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Title 機能的性質と心的因果: キム的還元主義を越えて Author(s) 柴田

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Title 機能的性質と心的因果: キム的還元主義を越えて Author(s) 柴田
Title
機能的性質と心的因果: キム的還元主義を越えて
Author(s)
柴田, 正良
Citation
思想, 982: 53-76
Issue Date
2006-02
Type
Article
Text version
author
URL
http://hdl.handle.net/2297/33106
Right
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http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
機 能 的 性 質 と心 的 因 果
------キム的 還 元 主 義 を越 えて-----柴 田 正 良 (金 沢 大 学 )
1. 性 質 の存 在 論 と心 身 問 題
<黒 い>は立 派 な一 つの性 質 だ。あの電 柱 のカラスもこの性 質 をもつし、私 の車 のボデ
ィも、冬 にかぶっていた帽 子 もこの性 質 をもつ。また、<エーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以
上 離 れている>も、立 派 といえるかどうかはともかく、一 つの関 係 的 性 質 であり、金 沢 や白
山 など、多 くのものがこの性 質 をもつ。したがって、述 語 「黒 い」は、あのカラスや私 の車 に
関 して適 用 されれば真 なる文 「あのカラスは黒 い」などを生 成 し、述 語 「エーゲ海 デロス島
から 2000 キロ以 上 離 れている」も多 くの事 物 に関 してそうである。したがって、よくある操 作
として、この二 つの述 語 から選 言 「あるいは」によって一 つの選 言 的 述 語 「黒 いかあるいは
エーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている」を作 り、例 えばそれを、明 日 焼 き肉 パー
ティで使 う備 長 炭 のこの炭 に適 用 すると、次 の真 なる文 を作 り出 す。
(1) 「この炭 は、黒 いかあるいはエーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている」
さて、ところで、今 度 はこの述 語 から逆 にたどって、われわれはそれに対 応 する選 言 的 性
質 <黒 いかあるいはエーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている>を得 ることができる
だろうか。問 われているのは、この炭 がもつとされる、選 言 的 であれ単 一 の性 質 の存 在 であ
る。一 般 に、哲 学 者 はそのような選 言 的 性 質 の存 在 に否 定 的 だ。いくつもの理 由 が提 出 さ
れている。一 つは、選 言 性 のもつ節 操 の無 さである。よく知 られている論 理 的 理 由 から、述
語 「P」がある対 象 に当 てはまるなら、選 言 的 述 語 「P あるいは Q」は、もう一 方 の選 言 肢
「Q」がどんな述 語 でも、その対 象 に当 てはまる。つまり、「Q」は、「赤 い」でもいいし、「60 ト
ンである」でもいいし、「チカが捜 している」でもかまわない。例 えば、次 の(2)は、「黒 い」がこ
の炭 に当 てはまる述 語 であるがゆえに真 である。
(2) 「この炭 は、黒 いかあるいはチカが捜 しているものである」
ここで、「Q」の位 置 に来 る述 語 がどんなものでもよいという意 味 は、それが単 独 でその対 象
に適 用 されたなら偽 なる文 、例 えば「この炭 は 60 トンである」を生 成 する、というような場 合
でかまわないということだ。それでも、「この炭 は、黒 いかあるいは 60 トンである」は真 であ
る。したがって、どんな述 語 でもいいのだから、「この炭 は黒 いかあるいは 60 トンでない」も
同 様 に真 である。
確 かに、言 葉 をどんな風 に組 み合 わせるのも可 能 だし、それがこの場 合 に真 なる言 明 を
作 り出 す論 理 的 理 由 も立 派 に存 在 する。しかし、それに合 わせて、奇 妙 な性 質 が続 々と
世 界 に誕 生 するのだろうか? あるいは、そのような奇 妙 な性 質 は、そのような述 語 によって
取 り出 される前 から、すでに世 界 の中 に存 在 していたのだろうか?(注 1) 選 言 性 の節 操 の
無 さに由 来 する選 言 的 性 質 のいかがわしさは、性 質 を表 す述 語 がある対 象 に関 して当 て
はまるがゆえにそれを主 張 する言 明 が真 となる場 合 の根 拠 、つまり真 理 根 拠 (truth make
r)を考 えてみるとはっきりする。例 えば、ごく普 通 に考 えれば、「この炭 は黒 い」が真 である
根 拠 は、述 語 「黒 い」がこの炭 に当 てはまることであり、さらに「黒 い」がこの炭 に当 てはまる
根 拠 は、この炭 が<黒 い>という性 質 をもっていることである。すると、(1)が真 である最 終
根 拠 は、この炭 が<黒 いかあるいはエーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている>とい
う選 言 的 性 質 をもっていることだ、ということになるだろう。しかし、この炭 は、<エーゲ海 デ
ロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている>という性 質 をもつか否 かに関 わりなく、<黒 い>とい
- 1 -
う性 質 をもつがゆえに、(1)は真 なのである。ということは、(1)が真 であるための真 理 根 拠 と
して、選 言 肢 の一 方 である<エーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている>という性 質
はまったく効 いていない、つまりそれは実 際 には根 拠 となっていない、ということだ。であるな
ら、そもそも選 言 的 性 質 の存 在 を仮 定 する必 要 はないように思 われる。
他 方 、(1)が真 である根 拠 は、選 言 的 性 質 を仮 定 せずとも与 えることができる。それは、
(1)を次 の(3)の省 略 形 として分 析 することだ。
(3) 「この炭 は黒 いか、あるいはこの炭 はエーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れている」
すると、この(1)が真 であるには(3)の選 言 肢 の一 つである「この炭 は黒 い」が真 であるだけで
十 分 で あ り、そ の 真 理 根 拠 は 、この 炭 が < 黒 い >と い う性 質 をも ってい る こと に 他 なら な
い。というわけで、選 言 的 述 語 「黒 いかあるいはエーゲ海 デロス島 から 2000 キロ以 上 離 れ
ている」の形 成 に用 いられた「あるいは」は、新 しい述 語 を生 成 するための言 語 的 装 置 では
なく 、新 しい 選 言 文 を生 成 す るための 文 結 合 子 だと 理 解 した 方 が 誤 解 がない 。したがっ
て、問 題 の選 言 的 述 語 が存 在 するのは見 かけ上 だけのことであるから、ここから、その真 理
根 拠 である選 言 的 性 質 にまで遡 ることはできない。つまり一 言 でいえば、選 言 的 性 質 は存
在 しない。キムのうまい言 い方 をもじれば、チカがお昼 にハンバーガーかホットドックを食 べ
たのが本 当 だとしても、彼 女 が食 べたのはハンバーガーか、あるいはホットドックか、あるい
はその両 方 であって、決 して<ハンバーガーあるいはホットドック>という珍 奇 な選 言 的 ス
ナックではない。そのようなスナックは、<黒 あるいは赤 >という単 一 の色 と同 じように存 在
しない(Kim [1998], p.107)。
選 言 的 性 質 、より正 確 には、真 理 値 表 で定 義 されるような「古 典 論 理 」的 な(つまり、量
子 力 学 で用 いられるような非 古 典 的 なものではない)選 言 的 性 質 に反 対 する 3 つのより一
般 的 な議 論 が、アームストロングによって与 えられている(Armstrong [1978b], p20)。それ
によれば、第 一 に、選 言 的 性 質 は、原 理 「真 正 の性 質 は異 なった個 体 において同 一 であ
る」に反 する。まず、個 体 a は性 質 P をもつが Q をもたないのに対 し、b は逆 に P をもたな
いが Q をもつとせよ。ここから、a と b は両 者 ともに<P あるいは Q>という性 質 をもつからこ
の点 で同 一 だ、と結 論 するのはバカげている。第 二 に、もし a が P なら、「P」と任 意 の述 語
「φ」から生 成 される無 数 の述 語 「P あるいはφ」が a に当 てはまることがアプリオリに知 られ
る。このように、個 体 がどれくらいの数 の性 質 をもつかということ(この場 合 、少 なくとも述 語
の数 だけ多 くの性 質 をもつということ)が経 験 的 探 求 によらずにアプリオリに知 られるというこ
とは、逆 に、それらは真 正 の性 質 ではないということの証 明 になる。というのも、個 体 がどの
ような性 質 を、どれくらいもつかということは、経 験 的 探 求 によって決 定 されるべきだから・・
・。最 後 に、選 言 的 性 質 は、性 質 とそれのもつ因 果 的 力 のつながりを断 ち切 ってしまう。再
び、a は P をもつが Q はもたないとしよう。すると、述 語 「P あるいは Q」は a に当 てはまるが、
a が何 らかの因 果 的 作 用 を及 ぼすとき、a は<P>という性 質 をもつことによってのみその作
用 を及 ぼす。この場 合 、a がさらに<P あるいは Q>という性 質 をもつことは、a に因 果 的 力
を何 一 つ付 け加 えないだろう。したがって、これは、<P あるいは Q>という性 質 が真 正 の
性 質 ではないことを示 している。
選 言 性 という謎
本 論 文 の直 接 のテーマではないが、選 言 性 はいくつかの興 味 深 い哲 学 的 問 題 を生 じさ
せる(これにあまり興 味 のない方 は、このブロックの文 章 を飛 ばして読 まれたい)。例 えば、
その一 つは、知 識 の古 典 的 定 義 「正 当 化 された真 なる信 念 」に対 するゲティアの反 例 だ。
プラトン以 来 の古 典 的 定 義 では、ある人 が p を知 っているということは、p が真 であり、その
人 が p を信 じていて、なおかつ p を信 じる点 でその人 が正 当 化 されている(しかるべき根 拠
をもっている)ことが必 要 にして十 分 な条 件 である。そこで、ある人 が p(スミスの持 っている
- 2 -
車 はトヨタだ)を信 じるだけのきわめて強 い証 拠 を持 っているとすると、このとき、適 当 な言
明 q:「チカはいまバルセロナにいる」、r:「チカはいま上 海 にいる」、s:「チカはいまメルボル
ンにいる」を選 び、3 つの選 言 命 題 「p あるいは q」、「p あるいは r」、「p あるいは s」を作 るな
ら、その人 は、初 歩 的 な論 理 的 知 識 を持 っているという前 提 の下 で、この 3 つの命 題 のい
ずれをも信 じる点 で正 当 化 されている。ここまでは問 題 ない。さて、その人 は以 上 の 3 つの
選 言 命 題 を論 理 的 根 拠 から受 け入 れはするが、q、r、s のどれが真 であるかはまったく見
当 もつかないとしてみよう。しかし、このとき実 は、この人 はまったく知 らなかったのだが、実
はスミスはトヨタ車 を所 有 しておらず(p が偽 )、また、たまたまチカは現 在 メルボルンに住 ん
でいたとするなら(s が真 )、その人 は、第 三 の選 言 命 題 「p あるいは s」を知 るための定 義 を
満 たし、それゆえ、それを知 っていることになる。しかし、定 義 を満 たしているからといって、
「スミスの持 っている車 がトヨタか、あるいはチカがいまメルボルンにいる」ということをその人
が知 っている、というのは奇 妙 なことだろう。何 といっても、その人 はスミスの車 については
間 違 っていたし、チカの居 場 所 については見 当 もつかなかったのだから(Gettier [1963],
p.123.)。
