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H23年度研究成果報告書P91-128(7.5MB)

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H23年度研究成果報告書P91-128(7.5MB)
Ⅵ . 特産素材からみた地域文化力の向上に関する研究
和紙と青苧に関する研究
大山龍顕
1 .はじめに
大江町の町指定文化財に中の畑雷神社に奉納された「御戸帳」がある(図 6-1)
。御戸帳は、近世の山形
で紅花と並ぶ特産品であった青苧を用いた暖簾状の織物で神社の祭神の前面に掛けられた。指定された戸
帳 47 点の保存修復処置を文化財保存修復研究センターで行ない青苧を知る契機となった。青苧は大江町で
様々な形で奉納されており(図 6-2)
、地域を象徴する文化遺産である。
青苧は、苧麻やからむしとも呼ばれ、繊維をとるために栽培され、表皮を剥いで靭皮繊維を分離すること
で糸にして利用する。
一方、西川町には月山和紙がある。青苧・和紙は共に植物の靭皮繊維を使用することが共通し、青苧の
「苧引き」をしてできる状態は、まさに和紙の原料である楮の白皮に酷似する。和紙は、原料に多様な植物
の繊維が用いられる。麻を用いた紙は麻紙として知られ、現在は日本画用紙としても用いられる。青苧の繊
維束を目にした際、西川町の和紙の技術を活かして大江町の青苧を原料として紙を作ることができるのでは
ないかと思い立ったことがこの研究の出発点である。
最古の和紙の原料は麻を用いた。麻には大麻や亜麻など種類も多く繊維が異なるものの、苧麻を用いた紙
も正倉院に伝えられているという。古代に使われた素材が、現在の日本画用画材として流通していること
や、青苧が山形を代表する特産品であったということ、県内の数少ない和紙の産地であるということ、苧麻
と紙を通して二町の文化を見直してみることで、新たな地域文化力の向上へ繋がると考える。
そこで本稿では、和紙と青苧の素材調査を行い、地域文化力の向上へどのようにして繋げられるのか、そ
の方向性を探りたい。
2 .和紙の調査研究
(1)和紙について 1
現在知られる最も古い紙は、中国の漢時代の遺構から発
見されたもので、大麻を主成分として苧麻や黄麻が混入し
た紙であった。『後漢書』にある元興元年(105)に蔡倫が
発明したとされる記述から 200 年ほど遡る。蔡倫が発明し
た紙は「蔡候紙」といわれ、麻頭・敝布・魚網などを用い、
原料に麻などを用いていた。製紙は日本には 6~7 世紀頃に
伝えられたとされ、時代と共に技術が変化した。現在の和
紙の紙漉きは、流し漉きと呼ばれ、ネリと呼ばれる粘性の
ある液水中に加えて、繊維を分散させる技術を用いる。紙
の製法を『紙漉き重宝記』(寛政 10 年)でみると、現代と
殆ど変らないことが特筆される。紙ができるまでの工程に
は①楮を刈り取る、②蒸す、③皮をむく、④干す、⑤水に
漬ける、⑥黒皮を削る、⑦あくを抜く、⑧楮を煮る、⑨楮
図 6–1 御戸帳
を再び洗う、⑩棒でたたく、⑪紙を漉く、⑫干す、のおよ
そ 12 の工程がある。
(2)山形の紙漉き 2-4
次に山形県の紙漉き場を地域ごとにみる。まず村山地方
は、現在紙漉きを実施している場所は僅か数件だが、近世
以前は多数の地で行っていた。村山地方最大の紙漉き地は、
双月村(山形市)と高松村(上山市)で、特に双月村は、
元和 9 年(1623)の検地帳にも「かうす有」と記載され、
明治 5 年(1872)時には全 103 戸の内、79 戸が紙漉きを行
図 6–2 青苧の奉納品
Ⅵ . 特産素材からみた地域文化力の向上に関する研究
91
っていた。また明治期以降双月村より独立した和合町においても全 49 戸中 34 戸が紙漉きであったとされ、
近世から明治初期にかけて多数の地域住民が紙漉きに従事していた。同地域の紙漉きは、最上氏が統治した
時代すでに最上紙として知られ、紙漉業の独占権を持ち、小白川の流水の他、豊富な湧き水を引いて行われ
ていた。
上記以外の紙漉きを行った地域として、月布村(大江町)・関山村(東根市)・沼沢村(東根市)・川原子
村(天童市)などがあり、川原子で生産された和紙は、「川原子紙」と称され、昭和 32 年まで行っていた。
月布村では寛政元年(1789)の貢割符状や寛政 8 年(1796)の「諸役上納覚」に「鐚百九文 大目録紙代」
とあり、当時紙漉きを行っていたことがわかる。現在の山郷地区の深沢・伏熊・貫見地区や小清地区でも昭
和初期まで行われていた。また西川町では吉川と岩根沢で漉かれ、吉川で漉かれた大奉紙は「吉川大奉」と
して知られ、大正時代には東村山郡に次ぐ生産量であった。岩根沢では下小沼・西岩根沢・桂林・沼ノ平な
どで生産され、岩根沢の西山紙は郡内や庄内地方へと出荷されていた。西村山郡で紙漉きが残った岩根沢で
は昭和 35 年頃まで 6 軒が漉いていた。村山地方で紙漉きが多い理由には原料の山楮が豊富であったことと、
青苧と紅花の産地として梱包荷造用に特殊な厚紙を大量に必要としたことなどが挙げられ、地域的特色が関
係したといえる。
各地域の和紙としては、明治 12 年(1879)「山形統計表」をみると、東村山の大奉紙、南村山の麻布紙、
東村山・最上の半紙、南、西村山の美濃紙、東置賜・西置賜の中折りなどが数量的に多く記され、様々な紙
が作られていたことがわかる。
置賜地方で作られた和紙には、近世以前には江戸送りの上り紙、台帳用の帳紙・懐紙類(小菊・半紙・中
折り・実用紙・粕紙・紅花袋用の厚紙)が制作され、明治期になると、大奉紙・半紙・美濃紙・中折り紙な
どが作られた。
一方庄内地方では、鶴岡の城下町に紙漉き町の名が残る。しかし、明治 7 年(1874)の「府見物産表」を
みると、山形県(現在の村山・最上地方)は 9592 円、置賜郡は 1684 円、酒田県は 29 円で、庄内地方が突出
して低い。資料が少なく詳細は不明だが、近世から近代を通じて庄内地方には紙漉きがあまり育たなかった
といえる。その要因としては、原料栽培に適した山間部の土地が少なかったこと、水田率の高かった平野部
に副業の紙漉きが興る条件が揃わなかったこと、酒田湊を通じた県外和紙が流入したことなどが考えられる。
今日の山形県内では、和紙は上山市の麻布紙、西川町の西山紙(月山和紙)、白鷹町の深山和紙などで行
われている。近世から近代への紙漉きをみると、現在は失われているものの、かつては山形の多くの地域で
特産であり、西川町だけでなく、大江町にとっても潜在的な特産品であったと考えられる。
(3)山形の和紙利用 2-4
山形での和紙の利用方法についてみると、近世には先述した青苧や紅花などの産業を背景に出荷時の包装
紙や大奉紙、半紙、美濃紙、中折り紙など様々な紙が漉かれていた。しかし、明治 20 年代(1888~1898)
の洋紙と養蚕業の普及による原料の楮の植え替えにより大きく衰退する。
そんな中、存続を続けた和紙もあった。大野目(山形市)や歩町(山形市)では県内の和紙産業が衰退す
る中、和傘用紙として需要があった。大野目傘は双月和紙を約七割、新潟和紙を三割使用したとされ、原料
の楮が不足すると九州や四国からも購入した。また、上山市の麻布紙は、漆漉し紙として東北一円を市場と
していたが、明治 35 年(1902)の漆商の注文を契機に、萱簀に改めて長判を作ったことで、市場を東北一
円から関東、関西へと拡大させることに成功した。
東根市では、煙草用の和紙や苗床の温床に使う「温床紙」も生産されていた。和紙に植物油を塗って耐水
性を加味したものは別名「油障子」と呼ばれ、物資不足の戦時中ガラスの代用品にもなった。
現代に入ると和紙利用は書写材料が中心になり、卒業証書や、表彰状、感謝状などに利用され、平成 4 年
に山形県で開かれた「紅花国体」の表彰状・感謝状には長沢和紙と深山和紙合わせて二万七千枚が使われ
た。和紙を用いた賞状作りは西川町や上山市でも行われており、全国的にも広く行われている。地域の特産
として和紙を用いる有効な利用法の一つである。
和紙を書写材料以外の素材に使用する例は減少した。長沢和紙を用いて織物業者と提携した「紙布織」の
製品化も試みられたが、製造に手間がかかり高価格なため、需要が伸びず中止した例もある。他にも、和紙
人形を作成し販売するなど、様々な取り組みが行われている。
92
(4)各地の和紙
現在の書画文化財の修復には様々な和紙が使用されることから、
本年度は代表的な和紙の制作について調査を行った。
①薄美濃紙(岐阜県、美濃)
原料は那須楮。二三判の和紙が代表的。ネリ剤にはトロロアオ
イを使用。薙刀ビーターも使用するが、塵取りなどの原料処理を
丁寧にすることで、薄くて丈夫な薄美濃紙を制作している注 1。
②美栖紙(奈良県、吉野)
原料は楮と填料。白色顔料の胡粉を漉き込んでいる。掛軸を作
る際に厚み調節などの増裏打ち紙に用いられる。ネリ剤はトロロ
図 6–3 薄美濃紙の紙漉き
注2
アオイ。漉上げた和紙をすぐ板に貼り乾燥させる(素伏せ)
。
③宇陀紙 (奈良県、吉野)
原料は楮と填料。白色顔料の白土を漉き込んでいる。掛軸裏面
に用いる代表的な紙。伝統的な製法を受け継いで、叩打を手打ち
で行い楮を処理する。ネリ剤はトトロアオイ。乾燥は板干し注 3。
④雲肌麻紙(福井県、越前)
原料は麻(大麻)、楮、三椏、雁皮、分量比は不明。越前、岩野
平三郎工房で漉かれている。日本画用紙として全国の日本画家の
殆どが使用している。二三判といったサイズではなく、三六判や
五七判、七九判といった大判サイズがある。岩野平三郎氏が奈良
図 6–4 煮熟後の楮繊維(白皮)
時代の麻紙をもとに現代の麻紙を復活させた。現在は三代目。伝
統を継いで、様々な麻紙を制作している。ネリ剤はトロロアオイ。
乾燥は乾燥室にて室内乾燥注 4。
⑤白石和紙(宮城県、白石)
原料は楮。奈良・東大寺二月堂のお水取りで修行僧が着る紙衣
に使用する和紙。30 年間和紙を東大寺に届けている。楮、ネリ
(トロロアオイ)も全て自給により生産している。川合玉堂が日本
画用紙として使用していた。昔から和紙を生活素材としており、
紙衣以外にも紙布や紙の弁当箱、キセル入れなど様々なものがあ
図 6–5 楮畑(白石和紙)
った。デザイナーのイッセイミヤケが服の素材として使用した注 5。
⑥月山和紙(山形、西川町)
原料は楮。西川町で伝わっていた西山和紙の伝統を継いだ同寸
法による和紙。美濃判という和紙が二枚分の寸法となる。三浦一
之氏が漉いている。西川町大井沢の「自然と匠の伝承館」建設時
に、併設工房の指導者として迎えられた。現在は自分の工房を構
えて紙を漉いている。東北芸術工科大学の日本画研究室と連携し
て、日本画用紙としてF 50 号の和紙も作成している注 6。
図 6–6 西山紙と同寸の簀
(5)麻紙について 1
表 6–1 『延喜式』の紙漉き工程 1
現在では楮を用いた和紙がよく知られているが、古代は麻を用い
た紙が主流であった。楮を用いた紙との大きな違いはその製法で、
『延喜式』
(延長 5 年)に記された製紙法の記述にみることができる。
①煮 原料を木灰液などで煮ること。
②択 ①から異物や未蒸煮繊維を取り除くこと。
③截 短く切断すること。
④舂 切断された繊維を、臼などで搗くこと。
⑤成紙 紙を漉き乾かすこと。
Ⅵ . 特産素材からみた地域文化力の向上に関する研究
93
宍倉佐敏氏によれば、延喜式における麻は生の麻を処理した麻紙で、麻布のぼろ紙とは区別したとされ
る。斐は雁皮の樹皮で、苦参は現物が確認できない 1。麻紙は、平安時代になると雁皮や楮に原料が変わ
り、使用されなくなったが、越前の紙漉き岩野平三郎氏が日本画用紙として復活させた。
麻紙の復活は、大正 10 年(1921)に歴史学者の牧野信之助氏が滋賀県史調査の際、入手した絵葉書を岩
野氏に送ったことがきっかけである 6。岩野氏はその後、京都大学の内藤湖南氏らとの交流を続けながら麻
紙の試作を重ねた。岩野氏は麻紙の製法について『麻を紙になしたることは古き書にありと教へられぬ、紙
をもみせられけり。内藤先生のお話なり。(中略)紙とのみすることいと易しと思ひて、麻を金槌にてかち
砕き紙となるべき繊維を作り紙に漉きて送りぬ。
(中略)
、麻は煮て紙にするものにあらず。
(中略)
。雁皮に
