の中に浮かんでいるような小さなお家が目に見えるようだ。この思い出と切り離せないの
が,優しく私にとって限りなく大切な婆やのイメージだ。
[……]私は
歳くらいだった。
夏は婆やと一緒にイチゴを摘み,冬はママの膝によじ登って,婆やのしてくれるおとぎ話
を聞いていた。そうして一年がたった……ある日ママと一緒にテラスに座っていた時,
「レーレニカ,秋にはあなたをギムナジウムに入れたいの」と言われた。私は返事の言葉
が見つからなかった。ギムナジウム!
何度この単語を繰り返したことだろう!
それは
何か新しく,特別なものだった。自分がギムナジウムの生徒になるのかと思うと,私は有
頂天になってしまって,秋になり郡役所のあるB市のギムナジウムに行くため,婆ややお
家や古なじみの森とお別れする時にも泣かなかったくらい。私が入れてもらったのは,準
備学年一年生だった。
[……]こうしてまた三年がたった。授業中に銃声が聞こえた。そ
の瞬間,怯えきった先生が教室に飛び込んできた…「皆さん,落ち着くんです…皆さんに
家に帰ってもらわなくてはなりません…銃撃戦が終わり次第,みなさんには付き添いと一
緒に出発してもらいます。ボルシェヴィキが撃ってきてるんです」…さらに二年がたった。
この間に多くのことが変わった。この二年間を私はママと婆やと一緒に貨車の中で過ごし
た。ボルシェヴィキから逃げていたのだ。私たちはロマのように,ある場所から別の場所
へと転々としながら,暮らした。寝入るとき,明日はどこで目覚めるのか分からなかった。
この恐ろしい二年間を私は勉強せずに過ごした。暗くて寒く,汚い貨物車の中に座って勉
強するのはひどく難しかった。ある朝,目覚めると,際限ない水の空間が目の前にあった。
私はママを起こした。「夜の間に運ばれてきたの。私たちはいまV市にいるのよ。これが
海なのよ」とママが言った。私はうれしくて叫び声を上げた。生まれて初めて海を見たの
だ…ある日,つかまえた蟹と緑色のヒトデを持って海から帰る途中,二週間後には出発す
ると聞かされて驚いた。私はできるだけ海岸に行き,黄色い砂の上に座って,限りなくい
としい,何より大切なS村が今もあるはずの方を見つめながら,最後の日々を過ごすよう
した。出港したのは夕方だった。私たちの乗った大きな汽船の甲板に長いこと座ったまま,
故郷の土地の最後の切れ端が隠れてしまった方向を眺めていた…そして今も私は,四年生
の教室の机に向かって愛するロシアを,しかし限りなく遠いロシアを思い起こすの
だ。(
)
良くも悪くも「文学的」な文章ではないか。まだ十代半ばの少女が書いたとは信じられない
ほど「文学的」なこの文章には,ほとんど幼いとも言える年齢にもかかわらず,老大家たちの
場合に似た理想化の契機を読み取ることができる。それは文学の強い影響を受けたが故の理想
化であり,ロシアの理想化というよりは自分自身とその過去の《抒情化=理想化》のように思
われる。そして,この《抒情化=理想化》がなされるにあたって手本になっているのは,既成
の文学,年長世代の文学なのではないか。しかし,それだけではない。この回想には,年長世
代の作家たちにはあまり見られない「移動」というモチーフもここには共存している。
.第一波亡命文学にあらわれた「移動」
興味深いことに,プラハの文学グループ《庵》の詩人アレクサンドル・エイスネル(
―
)も,「今では全世界が暖房の入っていない車両だ」と駅や鉄道というモチーフを通じて
難民生活を表現したのだという( )。具体例を見てみよう。「帰還」と題された詩の一部である。
第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題
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客車の窓から朝早く
遠のいていく野面を見やりつつ
雲の柔らかい波を通してぼくは言おう
さようなら,退屈な異境の地よと。
幾夜も幾日も車窓の向こう街と森が現れたり消えたりする
ほらもう僕は船倉の樽にはさまれ
風は塩を帆にはねかける。(
)
初期の《庵》を代表する詩人ヴャチェスラフ・レーベジェフの詩にも移動のモチーフが目立
つ。どれも一部分だが,いくつかの作品を引いてみよう。彼は
年生まれとナボコフよりも
年上でさえある。受けた教育と作品のテーマの相関関係は厳密なものではなく,ある種の傾向
を示すにすぎぬということなのか。アンソロジーを読む限りではレーベジェフの作品にいちば
ん移動ないし乗り物のモチーフが目立つように感じる。まずは「別れの手紙」を引こう。ここ
でうたわれているのは,駅頭での別れだ。
駅は地震のように唸っていた
空気は涙と別れのために息苦しくなっていた
救世軍の兵士たちは
詩編を歌いながら押し合いへし合いしながら円陣をつくり
私たちは別れようと,旅立とうとしていた
曇ったガラスの向こうに日の出が育ちつつあった
