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第四十二巻 パ号 - 法然上人鑽仰会
第四十二巻 パ号 s mh 相+町五月二十日(飢 -zma便物 訓吋}旬 n- 一闘一日空行 η五 昭和 二十四年開月三十八日四四晶司直日 制【 純益串怨舗箆}筋三二 昭利五十一年五月二十五日印刷 刊五十一年六月一日免行 1976-6 樹 l t 1 幽 i週 、 hH リん 可ハ u ド八吋 yiμ 〈仏教大山下H 学) ト f 我 4長 、 、 その内容いかんを問われることにた 、 これは大役なことである。 内川邸内約すれば無向刊ドはに民 厳然として 、 会の令、む 体的 となゐと ぷが恥しられてならたい。 かし t もよいのではある玄いか。 、 n らの行の 思知的には終伐とは念仏のウラウチといって ・フ . mA削か~開削としてとい・コハげ修b にH へあ 川・ 寸り ベ で 乏 L m kりの教ぶが心にしみる。 いゐとい・2M帥 か 然災の陥唱は永巡の彼方にあるようにも川ゆえる るまいか。 、 は あたかも地平総を追うようなものではあ 川思巧によるならが川、幅削殺を外にと傑求するこ ると しかし ふれたそ憶である。 八慨が殺〉とは仏教松としては側めてあり 無 -'ュ / , 月 国可 先 を 偲 ぶ 目 次 ろ ー ズ⑤ 浄土教の流れ 〈六〉防相州三宝 南国の旅情《二): いのちの教育 の 現代とこころのシリ 浄土勧問北沢沓子女史に聞く「仏教と性」: い 村 額 の 念仏 ひじり三国志会一十 六〉法然をめぐる人hi- -・・長谷川 -・・竹 雄・・2 ・) ハ ・・7 ・) 〈 司・・ ロ・ 〉( 博・・・(日) 丈・・・(却〉 常・・・ハお〉 -・・・・・・宝 逝・・・〈初〉 寺 Illl 合同:幻 〈) 会吋,aF 大定大年 a R術部 表紙久住静雄画 -・::ji--ji--:: 一三派一①理主ハウポ 〈i-一 ) 法-想 以 -j ・ j : i-j i-〈 -鈍 : 〉:: 法数術館十ニカ月〈六月の巻〉 一 1 - 銀 家 努 武 恭 守 立 {苫 正 大 国 律 ••..•••••• 下 野 中 国 内 師 ' ュ 教 村 古 法 村官 瀬せ 秀ミ 雄ぉ 国旗に先師を偲ぶ し、 、 これも年のせいか自ら老人の仲間入りをしたことを惚めるものであ L たた り、自然の成りゆきというものであろうが。予めど寛容の程をお願いしておく。 て先師の思徳を偲ぶ思いが頻りであって 昔話を持ち出して、今更述べたてることは肢に恐縮であるし、失礼なことであるとも思う。しかし近頃になっ 。 出され、まだ余煙の煉る中を発ったのである。送ってくれた人というのは、行李を肩にした実兄と義兄との儲か ても多くの人々は敗戦を肌で感じていた附別である。それに加えて訟の住む村では八訓までが大火に舵災して焼け その時分の軍隊には応召の兵土に持たせる銃がなく、腰に下げる剣す らなかった位であった。口にこそ 山さなく 拘らず、 A ,なお手忠則に残すことができたのである。怠が再度の応召をうけたのは昭和二十年四月初旬のことで、 である。ところが、訟はこの同蹴を持@せずに家においたままであったので、シベリヤな廻って帰ってきたのに ている。このような岡棋は、本米ならば早川服のよに機にかけて、多くの人々に日見送られながら内地を発ったはず 、 さて訟は、かつて出征した時に出先生からど署名と餓別の辞とを認めていただいた同旗を二枚大切に保存し 2 ー - 古 以外の何ものでもないな。しかし凶行は別だと思う。彼 は漂泊しつつ、歌に身体ごとぶっつけてゆく。歌心のな かから 如 米 の 心 を 、 さ ぐ り 出 そ う と し て お る 」 「それが、おわかりですか」 ど主り、となった。 先日、明週から聞いてきた凶行制の受け売りだったか らである。 、 、 では それを体現したどんな歌誌があるかと 小拡帥に 、 を教示されたことがあるらしい 。 Ll 八九嶋でふっつりと明泡ヒ人は歌から艇れて ノ興味深クシテ他作ヲ志ルルホドナリキ 十八政マデ詩賦ヲ稽古シテ風月ニウソプキシュ、 として、 しまう。 偶然の-致かも知れないが、彼十八点の悠久元年二 一九O)は、凶行法師が寂した年でもあった。 西行を歌心の師と仰ぎ、彼の死とともにふっつりと眠断 絶してしまった明忠上人に、向か爽かなものを感じない 、 夢体験を克明に綴ったり 仏跡の印度を恋いこがれた 、 、 、 り 明恵上人の生涯そのものが 宗教者というよりも芸 術家の体自討をわれわれは強く感じるのである。 こうした容気高い旧体制者が、また新鮮な訴仏数者を 生み出すぷ地も作った。乱世とはJ いながら、この持続 こそ日本仏教のほのぼのとした夜明けでもあった。 ハつづく〉 -4 8- 突っこまれたら どうしようか、と凪激は不安になった。 しかし小法師の樹上はやわらいた色でおおわれた。 、 伝記によると 西行から仏法と歌肢との深い結ひっき しかし若いころを除くと作品を践していない。 明市以人 上が深い歌心をいだき続けたのは事実である。 「文 覚 な ぞ は 、 歌 色 紙 で 鼻 ク ソ を ほ じ く る 男 だ 」 らしい。 先撃の僧の一人にでも合意を得たことがよほど越しい りにもお峻いになるので」 「そう、思う」 ではおかれない。芸術に淫することを強くいましめたの 「私もかねがねそう感じていたのですが、文覚さまが余 であろうか。 、 「E源さまもそうお感じになりますか西行さまの歌に」 ソ 、 仕度部一の 俊 乗 JM である。殆んど歌心なぞには通して 鋭い質問に車源は返容に窮した 。 、 「 あちこちの僧正どもが詠みこむ風鳥歌詠 あれは 妨げ いなかった。アテずつぼで符えるしかない。 「歌を歓むこと は 仏道の妨げになるのではないでしょ そむきAHうのではないでしょうか」 フ ・ か」 「 ・・・・・」 ・ 、 -. 1 7- 「歌心と仏法とは <印度の仏跡 ・ 霊鷲山〈 ラージギハ) > . な怠味合いを持ってくる。 の庇山入に甚R だ決 念仏ひしりたちが大同団結をしたとはZ ってもこの 「選択県」が編述された時点で、必ずしもひじりたちの ぷ凋はそろっていたとは甘えない。ラジカルな hA 廿引が 先行独走してしまったとおもむきがある。 その明恵上人が 未だ十一二四 、以の小法師としd佼 、 「さっき凶行さまのお話が悩ましたが」 MR 甑の前に立っている。 少年はい似かな服もとにひときわ玲瑠な光りをたたえた。 「はい、しばしば此点へ::: 」 「同行を、知っているか 」 「文党はあの人を余り買っていないよ・フだが」 、 れれに投じていなか ったし 明川湖例都も摺外に立ってい 「お削りにな ったあと、いつもお強いになります」 例えば巨齢だったとは .. えd 、俊深川 ME源は噂修念仏の た。また法然口身が「興制守爽状」とい・フ批判を受ける 「私は、凶行さまのような僧になりたいと念じておりま 「うむ。それで」 す」 てラジカルな総定ないましめている。 、 と、「七筒条の制ぷ」を発して、ひじりたちに署名させ 、 「選択集」が持つ過激性と 法然上人自身の寛容で温和 「出来ましたならば」 「西行のように歌も詠みたいか」 その後永年にわたって念仏門徒を分裂させ 、。 師文党と同居している現在は、水と泊と言わねばならな 少年の文化的基盤がうかがい知れた。それだけに荒法 たはずだったな」 「そういえば、叔父御の上覚聖人も歌道には通暁してい たことも苔めない事実である 6浄土宗と本願寺教団と対 、 な人柄とが 立にそれを税くことができる 慈門和尚が「 m 思管抄」てきびしく専修念仏者を批判し たのもハその批判は法然その人にまで及んでいるがてこ うしたこ元性の隙間へ宝珠を刺しこんだものであった。 「お以きしたいことがあるのです」 ν ・ 仏」でぬ限されて、慨嘆し震泌させられたのが明忠上人 「何だ」 ともあれ念仏思想が持つ広々とした領域を、「専修念 の「拙 郷 輪 」 て あ っ た 。 -4 6- ながら近日、この「選択集」を鍍関してムると 悲 を聞いてもそれを信用したことがなかった。しかし も上人を誹誘したことがなかった。たとえ他人の請 区別をしてしまい 、和合している衆僧たちを不和に 味であるべき仏法の雨に、甘いと麟(から〉いの味の 功徳になぞらえてしまう。そして ついには同一の 会うと、信じることの功徳を往生そのものを信 じる 正統の仏法。それも釈尊のもとに帰一団結すべきだと 、 嘆はなはだ深く、はじめ書名を聞いたときには上人 だろう。)前回抑制剖代議沢「法然」〉 する過ちをおかしてしまう。何とそれは悲しいこと 、 のすぐれた著作に礼拝することをよろこんだが、著 を恨んでさえいる。 いう信念に燃えてきた明恵上人にとって、分派意識も濃 》?も伐 いている。 M 作を読んだいまは念仏の真実の宗旨を翻しているの と「 鎚 邪 輪 」 ( 現 代 議 訳 「 法 然 」 中 央 公 論 は社 冒版 頭〉 で 上人ハ法然〉が入滅することになると、ますますこの 厚で、旧仏教への紋別宣言にもひとしい「選択本願念仏 卒直な批判を打ち出している。さらに、 邪説が盛んに行われるようになり、もっぱら板木に 築」は耐えがたい思』だったにちがいない。しかもそれ 、 に流布して、仏の経典の如く敬い重んじており 総 文字をちりばめて後代の重要な宝物とし、長く一門 いては、なおさらであろう。情念の人、明恵は血一課をこ が日ごろ敬愛の念をささげてきた法然上人の述作だと聞 めてこの「縫邪輪」を書いたはずである。 ζの性を極楽往生を目的とする宗派の肝要で あり 体的に るから、たまたまこの書を非難するものがあると、 「選択築」については、あとでくわしく触れるつもりで 、 非難することの過ちを 、念仏そのも のを非難する過 あるが、明恵が投じた批判の一石「拙邪輸」は念仏教団 念仏者の秘府であると考えている。それであ ちに転嫁してしまい。まれにこの惑を信じる人に出 45 ー - る。その教義綱領を盛りこんだ「選択本願念仏集」は披 明忠上人は反昭文の「拙邪輪」を性いた。 らだ。 る策法で「選択本願念仏匁」は44m をつらぬいていたか めてきた仏訟の理組上の民地だっPH 菩提心 Hを膝制す 門をきひしく脊定し、間切忠の永年にわたって抱きあたた ジカルな叫修念仏忠組が続りこまれていたからだ。型遊 法然念仏を敬愛してきたのだが、ここにはきわめてラ った。 ω その飯を食べはじめる、七人分、八人分を平げ 戸内び山中へ安をくらましてしまう 、 説して、明恵上一人は樗然となる。 、 と 「私もお相伴しようか」 て 食い湘めである。食い溜めをしては、俗市を避けて修 行三昧だ。 明恵上人が、円分の日凡た拶を克明に記述したのは有名 な献である。 、 正統仏教とは もちろん釈迦牟尼如来への回制である。 前略 ほんらいが明恕上人は慈術家肌、情感盛かな人であっ た。だから釈噂への回帰は、強烈な思議の情となる。仏 ここに近ごろ、ある上人がいて一巻の苫を著作し 、 跡の地 印度を憧僚した。さまざまな記録を集めて、印 c その作訟を「選択集」と名づけた その書は経典や払訓 しかし計舗だけに終ってしまう。 告の趣旨を惑わし多くの人を歎いている。その宮 、 度への旅を計画する。 は る。明恵は るのだが、かえって往生のための実践を妨げてい 、 極楽へ往生するための実践を宗ハむね〉としてい 明恵上人は、これほど情念の僧であったから、後生と しての浄土一信仰には早くから目ざめていた。当代随一の なでたらめを税いているものと思い、いままで一台 は、在・家の男女たちが上人の高名をかりて、かつて いたから、耳に入ってくるさまざまな邪悪な見解 、 Vに深い信仰を抱いて 年来、聖人〈法然 念仏ひじり、学徳兼備の法然上人には深い尊敬の念を寄 せてきた。 ところが辿久年聞の末、法然上人は盟主となった専修 念仏のひじりたちを糾合して新しき教団作土宗を樹立す 44 ー - 、 「あのお五には そんな丸配は徴臨もご.さいません」 ・ なロをきいた。 大人つよ つ 、 「でよ 何を教えてく礼るのだ」 、 、 放わ 「近ごろ 巷には念仏ひじりとか申す不戒者が充満し て 、 、 念仏たけ 明 えておれば 、 感円和尚は「愚管抄」で酬明ヲているか彼なりの軌道 、 上で政事に暴走をくり返した文覚も 目的は唯一つであ った c倒人。