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5年戦争下における日本赤十字社の看護教育

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5年戦争下における日本赤十字社の看護教育
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
―救護看護婦養成過程の思想統制―
舟 越 五百子
本研究は、15 年戦争下において、日本赤十字社が行わざるを得なかった思想統制の実態について
明らかにしていく。資料として、
「岩手支部病院養成業務報告書」をとりあげる。この報告書は、
1934 年 6 月に行われた北海道、宮城・岩手・秋田県の四支部病院に対する業務査閲時、日本赤十字社
岩手支部病院から提出されたものである。その中には、教育現場や寄宿舎などにおける思想統制の
内容が含まれている。特に「縣特高課ト連絡ヲ取ルコト」という注目すべき記述も見られ、当時の厳
しい思想取締りの中で、教育する側がどのような動きをしていたのかを知ることができる。また、
当時の救護看護婦生徒からは、寄宿舎において実際に行なわれた特高警察の取り締まりの状況が文
書として提示された。当時、軍部の監督下にあった日本赤十字社が行った思想問題への対応につい
て考察しながら、15 年戦争下における看護教育の実態を明らかにしていく。
キーワード:15 年戦争、日本赤十字社、思想統制、岩手支部病院養成業務報告書、特高警察
はじめに
教育は机の上だけで行われるものではなく、特に看護教育においては、病院における臨床実習が
大きな役割を果たしている。また、年中行事や外部との連動によって行われる行事が、救護看護婦
生徒に与えた影響も大きい。さらに、全寮制においては、寄宿舎における生活そのものが教育的意
味を持つ。しかし、これらのことに関する個々人の証言はあっても、その量は絶対的に少なかった。
また、具体的な資料の裏づけも見られず、現実としてどのような事実があったのかが不明瞭であっ
た。現在、戦時下の看護教育に関する救護看護婦生徒の実態は資料収集の段階であるが、15 年戦争
下の日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所における思想統制に関する資料は、その一端を示
すものである。中でも、1934(昭和 9)年 6 月 28 日・29 日、日本赤十字社岩手支部病院から日本赤十
字社副社長徳川圀順に提出された「岩手支部病院養成業務報告書」には、教育現場や寄宿舎生活など
において実際に行われた具体的な思想統制の内容が含まれている。その中には、「縣特高課ト連絡
ヲ取ルコト」という現在まで知られていなかった注目すべき記述も見られ、当時の厳しい思想取締
の中で教育する側がどのような動きをしていたのかを知ることができる。また、その事実を裏づけ
東北大学大学院教育学研究科後期博士課程
― ―
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
る記述や証言も得ることができた。このような具体的な内容はこれまで報告されたことはなく、こ
こに提示する資料が当時の救護看護婦生徒の教育状況を捉える手がかりになればと考える。
1、「岩手支部病院養成業務報告書」とは
1)岩手支部病院とは
1887(明治 20)年 5 月 20 日、日本赤十字社は「日本赤十字社社則」
(第四條)において、「平時ニ於
テハ傷者病者ノ救護ニ適應スヘキ人員ヲ養成シ物品ヲ蒐集シ務メテ戰時ノ準備ヲ完全ナラシムル
事」
(第一項)
、
「戰時ニ於テハ軍醫部ニ付随シ之ヲ幇助シテ傷病者ノ救護ニ 力スル事」
(第二項)と
し、救護看護婦養成を平時と戦時の 2 つの目的から行うことを定めた⑴。続けて 1889(明治 22)年 6
月 14 日には、日本赤十字社看護婦養成規則を制定し、「本社看護婦養成所ヲ設ケ生徒ヲ置キ卒業後
戦時ニ於テ患者ヲ看護セシムル用ニ供ス(第一條)」るため、翌 1890(明治 23)年、東京府麹町区飯田
町 4 丁目の陸軍省軍用地を借用し、看護婦養成を開始した⑵。その後、養成は日本赤十字社の各県支
部へと拡大し、救護活動の基礎をつくった。
日本赤十字社岩手支部における救護看護婦養成は、1896(明治 29)年の日本赤十字本社への依託
による支部模範看護婦生徒⑶から始まり、翌 1897(明治 30)年には、盛岡市内丸の私立巖手病院内に
日本赤十字社巖手支部看護婦養成所を開設し、地方部看護婦養成が始まった。その後、1917(大正 7)
年、日本赤十字社の「救護員養成規則」が改正になり、自病院のない支部では救護看護婦の養成がで
きないことになった。その改正理由については、
「養成所ニ於ケル実況ヲ見ルニ其ノ職員ノ多クハ
地方病院等ノ職員ニ依嘱シ職務ノ余暇ヲ以テ養成ニ従事セシメアルカ又ハ此等ノ病院ニ全然養成ヲ
依託シアルノ状況ニシテ到底教育ノ徹底統一ヲ望ム能ハス、加之養成所ニ於テハ養成ニ最必要ナル
実務ノ練習機関ヲ欠クカ故ニ学科教育ヲ終リタル後ハ之ヲ本社各病院又ハ地方病院等ニ依託シテ実
務ヲ練習セシムル等彼我指導者ヲ異ニシ為ニ一貫セル方針ニ依リ卒業セシメ難キヲ遺憾トセシ」と
あり、
依託養成の実態から意図する看護教育が行われていないことを指摘している⑷。本来、
1903(明
治 36)年の「赤十字社看護婦養成規則改正」によって、各県支部の救護看護婦養成所においては、本
社と同程度の教育が行われているはずであったが、各県支部においては、数少ない地方病院に依託
するより方法がなく、本社と同程度の救護看護婦養成を目指す理想があっても、現実的には困難を
極めるものだった。そのような経緯から、日本赤十字社岩手支部病院の開設は、救護看護婦の養成
を続ける上での絶対条件となり、
1920
(大正9)
年4 月13 日に開院し、救護看護婦養成所が併設された。
2)日本赤十字本社による業務査閲
日本赤十字本社による業務査閲は、1906(明治 39)年 5 月に制定された「日本赤十字社査閲規程」
に則って行われていた。社史稿には、
「社業の発展にともない各種事業の改善伸張をはかり事務の
刷新を促すため本社は明治 39 年 5 月、日本赤十字社査閲規程を設け、毎年社長、副社長、理事あるい
(5)
は査閲委員が随時出張して各支部、病院事務の査閲を行ってきた。」
とあり、本社が独自に行って
きた査閲であることが示されている。しかし、
以下の1918(大正7)年5月30日付の陸軍次官山田隆一、
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
陸軍省副官和田亀治、1932(昭和 7)年 8 月 19 日の陸軍次官柳川平助、海軍次官藤田尚徳からの通牒
によって、この査閲機能は失われることになった⑹。(資料 1)
[資料 1]日本赤十字社会計事務の検査および支部等の査閲に関する件
(甲号)
陸普第一八二六号
日本赤十字社会計事務ノ検査ニ関スル件通牒
大正七年五月三十日
陸軍次官 山田隆一
各師団参謀長(近衛、第十九及、満州駐剳団ヲ除ク)貴師菅内日本赤十字社支部(病院共)ニ於ケル会計事務ハ爾今
師団経理部長ヲシテ検査セシメラレ候条毎年 1 回検査ノ上其ノ概況ニ意見ヲ附シ陸軍大臣ニ報告セシメラレ度依命
及通牒候也
追テ本文検査ハ可成公務出張ノ序ヲ以テシ旅費ノ節約ヲ図ランコトニ注意セシメラレ度申添候
(乙号)
陸軍省送達陸普第一八二六号
日本赤十字社会計事務ノ検査ニ関スル件通牒
大正七年五月三十日
陸軍省副官 和田亀治
日本赤十字社長男爵石黒忠悳殿
日本赤十字社支部、朝鮮本部及満州委員部ニ係ル会計事務ノ検査ニ関シ別紙ノ通当省次官ヨリ所管参謀長ニ通牒相
成候間御承知相成度候也
陸普第四九五七号 官房第三三四八号ノ二
日本赤十字社支部等査閲ニ関スル件通牒
昭和七年八月十九日
陸軍次官 柳川平助
海軍次官 藤田尚徳
日本赤十字社社長公爵徳川家達殿
貴社支部(朝鮮本部及満州委員部ヲ含ム以下同シ)ニ於ケル救護団体整備並救護実施ニ関スル事項ニ就テハ爾今陸
軍又ハ海軍ニ対シ救護団体整備ヲ担任スル支部ノ区分ニ従ヒ其ノ所在地所管医部長又ハ最寄鎮守府軍医長(千葉支
部ニ在リテハ近衛師団軍医部長、朝鮮本部ニ在リテハ朝鮮軍軍医部長、陸海軍ニ対シ救護団体整備ヲ併セ担任スル
支部ニ在リテハ軍医部長、鎮守府軍医長ニ於テ隔年交互)ヲシテ毎年一回査閲セシメラルルコトニ定メラレタルニ
付承知相成度
追テ大正七年陸普第一八四九号、官房第一八九三号ノ四ハ自然消滅ニ付申添フ
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿第 4 巻,p.232 ~ 233,1957.)
