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ねじれた自己欺瞞から信念の行方をさぐる
ねじれた自己欺瞞から信念の行方をさぐる 太田 雅子(お茶の水女子大学) 自己欺瞞は通例、不合理な信念の一種とされている。自分が末期の胃ガンであること(p) を信じながら、ガンなどではなくじきに治る(¬p)と信じこむという態度は明らかに矛盾 しており、両方の信念を文字通りに解するならば、私たちはそのような信念をもつ人を不 可解であると見なさざるをえないだろう。自己欺瞞については様々な定式化が提唱されて いるが、それらにおいておおよその一致をみているひとつの特徴は、 「自己欺瞞とは、手持 ちのあらゆる証拠が p が真であることを示しているにもかかわらず(そして自己欺瞞者本 人にもそれを理解する能力があるにもかかわらず)、p とは相容れない¬p を裏付ける証拠 を重視し、その結果¬pを積極的に信じようすること」というものである。それ以外の点 ではある程度合理性を期待できる人がどうしてこのような信念の歪曲を行うのか、またそ れがいかにして可能となるのかという自己欺瞞特有の謎を解明することは、人間の信念の 合理性が破られるのはどのような場合なのかの分析を可能にする。そして、その原因を追 究することにより、合理性の本来の姿を明らかにすることにつながると思われる。 しかし、その道のりは決して平坦ではない。この問題に取り組む論者の間では、自己欺 瞞に意図性を認めず、欲求などが動機となって生じると主張する立場(動機説)が現在の ところ優勢であるが、動機説にとって、今回とりあげる「ねじれた自己欺瞞」の存在はと りわけ難題となると思われる。 「ねじれた自己欺瞞」という名称はアルフレッド・メレによ る命名で、先に挙げたような楽観主義的自己欺瞞とは逆に、自分にとって都合の悪い信念 によって自分を欺こうとする信念のあり方を指す。先の例を改変するならば、病院の検査 で胃潰瘍と診断され、その検査結果の開示もなされたにもかかわらず、 「自分は本当は末期 の胃ガンで、医師はそれを隠蔽しているのだ」と信じようとする態度のことをいう。 自己欺瞞の動機を形成する欲求の対象は、自分にとって望ましいことであるのが普通で ある。ゆえに、通常の(楽観主義的な)自己欺瞞の動機説による説明は比較的受け入れや すい。末期の胃ガンであることと胃潰瘍であることと(どちらかを必ず選ばねばならない と仮定しての話だが)どちらが望ましいかといえば、治る見込みが高い胃潰瘍の方だろう。 ゆえに、本当は末期ガンであるのに胃潰瘍であるという信念で自分を欺こうとする心境は 容易に理解できる。だが、もし胃潰瘍の患者が、自分が末期の胃ガンであることを望んで いるという発言を耳にしたならば、私たちにとってはそのような欲求は不可解に思えるだ ろうし、 「普通なら避けたいと思うようなことを望むには何か事情があるはずだ」と推測す るのではないだろうか。ましてや、ねじれた自己欺瞞者は、望ましくない欲求をもつだけ でなく、そこから生じる信念によって、実際には望ましい状況にあるという信念を打ち消 そうとしているのである。欲求の内容が信念者にとって望ましいものではないというだけ でも不可解であるのに、それによって、通常の条件であれば当の信念者がもってしかるべ き信念を捻じ曲げることには、なおさら説明が必要となるだろう。 ねじれた自己欺瞞を説明するにあたり、様々な仮説が提唱されてきた。たとえばダナ・ ネルキンは、自己欺瞞が「p が真であると信じたい」という欲求以外の何物でもないとし 1 たうえで、それがねじれた自己欺瞞にも同様に当てはまると主張した 1(Nelkin[2002])。ア ネット・バーンズは、自己欺瞞の目的は「不安の軽減」にあると指摘した(Barnes [1997])。 また、スコット=カクルズはメレらとともに、ねじれた自己欺瞞は、信念が誤りであった 場合のコスト軽減のために行われると述べている(Scott-Kakures [2000])。彼(女)らの主 張に共通しているのは、ねじれた自己欺瞞が欲求を端緒とし、その結果もまた(たとえ第 三者からみて不可解であったとしても)望んだ通りの信念であることは尊重している点に ある。しかし、欲求が自己欺瞞の動機となることを認めながら、その結果が多くの場合望 んだ通りのものではないと主張する立場がある。 エリック・ファンクハウザーによれば、自己欺瞞者は自分の信じたいことを信じていな い。すなわち、自己欺瞞者は、本当は¬p を信じているにもかかわらず、自分が p と信じて いると「誤って」信じている(Funkhouser [2005])。