私たちの哀しみの暖かい雲がコンパートメントの窓の表面で氷と化してゆき
凍ってゆく,星の急行列車は線路の上で凍ってゆく
いつか再び会うために来ることなど
望みもしないで,私たちは去ろうとしていた(
)
一方,代表作「新しいコロンブス」に描かれているのは船着き場での別れだ。南ロシアから
黒海を渡る船なのであろうか。
モーターは吼え
鎖は耳障りな音を立て
投光器は霧を切り裂いていた
突堤に立ってスカーフを,傘を,ケープを振っていた
もう風が,船が,星が広大な空間の歌を歌い始めていた。(
)
もう一つ,《庵》の同人でももっとも若い世代に属するエヴゲーニイ・ゲッセン(
の「最後の日々」を紹介しよう。
眠る客車を見送るように最後の日々を送る
窓の消えゆく模様のような灯火を日々じぶんのために運ぶ(
)
―
)
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すでに述べた通り,『亡命の子どもたち』の中で解説者の一人ツリコフは,目立って特徴的
なタイプの語り手として「町や場所をデータや事実を引きながら列挙することでもって作文を
履歴書にかえる」生徒たちのことを挙げていた( )。結局,同人になることはなかったものの,
モラフスカー・トシェボヴァーのギムナジウムを卒業した後,
《庵》のメンバーと交流をもち
つつチェコ語作家となったニコライ・テルレツキー(
―
)は,文字通り『履歴書』と
題された回想録をものしている。この本に後書きを寄せているチェコにおける亡命ロシア人研
究の第一人者,アナスタシエ・コプシヴォヴァーはその解説文を「亡命ロシア人の放浪の旅」
と題し,テルレツキーの移動を「アナバシス」にたとえているが,それが至極当然に思えるほ
どテルレツキーは大きな移動を
度,それも十代のうちに経験している。まず初めての単独行,
それも先の見えない過酷な長旅について要約してみる。
年, 歳のテルレツキー少年はペトログラードの陸軍幼年学校で学んでいたが,
月に
革命が勃発したために幼年学校は閉鎖されてしまう。致し方なく,親元に帰れない生徒たちは,
エカテリーナ女学校に一時的に収容されたが,シベリアから叔母が面倒を見に上京してきてく
れる。しかし,母親から手紙を受け取った叔母から,母親が当時住んでいたコーカサスからキ
エフに疎開すると知らされたテルレツキーは,矢も盾もたまらず,叔母には内緒でキエフに向
かおうとする。まずは干し魚とパンを買い込み,旅の間の食料を確保した。叔母がくれた
ルーブルが使い道のないまままるまる残っていたお陰だった。
しかし,旅はまだまだ始まらない。ウクライナ行きの切符を買うにはビザが必要なのだと言
われて,ニコライは驚く。寝耳に水だが,とにかくビザとやらを出してくれるという役所に向
かう。しかし,すでに役所の外の通りにまで長蛇の列ができていた。それでも少年は一緒に並
ぶ大人たちと協力し合って,行列に並び続けた。昼間用事をすませる大人のために場所を確保
してあげるのと引き替えに,叔母に心配をかけないために家に寝に帰っている間,場所をとっ
てもらったのだ。
ようやく
日目の朝に役所の建物にたどり着き,その日の午後にはビザをくれるという窓口
にたどり着くことができた。しかし,係員は冷酷にも身分証明書の提示を求めた。
歳の生徒
は身分証明書なるものを持ったことさえなかった。少年は窓口をどけと言われたが,
「絶対に
どかない。どうしてもビザが要るんだ。ぼくはもう子供じゃない」と他のみんなと同等の権利
を主張した。並んでいる大人の中には,首を振って同情する人がいるかと思えば,罵る人も笑
う人もいた。とうとう係員に「どかなければ警察を呼ぶぞ」と脅されたニコライは,幼児のよ
うに号泣しながら階段を降りるしかなかった。その時一人の男性が,なぜ泣いているのかと声
をかけてくれた。少年の話に耳を傾けていた男性は,しばしの沈黙の後にぽつりと言う。自分
の息子も幼年学校に通っていたが,この秋に死んでしまった。息子の名前で書類をもらって,
翌日駅にとどけてやろうと。
こうしてテルレツキー少年の長く過酷な鉄道の旅が始まる。鉄道の旅と言っても,コンパー
トメントがありトイレの備わっている客車に乗るという贅沢を味わえたのはただの一度だけ,
ほとんどの時間を屋根の上で過ごした。しかも,革命後の混乱期に,列車が定時運行されるは
ずもなく,行き当たりばったり乗り換えを繰り返すしかない。ようやくウクライナに入ると,
まだしも平穏だったのであろう,残ったお金で色々な品物が買えるようになった。
もう長いことそんなものがあることさえ忘れていた品物が売られていた。牛乳,サワーク
リーム,牛脂,焼きたての小麦粉のパンケーキ,肉入り野菜入りのケーキほかたくさんの
第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題
