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小公 則御,咬 -

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小公 則御,咬 -
モスクワの冬 一九二七年
小山内薫はソビエト革命十周年記念祭に招かれ、十一
一九二七年、冬のモスクワ。
響は、既に世界的になっておりまして、われわれの築
イエルホリドの現在の為事です。メイエルホリドの影
わたしが主として見て来たいと思っているのは、メ
小山内薫の第二次外遊i
月十二日に日本を出発、二十四日にモスクワに入った。
田
日本代表として、革命十周年記念の祝典に列席するの
ますがまだ本当のことが判っているように思われませ
地小劇場でさえ、すでに或る程度の感化を受けており
曽
が、主たる招聰の理由であったろうが、その記念日は十
ん。僅か一二週間の滞在で、果してそれが搦んで来れ
るかどうか、大きな疑問でありますが、わたくしとし
一月七日と八日に設定されてあった。小山内は記念日よ
り、ずいぶん遅れてモスクワ入りしているわけだ。
ーゴリ原作﹃検察官﹄とオストロフスキー原作﹃森林﹄
小山内は、モスクワ滞在中、メイエルホリド演出のゴ
編﹃小山内薫演劇論全集﹄第三巻、未来社、昭40︶
︵﹁入露に際して﹂、 ﹁葡萄棚﹂昭2・12。菅井幸雄
す。
ては、出来るだけのものを欄んで来たいと思っていま
一次外遊の時と、小山内自身の目的が違っていた。十五
この時のモスクワ旅行と一九一二年︵大正元年︶の第
年前のモスクワでは、スタニスラフスキーの演劇を学ぶ
ということを主眼としていた。今回は、メイエルホリド
である。
彼は出発の直前、こう語っているのだ。
1
一
一
秀
居を観るのは、この時が最初ではないのである。第一次
場で観ている。実は、小山内がメイエルホリド演出の芝
トレチャーコフ原作﹃吠えろ支那﹄をメイエルホリド劇
およびメイエルホリドの弟子フィーヨドロフ演出による
りて会を閉す。
劇界の現状について話す。通訳米川氏。メ氏の挨拶あ
昼。二時、メイエルホリド座の楽屋にて講演。日本
十二月六日
サネル﹄という芝居を観ている。この演出がメイエルホ
と一緒にイーダ・ルビンステイン主演のダヌンチオ作﹃ピ
き留められてある。
西亜画観﹄ ︵アルス、昭5︶ という本に、次のように書
楽屋での講演会の様子は、 同行した尾瀬敬止の﹃新露
外遊の一九=二年六月、パリのシャトレ座で、島崎藤村
リドなのだ。しかし、小山内はこの時、メイエルホリド
それはそれとして、小山内がメイエルホリドに会った
はドッと笑ふ。メィエルホリドもニッコリと笑つたが、
︵小山内が︶そのいはゆる﹁カタ﹂をやると、聴衆
を意識していないから、記憶にも残らなかったようだ。
のは、第二次外遊のこの時が最初である。モスクワに着
も会っている。二回目は、十日おいて、十二月六日のメ
ターリンによって惨殺される夫人のジナイダ・ライヒに
の英語通訳に案内されて、彼の私宅を訪問した。後にス
に同感だといふ風に長いこと拍手を続けた。しかし、
な劇場を創造したいものです﹂といふと、聴衆は大い
から、日本や、支那やロシヤなど互ひに提携して立派
最後に﹁もはやヨーロッパの劇場は死んでゐます。だ
噛むようにしながら聞いてゐた。そして、小山内氏が、
いて二日目の十一月二十五日、BOKC︵対外文化協会︶ 彼はいつも左の肱をテーブルの上に乗せ、鉛筆の先を
した講演の席においてであった。この講演会はそもそも、
その拍手も終ると、今度はメィエルホリドが小山内氏
イエルホリド劇場の楽屋での、この劇場の俳優を対象に
座員が日本の演劇のこと、ことに歌舞伎について、小山
に代つて壇に上り、少し前屈みになつてかう正直に述
演劇のお陰ですから、この機会に日本人諸君にお礼を
﹁われわれが西ヨーロッパから褒められるのは、日本
べた。 ︵中略︶
内から聴きたいという希望により、急遽持ち上がったも
のだった。彼は﹁滞.露日記摘要﹂ ︵﹁小山内薫演劇論全
集﹂︶に、この時のことを、こう記している。
一2一
申しておきます﹂
各方面に配ったのである。ある高名な演劇評論家の感想
ほど書かれてあった。 ﹁小山内とスタニスラフスキーが
は印象的だったし、忘れることはできない。それは一行
会う個所が興味深かった﹂と。拙論のどこに、小山内と
外国へ出ると、誰でもが少なからず愛国者になる。小
山内が﹁もはやヨーロッパの劇場は死んでゐます﹂云々
か。
スタニスラフスキーの出会いが、書かれていたのだろう
もあったであろうし、歌舞伎に多大な関心を寄せ、その
と言ったのには、ロシア人に日本の演劇を誇りたい気持
様式を取り入れる試みをしていたメイエルホリドへのオ
かもしれない。しかし、読もうと読むまいとどちらでも
この高名な評論家は、拙論を読まずに感想を記したの
よい。その一行の感想は、滑稽だと思った。ある演劇学
マージュでもあったろう。しかし、言葉の上での多分に
オーバーな表現があったにしろ、小山内のそのころの考
へ行った目的は、 ﹁スタニスラフスキーにも会って、モ
者は、築地小劇場関係の本のなかで、小山内がソビエト
スクワ芸術座の成長からも学びたい、小山内薫はそのよ
えが、率直に現われていると見なくてはなるまい。この
の口から再び語られるのである。
うにおもったにちがいない﹂と書いている。これも同じ
考えが、六日後のコーガンのアカデミーでの講演で、彼
第二次外遊の小山内は、メイエルホリドを目指してソ
類いだ。小山内と言えは、 ﹁スタニスラフスキー﹂、小
や演劇批評家は、そうした固定観念もしくは偏見から、
ビエトへ行き.メイエルホリドの演劇を中心にして、モ
終生抜け出ることはないのにちがいない。