野唱や他力慾ではない。悶仏教の興隆だ。 、 たしかにその暴走ぷ とどまるところを知らなかった。 この時点で童相似が疑惑の視線を投げかけたように、文 問也をおこ 党は神宮虜ヰ寸前門輿のれ'めに法皇かっ下賜さハた荘園を政治 いる。成仙仰を踏 人にじり 、 、 時間のずれはあったか やがて立派に神壇場を 、 一寸までも蒋興している。文覚が 京+ 政 治という 複 、 、 。 、 、 、 彼にはそ ん な およそボ似今いな人生行路をたど司た こんな師僧と 市も出来なかったであろう。 い。そしてこのパイプを一泌さばけれ必 -』れだけの大ル川 雑な・ハイフをとおしたための屈折と見なければならな 復元し だが した。 米大守勧募金にも使途不明のものがあって れるなぞとホザきおる。これに対して南部 北樹は放任 うこと 資金に流用したりしている。また車源に協力して集めた 、 、 するままだ。仏訟は滅びる。正統な仏法を伝えるのは 」 この文覚唯一人な D九。.一九からお前は わしの Z ::: 、 推量の限りではない。 俊釆房屯源が少年明山上人の守 口 業 、 仏法の正統の修行 数学にいそし ん でいると甘うので を守って ある。 この 目、 このとき 、 、 民史が宵向く務価している。 、 この二人が正統仏法の継承者として挺身した情 ・を どう受け止めたかは だが 熱と行動は のが明恵上人だ 神議寺の工引が軌遺伝来りはしめると ヲノノシリ悪口ノ者品テ人一イワレケり。天狗ヲマ こんでしまう。だがそこでは食い物もロクにない。ふら れ俗 -Tがわずらわしくてならない。愛宕山 の奥 へ逃 げ 文党ハ行ハアレド学ハナキ上人ナリ。アサマシク人 ツルナトノミ人ハ一去イケリ。 りと工事場へ姿を現寸。折から大工たちは同町飯の最小だ -4 3- な 「ご存じで」 、 文覚は川内聞円のために後白河法阜から係僻の荘閣をもら 「おう あのと覚か 」 ぜまた文覚の :::」 、 「コノ小 法師 限 μ るや 、 権者ハどんざ〉ナリ」 ある 日、 文覚が向山中守にやって米、 て明 以上人をひと で・ある。彼もまた鎌倉初期における名制の一人だった。 この小法師。後になって倒尾の明恵上人と名来った人 合いな師弟に見える。 先刻米の疑問が再び重源に湧いてくる。いかにも不釣 、 い受けているはずた。大般の錨体ぐらいは復元していて これで理解できた。 心おだやかな徳者だ。上覚聖人の甥であるそなたが 「うむ。奈良の東大寺で何度かお逢いしたことがある。 、 わずかに一対の G灯簡が新調されていただけ も良さそうなものだ。 それが 、 大殿へ霊源を案内しようとしない文覚の脊体な態度 なのである。 が 小法師に訊いた。 「大Eもはいっておらぬな 。 でも予間も払わぬため 「先月まではニ人ほどいました この小法師も本湧再興には余り気乗りがしない に、来なくなりました」 、 ただならぬ者という意味である。こうした 異能人の養育は並みの人間では駄目だ。わしがて 君や ろ 、 、 と怯いて 強引におのれの尊師地へ連れてい ったという。 だが 様子だ。 権者とは 、 「小 法 師 は 、 何 で 文 覚 聖 人 の と こ ろ へ ? 」 と文党は申し出たわけだ。 、 、 、 明 霊源は 陀棋に馴れた限で 少年を見つめた。女覚の衆 、 う 重源は崩唆したままの大殿前礎石に腰をおろした。 さっきからこの小法師に何となく魅かれるものがあった 「可愛がってくれたのか」 、 のである。 、 荒趣味か 「叙父がこのド 柵尾の高山寺にいましたので」 「何と い う 御 厨 か 」 恵はすぐに察して と探ぐりを入れたのである。その意味を 「上党と申します」 -4 2- ってくる。 要するに文党という人は、この H六代 Hが源家に謀反 「大殿に参詣したいと思いますが」 「大殿か。あんなものを見てもどうにもなるまい」 「しかし復元状況を見せて頂くことは、大仏殿の工事に 奇体な返務がかえった。 て幼児に加担してもらったのだ。同じ文党の「正義感」 大いに役立ちます」 をおこせば、必ず加担する人なのだ、と断ずる。自分と がこんどは平家の嫡流への同情となって移転してゆくで 竺 めていた。 、 それでも、と嘱望すると 「小法師に案内させよう」 と文覚自身は、そっぽを向いた。 。 文党の草庵から神護寺本民まではニキロの 山道を登っ に住していないのか。理由が霊源 なぜ文党がその本一一房 てゆかねばならない にはすぐわか った。 たどりついた山上の本一房は、荒れはてたままだった。 それこそ「扉は風に倒れて落葉の下に朽ち、認は雨露に 犯されて、仏壇さらに露なり」(平家物語)なのである。 であり、もう一つは文覚が命をかけて再興している神護 状況だった。 ばは伊豆で流罪生活だったとは言え、殆んど手付かずの 、 その半 つまり文覚が蒋輿を発願して、すでに十年近く 士守の建築状況を視祭したかったのである。 今日来訪の目的は、函行法師の所在をたずねに来たの 、 「役立つほどのものは未だ出来ておらぬ」 "・・・ "・・山岳 ひどく冷淡なのである。 あろう。 いかにも綴朝らしい務疑心だが、「平家物語」は、朋躍 の妻に恋をしてその失と対決するつもりで彼女を殺し 2 2 -4 1- 出家した文覚の人間像、頼朝の狼疑心を借りて鮮かに浮 彫りさせると言えるであろう。 f'"・..... .: とにかく文覚は、乱世を象徴する荒法師であったこと : -圃・ 迷惑になりはじ さて軍縮榔だが、女覚の政治談義がA少 はまぎれもない。 !_ ; ι ことは 廟 堂 を 紛 糾 さ せ る ば か り で あ る 自分は頼朝と波突の心を結び合わせるへく下工作をし なけれはならない。これに後白河法皇も加わって、三者 c 一体となってこそ、この乱枇は終息するであろう この持永三年四月末は、すでに平家が一ノ谷でやぶ また液突が右大臣から関白へ親補したのは文治二年、 れ、属品へ落ちてしまったころである。 。 わずかに額制の父、義羽 つまりこの二年あとであるか、その間の「玉業」に文覚 の名は殆んど登場して米ない の偶慨を、それもほんものをもらい受けて鎌倉の頼朝の H永 M から文治へかけて、政治の潮流はたしかに文覚の 徽忽どおり、うごいてゆく。後内向、頼朝、そして関白 もとへ持診したという必述があるだけである。 位をめぐって決定的に対立する。文覚はこの平維盛の遺 その頼朝とも、やがて文党は平京盛の孫」ハ代H の処 から太政大臣にまだ斜った九条派夫、 一 ニホ引か心を合せて しかしこの潮流作りに文党自身は、どんな役割を来た 激ヂ争乱の戦後を収給した。 王を擁立する陰謀が暴露して佐渡へ流された。その留守 ところが文党が後応羽天皇を批判して、その兄守貞親 児を助けるべく、神蓮寺にその母規と一緒に住ませる。 九条兼突の限に映じた文覚像は、終始粗野な荒法師で していたのだろうか。 綴密な政治感覚が兼突の身辺まで匂ってきた、 、 あって に頼朝の刺客が神蓮寺にあらわれて、ヱハ代 H を殺して という形跡は絶無である。 。 「平家物語」は、頼判のこの心作を巧みな飛致でえぐ た。なぜ盟友の気持を頼朝は限期した の であろうか 文覚が生命を張ってまで助命を乞うた平緩盛の遺児だっ 。 源家蒋興の旗上げをしきりと説いてくれた盟友だ その ろうか。文党とは流講時以来の仲である。それどころか なぜ頼朝は執劫に幼いぷハ代H の命をねらったのであ しまうのである。 ちなみに兼突は日記「玉禁」で、一一対永三年四月二十九 日に、 、 云々。 今回参院。 広座ニ 坂東荒聖人間覚〈文党のこと)、 オイテ種々荒言ヲ吐夕 と引いている。 ー - 40 mろうとする m 、 館を額制に攻めかけ 、 問いただすいとまがない。蒋び文覚は語勢も騒々し 文覚の下へ入門するとは、どうした悶縁であろうか。 それにしてもこの奨目秀麗な少年が 、阻内相も銭だしい する。 文も山水を吸って、出家してきたんだな と虫源は納得 、 られ 討死したと伝えられる」 あのころは目代として安房におり 、紀州 有国を領した伊勢平氏の軍関という人だ。 つつむ 「やはり平氏の出で?」 う白く訟源には見えた。 少年は涼やかな限もとを伏せた。肌向い顔が、いっそ 、 「ヒ総と汁えば、ょっ小法制の父お人は当時 安 M の日 「 民心深い却でな。ただ黙然と聞き入るばかりだ。諾か ・ 返 否かを強.換すると、 一 答は同じ古誌をとり返す》さよ・つ 代しゃラた」 なことは巧えて人たこともござる、とトボける。山中で これぞ父君義朝公の亡骸〈なきがら〉だと文覚が示す 拾うた誰とも知らぬ罰鰻〈しゃれこうべ)をな:::」 、 と、頼朝は悌流して伏し拝がんだ。そのくせ心では露ほ ども信じていない。文覚が偶臆をおいて 、 武人と dうよりも相似つからの政治家だ、と文党は評し と呼び止め 「お忘れもの」と手渡したというのである。 た。 、 「頼朝が父を慢ない伊豆へ流されたのは、恰度この小法 師の年ごろであった」 と、小机に向う少年を指さした。 さきに平氏に下した頼朝追討の勅勘を説いて を説いて 拾しなければならぬ。旧平家の公卿をみだりに懲罰する その問の廟堂政治は、右大臣九条派災を中心にして収 、 つ何処であんな政治力を身につけたのか、と文覚は不審 やった。頼朝は大草を擁して京へ攻めのぼり、木曽義仲 を駆逐するであろう。さらに西海の平家をも追討するは 、政治談義へとのめりこんでゆく。自分が後白河法皇 、い ったんは石橋山 がる。治承四年八月、兵を挙げるや ずである。 く 合峨で破れはしたものの、三浦、上総の勢みをたちまち 狐独な囚われ人として幽閉され続けてきた頼朝が い 廊下に従えてしまった。すでに何年か前から頼朝は撒を 飛ばし、この日のために手を打っておいたにちがいない のである。 -3 9- <義朝の関鰻> 鼠 戸 前号のあら す じ …た 俊鍍房減量源は相変らずな乎の造立に励んでいた。そして 一平家の滅亡が間近にせまった舟永年間、仕度第一といわれ …ゐ。この収仇位は治品川玄年(一一八ごに賞 す原 で少 に将行隆 γ』の皮はあの布名な東大寺大仏殿の復興を発起したのでゐ …を巡仏以官として絡についていた 法。 益房信空 の父である行 …院は、品川小陣の勧 法然 め上に 人よ を大 っ仏て 勧進 K 人に凝った 一 …が、上人は念仏勧進の行をみ行として問辞したのである。 対永ニ年三一八三 v、大仏造立工事は木前H勢の京初乱入に …よって一時中度するが、掛川源の精力的な勧進行によって、そ 一 をし …の後若々と巡燥していた。その頃、伊勢帥聞でゲリラ活動 こと 文覚上人がいたのである。 、 、 とな。師以来の御家人たちも平倒固から 「それで 鎌倉どのは?」 みな心離れしておるのじぞ」 再興の折はなし がったえられた直後じゃった。今にして立たずんば源家 一 仏 …こには、あ 袈る 裟御前 を斬った遠路武者盛還、 いや盛阿弥陀 …いょっのり、その足を高尾の神護寺へと向けるのである …人となりを聞くのである。そして箆濠の西行への想いはいよ …としお感じた鐙師聞は、光 明裳 遁に を紡れ、さらに時計しくその …西行法師 の名をはじめて聞くのである。この西行に興味をひ …ていた 源務経 一行と、震源は八回用品貯の山脳陣の陣屋正副剛院にて …再会するのである。その折沼町榔弁 は慶 、 の口から放出恨の歌僧 38 ー - 、 、 天下の情勢を 念m7じ .リノ三 文党は倦むとこるを知らぬ雄 弁 ぷりで その大衆とは 俊衆mm源 Eただ 一人である。 、 掛川き去り説き来たる。それはさながら大衆を 前 にした 、 アジ前説に 似 ていた。 ただし 、 神蓮寺から二キロほと山裾に下った文覚の事経だが 、 聴衆はもう一人いた。縁先においた机に向い 経巻に視 jk 、 ,、a 〈支〉 文覚に随 侍 する小法師だが 、 松海達文画 と女覚は強弁する。 鎌倉の源家 頼 朝 、 A1 の彼も明らかに師の アジ 線をさらしている十一一τ 阿川崎の 怜倒そうな少年だった 演説に耳をかたむけ て いた。 、 この 乱れた天下を統一する綜 孟人は 以外にはない いた額朝の印象を重源にったえる。 