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Title フイクションとしての「夢」の語り : フランス・リアリ ズム小説を中心に

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Title フイクションとしての「夢」の語り : フランス・リアリ ズム小説を中心に
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フイクションとしての「夢」の語り : フランス・リアリ
ズム小説を中心に
田口, 紀子
京都大學文學部研究紀要 (2001), 40: 27-67
2001-03-30
http://hdl.handle.net/2433/73096
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
フィクションとしての「夢」の語り
一フランス・リアリズム小説を中心に-
田口紀子
1. フィクションとその語ち手
1・1
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発 話Jとしてのテクスト
小説のテクストの文章は、ある意味では辞書の例文に似ていると感じられる
かもしれない。辞書の例文は言うまでもなく l
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n
g
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eのレベルに属し、実際の言
語使用状況で用いられた「発話j ではない。日常の言語使用と同様に、ある意
味を伝達はするけれども、それは現実の「発話Jに比べれば、より抽象的、よ
り潜在的な言語行使である。
小説のテクストも同様に、読者が判長売可龍な意味を備え、言語の文法的な正
しい行使の一例ではあるけれども、実在の人物による現実の言行使で用いられ
たものではない。その意味でやはり、日常我々が行っている発話行為である
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sと比べれば、抽象的な l
a
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eのレベルにあるように見える。
しかし辞書の例文と小説テクストの文章の大きな違いは、後者がある状況の
中で、使用されたものとして我々に与えられるという点である
O
その状況とは
もちろん架空の状況であり、小説世界の中に設定されたものにすぎないのは言
r r
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うまでもない。しかし小説テクストに現れる「私 J 君 J ここ J いま」とい
ったデイクティックは、辞書の例文の中とは違って、はっきりとそれが何を指
すのかを特定することができる
O
つまり小説のテクストは、ある特定の「人物J
によって行使された「発話合l
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J として設定されているものであり、
その設定こそがフィクションということの意味なのである
-27-
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1
2
.テクストの
f
語り手 J
小説が、 「語られる」ものであるという考えは、 プラトンの
でに見られる
C
I
国家了。にす
(上掲書、
「語乃手が自分以外の誰かであると考えさせようと J
p
.1
9
6
)するいわゆる直接話法の部分や、悲劇や喜劇が「真似(模散-ミメー
シス )
J と位置づけられるのに対して、叙事詩のせりふ以外の部分は「作者が
自分自身の言葉で語J(同上)るとしている
C
mにおいて、小説の中である事件につい
しカミしジュネットカミ、 その F
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2
て語る人物を 「語り手 n
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J と呼んだとき、 それはプラトンが考えてい
たような、 テクストを言吾る 「作者j とは加のものだった。
ジュネットは小説のテクストをめぐる言語行為の状況を、 以下のように整
理した c
J
e戸 opose(…)denommerh
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2
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私としては、 (…)意味されるもの、 すなわち物語の内容を h
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e(…)と
命名し、 次に意味するもの・言表・物語の言説すなわち物語のテクストそ
i
tと名付け、 そして最後に、 物語を生産する
れ自体を、 国有の意味で、必c
語る行為と、広い意味ではその行為が置かれている現実もしくは虚構の状
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nと呼ぶことを提案する 30
況全体を、 n
このような枠組みの設定が意味することは、物語の内容、 つまりそこで語られ
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J とは、関じ
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J と、我々が実際のテクストとして読む「物語言説 r
る「事件 h
12
プラトン?国家 J
、「プラトン全集 l
l
J 所収、藤沢令夫訳、岩波書庖、 1
9
7
6,第 3章
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. 物語のディスクール 方法論の試み』花輪光、
和泉涼一訳、本声社、 1
9
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5
.
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3 本稿での引用文の訳は、既訳のあるもの辻それを参照したが、論旨との関連で必要だと
思われる笛所は適宜変更したこ
。
。
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ものではなく、前者がある具体的な形式を与えられて後者になるということであ
る
O
例えば、 h
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eの時間をどのように r
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tの時間に編集するか(ジュネットは
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同書の「顕序 J 持 続 J 頻度」のセクションでこの問題を考察している)、
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eとどのような距離を持って語るか(同書「叙法 J
)、そして h
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eと物
語行為の主体との関係をどう定めるか(問書「態 J
)といった観点から行われる
演出、編集行為が小説のテクストという場所で必ず行われるのであり、それを
行うのが「語り手Jなのである
O
従って、日吾り手Jがいなければ物語内容は
小説テクストとしての形を取ることができないのであり、その意味で全ての小
説テクストには「語り手Jが前提されていることになる。
この「語り手」の小説テクストでのあち方を、一人称テクストと三人称テク
ストの場合について簡単に見ておきたい。
1・2・1
.一人祢の語り手
マルセル・ブルーストの
f
失われた時を求めて』の様な、いわゆる一人称小
説の場合は、「語り手Jは「私」と名乗りながら自らの体験を語る人物である
O
r
この「語り手」は小説世界内の存在であり、登場人物の一人である o 私」は
自分が知り得たことは語ることができるが、それ以外のことは語ることができ
ず、従って読者も主人公マルセルの認識の届き得た範囲でしか、物語世界を知
ること定まできない。
開様にアベ・プレヴォーの
f
マノン・レスコー j の物語はマノンの恋人だ、っ
たシュヴァリエ・デ・グリユーによって語られ、ベルナルダン・ド・サン=ピ
エールの『ポールとヴイルジニ -j は、主人公たちの家族と親しくしていた土
地の老人(小説の中では名前も与えられていない)によって語られる
O
これらの「語り手Jたちは、自分が体験した、あるいは証人となった事件を、
自らが適切と判断した方法で、語っていく
O
その方法は、それぞれの「語り」が
置かれた状況仔開き手Jは誰か、「語り」に与えられた物理的時聞はどのくら
いか、「語り」の行為が口頭で行われるのか、手記の形をとることになるのか、
-29-
等)~こ応じて決定されるものであり、 その状況は小説世界内で与えられる c
1・2・2
.三人称の語り手
それに対してスタンダールの
f
赤と黒 j や、
バルザックの 『ゴリオ爺さん J
のような、 いわゆる三人称小説の 「語り手 j は
、 一人称小説同様に 「
私 j とし
て小説テクストにしばしば現れながらも、一人材、小説の「語り手j とは違って、
物語世界のらち外に身を置き、そこから登場人物たちの内面の声を引用したり、
同時に二つの別の場所で起こった事件を報告することができる
C
この全知
omnlsclence.遍在 omnipresenceという特権を備えた「語り手 j とともに、
ヰオフ
員
冗
者もまた登場人物たちに対して絶対的優位に立ちながら、事件の展開を追うこ
とになるのである
O
このように、 プラトンにとっては表現行為を行う作者であ
った「語り手」は、 ジ、ユネットによって物語の機講の一部となった O
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)
(
.
.