山内と言えば、 ﹁リアリズム﹂ 1ある種の演劇学者
を語ることは、なんとも絶望的なことではないだろうか。
しかし、︿小山内薫とメイエルホリド﹀というテーマ
築地小劇場時代の小山内の主たる関心は、︿ドイツ表
スクワの演劇を観て回った。
わたし は ﹁ 小 山 内 薫 ー モ ス ク ワ で の ﹃ 演 劇 観 ﹄ の 転
はっきり言っておきたい、小山内の訪ソ前後の関心は、
換はあったか?i﹂ ︵﹁青電車﹂昭54・12︶で、し現主義からメイエルホリドへ﹀だったのである。そして、
つこいくらいに小山内とメイエルホリドの関係を書いた。
スタニスラフスキーではない。メイエルホリドなのだ、
と。
小山内が訪ソ直前に語った前掲の﹁葡萄棚﹂の文章も引
用した。この論文を載せた同人誌を、批評を請うために
一3一
訳紹介らしい。そのチェメンスキーと彼の劇団は、その
スクワのユダヤ劇場ガビマのチェメンスキーの論文の翻
大正元年の小山内の外遊時には、まだ三十歳を越えた
頃にはすでにロシアを出て、西欧を経てアメリカに渡り、
* *
ばかり。三年前に自由劇場を興し、その頃は、川村花菱
ら得ることはできない。
エルホリドの現状についての知識を、チェメンスキーか
燃えていた頃だ。この時は、ロシア・ヨーロッパ各都市
ともかくもわが国には、メイエルホリドの評判は聞こ
活動をつづけていた。であるから、二〇年代後半のメイ
の演劇を見て回る八カ月にも及ぶ長途の旅であった。第
えていたにしろ、正確には、革命後のロシア演劇の現実
のあとを継いで、土曜劇場という若い劇団の指導にもあ
二回の外遊である昭和二年のソビエト旅行では、彼はす
そんな情況のなかにあって、小山内は、実際にソビエト
をつかむのは困難だったというのが実情であったろう。
たっていた。まだまだ新しい演劇への希望にも野心にも、
でに四十六歳。演劇にかける情熱は衰えていないとして
に渡り、メイエルホリドを中心に、霧に包まれたような
も、多年の新劇運動の苦しみや困難を味わい尽くしてい
るばかりか、彼の身体は、 年後に生命を奪う病魔にお
ロシアの演劇の実態をわが目でたしかめるという機会に
巡り合わせたのだ。
かされつつあったのだ。
こうした条件から、二つの外遊の同列に比較すること
がソビエト劇壇に君臨していると信じていたにちがいな
い。昭和三年︵一九二八年︶に原始社から刊行された﹃メ
小山内は、ロシアの地を踏むまでは、メイエルホリド
築地小劇場ではすでにメイエルホリドの影響があり、
イエルホリド研究﹄という書物がある。その執筆者たち
であり、今度の旅にも大きな期待を抱いていた。
大正十四年の小山内演出のゴーゴリ作﹃検察官﹄は、メ
は、築地小劇場の文芸部メンバーを中心に、小山内に近
はできないにしても、小山内の知的好奇心は今なお旺盛
イエルホリド式の舞台構成であったと言われている。し
ロシア演劇関係の蔵書が参考資料として用いられたとい
いロシア文学者たちで、その執筆にあたって、小山内の
う。この書のなかで、八住利雄が﹁十月革命以後のメイ
エルホリドの仕事の実態は真に理解するのは困難だった
ろう。彼は、 ﹁メイエルホリドの奇蹟﹂ ︵﹃小山内薫全
エルホリド﹂という文章を書いているのだが、八住はこ
かし、小山内が主に接していた欧米の文献からは、メイ
集﹄第五巻︶という論文を発表しているが、これは、モ
一4一
イエルホリドの政治的立場について、その正確なところ
八住は、一九二〇年代後半のソビエト劇界におけるメ
は、レーニンの死。この前後からのロシア共産党内の権
の熱狂は、新秩序へと転換し始めていく。一九二四年に
には新経済政策︵ネップ︶が導入され、この頃から革命
術を発展させることが可能だった。ところが︸九二一年
アの演劇と文学を代表するものであると言ってよい。た
は知りえようもなかったようだ。当時すでにメイエルホ
力闘争が開始されていくにつれて、ロシア前衛派をめぐ
う論じている。 ﹁一九二八年ーこのすばらしい劇場
リドは、 ﹃ミステリア・ブッフ﹄の詩人マヤコフスキー
る状況は、急激に変化してくるのであった。一九二五年
しかに一九二〇年前半までは、ロシア前衛派は、ロシア
などとともに、暗い運命へ追い込まれつつあり、三〇年
がこの後何をするか、その予想の前には世界中の殆どす
代の苛酷な政治的立場とはくらべものにならないとして
の党中央委員会による﹁芸術自決﹂と﹁芸術の自由競争﹂
革命の理想と希望を表現する可能性を見出し、彼らの芸
も、彼の政治的、芸術的立場は苦しいものになっていた。
の宣言にもかかわらず、この頃の政治の要請によって、
べての劇場は、蟻の如く小さいのである﹂と。
本誌主幹のロシア演劇研究者である武田清氏によると、
その原則は崩れていったのである。
㎝九二三年には、マヤコフスキーらは﹁レフ﹂を創刊。
ロシア前衛芸術派にたいする圧迫ということでは、文学
と演劇とではやや時期がずれるようだが、メイエルホリ
一方プロレタリア作家グループは、同年に﹁マップ﹂を
結成し、一九二五年には﹁ワップ﹂の下部組織として、
ドがはっきり新聞紙上で攻撃にさらされるのは、革命十
周年記念直後からであるということだ。だとすると、小
を背景として、﹁ラップ﹂派の﹁レフ﹂派にたいする攻
﹁ラップ﹂となる。この頃から、当時の党内の権力闘争
撃は、激化の一路をたどるのであった。教条主義的リア
山内の訪ソも八住の論文執筆も、メイエルホリド攻撃が
* *
顕著になる丁度その境目の時期だったということになる。
リズム論をふりかざす﹁ラップ﹂派の攻撃にさらされて
事であったというのは当然であったろう。彼らは、苦し
が演劇において注目していたのは、メイエルホリドの仕
いたマヤコフスキ!らの﹁レフ﹂派ではあったが、彼ら