、 文覚は数年前彼が伊豆へ流部中 毎日のように逢っ て その 掛 ほについて。 。 寺山句会。 ー議然きのぐ 唾3 絵 「わたは頼朝に概起を促した。平家の徳者小伝内府の死 37 ー - 挿 、 、 都一伝と第二伝は元興寺伝 、 、 、 、 飛鳥伝 南寺伝などと ζ の学派の興隆のほどがうかがわれるのである。普 寺に伝えた第四伝と 法相祭の法灯はたびたび伝来さ れ 辿 、 、 薬師寺 、 、 さ いわれ 卸一二伝と第四伝は興袖寺伝 北寺伝などと称さ 、 れる。南部祭良の輿福寺 元興寺 法隆寺 た。また 鎌 倉時代における旧仏教の復興時代には 1 興福 、 一二五ニ)などが中興の祖として現われ、数学を大いに ,.‘‘,へん 良 人 H 町議脱上、 一一五五l 一二一=一〉や良遍ハ二八四 ・ 1 寸の 高揚したのである。 、 現在では 法隆寺が昭和二十五年に型徳宗として独立 、 む 興福寺 、 薬師寺の両寺が約二十カ寺の末寺を したので 、 、 もって大本山として一誌をなしている。またの水与は北 、 らには京都東山の清水寺などが本宗に所属し 日本仏教 法相宗と休して分派しているのである。ハ原俗〉 、 、 の行法苔雌(ムハ0 七1七内九}もこの法相京の人であっ パ) 、 の学開示として大いに栄えたのである。宥名な奈良時代 l 。仏教 一ロメモ O (ル 、 、 、 、 、 味として袋えられる。鞘開示議として 「示 坐 、臥 なり〈八種〉」(大正一二 ニ七 十九 b〉 aa吻 d 岬町ん昼、ん島内 現」とか「変夜、「変磁」などが用いられ と。ここで顕色とは復党によって知覚され るのもこうした内容からである。いずれに る色彩や除影のことであり、形色とは形状 aとは動的な変化の様相 せよ 形あるもの つまり生成変化する現象 のこと、さらに H色 位界の物質を指すものとして理解される。 を示している。また説明を加えれば顕色の しかし狭議にみると、際線の筏党対象と 中、向洋一一蹴色とは斉笠の色とされ、なかん ずく背、策 赤、自と尽の五径は「軍大 してのもの〈色箆-色処 色刷升〉でありそ の場合には、たとえば大采仏数の明治伽郎 色」ともいわれる。 地愉』〈ル銃一〉では「色」のさ伐態として つまるところ「色」とは、限線という悦 仙波還しているのである。「略必ずるに・覚 ニ保 あ守によって認識されるものなのであ ぜ勺げ り。調く、顕色、形色、表色なり。顕色と り、「貿擬」とも淡訳されるように質量を は鈎〈、音、賞、赤、白、光、影 明、 もちながら単に隊援として 一定の空間を占 、 、 、 、 名品で、「変化するもの」というようなH dとは凋く、取、拾、居、仲、行、銭、 窓色 として捉えられるおり方でもある。ハ H) で、「形あるもの」とか「表われたもの」問 袋、憲、座、袋、及び笠一顕色なり めているようなものでゆめる。このことはお という愈味である。また別の解釈では、@〈十一一一穐〉。形色とは R滑 X〈 短、 、方 円 のずから「色」というものが実体的な存在 「鍵す」という怠味の動制 丈 引からできた 従、相側、正、不正、問、下色なり〈十租体 〉で 。はないことを示している。つまり「空」 色 ・受 ・恕 ・行 ・識の五磁〈自己自身と 外界の潔民世界を織成する五つの要素)や 『般若心 経』の一 句 ・ で有名な「色即是空、 空即是色」に税かれる「色〈ル 1パ)」と いう澱念についてメモしておきたい。 サンスクリットの ZB は、①「形作る」 という意味の動詞2\引唱から作られたもの 色 ー - 36 ,a ,. (UJ ヲI パドゥラ、五二 九 四五〉にようて伝えられたので 1六 VI・A M‘ ., 果として現実世界の活動がなされるというのである。そ ある。一般に護法の著作を中心とした繰訳苫である『成うした存在現象の本性や状態を説明したのが三性説なの ゆいし eaq ゐ 深密経 如米出現功徳荘厳経 ・大采阿見述陛経 ・ ・ 拐伽経 である。この京の所依の絞山内は俗に「六経十一部諭」と a の必釈お)のぷ出によって、この 地激論』〈『唯識h 三』 十 ・ 解 白川旨が形成されたと考えられるのである。すなわち法相 いわれ、以下に記す総論がそれである。ll革政経 宗は、その際の玄笑の訳業の多大な助けをなした高局慈 e 《十一論〉。 、 えしょ‘, 『成唯識論了義 L 大乗阿削比込 山 町市雄北楠 ・ 、 を耕わした符府〈六じ八lじ三三)の払 判明 川}一祖に受け継が a" しゅ 情』 灯』を務わした恵沼守l七一四てまた『成喰ぷ必旗開 法相宗は 中国においては窺基の後 別検伽角川・唯識二十論 ・観所縁駒 恩大師窺基(六一一一-一l六八二)を初祖としているのであ ・大衆厚厳経〈六経〉、検伽師地論・顕揚聖教諭 ・大乗荘 厳経内側・集れ組内・摂大采角川・十地経論 ・・中辺分別論 ・分 る。この続誌は『成唯織論述記』や『大束法苑袋林京』 などを将わしているも この法制宗は中国十三京の一つであり、わが凶におい 、 ては日本八宗の一つ さらに分顕して南町即六宗の一つで 、 もある。また 法相宗の京名のいわれは、一切諸法の性 、らん、ゅう 、 、 AV ,a ‘, 六じぺ その後相日泌ハ六五|八 、 ? 雑四年 MAV 〉 、符 述 、 伝、さらに玄防〈?l七間六〉が又予七年ハ七三五〉に興福 岬んぱ O三〉に 智鳳ハ?七 O一-丁O 七占? ハ〉 また大宝三年ハ七 、 本においては奈良元興寺の道昭〈六二九 1 七一 れたが 、日 百訟に区分した「五位百訟」の数必から白米するものと O) が入唐して 、玄突から直接教えを受けて白 (真如)と相(現象〉を判釈するに五組に分類し、さらに され、あるいはまた所依の経典の一つである『解深密 2ハ基ニ)にわか闘に伝えたのである。これが法相白木初伝 、 ω この転涯の紡 やし・ L ・・,えん包 aa ,U 9 2NAAV n 」の品名を奥惚と寸るものであ 経 h のを六「一切法相 附 といわれゐもので -ba・可 ぽむ るともいわれる、布名な川湖北所執位、依他起性 門成実 〈|六五八|〉かおハ明『火山四年〈六五八)に伝えたのが第二 ょ,色ね.‘ へゐげしよしゅ a'L 性の三位説か説かれているのもこの車品である いずれ 伝 -ao 、 、 にせよ法相宗の銀本教義は五位百法によって現象世界を , 三〉 相日錐(lO 七=丁)などの伝えた第三 C七 制官鷺ハ| E'La 35 ー - ‘ •. 分点把緩し、その絞減にア l-フヤ識(阿顔耶織)とい・フ , , すべての作仕を包括する似本観念立てて -a 'a 「日一本一 仏四 防 南都六宗(ご 相 ほつそうしゅう 法 宗 一派 宗 m およそ二千五百年前に釈噂がはじめて仏の教えを続か れてから、仏教は時代や師向上、あるいはその人々の心に 応じて、様々に変容しながら展開してきた。真理は唯一 のものでおっても、人間の理解の仕方や受け止め方によ … "って、教説の内容も少しづっ視点を異にしていったので 一おる。そうしたことから種々に宗旨が分かれ、ことに日 一本仏教においては多くの宗派に分派して、現に伝えられ 一容や由来、あるいはその現況を、不定期ではあるが一々 イソドの大衆仏教の流れにおいては ibw 句 e ,、 中観派と稔伽唯 、 識派が二つの大きな学派を形成していた。四世紀から五 eL ゐ 世紀にかけて活臨した無著〈アサンガ、三九Ol 四七O〉や し ょ, Hh いむ£,るんゆいし ω -es んじゅ, 世親ハヴ 7スパンドゥ、問OOl四八O〉の登場によって検 伽唯識派は一応その基本的な論番が成立したこうした E ゆしんぼい 唯識思想は、無著の『摂大衆論』や世親の『唯識三十 、 頒』などのAO によって理解できるが これは其滞三蔵 しようるん Lゅ, 〈パラマ 1 ル夕、悶九九|五九OVによって中間にもたらさ 、 外界と自己の意識がともに実在しないハ境識倶空)と れた。これがいわゆる摂論宗といわれる学聞大系であ り いう民災唯議説の立仙切であった。こうした真諦の訳業 (旧択の叫明治必〉の成川却によって形成された教説に対し て、七世紀の初頭にインドへの求法の旅から帰 笑三蔵(六OOl六六回、『大出細菌措明記』の著者〉がもたら 、 ゐん拍 役貌の後を受m けm てデ( 似 した新択の唯識説が、中国や日本で発展展開した法相京 なのである。玄炎は、無著 、 俗だけは胞める〈撹笠心布〉方制限喰説必 説法 をの弟子戒賢 よ円て大成さ孔た新しい解釈の唯説説、つまり窓滋の存 oi 五五O 〉を経て護猷(ダ マ三O パl五六一)に iヲル 、五 ィグナ iMH、四OOl四八OY 安惑〈スティラマティ、四七 山 派の撃えの内 …ているのである。本欄では、こうした各宗 一 紹介してみたいのである。 34 ー - 六羅漢 、 音菩薩。すなわち、大悲、大慈、師子無畏大光普照、 天人丈犬、大発採音の六観音の称。また、合衝ては、型 u 地獄、千手を餓鬼、馬政を苗生、十一面を修躍、 観 tを ん 六人の配税、すなわち釈切と、初転法て紋初にその の主とする習わしがある。 根 六つの感官。限(視覚 γ 耳〈総党〉・鼻ハ帥明党〉 ・ 舌ハ味 六 aqA7ζ 不空穎索を人間、如意輪を天に配して、それぞれの能化 として大梁仏教では特に重んずる六種の和合法。すなわ 覚 γ ・排ハ触覚) ・ 怠ハ認滋〉のこと。また、人間の身心企 AAY ち、身には礼制作などを M じくし、川には歌品などを同じ を期する宗派もある。 北 ・ 下 ・ 上の六つの万角、 ・ Vで 成 忍 ・ 帰 梢 ・ 進 制 ・ 作定 相 ・ 官ぷの六度ハ彼仰に渡る 道ある。 、 として実践すべき六つの徳自をいう。すなわち 布施 持 ・ 大乗仏教で、連繋に至るための波羅蜜〈理想完成)の行 六法羅 蜜 ι , 体と見て、「六線泊怜」h安全 mg山を祈るときなどに唱える) 利では夜 、 ・ る aば v くし、なでは信心などを制じくし、戒では浄戒などを向 じくし、見ではものに対する見解を同じくし 食などの利を同じくするやり方。 るっかい 六界 識の六界と分別し、また、級 ・ 六大、六級、六人などともいう。万有を鱗成する要素 問問・空 怠の六識に分けるときにも使う。 ・ 出 ・ ‘ー ・ 身 ・ ぃ瓜・凶 釘六 3 ・火 舌 ・ かんのん 霊 方'; 弥 を地 ・水 耳 ・鼻 ろ AV 六道-なめぐって衆生を教化するといわれる六体の観世 には、「六方段」と称する節がある。 六観音 明品 弟子となった五人の比丘〈↓五比丘)を合せていう。 bMeS9 六 和 敬 zq 六合念法、六和合などともいう。修行者の和合の基本 < 六波羅蜜〈↓〉に同じ。 aq ,、&まん,ょ‘, 六度万行 六度は彼岸に至る六つの優れた修行であるが、広くい ゐ,、 E' 占ハ知山 えば苦行のすべてを摂するので、浄土教では念仏以外の 一切の善行をさす。 餓由子畜生 ・ ・ 修羅 ・ 人間 六趣ともいう。一切の衆生がその業にもとづいて祉く 六種の世界。すなわち 、地獄 天上の六つで、凡夫はそれぞれの巷にさまよ・フところ と ・ 化け Z から、「六道総砲」という。 ムハ道の必に生死を繰返す衆生を導く、 をさす。 六難 zt 能 T 、 、 いがたく その正法は聞きがたく 苫心も生じがたく、 衆生が迦過する六種の難事。すなわち 仏の出世に会 、 華道 t aq 〈亀ん 地 蔵土空 六念処ともいう。念仏 ω 念法 ・ ・ 念戒 量。〈ねん 六念 念僧 ・ 1, 9 、包a-e ぜい 占ハ八弘誓 ・ 阿弥陀仏が法裁比丘のと 角。 中国門イソドではガンジス河中流地帯をきした〉に生れがた と。 、 く、人の身は受けがたく、一切の善根を百六えがたいこ ・ 念天の六つ。中間では、別に比丘のよく知り弁え 六随念 念施 六八大阪ともいう 、 ておくべき日月、兵隊等の六沢制民が項をさJす葉ともな った。 六八刷 き衆生を放おうとして誓った四十八願のこと。「桑願」 もこれに同じ。 ゐ,、ぷ 六部 六十六部の略。『法総中経』を書写して一部ずつ全国六 銭を乞いながら行脚する俗の別称ともなった。 十六カ所の霊場に車中納して歩く巡礼僧の一種。近世では さす。 a q,、む 六地蔵 tT, 地桜花u 械を数化する 脱会六道(↓)に配し、各自の領は 浄土宗の安心 起行 ・作業の緩目を六霊と二十二の名 ・ 目に分けた総称。