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80 年代を語ることの意味(2)
21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 80 年代を語ることの意味(2) ∼大平総理の政策研究会がめざしたものとは∼ 北山 晴一 KITAYAMA Seiichi 80 年代とは、どんな時代であったのか。70 年代までの変化を受けて、これからどの ような運命が待ち受けているのか、あるいはどのような社会を作っていくのか、そう いう自問自答の時代ではなかったか。それは、言いかえれば、プラスに出るかマイナ スに出るかは分からないが、さまざまの可能性に向かっていくつかの選択が開かれて いた、そういう時代の転換点ではなかったか。ところが、周知のように、それらの可 能性の多くは 1987 年のバブル開始によって打ち捨てられ、日本社会は魔の 90 年代へ とを引きずられていくことになったのである。 1.なぜ 80 年代なのか。80 年代を語ることの意味 80 年代を最初に論じた著作は、わたしの知る限り、1987 年刊行の『八〇年代論』 (佐 和隆光、新藤宗幸、杉山光信著、新曜社、1987 年)だと思われる。1987 年といえば、 まだ、80 年を回顧するには未熟な時期だったと思われる。なのに、もうこの時期に、 「八〇 年代論」が語られたのである。その理由は、どこにあったのか。 経済学、政治学、社会学などの社会科学に携わる研究者である著者たち 3 人は、冒 頭において、「最近、1960 年代への関心がとみに高まっている」としたうえで、「もと もと欧米からの輸入パラダイムをその原点に据えてきた日本の社会諸科学にとっては、 進歩の観念が色あせ、モデルとしての近代西欧もまた色あせた八〇年代の状況を読み 解くのは、まことに至難の業というべきなのかもしれない」、しかし、「時代状況解読 の営みを、感性にのみ委ねてすますわけにもいくまい。また、いたずらに日本回帰を 標榜しても仕方あるまい」、であれば、「私たちは無謀を承知のうえで、八〇年代とは 何であり、何であろうとしているかを、鼎談の形を借りて論じあってみることにした」 (同、ⅰ頁。下線は引用者)と記している。 そして 80 年代前半期を語るためのキーワードとして、以下のような言葉を列挙して いる。情報化、サービス化、ソフト化、空洞化、金融化、投機化、市場経済万能主義 の復権、日本主義礼賛、ビジネス・カルチャー、反進歩、行財政改革、民間活力謳歌、 規制緩和、小さな政府、高齢化、等など。 著者たちは、この時期、まだ、バブルという言葉も使っていないし、消費社会への 本格的な批判も展開してはいないが、それでも、「問題なのは、こうしたキーワードが ̶ 13 ̶ 八〇年代後半期から九〇年代初期にかけても、いぜんキーワードであり続けるかどう かである」 (同、ⅱ∼ⅲ頁)と述べ、 「八〇年代末から今世紀末にかけての 10 余年の間に、 未曾有の激変を経験するやも知れない」 (同、ⅲ頁)と付け加えていることに注目して おきたい。ここで著者たちの言及する「未曾有の激変」が、バブルを予想したものなのか、 それとも日本回帰に言及したものなのか、あるいはその両方を念頭に置いたものであっ たのか、つまびらかではないが、著者たちが、再三、「大平総理の政策研究会」につい て言及している点など、本稿の問題関心のいくつかは、この『八〇年代論』のそれと 重なっている。以下、私なりに、80 年代にかかわる問題関心の広がりを列挙し、本稿 の対象とするテーマを提示しておきたい。 問題関心の第一の点は、「文化」ということばにかかわる。80 年代は、70 年代後半 の経済的成長に自信を得た日本の政権担当者とそれに近い学者や文化人たちの口から、 「文化の時代」あるいは「文化の要請」といった言い方で、日本の文化、それも伝統文化、 そしてそうした伝統文化を基底にした日本的なやり方(日本教)の復権を求める主張 が言論空間の表面に現れ出た時代であった。いまからみれば、それは、新保守主義と 新国家主義が同一語になってしまった時代でもあった。 第二の点は、一億総中流意識の中で社会が階層化に向かう兆候が見え始めたにもか かわらず、一般的には、日本社会が非階層化されたとの認識が広まった時期でもあっ たこと。いまでもなおそのような認識の下に 80 年代を語る傾向が強いことを指摘して おきたい。 80 年代後半から 90 年代にかけて世界的に流行したポストモダン言説の流行は、新し い風俗や文化現象を取り扱う中で、若者たちの言動にのみ注目することで、政治や経済、 そして社会構造の分析を不透明なものにし、結果的に、政治の不可視化への道を開い てしまったのではないか。 第三の点として、もうひとつの大きな問題軸があげられる。それは、消費社会の進 展と個性や個人主義、あるいは「自分」をめぐる言説の構成にかかわるものである。 第四の点は、『八〇年代論』の著者たちが指摘している「戦後政治と戦後知識人像」 の転換にかかわる問題である。すでに 70 年代にはじまっていたことではあるが、学問 的な分野での専門的な知識のゆえに活用されるのではなく、メディア主導の言説空間 で活躍し、そのことによって政権や政権に近い機構から招聘されて活躍する文化人、 それもほとんどいつも同じ顔ぶれの人物たちが活用される風土が出来上がったのが、 この 80 年代ではなかったかということ。現在もなお政府や首相の私的な諮問機関が多 数作られているが、その嚆矢が、 「大平総理の政策研究会」ではなかったかということ。 ある種のブレーン政治の発端がそこにあったということもできよう。 いうまでもなく、ここで挙げた 4 つの問題系は相互に関係しあっているが、この論 考では、具体的に検討する対象分野として、2 つのテーマを設定してみた。 ひとつは、上記 1、2、3 の項目を対象としたテーマ、具体的には消費社会論的視点 からセゾングループの発想を中心に 80 年代のもつ歴史的意味をメインテーマとした部 分。次いで、「大平総理の政策研究会」 (1979 年∼ 80 年)という当時の大平正芳首相が 作らせた私的諮問機関の果たした役割、そして、こうした組織が公に登場したことの 意味について、なかでも、この研究会が体現していたと思われる 80 年代特有のイデオ ̶ 14 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 ロギー(大平が「時代認識」と名付けたもの)について、である。 ここで 2 つのテーマを設定するといったが、じつは、ひとつめのテーマについては、 他所で発表した論考(「80 年代を語ることの意味―時代はいかにして閉じられていった か」、所収『境界を越えて』立教比較文明学会紀要第 9 号、2009 年 3 月)ですでに詳 述している。したがって、本稿では 2 つめのテーマを中心的に扱うこととしたい。し かしながら、いうまでもなく、これら 2 つの論考は、私の頭の中では、 「80 年代を語る ことの意味」という共通テーマを持つひとつながり論考として構想され、発表したも のであったことを、まずここでお断りしておきたい。(1) 2.「大平総理の政策研究会」の登場の歴史的意味を考える 大平正芳がこの政策研究会を作らせたのは 1979 年 1 月のことである。研究会はその 後、1 年あまりの議論を重ねた上で、全 9 巻の報告書(『大平総理の政策研究会報告書』 大蔵省印刷局、1980 年。以下、本稿では、「報告書 1 文化の時代―文化の時代研究グ ループ」、あるいは「報告書 1」のように表記する)を作成して、刊行している。 研究会発足の趣旨については、大平自身が明確に提示している。「文化の時代研究グ ループ」の第一回会合における大平総理発言要旨(昭和 54 年 4 月 9 日)を紹介してお こう。少し長い引用になるがご容赦願いたい。 1 私は、先の施政方針演説において、「文化の時代の到来」ということを申し上げた。 (1) わが国は、戦後 30 余年、経済的豊かさを求めて脇目もふらず邁進し、顕著な成果 を収めてきた。それは、殊に明治以降の 100 余年において、欧米諸国を手本として進め てきた近代化、工業化の偉大な精華でもある。今日、われわれは、物質的豊かさと便利さ、 自由と平等、高い教育と福祉の水準、発達した科学技術などを享受するに至っている。 (2) しかし、いまや、近代化、工業化による経済社会の巨大な構造変化を背景に、国 民の意識や価値観にも重要な変化が進行してきている。かつてない自由と豊かさは、人々 の心に、これまでの工業文明や近代合理主義のもとで、ともすれば見失われがちであっ た人間性のいくつかの大切な側面への反省を促し、より円熟した、より高い人間的欲求 を目覚めさせている。国民は、人間の内面に深く根ざした精神的、文化的な豊かさ、生 活の質と多様性、自由と責任の均衡、家庭や地域や職場におけるあたたかい人間関係の 回復、人間と人工と白然との調和のとれた共存を求め始めている。 (3) このことは、近代合理主義に基づく物質文明が飽和点に達し、近代化の時代から 近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったとみるべきではない だろうか。 2 (1) 四囲を海に取りまかれているわが国は、古来から海外文化の影響を非常に強く 受け、これを積極的に吸収し自分のものとすることによって、世界の中に独白の文化圏 を形成してきた。歴史的にみてわが国は、閉ざされた社会ではなく、むしろ世界に向け て広く開かれた国であった。 (2) かつて異なった東洋文化の大いなる摂取に努めたわが国は、江戸時代 300 年の伝 ̶ 15 ̶ 統文化の一つの成熟期を経た後、幕末以来の近代国家づくりの過程で、西洋文化を積極 的に取り入れた。この結果、この日本というアジアの一角にある島国のうえで、東方の 文化と西方の文化との魂の触れ合いというか、世界史的にみても意義の大きい出合いを することになった。 (3) いま、わが国では、東方の文化と西方の文化との混滑(こう)ともいうべき状況 になっている。そして、カオスともいうべきこの混滑が、未来に向けて何ものかを生み 出す大きなエネルギーになっているのではないだろうか。 3 (1) 「文化の時代の到来」と申し上げたが、過去から現在に到る歴史を踏まえ、21 世紀の未来に向けてどのような文明の時代が開かれようとしているのか、さらに掘り下 げて研究し、御教示いただきたい。 (2) また、このような文化の時代を迎え、東西両文化の混滑のなかから 21 世紀の未来 に向かって何が、どのような文化が生み出されつつあるのだろうか。 わが国は、どのような方向を目指すべきなのか。そのなかで、国は、政治は、何をな すべきなのか、あるいは、何をなすべきではないのか。 このような問題について、自主的な立場から、自由かつ活発に御議論いただき、御提言 いただきたい。 (「報告書 1 文化の時代―文化の時代研究グループ」1980、21 ∼ 22 頁。下線は引用者) 大平のこの趣旨説明のなかでもっとも目を引く点は、大平が「文化の時代」という 言葉に特別の思い入れをこめて説明している点である。なぜ、「文化の時代」なのか。 それは、近代合理主義と物質主義から文化重視の時代に、古来、東西の文化交流の要 に位置してきた日本は 21 世紀の新しい時代を切り開くにあたって普遍的な価値を発揮 するモデルを提供している、との自信があったからである。このような自負の感情を 生み出したのは、1979 年という時期が日本が第 2 次エネルギー危機を世界でまっさき に乗り切って世界経済の寵児になった時期だったからである。日本人、とくに経済人 が得意の絶頂にあった時期なのである。 詳しくは、追って検討することにして、とりあえず次の項では、当時の状況と、ど のような人士が研究会のメンバーであったのか、簡単に紹介しておきたい。 2-1.「大平総理の政策研究会」の構成 「政策研究会」は、次の九つの研究グループの総合体として、1979(昭和 54)年 1 月以降、 次々と発足した。 1 文化の時代研究グループ(議長 山本七平山本書店主) 2 田園都市構想研究グループ(議長 梅棹忠夫国立民族学博物館長) 3 家庭基盤充実研究グループ(議長 伊藤善市東京女子大学教授) 4 環太平洋連帯研究グループ(議長 大来佐武郎(社)日本経済研究センター会長) 5 総合安全保障研究グループ(議長 猪木正道(財)平和・安全保障研究所理事長) 6 対外経済政策研究グループ(議長 内田忠夫東京大学教授) 7 文化の時代の経済運営研究グループ(議長 館龍一郎東京大学教授) ̶ 16 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 8 科学技術の史的展開研究グループ(議長 佐々學 国立公害研究所長) 9 多元化社会の生活関心研究グループ(議長 林知己夫統計数理研究所長) 報告書の各巻につけられた「総論」によれば、各研究グループは、大正生れの 9 人 の議長のもとで、主として昭和 30 年代に社会に出たそれぞれの専門分野の学者、文化 人、各省庁の実務家 200 余人によって構成されていた。