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1996年12月4日 第40号

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1996年12月4日 第40号
1996年12月4日 第40号
(1)
日吉台地下壕保存の会
会報
第40号
発行 日吉台地下壕保存の会
編箋:睾苛局
詑3横浜市港北庄下田町3−1云−27
寺田方 凪.朗か562”1282
(年会費)一口千円で、一口以上
郵便振込口座番号叩250跡2制74921
(加入書名)日吉台地下壕保存の仝
1996年10月
賛同者各位
賛同団体各位
第4回横浜川崎平和のための戦争展96
実行委貞会
代表寺田貞治渡辺賢二新井揆博
「第4回横浜川崎平和のための戦争展96」について
∼ご報告とお礼∼
柿の実が色づき、朝夕の涼しさに、秋まっただ中を感じさせられる今日こ
の頃、皆様におかれましては、益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。
標記の戦争展(9月21日∼23日)開催中は、思いがけなく台風にみま
われ、足元の意い日もございましたが、NHKニュースや新聞報道もあり、
大勢のご来場をいただき、成功裡に終えることができました。これもひとえ
にご賛同くださいました皆様方のお力添えの賜物と心より厚くお礼申し上げ
ます。
「日吉台地下壕」「蟹ケ谷地下壕」「登戸研究所」共に過去の戦争の事実を
伝えるための大切な戦争遺跡として「是非保存を!!」との願いで、これか
らも活動を進めてまいりたいと思います。これからもどうぞご支援のほど、
よろしくお願い申し上げます。
本号最終ページに会計報告をさせていただきます。
目 次 ページ
「第4回横浜川崎平和の
ための戦争展96」について
∼ご報告とお礼∼ l
小さな接点を
大切にして学ぶ 2
聞き取り調査は新鮮だった
音声・画像記録を残したい 2
住民に聞き取り調査 3
平和のための戦争展
第4回アンケート感想文集 4∼5
連載日吉台地下壕
当時の関係者の思い出話17 6
幹事会報告・運営委員会報告 7∼8
横浜川崎平和のための戦争展96
会計報告 8
います.。
が、・僕達への課題だと思って
ープやっで著者をひきつけるか
思います。こういう中で、ビ
の視野が広げられ、国際社会
んでいくことで、歴史や地理
た小さな接点を大切にして学
だけのことですが、こういっ
っています。これからの時代
いほどきれいさっぱり無くな
あるモノは、全くといって言
戦前・戦中の情勢と関係の
う気持ちが強いからです。
を﹁残しておくべきだ﹂とい
にそれに加わったのは地下壕
変わりませんが、活動ととも
的な好奇心です。それは今も
に参加した理由は一つ、歴史
訳が違います。﹁現在﹂とす
安時代の遺跡から学ぶ事とは
ら学べる事は、縄文時代や平
もしれません。この地下壕か
どを調べるきっかけになるか
見学して、当時の歴史背景な
いて、何かの機会に地下壕を
僕みたいな物好きがほかにも
みたいという人が結構います。
応高校にも、地下壕に入って
てみると、僕の通っている慶
れないが︶分かっているつも
程度︵僅かにすぎないかもし
について、知識の上ではある
そ切概要や当時の内部の様子
日吉の地下壕には数回入り、
いる気がしてしまったりもす
よそ遠い、太古の遺物を見て
にも関わらず、自分からはお
戦後五一年しか経っていない
付いていないのだ。そして、
に対応できる人になっていけ
はいくらでも新しい技術が開
ぐに接している﹁過去﹂をと
りだが、それに伴うべき全体
る。
簾が日吉台地下壕保存の会