似たる繊維ともなり、楮に似たる繊維ともなる』6 と記しており、試作した麻紙を内藤湖南・牧野信之助・
竹内栖鳳・横山大観・富田渓仙といった学者や日本画家に送り意見を求めた。これに対して牧野は『画仙紙
や程村紙といったこれまでの紙と比べて、淡い墨や滲み具合が一種異なっている(中略)必ず文墨に革新を
起こす』6 と評価している。
その後岩野氏は、多くの日本画家とやり取りを重ねながら様々な日本画用紙の制作を続け、現在の主流と
なった麻紙に描く日本画の基礎を築いた。戦後、麻(大麻)と楮、雁皮、三椏を混合して生み出された雲肌
麻紙は、日本画表現の多様性を支え、現在では日本画用紙として全国に定着するに至っている 6。
岩野氏が用いた麻は大麻だが、古代中国で紙の主要原料となったのは麻布のボロであった。苧麻も頻繁に
用いられており、正倉院文書中にもみることができる 7。楮の製法とは異なる麻紙の製法は岩野氏の記述に
あるように『金槌でかち砕き』
、或いは延喜式にあるように『春』
(搗く)という繊維を叩くことで紙を作る。
3. 青苧について
(1)苧麻について
青苧は「苧麻(ちょま)
」や「からむし」とも呼ばれ、山野や人家近くに生えるイラクサ科の多年草の植
物をさす。植物繊維の中で最も長く丈夫な繊維を活かして、古代より衣料原料用繊維として用いられてきた。
日常的な作業着や魚網などに用いられる一方、高級な上布の原料でも用いられた 8。日本に木綿が普及した
後も、東北の山間部の貴重な課金作物として栽培が持続され、山形県では江戸期に米沢藩などで栽培を奨励
し、越後上布や小千谷縮などの原料として京都や奈良へと運ばれた。山形藩における天保 8 年(1837)の青
苧の出荷荷駄数と役高をみると、紅花よりも高いことから、同地域の代表的な特産品であったといえる。
(2)大江町の青苧
青苧は気候的に寒冷地を好み、山村で雪深い大江町は適地
であった。現在の大江町全域と朝日町の両五百川方面にわた
って特産品として産出され、七軒七夕畑の青苧は「七軒苧」
と呼ばれ、最高級品とされた 9。しかし明治期以降、栽培が減
少し、現在では殆どみられない。
<青苧復活夢見隊の取り組み>
元町職員の村上弘子氏が発起人となって 2008 年に十数名の
有志と共に青苧特産づくり支援隊として活動している。転作
田を利用した青苧栽培を行い、様々な商品を開発している。
苧麻繊維の原料供給地であった大江町の環境を踏まえ、
苧麻の織物の作成にとどまらず、青苧を原料とするうど
図 6–7 青苧畑
んや、敷パッドといった、様々な商品開発に取り組みながら
10
、青苧を見直す取り組みを行っている注 7。
表 6–2 山形藩よる出荷駄数、役金高 2
年代
元禄5
紅 花
役 金
青 苧
駄 数
役 金
駄 数
10両
27駄 129両3分
955文 9貫300匁
880文
94
八日町
役 金
役 金
650駄
24貫文
67貫
600文
元禄9
175両1分
103文
467駄
12貫匁
288両
717文
1041駄
元禄10
159両3分
325文
439駄
500匁
168両1分
銀9分
銭2貫3文
841駄
15貫匁
(注)天保8年「山形城下新古銘細記」による。
葉煙草
ー
その他
計
138両3分
32両1分
195貫
994文
129文
26貫 101両3分 500両2分
461文
292文
512文
72貫文 98貫52文
ー
472両1分
779文
図 6–8 出荷時の青苧
(3)他地域の取り組み事例
苧麻を含め、麻についての取り組みは全国各地でみられる。ここでは、調査を行った福島県昭和村の事例
について紹介する。
福島県昭和村は、小千谷縮や越後上布などの最上級の麻布の原料供給地として全国的に知られた「からむ
し」注 8 の産地である。近年は原料供給に留まらず、栽培から製造まで一貫して行う体制を作り特産として
の基盤整備を進めている。苧麻については、原料供給地のため、上布を制作する技術の伝承がないが、大
麻を用いた農作業着などを制作していたことで、栽培から織りまでの一連の技術が伝承された。その技術
を「からむし」に取り入れ、村内で一貫した技術として伝えられた。また、独自に村へ留学して技術を学ぶ
「織姫制度」という研修制度を設ける活動を行い、研修生が定住することで人口増加に繋がるなど、地域特
産を活かした活動として成功している。
昭和村では古くから「からむしを引くことを絶やすなと言われ続けていた」注 8 とされ、近現代の過程で
も他の産業に変化する中でも村の特産であるという意識が続いていた。また、
「からむし」の繊維を作る過
程で、不慣れな者や子供たちも手伝い、
「わたくし」という程度の低い繊維を作成して小遣いを稼ぐといっ
た幅のある参加体制をとった。このため、技術習得を早期に行い、小遣いとして経済活動に参加することで
自覚が芽生え、地域特産に誇りを持つことで、世代間へ継承する意識の向上に結び付いたといえる。また、
苧麻を上布にするといった技術はないものの、大麻などの同様の繊維を用いて、一貫して製造したことで、
改めて苧麻の栽培に取り組む際にも、製品を踏まえた原料の精度維持に取り組むという関係性が維持出来た
といえる。織姫制度は自前で一貫した技術を維持する利点を生かして地域の特産技術そのものを価値として
提供する画期的な取り組みといえる。
4 .素材を用いた地域文化力の向上に関する取り組み
以上を踏まえ、両町の特産を活かした取り組みとして、大江町の青苧を用いて西川町で作る麻紙という活
用方法に可能性があると考えられた。そこで本年度は、苧麻を用いた和紙の作成を行った。作成方法は紙を
自作する手順を基に試作を行った。材料には、「苧引き」をした繊維を用い、はさみを用いて繊維を 1~2㎝
に裁断後、楮の製法でもある煮塾を行った後に木槌で繊維を叩いて原料とした 1。加工した繊維を用いて、
紙漉きを行ったが、技術的な問題から、うまくいかず、最終的な紙漉きは西川町の三浦氏に漉いて頂いた。
出来上がった紙は(図 6-10)②青苧紙となっている。麻の
特徴は繊維が長いことで原料処理が難しかったため、強度が
弱く今後の改良の必要がある。しかし、実際の青苧紙作成に
至ったことは今回の取り組みとしては成果となると考えてい
る。他の和紙の画像を見比べると紙の状態は様々で、それぞ
れの特性に応じた紙となっている。今後、青苧の紙を作成す
る際にもその用途を見出すことが和紙制作と同様に課題とな
っている。
図 6–9 青苧の叩打
①麻紙(宍倉佐敏作成)
②青苧紙
③美晒紙
④月山和紙
⑤薄美濃紙
⑥宇陀紙
図 6-10 材料別の和紙
Ⅵ . 特産素材からみた地域文化力の向上に関する研究
95
5. まとめと今後の展望
大江町の青苧を出発として素材についての調査を行った。青苧は近世の山形では紅花と並ぶ特産であった
が、和紙もまた出荷用に作られ、大江町でも生産が行われていた。また、和紙は産業とともに衰退したよう
に用途と密接な関係がある。伝統的と考えられる和紙文化は、改良の文化といえるほど、様々な用途に応じ
て改良されている。
和紙利用の課題は、手間がかかり高価であることである。手作りとなる特産では同様の問題を抱えやす
く、これは青苧も同様である。安価な洋紙の普及により和紙が衰退したように産業の利用には課題が多い。
一方で地域の特産としての強みもある。和紙の賞状や保存修復用紙などの用途では、手漉き和紙の希少性や
地域の特色、原料繊維の特性を活かした活用方法となっている。大量生産時には薬品処理などにより素材が
劣化するが、天然素材の特性を活かした少量生産に活路があると考えられる。今後和紙や青苧を活用する際
には、その特性を活かしているかを見定める必要があると考える。
また、世代間の継承という課題に取り組んでいる昭和村の取り組みは、幼少期の作業参加による達成感
と、最終的な製品が完成する充足感を地域の特産を育む意識の向上に繋げている。青苧による和紙という試
みには二町の特産を活かす以外にも、苧麻の繊維を活かした新しい製品としての和紙を生み出すことと、身
近な地域で製品化することで、原料から栽培まで一貫して取り組めることに意義があると考える。また、和
紙の使用方法としては、例えば賞状や三浦氏の制作の日本画用紙などの使用に可能性があるのではないか。
完成した紙を用いた絵画教室などのワークショップを行い、子供たちに身近に素材を知ってもらうことで世
代間の継承にも貢献することが目標である。
大江町と西川町は隣接する地域として近世から密接な関係がある。大江町は舟運貿易を背景として栄え、
山村に豊かな造形文化が広がり、西川町には山岳信仰に由来する独自の文化を有している。その文化を現在
に伝える文化財には、地域特産の青苧と和紙を用いたものが多い。和紙制作と一連の取り組みを通じてそれ
ぞれの地域を見直す取り組みとなることを期待している。青苧和紙としては、まだまだ改良の余地が多いた
め、今後は更なる特産調査を進めながら和紙の改良を行いたい。
注
注 1)薄美濃紙製作者、長谷川聡氏への聞き取りによる。
注 2)美栖紙製作者、上窪正一氏への聞き取りによる。
注 3)宇陀紙製作者、福西弘行氏への聞き取りによる。
注 4)雲肌麻紙製作者、岩野平三郎氏への聞き取りによる。
注 5)白石紙製作者、遠藤まし子氏への聞き取りによる。
注 6)月山和紙製作者、三浦一之氏への聞き取りによる。
注 7)青苧復活夢見隊、村上弘子氏への聞き取りによる。
注 8)福島県昭和村教育委員会、舟木幸一氏への聞き取りによる。
参考文献
1)宍倉佐敏『古典籍古文書 料紙事典』八木書店、2011。
2)
『山形県史 第二巻』山形県、1985。
3)
『山形県史 第三巻』山形県、1987。
4)
『山形県史 第四巻』山形県、1984。
5)菊池和博『手漉き和紙の里やまがた』東北出版企画、2008。
6)
『史料 絵絹から畫紙へ ‐ 岩野家所蔵近代日本畫家・学者達の書簡集』岩野家所蔵書簡集刊行会、2001。
7)
「正倉院宝物特別調査 紙(第2次)調査報告」『正倉院紀要 第 32 号』正倉院、2010。
8)永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004。
9)
『大江町史』大江町教育委員会、1984。
10)『蘇りの青苧ものがたり ‐ 青苧復活夢見隊の軌跡 ‐ 』大風印刷、2012。
11)「製紙に関する古代技術の研究」『保存科学』第 20 号、1981。
96
Ⅶ.遺跡に関する研究
米沢市戸塚山 106 号墳の発掘調査
北野博司
1 .はじめに
置賜地域には飛鳥時代の終末期古墳が南陽、高畠、米沢の 3 エリアに分布している。このうち高畠町に所
在する古墳群については 30 基余りが確認されており、2001 年、2008・2009 年にその規模や構造を明らかに
するための測量・発掘調査を実施してきた。一方、米沢市戸塚山古墳群(市指定史跡)には約 180 基の終末
期古墳が群集し、これが良好に残る東日本でも有数の遺跡である。内部主体はすべて横穴式石室で、石材に
は現地で産出する凝灰岩質砂岩や泥岩(頁岩)が使用されている。
戸塚山古墳群は現在 9 つの支群に分けられており、終末期古墳は丘陵西麓に集中する。北から金ヶ崎、飯
塚北、飯塚南、森合西、森合東の 5 支群、東に開く谷奥に上浅川 A、上浅川 B の 2 支群がある。記録を辿
ると明治 30 年頃から開墾や石材採取を契機とした遺物の出土が報告され、時を同じくして研究者らによる
発掘調査も始まっている(大栗 2011)。しかし、戸塚山で繰り広げられた数々の発掘にもかかわらず、いま
だ石室構造や石積み技術を検討できる実測図がほとんどないのが現状である。
近年、米沢市教育委員会は本古墳群の保存と国の史跡指定に向けた調査を始めており、2008 年度に金ヶ
崎支群にある 3 基の古墳(23、34、35 号墳)の確認調査を行った(菊地 2010)
。これまで本センターでは高
畠町の終末期古墳(横穴式石室)の調査を実施し、そこでは地表に露出した大型板状の凝灰岩を使用した
「矩形プラン」の石室が構築されていることを明らかにした。これに対し、戸塚山では小型の石材を主体と
した「胴張りプラン」の特色ある構造を採用している。このような石室構造の差異がなぜ生じたのか。被葬
者集団が保有する石室構築技術の系譜に関わる問題なのか、環境への技術適応としてみるのか。資源・素材
と型式・構造との対応関係の解釈は、考古学的にも普遍性を持ったテーマといえる。