ロシア革命の翌一九︼八年に、メイエルホリドはマヤ
コフスキ:の﹃ミステリア・ブッフ﹄を上演して、革命
後のロシア前衛演劇の未来を輝かしいものにした。メイ
エルホリドとマヤコフスキーの活躍は、革命直後のロシ
一5一
政治の局面では、レーニンの死後、スターリンとトロ
を惜しまなかったのである。
い立場にありながらも、メイエルホリドにたいする助力
こしたのであった。ことに党中央の﹃南京虫﹄批判は、
リド演出は、当然のように、激しい批判と論議をまきお
を風刺的に表現したものだと言われる。このメイエルホ
山内重美氏の﹁舞台言語の革命iメイエルホリドの
ると、作品論としてでなく、この作品があつかったプチ
方法﹂ ︵﹁芸術倶楽部﹂昭四九・一、二月合併号︶にょ
ッキ⋮の政権闘争は苛烈を加えた。ブハーリンと手を結
んだスターリンは、一九二六年に、トロッキーを党中央
﹃風呂﹄が、メイエルホリドの演出で初演されたが、こ
翌三〇年には、マヤコフスキ!の官僚主義批判である
開されたという。
ブル根性そのものの有無をめぐって、ヒステリックに展
委員会政治局員の地位から解任し、二七年に党より除名。
二八年にアルマ・アタに追放。二九年には新追放令によ
って、国外へ追放する。これら一連の過程を踏んで、ス
ターリンの完勝でもって、トロッキーとの闘争劇に終止
の上演は以前にもまさる惨憺たる不評でおわった。しか
符が打たれるのである。
党中央委員会は、︿戦時共産主義﹀からネップ導入へ
し、その結末は、さらに残酷である。この不評を見届け
たマヤコフスキーは、上演の一週間後に自殺するのであ
移り変わる一九二〇年頃には、メイエルホリドの批判を
打ち出していた。党中央の政策に忠実なプロレタリア作
マヤコフスキーが自殺する一九三〇年は、スターリン
る。
ロシア前衛派であり、政治面では、トロッキーであった
家グループの攻撃対象は、芸術面では先に見たとおり、
時代の幕開けである。そして、この詩人の自殺は、メイ
っているだろう。 ﹃南京虫﹄上演の前年の一九二八年︵小
エルホリドのソビエト劇界における運命を、象徴的に語
のだ。
小山内の訪ソの一九二〇年代後半期におけるソビエト
だが、一九二九年には、マヤコフスキーの﹃南京虫﹄の
芸術界の背景には、このような政治的局面があったわけ
当時この地に住み着いていたアンネンコフに、 ﹁ソ連で
山内訪ソの翌年︶に、パリへ行ったメイエルホリドが、
と語ったということである︵アンネンコフ﹃同時代人の
はもうおれは奴らの好きなように圧迫されだしている﹂
上演によって、演劇におけるメイエルホリドとマヤコフ
スキーの二回目の出会いが実現した。メイエルホリド演
出による﹃南京虫﹄は、ネップの状況下のソビエト社会
一6一
撃はますます一貫した形をとるようになった。それゆえ、
とりわけ﹃芸術事業委員会﹄におけるメイエルホリド攻
ドがパリからモスクワへ戻って以後、・﹁﹃党の上層部﹄
アンネンコフによると、一九三〇年九月、メイエルホリ
肖像﹄中巻、青山太郎訳、現代思潮社、昭46︶。また、
て準備されていた。この党大会が開かれる十二月まで、
月の第十五回党大会にむけて、トロッキー派らの党内反
ビエト現代政治の濁流が渦巻いていたコ一九二七年十二
反対派の仮借のない攻撃の背景には、前に見たとおりソ
メイエルホリドのみならず、ロシア前衛派にたいする
など、とうてい予想されようもなかったのだ。
小山内はモスクワに滞在しているのである。
対派の一掃という大政治劇が、着々とスターリンによっ
一九三七年には、新しい設計によるメイエルホリドの
第十五回党大会は、トロッキー派などの反対派の党除
メイエルホリド一座のアメリカ興行はとりやめになった﹂
劇場建設は、その頃の彼にたいする非難の高まりのなか
名ということで、スターリン時代への第︸歩であり、三
という。
で、突如工事中止という状況に追い込まれる。そして、
クワに、小山内は短期間であるにせよ、滞在していなが
〇年代の粛清につぐ粛清というソビエト現代政治史の激
ら、ここにくりひろげられつつあった政治劇も、現代史
流の序幕であった。このロシア現代史の舞台であるモス
ーリン粛清の犠牲者の一人になったのである。
の激流も、ほとんど感知しえなかった。それは、同じく
三九年には、官憲によるメイエルホリドの逮捕。その後、
メイエルホリドが﹁ソ連ではおれは奴らの好きなよう
革命十周年記念の日本代表として招待され、小山内とモ
彼は杳として行方を断つ。メイエルホリドもまた、スタ
い込まれていたちょ.うどその時期に、小山内は﹁メイエ
う。
スクワで落ち合った秋田雨雀とて、同じことであったろ
に圧迫されだしている﹂と述べた状況の方に、徐々に追
ルホリドの現在の為事﹂を知るために.ソビエトを訪問
したのであった。後に触れるように、小山内は帰国後に、
彼らに、旅行者の目を越えるべき状況など、なに一つ
田雨雀はエスペラント語の力をかりて、モスクワの民衆
与えられなかったというのが、真実である。しかし、秋
﹁五年前、少なくとも三年前にモスクワへ行ったら﹂と
いう悔いを語っているのである。しかし、小山内には出
の生活のなかに入っていったというふうに、自負するの
発当初、メイエルホリドのソビエト国内での立場も、ま
してや十年後にメイエルホリドへ襲いかかる苛酷な運命
一7一
だった。そして、彼は、小山内がロシア革命を﹁知識的﹂
ソビエトにいて、ただ感傷的な生活の歌をうたったにす
れない。とは言え、その頃、苛酷な革命後の巨大な政治
ぎないが、本質的にナロードニキであった彼に、それ以
の現実に、マヤコフスキーもメイエルホリドも押しなが
には﹁理解してゐても、生活としては受取ることが出来