各研究グループの報告書は、 これら多くの人々が、「さらに広く各界の意見を聞きながら、学問の専門分野を超えて 学際的に、各省庁の枠にとらわれずに省際的に、1 年有余にわたり、10 数回から 20 数 回の総会とさらにひん度の高い深夜に及ぶスモール・グループの討議に基づく共同研 究を行った」 (同、18 頁)結果、その成果をまとめたものであるという。 各巻冒頭には大平正芳首相の緒言とともに「21 世紀へ向けての提言」と題された「総 説」がつけられている。「総説」は、報告書 9 巻の各巻要旨をもとに、いずれの巻から 読んでも全体の構成と趣旨が十分に理解できるようにとの配慮のもとに編集されてい る。「総説」末尾には研究会発足の経緯と 9 グループのテーマおよびグループ責任者(議 (2) の 長)氏名、そして編者である「内閣官房内閣審議室分室・内閣総理大臣補佐官室」 筆になる、読者への呼びかけの言葉が記されていた。 大平首相がこの政策研究会を作らせたのは 1979 年 1 月のことであるが、周知のよう に大平内閣は与党自民党内の派閥争いの大波を受けて、1980 年 5 月に総辞職、大平首 相は衆議院を解散して総選挙に打って出た。ところが、選挙運動の最中に大平自身が 急死するという意想外の展開となり、「大平総理の政策研究会」はその存在の核を失う 事態に直面した。しかし、研究会はそれこそ、「1 年有余にわたり、10 数回から 20 数 回の総会とさらにひん度の高い深夜に及ぶスモール・グループの討議」を経て報告書 を作成し、内閣総理大臣臨時代理の伊東正義に提出したのである。パトロンを失った 研究会のメンバーたちは、悲壮ともいえる興奮状態のなかで作業を急いだものと思わ れる。だからであろう、報告書前文の末尾には、この種の報告書には似合わない高揚 した文体でしたためられた、次の文章が見出される。 この報告書は、ぜひ全 9 巻を通してお読みいただきたい。それは、30 年後、50 年後 の地球社会が、日本が、あなたの住む地域社会が、さらに、あなた自身の家庭や生活が、 どうなるのか、どうなるのが望ましいのか、そのために、今日から、この 10 年間、20 年間に、あなたを含めて、何をしなければならないのか、そういうことを、あなたに語 りかけてくれるであろう。 かつて大平総理が、尊敬し信頼してこの大作業を委ね、ともに語り合うことを喜びと していたこの人々と、あなたも、この報告書を通じて、ゆっくりと語り合っていただき たい。 内閣官房内閣審議室分室・内閣総理大臣補佐官室 (「報告書 1 文化の時代」、18 ∼ 19 頁) ̶ 17 ̶ 2-2.「大平総理の政策研究会」発足の背景 大平研究会が設置されるまでの軌跡をたどることで、この研究会が思いつきの産物 ではなく、大平が年来温めてきた彼独自の「時代認識」に基づくものであったことを 示しておきたい。同時に、大平の理念上の同伴者であり、この研究会の実質的な中心 人物の一人であった公文俊平が、どのような社会認識をもち、また 80 年代をどのよう に構想していたかについても明らかにしてみたい。 (3) という論考の中で、大平研 公文は、「大平正芳の時代認識」 (公文 1993 年、Web 版) 究会発足の背景を詳しく語るとともに、なぜ 80 年代末から 90 年代にかけて日本経済 の沈没あるいは日本システムの崩壊が語られるような事態に陥ってしまったのかをい くばくかの反省を込めて回想している。 公文は、大平研究会の設置にいたる大平の「時代認識」は、すでに 1970 年 1 月には 認められるとしている。公文によれば、大平の時代認識の第一の柱である「文化の時 代の到来」という考えは、大平が、第二次佐藤内閣の通産相として、1970 年の 1 月に 地方銀行の雑誌『五行評論』に発表した論文「新通商産業政策の課題」 (大平正芳『回 想録』資料編所収、194~201 頁)の中にその出発点があるとされる。公文は、大平が この論文の冒頭で述べた「大きな転換期を迎え、いわば新たな歴史的段階に進み出よ うとしていることが感じられる」との時代認識を敷衍して、大平が、明治以来の日本 が国家目標として追求してきた「欧米先進国へのキャッチ・アップ」型(模倣の時代 の 追いつき 型)の近代化が完了したこと、そして、「模倣の時代の後には創造的発 展の時代がこなければならず、新しい発展を実現するためには新しい価値、つまり新 しい国家目標の設定とその国民的な受容が必要である」との認識をもっていたとする。 明治以来の国家目標の達成が、日本にとって新たな問題をなげかけることになったと いうわけである。 1973 年、大平は、 「新しい国家目標」と同じことを、今度は「新秩序への道標」 (1973 年の 8 月に開かれた宏池会研修会での講演の題目)ということば言い直している。こ こで大平は、自由と民主主義の本旨をあらためて問いなおし、「平和と自由と生きがい に満ちた社会」という理想を実現するための政策として、次の 3 つの道標を揚げている。 ①人間関係を大切にすること、②物を大切にすること、③時間を大切にすること、これ ら 3 つがそれである。公文によれば、これらは、「いってみれば人間の原点というか初 心に戻るような理念」だったということになるが、しかし、大平がここで具体的にイメー ジしていた中身は、じつはきわめて散文的で、物価、土地問題、公害問題を解決すべきだ、 という「いまごろ、何を」いった種類のものにすぎなかったのである。 次いで、公文は、大平が、1978 年 11 月、自民党総裁選への立候補に当たって「自由 民主党の同士たち」に向かって投げかけた言葉を引いている。 時代は、急速に変貌しています。 そして長く苦しかった試練を経て、ようやく黎明が訪れてきました。あたりはまだ闇 でも、頭をあげて前を見れば未来からの光がさしこんでいます。後を向いて立ちすくむ より、進んでその光を迎え入れようでありませんか。 ̶ 18 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 (大平正芳『回想録』資料編、281 頁) なんだか悲壮感さえ漂う呼びかけであるが、後で見るように、じつは、この呼びか けの言葉が、ほとんどそのまま研究会の報告書に盛り込まれているのである。文体だ けでなく、内容面においてもすでに大平研究会の骨格が見て取れるのである。じっさい、 このとき大平は、「一つの戦略、二つの計画、すなわち総合安全保障戦略、家庭基盤の 充実計画および地方田園都市計画を基本政策として、これらを総合的に展開すること により所期の目的を達成する」 (同『回想録』資料編、282 頁)と主張していたのであるが、 これらの戦略と計画はそのまま大平研究会のテーマに採用されていくのである。 こうして、大平は、1979 年 11 月、第 87 国会での施政方針演説の中で、「いわば、 近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至った」 という言葉で、研究会設置の趣旨として採用される「時代認識」を提示するに至るの である。 これが、公文による、研究会設置に至るまでの経緯であるが、しかし、こうした「時 代認識」を大平がひとりで考えだしたとは思われない。とすれば、誰が大平に進言し、 また誰がこうした一連の文章を粗書きしたのか、大いに関心をそそられるところであ る。 公文の論考には、「大平内閣において、総理大臣首席補佐官として、大平政策研究会 九グループの報告書の取りまとめにあたった長富祐一郎」への言及がある。そして、 大平の「文化の時代の到来」という時代認識についての長富の回想(『近代を超えて ──故大平総理の遺されたもの──』)の文章を引用している。下線部(引用者=北山 による)に注意して、読んでもらいたい。 大平総理は演説原稿の作成に当たっては、必ず自分で筆を執られ、何度も手を入れて おられたが、この演説 [ 施政方針演説 ] については特に推敲され、次のように始められた。 (中略) 今、読み直してみると、なんと短い文章の中に、言わんとされることを、格調高く、 しかも平明に述べておられることかと、驚嘆させられる。一語一語が大きな意味をもっ ていることを、今はなんとか解るようになった。(中略) 「文化の時代の到来」と喝破され、その新しい時代を築いていくために、人類が、日 本人が、近代を超えていかなければならない、という決意を、総理は述べておられるの だ。いつまでも、近代化を達成するために、近代化の時代に形成された命題、原理、学 理、道徳律(モラル)、発想方法、手法、技術にとらわれていてはいけない、と説いて おられるのだ。 迂闊だったと思う。演説原稿の作成をお手伝いしていた私は、その頃は一応の理解を しているつもりでいた。しかし、「近代化」それ自身を至上命題とした教育(学校教育 に限らない。)を受けてきた私は、あまりにもどっぷりと、近代化の時代に要請されて きた発想方法、価値観、「タテマエ」にひたりすぎていたようだ。総理は、発想の原点 の転換を求めておられたのだ。 九つの研究グループの討議が実りを見せはじめていた昨年の秋口ごろから、その会議 ̶ 19 ̶ のほとんどすべてに出席していた私は、おや?と思いはじめていた。そして、各報告書 が次第に形をなしてきていた今年の春ごろから、それを読んでいた私は、おぼろげなが ら気づきはじめていたようだった。 しかし、私が、あっ、と息を呑む思いでそのことを悟ったのは、総理が亡くなられた後、 完成されていく報告書を読み返していた時だった。そこには、各報告書を通じて、共通 したひとつの文明史観というか、歴史の大きな潮流がとらえられており、それを踏まえ て、これから二十一世紀へ向けて拓かれていく「近代を超える時代」の大きな方向、も のの考え方、対応の仕方が、鮮やかに描き出されていたのである。九つの研究グループ が同じ認識、同じ方向を示していたことも、当然のことなのかも知れないが、私には鮮 烈な驚異だった。それはまさに、「文化の時代の到来」と提唱された大平総理の歴史観 と一致した認識に基づく発想であった。(同書、3-4 頁) (公文 1993、Web 版から引用) さて、上に引用したようなこれらの証言、回想録はきわめて貴重な証拠文書ではあ るが、歴史家として見る場合、100% の事実として採用することには躊躇せざるをえな い。長富は、ここに書かれているように、大平研究会の事務方を一手に引き受けてい たと思われるが、しかし、たんなる事務方としての役割を超えて、公文とともに大平 の「時代認識」の構成にいくばくかの貢献(「演説原稿の作成をお手伝いしていた私」 と長富は回想している)をしたばかりか、研究会の報告書の作成にあたってかなりの 影響力を行使したのではないかと思われる。長富には、それだけの構想力と行動力が あったことは、その後の活動、なかでも大蔵官僚として「ソフトノミックス・フォロー (4) を刊行している事実を アップ研究会」を組織して、その膨大な『報告書』 (全 37 巻) みれば納得がいくはずである。公文は、こうした長富の役割について、 「長富を助けて、 政策研究会グループの一つの報告書のとりまとめにあたった」といった表現で証言し ている。大平研究会は、大平、公文、長富の 3 人がトリオを組んで(あるいは公文と 長富が大平を説き伏せて)立ち上げたものであり、大平の死後は、公文と長富が、他 の学者、文化人を叱咤激励して報告書作成にこぎつけたのではないかと思われる。 2-3.「大平総理の政策研究会」の思想 大平研究会では、じっさいにどのようなことが議論され、結論されたのであろうか。 その具体的な内容について分析する必要がある。研究会では、前述のように 9 冊の報 告書が作成され公刊されたが、ここでその全文についてコメントするだけの紙幅がな いので、各巻のはじめにつけられた「21 世紀へ向けての提言(総説)」 (「報告書」各巻 の 1 ∼ 19 頁に掲載。以下「各巻総説」と表記)との表題をもつ、研究会の総括文書を 素材に考察を加えてみたい。 まず、研究会の目的についてであるが、それは、こう書かれていた。 「近代化」を達成した欧米先進諸国と日本は、高度産業社会として成熟し、多くの困 難な問題に直面するに至った。 ̶ 20 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 「近代を超える時代」を迎えたいま、21 世紀において「名誉と活力ある生存」を確保 するために、どのような途を選択すべきであるのか。それは決して近代以前に戻ること、 前近代への回帰であってはならないだろう。人類が未経験のこの新しい途を、あらゆる 分野から探求し、その途を進むために、この 10 年間、20 年問になすべきことを検討す ること、そのことが、大平総理が各研究グループに委嘱されたことであった。 (各巻総説、1 頁) 志やよし、であるが、さっそく問題にしたいのは、前文のところ(第 1 行目)であ る。目的設定の前提として、「欧米先進諸国と日本は、高度産業社会として成熟し、多 くの困難な問題に直面するに至った」 (下線引用者)と書かれているが、この文章の数 節先には、じつはもう一度ほとんど同じ趣旨の文章が載せられていることを指摘して おきたい。しかし、まったく同じ文章であれば何の問題もなかったのかもしれないが、 ただ 1 箇所だけ表現が変えられていて、まさしくその一箇所を問題にしたいのである。 こちらのほうでは、「欧米先進諸国は、近代市民革命、産業革命以後、「近代化」を達 成し、高度産業社会として成熟し、いまや多くの困難な問題に直面している。」と書か れており、先進国グループからわれらが日本が外されているのである。つまり、こち らの文書では、「多くの困難に直面している」のは欧米先進諸国だけであって、わが日 本は困難などに直面してはいないかのように読めてしまうのである。これは私の考え すぎか、と思い、前後をよくよく精読してみたが、どう読んでも考えすぎでもなんで もないことを確認するばかりであった。日本は、西欧諸国が直面しているような多く の問題点は回避できているばかりでなく、どうも日本だけが、そうした問題点を解決 するための「秘訣」をもっている、というのが、この報告書のいわんとするところの ようなのである。 いったい、その「秘訣」とは、何なのであろうか。報告書には、以下のように書か れている。 追いつくべき目標のなくなった日本は、これからの 30 年、50 年、100 年にどのよう な途を指向すべきなのだろうか。 政策研究会の各研究グループは、「近代化の時代」の成果を評価しつつ、「近代を超え る時代」にどのように対応していくべきかということを、各分野から検討した。そして、 そこにおいて、「日本文化の特質」の再評価が行われた。 (同、4 頁) 要するに、追いつくべき目標のなくなった日本は、これ以上西欧文明に追随して文 明病に陥る愚を重ねるのではなく、「日本文化の特質」を見直し、「再評価」すること が必要なのだと主張されているのである。これこそが、「近代を超える時代」における 生き残りの「秘訣」なのであった。 ところで、報告書の中では、ひんぱんに「文化」、 「文化の時代」、そして「近代の時代」、 ̶ 21 ̶ 「近代を超える時代」といった表現が使われているが、では、これらの用語間の関係が いったいどうなっているのか、と考えてしまうのだが、この関係がなかなかイメージ しにくい。次の文章は、これらの疑問について比較的簡潔に答えてくれる箇所である。 この報告書では、「文化」の意義を一応最も広義に用い、必要に応じて他の意義にも 使用しながら、「急速な近代化や高度経済成長を可能にした日本の文化はどういうもの か」ということを経済面から説明する。そして、近代化を達成し欧米先進諸国と肩を並 べるに至って、もはや追いつくべきモデルを見出すことが困難となった日本が、「近代 を超える時代」、つまり「文化の時代」に、どのような経済運営を行っていくべきかを 明らかにすることとしたい。 (「報告書 7 文化の時代経済運営」、28 頁) なるほど、「文化の時代」とは、「近代を超える時代」の意味なのだ、ということは よく分かった。しかし、この文章はいっけん分かりやすく見えるが、読めば読むほど 主旨の分からなくなる論理構造になっていることに気づかされる。つまり、この文章 によれば、「急速な近代化や高度経済成長を可能にした」のは「日本文化」だとされて いるが、ひとつ前に引用した文章を思い起こしてみれば、そこでは、「近代を超える時 代」に必要とされるものもまた、この同じ「日本文化」だと主張されているからであ る。堤清二は『消費社会批判』 (岩波書店、1996)の中で、「ローカルな地域固有の文化 との断絶が経済発展を可能にした」との仮説(5)を出しているが、ことの真偽はさてお き、もし、そのように言われるのであるならば、仮に「近代化と高度経済成長を成し 遂げたいま、日本の文化を見直そう」といわれたとしても、まあ、純粋論理的には納 得できようものである。しかし、この報告書の書き方においてはそのような論理構造 にはなっていない。そこが問題なのである。報告書の文章では、近代化には「日本文 化」が貢献し、次いで、近代を超える(下線、引用者)時代にも、これまた同じく「日 本の文化」が必要であるといわれているのである。これでは、どう考えても納得がい かないのである。 そもそも、近代化のモデルを提供した欧米の文化とは、どのようなものであったのか。 大平研究会は、欧米の文化の特徴を以下のように捉えている。 欧米の文化が、神か悪魔か、勝ちか負けか、白か黒かというように、 「二者を峻別し対比」 させる構造をもつのに対し、日本文化は、じゃんけんにみられるように、絶対的勝者も 敗者もいない三すくみの「三極鼎立・円環構造」を特質としている。絶対的一神崇拝に 対し、神仏習合の歴史的経験をもつ。ルールを守れば勝てば勝ちの「フェア・プレイ」 よりは、「おのおのがその所を得る」ような「フェア・シェア」の原理をもつ。都市の 構造や家屋、庭園、生活習慣でも、「中問領域」を大切にする「グレイ・ゾーンの文化」 をもっている。 (各巻総説、4 頁) ̶ 22 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 ご覧のように、ここでは「欧米の文化」と「日本の文化」とが単純に比較されてい るが、そもそも比較の対象とされている「欧米の文化」の内容をこれほど粗雑かつ不 誠実に要約して主張する度胸には脱帽したいくらいである。ここで示されているもの は、日本人の勝手なイメージ作業によってでっち上げられた「欧米文化」であって、 現実の欧米文化とは大きくズレていることにまったくもって無自覚のようなのである。 こうした単純比較のやりかたそのものが、 「二者を峻別し対比」させてしまう構造になっ てはいないのか、と問いたいくらいである。ここでも、また他所でも、しばしば「欧 米文化」という具合に、USA と欧州とをいっしょくたにした議論が展開されているこ とにも問題がある。アメリカ合州国はさておき、ヨーロッパ大陸の宮廷文化や外交言 語に特徴的に見られる先延ばしテクニックやグレーゾーン活用の技術を思い起こせば、 西欧の文化が、 「神か悪魔か、勝ちか負けか、白か黒かというように、二者を峻別し対比」 させる文化だなどとは、そう軽はずみにいえたものではないのである。西欧文化にお いても、日本文化とまったく同様に、二者択一論理が優先される場合もあり、また逆に、 「中問領域を大切にするグレイ・ゾーンの文化」を活用する場合もあるのである。この ような二項対立図式の論理展開は、どうも日本人論に典型的な論理構造のようなので あるが、そのことについては、後述する。 報告書では、 「個・自己」あるいは「個人主義」といった用語がよく使われており、 「個 をいかに考えるか」という問題に大きな関心が払われていることがわかる。しかしな がら、おおかたの場合は、「個・自己」あるいは「個人主義」は否定的な文脈の中での み言及されている。否定する場合の論理展開は、例によって、欧米と日本とを二項対 立図式の中に入れ込んで、いっぽうはプラス、他方はマイナスと断定的に判断を加え るやり方である。 欧米の他者から峻別された「個・自己」の主張・確立を求める「個人主義」や、「個」 を否定しようとする「全体主義」に対し、日本は、「人間」、「仲間(なかま)」、「世間」 ということばにみられるように、「人と人との間柄」や「個と全体との関係」などを大 切にする「間柄主義」とでもいうべき文化特質をもつ。それは、「日本教」ともいわれ る「人間主義」である。そこにおいては、間柄にある「気」を大切にし、自分、本分、 職分、身分、気分などといわれるように「分」を重んじる。分をわきまえ、分を尽すこ とを求められ、血縁、地縁、学縁、社縁など「縁(えにし)」で結ばれ、なかまと一緒 にいることによって安心する「なかま社会」、「イエ社会」を特質としている。 (各巻総説、4 ∼ 5 頁) この文章は、大平研究会報告書の中で、そのイデオロギー性がもっとも強く現われ た箇所ではないかと思われる。なぜなら、通常、物事を比較する場合、事実の認識を 誠実に行い、比較すべき項目を整理したうえで行うべきものであろうが、この文章は、 最初から欧米文化はマイナスイメージで、日本文化はプラスイメージで、と決めてか かったうえで、都合よく文章化しているからである。欧米の個人主義は、報告書が決 ̶ 23 ̶ めつけるほどには他者から峻別された形で「個・自己」を求めたことはないし、いっ ぽう、個を否定しようとする「全体主義」に対する戦いにおいては、個の尊厳の擁護 を掲げてもっとも強く連帯し抵抗したのが他ならぬ欧米の文化的伝統であったという 歴史を無視している。この文章では、日本的な「人間主義」の美点のみを強調してい るが、「人権」ではなく、あえて「人間主義」を唱えることによってマイノリティの存 在を抑圧し、したがって抑圧の告発行為をも沈黙させてきた「イエ社会」日本の文化 的伝統については、いささかの言及もないのである。 大平研究会の正式の名称には「大平総理の政策研究会」となって「政策」の語が入っ ているので、当然ながら、報告書の中では「権力」論が展開されている。そこの部分 を引用してみるけれども、そのイデオロギー性があまりにも強くて、まともに読める 文章ではない。 権力による「統合」を好まず、活力ある部分システムをもつ「分散型」構造で、その「独 自性」と「多様性」を尊重し、相互交流のなかで連帯性が確立され、 「均衡」のとれた「調 和」をもって全体として「総合」されていく組織原理、伝統的国家システム。和をもっ て尊しとなし、「以心伝心」による情報の伝達や合意形成・意思決定の方法。個の有す る機能よりは人間尊重の雇用関係。自己主張・宣伝ではなく、顕彰されてもみなさまの おかげとへりくだり、それでいてなかま集団で活力をもつ競争の仕方。市場経済の運営 から会議や議会政治の運営方法に至るまで、日本文化の特質がすべてに反映している。 (同、5 頁) この部分の文章では、いくらなんでもそこまで言うのかと叫びたくなるほどの自画 自賛の図が描かれている。日本の文化がほんとうに「分散型」構造をもち、真に「独 自性」と「多様性」を尊重してきたのであろうか。また、「以心伝心」に対する思い込 みが、どれほど情報伝達を阻害し、議論なしの、つまりは当事者の納得なしの「合意 形成」や「意思決定」を有無を言わさず強制してきたことか、たとえば、マイノリティ や女性の権利に関わるさまざまの問題群を思い起こせば、この報告書の示す判断がい かに強者の論理に貫かれているかが分かろうというものである。 研究会のメンバーはよほど西欧的な「個」の観念が嫌いなのであろうか。「個」が、 現代社会における諸悪の根源であるかのようにして扱われている。その際、科学技術 における分類・個別化の論理と人間関係における自我形成の構造などがいっしょくた にされ、ともにアトミズムの思想として断罪されている。人間関係における疎外も、 地球環境の崩壊も、ともにこのアトミズム思想の結果と見なされ、「文明病」の原因と して糾弾されてしまうのである。 近代市民革命、産業革命によって「個」の確立が強く要請されたことに対応して、 「近 代科学技術」も、対象(全体)を要素(個)に還元する「アトミズム」 (atomism)を基 礎として成立した。 ̶ 24 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 「アトミズム」の追求は、人類の知識を飛躍的に増大させ、領域の質的・量的拡大を 通じて、人類に今日の物的豊饒をもたらした。 しかし、このような「アトミズム」は、全体との関係における調和よりは「個」や要 素を追求することによって、さまざまな形での地球的問題を招来した。 高度産業社会のなかで、疎外された孤独な「個」は、「文明病」を招いて社会の活力 を低下させた。 (同、13 ∼ 14 頁) 上記の文章では、 「近代市民革命、産業革命によって「個」の確立が強く要請された」 と書かれているが、しかし、なぜ、「個」の確立が要請されたのかについての説明は与 えられていない。なぜなら、そうした説明に入り込めば、資本主義社会において「個」 の確立が奨励されたのが、個を消費者に変えて消費を喚起し、利潤を増大させ、経済 を活性化するためであったという事実、そして日本社会もそれを享受してきたという 事実に触れざるを得なくなるからである。であるからこそ、報告書においては、科学 だけが問題にされ、また、「疎外された個が文明病を招いた」かのような論理が採用さ れているのであるが、むしろ現実は逆であって、高度産業社会の招いた文明病が個の 疎外を引き起こしたというべきなのではないか。