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表現者たちの「3・ 」
震災後の芸術を語る
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はじめに
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ライフラインが復旧してくると、アーティストたちの活動も再開してきましたが、震災前
抱いた作家も少なくありませんでした。
あるアーティストはチャリティーで義援金を募り、ある芸術家は被災地で慰問コンサート
や泥かきなどのボランティアをしました。衣食住が脅かされた過酷な現実を前に、無力感を
被害を受けました。
当初は誰もが震災に大きな衝撃、影響を受けました。もちろん、芸術家たちも例外ではあ
りません。被災地の作家はアトリエや工房、作品が津波に流されたり、壊れたりするなどの
みは、時が過ぎても癒えることはありません。
しかし、福島第1原発事故が収束の見通しが立たず、予断を許さない状況が続いているこ
とに象徴されるように、復興への道のりはあまりにも遠い。大切な人や帰る家を失った悲し
して忘れ去られようとしています。
2011年3月 日の東日本大震災から 年3月 日で5年目を迎えます。死者・行方不
明者約1万8500人の戦後最悪の自然災害は今、被災地以外の地域では既に過去のことと
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の活動と何かが変わりました。
芸術家たちは震災で何を見て何を感じたか。どう震災に向き合い、どんな表現をしてきた
か。本書のもとになった河北新報の企画記事「3・ と芸術~震災後を語る」は芸術界の
を検証しようと、震災から3年を迎えた2014年3月から連載してきました。
一人一人の芸術家にそれぞれの3・ がありました。表現、生き方、自然との共生、東北
の歴史など、震災は根源的なものを考える機会になっていました。震災の影響は十人十色で
まざまな分野の人々の話を聞きました。
インタビュー対象者は東北在住、東北出身の芸術家、関係者が中心で、震災後に東北で精
力的に活動をしてきた人も含めました。美術、音楽、文学、建築、映画、漫画、演劇などさ
3・
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り、予定が変更になったりしているケースなどがあることをお断りしておきます。
本書では登場者の年齢や肩書をはじめ、文章は一部手直しをし掲載時のまま載せました
(掲載順、各文末にあるかっこ内は掲載日)
。このため、当時開催中だった展覧会が終了した
すが、皆、震災のことを忘れてはいけないと心に刻もうとしていました。
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震災が芸術に何をもたらしたか。記事を通し、その一端を感じていただければと思います。
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生きる希望、演奏に込める 〈山形交響楽団音楽監督〉飯森 範親 言葉の明かりを次世代に 〈詩人〉和合 亮一 制作への切実さ取り戻す 〈美術家〉奈良 美智 福島発の祭り、活力を生む 〈音楽家〉大友 良英 作品への没頭、幸福感生む 〈アトリエ・コパン代表〉新妻 健悦 正面から向き合い伝える 〈リアス・アーク美術館学芸係長〉山内 宏泰 はじめに 「みんなの家」住民と築く 〈建築家〉伊東 豊雄 8
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美術館の在り方問い直す 〈美術家〉鴻池 朋子 目 次
故郷の変遷を撮り続ける 〈写真家〉畠山 直哉 12
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建築と社会の関係性示す 〈東北大大学院工学研究科教授〉五十嵐 太郎 声なき声 次
世代に伝える 〈民話採訪者〉小野 和子 鎮魂の思い、枕木に込める 〈美術家〉高山 登 光を蘇生、記憶の風化防ぐ 〈現代美術家〉宮島 達男 地域文化の継承に力注ぐ 〈ビルド・フルーガス代表〉高田 彩 市民主体、復興の歩み記録 〈せんだいメディアテーク企画・活動支援室長〉甲斐 賢治 子どもと制作、笑顔を守る 〈NPO法人にじいろクレヨン代表〉柴田 滋紀 がれき修復、生きる姿問う 〈美術家〉青野 文昭 戦後日本の矛盾、問い直す 〈音楽家〉遠藤 ミチロウ 創造活動と支援者つなぐ 〈美術家〉中村 政人 福島の個の物語、リアルに 〈小説家〉玄侑 宗久 未来へ向かう力、奏で紡ぐ 〈ピアニスト〉小山 実稚恵 そっと寄り添う音届ける 〈仙台フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスター〉神谷 未穂 5
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被災地の学校で作品展示 〈彫刻家〉舟越 桂 復興の舞 被 災者を励ます 〈雄勝法印神楽保存会顧問〉伊藤 博夫 生きる喜び 音 楽で感じて 〈指揮者〉佐渡 裕 なじみの町の肌触り残す 〈作家〉熊谷 達也 言葉武器に「核災」と戦う 〈詩人〉若松 丈太郎 危機的状況での表現問う 〈映画監督〉藤井 光 アート巡礼で記憶つなぐ 〈民俗学者〉赤坂 憲雄 被災地舞台に「人間賛歌」〈漫画家〉荒木 飛呂彦 原発事故のリアルを表現 〈Chim←Pomリーダー〉卯城 竜太 多様な東北画、学生と追求 〈画家〉三瀬 夏之介 地域の文化、歌やきりこに 〈アートディレクター・演出家〉吉川 由美 世界の被災地の住宅支援 〈建築家〉坂 茂 東北の思想、演劇で伝える 〈オフィス3○○主宰〉渡辺 えり 100