.) けれども、 これ以上に微妙かつ徹底的に異なっているのは、
爺さん j の語り手とバルザックである
G
f
ゴワオ
たとえ彼が随所でバルザックの意
vザック自身で「ある j わけではない。 とい
見を披濯していても、 彼はバ )
うのも、 この語り手=作者は、 ヴオーケール下宿屋とその女将ならびに下
宿人一同を[知っている j 誰かなのであるが、 その反面バルザックはとい
えば、 それらのものを想後しているにすぎないからである
O
そしてもちろ
ん
、 このような怠味において、 ある虚構の物語言説の物語状況は、 その書
記の状況に決して還元されないのである O
一人称小説において、物語がな場人物の一人によって語られ、現実の作者によ
qJ
υ
ハ
って語られるのではないように、三人称小説でも物語は虚構装置の一部である
「語り手」によって語られるのであり、実際の作者によって語られるのではない。
ジ、ユネットは、全く語り手が「私」としてテクストの表面に現れない、併えばフ
ロベールの『感情教育』をはじめとする、いわゆる三人称客観小説においても、
「語り手Jを現実の作者ではなく、虚構世界に想定される「役割j として考えた
ことで、一人称と三人称のテクストを相同的に扱うことを可能にしたのである O
1・3
.三人誌テクストの語り手の問題
しかし、三人称小説に作者と辻別の「語り手Jを想定することに関しては、
専門家たちの間でも、議論が分かれている
O
ジュネットをはじめとして、ジェ
ν
y、あるいは文芸批評の立場から自由間接文
ラルド・プリンス 4やミーケ・バ
体を考察したロイ・パスカル 6は、一、三人材、を間わず、全ての虚構テクスト
には語り手を認めているが、それに対してケーテ・ハンブルガー 7やアン・バ
ンフィールドは、三人称の物語に「語り手 j を想定することに反対している
O
後者の根拠は、いわゆる三人称のフィクションが、普通の言語とは異なった
特徴を持っている事実にある
O
例えば、「かれは悲しかった Jというように、
三人称の主語で感覚動謁を用いるのは、フィクションのテクストでなければで
きない例外的な言語事象である O 同様に s
a
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O
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fを強めとする、一連の <
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verbJと呼ばれる動詞は、語り手にとって補文が真であることを前提とする O
日常の会話で「彼女はそれが失敗に終わることを知っていた」と話者が言えば、
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. 物語論の位相 物語の形式と機詑』遠藤健一訳、松柏社、 1
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. 文学の論理j植和国光晴
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訳、松績社、 1
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それは話者にとって「彼女は失敗する j という命題が真であるということを前
提とする
O
しかし三人称の虚構では、必ずしもそうではない。「彼女はそれが
失敗することを知っていた。 Jに続けて「しかし事実は彼女の予想を覆した」
と語ることは可能である叱これらの観察から、三人材、の虚構に通常の意味で
の語り手は存在しないと結論されている
O
しかし、ハンブルガーやバンフィールドは、現実の作者を物語の「語り手」
とすることを主張しているのではなく、むしろ、パンヴェニストの histoke11の
概念に通じる「物語機龍 Jといった抽象的なファクターに、白熱言語とは異な
る「不自然 j な物語言語を帰せしめようとするのである
G
r
也方、この患構のテクストの言語的偏差を、「嘘J ふり」と同列の言語行為と
して、現実の作者の虚構行為そのものに回収しようとする、サ~)し 12 に代表される
ような考え方もあり、ジ、ユネットも後には 13この方向に譲近しているように見える。
しかし、三人称の小説テクストの日常言語からの君主離、つまり日常的な意味
での「語り手 j を措定することの不可能性を、虚構を語るという言語行為の特
殊性に回収するか、抽象的[物語性Jの中に止揚するか、それとも虚講の「語
り手 j の正にその虚構性(全知・遍在性)に振り分けるかは、それぞれの理論的
枠組みからの必黙的埠着であり、「語り手 j の問題だけを切り離してそれぞれ
の妥当性を論じることはできないだろう
C
私としては、一人称のフィクション
に「語り手」を認めるのならば、三入者、のテクストにも同様に「語り手j を認
めることで、より語りの理論に整合性が得られる点 14、そして後で見るように、
「語り手j の全知という龍力が、虚構テクストの言語の特殊性を説明できる点、
さらに「語り手のあり方 Jという観点から、三人称テクストの語りの編差を具
体的に分析できる点を重視して、以下三人称テクストに「語り手」を措定して
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4 ハンブルガーは、三人称テクストのみをフィクションと認め、一人称テクストは作者が
出入(物語の登場人物}のふりをして行う通常の言語行為であるとして、フィクションか
ら除外した。
円︿
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臼
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話を進めたい。
1・4
.フィクションのテクストの構造
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sの概念は、小説テクストの分析には必ず
バンヴェニストの h
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eの例としてあげて
言及さるが、バンヴェニスト自身が小説テクストを h
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o
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eに自動的に振り分けられることが多い。
いるために、小説のテクストは h
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eで記述されるか、 d
i
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u
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sで、記述される
言うまでもなく、ある事件が h
かは、語り手がその事件をどうとらえるかによって決まるところが大きい。す
i
s
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r
eとして語られるのは、その語り手が、その
なわち、ある歴史的事件がh
事件を自分の生きている時間軸とは切ち離され、輪郭の定まった完結した事柄
と捉えるからである
O
その意味で、 h
i
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eはパンヴェニストの主張とは逆に、
事件が事件を語るのではなく、語り手とそのディスクールの存在を前提として
初めて存在しうるのである
O
三入者、テクストにも「語り手j を措定する立場に立てば、小説テクストとし
て現れた h
i
s
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o
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r
eも、「語り手 j が現実の存在か、虚構装置のー占部かという違い
があるだけで、事情はまったく同じであると考えることができる
O
主要な出来
事 がh
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eで、語られるのは、その「語り手 j が事件をそのようなものとして
捉えていることを示しているのに他ならない。つまり、小説中で語られる事件
i
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eのシステムで語るという選択は、先に触れた「語り手j の編集作業
をh
の一部なのである C
2.語りの問題としての
f
夢j
2
1
.体験としての「夢jの特徴 15
「
夢Jを語ることは、実はそれほど簡単なことではない。我々の現実の体験
を語る場合と夢に見たことを語る場合とは、次の 2点で決定的に異なっている
からである
G
第 1点は、「夢」は実際に法断片的なイメージの連続でしかない場合がほと
1
5 夢を語るディスクールの特鍛に関しては、 J
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9
3に抜拠している
O
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んどで、しかも夢の多くの部分は目覚めたときには記憶から失われていること
である
O
夢が現実の体験のように完結した形態をとることはまずあり得ないち
それを一つのまとまったエピソードとして語ろうとすれば、そこに何ちかの編
集、創作行為が加わらざるを得ない。
第 2点は、夢を語る場合、主体たる「私」の同一性が必ずしも自明ではない
ということである
O
そしてその主体の分化は二重である。
まず夢の中の「私」は、夢を見る「私」によって第三者のように外から見られる
ことがある。夢の世界はその主人公で、ある「私」によって」人材、的世界として、
つまち現実世界と相同の認識世界として把握されることもあれば、舞台にのぼ
った「私jをもうー・入の「私」が見るように、三人称的に把握されることがある。