これらの通牒により、会計事務の検査は毎年 1 回師団の経理部長が行い、報告は陸軍大臣に行う
こととなった。また、日本赤十字社各支部が行っていた救護団体整備や救護実施に関しては、陸海
軍所在地所管医部長または最寄の鎮守府軍医長が毎年 1 回査閲することとなった⑺。これに対して
日本赤十字社は、
「大正 7 年 5 月 30 日付で陸軍次官から左記通知を受けとったので、以後は本部、病
院の会計事務の検査は師団経理部長、救護事業に関しては陸・海軍医部長が行うことになり、本社
社長、副社長、理事の支部、病院訪問は単に業務視察として引続き実行される。」
「このような通知に
よって、明治 39 年に制定された本社査閲規程は実質的には全く監督官庁の手に移されたことが明瞭
になった。
」と記述している⑻。本社独自の査閲が「単に業務視察」となり、事業を支える資金の面で
も、救護事業に関しても、監督官庁である陸海軍に直接管理されることになり、戸惑いともとれる
― ―
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
表現が見られる。したがって、以下に述べる 1934(昭和 9)年 6 月 28 日・29 日に行われた日本赤十字
社岩手支部病院への業務査閲は、
「単に業務視察」としての査閲であったはずである。しかし、その
実際はどうであったろうか。
(資料 2)
[資料 2]救護看護婦生徒の担架訓練を見学する徳川副社長
(前列中央、徳川副社長)
(盛岡赤十字看護専門学校所蔵写真)
3)
「岩手支部病院養成業務報告書」
とは
「岩手支部病院養成業務報告書」とは、日本赤十字社副社長徳川圀順が 1934(昭和 9)年に行った四
支部病院(北海道、宮城、岩手、秋田)の業務査閲うち、6 月 28 日・29 日に行われた日本赤十字社岩手
支部病院における業務報告書である。内容に関しては後述する。
4)岩手支部病院の業務査察が行われた理由
このような業務査閲が行われた理由について、第一期修業員修了式⑼における中川副社長訓示に
おいて、以下のような記述が見られる。
[資料 3]第一期修業員修了式における中川副社長訓示(1934(昭和 9)年 6 月 26 日)
(略)赤十字病院の第一の目的は、申すまでもなく救護員の養成に在ります。故に看護婦生徒にとっては、病院が即
ち学校であって病院の職員は学校の先生と同様であります。而して赤十字精神の旺溢せる病院に於て養成せられて
こそ始めて本社の期待するが如き救護看護婦となることが出来るのであります。
救護看護婦の養成は各病院に於て或は教室にて学科を授け、或は病院各科に於て実務練習に携はらしむるのみに
ては未だ充分とは申されません。赤十字社各支部病院数は次第に多くなり従って其間に教育の徹底不徹底の差異を
生ずるの恐れがあるのであります。何れの病院に於て養成された看護婦も凡て同一の素質たることを要するのであ
ります。然らざれば本社は彼等を打って一丸として完全なる救護班を組織することが出来ないのであります。此の
故に本社は赤十字各病院の教育劃一の方針を採り一方に於ては研修員及修業員講習等の制を設くると共に、他方に
於て今回救護看護婦生徒養成業務に関する査閲を実施することゝ致したる次第であります。同査閲は諸子の知ら
るゝ通り先般先ず本院に於て行はれ、現に昨今両日徳川副社長臨席の下に宮城支部病院行はれており、次で盛岡、
秋田、北海道等の各支部病院に及ぶ予定であります。
(略)
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿,第 4 巻,p.316,1957.)
この中川副社長訓示から明らかになるのは、業務査閲が「単に業務視察」としてではなく、全国に
増設されていく赤十字社各支部病院における「教育の不徹底の差異」を生じさせないための方策と
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
して行われたという点である。救護活動において必要な「完全なる救護班を組織」するためには、
「何
れの病院に於て養成された看護婦も凡て同一の素質たることを要」し、それを実現するために「本社
は赤十字各病院の教育劃一の方針を採り」
、各病院間における差がない、本社と同レベルの教育の徹
底を、各支部病院においても行おうとしていたことが理解される。そもそも日本赤十字社は、救護
看護婦養成を開始直後から本社、各支部の別なく全国同一レベルの救護看護婦の人員確保の必要性
を説いていた。そして、
それを達成するために、
各支部から優秀な生徒を選出し、本社において教育、
卒業後には各支部の救護看護婦養成所において教授できる支部模範看護婦の養成を行ってきた。ま
た、当時、量・質ともに不十分であった看護教育のための教科書を独自に編纂し、本社のみならず全
国各支部においても同時に使用し、教育レベルの差を少なくしようとする努力を重ねていた。さら
に、この資料に見られるように、本社・支部の区別なく医師には研修員として、また、看護婦長・看
護婦には修業員として本社で教育を受けさせた。その理由は、各所属病院に復帰後の「救護看護婦
生徒の指導に任じ身を以て範を示すべき重大な任務」にあった。即ち、救護看護婦生徒の教育に携
わるものとしての自覚を促し、その徹底を図ろうとしたためであった。また、すでに実務に就いて
いる「業成れる者」
「更に改めて修養の要なし」と考えがちな卒業生に対する指導者としての役割を
担わせるという目的があったと理解される。しかし、以下にあげる 1934(昭和 9)年に行われた「本
社救護員特別教育課程による研修員教育」に関する資料を見ると、医師の研修には思想統制に関す
る内容も含まれている⑽。学科担当者の中には特高課長も含まれ、本社における教育に特高が参入
していることが理解できる。講義内容も大竹司法書記の「思想問題に就て」、毛利特高課長の「思想
問題取締について」など、明確に思想問題について取り上げている。研修期間は 10 日間用意されて
おり、徹底した教育が行われていたことが理解される。日本赤十字社は医師の養成を行っていない
ため、医師は救護看護婦とは異なり赤十字に関する教育を受けていない。したがって、ここにあげ
られているような特別教育課程によって、初めて赤十字について理解することになる。また、この
研修はこの年に初めて行われたものであるので、過去においては各支部に任せられたものであった
と考えられる。それを、本社が一括して研修を開始した背景には、時局柄、思想教育も含めて教育
の徹底を図る必要性を認識したからではないかと推察される。結果的に日本赤十字本社は、全国に
存在する各支部まで指導が徹底されるよう中心となってその動きを示したことになる。したがって、
本社が行う業務査閲は、本社の意向が徹底されているかどうかを確認し、管理・指導する立場で行
われたと言えよう。そして、その業務報告内容には、本来、赤十字の掲げる人道・博愛の精神とは全
く異なるものが盛り込まれているのである。中川副社長の訓示に見られる「赤十字精神の旺溢せる
病院」
「献身以て赤十字精神の発露に努力」といった言葉とは裏腹に、戦争協力の一貫として言葉の
意味のすりかえが行われていったとも捉えられる。
― ―
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
[資料 4]本社救護員特別教育課程による研修員教育(昭和 9 年 5 月 2 日~ 11 日)
研修員教育
本社救護員特別教育課程(昭和九年一月一日から施行)による最初の研修員教育は五月二日
から同一一日まで、左記のような学科担当で本社病院で実施された。
記
赤十字精神
中川副社長
赤十字事業の変遷と看護歴史
高橋救護部長
戦時救護及災害救護
堤副参事
平時事業
橋爪副参事
救護材料
磯部副参事
日本赤十字社看護婦と其養成歴史
小林嘱託
赤十字国際会議に就いて
井上調査部長
病院経理の概要
南条経理部長
修身教育の綱要
小川嘱託
社会事業
生江嘱託
思想問題に就て
大竹司法書記
思想問題取締に就て
毛利特高課長
赤十字と関係ある陸軍の制規及衛生勤務
水野三等軍医正
赤十字と関係ある海軍の制規及衛生勤務
今田軍医中佐
毒瓦斯の防護と救急処置及患者の空中輸送
中村二等軍医正
学術科の教育につき各科目に亘り研究並意見交換
藤波病院長
看護婦、同生徒の勤務につき研究並意見交換
広岡養成主任
特別教育実施の研修員は本社病院内科医員医学博士神崎三益氏ほか二四名であった。
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿,第 4 巻,p.311 ~ 312,1957.)
2、「岩手支部病院養成業務報告書」が提出されたころの社会情勢および関連する思想
の取締り状況
1)全国的な規模による思想取締状況
「岩手支部病院養成業務報告書」が提出された 1934(昭和 9)年は、5.15 事件と 2.26 事件の間に位置
する年である。思想取締りについては、1925(大正 14)年に制定された治安維持法が改正され、1928
(昭和 3)年には勅令で死刑も付加されていた。また、同年 7 月、今まで特高課の設置されていなかっ
た府県すべてに特高警察課が設置され、主な警察署に特高係が配置された。即ち、特高警察の全国
化と下部組織の拡充がはかられ、全国展開による「赤化思想」の阻止は、確実に進められていたので
ある。その端的な事件として、養成業務報告書提出の前年の 1933(昭和 8)年には、「蟹工船」で知ら
れるプロレタリア作家の小林多喜二が特高警察に逮捕され、拷問の末、虐殺されている。また、教
育関係では文部省が 1934(昭和 9)年に専門学務局内の学生部を拡充し、思想局(思想課・調査課)を
設置している。これは、1928(昭和 3)年の学生課の設置、1929(昭和 4)年の学生課の学生部(学生課・
調査課)への昇格を受けて、さらに行われたものであり、思想対策の強化をねらったものであった。
その他にも、以下にあげるような事件の勃発や関連法の制定などが行われ、取締りの状況は年々強
まっていった。
(表 1)
(表 2)
― ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[表 1]思想統制・軍部の台頭に関連する主な事項
年 月 日
主 な 関 連 事 項
1910 年(明治 43) 6 月 1 日
大逆事件
1911 年(明治 44) 8 月 21 日
警視庁官房にはじめて「特別高等課」
(特高)誕生
1912 年(大正元) 10 月 1 日
大阪府警察部にも特高設置
1914 年(大正 3)
7 月 28 日
第一次世界大戦
1915 年(大正 4)
1 月 18 日
中国大総統袁世凱に 21 箇条要求を提出