自分の信念に対する二階の信念は、信 念者が本来もちたいと思っている信念ではあるが、実際にもっている(もたざるをえない) 信念とは異なっているのである。 ファンクハウザーの例で、自己欺瞞において何が起こっているのか説明しよう。和夫の 頭髪は明らかに頭髪が薄くなっているが、本人は自分の頭髪の量に相当な自信をもってい る。友人にも自分の頭髪はまだ大丈夫であると公言し、明らかに薄毛である人と自分を比 べ、 「あんなに髪の毛が薄くなってかわいそうに」などと言う。だが、和夫は髪をとかすと きにまっすぐにではなく、むしろ髪の毛の少ない部分に多い部分の髪の毛をもってくるよ うな奇妙なとかし方をする。さらに、せっかく夫の髪型を整えてあげようとした妻に、自 分の髪を決して触らせようとしない。すなわち、和夫は本当のところ「自分の頭髪が豊か である」と信じていないのだ。しかし、 「自分の頭髪は豊かだと信じたい」という欲求はあ る。その欲求に動かされて、 「自分の頭髪は豊かであると信じている」と信じているが、実 際には「自分の頭髪は薄い」と信じている。 もうひとつの、花子の例においても同様のことが起こっている。花子は夫の太郎が不貞 を犯していないと信じているが、その一方で、太郎が花子の友人の智子と不倫をしている ことを匂わせる証拠がいくつか散見される。花子は友人には太郎が心優しい夫であること を強調し、 「不倫なんて考えられない」と言っている。さて、花子の家からスーパーに行く には智子の家を通らなければならない。夫の帰りは遅いが、花子は日常の買い物をどうし てもそこのスーパーで済まさざるをえない。本当に夫が智子と愛人関係でないと信じてい るのなら、花子は夫が不在のときにも堂々と智子の家の前を通ってスーパーに行けるはず であるが、その時間になるときまって花子は智子の家を避けてスーパーへ行っている。 この事例においては、花子は「夫が誠実であると信じたい」という欲求をもっているし、 普段の彼女の言動から判断するなら、そのとおりに信じているように見える。しかし、実 際には花子は夫の誠実さを信じていない。夫の愛人と目される智子の家を迂回しているこ 1 ネルキンの立場では、妻の誠実さを信じながら浮気をしていると思いこもうとする夫の 信念も、 「軽蔑されるのを避けたい」という欲求によって説明可能である。第三者から見て どれほど不合理であっても、自己欺瞞の背後には必ず何らかの信念への欲求が介在する、 というのがネルキンの主張である。 2 とからみても、花子が希望通りの信念をもっていないことは明らかである。この場合もま た、自己欺瞞者としての花子は自分が信じたいことを信じていないのである。 従来、自己欺瞞は信念 p と信念¬p の間の矛盾として並列的に扱われる傾向にあったが、 ファンクハウザーは、自己欺瞞が、信念者の信念とそれについての二階の信念の間に衝突 が起きている状況であると診断している。始めにねじれた自己欺瞞を「自分にとって都合 の悪い信念によって自分を欺こうとする信念のあり方」としたことを思い起こそう。 「都合 の悪い」ことと「望んでいない」ことの外延は必ずしも一致するものではないが、かなり の部分で重なり合うと思われる。この重なり具合に目を向けるならば、ファンクハウザー の診断によると、自己欺瞞はその本性上ねじれている、とも言えるのである。 和夫や花子はいわば、p と¬p の矛盾よりもさらに複雑な「自分が何を信じているのかわ からない」という事態に陥っているとファンクハウザーは指摘する。このように深い葛藤 を抱えた(deeply conflicted)自己欺瞞が生じうることから、ファンクハウザーは、信念の対 象となるような真実(fact of the matter)の存在を疑問視するのだが、このことは、私たち が普段なにげなく用いているフォークサイコロジーの根幹を揺るがしかねない。誰かが何 かを「信じている」と見なすとき、私たちはその人が信じている対象が、少なくともその 人にとってはまぎれもない真実として存在すると考えている。もしそのようなものが存在 しないのだとしたら、私たちは自分や他人が何かを「信じている」とは言えなくなるので はないか。かといって、信念そのものが存在しないという立場は受け入れがたい。となれ ば、 「志向的対象に対する態度」という見方とは異なる方法で、信念を捉え直す必要が出て くるだろう。 代わりにファンクハウザーが提案したのは、何かを信じるということを「真であると見 なす」という態度に置き換えたうえでの自己欺瞞分析であった(Funkhouser [2009])。