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ヨーロッパ統合の進展にともなう安全保障の変容 ―1998年
ヨーロッパ統合の進展にともなう安全保障の変容 ―1998 年‐2008 年を中心として― 社会科教育専修 修教 08-022 三森朋恵 1.研究の目的 本論文の目的は、1998 年以降本格化した EU の共通外交安全保障政策(CFSP)および 欧州共通安全保障防衛政策(EDSP)の歴史的展開をたどりながら、ヨーロッパの安全保 障観の変遷を説明すること。そしてリスボン条約発効により新体制を迎える 2009 年以降 の CFSP、EDSP の可能性を提示することである。 2.問題の所在 第二次世界大戦後のヨーロッパの安全保障は、北大西洋条約機構(NATO)の存在なし に語ることはできない。冷戦期ソ連の脅威に対し、NATO の圧倒的な軍事的主導性に支え られヨーロッパの安全保障は担保されていたと見ることが可能である。視点を変えると、 軍事的には独自性を発揮し得なかった EU は経済分野が当面の議論の中心となった。この 状況を NATO と EU の分業体制が成立していたと捉えることもでき(遠藤,2008) 、今日 の EU が存在する土台となった経済的発展の一因ともいえる。しかし一方でアメリカの軍 事力に頼るだけではなく、安全保障の独自の試みもあった。1975 年に始まる欧州安全保障 協力会議(CSCE)においては、東西間の交流を通じた信頼醸成による安全保障を志向し ていた。東西対立という冷戦期の文脈において、軍事力に基づく強制手段とは異なるヨー ロッパの独自の安全保障を構想しようとした試みであった。そうした経緯をふまえたうえ で冷戦後、ヨーロッパは自身のアイデンティティの模索を積極的に行うことになる。 冷戦構造が終結すると、ヨーロッパは新たな展開を迎えることになる。1992 年に調印、 1993 年に発効したマーストリヒト条約により EU は誕生する。それまで経済的統合に重 きを置いていたヨーロッパ統合であるが、政治的統合は EU にとって、従来からの課題で あり目標であった。本条約で CFSP の確立が具体的な言葉として表現された。しかし具体 的中身に関しては詳細には示されなかった。CFSP は外交・安全保障における EU の独自 性発揮を担う政策であるが、NATO(およびアメリカ)の思惑や EU 加盟国間の合意や利 害関係によっていくつかの挫折を経ている。 その一例として 2001 年アメリカ同時多発テロが挙げられる。この際も各加盟国の対応 は分かれた。ヨーロッパの国々がアメリカへの対応で足並みを乱した。CFSP の脆弱な一 面が克服されていないことを明らかにした。この混乱に際し 2003 年に当時の CFSP 上級 代表ソラナが提出したのが、 「より良い世界における安全なヨーロッパ:欧州安全保障戦略 (ESS)」 (通称ソラナ・ペーパー)である。アメリカの同時多発テロからイラク戦争とい った一連の混乱において、事態の打開を図ると同時に、ヨーロッパの独自の安全保障観を −1− 今一度提起したのがこの文書である。この ESS は欧州理事会で採択され、安全保障分野に おける共通政策である ESDP が具体化する気運となる。 このような試行錯誤を経ながらも、EU の CFSP 及び ESDP の模索は現在も続けられて いる。2008 年 12 月に開かれた欧州理事会での議長国フランスの結論文書には、ESDP を 強化していく旨の決意が含まれている。CFSP を規定する EU 憲法条約の批准には至らな かったが、 続くリスボン条約は 2009 年 12 月1日に発効した。 憲法的概念は排除されたが、 内容としてはリスボン条約に受け継がれることになった。同条約によって、欧州理事長と EU 外交安全保障上級代表の役職が新設された。この2つの役職は EU の機構効率化と国 際的地位の強化を目指す改革の象徴と見られる。リスボン条約の発効により EU は新体制 に入る。 EU の安全保障政策が本格的に進展するのは、英仏サンマロ宣言を契機と見ることが多 い。本論文も同様の立場をとり、主に 1998 年から 2008 年に焦点を当てる。 3.論文の概要 第1章 共通外交・安全保障政策(CFSP)の展開 本章では、 CFSP の前史と CFSP ならびに EDSP の登場と展開について概説した。 CFSP がマーストリヒト条約に登場する以前の、外交・安全保障上に関する組織化の試みについ ては、CSCE、欧州政治協力(EPC) 、西欧同盟(WEU)を取りあげた。