1918 年(大正 7)
8 月 12 日
シベリア出兵
1923 年(大正 12)
9月1日
関東大震災
9月4日
亀戸事件
9 月 16 日
甘粕事件
11 月 10 日 「国民精神作興ニ関スル詔書」公布
12 月 27 日
虎ノ門事件
***
10 都道府県に特高課の設置
4 月 13 日
陸軍現役将校学校配属令公布
1925 年(大正 14) 4 月 22 日
1928 年(昭和 3)
1929 年(昭和 4)
1930 年(昭和 5)
1931 年(昭和 6)
1932 年(昭和 7)
1933 年(昭和 8)
治安維持法成立
5月5日
普通選挙法公布
3 月 15 日
治安維持法違反で、共産党関係者約 1600 人を検挙(3.15 事件)
3 月 30 日
文部省専門学務局内に、思想問題に対処するため学生課を新設
6月4日
関東軍、満州軍閥の張作霖を爆殺
7月7日
全府県に特高警察課を設置
7月1日
文部省専門学務局内の学生課を学生部(学生課・調査課)に昇格させ、思想対策を強
化
9 月 10 日
教化総動員運動開始
10 月 24 日
世界恐慌
8 月 19 日
新興教育研究所設立
11 月 14 日
浜口雄幸首相、ロンドン条約に反発した右翼結社員に東京駅で狙撃され重傷、翌年
没
3 月 17 日
陸軍「桜会」のクーデター未遂事件(十月事件)
6 月 23 日
文部省に学生思想問題調査委員会の設置
8 月 23 日
国民精神文化研究所の設置
9 月 18 日
柳条湖事件(満州事変勃発)
9月
文部省、小学校教員の思想問題対策協議会を開催
1 月 30 日
上海事変(第 1 次)
2月9日
井上準之助前蔵相、射殺。(血盟団事件)
3月1日
満州国建国
3月5日
団琢磨三井合名理事長、射殺。(血盟団事件)
5 月 15 日
犬養毅首相、海軍将校によって射殺(5.15 事件)
8 月 23 日
国民精神文化研究所設置
2月4日
長野県教員赤化事件
― ―
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
1933 年(昭和 8)
1934 年(昭和 9)
2 月 20 日
小林多喜二、特高警察に逮捕され拷問死
3 月 27 日
国際連盟脱退
5 月 26 日
滝川事件
6月1日
文部省専門学務局内の学生部を拡充し、思想局(思想課・調査課)を設置
2 月 18 日
天皇機関説事件
8月3日
第 1 次国体明徴声明
1935 年(昭和 10) 10 月 15 日
第 2 次国体明徴声明
11 月 18 日
教学刷新評議会設置
12 月 8 日
出口王仁三郎ら大本教幹部一斉検挙
2 月 26 日
青年将校、兵を率いて重臣を襲撃(2.26 事件)
1936 年(昭和 11) 5 月 18 日
日独防共協定
7月7日
盧溝橋事件(日中戦争勃発)
7 月 21 日
文部省専門学務局内の思想局を廃し、教学局(庶務課・企画課・指導部)を設置
1937 年(昭和 12) 8 月 13 日
1940 年(昭和 15)
国民精神総動員中央連盟(74 団体)結成・発会式
12 月
南京虐殺事件
ノモンハン事件(日ソ両軍交戦)
7 月 15 日
国民徴用令公布
9 月 11 日
部落会、町内会、隣保班、市町村常会整備要綱
9 月 27 日
日独伊三国同盟調印
10 月 12 日
大政翼賛会設立
12 月 6 日
内閣情報局設置
7 月 21 日
大学・高等学校・専門学校などの修業年限の臨時短縮
12 月 8 日
米・英に宣戦布告(太平洋戦争開戦)
10 月 2 日
横浜事件
在学者の徴集延期停止
10 月 12 日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」閣議決定
1944 年(昭和 19) 8 月 23 日
1945 年(昭和 20)
大日本青年団結成
「臣民の道」刊行
10 月 16 日
1942 年(昭和 17) 9 月 14 日
1943 年(昭和 18)
国家総動員法成立。労働、物資、企業活動、価格、言論の統制が本格化
5 月 11 日
1 月 16 日
1941 年(昭和 16)
上海事変(第 2 次)
10 月 12 日
1938 年(昭和 13) 3 月 24 日
1939 年(昭和 14)
軍部大臣現役武官制復活
11 月 25 日
学徒勤労令公布
3 月 18 日
決戦教育措置要綱閣議決定
5 月 22 日
戦時教育令公布
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[表 2]思想統制に関する法令ほか一覧表
法令名ほか
制定年
内 容
出版条例
法律批判の禁止、治安・風俗を乱す出版物の禁止などを規定。1887(明治 20)年、保
1869 年
安条例公布により改正、取締規程を精密にした。1893(明治 26)年の出版法に受け継
(明治 2)
がれた。
新聞紙
条例
1875 年
新聞・雑誌による政府攻撃の活発化に対し、政府は讒謗律とともに新聞紙条例を公
(明治 8) 布。違反者には体刑や罰金刑を科した。後改後、新聞紙法に継承。
集会条例
自由民権運動の弾圧を目的に公布。集会の事前届出、集会の宣伝禁止、他の政治結
1880 年
社との連絡禁止などを規定。1882(明治 15)年に改正・強化され、取締まりは学術会
(明治 13)
議にまで及んだ。のちに集会及結社法、治安維持法に発展。
保安条例
大日本帝国憲法制定直前、再燃した自由民権運動の取締り目的に制定、即日施行さ
1887 年
れた勅令。屋外集会・結社・出版などを制限、警視総監に治安を害するおそれのあ
(明治 20)
る者を皇居・行在所の 3 里外に退去させる権限を与えた。
出 版 法
出版条例を受けて、新聞・定期刊行物以外のすべての出版物の取締まりを規定。事
1893 年
前届出・納本や検閲などへの制限規定、違反に対しては出版・販売禁止や差押えな
(明治 26)
ど行政・司法処分規定を定めた。
治安警察法
日清戦争後に台頭した労働・農民運動の抑制を目的とし、自由民権運動に対する弾
1900 年
圧諸法規を集大成した。政治的集会の届出制、警官の集会解散権、労働組合結成の
(明治 33) 制限、ストの扇動禁止などによって、市民的自由を奪い、社会・労働運動取締りの法
的根拠となった。
新聞紙法
近代日本の主要な言論統制法規。新聞紙条例に代わる新聞・雑誌取締法規。発行条件・
手続をはじめ、予審事項に関する記事、安寧秩序を乱し、風俗を害する記事、皇室の
1909 年
尊厳冒涜、政体改変、朝憲紊乱などの記事掲載を禁じ、違反者を罰金・体刑に処した。
(明治 42) 検事の記事差止、内務大臣の発売・頒布禁止、差押、陸・海軍、外務大臣の掲載禁止・
制限命令、裁判所の発行禁止などの権限を認め、警視庁や府県警察部の自由裁量で
執行された。
過激社会運動
取締法案
高橋是清内閣により提出され、未成立に終わった社会運動弾圧法案。朝憲を紊乱す
1922 年
る事項、社会の根本組織を暴力によって変革する事項を宣伝し、また宣伝の目的で
(大正 11) 結社・集会・大衆運動を行った者を処罰する。衆議院で審議未了に終わったが、の
ちにこの内容は、治安維持法として実現。
国民精神作興
ニ関スル詔書
第一次大戦後の個人主義や民主主義の風潮、社会主義の台頭に対処し、関東大震災
1923 年
後の社会的混乱鎮静のために提出された。教育勅語、戊辰詔書の流れをくみ、軽佻
(大正 12) 浮薄を戒め、質実剛健、醇厚中正を強調、以後国体観念と国民道徳を吹聴する錦の
御旗となった。
治安維持法
社会運動の発展に対処し、国体変革や私有財産制の否認を目的とする結社・運動を
1925 年
厳禁した。1928(昭和 3)年には勅令で死刑を付加、1941(昭和 16)年には予防拘禁制
(大正 14) を採用。特高警察と結合し、いっさいの反政府・反軍部的言動に拡大解釈で適用さ
れるにいたった。
思 想 犯
保護観察法
治安維持法違反で検挙者され起訴猶予、執行猶予また刑の執行終了、仮出獄になっ
1936 年
た者の思想行動を 2 年間保護観察し、さらに住居・交友・通信を制限。重犯防止の目
(昭和 11)
的の法律。戦時下の思想弾圧体制の重要な一環を構成した。
国家総動員法
日中戦争下で制定された全面的な戦時統制法。第二次世界大戦期の日本の総戦力体
制の根幹となった。戦争遂行のため労務、資金、物資、物価、企業、動力、運輸、貿易、
1938 年
言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。これに基
(昭和 13)
づいて国民徴用令、生活必需物資統制令をはじめ無数の勅令が発せられた。1941 年
の改正で統制はさらに強化された。
言論・出版・
集会・結社等
臨時取締法
戦時立法のひとつで、言論・出版等の適正を名目とした。同時に施行の映画法、新
1941 年
聞紙等掲載制限令と並び政府統制化に表現の自由を抑圧し、違反行為には厳罰を
(昭和 16)
もって臨んだ。
国防保安法
通敵行為を取り締まるために制定。国家機密を漏洩し、外国に通報する目的で外交・
財政・経済、その他の情報を集め、治安を害するデマを流し、国民経済の運行を妨げ
1941 年
(昭和 16) る等の行為を処罰した。刑事手続についても特例を定め、国民の自由に重大な制限
を加えた。
― ―
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
2)東北・北海道の農家の疲弊
1930(昭和 5)年には、豊作による米価の下落がおこった。さらに、前年に起こった世界恐慌が日
本に波及し、金解禁・緊縮政策による株価・物価の暴落、生産低下、失業の増大、国際収支の悪化を
招いた。特に生糸・綿糸を中心に農産物価格の大暴落が起こり、農村経済に大打撃を与えた。その上、
翌年の 1931(昭和 6)年、1934(昭和 9)年の大凶作、災害も加わり、東北・北海道の農家は疲弊していっ
た(表3)
。大恐慌による失業者の多くは、
都市では職が見つからず、やむを得ず農村に帰っていった。
遠山は「故郷の父兄の厄介になればなんとか喰えると、労働者を帰農させることで、資本家は失業
労働者の最低生活を保障する義務から免れようとし、政府も真剣な失業対策を立てなかった。」⑾と
述べ、資本家の責任回避と政府の失業対策の遅れを批判している。また、「昭和 6 年、前年より続く
農産物価格下落と凶作で農村は壊滅状態。翌年、弁当を持参できない『欠食児童』は全国で 20 万人
を超え、この 1 年半で東北・新潟など各県で身売りした女性は 1 万人以上にのぼった。」⑿という指摘
や、1934(昭和 9)年の大凶作においては、山形県の「娘身賣の場合は當相談所へ御出下さい。」の掲
示板、岩手県における「空腹のあまり大根をかじる子どもたち」の写真などが、農家の悲惨な状況を