第一訟は五種正行(4)、第二重は助 4 〉とする。 〉、第四訟は五念門1ハ 〉、 正ニ行分別、第三置は三心(4 v 第五監は凹修 (i 〉v 、第六監は三種行儀ハ としたもので、比丘形であるが特に「六道能化地威願王 ゐ,、巴ん dv' 六 神 通 帯磁」と総称する。兵鋭も多いが、一般に地獄を岡田陀地 六過ともいう。仏や苔騒が具えているという六種の超 人的な飽力。すなわち、神足通ハどこへでも飛んでゆけ 宝珠地 誠、市 生を宝印地 蔵、修離を持地地 蔵、餓山泌を 、 毒蛇 ・ ・キツネ 、 ・ ワュ ヒツジ ゐ,、、〈 六畜 ブタ ・ ・ ・ラ サル〉のこと。 ・ ・ イヌ 牝牛 ・牡牛 ・ 世のありさまがわかる〉漏尽通〈煩悩をとり去ることができ る)の中ハつ。 六衆生ハイヌ ・ トリ ・ 経によっては、ヒツジ ・ヤギ 、 ウシ ・ -3 1- 天を日光地裁がそれぞれ受持つ 蔵、人聞を除訟陣地蔵、 一昼夜を六時〈長紛 、 天〉 耳通(どんな曾穏や る〉、天眼通ハ自他の未来がわかる Sん といわれている。各地に大体の地蔵像を安院する寺も多 。,、むらい 六時礼讃 戸でも聞ける〉 他心通ハ他人の心を察知する可宿命通ハ前 、 唐の菩滋が浄土往生の行 c く、地名にも m いられている。 往生礼讃、六時讃ともいう 中夜 ・後夜)に分け、それぞれ阿弥陀 ・ 儀の一つとして編纂した讃文 偏で 日没 ・初夜 ・ ただし ・日中 仏を讃嘆礼拝するようにしてある。鎌倉時代には、これ ロパあるいはウマ エワトリのそれぞれ六種をさす場合もある。 ・ クダ 、 に曲調を付して一般教化の具としたが 現代でも浄土宗 度E では各 種 法 援 に 用 い る こ と が 多 い 。 六重二十二件 ーι. -,> ノ、〈 毎月八 、 十四 、 十五 、 、 !:・ 司 、 六師外道 正3 、 、 特にすぐれた六人の師を 仏教側から 庭称して 、 ・ ケlサカンバラ ・ 、 宿命論的自 、 ゴlサl-フ 無道徳主義のブlラナ 唯物 主義のアジタ 然主義のマツカリ ツ夕 外道と い った。懐疑主義のサンタャヤ ・ベlラッティプ のうち 釈尊出枇当時 中インドで活躍していた自由思想家群 、 aq< 〈六月の巻 ) 回だ 月 宝5 を中心にその伝統が受継がれている。 法数術語十一 日 且。,、さいび 六斎 、 一一一 ろ〈きい hH ゐ69 六斎 念 仏 二十一一一 二十九 在俗の者が精進潔斎して戒を守り善事に心がける特定 の臼として 十の六日をさす。 、 カ 、 の一一組。もと内山派の道空がこれを創めた、と伝えら・カ れッサパ、無因論的感覚主義のハクィ ・ カ 7 チャ l ヤ るが、近仇では盆おどりと合流した形で、特に農村官年 ナ ジャイナ教の閥復ニガンタ ・ナ lタフッタの六師を 六斎の自に 鉦や太鼓を伴奏にして念仏を唱える芸能 道会 LWE' ~ 命。 あるが、まだまだこれからが大変なのである。それは、 Mト K・ -ト無失数の仏側に問えし 「内叫が名げをして符八 国土の持を説かしめん。諸天人民州飛嶋励の期、我が 、 ,の小に於て我が功徳 め 、符諸仏をし て各比丘僧大胤 T 題が航わっている@その一つはどの仏を念ずるのかとい l八 が日聞に来生せしめん」〈その他第 五阪も衆生の往生を 名字を聞いて慈心歓喜踊蹟せざることなければ、皆我 一 nに「念仏」といっても、そこには少くともニつの問 ことである。 仏、二一世一切仏、過現未訪仏、十五仏、新仏必蒋躍等 h 蔵斉眠、不動如米、観音蒋隊、勢宅待雌などのほか、話 みると、陀称、知米、阿弥陀仏、無抗 n仏 M 、弥制仏、地 のである。試みに経典の中から念ぜられる相手を姶って して、『観無品芳経』になると、これが「称南無阿弥陀 ずるものを放ってやろうとい・つ約米までされている。そ 司無比 になると先に述べたように 、名を聞いて往 MMWE 止できる似がトニにも鳩え、同時にまた、円 分で仏を念 入みずに至るまで救いとって下さっている。その上、 といって 廠ずる) うことむ他の一つは、ど・フやって「念ずる」のかという 念仏というと「ナムアミダブツ」で、阿弥陀仏の専売 史に沢山の仏蓄躍がある。仏ではないが観汗菩躍などは 仏」||ナムアミダブツと称えなさいとまではっきり 、 、 阿弥陀仏についで多く念ぜられている。ところが、阿弥 特許のように考えられているが、そう簡出中にはゆかない 陀仏が念仏の代表になるようになったのは「念ずるこ 説かれるようになってきた。ここまで親切に 、わ れわ 人間ばかりでなく、烏やけものゃなめくじ と」を約束の条件とされたからである。もっとも『阿悶 れ凡夫のことを思って下さる仏は阿弥陀仏のほかにはま 、 仏関経』巻下に「若し忠男子菩女人あり、ハ仏の)名を聞 ブツたということになるのも、当然のことではあるまい ずあるまい。それたからこそ、念仏といえばナムアミダ 、 かば阿聞仏刺に生ずることを得ん」とあって、阿悶仏の か。 名を聞くと作土に生れることができるとされているが、 阿弥陀仏になるともっと寸箪であり、『大阿弥陀経』第 四願には、 -2 9- 、 る念仏とが泣なって「念仏」とい・フことが早くからおこ 、 念仏特に十念というも いわば念仏か迫集ハさとり〉に至る修行の一つとさ なり 、 、 口実の怠味で宗教的になったということである。 、 宗教の枇界では信仰が 、 こういった雑多なものを念ずることも大切で 毎度くりかえすように 、 散する。 つのものにまとまれば J 、 一」念だ八念だと それだけ噂注力は強 、 ぼられるようになる。相手が多ければど・つしてもカは分 深まれば深まるほど統一され 雑多は整理され一つにし あるが しかし のが れるようになる。いってみれば 、 二 011 ー ーo 古い仏教では念仏をはじめとして 、 なわれてい九ことが知られるe このようにして 天の一てつを加 ・ いろいろのものが「念じられ」ていた。仏と法と僧を念 ずる三念はすでに述べた。三念に成 ・施 えたものがおハ念であり、さらにこれに安般〈くわしくは阿 くなる。こうした徳弘からいうならば 仏」 ||「仏」を念ずるということに統一されて、はじ これに身と死の二念を加えたものが十念と 八念となり 、 波郷波といい『呼駁』のこと〉と休息を念ずることを加えて いっているうちはまだ本当の念仏ではない。これが「念 めて力あるものになってくるのである。仏教の歴史の上 、 雑多を念じていたのは部派仏教の頃までで なった。〈今日浄土宗で念仏を十川週明えるのとは別で為る) からいうと ある。それが大乗仏教の頃になると〔すなわち西暦紀元第 それまでインド人の理想とされていた「天に生れ 、 乙の中で念天が加わった六念がおこなわれるようにな 二世紀附む仏を念ずる念仏にしぼられよ るうになったので 、 ると 一O R) 、 仏教へと展開したのである c る労刈修行の仏教「誌の仏教」 、 つまり「宗教としての」 ・ とす の「理の仏教」から、自分が修行して氾繋に至ろ フ である念仏をとたえれば天に生れるとい・つのと同じ意味 ある。すなわち ・ 、 でベ沖土に生れる」という浄土数日仰の芽ばえがはじま ・ 上原 掲8 ったといわ九・る。(際 、 りかえり その最後の退艶ハ死〉にまで思いを致すように どうやら「仏を念ずる」ことにまで立ち至ったわけで わか身をふ さら に 念 身 、 念 死 を ふ く む 十 念 に 至 る と 仏教会体がそれまでの教理 ・教説中心 る」という思想か仏教に入ってき やがては六念の代炎 - 28- w' 』れか仏教にとり入れら J と述べられており、神山h』 F 帰依信服する人を以上の人と する A沼が古くか つあム p G 一ニ-X に帰依すること「前照三宝」であ て、釈前悼の教えの仲間〈E 岨d に入る場合の条件とされ るようにな?た る。一一一宝とは仏と法と僧の三つである。釈特にむかつ て、 研究』 ζに併用寸る( 『念仏思想の とについて、まことに簡潔に述べら -Aている像以波釘氏 コ一よか振る¢で 、こ 七頁) ・ 「当時仏教徒の資給、とりわけ在家仏教徒の規矩とし ては 、帰 依三宝即ち三念の形式が使用されていた。一一一 合 、日 夜仏辺に侍った常随の弟子連の意味した念仏は はペ よとは、いうまでもなく念仏念法念的である。この喝 現住仏 、 これを追慕憶念して 、 即ち生 身 の釈符に対する帰敬 あるい は礼仏 みづから法に帰依したてまつる むづから仏に帰依したてまつる という程の気持だったであろう。それが、時間的に地 とか 、 、 、 仏の十号や十力 、 、 回無 観ずる 三十二相(仏陀の身体的特相・事表鉱〉を 他 と ・ 量心等ハ仏陀のすぐれた精神的特徴 鍛者駐〉を憶念する いうようなことにまで発展し うという依強の心を起さしめ やがては憶念の仕万と その徳を a ぇ また恐怖や危簸に当ってその加穫を乞 理的に仏と錐れている場合でも 、 みづから僧に帰依したてまつる と三たび明える。これに対して釈時が、 普未(なんじ来たれ) とおっしゃれば、例伽に入ることができたのである。こ 、 かいう儀則を生じ さらに後には釈時たけでなく 、 、 、 つまり 念三宝の中の念仏と 宗教的人絡を対象とす 、 方役界の路仏をも所念の対象としたものであフ る ・」 、 うして 入団式の立普として三師三宝がおこなわれるよ うになったのだが、それとならんで、京教的人格将とし ての釈尊つまり「仏」に帰命し仏を「念ずる}ことが 、 おこなわれていた。このことは前にも述べたが このこ 四七|内八三阿弥陀仏つ名前を聞いただけでも大変な功 、 徳があるとい・フのだかっ唱での名号を自分がとなえたら なぜ「念 、 、 、 在りし日の釈尊のことを心に思い、念じて み 、 のことをひとしお強く思い出し なつかしむようになる。 そして 時がおいでになる頃からきめられたことに、一二帰三宝と こうした心的の上から仏を念ずることとならん 、で 釈 迫念とかという 3楽であらわす。 さらに大主い功徳||つま少佐伶二汎げられるわけであ づからをなぐさめていたであろ・フ。このことを憶念とか る。 、 る。それが川内・ニ山川て mく Lる t 八Mで、約束中の約米であ とこるで「名前なとたえる」ということ念 いうことがある。つまりくりかえし、くりかえし、二 一宝 仏を念ずるというのであるか。これには長い念 、 、 し ま 。, u に知依するから「南無三宝」である。帰依とは自分の企 に帰依することである。帰依とはすなわち南無で、三宝 || 分らな 仏」 、 仏の「除史」がこめられているのである。 釈絡がまだこの悦においでにな 弔ていた 頃は 心全霊を投げかけて相手にたよりすがることである。帰 、 依の思想 i タ l』に、 、 ラタ』の最古の部分といわれる はるかその以前からあった。インド つまり信仰する栂手に対する信販の心と態度 いこと、図ったこと、思い悩むこ と・かおこなわれたら 、 1 とは仏教に限らず 、 釈尊の所へ行って、じかに解決して貰うことができた。 釈時がたまたま遠方まで教えをひろめに行って不 、 ギ ・ だが 、 『プハガパット 在の際はどうなるか。そんな時、回ったり、悩んだりし 、 お釈迦さまにお会いしたいなあ」と思 古代の史詩『マハ lバ た弟子は「ああ ったにちがいない。そうしたことから弟子たちは自の 「帰依の人は苦行者にまさり、智惑の人よりよく た来をなすよりも等し。この放に汝帰依の人たれ 前に釈尊がおいでにならずとも、釈尊のことを心に浮べ たり 、じ っと与えてみたりしたことであろう。これをお かして帰依の人の中にありては信心堅固、吾を礼拝 、.,しん 経の中では思念とか随念とかと書いている。こうした気 衷心吾に帰するものは 吾これを以って最上帰依 、 の人となす」ハ第六愈〉 し 持であるところに釈尊がなくなられた。弟子たちは、も 早やこの陛で再びお会いすることができなくなった釈噂 臼分のいずる相手は 、 l 、 、 -10 一 31 1 しにおいでに 西五作 L どうしたら阿弥陀仏の 、 このようにきっちりと決っ 今、もに なる阿弥陀一仏である。