N. グッドマンの有 名 な「帰 納 法 の新 たな謎 」もまた、選 言 性 にひっかかっている。述 語
「グリーン」と宝 石 のエメラルドを考 えてみよう。「このエメラルドはグリーンだ」という言 明 は、
「すべてのエメラルドはグリーンだ」という言 明 の信 頼 性 を高 める。つまり、前 者 は後 者 を確
証 するだろう。しかし、「この男 性 は『スターウォーズ』のダースベイダーが好 きだ」という言 明
は、そんな風 には、「すべての男 性 はダースベイダーが好 きだ」という言 明 を確 証 しない。す
べてのエメラルドがグリーンなのは法 則 的 なことだが、その男 性 がダースベイダーを好 きな
のは偶 然 的 なことにすぎないからだ。つまり、「すべてのエメラルドはグリーンだ」という言 明
は、どのエメラルドによっても確 証 されるからこそ、法 則 的 言 明 であるように思 われるのだ。と
ころが、ここでグッドマンは、「グリーン」に代 えて奇 怪 な述 語 「グルー」を新 たに登 場 させる。
「グルー」の適 用 条 件 は、「現 在 までに観 察 されていてグリーンであるか、あるいはいまだに
観 察 されずにいてブルーである」というものだ(注 2)。したがって、この人 工 的 な述 語 「グル
ー」の適 用 対 象 は、「すでに観 察 ずみのグリーンな事 物 と、まだ観 察 されていないブルーな
事 物 」 のす べ てで ある 。問 題 は、これま でに 観 察 され た 世 界 中 のす べ ての エ メラルドが 、
「すべてのエメラルドはグリーンだ」という言 明 とまったく同 様 に、「すべてのエメラルドはグル
ーだ」という言 明 をも確 証 してしまう、という点 にある。なぜこれが困 るのかといえば、ここか
ら、「すべてのエメラルドはグルー」なのだからまだ観 察 されていないエメラルドはすべてブ
ルーだ、と主 張 できるからである。しかし、エメラルドは、すでに観 察 されていようがいまいが
グリーンのはずだ。この帰 納 法 の新 たな謎 は、いまだ満 足 のいく形 ですっきりとは解 決 され
ていない(Goodman [1955], Ch.3)。
さらにもう一 つ、原 因 の選 言 性 に由 来 する心 的 表 象 の「選 言 問 題 」がある。話 の筋 はこう
だ。意 味 に関 するフォーダーのような自 然 主 義 によれば、語 の意 味 の裏 打 ちを与 えるのは
心 的 表 象 である。そして、心 的 表 象 の意 味 は、基 本 的 にはその特 定 の心 的 表 象 を引 き起
こす原 因 となる事 物 である。つまり、日 本 語 「猫 」の意 味 を支 えるのが心 的 表 象 《猫 》であ
り、その心 的 表 象 の意 味 はそれを引 き起 こす原 因 たる実 在 のその猫 だ、というわけだ。もし
この説 明 が意 味 の真 相 を捕 まえているなら、自 然 主 義 者 にとってこれほど望 ましいものは
ないかもしれない。というのも、これは、「猫 は猫 だから猫 と言 うんだ」という子 供 の言 い分 に
隠 された自 然 主 義 的 真 実 によって、意 味 を解 明 することにつながるからである。しかし、日
常 的 にもよく知 られているように、複 数 の異 なる原 因 が同 じタイプの結 果 を引 き起 こす、と
いうような事 例 は枚 挙 にいとまがない。つまり、海 岸 の太 陽 か、あるいは日 焼 けサロンの太
陽 灯 か、あるいは溶 鉱 炉 の炎 があなたの左 腕 に同 じ軽 い火 傷 の跡 を残 すように、裏 庭 の
猫 か、あるいは闇 夜 の子 犬 か、あるいは遠 目 に見 た子 豚 が同 じタイプの《猫 》表 象 をわれ
われの内 に引 き起 こす、といったことがあるだろう。その場 合 、《猫 》の意 味 は、その選 言 的
原 因 にしたがって、<裏 庭 の猫 か、あるいは闇 夜 の子 犬 か、あるいは遠 目 に見 た子 豚 >と
- 3 -
いう選 言 的 なものとなるだろう。しかし、さらに、表 象 者 と(猫 かもしれない)遠 位 的 原 因 の間
に適 当 な中 /近 位 的 攪 乱 要 因 (光 の加 減 や目 の錯 覚 、等 )が介 在 するなら、ほぼ無 数 の
任 意 の遠 位 的 原 因 がこの選 言 肢 の位 置 に来 るであろう。つまりその場 合 、表 象 《猫 》は、
無 数 の選 言 肢 を持 つ野 放 図 な選 言 <猫 かあるいは・・・>を意 味 することになる。これは、
表 象 の意 味 を絶 望 的 なまでに不 確 定 にするばかりでなく、賢 明 な読 者 ならお分 かりのよう
に、そもそも「表 象 の誤 り」というものが説 明 不 可 能 になる事 態 だ。したがって、これは、この
種 の意 味 の理 論 にとっては呪 うべき憂 鬱 の種 である(Fodor [1987], Ch.4)。
選 言 性 が、それ自 体 として、哲 学 的 に何 かまがまがしいものを内 に含 んでいるのかどうか
は私 には分 からない。また、この種 の哲 学 的 困 難 が、同 じ一 つの根 から生 じた本 質 的 に同
じ問 題 であるのかどうかも分 からない。もしかすると、世 界 の側 にある選 言 性 、ひょっとする
と形 而 上 学 的 な選 言 性 と、われわれの側 の志 向 性 とのズレがこの種 の問 題 を引 き起 こして
いるのかもしれないし、あるいは、われわれの認 知 メカニズムの影 が世 界 の側 に空 虚 な幻
影 を作 り出 しているだけなのかもしれない(またしても選 言 ?)。いずれにせよ、この問 題 は
また稿 を改 めて論 ずることにしよう。
機 能 的 性 質 と実 現 性 質
さて、われわれの問 題 に戻 ろう。選 言 的 性 質 といった存 在 論 的 問 題 が、なぜ心 の哲 学 に
関 係 するのか。それは、意 識 や感 覚 やクオリアといった心 的 現 象 の現 象 的 性 質 はともか
く、少 なくとも認 知 から行 動 にいたるまでの情 報 処 理 的 性 質 に関 しては、それを一 種 の機
能 的 性 質 と見 る機 能 主 義 が、いまのところただ一 つの有 望 な科 学 的 探 求 の道 だからであ
る。そしてさらになぜ、心 についての機 能 主 義 が選 言 的 性 質 と関 係 するのかと言 えば、まさ
に、機 能 主 義 の存 在 理 由 とでも言 うべき多 重 実 現 テーゼ(multiple realization)が、選 言
的 性 質 の存 在 を要 求 しているように見 えるからである。
このことを、簡 単 に確 認 しておこう。機 能 主 義 の主 張 を理 解 するには、何 らかの性 質 の
「本 質 」は何 か、と問 うのが一 番 いいかもしれない。例 えば、<水 である>という性 質 はその
ミクロ構 造 を本 質 とする、というのが一 般 的 な理 解 だろう。つまり、ある物 質 が<冷 たい>、
<透 明 だ>、<0℃で氷 る>といった、水 と同 じ現 象 的 ・表 面 的 性 質 をいかに持 とうとも、そ
の分 子 構 造 が H2O でないなら(必 要 条 件 の不 充 足 )、パトナムの有 名 な XYZ 物 質 のよう
に、それは水 ではない。他 方 、ガス状 の物 質 であれ何 であれ、それが H2O の分 子 構 造 をも
つなら(十 分 条 件 )、それは掛 け値 なしに水 (蒸 気 )なのである。それに対 し、あるものが<
貨 幣 である>かどうかは、そのミクロ構 造 にはほとんどまったく関 係 がない。<貨 幣 である>
という性 質 は、その一 万 円 札 が持 ついくつかの性 質 、例 えば<しかじかの色 と形 を持 つ紙
切 れである>、<造 幣 局 で印 刷 された>、<しかじかの検 査 をパスした>といった性 質 (/
関 係 的 性 質 )の束 が、<商 品 である>、<自 動 販 売 機 である>、<サイフである>といっ
たいくつかの性 質 に出 会 ったときに、<交 換 される>、<飲 み物 を出 させる>、<しまわれ
る>といった関 係 が出 現 するということ、つまり、それらの性 質 間 に成 り立 つ関 係 的 性 質 の
束 だということである。それは、<砂 糖 である>という性 質 と、<水 である>という性 質 との
間 に、<溶 ける>という関 係 的 性 質 が成 立 するのと基 本 的 に同 じことである。もっと、単 刀
直 入 にいえば、<ある色 と形 をした>紙 切 れが、コンビニという場 所 で、<商 品 である>何
かと<交 換 される>ということだ。このとき、<貨 幣 である>という性 質 は、<しかじかの色 と
形 を持 つ紙 切 れである>という性 質 が、ある状 況 (例 えばコンビニ)で、商 品 との交 換 という
ようなある役 割 、ふつうは因 果 的 な役 割 を果 たすということ、つまりある機 能 を果 たすという
ことにおいて成 り立 っているがゆえに、機 能 的 性 質 と呼 ばれる。
そうすると、ここからごく自 然 に出 てくる帰 結 の一 つに、問 題 の因 果 的 役 割 を演 じるもの
は、その素 材 やミクロ構 造 の点 では何 であってもかまわない、ということがある。つまり、さま
ざまに異 なる素 材 が同 じ因 果 的 役 役 割 を果 たすがゆえに、同 じ機 能 的 性 質 をもつ、という
わけだ。では、貨 幣 の場 合 はどうだろうか。<貨 幣 である>という性 質 は、一 万 円 札 によっ
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ても、最 近 の 500 円 硬 貨 によっても、またアメリカの 20 ドル札 によっても、はたまた古 代 のあ
る種 の貝 殻 によっても実 現 され、それらによって共 有 される。したがって、機 能 的 性 質 は一
般 には多 重 に実 現 されうる、しかも高 階 の性 質 である。なぜ高 階 かというと、個 体 を 1 階 の
レベル、個 体 が持 つふつうの性 質 を 2 階 のレベルと数 えると、機 能 的 性 質 は<性 質 が持
つ関 係 的 性 質 >なので、ふつうの性 質 よりもレベルが上 の 3 階 にあると見 なすことができる
からだ。
では、心 に関 する機 能 主 義 の主 張 とはなんなのか。この主 張 は、心 的 性 質 の多 くの部 分
が機 能 的 性 質 (/状 態 )に他 ならないというものだ。例 えば、痛 みは、大 まかに言 って、ある
刺 激 (S)が入 力 されたとき(指 にバラの棘 がささったとき)、それがシステムのその時 の内 部
状 態 (Mi)と相 互 作 用 し、システムは(ある確 率 にしたがって)新 たな内 部 状 態 (Mj)に移 行
し、同 時 にある行 動 (B)を出 力 する(棘 を抜 こうとする)。機 能 的 状 態 とは、Mi がシステムの
そのような因 果 過 程 の中 で、S,Mj,および B と相 互 作 用 しながら適 切 な因 果 的 役 割 を果
たす、ということによって実 現 される状 態 である。そして先 ほどの多 重 実 現 テーゼによれば、
この場 合 、たまたま<痛 み>の機 能 的 状 態 はヒトに固 有 の神 経 生 理 学 的 状 態 によって実
現 されているのだが、必 ずしもそうである必 要 はない。その因 果 的 役 割 は、タコやミミズに固
有 の神 経 生 理 学 的 状 態 によっても、またはるかな星 の上 で進 化 したエイリアンの何 らかの
身 体 状 態 によっても、また痛 みを感 ずるロボットの電 子 工 学 的 状 態 によっても実 現 されうる
だろう。機 能 主 義 を初 めて哲 学 の論 争 舞 台 に送 り出 したパトナムによれば、痛 みは、物 理
化 学 的 状 態 としての脳 の状 態 ではない。痛 みは、それとはまったく別 の種 類 の状 態 、つま
り「生 物 体 全 体 の機 能 的 状 態 」である(Putnam [1967], p.433. 注 3)。
例 えば<痛 み>が多 重 実 現 される高 階 の性 質 だ、ということをもう少 し見 やすい形 で言
い直 してみるなら、なぜ機 能 的 性 質 が選 言 的 性 質 だと言 われるのかが分 かりやすくなるだ
ろう。そこで、 x を心 的 状 態 をもつ任 意 の存 在 者 、M を<痛 み>という心 的 性 質 、Pn をそ
れを実 現 する何 らかの実 現 性 質 だとすると、M は P1 によって実 現 されるか、あるいは P2 に
よって実 現 されるか、あるいは・・・であり、また、P1 が出 現 するか、あるいは P2 が出 現 する
か、あるいは・・・であれば、M が実 現 される。つまり、心 的 性 質 は実 現 性 質 の選 言 によって
実 現 されるわけである。
(MR): Mx ⇔ (P1x∨P2x∨・・・∨Pnx)
機 能 的 性 質 と実 現 性 質 の関 係 を表 したフォーダーの図 (Fodor, [1974], p.128 を Ant