1991 年のソ連の 解体による冷戦終結後、EU は安全保障を担うアクターとして期待される。1993 年 CFSP を課題の1つとするマーストリヒト条約が発効する。同条約により CFSP が確立され、安 全保障に関する全ての議題が加盟国の協議対象になった。しかし 1991 年に始まるユーゴ スラヴィア紛争が激化する過程において、EU 加盟国は各々異なる態度を示し統一行動を とることは失敗する。文化的多様性を内包したヨーロッパとしてのアイデンティティの確 立を目指す EU にとって、ユーゴスラヴィア紛争で期待された役割を果たせなかったこと は、安全保障の分野における自らの役割可能性について改めて検討することを迫られた。 言い換えると EU は外交安全保障上の機能を発揮できず政治的弱さを露呈することになり、 軍事的には NATO の主導性を認識せざるを得なかった。 しかし 1997 年調印、1999 年発効のアムステルダム条約では CFSP の強化が図られた。 また 2001 年調印、2003 年発効のニース条約においては CFSP に包含される ESDP が法 的に根拠づけられることになった。 第2章 ヨーロッパの安全保障と「EU-NATO-CE」体制 第二次世界大戦後、特に冷戦の最中において、ヨーロッパは NATO およびアメリカの軍 事的主導性によって安全保障が担保されてきたといえる。しかしながら、冷戦終結後もヨ ーロッパ独自の安全保障を模索する EU の試みは、しばしば NATO およびアメリカの存在 によって危機を迎えている。本章では、遠藤による「EU-NATO-CE 体制」という視座を 援用しながら EU と NATO の関係を説明した。 本論では 2001 年の米国同時多発テロ以降に焦点を当てているが、それ以前においても 米欧間の緊張は繰り返されてきた。その歴史はヨーロッパ独自の安全保障を構想する理由 −2− であり試行錯誤の結果でもある。EU による安全保障政策の試みと密接に関係する事項と いえる。NATO およびアメリカの存在は、ヨーロッパの独自の安全保障構想においてけん 制をかけてくる相手であった。米欧関係の摩擦について、換言するならば「EU-NATO-CE 体制」の展開と終焉について、その歴史を整理した。 第3章 安全保障を巡る論調―2001 年同時多発テロまで 第1章では、ヨーロッパの安全保障の変遷を整理し、その成果と課題について触れた。 端的にいえば、CFSP ならびに ESDP が EU 内で確立されたこととその発展の約束が、条 約改定の度に一応の進展を見せていることが成果である。課題は CFSP ならびに ESDP が政府間協力という形を脱し切れていないため、加盟各国の方針に左右されやすく、機能 しない事態を繰り返してきたということである。また、その機能不全には NATO およびア メリカの存在が強く関係している状況にも触れた。それをふまえ第2章では、 「EU-NATO-CE 体制」という視座を援用しながら、ヨーロッパ独自の安全保障が NATO およびアメリカとの比較のなかで醸成されていったことを見てきた。 本章では、本格的に始動したヨーロッパ独自の安全保障政策が、①CFSP 以前から続く NATO およびアメリカとの関係によって規定されている状況、②2001 年以降明白になる 多国間主義的、包括主義的安全保障観の形成するに至る歴史的土台、この2つを以下4点 の原典史料(「欧州地中海パートナーシップの成立:バルセロナ宣言(1995.11.27-28)」、 「英仏サンマロ宣言(1998.12.3-4)」、「欧米諸国によるコソヴォ紛争への介入調停 (1999.2.23) 」、「ベルリン・プラス(1999.4.24)」 )を検討した。 ①については、第2節英仏サンマロ宣言、第3節欧米諸国によるコソヴォ紛争への介入 調停、第4節ベルリン・プラスの3つから検討した。サンマロ宣言では、NATO とは別の 枠組みでヨーロッパ安全保障政策を進めていく旨が宣言されているが、「NATO における 各々の義務」「大西洋同盟の活力に貢献している」という記述からは、NATO との関係が 前提にあることが伺える。欧米諸国によるコソヴォ紛争への介入調停は、アメリカの圧倒 的な軍事力による紛争解決を知らしめる文書であり、NATO および NATO 要員への優遇 措置がはっきりと示されている。