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そして私はと言えば、分裂していたむなぜなち今や私は問時に行列の中と外
にいたからだ。私はそこにいると河時に、そこにいる自分を見ていたっ
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1936,
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10B前私は水没しの道を走っている夢を見た。自分が遠くに見えた。水の
上を走っているように見えた。月は輝き、すばらしい景色を煎らしていた c
そして私の心臓は喜びで高鳴っていたっ
もう一つの主体の分化は、夢を見る「私 j は、それを語る「私」とは同
A
で
あり得ない点にある。夢を昆ている「私」にとっては至極当然に思われたこと
が、夢から覚めてみると不条理きわまりないことだ、ったりすることは、よく経
qJ
4t
験するところである
C
このことは、「夢」が抱の悟人的経験とは違って、現在
進行形では語られ得ない、つまり知覚されるのと同時には語られることができ
r
私j
ないことと関係する o 夢 j は見られることによって生じるが、覚醒した f
によって回顧的に認識されて初めて存在するのである 160
r
2・2
. 夢 Jの語りと時制
この「夢 j の持つ、つかの間の断片的な性格と、主体の重層性は、「夢 Jの
テクストにさまざまな語りの試みを促してきた。時制の開題に限ってみても、
用いられる時制は多様であるが、 G
o
l
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u
t自身による、日記、手記、回想録、手
紙といった、
ドキュメントとしての夢の記述の分析によれば、半過去と現在形
が主に用いられ、複合過去と単純過去の使用は不可龍ではないが、併は少ない
という
O
このような多様な時制の使用は、他の事象の語りには備を見ない。こ
れは、夢という事象が、地の現実的体験とは違って、現実のいずれかの時点に
生起し、従って時間軸のどこかに「白熱に」位費づけられるような事件ではな
く、語り手の内的体験としてのみ存在しているものであるからである
O
以下、
G
o
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u
tが述べているそれぞれの時制の意味について要約しておきたい。
2・2・1
.半過去
G
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tが<<lereverememore思い出された夢 J
7と呼んで、典型的な夢の語り
の時制と位置づけているのは芋過去形である
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)。以下、この分析に従い、「夢を語る私J
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[夢を見る私J 夢の中の私j を区おして議論を進めたいむ
1
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その朝、やっと寝付いたかと思ったとき、次のような夢を見た。私は郊外
の見知らぬ場所で目が覚めて、その朝パリで行われる葬儀に出なければな
らなかった。それはたぶんバンヴイルでの葬式が気がかりだったせいだろ
う
O
階段を降りながら、何処で馬車がひろえるかと考えていると、この建
物の一指に貸し馬車屋があったのを見たような気がしたのを思い出した
O
そして実際、その主人を呼んで、措段の最後の一段に是を置いた瞬間、古
いランドー型馬車が私の前を後ろ向きに狭い壁に挟まれた小道をやってき
て、その道はとても狭かったので、私は馬を見ることができなかった。そ
して道はとても長く、呆てしなく続いていた。
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私は港のにぎやかな通りをさまよっていた。(.一)私はこの陰気な町から出
ることができずにさまよっていると、突然考えが浮かんだ o (…〉私はいく
つもの仮面と、仮面を着けたいくつもの死体と」入で、向かい合っていた。
いや、仮面より悪いのは、突然この石膏と厚紙でできた偽りの顔の下に、
この死人たちの瞳が生きているのを見たときだ、った。ガラスのような日が
私を見ていた c 私は叫び声をあげて日を覚ました。
1
8 特に断りがない誤り、これJj.詳の引用文に施された強一謂は、説明の便宜のために引用者
が施したものである c
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G
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u
tはこの半過去を「事態をその実現によって消費されたものとしてでは
なく、その生成の中に停止されたものとして再現することを可能にする勺と
説明している
O
断片的なイメージの連続としての夢の有りょうを最も正確に表
すことができるのが半過去形であり、そこでの夢は「夢を見る私 j
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知覚した印象として叙述されている
O
2・2・2
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夢の語りに特徴的な持制として、 G
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tがあげているもう一つの時制は、現
在形である ボードレールが自らの夢の記述に部分的に現在時制を用いたのが、
C
現在時での夢の語りの初期の重要な例であるが20、 20
世紀の作家たちの何人か
は自分の夢をすべて現在時で報告している 2
1
0
口頭での夢の報告が、開き手を前にしての発話行為としての性格を免れにく
いために、半過去で行われることが多いのに対して、書かれた報告では
く
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)と言うよりは、むしろくe
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)の意味合いを持った、一種シナリオ
的な現在形が可能である 2
2
0 この現在形の使用は、「夢を語る私 j
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の夢の内容からの離脱と、「夢見る私 j
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味していると考えられる
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7に引用。
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)
私と話すために、作家か芸術家らしい美人のアメワカ女性は超モダンな広
大な高級ホテルでの待ち合わせを約束した。私は彼女が私を狙う務密結社
に関係しているのではないかと疑いながらも、その約束に出かける。私は
その部屋にはドアが 2つ開いていて、もっと小さい部
サロンに通される
C
屋に通じている
私はしばらく待つ。アメリカ人の女性がやってくる。彼
O
女は私に、となりの小部屋に移ろうと言う
O
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自宅。 R到着。彼は上差(それは漁師の上っ張りだ〉を脱ぎ、一文もないの
で養ってくれと嘆く
O
私は自分の家だと思ってくつろいでくれと答える。
彼は Rの視線には無関心のようにアパートの中を真っ裸で歩く Bをじろじ
ろ見る
O
私は自分の寝室に行き、ヌルデインヌ.M.は私についてくる
O
これらの現在時による一貫した夢の語りは、夢の体験の持つ非現実感、浮 i
芽
惑を時制によって表していると言えるだろう
O
夢を見つつある「私」の宙に浮
いた感覚が、夢を語っている「私 Jの発話の現在時から切り離された無時間的
現在形によって伝えられ、読者はその現在を共有するのである O
2・2・3
.複合過去
複合過去時制は、語り手の現在と分かちがたく結びついたものとして過去の
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呼び、複合過去で語られた夢を〈裏打ちされた夢 l
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私は入ったっ彼は私に別の部屋に通じている開いたドアを指し示した。彼
は私にいった。「掩のピストルを持ってこい。」それは弾倉のついた大きな
制式ピストルで、釘に掛けてあった。私はそれを彼に持っていった。
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2日 私はこの夜処刑された。〉と、記述の最後に加えら
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っきり残っているあいだに、忠実に書き留めておこうと努めるその夜の夢)}
という注意書きによって、「夢を語る私Jにとっての実体験として捉えられて
いることがわかる O
しかし、全体が複合過去での夢の備は、ノン・フィクションのテクストとし
てはこれが G
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tのあげている唯一の例であり、現実にはこのような夢の把握
のされ方は稀であることが想像される O 夢が現実として捉えられていく様子を
示す興味深い例として G
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tがあげているのは、実はフィクションのテクスト
なのである O 具体的に論じるいとまはないが、ユゴーの『死刑囚最後の日 j で
主人公が悪夢の記'憶に脅かされる様子が、複合過去によって効果的に叙述され
ているのが分析されているへそこでは夢の場景は、目覚めた後も「夢を語る