報告書における西欧的な「個」の理 解は、「個」をプライベートな存在としてしか見ようとしない理解の仕方であり、(後 述するように)西欧的な「個」のもつ別の大事な側面を無視したものなのである。 結局、報告書は、どのような結論にわれわれを導こうとしているのか。高度産業社 会のなかで、疎外された孤独な「個」を「文明病」から救い出し、社会に再び活力を 回復させるためには、いったい何か必要なのか。報告書が、今後科学技術が目指すべ き「新しい途」として提案するのは、「ホロニック・パス」 (holonic path)という考え 方である。以下は、「科学技術の史的展開研究グループ」報告書の「要約」の中で見ら れる文言である。 われわれは、この「新しい途」を、 「全体子」 (holon)ということばにみられるように、 全体と個の調和が図られるという意味で、「ホロニック・パス」 (ho1onic path)と呼ぶ。 近年、欧米においても、日本文化が関心を集め、見直されてきている。日本は、自己 を絶対視せず物事を「相対化」する文化特質によって、近代科学技術をも巧みに受容し 同化してきた。また、「人と人との間柄」を大切にする日本文化においては、人は個と してよりも「なかま」と一緒にいることによって集団に帰属し、その集団は活力ある部 分システムの独自性と多様性を尊重する「しなやかな」分散型構造を特質としている。 日本文化のこの特質は、「ホロニック・パス」に適しているものと考えられる。 (各巻総説、15 頁に再録) 報告書の文章に細かくコメントする手間は徒労感を残すだけであるが、いま一息我 慢して続けてみると、上記の引用においても日本論に特有の絶対的な自信が目を打つ。 ̶ 25 ̶ しかし、「近年、欧米においても、日本文化が関心を集め、見直されてきている」とい うのが外国人の発言ならば、まあ理解もできようが、このような文章を連ねているの が当の日本人なのである。「自己を絶対視せず物事を相対化する文化特質」をもってい る日本人であれば、いったいこのような文章を記すものであろうか。これでは、「物事 を相対化する文化特質」の内実が疑われてしまわないのか。「「人と人との間柄」を大 切にする日本文化」というが、どのような共同体であれ、「「人と人との間柄」を大事 にしない共同体など存続し得ないのではないのか。西欧諸国において盛んなボランティ ア活動をどう理解しているのか。「日本は、自己を絶対視せず物事を相対化する文化特 質によって」と書く主体の深層には、明らかに西欧諸国においては自らを絶対化する 傾向が強いのだという思い込みが横たわっている。そうした思い込みにこそ、自らを 相対化できない人間の特質が表われてはいないのか。 ここらで、この文書「21 世紀へ向けての提言(総説)」の結論部分を引いて、コメン トを締めくくりたい。 今日、日本社会が、近代化・産業化を成し遂げ、最も先進的な産業社会となったなか で、日本人にとって「近代」とは、もはや志向すべき目標ではなくなったのである。日 本人の価値観を測るための新しい次元が、検討されなければならない。それは、「西欧 的なものの見方」に対し、「日本的なものの見方」という軸を採用することでもあろう。 それは、日本社会が伝統的にはぐくんできたあたたかい人間関係や人間と自然との調和 を重視する日本的価値観の見直しにつながるものである。 (各巻総説、16 頁) すでに、幾たびか繰り返し指摘してきたことであるが、この結論部においても一貫 して、「西欧的なものの見方」に対する「日本的なものの見方」という二項対立軸が採 用されている。そして、あたかも、「伝統的にはぐくんできたあたたかい人間関係や人 間と自然との調和を重視する」のが日本の独占物であり、他の文化文明ではそれが希 薄なのだといわんばかりの主張が繰り返されている。 大平が主張し、また大平研究会にも引き継がれ、さらには、長富の著書『近代を超 えて──故大平総理の遺されたもの──』のタイトルにも現れている「近代を超える時 代」、そしてその言いかえとしての「文化の時代」の中身とは、結局のところ何もので あったのか。2 つのことをいっておきたい。 「文化の時代」とは、すでに別稿(北山 2009(6))で指摘したように大衆消費社会を経 た後もなお引き続き消費活動を高度に維持するために考え出された「記号消費の時代」 の言い換えに過ぎなかったのである。それが、80 年代消費の内実なのであった。消費 社会の延長線にあるに過ぎなかったものを「新しい時代」としたことの誤りを明示し てくれたのが、この「大平総理の政策研究会」報告書の文章なのであった。 もうひとつは、「個人主義の行く末」に関わる事柄である。報告書は、「欧米の、他 者から峻別された「個・自己」の主張・確立を求める「個人主義」や、「個」を否定し ようとする「全体主義」の対立項としての日本教、人間主義」といった主張を提示した。 ̶ 26 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 すでに、ここまでのコメントの中でいくらか言及してきたように、報告書が主張する ような二項対立図式で括られる個人主義理解は、西欧的個人主義に対する誤った理解 であり、そうした理解の仕方が、日本人論に特有のやり方であることを指摘してきたが、 次項では、この点に議論を絞って、やや詳しく見ておきたい。 2-4.個人主義をめぐる議論と誤解∼パブリックな個をめぐる問題系 70 年代の末から 80 年代前半にメディア的成功を収めた日本人論、日本論のほとんど はこの報告書の論理展開と同じ構造(イデオロギー)に基づいていたと思われる。当 時の文化的風土について、海老坂武は、 「ジャポニズム、ジャポネスク、ジャポノロジー、 伝統回帰、日本回帰、それが 70 年代末から 80 年代にかけての日本の文化風土だった」 (海老坂武『祖国より一人の友を』岩波書店、2007 年、316 頁)と回想している。海老 坂武はそうした日本の文化風土にうんざりしていたというだけでなく、戦前、戦後と 何度も繰り返される「近代の超克論」そのものに対して疑問を投げかけている(7)。そ の理由として、「近代的競争原理、近代的平等性、近代的覇権意志といった用法に見ら れるように、「近代的」という言葉を常にマイナス価値で用いることに賛成できなかっ た」 (同、318 頁)からだと説明している。そして、「近代」という言葉の意味内容をひ とつのブロックとしてまとめて扱うような考え方に異議を唱えている。 日本語で〈近代〉 〈近代的価値〉とされるものはさまざまの現象の複合物であって、一 つ一つの要素に分けて検討する必要があるのではないか。工業化、ナショナリズム、民 主主義、個人主義、人権思想、科学主義、人間中心主義等々、ほかにもあるだろう。そ してどの国においても、これらの諸要素が均等に実現され発展しているわけではない。 そんな社会は現実には存在せず、この不均衡がそれぞれの社会にゆがみを引き起こして いるのであって、これを考慮せずに、すべてひっくるめて、 〈近代的〉とし、 〈近代文明〉 を絶対悪のように批判するのは不当である…。私はそんなふうに考えていた。 (海老坂 2007、318 頁) そして、海老坂武は、この日本で乗り越えてゆくべきものは「近代」ではなくて、 「近 代以前」であり、とりわけ「天皇教」 (竹内芳郎)ではなかったか、としている。たと えば「いじめ」ははたして「近代的競争原理」が産み出したものだろうか、と疑問を 呈している。海老坂武によれば、「いじめ」は、集団的同調主義が産み出したもの、と 考えた方がずっとわかりやすいのではないか、とされる。(同、318 頁) ところで、「近代の超克論」に特徴的な、近代をほとんど全面否定するような表現態 度は、大平研究会の報告書と通底するものである。大平研究会においては、海老坂武 の指摘とは対称的な地点から、民主主義や個人主義といった用語が使われていた。そ こでは「欧米の他者から峻別された「個・自己」の主張・確立を求める「個人主義」」 といった決め付け方に特徴されるような「西欧的な論理=部分化し個別化する個人主 義の論理」とする一方的な思い込みが主張され、個や自己といった概念は否定的な文 脈でしか言及されていない。個人主義は西欧的な論理であると断定され、しかも、西 ̶ 27 ̶ 欧的な個人主義に対して正当な分析を加える努力もなしに日本文化の独自性を主張す る論理構造が認められる。中尾佐助(『分類の発想∼思考のルールをつくる』朝日選書 409、朝日新聞社、1990 年、121~122 頁)がいうところの「孤立タクソン」的な論理構 造に貫かれた断定的な物言いしか見られないのである。 タクソンとは、 「大小にかかわらず、あるシステムにのっとって設定された分類単位」 のことだが、中尾によれば、「孤立タクソン」とは、典型的には何か一つのキーワード を考え、それだけにすべての考察を集中する場合である。つまり独立、孤立したタク ソンがまずあって、そのパラレルタクソンについて平等に考察しながら、キーワード となったタクソンを明らかにするという姿勢に欠けている場合をさす。 「孤立タクソン」 の論理においては、パラレルタクソンはそもそも無視されているから、それは理論的 システムを欠いた論理なのである。そして中尾は、孤立タクソンの論理の典型として、 「根強くやっている日本論、日本文化論がよい例」だという。「日本人の書いたもの、 外国人が書いたものを含めて、日本論、日本文化論は、その全部を私が読んでいるわ けではないが」と前置きした上で、「見た限りではその全部が孤立タクソンとしてのと りあつかいになっている。孤立タクソンの論理はいつも主観的につくられ、パラレル タクソンと正当に比較されることがないので、客観性という点でほとんど信用できな い論理が提出されている。(中略)日本論、日本文化論ではどれも何ほどか外国や外国 文化との比較は登場しているが、(中略)恣意的に抽出して比較がなされており、驚く べき論理が使用されている」 (中尾 1990、121~122 頁)として、さまざまのレッテルの もとに行われてきた日本論、日本人論について、そのほとんどを滅多切りにしている。 杉山光信は、すでに言及した『八〇年代論』の中で、「八〇年代になって顕著になっ てくる日本人論や日本回帰論は、個人主義を工業化、高度成長を支えるというか、追 いつき追い越せというときには目標とされるけれども、追いついたあとでは必要なく なるというわけですね」 (佐和・新藤・杉山 1987、209 頁)と嘆息しているが、じっさい、 大平研究会における個人主義理解には、そもそもから比較の気持ちなどほとんで存在 せず、アレルギーといってもいいくらいの忌避の念が働いており、西欧的な民主主義 理念をいかに矮小化するかに腐心している様子が伺がえる。 しかしながら、じつは、「欧米」の「個人主義」は、大平研究会の面々の思い込みと は異なり、両面性を備えたものなのである。精神分析学をはじめとする西欧の自我形 成論、アイデンティティ論の主傾向は、個の確立なるものがいかに他者の存在を必要 としているかを強調する。たとえば、ファッション現象を思い浮かべればすぐにわか るように、階級識別記号としての側面と、同時に他者の視線への配慮という柔軟性の 側面との、つねに両面性のあることを看過することはできないし、そのことの意味に ついて十分に認識しているからである。 フ ラ ン ス の 社 会 学 者 フ ラ ン ソ ワ・ ド ゥ・ サ ン グ リ(François de Singly, 2005, L’ Individualisme est un Humanisme)は、個人主義の成立要件として、「普遍性重視モ デル」と「個別性重モデル」の拮抗関係を措定し、しかも、個人主義なるものが「つ ねに追究すべき目標」 (理念)であることを主張している。そのうえで、サングリは、 「具 体」の個人主義と「抽象」の個人主義という用語を用いて、西欧の個人主義がもつ両 面性について説得的な説明を行っている。 ̶ 28 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 以下、サングリの説明を引用しておく。3 箇所からの引用である。 「具体」の個人主義が各人の独自性に依拠するのに対して、「抽象」の個人主義はすべ ての人々に共通してあるものを指し示す。西欧近代の歴史は、個を定義する際に浮上す る相異なる 2 つの方向(ひとつが他者との共通点に重きをおく方向であるなら、もういっ ぽうは他者から個を引き離し個に唯一性を付与する方向である)が生み出す緊張関係を 念頭において解読される必要がある。ここでいう緊張関係とは、一方が他方を無視する ことのないそういう 2 つの方向の間に生まれる緊張関係を前提にしている。「人々が平 等であるということにとどまるのではなく、ひとそれぞれが差異を持ちうること、その ことが倫理的要件となるに至っている」 (ゲオルグ・ジンメル「近代の個人主義」1917 年、 『近代性の哲学』所収を引用) (Singly 2005, p.115)。 