ony [2003], p.5 風 に改 作 したもの)
因果関係
M
N
実現関係
実現関係
P1 ∨ P2 ∨・・・∨ Pn
P1* ∨ P2* ∨・・・∨ Pn*
因果関係
- 5 -
すると、なんとも困 ったことに、ここにあからさまに現 れているように、<M>という性 質 は、
<P1、あるいは P2、あるいは・・・Pn>という選 言 的 性 質 に他 ならないように見 える。しかし
先 ほど見 たように、選 言 的 性 質 はその存 在 そのものが疑 われているのだった。となれば自
然 な成 りゆきとして、心 的 性 質 は機 能 的 性 質 として科 学 的 に解 明 されるどころか、その選
言 性 のゆえに、「一 つの性 質 としての<痛 み>などは存 在 しない」と宣 告 され、消 去 される
のではないか。不 吉 なことに、機 能 主 義 の創 始 者 パトナム自 身 が、<痛 み>の基 盤 状 態
の選 言 を単 一 の物 理 化 学 的 状 態 だとして再 定 義 するような還 元 主 義 者 に対 して、それは
真 剣 に考 慮 するには及 ばないアド・ホックな逃 げ口 上 だ、と一 蹴 しているのである(Putnam
[1967], p.437)。しかし、なぜ真 剣 な考 慮 に値 しないのか。もしその理 由 が「それは選 言 的
性 質 を意 味 するから」というものであるなら、性 質 <M>を機 能 的 性 質 と呼 ぼうと何 と呼 ぼう
と、(MR)が示 すように、<M>は実 現 性 質 の選 言 と外 延 が等 しいのだから、<M>もまた、
単 一 の一 人 前 の性 質 だという身 分 を剥 奪 されざるをえない運 命 にあるように思 われる。し
かも、この場 合 、選 言 肢 相 互 がヒトとロボットにおけるほど異 なっていることを考 えるなら、実
在 的 なのは、それぞれの選 言 肢 の方 であって、それらの選 言 によって作 られた<M>では
ない、ということになるだろう。われわれは単 なる選 言 化 の操 作 によって性 質 を新 たに作 り
出 すことなどできないのだから、その選 言 に対 応 するのは、<痛 み>という性 質 ではなく、
「痛 み」というただの述 語 にすぎない。
性 質 の存 在 論 がなぜ心 身 問 題 に関 わるのか、ということの答 えの一 つがこれである。もし
心 的 性 質 というものが機 能 的 性 質 という形 でであれ自 前 で存 在 しないとするなら、それに
ついての自 律 した科 学 、つまり心 理 学 は厳 密 には成 立 しないだろう。というのも、衆 目 のほ
ぼ一 致 するところ、科 学 は自 律 した本 物 の性 質 についての法 則 的 関 係 を探 求 するものだ
からである。
2. キムによる批 判 とキム的 還 元 主 義
選 言 的 性 質 に対 する以 上 のような論 点 をさらに強 力 に展 開 したキムは、ついに、純 粋 な
形 での多 重 実 現 テーゼを捨 て、また、かつて唱 えた心 的 性 質 と物 理 的 性 質 とのスーパー
ヴィーニエンス関 係 を不 満 足 とし、それらの同 一 性 を正 面 から主 張 するにいたった。これ
は、非 還 元 的 物 理 主 義 に対 するキムの粘 り強 い攻 撃 の一 つのをなすものであり、それによ
り、現 在 、新 たな還 元 主 義 の復 興 がもたらされたように思 われる(注 4)。それはまた、機 能
主 義 に対 するキムの意 図 せざる攻 撃 の完 成 でもあった。
さて、一 節 を丸 ごと使 った長 すぎる解 説 のあとで、ようやく本 稿 の目 的 を述 べることができ
る。本 稿 は、一 言 でいえば、キムのその新 還 元 主 義 に対 する<非 還 元 的 物 理 主 義 主 義 の
逆 襲 Revenge of Non-Reductive Physicalism>である。つまり、私 が本 稿 で求 める道 筋
は、再 び、心 的 性 質 の独 自 性 を認 めること、したがって、物 理 主 義 的 に擁 護 可 能 な仕 方
で非 還 元 主 義 を貫 くことだ。そのためには、選 言 性 と過 剰 決 定 に関 するキムの二 つの攻 撃
から逃 れなければならないが、あとで見 るように、性 質 を因 果 的 効 力 という概 念 で理 解 する
呪 縛 から解 放 されない限 り、それは完 全 には果 たされない。そこでまず(2 節 )、性 質 の選
言 性 に関 するキムの主 張 をたどり、その還 元 主 義 のたどりつく先 を明 らかにする。キムの還
元 主 義 は、結 局 、機 能 的 性 質 を一 人 前 の自 律 した性 質 としては認 めないがために、心 的
性 質 としての心 的 性 質 (mental property qua mental property)に因 果 的 効 力 を与 える、
という彼 の元 々の目 的 を達 成 しそこなっている。また、多 重 実 現 性 と性 質 の同 一 性 を和 解
させようとするキムの機 能 的 還 元 は、可 能 世 界 と(性 質 の)同 一 性 に関 する不 整 合 な議 論
となっており、成 功 していない。しかしまた(3 節 )、キムの批 判 を機 能 主 義 の側 から行 い、
機 能 的 性 質 を自 律 した性 質 として救 出 しようとした最 近 の試 み(クラップとアントニー)も、
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一 見 したほどには成 功 していない。というのも、機 能 的 性 質 の独 自 性 をそれぞれの実 現 性
質 の共 通 部 分 として確 保 する、という彼 らの戦 略 は、結 局 、関 係 的 性 質 であるはずの心 的
性 質 を実 現 性 質 の内 在 的 性 質 と同 一 とし、相 互 にワイルドに異 なっているはずの 1 階 の実
現 性 質 の各 々に同 じ心 的 性 質 の存 在 を要 請 する 、とい う混 乱 に 陥 っている からだ 。そ こ
で、最 後 に本 稿 が提 案 するのは、「性 質 の因 果 的 効 力 」という概 念 を実 質 的 に無 効 化 した
存 在 論 を探 すこと、そして心 的 性 質 のエピフェノメナリズムという考 えとうまくやっていく(to l
ive with)道 を探 すことである。
では、さっそく、還 元 主 義 へといたるキムのルートを要 約 風 にたどってみよう(Kim [1998],
Ch.4)。
K-1. ネーゲル的 還 元 に対 するキムの不 満
ネーゲル的 還 元 とは、還 元 される側 の理 論 の法 則 を、還 元 する側 の理 論 の法 則 から導
出 することであるが、その二 つをつなぐ橋 渡 し法 則 (bridge laws)は、しばしば、還 元 する理
論 の領 域 の述 語 (性 質 )と還 元 される理 論 の領 域 の述 語 (性 質 )が等 外 延 的 であること(M
⇔P)を要 求 し、したがって、それは双 条 件 法 の形 をすると言 われる。そこで、機 能 的 性 質 P
が Q1、Q2、・・・という低 次 の性 質 によって実 現 されるなら、P と対 応 させるべき単 一 の低 次
性 質 は存 在 しない。したがって、「P⇔Q」という形 の双 条 件 法 的 橋 渡 し法 則 も存 在 しない。
しかし、もし M が心 的 性 質 で、P1、P2、P3 によって、またそれらだけによって実 現 されるな
ら、その選 言 <P1∨P2∨P3>は M に対 応 する性 質 であるから、少 なくとも「M⇔(P1∨P2
∨P3)」は法 則 的 に必 然 的 である。
すると、橋 渡 し法 則 は、種 もしくは構 造 に特 定 的 なものとしてなら成 立 すると考 えることが
できる。例 えば、痛 みが人 間 の場 合 は P1 という神 経 生 理 学 的 状 態 によって、タコの場 合 は
P2 という神 経 生 理 学 的 状 態 によって実 現 されているなら、人 間 に相 対 化 された条 件 法 「H
→(痛 み⇔P1)」や、タコに相 対 化 された条 件 法 「O→(痛 み⇔P2)」は、少 なくとも法 則 的 に
必 然 的 である(H は<人 間 である>という性 質 、O は<タコである>という性 質 を表 す)。
しかし、ネーゲル的 還 元 に対 するキムの不 満 は、ここでまさに、クオリア、意 識 といった現
象 的 性 質 を物 理 的 世 界 の存 在 として回 収 できないのではないか、という物 理 主 義 者 の不
安 (説 明 と存 在 のギャップ)と重 なってますますふくれあがる。例 えば、C 繊 維 の発 火 が痛
みと対 応 するとして、なぜそうなのだろうか? C 繊 維 の発 火 に対 してなぜ痒 みや爽 快 感 で
はなく痛 みが対 応 するのかを、橋 渡 し法 則 はどうやって説 明 できるのか? そもそも C 繊 維
が発 火 すると、なぜ何 かを感 ずるのか? 心 的 性 質 の説 明 とはまさになぜ橋 渡 し法 則 が成
り立 つ のか とい うこと を与 え る べきものだ か ら、それを説 明 せ ずに 用 い るネー ゲ ル的 還 元
は、心 的 性 質 に対 するわれわれの理 解 を少 しも前 進 させない、とキムは考 える。つまり、ネ
ーゲル的 還 元 に現 れる橋 渡 し法 則 「M⇔P」は、たかだか偶 然 的 な法 則 であるがゆえに、す
なわちある範 囲 の可 能 世 界 でしか成 立 しないがゆえに、概 念 「P」と「M」は別 々のものとし
て存 続 する。したがって、概 念 的 単 純 化 は達 成 されない。また、同 様 に、性 質 P と M も別
々のものとして存 続 するので、存 在 論 的 単 純 化 も達 成 されない。
K-2.機 能 的 還 元
しかし、以 上 の難 点 は、M=P であればすべてきれいに解 消 する。その場 合 、「M」と「P」の
いずれもがクリプキのいう固 定 指 示 詞 なら、つまりあらゆる可 能 世 界 で同 一 の性 質 を指 示
するなら、「M=P」は端 的 に必 然 的 であるから、「M⇔P」もその同 一 性 に由 来 するものとし
て説 明 され、偶 然 的 でなく必 然 的 となる。つまり、キムにとって果 たすべきは、「M⇔P」から
「M=P」への還 元 関 係 のジャンプである。さて、キムの提 唱 する機 能 的 還 元 においては、M
はその因 果 的 役 割 によって定 義 される 2 階 の関 係 的 性 質 だと解 釈 される。つまり、その典
型 的 な原 因 と結 果 を記 述 する因 果 的 特 定 化 H によって、M は定 義 される。したがって「M」
は、H を満 たす性 質 を指 示 する確 定 記 述 句 、つまり非 固 定 指 示 詞 の一 種 である。さてそこ
で、P がその H に合 致 する性 質 だとせよ。すると、「M=<P をもつ>という性 質 」である。と
ころが一 般 に、「<Q をもつ>という性 質 =Q」なのだから、「M=P」が帰 結 する。逆 に言 え
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ば、M と P の両 方 ともがこうした関 係 的 性 質 ではなく別 個 の 1 階 の内 在 的 性 質 であり、それ
らを対 応 づける橋 渡 し法 則 が偶 然 的 なら、M と P の同 一 性 を主 張 する望 みはなかったであ
ろう。
ここでは、還 元 される性 質 の機 能 化 がポイントである。というのも、いま見 たように、もし M
も P も互 いに独 立 した異 なる内 在 的 性 質 であるなら、「M⇔P」の「⇔」を「=」に代 えることは
問 題 外 であるし、両 者 の対 応 関 係 は、もはや説 明 不 可 能 な生 の事 実 であらざるをえない
からだ。Mを機 能 化 することは、「M」を非 固 定 指 示 詞 化 することである。M は、他 の性 質 と
の因 果 的 /法 則 的 関 係 によって定 義 される。しかしこの関 係 はその可 能 世 界 で成 立 して
いる法 則 に依 存 しているから、ある性 質 が M の定 義 的 な特 定 化 H を満 たすかどうか、つま
り実 現 関 係 は可 能 世 界 ごとに変 わりうる。したがって、「M=P」の同 一 性 は掛 け値 なしの必
然 性 ではなく、偶 然 的 なものになる。しかしそれは同 時 に、法 則 的 必 然 性 はもつ。すると、
問 題 は高 次 性 質 の機 能 化 可 能 性 である。もし心 的 性 質 のすべてが機 能 的 性 質 だと言 え
るなら、心 身 の還 元 は原 理 的 に可 能 である。心 的 性 質 の機 能 主 義 化 は、心 身 の還 元 にと
っての必 要 十 分 条 件 である。
K-3. 機 能 的 性 質 から機 能 的 概 念 へ(M の分 解 )
