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山田朋美報告要旨 - 早稲田大学韓国学研究所 WIKS

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山田朋美報告要旨 - 早稲田大学韓国学研究所 WIKS
早稲田大学韓国学研究所若手研究会発表概要
植民地朝鮮とアイルランド宣教師
——カソリック・コロンバン会の全羅道ミッション—−
津田塾大学学芸学部国際関係学科助教
山田朋美
はじめに
植民地朝鮮とアイルランドの関係については、20 世紀初頭ころには朝鮮自治論や植民地
統治の是非をめぐる議論でたびたび言及されてきた。では、当時、アイルランドの側は、
朝鮮をどのように見ていたのだろうか。
植民地朝鮮を訪れることのできたアイルランド人は極めて限られていたが、例外的存在
は宣教師であった。アイルランドにおいて、非キリスト教徒を対象とするカトリック宣教
会が登場するのは、アイリッシュ・ナショナリズムが自治運動から独立運動中心のものへ
と変容していく 1916 年以降のことである。アイルランドの宣教会は、政府が政治的・財政
的理由で活動することが困難な地域で、
「アイルランドの宣教会」という看板を掲げて活動
を行い、また、現地の情報をアイルランドに伝える役割も担っていた。そして、アイルラ
ンドでこうした宣教会に所属したのは、非エリート層出身者であった。そこで、本報告で
は、アイルランド「初」の非キリスト教徒に対する布教を目的とした宣教会であり、「アジ
ア」で活動した聖コロンバン会(The Missionary Society of St. Columban、以下 SSC)の
朝鮮での活動および、現地の人々への認識に着目することで、特権階級であったアングロ・
アイリッシュの認識に偏りがちであったこれまでのアイルランド人の「アジア」認識研究
に対し、アイルランドの非エリート層の「アジア」認識の一端を明らかにすることを目的
とする。
1.聖コロンバン会概要
SSC は、1916 年に、アイルランド人司祭のエドワード・ガルヴィン(Edward Galvin)
と、ジョン・ブロウィック(John Blowick)が中心となり設立されたローマ・カトリック
の宣教会である。SSC 設立者の一人であるガルヴィンは、1912 年から中国で宣教活動に従
事していたが、そこで目の当たりにした中国の貧困に、アイルランドとの共通点を見いだ
し、中国の人々に強いシンパシーを感じるようになった。そして、既に中国で活動してい
た列強の宣教会の方針に疑問を感じ始め、アイルランド独自の宣教会を設立する必要があ
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ると考えるに至った。ちょうど独立運動が盛り上がりを見せていたアイルランドにおいて、
「アイルランドの宣教会」を掲げるガルヴィンらの主張は、人々の支持を集めた。その結
果、多額の寄付が集まり、1918 年には宣教師養成のための聖コロンバン・カレッジの設立、
1920 年からは中国の漢陽での宣教活動が可能になった。中国において、SSC は帝国主義諸
国とは一線を画す宣教会との自負のもと宣教を行ったが、現実には他のヨーロッパの宣教
会と同一視され、反帝国主義運動に直面した。
2.朝鮮ミッション
朝鮮におけるカトリックのミッションは、1831 年の朝鮮教区設置以来、主に MEP が担
ってきた。その MEP のメンバーでもある大邱代牧が、1933 年 6 月、布教聖省に代牧区の
分割を申請したことがきっかけとなり、もともとは中国宣教を目的に設立された SSC が、
朝鮮ミッションを始めることになった。大邱代牧が、これまで MEP が宣教を担ってきた全
羅南道の分割を決定した際、彼は朝鮮人司祭にこの地域を任せたいと考えていた。しかし、
経済面等で不安があったことから、全羅道を南北に分割し、全羅北道を朝鮮人司祭に、全
羅南道は布教聖省に依頼した。この申請を受け、布教聖省は SSC に布教を依頼した。
SSC の第一陣 10 名が朝鮮に到着したのは、1933 年 10 月のことであった。朝鮮ミッショ