私j にまるで実体験のように強く影響を及ぼし続けているのである O
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単純過去での夢の語りとして G
子紙、日記、といった、ディスクール系のテクストでは、夢という勝れて偶人
的な体験を単純過よ-で、語ることは誌とんどないことは想像に難くな V ) 2 テクス
トの性格に加えて、夢を単純過去によって完結した事件として語ることは、先
に見た夢という体験自体のもつ性格からも心理的に困難であろう。 G
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そこで私は妻を捜しに出かけた o (…〉私は野山をさまよい始めた。そして
馬車を一台借りさえしたが、「悪魔の橋」とでもいう場所まで、乗ってきた
ところで、馬車を捨てた。それは土地の名勝で、絵はがきで見たことがあ
ったのを思いだした。有名な場所で、険しい岩山に囲まれていたっ私は
「彼女はけしてこの場所に我慢できないだろう j と思うやいなや、カジノ
に戻った
G
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tは、単純過去時制が現在からの隔たりを強調する点に注目し、「夢の
なかの私」を「夢を語る私」が心理的に突き放す行為をここに認めているが、
我々はむしろこのテクストに、夢の「虚構化 j を感じる
O
断片的な記壌から一
つの完結したストーワーを仕立てる行為。「夢 J まもはや信人の内的経験では
なく、歴史的事実となるのであるつ
-40-
以上の G
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tの分析は、 1
9・20世紀に書かれた日記、手紙、回想録といった、
ノンフィクションのテクストを主要なコーパスにして、夢という現実が語られ
るときに選択される持制に、それを語る主体の夢の認識がどう反映しているか
を明らかにしようとしたものである
C
しかし文学テクストに現れた夢の場合には、問題はさらに複雑になる O すな
わち、その時代に「夢j がどのような意味を持つものとして捉えられていたの
かという、歴史・社会学的な問題に加えて、三人称による語りの開題が生じる
からである
O
3.虚構の問題としての「夢」
3
1
.フランス文学における
f
夢 j のテーマ
f
夢」は古代から、ギリシャ、インド、イスラムなど多くの文明において、
現実世界でのある事態(これから起こる事件、隠れた病、諒された真実、等)を
表象、あるいは示唆するものと考えられ、それをいかに正しく読み解くかが、
それぞれの文化における「科学j の一部と考えられていた 260
文学の領域でいえば、ギリシャ神話で、の
f
夢 j が、多くの場合、神からのメ
ッセージを人間に伝える手段としての機能を持っていた事は、この「読み解か
れるべき夢 Jという夢のあり方を反映したものと言えるだろう
O
この一種の
「予知夢 j としての夢は、キリスト教を経由して 27、酉ヨーロッパの文学にお
ける「夢j のあり方を 1
8世紀まで、すなわちロマン主義の直前まで支配してい
た280 神からのメッ七一ジとしての「夢Jは、その否定的形態としての悪魔か
らの誘惑としての「夢j も含めて、夢見る人物に外から訪れるものとして認識
されていたことは重要である
O
1
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世紀古典主義時代の劇作品は、ギリシャ古代に多くその題材をとっていた
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夢
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中世の夢』所段、池上後一訳、名吉産大学出版会、 1
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-41-
事と、「宿命Jが作品の重要なテーマになっていたことから、人物の運命を暗
示する[夢 j がプロットを押し進める役割を担うことがある C コルネイユの
『ポリユクト j の中のポーリーヌの夢や、ラシーヌの『アタリ ~j でヒロイン
が見る夢がそのよい例である
ルソーの
O
f
新エロイーズ』のサン・ブルーも、ジュリーの死を「予知夢 j で
知ることになる
ディドロの
ただ、理性の時代としての 1
8世紀の思想的ディスクールでは、
O
fダランベールの夢 iゃ f
おしゃべりな宝石 j でのように、「夢 J
は進歩的な思想、や、エロティックなシーンにアリバイを与えるための装置とし
て用いられている
O
これは「夢 j が本人の理性が及ばない領域として認識され
ていたことの現れであり、後の蕪意識の表象としての「夢」へつながるものと
考えることもできるかもしれない。ただ一般には、 1
8世紀的精神は、
f
夢j に
もう一つの自我が現れるとは考えていなかった c ルソーは「夢想 reverieJ に
「魂の最も密かな動き Jを認めていはしても、「夢 j はその『告白 j に告白すべ
き対象として取り上げられる事はなかった。
1
9世紀の初頭、 ドイツ・ロマン主義、特にホフマンの影響下に、フランスでも
幻想的テーマを扱った作品が流行するが、そこでの「夢」はむしろ作品に怪奇的
趣向を付け加えるためのものがほとんどであり、ネルヴァルの祖先の記憶として
の「夢」も含めて、依然として「外部からの夢j としての性格を持っていると言
えるだろう。
9世紀
夢がそれを見る人物の内面を表すものと考えられるようになるのは、 1
後半の、精神医学への関心の高まりに応じてのことである
ール 29やモワ
O
モロー・ド・トウ
といった、精神病医達が、フロイトに先立って「夢 j に注目
30
するようになり、「夢」の記述をそれまで背負わされていた幻想としてのコノテ
ーションから解放した。それに伴って、文学者達も、自らの夢を、忘るいは詩
作のインスピレーションとし、あるいは日記や手記に書き留めるようになった c
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主にこの本と、 G
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tの上掲書第 1章によっている。
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-42-
文学作品にその状況が顕著に反映されるのは、ボードレールを蛤めとするい
わゆる象徴主義文学とデカダンス文学においてであろう 310 さらに、「夢 j に
直接創作のインスピレーションを汲もうとしたのは、シュルレアリスト達だ、っ
た。彼らは進んで自分たちの見た夢を発表し 32、何よりも作品の中で重要なモ
チーフのーっとして夢を扱った。
このような流れの中で見る摂り、写実主義、白熱主義のテクストと
f
夢j の
テーマはあまり縁がないように見えるかもしれない。しかし、登場人物の意識
や内的世界は、フロベール、モーパッサン、そしてゾラがその作品でとりわけ
描き出そうとしていたテーマであった。
写実主義小説と夢とが親和性のないものであるという印象を我々が持つとし
たら、それはむしろ、語ちの形式、つまり 3入者、の語りが夢の記述にある困難
を生ぜしめることが原因であると思われる O 言い換えるならば、全知の語り手
が、霊場人物の夢をどのように描き出すことができるかという開題である O
3人材、テクストが目指したレアリスムと、作中人物の意識の形態としての夢
の表象を、虚構性の問題として考える前に、まず 1入者、テクストでの夢の記述
をいくつか十食言すしたい。
与2
.一人称テクストの場合
予知夢であれ、幻想的な夢であれ、夢を外部から訪れるものとして描いた時代
は、フランス文学史では一人称テクストの時代に重なる o 1
7
世紀古典主義時代の
演劇作品では、むろん登場人物のディスクールとして、一人称で夢が語られる O
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どこまでも追い払おうとしたが、それはどこまでも私につきまとってくる O
それは深夜の恐ろしい夢のなかのこと G 母のイゼベルが私の前に現れた、
弔いの日そのままの美しく装った姿で。母の悲しみもあの烈しい気牲を失
わせず、寄る年波のとりかえせぬ衰えをいやすために、顔に厚化粧をほど
こした人工の美しい輝きを未だに留めていた。母が言うことに、「恐れおの
のけ、私に似た娘よ O ユダヤの残忍な神はおまえまで打ち負かすだろう
C
神の恐ろしい手でたおれるおまえが不慌でならない。」このぞっとさせる言
葉の終わりに、母の亡霊は私の臥床に身をかがめるかのように見えた。
夢の中の出来事は、ヒロインによって複合過去形を中心に語られているが、こ
のことはアタリーが自分の夢、そこに現れた亡き母を、現実として受け取ってい
るのみならず、夢から受けた強い印象に今だに支配されていることを示している c
ルソーの
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新エロイーズ』は書簡体小説であり、問題のジュ 1
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する夢は、サン・ブルーがドルブ夫人に宛てた手紙に記されている
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私の目に見えたように思われたものは、あなたのご親友のあの立派な母上
が寝床に横たわってこときれようとしておられ、お嬢様はその前に強いて、
涙に沈みながらそのお手に口づけし、ご臨終に立ち会っておられるところ
でした。(…)それっきち母上はものがおっしゃれなくなりました。私法母
上の方に呂を向けようとしましたが、そこにはもうそのお姿がありません
でした。その代わりにジ、ユリーが日に映りました。私はあの方を見ました。
お顔をヴェールで穏されていましたが、あの方だとわかりました。私は時
ぴ声をあげ、そのヴェールを取り除こうとして飛びかかりましたが、そこ
まで届く力が出ませんでした。私は腕を伸ばしました、もがきました、が、