うつし出している⒀。この農村の困窮による貧困農民層の増加は、資本家には低賃金で働く労働者
を、軍隊には過酷な戦場で激務に耐える兵士を潤沢に供給することとなった。また、国民の不安感
は政党政治への失望を生み、1936(昭和 11)年に起こった 2.26 事件以降、軍部が政治に大きく介入し
ていくことになる。
[表 3]東北・北海道の農家の疲弊
西暦(和暦)
内 容
1930(昭和 5)年
豊作、農産物価格大下落
1931(昭和 6)年
大凶作
1932(昭和 7)年
農作物不作、北海道水害
1933(昭和 8)年
豊作、三陸大津波
1934(昭和 9)年
大凶作
1935(昭和 10)年
凶 作
(野島博之監修:昭和史の地図,p.13,成美堂出版,2004 より抜粋して引用)
3)岩手県における思想取締りに関する事件
この時期の岩手県における思想取締りの検挙者は、1931(昭和 6)年 12 月 2 日に起こった「盛岡高
等農林學校の全協関係生徒検束ノ件(學校報)
」と 1933(昭和 8)年 11 月の「縣立水澤農學校生徒の文
化サークル組織發覺に關する件」
に明らかである。以下にその内容をあげる⒁ ⒂。
[資料 6]
「盛岡高等農林學校の全協関係生徒検束ノ件(學校報)
」
(昭和 6 年 12 月 2 日)
昭和六年十二月二日盛岡高等農林學校生徒三名ハ岩手醫學専門學校生徒十数名ト共ニ検束取調ベヲ受ケタルガ右関
係生徒三名中二名ハ取調ベノ結果該事件ニ関係ナキコト判明シ直ニ釈放セラレシガ他ノ一名(鮮人生徒)ハ前記岩
手醫専生徒等ト数回會合セル事実アルモ未ダ関係ノ程度深カラズ且ツ改悛ノ情アリトセラレ十二月十一日釈放セラ
レタリ 因ニ本件ハ全協系ノ策動ト認メラルゝモ事件ノ内容ハ未ダ詳カナラズ又學校ノ関係生徒ニ対スル處置モ未
定ナリ
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局,思想調査資料集成,第 25 巻,p.7-33,日本図書センター,1981)
― ―
10
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[資料 7]
「縣立水澤農學校生徒の文化サークル組織發覺に關する件」
(昭和 8 年 11 月)
昭和八年十一月元水澤農學校教諭某の檢擧取調の結果同校生徒三名之に關係せる事實判明せり其の法爭の概要左の
如し
事件内容
昭和七年一月頃より前記元教諭某は在職當時第三學年生徒に對し自己の擔當する法制經濟及公民科の授業時間の
際「帝國主義戰爭の話」なる演題にて反戰思想を宣傳し又「社會思想解説」と題するプリントを配布して専ら共産主義
思想の注入鼓吹に努めたり
其の後右影響を調査すべく七年度及八年度の各卒業期直前に於て自己の授業に對する感想を述べしめ其の結果意識
分子として十一名(現在在學せる者三名)の生徒を獲得せるを以て之等に對し文化サークルを組織せしめ帝國主義戰
爭、ソヴェートロシアの現状等に付講話をなしたる外左翼文獻を貸與し之を閲讀せしめて意識の昂揚を圖り又八年
十月十三日前記教諭休職を命ぜらるるやサークルメンバーに對し自己の休職問題を契機に盟休を決行すべきことを
慫慂したる等の事實判明せり。
處 置
未 定
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成,第 26 巻,p.29-33,日本図書センター,1981.)
日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所は、資料に見られる「盛岡高等農林学校」や「岩手醫
學専門學校」と隣接し、同世代の若者が入学する岩手女子師範学校や盛岡中学などとも至近距離に
あり、お互いに影響を受けやすい状況にあった。また、講師には「岩手醫學専門學校」や女子師範学
校、高等女学校の教諭も含まれていた。当時、高等学校や大学を持たない岩手県においては、全国
で最初に創設された高等農林学校である「盛岡高等農林学校」は県内の最高学府であり、「岩手醫學
専門學校」は公立医学校を有しない岩手県にあっては、唯一の医師養成機関として地域と密接な関
係にあった。一方、
「縣立水澤農學校」
は、明治 36 年創立、1923(大正 12)年には県移管を受けて、現、
奥州市に誕生した実業学校である。奥州市は高野長英や当時総理大臣をつとめていた齋藤實、外務
大臣・東京市市長を歴任した後藤新平などを輩出しており、教育に力を注いでいる地域でもあった。
したがって、この 2 つの事件、特に「盛岡高等農林學校の全協関係生徒検束ノ件」に関しては、他の
学生や生徒、教師ばかりではなく、社会的にも大きな衝撃を与えた事件であった。
4)岩手県における思想問題に対する取り組み
岩手県における思想問題は、1934(昭和 9)年に設置された地方思想問題研究会の一つである岩手
県思想問題研究会と、その翌年の 1935(昭和 10)年に設置された国民精神文化講習所によって取り
組まれた。岩手県思想問題研究会設置の目的は、
「教育關係の思想傾向を研究し且つ之が指導方法
に關し考究す」ことにあった。構成人員を見ると、会長は知事、副会長は県の学務部長、委員に警察
部長ほか 19 名を置いている。また、事務所は岩手縣廰内にあり、県が広告塔になっていることが読
み取れる。活動実施状況については、特高課長の講演、座談会においては学生・生徒、教師、軍隊に
おける思想状況なども報告されている。思想を取り締まる側との連繋がはかられるような設定に
なっている。
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11
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
[資料 8]岩手県思想問題研究会の設置(昭和 9 年 2 月 12 日)
地方思想問題研究會實施状況
岩手縣
設置年月日 昭和九年二月十二日
名 稱 岩手縣思想問題研究會
施設事項
教育關係の思想傾向を研究し且つ之が指導方法に關し考究す
事務所 岩手縣廰内
組 織
會 長 知 事
副會長 學務部長
委 員 警察部長外十九名
幹事 若干名
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成,第 7 巻,p.144,日本図書センター,1981)
[資料 9]岩手県思想問題研究会の実施状況
○岩手縣思想問題研究會(昭和九年二月十九日規程公布)
第一回委員會(昭和九年十一月二十一日開催)
一、講演 現下思想運動ノ一般 特高課長(委員)
二、座談會
(一)縣下學生生徒、教職員ノ思想状況
(二)冷害ヲ中心トセル一般思想運動
(三)軍隊ニ於ケル郷土兵ノ思想状況
三、資料展觀並参考書陳列
四、「岩手縣下ニ於ケル學校關係思想事件一覽」配布
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成,第 24 巻,p.29,日本図書センター,1981)
また、国民精神文化講習所は岩手県思想問題研究会と同様に県庁内におかれ、国民精神文化講習
会、思想問題研究会の開催や談話会・座談会などを行った。県内の中学校以上の主な学校関係者の
ほかに、文部省督学官や県視学などが担当し、国家思想を徹底させるため 4 週間にわたって講義が
続けられている。教育関係者が思想の徹底を図るために利用されていく状況が理解される。
[資料 10]国民精神文化講習所の設置(昭和 10 年 1 月 18 日)
岩手縣
昭和 10 年 1 月 18 日に国民精神文化講習所を設置した。
施設事項
一、國民精神文化講習會
二、思想問題研究會
三、講話會、座談會及資料展覧
四、其の他適當なる事業
事務所は岩手縣廰内に置かれた。
組織は、所長、次長、講師、委員、幹事、この他に嘱託及雇員を置くことを得
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成,第 8 巻,p.131,日本図書センター,1981)
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12
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[資料 11]国民精神文化講習所の実施状況(昭和 10 年 2 月 13 日~ 3 月 12 日)
府縣名 岩手
期間 一〇、二、一三 ― 三、一二(四週間)
演題 講師名
日本思想史序
女子師範教諭
○寺村紘ニ
時代の推移と郷土の變遷
盛岡高女校長
菅野義之助
上代國文學と國民精神
師範教諭
○煙山保造
日本精神の闡明
同
前野喜代治
國民精神文化
國民精神文化研究所員 小野正康
國民文化と學校訓練
師範校長
小暮安水
日本精神實現の女子教育
女子師範校長
藤見睦治
社會教育
社會教育主事
小田久耕
皇國體の本質と教育
視學
樋渡卯左衛門
經濟問題と國民精神
師範教諭
○及川俊次郎
皇國法の根源と其の恩
盛岡中學教諭
○鳥越悦男
思想問題の趨勢と其の批判 同
○溝口亮一
道場精神の哲理
六原青年道場教士 柳原孝
思想問題と教育
文部事務官文部省督學官 岡田恒輔
科外講義
歐米と日本 六原青年道場長
田村丕顯
青年教育 視學
岡崎太郎
合 計
座談会(五回)
溝口、寺村、煙山、前野、柳原、小野、
藤見、及川、小暮各講師
聽講者數 小學校長 三
同訓導 二二
實補教諭 一
計 二六
講習時數
一〇.五
四.五
一三.五
六
五
六
四.五
四.五
六
一〇.五
一〇.五
一二
四.五
四.五
一〇二.五
五
三
八
一一〇.五
九
(思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成,第 8 巻,p.131,日本図書センター,1981)
3、思想問題に対する日本赤十字社の動き
1)日本赤十字社の管轄
日本赤十字社の思想統制は厳しいものであった。日本赤十字社はジュネーブ条約に基づいて、軍
衛生部隊の救護活動を幇助する団体として認められており、監督官庁は宮内省、陸海軍省であった。
そして、政府の日本赤十字社に対する監督保護は、次のようであった。
本社事業ヲシテ両陛下眷護ノ聖意ニ適セシメ且軍陣衞生ノ諸整備ニ應セシムル爲メ宮内省陸海軍省ノ監督ヲ受クヘ
キコトハ舊社則第七條ニ掲ケラレタリ宮内省ノ保護監督其他ノ關係ニ付テハ第二章ニ於テ之ヲ詳記セリ(日本赤十
字社:日本赤十字社史稿,p.69,1911.)
ここでいう 1887(明治 20)年 5 月 20 日制定の「舊社則第七條」をみると、
本社ノ事業ヲシテ兩陛下眷護ノ聖意ニ適セシメ且軍陣衞生ノ諸整備ニ應セシムル爲メ宮内省陸海軍省ノ監督ヲ受ク
ルモノトス(日本赤十字社:日本赤十字社史稿,p.161,1911.)