ファ ンクハウザーは、信念という状態そのものが存在することは否定していない。ただ、信念 が何らかの「真実」に対する態度であること、および、信念に対応して常に真実が存在す ることを否定するのである。 ファンクハウザーが、フォークサイコロジー的な信念の見方の代わりとして提案してい るのは、信念のインジケーターとしての「真とみなす(regarding-as-true)スタンス」と 呼ばれるものである。このスタンスが現れるのは、①理論的推論、②実践的推論、③行動、 ④内的報告、⑤外的報告、⑥感情、⑦知覚の 7 つのカテゴリーにおいてである (Funkhouser[2009]) 2 。通常の信念であれば、これら 7 つのカテゴリーのうちいくつかに おける「真とみなす」スタンスは一致するのであるが、衝突することもある。カテゴリー 間で衝突することもあれば、同じカテゴリー内や同じ状況下でも衝突することもある。 上に述べたような「真とみなす」スタンスによって、信念は、(1)様々な「真とみなす」 スタンスの値によって構成される、および(2)これらの値には「本当の信念」を決定づける ような特権的な重み付けは存在しない、というものとして捉え直される。ここには「何ら 2 ファンクハウザー自身は、これらが単なるインジケーターではなく、信念が還元される べきものだと主張したい意向をもってはいるものの、Funkhouser [2009]ではあえて論証 を与えることはしないと述べている。 3 かの志向的状態とそれに対する態度」という二項関係は存在せず、どのスタンスの値にも 特権性はないので、「本当にこれこれを信じている」といえるような対象はない。そして、 このような信念の捉え方のもとでは、自己欺瞞は信念 p と信念¬という二つの命題的態度 の対立ではなく、「いくつかの「真とみなす」スタンスの食い違い」ということになる。 ファンクハウザーの見方では、和夫の頭髪についての自己欺瞞や花子の夫の浮気につい ての自己欺瞞は、上の 7 つのカテゴリーのうちのどれか、たとえば「外的報告」(頭髪へ の自信を口にする、夫の愛情の深さを強調する)における「真とみなす」スタンスと、 「行 動」 (髪を奇妙な方向にとかす、愛人と目される女性の家を避けて通る)における「真とみ なす」スタンスとの衝突として位置づけられる。この方法の利点は、 「自己欺瞞に成功して いながらも、自分をだます方の信念の内容を信じていない」事例をうまく扱えるという点 にある。従来においては 3 、自己欺瞞は信念 p と信念¬p との関係において捉えられていた が、それまで挙げられてきた様々な自己欺瞞の例は、どれも最終的には p か¬p かのいずれ かをより強く信じる/重きをおくというものであったし、それらのパラドックスの解決法 も、いかにして信念pから目をそらして信念¬p を形成するかに焦点が当てられていた。こ れらの事例および解決法には、p より¬p の方が「信念者が本当に信じていること」である という前提がある。しかし、ファンクハウザーに言わせれば、従来自己欺瞞として挙げら れてきた事例が、単に対立する信念のうちいずれかを強くもとうとするということに限定 されるならば、これらの事例は結局のところ自己妄想(self-delusion)と区別がつかない。 確かに、自己妄想も自己欺瞞の一種ではあるかもしれない。しかし、自己欺瞞者が自分を だます側の信念に重きをおくような従来の方法では、「p も¬p もどちらも本当は信じてい ない」という種類の自己欺瞞には対処できない。さらに、従来の方法では、自己欺瞞特有 の信念間の緊張関係や葛藤を的確に捉えることができない。何でも自分の都合のよいよう に考える「希望的観測」や、逆に何でも都合の悪いように考える「悲観主義」、あるいは以 前信じていたのとは異なる信念に乗り換える「信念変化」などと自己欺瞞を明確に区別す るためにも、このような葛藤を含む事例をいかに扱うかは無視できない課題である。「『信 念者が本当に信じているもの』は存在しない」と想定することで、緊張関係や葛藤を含む 自己欺瞞をも視野に入れることができ、見かけ上似通った信念の歪曲パターンから自己欺 瞞を区別することが可能になる。 それでも、ファンクハウザーの信念に対する扱いはあまりにラディカルであり、自己欺 瞞を捉えやすくする代わりに、信念に関するフォークサイコロジーの改変を迫ることにな る。本発表では、2 つの疑問を提起し、その解答によって、従来通りの信念のフォークサ イコロジーを必ずしも放棄する必要はないことを示したい。