しかし、とキムは自 問 する。機 能 的 性 質 M がその実 現 性 質 P と同 一 であるということは、
M が 2 階 の性 質 (外 在 的 /関 係 的 性 質 )であり、P が 1 階 の性 質 (内 在 的 性 質 )であるの
なら、いかにして可 能 なのか? ある対 象 が性 質 M をもつということは、性 質 P1 か P2 か P3
をもつことだとしよう。すると確 かに、それは 3 つの性 質 のいずれかをもっている、という選 言
的 命 題 、もしくは選 言 的 事 実 が成 立 していることになろう。しかしだからといって、M を一 つ
の一 人 前 の性 質 だと考 える必 要 はない。また、3 つの選 言 肢 的 性 質 から成 る一 つの選 言
的 性 質 だと考 える必 要 もない。
(スミス、メイ、ワンのうちの)誰 かがジョーンズを殺 した。その誰 かは、スミス、メイ、ワンの他
のもう一 人 の人 物 でもないし、スミス-メイ-ワンという選 言 的 人 物 でもない。この事 情 は性 質
に関 しても同 じである。したがって、「2 階 の性 質 」というよりも、「2 階 の記 述 」、「2 階 の性 質
指 示 詞 designator」、「2 階 の概 念 」という方 が適 切 である。「M をもつこと=P1 あるいは P2
をもつこと」だったとしても、「M をもつこと=<P1∨P2>という選 言 的 性 質 をもつこと」という
のは導 かれない。この「V(あるいは)」は、選 言 文 の省 略 を意 味 するのであって、述 語 形 成
句 ではない。したがって、2 階 の機 能 的 性 質 を選 言 的 性 質 と考 えべきではなく、機 能 的 概
念 と考 えるべきなのだ。
しかし、そうすると、選 言 的 述 語 、選 言 的 性 質 、選 言 的 説 明 をどう考 えるべきだろうか。例
えば、「痛 風 は足 首 に痛 みをもたらす。関 節 炎 も足 首 に痛 みをもたらす。マリーは痛 風 か関
節 炎 かいずれかを患 っている。それゆえ、マリーは足 首 が痛 い。」しかし、これでは、ある意
味 において説 明 は完 了 していない。ここにあるのは二 つの説 明 の選 言 であって、一 つの選
言 的 説 明 ではない。この場 合 、二 つの説 明 のうち一 つは正 しくて一 つは間 違 っているが、
われわれにはそれが分 からないだけなのだ。
(D):痛 風 か関 節 炎 に罹 っている患 者 はすべて足 首 に痛 みをもつ。
この「選 言 的 法 則 」を検 証 する場 合 を考 えよう。これまでの確 証 事 例 (例 えば、100 万 ケ
ース)はすべて痛 風 患 者 のものであったとしよう。そして、関 節 炎 患 者 の確 証 事 例 はないと
しよう。このような場 合 、(D)が検 証 されたと言 うべきではない。というのも、(D)は次 の D1 およ
び D2 の連 言 「D1&D2」と論 理 的 に等 値 であり、この場 合 の確 証 事 例 は D2 にはまったく
関 係 がないからである。
D1:痛 風 に罹 っている患 者 はすべて足 首 に痛 みをもつ。
D2:関 節 炎 に罹 っている患 者 はすべて足 首 に痛 みをもつ。
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つまり、もしこの場 合 の事 例 が(D)を確 証 したとするなら、(D)は D1 と D2 の連 言 と論 理 的 に
等 値 なのだから、それが含 意 する D2 をも確 証 したことになるだろう。しかし、それは明 らか
に不 合 理 である。したがって、(D)の前 件 に登 場 する選 言 的 性 質 は、グッドマンのいう意 味
で投 射 可 能 でもなければ、法 則 的 種 をなすのでもない。ここで投 射 不 可 能 とは、選 言 的 性
質 <カラスあるいは机 である>をもつある個 体 群 (カラス)から別 の個 体 群 (机 )へと、前 者
の も つ 別 の 自 然 な性 質 < 黒 い > を一 般 に は推 論 で き ない と い うこと だ 。した が って、( D )
は、選 言 的 な前 件 をもつ一 つの法 則 なのではなく、二 つの法 則 の連 言 と考 えるべきであ
る。
結 局 、多 重 実 現 可 能 な性 質 M は、その実 現 性 質 P1、P2 などが互 いに異 質 (heteroge
neous)な種 なのだから、因 果 的 、法 則 的 に異 質 であり、したがって投 射 不 可 能 であるがゆ
えに、因 果 的 説 明 に用 いることはできない。M がもつ因 果 的 効 力 は、それぞれの場 合 の実
現 性 質 の各 々がもつ因 果 的 効 力 に等 しく、それゆえ、M のそれぞれの事 例 が果 たすすべ
ての 因 果 的 仕 事 は、実 は、それぞれの実 現 性 質 P1 、P2 、・・ ・がなしているのだから、M
は、それぞれの場 合 の実 現 性 質 に分 解 されるべきだろう。たとえ、M 自 身 の存 在 が概 念
的 、認 識 的 、もしくは日 常 的 には必 要 なのだとしても・・・。最 終 的 に、心 的 性 質 M は、種
や構 造 に相 対 的 に物 理 的 性 質 Pi によって実 現 され、しかも可 能 世 界 によって Pi が異 なる
こともありうる。したがって、M は、ある可 能 世 界 のある種 もしくはある構 造 において Pi と同 一
であ る 、と しか 言 いえ ない。しか しその 限 りで なら、心 的 性 質 はその実 現 性 質 と 同 一 であ
る。したがって、機 能 的 還 元 によっては、心 的 性 質 の一 般 的 同 一 性 までは主 張 できない。
キム的 還 元 ・・・多 重 実 現 と同 一 性 の幻 想
以 上 が、キムの還 元 主 義 の道 筋 である。さてそこで、キムの議 論 によれば、多 重 実 現 され
た機 能 的 性 質 としての心 的 性 質 そのものはどうなっただろうか? 一 言 でいえば、プランテ
ィンガの言 うように、あらゆる心 的 性 質 (例 えば、<地 球 は丸 いという信 念 をもつ>という性
質 )は因 果 的 効 力 をもたないということが帰 結 する。なぜか。キム自 身 が先 に示 唆 していた
ように、もはや一 人 前 の性 質 としての心 的 性 質 は存 在 せず、その代 わりに心 的 概 念 、もしく
は心 的 記 述 が存 在 するが、何 かが因 果 的 効 力 をもつのは、それが概 念 や記 述 を満 足 する
からではなく、性 質 を持 つことによって(in virtue of having properties)のみだからである
(Plantinga [2004], p.613)。
しかし、なぜこういうことになるのだろうか。まず、K-1 で述 べられた「H→(痛 み⇔P1)」とい
う主 張 と、K-3 におけるキム的 還 元 、つまり「H→(痛 み=P1) in Wn」(Wn は特 定 の可 能
世 界 )という主 張 は意 味 が異 なる。もしここでもなお<痛 み>が一 つの性 質 なら、これが、
可 能 世 界 W ごとに成 立 する「痛 みと P1 との同 一 性 」を意 味 することはできない。なぜなら、
同 一 性 は、もし成 立 するなら、端 的 に(simpliciter)あらゆる可 能 世 界 に渡 って成 立 する形
而 上 学 的 必 然 性 を持 つからである。つまり、各 可 能 世 界 ごと、および各 種 ・各 構 造 ごとの
キム的 還 元 は、実 は、同 一 性 の必 然 性 のゆえに成 り立 たない。なぜなら、もしどこかで「痛
み=P1」なら、あらゆる可 能 世 界 のあらゆる種 において、「痛 み=P1」だからだ。ということ
は、さらにもし別 の可 能 世 界 の別 の種 においては「痛 み=P2」であるなら、同 一 性 のもつ推
移 性 に よ り「 P 1= P 2 」になる が 、これ は痛 みが 多 重 実 現 す る 性 質 だと い うこと と 相 容 れ な
い。他 方 、もし他 の実 現 性 質 P2, P3,・・・はいずれも P1 と同 一 でないと主 張 したいなら(多
重 実 現 性 ) 、「 痛 み=P1」 なのだから、もはやそれらは痛 みではないと言 わざるをえなくな
る。それゆえ、キム的 還 元 によれば、<多 重 実 現 される限 りでの痛 み>は、もはや一 つの
性 質 とは言 えなくなるだろう。したがって、もちろん,その限 りでの痛 みは痛 みのゆえに(in v
irtue of being pain)何 かを引 き起 こすことはない。つまり、因 果 的 効 力 をもつことはない。
それゆえ、キム的 還 元 では、機 能 的 性 質 がもはや性 質 としての地 位 を剥 奪 され、例 えば
<痛 み>が「記 述 」、「性 質 指 示 詞 」、「概 念 」にすぎなくなるのは不 可 避 的 なのである。そ
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れでも確 かに、P1, P2, ・・・の各 々は機 能 的 記 述 、あるいは機 能 的 概 念 を満 足 し、その
限 りで、それぞれの可 能 世 界 で<痛 み>の機 能 を果 たしていることになる。しかし、その概
念 /記 述 による説 明 、「このミミズは痛 みのせいで身 をくねらせている」は、K-3 の「痛 風 あ
るいは関 節 炎 」の場 合 を思 い出 してほしいのだが、一 つの真 正 な因 果 的 説 明 ではない。な
ぜなら、因 果 的 説 明 をなしうるのは<痛 風 である>もしくは<関 節 炎 である>という一 人 前
の自 然 な性 質 であって、<痛 風 あるいは関 節 炎 である>というような選 言 的 性 質 ではなか
ったからだ(そんな選 言 的 性 質 はそもそも存 在 しない)。それゆえ、<痛 み>も一 つの自 然
な(法 則 的 )性 質 ではなく(それゆえ投 射 可 能 でなく)、せいぜいが異 質 な複 数 の性 質 を一
括 りにした概 念 や記 述 にすぎないがゆえに、ここにあるのは、P1, P2・・・といった異 なる実
現 性 質 によるいくつもの異 なった説 明 である。したがって、正 確 な因 果 的 説 明 としては、痛
みのせいではなく(そんな性 質 は存 在 しない)、「ミミズは P3 のせいで身 をくねらせている」、
ということになるだろう。しかし、それはとりもなおさず、心 的 性 質 M が心 的 性 質 としては(qu
a menatl property)因 果 的 説 明 を構 成 しえないということ、つまり因 果 的 効 力 をもたないこ
とを意 味 する。
それに対 し、キムは心 的 性 質 をすべて消 去 したのではなく、それを分 解 し、その実 現 性
質 P1、P2・・・のそれぞれを心 的 性 質 として確 保 したのだ、という反 論 があろう(実 際 、私 の
友 人 の一 人 は私 信 でそう述 べた)。したがって、心 的 記 述 M による因 果 的 説 明 は、確 かに
心 的 性 質 M による真 正 の因 果 的 説 明 ではないが、それぞれの(物 理 的 性 質 に還 元 され
た)心 的 性 質 による複 数 の真 正 な因 果 的 説 明 の集 まりであるのだ、と。
しかし、この反 論 は、心 的 性 質 の還 元 が可 能 であるのは、それがある機 能 的 役 割 、つまり
関 係 的 役 割 を果 たす限 りでのことだ、というキム的 還 元 の本 質 を見 逃 していると思 われる。
つまり、それぞれの実 現 性 質 P1、P2・・・が現 実 世 界 でそれぞれ別 個 の心 的 性 質 (Mp1、M
p2・・・)だとしても、それらは、可 能 世 界 相 対 的 にしか問 題 の機 能 的 役 割 を果 たさないが
ゆえに、別 の可 能 世 界 ではもはやそうした心 的 性 質 (Mp1、Mp2・・・)ではなく、それゆえ心
的 記 述 による真 正 の因 果 的 説 明 も構 成 しないのである。それをもう少 し詳 しく見 てみよう。
痛 みといった心 的 性 質 <M>が心 的 性 質 だとされるのは、それがある機 能 的 役 割 を果 た
すからであった。しかし、その機 能 (記 述 )を満 足 する実 現 性 質 (1 階 の内 在 的 性 質 )は、
可 能 世 界 によって異 なっているだろう。例 えば、その機 能 (記 述 )「M」を現 実 世 界 で満 足
する実 現 性 質 は<P>、<Q>、<R>だが、別 の可 能 世 界 W1では、別 の性 質 <S>、<
T>であるかもしれない(例 えば、その世 界 の他 の性 質 や自 然 法 則 が現 実 世 界 と異 なるゆ
えに)。すると、性 質 <P>や<Q>は、正 確 には現 実 世 界 で<M>ではなく、分 解 された
相 異 なる心 的 性 質 <Mp>や<Mq>だと主 張 したとしても、世 界 W1 においては、問 題 の