難したのである。しかし、今日から見れば、小山内と雨
されつつあったのだ。ロシア革命とは、一体何であった
として、それを越えることはできない相談だったかもし
雀のどちらが、当時のロシア演劇をよくとらえていたか、
のか。安易に小山内を批判する雨雀の考えを絶するほど
上を求めるのは無理であったかもしれないし、一旅行者
自ずと解るであろう。
の苛酷な政治の現実であったのはまぎれもない。スター
なかった﹂と批判するばかりか、それが﹁彼のソビエト
雨雀の﹃日記﹄ ︵﹃秋田雨雀日記﹄第二巻、未来社、
リン時代へ向けての歴史の大きなうねりから眺めるなら
演劇についての批判の根本的欠陥﹂となっているとも非
昭4︶を読むかぎりでは、彼はその時々に、ロシアの生
に、根本的な﹁ソビエト演劇についての批判﹂というこ
活を歌っただけであり、やはり彼は本質的には拝情詩人、
とであれば、後に見るように、小山内は短期間のうちに、
ば、雨雀の小山内批判など、目クソ、鼻クソを笑うの類
この論争にさほどの関心を示したようには見えない。彼
リンとトロッキーの論争を﹁プラウダ﹂で知るのだが、
思いのほか的確に当時のロシア演劇をとらえているので
いや、感傷的な詩人ではなかったかという印象を受ける。
はその後も、この論争に関することを何も記していない。
ある。
であったのかもしれない。否、雨雀の小山内批判とは逆
それ以上に、彼はソビエト滞在中、政治にたいして、さ
* *
彼はモスクワ滞在中に、レーニンの遺言をめぐるスター
ほど関心を示しているとは思えないのである。二〇年代
に、ホテルと劇場の間を静かに往復しながら、彼流の熱
心さでもって、革命後のロシア演劇を知ろうと努めたの
小山内は、雨雀の自分への批判などつゆそ知らぬまま
には、考えが及ばなかったようだ。当時の彼の思想は、
であった。彼が今回のソビエトの旅で第一に求めたもの
後半の激動の政治劇は、その後のロシア人の生活を決定
本質的にはナロードニキであったのだろう。
が、なぜスタニスラフスキーでなく、メイエルホリドで
的なものにしたはずであったが、雨雀はそのようなこと
雨雀はスターリン時代到来という現代史の悲劇前夜に
一8一
昭40︶という論文で、こう書いている。
する或考察﹂ ︵﹁小山内薫演劇論全集﹂第二巻、未来社、
あったのだろうか。彼は日本にあったとき、﹁演劇に対
例として、小山内は、メイエルホリドの演劇をあげてい
主張した。こうした演劇の本質を取り戻した現代演劇の
それに至る道は、 ﹁自然主義の奴隷﹂では決してないと
ルホリドは役者の肉体をあらゆるプロバビリチに於い
メイエルホリドによって体系化されたビオメハニカと
ビオメハニカに着目したのである。
として、小山内は、メイエルホリドが実験を進めていた
るのだった。演劇の本質を取り戻すべき演劇創造の方法
て駆使しようとする。最大限度に於いて、人間の運動
は、生体力学とでも言うべき演技の技術であり、俳優の
演技も最早自然主義の奴隷ではなくなった。メイエ
を効果的に利用しようとする。これが謂うところのビ
ニズムであった。この方法によって訓練された俳優の身
身体のみが可能にする表現形態を要求する演技術のメカ
体は、日常動作をこえた行動範囲を獲得し、それによっ
の域にまで侵入していることは、日本の歌舞伎劇と同
様である。
て、演劇的宇宙を拡大していくのだと言われている。小
オ・メカニズムである。それがアクロバチック︵軽業︶
将来の芝居がどうなるか、.それを私は予言すること
﹁アクロバチック︵軽業︶の域にまで侵入している﹂
山内がメイエルホリドの新しい演技術に着目するのは、
からにほかならず、しかもそれが﹁日本の歌舞伎劇と同
イエルホリドのそれの如き︶が、演劇をその本質に於
いて取り戻した、或は取り戻しつつあるものであるこ
様である﹂ことによるからだ。
は出来ない。併し、現在の最も優れた演劇︵例えはメ
とは確実である。
とは、 ﹁演劇に対する或考察﹂の二日前に書かれた﹁民
ック︵軽業︶の域まで侵入している﹂と理解しているこ
彼か、メイエルホリドのビオメハニカを﹁アクロバチ
演劇は既成の劇場のものでなく、どこにでも劇場を持ち
衆劇への或暗示﹂ ︵﹁小山内薫演劇論全集﹂第二巻︶と
小山内が演劇の本質的なものとしているのは、一つは、
得るのであって、本質的形態として、戸外が考えられる
照らし合わせるなら、より一層の重要性を増すだろう。
/
ということ。第二には、演劇は本質的に専門的でないも
のであり、劇場内の職業的専門人たる役者の専有でない。
一9一
(
めて、それを純粋な芸術にまで引き上げる人があった
民衆を喜ばせるのである。
歌舞伎劇は如何にも軽業である。軽業であるが故に
於いて取り戻した﹂と同様に、小山内は、﹃国性爺合戦﹄
であるとともに、メイエルホリドが﹁演劇をその本質に
考察されていたのだ。それは、日本の新民衆劇への構想
構想中の﹃国性爺合戦﹄改作の創造的方法の問題として、
において、その本質を取り戻したいと考えていたにちが
この軽業ーこの極めて芸術的な軽業の奥義を極
ら、少なくとも、その人は新時代の日本民衆劇建設者
いない。その意味で、 ﹃国性爺合戦﹄は、 ﹁自然主義の
ある。
べく、野外において演ぜられるべきを理想とするはずで
演形式は、演劇の専門機構としての劇場から解放される
究極においてスペクタクルでなくてはなるまい。その上
の﹃見世物小屋﹄におけるメイエルホリド演出のように、
したがって、彼の﹃国性爺合戦﹄の上演は、ブローク
なくてはならない。
奴隷﹂からの解放であり鴇近代リアリズムからの脱出で
の名誉を、荷う人でなければならぬ。
バチック﹂な様式を﹁民衆劇のパン種しとして新しい民
前掲の二つの論文のうち後者では、歌舞伎の﹁アクロ