全然手に触れませんでした。あなた、落ち着いて下さい、とあの方は弱々
しい声で言われるのでした。私は恐ろしいヴェールに覆われています、ど
んな手も引きのけることはできません、と
O
そのお言葉に私は身をもがい
まちましたが、この努力で目が覚めました。私は
てあらためて力をふりし i
寝床におり、体は鶏のように疲れ呆て、汗と涙で濡れていました。
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夢で問題のシーンを見たことが、単純過去によって叙述されるのは、それが
動かしがたい現実としてサン・ブルーに受け取られていることを表すものであ
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一方、夢の後半では現在形も用いられている。この現在形は、先に見たシ
ナリオ的な現在形とはことな与、劇的な場面で一連の動作を表すのに単純過去
の代わりに用いられる、いわゆる「語りの現在形手r
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ここでは、夢のなかでの体験が、恐怖や興奮といった強い惑情を伴うものであ
ったことが「語りの現在形j で表されているのだが、さらにその現在形が覚醒
直後の場面まで引き続いて用いられることで、夢のシーンとそれに続く覚醒と
が、手紙を書いているサン・フP)V-によって現在として追体験される状況があ
りありと描かれている
O
もう一つ、夢と現実の交錯というテーマで、独自の幻想世界を創り出した、
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ゴーチエの LaM
orleamoureuse 死霊の恋 j の夢の叙述を見ておきたい。主人
公の年老いた可祭が、同療の求めに応じての過去の奇怪な恋愛を語る物語であ
る 主人公のロミュアルドは司祭に任ぜられたばかりで、ある田舎町に着任し、
O
質素で、謹厳な生活を送っているが、毎夜見る夢の中では、高貴な麗人とヴェニ
スの邸宅で豪奪に暮らす貴公子である O
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私はすぐ深い眠りに落ちて、夢が昨夜と同じように始まりましたっカーテ
ンが開いて、クラリモンドが入ってきました。しかし、はじめの時のよう
-46-
に、真っ白の屍衣を着、頬に董色の死色を浮かべた幽霊の姿ではありませ
んでした。立派な旅の装いを凝らして、快活で身軽で艶麗そのものといい
たい様子でした。販は緑色のどロードで、金の飾り紐をつけ、緩子のスカ
ートを見せるために脇がまくれていました o (…)あの入はその鞭の先で軽
く私にさわって言いました。「まあ、ほんとにお寝坊さんね。それでお支
度をなさったおつもりなの。私ちゃんと起きていてくださるとばかり思っ
ていましたのよ O さあ、急いでお起きあそばせな。時間がございませんか
ら。」私は寝台の下へ飛び下ちました。
若い可祭としての生活と、夢の中で続くヴェニスの貴公子としての生活が、
どちらも単純過去で交互に語られることが、「どちらが夢でどちらが現実なの
かj という再義的世界の構築を可能にしているのである O
これまでの一人称テクストにおける夢の叙述に共通していることは、夢がそ
の夢を見た人物によって語られていることである O 従って、その夢が人物にと
ってどのようなものとして捉えられているのかが、用いられる語りの時制に忠
実に反映されている O アタリーにとって辻夢は現実と同じ印象を残し、サン・ブ
ルーは事実として夢のビジョンを受け止める O ロミユアルドは河じ重さの二つ
生活を生きるようになり、どちらが現実かがほとんどわからなくなるのである O
このような夢とそれを見る人物の関係は、むろんフィクションの一部である O
つまり、 G
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tが分析した現実の夢の語ちでは、多くの場合内部から把握され
た断片的な印象として半過去形で叙述されるか、現実から遊離した世界として
現在形で描かれるかであることが通常であり、複合過去や単純過去が用いられ
ることはほとんどなかった。ところが、これらの作品では、夢を見る人物が、
外部から訪れた事件として、夢に一貫したストーリーと意味を与えているよう
に描かれているのである。このことは、断片的な印象に過ぎないはずの夢に対
して、プロットの中である機能を持たせるために作家が行った、「夢」の虚構
化であると考えることができる O 実は夢が外部からのメッセージであると考え
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ること自体が意味を与える行為であり、現実の虚構化に龍ならないのである c
3・3
.三人称テクストの「語り手」のためらい
それでは、虚構化されない夢はどのように描かれうるのだろうかc
フランス小説の場合、文学史 tリアリズム小説と呼ばれているジャンルは、通常
三人称の語りの形式をとっている。三人称テクストの「語り手」は、その全知・
偏在という特権により、京理的に、登場人物の内面で繰り広げられる思考・感靖
の動きを自在に描写することができる。従って、人物の内的知覚であるところの
夢のシーンも容易に描写できるはずなのだが、興味深いのはそれをさけて、夢の
部分だけを人物に直接一人称で語らせている例が見られることである。
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ユゴーは、その中編 L
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脱走犯であることをあかすべきか否かに煩悶する夜に見る夢が、マドレーヌ氏
自身の手記のかたちでテクストに挿入されている
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彼はそこに居眠って、夢を見た。(…)その夢がたとえいかようなものであ
ろうとも、それを省けば、その夜の物語は不完全たるを免れないだろう
それは実に病める魂の暗潅たる訪僅である
O
記録は次のとおりである
題には、「その夜予の見たる夢 J
、という一行が書かれている
C
O
表
C
私は平野のうちにいた。一本の草もない広い寂しい平野であった。昼で
あるか夜であるか、私にはわからなかった。私は自分の兄弟と一緒に歩
いていた。それは私の子供のおりの兄弟であった。そしてここに言って
おかねばならないことは、私はその後彼のことを考えたこともなければ、
もはやほとんど覚えてもいなかったのである O
私どもは話し合っていた。そしてまたいろいろな通行人に出会った。私
どもは昔隣家に往んでいた女のことを話していた。その女は街路に面し
た方に住み初めてからは、いつも窓を開いて仕事をしていた。話をしな
がらも、私どもはその開かれた窓のために寒さを感じていた。
平野のうちには一本の樹木もなかった。
私どもはすぐそばを通っていく一人の男を見た。その男は真っ裸で、灰
色をして、土色の馬に乗っていた。
三人称のこの長編の中での、このような一人称の手記の挿入は例外的手法で
ある
O
しかもこの場面は、マドレーヌ氏の苦悶を語り手が 2
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たって詳細に描き出した <<Unetem
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e脳裏の暴風雨持という章
のすぐ後に置かれているのである O そしてほほ 2ページにわたる「手記j の直
接引用の後、何の橋渡しもなく、物語は「彼は日を覚ました。彼の体は凍えそ
うだ、った。 Jと三人称によるマドレーヌ氏の描写に戻っていく
-49-
O
夢の内容は、半過去による場景描写で始まり、単純過去で前景が語られてい
くという、典型的な物語の形式をとっている
G
内容的には、主人公の量かれた
状況を象徴的に表す夢であることが、ロマン派以前の外部から訪れるものとし
ての夢と大きく異なり、小説のロジックの外からのモーメントとしてストーリ
ーを新たな局面へ導く機龍を持つてはいない。従って、まさに夢を見る人物に
内在する世界として、語り手の自由な心理描写の好対象になり得るはずなのだ
が、直前までマドレーヌ氏の煩関を詳述している語り手に、ユゴーがその「夢 j
を語らせなかったのは奇妙に思われる
O
実は再様の傍をバルザックの作品にも見出すことができる。バルザックも、三
人材、のテクストにおいて、登場人物の夢を語り手でにはなく、その入物に一人称
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tという作品の中で、ヒロインの Ursuleは
で語らせているのである c U
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,伎の夢を見るのだが、その夢の中で、 M
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自分が彼女のために書いた遺言が語、されたことを教え、親族の悪巧みを暴く。こ
の死者からのメッセージとしての夢は、三人称の語りの流れの中で始められる
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0日後、ユルシュルは、その精神的な事
実からのみならず、いわば物理的状況から言っても、超自然的な幻覚の様
相を呈した夢を見た。彼女の名付け親である、故ミノレは、彼女に現れ、
自分と一緒に来るように手招きしたっ彼女は肢を着、暗需の中を彼に従い、
ブルジョア通りの家まで行った。そこでは何もかもが、彼女の名付け親が
死んだ吾のままになっているのを彼女は見た。
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このように、夢の内容は主に単純過去で語られ、その限りにおいて、この夢は
物語中の地の事件同様に、現実のエピソードとして語られているように見える。
ところが、この三人称の夢の語りに、唐突にヒロインの直接話法が挿入される
のである。
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「その手紙の文字は、と彼女は司祭に言った、まるで太陽の光で書かれて