山崎支群
金ヶ崎支群
上浅川 A 支群
上浅川 B 支群
飯塚北支群
106 号墳
山頂支群
飯塚南支群
M176
森合西支群
森合東支群
0
500m
第 5 図 戸塚山古墳群分布図(米沢市教委 1984 より、一部改変)
図 7-1 戸塚山古墳群分布図
(米沢市教委 1984 より、一部改変)
Ⅶ.遺跡に関する研究
97
調査は米沢市教育委員会と連携、協議しながら進め、2010 年度は石室構造の基礎データを得るため開口
している横穴式石室墳 2 基(106 号墳・176 号墳)の現況測量を実施した。2011 年度は、これまで戸塚山古
墳群では石室の全体像が明らかになった例がないことから、106 号墳の羨道部と前庭部の発掘調査を行うこ
ととした。106 号墳は、1983 年の市教委による分布調査の際に、玄室の清掃および略測が行われ、調査中
に玄室奥壁側の西側壁沿いから鉄製品を中心とする大量の遺物が発見された。出土状況の記録はなく、追
葬の有無などは確認できないが、狭い範囲から集中して出土したという。出土した遺物には、鉄刀 1、刀
装具(鵐目金具片 2、八窓鍔 1、無窓鍔 1、喰出鍔 1、鎺 1、単脚足金具 1、責金具 1、把頭または鞘尻金具
2)、鉄鏃 153、鉄斧 1、刀子 7、器種不明鉄器多数、勾玉 1、須恵器(甕 ・ 壺 ・ 杯)がある(手塚 1986、菊
地 1998)。
2 .石室構造
今回の調査で羨道部と前庭部を発掘し、開口している玄室と合わせ、戸塚山古墳群中でははじめて横穴式
石室の全貌が明らかとなった。ただし、玄室床面が未発掘であることや羨道部西壁の南半が破壊されていた
こと、もとより石室の解体調査を実施しているわけではないので、構造の把握には限界がある。そのことを
踏まえたうえで、その特徴について述べていく。
床面プラン 玄室平面の寸法は仮に 30cm 方眼で割り付けると整数でおさまる部位が多い。特に設計基準に
基づき最初に設置すると考える奥壁と袖石の間は 3 . 0m(10 尺)
、玄室幅は中央が 6 尺、奥壁が 5 尺弱、玄
門よりが 5 尺となる。これに今年度明らかとなった羨道部を加えて設計プランを想定したのが図 7-11 であ
る。羨道長は 2 . 2m で玄室長と比べると短い。高畠町の横穴式石室では両者は 1:1 となるものが多かった
(北野 2002)。羨道部幅は中央と南端が 0 . 9m(3 尺)で、北端が 1 . 0m とやや広い。これらから概ね 30㎝の
N2
基準尺があったと考えられる。
N1
E1
0
W2
E2
第 1 トレンチ
W1
NW2
233.0
NW1
M107号墳
235.0
234.9
S1
3W1
4W1
羨道部
樹木 5E1
前庭部
7W2
SE2
SE1
7E2
S2
SW2
6W1 6E1
232.0
233.0
M114号墳
234.0
235.0
0
7-2 調査区配置図
第 7 図図調査区配置図 98
5m
石積み 不整形な小型石材を小口積みする胴張り型の横穴式石室である。側壁の「胴張りプラン」は、控え
の短い小型石材で一定の距離を積む際、中央部が崩落しやすいため、その技術的適応として採用されたと考
える。入角と出角で構造体は異なるが、石垣における「輪取り」に対応しよう。石材の大きさや面が不整形
なため横目地の通りは悪いが、布積み傾向をうかがうことができる。奥壁よりや東側壁の玄門寄りは比較的
横目地の通りがよい。玄室では小口の小さな石積みの上部を長手の石で押さえたり、それらの間に薄いはさ
み石を差し込みながら石材の安定を図っている。
このような玄室の石積みに比べ、羨道部は用材、石積みとも雑な印象を受ける。しかし、基底部には大型
の石を据え、袖石への取り付きを丁寧に行っていること、玄門の袖石天場で横目地が通るように一定の約束
事、工程に基づいて施工されたことがうかがえる。羨門部は残りの良い東側壁をみると、基底部に形の良い
大型石材を配置し、設計・施工上はこれが玄門部での袖石の役割を果たしたと考えられる。
今回の調査で分かった特徴の一つに、石室の控え積みの薄さがあげられる。玄室側壁の背後は、第 1 トレ
ンチ東壁からの水平ボーリングでも極端に石材が乏しく、そのほとんどが盛り土であることが判明してい
る。羨道部は東側壁でみたようにほとんどないに等しい。この点も石材に恵まれ、転石を控え積みや墳丘内
の積み石に多用する高畠町安久津古墳群との違いといえる。
墳丘の基盤には石積みがある可能性がある。高畠町安久津 2 号墳では石室構築以前に整地し、凝灰岩塊で
基壇状の高まりを造成している。本墳の羨道床面では、小さい角礫敷きの下から中大型礫が見えている。ま
た、調査中の 9 月に雨が続いた際、第 1 トレンチが墳丘下からの伏流水でしばらく冠水していたことから、
玄室直下にも一定の厚さで礫敷きがあることが予想される。墳丘や石室の暗渠排水の機能も有したと考えら
れる。
3 .墳丘構造
現状では石室天井石がなく、墳丘頂部と斜面の盛り土は流失している。西斜面は石室の背後に石材が直線
状に並ぶのが見えることから、墳丘内に石積みのあることが予想された。
今年度はこの場所に第 1 トレンチを設定し、石積みの有無とその機能を探った。まず、墳丘西側の平坦面
には周溝は存在しなかった。周溝は丘陵斜面からの墳丘の区画と排水を兼ねて山側にのみ掘削したようであ
る。墳丘部で検出した石積みは 1 列のみで、高さは約 0 . 6m を測る。検出状況をみると、石積みは乱雑で、
基部から自重で積みあげたというよりは、墳丘に盛り土をしながらその端に石を順次据え置いたような印象
を受ける。断ち割っていないのでその当否は今後の課題である。
調査中のもう一つの疑問は、この石積みが完成した墳丘内に収まっていたのか、地表に露出していたの
か、であった。調査の結果、須恵器甕や瓶類の大型破片がその前面の流土から出土しており、明瞭な盛土層
は確認できなかった。円墳とはいえ墳丘の西側は直線的で、後述する羨道前面も直線的であることからする
と、さほど正円にこだわっていなかったのかもしれない。
4 .埋葬に関わる土器祭祀
羨道部・前庭部・第 1 トレンチから 53 個体の土器が出土した。これらは出土場所と使用状況から 4 群に
分けられる。
第 1 は、1 個体の破片が墳丘を中心に広範囲に分布するもので中甕、横瓶、長頸瓶などがある。甕類や横
瓶は破片数が多く、第 1 トレンチをはじめ羨道部、前庭部各所から出土している。中甕 46 は第 1 トレンチ
に口縁部と大型破片があったが、やはり前庭部等からも出土する。これは別の場所で破砕された破片が各所
に分散廃棄されたか、墳丘上から流土とともに自然堆積した、といった状況が想定される。上記 46 の口縁
部大型破片は墳丘斜面からは離れており、この場に廃棄された可能性が高い。今のところ時期を特定する資
料には恵まれないが、埋葬の度というよりは、墳丘構築あるいは初葬に伴う儀礼の可能性を考えておきた
い。このタイプの出土状況を示す器種には杯類を含まないのが特徴である。
第 2 は、前庭部から完形品またはそれに準ずるようなかたちでまとまって出土する小型食膳具類である。
ここでは土師器と須恵器が同程度使用されていた。出土状況等からある程度まとまりのある群としてとらえ
られるのは、土師器高杯 4 個体と須恵器有蓋杯 4 セットがあげられる。これらはある段階の一括資料とみら
れた。また、須恵器ではいわゆる生焼け品が少なくなかった。しかし、本墳では、その他の須恵器杯類のよ
うに、一括成形・焼成品ではなく、それぞれ別個に製作されたものが寄せ集め的持ち込まれている。また、
内黒土師器にあったように使用痕の顕著なものも持ち込まれている。
Ⅶ.遺跡に関する研究
99
図 7-3 完堀風景(西から)
図 7-5 前庭部調査風景(東から)
図 7-6 前庭部出土遺物状態
100
図 7-4 前庭部調査風景(南から)
A
C
玄門見通し図(玄室から)
C
D
D
234.50
234.00
D
D
C
C
B
B
F
F
E
E
234.00
A
234.50
G
G
234.50
F
234.00
F
A
234.50
234.00
羨門見通し図(前庭部から)
0
1m
(1/40)
図 7-7 石室実測図
第○図 石室実測図
Ⅶ.遺跡に関する研究 101
1
11
6
2
3
12
7
4
5
8
13
17
9
14
18
10
19
15
20
29
21
16
22
23
33
30
24
34
35
31
25
26
36
32
27
37
28
0
図 7-8 出土土器実測図 1
第 18 図 出土土器実測図1
102
10cm
38
43
39
44
40
41
42
45
48
46
47
0
10cm
第 19 図 出土土器実測図2
図 7-9 出土土器実測図 2
Ⅶ.遺跡に関する研究 103
出土状況をみると、杯 B22 や杯 A36 は完形のままで伏せた状態で出土したが、その他のものは何らかの
形で破損していた。この 2 点の間からは切先を南に向けた小鉄刀が出土した。石室内にあった副葬品がこの
位置に掻き出された可能性も残るが、土器が原位置とすると、意図的に置かれた可能性も否定できない。そ
の際は魔除け的な意味が込められているのかもしれない。これらは完形品も含め、墓前祭祀での土器使用の
1 次的なあり方とはみ難く、その機能を終えた後で、再度据え直し、廃棄、片付け等が行われた姿と考えら
れる。したがって、出土状況から土器祭祀の内容に迫るのは難しいが、高杯を含む食膳具という機能から、
死者への供膳、関係者の共同飲食といった用途は想定してよかろう。
高畠町の安久津古墳群との違いとして、前庭部から長頸瓶やはそうといった酒や浄水を注ぐ器が出土しな
かったことがあげられる。このほか、須恵器小壷(鉢)がみられなかったこと、相対的に土師器の割合が高
いことも違いとしてあげられる。土師器の器種として、在来の浅身の杯と金属器模倣(精製品)の深身の杯
がセットで出土する点は共通する。土師器 8 は破片の状態で 2 次被熱を受けており、前庭部で火が焚かれた
ことを示唆している。土器群周辺からいくつかの炭化材が出土しているが、墓前祭祀に伴うものかは分から
なかった。
第 3 は、羨道部から出土した 2 個体の両黒土師器である。金属器模倣の精製品で、細かく割れて羨道部南
西部からまとまって出土した。砂礫が少なく細片化しやすい胎土とはいえ、他の土器より破片は細かい。羨
道部という埋葬空間と墓前祭祀の中間的な場所から、特殊な土器が出土した意味が問われなければならな
い。
第 4 は、閉塞石の前に伏せ置かれた 1 点の杯 37 である。最終埋葬後、閉塞石を建てる前に置いたことに
なる。前庭部に伏せ置いた 2 点と同じ意味を持つのかが問題となろう。その解釈には類例の増加を待ちた
い。
55
50
※灰色は金薄板残存部
51
52
56
53
54
49
図 7-10 鉄製品・石製品実測図
第
20 図 鉄製品・石製品実測図
104
5 .土器群の特徴と暦年代
須恵器蓋杯 17~23 は大型深身で底部が突出する、いわゆる東海系の特徴を有する。蓋は平笠型で大きな
扁平鈕をもつ。これらは平城宮Ⅰ(西 1976)の時期に中部から東日本に盛行することから、本資料は 7 世
紀末~8 世紀初頭に比定できる。高畠町では高安 B1 号窯(東北芸術工科大学 2006)、北目 5 号墳(東北芸
術工科大学 2009)に類例がある。前庭部出土土器の多くは、概ねこの時期として大過はない。注目される
のは須恵器杯類の口縁部内外に沈線状の溝を持つものが 3 例みられた点である。これらは畿内産土師器の杯
にルーツを持つ口縁部の特徴とみられ、その影響を受けた可能性がある。また、環状鈕が 1 点出土してい
る。セットとみられる杯身 25 も在地では類例のない作りをしており、鈕形からは北関東周辺に系譜を考え
たい。一方で、体部に段・沈線をもつ杯が 2 点あった。これは高畠町の窯でも生産されているほか、在地の
土師器杯との関連を想起させる意匠である。これら多様な系譜要素は高安窯跡群など地域の創業期の須恵器
生産にみられ、その労働編成の特徴を物語っているのではなかろうか。
玄門部に伏せ置かれた杯 A37 は、底部糸切り後にロクロ削りした可能性が高い。対比できるのは高畠町
味噌根 2 号墳(井田 1997)の糸切杯である。本墳のものは小型で直線的に開く体部からより後出的な印象