一つ目の疑問は、 「信じたいこ とを信じられない」あるいは「自分が何を信じているのかわからない」という現象が、は たして信念の対象としての「真実」の否定に結びつくのかというものであり、二つ目には、 「真とみなす」スタンスによる自己欺瞞の問題解決が、信念のフォークサイコロジーの限 界を補いうるものなのかについて問う。 まず一つ目の疑問に取り組もう。「真とみなす」スタンスの食い違いという特徴付けは、 3 ここでは、ファンクハウザーはメレの立場との比較を念頭においている。 4 確かにきわめて深い葛藤を伴う部類の自己欺瞞をうまく扱うことができ、自己妄想との区 別を可能にするだろう。しかし今度は、この方法は、たとえば言動不一致な人と自己欺瞞 者との区別を困難にする。自身の作品においても、また講演やインタビューにおいても夫 婦愛の重要さを説く既婚の作家が、実際には多くの愛人を抱えていたとしよう。彼の場合、 言動における 4「真とみなす」スタンスと行動における「真とみなす」スタンスは一致して いない。この場合、彼に向けられる非難というのは、自己欺瞞というよりはむしろ「いい 加減な人」というものになるのではないか。もちろん、自己欺瞞者はしばしば言動不一致 に陥ることが多く、言動不一致が自己欺瞞に由来するのかそれとも個人の性格のいい加減 さによるものであるかは区別しにくい。けれども、自己欺瞞の特徴づけが他の類似の事例 を含んでしまうのであれば、それと区別するための基準を新たに導入した方が有意義だと 考える。 「真とみなす」スタンスの違いだけでは、自己欺瞞の特徴付けとしてはまだ不十分 である。 そして、自己欺瞞と単なる言動(および、ファンクハウザーが信念のインジケーターと して挙げた様々な側面の間)の不一致との区別を可能にするものこそ、何らかの真実の存 在ではないか、というのが本発表で提示したい立場である。時間の制約上、それを立証す るに足る十分な論拠をここで挙げることはできないが、根拠のひとつは、自己欺瞞の動機 の生じ方に求めることができる。そもそも自己欺瞞が生じるのは、 「何らかの真実が成立し てほし(くな)い」という欲求からである。和夫は「自分が薄毛である」という真実から 目をそむけたいと思っているからこそ、頭髪の豊かさを強調しようとするふるまいに出る のだろうし、花子は「夫が友人と不倫をしている」という真実の成立を恐れるがゆえに友 人の家を迂回するのである。信念をもつ際に、対応するいかなる真実も存在しておらず、 それに関して無頓着でいられるならば、わざわざ信念をねじ曲げそれに反する行動をとる という煩雑なことを行うだろうか。信念の対象としての真実の存在は、私たちの信念や行 為の動機付けにおいて重要な役割を果たしているではないか。 もっとも、和夫の場合と花子の場合では、真実の捉え方は異なるだろう。和夫の頭髪は (もちろん微妙な毛量の場合もあるが)外から見れば一目瞭然であるから、彼の自己欺瞞 は真実の「回避」という形をとるが、花子の場合は何が真実であるかが不確定であり 5 、真 実の成立そのものを恐れている状況ではある。しかし、いずれにしても、何らかの真実に 対する態度によって自己欺瞞が生じていると見たほうが、言動不一致などの紛らわしいケ ースから自己欺瞞を区別できること、並びに、なぜ自己欺瞞の動機が発生するのかの説明 によりよく合致するという 2 点から、ファンクハウザーの特徴付けよりも的確に自己欺瞞 を捉えられるのではないかと考える。よって、一つ目の疑問に対しては、 「信念が何らかの 真実に向けられることは否定されない」と答えたい。 次に、二つ目の疑問に対しての解答を試みる。ファンクハウザーは、信念における真実 の存在を否定している。彼が注目するのは信念そのものではなく、それを構成しうるスタ 4 5 小説作品はフィクションであるが、この場合は「言動」に含めることにする この段階では興信所に調査を依頼して結果を知るところにまで至っていない。 5 ンスであるが、その場合でも、それぞれに対応する真実の存在は想定されていない 6。とい うことは、 「真とみなす」スタンスが成り立つ際に、真であるかどうかを、何らかの真実と 対応させることによっては判断できないということだ。では、ここおいて「真とみなす」 スタンスは何に基づいて成り立っているのか。何らかの「真実」との対応ではないとすれ ば、真理を裏付ける方法の候補として考えられるのは、他の心的態度 7との整合性であろう。 しかし、あるスタンスが他の心的態度と整合することを可能にするのは、フォークサイコ ロジーのもとで成り立っている合理性によって築かれた、心的状態のネットワークではな いか。