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30 30 KIMURA Junji ……………… The origin of passion ―the meaning of Izanami myth in “Kojiki” ………………………… 1 30 KIMURA Norimi Function 1 …………… Right Dislocation and Discourse ………………………… HORI Tomohiro …………… Frederick Douglass and Josiah Henson: A Study of the Representation of Defiant Slaves in Mid-Nineteenth Century American Culture ………………………… 15 Dai MATSUI ………………… Notes on the Old Uigur Wall Inscriptions in the Dunhuang Caves ………………………… 29 LI LIANG Architecture 51 …………………… Maekawa Kunio and Modernism ……………………… 2013 目 次 右方転移と談話機能 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮木村 宣美 1 前川國男とモダニズム建築 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮李 梁 51 ︻論文︼ 恋の起源 ︱﹃古事記﹄イザナミ神話の意味するもの︱ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮木村 純二 1 フレデリック・ダグラスとジョサイア・ヘンソン ││ 十九世紀中葉の﹁反抗的な奴隷﹂像に関する一考察 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮堀 智弘 15 ︻論文︼ 敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文に關する箚記 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松井 太 29 恋の起源 ︱﹃古事記﹄イザナミ神話の意味するもの︱ 木 村 純 二 令を受けたイザナキ・ イザナミは、﹁おのごろ島 ﹂ に降り立ち、 本稿は、﹃古事記 ﹄ 神話において、 イザナミが何を担う存在で あるのか、言い換えれば、イザナミの存在を通じて何が語られて 一処在り﹂と答える。今度は逆にイザナミの方から﹁汝が身は、 と尋ねると、イザナミは﹁吾が身は、成り成りて成り合はぬ処、 一.イザナミは何を担っているか いるのか、という問題を、日本倫理思想史研究の先行的知見を踏 如何にか成れる﹂と尋ね、イザナキが﹁吾が身は、成り成りて成 婚姻の儀礼をする。まずイザナキが﹁汝が身は、如何にか成れる﹂ まえつつ、考察するものである。そのためにまず、よく知られて 以為ふ。生むは、奈何に﹂と誘いかけ、イザナミが﹁然、善し﹂ り余れる処、一処在り﹂と答える。互いの﹁身﹂の在り方が確か 本文の冒頭では、 天地初発のとき、アメノミナカヌシ、 ﹃古事記﹄ タカミムスヒ、カムムスヒ、ウマシアシカビヒコヂ、アメノトコ と承諾する。ともに﹁みとのまぐはひ﹂を為すべく、﹁天の御柱﹂ はいるが、 ﹃古事記﹄ におけるイザナキ・イザナミ物語の梗概を、 タチの五柱の﹁別天つ神﹂が﹁成り﹂、﹁独神﹂として﹁身を隠し﹂ をイザナミが右から、イザナキが左から廻り、出会ったところで、 められたところで、イザナキが﹁此の吾が身の成り余れる処を以 たと語り起こされる。続いて﹁神世七代﹂の神が挙げられ、イザ イザナミがまず先に﹁あなにやし、えをとこを﹂と言い、続いて 以下にまとめておこう 1。 ナキ・イザナミはその最後に位置している。イザナミには﹁妹﹂ イザナキが﹁あなにやし、 えをとめを ﹂ と応じた。 その結果、 水蛭子と淡島が生まれたが、望み通りの子ではなかったために、 て、 汝が身の成り合はぬ処を刺し塞ぎて、 国土を生み成さむと の語が付されており、男女の対の神であることが知られる。 ﹁是のただよへる国を修理ひ固め成せ﹂との命 ﹁天つ神﹂から、 1 ﹁天つ神﹂に伺いをたてると、 ﹁女の先づ言ひしに因りて、良くあ らず。亦、還り降りて改め言へ﹂との指示を受ける。今度はイザ ナキから言葉を発するようにやり直すと、淡路之穂之狭別島、伊 予之二名島が生まれた。 イザナミのことが直接に語られるのは、 ﹃古事記﹄神話において、 ここまでである。 次に、このイザナキ・イザナミの物語を理解する上で必要な先 行研究の知見をまとめておく。記紀神話における神を、﹁祀る神﹂ ﹁祀るとともに祀られる神 ﹂﹁単に祀られるのみの神 ﹂﹁祀りを要 後にイザナミみずから追って来たため、イザナキは﹁千引の石﹂ は、そこにあった桃の実を取り、追っ手に投げつけ撃退した。最 を追わせ、襲わせる。黄泉ひら坂の坂本まで逃げて来たイザナキ ザナミは﹁吾に辱を見しめつ﹂と、予母都志許売や黄泉軍にあと 雷 の神 ﹂ が付いていた。 それを見たイザナキは逃げ出すが、 イ キが火をともして見ると、 イザナミには蛆がたかり、 ﹁八くさの を視ること莫れ﹂と応えた。やがて、待ちきれなくなったイザナ せる事、恐きが故に、還らむと欲ふ。且く黄泉神と相論はむ。我 吾は黄泉戸喫を為つ。然れども、愛しき我がなせの命の入り来坐 と語り掛けると、 イザナミは﹁悔しきかも、速く来ねば、 還るべし﹂ しき我がなに妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟らず。故、 御殿の戸の向こう側にいるイザナミに向かって、イザナキが﹁愛 、 ﹁黄泉国﹂を訪れる。 て、 ﹁其の妹伊耶那美命を相見むと欲ひて﹂ と慟哭し、カグツチの頸を剣で斬っ 子の一つ木に易らむと謂ふや﹂ ってしまう。イザナキは﹁愛しき我がなに妹の命や、 ついに﹁神避﹂ ﹁生む﹂原理は、そうした﹁根源的生成力﹂を﹁強大なものとして ﹁安定﹂と﹁破壊﹂・﹁危機﹂という二つの方向性が備わって﹂おり、 る。山内によれば、 ﹁事物が生成するという事態﹂ には、 ﹁﹁増殖﹂・ と﹁知らす﹂原理との相関として読み解いたのが、山内春光であ そうした佐藤の見解を踏まえ、﹃古事記﹄神代神話を﹁生む﹂原理 とな っ て、 ひとびとの側に取り込まれたと佐藤は論じている 4。 絶対的な醜悪さもともに相対化され、なだめやわらげられたもの イザナミを外部の黄泉国に追いやることで、諸物を産み出す力も 人間にとって﹁絶対他物﹂である﹁自然﹂の両義性を表しており、 どに穢くけがらわしい﹁醜悪さ﹂を担っていると論じた。それは ﹁ 諸 物 を 産 む 神 を 代 表 す る 存 在 ﹂ と 規 定 し、 同 時 に ぞ っ と す る ほ じた 3。 従うべき見解だと考えられる。 また佐藤は、 イザナミを らが祀っている神の名を負っているために神と呼ばれていると論 話に登場する神 々 は、﹁祀りを行うひとびと ﹂ であ っ て、 みずか こそが﹁第一義の神﹂であり、イザナキ・イザナミを初め神代神 の指摘を踏まえ、佐藤正英は、﹁祀りの対象﹂となる﹁祀られる神﹂ のそ で黄泉ひら坂を塞いでしまう。 その石を間にして、 イザナミが 保持し、 これを発揮していこうとする ﹂ ものであるが、 ﹁その生 哲郎であ っ た 2。 和 ﹁愛しき我がなせの命、 如此為ば、 汝が国の人草を、 一日に千頭 成力を統御しこれに安定への方向性を与えるという意味での秩序 求する祟りの神 ﹂ に分類したのが和 絞り殺さむ﹂と言うと、イザナキは﹁愛しき我がなに妹の命、汝 性に欠け﹂ているため、﹁危機性・破壊性﹂をも同時に合わせ持つ 引き続きイザナキ・イザナミは、多くの国や神を生んでゆくが、 火之迦具土神を生んだときに、イザナミは﹁みほと﹂を焼かれ、 然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ﹂と応えた。 2 こうとする原理﹂ である。イザナキとイザナミとの断絶によって、 を 持 つ 生 々 の 事 態 に、 ﹁増殖 ﹂ ・ ﹁安定 ﹂ という方向性を与えてい ことになる。他方、 ﹁知らす﹂原理は、﹁そうした両方向の可能性 ぶん勇み足ではないかと思われる。たしかに﹃古事記﹄の記述に 留まると論じているが、この点もテキストの解釈としては、いく およびアマテラスが、﹁生む﹂のではなく、﹁成ら﹂しめる働きに 佐藤の主張を受け、山内は、﹁イザナミと断絶したあとのイザナキ﹂ として﹁成る﹂働きをなしたとは語られていない。そのことは、 ﹁生む﹂原理と﹁知らす﹂原理とが分離し、以後、イザナキからア 以上のような先行研究の解釈には、神代神話の理解として学ぶ べき点が多い。本稿は、しかし、イザナミを﹁生む﹂存在として アマテラス・スサノヲの﹁うけひ﹂の場面でも同様である。﹃古事 おいて、カグツチまでは﹁生む﹂と表記されているのに対し、以 規定する佐藤や山内の解釈に疑義を呈するものである。例えば、 記﹄の地の文では、﹁うけひ﹂によって誕生した神を﹁成れる神﹂ マテラスへと引き継がれる﹁知らす﹂原理は、生成力を統御して イザナキ・イザナミの別れの場面を見てみると、イザナミが﹁汝 と書き表しているが、スサノヲは、まず﹁うけひ﹂に先立って﹁各 後は﹁成る﹂と表記されており、アマテラスやスサノヲもイザナ が国の人草を、一日に千頭絞り殺さむ﹂と呼び掛け、イザナキが﹁吾 うけひて子を生まむ﹂と呼び掛け、その帰結として﹁我が心清く 安定や秩序を実現してゆくが、根源的生成力においては弱小であ 一日に千五百の産屋を立てむ﹂と応えている。イザナミを﹁生む﹂ 明きが故に、我が生める子は、手弱女を得つ﹂と宣言しており、 キが目や鼻を洗ったとき﹁成った﹂と語られている。しかし同時に、 存在と見る解釈においては、この場面についての充分な説明がな アマテラスも﹁後に生める五柱の男子﹂﹁先づ生める三柱の女子﹂ り、 諸物を ﹁生む﹂ ことなく、﹁成ら﹂ しめるのみに留まることとなっ されていないのではないだろうか。と言うのもここでは、﹁殺す﹂ と呼んでいる。﹁生む﹂ことができないために﹁成る﹂という働き イザナキみずから﹁吾は、子を生み生みて、生みの終へに三はし という﹁危機性﹂ないし﹁破壊性﹂が、山内の言うように、イザナ をなしたのではなく、﹁成る﹂という様態において﹁生む﹂働きが たと山内は論じている 5。 ミの担う﹁生む﹂原理に内在しつつイザナキの担う﹁知らす﹂原理 継承されていると見るべきだろう。 そもそも翻って見れば、神々を﹁生む﹂という働きは、イザナ ミひとりが単独でなしたのではなく、イザナキとイザナミとが男 らの貴き子を得たり﹂と述べており、 ﹁生む﹂働きとは異なること と対立しているのではないからである。﹁生む﹂立場にいるのは﹁産 を否定する側に立って﹁殺す﹂と言っている。少なくともこの場 女の対であることによってなしたことである。そこにこそ、﹁独神﹂ 屋を立てむ﹂と言うイザナキの側であり、イザナミはむしろそれ 面で、テキストは、イザナミではなくイザナキを﹁生む﹂側に立 ではない男女の対の神としてのイザナキ・イザナミの意義がある も以後も、一貫して﹁生む﹂ことに関与しているはずである。総 と考えられよう。その意味でイザナキは、イザナミとの別離以前 つ者と語っているだろう。 さらにまた、﹁諸物を産む神であるイザナミの命が死んで以来、 初源的な意味において諸物が産まれることはなくなった﹂という 3 と転じたのだと見るべきではないかと考えられる。 らイザナキによる﹁成る﹂働きを以って﹁生む﹂働きとすることへ じたのではなく、イザナキ・イザナミ両者による﹁生む﹂働きか ても、イザナミの﹁生む﹂働きからイザナキの﹁成る﹂働きへと転 か。かりにイザナキとイザナミの別離以前と以後とを分けるにし を女のなすことと見る先入主に捉われているのではないだろう イザナミを﹁生む﹂存在と規定しようとする解釈は、﹁生む﹂行為 じて、 ﹁生む﹂原理をイザナミに帰属させようとする、あるいは、 ザナキ ﹂ が先に言うべきなのだと論じている 6。 慧眼と言うべき でなければなら﹂ず、だからこそ﹁神として振る舞おうとするイ の出会いが神祀りを踏襲するものである以上、﹁先言するのは神 と判定されるのか。吉田真樹は、右の佐藤の指摘を踏まえ、二人 は失敗してしまう。なぜ、﹁女の先づ言ひしに因りて、良くあらず﹂ やし、えをとこを﹂と言ってしまったために、最初の﹁国生み﹂ ている。従うべきであろう。ところが、イザナミが先に﹁あなに において天の御柱に依りついた神と出会う行為であった﹂と論じ む﹂働きとは異なる意義を担っているのではないかという見通し なるだろう。本稿は、イザナミが、従来理解されてきたような﹁生 は何を担っているのかという問いが、あらためて問われることに を担っていると見ることができる。その場合、はたしてイザナミ たらした深い理由であ っ た ﹂ と論じている。﹁イザナキ・ イザナ キに、﹁とまどいと一瞬の不遜﹂が生じたことが﹁祀りの破綻をも ﹁新たに神とならねばならぬことの負荷をもろに受けた ﹂ イザナ はこの点について、﹁天つ神﹂ による﹁尋常ならざる命令﹂を賜わり、 だ と す れ ば 次 に、 な ぜ イ ザ ナ ミ は 神 祀 り の 型 を 逸 脱 し て 先 に 言ってしまったのか、という点が問われなければなるまい。吉田 指摘であり、従いたい。 の下、考察を進めてゆくことにする。その作業を通じて、逆にま ミの中心﹂はあくまでもイザナキであるとの判定に基づく解釈で 以上、先行研究においては、イザナミが﹁生む﹂存在であると 見做されてきたが、むしろイザナキの方が一貫して﹁生む﹂働き た﹃古事記﹄における﹁生む﹂ことの位置付けも、新たな視点から ある。しかし、イザナミが先に言ってしまうことの理由について、 ストにはイザナミを通じて語ろうとしているものが、あるのでは ナミにはイザナミなりの理由が、あるいは﹃古事記﹄というテキ 考察するのは、 やはり偏 っ た議論なのではないだろうか 7。 イザ イザナミの側から考察する視点を排除し、イザナキの側からのみ 見えてくるであろう。 二.なぜイザナミは先に﹁あなにやし﹂と言ってしまうのか それでは、実際に﹃古事記﹄におけるイザナミの意義を考察す るため、﹁みとのまぐはひ ﹂ の場面から、 順にあらためてたど っ あらためて考えてみよう。祀りとしての﹁みとのまぐはひ﹂が 十全に執り行われるとき、イザナキとイザナミは、まず﹁成り成 ないか。 ともに﹁おのごろ島﹂に降り立ったイザナキとイザナミは、﹁天 の御柱﹂を廻るかたちで、お互いの出会いをあらためて演出する。 りて成り合はぬ処﹂と﹁成り成りて成り余れる処﹂を持つ者とし てゆくことにしよう。 この点について佐藤正英は、﹁天の御柱を廻るのは、 本来、 祀り 4 て互いを見出し、 ﹁あなにやし、えをとめを﹂﹁あなにやし、えを とこを﹂と出会いの感動を交わして、子を生むことになる。ここ には、己れの﹁身﹂と相手の﹁身﹂とが相互に補完すべきものとし て﹁成﹂っていることの不思議さ、そうした男女という対存在と ではないだろう。 この点、例えば、原初の神の現われを伝えると思われる三輪山 説話において、 ﹃古事記 ﹄ は、 オホモノヌシの神との婚姻を次の ミが、﹁独神 ﹂ の隠れたあとに、 男女の対の神として現われてい びとの驚きが込められているからであろう 8。 イザナキ・ イザナ して捉えられているのも、そうした生の根源に対する古代のひと な感動が語られていると言ってもよい。神祀りが男女の性交渉と られている。男女の性や生殖あるいは生命の神秘に対する、新鮮 出会いにより子が生まれるという驚き等々が、余すところなく語 身める ﹂ といひき。 答へて曰ひしく、﹁麗美しき壮夫有り。 ﹁汝は、 自ら妊めり。 夫無きに、 何の由にか妊 て曰ひしく、 爾くして、父母、其の妊身める事を怪しびて、其の女を問ひ 経ぬに、其の美人、妊身みき。 故、相感でて、共に婚ひ供に住める間に、未だ幾ばくの時も 形姿・威儀、時に比無し。夜半の時に、䆖忽ちに到来りぬ。 ︰︰ 活玉依毘売、 其の容姿端正し。 是に、 壮夫有り。 其の ように語っている。 るのも、男女が男女としてあることの神秘が感受されているから 其の姓・ 名を知らず。 夕毎に到来りて、 供に住める間に、 して相手と己れ自身とを見出し出会ったことの感動、さらにその だと思われる 9。 言うならば、イザナキ・イザナミの名は、諸注によって古くから ナミの男女としての出会いの感動が抜け落ちてしまう。補足して やし、 えをとめを ﹂﹁えをとこを ﹂ と語られた、 イザナキ・ イザ む﹂という生成力に限定するとき、テキストの記述では﹁あなに の一面に過ぎないからである。イザナキ・イザナミの対関係を﹁生 という事態は、男女が男女としてあることの神秘の、帰結として 懐妊はその結果として生じた事態であるということであろう。こ していたのは﹁麗美しき壮夫﹂と﹁供に住める﹂ということであり、 い掛けに対する答えで語られているのは、イクタマヨリビメがな こで初めてイクタマヨリビメの両親が気付くのである。両親の問 られている。懐妊はその結果としてもたらされたものであり、そ タマヨリビメが、互いに﹁感で﹂、﹁供に住める﹂ということが語 ここでは、まずもって、美しい男女としてのオホモノヌシとイク 自然ら懐妊めり﹂といひき。 説かれているように、 ﹁誘う﹂ことを表す﹁イザ﹂と男女の別を表 こ に、 男 女 が 出 会 い 互 い に﹁ 感 で ﹂ 、 子を生むにいたるという感 だとすると、山内の言うように、根源の生成力を﹁生む﹂原理 として捉えるのは、 やはり片手落ちだと言わねばならない。﹁生む﹂ す﹁キ﹂ ﹁ミ﹂とを、助詞の﹁ナ﹂が繋いでできたものである。男 動の総体が、原初の理念として語られている。 根源的に不可思議な事態として捉えられた、男女の出会いから 女が誘い合うのは、まず何よりも﹁あなにやし﹂という出会いの 感動においてであ っ て、﹁生む ﹂ という帰結を先取りしてのこと 5 それは、美麗な男女としてのオホモノヌシとイクタマヨリビメと だろうか。右に見たように、﹃古事記﹄の語る三輪山説話において、 む働き﹀に収め切ることのできない別の側面は、何と呼べばよい 対存在﹀が持つ一側面である。では、 ︿男女の対存在﹀が持つ、 ︿生 的からはみ出るようにして、イザナミの︿恋の情念﹀が噴出して やし、えをとこを﹂と言ってしまったのは、 ︿生む働き﹀という目 できよう。イザナミに内在して言えば、イザナミが先に﹁あなに なる面を他方で同時に内包していたからだと、まずは言うことが ︿生む働き﹀に失敗が生じたのは、 右の考察を踏まえるならば、 ︿生む働き﹀の根源である︿男女の対存在﹀が、︿生む働き﹀とは異 問題をイザナミの側から考えるというのが、 ここでの課題であった。 が、 ﹁相感で﹂ることとして語られていた。ここではそれを、︿生 しまったからである。だとすれば、ここでの考察は、さらに問い 子生みに至るまでの総体を、 ここではさしあたり、︿男女の対存在﹀ む働き﹀に対するものとして︿恋の情念﹀と呼んでおこう。誘い を推し進めて、なぜイザナミは︿恋の情念﹀を噴出させてしまっ と呼んでおこう。佐藤や山内が強調する︿生む働き﹀は、︿男女の 合う男女としてのイザナキ・イザナミが、互いに﹁えをとめ﹂﹁え その答えは、問いがこのように整理されて来れば、おのずとそ の前の場面のイザナキの口説きの文句、﹁此の吾が身の成り余れ たのかを問わねばなるまい。 び付くことによって子が生まれるという不可思議な事態の総体を る処を以て、汝が身の成り合はぬ処を刺し塞ぎて、国土を生み成 をとこ﹂ に出会い、 ﹁あなにやし﹂ と心動かされるのも、 ︿恋の情念﹀ 指し示す方法的な概念である。理念的には、︿恋の情念﹀と︿生む さむと以為ふ。生むは、奈何に﹂に求められることになろう。イ ゆえである。︿男女の対存在 ﹀ は、 男女が男女として恋をし、 結 働き﹀ 、 それぞれが十全にそれとして果たされることによって、︿男 身、ともに﹁国を修理ひ固め成せ﹂という天つ神の命令を受けて ザナミが︿恋の情念﹀を覚えず噴出させてしまったのは、︿男女の ﹁是のただよへる国を 議論をテキスト解釈に戻すことにする。 修理ひ固め成せ﹂という﹁天つ神﹂の命令に、イザナキ・イザナ おり、さらにまた、︿生む働き﹀が︿男女の対存在﹀の一側面であ 女の対存在﹀が十全に成就されることになる。原初の神の現われ ミは、彼らの本質である︿男女の対存在﹀という在りようにおい る以上、﹁然、善し﹂と答えるほかはない。しかし、十全な︿男女 対存在﹀として己れの対たるべきイザナキが、 ﹁生むは、奈何に﹂ て対応しようとした。 ︿男女の対存在﹀が内包する︿生む働き﹀に の対存在﹀であろうとするイザナミにとって、このイザナキの誘 を伝える三輪山説話は、 ︿男女の対存在 ﹀ の原初の理念を語り伝 よって﹁国を修理ひ固め成せ﹂という命令に応えようというので いの言葉は、もう一方の︿恋の情念﹀をないがしろにするものと との問い掛けの言葉で、二人の関係を︿生む働き﹀として提示し ある。 しかし、 最初の国生みは失敗してしま っ た。 ﹁天つ神 ﹂ の して意識された。 その不安や危機意識が、﹁あなにやし、 えをと えたものと読むことができよう。 裁定に依れば﹁女の先づ言ひしに因りて、良くあらず﹂だからで こを﹂の先言へとイザナミを駆り立てたのである。 て来たからである。イザナキのこの問い掛けに対し、イザナミ自 ある。そこで、なぜイザナミは先に言ってしまったのか、という 6 先に、︿男女の対存在 ﹀ について整理した際、 男女が誘い合う のは、まず何よりも﹁あなにやし﹂という出会いの感動において の方にあり、︿男女の対存在 ﹀ はそれに付随する第二主題に位置 い。男女として互いの身が補い合うべく﹁成﹂っていることを見 成り合はぬ処を刺し塞がむと以為ふ。奈何に﹂でなければならな 口説きの文句は、﹁此の吾が身の成り余れる処を以て、 汝が身の の対存在﹀の原初の理念を語ろうとするのであれば、イザナキの しているのではないことを意味していよう。 もしかりに、 ︿男女 の神代神話が、 ︿男女の対存在 ﹀ そのものを主題として語ろうと ナキは﹁生む﹂ことを誘い掛けている 。このことは、﹃古事記﹄ いて述べたものであ っ て、﹃古事記 ﹄ の記述上、 実際には、 イザ 述べた。 この議論はあくまでも、︿男女の対存在 ﹀ の理念型につ ために︿生む働き﹀を主要に担うのがイザナキであり、 ︿恋の情念﹀ ︿ 男 女 の 対 存 在 ﹀ と し て の イ ザ ナ キ・ イ ザ ナ ミ の 内、 国 の 成 立 の そこからはみ出てしまう。このとき、 テキストの記述においては、 方の︿恋の情念﹀は、必ずしもそれにそぐうものではなく、時に 働き﹀をなさねばならない。だが、 ︿男女の対存在﹀が持つもう一 れることになる。国が国として成り立つためには、男女が︿生む 女として存在するということとの、緊張を孕んだ物語として語ら は、それゆえに、国が国として成り立つということと、男女が男 の意義を負っていることが理解された。イザナキ・イザナミ物語 以上を総じて、 イザナキ・ イザナミが、︿男女の対存在 ﹀ であ りかつ、天つ神の命令により﹁国を修理ひ固め成﹂すという二重 付けられるのである。 出し、それを実践してみようという口説きである。その結果とし を担うのがイザナミなのであった。 であ っ て、 ﹁生む ﹂ という帰結を先取りしてのことではない、 と て 子 が 生 ま れ る こ と に、 原 初 の 喜 び と 驚 き と が 存 在 す る で あ ろ う。先に見たイクタマヨリビメの﹁供に住める間に、自然ら懐妊 結が先取りされた時点で、イザナキ・イザナミによる﹁みとのま ﹁国土を生み成さむと以為ふ。 生むは、 奈 しかしイザナキは、 何に﹂と、 ﹁生む﹂という帰結を先取りして、口説きをなした。帰 うとするものであることが確認された。その際、主要にはイザナ いてそれに参与しつつ、︿恋の情念 ﹀ においてそこからはみ出よ 前節における考察で、﹃古事記﹄の主要な主題は国の成立にあり、 ︿男女の対存在﹀であるイザナキ・イザナミは、︿生む働き﹀にお 三.なぜイザナミは﹁殺す﹂と言うのか ぐはひ﹂は反復されたものとなり、原初の一回的な感動が撥無さ キが︿生む働き﹀を担い、イザナミが︿恋の情念﹀を担うことにな めり﹂という驚きが、原初の感動の消息を伝えている。 れてしまう。 ﹁あなにやし、 えをとこを ﹂ と先に口走 っ てしまう る。そのような解釈の下、イザナキ・イザナミ物語を最後までた ﹁天つ神﹂により﹁女の先づ言ひしに因りて、良くあらず﹂とい う判定を受けたイザナキ・イザナミは、ともかくも国生みをやり どってみよう。 イザナミの不安は、そこに起因している。イザナキがそのように ﹁生む ﹂ 働きを前面にして口説きの言葉を掛けたのは、 言うまで もなく、天つ神から﹁国を修理ひ固め成せ﹂という命令を受けて いたからであろう。 ﹃古事記 ﹄ の第一主題はあくまでも国の成立 7 10 ︿恋の情念 ﹀ のなせるところであろう。 他方、 生み出された子を の何物にも代えることのできない代替不能な存在と捉えるのは、 命﹂として、あらためてイザナミを見出したのである。相手を他 は、 ﹁子の一つ木﹂に代えることのできない﹁愛しき我がなに妹の カグツチの頸を斬り落とした。イザナミを失うことで、イザナキ しき我がなに妹の命や、子の一つ木に易らむと謂ふや﹂と泣いて、 イザナミがカグツチを生んで﹁神避﹂ったとき、イザナキは﹁愛 ん抑制され、 ︿生む働き ﹀ に重点が置かれたのである。 そして、 直し、多くの国や神を生んでゆく。過剰な︿恋の情念﹀はいった ていよう。それを己れみずからしてしまったと、イザナミは悔い こでもやはり﹁黄泉戸喫﹂は﹁黄泉国﹂の一員となることを意味し とは、文化人類学などでもしばしば言われるところであるが、こ 食が共同体の構成員として認められるための儀礼の意義を持つこ てではなく、 ﹁ 吾 は 黄 泉 戸 喫 を 為 つ ﹂ に 対 し て の 詠 嘆 で あ る。 共 表す語であるから、ここでは﹁︵イザナキが︶速く来ねば﹂に対し た行為について、それをしなければよかったとくやむ気持ち﹂を む。我を視ること莫れ﹂と応えた。﹁悔し﹂は﹁自分のしてしまっ り来坐せる事、恐きが故に、還らむと欲ふ。且く黄泉神と相論は 主要な動因としつつも、イザナキ自身においては直接それが意識 る国、未だ作り竟らず。故、還るべし﹂であった。︿恋の情念﹀を はひ ﹂ の場面と同様に、﹁愛しき我がなに妹の命、 吾と汝と作れ ザナミに対して、 イザナキが実際に発した言葉は、 ﹁みとのまぐ ると見ることができよう。だがしかし、黄泉国の殿の内にいるイ 伊耶那美命を相見む﹂という︿恋の情念﹀を主要な動因としてい 情念 ﹀ に従い、 振る舞 っ ている。 黄泉国に往くのも、 ﹁其の妹 みを続けてきたイザナキは、ここでは、︿生む働き﹀よりも︿恋の の心情において表裏をなしている。ただし、解釈上あえて強調す びと、 ﹁黄泉戸喫 ﹂ をしてしま っ たことへの後悔とは、 イザナミ 余すところなく表現されている。イザナキが来てくれたことの喜 らむと欲ふ﹂とのイザナミの言葉には、意想外の驚きと喜びとが、 れども、愛しき我がなせの命の入り来坐せる事、恐きが故に、還 いなか っ たに違いない。 それでも、 イザナキは来てくれた。﹁然 ないと思われたからであろう。再びイザナキと会えるとも思って イザナキとの︿男女の対存在﹀を回復することが、もはやあり得 イザナミが﹁黄泉戸喫﹂をして、みずから﹁黄泉国﹂の住人となっ たのは、カグツチを生んで﹁神避﹂った以上、葦原中国に戻り、 ているのである。 されることなく、 ﹁愛しき我がなに妹の命﹂という︿恋の情念﹀と、 るならば、 イザナミはここで、 ﹁還らむと欲ふ ﹂ ことの理由を、 斬り捨てるというのは、己れの担う︿生む働き﹀をみずから否定 ﹁吾と汝と作れる国、未だ作り竟らず﹂という︿生む働き﹀とが渾 イザナキの言うように、国作りが終わっていないからだとは言っ することである。 ︿男女の対存在 ﹀ としてイザナミとともに国生 然としたまま、かつての︿男女の対存在﹀としてイザナミに相対 はなく、︿恋の情念﹀を主要な動因として、﹁還らむと欲ふ﹂と応 が﹁恐き﹂ことだから帰りたいのだと言っている。︿生む働き﹀で ていない。あくまでも﹁愛しき我がなせの命の入り来坐せる事﹂ イザナキの呼び掛けに対し、イザナミは﹁悔しきかも、速く来 ねば、吾は黄泉戸喫を為つ。然れども、愛しき我がなせの命の入 しているのであろう。 11 8 すでにカグツチを生んで﹁神避﹂ったイザナミは、︿生む働き﹀ をなし得ず、だからこそ、イザナキとの︿男女の対存在﹀を断念 ﹁八尋わに ﹂ としての己れの姿を、 ホヲリに見られたくなか っ た て生むことになるから見ないでくれ、とホヲリに願い出ている。 えているのであろう。 したのだとすれば、イザナキが来てくれたことが、ほかならぬこ のである。禁を破ってその姿を見てしまったホヲリは﹁見驚き畏 ここでトヨタマビメは、出産の際、﹁本つ国の形﹂ ﹁本の身﹂になっ の私に会いに来てくれたこととして、イザナミの︿恋の情念﹀を みて、遁げ退き﹂ 、トヨタマビメは見られてしまったことを﹁恥し﹂ と思うのである。 強く喚起することも理解できよう。そうして、確かにイザナキは、 ﹁其の妹伊耶那美命を相見む ﹂ と黄泉国まで追 っ て来たのであ っ ホヲリの父であるニニギの婚姻においても、いくぶん重なると ころがある。ニニギが﹁麗しき美人﹂コノハナサクヤビメを見初め、 た。しかし、己れを突き動かす︿恋の情念﹀に無自覚なまま、か つての︿男女の対存在﹀をそのままに回復しようとする、あるい イハナガヒメを添えて送り出した。ニニギは﹁其の姉は、甚凶醜 婚姻を申し出ると、コノハナサクヤビメの父オホヤマツミは姉の ︿恋の情念 ﹀ を強く喚起されているイザナミとの間には、 当の二 きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟木花之佐久夜毘売の は回復し得ると思っているイザナキと、己れの︿生む働き﹀ に躓き、 人も気付くことのないすれ違いがすでに胚胎していたのである。 醜い女を﹁見畏み﹂拒絶するという点で、トヨタマビメ・ホヲリ、 およびイザナキ・イザナミの物語と通じていよう。 みを留めて、一宿、婚を為き﹂という対応をしたとされる。男が イザナミは、﹁且く黄泉神と相論はむ。 我を視ること莫れ ﹂ と イザナキに禁を課す。なぜ、 見てはいけないのだろうか。 ﹃古事記﹄ 神代神話には、女が男に﹁見るな﹂の禁を課す類話が載せられて いる。ホヲリと結婚した海の神の娘トヨタマビメが出産する場面 だとすればやはり、イザナミが﹁我を視ること莫れ﹂と言った のは、蛆がたかり﹁八くさの雷﹂が取り付いた己れの醜い姿をイ 窃かに其の方に産まむとするを伺へば、八尋わにと化りて、 を見ること勿れ﹂といひき。是に、其の言を奇しと思ひて、 て産生むぞ。故、妾、今本の身を以て産まむと為。願ふ、妾 く、 ﹁凡そ他し国の人は、 産む時に臨みて、 本つ国の形を以 爾くして、方に産まむとする時に、其の日子に白して言ひし るいは、最初から叶うことのない儚い願いだったのかもしれない。 してそれは、話し合ってどうにかなることだったのだろうか。あ もできない。イザナミは﹁黄泉神と相論は﹂ねばならない。はた 国の姿のままでは、葦原中国に帰ることも、イザナキに会うこと ﹁ 還 ら む と 欲 ふ ﹂ と い う 願 望 を 抱 い た。 と は い え、 こ の 醜 い 黄 泉 私を求めてイザナキが来訪し、 イザナミは︿恋の情念﹀を喚起され、 である。 匍匐ひ委䋕ひき。即ち見驚き畏みて、遁げ退きき。爾くして、 もしそうであれば、 黄泉国まで追 っ て来て、 ﹁愛しき我がなに妹 ザナキに見せたくなかったからだと考えられる。思いがけずこの 其の伺ひ見る事を知りて、心恥しと以為ひて︰︰ 9 の命﹂と呼び掛け、 ﹁還るべし﹂と誘うイザナキは、あらずもがな 見えるが、かつて己れを突き動かした︿恋の情念﹀を捨て去った今、 助くべし﹂と口にするのは、文脈上いくぶん唐突であるようにも ﹁愛しき我がなせの命、 如此為ば、 汝が国の人草を、 一日に 最後にイザナミ自身が追って来て、イザナキの置いた﹁千引の 石﹂をはさんで、次のような言葉を交わす。 であることを表しているのであろう。 葦原中国の統治者であることのみがイザナキの自己を支えるもの の罪作りな態度であったとも言えよう。 そのようにイザナキを突き動かしたのは、イザナキ自身も無自 覚な︿恋の情念﹀であった。また、それゆえにこそ、イザナミは 心動かされ、︿恋の情念 ﹀ で応えようと、 儚い願いを抱いたので ある。ここで、もしイザナキがどこまでもイザナミの言葉に従っ か、と問うことは、おそらく無益であろう。仮定の別ストーリー 千頭絞り殺さむ﹂ て待ち続けたら、ともに葦原中国に帰ることができたのではない を想定することが無益であるというだけではない。そもそも、己 ﹁愛しき我がなに妹の命、 汝然為ば、 吾一日に千五百の産屋 はイザナミの醜い姿を﹁見畏﹂んで逃げ出し、イザナミは﹁吾に イザナキの行動は、いずれにせよ必至の帰結であった。イザナキ すれ違いが胚胎していたのであれば、禁を犯して覗き見るという ないのである。先に見たように、互いに気付かぬまま両者の間に た。﹁汝が国の人草を、 一日に千頭絞り殺さむ ﹂ という脅しは、 とってそれは、己れの︿恋の情念﹀を裏切り、踏みにじるものであっ で の イ ザ ナ キ の 行 動 全 体 を 指 し て い る の で あ ろ う。 イ ザ ナ ミ に い姿を見たところから、逃げ出して﹁千引の石﹂を置くに至るま イザナミの言葉にある﹁如此為ば﹂は、禁を破ってイザナミの醜 を立てむ﹂ れを突き動かす︿恋の情念﹀に無自覚なまま、かつての︿男女の 対存在﹀を回復しようとするイザナキには、己れの醜い姿を見せ 辱を見しめつ﹂と怒り、また悲しむ。イザナミの感受した﹁辱﹂は、 その怒りや悲しみをイザナキにぶつけようとした、なりふりかま たくないというイザナミの︿恋の情念﹀の緊張度が理解し得てい イザナキの来訪によっていやが上にも昂ぶった︿恋の情念﹀を、 わぬあがきの言葉である。イザナキとともに生み作ってきた国を るのは、イザナキへの︿恋の情念﹀こそが、イザナミの心の傷を 当のイザナキ自身の逃亡によって反転させられたことにより、生 イザナキは、イザナミが遣わす黄泉国の追っ手から逃げ続け、 桃の実を投げて撃退する。イザナミからの逃走は、イザナキが︿恋 生み出しているからである。︿恋の情念 ﹀ がそもそもないのであ ﹁汝が国 ﹂ と呼ぶのも、 イザナキとの関係を突き放そうとあがい の情念﹀から撤退したことを意味していよう。追っ手を撃退した れば、﹁絞り殺さむ﹂という怒りや憎しみもありはしないだろう。 じたものである。 桃の実に向かって、イザナキが﹁汝、吾を助けしが如く、葦原中 イザナミの言葉に、イザナキも﹁愛しき我がなに妹の命﹂と応 ていることの表れであろう。﹁愛しき我がなせの命 ﹂ と呼び掛け 国に所有る、うつしき青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ惚む時に、 10 と呼び、﹁絞り殺さむ ﹂ と宣告するイザナミの態度は、 これまで ずる。