ー 次に問題になるのは 、 まちがったがじ山々をしていたのでは何にもならない。阿 救いが得られるかということである。いくら信じても てくると 無 欲生一枚問 乃至十念 g ぷ阿弥陀仏との約束をはたす・』とである 弥陀仏か示された本当の日じ方をすることである。それ 至心伯楽 学 -明開閉帽d・. 一 大. A 六V き常; ;土 j j 教 j 、 、 「乃至十 いよいよ「念仏」ということに辿りついたわけ 、 功徳を得ることを約束した δ 、 願が 実に 十二もある(二十 三四 l 三七、問一 l 四五、 の名前を聞いて」さまざま 方経恥の四十八の願の中には「開設名号」||「阿弥陀仏 、 だが 念仏がなぜ「約束」ということになるのか 。『無量 さて 味であろう。 ことである。一向でもよいが 、卜川 が盟まし いというな 念」以外にない。乃至 十念とは一固 ないし 十問念仏する ているので 、わ たしたちのすることは終りの の小 、始 めのニ句は「 i 川し切る」ことで約点がはたされ 重信た j れ; I.1)・ j 涜fj 主出な i の i 竹存 j 浄; 宝 。 南 -・・・J・. EO そんな 別仕は齢半端にしてこの世を去るという。万 、 、 、 、 中 でみえる。うっすらかいた汗もひき すがすがしい気分 の 、山 の寺詣りであった。 、 休想のあと チェソマイ大学を訪 暑さ一段と閉す昼すぎ チェンマイ市内にもどり 華レストランで昼食 、 ーゲンピリア ・ れる。ちょうど学期末で学生の姿は少なかったが この 織内の広さには驚くばかりである。ブ , 7イヤ 19'' 五 ・ ト 、 胤両氏と 、 タイシルクと銀細工の℃場を比学 五時す 、 火炎 樹など色とりどりの草木にかこまれた学会 うらや 、 ましい潔撹とみた。 このあと 苫ホテルにもどる。一日を共にした小 池 別れを符げる。お二人は飛行機を約 予済ということで 、 ば また夜行バスにゆられてパソコクまで戻る 、 空港に向った。 目 、 、 さすがに疲れた。しかし チェソマイでの見聞の 数 、 夜行のあとの一 日 の観光 しかもガタガタゆられた一 ことになる。 私たちは がうまくいくとは限らないのである。 、 H 再び箪にゆられ山の寺までもどる。三百 、 午前十 一時半 お伽ばなしに出てくるようなメオ族の 部泌をあとに 段近い 中岡産の三彩勅の陶板をはめこんだ H竜の石段 と呼ばれる附段を登る。 、 、 、眼下にチェソマイ市内が広がり 迫山がかすん 、 、 満足感あふれる軽いものであった。 、 ちたものと異なり 、一 日歩き回った疲れがあるものの 九時すぎ 、 高速パスに乗りこむ足は 往路の不安にみ 六宵年ほど前の山乱立というこの守は、山頂全域にパ,コ 々は その疲れを忘れきセるに充分なものであった。 タを中心に谷磁の述造物か、まばゆいばかりの賞金色を らしく 放って辿てら』品ていた。境内からの燥明 これまたすば -2 4- ない。タブ 1 どうやら かくれ回数 H ということだった。 観されているらしい。あとで謹府県したこと かりで、ただ木々乞切り倒し、問いただけのもの、しか ガイドに説明を求めたとこる、あまり円以い返事がもらえ で、あちこちにえぐられた岩が凱を出して も水路と米間 m 、 H であるが こんな海の中の道を上下左おにゆられ、ゆられて 回教徒であるメオ族は、幾多の宗教的迫害なのりこえて G いる 信奉し続け 今日まで来たらしい。これは メオ族が 一夫 、 介がひらけた。前方の斜面に部落が 二十分ほど、急に貌m 多妻であることからも理解できた。男子二百名女子四 民噌島‘ 百名という小数民族の性別的パラソスもさるととなが 、 見えてきた。だらだらとした道を下り、部落に入り、率 、 を降る。 子供たちがかけ寄って来た。黒色の衣装を身につけ ら 、 、 四人まで拠ることができるという習慣は回数その 、 銀側棋のネックレス、イヤリング、プレスレットをじゃら ままである。 、 できるそうだが 、 ことでは男性には、その資格がないの 々では 男性が経済的になりたてば四人 まで 嬰 ることが この結婚の制度が なかなかおもしろい。同教園の間 じゃら下げている。大人も同じいでたち、口内外立ちは整 っており、小柄な民族である。この衣殺は樹皮を加工し て作るということだが、木綿のような布にみえた。 部か市内を日比て回る。珍しさも手伝ってカメラを向け とが できない。 、 である。女性の方に選択権があり 特定の男性 を見初め 、 仲 人をたて男性に申込む。申込まれた男 性は 、 る。とたんにお金をせびられた。モデル料金をとられる たとき 、 男性はいっさい働く必要がない。生活費は女性 、 のである。一回約二十円ぐらいになる。うかうかシャッ よほどの理由.かないかぎり ことわるこ しかし ターも切れない。 3Q 慈ぶきの家には窓がなく、内部はうす附い。そんな一 自分が生んた子供の分と 夫に対する口分のノルマ 、 、 が 、 特産のアヘソを吸っていれば良いという。 、 なんともうらやましい生活ぷりであるが ひと宮加えれ 、 軒のなかに入れてもら を稼いでくれるからだ。男性の仕郁は 復散の妥の折り 十位ほどの化切りのない内 郎は土問となっており、左側が物位、お側が居間米寝所 合いを考え 入 nの真正面、奥まったところに何かが杷ってある。 で、大 体 十 二 、 才 一 人 が 住 ん で い る と い う 。 23 ー - J オ族の母子 、 、 、 気候は大陸性で朝夕は 、 独自の女化を跨った古都 ラ その通り。バンコクとは比較に 探尚三百メートルにあるため 涼しいと開いていたが ならない心地よい天気であった。チェソマイとは「新し い町」という怠味だそうだが 新しい 町どころではな 、 い。十 τ一枇紀末にメングライ主によって始められた 、 そして所々に点在する 随所にその函影を残している。核壁跡やそれを 、 ンナータイ王国の首府として であり きけて作られた曲りくねった道 ・トイ i ニッサン 、 、 ト ・プラ ラ 左右に展開する 、 ワット フの門前に到着。ここで小型 、 、 フ山の中 腹、 スリ鉢型に開けた南側の斜 ・ ダットサンを改造した車・に果り換え ・ステ l ・ 最初の訪 問先は山 脇此族メオ族の部落である。 、 遺跡 が如実に物語っていた。 さて ・ ステ チェンマイの北凶約卜五ギロ 海紘一 七六乞メートル のドイ 扇に終滋をなして住んでいるという。 、 市内を抜け 曲りくねった登り援を 〆!ト 、 風景そ楽しみながら約三十分 山の寺 ック る。部落に入る道が細いためである。 プピン離宮に向う舗装された道から間道に入る。急に 卒がゆれだした。両手で手摺 にしがみつく。道とは名ば 一 22 - 、 ちこち包括をしてくれている 竺十分ほど経ったころ ようやく仮眠するためのホテルのポ lイが迎えに来てく 人なつっこいようなクリクリした阪のこのボ l イ ν 況の検問であ〉た u共産勢力の物抗補給を断つためと、 ω 同内 r 小平分子の活動をチ玄ヅクすることが日的であると したかって荷物を前殺したトラヅクや、帳付の小 . 、 れた μ いう ι へ案内してくれた ・ チェック ・インし 、制 食までの一時間半あ ホアルは待合室から二分ほどのとこ は 待たせたことを詫ひることもなく、T まねでホテル ζ 物食をとるため階下のグリルぷ降る。先 、 高校の先生であった。小池さんは文部省初等中 、 等教育局の五 十嵐さん と二人で 、海外 在留邦 人の子弟教 という 京学芸大学附属高校大泉校舎に勤務されている小池さん しそうに話されている。日本の方であった。その方は東 に米ていられた佐 藤 夫人か、見知らぬ人と 、いかにも純 八時半すぎ まり、川山mで休む。 ろであった 形だけの川州ベで、山中内には入らず、検問んれが迎転 スリウ寸ソグス 、 明トラック、そして円山氷川れなどは、殊 山氏念入りに凋べ ため られるらしい、しかし弘ヰの来プたハスは定期似である 、 手と二 REr いことばをかわしただけであった、 こうした検問所は 急に観削介のひらけた場所や問必の ある州辺にぷけられ、チェンマイまでの問、 一一 一カ所で行 、 γに停車し、三十分 バンコク、チェン われていた。政的不安な一一仰を踊間日比たことに。なる さて 、仮 行バスは午前一時半すぎ さらに北上。夜がし 、 マイのほぼ山 中間あたりのトライプイ 、 ほど 休憩。ここで運転手が交代し ようやくチェゾマイの郊 長旅もまもなく終りた。とたんに眠気が憎 、 ンツのマイクロバスに来り、ホテルを出発。 おいた日本語の話せるガイドが迎えに水た。古い噌のベ し、一日を同行することになった。九時すぎ、予約して 見知らぬ土地で、地図をたよりの旅客同士、怠気投合 、 育指滋のため派遣され 週末を利用してチェン マイに来 c らじら明け始めた五時半寸さ 外に入った 予約して られたということであった。 、 してきた、うとうとしたらしい。「若きましたよ 」とい 、 ζとにした。しかし、ほかなかやっ 均的物をまとめ パスを降る。待合室心入り う戸に 眼 が限 めた。 、 二十分。バス会社の人も心配してあ おいた案内人を作つ て米ない。ぃ l介 - 2 1- チャオ HH 、 、 、 ハイウエーとはいっても 日本のそれとは比絞 に l 八 二V はせが 長谷 議 随行記 {育 、 わ 川 、 、 寝 なかなか 寝 つかれない。後部の座席 パスはさらにひた走り。明日の行動を考え 、 、 なければと思うが 、 、 kけ . お互いに寝つかれ 、 パスが速度をさげた。前を見る。赤い点滅ラソ 、 プが行手を遮るかのように 異様に光っている。タイ陸 突然 ぬいらだちを確必しA口う。 う。両手を いるようだ。日が AH る。ただ必迫以外の外同旅行おの一行五名だけが起きて 現地の 人 々はすでに眠りに入ってい をふりかえると た道を 一必常のライト以外に 特大の補強ライトニ倒に照され の運転手がたよりとなった。 ならない道路状況での速きである。すべて 必歌まじり 丈存 旅 世界仏教徒会 プラヤ(メナ ム) 川 ド流にひらけた水の部バ ・ ンコク。東洋のペニスともいわれたこの訴の繁必街は、 午後九時をすぎても人と点の杭米は激しい。そんな巾を バンコクより 北 へ八 、 バスはクラクションを鳴して走りぬける。 、 およそ九時間半のパス旅行である。 タイ第二の都市チェンマイまで O 九キロ タイ判際空港を右手に過ぎたあたりより 外界は附く なる。いつしか郷市部を走りぬけ、郊外に出たらしいω パスは速度を急激にあげる。メーターは百ニレ1キロ 前後 1 E主 ~ e士:> (1) 国 を指して いる。ふだん経験している速度ではあるがス ーバ -2 0- 南 、 に移っているのではないかという気 仕事が 店誕の仕wm 、 教だといっても ト がする。かってい仰と医療との結びつきは強かったが いまの 病 院をつくりだしたのはキリス 、 持てるもの 持てる余りの 一部を持たないものに忠んでやるとい 、 過言ではない。ローマ時代 民族や王族の娘や夫人 たち 、 、 が 病人や貧しい人々の世話をしたのは が 、 ったい わ ゆ る 慈 注 事 ぷ で は な か っ た 。 文 字 通 り 失や父 、 。 いわば 「 土 教 化ト ……浄 」 6 判 ・ ラ クト 表紙共八日 ……『 おぼん B 』 定価一部二十円ハニOO 部以上 送料 笑費 十八円〉 務八 と 庁 O 門 遇 土 。ま の止めるのもきかず 家を凶てなりふりかまわず君護に 自らもその病いに感染して死ぬほどであった。 、 #l ヒスだとはじたからである …… …… -1 9- 専念し られるほんとの から 冗 この人たちのお世話をすることが目に見えない神に触れ ー 発 教 -フイ病品作の捕ましい聾に、十 字架上 のわれらの揮をあ がない給う神をλたからである。こうしてシスタ 君護婦が生まれたいまいのちを扱う仕事で忘れられてい ・ 思いやり〈 gag 〉 このケア (nRS であり 、 、 、 るのは . そして必 決な のは ほんとの立味でのライフ ワ 書 ι A、 側悶 /浄¥ 方 告 白万立 耳 &. V 一 生 き 中 的 浄一 土ノ八、 ♂ 寄発 車 書 てある +イエン久ではあるまいから 日本には光明良后や弘均尼 のような方はもうでないのであろうか。 