でもいるかのように、きらめいていました。まぶしくて目がつぶれそうで
した。 j
f
彼は、とユルシュルは言った、三本目のマッチでやっと、書類を燃やす
ために火をつけることができました、そして彼は燃えかすを灰の中に埋め
ました。それから私の名付け親は私を家まで連れ戻り、そして私はミノ
レ=ルヴロ氏が、図書室に忍び込み、
f
パンデクト Jの第三巻の中から、
2
0
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0リーヴルの国債証券を 3
枚と、銀行紙幣になっていた年金と
それぞれ 1
J
を盗んだのを見ました。(… )
とロインは 3度にわたって名付け親の夢を見るのだが、最も詳しく描かれるこ
の一つ日の夢はこのように語り手による 3人称の叙述と、ヒロインの直接話法
の奇妙な混請によって搭かれている。しかも、ユルシュルが司祭にこれらの自
分が見た夢の話をしたということが読者に知らされるのは、 3つの夢が読者に
語られた後なのである O
戸
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このような無理な語りの形式をとってまで、ヒヨインに夢の語りを途中から
き戦がせる必要がなぜあったのだろうかつ
づl
二人称テクストの語り手に直接人物の夢を叙述うせることがためらわれる理
由は:つ考えられると思われる r まず」つは、単組過去時制と語り子の全知に
関する問題である。単純過去は物語世界を構築する最も基本的な時事!Jである「
すなわち、単純過去で表される事象は、物語世界の透明な「現実 j そのもので
ある戸しかも全知の語り手は、外的事実だけでなく、登場人物の内的思考や感
覚も単純過去で語るので、物語世界の「現実 j は、事{午や状況のみならず、登
場人物の内的思考や感覚も含むものとなる。むしろリアリズム小説とは、白熱
景観や風俗の描写よりは、登場人物たちの内面の忠実な叙述にこそ、その意義
をおいている c 言い換えるならば、小説で人間の内面をありのままに再現しう
るという前提の上に成立しているのであるむ
ところでこのことは、夢の記述に関して国難な問題を提示するのである。す
なわち三人称テクストの語り手は、人物が夢で見たシーンを単純過去で記述す
れば¥それは小説世界での外的事件とまったく同じ透明性を獲得してしまう
O
夢が本来的に備えている、人物の意識を介したものであることから来る不透明
性、つまり「夢」はそれを見る人物にとって完全に明示的に現れることはあり
得ない、というまさに
f
現 実j は、覆い隠されてしまうのである。
もう一つの問題は、先に述べたように「夢 j とは、本来首尾一貫したエピソ
ードとして記述できるものではあり得ないという点にある
O
それを単純過去に
よって完結した意味を持った事件として描くことは、さらに小説世界のリアリ
ズムを損なうものである。しかし、プロットの必要性から 33、登場人物の夢に
荷らかの一貫したストーリーと意味を持たせる必要がある場合、三人材、テクス
夢J
トの語り手は、登場人物自身のディスクールを借りることを選択する o I
は夢を見た人物に思い出されたものとして語られることによって、その吉尾一
貫性と、付与された意味とが、思い出す人物の責任に婦され、それによって語
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動 物 磁 気 magnetismeJ に傾倒して、
シュルに影響され、また当時注目を集めていた f
見えない霊の世界を信じるようになるというプロットも、この亡霊が出現するいささか
時代がかった夢を動機つずけるものだろう〆
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り手が支配するリアリズムの世界では括弧に入れらる事になるのである c
全知・遍在の語り手によって現実をあちのままに描き出すという拘置紀の小
説のイデオロギーは、 f
夢」という現象が本来的に持っている不透明性をテク
ストに載せることに函難を覚えた。小説世界を支配する全知の「語り子j のヘ
ゲモニーが、人物の「夢 Jを直接支配しようとすれば、 f
夢 Jはそのリアリテ
ィーを失ってしまうのである
O
3
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.写実主義小説の「夢j
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9世紀後半のフランス・ワアリズム小説は、入院の内面や蕪意識まで含めた、
その有り様を鋭く解析することを日指すものであった O その「内的焦点化
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e Jと呼ばれる、登場人物の内面描写は特徴的である
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しか
し、人間の内的ヴイジョンの 1つであるところの「夢 j のまとまった記述は、
ほとんど見られない。モーパッサンの幻想短編にはいくつか剖があるが、一人
称で記述されたものが況とんどなのでここでは触れない 350 ゾラは『夢 iとい
う作品があるが、そこではむしろ「夢想 j が中心的テーマになっていて、睡眠
中の「夢 j の詳しい記述は見ちれない。
フロベールは、『聖アントワーヌの誘惑 j のような幻想、作品は那として、
ヴアワー夫人 j や
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ボ
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惑情教育 Jといったりアリズム作品には、人物が夢想にふ
けるシーンは多く見られはしても、夢の描写は数が少なしあっても非常に短
いものである O その中で、例外的に長い夢の叙述は、次にあげる『ボヴァリ一
夫人j の中の、エマとシャルルの「同床異夢j のシーンと呼ばれる部分である
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34 G
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にも語り手の視点が注がれていない、錆澱的パースベクティヴをさす c
3
5拙稿「モーパッサンにおける夢と狂気 Ju
フランス文学における心と体の病理
現代まで
中世から
i平 成 8-11年 度 科 学 研 究 費 樟 助 金 〈 基 盤 研 究 (A)(2))研 究 成 果 報 告 書 、 を 参 照
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ンは、白 L叶、屋のように寝床わきの影の中に膨らんでいた。シャルルはそ
れをじっと見つめた。子どもの軽い寝息が聞こえるようだった。これから
目立って大きくなっていくのだ。季節ごとにぐんぐん成長するだろう
O
こ
の子がインクのよごれのついた服を着て、龍を手に、夕方にこにこと学校
から帰ってくる様子が日にうかんだ c それから塾に入れなければならぬ O
ずいぶん費用がかかるだろうが、どうしたらいいか。そこで思案した
O
(…〉十五にもなったら、そして母親に似て夏にエマと同じの大きな麦わら
轄子をかぶったらどんなにかかわいいだろう i遠くから見たら、みんな、
二人の姉妹と間違えそうだ。(…)
エマは眠っていなかった。眠ったふりをしていたのだ。そして、シャル
J
レがそばでうとうとと眠りに落ちるあいだに、彼女はほかの夢想のうちに
目覚めるのであった。
四頭の馬が駆けるままに彼女は一週間以来もうそこから二度と婦らぬ新
しい国へ運ばれていた O かれらは腕を組み合わせ、言葉も交わさず、ただ
ひたすらに進んでいくのだ。しばしば、山の上かち円屋根や橋や船ととも
に、どこかの壮麗な都市が突如として目の前に現れた。シトロンの森や白
大理石の大聖堂も見え、そのとがった鐘楼にはコウノトリの巣があった。
大きな舗石の上を二人はゆっくち歩いていく
O
赤いコルセットを着けた女
たちがあなたに差し出す花束が地上におかれていた。(…)とはいえ、彼女
が心に描くこの広大な未来から、何一つ変わったものは現れてこなかった。
すばらしい毎日毎日は波のようにいつも同じである
O
それは、限るものの
ない、調和した、青みをおび、陽光におおわれた地平線のあたりに揺れ動
いていた。さて、子どもが小さなベッドで咳をしはじめたり、夫のいびき
がつよくなったりする
O
エマは朝になってやっと眠りに落ちた。暁が窓、ガ
ラスを白ませ、広場ではジュスタンが薬屋の表戸を開ける頃だ。
夫のシャルルは娘の成長を幸せに夢想するのに対して、妻のエマは恋人と見知
らぬ異国を旅する夢を見る
O
前半はシャルルへの内的焦点化であり、後半は
Fhd
FO
「エマは蹴っていなかった j からエマの内的焦点化に変わる 360
ここで注目されるのは、二人の夢がすべて半過去形で表されている点である
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Hugoと B
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cの 夢 が 、 単 純 過 去 形 と 半 過 去 形 で 叙 述 さ れ 、 一 つ の 物 語 と し て
立体的で完結した世界を提示していたのに対して、ここで描か札ている成長し
たベルトの夢と、エマと恋人の逃避行の夢は、起承転結を欠いた、イメージの
連続として表されている
C
これは、 G
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tがノン・フィクションとしての夢の
典型的叙述としているものと同じ語り方である
C
しかしここでもう一度テクストを注意して見てみると、前半のシャルルの部
分は「夢」ではなく、「夢想 j であることがわかる o
1
1
,皮は自分の子供の軽い寝
息が開こえるような気がした。彼女はこれから大きくなるだろう
G
季節ごとに、
ぐんぐん成長するだろう。 j と、寝る前のひととき、父親は娘が眠るゆりかご
を見て、彼女のこれからの成長に思いをはせているのである O そして、この部