イザナキの側からすれば、 ﹁吾と汝と作れる国﹂を﹁汝が国﹂ ばならないだろう。 情念﹀が﹁殺す﹂というかたちを取るかという点が問われなけれ 我がなに妹の命 ﹂ との思いを捨てていない。﹁一日に千五百の産 関係﹀を回復すべく黄泉国まで追って行ったし、今なお﹁愛しき の関係を壊すのはイザナミなのであって、己れ自身は︿男女の対 す﹂ないし﹁死ぬ﹂という事態そのものが成立しない。だとすれば、 のに対しては、﹁殺す﹂という脅しは成立しないし、そもそも﹁殺 とができなくなるからであろう。容易に取り戻すことができるも あらためて考えてみるならば、﹁殺す ﹂ という脅しが脅しとし て成立するのは、殺すことによってその対象を二度と取り戻すこ ともに培ってきた︿男女の対存在﹀を否定するものである。互い 屋を立て﹂ 、 ﹁吾と汝と作れる国﹂をこれからも守り、維持してゆ ︿恋の情念﹀が﹁殺す﹂という脅しと連動するのは、先に見たように、 ないだろうか。イザナミは、どこまでも対象を代替不能性におい こうと言うのである。 イザナキは、己れ自身が︿恋の情念﹀に突き動かされ黄泉国ま でイザナミを追って行ったことも、イザナミから逃げ出すことで て捉え、それゆえにこそ︿恋の情念﹀を担い、また﹁死﹂に関わる 置いていることである。︿男女の対存在 ﹀ としてのイザナキ・ イ 立てむ﹂との言葉によって、イザナキが︿生む働き﹀の側に身を キストの理路をたどる上で肝要なのは、 ﹁一日に千五百の産屋を ひとりひとりの﹁死﹂は、根源的な問題とはならない、ないし問 原中国は存立してゆくことになるからである。そこにおいては、 千五百人生まれれば維持発展されるような世界として、以後、葦 逆に言えば、イザナキが担うことになる葦原中国は、ひとりひ とりの代替不能性をその本質とはしていない 。 千人死んでも 存在ともなる。 ︿恋の情念 ﹀ が対象の代替不能性を前提として含み持つからでは ︿ 恋 の 情 念 ﹀ か ら 撤 退 し た こ と も、 さ ら に は そ う し た 己 れ の 一 連 の言動こそがイザナミの︿恋の情念﹀を踏みにじるものであるこ ザナミは、最終的に、 ︿生む働き﹀を担うイザナキと、︿恋の情念﹀ 題にはしない。それが、国が国としてあるということであり、そ とも、おそらく無自覚なままなのであろう。それはともかく、テ を担うイザナミとに相別れたのである。 イザナミと別れたあと、イザナキは︿生む働き﹀を己れの立場 として、葦原中国の統治者となり、生きることになる。言い換え こに﹁人草﹂が﹁人草﹂として生きているということである。 ザナミが﹁生む﹂ことを否定して﹁汝が国の人草を、一日に千頭 ればイザナキは、山内春光のいわゆる﹁知らす原理﹂を担う者と 第一節で、イザナミを﹁生む﹂存在だと見るとき、イザナキが﹁生 む﹂側の立場から﹁吾一日に千五百の産屋を立てむ﹂と言い、イ 絞り殺さむ﹂と言っていることの意味が十分に解釈されないと指 して、生きてゆくのである。 ﹃ 古 事 記 ﹄ が 日 本 国 の 成 立 を 語 る テ キ ス ト だ と す れ ば、 イ ザ ナ キからアマテラスへと引き継がれ、さらにニニギから神武天皇へ 摘した。 本稿では、 ここまでの考察において、︿生む働き ﹀ を主 要に担うのはイザナキであり、イザナミは︿恋の情念﹀を担う存 在であると論じて来た。そのような解釈を採るとき、なぜ︿恋の 11 12 そこから︿恋の情念﹀を切り捨てることで、︿生む働き﹀はそれと 見ることができる。 ︿生む働き﹀ の根源は︿男女の対存在﹀であり、 その﹁知らす﹂原理の中核をなす︿生む働き﹀の起源を語るものと なテーマだと言えるだろう。 ﹃古事記﹄ の上巻に当たる神代神話は、 と持ち越される﹁知らす﹂原理こそが、テキスト全体を貫く主要 切り捨てることになったという葛藤の起源であった。 立したとき、同時にそこからはみ出るものとして︿恋の情念﹀を たのは、日本国が︿男女の対存在﹀による︿生む働き﹀によって成 在は大きいものと言えるだろう。本稿がイザナミを通じて見出し 層 性 に あ る と す れ ば、 ﹃古事記 ﹄ を読み解く上で、 イザナミの存 して取り出され、﹁知らす ﹂ 原理に取り込まれることとな っ たの ﹃古事記﹄において、イザナキ・イザナミは︿男女の対存在﹀と して登場し、葦原中国に戻って︿生む働き﹀を担うイザナキと、 四.イザナミを継ぐ者 しかし﹃古事記﹄は、本来のテーマである﹁知らす﹂原理の成立 に向けて、直線的に語りを進めてゆくのではなく、同時に切り捨 黄泉国に留まって︿恋の情念﹀を担うイザナミとに別れてゆく、 である。 てたものへも目を向け、語っている。そのような複層的な語り口 イザナキが黄泉国の穢れを清めると、そこから多くの神が成り、 最後にアマテラス・ ツクヨミ・ スサノヲが成 っ た。﹁生みの終へ と い う こ と を こ こ ま で 論 じ て き た。 ﹃古事記 ﹄ 神代神話のその後 では、イザナキとイザナミが﹁吾已に大八州国と山川草木とを生 に三はしらの貴き子を得たり﹂と喜んだイザナキは、アマテラス にこそ、﹃古事記 ﹄ のテキストとしての魅力が備わ っ ていると言 めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ﹂と言って、﹁大日孁貴﹂︵ア に﹁高天原を知らせ﹂と命じ、スサノヲに﹁海原を知らせ﹂と命じ の展開に即して、︿生む働き﹀と︿恋の情念﹀との相克を、さらに マテラス︶を生むことになっており 、イザナミの﹁神避り﹂やイ るが、スサノヲは泣き続けるばかりである。イザナキが﹁何の由 えよう。 そのことは、﹃日本書紀 ﹄ の、 特に本文の叙述と比べる ザナキの黄泉国探訪そのものが語られない 。 イザナミがイザナ にか、汝が、事依えし国を治めずして、哭きいさちる﹂と尋ねると、 たどってゆくこととしよう。 キに従属した存在として特に独立した役割を担うこともないま スサノヲは﹁僕は、妣が国の根之堅州国に罷らむと欲ふが故に、 と明確になると思われる。﹃日本書紀 ﹄ 巻一では、 第四段の本文 ま、﹁天下の主者 ﹂ となるべきアマテラスが生み出され、 日本国 哭く ﹂ と答えた。 これを聞いたイザナキは、 大いに怒 っ て、﹁然 でイザナキ・イザナミの国生みが語られるが、続く第五段の本文 の成立に向けて叙述が進められてゆくのである。﹃日本書紀 ﹄ の らば、汝は、此の国に住むべくあらず﹂と宣告し、スサノヲを追 この場面を理解する上で、まず、なぜイザナキは怒ったのか、 その理由に着目してみたい。一見するとイザナキは、スサノヲが い払うことにしたのである。 本文が日本国の成立を主題として語り、そこからはずれる叙述を 事記﹄というテキストの主要な特質の一つがそのような語りの複 とそこからはみ出るものとを複層的に語 っ ているのである。﹃古 ﹁一書﹂として別記しているのに対し、﹃古事記﹄は日本国の成立 14 13 12 そうして実際、前節で指摘したように日本国の成立をそのままに に﹁汝は、此の国に住むべくあらず﹂と通告すればよいからである。 ば、わざわざ﹁哭きいさちる﹂理由を尋ねるまでもなく、一方的 値することであり、それゆえにこそスサノヲを追放するのであれ はない。もし命じられた通り﹁国を治めず﹂にいることが怒りに 読めるが、 ﹃古事記 ﹄ が語 っ ているのは、 恐らくそういうことで ﹁事依えし国を治めず ﹂ にいることに対して怒 っ ているようにも は、どういう意味なのだろうか。 いというものだったからだと解するべきであろう。はたしてそれ からではなく、国を治めず泣き続ける理由が﹁妣が国﹂に行きた てイザナキが怒ったのは、己れの命令に背いて国を治めずにいる らば﹂の語は重い。﹃古事記﹄の叙述に従う限り、スサノヲに対し べくあらず﹂と宣告するのである。この語りの流れにおいて、 ﹁然 受けて、 イザナキは大いに怒り、﹁然らば、 汝は、 此の国に住む 語ろうとする﹃日本書紀﹄の本文においては、そのように語られ ﹁妣が国﹂の﹁妣﹂は、亡き母を意味する語であり、ここではイ ザナミを指している 。それゆえ、﹁妣が国﹂に行きたいと泣くス ﹁汝甚だ無道し。 父母 二 神 、 素戔鳴尊に 勅 したまはく、 を多に以ちて夭折せしめ、復青山を枯に変へしむ。故、其の こと有り。且常に哭泣くを以ちて行と為す。故、国内の人民 次に素戔鳴尊を生みたまふ。此の神勇悍にして忍に安みする の情念﹀の方を担おうと言うのである。イザナキが怒るのは、己 働き﹀ではなく、イザナミとともに黄泉国に封じ込められた︿恋 サノヲは、イザナキに命じられた﹁知らす﹂原理としての︿生む ることができよう。前節までの考察を踏まえて言い換えれば、ス はなくイザナミの方に付き従うという態度表明をしたからだと見 ている。 以ちて宇宙に君臨たるべからず。固当遠く根国に適れ﹂との れ自身が躓き、捨て去ったものを、スサノヲがそれとは知らず暴 サノヲに対してイザナキが怒ったのは、スサノヲが、己れ自身で ︵ ﹃日本書紀﹄巻一、第五段本文︶ りたまひ、遂に逐ひたまふ。 いるので、そのまま引いておいた。泣くことが﹁国内の人民﹂に 度は己れの内なる︿恋の情念﹀に従ってイザナミを追ってゆきな 実のところイザナキは、自覚的に︿恋の情念﹀をイザナミに委 ねた上で、 ︿ 生 む 働 き ﹀ を 主 体 的 に 選 び 取 っ た わ け で は な い。 一 き出してしまったからであろう。 災いをもたらしている以上、 その理由を尋ねるまでもなく、﹁無道﹂ がら、イザナミの醜い姿を目の当たりにして逃げ去り、葦原中国 ここでは、スサノヲの誕生から追放の宣告までが一息で語られて であり、 ﹁宇宙に君臨たる﹂べきではないと判定され、﹁遠く根国 へと戻ってきたのであった。葦原中国の統治者たる今の己れ自身 方ではなく、衝動的にあふれ出た︿恋の情念﹀に従い、挫折した に適れ﹂と一方的に宣告されているのである。 ﹃古事記﹄は、そのようには語っていない。イザナキは、﹁哭き いさちる﹂スサノヲにその理由を尋ね、スサノヲは﹁僕は、妣が 末に、結果として取ることになった姿である。今となっては、結 は、イザナキにとって、その意味で、自覚的に選び取られた生き 国の根之堅州国に罷らむと欲ふが故に、哭く﹂と答えた。これを 13 15 ザナミとの ︿恋の情念﹀ の躓きが、 触れられることを拒む傷として、 傷口を暴いてしまった。スサノヲに対して怒りを発するのは、イ に行きたいというスサノヲの叫びは、そうやって隠蔽したはずの て封じ込め、隠蔽することを意味していたはずである。﹁妣が国﹂ とは、イザナキにとって、己れの躓きたる︿恋の情念﹀を合わせ みずから﹁千引の石﹂を置いてイザナミを黄泉国に封じ込めたこ 望み務めてきたものと納得するほかないであろう。それだけに、 とと意義付け、また、もともと天つ神から命じられ、自分自身も 果的にせよ選び取られた唯一の在りようとして、それを正しいこ 明かしたものではない。 序を担う側からの意義付けに過ぎず、スサノヲ自身の行動原理を ただ、秩序に背くか従うかという論点そのものが、あくまでも秩 実際にそのようなこととしてテキストも語っているのであろう。 ﹁知らす﹂原理としての秩序に恭順を示したものと理解できるし、 潜んでいた剣をアマテラスに献上したことは、アマテラスが担う ていよう。それだけに、ヤマタノオロチを退治した後、その尾に と欲へらくのみ﹂と見做されるような言動がスサノヲには備わっ ラスの側からすれば、アマテラスの言うように﹁我が国を奪はむ 今なおイザナキの心に残り続けているからである 。 とを意味していよう。原初の理念である︿男女の対存在﹀は、︿生 能させ続ける限り、 ︿恋の情念 ﹀ が避けがたく付随してしまうこ む働き﹀と︿恋の情念﹀に分離させたとしても、︿生む働き﹀を機 ことは、 ﹁知らす﹂原理を遂行するために、︿男女の対存在﹀を︿生 ヲの登場により、再び語りの上に引き戻されたことになる。その テキストの構造的な面から見れば、いったんはイザナミととも に黄泉国に封じ込められたかと思われた︿恋の情念﹀が、スサノ なされたものではない 。 その意味で、 ありのままの情念には方 乱すにせよ守るにせよ、最初から秩序への影響を動機付けとして だがそれらは、すべて結果としてもたらされた事態なのであり、 ままの情念は、時に秩序を乱し、時に秩序を守ることにもなる。 すらありのままの情念に従って行動しているに過ぎない。ありの 秩序の維持に貢献することにはなったが、スサノヲ自身は、ひた えであったと見るべきだろう。結果的にヤマタノオロチの退治は スサノヲがイザナミの後を継ぐべき位置にいるとするならば、 ヤマタノオロチの退治は、クシナダヒメに対する︿恋の情念﹀ゆ む働き﹀と︿恋の情念﹀とに分けられて、それぞれイザナキとイ 向性がない 。 18 に関して、その多様な言動の理解をめぐって、様々に議論が展開 ﹁哭きいさち﹂ったり、 ﹁うけひ﹂に勝って﹁勝ちさび﹂を 古来、 して暴れまわったり、ヤマタノオロチを退治したりするスサノヲ てい っ たことを、﹃古事記 ﹄ は語 っ ているのであろう。 ここで、 き継がれた︿恋の情念﹀が、さらにオホクニヌシへと受け継がれ カハヒメとの恋のなりゆきである 。 イザナミからスサノヲに引 スサノヲの物語に続くオホクニヌシの物語においても、主要に 語られるのは、国作りではなく、ヤカミヒメ・スセリビメ・ヌナ 19 その恋の具体的様相について立ち入って論じることはしないが、 によって、引き継がれることになったのである。 き﹀がアマテラスによって、イザナミの︿恋の情念﹀がスサノヲ ザナミとに担われることになったが、さらにイザナキの︿生む働 16 ﹁知らす﹂原理として秩序を担うイザナキやアマテ されてきた 。 17 20 14 タテルヒメを娶り、 アマテラスの命令に背いてしまうからである。 テラスによって派遣されたアメワカヒコが、オホクニヌシの娘シ というのも、 続く国譲りの場面で、﹁此の葦原中国は、 我が御 子の知らさむ国と言依して賜へる国ぞ﹂と正統性を主張するアマ れたのは、︿恋の情念 ﹀ がイザナミとともに黄泉国に封じ込めら ﹁知らす ﹂ 原理の起源を語 っ ているのである。 本節でまず確認さ から︿恋の情念﹀を切り捨て︿生む働き﹀を取り出してくるという ていると、前節で述べた。﹃古事記﹄神代神話は、 ︿男女の対存在﹀ の成立を語る﹃古事記﹄においては、イザナキからアマテラスへ ﹁知らす ﹂ 原理を担うべきアメワカヒコが、 葦原中国に降り立 っ れたのではなく、スサノヲ・オホクニヌシによって、再び葦原中 スサノヲ・オホクニヌシの恋物語を通じ、葦原中国が恋の生じる た途端、︿恋の情念 ﹀ に取り込まれることで、 恋の発生する磁場 国に持ち込まれたことである。 ここに、﹁知らす ﹂ 原理の中核を と引き継がれ、さらにニニギから神武天皇へと受け継がれてゆく としての葦原中国が強く印象付けられることになる。 ﹃古事記 ﹄ なす︿生む働き﹀と︿恋の情念﹀ との葛藤が再燃することとなった。 場として描き出されていることを確認しておきたい。 の叙述の流れとしては、スサノヲ・オホクニヌシの恋の物語が事 あるはずだろう。﹁一宿にや妊みぬる ﹂ と疑うニニギにと っ て、 ニニギにとって、コノハナサクヤの懐妊は祝福されるべき事態で ら初代神武天皇が誕生するのだから、葦原中国を﹁知らす﹂べき と疑った。結果的には、コノハナサクヤの生んだホヲリの血統か ナサクヤが ﹁妾は、妊身みぬ﹂と告げると、﹁是は、我が子に非じ﹂ あるコノハナサクヤビメに求婚をする。しかもニニギは、コノハ そのことは、実際に天孫として降臨するニニギにおいても同様 で、 葦原中国に降り立つと、 すぐにニニギは、﹁麗しき美人 ﹂ で ち現われて来る。︿恋の情念﹀は、 ﹁知らす﹂原理が︿生む働き﹀を 女の対存在﹀に基づくものである限り、︿恋の情念﹀は繰り返し立 を排除して︿生む働き﹀を取り込もうとしても、 ︿生む働き﹀が︿男 う原初の理念を構成するものである。 ﹁知らす﹂原理が︿恋の情念﹀ あることを示していよう。両者は、ともに︿男女の対存在﹀とい 情念﹀の関係が、単なる対立に還元できない屈折を孕んだもので 繰り返し︿恋の情念﹀に翻弄されたことは、 ︿生む働き﹀と︿恋の 理﹂を担うべくアマテラスに派遣されたアメワカヒコやニニギが、 ﹁知らす ﹂ 原理こそが、 テキスト全体を貫く主要なテ ー マとな っ 前に語られていることで、アメワカヒコが︿恋の情念﹀に取り込 とはいえ、イザナキ・アマテラス・ニニギら︿生む働き﹀を担 う者たちと、イザナミ・スサノヲ・オホクニヌシら︿恋の情念﹀ コノハナサクヤとの逢瀬は、 ︿生む働き﹀以上に︿恋の情念﹀を主 基盤とする限り、外なる障害として行く手に立ちはだかるのでは まれることに必然性がもたらされていると言えよう。 要な動機としていたものと推測される。アメワカヒコやニニギら なく、 内なる葛藤として抱え込まれることとなる。﹃古事記 ﹄ が の情念﹀をも、葛藤を孕んだ内なる主題として語ろうとするから 複層的な語りを特質とするのは、﹁知らす﹂原理からはみ出る︿恋 を担う者たちとは、単純な対立関係にあるのではない。知らす﹁原 ﹁知らす﹂原理を担うべきアマテラスの使いは、繰り返し︿恋の情 念﹀に取り込まれ、翻弄されるのである。 あらためて、これまでの議論をまとめなおしておこう。日本国 15 世界を構築するのではなく、︿生む働き ﹀ をも内に孕みつつ、 語 わせて語られることになる。 ︿恋の情念 ﹀ もそれとして自立した このことは、逆から見た場合も同様で、スサノヲ・オホクニヌ シの恋物語は子を生むという結果をもたらし、血縁的な系譜が合 軽大郎女を姦して﹂と記されているように、血統を保持すべく婚 軽 太 子 は、 軽 郎 女 と 姦 通 し て し ま う の で あ る。 ﹁ 其 の い ろ 妹、 正しく遂行して﹁知らす﹂原理を担うべき立場にいる。ところが を担うべき地位にある。 言い換えれば軽太子は、︿生む働き ﹀ を であろう。 られることになる。 ﹃古事記﹄ が主題とする ﹁知らす﹂ ことの成立は、 姻関係が整備され、同母の兄妹で男女の関係を持つことは秩序に この恋物語を、前節までの考察に照らし合わせつつ検討してみ よう。軽太子は允恭天皇の長男として、国の統治と天皇の血統と ︿男女の対存在﹀を基盤とすることで、 ︿生む働き﹀と︿恋の情念﹀ の 反すると規定されていたことが読み取れる。それゆえに、軽太子・ し得ない。前節までに整理したように、 ︿恋の情念﹀が︿生む働き﹀ 軽郎女二人の︿恋の情念﹀は、統治を担うような︿生む働き﹀をな 二つのベクトルを複層的に交錯させつつ、語られてゆくのである。 五.恋のゆくえ ﹃古事記 ﹄ というテキストがこの事件をどのよう そ こ で 次 に、 に意味づけ、語っているかという点を検討してみよう。そのため からはみ出るものとして位置付けられていることが確認できる。 義について見定めておきたい。具体的に取り上げるのは、允恭天 に、ここでもやはり、﹃日本書紀﹄の記述と対比しておきたい。 最後に、前節まで﹃古事記﹄神代神話に関して考察したことを、 ﹃古事記 ﹄ 人代の記述に照らして検討しつつ、 その思想史上の意 皇の条に語られる軽太子・軽郎女の恋物語である。まずは、その 軽太子は伊予に流されるが、恋しさに堪え切れなくなった軽郎女 向けることの非を説き、軽太子には自首を促した。捕らえられた 囲むと、大前小前宿禰が間に立って、穴穂皇子には実の兄に矢を 武器を備えた。穴穂皇子︵後の安康天皇︶が軍勢を動員して取り したため、軽太子は大臣である大前小前宿禰のもとへ逃げ込み、 と姦通してしまう。臣下たちが軽太子を拒んで、穴穂皇子を支持 ﹃古事記 ﹄ に拠れば、 允恭天皇が崩御した後、 長兄の軽太子が 皇位を継ぐよう定められていたが、太子は同母の妹である軽郎女 流すことにした。以上が、軽太子・軽郎女二人に関して﹃日本書 たが、皇太子を罪に定めることはできないので、軽郎女を伊予に 軽郎女と通じたという噂があったため、調べてみると事実であっ 卜者は﹁内乱有り。蓋し 親 親 相䑒けたるか﹂と告げた。軽太子が という奇異な事件が発生し、 不審に思った天皇が卜者に尋ねると、 しまう。翌二十四年六月、夏なのに御膳の吸い物が凍ってしまう 罪有りと雖も、何ぞ忍ぶることを得むや﹂と考え、密かに通じて 募り、 死んでしまうかと思われたので、﹁徒空に死せむよりは、 筋立てから見るとしよう。 があとを追い、 思いを確かめ合 っ た二人は、 ﹁共に自ら死 ﹂ んで 紀﹄が記述しているところである。 ﹃日本書紀 ﹄ 允恭紀に拠れば、 允恭天皇二十三年三月、 軽太子 が皇太子に定められたが、軽太子は禁じられた軽郎女への恋心が しまった。 16 こうした﹃日本書紀﹄の語り口に比べると、﹃古事記﹄は、軽太子・ 軽郎女の恋物語を共感的に内在して語っていると言えよう。二人 てゆく次第を語っている。 淫け﹂ていたため、民や臣下たちは穴穂皇子を支持するようになっ の︿恋の情念﹀は、﹃古事記﹄が第一主題として語る﹁知らす﹂原 続く安康紀に拠れば、 允恭天皇四十二年の正月に天皇が崩御し、 十月に葬礼が終わった。しかし、軽太子は﹁暴虐を行ひ、婦女に た。軽太子は軍備を備えて大前宿禰の家に立て籠もったが、穴穂 理に背くものではあるが、だからと言ってただちに否定的に扱わ 三首にとどまるのに対して、 ﹃古事記 ﹄ は軽郎女の二首を含めた 皇子の軍勢に取り囲まれてしまう。大前宿禰が穴穂皇子に軽太子 ﹃日本書紀﹄の記述が最も﹃古事記﹄と異なっているのは、軽太 子・ 軽 郎 女 の 恋 物 語 と 皇 位 継 承 の 争 い と を 分 け て い る 点 で あ ろ 十首を載せている。軽郎女の側から描くという﹃日本書紀﹄には れるわけではなく、むしろ共感すべき物語として描き出されてい う。 ﹃日本書紀﹄の記すところでは、軽太子と軽郎女が関係を持っ 見 ら れ な い 視 点 を 持 っ て い る こ と も、 ﹃古事記 ﹄ がこの恋物語を を殺さないよう願い出たのち、軽太子は自害した。 た の は 允 恭 天 皇 二 十 三 年 の こ と で あ り、 同 四 十 二 年 の 崩 御 か ら 共感すべきものとして語っていることを示していよう。 慮を汲むこともない横暴な人物像が浮かび上が っ て来るのであ いう記事に信憑性が生まれ、なおかつ、内々に処理した父帝の配 母の妹との姦通事件が語られていることで、﹁婦女と淫け ﹂ たと 乱な人間性を傍証すべく機能していると言えよう。あらかじめ同 軽郎女との姦通事件は、直接には関係しないものの、軽太子の淫 正当性を示すために、そう語っているのであろう。その意味で、 して追ひ往﹂くに至る郎女の︿恋の情念﹀が余すところなく歌わ 待ち続けたがための鬱屈が一思いに爆発し、﹁恋ひ慕ふに堪へず 遂にみずから会いに行こうと決意する郎女の心情を歌っている。 首目は、 ﹁ い 帰 り 来 む ぞ ﹂ と 言 い 残 し た 軽 太 子 を 待 ち 続 け た 末、 と断罪して済ませることのできない心の深さが表れていよう。二 気遣った歌である。相手の無事を思いやる態度に、この恋を姦通 一首目は、伊予に流されてゆく軽太子に対して、怪我のないよう じ 君が往き 日長くなりぬ 造木の 迎へを行かむ 待つには待た 夏草の 阿比泥の浜の 掻き貝に 足踏ますな 明して通れ 軽郎女の作として﹃古事記﹄が載せている歌は、次の二首である。 るのである。︿恋の情念﹀を詠んだ歌も、 ﹃日本書紀﹄が軽太子の 二十年近くさかのぼっている。伊予に流された軽郎女が、その後 どうなったのかは記されておらず、允恭天皇没後の皇位継承争い にも登場しない。軽太子は軽郎女とは無関係に、皇位継承争いに 敗れて、ひとり自死するのである。 皇位継承争いに関する記述では、皇太子に定められていた軽太 子が暴虐かつ淫乱な人間であったと﹃日本書紀﹄は語っている 。 る。 総じて、 ﹃日本書紀 ﹄ の記述は、 軽太子・ 軽郎女の恋物語そ れている。 穴穂皇子が弟でありながら、兄を差し置いて皇位を継いだことの のものにさしたる関心を寄せることなく、皇位が正しく継承され 17 21 と歌う。 ﹁家﹂も﹁国﹂も愛しく思う妻があればこそとの絶叫は、 郎女を ﹁待ち懐きて﹂、﹁思ひ妻あはれ﹂と嘆き、 対する軽太子も、 ﹁吾が思ふ妻 有りと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ ﹂ その醜い姿を目の当たりにして、︿恋の情念﹀に躓き、﹁知らす﹂ う︿恋の情念﹀ に導かれて、黄泉国までイザナミを追って行ったが、 思い返せば、 イザナキ・ イザナミ物語において、 イザナキは ﹁愛しき我がなに妹の命や、 子の一つ木に易らむと謂ふや ﹂ とい 同時に手の届かないものへの諦念を裏に合わせ持つことになる。 そのまま﹁共に自ら死にき﹂という悲劇的結末を導く白鳥の歌と それにしても、なぜ、共感すべき恋物語が﹁共に自ら死にき﹂ という結末で語られるのだろうか。たしかに、皇位継承争いの末 イザナキが葦原中国の統治者となったのちも、なおイザナミへの 原理を担う葦原中国の統治者となったのであった。イザナキ物語 に自決したという﹃日本書紀﹄の記述に比べ、一連の恋の歌の応 ︿ 恋 の 情 念 ﹀ を 屈 折 し た か た ち で 心 の 底 に 潜 ま せ て い た こ と は、 しての面目を示すものであろう。 答を経て﹁共に自ら死にき﹂と結ぶ﹃古事記﹄の語りは、何らかの 妣が国の根之堅州国に罷らむと欲ふ﹂ 前節で論じたように、﹁僕は、 が︿恋の情念﹀の挫折として語られるとき、 統治を確立することは、 カタルシスを感受させる 。 それははたして、 どのような事態を 不能性が貫徹されたことを理解する。それが読者にカタルシスを られるとき、読者は、二人の︿恋の情念﹀において、相互の代替 ﹁共に自ら死にき ﹂ と語 も行かめ 国をも偲はめ ﹂ と歌い上げて、 軽太子もまたそれに応え﹁吾が思ふ妻 有りと言はばこそよ 家に あった。軽郎女が﹁君﹂への恋しさゆえに流刑地まで追ってゆき、 第三節で論じたように、︿恋の情念 ﹀ は対象の代替不能性を含 み持っており、まさにそれゆえにこそ、死と連関するものなので で き な か っ た か ら で あ る が、 他 方 で は、 ﹁是のただよへる国を 自身が醜いイザナミの姿を﹁見畏み ﹂、 代替不能性を貫くことが ない物語である。それが断念されたのは、何よりもまずイザナキ イザナミとともに黄泉国に留まり、二度と葦原中国に戻ることの ろう。イザナミを追って黄泉国へと赴いたイザナキが、そのまま もう一つのイザナキ・イザナミ物語という様相を帯びることにな られる軽太子・軽郎女の恋物語は、果たされることのなかった、 と訴えるスサノヲに対しての怒りとして表れ出ている。それゆえ、 もたらすのは、ひとを代替不能な存在として扱うことに一段高い 修理ひ固め成せ﹂との天つ神の命令をイザナキが受けていたから 指し示しているのか。 価値が認められるからであろう。やはり第三節で論じたように、 であった。イザナミとの恋に躓いてもなお、イザナキには帰る場 という悲劇的結末は、日常世界に定位されることのない二人の恋 そ の 始 ま り か ら し て 罪 に 定 め ら れ て い た 軽 太 子・ 軽 郎 女 の 恋 は、日常世界に定位すべき場所を持たない。﹁共に自ら死にき﹂ どこまでも︿恋の情念﹀を貫き、 ﹁共に自ら死﹂ぬという結末で語 葦原中国は、千人死んでも千五百人生まれれば維持される世界と 所があり、帰るべき必然性もあったのである。 ると言えよう。 らためて読者に喚起させることで、カタルシスが生み出されてい であった。日常において疎外されている、ひとの代替不能性をあ して、ひとりひとりの代替不能性を本質とせず、存立しているの 22 18 るのではない。 あくまでも歌や物語を介して、 ﹁あはれ ﹂ をみず 思いをありのままに発動させ、行動に移すのがよいと主張してい えがたくなるのだと説く 。 ただし宣長は、 そのように鬱屈した ずから押さえ込もうとするがゆえに、かえって思いは増幅し、抑 ことに﹁道ならぬ懸想﹂として恋が生じてしまったときには、み ものだった。宣長は、 誰しも恋の思いを免れることはできないが、 よく知られた国学者本居宣長の初期の﹁もののあはれ﹂論は、 こうした恋における倫理と美との相克を、問題として取り上げた の情念﹀は美的に感受されるものとして語られているのである。 う倫理的な事態として語られるとすれば、第二主題としての︿恋 記﹄の第一主題としての﹁知らす﹂原理が人倫的秩序の確立とい なれば美的な情趣として感受されるほかないものである。 ﹃古事 ない。それは、倫理的に不義であることを前提とした上で、言う 言っても、失われた正義を回復するような倫理的主張とはなり得 ﹁共に自ら死にき﹂のカタルシスは、一段高い価値を指し示すと うに罪に定められていることを要件として含み持つのであれば、 わざであろう。だがしかし、共感されるべき二人の恋が、そのよ に、それでもなお場所を与えようとした共感的な構想力のなせる 軽太子・軽郎女の恋物語が入り込む余地はない。これは、宣長が での婚姻は禁じられていなかったのだと反論する宣長の目線に、 ﹁鳥獣のふるまひ ﹂ があ っ たと主張する儒者に対し、 異母兄妹間 わっていなかった古代日本においては、兄妹間で姦通するような て﹃古事記﹄において語られていたからである。聖人の教えの伝 同母の兄妹による姦通事件でありつつ、共感されるべきものとし るのは、言うまでもなく、本節で見た軽太子・軽郎女の恋物語が、 き ﹂ と、 宣長は反論する 。 ここであえて宣長のこの議論に触れ 同母兄弟をのみ嫌ひて、異母の兄弟など御合坐しことは、天皇を ﹁抑皇国の古へは、たゞ いひ出て、鳥獣のふるまひぞとそしる﹂が、 ひて賤しめむとして、ともすれば、古へ兄弟まぐはひせしことを ﹁皇国をし 相姦に関する議論に触れておきたい。﹁儒者ども﹂は、 張であるが、ここでは、その具体例として挙げられた古代の近親 のだというのは、よく知られた宣長のナショナリスティックな主 正しからぬが故﹂に﹁道といふことを作りて正す﹂必要があった には﹁道あるが故に道てふ言なく﹂、逆に﹁漢国﹂こそ﹁もと道の が儒者への対抗的言説の様相を前面に呈するようになる。﹁皇国﹂ 後期の神道論においては、恋の問題がよりいっそう後退し、議論 24 のだとの立場に身を置いているからである 。 宣長は、 儒者の言 ﹁皇国 ﹂ こそ道という概念を用いるまでもなく道を実現していた 26 始め奉りて、おほかたよのつねにして、︰︰すべて忌ことなかり から表現し、 また享受することの意義を説くにとどま っ ている 。 ﹁ も の の あ は れ を 知 る ﹂ こ と は、 倫 理 の 範 疇 と は 異 な る 美 的 価 値 と位置付けられるのである。だとすれば宣長の﹁もののあはれ﹂ 論は、恋における倫理と美との相克の問題に触れつつも、結局は それを正面から取り上げることなく済ませてしまったと言わねば なるまい 。 ば、かつて︿恋の情念﹀の﹁あはれ﹂を説き、また﹃古事記﹄研究 の 己 れ の 主 張 を み ず か ら 否 定 し 去 っ た。 本 稿 の 考 察 を 踏 ま え れ ならぬ懸想﹂ゆえにこそ﹁あはれ﹂が募るのだと説いた、かつて 説に対抗して、日本を道の実現された世界と規定することで、 ﹁道 27 23 独自の神観念に基づき、善悪の問題により深く歩を進めた宣長 19 25 が日本国の成立と合わせて複層的に語る︿恋の情念﹀を逸したも の道を切り拓いた宣長ではあるが、その﹃古事記﹄論は、﹃古事記﹄ ならないはずである。 に封じ込められたイザナミをすくい取ることが目指されなければ あ れ ば 、 葦 原 中 国 の 成 立 の た め に、 ︿恋の情念 ﹀ を担 っ て黄泉国 のであったと評せねばならない。 右のような宣長の再評価も含めて、 ﹃古事記﹄の語る︿恋の情念﹀ は、日本倫理思想史研究において、様々な問題を喚起するもので あろう。例えば、軽太子・軽郎女が﹁共に自ら死﹂んだとして、 はたしてそれがどういう事態を指示しているのかという問題は、 あらためて問われねばならないだろう。物語としては﹁共に自ら 死にき﹂で結ばれるとしても、思想の問題としては、その背後に ある死生観や他界観が追究されねば、その語りの意味するところ が真に理解されたことにはならない。この点、例えば、﹁﹃古事記﹄ の最も美しい個所がすべて情死に関している﹂と読み、そこに上 以下、 ﹃古事記﹄からの引用は、 小学館新編日本古典文学全集版︵一九九七 年︶を用いる。 和 哲郎﹃尊皇思想とその伝統﹄ ︵ ﹃和 哲郎全集第十四巻﹄岩波書店︶ 二七頁以下、 および同﹃日本倫理思想史 ﹄︵岩波文庫版㈠ ︶ 八七頁以下 を参照のこと。 佐藤正英﹁祀りを行うひとびとの物語 ︱ イザナキ・ イザナミ神話を読 む﹂︵﹃現代思想 vol.20‒4 ﹄青土社、一九九二年︶。 佐藤正英﹁花鳥風月としての自然の成立 ︱﹃古今集 ﹄ を中心に ﹂︵日本 倫理学会論集﹃自然︱倫理学的考察﹄以文社、一九七九年︶。 山内春光﹁﹃古事記﹄神話におけるスサノヲの位置︱﹁知らす﹂原理と﹁生 む﹂・﹁作る﹂原理﹂ ︵﹃日本思想史叙説第二集﹄ぺりかん社、一九八四年︶。 吉田真樹﹁死と生の祀り︱イザナキ・イザナミ神話における生命思想﹂ ︵﹃季刊日本思想史 No.62 ﹄ぺりかん社、二〇〇二年︶。 次 節 で 触 れ る よ う に、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ の 本 文 に お い て は、 イ ザ ナ ミ の﹁ 神 避り﹂やイザナキの黄泉国探訪が語られず、イザナミはイザナキに従属 するかたちで国や神 々 を生んでいる。 だからこそむしろ、 そうした場 面を通じてイザナキ・イザナミの別離を語る﹃古事記﹄に関しては、イ ザナキに従属しないイザナミ独自の意義を考察する必要があるのでは ないだろうか。 折口信夫は、 神祀りが男女の性交渉を表していることを積極的に論じ つつも、 そこから生殖としての意義を排除しようとする。 男女の性交 渉としての神祀りの意義を生殖や豊饒に局限する見解に異を唱える姿 勢には学ぶべき点が多いが、 やはり折口独自の偏向性をも認めるべき だろう。元来は、男女の両性が出会い交わることで﹁生む﹂という結果 が も た ら さ れ る と い う こ と の 総 体 に お い て、 人 智 を 超 え た 不 可 思 議 さ が感受されているのだと見ておきたい。 なお、 そうした折口の学問の 特質については、拙著﹃折口信夫︱いきどほる心﹄ ︵講談社、二〇〇八年︶ 参照のこと。 1 2 3 4 5 6 代人の﹁より高き完全な世界への憧憬﹂を推測して、仏教を受容 した内的動因を論ずる若き日の和 哲郎の所論は、今なお示唆に 富むものだと言えよう 。 ︿恋の情念﹀によって﹁共に自ら死﹂ぬことを共感的に語 また、 るというのは、心中の問題とも重なってくる。心中を共感すべき 事態として語ってきた日本人の心性を理解しつつ、なおあらため て倫理問題として問い返すことは、日本倫理思想史研究が背負う べき一つの課題となっていよう 。 思想史研究が、近代の国家主義に棹差した国民道徳論と一線を引 近代以降、政治的な観点からなされることが多かった。日本倫理 そうした様々な問題の根には、恋の起源に位置するイザナミの 存在がある。