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第4回 「イスラーム学・トルコ学」

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第4回 「イスラーム学・トルコ学」
上山春平 対談シリーズ
第4回
「イスラーム学・トルコ学」 濱田正美
今回の対談は,平成1
2年1
0月1
9日午後1時半より京都大学人文科学研究所の一室を拝借して行われた。ここに収
録するのは対談の前半部分であり,現在濱田が人文科学研究所で主宰している研究班の課題である,中国イスラー
ムの神秘主義文献などをめぐって,話題は展開した。本来ならば前号に掲載の予定であったが,都合で一号遅れる
ことなりお詫びを申し上げる次第である。
上山
あなたのご専門は,東トルキスタンのイスラー
から中国語の枠を越えたんですか。
ムとうかがっているのですが,どういうご縁でそうい
濱田
う方向へ関心が向けられたのかという,こういう学問
年代ぐらいから東トルキスタンのトルコ語のものを少
以前の話からお願いできたらと思います。
し読むということを始めておられたんです。だから,
濱田
トルコ語なんかも学部のころに少し習ったりはしてお
私は東洋史の出身ですが,私どもの学生時代の
羽田明先生がおられまして,羽田先生は既に6
0
京都大学の東洋史というのは,実は中国史(チャイナ
りました。
プロパー)の先生よりも,辺境の専門家の方のほうが
上山
それは別の先生が来られて?
はるかに多かったわけです。
濱田
羽田先生が少し教えておられました。大学院の
上山
修士のころは独習をしておりまして,それからパリに
具体的に言うとどういう先生方がおられたので
すか。
濱田
留学したということです。
佐藤長先生のチベット史とか,萩原淳平先生の
上山
ペルシャ語にまで広げられたのは?
モンゴル史とか。偶然ですけれども佐藤先生が清代の
濱田
ペルシャ語は文学部で授業がありますので少し
新疆の文献を演習や講読で読んでおられて,それが始
習ったことがありますが。
まりなんです。最初は当然,卒業論文の段階なんかで
上山
先生は?
は漢文でやっていたわけですが,その向こう側に現地
濱田
当時は,今桃山学院大学におられる,井本英一
のトルコ語のものがある。それを始めますと,つまり,
先生です。それは授業に1年間ぐらい出ましたけれど
トルコ語の世界というのは別にトルキスタンだけでは
も,実質的にはペルシャ語もアラビア語も独習です。
なくて,新疆はいわばトルコ語の世界の端ですから。
上山
上山
東の端になるんですね。
か。
濱田
イスラームを受け入れたトルコ系の民族という
濱田
読みたいジャンルは大体絞られていたわけです
はい。特に東トルキスタンに限りますと,文献
のは,それこそ現在のトルコ共和国からボスニア・ヘ
の量自体がそれほど全体として多くはないのです。し
ルツェゴビナまで広がっているわけです。というよう
かもその中で,圧倒的に聖者伝の類のものが多いわけ
なことで,最初は東の端が出発点なんです。
ですが,いろんな事情がありまして,新疆に存在する
上山
文献というのは見ることが非常に困難で,ウルムチに
面積としても,アジアの中でかなり大きい地域
を占めるわけですね。
随分集められているとはいうんですが,なかなか我々
濱田
にはアクセスできない。
中央アジアの旧ソ連ですと,今のカザフスタン,
キルギスタン,トルクメニスタン,ウズベキスタン,
上山
公立の図書館みたいなものはあるのですか。
アゼルバイジャンというのは,全部トルコ系というこ
濱田
図書館はあります。博物館も集めていますし,
とになります。
いろんな施設が集めているようですが,なかなか直接
きっかけはそういうことなんですが,始めてみたら,
見せてもらうわけにはいかないような状況です。
その向こうにずっと広い世界があったということです。
上山
大学みたいなところでは。
上山
濱田
大学もありますけれども,大学が持っているか
初めは漢文から入られたわけですね。いつごろ
上山春平 対談シリーズ
63
どうかはちょっとわかりません。私たちが見るような
上山
ものは,ヨーロッパに1
9世紀の末から今世紀の初めに
それと似たようなものでしょうか。
持っていかれたものというのが主になるわけです。そ
濱田
どうでしょう。
れは先生もご承知のように,東トルキスタンはペリオ,
上山
死ぬことによって,生きるために必要な欲望か
スタイン以来の探検で,彼らは同時に実は現代語のも
ら解放されるということもあるんでしょうね。