― ―
13
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
とある。したがって、日本赤十字社は明治期においてすでに軍の管轄下にあったのである。また、
1901(明治 34)年、勅令第 223 号により公布された「日本赤十字社條例」⒃においては、
「日本赤十字社ハ陸軍大臣海軍大臣ノ指定スル範囲内ニ於テ陸海軍ノ戰時衞生勤務ヲ幇助スルコトヲ得」
(第一條)
「社長及副社長ノ就任ニ就イテハ勅許ヲ與ヘラルヘシ」
(第二條)
「陸軍大臣海軍大臣ハ第一條ノ目的ノ爲日本赤十字社を監督ス」
(第三條)
「第一條ノ勤務ニ服スル日本赤十字社ノ救護員ハ陸海軍ノ紀律ヲ守リ命令ニ服スルノ義務ヲ負フ」
(第四條)
「戰時服務中日本赤十字社ノ理事員、醫員、調劑員、及看護婦監督ハ陸海軍将校相當官ノ待遇ニ、書記、調劑員補、看
護婦長、看護人長及輸長ハ下士ノ待遇ニ、看護婦、看護人及輸送人ハ卒ノ待遇ニ準ス」
(第六條)
とあり、救護活動を幇助する団体として、軍の直轄下にあったことが理解される。さらに、1910(明
治 43)年 5 月 19 日、勅令第 228 号により公布された「日本赤十字社條例」⒄においては、
「日本赤十字社ハ救護員ヲ養成シ救護材料ヲ準備シ陸軍大臣海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ陸海軍ノ戰時衞生勤務ヲ幇
助ス」
(第一條)
と改正、救護員の養成が明示されるようになった。また、社長および副社長の人事については、
「日本赤十字社社長及副社長ハ陸軍大臣海軍大臣ノ奏請ニ依リ勅任ス」
(第二條)
と変わり、勅任の前には必ず軍の介入が見られるようになった。その他、
「陸軍大臣、海軍大臣ハ第一條ノ目的ノ為日本赤十字社ヲ監督ス日本赤十字社ニ於テ病院ヲ開設移轉又ハ閉鎖セム
トスルトキハ陸軍大臣海軍大臣ノ認可ヲ受クヘシ」
(第三條)
「陸軍大臣、海軍大臣ハ日本赤十字社ノ申請ニ依リ陸軍衛生部将校相當官海軍軍醫官ヲ日本赤十字社病院ニ派遣シ
患者ノ診斷治療其ノ他救護員ノ養成ニ関スル事務ヲ幇助セシムルコトヲ得」
(第四條)
「陸軍大臣海軍大臣ハ日本赤十字社救護員ノ服制ヲ認可シ之ニ帯劍セシムルコトヲ得」
(第五條)
「陸軍大臣、海軍大臣ハ何時ニテモ官吏ヲ派シ日本赤十字社ノ資産帳簿等ヲ検査セシムルコトヲ得」
(第六條)
「陸軍大臣、海軍大臣ハ何時ニテモ日本赤十字社ニ命ジテ其ノ事業ニ関スル諸般ノ状況ヲ報告セシムルコトヲ得」
(第七條)
とあり、
日本赤十字社の人事にとどまらず、
経営・運営に対しても大幅な改正が見られ、干渉が深まっ
ていった。さらに、1938(昭和 13)年 9 月 9 日、
「日本赤十字社條例」が勅令第 635 号によって改正され、
「日本赤十字社令」となる⒅。これにより、第七條ノ二「陸軍大臣海軍大臣ハ日本赤十字社ノ事業ニ
關シ監督上必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」が付け加えられた。これは、1946(昭和 21)年 6 月 3 日、陸
海軍が復員省を経て厚生省に移管されるまで続いた⒆。
2)本社各病院長協議会
本社各病院長協議会は、全国の各支部において毎年開催され、本社および各県支部病院の院長が
― ―
14
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
出席する。その中で、
1931
(昭和 6)
年~ 1933
(昭和 8)年の記録に、思想統制に関する記述が見られる。
また、1931(昭和 6)年、北海道支部病院において行われた協議会では、2 日目に「とくに看護婦の思
想問題については互に意見を交換し、対策を研究した。」とあり、この時点において思想対策が問題
になっていることがわかる。また、翌年の 1932(昭和 7)年、愛媛で行われた協議会では、「時世の変
遷に伴ひ、人心の帰趨往時の如くならず。青春の男女にして動もすれば赤化思想を抱く者漸次増加
するの現状に鑑み、前年来各位会同の機会に於て屡屡部下の職員竝に救護員生徒に対する精神教育
に関して審議する所ありしが今回も亦之の会合の機会に於て重ねて既往の実績に徴し互に意見を交
換せられ将来本教育の徹底に遺憾なきを期せられたし」とあり、明確な赤化思想に関する記述が見
[資料 12]本社各病院長協議会(昭和 6 年 6 月 28・29 日)
北海道で協議会開く
昭和六年六月二八、九の両日、北海道支部病院で本社各病院長協議会開催。本社から阪本副社長、高橋救護課長が
臨席した。第一日、午前九時、桑島北海道支部病院長の挨拶で開会、池田支部長挨拶、阪本副社長の訓辞あって議事
に入り、指示事項その他について審議をとげ、午後六時支部長招宴に列席した。第二日、午前八時、旭川発、層雲峡
陸軍療養所を参観して解散したが、今回の会議では各病院長とも熱心に審議または質疑を行い、とくに看護婦の思
想問題については互に意見を交換し、対策を研究した。
指示事項
一、救護看護婦生徒募集に関する件
二、救護看護婦生徒保健に関する件
三、救護看護婦生徒教育に関する件
四、病院管理事務に関する件
五、病院の収支予算実施に関する件
六、会計の監督に関する件
七、雑件(四件)
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿,第 4 巻,p.303,1957.)
[資料 13]本社各病院長協議会(昭和 7 年 10 月 21・22 日)
徳川社長の希望要旨は次の通りである。(原文のまま)
一、今回の支那事変に際し本社より軍部衛生勤務幇助として派遣したる救護班は陸軍に対して十七班、海軍に対し
て七班、合計二十四班にして救護医員三十四名、同調剤員九名、同書記二十二名、同看護婦長三十八名、同看護婦
五百名に達せり。今や其の大部は任務を了して帰還解散し尚勤務中のものは僅かに陸軍に四班海軍に一班あるに
過ぎず。各救護員は各救護班の編成に際し遅滞なく応召し、其の勤務に当りては能く本社の趣旨を守り総裁殿下
の御諭旨を体して、和衷協同克く艱苦欠乏に耐え其の本分を尽し救護班として感謝状を受け又個人として其の善
行を表彰せられし者も少からず 本年五月、本社総会の際畏くも皇后陛下より優□なる令旨を賜はり、又陸海軍
大臣よりは曩の地方長官会議に方り支部長に対して特に感謝の意を表せられ以て本社の声誉を中外に発揚せり。
之れ即ち平素各位の養成指導全きを得たるに由るものにして、本社の大に感謝する所なり。将来一層救護員の教
養に注意を払ひ益々その声価を顕揚するに努められむことを望む。
二、救護員生徒の養成機関は、其の数現在二十五に達し其の養成人員毎年約千五百人に上りつゝある現状に鑑み之
が教育に付ては本社は曩に救護員教育要領を発表し又病院長協議会に於て屡々教育の劃一と改善とに就き注意を
促す所ありしが特に近時病院職員の頻々として交代するあり、又新に病院の設立せらるゝ所あるを以て各病院長
は本社の意図を能く部下職員に理解徹底せしめ教育に当りて一層遺憾なきを期せられたし。
三、時世の変遷に伴ひ、人心の帰趨往時の如くならず。青春の男女にして動もすれば赤化思想を抱く者漸次増加す
るの現状に鑑み、前年来各位会同の機会に於て屡屡部下の職員竝に救護員生徒に対する精神教育に関して審議す
る所ありしが今回も亦之の会合の機会に於て重ねて既往の実績に徴し互に意見を交換せられ将来本教育の徹底に
遺憾なきを期せられたし(以下、略)
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿,第 4 巻,p.304,1957.)
― ―
15
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
[資料 14]本社、支部各病院長会議(昭和 8 年 11 月 6 ~ 9 日)
本社で病院長会議
(略)
指示事項(原文のまま)
一、今次ノ事変ニ於ケル本社派遣ノ救護班ハ熱河方面征戦ノ終局ト共ニ、本年七月末ヲ以テ全部解任帰還ノコトト
ナレルカ、孰レモ良好ノ成績ヲ収メ本社ノ声誉ヲ発揚シ得タルハ誠ニ同慶ニ堪ヘサル所ナリ、尚此ノ機会ニ於テ
陸海軍当局ヨリ派遣救護班ノ勤務ニ関スル忌憚ナキ批判ヲ乞フコトトセルヲ以テ、救護員養成上ノ参考二資セラ
レンコトヲ望ム
二、最近支部病院ノ増設ニ伴ヒ、救護員ノ養成上其ノ劃一ヲ図ルト共ニ、更ニ時世ニ順応シテ教育ノ向上ニ期スル
必要アルヲ認メ、本社ニ於テ救護員養成制度改正調査委員会及救護員教科書編纂委員会ヲ設ケテ、制度改正ニ関
スル調査並教科書ノ根本的改正ニ着手セリ。既ニ調査委員会ニ於テ決定セル事項ハ、左記ノ如ク不日実施ノ運ニ
至ルベキヲ以テ予メ了承セラレタシ
(一)各病院ニ於ル病院査閲ノ実施
(二)救護員特別教育規定ノ設定
(三)救護看護婦生徒採用条件中普通学程度年齢身長(体重)等ノ改正
三、救護看護婦、同生徒ノ精神訓育ハ専ラ其ノ地知名ノ教育家等ニ委任セル所アリ素ヨリ本社ノ趣旨ヲ体シテ本教
育ヲ依託スルコトハ異論ナキモ院長、医長等ニ於テ看護婦ノ実務上ニ関シ適切ナル精神教育ヲ行ヒ、勤務上ノ指
針ヲ与フルコト必要ナルヘク、且救護員本来ノ目的ニ鑑ミ、時々適当ノ軍人ヲ招聘シテ軍人精神ノ注入ヲモ併セ
行フコトニ留意セシメタレ
四、救護看護婦生徒ノ健康度ハ、最近五箇年ノ成績ニ徴スルニ、逐年良好トナリ、患者数及減耗員共ニ減少ヲ呈セル
モ結核性諸病及呼吸器疾患ノ減少比較的著明ナラサルコト、急性伝染病今尚其ノ跡を絶タサルヲ遺憾トス。将来
一層之レカ衛生及防疫ニ注意シ、保健成績ノ向上ヲ期セラレタシ
五、近時情願其ノ他ノ事故ニ因ル減耗員増加ノ傾向アルハ寒心ニ堪ヘサル所ナリ。中ニハ近代世相ノ影ノ影響受ケ
責任観念ノ甚タ乏シキヲ思ハシムル者アリ。能其ノ因テ来ル所ヲ探求シ、支部ノ密接ノ連絡ヲ取リ、採用時ノ精
査ト入学後ノ教養ニ深甚ノ注意ヲ払ハレタシ
(以下、略)
(日本赤十字社:日本赤十字社社史稿、第 4 巻、p.304 ~ 305、1957.)