発され、建築なども良くなっ
どめている貴重な遺跡なので
のイメージというものがなか
僕と日吉の接点は、ここに
て行くでしょうから、ひとた
す。そこに余計に大きな保存
なか湧いてこない︵結果的に
うと思います。
の揺れにのまれていってしま
としない限り、どんどん時代
物などを意識的にr残そう﹂
今残されている数少ない建造
しかなくなっているからだと
強が、自分を評価する媒体で
す。それはr歴史﹂を含め勉
関心の若者が多いのも事実で
最近は、過去の事に全然無
うが、頭の中で、知識と実際
が難しいことは確かだとは思
ない︶・。これを実現すること
で位置付けることが出来てい
r日吉の地下壕﹂を自分の中
の原因の一つであるように思
ることが多いということがそ
の人を介した形であったりす
体験したそ乱入ではなく、他
たり、口からの場合でも直接
知識を得る方法が紙であっ
見たものが未だに上手く結び
高校生 大 野 浩
音声・映像記録を残したい ∼
聞 き 取 り 詞 査 は 新 鮮 だ っ た
ればと思っています。
び手が加えられれば、元の姿
の意味がある七思います。
ある高校に適っているという
にもどすことは不可能です。
日吉台地下壕のことで考え
高校生 都倉 武之
小 さ な 接 点 を 大 切 に し て 学 ぶ
1996年12月4日 第40号 (2)
1996年12日4日 第40号
(3)
体験者の方々からのメッセ︱
ない。遺跡保存のみならず、
どんなに素晴らしいことかと
等を記録する︶保存出来たら、
︵進歩した技術で映像、音声
えてくる。
夏休み期間中にほんの数度
ジ、体験談をより新鮮な形で
住民に聞き取り調査
ではあったが、聞き取り調査
に参加した。この時感じた話
の新鮮さは他では得られない
貴重なものであった。よく分
戦争前後の様子
慶応高生徒ら
文化祭で発表
思う。
ために会をつくった。
メンバーは夏休み中に周
辺住民から当時の様子を聞
き取り調査。﹁地元の人に
工事は始まった。見回りや
何も伝えないまま、地下壕
慶応高校︵横浜市港北区 監視がいて、壕について話
ってみたい﹂。指導をした
べてみようと、この発表の 満足そうだった。
見学。今回は自分たちも調 表はよくできている﹂と、
輩たちが発表していたのを 分たちの手で調べてきた発
吉キャンパスについて、先 寺田貞治教諭︵地学︶は﹁自
あることが知られている日
様子を住民らに聞き取り調 た﹂などの話をまとめ、冊
査し発表している。二十日 子をつくるとともに、模造
まで。
紙で展示発表をした。
発表しているのは、﹁日
仲間たちと発表をまとめ
吉の昔知ってる会﹂︵責任 た都倉君は﹁この聞き取り
者・都倉武之君︶。戦争当 調査をやってみて、さらに
時は連合艦隊司令部が置か 興味をもったものもありま
れ、長い地下壕︵ごう︶が した。来年もぜひ調査をや
日吉四丁目︶の二年生七人 をするととがめられた﹂﹁壕
が十九日から始まった文化 の建設に当たっては、家屋
祭﹁日吉祭﹂で、第二次大 が移動させられた。その場
戦前後のキャンバス周辺の 所に掘った土を捨ててい
展示を見ながら成果に満足そうに笑顔を見
せる都倉君(左)と寺田教輸
=横浜市港北区日吉の慶応高校
からない部分はあったし、イ
メージがすぐに浮かんできた
訳でもないが、現実性を深々
と認識させられるものであっ
たように思うのだ。そして、
このような認識を繰り返すこ
とによって、自分なりのこの
地下壕に対する、あるいは戦
争そのものに対するイメージ
ができてくる︵全体像が見え
てくる︶のではないかと思っ
ている。
今後、この様な戦争遺跡が
保存され続けるとしても、そ
れを見るだけでは、戦争体験