衆劇の創始を唱えたが、その方法として着眼したのが、
﹁演劇に対する或考察﹂で論究されたメイエルホー3ドの
ビオメハニカという演技の体係だった。ここで言われて
いる歌舞伎劇とは、六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛
門らの近代心理主義による歌舞伎ではない。それ以前の
小山内の演劇に対する考えは、自由劇場前後の時代と
は大きくちがっていた。今や彼にあっては、演劇の思想
﹁欧羅巴の自然主義にも、輸入的な日本の自然主義にも
う歌舞伎であり、その本来の様式である。
改作を構想し、それを完成すべく苦慮していたのは、演
禍せられないで、今尚その野性を持ち続けている﹂とい
しい演劇の実験として、訪ソ前後に構想されていた小山
劇独自の表現形式についてであり、その表現のための方
関心の対象外にさえなっていた。彼が﹃国性爺合戦﹄の
内の作品が、近松の﹃国性爺合戦﹄の現代劇化だった。
法の問題であったのである。
性だとか、戯曲の文学性だとかいった問題は、ほとんど
したがって、メイエルホリドのビオメハニカへの小山内
小山内がソビエト旅行の出発にあたって、メイエルポ
以上に見たような歌舞伎本来の様式を主素材にした新
の着眼は、たんなる歌舞伎論のためにあるのではない。
一10一
の彼の関心、とりもなおさず、演劇をその本質において
は演劇の実践者として、 ﹃国性爺合戦﹄の完成にむけて
らでなかったのは、以上のことからも解るだろう。それ
リドへ示した大いなる関心は、たんなる知識や好奇心か
小山内はロシアを離れる前日の十二月十二日、モスク
たにちがいない。
運命Vという言葉を聞いて、小山内はこころから感動し
内薫君﹂、 ﹁文芸春秋﹂昭4・2︶。共通するく改革家の
芸批評家を前に、彼は﹁日本演劇とその将来﹂という演
に招かれた。後に国立芸術科学院の院長となる著名な文
題で講演。他に、秋田雨雀、米川正夫、尾瀬敬止、ロシ
ワ大のコーガン教授のアカデミーでの﹁日本芸術の夕﹂
小山内のメイエルホリドに大いする関心が、たんに後
ア国立アカデミーのデ・アルキン、ロマン・キムも講演
* *
者の世界的な名声にひかれたからではなかったというこ
した。雨雀は﹃日記﹄に、 ﹁講演の原稿を二度よみかえ
取り戻すための方法論への関心であったと言えるだろう。
とは、すでに見たところだが、それはまた、メイエルホ
してみた。十分か十五分でできそうだ﹂と書いているの
で、小山内の講演もそれほど長いものではなかったろう。
リドのビオメハニカと名付けられた俳優の演技術にのみ
エルホリドがそれまでに試みてきた古典のアダプテーシ
雨雀が前掲の﹁モスクワの頃の小山内薫君﹂で、小山内
限定されるものでもなかった。小山内はこの旅で、メイ
ョン、西洋と東洋の演劇の融合の方法、スペクタクル演
よく似てゐる1自分は演劇の仕箏の上で何遍絶望し
こう言われたという。彼は、 ﹁君の運命が自分のそれに
見したとき、この畏敬すべきロシアの演劇の革命家より、
メイエルホリド劇場で、小山内がメイエルホー3ドと会
としていたにちがいない。
あらゆる芸術の伝統、例へは印度、支那、朝鮮、シャ
な刺激を受けてゐる1日本演劇は、東洋に於ける
はこのモスクワの演劇芸術の新しい創造的努力に大き
から新しい演劇芸術が創造されやうとしている。私達
と東洋演劇の伝統がモスクワに於いて合流して、そこ
モスクワは今演劇のメッカである。西洋演劇の伝統
講演をこう要約している。
ようとしたか知れない。改革家の運命には土ハ通のものが
ム、南洋のあらゆる芸術的蓄積が日本の演劇運動に合
かめると同時に、その革新的方法の息吹きを感じ取ろう
出の実際など、彼の演劇の方法のすべてを自らの目で確
ある﹂と語ったという︵秋田雨雀﹁モスクワの頃の小山
一11一
年の間に完成された歌舞伎のスチール其のものでなけ
して又その合流の基本となるものは日本に於いて数百
こに新しい芸術を創造して行かなければならない。そ
流され、その運動が西ヨーロッパの伝統と合流してそ
で終わった。雑誌﹁築地小劇場﹂の編集後記で、編集者
観する旨を予告しながら、ついにその約束を果たさない
そして、メイエルホリドについては、次号にまとめて概
ワ滞在中に接したソビエト演劇の状態を報告している。
の現状︵上︶﹂という文章を書き、彼が二十日間のモスク
﹁モスコオ劇壇の現状﹂続編の未掲載についての断りの
の久保栄が五月号と七月号の二度にわたって、小山内の
ればならない。
この講演の主旨は、東洋の演劇伝統と日本の演劇運動
たしかに築地小劇場十月公演の﹃国性爺合戦﹄上演に
いのは、筆者小山内の多忙のためだという。
むけて、彼は病に冒されながらも、残るエネルギーのほ
文章を書いている。久保によると、続稿のできあがらな
しく、﹃国性爺合戦﹄改作で実現しようとしていた小山
とんどを上演台本の完成に集中しなくてはいけなかった
との合流と、さらなる西欧演劇との合流、その基本にな
内の考えだった。その先駆は、メイエルホリドが試みた
という事情があった。劇団経営を考えて、金になる原稿
るものは歌舞伎のスチールだというもので、それはまさ
東西演劇の融合という実験である。小山内の講演で、﹁西
から書かねばならなかったという事情もあったろう。し
かし、彼は﹁築地小劇場﹂の八月号には、 ﹁﹃真夏の夜
し、そこから新しい演劇芸術が創造されようとしている﹂
と言われているのは、メイエルホリドの演劇であり、強
の夢﹄について﹂という一文を載せているのである。や
洋演劇の伝統と東洋演劇の伝統がモスクワに於いて合流
いてはメイエルホリドへのオマージュだった。この小山
の執れないものが、こころのどこかにあったのではない
だろうか。