新華弘 刊 警 好 評 -フリーで払われるも との 〈白色白門U 広E 島Fa-〉 0と 3謝 礼 その地位ではなくて、「ひとのいのち」を扱う仕事だっ たからである。生死にかかわる大事を手に揮っている 住 事だったからである。そしていま残っているのは、いの 医師、弁護 、 ora-0 〉2との ちを扱う仕事ゆえに相手の側の志次第できる「布施」と g 肉胃 IS-内 区別がある。つまり後おにあたるものは いうシステムだけである。これにさえ相場や代価がきま という形で払われるもの Q S 土、芸術家に対する報酬のあり方であって、その仕事に ったり 決めてほしいという要望のあるのは 、そ れがも 、 一定の代価がきめられないということである。払う側の はやいのちを扱う仕事でなくなってきているからであ る。 、 払い βが巡っていいという辿て前である。災はここに、 その仕事に対する感謝の気持と その経済能力に応じて 近頃流行の自由診僚の根拠がある。いまでも農村では、 残っているとこるもるる。その仕事が点数に還元できな 手術後の息者が足に包 幣をまいていた。底部を診察する のちを 倣っていないのではないかという気・かする。ある っていたはずの僧侶も 、どうもほ んとはあまりひとの い いのちを扱っている はず の医師も 、か っていのちを扱 いことは般かである。しかしし三時間待たせて三分診蹴 お大線やお味噌やお米をさげて医口敏へお礼にゆく風習の といういまの底棋が、はたしてその報酬のあり方に値す 大きな戸で別の患者を受 ために息者の前にいる 女医 は 、 るかどうかは別である。それに分娩というごく自然な人 けもっている看護婦の名を呼んだ。女医は患部を診察す 、 間の営為をも そして一切を助産婦にまかせきりで、何 ・ 、 バレーは 古っている「われは包帯するのみ 、 る義務はあるが 、包帯を鉱い 附て息部を露出させるのは泊 それでも多額の料金をお求する も手を下さない医師が 護婦の仕事だからである。しかし 十六世紀の外科医アン 、 といういまの制度は、どこかおかしいのではあるまい フロアズ 、 ト1 式 か。大病院が、内科、外科と分かれたいわばデ・ハ きまい。 には 手当てをするという意味もある。こんな 、 ところから、いま病院で、ほんとにひとのいのちを扱う 35 買 の商品先場になっているという言い方もあながち否定で 神が出郷したもう」と。この包帯するというフランス語の 、 かつて洋の京函を間わず 僧侶附悶か尊ばれたのは、 18 ー - 歌舞伎に通われて得られた感動にあるとお聞 れられて 、 、 、 、 、 、ず 「 しゃ」の平維 「熊谷陣屋」の平敦盛や とりもなおさず神がその愛し給 う独 り子 を十 、 なるほととうなづき あらためてそのご本を読ま 、 ている きして という経験をとるものである。そういう経過の あいだに生まれる感動を、紋は「一ト昨による生の認識」 していただくよ・つなことだった。たとえば「寺小屋」 、 と名づけている。これに対し志賀副読の「滅の崎にて」 の菅秀才や 、 に代表されるように 致命傷になるかもしれなかった電 盛の中に 主君のためといえ あるいは験いのた めと はい 、 え父が子を殺さねばという身の「つらさ 」こそ、北 森 氏に 、 で死んで いる蜂の死骸をみて感じた生の忽識を作家は 車事故のあとの養生に城の崎へきていた主人公が 屋根 、 生きてゆくことの も のであった。あ とっては 、 「:::忙しく立働いている障は却何にも生きている物と 、 はなく、義政の世のしがらみの 小 で 、 の「仙台荻」の認にしろ あれは子 殺し を奨励し たので 冷たい瓦 、 字架上で死なしめ給う時の御心に通う 、 いう感じを与えた。その傍に一定 織も同位もタも見る 日将 、 るものとは言 い切れないものがあるのではなかるうか。 ちを扱う より 人のいのちを扱う仕事をする人 には、お金の 、 も弔いとい・つことばには、やはり千鈎の屯みがある。た からこそ 支払い方が述うはずである。専門的な職業についてもサ -1 7- 度に動かずに仰向きに死んだものという感じを与えるの だ。:::他の腕が皆巣へ入って仕舞った いるものととれないであろうか。一慨に封建道徳を教え 「つらさ」から なにより「いのちのせつなさ」を設えて 実在 一枚 のよに一つ残った死歓を見ることは 淋 しかった。然し、 、 、 それは如何にも静かだった」と給んでいる。作必自身が 、 の短篇にもある〉 なりが i 死の危機をそばに感じているとき 一匹の虫 なり ヘンリ 上昇に 事 ・ 、 仕 人のいのちには代備がない。人 一人 の生命は地 球 の の木 の禁 〈0 感をもってうかびあがってくる。これを伊 藤は よる生の認識と呼んでいる。そこに白樺派の文学のもつ である。 あの「抽仰の 、 魅 hH もあるといえよ・フ。つまりいのちが 摘 けているから また「 紳 の摘みの神学」者北殺事雄 氏が 、 痛み」に歪りつかれた過程を 突は幼少の頃から祖母につ し、 この幼稚園の先生のお話は 、 いまアメリカなどで流行の ェージャーの未婚の母帽刊のことと古っている 、 いるが こうした分け方のはじまっは エマ 、 l スソの「カ」 の文学と「知段」の文学の分け方ζあるとい・フ。しかも ほとんどすべて伶火なる文学の中には ・ が仲好く比仰さ刊れることになる。たしかに「いのち」の ティーン のではない。れっきとしたほ旬 このこつの性質 るのである。母貌になる教科 H とは、あながちお席、育児 描けてない文学は人を感動させない。信仰もいのち尊さ 、 、 の仕方のことをいっているのではない。そんなことを書 を如実に体験しないものは真実のものではない。そこに 、 いた本なら必店の詐架にいっぱいある。H 持 児ほ、単に児 信仰が知織ではないことを思い知らさせる。 上婦のことをいヲてい 抵心理学の教えるテタエッタではない。欠けといるの 、 さ いのちの坊さを女乍や出劇の世界でどの な は 古いことばでいえば児蔵相脱〈例えば餓鬼とみるのと 、 つ ように表現してきたである・フか。よくいわれるようにわ わが肉では せ 韮は 、 太宰治や田中英光の小説のような破滅型の弘小説 、 終通の平凡な生活の小にいる人間が その 必むものに与える感動をつぶCのように説明してい 、 それが全部わかったときは、もう死のそばまで来 、 うして生活をこわして だんだん下の方に必ちてゆきな し 、自 分の不満な生活を、つぎつぎにとわしてゆく。そ 、 る。つまり 、 だという税もでてきている。この尖は いのちの坊さを 文学に二種ありといい 、 がら 一円 一 子宝とみるかによっても大きな遣いがでてくる〉であり 、 ではなかろうか。生物学との母親になるだけなら 何も とり わ け 「 新 し い い の ち 」 の 親 に な る 自 、覚 覚悟の不足 、 人間を待つことはない。 の が同の私小説には、不思議な生認識がある ω かつて伊藤 て、母親は、人産み機械になってゆく。医師の中にも が RV &うみ 無痛分娩や 人工授精の普及によっていよいよもっ ち 虚偽にたえきれず真実をもとめて、その生活からぬけ出 、 「肢を痛めた予」という日覚をもう一度とりもどすべき 、 の 教えてくれたのがほかならぬ宗教というものの役割では なかったであろうか。 ベネットは ・ 「感激をテ へるもの」と「知識を与えるもの」に分けて 英国の作家 A 、 し、 と 、 その符必は広く泌いことを思わなければなりません。 ら省ムるときいささか後めたい気持にさえなります。 日執たちは、現在のゆがんだ物質万能、そして人々の不 学 教 き 博2 。 見女平等という結構な世の中になって 、実 、 ですよ」と k になったりすることまでは学ぶようだが 。 になったり 母親になるための教育はおろそかになっているらしい 、 - 1 5- れられております。そうであるならば一度慢心に陥る 契泰字 毛の心をただ存命するだけでなく 、弘 たち法律家もこと 短 子どもの育て方がてんでわ 2 野の かっていない。要するに子どもが子どもを生んでいるん c 図 公告の法制他山岬をむやみに振り姐した 、り 人掛制追 作を自 ィ 、ぉ うもなくなると相談にくる 育 ここに至った責任を負担しなければならない ことを強く 子どもがれ閉症になったりして、どうしよ 、 教 そして探く自己反省する必要があると問山います。 頃の母紛は の るく逃げ込んだり等々がありはしなかったかと、つらつ を生む の 分にだけ mAU よく強調したり、或は契約内自の原則にず 子供が 供 ある幼稔刷の先生にお凶きしたことばである。「この 子 ち 黒いピーナッツの為には権力さえも利 用する。出世のさまたげになる郷魔者は殺して楽てる。 、 といったように全く自分さえよければよいという世の中 は装いたくない は人んな頑張ったものです。ところが大日本製薬がサリ になってしまいました。 枠uは「つわり」になっても繋など飲まずにお母さん点 ら、とたんに奇型の赤児が続出しました。 、 け以近このような社会状勢ないし心の問題についてい ドマイドという「つわり」を和らげる薬を売りだした また、一背前までは仙WA医おにも行けなかったから注 、 射で片輸にされることもありませんでした。ところが現 注射の一本もしてくれな ろいろな面から反省が行なわれております。そして思の 、 タシヤミ一つでも医者に行か 根源は大メーカーないし大州社に存するがごとき犠論が なきゃ劉とばかり医者に行き 在では健保の普及のため いと医者にかかったような気にならないものだから 医 盛んになされております。弘は大メーカー、ド〈尚社にそ 、 その結決 NF 何千人という四郎筋袋縮症患おが先比され 事引は必要があろうがなかろうが、プスプス注射を打つ。 の賀任の大半が存することを一日もいく自覚してもらう それよりももっと大切なことは ており、既に成判でも問地になっております(弘も前接関 特に 私たち法作家すなわち弁護士、ぷ判行、検事等 、 かと思います。 私たち一人一人が静かに自らの心を省λ ることではない 、 ことは勿論必要ですが 、 人間のあくなき物への執着 利潤の追求によって 世 、 係しております。)。 の中は世かになり、便利な物が出来てまさに物質文明は 、 華やかに花聞いております。しかし その帳尻では人の 、 は、法作の専門職であるという面から社会の指滋将たる 人知の生存にさえかげりをもたらしつつあ 位取を似し 立場にあります。こと法律に閲する限りでは 同じこと 、 ります。いやそれよりももっとこわいことは人の心の退 化です。人々の心は乾き、冷え切ってしまった感じで をいっても弁護土であるということだけで、肩書のない す。自分達夫封はせいぜい楽をしよう、ジジイやバパア者がいうこと以上に説得力があり、叉世間からも受け容 14 ー - 私も敗戦で身も心もうつろな状態で外地から郷氾敦賀 、 やはり鉄は熱いうちに鍛えなければと思い直 、 に復員し 為すこともなく二年ばかり百姓をぞっていま 、 昭和二十三年上京、大学に入学いたしました。当時 したが し も来る nも、日去が映るような「スイト γ」では若い円 東京はまだ一部の焼野原、それはひどい食級位で米る臼 でした。 その頃には 日 私も花森氏問機 、 、 「最少限の・衣食住さえ 袋を満たすことは勿輪、飢えをしのぐことさえ出米ない 毎 、 卜 一年の今回、おかげさまで 乎に入れば あとはそれ以上の金は欲しくない」と思っ ていました。そして陀和冗 私も併合をしなくても、恨務所では弁護上、が務ハHたち 、 に高からざる給料を払い、ピルの家主には高い家賃を之 、 回舎の老母にもいくばくかの送金 大きな豪議な邸宅に住みたいといった金欲物欲が心の中 かように 、 人聞の金と物に対する欲望と執着は 、 第 一 にうず巻いているといった方が正直なところでしょう。 、 ほんとうの嬰ではないでしょうか。 角。 の満足が次の不満を生 λ、第二の満足が第三の不傘?を生 るようです。 