者が語る﹁二度と戦争なんて
してはいけない﹂という戒め
が全ての人に伝わるとは思え
日吉の
地下壕
(4)
1996年12月4日 第40号
してもっとも惨めで愚かしい
ます。戦争による死が人間と
身ぶるいする恐ろしさを感じ
今さらながら戦前の教育には
◆主にVTRについてですが、
るという図式が、今でも反省
庶民は特攻隊となって戦死す
は安全な所から指令を出し、
日吉台地下壕をみて、偉い人
ことに、まず敬意を毒します。
な企画を行なってくださった
われつつある現在、このよう
◆戦争中のものぺ遺跡︶が失
も知りました。昔、lこどもの
講演会で登戸、蟹ヶ谷のこと
見学できました。今日の展示、
◆日吉台の壕を八月三一日に
たとはなしていた。︵7才女︶
けど、しんだ人はいっぱいい
おじいちゃんはかえってきた
んはせんそうに行ったけど、
のを見たくない。おじいちゃ
きてほしくない!ひ七がしぬ
◆おそろしい!せんそうが、
達は立派でした。二ハ○代男︶
まだ生きているので、その時
やはそこにつとめていた人が
しだせばいいと思う。かにが
ビデオテープをつくって、か
に行っていない人のために、
◆かにがや、登戸研究所など
感想の一つです。︵女︶
いなと思いついたのが今日の
記念館として、まとまるせい
戦争へあるいは一五年戦争l
いつの日か、日本にも太平洋
韓国の独立記念館のように、
と思いました。
特に戦争へ非戦︶文化財とし
ことを切に思いました。
されないで残っているように
国に戦争中の弾薬庫があるの
のお話などもビデオテープに
ます。︵六〇代男︶
て、大切にして欲しいと思い
また、気づいた人々によるこ
思います。松代大本営も同様
を見ましたが、当時はまだ、
入れてはしいと思います。
た め の
第 4 回
ー ト
集
うしたアクションは、とても
です。これらを達して、階級
よく状況が把握できませんで
◆広島、長崎に原爆ドームと
の
展
ケ
文
大切なことであり、詳細をお
による差別、他民族への差別
した。如何に戦争について教襲
かは見に行きましたが、まだ
和
争
ン
想
調べになったご努力に頭を下
︵当時の朝鮮人労働者に対す
育され.ていなかったかと、今
平
戦
ア
感
げるとともに感謝したいと思
るもの等︶等の反省が、これ
このへんに地下壕が残ってい
います。三一〇代男︶
気付きます。戦争中、疎開経
らの遺物をみてなされなけれ
るとは知りませんでした。
◆戦争は悪夢として過ぎ去ろ
験のある私ですらこうですか
市長ももっと考えて、今の子
ばなりません。また当時の最
供たちのために保存すること
うとしています。戦争体験を
ら、これからの若い人に平和
を、実行してほしいと思いま
高指導者層は如何にバカだっ
や歴史について、具体的な教
す〇こういう展示やお話や何
知らない多くの人に是非﹁こ
育環境を残しておくこと、そ
たかがよくわかります。それ
れを全国的なネット.ワーク
のみじめさ﹂を伝えていきた
ひと、ここで一生懸命働いた
かをもっといろいろな所でし
につれても、地下壕を作った
講演会にも参加しました。平
人、また、犠牲になられた人
としてつなげることが大切だ
いものです。
和学習に必要な財産として、
︶
1996年12月4日 第40号
(5)
もこのことが大事ですね。
を果したことは驚きです。
間として、良い勉強をさせて
過した所ということで、とて
てほしいと思います。また他
人労働者が前ちかせられたこ
も複雑な気持ちで見せていた
頂いたと思っております。
ろうかと考えてしまう。おり
と身近な悲しみとなりました。
だきました。二ハ○代女︶
戦艦﹁大和﹂の撃沈の様子が
しもお彼岸、かくべつに思う
◆昭和三〇年鶴見より当地に