の,砂漠の中から出てきたものではなくて,現地の人
濱田
が手にしていたようなものも集めて帰っているわけで
く」という言葉がありまして,私の読んでいるような
す。スタインはそれほどでもないんですけれども,ペ
聖者伝では,聖者が死ぬ寸前のくだりになると,夜,
リオは持って帰っています。ほかの探検隊もそうです。
コーランを読んでいると必ずその章句に行き当たるわ
そういうものをまず読むということから始まったんで
けです。それでいよいよ死期が来たことを悟ってとい
すが,そういうものの大多数というのは,今申しまし
う話が多いです。
たような宗教文献とも言い切れないのですが,歴史文
上山
献とも言い切れない。つまり聖者伝のようなたぐいの
とですか。
ものが圧倒的に多い。ですから私の研究の方向は材料
濱田
に規定されたという面もあるわけです。
アラビア語ですと,それは簡略化されたという意味な
上山
んです。この間亡くなられた島田虔次先生にお伺いし
イスラームの中で,スーフィズムに焦点を絞ら
日本語では,死ぬことを成仏すると言いますね。
コーランの中には,「我ら皆神の御元へ帰りゆ
『帰真総義』の総義というのは,要約というこ
そこに出てくるイーマーン・ムジュマルという
れたというのは?
たら,まあ総という意味をそういうふうな意味で使っ
濱田
今申し上げたような経緯からです。聖者伝はス
ても間違いとは言えないだろう,と。つまり,全体を
ーフィズムの自己表現の一つといえると思います。し
総括したとかという意味で,要約というふうな意味で
かし,このごろ日本にもスーフィズムの専門家はたく
もいいのではないかとおっしゃっていました。
さんおられるのですけれども,特に東大にイスラーム
上山
この本の著者は中国の南方の人ですか。
学科というのができてから,若い人達の間でも随分ス
濱田
確か蘇州の出身の人でした。
ーフィズム研究が多いですけれども,そういう神秘主
上山
これは南京でインドから来たスーフィーに出会
義の神智学というんでしょうか,教理哲学というのか
って,それの言行録みたいなものですか。蘇州のあた
神秘哲学というのか,テオソフィアというようなもの
りにもそういうふうな回族というのがいたんですか。
とも,私の読んでいるものはちょっと違う。そういう
濱田
いたと思います。
高級なものではないんです(笑)。そういうものの反
上山
今もいるんでしょうか。
映はあります。例えば術語を借りてきたりとか。です
濱田
ちょっと具体的にはわかりません。回族の場合,
から,そっちに関する知識がないともちろん読めない
よくいうのは大分散・小集中。非常に広い地域に広が
ことは読めないんですけれども,テオソフィアを論じ
っている。けれども実際の住み方というのはある地域,
ているというようなものでもないわけです。
ある地区に集中して住んでいる。
上山
上山
いま,京都大学の人文研の共同研究で中国語の
『帰真総義』という文献を読んでいらっしゃるわけで
すが,これは中国のスーフィズムの関係の文献なわけ
ですね。これは一種の信仰告白というか,「帰真」と
いうのは信仰告白ということですか。
濱田
これは民族的というか,そういうものとのかか
わりはあるんですか,回族なる集団は。
濱田
普通言われているのは,コアになっているのは,
南海のほうですと随分早く,それこそ桑原隲蔵先生の
『蒲寿庚の事蹟』で有名になったわけですが,唐の時
帰真という言葉は,やはり字義どおり真実に帰
代からイスラーム教徒が泉州なんかには来ているわけ
る。イスラームの神様は9
9の名前がありまして,それ
です。西北のほうになるとそれはたぶんモンゴル時代
は神の属性を示すような,属性と名前とは別の範疇の
にもっと大量に陸路,西のほうから入ってくる。そう
ものではありますけれども,実態は分けられない。そ
いうふうにして移住してきた人たちがコアになってい
の中にハック,真理というのがありまして,ですから
ることは間違いない。それが特に漢族の女性をめとる
真というのはまさに神のことです。中国語では神は真
か,あるいは養子をするとかという形で,共同体が大
主といいます。ところが面白いことに,中国ムスリム
きくなっていったと言われています。
の回族の間で,一般的に帰真というと何を意味するか
上山
今の東トルキスタンあたりはかなり回族が。
というと,死んだという意味なんです。神のもとに帰
濱田
東トルキスタンの,つまり新疆の回族というの
ったと。
は,清代になってから今度は逆に本土からそちらへ行
64
上山春平 対談シリーズ
くわけです。
すけれども,そういう場合にいろいろ問題が起こると
上山
本土というと?