られ、救護看護婦生徒も含めての対策が練られている。さらに、1933(昭和 8)年、本社で行われた
協議会においては、
「各病院ニ於ル病院査閲ノ実施」
「時々適当ノ軍人ヲ招聘シテ軍人精神ノ注入ヲ
モ併セ行フコトニ留意セシメタレ」
「支部ノ密接ノ連絡ヲ取リ、採用時ノ精査ト入学後ノ教養ニ深甚
ノ注意ヲ払ハレタシ」
という記述が見られ、思想問題に対する本社の徹底ぶりがうかがえる。
4、日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所における思想統制の実際
1)思想統制に関する資料一覧
以下は、日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所における思想統制に関連する資料である。
― ―
16
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[表 4]日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所における思想統制に関する資料
NO
資 料 名
書 類 綴 名 ほか
文書作成年月日 ほか
1
看護婦養成所生徒取締心得御任命之 日本赤十字社岩手支部
件
明治三十三年秘書綴
1900(明治 33)年 10 月 19 日
2
日本赤十字社岩手支部
救護看護婦生徒寄宿舎規程
盛岡赤十字看護専門学校所蔵
1910(明治 43)年 3 月 28 日
3
岩手支部病院寄宿舎取締規程
岩手支部病院教育参考資料綴
1920(大正 9)年
4
救護看護婦生徒志願者調査事項
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1932(昭和 7)年 11 月 24 日
5
採用時生徒個人ニ就テ調査事項
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1932(昭和 7)年 11 月 24 日
6
救護看護婦生徒入学時ニ於ル取扱
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1932(昭和 7)年 11 月 24 日
7
岩手支部病院養成部規程
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1930(昭和 5)年 11 月 11 日
8
入学式式次第
盛岡赤十字病院養成部
昭和七―十七年發耒翰綴
1932(昭和 7)年 4 月 2 日
9
宣誓書署名伺および宣誓書
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1932(昭和 7)年 3 月 30 日
10
卒業式式次第
盛岡赤十字病院養成部
昭和七―十七年發耒翰綴
1937(昭和 12)年 3 月 22 日
11
岩手支部病院養成業務報告書
日本赤十字社副社長
徳川國順査閲時の提出書類
1934(昭和 9)年 6 月 28 日・29 日
12
看護婦生徒試験時における警察部員 盛岡赤十字病院養成部
の立会に関する件照会
昭和七年~十七年發耒翰綴
1937(昭和 12)年 3 月 8 日
13
卒業生答辞
盛岡赤十字看護専門学校所蔵
1938(昭和 13)年 3 月
14
救護員教育要領(改正)
盛岡赤十字病院養成部
大正九年以降發耒翰綴
1942(昭和 17)年 1 月 9 日
15
米英撃砕週間宣誓式
日本赤十字社岩手支部
昭和十八年以降救護看護婦生徒関
係綴
1944(昭和 19)年 12 月 2 日
16
一億憤激米英撃砕縣民大會
新岩手日報
1944(昭和 19)年 11 月 27 日
17
一億憤激米英撃砕大講演会の開催
新岩手日報
1944(昭和 19)年 11 月 30 日
18
東條閣下講演会
新岩手日報
1944(昭和 19)年 11 月 30 日
19
護国神社例祭祭式次第並参拜順序
岩手支部病院教育関係資料
1945(昭和 20)年 4 月 25 日
20
各團體ノ参拜順序、参拜配置図
岩手支部病院教育関係資料
1945(昭和 20)年 4 月 25 日
21
盛岡赤十字病院養成部
千葉支部所属救護看護婦生徒復帰に
昭和十八~二十三年救護看護婦生
際しての人事参考
徒関係綴
1945(昭和 20)年 11 月 15 日
2)
「岩手支部病院養成業務報告書」
にみる思想取締の実際
思想取締りの実態をこの報告書から見ていく。冒頭の「一、教育の綱領」には、「教育勅語ヲ奉シ
本社ノ趣旨ヲ體シ救護看護婦養成規程ニ基キ確乎タル國家觀念ト強烈ナル赤十字精神ヲ涵養シ救護
看護上ノ理論ト技術ヲ授ケ而シテ教育ハ全的立場ニ於テ生徒ヲ對象トシ各施設ヲシテ何レモ教育ノ
全體系中ニ正シク融合セシメ以テ生徒ノヨリヨキ心身ノ発達啓培ヲ企圖シツゝアリ」とある。「二、
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15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
養成設備」の「3、寄宿舎、運動場」の記述には、
「作法室ニハ神棚ヲ設ケ大神宮ヲ祭リ毎朝礼拝セシ
メ又入口ニハ赤十字要領ト寄宿舎心得ヲ掲ゲ徳性ノ向上ニ資ス」とある。「三、教育實施ノ方法」の
「1、精神訓育」には、
「右ハ教育ノ基調ヲナスモノナルヲ以テ特ニ留意シ院長自ラ一週一時間訓話ヲ
為ス外元東北高等女学校教頭ヲ委嘱シ又ハ随時適当ナル名士ニ依頼シテ講演セシメ日本精神即チ国
民的志操ノ啓培及赤十字精神ノ徹底的鼓吹ト品性ノ陶冶ニ努ム從テ赤十字事業ノ教授ハ半ハ修身的
教授タリ 要スルニ知識教育ノ偏重ヲ戒メ全人格ノ人間ヲツクル事ニ教育ノ視点ヲ置ケリ」とあり、
国家神道を寄宿舎生活の中に浸透させ、軍国主義・国家主義を推進させる意図がそこには見受けら
れる。また、養成所内外から人材を求めて訓話や講演を行うことにより、軍国主義と赤十字精神を
融合させていくというねらいがあったと考えられる。また、実施内容を報告として提出するという
ことは、本社の意向を反映したものであったと捉えられる。そして、「四、生徒取締及生徒保健上ニ
特ニ實施セル事項」の「1、思想取締上ノ對策」には、「思想取締ノ方針ヲ次ノ如ク立テ之ノ方針ノ下
ニ各事項ヲ実施シツツアリ」
とあり、具体的な 16 項目の内容が列記されている。救護看護婦生徒は、
家庭状況調査に始まり、
親書や郵便物読物の査閲、性格の矯正、患者との接触状況、2人以上での外出、
訪問者・交友関係、集会・講演会等への参加の注意など、入学時から始まり、病院実習における患者
や見舞人との関係や、寄宿舎生活においても常に監視される対象であった。特に、項目の最後には
「タ、縣特高課ト連絡ヲ取ルコト」とあり、これらの取締りが救護看護婦養成所内だけでなく、岩手
県においては 1928(昭和 3)年 7 月 31 日に設けられた特別高等警察課⒇との連携で行われていたこと
がわかる。
[資料 15]岩手支部病院養成業務報告書
一、教育ノ綱領
教育勅語ヲ奉シ本社ノ趣旨ヲ體シ救護看護婦養成規程ニ基キ確乎タル國家觀念ト強烈ナル赤十字精神ヲ涵養シ救護
看護上ノ理論ト技術ヲ授ケ而シテ教育ハ全的立場ニ於テ生徒ヲ對象トシ各施設ヲシテ何レモ教育ノ全體系中ニ正シ
ク融合セシメ以テ生徒ノヨリヨキ心身ノ発達啓培ヲ企圖シツゝアリ
二、養成設備
1、教材
觀照教授ノ材料トシテ教室ニ備附スルモノハ次ノ如シ
日本赤十字社救護事業要覧
同 社員章及記章圖
同 救護員服装圖
平時陸軍衛生機関一覧
戰時陸軍衛生機関系統配置圖
海軍衛生機関繋要覧
人體解剖模型 壱 ケ
人體各部臓器 壱体分
人體骨格 貮体分
人體構造掛圖 貮 組
繃帶實習用人體模型 壱 個
防毒面 参 個
糞便模型 小児便一 傳染病便一 貮 組
― ―
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
作法教授用器具 壱 式
女子骨盤 壱 個
産科演習器 壱 個
ゼールムハイム児頭分娩實習器 壱 個
ツアンゲンマイステル児頭分娩實習器 壱 個
正規妊娠模型 壱 個
胎児発育順序模型 壱 組
妊娠各期ニ於ケル胎児實物標本 壱 個
悪露模型 壱 組
正常胎盤 壱 個
葡萄状鬼胎 壱 個
悪性脈絡膜腫瘍 壱 個
異常妊娠レントゲン寫眞 四 枚
子宮外妊娠標本 各 種
而シテ醫柩防毒具及其治療具等ハ衛戍病院及支部ヨリ借用シ其ノ他ハ必要ニ応シ各科備付ノ器具材料ヲ持出シテ
教授ス
2、講堂、教室、實習室
特ニ講堂ノ設備ナシ
看護婦生徒用教室一、産婆生徒用教室一、ヲ有ス 前者ハ十六坪ニシテ五十六名ヲ収容シ得ル階段教室ナリ 後
者ハ十二坪ニシテ十二名ヲ容ルゝニ足ル
實習室ナシ 教室及寄宿舎作法室ヲ代用ス
3、寄宿舎、運動場
寄宿舎ハ瓦葺二階建ニシテ一部平家造リトス五二百十二坪三合総建坪数勺アリ 階下ハ八疊敷一室 十八疊敷六
室 階上ハ九疊半敷四室 十疊敷二室 十疊半敷二室 十八疊敷三室四十疊敷一室トシ生徒看護婦一名ニ対スル疊