◆意外に残っているんだなあ
上原良司氏の遺書の朗読はと
のは死をいそがざるをえなか
引越してき、すぐ近くに地下
と思いました。五一年もたっ
の人をさそいたいと思います。
った若人たちのこと、そして
壕の入口があり、夏は記念館
ているのに。是非保存してほ
︵三〇代女︶
労働者、農民兵士のこと。
の横を下ってき、壕の入口の
しい。沖縄では海軍の司令部
寸前まで、ここ日吉に打電さ
上原氏の所感に﹁こんな精神
前に立つととても涼しく気持
があった地下壕が博物館とし
てもよかったです。﹁机のひ
状態で征ったなら、死んでも
ちよかった。この入口も昭和
て残されていますから、負け
日吉台地下壕をみてみたいで
何にもならないかもしれない﹂
五〇年頃中学生のシンナー遊
ずに残すべきだと思います。
◆主人が海軍通信兵としてこ
とかかれ、次に故に﹁特別攻
びの場となりふさがれてしま
︵三〇代女︶
れたこと等、戦争との深いか
撃隊に選ばれた事を光栄に思
った。︵六〇代女︶
◆戦争はいけないとあらため
き出しがあかなかったらぐぎ
って居る﹂とありますが、何
◆地元なので両親より当時の
て思いました。
す。︵二〇代女︶
だか﹁命令されて行くのだ﹂
様子なども子供の頃からきい
うさぎとたわむれる特攻隊池
の防空壕におり、ここで終戦
というふうにもよみとれたの
ておりました。日吉、綱島の
田少尉の写真が心にのこりま
かわりを知りました。
です。冒頭の言葉とこの箇所
空襲の様子を親戚等から話し・
した。八一〇代男︶
をぬいて・・・﹂という箇所、
をぬくと非常にみえてくるも
てもらっていましたが、身近
を迎えました。主人が戦争中
のがわたしにはありました。
な場所にこれほど大きなもの
この地下壕を作るために朝鮮
◆この地下壕が連合艦隊の司
があるとは知らず、地元の人
どんな本が残されていたのだ
令部と知り、また重要な役割
◆登戸、日吉といった地域で、
地下壕や研究所が存在したと
いうのは、はじめて知る事実
でした。地下壕造りの為に朝
鮮の人々を含め、多くの一般
人が犠牲になった事や、研究
所で作られた兵器や毒物で、
多くの人々が命を失くしたこ
となど、重い事実をもっとよ
く知り、受け止めていくこと
が必要だと思わされました。
次世代にもこのような悲劇を
伝えていくため、このような
機会はぜひこれからも作って
頂きたいと思いました。
︵二〇代女︶
◆三日間適いましたが、今日
午後一時にきてみると若い人
が何人も姿をみせていて、う
れしくなりました。どうして
昼食はドングリ粉の入った
いたが、連合艦隊司令部が来
の隊員と二五〇磯の飛行機が
黒いコッペパンにバターをつ
三人、尉官が一人いた。
連載
あった。一五人乗りの飛行機
倉山も候補地にあがったが、
志願し、横須賀海軍経理学校
昭和五年に二〇才で海軍を
︵ききて:寺田貞治︶
に伺います。
元海軍省経理局にいた千葉氏
た人は必ず報告にきた。ミッ
らないので、艦から帰ってき
すると後始末をしなければな
争の状況が分った。艦が沈没
で賄っていた。経理上から戦
当時、戦争経費は臨時軍事費
して艦隊経費を賄っていた。
経理局に来た。主計課士官と
昭和一九年七月一日海軍省
をしていた。最初男子が経理
名位で共済・年金関係の仕事
経理局第二課も来た。四〇
費の報告書は郵送されてきた。
品会計の仕事をした。艦隊経
文官であった。艦隊経費・物
では武官は私一人で他はみな
∼二六〇名程であった。日吉
移転と共にきた。総勢二五〇
私は海軍省経理局第三課の
〇号より抜粋転載︶
︵生協ニュース教職員版第五
をした。
のテニスコートでよくテニス
業都市と呼ばれていた。蝮谷
は淋しかった。武蔵小杉は工