「具体」の個人主義と「抽象」の個人主義とは、同じレベルに属するものではない。後者、 すなわち「抽象」の個人主義は、人間の共同体という概念が共有されることによっては じめて正当性を獲得するものなのである。倫理と政治の目的とは、各人が一個の人格と して自己実現できる可能性を推し進めることであり、そういう目的をもつべきなのであ る。そしてまた、その目的は、他の人々の人間性を尊重するだけではなく、各人自らの 内部に含まれる人間性をも尊重する、そういう目的でなければならないのである。(ibid., p.116) 「抽象」の個人主義と「具体」の個人主義との間のバランスは、アプリオリに規定さ れているわけではない。バランスは、各国、各集団、各個人に固有の歴史や、経験、文 化にしたがって変化し、また、個人や集団の闘争によっても変化しつつ、最終的な輪郭 線を描くにいたるのである。(ibid., p.117) 「西欧的な論理=部分化し個別化する個人主義の論理」という大平研究会の個人主義 理解の仕方においては、ここでサングリが示したような西欧における個人主義概念の 深化の歴史について、いわば、ダイナミックな関係性を重視するアイデンティティ形 成論的な思想についてまったくの無知であったことが露呈されている。 しかし、念のために言い添えておくならば、ここでいうところの関係性重視とは、 日本人論に特有のあの「間主体性」概念とは異なるものなのである。森有正は、日本 における人間関係を「間人主義」とよび、それを徹底して批判し、サングリのいう「抽象」 的側面を欠いた「間人主義」とは異なる関係性を主張したが、日本人論は、そうした「間 (8) 人主義」を全肯定してしまっているのである 。 ちなみに、大平研究会の報告書の中では、「自由」とは何か、「平等」とは何かが問わ れたことは一度もない。自由とは、経済的自由、市場の自由の文脈で使用されている にすぎない。「人々は、世界に誇りうる自由と平等…を享受するに至った」といった自 画自賛の言葉はあっても、理念としての「自由」や「平等」への言及、「市民にとっての 自由」などへの言及はまったく見られない。あるのは、消費場面における品物選択の 自由くらいなものである。この研究会の報告書の中では「民主主義(あるいはデモク (9) ラシー)」、「人権(あるいは基本的人権)」などに論が及ぶことも皆無なのであった 。 ̶ 29 ̶ 2-5.80 年代日本論・日本人論への反省: 日本論、日本人論の決定的な欠陥は、そのほとんどが論理ともいえない孤立タクソ ンの論理に陥っている点にあるが、80 年代に華々しくメディアで活躍していた「文化人」 がその後、そのことにどれほど気づき反省したのかといえば、大いに怪しいものがある。 大平研究会の主要メンバーであり、むしろその仕掛け人ではなかったかと思われる 公文俊平は、1993 年に、「大平正芳の時代認識」の中で、大平研究会のことを反省的 な物言いで振り返っている。 一九八〇年代の日本では、 個性の重視 とか 創造力の開発・発揮 の必要が喧伝さ れた。そして、情報産業化や智業化にとって、 個性 や 創造力 がとりわけ大きな役 割を発揮するだろうという予想それ自体は、誤りではなかったと思われる。しかし、わ れわれの文化や文明の中に、そうした個性や創造力──とりわけ並はずれた個性や創造 力──の発揮を阻む要素が組みこまれている可能性もなしとはしない。 (公文 1993、Web 版から引用) 公文は、ここで「個性」や「創造力」の重要性が当時すでに喧伝されていたこと、 その重要性をみなが認識しながらも、日本文化のどこかにその十全な発揮を阻む何か が組み込まれていた、と率直に認めてはいるものの、しかし、だからといって、では 何が十全な「発揮を阻む」ものであったのか、という肝心の点について追究すること をしていない。日本の場合、 「個性」や「創造力」という用語そのものが、80 年代の消 費社会化のなかでキッチュ化=キャッチコピー化されてしまったこと、そのような状 況のなかで、個人の尊厳や人権への言及もなしに、いくらお題目だけ「文化」 (そして「個 性」や「創造性」)を唱えても、「文化」 (そして「個性」や「創造性」)と名づけられる ものすべてが商品化されてしまうこと、などについての分析視点はまったく認められ ないのである。 以下、公文の「反省」的回想録を引用しておく。ここで、公文が思い返し残念がっ ているのは、経済で負けたということ、その原因が、情報産業を軽視したこと、USA が日本を本気で研究したのに日本がそうしなかったこと、などの点だけなのである。 大平が、一個の文明史観に立脚した時代認識をもち、そのような観点から発想の転換 を求めていたことの重要性は、長富の強調する通りである。長富を助けて、政策研究会 グループの一つの報告書のとりまとめにあたった者の一人として、私も、 「近代を超える」 時代の到来という時代認識には、大きな共感を抱く。「経済軽視ではない」が、「文化重 視の時代」がやってきたという見方も、きわめて重要な真理をふくんでいると思う。し かし、ここでも問題はバランスの取れた見方にある。恐らく、近代から近代後の時代へ の人類史的転換は、数十年、いや数百年をかけてゆっくりと進む社会進化過程であろう。 その間、近代社会それ自体の発展、とりわけ産業化の発展は、依然として一面において は進行し続けるのではないだろうか。さまざまな側面に「成長の限界」が現れ始めたと してもである。 ̶ 30 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 (公文、同上) 大平研究会の当事者であった公文の総括には、思いきりの悪さばかりが目につくが、 80 年代とその時代をイデオロギー的に主導した大平研究会的発想に対する反省、ある いはそれとのそれなりの「断絶」を表わそうとしたかに思える発言が、他所に辛うじ ていくつか目にとまった。ここではひとつだけその例を挙げておきたい。 そのひとつの例とは、1999 年、新しい世紀の到来を前にして設けられた「21 世紀日 本の構想」懇談会(「小渕懇談会」)の中で交わされた議論のことである。第 2 回会合(1999 年 4 月 21 日)では、懇談会の報告書のまとめ方について意見交換が行われ、その中で、 大平研究会の前例が、同研究会のメンバーだった河合隼雄(座長)及び山崎正和の 2 人からレビューされている。レビューの後、批判的評価を含む以下のような意見交換 (10) があったという 。 まず、通常の礼儀にもとづいてのリップサービスであろうか、「大平総理の政策研究 会の報告書は、極めて質の高いものであり今日でもそのまま妥当する内容を多く含ん でいる。 総合安全保障、環太平洋などのキャッチ・フレーズを生み出した知的営為は 印象深い。」と賛辞が述べられたあと、以下のような、かなりシビアな批判的見解が出 されている。 同(大平総理の政策)研究会では、経済が成熟してきたので、いよいよその上に文化 の時代を築くとの発想だったが、実際にもたらされたのはバブル経済であった。また、 ソ連の崩壊や冷戦の終結は予見されていなかった。少子高齢化や教育の課題も十分には 視野に入っておらず、家庭が安定した基盤として存続するという点で楽観的に過ぎたき らいがあった。子供や女性の意識の変化や、NPO を育てようとする社会風土の変化も 十分に予見されていなかった。安全保障についても、冷戦構造の中でストレートに論ず ることに困難が見られた。(「21 世紀日本の構想」懇談会第 2 回会合、1999 年 4 月 21 日) ここで、特に注目すべきなのは、小渕懇談会においては、個の確立の重要性、ジェ ンダー的視点、NPO への注目、などを通して時代の趨勢を細かく分析しようとする 姿勢が見られたことである。メンバー選定にあたっても、市民社会への一定の目配 り(11)がなされていたことが分かる。 以上は、内容についての意見であったが、大平研究会の方法論についても、表現は 穏やか(に手直しされているよう)だが、かなり批判的な意見が出された模様である。 まず、研究会の方法論について 2 つの点が指摘されている。最初の指摘は、冷戦が終 結し、国際環境が大きく変化したことや、右肩上がりの経済成長を前提にできなくなっ た新しい状況を見据えて、今という時代の客観的な認識から始めることが肝要であり、 「理想論だけでなく、具体的な政策や課題の提示といった核となるものが必要で、その 現実的妥当性については十分吟味していかなければならない。」としている。 2 つ目の指摘は、もっとも根源的な点をつく批判となっている。「単一のモデルを提 示して、その正当性を各分野で論証していくというアプローチも、もはや時代に適応 ̶ 31 ̶ しないだろう。」という表現で、大平研究会のイデオロギー的核心部分が直撃されてい るのである。 さて、ここで紹介した指摘を見るかぎりでは、いまようやく大平研究会のイデオロ ギーと縁が切れたかのように見えるのであるが、しかし、これらの指摘も、残念なが らけっきょくは日本の経済的な地盤沈下を嘆き、その復活を願うことを、それのみを 中心的エネルギー源としていることがどうしても目について仕方がないのである。いっ たい、こうした経済至上主義的発想が変わらないかぎり、日本社会のメインストリー (12) ムは崩壊スパイラルから抜け出せないのではないかと思わざるを得ない 。 2-6.ブレーン政治の幕開け∼研究会の組織という「事件性」について 「大平総理の政策研究会」は、政府主導による組織的なシンクタンク活動の開始だと も、また、のちに中曽根政権のころから顕著になっていくブレーン政治の開始だとも いわれている。『八〇年代論』の中で、新藤が「大平政権の政策研究会が一つのテコに なって、政権党ないし政権と知識人との結び付きが強まってきている。」 (佐和・新藤・ 杉山 1987、133 頁)と予見していたように、じっさい、同様の研究会がその後も数多 く作られ活動したことが知られている。たとえば、すでに言及したように「21 世紀日 本の構想」懇談会が大平首相の「政策研究会」の小渕ヴァージョンであることに疑い の余地はない。懇談会の第 2 回会議の議事録(1999 年 4 月)には、 「本懇談会の報告書 の取りまとめ方について、 「大平総理の政策研究会」の報告書を参照しつつ、議論を行っ た。」といった文言で、この懇談会が「大平総理の政策研究会」のリメイクであること をあっけらかんと表明しているくらいなのである。 「21 世紀日本の構想」懇談会は、大平研究会との類似があまりにも顕著なので特記し たが、これほど同じ鋳型のものではないにしても、大平から中曽根へ、中曽根から小渕、 小泉へ、そして安倍(日本経済新聞、2006 年 11 月 17 日夕刊「有識者チーム 官邸に乱立」) へと政権担当者はかわっても、またその名称が、懇談会、研究会、有識者会議と変わっ ても、あるいはもう少し制度的性格の強い臨調(行政改革、教育改革…)のような名 称のものであっても、それが首相の私的諮問機関(あるいはそれにきわめて近いもの) であることにかわりはない。 しかし、新藤の指摘によれば、80 年代、とくに中曽根政権のときに、第二臨調や行 革審をはじめもろもろの私的諮問機関がたくさんできた中で、明らかにひとつの大き な潮流ができあがってしまったのだという。また、私的諮問機関が濫設されただけで なく、金太郎飴のごとく諮問機関の核心に必ず一定の人間が配置されているのだとも (13) いう 。新藤は続けて、「政権党と知識人―知識人というほどの知識人か否かは別とし て―その両者の構造的な結びつきが強まっていて、その関係はおそらく中曽根政権が 変わっても、あまり変わらない動きではないか」 (佐和・新藤・杉山 1987、133 頁)と すでに予想していた。じっさい、中曽根直後どころか、現在に至るまで、このような 仕組みは受け継がれている。「仕組みが受け継がれている」といったが、ほんとうは、 仕組みといえるほどのことではなくて、ただ単純に、同じ顔ぶれの政権寄りの文化人 グループ・系譜・人脈、いいかえれば、特権の人脈ネットワークが形成され、自己増 殖を続けていると考えたほうがよいのかもしれない。 ̶ 32 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 とすれば、ここで考えるべき問題は、2 つである。まず、ひとつには、なぜ、政権は このような文化人の存在を必要としていた(いる)のか。2 つ目は、文化人はなぜ、こ のように政権に擦り寄っていかねばならないのか、という問題である。 2-7.政権はこのような文化人の存在をほんとうに必要としていたのか。 まず、考えられる理由は、大平の場合も、また中曽根の場合も、そして最近では小 泉がそうであったが、党内基盤の脆弱な首相が、党内異論を抑え、世論をスムーズに 誘導するツールとして、すなわち(『八〇年代論』の中で新藤や杉山が使った用語にし たがえば) 「決断主義モデル」 (佐和・新藤・杉山 1987、とくに 105~110 頁の杉山の発言) に基づく統治のツールとして、このような私的諮問機関を活用したのだという説明で ある。