はり小山内には、メイエルホリドについて、気楽には筆
な顔をしたのか、雨雀も報告していない。
小山内は﹁モスコオ劇壇の現状︵上︶﹂の冒頭に、こう
内の言葉を聞いた時、この夜の主宰者で、﹃われわれの
しかし、小山内がメイエルホリドへかけた期待は、実
書いているのだ。
文芸闘争﹄を上梓したはかりのコーガン教授がどのよう
際にはその大きさ通りであったのだろうか。彼は帰国後
に、雑誌﹁築地小劇場﹂ ︵昭3・3︶に﹁モスコオ劇壇
一12一
た通りである。
一九二〇年代前半のロシア演劇は、革命前、一九一七
革命直後とは大きく変化しつつあったことは、すでに見
見る為には、わたしの行くのが遅すぎた。五年前、少
年までのロシア演劇の前進を受け継ぎ、大きく開花した
に於ける新しい運動をその最も濃刺たる状態に於いて
なくとも三年前にモスコオへ行ったら、もっと生き生
観があった。この時期には、メイエルホリド、スタニス
革命と土ハに、或は革命に依って起ったロシヤの劇壇
きした状態に於いて新運動が見られたに違いない。ー
えて、ロシア演劇の新運動は輝くばかりであった。この
ェーホフ、一九二二年に病死するヴァーフタンゴフも加
ラフスキー、ダンチェンコ、タイーロフ、ミハイル・チ
ころが、やはりその通りだと言った。君はモスコオへ
わたしは、ロシヤ人の一人にこう言って訊いて見たと
来るのが、三年遅かったと言ったのである。
ルホリドであったわけだ。このメイエルホリドでさえ、
なかにあって、皿段の異彩をはなっていたのが、メイエ
ここには、二〇年代後半のモスクワ劇界にたいする小
ワップの教条主義的リアリズムが大手を振って歩き出
−今や苦境に立たされているのだ。
のが示されている。それは、革命後のソビエト社会を全
山内の公平で、感情を排したより冷静な目でとらえたも
し、これに反して、ロシア前衛芸術派が後退をよぎなく
されていった時期である。このような時期に、小山内の
面的に、無理にも肯定しようと努力した雨雀にはないも
のだ。
目でとらえられたモスクワの劇界は、かつての激しい革
二〇年代前半に輝いていたロシアの新演劇運動の衰退が、
すでに見たような、革命直後の内戦時の︿戦時共産主
れるという時代の移り変り。ソビエト国内は、小山内が
政治の力によって、急速にすすめられていたのである。
であった。︸見はなやかなモスクワの劇場の背後には、
前掲文で、 ﹁何処かまだ落ちつかぬところがあるだろう
小山内の﹁滞露日記摘要﹂から、彼のメイエルホリド
新的生命を失いながら、その栄光を失墜させつつある姿
と想像して行ったわたしは、意外にすべてが秩序よく整
関係の正常化、︸九二九年には第︸次五か年計画が承認さ
頓しているのに驚いた﹂と書いているように、平静を取
えろ支那﹄を見る。歌舞伎の手法の著しき利用を認む。﹂
劇場の印象をひろってみよう。﹁メイエルホリド座に﹃吠
義﹀から、ネップ導入へとつづく西欧資本主義国家との
り戻していたのである。それとともに、党の芸術政策も、
一13一
この演出に明確なり。﹂などとある。メイエルホリドの演
ホリド座にオストロフスキイの﹃森﹄を見る。メ氏の理論、
いては多くの疑問あり。よくよく考うべし。﹂﹁メイエル
﹁メイエルホリド座に﹃検察官﹄を見る。この演出につ
スタニスラフスキー、タイーロフの演劇に、じかに接し
ていた状態ではなかったろうか。彼はメイエルホリド、
つつも、演出上の技術でもって、どうにか止まろうとし
に映ったメイエルホリドは、かつての革新的生命を失い
ながら、無難なものをやっていた頃である。小山内の目
てみて、ロシア演劇の背後に進行している何かを直感し
えたはずである。
﹃アンチゴーネ﹄のタイーロフ演出のように、小山内を
出は、カーメルヌイ劇場で観たハーゼンクレーファー作
あからさまに失望させることはなかったろうし、彼はそ
ロシア演劇の変化を言い当てていると言ってよい。そし
革命後のロシア演劇は、一九二五年を境として、その
て、 ﹁少なくとも三年前にモスコオへ行ったら﹂という
の技術的にすぐれた演出法を認めていたであろう。しか
イエルホリド演出にかんする記述は、あまりにも冷静で、
モスクワ劇界への否定的とも思える小山内の嘆息が、︸
三年前にモスコオへ行ったら﹂という悔いは、まさしく
よそよそしすぎてはいないだろうか。
九二七年のソビエト旅行における、メイエルホリドを含
前後でわかれると言われている。小山内の﹁少なくとも
小山内はモスクワの第二日目に、メイエルホリドを彼
めてのロシア演劇にたいする彼の終局の印象であり、結
いて、遥々やってきたことを思えば、彼の﹃日記﹄のメ
の私宅に訪ねている。その後、尾瀬敬止が紹介したよう
し、小山内がメイエルホリドの演劇に大いなる期待を抱
に、メイエルホリド劇場の楽屋で講演した際も、彼と会
論であったと言えよう。
彼はメイエルホリドに一番の期待をもってソビエトへ
っているのである。この時、彼から受けた印象に加えて、
プロレットクリトの主事プロトネフと作家のグレボブと
渡り、 ﹁メイエルホリドの為事は、相当細に見て来たつ
概観すべき﹁モスコオ劇壇の現状﹂の続稿へすすみえな
もりである﹂と言いながらも、メイエルホリドの演劇を
知って、なにかしらこの頃のメイエルホリドのソビエト
かった。それには、小山内の胸中に、メイエルホリドに
いう人物を訪ねたとき、小山内は、この二人の生粋のロ
での立場を直感したのではないかと想像する。
たいする何かひっかかるものがあったからではないか。
シア共産党員が﹁メイエルホリドをさえ敵視﹂するのを
スタニスラフスキーとて、この時期は周囲の情勢を見
一14一
ところが、小山内はモスクワ滞在中に、興奮に誘いこん
きた新聞﹂を継承するものだった。 ﹁生きた新聞﹂とは、