思いますが,今までそれをめぐって問題提起が日本の
濱田
中国内地から。つまり,新疆は乾隆帝が征服す
学会なり中国の学会などでも,ある程度はなされてい
るまでは全く中華の文明の及んでいない地域ですから。
ると思うんですが,どうなんですか。
時代をさかのぼれば唐代には漢人の植民地があるわけ
濱田
ですけれども,その当時の高昌とかです。時代が下っ
から日本では回儒という言葉が使われるようになって。
てくると,これは今度は逆に全部イスラーム化されて
上山
どういう字ですか?
しまった。そこへまた清代になって,内地から移住し
濱田
回の儒者ですね。それが便利なものですから,
てはいけないという政策を清朝はとっていたんですけ
今の人たちも使うようなんですが。
少し議論はあるようです。例えば,非常に早く
れども,それをかいくぐって行く。特に1
9世紀の後半
上山
に大反乱がありまして,それを鎮圧した後はもっと大
濱田 1
9
2
5年に出た白鳥庫吉先生の記念論文集の中に,
規模に移住していったようです。
桑田六郎さんが「明末清初の回儒」という論文を書い
上山
それでは漢民族ですか。
ておられますが,多分これが初出だと思います。中国
濱田
つまり,言語も普通の宗教的な事柄を除く生活
で稀に回儒ということばを使うときは,ムスリム出身
それは江戸時代ですか。
習慣も,一応周りの漢族と区別がありません。
で儒者になった者の意味で用いられているようです。
上山
回よりも儒の方に重点がおかれています。だけど特に
そこへ布教師みたいな者が,西からやって来て
いるわけですか。
中国の研究者の中でも,一部の人たちはイスラームが
濱田
『帰真総義』に出てくるアーシュクという人物
非常に中国化したという主張はずっとされているよう
だけではなくて,例えばカーディリーヤという教団が
です。その論文の中でも引きましたけれども,『帰真
あって,それの中国での教祖も,明末ぐらいに四川を
総義』という文献は,中国化する段階を非常によくあ
通って,そして今の甘粛の蘭州あたりにやってくる。
らわしているということは今までも言われているんで
また同じころに,今度はカシュガルから甘粛のあたり
すが,しかし,具体的にどこを取ってどうだというふ
に布教にやって来るというのがあります。
うにはあまり……。ただ,これは非常に微妙な問題で
上山
して,例えば馬聯元という,これは清末に近い時代の
それはジェスイットみたいにどっかから派遣す
るという形ですか?