を受ける。8 世紀第 2 四半期~半ばごろの年代観を与えておきたい。
鉄製品は鍔や鉄刀が 7 世紀初頭~中葉頃のものとみられ、土器の年代観より明らかに古い。このような副
葬品の鉄刀・鉄鏃・装身具等と前庭部の土器との年代のズレ(高橋 1992)は、置賜地域では通有の現象であ
るが、そのまま初葬時期と追葬期間を示すものでないことはいうまでもない。本報告では水晶製切子玉や土
師器の使用痕に注目してみたが、今後は両者の製作から廃棄までの使用期間をどう読み取るかが鍵となろう。
D
D
C
C
B
B
F
F
E
E
234.00
A
234.50
G
234.50
234.00
0
1m
第 23 図 石室設計プラン復元図
図 7-11 石室設計プラン復元図
Ⅶ.遺跡に関する研究 105
6 .まとめ
2 年間の調査により、戸塚山古墳群における終末期群集墳の特徴の一端が明らかとなった。自然資源と技
術の関係性という本研究の関心からまとめると以下のようになる。
① 群集墳の立地は、横穴式石室構築に不可欠な石材資源の分布と深く関わっている。すなわち、背後に豊
富な石材がある戸塚山西麓を選地し、石室の南面に適した、あるいはこれを妨げない緩斜面等に集中的
に古墳が作られていった。
② 玄室床面に採用している胴張りプランは、石材供給地である凝灰岩質砂岩露頭の崩落石材の産状(大き
さや形状)に規制され、小型石材を多用しつつ、側壁の構造強度と玄室面積を確保するための設計だっ
たと考えられる。布積みする側壁には小口積みの石材の上部を長手の石で押さえるような積みの特徴が
みられるほか、薄い板状の挟み石で側壁材の安定をはかる手法もみられる。いずれも小型石材への技術
的適応とみられる。このほか、玄門袖石を二段積みとする点も共通の要因から説明が可能であろう。
③ 墳丘(内)には盛り土端を押さえる列石あるいは積石状の遺構が巡る。これは高畠町安久津古墳群など
にも共通する技術であるが、石材の豊富な丘陵部の古墳では内部を礫で充填する例が多い。戸塚山では
石室に相対的に小さい石を使用しているように、豊富な石材資源があるわけではない。そのことが石室
背後の控え積みの少なさや盛り土主体の墳丘になった要因と考えられる。
参考文献
1)井田秀和「味噌根 2 号墳」『町内遺跡発掘調査報告(3)』高畠町教育委員会、1997。
2)大栗行貴「過去の調査」『置賜地域の終末期古墳 4』東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター、2011。
3)菊地政信「木和田古墳」『遺跡詳細分布調査報告書第 11 集 米沢市埋蔵文化財調査報告書第 61 集』、米沢市教育委員会、
1998。
4)北野博司「結語」『置賜地域の終末期古墳 1』東北芸術工科大学、2002。
5)高橋千晶「置賜地方における『終末期古墳』」『東北文化論のための先史学歴史学論集』加藤稔先生還暦記念会、1992。
6)手塚孝『米沢の古代文化』 まんぎり会、1986。
7)手塚孝・亀田晃明・菊地政信『戸塚山古墳群詳細分布調査報告書米沢市埋蔵文化財調査報告書第 10 集』米沢市教育委員会、
1984。
8)
『高安窯跡群- B 地区第 4 次発掘調査報告書』東北芸術工科大学 2006。
9)
『置賜地域の終末期古墳 2』東北芸術工科大学、2009。
10)
『置賜地域の終末期古墳 4』東北芸術工科大学、2011。
11)西弘海「土器」『平城宮発掘調査報告』奈良国立文化財研究所、1976。
106
Ⅶ.遺跡に関する研究
西川町六十里越街道の測量調査
北野博司
1 .はじめに
六十里越街道は山形県内陸部村山盆地(西川町)と日本海側庄内平野(鶴岡市)を結ぶ山越えの道であ
る。開発の歴史は定かでないが、江戸時代には出羽三山(特に湯殿山)信仰の隆盛と結びつき、その参詣道
としてにぎわった。明治 37 年竣工の道路改良で一部ルートは変更されたものの、1981 年の月山道路(現国
道 112 号)開通まで両地域を結ぶ幹線道路として機能してきた。旧道沿いの山中には古道や石塔、一部区間
で路面の石畳が今も良好に残っている。
山形県では 1978 年から県内の「歴史の道調査事業(文化庁補助)
」に着手し、六十里越街道もこの時に調
査が行われている(山形県教委 1980)。平成 8 年には同事業を踏まえ文化庁が選定した「歴史の道百選」に
も選ばれた。
近年、注目が集まってきたのは、平成 12 年、西川町志津で観光振興、地域景観再生の一環として街道整
備の機運が高まったことによる。平成 13 年度、県は「アルカディア街道復興計画」の基本構想をまとめ、
14 年度から同策定委員会を発足、西川町・旧朝日村でそれぞれ刈り払いやウォーキングイベントが始まっ
た。そして、平成 15~17 年度には同事業により埋もれた石畳の発掘や復元整備工事等が施工された(財団
法人東北産業活性化センター 2009)
。
以降、出羽三山信仰や最上川流域の史跡等を核とする県の「世界遺産育成推進プラン」にものり、今日に
至るまで官民を挙げたさまざまなイベント・講演会が行われ、その価値付けや保存活用事業が展開されてい
る。
2 .調査の経緯と経過
上記のように六十里越街道は
すでに関係自治体や地元グルー
西川町
プによって積極的に整備活用が
なされてきたが、史跡としての
遺構の調査や記録化は遅れてい
る。
石畳B
石畳A
そのようななか、西川町教育
委員会は街道を史跡として保存
する必要があると考え、本セン
ターに相談があった。本センタ
弓張茶屋跡
ーでは出羽三山信仰に関わる文
化遺産であり、戦略事業の研究
目的にも合致することから測量
調査を実施することとした。
2011 年 7 月 15 日、西川町教
育委員会教育文化課担当および
那 須 恒 吉 氏( 同 町 史 編 纂 室 )
、
志田靖彦氏(六十里越街道保存
推進委員会委員長)らと本セン
ター岡田・北野が現地踏査を行
い、測量箇所を下見した。協議
の 結 果、2011 年 度 は「 弓 張 茶
屋跡」と石畳の代表的な箇所を
優先して記録することとした。
測量調査は 10 月 15・16 日、11
0
1km
第 1 図 六十里越街道測量調査地点位置
図 7-12 六十里越街道測量調査地点位置
Ⅶ.遺跡に関する研究 107
月 18 日に行った。
参加者
北野博司(歴史遺産学科准教授)、伊藤佳奈恵、森谷康平(歴史遺産学科 4 年)
、阿部美鈴、上田優喜、髙
橋智美、福島明恵、藤田悠暉、村田悠奈、村田遥(以上、歴史遺産学科 3 年)
3 .調査成果
測量は弓張茶屋跡と石畳のある道路跡 2 か所で行った。地形測量は縮尺1/100、前者が 25㎝コンター、
後者は 20㎝コンターで行った。石畳は 1/20 実測図を手測りで作成した。水準点は現地に仮の基準 0m を
設け、これを基準に等高線を測量した。
①弓張茶屋跡
弓張茶屋跡に比定される平坦地約 600㎡を対象とした。仮水準点 0 は「旧六十里越街道」石碑のコンクリ
ート土台の北西隅とした。
調査区の西側は弓張平公園の造成で大きく削平され、土羽の法面となっている。北側も同様にこの地点で
道路跡は寸断されている。東側は公園管理道路により遺構の一部が埋まっているのが現状である。南側は道
路跡が残っており、緩やかに下っていく。
調査区の中央を南北に街道が走り、東西に平坦面が造成されている。道路の西側に建物礎石がみえる平坦
面 1、その南に平坦面 3 が存在する。両者の間には幅約 1 . 2m の溝状遺構がある。溝の西端部は等高線に沿
って北側にわずかに折れているため、削平された西側にもめぐっていた可能性がある。
東側には幅の狭い帯状の平坦面 2 が存在する。ここでは街道に沿って直線的に、面を西に向けた 2 段の石
積みがみられる。
路面は地山を削り出しで石敷きはない。平坦面 1 は路面より 30~40㎝、平坦面 2 は 50㎝高く造成され、
石積みを伴う後者がやや高い。旧地形からみて、これらの平坦面は東から西に下る緩斜面を若干の削平と盛
り土により造成したものと考えられる。
平坦面 1 は南北約 20m、東西約 10m で、道路跡と並行して南北棟の礎石建ち建物跡が存在する。礎石は
一部のみ地表に露出し、土中にピンポールを刺して探ったところ図のような配置が復元できた。最大、梁間
2 間×桁行 7 間、西庇付きの建物が想定される。しかし、南側は道路よりが削平され、庇列も不明確なため
定かではない。身舎中央にも礎石がみられ、総柱(あるいは束柱か)建物の可能性もある。平坦面の北側に
ある溝状遺構は 2 か所で鍵形に折れ、梁行と並行ではないが、これに沿う礎石列が認められる。建物内の最
も標高の高い個所で一辺約 2m、隅丸方形の範囲に礫の集石遺構が存在する。礎石は長 30~50㎝の不整形な
円礫が用いられる。桁行の間尺は 6 尺、梁間は 7 尺、庇は 4 尺とみられる。
平坦面 3 は造成面とみられるが、礎石は確認できない。建物が存在したかどうか、地表からはわからない。
平坦面 2 は南北約 13m、東西 3m を測る。平坦面に礎石は認められない。石垣の長さは 12 . 6m、路面か
ら高さ約 50㎝を測る。石材は安山岩の割石で、面にはノミ痕が残り平らに仕上げる。矢穴は認められない。
石積みは 2 段目で、目地が開かないように接ぎ合せている。間詰石はない。天端をそろえ、南端は形の整っ
図 7-13 弓張茶屋跡調査風景(東から)
108
図 7-14 石畳A地点調査風景(北から)
た角石を置く。一部、石材加工や石積みの異なるところがあることから、修理された箇所もあるとみられる。
寛政年間(18 世紀末)と伝えられる「岩瀬家文書」(米沢市立図書館蔵)の絵図では道路の西側に「茶
屋」として大小 2 棟の建物と杉林が描かれている。いずれかという対比はできないが、この遺構が絵図に描
かれた茶屋の建物とみて間違いなかろう。また、平坦面 1 の北側と平坦面 2 の南東部には直径 1 . 5~2 . 0m、
内部が空洞化したスギ株がある。かなりの老木、巨木であり、絵図に描かれランドマークのスギの一部だと
考えられる。
②石畳A地点
オートキャンプ場から復元整備された石畳を下り、沢を渡って S 字に坂を上った箇所である。沢を渡っ
たところには「湯殿山」碑が立つ。整備の際に設置された石碑の南東隅を仮水準点 0 とした。
街道は尾根筋に沿って設けられ、断面逆台形に開削して路面を造成している。上幅約 5m、下幅は約 2m
を測る。路面中央が高く、その上部に幅 1 . 2m の石畳が敷設される。法面の下部には側溝があり、石畳と側
溝の間にはわずかな平坦面が認められる。石畳には所々排水用の溝が横断する。オリジナルな石畳と思われ
る箇所で、7m の範囲を 1/20 で実測した。
石材は上面の平らな川原石を用いる。亜角礫で稜線はやや丸みを持つ。東西両端に大型長手で縁部が直線
的な石材を多用し、内部に中~大型の石を敷く。さらに隙間を小型の石材で埋めている。目地には充填され
た粘土が遺存しており、往時はこれで石材を固定していたものとみられる。現在、小型石材の脱落や目地粘
土の流出が認められ、本来はもう少し密に川原石を敷き詰めていたものと思われる。なお、石畳の幅が 4 尺
で統一され、両側縁が直線的であることから、石材の敷設にあたっては縄張りが行われたとみてよかろう。
③石畳B地点
ここは A 地点から北へ緩やかな坂を上り、志津方面へ約 300m 進んだ所である。周辺は平坦で東から西
へわずかに傾斜する。道路敷きを溝状に掘り込んで、底部に石材を敷き並べている。掘り方は上場で 2 . 5~
3 . 0m、下場は土砂が流れ込んでいるせいで約 1 . 0m と狭くなっているが、本来は 1 . 2~1 . 5m 程度とみられ
る。ピンポールで石の輪郭を探りながら、大きな石材を用いている延長 8 . 5m の範囲を実測した。
石畳は大型の安山岩を敷き詰め、石垣石のように矢割りしたものが含まれる。平坦な節理面(風化した自
然面)ないしは割り面を上部に向けて置く。敷石幅は埋もれた部分を復元すると、約 1 . 2m とみられる。そ
の外側の側溝の有無は不明であるが、ピンポールを刺すと石畳上面より約 20㎝低い位置に石があるのが分
かる。敷石は進行方向と直交あるいは平行に置き、ほぼ 2 石で所定の幅を確保している。石材の隙間には石