っと むという、どうにもしようのたい幾を本質的に持ってい そして、それは地位と名後と舵力に関しては、も ということが もっとみにくい陰険な形で私たちをとらまえて離さない 6 の時代から今日 一体長リえて λ ると、人知はお釈加辺 4ま まで進歩してきたのか、それとも退歩してきたのか。一 概には帯一口えないが、私は物質文明は確かに進んで来 た 、 女房子供五人を養い か、心の世界においては退歩したと断ぜざるを静ませ 払って法徐事務所のやり繰りをなし 家庭にあっては ができるようになりました。 ん。似利なものを作ろうとして一生懸命チァソを作った ー そして四日市ぜん忠といった奇病が大量に発 生しております。 、 本 wなら後は何も欲しくないはず。ところがぶの心の 、 と水俣病 小に「もっと金が欲しい」という気持がないかとじわれ まだまだあると言わざるを得ません。 、 り、石油化学の工場を作ったりしたら、イタイイタイ病 れば残念ながら 、 いやそれどころか もっとよい背広を着たいし もっと I f ¥1 、 j と! i ろ j j r i i の i 灯火管制のない の '? 、周回国. 、.,. 、 、 いや減置だ 、 、 、 いや宙々米をどう処分し 、 サインが巷に組々とあふれ またあこが ・ 、 首を経って死んだという人つ訴は未だ聞 いたことがありません。 幸福感の余り 、 たものかと余程・げが心配する担あり余る裂になっナか れの銀シャりは い灯のネオソ ところがそれから三十年 電灯はお ろ か 赤い灯 青 ろうと思 います。 2主 司 じ 士 会 話1 - 12- 〔 五〕 家 灯の下で、銀シキリのめしが食えるよ 、 事 律 うになっ fら、おれば死んでも上いと思った」と也いて 武存 E髭議 下主 京 j ズj Th生 gき抜いて来た人たちの偽らざる実感だ います。職仏 m i t ろ (村 E 法 花海安治氏は その箸『一銭五開』のなかに「戦争中 j 現; です こうとい フ a 努力が、もっとも大切なことであると思うの 、 いようですね。そこで、逆にお伺いしたいんですが 性 ||おっしゃる通りだと思いますねえ。 。 欲に悩まされて、仏道修行が妨げられる場合もありうる と思うのですが:::。 ですね。そうした万向に若い人たちがぶ自に進んで行け ろ州制緩的にかつ健康的に立ち向って行く刃%が重要なの 、 性の問題に関しても、日をそむけるのではなく むし るのですが、また、それに対処する「不浄観」とい ||そうですね。小采仏教ではあくまでも欲を否定す う観法もございますが、大采仏教では「欲望」に対 るように 、私 たちが努力しなければならないと思うので 、 してある程度、相のある解釈が涼みられています。 いものだったのではないでしょうか。 す。法然上人の取られた立場も、そういう肯定的な明る 確かにそうですね。有難うございました。時間も それについてはここでは詳しく説明できませんが ー i たとえば浄土宗の宗祖法然ヒ人がこれについて興味 この辺で:::。 《北沢容子女史は 、幼 児から成人までを対象とした新 、 しい性教行のありみを慌劣さ1H 、H すでにすぐれた業 米ましたのでお話は尽きませんか 信者の方々には 、「欲望に妨げられてお念仏が申せ 績を発表しておられます。『こんにちは /性 教育』 あることをおっしゃられています。ど自身は持戒竪 同な方で一生必併なさりませんでしたが、お弟子や ないのなら、長をもらってお念仏を中しなさい」と 『なぜなのママ?』、『臼伎のエロスたち』をはじめ ・ 五年度教育映画祭 、 おっしぞっておられます。つまり、お念仏をゆすと とする多くの著作や、一九七四 とが火事なのだといわれています。 、 確かに 性の問題をはじめとして、私 たちが生きて行 スライドシリーズハ『ステキな女の子』等〉などを で文部大山賞や数行欧州優秀賞を受賞された性教育 製作され、この分野に健康的な正しい指務姿勢を潜 ことは詳しくはわかりませんが、ともかくそうした人聞 が生きて行くためにはどうしても避けられぬ事柄に対し 入されております。》八文責編集部〉 くには、色々な陣苫があると思うんですね。弘は仏教の て其っ向から自をすえて、正しい潔い姿勢で解決して行 - 11 ー うに思われる中で、釈前悼の場合は興味採いものがあ れる人が完全にそういったことから組絶しているよ 激励の伎の小に、背の価値でそれに対応する ζとは に対する責任などということについても教えていこうと 不可能なことですね。お釈迦機は結鯵なさって一予 思っています。つまり、問かな価値鋭を持つことによっ て銭かな性を巡ぶことかできると思うんです。そ-つなっ を設けられてから出家されていまして、m記入と仔ば てきますと、その人がいかに肢かな価値観を持っかにか るように削耐えます。 M ロツハを かってくるのですから、性教行という限られた場での問 l キリスト教閤||特にカソリヅクを白血帯する凶々では 況だとお感じになられましたか。 旅されたのですが、キリスト教と性とはど・ついう状 ところで、北ボさんは以材のためにヨ 地ではたくな勺てくると思いますね 人間生活の根本の 硲勢に附わゥてくるわけですれ。てすから照想として ・ 紘婦 は、人間には遇制することができるという能力があるの ですから、その人の伽値観にふさわしい恋愛・性 を必定され、そして、その小から自分で遺ひ取っていく 『旧約型冷』の「オナソ」の必事をみてもお分りのよう に、性に関して厳絡なのですが、これはロl マ教会の影 ことが大心なのではないのでしょうか。でもやはりこう いう恵まれた選択というものは、そうそう簡単に実現す ロツ・ハ南部においては、性教育の取材 響の強かったヨ なくなるのは言葉の問題がまず考えられます。比般的自 っています。北に行くほど、そういった厳しさがみられ l るものでもないわけでして、へんに情報過多の現代の若 その困難に対して私たちは何かしてあげなければ 、 にならなかったほど、今日でもまことに厳しいものが残 うし 者にとっては、今は非常に選択が困難な時代なんでしょ ならないと締切に思うわけなのです。 由な精神を穏直していたプロテスタントのルターが分り やすい古楽で型占を翻訳したことにその原因があるよう まあ、性の問題というのは、アダムとイブの時代 からのことでして、時代時代によって、また地繊の ですね。ですから、スウエ ーー 相違によって嫌々な条件の変化もあるので、価値の からくる不安などで勉学が妨げられるといったことはな lJ アγなどの学生は性の悩み 必定には困般があるのでしょうね。ましてや現代の これはいい換えれば正しい性は認めてい 照して、どうしても不可解たというですね。それで思い 、 のですが か お父さんはそういう経験があるのかと聞いたとと あまって父親に芸者を買うということは、どういうこと 、 ることになるわけですね。ところが今は、正しくあ 、 その辺 るべき性が正しく行なわれていないわけで 「則的施」って叱られたというんですね。そういうこ ろ 、 に北沢さんが問題とされるところがあるのではない とを考えてくると、一体正しい性とは何なのだろうかと 、 そうですね ::: 、 「何が正しいか」ということは それ ついて どう説明していこうとされるんでしょうか。 -|それでは、北沢さんご自身はその正しさの搭徽に いうことを考えさせられますね。 でしょうか。 、 このことは そこでまず問題となるのは、その正しさの基慾が何に よっているのかということになるのですが たとえば弘が以前教漫に立った和光仏校の生徒たφりにも 現われているんですね。その生徒たちは文学に捕かれて ら弘は結婚が目前の問題となっている年闘の若者たちに 9 ー - いる性について品べているうちに、「世読者を買って情を ぞれの価値観の問題になってくると思うんですね。だか 一泊する」と ったことに関しては、前按には設えないつもりですが は、純慌でいた万かいいとか、純潔でなくともいいとい 、 いうような とをやさしく教えていきたいわけです。また、小学生ぐ か、どうして赤ちゃんが生まれるのか、というようなこ 小さな子供には、どうしてお父さん、お母さんがいるの ことに、白 好き 分たちが持 っている感 ll らいの子供には、現実的な問題となってくる性欲につい 悩 な人と恋愛 ルギーはその人コ価値観によって色A にコントロールさ て、それが人間の活動の本源であって その巨大なエネ れること、さらに町校生に穴ってきますと、社会的な性 、 たいという も 関係にあり の いていただきましてまことに宥難うございます。 ど趣旨に沿って充分にお話しできるかどうか大変心配 なんですが、こちらこそ、とうぞ立しくお願いいたしま す。 恥かしいもの、淫らなものとし 、 のを隠そうとする風潮が見られるわけで、それはロに出 、 生方といったそういう年代の人々は とかく性というも してはいけないもの て、家庭で、学校で扱われてきたのですね。つまり性と は獣 W なものとして子供たちに受けとらせているのです ・ 映画とい・フ情報に来って か、その民国神聖なものとして子供たちに数えようとし 、 ||仏数のんでは、五つの戒というも Jがございまし ようなものが週刊誌やテレビ ています。ところが、現実社会では伎を苑りものとする いんふ‘‘,ご それらは仏道の成舵を願・フ人間にとってどうし bue て ‘, . . av& ても守らねばならないきまりです。どうい・フものか ・ 不倫盗 ・不邪淫 ・不妄語 aa AV-, -. a ,‘ 喝a と申しますと、「不殺生 aeおんむゆ 、 です。子供たちがその公害に汚染されているならば そ 智 Hといってもいい過ぎではない状態に置かれているの 不飲酒」の五つです。"での第三番目に挙げられて 街中に氾濫していて、好むと好まざるにかかわらず子供 H たちの日や耳に触れてしまうわけです。いわば 性の公 ・ います不邪淫戒が、淫らな性行為を規制しているも のです。一般的に申しまして、性には新しい生命を 創造するという厳粛な行為としてとらえる商と、そ 要なのではないでしょうか。私たちの仕事の趣旨もその かしいものと考えさせないように教育していくことが必 、 ですが あたりにあるわけですが、これと仏教の「不邪淫」とは 、 の性の公害の対策として何をしたらいいのか そのため の行為に快楽が附随するという、我々人間にとって 恥 にはまず性というものがロに出してはいけないもの 解決しがたいこつの矛盾を含んでいると思われるの ておられる性についての一般輪からお伺いしたいと 。そこで、まず北沢さんがお考えになっ 思います。 最初にいわれますと、まず仕事にたらないんですけれど||それは先程・申しあげました「不邪淫」という官葉 も、ともかく今までの子供たちの親、あるいは現場の先 が示しておりますように、よこしまな性は規制する どう関ってくるのか、いかがなものでございましょう。 私のやっています仕事で「邪淫」とい・フよ・フなことを ::: 8 ー - (訪 ) 仏 (問 ) 教 ~t~ 存 井」 # J 面でご活躍没されている北沢谷子女史をお訪ねし 教育の分野において、新聞紙上をはじめとして諸方 て、いささか大げさではございますが、「仏教と性」 というような表題を掲げまして、色hとお話しをお 一出版の代表者として、すでに数々 l- 伺いしたいと思います。北沢さんはみずから性教育 専門出版社ア 性 本ミ認 子女史 M う↑ 山 聞く人 安 香 関 居 、 キリスト教闘の事情にも精 色々と肩のこらないお話をお伺いしたいと思いま 通された見簡をお持ちですので、こうした聞から ぬ凶心をもっておられ て取材旅行をなされて釆ました。仏教にも少なから の教育図古を出版され、このたびも北欧を中心とし 性 沢Z 号 お忙しいところ、私ども雑誌のためにお時聞を割 す。 7 ー - (土) ||本日は、教育評論家というよりは、幼児教育や性 (浄 ) 、 典である」とのことであった 、 先生・℃に参上すると先生は昼食の故小であった。先生は夜間に執泣することが多いの 、食 で 6 、 ものち 「突はこれbの経典はすでに読んでいて、存じ上げている」とのことであブた。