機 能 を満 足 しないのでそもそも心 的 性 質 ではなく、それゆえ<Mp>、<Mq>でもない。こ
れは、先 にも見 たように、キム的 還 元 がネーゲル的 還 元 ではなく、まさに端 的 な同 一 性 を
打 ち立 てるものであったなら、ありえないことだろう。というのも、その場 合 にはあらゆる可 能
世 界 で、<P>=<Mp>だからである。それゆえ、キム的 還 元 が、実 現 性 質 のそれぞれを
細 分 化 された心 的 性 質 として確 保 するというのは、大 げさな誤 解 である。なぜなら、実 現 性
質 の各 々が別 個 の心 的 性 質 である、というときの「である」が同 一 性 「=」を意 味 しないのだ
としたら、キム的 還 元 は端 的 に成 就 されていないからである。したがって、われわれが先 ほ
ど心 的 性 質 <M>について確 認 した論 点 が、再 び、細 分 化 された心 的 性 質 と称 される<
Mp>や<Mq>に当 てはまる。くどいかもしれないが、これを性 質 <p>から述 べ直 してみよ
う。そもそも実 現 性 質 <P>とは何 であったか。<P>は、例 えば夏 目 漱 石 があらゆる可 能
世 界 で夏 目 漱 石 という個 体 であるのと同 じく、あらゆる可 能 世 界 で物 理 的 性 質 <P>以 外
の何 ものでもない。したがって、ここで再 び、心 的 性 質 <Mp>であることは物 理 的 性 質 <P
>の偶 然 的 性 質 に他 ならず、キムの意 に反 して、両 者 はネーゲル的 な法 則 的 関 係 で結 ば
れる他 はないのである。
さて、では、細 分 化 された心 的 性 質 <Mp>による因 果 的 説 明 はどうなるだろうか。キム
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は、因 果 的 説 明 と性 質 との関 係 を次 の(S1)によって捉 えている、と考 えられる。
S1: 「M」という記 述 による説 明 が本 物 の因 果 的 説 明 である ⇔ 記 述 「P」は自 然 な(選
言 的 でない)性 質 <M>を指 示 する(選 び出 す)
しかし、ここで性 質 の同 一 性 の根 拠 は、それがもつ因 果 的 効 力 だと考 えられているので
(S2)、以 下 の(S3)が因 果 的 説 明 の存 在 論 的 な根 拠 となろう。
S2: 性 質 <M>が自 然 な( 選 言 的 でない)性 質 である ⇔ 性 質 <M>はそれ固 有 の
(選 言 的 でない)因 果 的 効 力 【p】をもつ
S3: 「M」という記 述 による説 明 が本 物 の因 果 的 説 明 である ⇔ 記 述 「M」は(選 言 的 で
ない)因 果 的 効 力 【p】を指 示 する(選 び出 す)
もともとの問 題 は、例 えば心 的 記 述 「痛 み」が選 び出 す実 現 性 質 は、どうしようもなく選 言
的 だということだった。それゆえ、心 的 記 述 「M」による因 果 的 説 明 一 般 は、本 物 の因 果 的
説 明 ではない。例 えば、「このミミズは痛 みのせいで身 をくねらせている」も、「このマゼラン
星 人 は痛 みのせいで身 をくねらせている」も、このままでは真 正 の因 果 的 説 明 ではない。
むしろ、それらが真 正 の因 果 的 説 明 を構 成 するためには、それぞれの実 現 性 質 に対 応 す
る何 らかの記 述 「Q」、「R」による説 明 に分 解 されるべきであった。したがって、この場 合 の
因 果 的 説 明 は、「このミミズは Q のせいで身 をくねらせている」や、「このマゼラン星 人 は R
のせいで身 をくねらせている」ということになるだろう。そこで、新 たな問 題 は、これらの説 明
が本 物 の因 果 的 説 明 だとしても、両 者 ともになお心 的 記 述 による因 果 的 説 明 なのか、とい
うことだ。
これらの心 的 記 述 が真 正 の因 果 的 説 明 を構 成 するには、それらが心 的 性 質 によって裏
打 ちされていなければならない(S1)。先 の反 論 では、それらはそれぞれ、細 分 化 された心
的 性 質 <Mq>や<Mr>であった。とすれば、それらは、それぞれ因 果 的 説 明 の根 拠 であ
る因 果 的 効 力 【Mq】や【Mr】を持 たねばならない(S3)。しかし、これらの因 果 的 効 力 は、性
質 <Q>や<R>の本 来 の因 果 的 効 力 なのだろうか。ここで、先 の可 能 世 界 W1 を思 い出
してみよう。そこでも性 質 <Q>や<R>は存 在 するが、機 能 的 記 述 「M」を満 たさないがゆ
えに、それらは心 的 性 質 ではなかった。しかし、それらもまた世 界 W1 で、何 らかの結 果 を
引 き起 こし、したがって何 らかの真 正 の因 果 的 説 明 を構 成 するだろう。その場 合 、それらの
説 明 が物 理 的 性 質 <Q>や<R>による因 果 的 説 明 だということは明 白 であり。その因 果
的 説 明 の根 拠 は、それらの本 来 の因 果 的 効 力 【q】や【r】である。「本 来 の」という意 味 は、
性 質 <Q>や<R>は現 実 世 界 でも実 現 性 質 <Q>や<R>であることからも分 かるよう
に、あらゆる可 能 世 界 で同 一 であり、そうである以 上 、それらの因 果 的 効 力 【q】や【r】もあら
ゆる可 能 世 界 で同 一 だ(S2)、ということである。つまり、この観 点 からすると、物 理 的 性 質 と
しての因 果 的 効 力 【q】や【r】は、心 的 性 質 としての因 果 的 効 力 【Mq】や【Mr】に存 在 論 的
に優 先 する。
しかし、性 質 <Q>や<R>が現 実 世 界 では物 理 的 性 質 としてではなく、心 的 性 質 として
因 果 的 説 明 を構 成 しているというなら、その根 拠 【Mp】や【Mq】は、物 理 的 性 質 <Q>や<
R>の因 果 的 効 力 【q】や【r】以 上 の(/以 外 の)何 かでなければならない。しかし、キムの
重 要 な論 点 の一 つによれば、心 的 性 質 は、それがたとえ高 階 の性 質 であろうと実 現 性 質
の因 果 的 効 力 を越 える効 力 を何 一 つもつわけではない、ということであった。したがって、
あらゆる可 能 世 界 において【Mq】=【q】であり、また【Mr】=【r】である。そうである以 上 、性
質 <Q>や<R>の現 実 世 界 での記 述 「Q」や「R」がいかなるものであろうと、それらを用 い
た説 明 は、心 的 記 述 による真 正 の因 果 的 説 明 ではありえない。なぜなら、性 質 の因 果 的
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効 力 というモデルに従 う限 り、因 果 的 効 力 の同 一 性 ゆえに、実 現 性 質 <Q>や<R>が現
実 世 界 では心 的 性 質 <Mq>や<Mr>として、しかし他 の可 能 世 界 では物 理 的 性 質 <Q
>や<R>として、という具 合 に、都 合 よく分 かれて因 果 的 説 明 を構 成 することはできない
からである。
ここには、性 質 の様 相 的 同 一 性 に関 するキムの誤 解 があるように思 われる。夏 目 漱 石 が
どこかの可 能 世 界 で<警 察 官 である>ゆえに誰 かを逮 捕 するとき、明 らかにそれは<小 説
家 である>ゆえにではない。このとき、すべての可 能 世 界 において同 一 なのは、夏 目 漱 石
という個 体 である。しかし、「誰 かの逮 捕 」という因 果 的 出 来 事 を説 明 するのは、あらゆる可
能 世 界 で同 一 であるその個 体 (夏 目 漱 石 )ではなく、その個 体 がその世 界 でもつ<警 察
官 である >とい う性 質 だ。そ こで 、個 体 と性 質 のレベ ルを一 段 ず らして考 えれ ば 、明 らか
に、ミミズやマゼラン星 人 の身 のよじりを心 的 因 果 として説 明 するのは、あらゆる可 能 世 界
で同 一 の性 質 <Q>や<R>ではなく、それらが現 実 世 界 でもつ<痛 み>という性 質 であ
る。したがって、<痛 み>は、<Q>や<R>といった 1 階 の物 理 的 性 質 と同 一 なのではな
く、それらが可 能 世 界 ごとにもったりもたなかったりする 2 階 の性 質 なのであるから、逆 に<
Q>や<R>が因 果 的 説 明 を行 うとき、それは、それらの性 質 が特 定 の可 能 世 界 でのみ持
つ<痛 み>という性 質 としてではないことになる。キムのように機 能 的 性 質 と実 現 性 質 を同
一 とするなら、現 実 世 界 では、機 能 的 性 質 が担 うその性 質 ゆえの因 果 的 説 明 が失 われ、
別 の可 能 世 界 では、当 の機 能 を果 たさないにもかかわらずその実 現 性 質 を機 能 的 性 質 だ
といわねばならなくなる。以 上 はすべて、性 質 に関 するキムの中 途 半 端 な同 一 性 の主 張 の
結 果 である。
かくして、キム的 還 元 は、心 的 性 質 としての心 的 性 質 に因 果 的 効 力 を与 えることに失 敗
した、と言 わざるをえない。デイヴィドソンの非 法 則 的 一 元 論 に対 するキムの批 判 がまさに、
心 的 性 質 の因 果 的 無 効 力 であったことを考 えると、これはきわめて皮 肉 な結 末 である(注
5)。とくに、可 能 世 界 と種 に相 対 的 な性 質 の同 一 性 というキム的 還 元 は、一 方 では機 能
的 (心 的 )性 質 の多 重 実 現 性 を尊 重 し、他 方 では物 理 的 性 質 への還 元 (性 質 の同 一 化 )
をめざすという野 心 的 な試 みであったが、結 局 は混 乱 した妥 協 しか残 さなかったように思 わ
れる。やはり、われわれは何 かを捨 てなければならない。
3. 因 果 的 効 力 という神 話
機 能 的 性 質 の救 出
キム的 還 元 は、いま見 たように、多 重 実 現 の承 認 と徹 底 した還 元 的 同 一 化 のはざまで不
安 定 な状 態 にある。この不 安 定 から脱 出 する道 は、非 還 元 的 な機 能 的 性 質 を認 める方 向
か、あるいは多 重 実 現 性 のアイデアを捨 てて心 的 性 質 と物 理 的 性 質 の端 的 な同 一 性 を
主 張 するか、のいずれかしか道 はないように思 われる。本 稿 では扱 えないが、後 者 の道 とし
ては、ヘイルやロブらのトロープ論 者 のように、ある意 味 でキムの「分 解 された心 的 性 質 」を
額 面 通 りに受 け取 り、心 的 性 質 と物 理 的 性 質 の同 一 性 を、個 体 的 存 在 としての性 質 (トロ
ープ)同 士 の同 一 性 として主 張 することができるだろう(Cf. Heil & Robb [2003])。これ
は、機 能 主 義 のアイデアをそっくりすべて捨 てるだけでなく、普 遍 的 な存 在 としての心 的 性
質 も諦 めるという代 償 は払 うものの、タイプ同 一 説 の破 綻 の後 になお還 元 主 義 者 が取 りう
る一 つの道 であろう(注 6)。
それに対 し、私 は前 者 の道 、つまり多 重 実 現 する非 還 元 的 な性 質 の存 在 を擁 護 したい。
そのための議 論 は、クラップやアントニーらの方 向 にある。しかし、私 が彼 らの議 論 の先 に
求 めたいのは、選 言 的 性 質 と同 一 でない、高 階 の性 質 としての機 能 的 性 質 /心 的 性 質
の存 在 である。そしてそれを正 面 から求 めることは、性 質 の因 果 的 効 力 という神 話 を捨 てる
ことでもある。
まず、クラップとアントニーの議 論 を見 ておこう。一 般 的 には、選 言 的 性 質 はナンセンスで
- 12 -
ある。キムの例 にあるとおり、だれも、<ハンバーガーもしくはピザ>といった新 種 のスナック
を食 べられない。だから、性 質 を表 すいくつかの述 語 を選 言 で結 ぶことは簡 単 だが、それ
が真 正 の性 質 を指 示 する保 証 はない。しかし、すでに存 在 している自 律 した性 質 を後 で選
言 化 して一 つの性 質 に仕 立 て上 げるのはできないとしても、すでに存 在 している性 質 が、
何 らかの理 由 から、いくつかの述 語 によって選 言 的 に(バラバラに)指 示 される方 が一 般 的
だということはあるだろう。例 えば、もともと真 正 の性 質 であった多 重 実 現 性 質 が、われわれ
の認 識 の制 約 上 、それを指 示 する述 語 を持 ちにくいか、あるいは持 っていてもあまり用 いら
れないといった理 由 で、その選 言 肢 の述 語 に対 応 する性 質 群 の方 が自 然 な真 正 の性 質