神話の研究はもとより、総じて日本思想の研究は、 29 7 8 28 き 、 政治的論点に還元されない独自の領域を担おうとするので 30 20 金井清一は、 ﹃古事記﹄ において語られる、クニノトコタチ、トヨクモノ、 ウヒヂニ・スヒヂニ、ツノグヒ・イクグヒ、オホトノヂ・オホトノベ、 オモダル・アヤカシコネ、イザナキ・イザナミの﹁神世七代﹂の系譜に つ い て、 ﹁国土大地の生成 ﹂ を描くものとする従来の諸注に異を唱え、 男 女 の 対 偶 神 の 完 全 体 で あ る イ ザ ナ キ・ イ ザ ナ ミ が 成 立 す る ま で の 過 程を描いたものだと論じている︵ ﹁神世七代の系譜について ﹂ 、 ﹃古典と 現代第 号 ﹄ 所収、 一九八一年 ︶ 。 本稿ではその是非を充分に判定する だ け の 準 備 は な い が、 イ ザ ナ キ・ イ ザ ナ ミ が 男 女 の 対 存 在 の 神 秘 を 表 すものと捉える本稿の立場にとって、示唆深い指摘である。 本居宣長は、 イザナキ・ イザナミの名前の由来を論ずる際、 このイザ ナキの口説きの言葉を先取りする形で、﹁信に此ノ二柱ノ神、 遘 合 し て国土を生成さむとして、互に誘ひ催し賜へる意﹂ ︵﹃古事記伝﹄三之巻、 ﹃本居宣長全集第九巻 ﹄ 筑摩書房、 一五一頁 ︶ だと述べているが、 あく までも名前の由来に関する限り、 イザナキ・ イザナミが互いに誘い合 うところのものを、 ﹁生む﹂ことに限定する見解には従いがたい。 大野晋ほか編﹃岩波古語辞典﹄ ︵岩波書店︶﹁くやし﹂の項に拠る。 日常的な共存がひとの代理可能性を必然的な構成要素として含み持つ ことは、ハイデガー﹃存在と時間﹄第四十七節で論じられている。なお、 ハイデガ ー が代理不能性を己れの死のみに限定して論じていることへ の疑義については、拙論﹁和 哲郎における死の問題﹂ ︵ ﹃理想 No.677 ﹄ 理想社、二〇〇六年︶参照のこと。 新編日本古典文学全集 ﹃日本書紀①﹄ ︵小学館︶三五頁。以下、﹃日本書紀﹄ からの引用は同シリーズに拠る。 ﹃日本書紀﹄では、イザナキが﹁神避﹂ったイザナミを訪ねる話は、第五 段の一書の第六・九・十に載せられている。 小 学 館 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 の 頭 注 で は、 ﹁伊耶那美神を指すととるの が一般的だが、 須佐之男命は身をすすいで成 っ た神であり、 父母から 生れた神ではないから、なお不審が残る﹂としている。古来繰り返し問 われて来た疑問であるが、ここは、本居宣長が﹁抑三柱 ノ貴御子神などは、 伊邪那岐 ノ大神の御禊にこそ成 リ坐つれ、伊邪那美 ノ命の生坐る神等には 非ぬを、 妣と白 シ賜ふはいかにと云に、 かの御禊に成坐る神たちは、 元 を尋ぬれば、 みな伊邪那美 ノ命の黄泉の穢悪より起れるが故に、 其時の 十四柱 ノ神たちも、 猶伊邪那美 ノ命を以て御母とするなり ﹂ と論じてい るのに従っておきたい ︵ ﹃古事記伝﹄ 七之巻、前掲全集九巻三〇二頁︶。 ﹃古 事記﹄において引き続き語られる﹁うけひ﹂の場面では、アマテラス自 身の説明にあるように、スサノヲの﹁物実﹂によってアマテラスの成ら しめた神がスサノヲの子とされ、アマテラスの﹁物実﹂によってスサノ ヲの成らしめた神がアマテラスの子とされている。 アマテラス・ スサ ノヲらの神々がイザナミの﹁黄泉の穢悪﹂によって生じたがゆえに、イ ザナミを﹁御母とする﹂のだと捉える宣長のロジックは、﹁うけひ﹂にな ぞらえて言えば、﹁黄泉の穢悪﹂を﹁物実﹂と見たものだと言えよう。 佐藤正英は、イザナキが怒った理由について、﹁﹁妣が国﹂に往きたいと いうスサノヲの発した言葉は、 イザナミと対を形作ることを断念せざ る を 得 な か っ た 痛 み を あ ら た め て イ ザ ナ キ に 想 起 さ せ る。 ス サ ノ ヲ の 過剰な希求は、 イザナキにと っ て他人事ではなく、 自身が内に押しこ めた希求でもある。 イザナミへの恋慕の情はそのいきさつを語 っ てい る。 しかし世俗時空である葦原中国を整序するには過剰な希求を内に 押しこめ、 断念するほかに手だてはなか っ た。 その痛みがスサノヲに 対する怒りとなってイザナキを捉えるのである﹂ ︵﹃古事記神話を読む﹄ 青土社、二〇一一年、一〇九頁︶と論じており、本稿の論述もそうした 佐 藤 の 見 解 を 踏 ま え た も の で あ る。 た だ し 佐 藤 は そ れ に 留 ま ら ず 、 さ らに論を進めて、 ﹁過剰な希求への衝迫に駆られているかぎり、 定住す べ き 家 郷 を 世 俗 時 空 に 見 出 す こ と は で き ず、 流 離 し 続 け る ほ か な い こ とをイザナキは直知して﹂おり、そのことを﹁おまえは引き受けること になるのだとイザナキは傍目には理不尽とも映る怒りのかたちでスサ ノヲに伝えている﹂のだと述べる。そう解釈する論拠を特に佐藤は明示 していないが、 おそらくは、 スサノヲの申し出をイザナキが却下する のでなく、 ﹁ 然 ら ば 、 汝 は 、 此 の 国 に 住 む べ く あ ら ず ﹂ と、 怒 り を 示 し つつも結局は容認しているからだと推測される。 しかし、 このように 解釈してしまうと、 イザナキが﹁葦原中国を整序する ﹂ ため、﹁イザナ ミへの恋慕の情﹂を自覚的に﹁内に押し込め﹂、﹁断念﹂したことになっ てしまい、禁を破ってイザナミの醜い姿を見たイザナキが﹁見畏みて逃 げ還﹂ったというイザナキ・イザナミ物語の核心に関わる部分が見失わ れてしまうのではないだろうか。イザナキが﹁千引の石﹂を置いて﹁黄 泉ひら坂﹂を塞いだのも、桃の実によって﹁黄泉軍﹂を撃退したあとに イ ザ ナ ミ ひ と り で 尋 ね て 来 た と き の こ と で あ っ て、 葦 原 中 国 を 守 る た めというよりは、 己れ自身の裏切りや躓きから目を背けることを主要 な動機としているように思われる。なお、イザナミへの︿恋の情念﹀が 21 9 10 11 12 13 14 15 49 16 イ ザ ナ キ に お い て、 内 に 押 し 込 め ら れ た も う 一 つ の 願 望 と な っ て い る ことについては、本稿第五節で改めて論じている。 本稿で直接触れるものではないが、 スサノヲ像の歴史的な展開につい ては、田尻祐一郎﹁スサノヲの変貌︱中世神道から吉川神道へ﹂︵﹃季刊 日本思想史 No.47 ﹄ ぺりかん社、 一九九六年 ︶ 、 および同﹁ ﹁中臣祓 ﹂ と スサノヲ﹂ ︵ ﹃日本思想史︱その普遍と特殊﹄ぺりかん社、一九九七年︶ に教えられるところが多くあった。 折 口 信 夫 が ス サ ノ ヲ・ オ ホ ク ニ ヌ シ ら 出 雲 系 の 神 に 、 情 念 の あ り の ま まに振る舞う神の理想形を見出していたことについては、 前掲拙著を 参照のこと。 ﹁方向性がない ﹂ という言葉遣いは、 相良亨の、 例えば次のような記述 を念頭に置いて、 用いている。 ﹁かわいそうだという感情と人命は絶対 に尊重すべきだという哲学とはちがう。 かわいそうだという感情は、 時に人命尊重となり、 時に道連れ心中となる。 日本人を動かしている のはこの感情であ っ て、 哲学ではない。 かわいそうだという感情は、 状 況 に よ っ て い か な る 行 為 で も お し 出 す。 内 部 に 行 動 を 歯 止 め す る も のをも っ ていない。 その意味で方向性をもたない ﹂ ︵ ﹃増補版・ 誠実と 日本人﹄ぺりかん社、一九九八年、一三頁︶。 ﹃日本書紀 ﹄ の本文では、 神代第八段のスサノヲによるヤマタノオロチ 退治の末尾にオホアナムチの生まれたことが記された後、 第九段の冒 頭でニニギの誕生が語られて、 すぐさま天孫降臨の物語へと移行して い る。 一 書 で は、 第 八 段 の 一 書 の 第 六 で オ ホ ア ナ ム チ と ス ク ナ ヒ コ ナ による国作りが語られ、第九段の一書の第二で﹁皇孫﹂が﹁顕露事﹂を 治めオホアナムチが﹁幽事﹂を治めることが語られている。いずれにせ よ﹃日本書紀﹄においては、オホクニヌシに関しても統治のことが主題 とな っ ており、 ﹃古事記 ﹄ の語るような恋物語は、 本文だけでなく一書 も含めて載せられていない。 小学館新編日本古典文学全集の頭注では、﹁婦女に淫けたまふ ﹂ という 記述を、 軽郎女との姦通を指すものとしているが、﹁暴虐 ﹂ について具 体 的 な 内 実 が 示 さ れ て い な い の だ か ら、 淫 行 の 方 だ け を 二 十 年 近 く 前 の事件に特定して理解する必要はないだろう。 あえて言うならば、 こ こは穴穂皇子の皇位継承の正当性を示すため、 軽太子の人間性を語 っ た記述と考えられるから、むしろ軽郎女の配流以後にも﹁婦女に淫け﹂ るような善からぬ振る舞いが続いていたことを暗示していると見るべ きではないか。 アリストテレスが﹃詩学﹄において、悲劇のもたらすカタルシスについ て直接に触れているのは第六章であるが、 その他、 九・十三・十四・十五 章など学ぶべきところは多い。 本居宣長﹃石上私淑言﹄巻二の第七十四項に拠る︵新潮日本古典集成﹃本 居宣長集﹄新潮社︶。 ﹃紫文要領﹄では、﹁親の許さぬ女を思ふも、親の許さぬ男に逢ふも、み な教へにそむけり。 悪とするところなり。 しかるを物語にはその悪を ば棄ててかかはらず、その物の哀れを知るをもてよしとす﹂と述べられ ている︵前掲﹃本居宣長集﹄八九頁︶。 こうした宣長の姿勢に鋭く切り込み、前期の﹁もののあはれ﹂論から後 期の神道論へと至る一貫した道筋を描き取ったのが、相良亨 ﹃本居宣長﹄ ︵東京大学出版会、 一九七八年、 後に講談社学術文庫で再刊 ︶ である。 宣長論として、 今なお学ぶべきところが多い。 ここでは簡略に済ませ るが、 相良の宣長論を踏まえつつ、 いずれ稿を改めて宣長について論 じることとしたい。 本居宣長﹃直毘霊﹄︵前掲全集九巻︶五一∼六〇頁。 近親相姦を例に挙げ、 聖人の教えの伝わらなか っ た古代日本は禽獣同 然の社会であ っ たとする儒者に対して、 異母の兄弟姉妹間の婚姻は禁 止されていなか っ たと反論するのは、 師の賀茂真淵に倣 っ たものと考 えられる。ただし真淵の場合は、 ﹃国意考﹄で、﹁此国のいにしへのはら からを、 兄弟とし、 異母をば兄弟とせず、 よりて、 古へは人情の直け れば、 はらから通ぜしことはなくて、 異母兄弟の通ぜしは常に多し。 たま〳〵はらからの通ぜしをおもきつみとせし也 ﹂︵日本思想大系﹃近 世神道論・前期国学﹄岩波書店、三八七頁︶と述べているように、軽太 子・ 軽郎女のように同母の兄妹で通じて罪とされた例も念頭に立論さ れている。これは、真淵が理想とする古代の﹁直き心﹂が、同時に﹁悪﹂ を含み得るものとして理解されていることに基づくものである。 宣長 の場合は、 儒者への批判の性急さのあまり、 古代の日本に道が実現さ れており、 道がなか っ たのは中国の方であると断じてしま っ ているた めに、齟齬が生じたものと考えられる。 和 哲郎﹁推古時代における仏教受容の仕方について﹂ ︵﹃日本精神史研 究﹄所収︶に拠る。なお、和 が非道徳性を含み持つ﹁日本的恋愛﹂に 思想的可能性を見出しつつも、 倫理学体系においてはそれを排除する 22 23 24 25 26 27 28 17 18 19 20 21 22 ︶の研究成 23520004 ことになった次第については、拙論﹁和 哲郎における﹁恋愛﹂概念の 葛藤について ﹂ ︵ ﹃東北哲学会年報 No.28 ﹄ 東北哲学会、 二〇一二年 ︶ を 参照のこと。 前掲の相良亨﹃誠実と日本人﹄は、日本人が伝統的に重視してきた﹁真 情の純粋性﹂や﹁温かい心﹂こそが﹁道連れ心中﹂を生み出しているとし て、 問題を提起している。 また近年では、 栗原剛﹁﹃源氏物語 ﹄ におけ る情死の可能性﹂ ︵ ﹃季刊日本思想史 No.80 ﹄ぺりかん社、二〇一二年︶が、 理念としての情死とそれに対する疑義について論じている。 和 哲郎の日本倫理思想史研究が、 近代の国民道徳論との対決を目指 してなされたものであること、 および、 それゆえにこそかえ っ て和 の議論が超国家主義的主張に陥ってしまったことについては、和 ﹃日 本倫理思想史﹄ ︵岩波文庫版㈠∼㈢、二〇一一年︶所収の拙論﹁解説1﹂ ﹁解説2﹂ ﹁解説3﹂を参照のこと。 ※本論文は、科学研究費補助金基盤研究 ︵課題番号 果の一部である。 23 29 30 弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項 平成23年1月19日教授会承認 平成24年2月22日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』 (以下「紀要」という。 )の刊行及び編集に 関して定めるものである。 1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。 )で行われた研究の成果を公表することを 目的に刊行する。 2 発行は原則として,各年度の8月及び2月の年2回とする。 3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。 4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。 5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙については,様式を研究推進・評価委員 会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。 6 投稿者は,研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ て原稿を作成し,投稿しなければならない。 「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委 員会が決定する。 7 論文等の校正は著者が行い,3校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。 8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者 の負担とする。 9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は, 掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。 10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投 稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。 附 記 この要項は,平成23年1月19日から実施する。 附 記 この要項は,平成23年4月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年4月1日から適用する。 附 記 この要項は,平成24年2月22日から実施する。 執筆者紹介 木 村 純 二(日本倫理思想史/思想文芸講座) 木 村 宣 美(英語学/コミュニケーション講座) 堀 智 弘(アメリカ文学/コミュニケーション講座) 松 井 太(内陸アジア史/国際社会講座) 李 梁(中国思想史/思想文芸講座) 編集委員 (五十音順) ◎委員長 奥 野 浩 子 齋 藤 義 彦 柴 田 英 樹 城 本 る み 須 藤 弘 敏 田 中 岩 男 ◎長谷川 成 一 日 野 辰 哉 福 田 進 治 山 本 秀 樹 渡 邉 麻里子 人文社会論叢(人文科学篇) 第三十号 二〇一三年八月三十一日 編 集 研究推進・評価委員会 発 行 弘前大学人文学部 - 弘前市文京町一番地 http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/ 印 刷 やまと印刷株式会社 - 弘前市神田四 ―四 ―五 036 8560 036 8061 右方転移と談話機能 * 木 村 宣 美 0. はじめに 日本語は述語(predicate)が文末に生じる主要部後置型(head-final)言語であるが, (1b)に見るよ うに,ある要素が本来生じる位置ではなく,述語に後続する位置に生じることがある。 (1) a. 君は,本当にダメだね。 b. 本当にダメだね,君は。 (久野 1978:67-68)1 (1b)では,(1a)の主語「君は」が,述語「本当にダメだね」に後続する位置に生じている。この構文 は,右方転移(right dislocation)文と呼ばれ,述語に後続する位置に置かれる右方転移要素が,本来 の位置から文末への右方移動(rightward movement)が適用されて導かれる(Haraguchi(1973))と分 析された構文である。ただし,現時点では,Minimalist Program の理論的な精緻化のもと,右方転 移文の派生に対して,概略,動詞句前置 / 残余句移動等の左方移動(leftward movement)によって導 かれるとする移動分析(黒木(2006) ,Fukutomi(2006))と移動規則のみの操作で導かれるのではな く,文の部分的繰り返しによって導かれるとする移動と削除に基づく分析(久野(1978),Abe (2004) )の 2 種類の分析が提案されている。 右方転移文の右方転移要素の談話機能(discourse function)に関して,久野(1978)は,日本語の右 方転移文を分析する際に,文の部分的な繰り返しと削除に基づく分析を提案し,右方転移要素が担 * 本稿は,日本中部言語学会第 58 回定例研究会(平成 24 年 12 月 8 日 静岡県立大学)において口頭発表した右方 転移文の談話機能に関する内容に加筆・修正を施したものである。なお,本研究は,平成 22 年度−平成 24 年度 日本学術振興会科学研究費助成事業(科学研究費補助金) ((基盤研究(C)研究課題『句構造の非対称性・線形化と 構造的依存関係に関する理論的・実証的研究』 (課題番号 22520487))に基づく研究成果の一部である。 1 (1b)のような文に対しては,英語では right dislocation sentences, postposing sentences 等,日本語では右方転移 文,後置文,右方転位文等の用語が用いられているが,本稿では,右方転移文という用語を用いることにする。 なお,右方転移との用語を用いるが,これは,右方移動が関与することを主張するものではない。また,本稿で は,述語に後続する位置に生じる要素を右方転移要素あるいは後置要素と呼び,下線を引くことにする。なお, 英語の場合には,本来の位置に生起する代名詞にも下線を引くことにする。 1 う談話機能は旧情報であると分析していると考えて良いように思われる。しかしながら,最近の研 究成果では,右方転移文の後置要素の談話機能が,旧情報ではない場合があることが報告されてい る。本稿の目的は,このような右方転移文の後置要素の談話機能に関する研究動向を踏まえ,動詞 に後続する位置に生じる右方転移要素が,どのような談話機能を担っているかを概観することにある。 1. 右方転移要素の談話機能 本節では,右方転移文の右方転移要素が,情報構造上,どのような談話機能を担っていると分析 されてきたかを概観することにする。 1.1. 旧情報としての右方転移要素 Rodman(1997/1974)では,カジュアルな発話(casual, relaxed speech)で用いられるのが一般的な 右方転移には,話者がこの構文を選択する三つの理由があることが指摘されている。第一の理由 は,指示物(referent)をより明示的にするためである(The speaker utters a pronoun and then suddenly realizes that his audience may not be aware of the referent he intends for the pronoun, so at the end of the clause containing that pronoun he makes the reference more explicit.) 。 (2) He told a number of lies to the Grand Jury, Ed Reinecke.(Rodman 1997/1974:47) 話者は代名詞を含む文を発したが,聞き手にとって,その指示物が明らかではないかも知れないと 思い,文末に名詞句を加え,伝えたいことを明瞭なものとするために,右方転移がなされる。 第二の理由は,音韻的に長い名詞句を,強勢(stress)に基づき,強調あるいは対照させるためで ある(Right dislocations are also used to emphasize or contrast a phonologically lengthy noun phrase by means of stress.)。 (3) I told her to leave instantly, the woman that did an obscene imitation of me on the Merv Griffith show.(Rodman 1997/1974:48) 話者は名詞句ではなく代名詞を用いて,文末で代名詞が指し示す指示物をもつ名詞句に強勢を置く ために,右方転移がなされる。 第三の理由は,音韻的に長いあるいは重い名詞句が文内にあり,文理解が困難を極めるような状 況を避けるためである(One may use a right dislocation to avoid the situation of having a phonologically lengthy or heavy noun phrase occur in a position of a sentence where it is felt to be awkward.) 。 (4)We elected him president, the most outrageously stupid and dishonest man in the entire country. 2 (4)では,the most outrageously stupid and dishonest man in the entire country が直接目的語の位置にあ ることにより,文理解に困難が伴うことが予想される。これを回避するために,直接目的語の位置 に代名詞を置き,文末に代名詞と同一の指示物をもつ名詞句を置くことが選択される。 Huddleston & Pullum(2002)も,英語の右方転移の機能が二つあることを指摘している。一つは, Rodman(1997/1974)が指摘しているように,発話処理機能(utterance processing function)で,指示物 をはっきりさせる clarification of reference である。次の(5)を例に取り,この点を考えてみよう。 (5) a. My dad was telling my uncle about how you had said youʼd solve the financial problems of your business. It took a while to explain it, because [he didnʼt really understand what you planned to do, my uncle]. b. I get back strain from carrying this heavy backpack, especially when I have to take home my huge science book and all of my lit folders. [Itʼs ridiculously heavy, my science book,] and itʼs really not good for me to be hauling it back and forth all the time. (Huddleston & Pullum 2002:1411) これは,代名詞を発話したが,それが何を指し示すのか,明確ではないのではないかと思い,文末 (clause-final position)に,この点をはっきりさせる名詞句等の情報を付け加える機能である。いわ ば,付け足し(afterthought)の一種である。例えば,(5a)の代名詞 he の潜在的な先行詞は my dad と my uncle の二つある。右方転移された要素 my uncle で,その指示物がいずれであるかを明確にして いる。同様に,(5b)の代名詞 it の可能な先行詞は my huge science book と this heavy backpack の二つ ある。右方転移された my science book が,この曖昧性を解消する役割を担っている。 Huddleston & Pullum(2002)が指摘する二番目の機能は,右方転移要素が談話機能上の旧情報 (discourse-old information)を表すことである。この点を,次の(6)を例に取り,考えてみよう。 (6) a. I had to take my car in for service again. [Itʼs really in bad shape, that car.] b. Dad took your old desk out to the curb to be taken away with the trash, but forgot that I had been keeping all my important papers in there. Luckily Diana checked the drawers and thought that the papers looked important, so she took them out. [*He looked them over, our attorney.] (Huddleston & Pullum 2002:1412) (6a)では,右方転移された that car は,先行談話において導入(evoked)されている。他方, (6b)で は,our attorney はこの談話において未だ登場していない新しい誰かに言及していて,この談話では 右方転移は不適切である。右方転移された要素が旧情報ではないからである。 日本語の右方転移文にも,英語と同様の談話機能上の制約が課されている。例えば,久野 3 (1978)では,日本語の右方転移文(久野(1978)では,後置文)に関して,次のような伝達機能があ ることが指摘されている。 (7) 後置文の伝達機能 後置文において主動詞の後に現われる要素は, (i)話し手が最初,聞き手にとって,先行する文脈,或いは非言語的文脈から,復元 可能であると判断して省略したものを,確認のため,文末で繰り返したものか, (ii)補足的インフォメーションを表わすもの に限られる。 (久野 1978:68) 右方転移文(後置文)は,それが現われる文脈において,右方転移(後置)要素なしでも意味が通じ る時のみ,用いることができることが指摘されている。この点を,次の(8)を例に取り,考えてみ ることにしよう。 (8) a. A: 太郎は,昭和何年に生まれた? Ba: 昭和 30 年に生まれた。 Bb: * 生まれた,昭和 30 年に。 b. A: 君は,どちらの本が面白かった。 Ba: この本が面白かった。 Bb: * 面白かった,この本が。 (久野 1978:69) (Bb)が(A)に対する応答として不適格なのは,動詞の後に現われる要素「昭和 30 年に」や「この本 が」が復元可能なインフォメーションでも,補足的なインフォメーションでもないからである。す なわち,英語と同様に,右方転移要素は,談話機能上の旧情報でなければならないことがわかる。 1.1.1. 不定名詞句の右方転移 右方転移要素は,談話機能上の旧情報でなければならないとする条件から,疑問詞が右方転移さ れることはないということが当然の帰結として導かれる。疑問詞は談話機能上の新情報(discoursenew information)だからである。 (9) a. * お宅に伺いましょうか,何日に。 b. * 昼食を食べましたか,何処で。 (久野 1978:71; cf. 高見 1995:238) (9a)では「何日に」 , (9b)では「何処で」が右方転移されているが,旧情報でなければならないとす 4 る条件に違反し,不適格である。 Gundel(1977/1974:120-121)は,英語で右方転移される要素は,左方転移と同様で,謂わば,what about x の疑問文に対する答えであり,通例,x が右方転移される要素であることを指摘している。 (10)a. It really depresses me, this room. b. What about this room? すなわち,(10b)の疑問文に対する答えとして,(10a)が適切である。一方,what about x の x に対 応していない要素が右方転移されると,非文法的であることが,Gundel(1977/1974:121)で指摘さ れている。 (11)a. What about the party on Saturday? *You better get it out before the party on Saturday, this spot in the rug. b. What about your nerves? *Heʼs beginning to get on my nerves, that dog. (11a)では,what about x の x は the party on Saturday で, (11b)では,your nerves であるが,これら の x に対応していない this spot in the rug や that dog が右方転移されているので,非文法的となって いる。これは,右方転移される要素は,旧情報でなければならないとする制約への違反である。 また,右方転移されている要素には,強勢が置かれてはならないことを,Gundel(1977/1974:121)は 指摘する。2 (12)a. *It really depresses me, THIS ROOM. b. *I swear Iʼll never be able to figure them out, WOMEN. この現象も,右方転移される要素は旧情報でなければならないとする制約への違反として,説明す ることができる。 1.1.2. 属格名詞句の右方転移 右方転移要素は旧情報でなければならないとする談話機能上の制約に関連する現象として,属格 名詞句(genitive noun phrases)の右方転移がある。Huddleston and Pullum(2002:1412)は,属格名詞句 とそれを含む名詞句が談話機能上の旧情報でなければならないことを指摘している。 2 強勢が置かれていることを示すために,大文字で表記することにする。 5 (13)a. Thereʼs John. *His whole family is obnoxious, that guy. b. Thereʼs Johnʼs goofy sister. His whole family is obnoxious, that guy. (13a)の文脈では,his whole family は談話機能上の新情報であり,右方転移要素が旧情報でなけれ ばならないという談話機能上の条件に違反し,that guy の右方転移は認められない。一方, (13b)で は,先行談話で Johnʼs sister が導入されていて,この点で his whole family は談話上の旧情報であり, 条件が満たされ,that guy の右方転移は適格である。 日本語に関して,高見(1995)は,名詞修飾辞と修飾される名詞を分け,名詞修飾辞が文末に置 かれる現象を考察し,名詞修飾要素が後置された文がすべて適格となるわけではないことを指摘す る。この点を,(14, 15)を例に取り,考えてみよう。 (14)a. 突然,2 メートルぐらいの大男が現われました。 b. 突然,大男が現われました,2 メートルぐらいの。 (15)a. 太郎が言語学の本を書いたよ。 b. 太郎が本を書いたよ,言語学の。 (14, 15)では,名詞修飾要素「2 メートルぐらいの」と「言語学の」が右方転移されて,適格である。 ここで,疑問の焦点が係わる現象を考えてみよう。 (16)A. 太郎はどの国の音楽に夢中なんですか。 B1. 彼はイタリアの音楽に夢中なんです。 B2: * 彼は音楽に夢中なんです,イタリアの。 (高見 1995:238) (16)では名詞句「どの国の音楽」の一部である「どの国の」が疑問の焦点であり,文中で最も重要度 の高い情報,すなわち,新情報である。まさに,疑問の焦点に対応する「イタリアの」を右方転移 することは,右方転移に課される制約(談話機能上の旧情報のみの右方転移が許される)に違反し ている。 1.2. 新情報としての右方転移要素 第 1.1 節では,Gundel(1977/1974) , 久野(1978) , Rodman(1997/1974), Huddleston and Pullum(2002) の右方転移要素は旧情報であるとする分析とその根拠を概観した。本節では,高見(1995), 江口 (2000) , 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007) , Nakagawa, Asao and Nagaya(2008), 綿貫(2012)の 分析,すなわち,右方転移要素には旧情報の場合と新情報の場合があるとする分析を概観すること にする。 6 高見(1995)では,日本語の右方転移文(後置文)に対する機能論的制約(17)が提案されている。 (17)日本語の後置文に対する機能論的制約:日本語の後置文において主動詞の後ろに現われる 要素は,その文中で最も重要度が高い情報を表す要素以外のものに限られる。 (高見 1995:228) (17)の仮説は,動詞の後ろに現われる要素は文中で最も重要度が高い情報以外のものであり,最 も重要度が高い情報は動詞の前に必ず現れなければならないことを示し,右方転移(後置)文を, 話し手が動詞の前で最も伝えたい重要な情報を伝達し,前半の部分で不足していたと考えられる情 報を動詞の後で追加的に述べる構文であると特徴づけている。そして,動詞の後ろに現われる要素 は最も重要な情報以外のものに限られるとする分析が提案されているが,高見(1995: 231)では, 右方転移(後置)要素は, (i)先行文脈から復元可能なもの, (ii)発話の状況から容易に理解される もの,(iii)先行文脈からも発話の状況からも復元可能ではないため,重要度の高い情報ではある が,最も重要度の高い情報としては解釈されないもの等,様々であることが指摘されている。