垣のように間詰め石を打ちこんでいるのが特徴である。目地に A 地点のような粘土は認められない。石材
の上面は稜線がよく摩耗し、この石畳の上をたくさんの人々が歩いたことを窺わせている。
図 7-15 石畳 B 地点(8 月、南から)
図 7-16 石畳 B 地点(11 月、南から)
Ⅶ.遺跡に関する研究 109
-100
-125
杉株
至 志津
-75
-25
-50
溝状遺構
0
公園管理道路
石碑
礎石建物跡
50
BM1
-50
公
園
造
成
地
集石
石積
平坦面2
-50
杉株
平坦面1
-50
-150
--25
0
-100 -75
50
街道
溝状遺構
-125
平坦面3
-125
-150
-125
至 一本木沢
0
25 ㎝コンター、石碑土台の BM1 を仮水準 0mとした。
第2図 弓張茶屋跡遺構平面図
図 7-17 弓張茶屋遺構平面図
110
10m
至 志津
石畳
160
石
畳
実
測
範
囲
160
140
120
100
80
側
溝
100
60
40
側
溝
20
0
-20
80
60
石碑
40
石畳
BM2
20
0
-20
0
5m
20 ㎝コンター、BM2 を 仮水準 0mとした。
図 7-18 石畳 A 地点地形測量図
第3図 石畳A地点地形測量図
Ⅶ.遺跡に関する研究 111
至 志津
街道
モトクロス道路
石畳実測範囲
80
BM3
60
40
20
0
-20
-40
-60
0
-20
-40
-60
-80
モトクロス道路
0
5m
20㎝コンター BM3を仮水準0とした。
石畳
至 一本木沢
図 7-19 石畳 B 地点地形測量図
112
A 地点
B地点
石
抜
き
取
り
石
抜
き
取
り
土
の
下
に
石
あ
り
土
の
下
に
石
あ
り
矢
穴
列
0
BM3
2m
破線は輪郭が未確定であることを示す。
図 7-20 石畳実測図
第 5 図 石畳実測図
Ⅶ.遺跡に関する研究 113
4 .まとめ
今年度は六十里越街道の弓張茶屋跡と特徴的な石畳をもつ 2 か所の道路跡を測量した。
弓張茶屋跡では道幅 2 間の道路跡、区画溝や石積みを伴う 3 つの平坦面と礎石建ち建物跡 1 棟を確認し
た。現状では建物規模や棟数は未確定であり、庇が道路側ではなく建物の裏側に付随する点も気にかかる。
安政 3 年(1856)の騒動(「弓張茶屋一件内済証文」
)から、弓張茶屋は有力百姓によって管理され、規則に
反し、止宿や切り飯の商いも行われたことが窺える。茶屋といっても宿泊や食事が可能な施設であったとい
える。平坦面 2 は建物がたつ空間としては狭い。茶屋前面に位置し、南東部に大杉があることから日除け、
雨除け等を含む休憩スペースとみることもできる。40~50㎝の高さの石積みが「休み石」的な機能を担った
のではないか。
道路跡は地山を溝状に開削して石畳の路盤を作っていた。これに石畳と側溝を付随させることでぬかるま
ない安定した路面を確保したのであろう。六十里越街道の石畳は弓張平から志津の間にのみみられる。弓張
平の表層をなすソフトロームは乾燥すると固く締まるが、水を含むと柔らかくなることはよく知られてお
り、この区間に石畳が敷設された機能的意味はすでに指摘されている(那須 2008)とおりである。B 地点
は雨が降ると今でも大型石材の上に水が浮く。
那須氏はかつて弓張平にあった追分石とみられる文政 6 年(1823)銘の「湯殿山供養塔」と、文政 7 年
(1824)銘の湯殿山碑にある「南路一定」
「舗石」
「丁切石」
(石畳中にある「二丁石」
「五丁石」
)をこの道普
請に関連付けた(那須 2008)。
現状の石畳はその用材や施工方法に区間ごとに差異がある。A 地点の石材は比較的小さく、ほとんどが
一人でも運搬可能な大きさであるのに対し、B 地点の石材は一人で運搬できないものがほとんどである。後
者の加工や敷き方には城石垣の技術に通じるものがあり、その採石地や技術系譜が注目される。矢穴痕は江
戸中後期には一般的に認められる形状・サイズであり、年代観とは整合的である。今回は代表的な 2 か所の
みを実測したが、石畳の多様性はこれらが一律に施工されたのではなく、若干の時期差を含みながら複数の
願主、施主により割普請によって行われたことを物語るのではなかろうか。
現在、六十里越街道は地域の歴史文化的アイデンティティーを確認し、その活性化に寄与する文化遺産と
して活用が盛んである。しかし、かつて遺構の記録と保全が不十分なまま街道整備が先行したことを記憶に
とどめ、まず、測量等の基礎調査をしっかり行い、史跡を適切に保存管理していくための方策をたてていか
なければならない。
参考文献
1)那須恒吉「六十里越街道の石畳」『山形応用地質』第 28 号、山形応用地質研究会、2008。
2)財団法人東北産業活性化センター『六十里越街道でつながる広域連携・交流促進プロジェクト』平成 20 年度調査報告書(本
編)、2009。
3)
『昭和五十四年度山形県歴史の道調査報告書 六十里越街道』山形県教育委員会、1980。
114
Ⅷ.地場産業と景観に関する研究
高畠石のある町並みに関する研究
北野博司・長田城治
1 .はじめに
(1)高畠石とは
高畠石は、高畠町一帯から産出する凝灰岩をさし、近現代には町内各所で採掘され、土木建築用資材と
して活用されている。石材は「大笹生石」「細越石」「羽山石」「味噌根石」「沢福等石」「西沢石」
「瓜割石」
「金原石」「高安石」「海上石」のように石切り場のある町名(字名)で呼ばれた。細越からは灯籠のような
細工物に使う「細工石」が産出した。
本格的な採掘がはじまったのは大正期以降といわれ、最も新しい瓜割山丁場では戦後に最盛期を迎えた。
溝掘り採石法により連綿とその技が受け継がれてきたが、現在、平成 22 年まで採掘していた最後の伝統的
石切職人が引退し、機械切り出しも含め、その生産はほぼ停止している。
(2)まちあるきプロジェクトについて
高畠石を利用した数々の史跡、土木建築遺構、石造物が重層的に蓄積した高畠の町並みを、住民とともに
歩き、地域の有形・無形の文化遺産を再発見するとともに、その歴史的・文化的価値を研究し、将来への保
存と継承を考えていくプロジェクトである。
(3)プロジェクトの目的
有形・無形、指定・未指定など従来の文化財のジャンルにとらわれず、地域に存在する多様な文化遺産を
歴史的、地理的関連性に基づいて一定のまとまりとして総合的に把握し、そこにストーリーを与えることに
よって、高畠の個性的な文化や歴史的風致、景観を浮かび上がらせるのが目的である。
これまでまちあるきの活動を通して、高畠石の生産・流通・消費の実態が徐々に明らかにされてきた。こ
の活動のもう一つのねらいは、地域住民が他者と交流しながら自らのアイデンティティを再発見していくこ
とである。身近な地域の自然資源-高畠石を使い続けてきた伝統的な暮らしのなかに、どのような現代的価
値があるのか。遺産を継承するリスクを抱えながら、どう伝え、どう変わっていくのがよいのか。そのよう
な問いを住民とともに思考する場としたい。また、調査活動そのものを地域に残すことが二つ目の狙いであ
る。調査方法を可能な限りマニュアル化し、本プロジェクト終了後も、必要とあらば地域が主体となって同
様の調査ができるのが望ましい。
すぐれた歴史的風致をもつ高畠の町並みが、将来にわたって住みよい、魅力ある土地として発展していけ
ることを願いつつ歩いている。
図 8-1 町並み編
図 8-2 石切り場編
図 8-3 石造物編
Ⅷ.地場産業と景観に関する研究 115
(4)実施体制と活動内容
本学文化財保存修復研究センター、高畠町教育委員会、地元で結成さ
れた「高畠石の会」がそれぞれ役割を分担し、協力しながら実施してい
る。現在月 1 回のイベントを柱として活動し、内容は二井宿街道(安
久津地区)を歩く「町並み編」、石造物が集積する寺社等を対象とした
「石造物編」、「石切り場編」である。
町並み編は通常 4 班編成で作業に当たり、各班長のもと、地元「石の
会」メンバーと本学学生らで班を作り、1 戸 1 戸訪ね歩く。聞き書き、
一覧表作成、図面、計測、写真撮影など作業を分担する。
第1回 6月19日
(日)
町並み編
第2回 7月10日
(日)
石造物編
第3回 8月 6日
(土)
町並み編
第4回 9月17日
(土)
石造物編
第5回 10月 8日
(土)
町並み編
第6回 11月 5日
(土)
石切り場
第7回 12月10日
(土)
町並み編
以下、ここでは主に町並み編の調査成果を基に詳述する。
(北野)
2 .本稿の目的と方法
(1)本稿の目的
高畠石とは、山形県東置賜郡高畠町一帯で採掘される石材の総称である。高畠石に関する従来の論考は、
石工への聞き取りによる採掘技術の検討 1⊖5 が中心で、職人組織や生産を体系的に明らかにしたものはなく、
その利用については論考があるものの 6、利用実態の調査は行われていない。
本稿では、高畠石の歴史を紐解く一助として、
「まちあるき」を通して得られた調査成果や文献資料によ
り高畠石の生産と職人形態を明らかにすると共に、安久津地区を対象に住宅における利用実態と集落景観の
特徴を明らかにする。
(2)調査方法と対象
町並み編の調査は、先述の通り行政・住民・大学が一体となって行うものである。大学の学生や地域住民
が共に調査を行い、それを継続して実施していくため、調査方法は手軽に誰でも容易に取り組めることを目
指した。記録内容は、最低限の項目に留め、誰が行なっても信頼性に問題がないように配慮した。そのため
調査シートや調査方法のしおりなどを作成し、新しい参加者が来ても容易に取り組めるように工夫した。ま
た、調査先の住民と対話しながら調査することを心がけ、高畠石や町、家などについてお話を聞き、その歴
史や利用方法について記録した。
調査対象は、高畠町安久津地区の二井宿街道沿いに面する住宅とし、66 戸の住宅について調査を実施し
た。
以下、そこで判明した高畠石の生産と集落景観
について詳述する。
3 .高畠石の生産
高畠石は、丁場ごとの地名で呼ばれ、代表的な
ものとして図 8-4 に示す 10 カ所が挙げられる。
1:大笹生石
2:細越石
3:羽山石
4:味噌根石
5:沢福等石
6:西沢石
7:金原石
8:瓜割石
9:高安石
10:海上石
旧屋代村
最も大きな大笹生(おおざそう)丁場でも規模は
2
4 丁歩で、年間採掘量も 6000 才ほどと小さく注 1、
さらに民家の敷地内や畑に個人所有の石切り場が
数多く存在するなど、小規模の丁場が無数に点在
した。
このうち、記録や聞き取りにより詳細が判明す
る大笹生 ・ 沢福等(さんぶくら)・ 瓜割(うりわ
旧
二
井
宿
村
旧糠野目村
1
6
8
3 4 5
7
9
旧亀岡村
高畠町
調査地
安久津地区
り)の丁場をみると、大笹生は正元元年(1259)
の板碑注 2(図 8-5)が同所の採掘と伝えられるな
ど、最も早期に採掘を開始したが、大笹生集落の
石番小屋に嘉永 5 年(1852)建造の銘があるなど
(図 8-6)、石工による本格的な採掘が開始された
旧和田村
10
のは江戸末期とみられる。この石番小屋は「石細
工九良右衛門外五名」によるもので、九良右衛
116
図 8-4 高畠石の丁場の位置
門は石切りのほか、鍛冶屋・馬方・取引先との交渉をまとめた総元締であったという 3。大正 10 年(1921)
の『本邦産建築石材』7 によると、石切り 50 人・人夫 70 人が働き、明治期から大正期にかけて良質な石が
出たため最も賑わったが、昭和中頃までには終了した 1。
沢福等は、慶応元年(1865)に大笹生で採掘技術を学んだ島津栄吉氏が一人で採掘を開始し、その後 6 人
の弟子を抱えた注 3。最盛期の昭和 40~50 年代には、約 80 人が従事し、平成 19 年まで採掘した。
瓜割は、石工星善作氏により大正 12 年(1923)頃に採掘が開始され、青石が出たことで沢福等の石工が
移ったとされる。戦後すぐには最多の約 40 人が従事したが注 4、昭和 50 年代には 6 人まで減少し注 5、平成
22 年に石工後藤初雄氏の引退により採掘が終了した。
4 .石材の採掘方法と流通
「ホッキリ」3「ダ
石材の採掘方法は、「ワッカケドリ」注 3 と呼ばれる露出した岩塊から切り取る方法と、
テボリ」注 3 と呼ばれるツル(鶴嘴)による溝掘り技法を使った露天掘りの 2