人だったと思いますが,有名な劉智という清代のイス
濱田
ラームの学者の『天方性理』いう本をアラビア語に訳
どうもそうではなくて,個人的にやって来たよ
うです。
しているんです。アラビア語訳をして,それにまた自
上山
今の『帰真総義』に関する論文を書かれていま
分でアラビア語で注釈を書いている。短いものですけ
すが,そこで問題にされているのは,中国のスーフィ
れども,そういう書物がありまして,それに関する研
ーの実態だけではなくて,そのスーフィーというのが,
究を最近,松本耿郎さんという方が発表なさったんで
例えば『帰真総義』みたいに,ものを書いたりすると
すが,それを見ますと,アラビア語の重要なタームと,
きに,かなり高度な中国的な教養というものを織りま
漢字の間に一対一の対応が認められる。例えば玄とい
ぜながら展開していく。しかもそれの注釈などが,一
う字とガイブというアラビア語の間にそうした関係が
遍中国化され漢文化されたものをもとにして注釈を展
あると言うわけです。だから中国語の玄として理解す
開する。ここに書いておられるのは明代になるんでし
るよりは,むしろガイブというイスラームのほうの観
ょうか。
念で理解したほうが,そういうふうに断言をしておら
濱田
れるわけではないですけれども,つまり,コンテクス
明末です。実際にその本が編まれたのは清初に
なるわけです。
トでやればそういうふうに対応は成立しているという
上山
ことを明らかにされた研究が出ました。
そうすると,中国の知識層の中では,例えば新
儒学としての朱子学みたいなものがかなり浸透してい
上山
ますね。もう一つは,臨済禅のようなものが相当。
『朱
意味になりますか?
子語類』なんかを見ますと,朱子などは臨済禅の流行
濱田
不可視のことです。
に危機感をもっていますね。そうすると知識層の中で
上山
玄にちょっと似ていますね。
は,朱子学や臨済禅,そういうふうなものを通ってき
濱田
そうしますと,それは翻訳なのか,それとも漢
た術語が,漢文で書くスーフィーの文章の中に入って
字の意味をもって理解したほうがいいのか。その漢字
くるわけですね。その点に触れていらっしゃるわけで
は1対1対応のアラビア語のある観念をあらわしてい
今のガイブというのは,強いて言うとどういう
上山春平 対談シリーズ
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るというふうに思ったほうがいいのか。そこの問題が
ですからペルシャ語だろうと思います。そして,中国
非常に微妙な問題として出てくると思います。それは
語。たぶん片言の中国語を話して,それでやっていた
それこそ今,人文研の研究会で皆さんと一緒に考えて
んだろうと思います。
いただこうと思っていることなんです。
上山
アラビア語も入るわけですか。
上山
濱田
アラビア語はたぶん術語としてしか入ってきて
漢文で書いていて,アラビア語かペルシャ語か
知りませんが横に小さくしるしを書いたものがあるん
いないんじゃないですか。ただ経文といっているのは
ですか。そこのところは音読みにするようにとか。
アラビア語です。
濱田
そう。音読みにするようにと書いてある(笑)。
上山
そこらにも両方交じっているんですか。
上山
これはやはり覚えさせようとしたわけですか。
濱田
単語のレベルでは両方交じっています。
もとの聖なる言葉を。
上山
術語には?