大衆に直接訴えるか、文化人などの発言力を利用して、あるいは両者を併用す ることで、環境整備(根回し)の際にプレッシャーをかけることができる。また、首 相の私的な諮問機関であるから、臨機応変に使いこなせるという利点もある。すなわち、 政権党内部に、党内の力関係を壟断するような権力核を作り上げ、そこに強大な力を 持たせて、そのイニシアチブで官僚を引っ張っていく、そういうツールとして機能し たのではないかとも考えられる。 しかしながら、ここで視点を変えてみると、1980 年代にメディアに登場し、政権党 の近くで発言を始めた文化人ないしは学者たちの存在は、先にあげた「権力核」の側 から見て、そんなに有用性があったのだろうか、との疑問が残るのである。 杉山によれば、知識人や学者が政治の場面に介入するのは、「学問的な成果を世論形 成の場に媒介していく」 (佐和・新藤・杉山 1987、109 頁)というプロセスをとるのが 本来の形ということになる。ところが、これら「右翼的」とはいわないまでも「保守的」 文化人の介入は、公開的なプロセスを介さずに、政治家との直接的な結びつきを通し て行われたのである。杉山は、彼らに対してしばしば「知識人」という呼称を避けて、 「文 化人」ということばを使っているが、まことに正鵠を得た用語法であったといえる。 しかし、いったい、こうした学者たちの役割が何であったのかとなると、たくさん の疑問符がついてしまう。佐和の言葉を借りれば、彼らの役割は「要するに、行政あ るは政策に対して知的装飾をほどこすこと」 (佐和・新藤・杉山、134 頁)だというこ とになる。政治家は、いまや知的装飾をまとわせない限り、いかなる政策も実行に移 せないから、そのために学者を政治に参与させているのではないか、というのである。 このような佐和の説明に対して新藤は、よりクールな見方を示している。政権に動員 されている「知」が、高水準のものとはいいがたいこと、また、そもそも大衆の側か ら見れば、もう知の権威なんていう代物はほとんど信じていないのではないか、他方、 「政権のほうからいえば、そういう知でもってファッションを整える必要がどれほどあ るんだろうか、という気も一方でするんですが、政治的儀式としての意味は保ってい るのではないか」 (同、135 頁)といった留保をつけている。 首相の私的諮問機関は、大平以来、営々として続いているものではあるが、その役 割が「知的装飾を施すためのファッション」なのか、それとも、 「政治的儀式」なのか、 あるいは両者を兼ねたものなのか、なかなか判断しにくいが、これほど営々と続いて いるのであるから、なんらかの政治的効能があることは確かであろう。「なんらか」の ̶ 33 ̶ 中身については今後の課題として残しておきたい。 では、2 つ目の問題、「文化人」はなぜ、このように政権に擦り寄っていかねばなら ないのかについて考えてみよう。こちらの問題は、ひとつめの問題と比べると、ずっ と説明しやすいようである。 80 年代の知識人たちの間で生まれたこのような現象に対して、杉山は、以下のよう な説明を与えている。まず、80 年代になって、学問と政治の関係が、特定の知識人と 権力者との、なにか私的な結びつきというものになってしまったこと。特定の知識人 が権力との私的な結びつきをもっているという事実が、そのままジャーナリズムにお ける権威として特権的な影響力を持つようになってしまったこと。その結果、学問が パブリックに相互批判されてそこで発展するという学問の常識が通用しなくなってし まったこと。その代わりに、私的な一部の人々の独断的な議論が、あたかもそれが権 威ある見解であるかのように流通するようになってしまったのだ、としている。これ が、80 年代に新しく出てきた傾向なのだという(同、129 頁)。佐和の言葉を借りれば、 「学問が、単なる一個の情報にすぎなくなった」ということでもある。しかもそれは、 「ストックされるだけの値打ちのある情報ではなくて、すぐに消却される運命にある フローとしての情報」になってしまったのが、80 年代なのだという(同、130 頁)。 本来の学者や知識人の役割は、杉山のいうように、「学問的な成果を世論形成の場 に媒介していく」ということであろうが、新藤は、80 年代の新しい傾向の典型として 佐藤誠三郎の場合を例に挙げて、批判している。佐藤は、自著『自民党政権』 (1986 年、 (14) の前書きで「日本では政党支持、とりわけ自民党支持を公言す 松崎哲久との共著) ることをはばかる雰囲気が、とくに学界には強い。支持政党の違いが学問的交流や友 情にとってなんの妨げにもならないというリベラルな態度が日本でも一般化すること を、われわれは強く念願している」と書いているそうだが、そうした佐藤の、ほとん ど愚痴に近い発言について、新藤は、「リベラルな態度が日本でも一般化することが 望ましい」と一般論をいってみても始まらないのではないか、と手厳しく批判する。 なぜなら、新藤によれば、政権党に近い学者、文化人たちは、「一つの政権、あるい は政権党、あるいは官僚組織が占有するオープンにされていないデータなどに依拠す ることによって、みずからの優越性を明らかにするみたいなのが、すごく多い」から なのである。その態度がもっと変革され「事実を透視すること」を研究の基本にしな い限りなんの意味ももたない、と新藤はコメントしている(佐和・新藤・杉山 1987、 131 頁)。 2-8.「大平総理の政策研究会」のメンバーと首相の私的諮問機関 杉山は、 「大平総理の政策研究会」報告書で出されているヴィジョンの中には、80 年 代に進歩的知識人に代わってジャーナリズムで活躍する人たち(杉山が呼ぶところの 文化人)の言い出すことがすでに全部出ている(同、113 頁)、と指摘する。報告書が 提示したヴィジョンの中身については、前項で扱ったので、ここで改めて取り上げる ことはしないが、とりわけ、ここで問題にしたいのは、そうした文化人たちの登場そ れ自体がもたらした問題のほうなのである。内容も内容ではあるが、なによりもそう ̶ 34 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 した「ジャーナリズムで活躍する文化人たち」が、どのような人物たちであったのか という問題のほうなのである。 すでに、2.1.で紹介したように、 「大平総理の政策研究会」は、大正生れの 9 人の議 長が責任者として統括する 9 つの研究グループから構成されていた。そして、各グルー プは、実働メンバーとして、主として昭和 30 年代に社会に出たそれぞれの専門分野の 学者、文化人、各省庁の実務家 200 余人を擁していた。これら 200 余人のすべてをこ こでリスト化すると、別表(15)のようになる。 これらの文化人がその後、90 年代、そして現在に至るまで、どのような発言をし、 どのような振る舞いを見せ、そして、どのような影響力を行使してきたかについて、 いつか歴史的な研究テーマとして扱ってみたいと思っている。 2-6. でも触れたことであるが、こうした私的諮問機関においては、いつも同じ顔ぶれ の政権寄りの文化人グループ・系譜・人脈、いいかえれば、特権の人脈ネットワーク (16) が形成され、いまなお自己増殖を続けている 。しかしながら、大平研究会とその後 の私的諮問機関との違いは、ここで私が指摘したような批判を予測してか、人選にあ たってニュアンスをつけるアリバイ的工夫、さきほどの表現を使うならば「市民社会 への一定の目配り」がしてある点なのである。 このような違いをどう評価するかについては、慎重な吟味が必要ではあろうが、い ずれにせよ、これら私的諮問機関が、権力が利用する人物と、権力を利用しようと画 (17) 策する人物とが出合う合流点の役割を果たしていたことは確かなのである 。 ところで、こうした私的諮問機関の会議がどのように運営され、続々と発表される 報告書、提言、答申などが、誰によって、どのように執筆されてきたのか、たいへん に興味をひかれる点である。大平研究会では、(また、他の私的諮問機関でもそうであ ろうが)必ず政策研究幹事がおかれ、文書の執筆は、この幹事が首相補佐官らと協力 のもとに担当したのであろうと推測できる。こうした機関における「官邸」 (すなわち 首相とその側近・ブレーン)の役割について、石弘光(前政府税制調査会長)は、日 本経済新聞(2006 年 12 月 18 日朝刊「経済教室」 「政策決定過程改革の方向(下)」)紙 上で、「審議会改め専門家集団に」とのタイトルで、以下のような指摘を行っている。 石によれば、戦後日本では長らく「利害関係者や国民の代表と称する非専門家グルー プから構成され、多くの委員を抱える審議会」を活用して政策立案と調整が行われて きたが、そのような審議会方式が、小泉純一郎首相時代の経済諮問会議から次第に変 化を見せ始めたとされている。 この傾向を加速させたのが安倍晋三内閣の誕生で、安倍内閣は、教育再生会議、国 家安全保障に関する官邸機能強化会議、イノベーション 25 戦略会議など多くの私的諮 問機関を設置し、その数は枚挙に暇がないくらいだという。 さらに、経済財政諮問会議や政府税調の新メンバーの人選も、「首相自身が決定した り官邸の意向を強く発揮させる状況となった」と石は指摘する。 首相の私的諮問機関のこのような多用の理由について、石は、「おそらく関係省庁の 影響下にある従来の審議会に任せたのでは、いたずらに時間を費消するし、また官僚 主導から脱皮できないと考えてのことであろう」とやや同情的な観測を述べる一方で、 「官邸主導の政策一色に染まるのは政策形成のやり方としては望ましいが、その政策が ̶ 35 ̶ 好ましいかどうかは別問題である」、あるいは、「この会議で取り扱うテーマは既存の 審議会と重複することも多く(中略)官邸と官僚のあつれきも少なからず生じていた。」 と危惧の念を表明している。 結論として、石は、「打ち出される政策を建設的に評価しいくつもの選択肢を示しう る機関」、すなわち「政策ウオッチャーとして、真に有能な民間のシンクタンクの役割」 の重要性を提案するとともに、 「審議会は従来の利害関係者の調整に当たるというより、 理論的に政策の企画・立案の基礎作り、さらにはグランドデザインを作成するという 仕事に専念する」タスクフォース型の審議会が求められる、と提言している。 石のこの論文の主旨は、審議会の今後をどう考えるか、であったので、われわれの 関心事である「私的諮問機関」がなぜこんなにも数多くつくられ続けるのか、という 疑問に対する答えは与えてくれない。ちなみに、同じく日本経済新聞だが、別の取材 記事(2006 年 11 月 17 日朝刊、「有識者チーム官邸に乱立、意思決定は?責任は?あ いまい懸念も」)では、首相によるトップダウンで政策を決める手法を選んだもののじっ さいには、官僚の実務能力と発言力に頼ることなく物事を進めることがいかに至難の 業であるかを、以下のように明らかにしている。 どれも表向きは「政治主導」だが、ひとたび監視の目が緩むと「官僚主導」に陥る危 険性をはらむ。首相周辺からも「役所の縦割りを排して官僚を集めても、出身官庁を気 にしたり、既存の政策に縛られる面を変えるのは難しい」とのぼやきが漏れる。 (日本経済新聞、2006 年 11 月 17 日朝刊) 繰り返しになるが、こうした首相の私的諮問機関の設置の理由については、すでに 佐和・新藤・杉山が 1987 年に指摘していた理由、すなわち、政権党内部に党内の力関 係を壟断するような権力核を作り上げ、そこに強大な力を持たせて、そのイニシアチ ブで官僚を引っ張っていく、そういうツールとして機能したのではないか、との理由 がいちばん大きそうであるが、しかし、これほどまでに延々と私的諮問機関が作られ 消えていくという「繰り返しのプロセス」を見ると、官邸と官僚の対立の図式の永遠 性と、対立が永遠であればあるほど、私的諮問機関が作られ続け、それに参画する(利 用し利用される)学者・文化人の流れも止まないであろうと予想がつくのである。 ところで、ジャーナリストは本来、学者でも文化人でもないが、ここでいう学者・ 文化人とほとんど同じ役回りを与えられてきたことも合わせて指摘しておきたい。じっ さい、『八〇年代論』の著者たちは、知識人・文化人と政権あるいは政権党とのつなが りを問題にする議論の中で、ジャーナリストの役割と「ジャーナリズムの変質」につ いても言及している。佐和のことばを借りれば、 「70 年代後半以降、ジャーナリズムの 主流そのものが変質して、保守派知識人と政権党との間の媒介項として機能するよう になった。」 (佐和・新藤・杉山 1987、130 頁)ということになる。このことについても、 現時点からのきちんとした歴史的検証がぜひ必要なのではないかと思われる。 ̶ 36 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 3.おわりに∼消費の時代を通してみる「大平総理の政策研究会」の意味 大平研究会の主目的は、「文化」を語ることにあった。なぜ、この時期に、「文化」 について語る必要があったのかについて、ここでもう一度、確認をしておきたい。 1980 年代のキーワードは、 「文化」と「消費」であった。その意味するところは、生 存の維持を超えて、いかに生きるべきかというライフスタイルが生活関心の中心に入っ てきたということである。それは結果的には(それが明確に意図されていたか否かは、 検討の余地があろうが、いずれにせよ)、政治の不可視化のベクトルを強めることになっ たということである。そして、この不可視化がどのようなプロセスで行われたかを知 ること、これが、1980 年代を語ることの意味なのである。なぜなら、政治が不可視化 されているかぎり、市民が主体となる市民社会の成立などあり得ないからなのである。 1960 年代が、経済発展による政治の不可視化を目指した時代であったとすれば、 1980 年代初頭のイデオローグたちは、「文化」、あるいは「文化という包装紙」にくる まれた商品の消費によって政治の不可視化を目論み、短期的に見ればそれがかなりの 程度成功を収めたのではないかと思われる。しかしながら、そうした目論みのかりそ めの成功は、90 年代に入り大きな代償を払わされることになったのである。小渕懇談 会のまとめでは、当時の状況について、 「(大平)研究会では、経済が成熟してきたので、 いよいよその上に文化の時代を築くとの発想だったが、実際にもたらされたのはバブ ル経済であった」と批判的な総括を行っているが、80 年代は、まさしく「プレバブル期」 であり、シャボン玉のように美しくパッケージされた「文化」商品をばら撒くことによっ て、政治の不可視化にまい進したのである。その結果、90 年代のバブル経済と「失わ れた 10 年」の悪夢を招くことになったのではないか。 80 年代当時は、多元化社会と差異化社会の到来ということばがしばしば聞かれたが、 これらのことばは、ほとんどの場合、「個性の確立」と「個の輝き」を謳う肯定的なイ メージで語られていた。そうしたイメージと言説は、社会の深層で進んでいた社会的 格差の広がりを不可視化させ、バブルの時代を経て文字通り社会の階層化を不可逆的 な形で進行させる条件を作ってしまったのではないか。 私見によれば、失われた 10 年とは 90 年代のことではなく、むしろ 80 年代のことを 指して言ったほうが適切なのではないかと思われる。80 年代は市民と市民社会形成の チャンスであったが、日本社会は、そのチャンスを逃してしまった。本論の冒頭に記 したように、80 年代は歴史の転換点であったが、その転換点にあって社会の仕組みを 変えることができた社会と、変えることができなかった社会とがあるとすれば、日本 社会は、残念ながら後者に属する。前者と後者の分かれ道がどこにあったのかといえ ば、それは、パブリックな個をめぐる論議をやってきたか否か、という点ではないか と思われる。日本社会は、消費を喚起し経済を活性化することを優先するために、プ ライベートな個の行方にのみ関心をもち、その結果として、バブル経済に象徴される ような社会システムの崩壊を招いてしまった。いっぽう、たしかに 80 年代当時からパ ブリックな個の行方に対する関心がなかったわけではないが、日本のイデオローグた ちは、 「個・自我」をひたすらプライベートな枠組みに押し込め貶めることに専心した。 ̶ 37 ̶ パブリックな個の萌芽をホロニック・パスといった集団優先主義に溶かし込むことに よって、「日本文化の特質」の再評価といったレベルに矮小化し、ポピュリズムと、極 端な場合にはネオ国家主義へと回収させてしまったのである。 昨年 2009 年の総選挙では、戦後日本の政治史上はじめてほぼオーソドックスな形で の政策論争が行われ、その結果として政権交代が実現したが、この政権交代によって、 日本の社会がほんとうに変われるのか否か、あるいは、われわれに日本社会を本当に 変えていく意志と決意があるのか否か、そう遠からずしてその真実のところが明かに されるはずである。しかしながら、いま確実に言えることは、政治を他人事にしてい る限り何も変わらないであろうということなのである。 (追記)本稿は、立教大学国際シンポジウム『現代日本の精神史』 (於:立教大学、 2005 年 7 月 16 日、17 日、18 日)での発表原稿の後半部分に手を加えたものである。 ■註 (1) ひとつの論考を 2 つの部分に分けて発表したため、本稿の冒頭部分と末尾の部分、そし て註の一部に、前稿(北山晴一、2009、「80 年代を語ることの意味─時代はいかにして閉 じられていったか─」、『境界を越えて 比較文明学の現在』第 9 号、立教比較文明学会、 2009 年、85 ∼ 107 頁)と重複する箇所がある。 (2) 当時の内閣総理大臣補佐官は長富祐一郎であった。 (3) 公文俊平「大平正芳の時代認識」(1993 年 10 月、Web 版)を参照。公文は同書の中で、大 平にとって「時代認識」とは何であったのかについて注釈している。少し長いが、引用する。 この 時代認識 (あるいは 時局認識 )という言葉は、日本人が通有している世界観 を端的にあらわしている 文化語 とでもいうべき言葉であることがわかる。すなわち、 日本的世界観の特質のひとつは、外の世界が、ある大きな流れ── 世界の大勢 ── にのってうごいているという信念をもっているところにある。しかも、この流れ自体は、 黒潮が流れをかえるように、時に変化することがあって、それが 新時代 をもたらす のだが、われわれ日本人には、この時代の流れそのものをかえることはなかなかできない。 われわれにできるのは、むしろ、その流れの方向や性質、とりわけそれらの変化を、な るべく速やかかつ的確に認識した上で──つまり、正しい 時代認識 をもった上で── それにあわせて自分自身のあり方や行動を変革することなのである。したがって、われ われの常に心がけるべきことは 変化への対応 (第二臨調がかかげた行政改革の第一理 念)である。これが、ルース・ベネディクトが『菊と刀』でしめした日本分析以来有名 になった、日本人の、 状況対応型倫理 原則にほかならない。いいかえれば、この意味 での 時代認識 の通有こそが、日本人を合意と行動にみちびく大前提なのである。そ うだとすれば、日本の偉大な政治家の条件は、時代の変化に対する鋭敏な感覚をもち、 他の人々にさきがけて、新しい時代認識とそれが含意する新しい対応行動を提示し、人々 を説得できることだといってよかろう。 (4) ソフトノミックス・フォローアップ研究会『報告書』(大蔵省委託研究)、1985 年、大蔵省 印刷局。『報告書』各巻の冒頭では、長富祐一郎が大蔵省大臣官房審議官の肩書で序文を記 し、長富みずからがこの研究会の取りまとめ役であったことを明示している。 以下に、この「ソフトノミックス・フォローアップ研究会」の各研究テーマとチーム責任 ̶ 38 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 者の氏名(カッコ内)を掲げておく。「大平総理の政策研究会」とこの研究会との共通点、 相違点を考える際の参考にしていただきたい。 〈ソフトノミックス・フォローアップ研究会『報告書』全 37 巻の研究テーマと各研究チー ム責任者氏名(カッコ内)〉 第Ⅰ部 構造変化の分析 1 ソフト化時代における経済統計の課題(竹内啓)チーム 2 ソフト化と GNP 統計(武藤博道)チーム 3 情報ネットワーク化と産業組織(今井賢一)チーム 4 ソフト化社会を見る眼(江見康一)チーム 5 ソフト化社会の人間と文化(山崎正和)チーム 6 ソフト化社会における人間性の見直し(藤竹暁)チーム 7 ソフト化社会の家庭・文化・教育(竹内靖雄)チーム 8 経済に影響を及ぼす人びとの意識の変化(岩男壽美子)チーム 9 高度情報社会のパラダイム(香山健一)チーム 10 ソフト化社会の光と影(飯田経夫)チーム 第Ⅱ部 科学技術と経済 11 科学・技術の歴史的展望(村上陽一郎)チーム 12 エネルギーシステムの新しい展開(芽陽一)チーム 13 科学技術における情報化と人間(猪瀬博)チーム 14 先端技術の革新とその影響(石井威望)チーム 15 技術と生命との出合い(清水博)チーム 第Ⅲ部 構造変化と経済運営 16 サービス化社会とサービス市場の基本構造(井原哲夫)チーム 17 ソフト化・サービス化の国際比較(西川俊作)チーム 18 ソフト化・サービス化と投資・消費の変化(香西泰)チーム 19 ソフト化の進展と賃金・価格決定のメカニズムの関係(小泉進)チーム 20 経済のソフト化と労働市場(島田晴雄)チーム 21 21 世紀型システムの展望(村上泰亮)チーム 22 日本型経営システムの将来(岩田龍子)チーム 23 明日を担う中小企業(清成忠男)チーム 24 地域産業発展の可能性(山崎充)チーム 25 ソフト化と経済成長・景気循環(森口親司)チーム 第Ⅳ部 構造変化と財政 26 新しい時代の政府の役割の変化(佐藤誠三郎)チーム 27 構造変化と投資・公共政策の有効性の検討(新飯田宏)チーム 28 財政支出の構造的変化(貝塚啓明)チーム 29 公的年金の今後のあり方(野口悠紀雄)チーム 30 財政収入のあり方とソフト化・サービス化(石弘光)チーム 第Ⅴ部 構造変化と金融 31 金融革新と金融システムの将来(蠟山昌一)チーム 32 構造変化の企業金融に与える影響(若杉敬明)チーム 33 構造変化と財政金融政策の諸問題(館龍一郎)チーム 第Ⅵ部 構造変化と世界経済 34 最新の国際資本移動(石山嘉英)チーム 35 海外直接投資とその影響(島野卓爾)チーム ̶ 39 ̶ 36 ソフト化経済と貿易(渡部福太郎)チーム 37 経済のソフト化に伴う先進国間・南北間の諸問題(公文俊平)チーム (5) この引用は堤の意図を要約したもの。堤の表現を正確に引用すれば、以下の通りである。 アメリカと日本には文化的な伝統があって、しかしそれらの伝統が産業社会というフェ イズで切断されていたと言えないか。つまり歴史・社会的な連続性が断ち切られていた から、伝統的な価値観の掣肘を受けることなく、必要な時に伝統から創造性の補給を受 けてマーケティングを展開することができたのではないか。(堤 1996、153 頁) (6) 北山晴一 2009、95 ∼ 103 頁、 「2 − 6.経済要素としての文化に着目」の項を参照されたい。 (7) 海老坂武(『祖国より一人の友を』岩波書店、2007 年、314 頁)は、「近代の超克」論の系 譜と問題点を論ずる中で、日本におけるポストモダン主義者の代表は、山崎正和だとして いる。なお、消費論や消費研究の脈絡のなかでポストモダン的主張がその思想の発信国フ ランスでどのような痕跡を残したかについては、拙著『世界の食文化 16 フランス』(農 文協、2008 年)第 4 章「豊かさと格差のなかでの食文化」を参照されたい。 (8) 森有正の思想については、辻邦生『森有正∼感覚のめざすもの』(筑摩書房、1980 年)に 詳しい。ぜひ参照されたい。 (9) 公文の反省文的性格をもつ文章「大平正芳の時代認識」(前掲)には、自由や平等、人権へ の言及がまったくない。 (10) 「大平総理の政策研究会」と小渕恵三総理が招集した「21 世紀日本の構想」懇談会の共通 点と違いについては、同懇談会第 2 回会合(1999 年 4 月 21 日)議事録に詳しい。冒頭部 分の抄録を下に掲げておく。なお、この文書は、下記の URL で閲覧できる。 http://www.kantei.go.jp/jp/21centur y/990517dai2.html(2008.12.03) (1)本懇談会の報告書の取りまとめ方について、「大平総理の政策研究会」の報告書(一 覧は資料 1)を参照しつつ、議論を行った。冒頭、同研究会のメンバーでもあった河合座 長及び山崎正和氏から当時のレビューが行われ、それを受けてメンバー間で意見交換が 持たれた。主な意見には次のようなものがあった。 •「大平総理の政策研究会」の報告書は、極めて質の高いものであり、今日でもそのまま 妥当する内容を多く含んでいる。「総合安全保障」「環太平洋」などのキャッチ・フレー ズを生み出した知的営為は印象深い。 • 時代背景としては、当時は一種の高揚感があった。しかし、現在は自信喪失ぎみであり、 相当な隔たりがある。 また、その後の 20 年間に日本社会が大きく変質していることに も、十分な留意が必要である。 • 同研究会では、経済が成熟してきたので、いよいよその上に文化の時代を築くとの発 想だったが、実際にもたらされたのはバブル経済であった。また、ソ連の崩壊や冷戦 の終結は予見されていなかった。