種があり、共に石工の手作業で切り出される。前者は間知石や基礎石などに
使われる小型の角石、後者は定尺の「一二八」と呼ばれる 1 尺 2 寸× 8 寸×
6 尺の角石を採掘した。石材は受注生産であったが、基本は 「一二八」 で、
それを現場で組み合わせて施工した。この定尺は、大谷石や房州石より大き
く注 6、現代まで踏襲された。また瓜割 ・ 沢福等 ・ 西沢では一部機械掘りが行
われ、瓜割は昭和 40 年代から開始したが、石材の成分に適さず、僅か 10 年
ほどで休止し注 7、現代まで石工の手掘りを継続した。
切り出した石材は、当初は大八車で搬出したが、その後クヌギの木を梯子
状に結わえ付けた 「土ぞり」 に乗せて、端材を敷き詰めて廃油を塗った 「石
落とし道」(図 8-13)を使って搬出した。石置き場からは、馬車で注文者や
石屋まで運び、遠方へは舟を用いて運送した。沢福等では大正 13 年(1924)
の高畠鉄道の開通に伴い、引き込み線で石材を運搬した注 3。このため高畠石
の流通は、高畠町や隣接する米沢市 ・ 赤湯町など、鉄道や舟で運搬が可能な
置賜地方に限られた。
図 8-6 石場小屋(大笹生地区)
図 8-10 西沢丁場
図 8-7 大笹生丁場
図 8-8 沢福等丁場
図 8-11 露天掘り ( 石起こしの様子 )
図 8-5 板碑(南陽市梨郷)
図 8-9 瓜割丁場
図 8-12 鍛冶小屋跡(大笹生丁場)
Ⅷ.地場産業と景観に関する研究 117
5 .石工の技術と就業形態
高畠石の石工は、専業と兼業に分けられる。兼業が殆どで、沢福等の島津氏は農閑期に採掘し、瓜割の後
藤氏も当初は冬のみで、後に専業の石工に転職するなど、冬季の農間仕事であった。また石工は、山から間
知石などを切り出す「ヤマダシ」「イシトリ」、角石を門柱や鳥居などに加工する「イシコウ」、良好な岩脈
石層を発見して角石を採石する「イシキリ」に分かれ注 8、ヤマダシやイシトリは比較的技術が容易なこと
から兼業の石工が行った。この専業と兼業の石工がそれぞれ異なる採掘により分業する点は、大谷石や房州
石の丁場ではみられず 8-10、これは小規模の丁場が各地に点在したため、農業との兼業が可能であり、仕事
の難度に合わせた採掘方法が確立していたことが理由といえる。石切りは男仕事として行われ、石材運搬は
女性や子供が手伝うなど、家族総出で行われた。
「イシコウ」「イシキリ」など角石を切り出す石工は、一般に 10 年の修行が必要とされ、主に大笹生で技
術を学んだ注 9。また石工は、大正期までは基本的に注文 ・ 請負 ・ 運搬 ・ 施工を一人で行い、採掘に用いる
ツルの修繕など鍛冶仕事も行うなど、仕事は多岐に渡った。採掘は、丁場の土地所有者に採掘料を支払って
行うが、その場所は先着順で決定した注 5。ただし、石の価格や馬車引きとの仲介などは丁場ごとに組合を
作って取り決め、「山の神」を祀るなど、石工同士の繋がりもみられる。したがって高畠石の丁場は、年代
が下っても機械化による企業的な生産体系に移行せず、個人経営の石工が組合や講による共同体を築いて活
動した。
また石工は、地域との関わりが深いことも特徴で、安久津地区には沢福等丁場を開いた石工島津栄吉氏と
石屋遠藤友之助氏を称えた記念碑(図 8-14、15)があり、明治 44 年(1911)に安久津に居住した島津氏の
弟子 6 人が中心となって建てられた。記念碑の土地の購入 ・ 維持が安久津の 70 名以上の住人の寄進注 10 で
賄われていることから、石工だけではなく地域住民の中で高畠石の採掘が評価されていたといえ、地域にお
ける重要な生業であったことが指摘できる。
6 .安久津地区にみる高畠石の利用実態
次に、高畠石の住宅における利用を、沢福等丁場の石工が多数
表 8-1 高畠石の種類と数(数字は件数)
居住した安久津地区を対象にみる(図 8-22)
。昨年度実施した計
4 回のまちあるき(町並み編)では、安久津 ・ 鳥居町の約 800m
の街道沿いの住宅を対象とし、66 戸の住宅を調査した。
その特徴をみると、外構に高畠石を多用する点が特筆される。
用途別に高畠石の利用をみると、47 種、計 991 件が確認でき
(表 8-1)、このうち角石を外構に置き区切りとして使用する境界
石(211 件)が最も多く、次いで土を盛って植栽や水路などを支
える土留め石(195 件)、建物の基礎として使用する基礎石(118
件)と続き、この上位 3 種で全体の 5 割以上を占める。その配置
をみると、敷地を取り囲むように塀や境界石、土留め石を配置す
る。これらは全て角石で、前面の塀と土留め石以外は 「一二八」
を用い、「野積み」と呼ぶモルタルなどの接合材無しで石を積み
上げる方法を採る(図 8-16)。敷地側面は、敷地境界に沿って 2
段積み以下の角石を置き、高く積み上げる塀は敷地前面にほぼ限
られる。また石塀は、表面に「額縁」と呼ぶ切りこみ加工を施す
図 8-13 石落とし道(沢福等丁場)
118
図 8-14 石材記念碑(安久津)
図 8-15 明治 44 年時の石材記念碑
例が多く、石積みに隙間を設ける例(図 8-17)や板塀を組み込む例もみられ、門柱と笠石を付属した塀が
最も格が高い形式であったという注 4。
以上の用途以外にも角石の利用は、建物の基礎や主屋周囲の犬走り・雨落ちなどがあるが、石蔵は僅かな
例に留まる。また、近代以降同地区では酪農と葡萄栽培が盛んになり、サイロ(図 8-18)や牛繋ぎ石、肥
塚や葡萄を支える重しにも高畠石を使用した。一方石材を加工した製品もあり、ナツカワ(手水鉢)
・石風
呂・石臼・囲炉裏・屋敷明神(図 8-19)などがあり、高畠石は住宅の中で、様々な用途で用いられた。
利用していない古い角石を敷地内に集積しておく慣習がある点も特筆され(図 8-20)、これは石を再用す
る例が多いことと深く関係する。境界石や土留め石にほぞ穴の痕跡がみられる例や、基礎石を境界石に転用
した例は多く、大河原家では旧主屋の基礎石を新主屋(平成 4 年建造)の敷石に転用するなど(図 8-21)
、
現代においても石を備蓄して再利用する慣習が続いている。
7. まとめと今後の展望
以上のように高畠石は、江戸末期から農間仕事として採掘され、年代が下っても企業化 ・ 機械化せず、地
域住民により共同体を組みながら手掘りの生産を継続した。これは、高畠石が小規模点在型の丁場であり、
従事し易い採掘技術や組織体制が整っていたため、近代における重要な生業の一つとして石工が従事されて
きたといえる。また高畠石は、採掘量が少なく、主に地域内で消費されるものの、その利用方法は多様であ
った。高畠石を備蓄し、外構に豊富に用いられたことで、独特の集落景観が形成されたといえる。
したがって高畠石は、蓄財する資産と捉え、何にでも対応できる資材として重宝された。地域住民が採掘
して消費し、再利用するという地域内における高畠石の循環システムが現在まで根強く踏襲し、持続可能な
資源として貴重な文化遺産といえる。
来年度は、まちあるき調査を継続し、古写真・文献資料を含めて、町ごとの利用の特徴を明らかにすると
共に、シンポジウムや地区ごとの調査報告会の開催を通して、高畠石の価値の普及や保存活動に取り組みた
い。(長田)
図 8-16 境界石
図 8-17 石塀
図 8-18 サイロ
図 8-19 屋敷明神
図 8-20 集積された石
図 8-21 転用例(基礎石→敷石)
Ⅷ.地場産業と景観に関する研究 119
120
6
境
界
︵
敷
地
(
)
)
庭
)
(
)
)
)
)
車庫
1
境
界
・
犬
走
り
3屋敷明神
14
境
界
・
資
材
台
6靴 脱ぎ石
1 8ナツカワ
土蔵
2基礎 切り石布
17敷石
13灯籠
主屋
5基礎 切り石布
4井戸
22門柱
16橋
11基礎 切 石・布
土蔵2
15 入り口
10橋
7蓋(堆肥 捨て場)
8集積
21境界
車庫
車庫
9
境
界
・
花
台
12土留 め・
元水路
19境界
地 3屋敷明神
庭
2手水鉢
)
6靴 脱ぎ石
主屋
3ナツカワ
)
1石碑
車庫
)
1門柱
)
18門柱
(
16
塀
4
境
界
︵
敷
1
境
界
︵
庭
2塀
9
土
留
め
︵
庭
集荷所
27
土
留
め
植
栽
2
土
留
め
蔵
主屋
22塀
21門柱
2土留め
6門柱
8境界(敷地)
7塀
1境界(敷地)
1土留め
庭
)
1門柱
)
倉庫
新主屋
5基礎
26
靴
脱
ぎ
石
)
高畠へ
(
2塀
)
1
境
界
︵
敷
地
倉庫
旧主屋
4基礎(旧主屋)
蔵
3基礎
1
境
界
敷
地
3境界(敷地)
2囲炉裏の炉縁
主屋
1基礎(庇)加 工・礎
4
土
留
め
植
栽
・
通
路
路
5
土
留
め
植
栽
・
通
2
境
界
車庫
5集積
旧主屋
3土留め
4境界
1塀
14門柱
1塀
15塀
3門柱
主屋
13門柱
主屋
2塀
12
境
界
11
土
留
め
10橋
土蔵
11集積
2境界
3土留め
小屋
8屋敷明神
10石臼
6
土
留
め
5
境
界
6土留 め・水路
3石炉
4基礎( 角・布)
小屋
4基礎( 角・布)
9土留め
7階段
・水路
主屋
1敷石(玄関)
12敷石(階段)
1塀
主屋
主屋
・水路
5土留 め・水路
7集積
主屋
主屋
13
土
留
め
︵
植
10土留 め・水路 栽
︶
12
境
界
6屋敷明神
8
境
界
9基礎 角 石・礎石
物置
14
土
留
め
10灯籠
7橋
2土留め
3土留め
8基礎 角 石・布
飼育小屋
16境界
5ナツカワ
4敷石(階段)
主屋
3屋敷
明神
6境界
1
土
留
め
・
水
路
1
境
界
車庫
5屋敷明神
6土留 め・水路
5肥塚
蔵
2
土
1基礎 角
留
石・布
め
・
水
路
4土留 め・水路
12敷石(階段)
主屋
13敷石(通路)
15
土
留
め
車庫
3 モニュメント
9境界
9境界
2
境
7花台
界
8敷 石(階段)
5 モニュメント
4 モニュメント
3オブジェ
4敷石
14
土
留
め
︵
植
栽
︶
11土留 め・水路
2オブジェ
1屋敷明神
1土留め
主屋
主屋
図8-22 安久津地区における高畠石の外構利用1
6屋敷明神
4灯籠
小屋
主屋
5 入り口
主屋
3
境
界
・
雨
落
ち
・建物の入り口
道
宿 街 物置
二 井
・その他
2基礎 角 石・布
1土留め
5境界
9敷石(通路)
8敷石(玄関)
7敷石(階段)
16
土
留
め
4門柱
倉庫
・石橋
8土留め
車庫
小屋
主屋
13
集
積
4肥塚
5境界
3敷石・小段
主屋
落
ち
14
境
界
・
犬
走
り
・
雨
7境界
9集積
10
境
界
1境界
主屋
14手水鉢か
囲炉裏
11
土
留
め
17
土
留
め
12石碑
11石碑
2集積
6境 界・ガス台
・5
靴敷
脱
ぎ石
4
境
界
・
犬
走
18
り2
土
敷
留
石
め
・
通 3
路 土
留
め
7境 界・台
8敷石
10
基
礎
・
角
・
布
土蔵
9旧肥塚
12手水鉢か
囲炉裏
16
境
界
・
犬
走
り
11石碑
15石碑
14石碑
13石仏
12石碑
1
境
界
主屋
3基礎( 角・礎)
1基礎( 角・布)
4境界(庭)
2
塀
2集積
1
塀
主屋
4集積
4
境
界
2灯籠
倉庫
主屋
1土留め
主屋
5
境
界
18集積
14境界
17
土
留
め
作業
小屋2
13小段
11境 界・台
12境 界・台 9集積
10境 界・台
8灯籠
7石炉
5石臼
6石碑
6
境
界
4
土
留
め
石材記念碑
2塀
14基礎( 角・礎石)
作業
小屋1
15肥塚
16
ナ
ツ
カ
ワ
主屋
18 入り口
4五型石
1石碑
主屋
主屋
3地蔵
2基礎( 角・布)
土蔵
3土留め
事務所
5石仏
1境界
5敷石(階段)
3
境
界
・
雨
落
ち
主屋
4土留め
1集積
2屋敷明神
16境界
4石臼
3ナツカワ
8屋敷明神
3土留め
6敷石
7敷 石・階段
1井戸枠
2石臼
17境界
6テーブル
5椅子
3土留め
22敷石
7石臼
日本製乳
3境界
主屋
19靴 脱ぎ石
21土留め
20靴 脱ぎ石
9土留め
23石臼
主屋
小屋
16基礎切 石・礎石
17境界
1境界
2
境
界
1 0ナツカワ
倉庫
3墓石
倉庫
屋 代 川
7
境
界
8
境
界
主屋
主屋
事
務
所
4境界
5
土
留
め
6土留め
3不明
10境 界・台
敷
地
2土留め
7
境
界