濱田
どうでしょう。
濱田
しかし,スーフィズムの用語というのは概ねみ
上山
それとも韻文か何かに限ってそうなんですか。
んなアラビア語。もとはアラビア語ですから,アラビ
濱田
いやいや,そうじゃなくて,要するに術語,ほ
ア語からペルシャ語に借用され,その借用された形が
とんど出てくるのはテクニカルタームです。
さらに漢字に写されるということだと思います。
上山
呪文のようなものはないんですか。
上山
濱田
真言のマントラのようなものはありません。意
スーフィズムというのは割と中央アジアから西では支
非常に初歩的なことで申しわけないけれども,
味で解釈するわけですから。本文のイーマーン・ムジ
配的だったんですか。
ュマルというのは,これはそのまま文章を漢字で書き
濱田
写しております。
すけれども,モンゴルがやって来て,そしてアフリカ
上山
一応,音写しているわけですね。
を除くイスラーム世界のほとんど全部を征服してしま
濱田
例えばここに,経文第一句と書きまして,阿満
うわけです。
禿賓略希克謨乎
1という漢文で書いていますが,これ
上山
そう思います。これは杉山正明さんのご専門で
あれは何世紀ごろだったんですか。
をアラビア語に復元すると,アーマントゥ・ビッラー
濱田 1
3世紀の半ばまでです。そのときに,それまで
ヒ・カマー・フワということになると思うんです。
存在していたイスラームの国家というのは多かれ少な
上山
これはずっとあちらこちらに出るわけですね。
かれある意味で正統的で,その正統的なイスラームに
「
『帰真総義』初探」というご論文で,この中で四つほ
対する支えになっていたと思われるんですが,それを
ど問題点を絞っていらっしゃるわけですけれども,ま
全部つぶしてしまいましたから。そうすると,神秘主
ず,先生はインド人のスーフィーですね。その人はア
義者がイスラーム社会を代表するようなところへ浮き
ーシュクというんですか。これが今の『帰真総義』を
上がってくるんです。
書いた著者を含めて弟子たちに話をするわけですね。
上山
それ以前は少数派だったわけですか。
そういうときに一体,どうやって意思を伝えたのか。
濱田
少なくとも正統派ではない。それがイスラーム
これは直ちに疑問に思ったことなんだけれども。
社会を代表するような立場に浮き上がってきて,そし
濱田
て,それまでのイスラームの拡大というのはジハード
凡例のところに確か,西師の講解は梵語,華語
互いに発明す。予はただ儒文を加えて,これを訳潤す。
(聖戦)によるわけですが,ところがモンゴルの支配
と書かれています。ですからたぶん梵語と言っている
下では戦争しないで,今言ったスーフィーたちがどん
のは,インドのイスラーム教徒のことを考えるとペル
どんモンゴル支配下の地域どこへでも行くわけです。
シャ語だろうと思います。
例をあげますと,カラバルガスン,もとのカラコルム
上山
インドのどの辺ですか?
にひとつだけモンゴル時代のペルシャ語の碑文という
濱田
どの辺の出身かはわかりません。
のが残っていまして,それは後にチベット仏教の宝珠
上山
普及しているのは全体ですか。
の印を上に刻まれてしまっているんですけれども(笑)。
濱田
ハイダラバードとかの中央部もありますし。必
ところが下は読める部分もある。私は拓本を手に入れ
ずしも今のパキスタンの領域に限ったわけではないと
られなかったんですが,この間,拓本を手に入れた人
思います。
が日本でその研究を発表されたのですが,スーフィー
上山
の道場がありまして,ちょうど禅宗の僧堂みたいなと
そのころは,それが通用語になっていたわけで
ころで,ペルシャ語でハンカーというんですが,それ
すか。
濱田
66
書くものはみんなペルシャ語でやっています。
上山春平 対談シリーズ
を建てたという記事のようなんです。少なくともカラ
コルムにまでそれはあったことは確かなんです。モン
かれていますね。今,愛の話が出たので,そのあたり
ゴル時代に広がったことは確かで,中国本土にもその
は難しい問題だと思いますけれども,愛というのは,
ときに入ってきた。ジュバイニーの歴史書なんかにも,
ヨーロッパ人は割となじみがあるわけですね。中国の
中国の南のほうまで布教に行ったスーフィーの話とい
場合出にくいという。
うのが出てきます。
濱田
そういう事情は多分あると思うのですが。例え
しかも,中国以外のモンゴルの支配者というのは,