だと認 められることはあるだろう。その場 合 、元 々の性 質 を表 す<実 現 性 質 の選 言 >は、
一 見 してたやすくアームストロングやキムの議 論 の餌 食 にされてしまうに違 いない。
クラップが提 出 するそのような例 は、<色 がついている being colored>という性 質 であ
る(Clapp [2001], p.125)。クラップは、冒 頭 で紹 介 したアームストロングの批 判 に対 し、す
べての選 言 的 な述 語 が性 質 を指 示 するわけではない、ということからは、いかなる選 言 的
な述 語 も性 質 を指 示 しない、ということは出 てこない、と主 張 する。例 えば、「青 であるか赤
であるか緑 であるか・・・である」という(たぶん、無 限 の選 言 肢 をもつ)述 語 は、アームストロ
ングの例 の「カラスであるか椅 子 であるかである」という述 語 と異 なり、真 正 の性 質 を表 す。
それは<色 がついている>という性 質 だ。この場 合 、<青 である>や<赤 である>という性
質 は、互 いに<色 がついている>という点 において同 一 であり、それらは、事 物 に<色 が
ついている>一 つのあり方 である。つまり、もしある事 物 に<色 がついている>なら、それは
「青 であるか赤 であるか緑 であるか・・・である」他 はなく、逆 もまた成 り立 つ。言 いかえると、
<青 である>という性 質 は、<色 がついている>という性 質 を実 現 しているのだ。これをクラ
ップは、選 言 肢 となる各 性 質 が、ある共 通 の性 質 Rの上 にオーバーラップしている、と表 現
する。「選 言 的 述 語 の選 言 肢 がオーバーラップしていると言 えるのは、選 言 肢 のどれかを
満 足 するどの可 能 な対 象 (あるいは出 来 事 )もRを例 化 しなければならない、というようなそ
うした何 らかの性 質 Rが存 在 する場 合 であり、その場 合 に限 られる」(ibid., p.126)。ここ
で、Rが心 的 性 質 に見 立 てられているのは明 らかだろう。
さて、もう一 つ、アントニーの例 。ドイツ語 では、性 別 に関 係 なしに家 畜 牛 を指 示 したいと
きは、「kuh」という語 を用 いる。それに対 し、英 語 でそれを言 おうとすると、「cow or bull」
(雌 牛 あるいは雄 牛 )であるという言 い方 をせざるをえない。しかし、「kuh」が表 す性 質 は真
正 であるが、「cow or bull」が表 す性 質 はまがいだ、ということはない。両 者 ともに、<家 畜
牛 である>という性 質 、<being a member of Bovinae Bos taurus>という性 質 を表 して
いる。その証 拠 に、「kuh」の外 延 上 に投 射 可 能 ないかなる性 質 も、「cow or bull」の外 延
上 に投 射 可 能 である。キムの論 点 をお返 しするなら、語 彙 的 に単 一 の名 前 をでっち上 げる
ことによって、それが表 す非 法 則 的 な性 質 を法 則 的 な性 質 に変 更 することができないよう
に、法 則 的 な性 質 を選 言 的 に名 指 すからといって、それが非 法 則 的 な性 質 に変 わるわけ
ではないのだ(Antony [2003], p.9-10)。
しかし、こうして多 重 実 現 する機 能 的 性 質 の存 在 を救 い出 したなら、再 び、過 剰 決 定 と
因 果 的 排 除 の問 題 が襲 いかかってくるだろう。つまり、機 能 的 性 質 が独 自 に存 在 するな
ら、それが因 果 的 出 来 事 に関 与 すると言 われるとき、本 当 は、機 能 的 性 質 とその実 現 性
質 のどちらか一 つだけが、因 果 的 効 力 をふるっているのでなければならない。この問 題 へ
の対 処 の地 点 から私 はクラップやアントニーと袂 を分 かつが、ともかく、クラップの解 決 はこ
うだ。まずクラップは、一 般 に、性 質 の同 一 性 は単 一 の因 果 的 効 力 ではなく、因 果 的 効 力
の集 合 によって与 えられると考 える。すると、ここがクラップの解 決 のミソなのだが、各 性 質
に対 応 する因 果 的 効 力 の間 に共 通 の要 素 や部 分 集 合 といった概 念 が適 用 できるようにな
るだろう。この考 えを生 かせば、オーバーラップの下 地 となる共 通 性 質 というアイデアに、因
果 的 効 力 による裏 付 けを与 えてやることができる。例 えば、それぞれ異 なる色 彩 C1, C2,
C3, ・・・がそれぞれ異 なる因 果 的 効 力 【c1】,【c2】,【c3】, ・・・を持 っているとしよう。このと
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き、<色 がついている>が真 性 な性 質 なら、それがもつ因 果 的 効 力 【c】は、以 上 の因 果 的
効 力 の積 集 合 【c1】∩【C2】∩【c3】∩ ・・・、つまり選 言 肢 全 体 の共 通 部 分 である。
要 するに、機 能 的 性 質 の因 果 的 効 力 は、各 実 現 性 質 の因 果 的 効 力 の積 集 合 (intersec
tion)と考 えられ、実 現 関 係 は次 のように定 義 される(ibid., p.129)。
性 質 間 の実 現 関 係
PがQを実 現 するのは、【p】と【q】が Pと Q を構 成 する因 果 的 効 力 の集 合 であり、かつ
【p】⊂【q】 である場 合 であり、その場 合 に限 られる。
かくしてクラップによれば、例 えば「と信 じている」の因 果 的 効 力 は、それを実 現 するさまざ
まな選 言 肢 (実 現 性 質 )の因 果 的 効 力 の積 集 合 (共 通 部 分 )であるから、機 能 的 性 質 と実
現 性 質 との関 係 は、全 体 と部 分 の関 係 になる。それゆえ、機 能 的 性 質 を高 階 の性 質 と呼
ぶのはミスリーディングとなろう。
このアイデアが、いかに過 剰 決 定 と因 果 的 排 除 の問 題 をかわすかは見 やすい道 理 であ
る。問 題 は、低 次 と高 次 の二 つの性 質 がそれぞれに異 なる因 果 的 効 力 を持 ち、それらが
同 時 に 同 じ結 果 を引 き起 こすのに用 い られる、とい うと ころにあった 。しか し、この見 方 で
は、両 者 の関 係 は全 体 と部 分 の関 係 なので、機 能 的 性 質 が関 わる因 果 的 出 来 事 で実 際
に仕 事 をしているのは、実 は、すべての実 現 性 質 に共 通 の因 果 的 効 力 の部 分 だということ
になる。したがって、キムが指 摘 するような過 剰 決 定 は起 きていない。
アントニーもまた、別 のルートをたどって似 たような解 決 に達 している。彼 女 もまた、選 言
的 性 質 は存 在 しないが、選 言 的 述 語 が実 在 の性 質 を指 示 することはある、と考 える。彼 女
にとって、性 質 が存 在 するとはそれが投 射 可 能 であることに他 ならない(Antony [1999],
p.13)。したがって、性 質 を表 す述 語 が投 射 可 能 であるなら、それは当 の性 質 が存 在 する
ことの強 い証 拠 となる。すでに何 度 も出 てきたが、投 射 可 能 とは、例 えばある性 質 <カラス
である>をもつ個 体 群 (カラス)に対 して、他 の性 質 <黒 い>に関 する一 般 化 も可 能 だとい
うことだった。となれば、選 言 的 述 語 が当 てはまる性 質 が一 般 に投 射 可 能 であることはない
だろう。というのも、その選 言 肢 が相 互 に野 放 図 に異 質 である(カラスと机 )場 合 もあるから
だ。しかし、ある選 言 的 述 語 が、投 射 可 能 な述 語 と必 然 的 に適 用 対 象 を同 じくする(等 外
延 的 )なら、その選 言 的 述 語 は実 在 の性 質 を指 示 すると言 っていい。少 し分 かりにくかもし
れない。選 言 的 述 語 はその選 言 肢 の異 質 性 ゆえに投 射 不 可 能 だが、その述 語 が何 らか
の投 射 可 能 な述 語 と必 然 的 に等 外 延 的 であるなら、その選 言 的 述 語 が指 示 するのは実
在 の性 質 だ、という理 屈 である(Antony [2003], p.13)。例 えば、フォーダーの例 、経 済 学
的 な出 来 事 である通 貨 交 換 を実 現 するのは相 互 に異 質 なさまざまな物 理 的 状 態 であろう
から、そのすべての選 言 を指 示 する述 語 「p1∨p2∨・・・∨Pn」を作 っても、それは投 射 可
能 ではない。しかし、それはまさに投 射 可 能 な述 語 「通 貨 交 換 」と(その作 り方 からして)必
然 的 に等 外 延 的 であるから、実 在 の性 質 <等 価 交 換 である>を指 示 する。とすれば、例
えば心 的 性 質 <痛 み>の実 現 性 質 の選 言 、およびそれを表 す選 言 的 述 語 はキムの言 う
ように投 射 可 能 ではないとしても、それによって性 質 <痛 み>は自 然 な性 質 としての存 在
を否 定 されるのではなく、心 的 述 語 「痛 み」が投 射 可 能 であるがゆえに、実 在 の性 質 とし
て、つまり自 然 種 として確 保 されるのである。
しかし、投 射 可 能 な述 語 と必 然 的 に等 外 延 的 な選 言 的 述 語 と、そうでない選 言 的 述 語
の違 いはどこにあるのか。例 えば、アントニーはキムに対 するフォーダーの反 論 に従 い、真
正 な多 重 実 現 性 質 は開 かれた選 言 に対 応 するのに対 し、まがいのそれは閉 じられた選 言
に対 応 するにすぎないと述 べる(ibid., p.15-6)。真 正 の多 重 実 現 性 質 に関 しては、あらか
じめ、どれとどれが実 現 性 質 であるかをリストアップすることができない。それに対 し、キムの
持 ちだす例 、宝 石 の翡 翠 (ジェイド)はまったく別 の二 種 類 の鉱 石 、硬 玉 (ジェダイ)と軟 玉
(ネフライト)から成 るが、それはまがいの多 重 実 現 であって、性 質 <ジェイド>の実 現 性 質
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は、性 質 <ジェダイ>と<ネフライト>だけだとあらかじめ決 まっている。つまり、この二 種 類
の鉱 石 が<ジェイド>であるための共 通 の性 質 は本 当 は存 在 せず、それらはただ、<ジェ
ダイ>であるか<ネフライト>であるかだけによって<ジェイド>であるにすぎない。それに
対 し、<痛 み>は、それが人 間 の神 経 学 的 な状 態 によって実 現 されようと、ロボットの電 子
工 学 的 な状 態 によって実 現 されようと、しかじかの機 能 的 な役 割 を果 たすかどうかがすべ
てのカギを握 っており、それゆえその条 件 を満 たすなら、いかなる未 知 の性 質 でも<痛 み
>を実 現 するということになる。
アントニーの言 い方 によれば、<ジェダイかあるいはネフライトである>ということの方 が<
ジェイドである>ことに存 在 論 的 に先 立 つ(ontologically prior)。しかし、<痛 み>の場 合
には、<痛 み>の方 が、<人 間 のしかじかの神 経 学 的 な状 態 であるか、あるいはロボットの
しかじかの電 子 工 学 的 状 態 であるか・・・>ということに存 在 論 的 に先 立 つのだ。それはこう
いう意 味 だろう。機 能 的 性 質 は、その可 能 世 界 の歴 史 (進 化 史 /宇 宙 史 ?)の上 ではある
時 点 から存 在 し始 めるが、存 在 論 的 にはそれ以 前 にすでにその世 界 に存 在 してしまって
いるのである。では改 めて、その自 然 な実 在 的 な性 質 としての機 能 的 性 質 の因 果 的 効 力
は、実 現 性 質 の因 果 的 効 力 と競 合 しないのか。機 能 的 性 質 の性 質 としての根 拠 を投 射 可
能 性 に求 め、投 射 可 能 性 をその性 質 が捉 える自 然 な共 通 性 に求 める彼 女 にとって、答 え
は、本 質 的 に先 のクラップの場 合 と同 じである。機 能 的 性 質 Mの因 果 的 力 は、そのすべて
の実 現 性 質 の因 果 的 力 の共 通 部 分 (intersection)である(ibid., p.18)。
因 果 的 効 力 という力 のモデルから離 れて
クラップとアントニーの試 みは、機 能 的 性 質 を自 律 した実 在 の性 質 として確 保 する一 方
で、それを高 階 の性 質 とせず、その因 果 的 効 力 を実 現 性 質 の因 果 的 効 力 の積 集 合 (共