時期に、プロレットクリトの運動とともに生まれた﹁生
革命直後の新聞そのものが乏しかった時代に、新聞記事
だものがあり、それは意外なところにあったのだ。
* *
を舞台で朗読する慣行から発展したものである。それが
継ぎながら、︿職業的生きた新聞﹀として発展する。そ
でも補われるようになって、一つの演芸形態になってい
.った。シニヤヤ・ブルウザはこの﹁生きた新聞﹂を受け
近日の出来事を例示したり、解釈したりする以外のもの
帰国後、小山内は、 ﹁﹃シニヤヤ・ブルウザ﹄を見る﹂
︵﹁小山内薫演劇論全集﹂第三巻︶という文章を書いて
いる。モスクワ滞在の三日目、先に述べたカーメルヌイ
待っていた。やっと幕も下りて、彼が席を立とうとした
して、当時の労働服を衣裳にした演芸を呼び物として、
劇場のタイーロフ演出に失望し、最後の幕が下りるのを
とき、同行の一人のアメリカ婦人から、シニヤヤ・ブル
と言われている。
小山内は、シニヤヤ・ブルウザの活動最後の時期に出
活動していったのであるが、一九二七年頃には消滅する
たから、 ﹁是非一度は見たいものだ﹂とは、思っていた。
会ったわけだ。彼は﹁﹃シニヤヤ・ブルウザ﹄を見る﹂
ルウザについて、ドイツの雑誌で舞台写真などを見てい
その程度の関心であったらしいが、この時のアメリカ婦
シニヤヤ・ブルウザの演じるところを、次のように描写
という文章で、モスクワ郊外のある工場でおこなわれた
ウザを観るように誘われたのである。彼はシニヤヤ・ブ
人の誘いに、すすんで乗ることにした。
口上が終わると、直ぐ演芸が始まった。
しているのである。
そして、小山内はシニヤヤ・ブルウザを観て、真夜中
遅くホテルに帰り、 ﹁私はいつも芝居から帰って食う晩
腹はシニヤヤ・ブルウザの饗宴で一杯で、床へ入ってか
うしろはいつも黒幕である。役者は男も女も基本衣
食を逃したことを決して悔いなかった。﹂それは、 ﹁私の
ほどまでに、小山内は、シニヤヤ・ブルウザに感激した
らも、暫くは興奮して寝つかれなかった﹂からだ。それ
けたり、色彩のある衣裳をおおったりする。背景は極
裳は黒の労働服で、必要に応じて、それに或飾りをつ
めて簡単なもので、いつもそれは役者が手で支えてい
のである。
シニヤヤ・ブルウザは、革命後の民衆劇運動の隆盛の
一15一
ば、背景を持って踊るのである。
る。手で支えながら、或ポオズをするのである。謂わ
に見たわけではなく、マックス・ラインハルトからの着
たのである。それに、小山内がソビエトへやってくる数
タクルに、未来の民衆劇のあるべき姿を見ようとしてい
その考案と熟練とは、到底労働者出身の芸人とは思わ
か月前に、 ﹁民衆劇への或暗示﹂を発表して、民衆劇運
眼であったらしい。そうとは言え、彼はこうしたスペク
れぬ巧さである。女の踊り手なども、普通のヲオドヰ
動への再度の関心を示していたことも忘れてはなるまい。
歌いながら踊るのが、演芸の主なるものであるが、
は勿論まじめである。
ルで見るような、厭らしい媚を少しも見せない。男達
を挾めて演ずるといったスペクタルであった。シニヤヤ・
りを主たる構成要素として、場合によってはパロディー
目下の︿軽業としての民衆劇﹀の問題も考えていたのか
かつて蠕蟷座へむけたと同じ興味を甦らせるとともに、
小山内は、シニヤヤ・ブルウザの歌と踊りを観ながら、
タクル性に着眼して、それを基にした演芸であった。
そこでの民衆劇は、すでに見たように、歌舞伎のスペク
ブルウザにたいする小山内の感激は、彼自身にとって意
もしれない。それはまた、彼にとっては、︽メイエルホ
シニヤヤ・ブルウザは、小山内が描くように、歌と踊
外であったかもしれぬが、その意外性は、シニヤヤ・ブ
リドの問題︾でもあった。
彼のモスクワ観劇記で、一つ気づくことは、彼がモス
ルウザとの予期しない出会いにあったはずである。彼が、
歌と踊りを主にしたスペクタクルに感激すること自体は、
種もメイエルホリド座あたりから見ると、ずっと無産階
クワの劇場の観客に注意をはらっているということだ。
級の人々が多くて、インテリゲンチャやプチ・ブルジョ
けっして意外ではない。
蟷座を計画し、そこに日本の民衆劇運動への出発を考え
アは比較的少ないように見受けられた。﹂また、 ﹃アンチ
テアトル・レヲリニチイで、ロマショフ作﹃空気饅頭﹄
ていたようだ。ニキタ・バリエフの騙蟷座とシニヤヤ・
ゴーネ﹄のカーメルヌイ劇場の観客について、彼はこう
を観たときには、次のような観察をおこなっている。﹁客
ブルウザの芸質は、実際は異なったものであったろう。
に、小山内は二世市川左団次とともに、日本における騙
しかし、小山内は、ミュージック・ホールの形式を取り
述べている。 ﹁カアメルヌイの看客も私には気に入らな
本誌前号の拙論﹁幻の﹃蠣蠕座﹄覚書﹂に書いたよう
入れた音楽と踊りの︿寄席﹀芸術である蠕蟷座を、実際
一16一
郊外の工場内で演ぜられたシニヤヤ・ブルウザに、 ﹁始
でも、モスクワ芸術座でも、カーメルヌイ劇場でもなく、
小山内は今回のモスクワ滞在中、メイエルホリド劇場
今のロシアらしくない、軽薄な看客の集りだった。モス
余りにも、プチ・ブルジョア的な看客の集りであった。
めて真個の演劇を見たような気がした﹂のである。終演
かった。それは私の偏見であるのかも知れない。だが、
クワのどこの劇場へ行っても、必ず見られる看客の情熱
後、彼は興奮しながら、シニヤヤ・ブルウザが演じたク
ラブを、労働者たちに混じって出てくると、いま演じた
−舞台の俳優にも負けない情熱iそれがこの劇
場では見られなかった。
いた道を足ばやに、彼らを追い抜いて行く。その時、小
ばかりのシニヤヤ・ブルウザの一団が、真夜中の凍てつ
山内は﹁風邪をひく危険も忘れて、思わず帽子を脱いで