ばアガペーを一体どうやって訳すかという。私もよく
キプチャク汗国でもイル汗国でも,あるいは私がやっ
知りませんけれども,仏教なんかでは愛はやはり愛欲
ているようなチャガタイ汗国でも,ほとんど,みんな
のほうの。
スーフィーの影響のもとにイスラームに改宗する。で
上山
そうなりますね。
すからスーフィズムというのはそもそもそこら辺から
濱田
だから愛という言葉は使わないにしても,何か
既に政治と結びついている面も持っている。
別のそういう概念をあらわすものがあるかどうかとい
上山
うことなんです。おそらくあるんだろうと思いますが,
それは幾つかの派に分かれたりしていがみ合う
ことはなかったんですか。
まだ私自身は見つけられておりません。例えば,それ
濱田
スーフィズム自体は幾つもタリーカというちょ
こそジェスイットが日本へやって来たときに,神の愛
うど仏教の宗派と同じような宗派がありまして,極端
というのを神の御大切と言っていた(笑)というよう
な場合には殺し合いをするとか,やっぱりそういう宗
なことが中国のイスラームで無かったかどうか
派争いというか,権力争いをします。それはやはり影
上山
響力,特に政治権力者に対する影響力をめぐって争い
の中に墓を探す話がありましたでしょう。聖者の墓を
が生じるということです。
見つける話。あれがいっぱいあるんですね,東トルキ
上山
スタンあたりにも。これはやっぱり現実にどんどん西
今のイスラームでは,スーフィズムというのは
それとおもしろいと思ったのは,あなたの論文
かなり比重は高いんですか。
からやってきたスーフィーの師匠みたいなものとかか
濱田
わる場合があるんですか。
二つ言えると思います。一つは,先生もご承知
のような最近のイスラーム復興主義とか,あるいは原
濱田
それもありますけれども。
理主義的な動きというのは,これはスーフィズムを逸
上山
それもあるだけで,必ずしもそうではない?
ル・コックという,最初の探検家と言ったら悪
脱であるというので非難するわけです。ただし,1
9世
濱田
紀まではスーフィズムと正統的なムスリムというのは
いですけれども有名な人ですが,彼が新疆で聞いた話。
区別がつかないような状態になっていたというふうに
しかし,これは聞いたと言っているんだけれども,ひ
普通いわれています。最初の改革派あるいは欧化主義
ょっとしたら彼がでっち上げた話かもしれない。あま
者というか,そういうものもスーフィズムの中から出
りおもしろすぎるのですが。それは,あるところにス
てきた。ところが,今の復興主義というか原理主義と
ーフィーの弟子がいて,今から旅に出かけて修行に行
いうか,それはスーフィズムを完全に切るという形で
くからといって師匠からロバをもらう。そのロバに乗
す。だけどもう一方では,スーフィズムは,民衆的な
っていったところ,途中でロバが倒れて死んでしまっ
バックグラウンドというのは持ち続けているという面
た。それを道の傍らに埋めてオイオイ泣いていたら,
と,もう一つ現代の現象として興味深いのは,神への
大金持ちが通りかかって,これほど泣かれているんだ
愛とか神の愛とかいう個人的な契機が非常にスーフィ
から偉い人が死んだに違いないといって,立派なお宮
ズムは大きいですから,我々にも理解しやすいし,ヨ
というか廟を建ててくれるんです。そこで彼は成功し
ーロッパ人にも理解しやすいといえます。スーフィズ
て,信者もふえて大金持ちになる。そこへ自分の先生
ムの研究者がたくさんいるというのもそういう背景が
が旅をしてやって来て,ところでここに埋められてい
あると思うんです。幾つかの教団はイギリスとかアメ
るのはだれだ,と。弟子のほうが,実は先生からいた
リカで,フランスでも少しあるかもしれませんが,結
だいたロバですと。ところで先生が祀っておられたあ
構成功しているんです。つまり,ヨーロッパ人の信者
れはだれですかと言ったら,おまえのロバの母だって
を獲得しつつある。
(笑)
。
あなたの「『帰真総義』初探」という論考のし
上山
よくできている(笑)。
まいのほうに,『帰真総義』を含めて漢文で書かれた
濱田
あまりよくでき過ぎているので,それぐらい墓
イスラームの文献の中に,「愛」という言葉が出てこ
はたくさんあるということです。
ない。それから「教団」という言葉が出てこないと書
上山
上山
その廟を何と言いましたか。
上山春平 対談シリーズ
67
濱田
普通はマザールと言います。