通 部 分 )とすることで過 剰 決 定 を回 避 することであった。彼 らの議 論 は、非 還 元 的 物 理 主
義 が学 ぶべき多 くの洞 察 を含 んでいるが、しかし私 には、一 つの致 命 的 な問 題 を抱 えてい
るように思 われる。それは、過 剰 決 定 回 避 のために、機 能 的 性 質 を高 階 の性 質 とするので
はなく、1 階 の実 現 性 質 の部 分 としたことである。ここには、少 なくとも、内 在 的 性 質 と関 係
的 性 質 の混 同 がある。
彼 らにおいても、機 能 的 性 質 <F>の同 一 性 の根 拠 は一 群 の因 果 的 効 力 【f】である。そ
して彼 らにおいては、この同 じ因 果 的 効 力 を 1 階 の実 現 性 質 のすべてが共 有 するはずで
ある。すると、この【f】に対 応 する機 能 的 性 質 <F>は、1階 の性 質 として、それぞれの実 現
性 質 の中 に内 在 的 に見 いだされなければならないが、実 現 性 質 相 互 の異 質 性 がきわめて
大 きい 場 合 、そこに 共 通 の 内 在 的 性 質 は形 式 的 なもの (例 えば 、<性 質 であ る>の よう
な)以 外 にはないであろう。クラップの色 の事 例 やアントニーの牛 の事 例 は、実 現 性 質 相 互
の 類 似 性 が 本 質 的 な要 素 になってい てその ことは見 えにくいが 、< 痛 み>の ような場 合
に、すべての実 現 性 質 の内 在 的 な一 部 にそのような共 通 部 分 を求 めるのは無 理 である。
しかも彼 らの事 例 は、そもそも実 現 性 質 が何 かの機 能 的 役 割 を果 たすがゆえに機 能 的 性
質 をもつというようなものではない(ある波 長 の<色 >は、信 号 で人 に注 意 を呼 びかけるが
ゆえに<黄 色 >なのか?)。したがって、機 能 的 性 質 が実 現 性 質 の部 分 であるという関 係
は、部 分 を内 在 的 性 質 として考 える以 外 にないがゆえに、成 り立 ちそうにない。もし内 在 的
性 質 としてそのような共 通 部 分 があったなら、<雌 牛 >と<雄 牛 >を入 れ替 えても<家 畜
牛 >という性 質 に変 わりがないように、実 現 性 質 P1 と P2 を入 れ替 えても同 じ機 能 的 性 質
が実 現 されるということになっただろう。しかし、それは、実 現 性 質 が機 能 的 役 割 を果 たすと
いうことを考 えればまずありえない。
もともと、実 現 性 質 の共 通 性 はそれが果 たす機 能 的 役 割 において存 在 していたはずで
あり、それゆえ機 能 的 性 質 は、実 現 性 質 が適 切 な文 脈 で他 の性 質 と取 り結 ぶ関 係 的 性
質 として理 解 されていたはずである。つまり、関 係 的 性 質 は実 現 性 質 のもつ 2 階 の性 質 の
はずだ。例 えば、<F>が機 能 的 性 質 であるのは、<F>の実 現 性 質 <P>が、その文 脈
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において電 子 工 学 的 性 質 、もしくは生 物 化 学 的 性 質 として(qua electronic or biochemi
cal property)ある因 果 的 役 割 を果 たすがゆえにであって、<P>がある機 能 的 性 質 として
(qua functional property)その因 果 的 役 割 を果 たすがゆえにではない。つまり、<F>の
存 在 の根 拠 はこの場 合 <P>なのであって、<F>自 身 なのではない。つまり、性 質 <P>
をもつ個 体 a は、<P>のゆえに関 係 的 性 質 <F>を持 つのであるから、a からすると<F>
は<P>のもつ性 質 、すなわち 2 階 の性 質 なのである。それを踏 み外 して、<F>の因 果 的
効 力 【f】が<P>の因 果 的 効 力 【p】の一 部 だと主 張 することは、1 階 の性 質 の一 部 が 2 階
の性 質 だと主 張 することであり、それはいわば、個 体 a の一 部 が性 質 だ主 張 するようなカ
テゴリーミステイクに他 ならない。またそれは、機 能 的 性 質 の実 現 関 係 を「<F>のゆえに
<F>をもつ」という<F>の自 己 実 現 関 係 にしてしまうがために、「<P1>のゆえに、ある
いは<P2>のゆえに、・・・<F>をもつ」という機 能 的 性 質 の多 重 実 現 性 とは根 本 的 に相
容 れない。
彼 らが2階 の性 質 を1階 の性 質 の一 部 だと主 張 する根 拠 には、K-2 でみたキムの主 張 、
「Q をもつという性 質 =性 質 Q」があるように思 われる。しかしこれは、再 びプランティンガに
登 場 してもらうが、様 相 的 性 質 に関 する混 乱 である。<条 件 C を満 足 させる性 質 をもつ>
という 2 階 の性 質 は、条 件 C を満 足 させる性 質 が何 であれその 1 階 の性 質 と同 一 ではあり
えない。例 えば、次 の(4)は、<朝 寝 坊 >という性 質 が実 際 にチカの一 番 好 きな性 質 であ
ったとしても、(5)と同 一 ではありえない。
(4) <チカの最 も好 きな性 質 をもつ>という性 質
(5) <朝 寝 坊 >という性 質
というのも、<朝 寝 坊 >という性 質 がチカの最 も好 きな性 質 であるのは偶 然 的 であり、した
がって、別 の可 能 世 界 では、チカは<早 起 き>という性 質 を最 も好 むような健 康 優 良 児 タ
イプの子 供 かもしれないからだ。するとそのような可 能 世 界 では、人 は朝 寝 坊 でなくとも、チ
カの最 も好 きな性 質 を持 つのであるから、両 者 の様 相 的 性 質 が異 なるゆえに両 者 は同 一
ではない(Plantinga [2004], p.609)。
かくして、もし機 能 的 性 質 <F>を<Q をもつという性 質 >に対 応 させ、実 現 性 質 を<Q
>に対 応 させたいなら、機 能 的 性 質 と実 現 性 質 は同 一 ではない。それは、全 体 が部 分 と
異 なるという理 由 で同 一 性 が成 り立 たないのではない。むしろ、キムも彼 らも認 めているよう
に、性 質 <Q>は、その存 在 する可 能 世 界 の自 然 法 則 や他 の性 質 群 によっては、<F>
を実 現 しないことがあるからだ。これは、機 能 的 性 質 <F>が、実 現 性 質 <Q>の持 つ偶
然 的 性 質 であることを意 味 する。したがって、言 いかえると同 一 性 は必 然 的 であることを要
求 するがゆえに、<Q>≠<Q をもつという性 質 >=<F>。
一 言 でいえば、比 喩 的 であれ何 であれ、例 えば<と信 じている>という性 質 が、人 間 の
<ニューロンのしかじかの発 火 >といった神 経 生 理 学 的 性 質 の文 字 通 りの一 部 分 であると
同 時 に、同 じものとして、ロボットの<電 子 回 路 上 のしかじかの電 子 流 >といった電 子 工 学
的 性 質 の文 字 通 りの一 部 分 でもある、ということは理 解 しがたいということだ。しかし、となる
と 、機 能 的 性 質 の因 果 的 効 力 【 f】と 実 現 性 質 の因 果 的 効 力 【q 】は同 一 ではないのだか
ら、ここで再 び、過 剰 決 定 の問 題 が生 じてくるように思 われる。
しかし因 果 的 効 力 とはそもそも何 だろうか?
クラップとアントニーが 1 階 の因 果 的 効 力 の積 集 合 (共 通 部 分 )という窮 余 の一 策 (?)に
訴 えたのは、ひとえにキムの過 剰 決 定 と因 果 的 排 除 の議 論 を避 けるためであった。しかし、
もしこの因 果 的 効 力 という概 念 が、性 質 を理 解 するための粗 雑 な比 喩 以 上 のものでなかっ
たとしたら、彼 らにはそうする必 要 がなかったであろう。そして、実 際 、性 質 を構 成 するもの
としての因 果 的 効 力 (causal power, causal efficacy)という古 き良 き概 念 には、形 而 上 学
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者 たちの力 のイメージがあるばかりで、少 なくともそれが何 であるかについての正 確 な理 論
というものは未 だに存 在 しない。因 果 的 な出 来 事 にレベルの異 なる性 質 が重 なり合 って関
与 する、ということが(認 識 論 的 にではなく)存 在 論 的 に認 められるなら、それと衝 突 せざる
をえない因 果 的 効 力 という概 念 を、われわれはなぜ尊 重 すべきなのだろうか。むしろ、エピ
フェノメナリズムへの根 拠 のない不 安 と、漠 然 とした力 の比 喩 のみが、性 質 の因 果 的 効 力
という概 念 を支 えているのではないか。この点 では、性 質 にいかなる因 果 的 力 をも認 めない
デイヴィドソン的 な存 在 論 を、われわれはもう一 度 、真 剣 に検 討 してみる必 要 があろう(注
7)。
というわけで、私 はここで、現 在 流 通 している因 果 的 効 力 という神 話 を捨 ててみることを提
案 したい。あるいはむしろ、性 質 の因 果 的 効 力 という概 念 を、性 質 間 の法 則 的 /規 則 的
関 係 から再 構 築 された限 りの、いかなる「力 」とも無 縁 なものとして再 構 成 したい。例 えば、
アントニーも先 の二 論 文 の随 所 で、因 果 的 効 力 という概 念 に代 えて、規 則 性 もしくは法 則
性 という概 念 に訴 えている。それは私 には、もっと先 へと進 むべき正 しい方 向 であるように
思 われる。というのは、もし因 果 的 効 力 という「力 のモデル」から解 放 されるなら、機 能 的 性
質 という高 階 の性 質 の存 在 と、層 的 な存 在 論 を、これまでの個 別 科 学 の自 律 性 とともに、
支 障 なく受 け入 れられるようになるからである。
例 えば、アントニーはこう述 べる。「ある性 質 が投 射 可 能 であるのは、それがそれ独 自 の
因 果 的 効 力 の集 合 と連 合 している(しうる)、あるいは同 一 である(ありうる)、あるいは同 じこ
とだが、それが真 正 の規 則 性 に関 与 している場 合 であり、その場 合 に限 られる・・・」(Anton
y [1999], p.17、強 調 は原 著 者 )。というのも因 果 的 効 力 というのは、彼 女 によれば以 下 の
ようなものだからである。「銀 貨 は十 分 な数 があれば自 動 販 売 機 からキャンデーを引 き出 す
という力 を持 つが、私 の銀 の指 輪 はその力 を持 たない。しかしその代 償 に、私 の指 にはま
るという力 を持 ちうる」(Antony [2003], p.18)。しかしこのようなものが因 果 的 効 力 の中 身
であるなら、いっそ、「力 のモデル」を捨 て去 ったらどうなのか? アントニーは、私 の目 から
見 れば、ほとんどそれに近 いところまで歩 み寄 っている。過 剰 決 定 と因 果 的 排 除 の問 題 に
関 連 して、高 階 の 機 能 的 性 質 がどん な新 しい因 果 的 力 を加 えるのか、とい うキムの 問 い
に、彼 女 はこう答 える。「物 理 的 なものの因 果 的 閉 包 性 を受 け入 れるなら、物 理 学 の基 礎
的 性 質 以 外 のいかなる性 質 も・・・その事 例 に因 果 的 力 を何 も<加 え>えない、ということ
に理 があることを認 めるべきである。・・・それゆえ問 題 は、このいわゆる[高 階 の]性 質 が何 を
加 えるかではなく、この性 質 と関 連 する独 自 の因 果 的 なレパートリー(causal repertoire)が
存 在 するか否 か、ということであるべきだ・・・」(Antony [1999], p.22、補 足 は引 用 者 )。つ
まり、「心 的 なものの自 律 性 を示 すのは多 重 実 現 ではなく、高 階 の性 質 が関 与 する規 則 性
の実 在 性 である」(Antony, [2003], p.18、強 調 は原 著 者 )。
最後に
私 は、性 質 の存 在 保 証 は、スーパーヴィーニエンスを含 めて、それが関 わる法 則 性 の中
にあると考 える。したがって、「因 果 的 効 力 」という概 念 はその法 則 的 な性 質 間 の関 わりか
ら派 生 する二 次 的 なものである。とくに、「力 のモデル」に引 きずられて、あたかも、二 つの
性 質 レベルの法 則 の並 存 や、レベルをまたがった一 般 化 において、二 つのビリヤードボー
ルが第 三 の ボー ルに 衝 突 す るよ うなイメー ジに惑 わ される 必 要 はない 。以 下 の図 に おい