ここ で注目したい指摘は, (iii)の場合,すなわち,先行文脈からも発話の状況からも復元可能ではない 場合でも,右方転移が認可される場合があるという指摘である。この点を,次の(18)を例に取り, 考えてみることにする。 (18)a. 明け方やっと生まれました,男の子が。 b. 太郎は花子に買ってやったよ,10 カラットのダイヤの指輪を。 c. 私言ったの,結婚したいって。 (高見 1995:236) (18)の例は,高見(1995:232, 236)によれば,先行文脈なしで唐突に発話された文として適格であ り,右方転移要素は,先行文脈や発話の状況からは復元できない場合である。さらに,文の前半部 分よりは重要度が落ちるものの,久野(1978)が指摘するような,確認のための情報ではなく,ま た,文の必須要素であるため,補足的な情報とも言い難く,重要度の高い情報であることが指摘さ れている。 江口(2000)では,久野(1978)や 高見(1995)等の先行研究を取り上げ,研究対象として分析され ていない右方転移(後置)文が存在することが指摘され,右方転移文を大きく三つのタイプに分類 する分析が提案されている。三つのタイプの右方転移文の一つ目(タイプ 1)は,久野(1978)が主 張する右方転移文であり,先行文の省略は,発話時点で,明らかなコンテクストから復元可能であ るということに基づき,省略されたものであり,後に確認のため,あるいは,文の理解に困難が生 じる可能性があると判断され,追加される構文である。このタイプ 1 は,談話的省略に基づき,基 底で生成され,旧情報を担う要素が右方転移(後置)されると特徴づけられている。右方転移文の 7 二つ目(タイプ 2)は,高見(1995)が,右方転移要素が情報の重要度が高い要素である場合がある と主張する右方転移文に対応する。このタイプ 2 の右方転移要素は, (18)の例文から,新情報を担 う要素であると特徴づけている。タイプ 1 とタイプ 2 は,右方転移文の前半が省略文であることが 共通しているが,タイプ 2 の右方転移要素は新情報であり,コンテクストから復元可能であること で省略されたのではなく,構文法的省略に基づき,基底で生成された構文であるとの分析が提案さ れている。江口(2000)が研究対象として分析されることがなかったと主張する右方転移文が三つ 目(タイプ 3)であり,久野(1978)や高見(1995)等で取り上げられることのなかったタイプの右方 転移文であるとされている。このタイプ 3 の右方転移文は,意図的な語順操作で導かれる右方転移 文であり,移動に基づき,情報の重要度の高い新情報を担う要素が右方転移される構文であるとの 分析が提案されている。この点を,次の(19)を例に取り,考えてみることにしよう。 (19)a. おい,見たぞ,おまえがあいつに車の陰で金を渡しているところを。 b. きのう真夜中に電話がかかってきたんです,あなたと同じ名前を名のる人から。 (江口 2000:84/87) 江口(2000:84/87)によれば,相手に脅しをかけるねらいでやんわりと言われた(19a),聞いている 相手に緊張感を引き起こす(19b)は,話し手が伝えたい内容を本来の語順に納める時間的余裕が十 分あり,語順を逆転させた背後には話し手の何らかの意図,すなわち,先行する部分よりもむしろ 右方転移する部分に聞き手の注意を向けようとする意図があることが指摘されている。すなわち, 情報の重要度という観点で見た時に,前半部分より右方転移要素の方が高いと考えることのできる 右方転移文であることが指摘されている。 綿貫(2012:143-144)では,右方転移(後置)される情報は省略可能な情報であると分析する久野 (1978)等の分析とは異なり,話し手の頭に最初に浮かぶ重要で緊急の情報が先に発話された結果, 副次的な情報が後に発話されるという原理を提案する Simon(1989)の分析を支持し,右方転移さ れる要素が文脈上解釈可能である場合(聞き手指向)と解釈不可能な場合(話し手指向)があるとす る分析を提案している。解釈不可能な情報が右方転移される場合,最も話したい・聞きたい情報を 発話した結果として省略された(一旦焦点から外れてしまった)情報を後置することで,その情報 を再焦点化し,話し手が自己の発話意図を充足させる機能があることが論じられている。綿貫 (2012)の右方転移文の分析において,右方転移要素には,文脈上解釈可能な情報と解釈不可能な 情報,すなわち,旧情報を担う要素と新情報を担う要素があることが指摘されている。解釈不可能 な情報が右方転移される場合を, (20)を例に取り,考えてみることにしよう。 (20) 「夏期講座の打ち上げに行きました」と応答した後の発話 話し手 B: でも−,出るから,お金が。 (綿貫 2012:144/145) 8 綿貫(2012:145)によれば, (20)は,話し手 A の発話「 (夏講(夏期講座)の打ち上げに)行ったんです か」に,話し手 B が「えー, (夏講(夏期講座)の打ち上げに)行きました」と応答した後, 「行った」理 由を述べている発話で,ここでの右方転移要素「お金が」は文脈からは解釈不可能な情報(notcontext-construable(CC) )であり,この右方転移要素が省略されると, 「出るから」だけになってし ない,聞き手は意味を理解することができなくなる。この現象は,必須な要素が後置されていて, 高見(1995)が提案する「日本語の後置文に対する機能論的制約(日本語の右方転移文において主動 詞の後ろに現われる要素は,その文中で最も重要度が高い情報を表す要素以外のものに限られる) で捉える事のできた例文(18)と同様の現象であることがわかる。 2. 2種類の右方転移文 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007)や Nakagawa, Asao and Nagaya(2008)では,右方転移文 におけるポーズの有無(中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007))やイントネーションの違い (Nakagawa, Asao and Nagaya(2008) )に基づき,右方転移文を 2 種類に分類している。 2.1. 右方転移文とポーズの有無 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007)では,英語の wh 分裂文との平行性の観点からの分析が 提案され,i)既出の情報や周囲の状況から復元可能な情報を表す要素が後置されている場合には, ポーズが置かれないのが自然であり,ii)新しい情報を表す要素が後置されている場合には,ポー ズを置かなければならないことが指摘されている。既出の情報や周囲の状況から復元可能な情報を 表す要素が右方転移された場合と新しい情報を表す要素が右方転移された場合を区別することなく 同列に扱う先行研究には不備があるとし,ポーズの有無による右方転移文の分類の必要性が論じら れている。この点を,次の(21)を例に取り,考えてみることにする。 (21)a.(=(1b) ) 本当にダメだね,君は。 b.(=(18b))太郎は花子に買ってやったよ,10 カラットのダイヤの指輪を。 c.(=(19a))おい,見たぞ,おまえがあいつに車の陰で金を渡しているところを。 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007)によれば, (21a)では,前半部分と右方転移要素の間に ポーズが置かれないのが自然であり, (21b, c)では,右方転移要素が重要な情報である限り,前半 部分と右方転移要素の間にポーズが置かれなければならない。 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典(2007)に基づき,2 種類の右方転移文の諸特性を整理すると, 次のようにまとめることができる。3 3 強勢が置かれていることを示すために,ゴシック体で表記することにする。 9 [ A ]強勢を置くことができる ・ポーズが置かれない右方転移文 (22)a.?? かわいいねこれは。 b.?? それは違うと思うんです私。 ・ポーズが置かれる右方転移文 (23)a. いちばん走るのが速いよ,次郎が。 (総記のガ) b. 犯人だよ,次郎が。 (24)a. おいしいです,これは。 (対比のハ) b. そう思います,私は。 [ B ]質問の答えになる ・ポーズが置かれない右方転移文 (25)a. それで次郎はどうしたの?走って逃げたよ次郎は b. それで誰が走って逃げたの? # 走って逃げたよ次郎{が / は}。 (総記のガ;対比のハ) ・ポーズが置かれる右方転移文 (26)a. 山田さん,いつ旅行に行ったの?どこに? b. A: 誰がいつハワイ旅行に行ったの? B: 鈴木さんが行ったらしいよ,この間。 [ C ]総記のガ;対比のハ ・ポーズが置かれない右方転移文 (27)a. * いちばん走るのが速いよ次郎が。 (総記のガ) b. * 犯人だ次郎が。 (28)a. # おいしいですこれは。 (対比のハの意味がなくなる) b. # そう思いますわたしは。 ・ポーズが置かれる右方転移文 (29)a. いちばん走るのが速いよ,次郎が。 (総記のガ) b. 犯人だよ,次郎が。 (30)a.(あれはまずいけど)これはおいしいです。 (対比のハ) a'. おいしいです,これは。 b.(他の人は知らないけど)私はそう思います。 b'. そう思います,私は。 (22-30)で示された諸特性から,ポーズが置かれない右方転移文では,i)後置要素には強勢を置く 10 ことができない(22) ,ii)質問の答えになれない(25),iii)総記のガ(焦点)を後置することはでき ない(27) ,iv)対比のハを後置することはできない(28)ことがわかる。他方,ポーズが置かれる右 方転移文では,i)後置要素に強勢を置くことができる(23, 24),ii)疑問の焦点や質問の答えを後置 することができる(26) ,iii)総記のガや対比のハを後置することができる(28, 30)ことがわかる。 このことから,久野(1978)が分析対象としている右方転移文と高見(1995)や江口(2000)が分析対 象としている右方転移文は明確に峻別されなければならない構文であることがわかる。 2.2. 右方転移文とイントネーション Nakagawa, Asao and Nagaya(2008:22)では,右方転移文の情報構造に対して,イントネーション の違いに基づく考察が加えられている。そして,右方転移文の情報構造は,前置要素と後置要素の 音声的特徴に基づき,2 種類に分類することができるとする分析を提案している。そして,i)前置 要素と後置要素が 1 つのイントネーション曲線からなり,前置要素にのみ,ピッチと音量の上昇が 見られるタイプの右方転移文(後置要素下降型)の後置要素は旧情報であり,ii)前置要素と後置要 素がそれぞれ独立のイントネーション曲線からなり,それぞれにピッチと音量の上昇が見られるタ イプの右方転移文(後置要素山型)の後置要素は新情報であることを明らかにした。この点を, (31)を例に取り,考えてみることにする。 (31)後置要素下降型: a. 本当に だめだね 君は。 b. やって あげましょう 私が。 後置要素山型: a. あたし言ったの 結婚したいって。 (cf. 高見 1995: 232) b. 山田さんって お土産に 何を買ったの?誰に? (Nakagawa, Asao and Nagaya 2008:6) (31)から明らかなように,旧情報を伝える後置要素を伴う右方転移文(後置要素下降型)では, ポーズが置かれることがなく,単一の音調(a single coherent contour)で,主節にのみピッチの高み (pitch and intensity rise only in the main clause)が置かれる。他方,新情報を伝える後置要素を伴う右 方転移文(後置要素山型)では,前置要素と後置要素の間にポーズを伴う二つの異なる音調(two distinct coherent contours)で,後置要素と主節の両方にピッチの高みが見られることがわかる。 また,このような対立に基づき, (32, 33)の話し手 A に対する発話 B と発話 B' の違いに説明を与 えることができる。 (32)A: あのお寿司屋さん 美味しい?( 「米」は新情報) 11 B: ?? 美味しいよ 米は。 (後置要素下降型) B': 美味しいよ 米は。 (後置要素山型) (33)A: 僕 米 嫌い。 ( 「米」は旧情報) B: 美味しいよ 米は。 (後置要素下降型) B': ? 美味しいよ 米は。 (後置要素山型) (Nakagawa, Asao and Nagaya. 2008:7) (32)の話し手 A と B との発話では, 「米」は新情報であり,(32B')のように,前半部分と後置要素 のそれぞれに音調曲線が生じる後置要素山型でなければならない。 (32B)のように,ピッチの高み が置かれない後置要素下降型は許されない。他方,(33)の「米」は旧情報である。文法性は(32)と は逆で,後置要素にピッチの高みが置かれない後置要素下降型でなければならない。(33B')のよう に,後置要素山型で強勢が置かれることは許されないのである。 3. 結語 本稿では,i)Gundel(1977/1974) , 久野(1978) , Rodman(1997/1974), Huddleston and Pullum(2002) の右方転移要素は旧情報であるとする分析と ii)高見(1995), 江口(2000), 中川奈津子・浅尾仁彦・ 長屋尚典(2007) , Nakagawa, Asao and Nagaya(2008), 綿貫(2012)の右方転移要素には旧情報である 場合と新情報である場合があるとする分析を概観した。特に,中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典 (2007)や Nakagawa, Asao and Nagaya(2008)のポーズやイントネーションの違いに基づき,2 種類の 右方転移文を区別する必要があるとする分析は,新たな観点からの重要な研究成果であるように思 われる。今後は,2 種類の右方転移文の違いが何から導き出されるものであるのかを明らかにする 必要がある。 参考文献 Abe, Jun. 2004 . “On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation,” Proceedings of the 58 th Conference, 54-61, The Tohoku English Literary Society. 江口 巧 2000.「日本語の後置文 ─情報提示の方略 ─」 『言語文化論究12』81-92, 九州大学大学院言語文化研究院 Endo, Yoshio. 1996. “Right Dislocation,” Formal Approaches to Japanese Linguistics 2(MIT Working Papers in Linguistics 29) , 1-20. Fukutomi, Yasuyuki. 2006. “An Antisymmetric Analysis of Japanese Right Dislocation,”『言葉の絆(藤原保明博士還暦 , 312-325, 開拓社 記念論文集)』 Gundel, Jeanette K. 1974. Role of Topic and Comment in Linguistic Theory, Doctoral Dissertation, Ohio State University . (Reproduced by the Indiana University Linguistics Club, 1977) Haraguchi, Shosuke. 1973. “Remarks on Dislocation in Japanese,” ms., MIT. Huddleston, Rodney, and Pullum, Geoffrey K. 2002. The Cambridge Grammar of the English Language, Cambridge: Cambridge University Press. 久野 瞕 1978.『談話の文法』大修館書店 12 黒木暁人 2006.「日本語右方転移文の構造について:左方移動分析の観点から」Scientific Approaches to Language 5, 213-231, Center for Language Sciences, Kanda University of International Studies. 中川奈津子・浅尾仁彦・長屋尚典 2007.「日本語における右方転移構文と分裂文の機能」日本言語学会第135回大 会ポスター発表 Nakagawa, Natsuko, Asao, Yoshihiko, and Naonori Nagaya. 2008. “Information Structure and Intonation of Right-Dislocation Sentences in Japanese,” Kyoto University Linguistic Research 27, 1-22. Rodman, Robert. (1997)“On Left Dislocation,” Materials on Left Dislocation, 31-54, edited by Elena Anagnostopoulou, Henk van Riemsdijk, and Frans Zwarts, Amsterdam: John Benjamins.(Papers in Linguistics 7, 437-466, 1974) Simon, Mutsuko Endo. 1989 . An Analysis of the Postposing Construction in Japanese, Doctoral Dissertation, the University of Michigan. 高見健一 1995.『機能的構文論による日英語比較 ─受身文,後置文の分析─』くろしお出版 綿貫啓子 2012.「後置文の意味機能から探る話し言葉の生成のしくみ」Scientific Approaches to Language 11, 137158, Center for Language Sciences, Kanda University of International Studies. 13 フレデリック・ダグラスとジョサイア・ヘンソン ―― 十九世紀中葉の「反抗的な奴隷」像に関する一考察 ―― 1 堀 智 弘 はじめに 十九世紀米国の「聖書に次ぐ」2 大ベストセラーとなった反奴隷制小説『アンクル・トムの小屋』 (Uncle Tom’s Cabin)が一冊の本として世に出て一年後の 1853 年、作者ハリエット・ビーチャー・ ストウ(Harriet Beecher Stowe)は、この小説が南部奴隷制の現実を歪曲しているという批判に応 えて『アンクル・トムの小屋への鍵』 (A Key to Uncle Tom’s Cabin)を出版する。同時代の多くの逃 亡奴隷体験談の抜粋集ともいえる『鍵』において、ストウが小説のタイトルともなった従順な奴隷 アンクル・トムのモデルのひとりとして挙げているのがジョサイア・ヘンソン(Josiah Henson, 1789-1883)である(26-27) 。ヘンソンは 1849 年に自身の逃亡奴隷としての経験を書いた『ジョサ イア・ヘンソンの生涯』(The Life of Josiah Henson)を出版していた。彼がアンクル・トムのモデル として一躍有名になると、彼の逃亡奴隷物語は大幅に加筆され、 『フィクションよりも奇妙な真実 ―ヘンソン神父が語る自身の生涯』 (1858 年)という新たな題名とストウの序文を付けられて、こ 3 の高名な元奴隷のことをもっと知りたいと望む読者たちに向けて送り出されることになった。 しかしながら、『アンクル・トムの小屋』で広まった白髪の好々爺という先入観をもって第一作 『ヘンソンの生涯』を読んでみると、4 そこで描かれている人物にどこか違和感を抱かずにはいら 『ヘンソンの生涯』の奴隷制と格闘する主人公が青年期から四十代初めに れない。5 それは単に、 かけての若々しい人物だからというだけではない。若きヘンソンが、アンクル・トムがみせるよう な主人に対する完全な服従という期待を裏切って、自暴自棄なまでの攻撃性を垣間見せることがあ るからである。この抑圧しきれない攻撃性において、ヘンソンは、ストウが模範的な奴隷として祭 り上げるには口を濁すほかなかったフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass, 1818-95)に近似 する。ストウがアンクル・トムのモデルとしてダグラスよりもヘンソンのことを前面に押し出した がるのは、後で論じるように、この二人の元奴隷のキリスト教への態度の違いによるところが最も 大きいと考えられるが、6 この選別によって覆い隠されるのは反抗的な奴隷としてのヘンソンの横 顔である。そこで本稿では、ヘンソンの逃亡奴隷物語のなかでも最大のクライマックスとなってい る主人殺害計画を経て逃亡を決断するまでの過程に特に焦点を合わせ、ダグラスの 1845 年の逃亡 奴隷物語のなかの類似する記述と比較することを通して、 『アンクル・トム』以後の奴隷表象では 見えにくくなってしまったヘンソンやその他の奴隷の経験の不可欠な一側面を浮き彫りにしてみた 15 い。そうすることで十九世紀半ばのアメリカを南北戦争へと突入させることになる社会的葛藤の多 面的な内実を知るてがかりとなるであろう。 『ジョサイア・ヘンソンの生涯』は、奴隷制廃止運動の盛り上がりと歩調を合わせた逃亡奴隷物 語(slave narrative)出版ブームのさなか、7 ダグラスの第一自伝『フレデリック・ダグラスの生涯 の物語』 (Narrative of the Life of Frederick Douglass)から四年おくれて出版された。同年代に出版さ れた二作品であるが、ヘンソンの体験談がダグラスのそれと違う最大の点は、前者は宗教的な改宗 物語としての性質を色濃くもっているのに対して、後者はむしろ南部奴隷制といういわば「神なき 世界」の剥き出しの暴力をどのように生き抜いたかを主題としている点である。奴隷が自由を獲得 する過程において、宗教的な意識の目覚めと読み書き能力の獲得は大きな意味をもつが、ヘンソン とダグラスではこの二つの契機への比重の置き方が異なっている。ダグラスがその第一自伝で力説 してやまないのは、自身の宗教経験よりもむしろ、南部における奴隷制度とキリスト教会との共謀 関係である。ダグラスは『生涯の物語』の第九章で、三人目の主人トマス・オールドがメソジスト 派の教会に通い始めたことで起こった変化について述べている。オールドは、生まれが貧しく、も ともとは船以外の財産をもっていなかったが、妻が相続した遺産によって奴隷を所有するように なった。奴隷たちから「ご主人様」ではなく「オールド船長」と呼ばれていたように、ダグラスの 記述によれば、オールドは横暴であるが、主人にふさわしい資質が欠ける人物だとみなされていた ようである(51)。そんなオールドが分不相応な奴隷所有者としての役割を果たす上でイデオロ ギー的な支えとなったのが、南部キリスト教である。当時十五歳のダグラスは、8 横暴な主人が宗 教を得ることで少しは優しくなるのではという淡い期待を抱いていた。しかしこの期待は完全に裏 切られる。宗教はむしろ主人の残忍さを助長することになったのだ。 もしそれが彼の性格に対してなんらかの効果を与えたのだとしたら、それは彼をあらゆる面で より残忍で忌まわしいものにした。というのも、改宗以前よりも以後の方が、彼はずっと悪い 人間であったと私は思うからである。改宗の前には、彼がその粗暴な野蛮さのなかで自分を守 り保つために頼りとなっていたのは、自分自身の堕落であった。しかし改宗の後は、彼は宗教 のなかにその奴隷所有者としての残忍さを肯定し支えてくれるものを見つけたのだ。 (52) これ以後、トマス・オールドは熱心なキリスト教徒と酷薄な奴隷主人の両方として仕事に励むこと になる。 こうしたキリスト教信仰と奴隷所有の労働倫理との奇妙な結合は、9 続く第十章で登場するエド ワード・コヴィにおいて不気味なまでの体現をみる。反抗的な態度をやめようとしないダグラスに 手を焼いたトマス・オールドは、同じ地域のメソジスト派教会のなかで有能な「奴隷調教師」とし て知られていたコヴィのもとにダグラスを送り込む。教会員としてのコヴィの熱心さは周知のこと であり、「時として彼以上に信心深くみえる人はほとんどいなかった」ほどであった(57)。同時 に、彼はダグラスたち奴隷を朝から晩まで「忍耐の限界まで」働かせ、常に監視の目を怠らなかっ 16 た(56)。「自分は最高の神の偽りない崇拝者であるという荘厳な確信」を抱くコヴィの揺るがざる 自己欺瞞は、ダグラスにとっては、 「全能の神を欺くことができる」という甚だしい思い上がりと ほとんど異なるところがないものとうつる(57) 。奴隷所有の論理を宗教的信仰心と同等の厳格な 労働倫理にまで高めることに成功したコヴィは、ダグラスにとって最強の敵としてあらわれる。 六ヶ月にわたってコヴィから迫害を受けた結果、ダグラスは「身も魂も心も」完全に飼いならされ てしまう(58)。このどん底の状態からダグラスがいかにして立ち上がってコヴィに反撃し、 「奴隷 制という墓から自由という天国への栄えある復活」 (65)を果たすのかはよく知られるところであ るが、南部キリスト教と奴隷制との共犯関係についてダグラスはこのように結論づけている。「南 部の宗教は最も恐ろしい犯罪を覆い隠すものでしかない(…) 、奴隷所有者の最も暗く、最もあさ ましく、最も甚だしく、最も極悪非道な行いが最も強力な庇護を見つける暗い避難所である。 (…) 私がこれまで会ったすべての奴隷所有者のなかで、信仰心厚い奴隷所有者こそが最悪である。すべ ての奴隷所有者のなかで彼らは最も卑劣で下等で、最も残忍で臆病であった」 (68)。社会的弱者で ある黒人奴隷がキリスト教への容赦ない批判をここまで公然と行うことは異例であり、社会的孤立 の大きな危険性を伴うものであった。そのため、ダグラスは『生涯の物語』の末尾に、南部キリス ト教とキリスト教一般はまったくの別物であるという自身の立場を明確にする追記をわざわざ入れ て攻撃の矛先を弱めている(97-102) 。しかし、ダグラスの自由獲得の物語において宗教の果たす 役割は見過ごすことができないことは確かだとしても、それはもう一つの重要な契機、つまり読み 書き能力の習得に比較するとあくまで両義的な地位にとどまっている。 宗教的意識の覚醒という出来事を枠づけるかのように、10 ダグラスが自身の自由獲得への道すじ における最大の道標として提示しているのが、読み書き能力の獲得である。八歳から十五歳までの 七年間にわたるボルチモア時代に主人の妻ソフィアにアルファベットを教えてもらったのに始ま り、家から持ち出したパンと交換に貧しい白人の少年たちから「知識というより貴重なパン」 (41) をもらう、あるいは模範的演説集『アメリカの演説家』 (The Columbian Orator)を自分で購入する など、地道な練習を根気強く積んでいった結果、逃亡のための通行許可証を自分で偽造できただけ でなく、自身の『生涯の物語』を自分の手で書けるようにまでなる。こうした一連のエピソードが 示唆するのは、ヘンリー・ルイス・ゲイツが指摘するように、ダグラスにとって(そして他の多く の奴隷にとって)「力は読み書き能力のなかにあった」ということである(Gates 108) 。 自分の物語を自分の手で綴ることのできたダグラスとは対照的に、ヘンソンは文字を書くことが できず、白人の協力者に口述筆記してもらわなくてはならなかった。11 ダグラスにおいては読み書 き学習の開始と宗教意識の目覚めは幼年期から思春期にかけてのほぼ同時期に起きて、しかも力点 は前者に置かれているのに対し、ヘンソンの場合は読み書きを学び始めるのは 1830 年にカナダに 逃亡して以降のことである。この時すでに齢四十を超えていたヘンソンは、幼い自分の息子に読み 書きを教わるという実に涙ぐましく印象深いエピソードを語っている(Henson, Life 62-66) 。 読み書き訓練とは対照的に、ヘンソンが宗教体験をするのはダグラスの場合とさほど変らない青 17 年期であった。ヘンソンは 1789 年に十九年後のダグラスと同じくメアリーランド州に奴隷の両親 のあいだに生まれた。ダグラスが幼年期を過ごしたタルボット郡は南北に長いチェサピーク湾の東 岸に位置するのに対し、ヘンソンが生まれたチャールズ郡、そし彼が後に移ったモンゴメリー郡は いずれもチェサピーク湾の西側、ポトマック川沿いのワシントン D.C. 近郊にある。ヘンソンは若 い頃から屈強な体格に恵まれ、十五歳にして「農場でなされるすべての仕事に長け、わたしのまわ りにいる誰よりも早く遠く走れ、長いあいだ取っ組み合いができ、高く跳べた」と記している(7)。 ヘンソンがたくましい青年へと成長しつつあった十八歳の時に、彼が働く農園から数マイルの距離 にあるジョージタウンでキリスト教の説教をはじめて聞いたことが大きな転機となる。説教をして いたのは同地に住むジョン・マッケニーという名のパン職人で、彼は敬虔なキリスト教徒としての みならず、奴隷制に断固として反対する人物としてもよく知られていた。12 ヘンソンが特に感銘を 受けたのは、説教師が「ヘブライ人への手紙二章九節」から「神の恵みによって、 [イエスは]す べての人のために死んでくださったのです」という一節を引いて、救済は選ばれた少数だけでな く、自由人にも奴隷にも平等に訪れると説いたことであった。そんな説教師の話を聞いていると、 「私の心臓は私のなかで燃えさかる」までになった。そしてキリストのような立派な人物が「私の ために死ななければならなかったということ――他の人々のなかでもこの私、貧しく軽蔑され虐待 されている奴隷、仲間の人間たちによって報われない労働と無知以外の何にもふさわしくない、精 神と身体の退廃にしかふさわしくないと考えられている奴隷のために死ななければならなかったと いうこと――を考えると私はこれ以上ない興奮を感じた」 (12)。説教からの帰り道においてもヘン ソンの興奮は覚めやらず、彼は「道から外れて森のなかに入り、光と助けを求めて神に祈った」ほ どであった。ヘンソンは、自身の改宗と「新たな生への覚醒」 、つまり「私がそれまで考えたこと のあるどんなものよりも貴い力と運命についての意識」がこの日に始まったとしている(13) 。 十八歳のヘンソンの「新たな生への覚醒」は、それが物語のなかでもつ中心性において、十六歳 のダグラスの「奴隷制という墓から自由という天国への栄えある復活」を思い起こさせる。ただ大 きく違うのは、ヘンソンの覚醒は純粋に個人の宗教的意識の領域に限定されていて、現実に存在す る奴隷制については言うべきところがない(したがって奴隷制を容認する余地を残す)のに対し、 ダグラスが奴隷調教師とじかに拳を交えた結果に達成した「復活」は、奴隷制に力で抵抗すること を正当化、もしくは称揚さえする含みをもっていることである。この違いは、彼らの語る物語が 「あの世」での神との関係に力点を置いているのか、それとも「この世」での自由の達成を焦点と するのかという点に大きく関わってくる。ストウ婦人がダグラスよりもヘンソンをモデルとして好 んだのも、奴隷制度廃止のメッセージを奴隷の暴力というあまりに差し迫った危険性から遠ざけ て、神への信仰に基礎づけるためであっただろう。 ヘンソンとダグラスを比較する上でもうひとつ注目に値するのは、ヘンソン自身もダグラスと同 様の白人の奴隷監督との暴力的な衝突を経験しているが、そのきっかけもその帰結もダグラスの場 合とは大きく異なっているという点である。ヘンソンが十九か二十歳の頃にその出来事は起こる。 18 当時、休日になると、周辺の奴隷所有者たちは酒場に集って酒とギャンブルに一日中ふけることが 常であった。そうした際に、酔いつぶれた主人を家に連れ帰り、けんかが起きた場合には主人を助 け出す付き添い役にヘンソンは任命されていた。その日も、主人が近隣の農園のブライス・リット ンという名の奴隷監督と口論になり、ヘンソンが制止に入ったのだが、力のはずみでリットンを床 にはねとばしてしまう。このことを根に持ったリットンは、一週間ほどたったある日、三人の奴隷 を連れて、一人でいたヘンソンを襲撃する。ヘンソンは数で勝る襲撃者の攻撃をしばらくはしのい でいたが、最後は倒れてリットンから杭でめった打ちにされてしまう。彼はなんとか命を取り留め たものの、この襲撃で右腕と左右両肩甲骨の骨折を含む瀕死の重傷を負い、仕事に復帰するまで 五ヶ月の休養を必要とした(Life 13-18; Autobiography 27-30)。この場面は、ヘンソンの改宗物語の なかでも際立った描写の鮮明さと血なまぐささで、ダグラスのコヴィとの戦いを想起させる。ただ し、ダグラスの戦いで血を流すのはもっぱら対戦相手であるのに対し( 「私の指先で彼に触れた箇 所では血を流させた(中略)彼が私から流血させることはなく、私が彼から流血させたのだ」 ) 、ヘ ンソンの場合は血を流すのは逆に彼自身だけである( 「それ[ヘンソンに対する殴打]はたくさん流 血させた(中略)私の口からたっぷりと血をほとばしらせた」) (Douglass, Narrative 64-65; Henson, Life 17) 。さらに、ダグラスの戦いは彼自身の自由獲得の願望に起因していて、実際に自由達成の ための不可欠な一段階となっているのに対し、ヘンソンが戦いに巻き込まれたのはそもそも身勝手 な主人を守るためであり、それが彼にもたらしたものも「この日から現在まで両手を自分の頭まで 上げることができなくなってしまった」という奴隷制の負の刻印であった(Henson, Life 18)。 改宗物語として書かれた『ヘンソンの生涯』は、ダグラスの物語といくつものモチーフを共有し ながらも、それらの要素を異なった枠組みのなかに置いている。上で言及したような、若い奴隷の 閉ざされた闇からより高い意識への覚醒や、奴隷制の暴力を体現する人物との格闘はいずれもそう した共通の要素として数えることができる。ダグラスと比類する顕著な要素としてもう一つ挙げら れるのが、ヘンソンが決定的な決意へと至るまでの一連の場面である。ダグラスの場合は彼を服従 させようとする者に対して「戦うことを決心した」というのが、彼が自由を獲得するための長い苦 闘の道のりのなかで、大きな転機となっていた(Douglass, Narrative 64)。これに対して、ヘンソン において最も決定的な「荘厳な決意」が訪れるのは、忠実な自分を深南部に売り払おうとする不条 理な主人を殺さなくてはという自身の衝動を克服して、「自分自身を神のご意志にゆだね」た瞬間 である(Henson, Life 43) 。以下ではこの決意までの経緯をみてみたい。 