実際には薄毛である和夫が、自分の頭髪が豊かであると感じたり思い込んだりする だけでなく、それを「真とみなす」とまで言えるためには、それを合理的にする他の心的 状態が必要である。それらはたとえば、 「頭髪が豊かであってほしい」という欲求や、自分 の手で頭に触れてみたときの感触(この部分で頭髪の量の過大評価は起こりうるが、 「真と みなす」スタンスのデータを提供する役割をすることは確かである)、さらには「頭髪が豊 かな方が他人に好ましい印象を与える」という他の「真とみなす」スタンスなどである。 しかし他方で、和夫に「自分は薄毛である」ことを真と見なさせる心的態度も同時に存在 する。2つの「真とみなす」スタンスは食い違いを起こしているが、それぞれのスタンス を正当化する心的態度は別々に存在し、その正当化はフォークサイコロジーを形成する心 的態度同士の関連のしかたによって可能となるのである。ファンクハウザーの説明は、フ ォークサイコロジーの限界を示すことを目論んだものでありながら、その枠組を決して排 除するものではない。 ファンクハウザーは、信念の対象となる何らかの真実があるというフォークサイコロジ ーにおける理解を疑問視し、行動や実践的・理論的推論、あるいは知覚や感情における「真 とみなす」スタンスとして信念を捉え直すことで、フォークサイコロジーの限界を指摘す る。しかし、このような信念の捉え方がフォークサイコロジーの限界を示すといえるかど うかは、 「真とみなす」スタンスにおける「真」の内実がフォークサイコロジーと独立に成 り立つかどうかにかかっている。もし上で述べてきたように、各スタンスにおける「真」 がフォークサイコロジーにおける心的態度のネットワークに関連づけて理解できるのであ れば、ファンクハウザーの提案はフォークサイコロジーの限界を示唆するものである必要 はない。よって、二つ目の疑問「「真とみなす」スタンスによる自己欺瞞の問題解決は、信 念のフォークサイコロジーの限界を補いうるものなのか」に関しては、 「本来それは限界を 補うものではなく、フォークサイコロジーと共存可能である」と答えることができると思 う。 まとめ 本発表では、自己欺瞞に信念のねじれを見てとり、それを適切に扱うには従来のフォー クサイコロジーか一歩踏み出た方法が必要であるとするファンクハウザーの主張に対し、 6 対応する真実が存在しなくても、それぞれのインジケーターにおいて「真とみなす」と いう概念が存在していれば十分であるとファンクハウザーは述べている。 7 ファンクハウザーは cognitive attitude という語を用いている。 6 彼の方法はフォークサイコロジーと共存可能であることを示し、信じたいことを信じてい ないという種類のねじれた自己欺瞞の存在はフォークサイコロジーの限界を表すには至ら ないと主張した。しかしながら、 「信念とその対象」という素朴な二項図式のもとでは複雑 な葛藤を含む自己欺瞞をうまく扱うのが困難であるというファンクハウザーの指摘には耳 を傾ける必要があると感じている。ただ、その困難は、フォークサイコロジーの細部をで きるだけ自己欺瞞の実情に即するよう改善することで対処できるのではないか、という希 望をまだ捨てるべきではないと思う。 【文献】 Barnes, A. [1997], Seeing Through Self-Deception, Cambridge University Press. Funkhouser, E. [2005], “Do The Self-Deceived Get What They Want?,” Pacific Philosophical Quarterly 86, 295 –312. Funkhouser, E. [2009], “Self-deception and the Limits of Folk Psychology,” Social Theory and Practice 35, 1-14. Mele, A. [2001], Self-Deception Unmasked, Princeton University Press. Nelkin, D. [2002], “Self-Deception, Motivation, and the Desire to Believe,” Pacific Philosophical Quarterly 83, 384–406. Scott-Kakures, D. [2000], “Motivated Believing: Wishful and Unwelcome,” Noûs 34, 348–375. 7