人はいなかった。当時東横線
横浜から通っており、近くの
た。女性は弁当持ちで東京や
役所なので食事は良くなかっ
き、部屋で食べた。経理局は
ていることは知らなかった。
日吉台地下壕
が五〇機でラバウルに飛立っ
結局日吉に決り、現高校校舎
けて食べた。交代で取りにい
に入った。卒業後艦隊司令部
ドウェー海戦で大損害を受け
の仕事をしていたが、出征し
経理局移転に当っては、大
当時の関係者の
たが、殆ど生きて帰らなかっ
の北側に入った。
思い出話 17
た。
のある戦艦長門に乗り、つい
た時も、帳簿上から分り、こ
ていくため、女子が増えてい
日吉の日々 9
で巡洋艦高尾に二年間乗った。
んなことで米国に勝てるのか
った。女子挺身隊が一五〇∼
に移り、第七〇五航空隊の主
昭和一七年二月に三沢航空隊
ていた。男性が約一五〇人で、
・判任・理事生・筆生に分れ
て、文官は位が高い順に奏任
経理局には武官と文官がい
日吉には人事局と軍令部の
多かった。
子挺身隊は偉い人の娘さんが
生として仕事をしていた。女
一六〇人程いて、理事生・筆
写真太平洋戦争 光人社NF文庫
千葉 朝夫氏の話
昭和一二年香港のバイヤス湾
と思った。
計課士官として二年間いた。
当時五〇才位、殆ど判任にな
一部が来ていることは知って
(第7巻) マリアナ沖海戦
比島沖海戦I
の敵前上陸作戦に飛行機部隊
七〇五のような番号部隊には
っていた。第三課には佐官が
光人社
の司令部にいて参加した。
原隊がなかった。二一〇〇人
19年10月21日。ブルネイ泊地における長門−「あの作戦」の敗退
後に行なわれた対空兵装の画期的強化により、25ミリ機銃はいちは
やく98梃に増強された。さらに電探装備も充実し、前檣楼トップに
二一号1基と二二号2基、後檣には一三号2基のアンテナが見られ
る。艦隊決戦に臨まんとする緊迫感が画面から伝わってくるようだ
(6)
1996年12月4日 第40号
1996年12月4日 第40号
和のための戦争展﹂第四回実
︶六月三〇日﹁横浜川崎平
報告
フードギャラリー
七月一一日一九時∼
幹事会報告第三回
会科研究会﹁臨地研修講座﹂
五、八月三日横浜市中学校社
催
のための戦争展かながわ﹂開
四、同二五∼二八日﹁96平和
三、同二二日会報三九号発送
二、同一六日﹁同﹂第五回同
ベントの見学会約三〇名参加
和のための戦争展96はプレイ
一四、同三一日﹁横浜川崎平
2000名︶﹂反省会
めの戦争展かながわへ見学者
一三、阿二六日﹁96平和のた
協会による見学会一五名参加
一二、同二四日、武蔵野文化
二二日へ台風の日︶三五者、
96J開催。二一日七五名、
横浜川崎平和のための戦争展
六、同二一∼二三日号第四回
参加
︵ソウル︶記者地下壕取材
五、同一七日月刊アリラン
めの戦争展96﹂実行委員開催
四、同日﹁横浜川崎平和のた
行委員会開催
による見学会二五名参加
二三日二五〇名余参加
議事
l五、九月二日第四回幹事会
▼﹁横浜川崎平和のための戦
七、同二八日相模原市職員労
六、同八日横浜市・横浜市教
育委員会へ平和のための戦争
開催
争展﹂実行委員会として近代
働組合による見学会四〇余名
員後援依頼を申請
運 営 委 員 会 報 告
遺跡の保存について全図的な
七、同一〇日藤沢市﹁平和の
八、一〇月二日日本平和学会
シンポジウム開催を呼びかけ
第2回
一〇月一六日一九時∼
輪を広げる一〇〇日事業﹂に
r戦争と平和の歴史﹂コミッ
てはどうか
コーヒー領事館
よる見学会一九名参加
ションの方による見学会四名
九、同三日﹁横浜川崎平和の
*方向として、前向きに
報告
主催講演会﹁日吉台地下壕﹂
ための戦争展98﹂反省会
八、同一二∼二二日地下壕ビ