リットンに襲撃されて生涯癒えない傷を負ったヘンソンであったが、それ以外の面では奴隷とし てはまれにみる充実した生活を送っていた。彼は仲間からのみならず主人からも信頼され、若くし て農場の監督役に抜擢される。二十二歳の時には近隣の農場に属するシャーロットという名の奴隷 と「結婚」13 し、十二人の子宝にも恵まれ、うち八人が大人になるのを見届ける。奴隷としては波 風の少ない生活を送っていたヘンソンに大きな転機が訪れたのは 1825 年、彼が三十代半ばの時で ある。主人アイザック・ライリーが義理の兄弟との訴訟に負けてしまい、奴隷を含む彼の財産が没 19 収されるのを逃れるために、ケンタッキー州に住む別の兄弟のところにヘンソンの妻と二人の子供 を含む二十名あまりの奴隷たちを連れて行くようにヘンソンに命じたためである。主人の言いつけ に従って出発したヘンソンとその一行は、途中、自由州であるオハイオ州のシンシナティを通りか かった際、そこに住む黒人たちから自由領土に留まり自由の身分を享受するように説得される。し かしヘンソンには「自由のためでさえ犯したくない名誉の感情」があり、主人から任せられた任務 を忠実に果たすことを選ぶ。彼は言う、 「私は自分の家族、私の仲間、そして私自身を、少しの危 険もなく、誰にも不正義を働くことなく解放することができただろう。誰にもというのは、私たち のうち誰一人として愛する理由のない者、長年にわたって私たちに対する残酷と抑圧の咎のある 者、そして私たちあるいは私たちのような境遇にいる誰に対しても少しの同情の様子も見せたこと 。つまりヘンソンは主人が彼の感じる義務感に値しない のない者を除いて、ということであるが」 人物であり、仮に自分が他の奴隷を率いて逃亡しても非道な主人に対する「正しいと呼んでもよい かもしれない応報」だと認めてはいたが、それは主人との約束を破る理由にはならないと考える。 応報とは結局のところ「私が負わせる罰ではない」のだから(23-24)。 ヘンソンがここで義務や正義といった概念を強調しているのは、彼の逃亡奴隷物語の根底に一貫 して流れている神への信仰と忠誠という主題を示唆する。神への信頼を頼りにこの最初の大きな試 練をなんとかくぐりぬけたヘンソンであったが、彼の忠誠心を試すより困難な試練が待ち受けてい た。ヘンソンら一行が主人の兄弟エイモス・ライリーの待つケンタッキーの農場にたどり着いて三 年ほど経ったある日、ヘンソンは主人アイザックから一通の手紙を受け取る。それはヘンソンに、 彼がケンタッキーに引き連れてきた奴隷たちを売って、それで得た利益をアイザックのもとへ持っ て帰るよう命じる手紙であった。ヘンソンは、自分が他の奴隷たちをケンタッキーに連れてきたが ために、長年の仲間である彼らが売られてしまうのを見届けなくてはならないことに少なからず良 心の呵責を感じながらも、任務を忠実に果たすことにする。メアリーランドへの旅の途中、メソジ スト教会のとある白人の説教師の協力によって、彼はさまざまな場所で説教を行い、そのたびに謝 礼金を得られたことから、自分の自由を買うという昔から抱いていた希望が彼のなかでにわかに現 実味を帯びるようになる。そこで主人アイザックのもとに着くと、ヘンソンは所持金 275 ドルと馬 を売って得たお金を合わせた 350 ドルを元手にして、450 ドルで自由を買う約束を主人から取り付 ける。不足分の 100 ドルをこの先支払うという条件付きであるが、ヘンソンが念願の解放証書を得 たのは 1829 年の三月、あと数ヶ月で四十歳になろうかという時である。しかし、喜び勇んで妻と 子供たちがいるケンタッキーに戻ると、彼は耳を疑うような話を聞くことになる。エイモスがアイ ザックから受け取った手紙によれば、ヘンソンがアイザックに支払わなくてはならない額は 100 ド ルでなくて、650 ドルだというのである。ヘンソンには彼の正しさを証明してくれる人がまわりに 誰一人いなかったため、この不当な金額を受け入れる他なかったが、エイモスの農場にいる限り 650 ドルを稼ぐというのはほとんど不可能である。アイザックが仕掛けた「卑劣で見たところ取り 返しのつかない計略」はヘンソンを深い怒りと絶望におとしいれる。彼は言う、 「そのような卑劣 20 な行為に対する私の深い感情を表現するのに、憤慨というのは弱い言葉である」 (35)。しかしどう しようもない失意に駆られながらも、ここでも彼は試練をなんとか乗り越える。あらためて「神を 信じ、絶対に絶望しないと決意」するのである(37) 。 ところがヘンソンの試練はこれで終わりでなかった。ケンタッキーに戻って一年ほど経ったある 日、エイモスはヘンソンに、彼の二十一歳の息子エイモス(同名)に付き添って船で川を下り、深 南部ルイジアナのニューオリンズで貨物を処分する手伝いをするように命じたのだ。これが何を意 味するかはヘンソンにとってあまりに明らかであった。彼は自分の身がニューオリンズで貨物と一 緒に売られることを確信する。ニューオリンズはミシシッピ川のはるか下流に位置する町であり、 奴隷たちにとってそこに送り込まれることは奴隷制から抜け出せる可能性がほぼゼロになることを 意味していた。ニューオリンズへ向かう船のデッキの上を歩きまわりながら、ヘンソンが自分の悲 運について考えを巡らせていると、ある暗い考えが彼のなかで頭をもたげてくる。温厚なアンク ル・トムのモデルであるはずのヘンソンが、まったく違う相貌をみせる瞬間である。 アイザックとエイモスのために私がしてきたすべてのことの後で、 (…)彼らへの私の要求に 対する彼らの完全な配慮のなさ、そして自らの利益と思われることのためにいつでも私を犠牲 にしようとする際の彼らのひどい身勝手さのこのような証拠を見るにつけ、私の血は怒りと虫 けら根性に満たされるほど煮えくりかえり、私を活発で、言うならば感じのよい気性の人物か ら、野蛮でむっつりして危険な奴隷に変えた。私は屠殺へと羊のようにおとなしく向かってい たわけでは全くなく、日々自分が凶暴になっていくのを感じていた。 (…)私は制御できない 憤怒でますますかき乱されるようになっていった。 (…)私は自分自身に言った。 「 (…)私に 感謝を示してくれる友人であるはずの私の主人と所有者たちによって、私の命が縮まるに違い ないだけでなく、より惨めになることも違いない場所と環境へと私は連れて行かれようとして いる。もしこの悪行を防ぐことができるならば、彼らの命を縮めることで、あるいはこのよう な忌むべき不正義をなすための彼らの手先の命を縮めることで、どうして防いではならないの であろうか?(…)私が彼らを始末して逃げる方法はたくさんあるし、そのための最初のよい 機会に乗じたとしても許されるはずだと感じる。」こうしたことはただ単に私の心の目をかす めて消えてしまう考えではなかった。こうしたことは、あらわれるたびにますます大きくな り、ますますしっかりとしたようにみえる形をとっていった。そしてついに、この幻の影を確 固たる現実に変えることに私の心は定まった。四人の同伴者を殺し、ボートにあるだけの金を (40-42) とり、船を沈めて、北部に逃げようと私は決心した。 ミシシッピ川を下る船上でのヘンソンのこの決意は、ダグラスがコヴィに完全に屈服させられた後 にチェサピーク湾に浮かぶ無数の船に向けて発した嘆きのことばを想起させる。ダグラスは、湾を 自由に滑走する船たちに比べて自分の奴隷としての惨めな境遇を嘆きつつも、まさに独白すること を通して、悲嘆を逃亡への新たなる決意に変えていた(Narrative 59)。両奴隷がたどったこの決意 への過程は、どん底の状態にありながら考えを心のなかで反芻することを通して行動への意思を固 21 めるという点で比類しうると言っていいだろう。しかし決定的に違うのは、ヘンソンの決意は、奴 隷制から逃れる決意というよりも、彼の自由を奪おうとする者を殺す決意であるという点である。 ダグラスの独白において主役を演じていたのが自由への意思だとしたら、ヘンソンの独白で他を押 しのけて主役の座に躍り出てくるのは抑えのきかない怒りと殺意である。14 しかしこの殺害への決意はヘンソンにとって最終的な決断ではないことが後に判明する。彼に とって真の決意が訪れるのは、ニューオリンズまであと数日のある晩、彼が船内で眠るエイモスに 忍び寄り、斧を手にとって計画を決行しようとした時である。ヘンソンはそれまで、殺害は「自己 防衛だ――他の人が私を殺すのを防ぐためだ――それは正当化されうる、称賛にさえ値する」と考 えていた。しかし斧を振り下ろそうとした瞬間、 「なんと、殺人を犯すというのか!おまえはキリ スト教徒なのに?」という声がどこからともなく聞こえ、ヘンソンは踏みとどまる。彼は「それま でそれを殺人と呼んだことはなかった」が、この時、自分がしようとしていることが「犯罪である という真実」がはっきりと「耳にささやかれるのが聞こえた」ので、「聴くために振り向いた」ほ どであった。これをきっかけに、ヘンソンは自分の意思を劇的に反転させる。彼は殺害計画を深く 恥じ、「神の意志に身を委ね、可能であれば感謝をもって、しかしどんな場合でも恭順さをもっ て、神がどんなものを私の命運と決めようともそれを受け入れる荘厳な決意」を固める(42-43)。 かくして主人殺害という「幻の影を確固たる現実に変える」ヘンソンの決意は、それ自体が怒りと 絶望によって生み出された「幻の影」 、つまり一過性の過ちであったことが判明し、それにかわっ て敬虔なキリスト教徒として運命をただひたすら受け入れることこそが、彼が揺らぐことのない意 志をもって「確固たる現実」に変えるべき正しい選択であることが明らかにされる。 ストウがヘンソンをアンクル・トムのモデルだと言う時、彼女が念頭に置いているのは、主人の 殺害を決意したヘンソンではなく、殺害計画から劇的に身を翻して神の意志を受け入れることを覚 悟したヘンソンであることは明らかである。しかし彼女が『アンクル・トムの小屋への鍵』で後者 の場面のみにスポットライトを当てていることは(Stowe, Key 26-27)、ヘンソンの同じくらい雄弁 で強く訴えかけてやまない別の顔から語る声を奪うことになっていないだろうか。ヘンソンはスト ウが示唆するようにアンクル・トムと近親性を有するだけでなく、実はストウの小説のなかでトム 15 とは対極に位置する反抗的な奴隷ジョージ・ハリスとも連続性を有していないだろうか。 宗教者としてのヘンソンの物語に埋め込まれた反抗的な奴隷としてのヘンソンの横顔を考える上 で注目に値するのは、この物語の冒頭に置かれたある痛切なイメージである。それはヘンソンの幼 少期の最初の記憶として提示されている父親の凄惨な姿である。ある日、ヘンソンの父親は、ひど くむち打たれ、右耳を切り取られ血まみれになって帰宅してくる。ちょうど十数年後のヘンソンが 奴隷監督のリットンから「白人を殴ることはどういうことなのか学ばせる」という名目で瀕死の重 傷を負わされたように、ヘンソンの父も白人を殴ったためにメアリーランド州法に則って処罰され たのだ(17, 1) 。この出来事をきっかけに父親は「人好きのする気性の人物」から「違った人物」 へと、 「陰鬱で反抗的で扱いにくい」奴隷へと変貌を遂げてしまう(2) 。父親の劇的な変化、そし 22 てそれに続く深南部アラバマへの売却は、ニューオリンズに向かう船の上で「野蛮でむっつりとし て危険な奴隷」になりつつあったヘンソン自身の運命を予兆するものであり、ヘンソンの改宗物語 の根底に鳴り響く不気味な副旋律となっている。 そしてこの副旋律はいつでもヘンソンの生涯の物語を支配する基調音となる可能性があった。彼 がニューオリンズで売られるのをかろうじて逃れることができたのは、貨物が売られて翌日にはヘ ンソンも処分されるという寸前で、同伴する主人の息子エイモスがたまたま病気になったからであ る。この出来事によって「局面は一転」する(45)。それまでヘンソンの生死は主人の思惑次第 だったのが、今度は主人の生死がヘンソンの行動いかんにかかってくるようになったのである。遠 く離れた深南部の見知らぬ地で見放さないでほしいという主人の懇願を聞き入れて、ヘンソンはミ シシッピ川をさかのぼる蒸気船にエイモスを乗せ、つきっきりで看護をする。瀕死のエイモスを無 事生まれ故郷へと送り届けたことで主人たちからはたいへんな賞賛を受けたヘンソンであったが、 「私の美点は、それがどんなものであろうと、同情あるいは私への何らかの愛情を呼び起こすかわ りに、彼らにとっては私の市場価値を増すだけ」ということを再認識して、ついに逃亡を決意す る。自分が今回助かったのは、 「神意」 (Providence)によるのかもしれないが、 「私はこのような稀 な状況が繰り返されると期待することはできなかった」 (47)。ここでもヘンソンの神への信仰はま だ続いているが、神はもはやただ身を委ねていればよいだけの存在ではなく、彼を試すために言わ ばさいころを振る神としてあらわれる。もしその目が悪ければ、ヘンソンは父親と同じように深南 部で酷使され人知れず短く無惨な一生を終えることになる可能性、言い換えれば、彼の生涯の語ら れることのない物語は「野蛮でむっつりとして危険な奴隷」のそれとなっていたかもしれない可能 性と直面して、ヘンソンは逃亡を決意するのである。 ここで注目に値するのは、ヘンソンが自身の決意を正当化するために根拠としたのは、どうやっ ても量り知ることのできない神の意志ではなく、現にこの世にある彼の生命とそれに本来そなわっ ている自然の権利だったということである。彼は続けてこう述べている。 私の生命に対してだけでなく、私の身に備わる生得の権利(natural rights)、そして私が自分自 身を買うために払ったお金によって奴隷制の野蛮な法のもとにありながら獲得した権利に対し て、アイザックとエイモスが企てる邪悪な謀略から、私自身と家族を守るために私ができるこ とはすべてしなければならなかった。もしアイザックが彼自身の契約を守るくらい正直でさえ あったならば、私は私の契約を守り、私が約束した全額を彼に支払っていただろう。しかし、 私の市場価値の四分の三を盗み取った後に私の身を再び収奪しようという彼の試みは、私が彼 にこれ以上支払う義務、あるいは彼の策略にさらされる地位に居続けないといけないというす べての義務から私を放免したと私は考える。 (47) もちろんこの主張の前提となっているのは、例えばアメリカ独立宣言の冒頭に明快に表現されてい るように、16 いわゆる「自然権」は神によって与えられているという考えである。しかし同時に、 こうした自然権は、神の存在をとりあえず棚上げにしてあくまで現世的な価値として擁護すること 23 ができることも確かであり、実際にここでのヘンソンの主張はもはや神に依拠していない。この点 で、逃亡を企てるヘンソンは、あの世での救済を求めたアンクル・トムよりも、この世で自由を獲 得することに心を定めたダグラスに限りなく接近する。そしてこの世俗的な横顔は、彼の宗教家と しての表の顔にもかかわらず、17 カナダに逃亡することに成功して以降も、仲間のアフリカ系住民 たちが「自分自身の労働のすべての利益を確保」し、 「自分自身の主人になる」ように奮闘する彼 の姿のなかに継続して認められる(67, 68) 。後年のヘンソンは熱心な宗教家であるとともに、現世 的な「権利」の擁護者でもあった。 したがって、現実の逃亡奴隷ヘンソンは、アンクル・トムというただひたすら従順で信仰心篤い 母型的奴隷像に決して集約されることのない多元的な輪郭をもった人物であったと結論づけるべき であろう。ただしここで断っておかなくてはならないのは、一元的な人物像への還元はストウだけ に責任があるのではなく、その遠因は自己の人生を公に向けて提示するための物語的な枠組みとし て宗教者としての物語を選択したヘンソン自身にもあるということである。これはさらにつきつめ て言えば、ヘンソンに(そして彼の物語を書き取り出版した白人の協力者に)18 そうした選択をす るように方向付けした社会的な圧力にも注目しなければならないということである。一元的な人物 像への還元にともなう問題は、ある特定の選別を必然化するこうした社会的な諸力を見えにくくし てしまうことにある。この意味で、ヘンソン自身が改宗物語のなかに封印しなければならなかった 別の物語を、他のアフリカ系アメリカ人のテキスト群との連続性のなかで復活させることは重要で ある。この抑圧された物語は、抑圧を要請する社会的擬制の必然性と、まさにそこに隠匿されねば ならなかった別のありえたかもしれない可能性を教えてくれるのだから。 1 本論文は、もともとは拙論「十九世紀中葉における「抵抗する奴隷」の表象――フレデリック・ダグラスとハ リエット・ビーチャー・ストウの間テキスト的対話」の一部として書かれたが、スペースの都合で割愛しなけれ ばならなかった議論に大幅に加筆したものである。本稿で議論する間テキスト的な関係性を取り巻くより大き な歴史的コンテキストについてはそちらの論文を参照されたい。 2 この表現の有力な流通源のひとつとして考えられるのは、イギリス人編集者ジョン・ロッブ(John Lobb)で ある。週刊誌『クリスチャン・エラ』の編集長であったロッブは、1876 年以来、 『ジョサイア・ヘンソンの生涯』 をいくつもの版にわたって出版しているが、1881 年版に寄せた「編集注記」において、『アンクル・トムの小屋』 の発行部数は「聖書以外のどんな本によっても上回られていない」と述べている(Lobb 11) 。 『アンクル・トム』 の人気に便乗して『ヘンソンの生涯』を売り込もうとしているロッブの言葉はある程度差し引いて受け止める必 要があるとしても、『アンクル・トム』の発行部数は当時としては記録破りであったことは確かである。出版後 のわずか一年間で、アメリカで 30 万部というのが広く受け入れられている数字であるが、ほぼ同じ期間にイギ リスで 100 万部売れ、著作権の及ばない翻訳版等まで含めると世界中で 250 万部売れたという推計もある (Hedrick 223; Sundquist 18; Gossett 239; Wilson 3) 。いずれにせよ、ジェーン・トンプキンズが述べるように、 『ア ンクル・トム』は「100 万部以上売れた最初のアメリカ小説」であり、 「その世紀で最も重要な本」と考えて問題は ないだろう(Tompkins 124) 。ロッブについては、Winks, “Josiah Henson and Uncle Tom” xxiii-xxv を参照のこと。 3 ヘンソンの自伝の出版史については、Winks, “Josiah Henson and Uncle Tom” xxxi-xxxiii が詳しい(ただし、1876 年版の出版年がなぜか 1877 年と記載されている)。ヘンソンの自伝のいくつかの版を参照するための有用な 24 アーカイヴとしては、ノースカロライナ大学チャペルヒル校が運営しているウェブサイト Documenting the American South があり、そこでは 2013 年 5 月現在、以下の代表的な四つの版が公開されている。 ① The Life of Josiah Henson, Formerly a Slave, Now an Inhabitant of Canada, as Narrated by Himself. (Boston: Arthur D. Phelps, 1849) ② Truth Stranger Than Fiction. Father Henson’s Story of His Own Life. (Boston: John P. Jewett, 1858) ③ Uncle Tom’s Story of His Life. An Autobiography of the Rev. Josiah Henson (Mrs. Harriet Beecher Stowe’s “Uncle Tom”). From 1789 to 1876. With a Preface by Mrs. Harriet Beecher Stowe, and an Introductory Note by George Sturge, and S. Morley, Esq., M. P. (London: Christian Age Office, 1876) ④ An Autobiography of the Rev. Josiah Henson (“Uncle Tom”). From 1789 to 1881. With a Preface by Mrs. Harriet Beecher Stowe, and Introductory Notes by George Sturge, S. Morley, Esq., M. P., Wendell Phillips, and John G. Whittier. Edited by John Lobb, F.R.G.S. Revised and Enlarged. (London, Ontario: Schuyler, Smith, & Co., 1881) これらの版のなかで一番大きな飛躍が認められるのが第一から第二自伝の間で、後者では前者の簡素な記述に 大幅な加筆がなされている。例えば、①の最初では幼少期の父親の記憶として、父親が血まみれになって帰っ てきたことと南部アラバマへ売られてしまったことが一つのパラグラフで簡潔に述べられているのに対して、 ②では同じ一連の出来事がひとつの独立した章として、六つのパラグラフにわたって物語られている。②から ③、そして③から④への加筆は、主に新しい出来事についての章を継ぎ足したもので、①から②への変化ほど 質的に大きなものではない。 (ただし、③ではじめて付け加えられたストウ婦人との面会についての章は例外で ある。これについては注5を参照のこと。 )本稿は『アンクル・トム』出版以前の時代を焦点とすることから、主 に第一自伝を参照する。 4 白髪の好々爺というアンクル・トムのイメージ自体、必ずしも『アンクル・トムの小屋』のなかの記述に忠実 に基づくものではなく、むしろこの小説の受容の過程で定着したものである。これに関しては、Yarborough 63 を参照。白髪の好々爺というアンクル・トムのイメージの実例としては、Gates, ed., Annotated Uncle Tom の 304 頁と 305 頁の間のページに収録されているいくつかの図版を参照のこと。 5 ヘンソンがアンクル・トムのモデルであるというストウの主張を検証する上で考慮すべき点が二つある。第 一に、ストウが『ヘンソンの生涯』を(部分的にでも)最初に読んだのはいつか。第二に、 『アンクル・トムの小 屋』執筆以前にストウとヘンソンが面会したというそれぞれの主張は本当なのか。第二の点についてはロビン・ ウィンクスが詳しく議論しているように、両者の主張は『アンクル・トム』が出版されてから二十年以上経って からなされたもので、あまり信憑性がない(Winks, “Josiah Henson and Uncle Tom” xix-xx)。マリオン・スターリ ングは両者が会ったのは『アンクル・トム』出版後の両者のイギリス滞在中だと述べているが、ストウがイギリ スを訪問したのは 1853 年の四月十日から六月四日までであるのに対して、ヘンソンの記述によれば彼が二回目 のイギリス訪問をしたのは 1851 年後半から 1852 年の九月にかけてであり、彼が次にイギリスを訪問するのもそ の二十五年後であって、いずれも時期は重なっていない。 (Starling 239; Hedrick 233, 250; Henson, Autobiography 99, 107, 147)。第一の点については、1849 年に『ヘンソンの生涯』が出版された直後に出たある記事を通して、 ストウがヘンソンの抜粋を読んだ可能性がスターリングによって指摘されている(Starling 238-39) 。エフレイ ム・ピーボディ(Ephraim Peabody)という名の牧師によって書かれ、 「逃亡奴隷たちの物語」と題されたこの記事 は、ヘンソンとダグラスを含む五つの逃亡奴隷物語を論じているが、そのなかでも彼は特にヘンソンを評価し、 後半の約十五ページを割いて長々と引用しつつ紹介している。ストウが『鍵』で引用しているヘンソンからの抜 粋は、ピーボディの記事にすべて含まれている。この記事が掲載された『クリスチャン・エグザミナー』誌をス トウ家が購読していたというスターリングの主張(xviii)には確たる裏付けがないが、ストウがアメリカでも指 導的な立場の牧師の家系にいることを考えれば十分にありえることのように思える。ただしその場合でも、ス トウがアンクル・トムを造形する上でピーボディが提示するヘンソンにどれだけ依拠しているのかは議論の余 地がある。 6 加えて、逃亡後もあくまでアメリカにとどまることにこだわったダグラスよりも、米国の外に移住しカナダ でアフリカ系住民のための共同体を作ったヘンソンのほうが、ストウの主張するアフリカ系住民のリベリア植 民の方針と一致した。 7 このブームについては、Starling 1-2, 106 を参照。 25 8 1845 年の『生涯の物語』では、ダグラスはこの出来事が起こったのが 1832 年だと記しているが、これは間違 いである。1855 年の第二自伝『私の隷属と私の自由』 (My Bondage and My Freedom)以降の記述では、ダグラス は青年期のある時期までの出来事について、すべて一年後ろにずらした年に修正している(つまりここでは 1833 年)。 9 このモチーフがマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (1920 年)でのよ く知られる主張とどの程度まで重なりあうのかは検討に値する。これは、南部奴隷制が近代資本主義の発展の なかにどのように位置づけられるべきかという問題に関連するだろう。 10 ダグラスが自身の宗教意識の目覚めをひとつの主題としてはっきり提示するのは、 『私の隷属』からである。 この第二自伝で「宗教的な性質の目覚め」と題された章を導入しているが、そこにおいてさえ、宗教意識の覚醒 は「奴隷制廃止論者」 (abolitionists)という言葉を偶然聞いてその意味を探し求めるというエピソードと文字を書 く訓練の間に注意深く挟まれている(My Bondage 229-35) 。 11 12 この点に関しては注 18 を参照。 1849 年の第一自伝ではこの人物の名前は述べられないが、1858 年の第二自伝からは名前が明らかにされてい る(例えば、Henson, Autobiography 23 を参照)。同様に、第一自伝では奴隷所有者のファミリーネームが頭文字 以外伏せられているが、それ以降の版では明示されている。 13 ここで括弧に入れたのは、奴隷同士の結婚は法的に認められていなかったからである。とはいえ、奴隷所有 者は子供が生まれることによる財産の増加、そして結婚して子供を持った奴隷は単身の奴隷よりも逃亡する危 険性が少ないという理由から事実上の結婚を奨励した。また、結婚は奴隷自身にとっても、頼りにできるもの が他にあまりない環境のなかで精神的にも実質的にも支えとなっていた。この点に関しては、Blassingame 15152 を参照。 14 この点でヘンソンの独白はロマン派的な悪魔的英雄を思わせるところがある。例えば、メルヴィルが『白鯨』 (1851 年)においてエイハブ船長という悪魔的人物を造形したのもほぼ同時代である。ヘンソンと同じように、 エイハブは船の甲板を往復しながら自分の足を奪った敵に復讐を誓う。彼の独白はこうである。 「私が意思した ことを、私はやってみせる!(…)私の定まった目的への道には鉄のレールが敷かれていて、私の魂はその上を 走るよう溝が彫られているのだ」 (Melville 183)。もちろんこれはメルヴィルがヘンソンを読んでいたと言って いるわけではなく、違った領域で仕事をしていた二人に共通した影響が認められると述べているにすぎない。 15 この点に関しては拙論「「十九世紀中葉における「抵抗する奴隷」の表象」も参照。 『鍵』においてストウは ジョージ・ハリスの記述の元になっているいくつもの記述のひとつとしてヘンソンを挙げているが、それは母 親と子供が奴隷市場でばらばらに売られるという、確かに悲痛ではあるが逃亡奴隷物語では定型的とも言って もよい描写である(Stowe, Key 19)。 16 独立宣言ではこのように謳われている。「すべての人はその創造者によってある譲り渡せない諸権利を与え られており、そのなかには生命、自由、幸福の追求がある。」 17 正確には「彼の宗教家としての顔ゆえに」というべきであり、ヘンソンの言う「ヤンキー精神」 (67)はまさに 宗教と実業を融合させたものであると考えられるが、本稿でこの問題について詳細な議論をすることはできな い。宗教と実業との関係については注9も参照。 1849 年にヘンソンから話を聞いて書き取ったのは、1837 年から 39 年までボストン市長を勤めたサミュエル・ 18 アトキンス・エリオット(Samuel Atkins Eliot, 1798-1862)である。穏健な反奴隷制的立場で知られるエリオット がヘンソンの物語の基調を決定する上でどのくらいの役割を果たしたのかについては議論の余地があるが、 ウィンクスが指摘しているように、「文体、ペース、全体の比率において、 [第一自伝は]ヘンソンの生涯の飾り のない単純さを反映している」とみるべきであろう(Winks xiii)。他方で、ピーボディが述べるように、それは エリオットがヘンソンの口述をそのまま書き写したのではなく、 「口述にあわせて書いた」ものである以上、エ リオットの視点が物語を強く方向付けている可能性も否定できない(Peabody 78) 。 26 Works Cited Blassingame, John W. 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Yarborough, Richard. “Strategies of Black Characterization in Uncle Tom’s Cabin and the Early Afro-American Novel.” Sundquist, New Essays 45-84. 堀 智弘「十九世紀中葉における「抵抗する奴隷」の表象――フレデリック・ダグラスとハリエット・ビー チャー・ストウの間テキスト的対話」、権田建二・下河辺美知子編著『アメリカン・ヴァイオレンス― 見える暴力・見えない暴力』、彩流社、2013 年。175-200 頁。 27 敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文に關する箚記 松 井 太 中國甘肅省西端のオアシス都市敦煌は,周知のように,多數の佛教石窟(莫高窟・楡林窟・東千 佛洞・西千佛洞など)が蝟集する世界有數の佛教聖地であり,また北アジア・中央アジア・西アジ ア諸地域と中華地域との交流の結節點でもあった。いわゆる「敦煌學」研究においては,上記の石 窟とそこに遺された佛教美術資料(壁畫・塑像)に對する考古學・佛教學・美術史研究と,19 世 紀極末から 20 世紀初頭以降に莫高窟で發見された,いわゆる「敦煌文獻」に對する歴史學・言語 學・佛教學研究が,二つの大きな軸となっている。 しかし,各石窟内部に遺された,漢語・チベット語・西夏語・古代ウイグル語(古代トルコ 語)・モンゴル語などの諸言語による題記・銘文資料については,これまでに十分な注意が拂われ ているとは言い難い。これらの銘文資料は,大きく二種に分類できる。第一は,石窟の造營や重修 に關わった當地の政治權力者や有力支配者を描いた供養人像を同定するための傍題である。第二 は,ユーラシア各地から敦煌石窟を訪れた佛教巡禮者が,自身の巡禮を記念するために書き殘した ものである。この兩種とも,いずれも,敦煌石窟および敦煌佛教を支えた政治權力の構造や,佛教 徒たちの宗教活動・信仰の態様をうかがうための資料となり得る點で,歴史學的な價値を有するも のである。 これらの銘文類のうち,漢語銘文については,謝稚柳『敦煌藝術序錄』 (上海,1955 年)や敦煌 研究院『敦煌莫高窟供養人題記』 (文物出版社,1986 年。以下,DMGD と略)をはじめとして,一 定程度の研究が蓄積されてはいる。しかしながら,それ以外の言語,特に西暦 10 ~ 14 世紀に屬す る古代ウイグル語の題記銘文については,質・量ともに研究は十分ではなかった1。 このような状況を大きく進展させたのが,1998 年に,James Hamilton・牛汝極(Niu Ruji)兩氏 1 1907 ~ 1908 年に莫高窟を調査した Paul Pelliot は,漢語の題記銘文に加えて古代ウイグル語やモンゴル語など の非漢語銘文についても手稿に模寫を作成していた。Pelliot の没後,彼の手稿は Grottes de Touen-houang(Paris, 1981-1992; 以下 GTH と略)として飜刻・影印出版された。ただし Pelliot は,1907 ~ 1908 年の敦煌調査時點で はウイグル文字・ウイグル語に通曉していなかったため,その模寫は不正確である。GTH でも模寫の影印の みにとどまり,彼自身の解讀・校訂テキストは提示されていない。從って,Pelliot の模寫にもとづいてウイグ ル文字モンゴル語銘文の解讀を試みた薩仁高娃 2006 の校訂案も注意を要する[cf. Matsui 2008c, p. 29, fn. 18]。 これら以外に,莫高窟・楡林窟のウイグル語銘文を解讀した個別の研究としては Kara 1976,モンゴル語銘文 については敦煌研究院考古研究所・内蒙古師範大學蒙文系 1990 が特に優れている。 29 が發表した共同論文[Hamilton / Niu 1998]である。Hamilton / Niu 1998 は,合計 20 条の楡林窟の ウイグル語銘文を,寫眞複製にもとづいて解讀・校訂した。筆者は,この論文に導かれて,2006 年に楡林窟のウイグル語銘文を調査し,その成果の一部を Matsui 2008c 論文として發表した。その 後,筆者は 2010 年から 2012 年の3カ年にわたって,莫高窟・楡林窟・東千佛洞のうち,合計 87 窟を調査する機會を得て,ゆうに 100 条を超える古代ウイグル語・モンゴル語の題記銘文資料を實 見することができた。 ただし,原則的に,石窟内で銘文の寫眞を撮影することは許可されず,また照明裝置なども不十 分な状況のもと,ごく短時間の間に資料のすべてを完全に解讀することは不可能であった。また, この間に筆者が調査し得たのは,合計 700 窟を超える敦煌地域の諸石窟の總數からすれば一割程度 に過ぎず,銘文資料の網羅的な把握にはなお多くの時間を要する。 とはいえ,筆者がこれまでに調査した古代ウイグル語・モンゴル語題記銘文のなかには,上述し たような敦煌諸石窟をめぐる歴史を解明するための重要な情報を含むものもある。また,これらの 銘文資料は,年月の經過とともに褪色・摩滅が進行しており,さらには壁畫・塑像などの美術資料 の保全を優先するあまり,壁畫などの補修の際に誤って塗抹されてしまう危險もある。 そこで本稿では,筆者が調査し得たウイグル語題記銘文からうかがえる様々な情報を提示するこ とで2,敦煌諸石窟の諸言語題記銘文資料の歴史資料としての重要性を示し,その悉皆調査に向け て學界の注意を喚起することとしたい。 