2境 界・台
1
土
留
め
車庫
4境 界・花台
5境 界・資材台
2敷石(玄関)
8
境
界
7 土留め
5ナツカワ
4屋敷明神
3
境
界
6灯篭
3境 界・台
主屋
8境 界・重石
6集積
9
土
留
め
4 境界
主屋
4不明
2土留め
5不明
7境 界・資材台
主屋
1石臼
3敷 石・小段
2境 界・台石
1土留め
車庫
2集積
1
屋
敷
明
神
)
3塀
(
14
主境
屋界
・
雨
落
ち
作業小屋
車庫
3
境
界
︵
敷
地
6土留め(植栽)
)
15境界(倉庫)
7土留め(植栽)
)
主屋
2
塀
8屋敷明神2
(
敷
地
8手水鉢
10ふた(再利用)
9境界(植栽)
13土留め(植栽)
1
土
留
め
敷
地
(
6土留め(植栽)
4土留め(畑)
)
付属屋
7靴 脱ぎ石
5屋敷明神
)
礎
15
境
界
3
塀
当
初
・
基
25
靴
脱
ぎ
石
5屋敷明神
9 土留め
主屋
)
5
基
礎
︵
主
屋
(
11境界(畑)
(
12境界(畑)
(
畑
12敷石(玄関)
10風呂 置き場
10石炉
8 土留め(畑)
6基礎(切・布)
(
庭
10敷石(通路)
5基礎(旧主屋)
蔵
11土留め(通路)
7
境
界
敷
地
1 3オブジェ(元井戸枠)
19石臼 12旗竿石
18敷石(玄関)
6
塀
主屋
11石臼
落
ち
10
境
界
・
雨
12集積
)
4
境
界
︵
敷
地
10
土
留
)
庭
9屋敷明神
土蔵
主屋
17基礎(主屋)
7屋敷明神
小屋
8基礎 角・布
9土留め
13石臼
14石碑(墓)
・基礎 ・屋敷明神 ・石祠など ・集積
(
8土留(庭)
畑
地
主屋
23靴 脱ぎ石
24境 界・犬走り
16境 界・雨落ち
・敷石
(
倉
庫
17
階
段
旧主屋
11
境
界
敷
地
9
境
界
︵
敷
11集積
2 0オブジェ
15屋敷明神
14土留め・井戸
・門柱
(
当
初
13
境
界
4
境
界
敷
地
12屋敷明神
・境界石 ・土留石 ・塀
)
7
基
壇
凡例
(
(
)
4境界
5
土
留
め
6土留め
5境 界・資材台
7
境
界
9石炉
5境 界・花台
8基礎( 角・礎石)
小屋
倉
庫
1記念碑
15敷石
防火
水槽
7橋束
5基 礎・桂石
6土留 め・築石
6塀
4土留め
24土留め
車庫
2基礎(角・布)
1境界(主屋)
敷
地
主屋
45土留め
小屋4
27基礎( 角・礎)
小屋3
24 境界
14集積
土蔵2
1 5 入り口
14基礎
主屋
16基礎
20敷石
13集積
土蔵1
11石臼
当初サイロあり
12集積
8防火水槽
10
基
礎
9土留 め・水路
6井戸側
5境界
4基礎( 切・布)
3
土
留
め
・
雨
落
ち
7
2
境
界
・
犬
走
り
角
布
7旗竿石
2
境
界
3水鉢
3
敷
石
小
段
主屋
6境界 5
境
界
角
礎
土蔵1
土
台
11
土
留
め
20
堆
肥
置
き
場
雨
落
ち
14
境
界
21
基
礎
角
布
8
境
界
12境界
9土留め
1火鉢
主屋
3
土
留
め
11水鉢
6境界
4土留め
主屋
2境界・雨 落ち
3境界
2
境
界
25敷石
1
境
界
2
境
界
11腰壁
土
留
め
水
路
14塀
58入口
土蔵3
56腰壁
53便槽
角60
基
布礎
55基礎
(角・布)
52敷石
61境界
63集積
62踏み石
74基礎(角・礎)
64境界・台石
73基礎(角・布)
70入口
71敷石
72基礎(角・布)
土蔵4
69土留め
68敷石
67境界・犬 走り
角66
基
布礎
34井戸1 31
境
界
27敷石 30
塀
35基礎
(角・布)
元牛舎
36基礎
(角・布)
49集積
50牛 繋ぎ石
48
境
界
便所
54基礎
(角・布)
51
境
界
47旗竿石
5基礎(角・布)
下屋
57基礎
(角・布)
4土留め
41入口
6基礎(角・布)
土蔵
・ )
59 サイロ
1境界・
台石
主屋
15土留め・土台
1基礎(角・布)
26集積
24境界・
32立柱
犬走り
25境界・
犬走り 33
土
37基礎 28基礎
留
(束石) (角・布)
め
主屋
23基礎
39井戸 (角・布)
蓋2
44不明
43敷石40火鉢
2集積
3
土
留
め
2集積
26集積
22石臼
23階段
27屋根束
7基礎(角・布)
主屋
17雨 落ち
15敷石
12門柱 13門柱 16塀
29
塀
17敷石
15
境
界
16
境
界
25土留め
18土留め
33 しぶき避け
20土留め
18石碑
19石碑
2 2ナツカワ 21橋の部材
45敷石 42境界・犬 走り
46入口
38屋敷
明神
土蔵1
土蔵2
10窓枠
7腰壁
3
土
留
め
2 1ナツカワ
22土留め 9基礎(角・布)
8土留め
1 8オブジェ
24花台
35敷石
17境界・
雨落ち
38境界・
雨落ち
主屋
36境界・
雨落ち
・ )
9屋敷明神
8基礎
5境界
2水鉢
4
境
界
39集積
12入口
34敷石
33 ナツカワ
11集積
14境界・
32台石
雨落ち 13敷石
15土留め
4基礎
3集積 (角・布)
16土留め
8集積
(
10境界
倉庫
7土留め
1敷石
1境界
6集積
9基礎(角・布)
7境界・雨 落ち
10入口23集積
31階段
紅花蔵 旧便所
5基礎
(角・布)
1基礎(角・布)
16集積
15敷石(踏み石)
18敷石(踏み石)
17
境
界
19集積
13基礎(角・布)
4基礎(角・布)
主屋
7基礎(角・布)
雨
落
ち
2土留め(植栽)
1
境
界
31集積
稲蔵
8 基礎(角・布)
12
基
礎
10土留め・土台
蚕蔵
二 井 宿 街 道
1塀
5靴 脱ぎ石
4台石
(ガス台)
7土留め
13石碑
14石碑
16礎石(鳥居)
15等郎
6土留め
8礎石(鳥居)
主屋
4敷石
土
台
33
境
界 9
土
留
め
3 0 かまど
22土留め
・土台
19
境
界
2 0 屋敷明神 24集積
(
)
)
図8-22 安久津地区における高畠石の外構利用2
2 3 境界
飼育小屋
17境界
21土留め
・水路
18境 界・犬走り
3境界
8 屋敷明神
5 堆肥置き場
10基礎 切 石・布
2 2 敷石
1 8 踏み石
( 玄関 )
1 9 花台
主屋
9火鉢
4土留め
(植栽)
6 土留め・
11 20 水路
19土留 め・犬走り
境境
2 0 土留め・
界界
水路池 ( 玉
・雨
石)
犬落
7 石碑
走ち
り
6屋敷明神
5境界
主屋
11集積
12境界・犬 走り
23土留め
小屋2
37土留め
30橋
2境界
4基礎
(角・布)
主屋
水 19敷石
6
土
留
め
5塀
4境界
21石祠
8敷石
18敷石
11基礎
(角・布)
16土留め・土台
2土留め
主屋
22屋敷明神
20火鉢
主屋
1土留め
3階段
路
15土留め・土台
9
6靴 脱ぎ石製 7
品
12靴 脱ぎ石
土
7基礎
留
(角・布)
め
12水
10製品 土路
留
め
11土留め
・
5土留め 水
路
3集積
8製品
主屋
主屋
主屋
3集積
1
土
留
め
2土留め・水路
17石臼
9集積
水
路
10
土
留
め
18境界
13灯篭
13土留め
17
境
界
4塀
22境界
・台石
2基礎(角・布)
主屋
8集積
土蔵
3基礎(角・布)
堆
肥
小
屋
35敷石 36敷石
37敷石
貯
水
池
牛舎
75
路め 塀
・
76
土
水留
蔵
8 2 台座
8 1 屋敷明神
薪蔵
63境界
71石橋
・
73階段
70
土
留
め
69基礎(角・布)
水
路
72敷石
78敷石
80基礎(角・布) 79敷石
65境界
66境界
67土留め
68土留め
64境界
蚕蔵
便所
84基礎(角・布)
85基礎(角・布)
稲蔵
77基礎(玉・礎)
83
境
界
21靴 脱ぎ石
96
境
界
91
塀
二井宿へ
4土留め
38
土 43土留め
46
93集積
留
土
め 42 45土留め
留
47
め
92基礎(
94
水土
土
角・布)
境
路留
界
40 め 44 留
土 め
敷
石 41 留 48 49土留め
51土留め
土 め 階
95階段
39 留
段 52土留め
50土留め
土 め
54井戸蓋
留 34土留め
53井戸枠
め
57基礎(角・布)
1塀
1敷石
池
6入口
7敷石
5土留め
28土留め・犬走り
55 56階段・踏み石
30入口
33土
留
23踏み石 27階段
32 24基礎(角・布) 土め
留 58
基
60境界
め 牛 59集積
礎
・ 繋
61 サイロ1
犬 ぎ
角
25土留め
走 石
18土留め
布
り
62 サイロ2
19土留め
20石炉
90土留め
26基礎(角・布)
31敷石
97基礎(角・布)
87
境 29土留め・犬走り
17
界
・土
89入口
水留
台
路め
石
88敷石
86基礎(角・布)
16
境
界
・
犬
走
り
74台石
6
・土
水留
路め
7灯籠
3基 礎(角・布)
2境 界・犬走り
4
土
留
め
主屋
3境界
22
土
留
め
5トイレ跡
21
土
留
め
10
土
留
め
9屋敷明神
16土留め
15集積
1境界・犬 走り
2基礎(角・布)
主屋
土蔵
6基礎(角・布)
小屋
7基礎(角・布)
20階段
8イリカド
19敷石
1514
5 土手 ・土 留 水 ・ 8
水留 め 鉢 犬境
路め
走界
10橋 り
9
台
石
14集積
11土留 め・水場
13階段
12階段
12洗い場
11土留め・水路
・
25土留め
27基礎(角・布)
6集積
車庫
16 入り口
17基礎
住宅・車庫
7境界
6境界
9 台座
8 基礎 ( 角・礎 ) 1 0 肥塚
28階段
29集積
27土留め
)
作業
小屋
)
5 サイロ
)
22境界・台石
(
26土留め
(
19堆肥 置き場
・
21敷石
1 2 境界
14貯水槽
土蔵
13井戸側
8土留(敷地)
1階段
2敷石(玄関)
・
23敷 石・通路
14集積
2 4 境界
2門柱
3ナツカワ
4礎石(玄関柱)
3土留め(主 屋・通路)
(
小屋1 47基礎(角・布)
9
境
界
6 屋敷明神
5 屋敷明神
7 石臼
水23
路土
留
8
め4
境
・境
界
界
1境界
15基礎 切 石・布
5石炉
主屋
小屋・車庫
2石張
4境 界・雨落ち
6集積
5境 界・雨落ち
24集積
25 基礎(角・礎)
小屋1
・
44土留め
9敷石
11 飾り石 1 土留め
( 植栽 )
14集積
16境界
21
境
3集積界
4 屋敷明神 犬
走
10敷石 2ナツカワ
り
43
土
留
42
小屋2
め
土
留
26基礎( 角・併)
植
め
栽
植
栽
19集積
7 境界・犬走り
主屋
25
土
留
め
・
水
路
3集積
3ナツカワ
5土留め(植栽)
7土留め(庭)
1石段
10境界(敷地)
10境界(畑)
10集積
9境界(畑)
8集積
主屋
(
17境界・台石
16腰石
14階段
水15
路土
23土留め 留
め
・
小屋
18集積
2 9 境界
1境界
主屋
4集積
1屋敷明神
7基礎
2
境
界
29 基礎(角・布)
台
石
26集積
32
境
界
・
15土留め
31集積
1 2 境界・犬走り
8基礎( 角・布)
2境界
17集積
水10
路土
3 9 ナツカワ 留
め
・
12
11
境
基
界
3
礎
土
雨
留
落
め
土20
ち
台土
留
22
め
土
・
留
め
・
13境界
コンクリ
12塀 7 敷石
3
土
留
め
29 基礎(角・礎)
・
・
・
46境界
・台石
小屋
37階段
38敷石
旧主屋
37角石
33境 界・
21土留め 材木台
32束石 34基礎( 角・礎)
3 4 境界 3 5 井戸蓋
20敷石
13
30土留め 29階段
土
留
2 5・26屋敷明神
31土留め
め
耕運機
39土留め
・
27不明
小屋
水
28束石
3 3 基礎 ( 角・礎 )
路
4 9 敷石
48集積3 0 敷石
3 2 境界・置石
17敷 石・小段
16境 界・花台
19石臼
23土留め
18敷石
40 境界
3 6 基礎 ( 角・布 )
11塀
2石炉
主屋
13 サイロ跡
6屋敷明神
5 流し台
14土留め(植栽)
9基礎
1石臼
物置
15不明
10堆肥 置き場
7敷石
8基礎
小屋
旧牛小屋
28屋敷明神
・
18
重
し
14敷石
5境 界・犬走り 3 手水鉢
12境 界・花台
41
境
4集積
15敷石
36境 界・犬走り
界
38境界
敷