数ハ三疊余ナリ 四十疊敷ハ作法室兼實習室トス 外ニ食堂室、炊事室、炊夫室等アリ 階下ニ静養室一ヲ有ス 作法室ニハ神棚ヲ設ケ大神宮ヲ祭リ毎朝礼拝セシメ又入口ニハ赤十字要領ト寄宿舎心得ヲ掲ゲ徳性ノ向上ニ資ス 元耒旧建物ヲ改造セルモノナルヲ以テ各室ノ間取大サ等区々ニシテ統一ナシト雖モ採光換気上ノ欠点ナシ 冬期ノ
採暖ハ火鉢炬燵ニヨレリ 敷地ハ八八六坪余リニシテ狹隘ナルタメ寄宿舎ニ附属セル運動場ナシ 病院構内ニ「テ
ニス場」ヲ設置ス 尚支部構内廣大ナルヲ以テ患者運搬教練及運動場ニ之ヲ充用ス
三、教育實施ノ方法
1、精神訓育
右ハ教育ノ基調ヲナスモノナルヲ以テ特ニ留意シ院長自ラ一週一時間訓話ヲ為ス外元東北高等女学校教頭ヲ委嘱
シ又ハ随時適当ナル名士ニ依頼シテ講演セシメ日本精神即チ国民的志操ノ啓培及赤十字精神ノ徹底的鼓吹ト品性ノ
陶冶ニ努ム從テ赤十字事業ノ教授ハ半ハ修身的教授タリ 要スルニ知識教育ノ偏重ヲ戒メ全人格ノ人間ヲツクル事
ニ教育ノ視点ヲ置ケリ
2、學術科教育
学期ノ開始二當リ過去ノ実績ニ徴シテ夫々擔任者ヲ定メ予定表ヲ作製ス授業時間割ハ智的学科、情操学科ヲ可及
的午前ニ配セシムベク意ヲ用ヒツゝアレドモ 診療ノ関係上稍ゝ遺憾ノ点ナキニ非ラズ 而シテ学期末ニ於テハ實
施表ヲ考査シ又生徒ニハ試験ヲ課シテ會得ノ良否ヲ検ス、学術講義ハ主トシテ各科医長ヲシテ担当セシメ 特殊学
術ハ衛戍病院軍医正又看護長其ノ他ニ嘱託シ 又ハ本院医員技手助手ヲシテ為サシム 而シテ学術科講義ハ耳ニ聴
カシムルト共ニ眼ニ要訣映セシムルヲトシ 實物模型示説圖解実験等専ラデモンストレーションヲ重ンジ意義ヲ明
ニシ理解易カラシメ実地ノ應用ニ着意セシム 擔架教練ニ於テハ其実際ヲ會得セシムルノミナラズ軍隊的規律ヲ養
成シ併セテ動作ノ敏活体力ノ向上ヲ測レリ 社會事業ニ於テハ講義ノ外ニ市内ノ工場託児所保護院等ヲ担任者引率
ノ下ニ見学セシメ実地指導ヲナサシム
3、實務練習
實務練習ハ第二学年第二学期以降二ケ月間卒業期マデ各科各病舎ニ輪番ニ配当シ 患者ノ取扱看護治療及診断手
技等ノ実務全般ニ亘リ之ヲ練習経験セシム 主トシテ各科医長薬剤長各病舎主任ヲシテ其練習場ニ於テ講評シ矯正
シ或ハ補修セシメ周到ナル実地的指導ノ任ニ當ラシム
第三学年ハ盛岡衛戍病院ニ一週間通学ノ上陸軍衛生勤務ノ実際ヲ會得セシム
― ―
19
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
四、生徒取締及生徒保健上ニ特ニ實施セル事項
1、思想取締上ノ對策
思想取締ノ方針ヲ次ノ如ク立テ之ノ方針ノ下ニ各項実施シツゝアリ
イ、生徒採用時家庭事情、環境等ヲ綿密ニ調査スルコト
ロ、生徒採用時人物考査ヲ主トシ学科点数ヲ偏重セザルコト
ハ、入学ノ際豫メ親書査閲ノ承諾ヲ得、郵便物讀物等ヲ巖重に査閲スルコト
ニ、團体観念ヲ明確ニ認識セシムルコト
ホ、社會問題ニ関シ正シキ常識ヲ養フコト
ヘ、生徒ノ性格言動ヲ絶ヘズ注意シ早ク矯正スルコト
ト、入院患者及外耒患者トノ接觸應接ニ注意スルコト
チ、外出ハ午後九時マデトシ其ノ目的、行先、帰舎時ヲ明カニセシメ 二人以上連行セシムルコト
リ、各種集會講演會等ノ出席ニ注意スルコト
ヌ、訪問者交友関係ニ注意スルコト
ル、生徒ノ人事相談ニ應ジ之ガ解決援助ヲナスコト
ヲ、慰安優遇ノ道ヲ講ジ生徒ノ生活ヲ快適ナラシムルコト
ワ、高尚ナル趣味及体育ヲ奨勵スルコト
カ、入院患者ノ言動、讀物及見舞人ニ注意スルコト
ヨ、患者トノ贈答、書籍ノ貸借ヲ禁ズルコト
タ、縣特高課ト連絡ヲ取ルコト
2、院内ニ於ケル躾
規律命令ヲ重ンジ禮儀ヲ正フシ信義ヲ旨トシ協同和衷ノ精神ヲ涵養セシムルト共ニ患者ニ接スルニハ親切ヲ第一
トシ併セテ言語違電話ノ應答ニモ注意シ又身体被服ヲ清潔ニ保チ容姿ヲ整ヘ態度ヲ正サシメ内務ニ関シテハ実践ヲ
主トシ器具材料ヲ大切ニ取扱シメ萬事ヲ整頓セシムベク心懸ケ居レリ
3、保健ニ関スル事項
医員中ヨリ生徒ノ保健医一名ヲ命ジ春秋二期成規ノ体格検査ヲ行ヒ其ノ所見ハ体格検査表ニ記入シ要監察生徒ニ
対シテハ時々健康診断ヲ行ヒ其ノ結果ヲ考察指導シ状況ニヨリ休養、休講或ハ実務練習ヲ免除セシム毎年初夏ニハ
チフス予防注射ヲ施行ス
体力向上策トシテハ毎朝十分乃至三十分ラヂオ体操ヲ行フ又休日ニハ可成看護婦長引率ノ下ニ郊外ニ遠足セシメ
又構内草花ノ手入ヲナサシメ、土ニ親マシム夏期ニハ登山冬期ニハスキー等ヲ奨勵シツゝアリ 食事ニ関シテハ各
栄養素ノ部分的缺乏ヲ招来セザルヤウ看護婦長ヲシテ献立表ヲ監督セシメ殊ニ日本食ニ缺ケ易キ脂肪分ノ摂取ニ留
意シツゝアリ
4、其ノ他養成業務上参考トナルベキ事項
宿舎ニ於テ休日余暇等ヲ利用シ音楽生花及裁縫ヲ嘱託員ヲシテ教授セシムル外茶話會ヲ催フサシメ修養ト慰安ヲ測
レリ
(1934(昭和 9)年 6 月 28 日・29 日,日本赤十字社副社長査閲時の提出書類より)
このような中、実際に厳しい思想取締りを経験した救護看護婦生徒はどのような思いを持ったの
であろうか。この厳しい取締りについて、1934(昭和 9)年に養成所を卒業した花田ミキ氏より「消
えた 4 人の看護學生」
と題して、以下のような文書の提供があった。
― ―
20
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
[資料 16]花田ミキ氏の提供文書(原文のまま)
消えた 4 人の看護學生
春浅い盛岡。昭和 7 年 3 月の日赤看護婦の寄宿舎。ある夜、時ならぬ廊下の足音に、見れば、土足の男たちが二階
にかけ上がった。婦長 2 人は、大声で泣き叫んでいた。やがて、二年生を 4 人引きずって、男たちは出ていった。や
がてわかったこと。彼女たちは、青森からの委託生の菅野、馬場、成田、丸子の 4 人。盛岡市内の医大學生、高等農
林の學生たちの社会科學研究グループに入っていたらしい。このあと、4 名の行方が全くわからなくなった。「もう
一人いる」と男たちが言ったというので、舎室の私物検査がきびしくなった。私がフトンの間に入れていた「蟹工船」
やらすっかり没収された。外出は 2 名以上のチームでなければできなかったのが、私といっしょに出る人がいなく
なった。かげ口がとびかった。折柄、日本では満州に出兵し(満州事変(昭 6 年))權益をひろげようとしていた。昭
和 6 年( )には、治安維持法も制定された。思想取りしまりとして特高もつくられた。全国の大學生が大量に檢
挙される等、あわただしい国情であった。「非戰グループ」を根こそぎ補しようという動きの中で、日赤の 4 名も連
行されたようだ。のちに、日赤青森県支部に就職したとき、學生の名簿をしらべたが見つからない。同級生などを
たどって郷里をしらべたがいない。どこに行ったのか?無事でいるのか?満州事変(1931 年昭 6 年)、日中戰爭(1937
年昭 12 年)、日米戰爭(1941 年昭 16 年)、そのまま第二次大戰、敗戦(1945 年 昭和 20 年)と、いわゆる 15 戰爭がつづ
き、國民はどん底生活の中で苦んだ。そのことを考えたら、4 名の彼女たちは、日赤看護婦の良心であったのではな
いか。15 年戰爭には、全日赤はたたかいの機能をもつ軍にくみこまれ、召集、従軍し、□□□苦しい歴史の中を歩
まされた。“ 彼女たちにあって、眞相をききたい ” 私の胸にわだかまる思いは、いまに消えることがない。
(2006 年 1 月 13 日,花田ミキ氏より書面にて提供。)
このときの取締りは、おそらく既述した 1931(昭和 6)年 12 月の「盛岡高等農林學校の全協関係生
徒検束ノ件(學校報)
」
(資料 6]と連動するものであったと考えられる。しかし、その真意について
は今後の研究によるところである。このほかに、1933(昭和 8)年に卒業した平野かせ氏は、日常的
に見られた規律の厳しさについて、次のように述懐している。
「一年生に入ってきました時、上級生に対しての色々なことを教えていただいた。それを聞いて、とんでもない所に
きたと思いました。そしたら、ニ年生の中田さんという方が、にこにこと笑顔を見せて下さったので、ああこうい
う方も中にはいらっしゃるから大丈夫やっていけるかなと思いました。規律が厳しくて、身内が入院していても見
舞うのに絶対一人では行かず、誰かと一緒に行く。勧められても椅子に腰掛けない。一般の患者さんからチリ紙一
枚でもいただいてはだめ。笑い顔をしてはだめ、患者に歯を見せない。お風呂に入った時、上級生が入って三人の
場合は、一番真中に上級生、蛇口の方がその次の上級生。そして、『どうぞお背中を流させてくださいませ』と言っ
たり、とても入っている気がしなくて、入らないで上がってきたこともあります。
外出する時、一年生は三人以上だっ
たと思います。外出簿をつけて、婦長殿にもお断りしたでしょうか。(中略)詰所で椅子があいている時、お掛けな
さいと言われても、絶対座ってはだめだって言われました。」
(平野かせ:厳しい規律の中で,『愛の看取り』,p.129,日本赤十字社岩手県支部盛岡赤十字桐花会,1999.)