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座談会「震災後の芸術と文化活動」 155
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青野文昭・神谷未穂・山内宏泰・和合亮一
おわりに ※ 表 紙 の 写 真 は、 岩 沼 市 上 空 か ら 撮 影 し た 防 潮 堤 建
日付河北新報より)
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設の様子。被災地は深い悲しみを乗り越えて復興へ
向かう(2014年3月
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表現者たちの「3・11」
正面から向き合い伝える
リアス・アーク美術館学芸係長 山内
宏
泰 さん
泥だらけの炊飯器や火災で膨らんだドラム缶などが展示されている。気仙沼市のリアス・
アーク美術館で2013年4月から開かれている常設展「東日本大震災の記録と津波の災害
)
だ。
史」は、それら震災の遺物が来場者の目をくぎ付けにする。企画したのは同美術館学芸係長
の山内宏泰さん
(
宿っている。被災した人を被災者と呼ぶように、被災した物は被災物と呼んでほしい」
物語は震災を自分の身に置き換えて感じてもらうため、実話を基に創作した。「被災者に
とってがれきという物は存在しない。がれきと呼ばれる物には、人の大切な思いや記憶が
…」
。汚れた縫いぐるみには、そんな文章が付けられている。
遺 物 に は、 被 災 者 の 聞 き 書 き の よ う な 物 語 を 添 え た。「 う ち の 子 が ポ ン タ が 死 ん じ ゃ っ
たって泣くの。新しいの買ってやるからって言うんだけど、ポンタじゃなきゃダメだって
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リアス・アーク美術館学芸係長 山内 宏泰 さん
記録活動に奔走
年3月 日、美術館の収蔵庫で絵を整理中に、強い揺れに襲われた。「ついにやばいや
つが来た」
。 宮 城 県 沖 地 震 だ と 直 感 し た。 屋 上 に 走 り、 津 波 が 街 を の み 込 む 光 景 を 見 た。
(1896年)
を紹介した特別展を開催、 年にはこの津波を題材に
年に明治三陸大津波
小説を執筆し、防災の重要性を訴えてきた。だから、余計に悔しかった。
夜、赤い炎と煙が街を覆った。
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や ま う ち・ ひ ろ や す 1971 年
石巻市生まれ。宮城教育大卒。94
年からリアス・アーク美術館に学
芸員として勤務。専門は美術教育、
造形理論、津波文化史研究と普及。
2003 年度宮城県芸術選奨新人賞
受賞(美術・彫刻)。
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妻は無事だったものの、自宅は流された。ペットのウサギも失った。自宅跡には壁掛け時
計が残っていた。新婚のころを思い出し、持ち帰った。
「津波は今後も来る。自然現象は変えられないが、
自分たちの生き方は変えられる」と語る山内さん
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表現者たちの「3・11」
美術館に寝泊まりし、震災直後から記録活動に奔走した。「非常時に何をしているんだ」。
周囲からはそう批判されたが、震災を教育資料として後世に伝える使命感があった。
2年間で写真3万点、遺物250点など膨大な資料を収集。それらを基に始めた常設展
は、 年の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」に招かれるなど反響を呼んだ。
受けたのは高度成長期以降に造られた街。日本には端から端までそういう街があり、どこで
震災展とは別に常設展示している地元の歴史民俗資料も、地域を再生する過程で必要にな
ると考えている。
「1960年代までの生活には学ぶべき要素が多い。震災で大きな被害を
要がある」
「 津 波 は 雨 や 雪 と 同 じ 自 然 現 象。 大 災 害 に な っ た の は 津 波 が 来 た か ら で は な く、 津 波 に
よって破壊される街を造ったのが原因。過ちを繰り返さないように次世代に教訓を伝える必
列した。
「未曽有」
「想定外」などの言葉が使われたため、これらを震災を考えるキーワードとして陳
展示を特徴づけているのが文章だ。遺物の物語のほか、現場写真には撮影時に感じたこと
を語り口調で添えた。また、三陸沿岸部に過去に何度も大津波が襲来したにもかかわらず、
次世代に教訓を
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リアス・アーク美術館学芸係長 山内 宏泰 さん
も同様の災害が起きる可能性はある」と指摘する。
タイミングは今
「風化」という言葉が使われることに疑問を抱く。「風化と言う前に、震災
震災から3年。
を知って覚えないといけない。自分の経験だけで震災
そして、芸術が力を発揮するタイミングは今だと主