二〇余名参加
▼日吉台地下壕のビデオを夏
︵韓国系新聞社︶の取材
係
幹事会報盆口第四回
一〇、同一八日元蟹ヶ谷通信
による見学会三五名余参加
一、九月七日﹁ごまめの会﹂
九月二日一七時半∼
隊の武澤・山室氏より聞き取
二、同八日﹁横浜川崎平和の
ための戦争展96﹂用写真パネ
ルの遠別
デオ撮り打合せと撮影
フードギャラリー
り調査
三、降一四日r96平和のため
休みに茂呂、谷藤が中心にな
報告
一一、岡二三日田奈弾薬庫跡
の戦争展かながわJ︶の来年度
九、同一七日東洋経済日報
二 七月一四日﹁96平和のた
の地下壕見学と聞き取り調査
の打合せに参加
り製作する
めの戦争展かながわし第四回
に寺田事務局長参加
一五名参加
一二、薄一三日韓国ソウル・
ジコープの学生による見学会
二、同五日インケ上溝レッ
一〇、同四日水道局椎貝労組
実行委員会開催
(7)
1996年12月4日 第40号 (8)
中 心 と し た 展 示 を 行 な う
︵ あ い し ん か く ら ひ ろ ︶ を
る 日 吉 台 地 下 壕 と 愛 親 覚 盡 浩
高 校 の 日 章 蕪 で 生 徒 有 志 に よ
︶ 一 〇 月 一 九 ∼ 二 〇 日 慶 応
報 告
コ ー ヒ ー 領 事 館
一 一 月 六 日 一 九 時 ∼
て提出した陳情書の回答が届
▼神奈川県知事に署名をそえ
議事
六、同六日第五回幹事会開催
による見学会一八名参加
五、一一月二日﹁ごまめの会﹂
加
員組合による見学会一〇名参
四、同二七日東京女学館教職
せに参加
戦争展かながわ﹂第二回打合
三、同二六日﹁平和のための
った
*﹁県ともては、今後横浜市
方針を話し合った
について報告しながら今後の
議事
▼県の文化財誅との話し合い
会開催
三、同二一日第二回運営委員
が訪ね、話し合いをもった
六名参加
二、同。一二日神奈川県文化隊
校教職員組合による見学会二
報告
二一一尾七日横浜市高等学
コーヒー領事館
ケーブルテレビ地下壕取材
二 、 同 二 三 日 地 元 の 関 係 者 と
いていないことについて、電
と話し合いをもち、文化庁と
員会開催
議事
▼日吉台地下壕の保存につい
ては、これまで横浜市、神奈
うか
*もう少し研究してみる
幹事会報告第五回
合計 285,722
支出の部
会場費 39,170
運営第 48,錮4
事務通信費 28,360
印刷費 30,230
材料費 25,740
謝礼 80,000
交通費 13,300
合計 。255,794
十三、同一六日第一回運営委
川県に要請してきたが、文化
東 郷 副 会 長 ・ 寺 田 事 務 局 長 ・
話で問い合せたところ、教育
285,722−255,794=29,928残金
政人の部
 ̄′前年繰越 50,調2
ゴー賛同金(振込・個人)142号840
、同 (現,金・岡) 41,000
同 白岡 ・団体) 24,000
プレイベント参加費 20,520
資料 6,300
カンパ 200
謀に行って教わることになっ
行政について神奈川県文化財
いう返事があった
*その辺の事情や県の文化財
ので日吉にも甜査に坪をたい﹂
これから調査する必要が園を
きないが、県内の近代遺跡等
台地下壕だけ特別扱いにはで
運 営 委 員 会 報 告
とかなり前むきの話であった
て方向を見出していきたい
ので、議員の方などに楷諭し
一一月二一日一九時∼
第二回
.ノ
た
も話し合っていきたい。日吉
課に東郷、..寺田、亀岡、中沢
庁にも働きかけてはどうだろ
亀 岡 ・ 喜 田 両 幹 事 が 会 合 を も
書会からの回答でよいかと
横浜川崎平和のための戦争展
1996.9.21∼9.23会計報告
Fly UP