地
車庫
4敷石
12石炉の跡
2土留め
8土留め
1土留め
主屋
6境 界・犬走り
11敷石・小段
10基礎(角・布)
13境 界・犬走り 35基礎( 角・礎)
6基礎( 角・礎)
22基礎( 角・礎)
主屋
9
境
界
10井戸の蓋石
5敷石
2境界(敷地)
7境 界・犬走り
9基礎(角・布) 8境界
1門柱
主屋
3塀
2門柱
1境界(敷地)
4塀
7基礎( 角・布)
畑
4基礎
土蔵
6屋敷明神
3
境
界
・水路
・
(
20基礎(角・布)
28土留め
24集積
5
土
留
め
3基礎(角・礎)
1基礎(角・礎)
3境界(主屋)
2境界(主屋)
主屋
)
3敷 石・小段
)
3境 界・花台
6境 界・花台
2集積
4集積
)
(
4境 界・花台
石
1
庇
基
礎
角
・
礎
3敷石(通路)
11基礎
・建物の入り口
・
10境 界・台
)
4燈篭
(
)
9
土
留
め
主屋
敷
地
主屋
16不明
・その他
・
3境 界・台
8
境
界
1階段
14土留め(石造物)
5石碑
6石碑
8焼却炉
・石橋
(
2境 界・台
1
土
留
め
車庫
2土留め
5ナツカワ
8石祠
9石祠 7石碑
4基礎切 石・礎石
12石祠 10石祠
13板祠 11石祠
16
土
留
め
5集積
7境界(敷地)
・基礎 ・屋敷明神 ・石祠など ・集積
・
7境 界・資材台
主屋
敷
地
(
6集積
3
境
界
6灯篭
主屋
(
)
8境 界・重石
3不明
2土留め
4不明
4屋敷明神
物置
3集積
・敷石
)
・
主屋
1石臼
主屋
倉庫
6 不明
川
5不明
2敷石(玄関)
7 土留め
・門柱
(
(
2境 界・台石
主屋
4 境界
1基礎切 石・布基礎
下
・境界石 ・土留石 ・塀
無
有
主屋
凡例
・
19
・
Ⅷ.地場産業と景観に関する研究 121
注
注 1)文献 7 の大正 10 年時の調査によると、大谷石は 70 町歩、500 万切、房州石(金谷)は 6 町歩、65 万切であった。
注 2)年紀の明らかなものでは県内最古の板碑。
注 3)沢福等の石工島津栄吉氏の曾孫に当たる次郎兵衛氏の聞き取りによる。
注 4)瓜割の石工引地兼夫氏の息子で石屋の道晴氏の聞き取りによる。
注 5)瓜割の石工後藤初雄氏の聞き取りによる。
注 6)文 8 ‐ 10 によると、大谷石は 6 寸× 10 寸× 3 尺(手掘り時)
、房州石は尺三 9 寸 5 分× 8 寸 5 分× 2 尺 7 寸が定尺とされる。
注 7)後藤初雄氏の聞き取りによる。機械掘りは、石層中に含まれる硬い金石により刃が欠け、刃道も逸れるため、採算性や効率
性が低かった。
注 8)文献 6 および島津次郎兵衛氏の聞き取りによる。
注 9)島津栄吉氏も大笹生で採掘技術を学んだ。
注 10)明治 43 年の土地台帳による。
参考文献 1)
『山形県の諸職』山形県教育委員会、1987。
2)真壁仁『続手職』やまがた散歩社、1981。
3)
「たかはた ・ 石の文化をさぐる」高畠町郷土資料館、2002。
4)野添憲治『聞き書き 知られざる東北の技』荒蝦夷、2009。
5)高柳俊輔「高畠町の石工技術 ‐ 最後の伝統的石切り職人」東北芸術工科大学卒業論文、2009。
6)四釜正明「近代高畠の集落景観の変遷と高畠石の利用」日本建築学会関東支部研究報告集、2004。
7)臨時議院建築局編『本邦産建築石材』重松養二、1921。
8)
『大谷石百選』大谷石研究会、2006。
9)
『宇都宮市史第 7 巻』宇都宮市、1980。
10)
「房州石の歴史を探る第 1 号」石のまちシンポジウム委員会、2009。
122
テーマ1小結
岡田 靖
テーマ 1 では、対象地域を中心に地域文化遺産の把握および再発見のための複合的かつ悉皆的な調査活動
を実践し、調査によって得られた情報をもとに地域文化遺産の価値について多角的に研究することで新たな
文化財価値の創出を図ることを地域文化遺産保護の第一歩と定め、調査活動を中心においた活動を展開し
た。
昨年度の研究成果を踏まえた平成 23 年度の調査活動は、対象地域に関連の深い文化的なキーワードを設
定することで、研究成果の深化を目指す活動を展開した。その研究手法は、従来の日本の文化財の認識の方
法である個別の作品評価視点からの転換を図り、表現分野や地域の枠を横断的に研究することで、より総合
的な文化遺産としての認識の視点獲得を目指したものである。それは、個々の文化財が点であると例えれ
ば、それらを線上につなぎつつ、時間軸に沿って縦軸の関係性において結び、さらに関連する文化的なキー
ワードを横軸として結ぶことで、立体的かつ総合的な文化把握を目指す研究手法である。その方法により、
中央文化を規範とした従来の歴史観では見えづらい地方の文化背景から見た文化遺産価値を見出していきた
いと考えている。以上の研究視点によって、研究成果の集約を図るために設定した研究対象地域において今
年度実践した調査研究の成果についてまとめてみたい。
まず大江町では、昨年度の法界寺調査に続いて行った巨海院調査によって、左沢が近世に酒井家(左沢
藩、松山藩)の藩領として大いに栄えたことを物語る遺産が多く確認され、最上川舟運によって結ばれた左
沢と酒田、そして北前船を通じた京都との関係性が深かったであろうことが確認された。また幕府の要職を
務めた松山藩酒井家の影響により、左沢に多くの江戸文化が流入したことも文化遺産から推察することがで
きた。同時に、大江町内において栽培されていた良質の青苧は同地の特産品として都へと運ばれ、かわりに
多くの富をもたらすとともに都文化が流入したことにより、左沢が山形地方の中で商業拠点ならびに文化拠
点として隆盛したことが見えてきた。そういったことを背景として、都からもたらされた文化が左沢に根付
き、本報告書で報告した林家仏師の活動が一つの事例として土地固有の文化を育み、近隣地への影響を深め
て行ったのであろう。大江町には、林家の他にも巨海院住職で絵師としても活動した路勇や鉄船などの活動
や、左沢で明治初期より写真館を営み数名の芸術家を輩出した菊地家の活動など、江戸期から明治期にかけ
て左沢の文化を牽引したと推測される諸活動が確認されている。また一方で、大江町を縦貫する出羽三山信
仰の参詣路である道智道は、参詣者の往来によって大江町の山間部に文化的活動を生み、また左沢からの参
詣路と交わることで現在の西川町と置賜地域との交流地として発展した背景がある。来年度以降、それらの
研究キーワードを複合的に交錯しながら大江町の歴史文化に迫ることで、地域文化遺産の新たな価値の創出
を深めていきたい。
西川町は、湯殿山信仰の本拠地であった本道寺と大日寺を要する重要な地である。近世には年間に数万人
規模の参詣者が登拝したといわれる出羽三山は、参詣者らが持ち込んだ各地の文化が流入し、両地区の文化
を育んでいくこととなる。また多くの信仰者は関係する寺院にこぞって寄進を行い、それによって多くの石
碑が建立されたり、多くの什物が寺院にもたらされたりしたことが知られている。しかし、それらの什物は
明治時代の神仏分離令の影響を受けた廃仏毀釈運動によってその多くを散逸し、現在西川の地に残されてい
る関連文化遺産はあまり多くはない。そのため、来年度以降は対象地域以外へ調査範囲を広げ、神仏分離に
よって散逸した什物類の追跡調査を行うことで、西川町で隆盛した出羽三山信仰関係遺産の総合的な把握と
価値の創出を図っていきたい。
高畠町では、地域独特の特産物である高畠石に焦点をあて、現代生活における高畠石の利用の側面から町
の文化について地域住民とともに取り組む活動(高畠まちあるき)を行っている。それにより、地域住民の
文化理解の向上が得られ、地域文化遺産の保護へと繋がる活動へと発展していくことを目指している。また
一方で、高畠町の主要な宗教施設である亀岡文殊(大聖寺)での調査研究を前年度に引き続いて行い、継続
して行うことによってテーマ 2 へと繋がる文化遺産保護への実践活動への発展を進めた。
以上の本年度の成果を踏まえ、来年度以降は各対象地域の調査研究をさらに深めるとともに、対象地域以
外の関連遺産の調査へと範囲を拡大しながら、総合的な文化遺産価値の創出を図っていきたい。それととも
に、テーマ 2 へと繋がる実践的な文化遺産保護の活動を合わせて推進していくことで、本研究の目的である
総合的な地域文化遺産保護の達成を目指して行きたい。
テーマ1小結 123
テーマ2
『環境に配慮し、安全で簡便な
地域文化遺産保存管理』を
地域住民と展開するための
基礎研究と教育普及
テーマ2 「『環境に配慮し、安全で簡便な地域文化
遺産保存管理』を地域住民と展開するため
の基礎研究と教育普及」
米村祥央
1 .地域文化遺産の保護に関する基礎研究と実践
現在、文化財保存の分野で国際的なキーワードとなっている予防的保存(Preventive Conservation)の
観点では、文化財の劣化速度を最小限に抑えるために、その環境を整え、日常的なケアを行うことが重要視
されている。こうした文化財の予防的保存活動を地域で展開するためには、地域文化財の歴史的 ・ 文化的な
背景や特徴に関心を高めた住民が、屋内外の環境や災害が文化遺産に与える影響を知り、日常的 ・ 定期的な
保護活動(点検、清掃、簡易的な応急処置等)を継続できる形となることが望ましい。そのためには、テー
マ 1 での調査活動に際して上記の保護活動をセンター研究員が実践することでその効果と意義を検証し、文
化財を直接的に管理する地域住民との文化財保護意識を共有することが重要である。
次に、文化財の保護 ・ 保存活動を行うにあたって、地域住民自身が実行できる簡便で安全・入手しやすい
方法での地域文化遺産保存に関する新知見、新技術の開発を検討する。特に寒冷地である山形県の環境特性
を考慮した研究を進め、地域での活動に沿ったものとなるよう実践的保護対策を実施する。これらは一方的
な研究情報の提供ではなく、地域住民の参加型の研究となることを目指し、それにより地域の中にも活きた
経験・データとして浸透することができると共に、地域における永続的な地域文化遺産の保存活動が可能に
なると期待される。
簡便で安全、入手しやすい地域文化遺産の保存管理方法と環境改善の研究は、予防的保存の観点から住民
自身の手によって文化遺産の過度な劣化予防を目的としている。地域文化遺産に最も近い地域住民の保護意
識が向上し、かつ保護活動が日常的に行われることは、わが国の文化財保護活動全般の水準の飛躍に繋がる
ことになるであろう。このような地域文化遺産の保存修復活動は、その重要性が認識されてきている現在に
おいても、具体的な実践は積極的に行なわれていないのが現状である。このため、本研究の成果は、各地の
保護活動にとっても今後の一指標になるものと思われる。
2 .教育普及活動
地域文化遺産の保護にとって大切なことは、専門家のみが保護・保存活動を実施するのではなく、直接的
に地域文化遺産を担う地域住民が主体となった活動が永続的にされることである。そのためには、若年層か
ら老年層までの地域文化財保護活動に関する教育普及活動を行う必要がある。そこで、テーマ 1 とテーマ 2
の研究によって得られた地域文化遺産保護の実践活動からの知見を、ワークショップ、勉強会、研究会、報
告会、シンポジウム、展覧会などを通して、地域住民と対話し、一緒に学びながら浸透を図ることで、次世
代への地域文化遺産保護に対する教育普及を目指す。
これらの活動は、特に小 ・ 中学生などの若い世代の参加が望ましく、地域文化遺産保護の早期教育による
継続的な次世代への継承に繋がり、かつ地域住民の文化遺産保護に対する意識の飛躍的な向上も期待され
る。さらに、各研究活動に学生および本学卒業生を積極的に参加させることで、研究分野の発展に加え、若
手人材の育成などの教育的効果も得られると考えられる。
3 .平成 22 年度の研究内容
(1)悉皆調査に伴う地域文化財の清掃や応急処置の実践
(2)悉皆調査に伴う温湿度等環境調査と IPM(総合的有害生物防除管理)などの具体的改善策の検討と実
践
(3)文化財を構成する素材に関する自然科学的研究
テーマ2 「『環境に配慮し、安全で簡便な地域文化遺産保存管理』を地域住民と展開するための基礎研究と教育普及」 127
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