張する。「被害状況の数字だけを並べても、津波の時
に逃げようと思わない人もいる。芸術家が一般の人も
分かるように震災を表現することが大切。芸術は歴史
上、思想や宗教観など重要なことを目に見える形にし
て伝えてきた」
(2014・3・2)
震災に正面から向き合い、表現し、伝える。それが
芸術家が社会の中で果たす重要な役割だと考えてい
る。
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を記憶していると思ったら大間違い」と語る。
常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示
風景
表現者たちの「3・11」
(
作品への没頭、幸福感生む
アトリエ・コパン代表 新妻
)
は震災後、そんな思いを強くしている。
健
悦 さん
「子どもはアートに没頭することによって自分に正直になる。精いっぱい頑張っている自
分はいいなと自らを肯定し、幸福感を感じることができる」。同研究所代表の新妻健悦さん
石巻市の美術教育研究所「アトリエ・コパン」では、小中高生140人が美術を学ぶ。東
日本大震災前と比べて 人減ったものの、子どもたちの目の輝きは変わらない。
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被災から立ち直れないでいる時、アートによる支援を掲げる人々が次々と被災地を訪れ
た。
「子どもたちと何かを作りたい」
。被災者の心情や窮状を無視した支援の申し出に違和感
体験などを語り合った。
2011年3月、アトリエは津波で1㍍浸水。妻の悦子さん( )と屋根裏で3日間、2㍑
の水1本で過ごした。その後炊きだしが行われ、見知らぬ人たちが暖を取ってお互いの被災
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アトリエ・コパン代表 新妻 健悦 さん
を覚えた。
「 人 々 は ア ー ト の 非 日 常 的 世 界 に 引 か れ る と こ ろ が あ り、 ア ー ト 活 動 は 衣 食 住 の 日 常 が 保
障されて成立する。被災地は日常が消えた場になっており、アートを持ち込む人は甚だ迷惑
だった」
支援者は「子どもが笑顔になった」と自賛した。実際はアート支援の催しに参加したのは
元気な子。精神的ストレスが大きい子は参加できなかった。お忍びで被災地を訪れて泥のか
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き出しをした有名美術家の活動の方が、芸術支援よりも自然に思えた。
アトリエ・コパンを運営する新妻さん夫妻。「震
災後のアート支援の在り方がどうだったかを検証
してほしい」と話す
に い つ ま・ け ん え つ 1947 年
石巻市生まれ。東京都内の美術大
を卒業後、74 年にアトリエ・コ
パンを設立。2008 年日本美術教
育学会美術教育実践研究奨励賞を
受賞。宮城教育大非常勤講師。
表現者たちの「3・11」
津波で資料失う
年前にコパンを設立。子どもの美術に対する苦手意識を克服する「造形言語」という理
論と実践活動が評価されてきた。だが津波で過去の活動を記録した資料を全て失い、落ち込
そうして行ったのが小さい紙を使った花の写生だった。コパンでは子どもの自由で豊かな
感性を尊重し、基本的に写生をさせることはなかった。今回は子どもが負担にならない内容
だった。
5月中旬に再開する時は、表現をさせていいのか、何をするべきかを悩んだ。失敗すれ
ば、子どもの心の傷を広げる恐れがあった。これほど悩んだのはコパンを開設した初日以来
自宅を流された子も多かった。自分の作品も失った。「作品は愛情をかけて作った自分の
分身のような、掛け替えのない存在。それがなくなったことが子どもにはつらかったようだ」
しかし、子どもの大半が被災していた。小学生の仲良しの兄妹が亡くなった。両親を亡く
した子、父親や母親、祖父母や兄弟、友人を亡くした子。奇跡的に助かった子どももいた。
れた。再開を望む声も高まった。
震災の数週間後、アトリエの扉に張った紙に子どもたちが書いた伝言を見て励まされた。
「私は生きています」
「先生、大丈夫ですか」
。5月の連休に子どもらが片付けを手伝ってく
んだ。
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アトリエ・コパン代表 新妻 健悦 さん
を選んだ。
子どもたちは黙々とスケッチした。ある子どもが言った。「先生、花ってきれいだね」。ひ
たすら写すことによって心が安らぐ様子だった。
自立した大人に
約1年半後、子どもと信頼関係を構築した人々のアート支
援活動も受け入れた。
「LINE(無料通信アプリ)でつながっていないといけ
ない、メールの返事が来ないなど、皆、他人にどう思われ
るかについてきゅうきゅうとし、一人一人が自分を見詰め
ることをしない時代。アートを通じ、難しい時代を生きる
子どもたちの個を強くしたい」
コパンを巣立った子どもたちには、自立する大人になっ
てほしい。そう願っている。
(2014・3・5)
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アトリエは徐々に日常を取り戻した。震災時を思い出し
て動揺する子もいたが、仲間と活動することで回復した。
アトリエ・コパンの教室。キャンバスに向かう子ども
たちの表情は真剣そのものだ
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