うより本質的に、舞台と観客との理想的な関係に接した
というところにあったように思う。大きな工場の一隅で
敬意を表した﹂のであった。
小山内のシニヤヤ・ブルウザへの興奮は、一つはとい
演ぜられたシニヤヤ・ブルウザの労働者の観客に混じっ
とにもかくにも彼は、シニヤヤ・ブルウザに﹁真個の
、演劇﹂を見てとったのである。その言葉は重い。すでに
よくこんなことをいうが、これ程のインチマシが外にあ
劇の専門的劇場から、また劇場内の専門的な役者から解
見たように、小山内は演劇の本質的なものの復活は、演
った。舞台に看客とのインチマシー演劇の理論家が
て、 ﹁私は如何にも暢気なところが、たまらなく気に入
ろうか﹂と思ったのだ。彼はまた、こうも書いている。
た。これに較べれば、カアメルヌイも、メイエルホリ
なかった。私は始めて真個の演劇を見たような気がし
飽くまでも真面目で、決して見物に媚びるような風が
それは完全な舞台との融合であった。しかも舞台に
ホリドの演劇に求めながら、実際には、メイエルホリド
を見ただろう。そればかりではなかった。彼がメイエル
して、その舞台と観客の融合に、彼の民衆劇の本当の形
る姿、その理想的に近い形を見ていたにちがいない。そ
シニヤヤ・プルウザに、演劇の本質が取り戻されつつあ
放されたところにあると考えていた。その意味で、彼は
ドも、まだ舞台と観客との﹁橋﹂に嘘があるような気
劇場の舞台にその答えを見つけ出すことのできなかった
ものを、 ﹁労働者出身の芸人﹂の演ずるシニヤヤ・ブル
がした。
一17一
を観ている。しかし、彼は小山内のように、工場内のク
のロシアの新しい演劇の姿を見たと思ったのである。
たということである。彼はここにおいて、初めて革命後
ニヤヤ・ブルウザの舞台に実現されているのを見て取っ
ラブで、労働者に混じって観たわけではなく、劇場で外
小山内のメイエルホリドへの期待は、裏切られていた
による美の表現と、そのメカニズムといった問題が、シ
国人の招待客として、これを観ているのだ。ただ、雨雀
ヤ・ブルウザの興奮は、原因もなく突然おこったように
かもしれないが、思わぬところで収穫があった。シニヤ
ウザの舞台に見出していたのだ。
はこの時、シニヤヤ・ブルウザの感激を語った小山内を
秋田雨雀も小山内の四カ月後に、シニヤヤ・ブルウザ
思い起して、 ﹃日記﹄にこう記したのだった。
の諸問題を前提にしていたということを見てきた。その
見えながらも、実は、訪ソ以前から彼の内にあった演劇
小山内君がこの芝居を見てはじめてロシヤの新しい
爺合戦﹄の改作があったはずである。
演劇の諸問題の具体的なものとして、構想半ばの﹃国性
小山内の民衆劇への関心は、︿高等寄席﹀形式の演劇
がいっしょになっていること、肉体の運動と美がいっ
しょになっていること、この芝居によって、﹁美﹂の
を発展させた野外劇場形式の方向へむかっていた。それ
芝居を見たといったこと、ここでは演劇とメカニズム
観念が一変するだろうということをいった。
の彼の言葉からして、小山内が本来メイエルホリドに求
しょになっている﹂とも言う。雨雀が書き留めたこれら
いっしょになっている﹂とも、 ﹁肉体の運動と美がいっ
が一変するだろう﹂とも、また、 ﹁演劇とメカニズムが
小山内はシニヤヤ・ブルウザを観て、﹁﹃美﹄の観念
小山内薫作、近松改作劇﹃国性爺合戦﹄は難産の末に、
爺合戦﹄の演出台本の完成に取り組むのだった。
ソビエトからの帰国後、小山内は病嘔をおして、 ﹃国性
を出しながら、実現させることができなかった。しかし、
であるが、彼はその完成に苦渋して、何度かの上演予告
が、 ﹃国性爺合戦﹄の完成へと結実しようとしていたの
めていた演劇独自の表現形式に関する答えを、シニヤヤ・
急死のニカ月前である。上演された﹃国性爺合戦﹄は、
昭和三年十月の築地小劇場移転公演で初演された。彼の
彼がモスクワの講演で語った通り、歌舞伎の様式性を基
ブルウザから得たと見てよい。つまり、彼がメイエルホ
リドのビオメハニカに着目した問題、それは俳優の肉体
一18 一
的プランを聴いていた青江舜二郎が、 ﹁座談会のこと﹂
大正十五年の末頃、小山内から﹃国性爺合戦﹄の具体
に富んだ作品として完成されていた。 、、
にして、随所に東洋演劇の要素を加えたスペクタクル性
本誌前号の拙論と重複する。
また、小山内のシニヤヤ・ブルウザ観劇に関しては、
加筆訂正したものである。
を基にして、そこからメイエルホリド関係を抜き出し、
︵﹁舞台新声﹂昭4・2︶で、 ﹁それは、先達上演され
たものとは、可成り異つてゐた。一言で云へば、あんな
ている。これからすれば、小山内の当初の構想は、かな
にレヴュライクでなく、つづと戯曲的であつた﹂と述べ
り戯曲的であったようだ。それが完成されたとき、当初
の横⋮想とは異なって、より音楽的要素と舞踊的要素が強
から考えていた︿軽業としての民衆劇﹀ということや、
くなっていたのである。その発展に、小山内が訪ソ以前
ソビエトの観劇体験などが詰め込まれていたのであろう。
彼がメイエルホリドに示唆され、シニヤヤ・ブルウザに
その実現を見たと思った俳優の肉体によってのみ表現さ
の﹃国性爺合戦﹄の舞台に、どの程度現実のものになっ
れる美と、そのメカニズムといったことが、築地小劇場
たか、小山内における︽メイエルホリドの問題︾は、さ
らなる具体的検討が必要にちがいない。
︻付記︼本稿は、本誌前号の﹁幻の﹃蠕蟷座﹄覚書﹂
の転換はあったか?ー﹂ ︵﹁青電車﹂昭54・12︶
と同様に、 ﹁小山内薫iモスクワでの﹃演劇観﹄
一19一
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