また大野先生の依績で 観経に対する文学苔としての所感をにずねたことがあるが、先生は「観経は支に怒麗な文章をもって税かれた経 その後のある日 事の時間は定まっていなかったようである。訟にとっては間食となったが、ご相伴に預かってバソをど馳走にな 、 った。側には千代子夫人が崎子に腰かけていた。夫人は配給の玄米を升 一瓶 に人れ これを両膝に挟ム、杖 を嫌 に追し入れてい内予で持ち、玄米をぬきながら紡内していた。夫人はたえず下を助かしな、 が山ら 川両日な凱をして 訟にいわれるには、「主人はいつも極楽往生をしたいといっているが、ほんとに地獄極楽があるだろうか」とい 恐らくは文学舗でもしたのである・フが 、 何 nに詰ったふりをして黙っていると、先生は「係泌を十円しないもの 、 に極楽往生ができるわけがない。お前まで米なくてもいい」と笑いながら返事をしてくれた。 う質問であった。弘は凶ってしまい、ハソが これは後になって聞いた J であるが、川f生たち数名か先生を dJ 、 「白分が鈍感であることそ自慢するものでない」とたしなめた。またある時、先生は訟にこうい 、 かの序に学生の一人が「地獄極楽は説教の方使であって実際にあるわけがない」といった。すると先生はその 学生に向って われた。「このようにいうと便宜主設のように聞えるが」と前置きしてから、「極楽を信ずることによって、毎 円の暮しが炎しいものとなり、明るいものとなる」ということであった。 、 先生から訟の同旗に「冷松不腐」の句をいただいた時に 先生に探謝の患を述べたことは当り前である・か、つ は、私の気のせいばかりでなかったと、今でも思っている。 u まで努均するという不屈の精神を持っていて欲しい」といわれて突っ そた の笑顔がかえって淋しげに思えたの 、 れば負けたことにならない。何ごとも自分で負けたと思えば その時から負けるのである。すべてのことにあく J菜を谷める様チもなく「その内に敵兵がこの入nにまで米るかも知れない。しかし白分は負けないと思ってい い「成争に勝てる閉店みを持つことはできません」と、いわなくてよいことをいってしまった。すると先生は弘の - 6- 、 やがて指現力をもつようになった時期のことである の内容は要するに寧部が余りにも中国の民情について無知であるために誤った施策が多いとい 、中闘の少年が成人となり って其に畏るべき事態の到来は と説いた。また日本は満洲を合めての中国から一切手を引くことになるだろうと予言したらや 川氏の論旨も、大体これと同じ内容であった。 れた講演会における大 こうして数学院の発足となったが、当初の教学院では宗学部門の首座に大野法道先生がなり、歴史部門の首 、 、 、 観と 経し 疏て を読む演習が天光院において開かれた。 に藤本了事情先生がなった。まず手始めに大野先生を講師 これに集った先生たちは大正大学の新進学徒であっ其 た野 が先生は設立者であったにも拘らず常に大野先生と 向き合って聴踏の府に監をしめられていた。 そた のが 時先生は「これは経典の字句をか 私の悶旗には先生から餓別の辞として「検椴生死流」の句を頂い 、 も生 あの りあ とが りたものである。君も知っているだろうが」といって笑われた。広はこの時今 ので先 笑り顔 自に残っている。 -5、 、 、 は近くに住まわれていた大野先生に 、の 私で る。その時先生は 、法裁菩薩についての資料をもっと欲しいという すると先生は私に対して一応の礼言をいわれた お願いをし 、大蔵経三冊を拝借し、すぐ先生のところに届けcた 、 、 これを本誌に連載したことがあ 阿弥陀さま」と題して、童話風に書いてみたいということで 戦時中のこと 「 おられたのである。 人伝である。本誌の創刊当時には毎月のように執筆されたそ がの後は次第に問があくようになった。しかし先 人あ 知れ つも支回放を続けて 生の言葉をかりていえば「定期的に執筆するつもりでいるいとのことで っず たいし 生は昭和十年に『掬水調』を、一一一十六年に『極楽から来た』を刊行されたが、いうまでもなく 、 佐藤春夫先生は日本窓術会員であり文化勲傘を受賞されたが 昭和三十九年に七十三歳で亡くなられた。先 。 生方の面影を偲ぶことが多い。気持としては国政を前にしてご回向・申し上げたいとさえ思っている。 、 一生を勉学と d行に努めら九、昭和一一一十七年暮に七十畝で亡くなられ よいであろうか、あるいはまた従順な態度を持して漸次に時宜に出却した方策を講じて復興に努めるのがよいであ べきかという問題であった。たとえば験 φ に負けてもゲリラ活動を続け、線強く根気よくほ抗な統けてゆくのが 切である。その刷本は先生から企く以外なことを聞かされた。それは敗喰後の口M 本民はとのような照度をとる 、 す発展させるために法然上人鍍仰会を組織されたが これは誰もよく知っていることである。 昭和十七年凶といえば、すべての報道機関があげて阜悠のバ勲をた、千 川え 民 もまた日本の不敗を信じていた 、 た。昭防相丸年頃に仏教復興という戸が彰惇として起ったが、先生はこの気迎を宗門としてしっかり掴ま ムすま 良野正順先生は大正大川イ hに x もなられ く〉 、 早速に神戸藤元寺に望月先生を訪ねて懇話したが 、 e 、 主るで独り J の ぷ怖があって実現することができなかった。 、 唯一の中 N 辿であった。本が大川氏を訪ねたのはもちらん初対繭であ 、 っ - たが 、 し日本 の将来 ζ ついて心捕していた。 J それにも拘らず 判を 軌 前にして熱っぽい口調で中同を官り 時勢・を慨嘆、 小問 の要人と接触していたので そこで今度は趣向を変えて大川開明氏に議師を依頼することになった。その頃、大川氏は毎週必ず上海に赴き、 っていた訟は のためにまず沼蹴会を附附加することになり、品削には盟月日乎先生を招くことにした たまたま幹事を仰せつか 、 るために設立されたのが浄土宗教午院であり 今日の隆盛をみるに至った教乍院の柊磁を創ったわけである。そ 学問の空白は、時間をかけても取り戻すことが至難であるという心配であった。そしてこの空白を少しでも埋め 、 その内に験況は日憎しに激化した。そこで先生の次の思案は学問特に宗学が衰微することであり 一度できた ようにして思案されていた。 た。しかし先生は外川の魁火を引刈し、 U例 Aをあげて初めて経験する敗戦とい・フ高態つ にいて ろうかということであった。しかし出征の獄中備をしていた訟にとっては、先生の立葉が耳に入るわけがなかっ - 4- 。 、 、 ω 、 先枚 生に のは 署名と即時事とがある。 二人だけであった。私が大切にしている二枚の問旗のうち次 のの一 「絞殺生死流」真野正順。 「善戦不屈」佐藤容失。 「威縮朗十万」地上寺沙門徹水(地上寺法主大島徽水飾〉。 「我行精進忍終不侮」浄山老納性誉(抑制沙議税法主占ハ花真哉師〉。 「光涛無量」綴阿弁康ハ中村弁康郎〉。 、 そしてもう一枚の間放には 次の先生の署名と揮翠と 色彩された絵まで認められている 「却には策批測をそへて倣き給へ」古口問絃。二郎 「 虎の彩色画」一 一千(岡本一平爾伯〉 。 「 訓練閣の丹心すえて紅葉照る」浄山老納八秀道人(六花 災後飾〉 「一誠貫終始忠烈伝統美」掘口九万一。 、 昭和十八年のこと、四回の情勢から私に再度の応召があることは間違いのないことであっ今 た度 しこそは 骨 こで の国旗を諸先生の宅 を戦地に枯らすものと覚悟を決めざるを得なかったので、予め用意をしておくつもり 、 、 に持ち廻り 蝕別の署名をお願いしたのである 。 餓別といっても赤紙を受けとったわけではないし 平然たる態 、 象が強く、今でも昨日のことのように自に焼きついている 。近 噴ではひそかにこの国旗を取り出しては眺め 先 、 度を装っていられたものの 矢張り家に帰れば軍刀の手入れを怠たらない時分であった。従って恩顧を受けてい た務先生に逢う毎に、内心ではほんとに一期一会のつもりであった。それだけに国旗に餓別をいただいた時の印 - 3- 編集後記 、 om剣入りのうっとうしい苓節含必えた。 小野小町は 、 ょに ふゐながめせしまに かっ うつりにけりないた づらに 、 fJuu'utも 、 間やかな心持ちを例川上・フと勿均 ハつ正ハこヒヒえヒ円 、 とは私には測定できない。Aーはひたすらに 念仏して コ KK したい。 永い附米を中忠良 、 。 ーもそうである … 現に A 、 や相側祉制へたるし刊となる川k 川 Mm 川川帥靴 円十乙 -K の股聞も入どりに透きとほる もっとも忙しい時期であろう。 米 どころの 水川地併では、A ,頃はmM耐えの として生きてきたし 稲作同欽である弘たちは l--'l いやが・つ ( J ' t 1 1 1 1 1 J Ja カピくさいジトジトした父似は 相叩外の同M 州 か川 らは年々消えて行く。しかし えでも私たちの HA 持ちをか川くすゐ。位陣り統 、 〈反則にもの似いに批(ふけ)って 一て 一花のいろは 一我身 、 一とい・フような歌を凍んだが泌を行けば山小 ‘ 、 噌わなかけられたり 山肌たb の心のイライラ 一にハネをあげられ 乗り物にんっては令の 、 、 AS で ぼろ ω やつな o mm の円引ける匁擦をMm 火とい・コ。初刷 仏政時代の修行比任 T ちが ぎ合わせて火としたことにならって い合わせて作… 「ni 」 脱税規定 t事 林 発印 時IJ = : 刷はなちこめる川公の附さに等しい・しかし 心もいやさなければならない・しかも心の 一山に泌れた身 体をかわかすように、川刷れた 、 〆、 問題はあくまでもその心白・身によって解は 決 金 制 のどんな江派な加司祭でも必ず川ん一 ってある。悶が水を貯えて稲を測すよう に、 一 三所房 総 彦行 跡l 一 問 心の州事すことが大切である。一 現実にはなか 需務 会 仰 、 十郎 こ 1併1I1i'_' 七 l川 、 鋪 叫 私 ズ附 、 一撃 ノ t~ カ. 仏法によって人々の心が潤・フことが仏耐えら… 一 れている。袋帥討を被 n し て 法水に潤い 上 三関彼 自 人 やさしいことでもあろうが 信仰とい 日 十 八日 号 金 二 一 一司日 続 ニ }L Ji. しなければならない。それはある怠味では ぼ形の小さな問角の布地をua 、 ぎ川 不 8 0 1 1 . I •• I ~ 料 送 自ノ、 I) J { l ' 認二土 法 然 一 fJ 月月 八六 ! なかむずかしいことなのである。こ-つした 心のあり β への働きかけとして ロ こ 五 千 十 十 扇十 代印印発 制 一一 郵 年 宣刷刷行鍛千年 使五浄 ~ 飯所 人人人 パ五物月 = -Ht 都 1 r <: t J i 発 所 行 F山F 京 I~! jI ー A 和J:n = 和 五五 ~言問 附附 見ミ J ? : 〒 - 著 第四十二兆』第六号 昭如十年五月二十日門第三冊宙開使仙 mgd 吋}日開月一一趨一日施行 昭如 五十一年五月二十五日印刷組制五十 一年六月一日宛行 G f f i 藤原 猶 ー の丸山版 圭ヨ 『 日本仏教史研究 J 菊判 71 6 ゙( 布製 lて!~* 7巨 {lnÎ 6.000 円 (送料 3011 円) 〒 460 名古島市Ij l Þ{栄 3 ー 28 ー 1 9 発売元 其弘堂書店 振鈴('t ' rj h l )1 0220 世話 (052) 漢和対訳 《 限定50J 部》 2 41- 4694 『和訳浄土三部経』村瀬秀雄訳品: B 61 ! I J 47-1 点上製他人 〉と仰Î 2 .5 0 ! )j 1 J Iftl,_{従へのに念品、 16'1']_Jl J に是非共ご利川下与し、。 万人必説の和文噌ßI! です。 t麗信徒心得 ' r~1I読 ・ 註解っき 『浄土宗 訴 のおっ とめ 』 f . l 折本 80 t J : 折本 68 定!目i 1 90 円( 1 00':111 以上一割']1) 〈小消息っ き 〉定 'rl日 220 円 ( 100 ~$ 以 1 -- ー ;I~J づい 〒23日 神奈川県小川原 rli 悶 Jml!5- 11 - 4 9 発行所 仮 tヲ(tJli i~) '}官 8293(存 ,ε』 叫三s、 ruぷ (0465) 寺 4 3-1352m =