これらの文章から、現実として細かな規則が定められ、それが上級生から下級生へと伝達されて
いった事実が明確に伝わってくる。生活全般にわたって、寄宿舎規則意外にも実習においても細か
な厳しい決まり事があり、絶対的な上下関係も存在する寄宿舎において、教育は行われていたので
ある。そして、軍の管轄下にあった日本赤十字社においては、救護看護婦生徒たちが活動する養成
所や病院、寄宿舎という限られた空間、少人数教育を徹底する教育環境における「思想取締上ノ對
策」
の徹底は、絶対的なものであったであろう。
― ―
21
15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
おわりに
今回の報告は、
「岩手支部病院養成業務報告書」を中心資料として、日本赤十字本社と連動する地
方支部の一救護看護婦養成所における思想統制を概観した。発見された幾枚かの資料から、多くを
導き出すことは困難である。しかし、このような思想統制がここに取り上げた一救護看護婦養成所
においてのみ特別に行われたことではなく、組織的に行われ、おそらくは他の救護看護婦養成所に
おいても同様のことが実践されていたものと推察される。陸海軍の管轄下にあり、皇室を推戴する
当時の日本赤十字社においては、いかんともしがたい状況がそこにあったであろう。今後は、報告
の途中に於いて示した 20 種類の資料を分析・考察を深め、思想統制の状況を捉えていきたい。
【註】
⑴ 日本赤十字社社則は、1887 年 5 月 20 日に制定、全 19 条からなる。「第一條」には、「本社ハ戰時ノ傷病者ヲ救療愛
護シ力メテ其苦患ヲ輕減スルヲ目的トス」とあり、第四條の始めには「本社ハ第一條ノ目的ヲ達スル爲メ左ノ事業ヲ
執行スルモノトス」と記され、第一・第二項があげられている。
⑵ 日本赤十字社の救護看護婦養成所は、1889(明治 22)年 6 月 14 日に制定された「看護婦養成規則(全 20 条)」の第 1
条「本社看護婦養成所ヲ設ケ生徒ヲ置キ卒業後戦時ニ於テ患者ヲ看護セシムル用ニ供ス」を根拠として、翌 1890(明
治 23)年、東京府麹町区飯田町 4 丁目の陸軍省軍用地を借用して創設された。看護婦生徒の採用資格は、年齢 20 ~
30 歳、身体壮健で性質温厚な者、従来の履歴品行が正しい者、普通の文字を読み、仮名まじり文を作り、算術の心得
がある者であった。教育は、学科目 1 年半、実習 2 年を 3 期に分け、1 期は解剖学、生理学、消毒法、2 期は看護法、治
療介輔、包帯法、3 期は救急法、傷者運搬法、実地演習などであった。養成所卒業後 20 年の応召義務があった。
⑶ 「支部模範看護婦」とは、全国道府県にある日本赤十字社各支部において選出された看護婦生徒を、日本赤十字社
(本社)が養成する看護婦のことであり、「日本赤十字社本部看護婦」
「地方部看護婦」に対する名称として用いられ
たものである。『看護婦養成資料稿』には、「支部生徒ハ卒業後支部ニ於ケル生徒養成ノ模範タラシムヘキ目的ノ下
ニ支部ノ経費ヲ以テ支弁スルコトトシ養成人員ハ各支部ヲ通シテ一年二回ニ十二名ト予定セリ」
「支部ニ於テ看護
婦養成ヲ要スルトキハ一名又ハ二名ノ生徒ヲ選出シ本社病院ニ委託シテ模範トナルヘキ看護婦ヲ養成スルコトヲ得
セシメタリ」とあり、日本赤十字社病院(東京渋谷)は、本部病院として各支部からの支部模範看護婦生徒を多数受
け入れた。1896(明治 29)年 4 月に本部生徒の他に支部生徒 47 名が入学したのをはじまりとして、1904(明治 37)年
までは毎年 2 回ずつ、1905(明治 38)年以降は毎年 1 回の支部生を受け入れた。
⑷ 日本赤十字社衛生部看護課:看護婦養成史料稿、p.101、1927.
⑸ 日本赤十字社編 : 日本赤十字社社史続稿第 4 巻、p.232、1957.
⑹ 同掲⑷、p.232 ~ 233.
⑺ 同掲⑷、p.233.
⑻ 同掲⑷、p.233.
⑼ 同掲⑷、p.316.
⑽ 同掲⑷、p.311 ~ 312.
⑾ 遠山茂樹ほか:昭和史、岩波書店、1997.
⑿ 野島博之監:昭和史の地図、p.13、成美堂出版、2005.
⒀ 毎日新聞社図書編集部:写真昭和 30 年史、p.46-47、毎日新聞社、1956.
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22
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 1 号(2008 年)
⒁ 思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成、第 25 巻、p.7-33、日本図書センター、1981.
⒂ 全協:日本労働組合全国協議会。1928年日本労働組合評議会の再建を図って結成。日本共産党の指導下のプロフィ
ンテルンに加盟。1930 年の川崎武装メーデー、1932 年の東京地下鉄争議など戦闘的に活動したが、厳しい弾圧によ
り 1934 年に壊滅。
⒃ 日本赤十字社條例:1901(明治 34)年 12 月 2 日、勅令第 223 号により公布される。海軍大臣山本權兵衛、陸軍大臣
男爵 児玉源太郎の署名がみられる。全 7 條。
⒄ 日本赤十字社條例:1910(明治 43)年 5 月 19 日、日本赤十字社條例を勅令第 228 号によって改正。内閣総理大臣公
爵桂太郎、陸軍大臣子爵寺内正毅、海軍大臣男爵齊藤實の署名がみられる。全 11 條。
⒅ 日本赤十字社令:1938(昭和 13)年 9 月 9 日、日本赤十字社條例を勅令 635 号によって改正。内閣総理大臣公爵近
衛文麿、海軍大臣米内光政、陸軍大臣板垣征四郎の署名がみられる。全 11 條。
⒆ 日本赤十字社編:日本赤十字社社史稿第 6 巻(昭和 21 年~昭和 30 年)、p.193 ~ 194、1972.
⒇ 及川常作編:岩手県警察史(非売品)、岩手縣警察本部、1957.
2006 年 1 月 13 日、花田ミキ氏より書面にて提供。同氏は 1934(昭和 9)年、日本赤十字社青森支部の依託生として
日本赤十字社岩手支部病院救護看護婦養成所を卒業した。
【参考文献】
1)掛川トミ子:現代史資料 42,思想統制,みすず書房,1976.
2)岩手縣警察部編:岩手縣警察要覧(昭和十三年),岩手縣警察部,1939.
3)加藤敬二:続・現代史資料 7,特高と思想検事,みすず書房,1982.
4)粟屋憲太郎:十五年戦争期の政治と社会,大月書店,1995.
5)亀山美知子:近代日本看護史Ⅰ 日本赤十字社と看護婦,ドメス出版,1983.
6)平尾真智子:資料にみる日本看護教育史,看護の科学社,1999.
7)岩手県教育委員会:岩手近代教育史第 4 巻(教育統計・年表編),1981.
8)新福祐子:女子師範学校の全容,家政教育社,2000.
9)思想調査資料集成刊行会:文部省思想局思想調査資料集成 第 1-24 巻,日本図書センター,1981.
10)荻野富士夫編:特高警察関係資料集成,第 19-26 巻,不二出版,1993.
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15 年戦争下における日本赤十字社の看護教育
Nursing Education of the Japanese Red Cross Society during
the Second Sino-Japanese War (1931-1945)
―Thought Control in the Education/Training Process of Relief Nurses―
Ioko Funakoshi
(Graduate School of Education, Tohoku University, Postdoctoral Course)
The present research aims to clarify the actual status of thought control that the Japanese
Red Cross Society had to perform during the Second Sino-Japanese War (1931-1945, the "15 Year
War"). Taken up as research material is the "Iwate Chapter Hospital Education/Training Work
Report." This report was submitted by the Japanese Red Cross Iwate Chapter Hospital at the
time of the work inspection carried out in June 1934 at the four Chapter Hospitals in Hokkaido,
Miyagi, Iwate, and Akita prefectures. Included therein are contents regarding thought control
undertaken at education sites and nurse dormitories, etc. Especially noteworthy is the statement
"Communications are to be made with the Prefectural Special High Police Section"; in this Report,
one can know about how the education side worked within the strict thought control policies and
regulations of that time. Also, documents were submitted by contemporary relief nursing
students concerning the status of thought control activities actually undertaken by the Special
High Police at dormitories. In this research, while presenting considerations regarding the
responses to thought control issues made during that era by the Japanese Red Cross Society,
which was under the control of the military, clarification will be made of the actual state of
nursing education during the Second Sino-Japanese War.
Keywords:Second Sino-Japanese War (1931-1945, the "15 Year War"), thought control, Iwate
Chapter Hospital Education/Training Work Report, Special High Police (political or
thought control police)
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