1.楡林窟第 39 窟のウイグル貴人像の傍題 楡林窟第 39 窟は,いわゆる「沙州ウイグル期」 ,すなわち敦煌(沙州)がウイグル勢力に支配さ れていた時期(11 世紀初頭~中葉)に屬する。この前室甬道南壁には合計 23 體のウイグル男性供 養人像,北壁には合計 32 體のウイグル女性供養人像が描かれる3。 北壁の女性供養人群像は上下二段に分かれており,上段の先頭(西端=左端)は比丘尼像である。 これに續く東(=右)隣の女性供養人像が,俗人女性のなかで最高位の重要人物と考えられる。こ の女性供養人像の西(=左)隣に附随する赤褐色の短冊内には,半楷書體のウイグル語銘文1行が 記されており,すでに森安孝夫により以下のように解讀されている[森安 2011c, p. 521]。 銘文 1A: 楡林窟第 39 窟・前室甬道北壁【圖版 1–1】 tngrikän oγšaγu qatun tngrim körki bu ärür qutluγ q[ïv]lïγ bo(l)maqï bolzun 2 本稿におけるテキスト轉寫は,原則的に SUK に準據する。[ABČ]は破損・缺落箇所の推補,(ABČ)は殘畫 3 段文傑(編)『中國敦煌壁畫全集 10 敦煌西夏元』天津人民美術出版社 , 1996, 圖 10-13 にカラー圖版が公刊され から復元されたテキスト,- - - は褪色・破損して判讀できない箇所を示す。 ている。 30 「これは神聖なオグシャグ可敦 (=皇后) の肖像である。彼女が天寵を得て幸福となりますように!」 “This is the portrait of Her Majesty of Holy Empress Oγšaγu. May she be favored by Heaven and fortunate!” この「オグシャグ可敦(oγšaγu qatun) 」は, 「神聖な(tngrikän)」「殿下(tngrim) 」という尊稱 [Moriyasu 2001, p. 164; 森安 2011a, p. 30]を伴っている點からみて,ウイグル王室の一員と考えて よい。おそらく,對面する甬道南壁の先頭に描かれるウイグル男性供養人の夫人か,あるいはこの 男性供養人の娘であったものがウイグル王室に嫁いだのであろう。 ところで,このウイグル男性供養人は無檐三叉冠を着用している。これと同様の無檐三叉冠を着 用するウイグル供養人像は,ベゼクリク(Bezeklik)石窟の西ウイグル供養人像にも多數見出され る。これらの西ウイグル供養人像の美術史的研究によれば,ウイグル王族ではない貴族・官員は無 檐三叉冠を着用するのに對して,ウイグル王・王族は蓮瓣形鏤花高冠を着用する[BattacharyaHaesner 2003, pp. 352–355, MIK III 4524; Russell-Smith 2005, pp. 24–25]。この點から,我々が檢討す る楡林窟第 39 窟のウイグル男性供養人も,ウイグル王族より下位にあった貴族と考えられている [謝靜・謝生保 2007, p. 83; 竺小恩 2012, pp. 39–40]。 このウイグル男性供養人の西(=右)隣には,傍題のための綠色の短冊が附随している。從來, この傍題のウイグル銘文は褪色して判讀できないと報告されていた。しかし筆者は,實見調査を通 じて,この1行の銘文を以下のように解讀することができた。この銘文は,半楷書體で書かれてお り,對面するオグシャグ可敦の傍題と同時代に屬することは確實である。 銘文 1B: 楡林窟第 39 窟・前室甬道南壁【圖版 1–2】 ilʼögäsi sangun ögä bilgä bäg qutï-nïng körmiš ätöz-i bu ärür qutluγ qïvlïγ bolmaqï bolzun yamu 「これはイル=オゲシ (宰相)のサングン=オゲ=ビルゲ=ベグ閣下の,見たままのお姿(ご眞影)で ある。彼が天寵を得て幸福となりますように!」 “This is the truly-observed-like portrait of His Excellency of the Minister (il ögäsi), Sangun-Ögä-BilgäBeg. May he be favored by Heaven and fortunate!” 【語註】 1Ba, ilʼögäsi : この「イル = オゲシ(ilʼögäsi ~ il ögäsi)」は,周知の通り,漠北のウイグル可汗國時 代から西ウイグル時代を通じて用いられるウイグル語の稱號であり,漢文資料では頡于迦斯~頡於 迦斯と音寫される。その原義は「國(il)の顧問(ögä)」であり,實際にはウイグル可汗國・西ウイグ ルの最高位の臣僚すなわち「宰相・摂政」であった[Moriyasu 2001, pp. 175–177]。本處では,通常の 形(ʼYL ʼWYKʼSY = il ögäsi)とは異なり,一筆で續けて ʼYLʼWKʼSY = ilʼögäsi と書かれている。同様 31 に,ʼYLWYKʼSY = ilögäsi と綴られた例が,Krotkov 収集のウイグル語書簡 SI 2Kr 1753,55 にみえる [Tuguševa 1971, pp. 176, 185] 。 1Bb, sangun ögä bilgä bäg : ここで描かれる男性供養人本人をさすと考えられる。ウイグル語サン グン(sangun)は,本來は漢語「將軍」の借用語であるが,五代・宋代の漢文資料ではそのことが忘 れられ, 「相温;詳温;索温;娑温;撒温」などと音寫される。ウイグル語 ögä は「顧問;大臣」を 意味する稱號で,漢文資料では「于越;嗚瓦」などと音寫される。後續のビルゲ = ベグ(Bilgä-Bäg, 原義は「賢明なる首領」 )は,確實に,この供養人像の個人名と考えられる。先行する「サングン = オ ゲ(sangun ögä)」は,ビルゲ = ベグに與えられた尊稱・美稱か,それとも「將軍(兼)宰相;軍機大臣」 のような官稱號・職名であったか,決定できない。同じく「サングン = オゲ(sangun ögä)」という稱 號を有する者として,高昌出土のいわゆるウイグル文「第三棒杭文書」第 14 行にアルプ = サングン = オゲ = アルプヤルク(Alp Sangun Ögä Alpyaruq)という人物がみえる。彼は,第三棒杭文書で記念 される佛教寺院の施主タルドゥシュ = タプミシュ = ヤヤトガル(?)長史(Tarduš Tapmis Yayatγar (?) čangšï)の義父(qadïn)であり,西ウイグル王國の上級支配層に屬していたことが知られる[Moriyasu 2001, pp. 187, 195] 。 1Bc, qutï :「天寵(qut) 」に所有語尾 + ï が接續したもので,しばしば「陛下;殿下;閣下;猊下」に 相當する尊稱として用いられる[森安 2011a, pp. 29–31]。一方,この男性ウイグル供養人の呼稱に は,對面するオグシャグ可敦のような「神聖な(tngrikän)」・ 「殿下(tngrim) 」という尊稱が含まれな い。この點からも,この男性供養人は,高位・上層のウイグル貴族ではあるがウイグル王族の出身 者ではなかったと推測でき,美術史的研究から得られた結論を補強する。 1Bd, körmiš ätöz : ätöz「身體,肉體」は ʼTWYZ と綴られており,通常の形(ʼTʼWYZ = ätʼöz)と 若干異なる。本處の körmiš ätöz で「 (本人を)見たままの姿;眞影」と解釋する。 さて,この楡林窟第 39 窟の他にも,敦煌諸石窟には「沙州ウイグル期」に屬する石窟が散在す る[劉玉權 1990, p. 242] 。この「沙州ウイグル」については,①天山東部に本據地を置いた西ウイ グル王國の支配下にあった一派とみなす説と,②西ウイグル王國から離れた分派と東方から移住し た甘州ウイグルが合流して沙州地域で独立した王國とみなす説が對立している。①説を主張する森 安孝夫は,多數の論據を擧げて②説を批判している[森安 2000; 森安 2011c, p. 529]。さらに,上に 言及した,西ウイグルと沙州ウイグルの供養人像に關する美術史的研究も,兩者の裝束・服飾文化 が完全に共通することを示している[謝靜・謝生保 2007]。從って,この楡林窟第 39 窟のウイグ ル男性供養貴人像も,西ウイグル支配層に屬していたと考えられる。 現在までに知られている限り,東部天山~トゥルファン地域から出土した西ウイグル王國時代の ウイグル語文獻のなかには,この楡林窟第 39 窟にみえる「イル = オゲシ(宰相)のサングン = オ ゲ = ビルゲ = ベグ(ilʼögäsi sangun ögä bilgä bäg) 」や「オグシャグ可敦(Oγšaγu qatun)」と完全に一 致する名稱をもつ貴人の存在は,いまだ發見されていない。ただし,上掲語註 1Ba で言及した Krotkov 収集ウイグル文書 2Kr 17 の一部(第 55–71 行)は, 「イル = オゲシ(宰相)のビルゲ = ベグ 32 (il ögäsi bilgä bäg) 」からアルスラン = タシュ都督(Arslan-Taš totoq)という人物に宛てられた書簡 の草稿(または習書)である4。この 2Kr 17 文書は典型的な半楷書體で書かれているので明らかに 西ウイグル時代に比定され,その點では,本銘文 1B とほぼ同時代のものといえる。サングン = オ ゲ(sangun ögä)の稱號を缺くため斷定はできないものの,この 2Kr 17 文書で言及される「イル = オゲシ(宰相)のビルゲ = ベグ(il ögäsi bilgä bäg) 」が,銘文 1B の「イル = オゲシ(宰相)のサン グン = オゲ = ビルゲ = ベグ(ilʼögäsi sangun ögä bilgä bäg)」と同一人物である可能性を指摘しておき たい。 その一方で,上掲語註 1Bb にみたように,この男性供養人像と同じ sangun ögä という稱號(尊稱 または官號)を有する有力貴族が西ウイグル支配層に見出されることには注意を要する。さらに, 西ウイグル王國の支配層には, 「沙州將軍(šaču sangun)」という稱號を有する有力者もおり,西ウ イグルの沙州=敦煌支配を擔當していたと考えられている[森安 1980, p. 334; Moriyasu 2001, pp. 152–153, 167]。あるいは,この楡林窟第 39 窟のウイグル男性供養人ビルゲ = ベグは,西ウイグル 王國から沙州=敦煌地域の統治を委ねられた「沙州將軍(šaču sangun)」その人であり,それゆえ に「サングン = オゲ(sangun-ögä) 」の稱號を名乘っていたのかもしれない。 2.莫高窟第 332 窟のモンゴル裝束供養貴族夫妻 莫高窟第 332 窟は,初唐に創建され,五代・モンゴル時代・清代に重修された。主室にいたる甬 道の兩側(南壁・北壁)には,五代期の供養人像の上から塗り重ねる形で,モンゴル期の供養人像 が描かれている。南壁にはモンゴル裝束の男性供養者三體と從者二體,北壁にはモンゴル女性貴人 特有の顧姑冠(boγtaγ)を着用する女性供養人三體と子女一體が描かれる。この供養人像は,モンゴ ル支配者層の敦煌佛教への歸依・支援を示すものとして著名であり,すでに圖版も公刊されている5。 これらの供養人像は,綠色の枠線で區畫を設けた中に描かれている。その枠線には,草書體のウ イグル字銘文が記されている。特に,北壁の女性供養人像に附された銘文(下記銘文 2C)がモン ゴル語ではなくウイグル語であること(末尾はウイグル語 ol「~である」 )は,既刊行の圖版から も確認でき,モンゴル時代の河西におけるモンゴル支配層とウイグル佛教徒との密接な關係を示す ものである。このことは,すでに舊稿[松井 2008a, p. 37; Matsui 2008b, p. 169]でも指摘したが, 舊稿執筆時點では現地調査を經ていなかったため,銘文のテキストは提示していなかった。この間 4 Tuguševa 1971, p. 175; 森安 2011a, p. 21. Tuguševa 論文は本文書の第 1 ~ 71 行のテキストを校訂・公刊している が,實際には,この後に,同一筆跡で書かれた佛教的テキスト 30 行(内容は第 71 行以前と無關係)が續いて いる。筆者はこのことを,2011 年 2 月にロシア科學アカデミー・サンクトペテルブルク東方文獻研究所に所 藏される原文書を實見調査して確認した。原文書の調査を許可され,種々の便宜を圖って下さった同研究所長 の Irina Popova 博士に,この場を借りて深謝する。なお,書簡の宛名を Tuguševa は Arslan-Taγと轉寫したが, 末字の -γ= -X は他處との比較からも –š と訂正できる。 5 敦煌文物研究所(編)『中國石窟敦煌莫高窟』第5巻,平凡社 , 1982, 圖 161, 162; 段文傑(編)『中國敦煌壁畫 全集 10 敦煌西夏元』天津人民美術出版社,1996, 圖 175, 176; 謝靜 2008. 33 の現地調査で,銘文全體を判讀することができたので,以下に提示する。 銘文 2A: 莫高窟第 332 窟・甬道南壁,先頭の男性供養人像の西側の縱邊【圖版 2–1】 [ ]D(.)y [ ] ön(š)i-ning körki ol 「‥‥‥‥‥‥‥‥院使の像である」 “[This is] the portrait of the önši (yuan-shi), [… ʼs].” 銘文 2B: 莫高窟第 332 窟・甬道南壁,最後尾の男性供養人像の東側の縱邊【圖版 2–1】 män s(o)sï tu küsüš ödigläp yṳkündüm 「私ソシ都統が望みを記しつつ禮拝した」 “I, Sosï-tu, wrote (my) wish and worshipped.” 銘文 2C: 莫高窟第 332 窟・甬道北壁,女性供養人像の西側の縱邊【圖版 2–3】 [ ](-ning?) körki qïzïm la[čï]n tigin-ningʼol 「‥‥‥‥‥(の ?) 像は,私の娘ラチン = ティギンのものである」 “The portrait of [. . . . . ] is of my daughter, La[čïn]-Tiginʼs.” 【語註】 2A : モンゴル期の漢語の官名「院使」を借用した Uig. önši は,カラホト出土のモンゴル時代のウイグ ル語書簡(F9:W105)にもみえる[梅村・松井 2008, p. 192]。 2B : この銘文の筆者 Sosï tu の稱號 tu は,漢語「都統」の借用語 tutung の略筆である。人名のソ シ(Sosï)の語源は不明であるが,あるいは漢語「像師」に由來するかもしれない。 2C :「私の娘ラチン = ティギン(qïzïm Lačin-Tigin)」が,北壁の女性供養人像をさすことは疑いな い。人名 Lačïn の原義は「鷹」で,元代の漢文史料では剌眞・臘眞と音寫される。周知の通り, Tigin は男性王族をさした。この lačïn と tigin は,どちらも女性の人名・稱號として使用された例が 確認されている[Zieme 1978, pp. 81, 82; Moriyasu 2001, p. 166] 。 さて,上掲の銘文 2A・2B・2C が,本窟に描かれるモンゴル期の供養人像に關係する傍題であ ることは確實である。一方,供養人像の裝束は,典型的なモンゴル貴族層・支配層のものである。 ここから,供養人がモンゴル族出身か,それともウイグル族出身か,という問題が生じる。供養人 がモンゴル族出身である場合,彼らを描いた供養人像の傍題がモンゴル語ではなくウイグル語で記 34 されていることは,モンゴル人の佛教文化受容に際してウイグル人佛教徒が大きな影響を與えたこ とをあらためて示す。逆に,もしも供養人がウイグル語を母語とするウイグル族である場合,彼ら が典型的なモンゴルの裝束をしていることは,ウイグル語を用いるウイグル佛教徒の一部が河西地 域のモンゴル支配層に組み込まれていったことを反映する。いずれにせよ,すでに拙稿[松井 2008a, p. 37; Matsui 2008b, p. 169]で指摘したように,敦煌地域におけるモンゴル支配層とウイグル 佛教徒が,佛教を媒介として強固に結びついていたことがうかがえる。 なお,2A・2B・2C の筆跡から判斷すると,これら3条の銘文はすべて 2B の筆者ソシ都統によ り書かれたものと推定される。とはいえ,彼が北壁に描かれた女性貴人ラチン = ティギン(2C)の 父親であるかは,卽斷できない。 3.楡林窟第 12 窟の威武西寧王家關係ウイグル語題記銘文 この銘文は,楡林窟第 12 窟に遺る多數のウイグル語題記銘文の一つであり,Hamilton / Niu 1998 により Inscription H として紹介された。筆者は舊稿で,2006 年の實見調査に基づく校訂テキストを 提示しつつ,この銘文がモンゴル時代にハミ(哈密, Qamïl)に據點を置いた東方チャガタイ系チュ ベイ(Čübei)一族の威武西寧王ブヤン = クリ(Buyan-Quli)の屬僚たちにより記されたことを明ら かにした[Matsui 2008c, Inscription H] 。 ところが,この間の調査で,より優れた調査機材などを利用して再檢討した結果,舊稿のテキス トを修正すべきことが判明したので,ここにその結果を提示する。 銘文 3A: 楡林窟第 12 窟・前室甬道南壁 1 quḍluγ [luu] yïl (...........) 2 YYL(…) (…) 3 qaγan-qa (s)oy[u]rqadïp qamïl-qa in[čü? birilgä]n? 4 [b]uyan qulï ong bašlaγ-lïγ biz X’D(....) P(....) 5 [ ]ḍämür qïsaq-čï napčik-lig qamču taγa[y?] 6 [ ](.) ṭaruγačï-nïng oγ[u]lï tärbiš bašlap 7 [ ]KWY-lär birlä kä[li]p 8 [ ] ong-nïng s(u)burγan süm-ä-tä kälip 9 10 11 12 [yan]mïš-ta bu süm-ä-ta män yavlaq baxšï [ [bï]žï (b)itig-či tämür kin körgü [ödig] bolzun tip bitip bardïmïz saṭu saṭu bolzun 「①幸いなる[龍]②年[某月某日]‥‥‥③皇帝に恩賜させてハミに[封領(inčü)を (?) 與えられた 35 (?)] ④ ブ ヤ ン=ク リ 王(Buyan-Qulï ong) を 頭 と す る, 私 達 XʼD(....),P(....), ⑤ ‥‥=テ ミ ュ ル ([…]-ḍämür)車輛係,ナプチク(Napčik)のカムチュ = タガイ(Qamču-Taγay),⑥‥‥ダルガ チの息子のテルビシュ(Tärbiš)たちが,⑦ […]KWY たちと共に來て,⑧‥‥王の塔の寺(s(u) burγan süm-ä)に來て,⑨ [歸る]時に,この寺で,私(すなわち)拙劣な師僧(である)⑩ [‥‥][bï]žï と書記テミュルが,“ 後に見るべき⑪[記念]となりますように! ” と書いて,出發した。 ⑫ 善哉,善哉」 “1The fortunate year of [Dragon, ....th month, on ....th day. 2 .....] 3-4 With Prince [B]uyan-Quli (who is) favored by the Emperor and [given] the fief in Qamïl at the head, 4we, XʼD(....), P(....), 5the cart-driver [.....]-ḍämür, Qamču-Taγay from Napčik [.....], 6as well as Tärbiš (who is) the son of the Governor General [.....], 7coming together with [...]KWYs, 8came to the Tower-temple of Prince [.....], and, 9when we [return], in this temple, I, an inferior master 10 [.....]-bïžï (and) the secretary Tämür wrote (this inscription), saying 11“May it be (the memory) to see later!”, and departed. 12Sādhu, sādhu, may it be (good).” 【語註】 3A2 : 舊稿ではこの行の存在を見落としていた。 3A3, qaγan-qa (s)oy[u]rqadïp in[čü? birilgä]n? : qaγan-qa を舊稿では qaγan qatun と誤讀していた。 「皇帝に恩賜させて(qaγan-qa soyurqadïp) 」という表現は,亦都護高昌王世勲碑ウイグル文面の第 III 截第 45, 49 行にもみえる[Geng / Hamilton 1981, p. 20; 劉迎勝・卡哈爾 = 巴拉提 1984, p. 67]。行 末部分について,舊稿では単に Y[…]N と飜字しただけであったが,破損部分の直前の Y 字は實際 には ʼYN- と解讀できた。そこで,この破損部分には,第4行のブヤン = クリ王(Buyan-Qulï ong) がハミを根據地とした威武西寧王ブヤン = クリに同定できることを念頭に置き, 「封領を與えられ た(inčü birilgän) 」という文脈を推補した。テュルク語 inčü ~ enčü「封臣,領民;封土,封領」 は,西暦 10 ~ 11 世紀前後のウイグル文書や,コータン語のいわゆる Staël-Holstein scroll にも在證 されており,さらにモンゴル語にも inǰü ~ ömčü として,またペルシア語にも īnčū として借用されて いる[村上 1951; TMEN I, Nr. 670; MOTH, p. 91; 森安 1991, p. 196]。 3A4, [b]uyan qulï ong : 舊稿の時點では人名 Buyan の語末の -N しか讀み取れていなかったが,こ の間の調査により,確實に [P]WYʼN = [b]uyan と判讀できた。これにより,チャガタイ系チュベイ 一族の威武西寧王ブヤン = クリ(Buyan-Quli)との比定をより確實なものとすることができる[Cf. Matsui 2008c, pp. 19–20] 。 3A5a, [ ]ḍämür : 頻出する人名要素 tämür が,別の人名要素に後續するため –D’MWR = -ḍämür と 書寫されたもの。舊稿では動詞完了形の –mïš / -miš に由來する人名と推測して (...)MYŠ と飜字した が,改める。 3A5b, napčik : この地名ナプチク(Napčik)は,唐代の「納職」に由來し,ハミの西方約 50 km の地 36 點に位置するラプチュク(Lapčuq > 拉布楚喀,拉甫楚克)に比定される[森安 1990, pp. 72–80; Matsui 2008c, p. 20]。 3A6, oγ[u]lï : 舊稿の quščï「鷹匠」を改める。 3A8, s(u)burγan süm-ä : 舊稿では (.)YPWR(....) とするのみにとどまったが,この間の調査で S(.) PWRXʼN = s(u)burγan と判讀できた。テュルク語 suburγan が「墓」を意味するのに對し[ED, p. 792],これを借用したモンゴル語 suburγan は「塔;塔形の墓」を意味する[Lessing, p. 733; MKT, p. 949] 。モンゴル時代の楡林窟が墓所であったとは考えにくく,また本處ではモンゴル語 süme ~ süm-e から借用された süm-ä「寺」が後續することからも,モンゴル語に卽して s(u)burγan süm-ä で 「塔寺」と解釋したい。 3A9, bu süm-ä-ta : 舊稿の buyanïmïz-(nï) ta を改訂する。 3A10a, [bï]žï : 後半の -Z-Y がみえることから補う。この佛教的稱號 bïžï は漢語の「毗尼(< Skt. vinaya)」に由來する可能性があるが,音韻上からはなお問題が殘る[Matsui 2012c, p. 120] 。 3A10b, (b)itig-či : 周知の通り, 「書記」 。舊稿では (P)Y(....)K-čï と推測するにとどまっていたが, 改める。 3A10c, kin körgü : 舊稿の kin körmiš-[tä]「後に見た[時に] 」を訂正する。 3A11a, bitip : 舊稿の sümtä「寺において」を改訂する。 3A11b : 舊稿では, 「行った(bardïmïz) 」の後に「私 (?) が書いて (?)(män(?) bi[t]i(p?)) 」というテ キストを提示していたが,これは別人の手になる題記であった。 3A12, saṭu saṭu bolzun :「善哉,善哉(< Skt. sādhu sādhu)」。舊稿の quḍ[luγ] bolzun を改める。ま た,舊稿でこの後に轉寫していた「私達は行った(bardïmiz) 」は,前行末の別人の題記に續くも のであった。 以上,筆者の未熟ゆえに,いささか多岐にわたって誤讀を修正することとなった。しかしなが ら,舊稿で提示した銘文全體の内容理解を大きく變更するものではない。 ところで,最近,楊富學・張海娟兩氏は,筆者が舊稿で提示した本銘文の校訂を利用しつつ,① この銘文の「ブヤン = クリ王」すなわち威武西寧王ブヤン=クリが元代漢文史料にみえる「邠王嵬 厘;豳王嵬力」と同一人物であること,②當時,威武西寧王がナプチク(Napčik < Chin. 納職)つ まり現在のラプチュク一帯を根據地としていたこと,③本來はモンゴル族であるブヤン = クリ王が 楡林窟巡禮に際してウイグル語で銘文を殘すほどに,元代のモンゴル支配層が「ウイグル化」して いたこと,を主張している[楊富學 2011, pp. 102–103; 張海娟・楊富學 2011, pp. 88–89; 楊富學・張 海娟 2012] 。 しかし,これらの所説には,いずれも賛同できない。①の點は『元史』順帝本紀・至正十二年壬 辰(1352)秋七月の「邠王嵬厘」への恩賞の記事を,本銘文第3行の「皇帝に恩賜させて(qaγanqa (s)oy[u]rqadïp) 」という一節と關連させるものであるが,他に傍證史料は全く無く,牽強附會と 言わざるを得ない。そもそも,チュベイ一族の「宗家」の地位を占める豳王(邠王)家は肅州を, 37 また「分家」にあたる威武西寧王家=肅王家がハミを據點としていたことは鐵案であるから[杉山 1982, 杉山 1983 = 杉山 2004, pp. 242–333] ,兩者をあえて同一視する必然性も無い。②は,巡禮者 の一人であるカムチュ = タガイ(Qamču-Taγay)がナプチク(Napčik)の出身であることを擴大解 釋したに過ぎない。③も,この銘文自體は威武西寧王ブヤン = クリの家臣によって書かれたもので あり,ブヤン = クリ本人がこの巡禮に參加していたかどうかは内容からは判斷できないので,いさ さか武斷に過ぎる。また,すでに報告されているように,莫高窟・楡林窟にはモンゴル時代の巡禮 者がモンゴル語で書いた題記も多數殘っていることにも注意する必要がある[敦煌研究院考古研究 所・内蒙古師範大學蒙文系 1990] 。 モンゴル時代河西地域のモンゴル王家とウイグル人佛教徒との關係については,前節で扱った莫 高窟第 332 窟のモンゴル裝束の供養人像などともあわせ,より多くの事例から詳細に檢討すること が必要であろう。 4.敦煌諸石窟とウイグル人の佛教巡禮圏 これまで學界に紹介されている限りでは,敦煌地域の諸石窟に題記銘文を遺したウイグル人・モ ンゴル人巡禮者の出身地・本貫地・居住地としては,莫高窟直近の敦煌(沙州 > Uig. Šaču),楡林 窟直近の瓜州(Qaču) ,さらに東方の肅州(Sügčü, 酒泉) ・甘州(Qamču, 張掖)や,西方の天山山 脈東端のハミ(Qamïl, 哈密=伊州)が多く言及される。言及される地名で最東端に位置するのは永 昌府(> Yungčang-vu) ,また最西端は前節(語註 3A5b)に擧げたナプチク(Napčik)であって,西 ウイグル王國の地理的中心であったトゥルファン地域の地名は確認されていなかった[Matsui 2008c, pp. 27–29; 上掲地圖參照] 。 しかしながら,この間の現地調査を通じて,10 ~ 14 世紀の西ウイグル王國の主要都市であった 38 高昌(Qočo, 西州) ・トゥルファン(Turpan > Turfan > 吐魯番)からの巡禮者の題記を確認すること ができた。以下,銘文 4A・4B・4C として紹介し,個別に檢討を加える。 銘文 4A: 楡林窟第 31 窟・主室南壁,東側の天請問經變圖の中央下部の肌色の短冊部分。半 楷書體~半草書體ウイグル銘文7行。その後にブラーフミー文字が 3 ~ 4 字ほど書かれてい る。銘文の中央部分は摩滅・褪色が著しく,第5行を含めて十分に判讀できない。 1 2 3 4 5 6 7 qutluγ bičin yïl - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - biz (qoč)o-luγ adityaẓin šilavant(i) - - - - - - - - - - - - - - - - - - - yṳkünüp bu darm qur-ta - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - tüz täginip bkčan-qa - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - küsüš-läri köngül-[iy]in qanzun • nom? säkiz? tuyu? kič? TW(…) tört 44 tuγum biš až̤ un-tïn - - - - - - - - - - - - tüzü biz-[täg] burxan qutïn bulzun - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - küsüšüm qanzun 44 「①幸いなる猿年[□月□日に。…………]私達,高昌出身の②アディティヤシン律師………… 禮拝して,この③佛法の窟で…………等受して,④安居に…………もろもろの望みが⑤心のままに 滿たされますように! 法?8?覚えて?久しく?……四⑥生五道から……等しく私達[のよう に]佛果を⑦得ますように。………………私の望みが滿たされますように!」 “1The fortunate year of Monkey, [the ...th month, on the ...th day. .....]. We, 2Adityaẓin-šilavanti from Qočo [and .....] worshipped, and 3in this cave of dharma [.....] getting flat (= attaining enlightenment), 4for the rest-stop (bkčan) [.....] 4-5may (their) desires be satisfied as (their) heart (wish). Dharma? Eight? Awared? Ever? [.....] 6from the Four Births and Five Existences [.....] 6-7(they) shall attain Buddhaship altogether like us. 7[.....] May my desire be satisfied!” 【語註】 4A2a, adityaẓin šilavant(i) : Uig. adityaẓin はサンスクリット語 ādityasena に由來する人名,また šilavanti はサンスクリット語 śīlava(n)t「佛僧,持戒者;律師」に由來する稱號である[Zieme 1981, p. 249] 。第1行に「私達(biz) 」とあることからみて,本處に後續する部分には,同行した巡禮者 の名が記されていたと推測される。 4A3a, darm qur : qur は Chin. 窟 *k’uət(GSR 496q)の音寫[Matsui 2010, p. 704]。すなわち, darm qur で「佛法(darm < Skt. dharma)の窟;法窟」の意となる。これが,本銘文が書き殘された 楡林窟第 31 窟のみをさすのか,それとも楡林窟全體の總稱であるのかは卽斷できない。 4A3b, tüz täginip : ウイグル譯『雜阿含經』に Chin. 止觀一心等受 = Uig. d(i)yan-ta bilgä bilig-tä bir učluγ köngül tüz-in täginip「止觀(=禪定 diyan +智慧 bilgä bilig)において一心に等受して」という 39 對譯例がみえる[庄垣内 1984, p. 62; 庄垣内 2003, pp. 264–265]。 4A4, bkčan : Toch. A pākäccāṃ / B pakaccāṃ「夏安居」からの借用語[吉田 1993, p. 113; 吉田 2007, p. 62] 。 4A4-5, tört tuγum biš až̤un : tört tuγum は佛教用語の「四生(卵生・胎生・濕生・化生) 」 ,biš ažun は「五道(天道・人間道・地獄道・餓鬼道・畜生道)」にあたる。特に,輪廻として「五道」がみ えるのは,ウイグル佛教の母體となったトゥルファン地域のトカラ佛教,および佛教に先んじてウ イグル人に流入していたマニ教の影響と考えられている[森安 1985a, pp. 35–36, fns. 41, 42]。 さて,この銘文 4A の筆者であるアディティヤシン律師は,「高昌出身(qočo-luγ)」と自稱して いる。すなわち,彼は,高昌すなわちトゥルファン地域から楡林窟への巡禮さらには當地での安居 (bkčan)を實施し,その記念に本銘文を書き殘したことになる。 ちなみに,楡林窟第 19 窟の主室甬道南壁および同第 26 窟甬道南壁にも「私アディティヤシンが 禮拝します(adityaẓin yṳkünürmän) 」6,同第 36 窟主室甬道北壁に「私アディティヤシンが謹んで 禮拝した(adityaẓin yṳkünü tägintim) 」という銘文があり,さらに莫高窟第 444/445 窟の入口外・北 側の壁にも「私アディティヤシンが禮拝します(adityaẓin yṳkünürmän) 」という銘文が見出され る。筆者が實見したところでは,これらの銘文の筆跡は,いずれも本銘文 4C に酷似する半楷書體 ~半草書體であり,同一人物の筆跡とみて差し支えない7。