分が自由開接文体で描かれている事は重要である
O
4.自由間接文体と夢
4
1
.自由間接文体
自由開接文体(自由間接話法)とは、一般に、間接話法の文から伝達動詞を含
んだ主文を省略したものだと説明される
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ただ、自由関長話法の構文は、従属文の形から、直接話法と同じ独立文(時に
感嘆文や修辞疑問文)の形まで、実際にはかなり幅があることが指摘されてい
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る170 そ れ は 、 上 の 『 ボ ヴ ア リ 一 夫 人 j の 例 :commentf
36 このように、 一人の人物に対する内的焦点 f
とから、別の人物への内的焦点化へ移ること
は、その人物達のあいだのコミュニケーションの不在を去す効果的演出方法であるコこ
こでも、夫婦はそれぞれに自分の夢に閉じこもっている c
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実捺、自由開接話法はこのよう
にいくつもの文を含んでかなり長いテクストを構成することがあり、また本来
その内容としては登場人物の内的動揺や感動を伝えるものが多いことを考えれ
ば、上述の説明のような単文のケースは、むしろ少ない事が予想できる
O
人称と時前は語ち手による地の文と同じになるが、用いられる語葉が登場人物
屈有のものであったり、構文が口語的であるという特徴などから、自由間接文体
であることが判断されると説明される
G
ただ、自由間接文体とは、正に語り手の
ディスクールと登場人物のディスクールが分かちがたく融合している文体であり、
各部分がどちらのディスクールかを決定しようとすることにはあまり意味がある
とは思えない。この異なった二つの視点の重ね合わせからこそ、よく言われる
エンパシー(感情移入)
J といった文体的効果が生じるのである。
「アイロニー」ゃ f
アイロニー」は、「語り手j のディ
付け加えれば、この島由間接文体での f
スクールの意図と登場人物のディスクールの意図とのずれによって生じるので
あり、従ってここでは特に「語り手Jのディスクールの個人的性格が強調され
る
O
フィクションにおけるは昔り手 Jの副次的登場人物としての措定を支持す
る現象である
C
逆の言い方をすれば、「語り手」を想定することで、この二つ
のディスクールの黍離の度合いが具体的に問題にできるのである
O
4・2
.自由需接文体と夢の記述
ところで、先のフロベールの引用の後半部分も、気をつけて読むとはっきり
エマは眠っていな
とした「夢 Jとして描かれてるわけではない事がわかる o I
かった。眠ったふりをしていたのだ。そして、シャルルがそばでうとうと眠り
に落ちるあいだに、彼女は他の夢のうちに目覚めるのであった。」という導入
に続いて、エマの夢想、の描写が始まる o i
さて、子どもが小さなベッドで咳を
し始めたり、夫のいびきが強くなったりする
O
エマは朝になってやっと眠りに
落ちた。」という記述からも伺えるように、この夢想はエマの半睡半眠の意識
に浮かぶイメージである
G
恋人との逃避行はすべて半過去時制で語られ、そこ
で繰り返される紋切り型のロマンチックなイメージは、少女時代に読みふけっ
円
i
F
D
たロマン派の通裕小説によって、形成された、エマの想像力そのものである。
ところが、中程で出てくる[赤いコルセットを着けた女達があなたに差し出
す花束が地上に置かれていた」のなかの引 vous沖は明らかに語り手のディスク
ールであり、この部分がエマの内的イメージと、語り手の説明とが混在した自
由開接文体であることを示している
O
この自由間接文体による、登場人物の意識の亘接描写によって、語り手は自
分のディスクールに人物の視点を重ねることで、初めて
f
夢」が本来的に嬬え
ている、主体に不透明にしか認識されないという本質を、全知の「語与手」が
語る方法を獲得したとは言えないだろうか。この方法により、「夢 j は、人物
の意識に次々に立ち現れるイメージとして、現実の夢の記述と同様に連続した
半過去で描写されることになる。
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i
e 女の一生 Jで、主人公のジャンヌが夫
次の闘は、モーパッサンの Unev
と女中の不貞の場面を吾の当たりにし、半狂乱になって家を飛び出した後にま
た連れ戻されてみる夢である。
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それから悪夢がーはたしてそれは悪夢だったろうか?-彼女を悩ました。
彼女は自分の部屋で寝ていた。明るく日がさしているのだけれど、起きる
ことができなかったつなぜだろう?ちっともわからない。と、ゆか板の上
でかすかな物音が関こえた。一種のひっかくような音、もののさわるよう
な音だ。と、突然、一匹のハツカネズミが、小さな灰色のハツカネズミが、
すばやく毛布の上を渡った。と、すぐに別の一匹がその後から続き、それ
から三番目が、例の小刻みのすばしこい走り方で、胞の方へ進んできた。
ジャンヌは恐ろしくなかった。恐ろしくはなかったが、ネズミを捕らえよ
うとして、手を f
申ばすと、届かなかった。
すると今夏はまた別なハツカネズミが、十匹、二十匹、いく百匹、いく
千匹となく、四方八方から現れてきた c と、たちまち、柱によじ登ったり、
壁掛けの上を走りまわった号、寝床一面をおおってしまった O まもなく掛
けぶとんの中にまで進入してきた。自分の体の下へもぐり込み、足をくす
ぐり、体に沿って、あがったり下がったりするのを、ジャンヌは感じてい
た。寝台の是の下から上がってきて、自分ののどを日がけて飛び込んでく
るのが彼女に見えた。彼女は身をもがいた。一匹捉えようと患って、手を
前につきだしたが、何度つかんでみても手はからだった。
彼女は躍起になった。逃げようと思い、大きな声を出してみた。誰かが
じっと押さえつけているようであった。力の強い腕がじっと抱き止めて、
動かさないように思われた。それでも彼女には誰の姿も見えなかった。
少しも時の観念はなかった。長い時間、非常に長い時間に違いなかったっ
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それから日が覚めた c ぐったり疲れた、体が押しつぶされたような、その
くせ、気持ちのよい目覚めであった c
この夢自体は、「そして悪夢が彼女を儲ませた Ji
それから彼女は目覚めた j と
いう二つの単純過去の文章で、外的事件としての輪郭を与えられる事で、他の
事件の語りから明確に断絶している
O
しかし夢の世界自体は <
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連の半過去で叙述されていく
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そしてその半過去に置か
れた動詞の多くが、いわゆる感覚動詞であることは重要である。 E
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つまり、この
「悪夢」はジャンヌが夢のなかで、夢として得た知覚を、自由間接文体によっ
て、直-接把握しているのである O
もう一つ例を見ておきたいっフロベールの
人の短い夢の描写である
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ぶとんの中にまで}侵入してきた Jt
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ネズミの出現に関わる叙述で、特にその現実!惑を強調していると託明できるかもしれない
が、日後女はネズミを)揚まえたかったので、(子を)f
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その前夜、アルヌ一夫人はこんな夢を見た-自分は長い間トロンシェ通
りの歩道に立っている O 彼女はそこで、何かはっきり定まらないもの、だ
が何か大切なものを待っているので、しかもなぜかわからないが入に見ら
れては困るのだ、った。一匹のうるさい小犬が飛びついて着物の裾をしきり
と噛んだ。犬はいくらでもしつこくすがってきて、だんだんつよく吠えた
てる O アルヌー夫人は目を覚ました。犬の鳴き声は続いている O 耳 を そ ば
だてると、子どもの部屋かち毘こえてくる
O
すく¥素足のままかけつけた。
子どもが咳をしているのだった。
ここでも夢の叙述はすべて半過去で行われている
O
しかし、特に自由間接文
誌を思わせる特徴はない c それにもかかわらず、この部分がアルヌ一夫人の知
覚を表していると解釈できるのは、夢の中での犬の鳴き声が、目覚めた後も続
き、それが子侯の咳だということがわかるという点にある
O
先に見た自由民接
文体によるエマの夢想、のシーンが、子供の咳と夫のいび、き、つまりエマの耳に
知覚されることで彼女の夢想を中断させる「音」、の同じく半過去による叙述
に引き継がれていたことを思い出したい。
4
3
.フィクションの言語と二重の視点
夢が外部から訪れるものではなく、我々の内的世界を顕わにするものである
という、精神医学の立場からの認識と、我々がいくつか例を見てきた、写実主
義作品における人物の内的知覚としての夢の叙述とは、時期を同じくしている 390
実際、その時代に自らの夢を日記に書き留めたゴンクールが、夢の叙述に始め
39 し か し 、 中 世 の テ ク ス ト に も 、 半 過 去 に よ る 登 場 人 物 の 夢 の 記 述 が 見 ら れ る こ と を 、
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tとともに見たとおりである。
夢を人物に知覚されたものとして描くことで、三人材、テクストの「語り手」は、
登場人物の「夢」を自分の写実空関に取り込む事ができたのである
O
そしてその方法を提供したのが自由間接文体であった。白由間接文体は、語
り手のディスクールと登場人物のディスクールを重ねることによって、語り手
は登場人物の視点、それも夢を見ている時点の視点から、その夢を語ることが