神様が時々友からの要請によってその習慣を破る。そ
上山
そこはやはり人が集まる場所になるんですか。
れが習慣を破る者というので,すなわち奇跡のこと。
濱田
もともとマザールというのは行くべき場所とい
ですから神の友,聖者に頼むのが奇跡にあずかるのは
う意味ですから。
上山
一番早い。
そういう一種のホーリーな場所ですね。あなた
それともう一つ,奇跡にあずかりたいということと
はそれに幾つか出会ってこれらましたか。非常にたく
関連はしますが,聖者のお墓の周りには普通の人のお
さんあるんですか。
墓も非常にたくさんあるわけです。それは最後の審判
濱田
非常にたくさんあります。
のときに聖者は天国に行くことが確実ですから,くっ
上山
もともと出発点は聖者の墓ですか。
ついていくわけです(笑)。
濱田
こういうことを言うと信仰の立場にある人は怒
上山
なるほど。僕はこの墓の話を拝見しながら,高
られると思うんですけれども,イスラーム信仰の中に,
野山を連想したんです。
それ以前の信仰が生き残るとしたら,聖者崇拝という
濱田
形をかろうじて取るほかないわけです。キリスト教で
で骨,骨という話が出てまいりますでしょう。聖者の
もどこでもいっぱいあるわけですが,巨石信仰とか,
遺体があったとか,骨があったとか。霊魂というよう
巨木信仰とか,特にマザールといわれるものがある場
なものがどこかへ飛んでいってしまうのではなく骨に
所は泉が多いんです。
くっついているというのは,よくはわかりませんけれ
上山
キリスト教でもそうですね。
ど,あるいはイスラームのほうのものではなくて,ひ
濱田
聖者崇拝自体はさっき申し上げたような厳密な
ょっとしたらもっと東方の起源のものかもしれない。
それと,霊魂観に関連するのですが,聖者の墓
イスラームでは,異端ではないけれども逸脱だと。だ
上山
仏舎利信仰?
からワッハーブ派,今サウジアラビアを支配していま
濱田
聖者墓の崇拝の起源地域だと思われるようなと
すが,彼らは聖者の墓を全部破壊しました。
ころ,例えばホラーサーンなどは仏教がかつて流布し
上山
それは正統派ですか。
た地域が含まれるわけです。ちょっとほら話ですけれ
濱田
というか,厳格派ですね。墓を全部破壊して,
ども,実はそこまでいけるんじゃないかなと。
一時彼らが非常に強かったときに,ムハンマドの墓ま
上山
で壊したといううわさが流れてイスラーム世界のほか
んか,舎利信仰で有名ですね。
の人たちが恐慌をきたしたということがありました。
濱田
上山
考え方としては親鸞なんかに似てますね。
のなんですけれども,どうして骨に霊魂がついている
濱田
この前台風で国宝の五重の塔が倒れた室生寺な
霊魂は霊魂ですからどこにいてもいいはずのも
そのワッハービーヤが支配的な地域を別とすれ
というふうに考えられたのか。確かにその要素を抜く
ば,ほとんどすべてのイスラーム世界に聖者崇拝とい
と聖者廟の崇拝というのは成り立たないということな
う形態はあるわけです。
んですね。そこへ行ってお参りをするわけですから。
上山
スーフィーがそれになじみやすいんですか。
上山
仏舎利みたいに細かく砕いてはないわけですね。
濱田
なじみやすいと思います。つまり,スーフィー
濱田
カトリックで言うような,トランスラーチオと
というのは神と合一を遂げた人ですから。聖者という
かエレヴァーチオという,そういう習慣はあまりない
のは神の恩寵にあずかっているわけですから,そうい
ように思います。そうだと簡単でバラバラにして分骨
う聖者をワリーというんです。ワリーというのはもと
すれば墓を造るのは簡単で,あらためて発見する必要
は近しい者の意味ですから,つまり保護者も被保護者
はないわけですけれども(笑)。
もともにワリーです。神の友達だから,特に神様の保
上山
護は厚いわけです。イスラームの神学では,厳密にい
あそこの講堂に二十一体の仏像の立体曼陀羅をつくり
うと最も有力であるといわれるアシュアリー派では,
ましたね。あの仏像の修理がつい最近おこなわれて,
神様は一瞬ごとに世界をつくっているわけです。
そのときに赤外線か何かで頭の中を見たら,言われて
上山
いたとおり舎利が入っていたというんです。仏舎利信
何か書いてありましたね。仏教の倶舎論にそっ
空海が東寺の管理を任されたことがありますね。
くりだなと(笑)。
仰というのは仏教ではずっとあるわけですね。ところ
濱田
がイスラームでは教理的には?