て、因 果 関 係 (⇒ )に立 つのは出 来 事 a と b であり、それらがもつ性 質 M1、M2、P1、P2,・
・・は、その因 果 関 係 に何 かの「力 」をふるうわけではない。したがって、性 質 相 互 が因 果 関
係 に立 つわけではないという限 りでは、P1→P2 の間 、M1→M2 の間 、M1→P2 の間 にも文
字 通 りの因 果 関 係 があるわけではない。P1→ M1、P2→ M2 の間 に成 立 する実 現 関 係 (逆
向 きに見 れば、スーパーヴィーニエンス関 係 )も、因 果 関 係 ではないことに注 目 すべきであ
る。
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M2
M1
b
a
P1
P2
要 するに、アームストロング(ずっと遡 ればロック)以 来 の発 想 を逆 転 させて、性 質 は法 則 的
な結 合 をするがゆえにいわゆる「因 果 的 効 力 」と称 されるものをもつのであって、因 果 的 効
力 なる神 秘 的 な「力 」が性 質 にあらかじめ備 わっているがゆえに互 いに法 則 的 な結 合 をす
るのではない、と私 は主 張 したい。つまり、「因 果 的 効 力 」という概 念 は性 質 間 の法 則 的 結
合 の別 名 である。性 質 はもともと過 剰 決 定 を生 じさせるような「力 」を文 字 通 りにはもってい
ない。過 剰 決 定 が問 題 になるのは個 体 (個 物 )同 士 の因 果 プロセスにおいてにすぎず、し
かも、レベルを異 にした性 質 の共 存 (実 現 関 係 およびスーパーヴィーニエンス関 係 )が現 に
存 在 する以 上 、それらが個 体 間 の因 果 関 係 の導 管 となる(/因 果 関 係 を説 明 する)際 に、
排 他 的 に競 合 すると考 える必 要 はない。
例 えば、「その女 性 は冷 えたビールがあると思 って冷 蔵 庫 を開 けた」という出 来 事 には、
少 なくとも、二 つの性 質 レベルの説 明 が可 能 である。一 つは、<冷 えたビールがあると思 う
>という心 的 性 質 を彼 女 が持 ったがために冷 蔵 庫 を開 けるという行 為 がなされた、というも
のである。他 方 は、彼 女 の脳 の神 経 生 理 学 的 な性 質 がしかじかであったがために腕 の筋
肉 がしかじかに収 縮 した、というものである。ここには一 つの原 因 (出 来 事 )と一 つの結 果
(出 来 事 )しか存 在 しない。ここで、(単 純 化 して述 べられた)二 つのレベルの 4 つの性 質 は
どれも、因 果 的 な仕 事 をしていると考 える必 要 はない。因 果 的 な関 係 は、出 来 事 同 士 の関
係 である。したがって、その出 来 事 が持 ついくつかの性 質 は、一 人 前 の性 質 である限 り、そ
の出 来 事 間 の関 係 が法 則 もしくは(いかに粗 いとはいえ)一 般 化 として成 立 している事 態
を特 徴 づけるのに言 及 される。なぜなら、それらの性 質 間 には、法 則 的 ないし真 に規 則 的
な結 合 関 係 が成 立 しているからだ。したがって、性 質 の「因 果 的 効 力 」とは、そのように言
及 される性 質 が法 則 的 ないし真 に規 則 的 な関 係 に立 つ、ということの言 いかえ以 上 でも以
下 でもない。
それゆえ、心 的 なものは、古 典 的 な意 味 での「因 果 的 効 力 」を持 たないという意 味 でエピ
フェノメナである。しかし、それならば、この意 味 において、そしてこの意 味 においてのみ、
他 の 個 別 科 学 のすべ ての性 質 どころか 物 理 的 性 質 もまた、同 じくエピフェノ メナである。
「因 果 的 効 力 」という概 念 を力 学 的 な「力 のモデル」という呪 縛 から解 放 するなら、これはそ
う驚 くべき結 論 ではない(注 8)。ただし、いかなる因 果 説 明 も因 果 関 係 を作 るわけではな
い。因 果 関 係 は、物 理 的 性 質 が関 与 する物 理 的 法 則 関 係 、およびそれにスーパーヴィー
ンする性 質 が関 与 する個 別 科 学 的 法 則 関 係 として、因 果 説 明 に先 だって存 在 する。
ただ、最 後 に、エピフェノメナリズムに関 して気 になることを一 つだけ述 べておこう。このよ
うにエピフェノメナリズムを解 釈 しても、ある因 果 プロセスに実 際 に関 与 する性 質 (例 えば、
睡 眠 薬 の化 学 的 性 質 )と、関 与 しない性 質 (例 えば、その薬 の色 )の区 別 は立 てられねば
ならない。つま り、薬 の色 は変 わってもその化 学 成 分 は同 じよ うに睡 眠 を引 き起 こすだろ
う。いま、性 質 の「因 果 的 効 力 」から因 果 的 力 の概 念 を追 いやったのだから、このことはい
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かにして可 能 なのか? これについての周 到 な議 論 は、稿 を改 めて与 えるべきだと思 うが、
私 の提 案 のアイデアだけを述 べればこうである。もし問 題 の性 質 (薬 の色 )がわれわれの自
然 法 則 の成 立 するあらゆる可 能 世 界 においてその結 果 (睡 眠 )に結 合 しているなら、そし
てその限 りでのみ、われわれの直 観 に反 して、その性 質 は本 当 に因 果 プロセスに関 与 して
いるのである。言 いかえると、われわれの自 然 法 則 の成 り立 つあらゆる可 能 世 界 において、
その種 の因 果 プロセスのあらゆる場 合 にその性 質 が薬 の物 理 的 性 質 にスーパーヴィーン
しているなら、そしてその限 りでのみ(したがって、論 理 的 スーパーヴィーニエンス関 係 は除
かれる)、その性 質 は真 に因 果 関 係 に関 与 しているのであり、古 い言 葉 で言 い直 すなら問
題 の「因 果 的 効 力 」をもっているのである。
本 稿 で擁 護 された非 還 元 的 物 理 主 義 は、心 的 性 質 が物 理 的 性 質 によって実 現 されると
主 張 する点 で物 理 主 義 であり、心 的 性 質 が自 律 的 だと主 張 する点 で非 還 元 主 義 である。
だが、それらはいずれも、心 的 性 質 が機 能 的 性 質 として理 解 される限 りでのことであった。
では、クオリア(感 覚 質 )と意 識 は機 能 的 性 質 なのか? あるいは機 能 的 な何 かとして理 解
する道 はあるのか? この問 題 は、非 還 元 主 義 のみならず物 理 主 義 一 般 がなお直 面 して
いる深 い困 惑 を示 しているのかもしれない。
注
1. もちろん、これは、「この世 界 においてこれまでまったく例 化 されていない性 質 も存 在 す
る」という意 味 ですでに世 界 に存 在 するのか、と問 うているのではない。また、どんな性 質
も、言 語 によって表 現 されるまでは存 在 しないということを暗 に言 いたいわけではない(それ
は明 らかに偽 だろう)。ここで私 は、アームストロングがいう例 化 の原 理 (Principle of Instan
tiation)に従 っている。それによれば、性 質 (普 遍 者 )が存 在 するためには、それを例 化 す
る個 体 が必 要 である、つまりどこかですでに例 化 されている必 要 がある(Armstorng [1978
b], p.9)。とはいえ、この「すでに」は、「その世 界 の過 去 ・現 在 ・未 来 のいずれかにおいて」
という意 味 である。だから、ここで問 題 とされているのは、ある個 体 に関 して真 なる述 語 はす
べて、それが述 べるとおりの性 質 の存 在 を(その意 味 論 的 値 として)含 意 しているのかどう
か、ということである。
2. もともとのグッドマンの「グルー」の適 用 条 件 は、時 刻 に関 して、「現 在 までに」ではなく
「時 刻 tまでに」となっている。時 刻 tをどう設 定 しても、この帰 納 の謎 は出 現 する。
3. 多 重 実 現 の根 拠 は、異 なった種 における神 経 構 造 の差 異 ばかりか、異 なった個 人 に
おける脳 構 造 の差 異 にも見 いだされる。よく引 き合 いに出 される有 名 な例 は、1980 年 に雑
誌 『サイエンス』に報 告 されたある若 者 の脳 である。彼 の脳 は、通 常 人 の 1/45 ほどの脳 組
織 しかなく、その代 わりに脳 脊 髄 液 で満 たされているが、知 的 活 動 はまったく正 常 である。
「彼 は IQ126 で、数 学 では最 優 秀 賞 を取 り、完 全 に正 常 な社 会 生 活 を送 っているが、事
実 上 、脳 を持 っていないに等 しい」(Roger [1980], p.1232)
4. 例 えば、日 本 では、美 濃 [2004] がキムの主 張 にほぼ全 面 的 に沿 った議 論 を展 開 し
ている。ところで、キムの攻 撃 を構 成 するもう一 つの柱 は、過 剰 決 定 と排 除 問 題 に関 する
議 論 であり、柴 田 [2004] はその見 取 り図 と脱 出 のルートを描 いたものである。
5. というのも、キムの目 的 は「根 本 的 に物 理 的 な世 界 において、心 はいかにその因 果 的
力 をふるうことができるのか?」(Kim [1998], p.30)という問 いに答 えることだったのだが、
彼 によれば、いかなるものであれ、それが因 果 的 力 をふるうためには、それのもつ性 質 が因
果 的 効 力 をもつ以 外 にはないからである。
6. 還 元 的 なトロープ論 によれば、ある個 体 (particulars)としての物 理 的 性 質 は、何 らか
の機 能 を果 たそうが果 たすまいが、端 的 にある個 体 としての心 的 性 質 と同 一 である。した
がって、心 的 性 質 は、機 能 主 義 のいうような意 味 で多 重 実 現 するのではない。むしろ、存
在 するのは、個 体 を包 摂 する普 遍 者 (universals)としての心 的 性 質 ではなく、(個 体 として
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の)心 的 性 質 相 互 に成 立 する原 初 的 関 係 としての「類 似 性 」である。
7. 例 えば、デイヴィドソンは、彼 の非 法 則 的 一 元 論 に対 するキムらの批 判 に対 しこう述 べ
る。「私 にとって、原 因 と結 果 を持 つのは出 来 事 (events)である。因 果 関 係 についての外
延 的 な見 方 に立 てば、・・・ある出 来 事 が心 的 なものとして、あるいはその心 的 性 質 によっ
て、あるいは何 らかの仕 方 で記 述 されたものとして、何 かを引 き起 こす(causing)と述 べるの
は、文 字 通 りには意 味 をなさない。」(Davidson, [1993], p.13)。しかしそれはもちろん、心
的 性 質 や心 的 述 語 に限 らない。「物 理 的 出 来 事 の因 果 的 効 力 にとって、それらが物 理 的
語 彙 によって記 述 されうるということは無 関 係 である」(ibid., p.12)。
それゆえ、「性 質 <P>がある因 果 的 役 割 を果 たす」とか、「性 質 <P>が他 の性 質 とある
関 係 に立 つ」といった本 稿 の言 い回 しは、本 来 なら、性 質 が因 果 関 係 の当 事 者 だ誤 解 さ
れないように改 められるべきである。
8. エピフェノメナリズムに対 して、われわれはもっと心 を開 いてもいいであろう。それは、毛
嫌 いされ、選 択 肢 としては最 初 から放 棄 されてきたがゆえに、まだ概 念 的 探 索 の行 き届 い
てない未 開 の領 域 を多 く含 んである。例 えば、キャンベルの最 近 の論 文 (Campbell [200
5])は、エピフォビア(エピフェノメナリズム恐 怖 症 )に挑 戦 しつつ、「説 明 的 エピフェノメナリ
ズム」をお薦 めの内 容 としたものである(もっとも私 からすると、キャンベルはなおも「因 果 的
効 力 」の概 念 に絡 みつかれている)。
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なお、本 論 文 は、平 成 16年 度 ~18年 度 科 学 研 究 費 研 究 課 題 「意 識 と感 情 をもつ認 知
システムについての哲 学 的 研 究 」(代 表 者 :金 沢 大 学 ・柴 田 正 良 )の研 究 成 果 の一 部 を含
んでいる。
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