このアディティヤシン律師は,楡林窟 だけでなく,直線距離で約 100 km 西方の莫高窟にまで,巡禮の足を伸ばしていたのである。 この銘文は,半楷書體~半草書體で書かれていることから,西暦 10 ~ 12 世紀頃,モンゴル時代 以前に屬するものと推定される。特に 10 ~ 11 世紀において,東部天山地方の西ウイグル王國と敦 煌の河西歸義軍政權との通交・交流は,きわめて緊密であった8。敦煌出土の漢文文書からは, 「西州僧」・ 「伊州僧」つまり西ウイグル(西州=高昌,伊州=ハミ)の佛僧が沙州=敦煌の佛寺を 訪問したり,あるいは沙州を訪れた西ウイグルからの使節( 「西州使」 ・「伊州使」 )が莫高窟にまで 巡禮したことが知られる[榮新江 1996, pp. 365, 367, 371, 378]。このような,敦煌および莫高窟・ 楡林窟に巡禮した西ウイグルの佛教徒が遺した題記銘文の實例として,本銘文 4A を位置づけるこ とができるであろう。 6 Hamilton / Niu 1998, p. 156 は,楡林窟第 19 窟の銘文(Inscription N)の adityaẓin を ärdinišazïn と誤讀している。 この誤讀は,この銘文と併記されるブラーフミー文字が[ā di]tya se na と判讀されることからも訂正できる [Matsui 2008c, p. 29, fn. 18]。 7 Pelliot の模寫によれば,莫高窟第 197 窟(= Pelliot 第 53 窟)にも「私アディティヤシンが謹んで禮拝いたしま す(adityaẓin yṳkünü täginür män) 」 ,同第 201 窟(= Pelliot 第 59 窟)にも「私アディティヤシンが禮拝します (adityaẓin yṳkünürmän) 」というウイグル銘文を復元することができる。この兩窟については,敦煌研究院から 調査許可を得られなかったため,筆者はこれらの銘文を實見していないものの,本文に示したものと同様に, 問題のアディティヤシン律師によって記されたものと確信する。ちなみに薩仁高娃 2006, p. 781 は,Pelliot の模 寫によって第 197 窟の銘文を adibra ece yobozu daciluna と試讀したが,訂正すべき[Matsui 2008c, p. 29, fn. 18] 。 8 森安 1980; MOTH, pp. IX-XXII; 森安 1991, pp. 145-147; 榮新江 1996, pp. 364-385; 森安 2000; Rong 2001; Russel- Smith 2005; 森安 2007, pp. 3, 30-32. 40 次に,時代を降って,西暦 13 ~ 14 世紀のモンゴル時代に屬する題記銘文を檢討する。 銘文 4B: 楡林窟 33 窟・主室北壁,劫魔變相圖の中央の短冊部分に書かれた草書體銘文。こ の短冊部分には4行分のスペースがあるものの,實際には3行しか書かれず,末尾には1行分 の空白が殘されている。 1 qočo balïq-lïγ-ï darm-a - - - - - - - - - - bu ïduq 2 aranyadan-qa yṳküngäli kälip yṳkünüp yanar-ta 3 bitiyü tägintim kinki körgü ödig bolzun tip 「①高昌の城民であるダルマ‥‥‥‥‥この聖なる②阿蘭若に禮拝しようとやって來て,禮拝し て戻る時に,③私は書き奉った。“ 後人が見る記念となれ! ” と」 “1(I), the inhabitant of Qočo-City, Darm-a, ..... 1-2came to worship to this sacred hermitage. When I return, 3 I wrote (this inscription), saying “May (it) be the memory that posterity should see!” 銘文 4C: 楡林窟 12 窟・甬道南壁,前掲銘文 3A の西側(向かって右,入口側)隣。袋文字で 裝飾的に書かれた草書體銘文。 1 XW(. .)DYN turpan-lïγ 2 ïnšïṭu (.) 「‥‥‥‥トゥルファン出身のインシドゥ」 “[......] Ïnšïdu from Turfan” 【語註】 4B1a, qočo balïq-lïγ-ï :「高昌の城民」 。所有語尾 –ï が後續していることから,Uig. balïq-lïγ が「城 市に屬する者;都城の住民,城民」を意味している。 4B1b, darm-a : < Skt. dharma. 本處では人名であろう。後續部分は不鮮明で十分に判讀できない が,彼の同行者の名が記されていたのであろう。 4B2, aranyadan : サンスクリット語 araṇyayātana「阿蘭若;寂靜處,遠離處」の借用語。これがト カラ語 araṇyāyataṃ ~ araṇyataṃ の仲介形式であることを,Dieter Maue 博士から私信にて教示され た。特記して深謝する。 4C1a, XW(. .)DYN : あるいは XW(ČW)DYN = qočodïn「高昌から」と讀めるかもしれない。 4C1b, turpan-lïγ : トゥルファン(Turpan)は,現在の吐魯番(Turfan)市に比定される地名。 41 4C2, ïnšïṭu : 人名。漢語「恩師奴」または「印師奴」に由來するものか。後續語は第1字のみ書 かれて中斷されている。 さて,モンゴル帝國期においてもウイグル人佛教徒が敦煌=甘粛・河西地域とトゥルファン=東 部天山地方を結んで活發な移動・交流を展開したことは,すでに明らかにされている。それを如實 に示す事實としては,①「高昌國(Qočo uluš) 」すなわちトゥルファン地域のウイグル王國でウイ グル人のために作成され弘通した佛典『觀音經に相應しい譬喩(avadāna) 』が,沙州=敦煌で書寫 されていること[庄垣内 1976, pp. 05, 027; 庄垣内 1982, esp. pp. 5–10],②敦煌を支配するチャガタ イ系西寧王家の求めに應じてトゥルファン地域出身のウイグル佛僧が佛典を寫經していること[庄 垣内 1974, pp. 044–045, 048; Zieme / Kara 1978, pp. 162–163],③ 14 世紀後半,大元ウルス(元朝) から「灌頂國師(Mong. gon-ding gui-ši)」の稱號を與えられたチベット佛教の高僧ドルジ = キレシ ス = バル = サンポ(Dorǰi-Kiresis-Bal-Sangpo)が,高昌や北庭・バルクル(Bars-Köl > Barkul > 巴里 坤)などチャガタイ = ウルス(チャガタイ = ハン國)支配下の東部天山の諸都市で巡禮・佛教活動 を行ない,その際にチャガタイ = ウルスから與えられた保護特許状を敦煌まで持ち歸っていること [松井 2008a; Matsui 2008b] ,④敦煌出土のモンゴル時代ウイグル語文獻中に,高昌(Qočo)やリュ クチュング(Lükčüng < Chin. 柳中)などトゥルファン盆地内の地名に言及する──おそらくは トゥルファン地域から敦煌に發送された──ウイグル語書簡(Pelliot 181 ouïgour, Nos. 203+195+197 recto)が含まれること[森安 1985b, pp. 64–65, 75–87],などが擧げられる。一方,ここで提示した 楡林窟の題記銘文 4B・4C はいずれも草書體で書かれており,西暦 13 ~ 14 世紀のモンゴル時代に 屬することは確實である。モンゴル時代においても,楡林窟・莫高窟が,トゥルファン地域のウイ グル人にとっても重要な佛教聖地となっていたことを確認できる。 ところで,モンゴル時代に「皇慶寺」として重修された莫高窟第 61 窟(Pelliot 第 117 窟)の甬 道南壁西側には,西夏期の供養比丘尼像が描かれている。この比丘尼像の西側(=比丘尼の左脇 側)にはモンゴル文題記銘文5行,東側(=比丘尼の右脇側)には草書體のウイグル語題記銘文4 行が殘されている9。つとに森安孝夫は,この4行の銘文を部分的に紹介し,銘文の筆者として 「高昌出身のムングスズ沙彌(qočo-luγ mungsuz šabi)」がみえることから,モンゴル時代における 河西・トゥルファン兩地域間の人的交流を示す傍證とした[森安 1988, pp. 441–442]。しかし筆者 は,この銘文を實見調査した結果,森安の見解は若干の修正を要すると考えるに至ったので,以下 に全文の校訂テキストを銘文 4D として提示しつつ檢討する。なお現地調査において,この銘文 4D のすぐ東側に,おそらく同一人物の筆寫した2行のウイグル語銘文をも發見した。こちらの銘 9 この供養比丘尼像については,すでにカラー寫眞も公刊されている:敦煌文物研究所(編)『中國石窟・敦煌 莫高窟』第 5 巻,平凡社,1982, pl. 160; 段文傑(編)『中國敦煌壁畫全集 10・敦煌西夏元』天津人民美術出版 社,1996, pl. 183. そのカラー寫眞からも,ある程度,モンゴル語・ウイグル語題記銘文を確認することができ る。なお,5行のモンゴル語銘文は,敦煌研究院考古研究所・内蒙古師範大學蒙文系 1990, p. 9 によりほぼ完 全に解讀・校訂されている。 42 文は既刊行の圖錄類では確認できないので,あわせて銘文 4E として校訂案を示す。いずれの銘文 も草書體で書かれており,また čölgä, manglay, qour などモンゴル語からの借用語(語註參照)から も,確實に 13 ~ 14 世紀のモンゴル時代に比定できる。 銘文 4D: 莫高窟第 61 窟・甬道南壁,草書體ウイグル文4行【圖版 3】 1 yïlan yïlïn tangut čölgä-täki manglay 2 taykim baγatur bu mančuširi bodistv-qa yṳküngäli 3 kälip yṳkünüp barïr-ta kin-ki körgü bolzun tip qop 4 kiši-tä qour ko̤ ngül-lüg qočo-luγ mungsuz šabi qy-a bitiyü tägintim 「①蛇年に,タングト路の前衞②(の萬戸長)タイキム = バアトルが,この文殊菩薩に禮拝しよ うと③やって來て,禮拝して行く時に,“ 後人が見るものとなれ! ” と,全ての④人のなかでも邪 心ある,私こと高昌出身のムングスズ沙彌めが書き奉った」 “1In the year of Serpent, (the myriad of) the vanguard of the Tangut Circuit, 2-3Taykim-Baγatur came (here) to worship this (statue of) Manjuśrī Bodhisattva. 3When (he) worshipped and departed, saying “May it be (the memory) that posterity should see!”, 4I, Mungsuz-šabi-qya from Qočo who has the evilest heart among all the people, humbly wrote (this inscription).” 銘文 4E: 莫高窟第 61 窟・甬道南壁,草書體ウイグル文2行。 1 yïlan yïl tangut čölgä-täki 2 manglay-taqï tümän (bä)gi tayk(im) 」 「①蛇年(に),タングト路の②前衞所屬の萬戸長タイ(キム) “1In the year of Serpent, 1-2the myriad of the vanguard of the Tangut Circuit, Taykim” 【語註】 4D1/4E1, tangut čölgä : 周知のように,tangut は漢文史料にみえる「唐古;黨項」すなわちタング トに相當し,西夏人・西夏國およびその支配下にあった河西地域をさす[SUK Mi05; SI Kr IV 638190; Raschmann 2012; Zieme 2012] 。これに後續する čölgä は,元代の行政區畫「路」に相當するモンゴ ル語 čölge の借用語である[cf. Matsui 2008c, p. 27] 。從って,本處の「タングト路(tangut čölgä)」 とは「西夏路」の謂いであり,舊西夏國の首都であった中興府(興慶,現在の銀川)を治所として 設置された元代の西夏中興路,のちの寧夏府路をさすことになる[cf. 高橋(編)2007, p. 237] 。 43 4D1/4E2, manglay : モンゴル語 manglai「先鋒,前鋒,前衞」の借用語[TMEN I, Nr. 369]。漢文 史料では「莽來」と音寫される。 4D2a, taykim baγatur : 人名 taykim はあるいは漢語起源かもしれない。周知のように,baγatur は 「英雄,勇士」を意味する人名または稱號である。 4D2b, mančuširi bodistv : < Skt. manjuśrī bodhisattva「文殊菩薩」。これが巡禮對象として言及され るのは,この莫高窟第 61 窟の主尊が文殊菩薩であったからである。 4D4, qour : モンゴル語 qour ~ qoor「毒,惡毒;危害;邪惡,惡意」[Lessing, p. 973; MKT, p. 641] の借用語とみなし,qour ko̤ngül で「邪心」と考える。自身の佛教信仰が未熟であることを謙遜した 表現であろう 10。 4D5, qočo-luγ mungsuz šabi :「高昌出身のムングスズ沙彌」。ウイグル人名 mungsuz は漢文史料 では「孟速思」と音寫される。モンゴル時代の同名人物としては,北庭ビシュバリク(Biš-Baïq) 出身のウイグル人で世祖クビライの卽位にも貢獻したムングスズ(孟速思)がいるが,この銘文の ムングスズとは別人であろう[cf. 森安 1988, p. 442]。 4E2, tümän (bä)gi :「萬戸長,萬人長」を意味し,モンゴル時代のウイグル語文獻にも在證される。 ちなみに,モンゴル語の tümen noyan「萬戸長」を借用した tümän noyïn という形式もウイグル語に は在證される[松井 2003, pp. 58–59] 。元代の西夏中興路=寧夏路に「萬戸:萬戸府」が存在した ことは,編纂史料中にも確認できる 11。 さて,上掲のような銘文全體の理解からは,このウイグル語銘文 4D・4E を記したムングスズ沙 彌(Mungsuz šabi)は,彼自身の出身地(もしくは本貫)は高昌(Qočo)であったとはいえ,直接 には「タングト路」つまり西夏中興路・寧夏府路から西方の敦煌近邊へ出征した萬戸長タイキム = バアトルに随行して敦煌を訪れた可能性が高い。換言すれば,この銘文は,モンゴル時代の敦煌を めぐるウイグル人佛教徒の巡禮圏の東端が,肅州・甘州・永昌を越えて,さらに東方の寧夏路にま で及んでいたことを推定させる。寧夏路から敦煌に巡禮した佛僧の實例は,莫高窟第 5 窟(Pelliot 第 169 窟)・第 98 窟(Pelliot 第 74 窟) ・第 465 窟(Pelliot 第 182 窟)の漢文題記銘文にも見出すこ とができる[GTH VI, p. 28, fig. 445; GTH III, p. 4, fig. 192; GTH VI, p. 36, fig. 454; DMGD, p. 175; cf. Matsui 2008c, p. 27] 。ウイグル人佛教徒の巡禮圏の擴がりが,東方の中華地域からの漢人佛教徒の 巡禮とどの程度重なり合うのかという問題や,さらには寧夏路を故地とする西夏人佛教徒とウイグ ル佛教徒との關係の様相も 12,今後解明されるべき課題である。 10 『飜譯名義大集(Mahāvyutpatti) 』では,サンスクリット語の「害心,瞋恚(vyāpāda)」や「暴惡(raudra)」に 對應するモンゴル語として qour-tu (~ qouratu) sedkil「邪心」が用いられる[Mvy, Nos. 1603, 1703, 2956]。 『元史』巻 30・泰定帝本紀・泰定三年(1326)十月条「寧夏路萬戸府,慶遠安撫司饑,並賑之」;『元史』巻 11 12 39・順帝本紀二・至元三年(1337)正月癸丑「立宣鎮侍衞屯田萬戸府於寧夏」。 例えば,モンゴル時代の敦煌のウイグル人佛教徒が西夏語佛典を通じて佛教を學習していた可能性を指摘した 拙稿[松井 2012a; Matsui 2012b]も參照。 44 參考文獻目錄 Battacharya-Haesner, Chhaya 2003 : Central Asian Temple Banners in the Turfan Collection of the Museum für Indische Kunst, Berlin. Berlin. DMGD = 敦煌研究院(編) 『敦煌莫高窟供養人題記』文物出版社,1986. 敦煌研究院考古研究所・内蒙古師範大學蒙文系 1990:「敦煌石窟回鶻蒙古文題記考察報告」『敦煌研究』1990–4, pp. 1–19, +5 pls. Geng Shimin 耿世民 / James Hamilton 1981: Lʼinscription ouïgoure de la stèle commemorative des Iduq qut de Qočo. Turcica 13, pp. 10–54. GSR = Bernhard Karlgren, Grammata Serica Recensa. Stockholm, 1957. GTH = Paul Pelliot, Grottes de Touen-houang, 6 vols. Paris, 1981–1992. 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Budapest. 附記 本稿は科學研究費(基盤研究 (A) ・基盤研究 (C) )および平成23年度三菱財團人文科學研究助成「敦煌石窟 の供養人像と諸言語銘文の歴史學・文獻學的總合研究」による研究成果の一部である。敦煌諸石窟の諸言語 銘文の調査研究を許可され,種々の便宜を圖られた中國莫高窟敦煌研究院に,この場を借りて謝意を表したい。 また,現地調査において様々な局面でご支援を下さった,白玉冬(内蒙古大學)・坂尻彰宏(大阪大學)・荒川 愼太郎(東京外國語大學) ・佐藤貴保(新潟大學) ・岩尾一史(神戸市外國語大學)・赤木崇敏(大阪大學)の各 氏にも深謝する。なお,本稿の内容の一部は,2012年11月に北京・中央民族大學で開催された「西域・中亞 語文學國際學術研討會」で報告しており,おって中國語でも刊行される予定である。 47 1A 【圖版1–1】楡林窟第39窟・前室甬道北壁,ウイグル女性供養人像 (段文傑(編) 『中國敦煌壁畫全集10・敦煌西夏元』天津人民美術出版社,1996,圖12) 1B 【圖版1–2】楡林窟第39窟・前室甬道南壁,ウイグル男性供養人像 (段文傑(編) 『中國敦煌壁畫全集10・敦煌西夏元』天津人民美術出版社,1996,圖10) 48 2B 2A 【圖版2–1】莫高窟第332窟・甬道南壁,モンゴル装束男性供養人像 (敦煌文物研究所(編) 『中國石窟敦煌莫高窟』第5巻,平凡社,1982,圖162) 2C 【圖版2–2】莫高窟第332窟・甬道北壁,モンゴル装束女性供養人像 (敦煌文物研究所(編) 『中國石窟敦煌莫高窟』第5巻,平凡社,1982,圖161) 49 4D 【圖版3】莫高窟第61窟・甬道南壁,供養比丘尼像 (段文傑(編) 『中國敦煌壁畫全集10・敦煌西夏元』天津人民美術出版社,1996,圖183) 50 前川國男とモダニズム建築 李 梁 建築はその本来の姿において、技術として人間生活の外面的庇護であると同時に、芸術 もり としての内面的支柱であった。 (中略) 「芸術の杜」から「技術の丘」にかけ渡された壮大な 「建築の虹」の真中に、両手を挙して立ちはだかるものは、いうまでもなく楽しきが故に踊 り、哀しきが故に泣く赤裸で健康な人間でなければならない。 ――前川國男「建築の前夜」 (1942・ 5 ) はじめに 東京上野駅の公園口を出ると、静かに佇むある巨大な建築物がすぐ目に入る。それはつまり、い つも高水準のコンサート、とりわけオペラの上演で知られる東京文化会館(1961 年竣工)である。 モダニズム建築(Modernism Architecture、近代建築ともいう)の粋を集めたこの音楽ホールは、1962 年度の日本建築学会賞にも輝いた。設計者は、戦前から日本モダニズム建築を牽引した先駆者の前 川國男(1905–1986)である。そして、そのすぐ傍に、どこかで似通うもう一棟の近代建築物、つま り国立西洋美術館(1959 年竣工)が建っている。その設計者は、ほかならぬ前川の異国の師であり、 20 世紀を代表するモダニズム建築の巨匠、詩人、彫刻家および画家でもあったル・コルビュジェ (Le Corbusier、1887‒1965)1 である。後々までの語り種となっているが、昭和 3 年(1928)3 月末、前 川が、大学卒業したその日の夜から渡仏の途についた。かれはまず、陸路で東京から神戸へ、そし て、海路で中国の大連に着いてから、さらにハルビン経由のシベリア鉄道で、のべ 17 日間をかけ て、ちょうどマロニエの花が咲き、風薫るパリに辿りついた。早速、翌日からコルビュジェのアト リエ入りを果たし、都合 2 年間、直にその咳声に接し、薫陶を受けていた。その一方、折りを見 て、西欧諸国への旅に出て、大いに見聞を広げて、昭和 5 年(1930)春に日本に舞い戻った。前川 1 ル・コルビュジェ (Le Corbusier)はペンネームであり、本名は Charles Edouard Jeanert-Gris である。コルビュ ジェは、グロピウス(Walter Adolf Gropius、1883–1969)、デーロ(Ludwig Mies van der Rohe、1886–1969)ととも に、二十世紀モダニズム建築の三大代表的建築家である。国立西洋美術館の設計に、コルビュジェの日本人三大 弟子、つまり前川國男、坂倉準三(1904–1969)、そして吉阪隆正(1918–1980)が助手として参加した。なお、 1975 年 5 月、前川國男が設計した新館が旧館の裏側に竣工。新旧二館では、設計思想から意匠まで、恰も師弟 対話のようであり、一見する甲斐がある。 51 は、帰国後、まもなくアンドニン・レーモンド 2(Antonin Raymond、1888‒1976)設計事務所に入り、 都合 5 年間の磨きをへて、1935 年 10 月 1 日、 「前川國男建築設計事務所」を設立して独立した。以 来、前川は、モダニズム建築とその理念の日本定着に腐心し、そして、生涯にわたって、近代建築 のために闘い続けていた。 3 年竣 ところで、奇縁とでもいえるかも知れないが、前川の処女作である木村産業研究所 (1932 工) 、および最晩年の作品のひとつである弘前市斎場(1983 年)は、どれも異国情趣が漂う「東北屈 、弘前市役所 指の文化都市弘前 4」に建っている。そのほかにまた、弘前中央高校講堂(1954 年) (1958 年) 、弘前市民会館(1964 年) 、弘前市津軽病院(現在弘前市立病院、1971 年) 、弘前市役所新 庁舎(1974 年) 、弘前市立博物館(1976 年) 、および弘前市緑の相談所(1980 年)などがある。いわ ば、日本モダニズム建築の先駆者として、前川の作品数が、国内外では延べ 260 点も数えられる が、一地方の都市に密集し、しかも、断続あるものの、半世紀あまりの長きにわたって建てつづけ られたのは、弘前以外に全く類例はない。こうした作品群は、前川の建築理念の活写のみならず、 日本近代建築史という長巻の見事な縮図とでもいえるであろう。 本稿では、近代建築の歴史的背景から出発し、前川の弘前における作品を通じて、その建築と理 念について、予備的な考察を行うものである。 一、前川國男と弘前 1905 年(明治 38)5 月 14 日、前川國男が新潟で生を享けた。父の前川貫一(1873‒1955)は、近江 藩(現在滋賀県)士族の出であり、当時は、内務省土木技師(勅任官)として、信濃川改修工事のた めに、新潟赴任中であった。母の菊枝は、旧姓田中、弘前藩の名門の出であった。1904 年、貫一 は、赴任地で菊枝と見合い結婚し、翌年、長男の國男が生まれた。國男のほかに、また二子を設け ていた。次男の信夫は早逝したが、三男の春雄は、すなわち後に、名高い「前川リポート」で知ら れる第 24 代日本銀行総裁を務めた前川春雄(1911‒1989)である。ここで、特筆すべきもうひとりの 人物がいる。つまり、前川の伯父にあたる佐藤尚武(1882‒1971)である。尚武は、前川の母菊枝の 2 A・レーモンドは、チェコ生まれの米国籍建築家である。プラハ工科大学卒後、1910 年に渡米し、キャス・ギ ルバート(Cass Gilbert、1859–1934)や F. L. ライト(Frank Lloyd Wright、1867–1959)などに師事。1919 年、帝国ホ テルの設計監理のため、師のライトとともに来日したが、やがて日本の建築、工芸の美と機能に惹かれ、また師 とも馬が合わず、20 年東京に「アーモンド設計事務所」を開いて独立した。第 2 次大戦中一時帰国したが、戦後 再来日、日本建築協会の終身会員として日本で活動を続けた。戦前の作品に東京女子大学講堂チャペル(1934)、 軽井沢の聖パウロ・カトリック 教会(1934)がある。初の建築学会賞受賞作リーダーズ・ダイジェスト東京支社 (1950–52)は、当時の日本の水準をはるかに超えており、大きな影響を与えた。後に名古屋の南山大学で再び学 会賞(1964 年度)を受賞。自邸をはじめ、住宅作品には日本伝統の木造構造が巧みに生かされ、高い評価が与え られている。前川は、製図設計、事務所経営、とりわけ伝統の重視などにおいて、その影響を受けていた、という。 3 4 2003 年国登録有形文化財、翌年日本 DOCOMOMO 建築 100 選の 1 つとして認定された。 前川國男「設計者のことば」 、 『弘前市民会館完成パンフレット』 。 52 図1 『A-haus』創刊号の「前川國男と弘前」特集。提供:A-haus 編集部 次兄であり、後に同じく弘前出身の外交官佐藤愛麿(1857‒1934)の婿養子となったため、佐藤と改 姓した。尚武は、養父の衣鉢を受け継いで、同じく外交出仕の道を選んだ 5。前述した前川の渡仏 も、佐藤尚武からの支援がなければ或いは果たせなかったかも知れない。というのは、当時、尚武 は、ちょうど国際連盟の帝国事務局長としてパリ駐在中だったからである。後で詳述するが、前川 國男と弘前との建築上の因縁も、そうした経緯の中から生まれたのである 6。 1909 年(明治 42) 、前川一家は、父の本省帰任のため、東京に移り住むようになった。以降、前 川は、東京真砂小学校、東京府立第一中学校、旧制官立第一高等学校、および東京帝国大学という ふうに、順調にエリートの道を歩んでいた。教育ママといわれた母菊枝からの躾もあって、前川 は、幼い時から、学校の勉強は勿論のこと、とくに音楽、美術、美食といった「趣味」も植えづけ られたようである。そういうわけで、前川は、生涯にわたって深い教養に裏打ちされた多様な趣味 5 佐藤尚武は、ハルビン駐在日本総領事から、ベルギー、フランス、ソ連大使および外務大臣を歴任し、戦後は また、参議院議長を務めていた。その事跡について、栗原健ほか『佐藤尚武の面目』 (原書房、1981 年)に詳し い。なお、佐藤の著書『回顧八十年』 (時事通信社、昭和三十八年)の中で、「甥 前川國男の二、三の事」 (379‒382 頁)という一節を割いて、前川の渡仏支援の経緯を叙述している。 6 前川國男の生い立ち、経歴および建築の思想について、本稿では、主として以下の諸文献を参考していた。宮 内嘉久『前川國男 賊軍の将』 (晶文社、2005 年) 、同氏編『一建築家の新條 前川國男』 (晶文社、1981 年)、同氏 「年譜ノート―前川國男小史」 、同氏編『前川國男作品集―建築の方法Ⅱ』 (美術出版社、1990 年)、橋本功ほか 「前川國男年譜」、同上作品集所収;前川國男文集編輯委員会『建築の前夜 前川國男文集』 (而立書房、1996 年 /2006 年) ;長谷川尭「論考―前川國男『告白』についての読み直し」、同氏の優れた評論集『建築の出自 長谷川尭 建築家論考集』 (鹿島出版社、2008 年) 、同氏『神殿か獄舎か』 (相模書房、1972 年 / 鹿島出版社、2007 年再版); 前川國男建築設計事務所 OB 有志『前川國男 弟子たちは語る』 (建築資料研究者、2006 年);松隈洋『前川國男 現代との対話』 (六曜社、2006 年) 、同氏『前川國男の戦前期における建築思想の形成について』 (東京大学博士論 文、未刊。本論文を提供し、かつ使用をご快諾くださった京都工芸繊維大学の松隈洋教授に感謝する);八束は じめ『思想としての日本近代建築』 (岩波書店、2005 年)。 53 を有し、音楽、とりわけオペラをこよなく愛していた。建築家として名を成した後、その作品に博 物館、美術館および音楽ホールといった公共建築が多く見えるのも、それと無関係ではかったであ ろう。ともかく、前川の「詩人的資質」 、並びに後の建築理念の内核の形成が、入学前の生地・新潟 での記憶、および一高時代の経歴と密接な関係があるようである。 津軽の弘前と同じく、前川が五歳まで住んでいた新潟も、日本の豪雪地帯のひとつに数えられ る。真冬の吹雪の夜、窓に当る雪の物哀しい音、信濃川を行き交う蒸気船、または運河の壕端に植 えられる柳の並木、父に連れられていった西洋料理店「イタリア軒」の白い羽目板と、そのバルコ ニーから手を振るイタリア人店主の印象……等々、いずれもその人生の原風景となったであろう 7。 とくに、青春多感な一高時代では、前川は、当時の若い知識層の間で人気を博している厨川白村 (1880‒1923)の影響を受け、ロバード・ブラウニング(Robert Browning、1812‒1889)の小説、イェー ツ(William butler Yeats、1865‒1939) 、キーツ(John Keats、1795‒1821)などの詩集を耽読していた。 これが、その詩人的気質を一層濃くしたであろう。だが、この時期、前川の生涯にとって、ある意 味で、決定的な影響を受けていたのは、次の二点である。 高校時代、旺盛な知的好奇心をもつ前川は、時代風潮の影響もあって、読書の渉猟範囲が非常に 広く、社会主義系の河上肇(1879‒1946)やラスキン(John Ruskin、1819‒1900)をも含めた内外の名 8 を原書 著を耽読していた。殊に、ラスキンの『建築の七灯』 (The Seven Lamps of Architecture、1849) ディテール フィクション で繰り返し読んで、 「 『細部』が本物でなかったら、建築という『虚構』が必ず崩壊する 9」という言葉 に深い感銘を受け、建築家になる決意を固めたのみならず、また後日、コルビュジェに師事する伏 線をも敷いたのである。また、アナーキストの大杉栄(1885‒1923)を通じて、ロシアの亡命革命家 クロポトキン(P・A・Kropotkin、1842‒1921)の思想に接し、当時、多くの青年学生と同じく、一時 思想的にアナーキズムに接近していた 10。晩年の前川は、当時の状況を振り返って、次のように述 懐している。 「あの時代に『権力国家』に対して、 『人間社会』をおきかえ、 『資本の恣意』に対して、 『人間的必要』をおきかえようとした無政府主義の存在した事実に、私は多大の脅威と共感を 11」 もっていたのである、と。こうした青春時代の思想的遍歴は後日、おのずとその建築理念、および 社会観に深い痕跡を残したと思われる。 1925 年(大正 14)4 月、前川が東京帝国大学工学部建築学科に入学した。ところが、前川は、当 時の学科雰囲気にどうも馴染めなかった。つまり、建築史イコール様式史、建築の背後にある社会 的、文化的意味を顧みないという学風に飽き足らなかったからである。20 年代の初め、分離派建築 会 12 がすでに工学中心の教育方針に異議申し立て始めたが、前川が入学の時、学科では、依然とし 7 前出『前川國男 賊軍の将』 、16 頁。 邦訳版は、高橋銷枩川訳『建築の七灯』 (岩波文庫、青 670. 4 、1930/1991 年)がある。 8 9 10 11 同注 7、20 頁。 前川が読んだのは、クロポトキン著、大杉栄訳『一革命家の思出』である。 「文明と建築」 『建築年鑑』 、1964 年、注 7、20 頁。 54 とし かた て、工学を重視する構造学派の面々に牛耳られていた。例えば、主任教授の佐野利器(1880‒1956) や、後に東京大学総長を務めた内田祥三(1885‒1972)などは、然りである。いわゆる構造学派と は、建築設計において、その工学的構造を重視し、芸術性、装飾性反対、またはそれを忌避しよう とする考え方をもつ人々である。1915 年、当時、助教授だった内田祥三の慫慂のもと、野田俊彦 (1891‒1932)は、卒業論文の一章を大幅に加筆し、 「建築非芸術論」と題して、同年 10 月号の『建築 雑誌』に掲載した。これは、いわば分離派批判の狼煙を挙げたとも見てよかろう。 若し明治の草創期に、学科では、歴史学派 13 の様式史観の天下だったとすれば、大正時代の後期 に入って、とくに関東大震災(1923 年)以後、漸次、力を蓄えてきた第三世代が構造主義の旗を高 く掲げながら、ついに檜舞台の主役の座を射止めたと言えよう。これと同時に、西ヨーロッパから 舶来した表現主義(Expressionism)も一世を風靡し、前川の周りでも、競い合うようにそれを物真似 る人々が後絶えなかった。これなら、地中海のような透明な色彩、開放的空間を憧れる前川にとっ て、まさに困惑が極まる状況だったのである。そこで、前川が自費でアテネ・フランセに通い、フ ランス語を習い始め、かつ海外最新の建築雑誌を定期購読し、その中で、コルビュジェの「白い箱 型」の設計に触れ、その幾何学の抽象美、簡潔明瞭のピューリスム(purisme)の造型に強い衝撃を感 じた。折しも、恩師の岸田日出刀(1899‒1966、当時は助教授)がコルビュジェの著書を薦めたた め、前川の渡仏する意欲が一層掻き立てられたわけである 14。 前述したように、前川は、パリセーヴル街三十五番地にあるコルビュジェのアトリエで二年間の 歳月を過ごした。かれは、製図、設計から建築思想まで、どっぷりとコルビュジェの薫陶を受けて いたが、日常生活の情趣においては、士官学校卒のエリート軍人、駐仏大使館付武官としてパリ駐 在中の木村隆三(1899‒1944)から多大な影響を受けたようである 15。1934 年 5 月、来日中のドイツ 人建築家ブルーノ・タウト(Bruno Taut、1880‒1938)が弘前を訪ねた時に出会った「フランス語を話 よしみ す上品な紳士 16」こそ、木村隆三である。