本当にそうです。一瞬ごとにつくる。粒子みた
いにですね。時間の連続がない。だから因果律は成立
濱田
正統派の教理ではまずいです(笑)。
しない。だけど因果律が一見成立しているように見え
上山
しかし,イスラーム全体の中では正統派という
ているのは,神様が自分の習慣に従っているからで,
のは少数派なんですね。
68
上山春平 対談シリーズ
濱田
とも言えないですね。実は,私のやっているこ
濱田
そういう感じです。それと同時に,説教なんか
とをどのように説明したら良いかと考えていたのです
でも,識字の人がふえてきたからパンフレットにして
が,要するは1
9世紀くらいまでは,イスラームのあり
出回る。有名な指導者の説教や何かがカセットで売り
方は実に様々であった。その様々な要素につきあって
出されるという状況があって,何をもってまじめとい
いるうちに私の研究もテンデンバラバラ,まとまりの
うかは別として,厳格なイスラームに触れる機会が一
ないものになっていると申し上げたら良いのではない
挙に増大したわけです。
かと思いつきました(笑)。つまり,そういうバラバ
上山
一般の人にコーランが読めるわけですね。
ラなあり方というのは一方ではずっとあり続けている
濱田
読めるようになったということです。つまり,
と思いますが,現在では,再イスラーム化という現象
自分の言葉でコーランが読めるようになった。
が今は非常に強く表れている。
上山
上山
それはいつごろから?
る。
濱田
非常に顕著になったのは1
9
6
0年代,7
0年代以降
濱田
民衆の教育水準が上がっているということもあ
そうすると,あるレベルのところで文字を通し
のことだと思います。
て,あるいは現代のメディアを通して布教活動を行う
上山
それはどういうことですか。
ことができるようになった。だからエジプトとかの現
濱田
一つには,非常に皮肉な話ですけれども,例え
状というのは,まさにそういう事情を背景にしている
ば前近代というか現代以前のムスリムだった人たちと
と思いますが,あるいはトルコでも。
いうのは,アラブ人を別にすれば,考えてみたら教養
上山
トルコは早かったんですか。
のある人は別として,コーランに何が書いてあるかと
濱田
トルコの場合は,ヨーロッパ人になろうという
いうことは知らないわけです。読めないわけです。コ
のが一貫してあって,それの挫折という形でイスラー
ーランの翻訳というのは存在しないわけですから。例
ムへの回帰というのが起こっていると思います。
えばカザフスタンなんかだと,カザフ語のコーランの
上山
訳は,信仰の立場からいうと訳は認められませんから
早く行われているんですか。
注釈ということになるわけですけれども,つい最近刊
濱田
行されました。それまで,カザフ人はカザフ語でコー
うになるのは。
ランを読むことはなかったのです。
上山
上山
ているわけですね。
ルターなんかのあれが今起こりつつある。
コーランのトルコ語への翻訳というのはかなり
比較的早いほうです。トルコ語で説明されるよ
それじゃあ今はイスラームが新しく脱皮しかけ
(次号に続く)
上山春平 対談シリーズ
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