できる 夢を見る人物の知覚は、進行中の様態のままで語り手に引き継がれる
G
C
こうして人物の夢は回顧的、客観的語りとしてではなし次々にたち現れるビ
ジョンとして読者に示される
O
バンフィールドやハンブルガーをして、三人称のフィクションから「語り手 j
を放逐させた、「彼は寒かった」というフィクションに固有の文章は、実はこ
の自由間接丈棒と同じものではないかという指摘が、工藤真由美氏 to~ こよって
なされている
O
我々のことばで言えば、三人称のフィクションの f
語り手」が
持つ全知の能力、現実には不可能であって、虚構の仕掛けとしての「語り手 j
にのみ与えられている能力が、「語り手」の自由間接話法による登場人物の視
点の採用を可誌にしているのとまったく同様に、感覚動詞の三人称主語「彼は
寒かった」を可能にしているのである
O
さらに、「語り手j の不在の根拠とされていたフィクションのテクストでの
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ということと深く関連していると考えられる。フィクションにおいては補文の
真が前提とされずに「彼女はそれが失敗に終わることを知っていた」の後に
「しかし事実は彼女の予想を覆した j と続けることができるのは、「彼女は知っ
ていた j が必ずしも「語母子j の正真なディスクールではなく、彼女自身の視
点をも含んだ読みが可能であるためではないだろうか c それに対して「事実は
彼女の予想を覆した」は、「語り手 j の責任による断定である
G
直前の文章で
表明された「彼女 Jの予想を否定するのみならず、最初に共有していた「彼女」
40工藤真由美
房、
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アスペクト・テンス体系とテクスト
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6
-62-
現代日本語の時開の表現 iひつじ書
の視点を、次に破棄することによって、一層登場人物との距離を強調する効果
をあげているのである。
フィクションのテクストだけに現れる、これらの特異な言語現象は、虚構の
装置としての「語乃手」が備えている「全知 j というまさに虚構的性格かち、
以上のように統一的に説明する事が可能であると考えられる C この点からも、
虚構テクストに「語り手」を想定することは十分に生産的である O
5. 知 覚 を 表 す 半 過 去 - 結 論 に 換 え て
最後に、知覚を表す半過去について少しふれておきたい。自由開接文体とと
もに、フロベールの文体的特鍛とされているものに、「内的焦点化 Jがある O
「内的焦点化 j とは、一般的には登場人物の内的思考や感情を描写する事を指
すのだが、フロベールの特徴は、単に人物の内面を描写するだけでなく、人物
の感覚、フロベーんの場合は特に人物の視覚を通して、ある場景を描写するこ
とにある O 次の例は、エマがピアノのレッスンという口実のもとに、恋人のレ
オンとの逢い引きに、ルーアンの町に馬車で向かうシーンである O
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エマは、この街道ははしからはしまでよく知っているのだ。牧場のつぎに
は道しるべの柱があり、その先には捻の木や納屋や、道路工夫の小屋のあ
ることを知っていた c ときには、あとで「おやつ j とび、っくりしたいため
に、わざと日をつむることさえある C しかしやはり、先の道のりのことは、
いつでもはっきりと感じでわかっていた c
ょうやく、煉瓦建ての家屋が多くなり、道路は車輪の下に鳴りわたり、
f
つばめ j は庭と庭のあいだを抜けて走った。庭には、石の像や、葡萄概
や、いちいの苅込みやブランコがあるのが、透かし垣ごしに見えた c さて
突如、町が一望のうちにあらわれた。
町は段丘形に降下し、霧のなかに沈んで、擦のむこうにほんやりとひろ
がっていた。かなたにはひろびろとした野原が、単調な起伏をつくって浮
かびあがり、誌の白い大空のお足ろげな下まで遠くつづいていた。こうし
て高みから見渡したこの景色全体は、一つの絵のようにじっと動かなかっ
た。錨をおろした訟が片すみにひしめきあい、 ]
11は緑の丘のふもとに曲殺
をえがき、細長いかたちの島々は、動かぬ大きな黒い魚のように水の上に
浮かんでいた。
エマが乗った馬車が町に近づき、やっと見えてきたルーアンの町が備隊的視
点から描かれている
C
この部分は、エマの視点を通した内的焦点化による描写
として知られているが、動請がすべて半過去におかれていることが注目される
O
むろんエマは週に一回同じ道を通ってルーアンまで往復するので、まさに半過
去でその習慣を表している、引用の初めの段落で述べられているとおり、その
-64-
旅程と窓、の外に過ぎ去る光景を空で覚えているほどである。しかし 2段落日以
降で用いられている半過去は、反復や習慣を表すとは考えにくい。描かれてい
るのは、繰り返された行為ではなく、ルーアンの町の光景だからである O
そこで、エマの視覚を通した景観が叙述されるこれらの半過去は、一種の自
由間接文体として、夢の記述がそうであったように、エマの視覚を直接表して
いるとは考えられないだろうか。むしろ、自由間接文体が、人物の発話にとど
まらず、その内的思考をも対象とすることを考えるとへ自由詩接文体と、人
物の知覚を表す内的焦点化とは、はっきりと区別されるものではないかもしれ
ない。そのどちらもが、フランス語では半過去時制で表されるという事実こそ
が、我々の議論にとっては重要である O
フランス語の半過去時制が、物語のなかで担う機能として、ワインリッヒは
「浮き彫り付与機能」を提唱したへそれによれば、フランス語では単純過去
は物語のあらすじになるような重要な事件を表し、半過去は、その事件の者景
を描写する。つまち芋過去は、重要な事件に「浮き彫り j を与える機能を果た
すというものである。この半過去の意味づけは、おおむね妥当であり、十分な
説明龍力を持っていると思われる O しかし、背景を表すとは考えにくい半過去
の用例が、文学テクストにはしばしば観察され、まさにこの自由開接文体と、
内的焦点化で用いられる半過去はその例なのである。
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ワインリッヒの「前景 J 後景 j の理論は、物語時間の推移と停止とにその
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根拠をおいている o 前景 j が勝ったテクストは物語が早く進むのに対して、
「後景」が多いテクストは、物語が停滞する印象を与える O 確かに、半過去に
よるシャルルとエマの夢想、のシーンや、このルーアンの描写の場面は、物語時
間が一旦害生し、特にプロットの展開はない。しかし、これらのシーンが、何
らかの単純過去で表された「事件Jの背景を表しているかとなると、疑問を惑
じざるを得ない。
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描写の問題に広げて論じている C
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一 文 学 テ ク ス ト の 分 析 j 脇坂豊飽訳、紀伊国屋書庖、 1
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さらに、フランス語の半過去の用法で、「背景」という考え方になじまない
ものに、伝統的に「絵画的手過去」と呼ばれるものがある
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次にあげるのはフ
ロベールの短編『純な心』の中で、主人公である女中のフェリシテが、主人の
娘のヴイルジニーの初聖体についていく場面である。
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オルガンの音とともに、聖歌縁と会衆は
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せて、一足一足しずしずと、濁台に輝く祭壇の方へ進み、下の段に脆き、
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貢香に御聖体をいただいて、また同じ!頓にめいめいの祈祷台に帰っていっ
た。それがヴイルジニーの番になったとき、フェリシテはのぞき込むよう
にして身をのりだした。
単純過去による叙述に挟まれた、この一連の半過去は、連続した動作を生き
背 景 j にあるものが、ある種の強
生きと描き出す効果を持つと説明される o I
調を受けるというのは、納得しがたい c
しかし、自由間接文体による入物の「夢 j の知覚の亘接描写や、内的焦点化
による人物の視点による場景描写に、半過去形が用いられていたのを見た我々
は、このシーンが、自分が心から世話をしてきた、かわいいヴィルジニーの靖
れ姿に、食い入るように見入るフェリシテの視覚そのものの描写であるとは考
えられないだろうか。
「前景 j と「後景 Jの振り分けは、単一の視点、この場合は「語り手 j の視
-66-
点によって行われる事を前提としている O 従って、自由開接文体、内的独自、
絵画的半過去という、「背景」説ではうまく捉えられない手過去の用法が、程
度の差はあれ、「語り手」と登場人物との二重の視点が問題になり得るケース
であるのは、偶然ではないと思われる O
半過去が「現在」の設定43、あるいは「視点」の移動 44という観点から論じ
られることがあることを考えると、これちの小説テクストにあらわれる半過去
の用法を、テクストの「語り手j と登場人物の現在日寺や視点の問題として、あ
らためて考察する根拠は十分にあると思われるが、それはまた別の機会にゆず
りたい。
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44 春木仁孝「半過去の統一的理解を目指して JWフ ラ ン ス 語 学 研 究 j 第 33号
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