パリ駐在中の木村は、同郷の誼もあって、公私にわたっ て相談する相手となった佐藤尚武を通じて、ちょうど佐藤邸に寄宿する前川國男とも知り合うよう 1920 年、堀口捨己(1895‒1984)ら東京帝国大学建築学科同期卒業の 6 名で結成された建築文化運動の会派であ 12 る。かれらは、 「建築は一つの芸術である」というキャッチフレーズのもとで、建築における工学構造主導の傾 向に対し、芸術的創作行為としての建築を主張していた。会の活動は、展覧会と図録の刊行が中心だったが、平 和記念東京博覧会の諸建築(1922)、東京中央電話局(山田守、1925)、東京朝日新聞社(石本喜久治、1927)など の会員作品もある。 13 伊東忠太(1867‒1964) 、関野貞(1868‒1935)を代表とする第二世代の学院派建築家を指す。彼らが、建築様式 史の研究を重視することから名づけられたのである。 岸田が前川に読ませたのは、それぞれ『建築への道』 (Vers une Architecture)、『今日の装飾芸術』 (L’Art décoratif d’aujour d’hui)、『都市化』 (Urbanisme)および『近代建築年鑑』 (Almanach de l’architecture moderne)である。『今日 14 の装飾芸術』の最後に附したコルビュジェの「告白」に前川が大いに感銘を受け、自らその本を邦訳して公刊した ほどである(1930 年出版、1966 年改訳再版) 。 前川のパリ滞在について、 「一九二八、パリセーヴル街三十五番地」 (『A+U』、1974 年 2 月号、前川設計建築事 15 務所所長橋本功氏の提供による) 。 ブルーノ・タウト著、篠田英雄訳『日本美の再発見』 (岩波新書 R10、2005 年増補改訳版)、105 頁。 16 55 図 2 木村産業研究所落成記念写真。前列左は木村隆三、右は木村新吾、 後列真中は前川國男、彫像は木村静幽。写真提供:木村文丸氏 になった。年齢、趣味ともに近いゆえ、二人はすぐに意気投合し、親しく交遊するようになった。 気がつくと、殆ど毎晩のように、前川は、木村に連れられて、学生向けの立席の安いチケットでオ ペラハウスに通いたり、或いはムーラン・ルージュやダンスホールで楽しんだりしていた、とい う。1930 年春、木村隆三が任期を終え、前川國男と同じ船で帰国の途についた。そもそも木村家で きっての秀才といわれた隆三は、明治後、実業家となった祖父 木村静幽(1841‒1929、最後は広島 電力会社取締役社長)の遺志を受け継いで、郷里の弘前を振興するため、地場産業を興す計画を 持っていた。そのため、研究所ビルの建築設計は、きわめて自然に前川に頼んだわけである。前川 が弘前との建築上の因縁は、こうして生じたのである。 二、洋風建築、擬洋風とモダニズム建築 1868 年(明治元年) 、明治維新によって、二世紀半も続いた徳川幕府の幕藩体制はついに幕が降 「世界に智識を求めん」 ( 「五箇条の誓文」 )とする姿 ろされた。明治新政府は、発足するやいなや、 勢を鮮明に打ち出し、文明開化、殖産興業および富国強兵という三大政策の実施によって、欧米に 追い付き、追い越そうとしている。まさに一辺倒の欧化政策を展開していた。明治新政府は、産 業、軍事のほか、銀座煉瓦街や官公庁街のように、建築の西洋化をも鋭意に推進していた。各級の 56 官公庁舎、郵便局、銀行、とりわけ学校および工場などの公共建築に、殆ど例外なく西洋式が導入 された。1883 年(明治 16) 、コンドル 17(Jasiah Conder、1852‒1920)が設計した鹿鳴館は竣工すると、 派手な洋装で着飾った紳士淑女達が連日のように舞踏を繰り広げ、一時、文明開化の象徴的所在と なった。 いわゆる洋風建築、擬似洋風建築が、こうした時代風潮の中で生まれたのである。なお、対外拡 張政策の展開に伴い、国粋主義的な洋風建築、つまり、帝冠式の建築が計画的に、かつ大規模に植 民地となった台湾、朝鮮、および中国の東北三省(満州国)に建てられるようになった 18。 明治初期の洋風建築は幕末頃、幕府または各藩から招かれ、その後、日本に残留した各国の技師 の手によるものは一般的であるが、それと同時に、そういった建築工事に参加した一部の日本人大 工棟梁も、後に見よう見まねで洋風の建物を試みるようになったが、専門知識の欠如、建材や施工 レベルの制限、並びに彼らによる独自の解釈も加え、出来上がったのは、大抵、和洋折衷のもので ある。すなわち、洋風構造の上に和風の屋根や軒下を掛けるという擬似洋風の様式である。明治 二十年代(1887 年)に入ってから、正規のアカデミー訓練を受け、しかも海外留学の経験をもつ辰 野金吾(1854‒1919)らが頭角を現したことによって、擬似洋風建築が漸く歴史の舞台から退場され るようになった。そして、大正十年代(1922 年以後)に入り、第二世代の歴史学派に継いで、近代 建築とその思潮も正式に登場してきた。 弘前という地方都市からみれば、建築様式の変遷ぶりは上述の時系列に髣髴する。十七世紀初期 17 鹿鳴館は、コンドルが設計建造した社交の場であり、近代日本における洋風建築の代表的傑作のひとつであ る。コンドルは、ロンドン生まれ、1876 年にイギリス王立建築家協会(RIBA)主催の設計競技に一等入賞し、優 れた才能を示した。翌年(明治 10)工部省の招きで来日、工部大学校造家学教師として、辰野金吾,片山東熊 (1854‒1917) 、曽禰達蔵(1853‒1937)ら近代日本第一世代の学院派建築家を育て、日本の近代洋風建築の基礎を 作った。ゴシック様式を得意としたが,後に古典主義様式へと回帰した。代表作は、上野博物館(1881),鹿鳴 館(1883) ,三菱 1 号館(1894)などがある。なかでも、1896 年(明治 29)に造った岩崎邸(台東区池の端)は、17 世 紀イギリスのジャコバ-ンスタイル(Jacobean Style)を基調とし、ルネサンス、ないしイスラム風を織り交ぜて、 近代日本の洋風木製邸宅の最高傑作だとみなされた。コンドルは、日本文化に酔心し、着物、庭園および花道に 関する専門書も著している。日本舞踊にも造詣が深い。 18 日本の植民地における建築について、西澤泰彦による一連の研究が参照できる。とくに『日本植民地建築論』 (名古屋大学出版会、2008 年) 、 『東アジアの日本人建築家―世紀末から日中戦争』 (柏書房、2011 年)は代表的二 点であろう。日本植民地における建築は、いわゆる「帝冠式建築」―昭和初期からモダニズム建築へのアンチ テーゼとして流行った建築様式であり、つまり、洋風の鉄筋コンクリート構造の上に和風の瓦屋根を載せた和洋 折衷の建築様式―が目立つ。帝冠式建築は、 「軍服を着た建築」とも言われ、日本国内よりは植民地で多くみら れるというのは、すぐれて象徴的な意味あいがあると言えよう。例えば、名古屋市庁舎、神奈川県庁舎のほか に、中国長春(旧満州国新京)にある「八大建築」は代表的な例である。なお、1931 年、巣たちしたばかりの前川 國男が「東京帝室博物館」の公開懸賞コンペにおいて、主催側の「日本趣味」、「東洋式」という国粋的要求を無視 して、近代建築の設計で応募したが、みごとに落選した。血気盛んな若き前川は、同年六月号の『国際建築』の 上で、 「負ければ賊軍」 ( 『建築の前夜 前川國男文集』60 ~ 63 頁)という論文を公表し、味方の建築家に積極的に 設計競技に応募して「邪道建築」を駆除するよう呼び掛けた。それは、前川が生涯にわたって近代建築のために 闘う檄文でもあった。 57 図 3 弘前偕行社正面。筆者撮影 に築造された北東北随一といわれた弘前城は、津軽平野の南側に位置している。史料によれば、早 ため のぶ くも慶長 8 年(1603) 、津軽藩の初代藩主の津軽為信(1550‒1607)は、鷹岡(高岡ともいう、いずれ のぶ ひら も弘前の古称)で地割を行い、築城に備えたが、本格的に着工したのは、第二代藩主の信 枚 (1607‒1631)の慶長十五年正月である 19。一年後、五万石(後に十万石に加封)の弘前藩は、破格の 天守閣をもつ立派な城郭が完成された。そして、城を中心に、城下町も漸次整備され、明治初年に 到るまで、陸奥の国(現在の青森県あたり)の政治、経済および文化の中心地として栄えていた。 ところで、明治四年(1971)の版籍奉還、特に同年に行われた県庁の青森移転により、数千の士族 を抱えた城下町の弘前に、これといった産業がなく、士族の貧困化が深刻の一途を辿り、弘前も、 一時、非常な衰退ぶりを呈していた。漸く明治 27 年(1894)に至って、弘前・青森間の鉄道が開通 され、とくに翌々年に新設の第八師団の弘前進駐に伴い、道路、兵舎、病院、商店などインフラ建 設の需要が高まり、弘前の経済も大いに潤われ、弘前も段々と再び経済文化の中心地として蘇られ るようになった。弘前の洋風、または擬洋風建築が大抵そうした時期に現われた。弘前の洋風建築 において、当地出身の大棟梁・堀江佐吉(1845‒1907)を抜きに語れない。弘前現存の洋風または擬 洋風建築-例えば、青森銀行記念館(明治 37 年) 、東奥義塾外国人教師館(現在クリスチャンセン ター、明治 34 年) 、旧市立図書館(明治 39 年) 、弘前学院外国人宣教師館(明治 39 年) 、弘前偕行社 (現在弘前厚生学院記念館、明治 40 年) 、弘前教会(明治 40 年)および第八師団長官舎(大正 6 年)な 19 長谷川成一『弘前藩』 、吉川弘文館、2004 年。41‒42 頁。 58 図 4 弘前偕行社正面玄関ポーチと武学流和風庭園。筆者撮影 ど-は、殆ど堀江本人か、彼の弟子らによって設計施工されたのである。 独学で洋風建築を学んだ堀江は、早期作品には割と擬洋風のものが多く、後期になると、設計、 施工の技術の成熟につれ、独自の意匠や工夫を凝らした純洋風の建物をも手がけるようになった。 重要文化財に指定された弘前偕行社は、まさに好個の例である。弘前偕行社の設計は、堀江の手に よるものだったが、直後に堀江本人が病に倒れたため、施工監督の任は、二人の息子を含めた弟子 達の手に委ねていた。事実上、心血を注いだ弘前偕行社は、彼の遺作となったのである。図 3 、図 4 が示すように、弘前偕行社は、イタリアルネサンス風を基調とし、中央棟の玄関ポーチを軸に、 左右に配置された翼棟が東西方向へと緩やかな弧線を描きながら伸び広がっており、単純明快さの うえ、一種の流動感すら持たされる。玄関ポーチの上に「蜂」の鉄製飾りをしつらえ、第八師団の 「八」をかける意匠から堀江の遊び心が透かして見える。殊に、毎年春夏の季節になると、両翼棟が 生い茂る樹木の中に見え隠れ、洋風建築と武学流の和式庭園が渾然一体となって奥深きハーモニー を奏でている。文字通り、弘前の洋風建築の代表的傑作だと言えよう。 たとえ弘前の洋風建築の鼻祖が堀江佐吉でなければならないとしたら、前川國男は、弘前の近代 建築の父とでもいうべきであろう。 いわゆる近代(モダニズム)建築、すなわち合理主義建築とは、20 世紀 20 年代から 60 年代まで、 世界的な広がりをみせた新建築運動とその思潮である。近代建築では、古典主義建築にありがちの 過度の装飾に反対し、はてには「装飾すなわち犯罪」とさえ公言して憚らなかった。近代建築では、 造型においては、幾何学の抽象美、機械美学の均衡性を重視し、技術材料においては、最新の工業 59 図5 バウハウス学校 フリー百科事典 ウィキペディアによる 図6 サヴォア邸 出所同左 技術とその製品、例えば、鉄筋、ガラスとコンクリートの採用を推奨し、さらに、工業化社会の到 来に応えるため、建築における機能性、合理性を努めて求めていた。その理論的主張は、主に 19 世紀末から 20 世紀初期にかけて、ヨーロッパ大陸で展開された工芸、建築および都市計画上にお ける一連の革新運動─例えば、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement) 、 フランスのアール・ヌーヴォー (Art Nouveau) 、オーストリアの分離主義(Sezession)およびドイツ のバウハウス学派(Bauhaus)─に基づいたものだと考えられている。20 世紀 20 年代に、グロピウ ス、ライト、コルビュジェ、およびデーロは、漸次、空間的構成、規則性および装飾忌避を三大原 理とする国際建築様式(international Style)を打ち出していた。グロピウスのバウハウス学校(1926 年) 、コルビュジェのサヴォア邸は、初期の代表作である 20。 、および 1928 年 6 月 28 日、スイ ことに 1926 年、コルビュジェが提唱した「近代建築の五原則 21」 ス の ラ サ ラ 城 で 開 催 さ れ た「 近 代 建 築 国 際 会 議」 (Congrès Internationaux d'Architecture Moderne、 CIAM と略称。1956 年迄、延べ 10 回開催)は、近代建築のために理論武装を行ったのみならず、さ らに、それに倫理的精神をも賦与した。20 世紀 60 年代末、所謂ポストモダン思潮の興起に至るま で、様々な思潮が現れては消えていく中で、近代建築思潮が終始にして主流の位置を占め、しかも その中で、最後まで仁王立ちしていた舵手は、コルビュジェである。 初田亨ほか『近代建築の系譜 日本と西欧の空間表現を読む』 、彰国社、1997 年 /2007 年、46 頁、松村貞次郎ほ 20 か『近代建築史概説』 (1989 年 1 月第 9 刷)第二章「近代建築運動」、75‒118 頁参照。 21 五原則は、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面である。 60 三、前川國男の作品とそのスタイルの変化という問題をめぐって ─弘前を例に─ ところが、モダニズム建築とその思潮の近代日本における境遇は、非常に複雑で多岐にわたった 問題である。なかでも、最も突出したのは、国粋思潮、またはナショナリズムという時代的問題で ある。いわば、三十年の初め、モダニズム建築がまさに帆を広げて出航しようとする際、直ちに高 揚した国粋思潮からの圧力に直面せざるをえなかった。しかもそれは、目に見える社会的、政治的 なもの以外に、無形な文化的、心理的なものも見落としてはならない。譬えば、学術思想界では、 九鬼周造(1888‒1941)の『 「いき」の構造』 (1930 年) 、和辻哲郎(1889‒1960)の『風土:人間学の考察』 (1935 年) 、建築界では、堀口捨己(1895‒1984)の「近代建築における『日本趣味』について」 、並びに ブルーノ・タウトによる伊勢神宮、桂離 宮の素朴な造型美の再評価など、いわ ば、どれも近代的眼光で日本の伝統的な 美意識を再認識、再評価すべきだと力説 していた。それは、ある意味で、文芸思 想、または国民心理の側面から国粋思潮 を助長したのみならず、近代建築の歩み とその行方をもかなり牽制したと言えよ う 22。 コルビュジェの日本人大弟子として、 前川の近代建築探索の旅は、即ちこうし た逆風の中で出発したのである。それ は、恰も、かれが生涯にわたって苦闘を 強いられる宿命を暗示していたかのよう である。図 8 の漫画が示すように、 「孤 鴻」と喩えられた前川は、1931 年に「東 京帝室博物館」の懸賞競技設計への応募 参加から、人生の最後まで、終始孤軍奮 戦していた。如何に近代建築の意義を理 解すべきか、また今日では、如何に前川 國男という存在を読み解いていくべきで あろうか、弘前という地方都市に密集 し、かつ半世紀以上にもわたった前川の 作品から着手するのは、ひとつ有効な方 法ではないかと思われる。 図7 1931年6月号『国際建築』に掲載される前川の近代 建築の主張を応援する漫画 作者は、任和與志というペーンネームを用いている 61 図8 木村産業研究所の復元模型(背側面から)。仲邑弘一氏の製作。 『A-haus』創刊号による まず木村産業研究所をみてみよう。 江戸時代の中期から、立地のよさから大身や上級武士らがこぞって下屋敷を構えるようになった 在府町は、幕末から明治時代にかけて、日本内外で活躍した本多庸一(1849‒1912) 、笹森義助 (1845‒1915) 、陸羯南(1857‒1907) 、山田兄弟(良政 1868‒1900、純三郎 1876‒1960)といった名人が 輩出された弘前の由緒ある町である。昭和七年(1932) 、そうした黒塗りの武家屋敷が軒を連ねる在 府町の一角(61 番地)に、ぽつんと建った白亜のモダニズム建築こそ、27 歳の前川國男の処女作 だった木村産業研究所である。当時、前川は、まだレーモンド設計事務所の所員であり、フイ(設 計料)を全額事務所に入れる代わりに、自由な時間を貰い、研究所の設計、並びに他のコンペに集 中できるようにした。こうして誕生したのは、日本近代建築史上、記念すべき建物だった木村産業 研究所である。三十年以上にもわたって、弘前で前川作品の施工監督を務めていた仲邑弘一の実測 によれば、このコルビュジェ風を色濃く帯びた作品は、忠実に「近代建築の五原則」を守っただけ でなく、設計のモジュロール(Modulor)にもみごとに合致している、という 23。いわば、三十年代 の初め頃は、コルビュジェの白い箱型の建築でさえ、まだ草創の段階にもかかわらず、ほぼ同じ時 期に、極東のある小さな地方都市に、なんとそれにそっくりの白亜の近代建築がひょっこりと建っ たのは、不思議といえば不思議なことであろう。二年後、東北を周遊していたブルーノ・タウトが 弘前で木村産業研究所を目撃した時に驚きを隠せなかったのも、頗る頷けられる。 図 8 の模型が示すように、木村産業研究所は、まさに徹頭徹尾に近代建築の原理を貫いた建物で ある。白亜の箱型二階建て鉄筋コンクリート造、屋上花園、連続水平窓、ピロティ、スチールサッ 22 そういった問題について、いずれまた、稿を改めて分析したいと思う。 前出『A-haus』創刊号、2005 年 1 月。37 頁。 23 62 シなどの造型や材料の使用はそれを現している。だが、内部空間の配置、色彩ないし家具の取捨選 択では、前川の自由奔放な想像力、冒険心、ないし彼特有のダンディズムというか、ロマンチック な情趣を存分に現している。たとえば、建物の右側の屋外に繋がるピロティを通ると、お洒落な アーチ型の出窓をもつ貴賓室がみえてくる。正面玄関口の天井裏に塗った鮮やかな赤色は、ガラス 壁を通って差し込む淡い青色の光線と織り交ぜて、八十年以上経った今日でも、温暖でモダンな感 じを与えてくれる。建築史家の鈴木博之が指摘したように、 「木村産業の若々しさという中には、 エピキュリアンという言葉がありますけれども、美しさとか形の面白さを追求する、いい意味で享 楽主義的な、こういうことをやりたいという情熱みたいなものが感じられて 24」いる、という。 ところが、あるいは、こうした趣味性、享楽主義こそ、痛々しい教訓を招いたかも知れない。周 知のように、弘前も豪雪地帯のひとつである。冬に降った雪が陸屋根の上に大量に積もり、春にな ると、一気に溶け、陸屋根が忽ちプールと化し、八月の盛夏になってはじめて蒸発して消える。こ うした現象が毎年繰り返され、やがて屋上の浸食により天井が湿るようになった。それから、前川 の匠心を込めた屋上への階段や正面玄関の上のバルコニーも、長年の雪害のため、干し餅状とな り、昭和 47 年頃、ついに取り外し、陸屋根にも鉄板葺屋根をかけた。こういった教訓、それに後 に設計監督した「日本相互銀行本部」 (1950 年、現在太陽神戸銀行)のセメントが水滲み込む事故も 加え、前川をして近代建築の局限性を痛いほど思い知らされた。晩年のあるエッセイの中で、前川 が当時の心境にふれて、次のように述懐している。 「結局、ぼくは、合理主義建築というものの限 界を見たような気がして、 (中略)コルビュジェは近代建築というものはラショナリズム(合理主 義)の建築だとはっきりといっていたけれども、ぼくはそのラショナリズムの建築というのはその ままでは日本ではやせた建築になっていくと思った。やせた、老いさらばえた建築を近代建築で合 理化、正当化するのはまずいと思って、そのころやたらと大きな屋根のある建物を設計した 25」の である、と。 ばん 、翌年の「在盤 こうして、木村産業研究所が竣工した十年後、前川國男が設計した自邸(1942 年) こく 谷日本文化会館」の懸賞設計競技図案はどれも伝統的な切妻型、および書院造の大きな屋根を造る ようになった。近代建築をリードした先駆者として、こうした明らかに近代建築の原則に背反する 設計は、一部の研究者から「変節」行為だとみなされ、はてには、戦間期におけるかれの一部分の 言動と関連付けて、 「右翼」への傾倒とか、モダニズムの国粋主義への投降とさえ指弾された。事 実、第二次世界大戦の最中、前川が思想的にある程度、京都学派の「近代の超克」の影響を受けて、 その言動の一部も軍国日本に荷担した虞れもあるようにみえたが、この問題は相当重大とはいえ、 24 鈴木博之「ドコモモの活動からみる前川建築」 、葛西ひろみ他編集記念誌『建築家・前川國男 生誕 100 年祭〈弘 前で出会う 前川國男〉 』 (前川國男の建物を大切にする会発行、2008 年)11 頁。 25 「建築における 『真実・フィクション・永遠性・様式・方法論』をめぐって」 (藤井正一郎との対談)、《新建築》 1984 年 1 月号。ちなみに、木村産業研究所のバルコニーは市民グループの有志により復原され、今年(2013)6 月 17 日にその竣工式が賑やかに行われたことを一言付言しておきたい。 63 図9 弘前市民会館(左)と市立博物館。前川の建築風格の変化が一目で分かる風景。 筆者撮影 本稿の趣旨と直接な関係がないため、ここでは、立ち入った議論を避けたい 26。ただし、前に引用 したその述懐でも伺えるように、こうした前川の変化は、政治上の転向では決してなく、むしろ彼 自身の建築の理念、或いは認識論上における変化を意味している。前川の後期作品におけるスタイ ルの変更も、そうした文脈から捉えなければならない。 前述したように、前川が 20 余年ぶりに弘前で手がけた一連の建築作品は、弘前市民会館を境に、 技術の風格において顕著な変化がみられた。晩年の緑の相談所、弘前市斎場などにみえる大きな傾 斜式屋根のほかに、その変化は、主として建築物外壁のコンクリートの打ち放しから、赤色のタイ ルを打ちこむようになった、ということに表わしている。実際に、こうした手法は、早くも弘前市 役所ビル(1958 年)建設の時、すでにその端倪が顕れた。すなわち、打ち放しコンクリートの梁、 柱の間に、赤いタイルを嵌め込み、訪れてくる市民にある種の安堵感を与えている。 弘前市民会館、とりわけ市立博物館になると、こうしたスタイルが漸く定着するようになった。 たとえば、弘前公園の一角に建った市民会館では、依然として、打ち放しコンクリートの外壁であ るにもかかわらず、それが周囲の草木と剛柔相対し、大変興味深いコントラストを成している。 とくに 1400 名の観客が収容できる大ホールは、音響効果が前川の傑作だった「神奈川県立図書 館・音楽堂」に比べて少しも劣りを感じないと言われる。なお、舞台の緞帳絵が人間国宝の棟方志 26 藤森照信「戰時下に育まれたものは何か」 、前出『前川國男 現代との對話』、77‒108 頁、前出『思想としての日 本近代建築』 、386‒403 頁、ジョナサン・M・レーノルズ(Janathan M.Reynolds) 、‘Maekawa Kunio and Emergence of a Japanese Modernist Aesthetic’( 「前川國男と日本のモダニスト美學の抬頭」)、前出『前川國男作品集-建築の方 法 Ⅱ』 、18 頁;井上章一『つくられた桂離宮神話』 、講談社學術文庫、1997 年。このほかに、前川は 40 年代の読 書札記および部分日記が示すように、京都学派の著書を愛読し、間違いなくその影響を受けていたことがわか る。前出『前川國男の戰前期における建築思想の形成について』の附録資料を参照すべし。 64 図10 弘前市民会館ホールと緞帳絵。A-haus 編集部提供 」 (鷹上げしている溌 功 27(1903‒1975)の版画「御鷹揚げの妃妃達達(おんたかあげのひひたちたち) 溂たる四人の小娘たちは四季を象徴する)を採用している。赤い基調の上に描かれた古朴躍動の画 面は、木質のホール両壁の淡い黄色の色彩と強烈なコントラストを成している。それはまた、銀河 を寓意するホールの天井ライトの配置(東京文化会館でも同じ意匠が取り入れられたという)とと もに、恰も一種の無限な宇宙空間を醸し出し、今にでもその中に引き込まれそうな幻覚すら持たさ れる。 そして、市民会館と隣り合って建った市立博物館から、前川の風格がまた一変したようにみえ る。すなわち、従来の手法を変え、打ち放しコンクリートの壁に、濃い赤色のタイルを嵌め込んだ のである。それは、色彩的に建物周りの黒松の林と調和を取るという景観上の考慮もあるが、明ら かに市民会館の雪害とも無関係ではない。言い換えれば、陸屋根で箱型の近代建築にとって、打ち 放しコンクリート外壁は荒々しい素朴さがあるものの、高温多湿の日本では、かえって雨雪の浸食 を受けやすい。事実上、木村産業研究所から市民会館に至るまで、みなそうだったのである。ゆえ に、後の作品において、譬えば、市立博物館、緑の相談所、弘前市斎場は、いずれも建物を支える ピロティの柱が敢えて剥き出したままの鉄筋コンクリートで一種の荒々しさを演出しているにもか かわらず、外壁には全面的に打ち込むタイルという工法を導入したのである。 27 青森市の鍛冶職人の家に生まれる棟方志功は、小さい時、ゴッホの絵に感銘し、画家の道に入ったという。37 年日本浪曼派の保田与重郎らの影響を受けて、日本的情感、東洋的美に開眼し、民話、神話を題材に制作するよ うになった。38 年《善知鳥(うとう) 》が文展で特選となった。民芸運動の柳宗悦、河井寛次郎らの知遇をうけ、 「無私の心に咲く無名の美」を創作の根本とし、それ以降、人間本来の素朴な情念、原始的呪術性、宗教性、お よび広大な宇宙観を大画面の版画にダイナミックに表現するようになった。その普遍的人間感情の表出として国 内外から高い評価を得ていた。 65 図11 弘前市緑の相談所の一角。筆者撮影 晩年の前川は、自身の建築作品とその周囲の環境との有機的な調和を極めて重視している。弘前 市立博物館の設計、建築の場合、周辺の樹木が一本も切り倒さなかったことから、その一斑を伺い 知ることができるであろう。こうしたことは、前川の建築は、晩年、ヴァーナキュラリズムへの回 帰をみせたと言えよう。 最後に、弘前市斎場へと視線を向けていこう。前川が弘前で手がけたこの最後の作品は、市の西 郊外にある禅林街附近の杉林の中に静かに佇み、津軽平野の霊峰岩木山と遥かに向き合っている。 斎場では、立地選択、内部設計および景観配置において、どれも深い意匠を凝らしている。例え 図12 弘前市斎場入口にある巨大な庇。A-haus 編集部提供 66 ば、正面入口にあるコンクリート製の巨大な庇は、あたかも巨大な包容力をもって、厳かにすべて の来訪者を迎えているようである。 そして、故人が荼毘に付される時、長い廊下は、炉室と家族の待機所の和室を繋げ、黄泉の世と 俗世との分合を暗喩している。なお、骨灰を拾う室内の天井のメインライトの光線は、周到な計算 によって岩木山の方へと向けさせ、あたかも逝者の魂を霊山に帰すようであり、大いに生者の哀傷 を軽減する。なお、特筆すべきなのは、斎場の経堂の設計である。精密に計算した壁の弯曲度と吸 音材料の採用により、経堂の回音効果が音楽ホールに比べてもちっとも遜色しない。毎度、逝者の 魂を超度するための誦経声が経堂内外でリズミカルに響きあい、魂が揺さぶられるほどの厳かさに 満ち溢れている。 四、結びに代えてー前川國男の精神的遺産 二十一世紀に入り、人類の生存、居住環境の激変に伴い、一時、忘れ去られたモダニズム建築に 対する再評価の気運が少しずつ現れてきた。日本モダニズム建築を牽引した前川國男も再び注目さ れるようになった。2005 年 3 月から始まった「文化遺産としてのモダニズム建築 DOCOMOMO100 選展」 、および同年 12 月末から翌年 3 月の初めまで行われていた「モダニズムの先駆者生誕百年 前川國男建築展」によって、前川國男という存在が再び広く知られるようになったのである。 仮に純粋に建築家の知名度、あるいは設計建築の規模、件数からみれば、前川は、自分の後輩、 かつ一時かれの弟子入りさえしていた丹下健三(1913‒2005)には及ばないであろう。だが、そうは いうものの、かれに接近すればするほど、前川國男という存在は、あたかも無尽蔵の精神的鉱床の 如く、文字通り巨大そのものであると言わねばならない。ここで、暫く、かれの言葉を傾聴してみ よう。 近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限り ない愛情を本質とする「在野の精神」に対する深い理解とたくましい自信とでなければならない。 建築理論を最後の一歩まで押し進める力は、口ではない手でもない、やはり建築家それ自身 の生活力または生活意識そのものであります。 われらの造形理念出生の揺りかごは、われらを取り囲む全環境なのである 28。 と。前川の建築理念は、近代工業技術の可能性を絶えず追い求める前提のもと、出来うる限り、建 築物と全環境との関係を調和せしめ、明るくて快適な生活空間を営造することにあると言えよう。 それに基づき、前川が師のコルビュジェと異なり、都市計画にはさほど興味を示さなかったし、ま 28 「前川國男論稿拔萃」 、「 (水脈)トークサロン『前川國男の仕事と時代』資料」による。 67 図13 東京海上ビル(現在東京海上日動ビル)。筆者撮影 た現代の超高層ビルに対しても、頗る態度を留保している。彼が設計建造した唯一の高層ビル、す なわち東京海上ビル(1974 年、総高さ 99.7 メートル)が落成した後、 「巨大なものは胸につかえる 29」 と思わず心情を吐露している。 こうした前川の考えは、その一貫とした倫理的自覚に由来したものではないかと思われる。早く も 1947 年 11 月に、前川が次のように述べている。 近代史がはじまってこのかた、神殿や教会や宮殿の建築と決別した近代建築家たちは、工場 や波止場や停車場の建築、そして市民住居、労働者集団住宅の建設にその熱情を傾倒していっ た。建築家たちがこんな激情をもって生活の幸福を尋ね、人間の生活を追求したことは未曽有 のことであり、いわゆる「近代建築」ないしは「新建築」の問題は、実に「人間の建築」にあり、 「住居の建築」にあったと言ってよいと思う。 しかし、このような近代建築家たちのよき意志にもかかわらず、資本主義的都市の発達に 伴って、人民の生活は灰色の壁の底に陽の光に見捨てられ、緑の自然を忘れて沈淪せねばなら なかった。 (中略)人間の生活にとって自然から背き去ることが、どれほど大きな不幸であるか という反省が、やがて輝く太陽と緑の樹木に対するやる瀬ない望郷の心となって現れた 30 大谷幸夫「拙を守り真実をもとめて──前川國男論」 、前出『前川國男作品集──建築の方法Ⅱ』、頁 64。 29 30 前川國男「緑の都市へ」 、前出『建築の前夜 前川國男文集』 、130‒31 頁。 68 と。前川が生涯にわたって、絶えず技術の革新を求めていたにもかかわらず、彼が一貫として、次 のように主張する。すなわち、技術は、ただ建築の枝幹であり、その根っこが人文精神、或いは倫 理責任でなければならない、という。二十世紀の七十年代以降、経済至上の風潮の中、資本が行政 と手を結んで、都市には高層ビルが林立し、緑の自然の生活空間が絶えず開発の波に晒され、味気 のない人工的なものとなった現実を目の当たりにして、前川が「いま最もすぐれた建築家とは、何 もつくらない建築家である 31」と嘆かざるを得なかった。個人生活の中において、例えば、音楽や 美食などにおいて、前川は、ファッションやゴージャスさを敢えて忌避しようとしないものの、建 築設計においては、むしろ素朴さ、自然性を重視しており、果ては一種の朴訥さを際立たせてい る。そこには、たとえ個人の趣味、ないし冒険性があったとしても、ペダンティックな自惚れは決 してなかった。こうしたスタイルは、その強い倫理的自覚があってこそ、はじめて可能であると言 えよう。 自然が惨めに蹂躙され、社会が資本に恣に虐げられている昨今では、かつて時代遅れと言われた 前川の建築理念が益々貴重さを増しており、改めて深く考えさせられるべきであろう。 ここで、1964 年弘前市民会館完成にあたって、施設パンフレットに寄せた前川の「設計者の言葉 32」 を、抜粋の形で次に引用して、拙論を終えたい。 東北屈指の文化都市弘前に建てられた市民会館の設計管理を担当することが出来ました事は 私共の最も光栄とするところであります。 近代文明はその発生の起源に於いて既に「反自然」的性格を運命づけられてきました。従っ て近代都市も亦必然的に「反自然」的である運命をになわせられております。そして此の事が 人間の運命に重大な影響を与え、人間の幸福を左右する岐路に今日のわれわれを立たせている と言えましょう。 弘前の町もその例外ではありません。交通の発達、産業の発展、所謂都会的な文化の滲透と いった一連の現象につれて、次第にその地方的な特色が失われていくという事は避けられない 事かもしれません。しかしよく考えてみますと、重大なポイントは、その地方的特性が失われ ていくという事より今日の都市化それ自体が内蔵している非人間性そのものではないでしょうか。 かつてヨーロッパ中世の市民はこうして彼等自身の美しい町を築き上げました。現代都市を 築きあげるのは民主社会の「市民の心」であって決して「予算」ではありません。 (1964 年 竣工) 31 「建築はどうなる?(対談、前川國男+槙文彦) 」 、 『建築家』、1971 年夏号。 32 前出葛西ひろみ他『建築家・前川國男 生誕 100 年祭〈弘前で出会う 前川國男〉』所収。なお、本文は、平成 23 年度共同研究論集「‘ 再発見’ される地域の魅力と可能性」 (弘前大学人文学部地域研究プロジェクト、23 年度) に掲載されたものを加筆して再構成したものである。 69 30 30 KIMURA Junji ……………… The origin of passion ―the meaning of Izanami myth in “Kojiki” ………………………… 1 30 KIMURA Norimi Function 1 …………… Right Dislocation and Discourse ………………………… HORI Tomohiro …………… Frederick Douglass and Josiah Henson: A Study of the Representation of Defiant Slaves in Mid-Nineteenth Century American Culture ………………………… 15 Dai MATSUI ………………… Notes on the Old Uigur Wall Inscriptions in the Dunhuang Caves ………………………… 29 LI LIANG Architecture 51 …………………… Maekawa Kunio and Modernism ……………………… 2013