ンが急遽決定したことから、マクポーリン以外は、朝鮮語はおろか朝鮮がどこにあるかも
わからない状態でミッションを始めることになった。
到着後、大邱にある MEP が開校した学校で朝鮮語を学んだ SSC メンバーは、翌年 4 月
から全羅南道で宣教を開始した。それぞれ、朝鮮人司祭のアシスタントとして経験を積ん
だ後、SSC は、教会建設、学校運営、診療所・孤児院の運営に従事した。こうした活動が
認められ、1937 年 4 月には、全羅道ミッションが光州知牧区に昇格し、1938 年 9 月には、
新たに江原道でミッションを開始している。
宣教会が活動を行う際、重要になってくるのが、当局・警察官との関係である。SSC も
他の宣教会がそうであったように、ミッションの継続を第一に考え、表面上は「良好」な
関係を当局と築こうと、日本語学習のためにメンバーを日本に派遣試したりした。また、
神社参拝に関しても、1936 年に布教聖省指針「祖国に対する信者のつとめ」が示されてか
らは、SSC メンバーの中には神社参拝を信者に促した者もいた。しかし、こうした SSC の
姿勢にもかかわらず、ミッション開始後まもなく、彼らは警察による監視・妨害にさらさ
れ、メンバーは次第に精神的に圧迫されていった。1937 年7月頃からは、宣教師に対する
監視の目はよりいっそう強まり、SSC は満足な活動ができなくなっていった。
4.聖コロンバン会メンバーの朝鮮認識
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では、このような状況下で、SSC メンバーは朝鮮の人々をどのように捉えていたのであ
ろうか。第一に、彼らは、当初、列強の朝鮮政策を評価していた。SSC は、列強の朝鮮開
国、朝鮮との不平等条約が安全な宣教活動を確保したと、これを肯定的に捉え、日本の支
配に対する朝鮮人の反発を知りつつも、「盗賊」が鎮圧されたことを歓迎していた。また、
彼らは、都市部の駅の大きさ、電気、発展した交通網に代表される「近代的」な朝鮮への
驚きも示している。これらからは、当初 SSC メンバーが、宣教師としての活動のしやすさ
を判断基準に、朝鮮の状況を見ていたことを示している。
加えて、彼らは朝鮮人キリスト教徒を高く評価する一方で、非キリスト教徒に対し、厳
しいまなざしを向けていた。彼らにとって、仏教や民間信仰は「無知」の現れであり、「ま
ったくの無駄」なものであった。ここからは、SSC は朝鮮ミッション当初、キリスト教徒—
非キリスト教徒の二項対立で朝鮮の人々を捉えていたことがわかる。
しかし、現地の人々との交流を通じ、彼らの歴史、文化、置かれた状況に対する理解が
深まると、SSC メンバーの朝鮮認識は変化を見せる。彼らは、様々な点で朝鮮とアイルラ
ンドの共通点を見いだしていくようになった。例えば、かつて木浦で宣教していた MEP の
司祭が、1913 年頃、大聖堂の鐘にアイルランドの守護聖人の名前を与え、朝鮮人信徒に、
イギリス支配に苦しむアイルランド人の信仰を例として示したエピソードは大きな関心を
持って SSC メンバーに受け止められた。
こうした交流を通じ、
SSC メンバーの朝鮮認識は、
キリスト教徒だけではなく、朝鮮人一般を好意的に評価するものへと変化していった。
おわりに
以上で、SSC の朝鮮ミッションを外観してきたが、SSC は朝鮮総督府や警察からの妨害
などから、効果的な宣教活動を行うことができなかった。しかし、朝鮮ミッションでの経
験は、当初 SSC メンバーが抱いていなかった朝鮮の人々への親近感を形成し、自国との共
通点を認識させるきっかけとなった。
また、反帝国主義と被支配者への強いシンパシーは、アイルランド人のアイデンティテ
ィであると長年言われているが、
SSC が自らの経験を The Far East という機関誌を通じて、
カトリックのアイルランド人に広く伝えていた点を考えると、アイルランド人の被支配者
への認識の形成において、SSC のような宣教会が果たした役割は決して小さくないと言え
るのではないだろうか。
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