この文書からは、サンマロ宣言以降軍事増強の必要を実 感していた EU が、改めてその思いを強くしたことを容易に想像できる。しかし、安全保 障分野へ乗り出す EU に対して NATO およびアメリカからけん制球が送られる。それを表 しているのがベルリン・プラスである。これらの文書からは、この時点ではまだ EU-NATO-CE 体制が機能していると見ることが可能だろう。冷戦は終わったものの、東 西対立という軸が消失したことにともなう動乱を、その理由に挙げることができる。②に ついては、主に第1節欧州地中海パートナーシップの成立から検討した。当初よりその紛 争予防的な性格が見てとれ、後につながる包括的なヨーロッパの安全保障観につながる要 素と捉えられる。この文書を EU-NATO-CE 体制との関係で考察するならば、経済的発展 を遂げた EU として、通商関係を通じ相手国と協調的関係の構築に寄与したといえるだろ う。その手法の名残が、今日の非軍事的アプローチへ貢献しているとも考えられる。 第4章 安全保障を巡る論調―2001 年米同時多発テロ以降 第3章では、EU の防衛能力構築に関して警戒感を示すアメリカの危惧という相互の関 −3− 係を読みとることができた。本章では、アメリカの同時多発テロ以降の史料をとり上げる。 同時多発テロと、そこに端を発するアフガニスタン戦争からイラク戦争へと続く過程で、 ヨーロッパ内においても米欧間においても意見の対立が生じた。その詳細については第1 章と第 2 章で扱ったとおりである。この混乱は、各国の利害関係という CFSP ならびに ESDP の根本問題を改めて周知させることになったが、同時にその課題解決への危機感か ら CFSP および ESDP の議論が高まったという指摘もされている(吉井,2008) 。 このような時代状況を、5つの原典史料(「北大西洋条約第5条発動(2001.12.6)」、 「イ ラク戦争をめぐる情勢(2002-2003)」、「欧州安全保障戦略(ESS):ソラナ・ペーパー (2003.12.12)」、「ヨーロッパのための人間の安全保障ドクトリン:バルセロナ報告 (2004.9.15) 」、 「ESS の実施に関する報告書(2008.12.11)」 )から探った。本章では、① EU 安全保障観の質的変化、②規範的アクターとしての EU の位置付けを説明したい。 従来の軍事的安全保障観、換言すれば領土防衛重視の安全保障観から、危機対応型とでも いうべき予防的措置に重きを置く安全保障に質的変容を遂げていることを伺い知ることが できるはずである。 ①については、第1節北大西洋条約第5条発動、第2節イラク戦争をめぐる情勢、第3 節欧州安全保障戦略(ESS)、第4節ヨーロッパのための人間の安全保障ドクトリン、第5 節 ESS の実施に関する報告書を中心に検討する。北大西洋条約第5条の発動は、調和的 EU-NATO-CE 体制の終わりを予感させるものとの位置付けも可能かもしれない。ここに おいては、国際社会の合意が得られておりアメリカの行動にも一定の了解があった。しか しながら、イラク戦争へとつながる過程でアメリカは NATO という枠組みで行動すること を忌避し始める。この一連の流れは、次節のイラク戦争をめぐる情勢にて扱った。対イラ ク武力行使については EU 加盟国内でも意見が分かれているが、アメリカに異を唱えた仏 独に焦点を向けるならば、包括的手法という安全保障観を見ることができよう。それは、 ヨーロッパのための人間の安全保障ドクトリンや、ESS 実施に関する報告書からも読みと られる。②については、特にヨーロッパのための人間の安全保障観や ESS 実施に関する報 告書の記述、例えば「多国間協調主義」 「法の支配」「国際法」という用語の多用から説明 できると思われる。また第3章で扱った史料との比較でいうならば、第4章で取りあげた 史料には、EU-NATO-CE 体制の影響力を感じないという点がある。NATO やアメリカと の協力を進める記述があるものの、前提とする存在ではなく、従来に比べて対等なアクタ ーとして扱っているように捉えられる。ここから、EU-NATO-CE 体制によって独自性を 発揮することが難しかったヨーロッパ安全保障が、その体制の終焉によって実現が叶った と見ることができる。 引用文献 (1) 遠藤乾「ヨーロッパ統合の歴史」『ヨーロッパ統合史』名古屋大学出版会、2008 年、6-13 頁。 (2) 吉井愛「欧州安全保障・防衛政策(ESDP):創出、発展と日本」『外務省調査月 報』第4号、2008 年、38 頁。 −4−