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品々だ。とうとうまた美味しい物を食べられる幸せよ。しかし,胃はそんな食べ物のこと
などすっかり忘れていた。私は下痢になった。それもすぐにではなかった。(
)
贅沢な食事を終え,キエフへの直通列車に戻ってみると,座席どころか屋根にも入り込むす
き間はなかった。車両と車両の間の連結器の上にも人が向かい合って座っていた。空いている
のは最後尾の車両の連結器の上だけ。少年は下のフックに干した魚とパンの入った布袋を引っ
かけ,その連結器に腰を下ろした。その時,下痢が始まった。ズボンを脱ぐこともできず,便
を垂れ流すしかない。その便は食べ物の入った袋も汚していくがどうしようもない。そんな惨
めな姿でキエフについた少年は,取るものも取りあえず駅構内のポンプでズボンを洗うと,住
所も分からぬ母親を探しに向かうのであった。
こうした苦労の末にようやく母親と再会できたにもかかわらず,
年の
月にテルレツキ
ーは再び家出する。母親の反対を押し切って,白軍に参加してボルシェヴィキとたたかうため
に,白軍参加の幼年学校のある黒海沿岸の港湾都市ノヴォロシイスクに向かうためだ。しかし,
ノヴォロシイスクの幼年学校は,白軍と共に同じクラスノダール地方で黒海東岸の都市トゥア
プセへと移っていた。トゥアプセに着くと今度はクリミア半島南東部のフェオドーシヤに行け
と言われるが,フェオドーシヤではヤルタに,ヤルタではシンフェロポリへ行くように命じら
れるというように,テルレツキーは幼年学校を追ってクリミア半島を三ヶ月近くも放浪した挙
げ句,白軍と共にコンスタンチノープルへと船で渡り難民となった。
コンスタンチノープルに難民キャンプに落ち着いたテルレツキーは,亡命ロシア人のために
開設されたばかりのギムナジウムに入学して中断を余儀なくされた中等教育をやり直すことに
した。そして,チェコスロヴァキア政府の手篤い援助の手を受け入れ,モラヴィアの小さな町
へと学校そのものが引っ越すのについて,テルツキーもチェコスロヴァキア共和国に移住する。
これが十代最後の長旅になった。しかし,付き添いの教師までいる移動は,テルレツキーにと
っては気楽な旅だったのだろう。前の二つの旅の描写に比べれば,暢気とさえ形容できる。記
述も短い。
チェコスロヴァキア共和国には二つの長い列車に分乗して向かった。ブルガリアを横断し
たとき,駅ではボルシチで歓待してくれ,ユーゴスラヴィアではボルシチに加えて,良質
な葡萄が供されたが,オーストリアでは人っ子ひとり出てこなかった。すでに夜で,バケ
ツをひっくり返したような雨が降っていたからだろう。そして,目的地モラフスカー・ト
シェボヴァーに到着。(
)
.結びにかえて
本稿が具体的な記述に修した感があることは否めないしかし,異なる世代の亡命ロシア人の
回想を具体的に比較することを通じて,冒頭に紹介したフョードロフやデミードヴァのような
理論武装は,複雑に見せかけてはいるが実は単純化された図式を提案しているに過ぎないこと
が明らかになった。そうした具体的根拠を欠く理論武装に意味があるとは思えない。そのよう
な単純化された理論図式の誘惑に屈することなく,その一方で具体的な記述にばかり溺れずに,
大きな資料体に寄り添いつつ亡命者たちの記憶のあり様を探っていくこと,それが次の課題と
なるのだろう。
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[本研究は JSPS 科研費
の助成を受けたものです。
]
[注]
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( ) この分野における第一人者の諫早勇一は,
「第一次亡命文学」という用語を用いているが,小
論では「第一波」に統一する。
( )
( ) 諫早勇一「第一次亡命文学と世代」
『えうゐ』第 号,札幌:えうゐ編集委員会,
( ) 諫早「第一次亡命文学と世代」
, 頁。
( ) 諫早「第一次亡命文学と世代」
, 頁。
( ) 諫早「第一次亡命文学と世代」
, 頁。
( ) 諫早「第一次亡命文学と世代」
, 頁。
( )
( ) 注 参照。
( )
( )
( ) ウクライナの反革命・民族主義者たち。
( )
( )
, 頁。
第一波亡命ロシア人の回想と世代の問題
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( )
( ) 注 参照。
( ) Nikolaj Terlecký, Curriculum vitae. Praha : Trost, 1997, S. 22.
( ) Terlecký, Curriculum vitae, S. 44.
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