少子高齢化や教育の課題も十分には視野に入ってお らず、家庭が安定した基盤として存続するという点で楽観的に過ぎたきらいがあった。 子供や女性の意識の変化や、NPO を育てようとする社会風土の変化も十分に予見され ていなかった。安全保障についても、冷戦構造の中でストレートに論ずることに困難 が見られた。 • 同研究会の成果を踏まえるならば、本懇談会では、冷戦後という国際環境の大きな変 化や、右肩上がりの経済成長を前提にできなくなった新しい状況を見据えて、今とい う時代の客観的な認識から始めることが肝要となる。理想論だけでなく、具体的な政 ̶ 40 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 策や課題の提示といった核となるものが必要で、その現実的妥当性については十分吟 味していかなければならない。 単一のモデルを提示して、その正当性を各分野で論証していくというアプローチも、 もはや時代に適応しないだろう。 • 報告書については、政策形成に携わる者はもちろん、国民の間に広く議論を起こすた めのきっかけとなるようなものとしたい。 • 日本人の間では、自ら選択した人間関係においてはより強い一体感を産み出すという 新しい傾向も見られ、関係が一面で崩壊すると同時に、他方で新たな関係の模索が始 まっている。古いものを踏まえて、示唆的な関係を作る努力が求められている。 • 文化を支える経済という視点も重要で、経済と文化を対立的に考えるべきではない。 • 日本にとっての「ソフト・パワー」が何かを考えてみることも重要である。 (2)こうした各メンバーの意見を集約する形で、河合座長から、最終報告書の方向性に ついて次のような発言があり、了承された。 • 理念と政策のバランスにおいては、理念に重点を置くが、向こう 5 − 10 年くらいの中 長期的な政策提言も含むものとする。短期的な政策については必要な範囲で扱う。 •10 年位は読み継がれるようなインパクトのある報告書を目指し、分量としてはあまり 大部にならず、読みやすいものとする。 • 今後、総論と各分科会報告書の起草者及び全体の取りまとめ編集役を指名し、各分科 会報告と総論の整合性に十分配意する。 • 最終報告は、和英両文で刊行する。 (11)最近では、このような「市民社会への一定の目配り」に応じて多くの市民社会の活動家、 論客たちが経産省や、総務省あるいは環境省などの審議会、各種委員会、座談会、フォー ラム、専門家会議、戦略会議などに加わっており、その結果、「地域力」のような本来は民 間で議論されていたタームが、官によって巧みにキャッチコピー化されて使われる傾向が 目立つ。官の場合だけでなく、経済界においてもまた、たとえば、もともと民間で官批判 の観点から議論されてきた BOP の問題が、いつの間には BOP ビジネスといったことばで 企業の新しいマーケットに変換させられていく傾向もある。また、2006 年にノーベル平和 賞を授与されたムハマッド・ユヌス博士(グラミン銀行総裁)は、2009 年 3 月に立教大学 を来訪された折に、ソーシャルビジネスを Business For Others と明解に定義したが、日 本の文脈の中では、For Others の要素よりもまずは Business のほうに跳びつく傾向が強 くはないか。このような「市民社会への一定の目配り」の含む両義性についてはつねに検 証していく必要があろう。 「経 (12)香西泰(日本経済研究センター特別研究顧問)は、日本経済新聞(2007 年 3 月 5 日朝刊、 済教室」「歴史の教訓」)紙上の論説「イエ社会を超えて 文明再興こそ日本の道 『知徳』 磨き進化の流れ確立」の中で、80 年代日本人論に大きな影響を与えた『文明としてのイエ 社会』(村上・公文・佐藤 1979)に触れ、「イエ社会の成功と挫折」の言葉で、80 年代的 思考の限界を語り、いまこそ「公智」を奨励して「世界のなかで日本が生きていくための 文明再興」を考えるべきだと提言してはいるが、しかし、その際、香西の頭にあったのは ひたすら、経済の復興、経済の繁栄それのみであって、少子高齢化やジェンダーバイヤス、 格差の問題を含めて日本社会(香西によれば、「日本文明」となる)の在り様全体を考え直 すといったことについてはまったく言及していない。じっさい、香西によれば、 「維持され、 機能的に純化された」日本のイエ的原則のおかげで戦後日本企業は、せっかく欧米諸国に 追いつき追い越せたのにこれまたイエ的原則への執着と、日本経済のパフォーマンスへの 自己陶酔によって、米国主導の IT 革命とグローバル化の波に対応できなかったこと、これ ̶ 41 ̶ こそが「日本文明」の衰退を招いたのだと診断され、それ以外のことがら、たとえば社会 や政治の問題に議論の及ぶことがないのである。新聞紙上という紙幅の限られた中での発 言という弁解もあろうが、それが不十分な発言の理由だとは考えがたい。なぜならば、香 西の論理展開は、先にみた公文のそれとほとんど同工異曲のものであり、政権に近い学者、 文化人、経済人の間では、これが一般的言説なのだと思われるからである。以下に、香西 の発言の抄録を掲げておくので、公文の文書と読み比べていただきたい。 〈イエ社会の成功と挫折〉 戦後日本社会ではイエ(平安後期からの東国武士集団を基礎とする、地縁・血縁を超 え継続性を重視する自立的組織)の原則が、企業で典型的に「維持され、機能的に純化 された」結果、欧米化のエネルギーを「自己の組織革新のダイナミズムに転換しうる能力」 を示し、戦前以上に「欧米制度と土着型原則の習合」が進んだと評価する。 敗戦後はまず、日本社会を「遅れた・特殊な」存在とする見方が有力になった。(中略) しかし、復興が進むと日本認識も変化する。「遅れてはいるが特殊ではない」という声が 広まった。村上氏らの前掲書は、欧米型以外の発展も可能とする多系発展説にイエ社会 を位置づけ「特殊だが遅れてはいない」との見方を支持している。 さらには E・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』のように、日本の発展に は普遍性があり、達成度も高いとの認識が示された。ただし、皮肉にもこれが日本人の 自己認識を甘くし、バブルに酔わせる心理的背景を準備したのかもしれない。(中略) (中略)政策の失敗もあったが、私見では米国主導の IT 革命の展開でグローバル化・ 市場化が一段と進み、中印両国がその機をとらえて高度成長の波に乗りキャッチアップ を加速させたのに対して、日本の産業、金融などは旧来の秩序にこだわり積極的に対応 してこなかったことが響いた。 さらには高度成長の後に出生率低下・少子高齢化が進み、人口減少期が迫ったことも 長期停滞の要因だと感じられる。このような、日本が成功していた経済面でのつまずきは、 日本の文明について大きな反省を求めるものではないだろうか。 高度成長を支えていた有利な条件(中略)はその後、出生率の低下、貯蓄率の減退、 石油価格の上昇などにみるように、次第に消滅していった。 これを先の議論に絡めれば、イエ社会の弱点による面もあると思われる。たとえば、 出生率の低下にしても、企業が元々のイエ以上にイエ的となり、手厚く社員の面倒をみ る分、勤務への拘束が強まった結果かもしれない。また、イエ型原則が典型的に「維持 され、機能的に純化された」(村上氏ら)はずの戦後企業が、グローバル化やバブル崩壊 に敏感に反応せず、不良債権処理に見られたように懸案を先延ばして経済を停滞させた ことは否定できない。 〈聡明叡知が公智を生む〉 それだけではない。典型的なイエ企業が多い低生産性部門の残存が、割高な国内物価 を通じ、日本の競争力を切り崩していく。日本の物価を比べると、ドル高是正のプラザ 合意があった 85 年以前は日本の国内物価のほうが割安だったのが、その後逆転した。こ の物価の構造変化は日本の貿易面での競争力を低下させるだけでなく、グローバル化し た投資立地競争でも不利を招く。この状況の打開にも、構造改革は不可欠であり、それ が今世紀、世界のなかで日本が生きていくための文明再興にもつながるのだ。 そのために教訓は何か。内村にあってそれは「興国とは謙(謙虚・謙遜)のたまもの であって、亡国とは傲(おごり)の結果」 (『史談』)ということであり、福澤にあっては、 「私 智」を「公智」に拡充し、 「一般に富裕の源を深くする」のにも寄与する「聡明叡知の働」 (『概略』)が強調されよう。(以下、略) ̶ 42 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 ご覧のように、香西の中心的主張は、 「典型的なイエ企業が多い低生産性部門」を一掃し、 不可欠な「構造改革」を推し進め、「世界のなかで日本が生きていくための文明再興」すな わち、経済大国としての日本の復興を実現すること、なのである。ここでは、80 年代イデ オロギーとそこに顕著であった奢りへの反省は言葉の綾的なレベルに留まったままなので ある。 以上のような公文や香西の言説と比べると、「人間に従属するマクロ・マーケティングが、 市場行動のためのマーケティングの上位概念として構築されるべき時期に来ている」とす る堤清二の議論(堤 1996、158 頁)には、それなりの知的な射程と深度、そして品位が備わっ ており、いまでも一読に値する。以下、長いが引用を許されたい。第二章「戦後日本の経 済─消費社会への道」第三節「開発主義:企業社会・大衆市場」の部分である。 わが国の経営理念を構成する思想は、ひとつの価値観によって構成されているのでは ない。明治以後、大正期になってわが国経営理念の主な潮流となった経営家族主義に見 られる 温情 の思想には石田梅嚴らによる心学、徳川時代の体制のイデオロギーであっ た朱子学の影響を見ることができる。ただし、資本主義形成期における「パターナリズム」 は決してわが国だけの特色ではない。「家族主義」を「パターナリズム」と訳す時、両者 は本質的に同質である。それ以後の展開において、わが国は経営福祉主義がこの家族主 義を代替するようになったのに比して、欧米では人権の思想、「公共」の観念を基調とし て、社会との契約の思想が軸になったのである。 ここに明らかなのは、わが国における人権の思想、「パブリック」という概念の弱さな いしは欠落である。欧米のレイオウ制度を範として、わが国にもそれを導入しようとす る時、もし人権の思想の裏打ちを忘れるなら、わが国の経営風土は時代的に後戻りする 危険を冒すに違いない。「パブリック」の概念も、わが国の場合、ことに明治以後、それ は「お上」と混同されてきた。そこには、ヨーロッパにおける三権分立思想、アメリカ におけるアメリカン・デモクラシーのようなパブリックの軸は見られなかった。わが国 の経営理念を考える時、問題なのは経営家族主義というよりは、人権思想とパブリック の概念の曖昧さと欠落のように思われる。 第二にわが国の経営者の「日本的経営方式」に対する認識は、高度成長期の中頃から、 それ以前と鋭い対照を見せるようになった。その口火となったのが、一九五八年に邦訳 された J・アベグレンの『日本の経営』 (アメリカ M・I・T、邦訳ダイヤモンド社)であった。 監訳者である占部都美は、「わが国の経営制度は、近代的な生産技術と、封建的な社会 制度を一体化したユニークな混成物であり、それは欧米の経営制度とは異なる第三の経 営制度をなすものとして、この著者には受け取られ、それがむしろ是認されている」と 述べているが、氏が慎重に附した留保条件は、高度成長の進展のなかで忘れられ、日本 的経営特殊論とでもいうべき認識から、その特殊性こそ優越性であるという、無条件に 近い 自信 に転じたのであった。この態度変更を通じて明らかなのは、異文化に対して、 従ってそのひとつの現われである経営理念に対して、それを体系として、その存在意義 も含めて客観的に認識しようとする態度の欠落である。このような異文化に対する認識 欠如が、実はわが国経営思想と理念の第二の特徴と考えられる。(堤 1996、46 ∼ 47 頁) 堤がここで 2 つの「欠落」、すなわち、ひとつには「わが国における人権の思想、「パブ リック」という概念の弱さないしは欠落」、そしてふたつには「異文化に対して、従ってそ のひとつの現われである経営理念に対して、それを体系として、その存在意義も含めて客 観的に認識しようとする態度の欠落」を指摘しているが、これこそが真の意味での 80 年代 イデオロギーへの批判的総括といえるものではなかったか。また、「欧米のレイオウ制度を ̶ 43 ̶ 範として、わが国にもそれを導入しようとする時、もし人権の思想の裏打ちを忘れるなら、 わが国の経営風土は時代的に後戻りする危険を冒すに違いない」という堤の 1996 年時点で の予想がその後、不幸にも完璧に実現されていることにも、ここで注目しておきたい。 (13)梅原宏司 2009 は、文化行政という限られた領域のこととしてではあるが、梅棹忠夫および 山崎正和が、1960 年代以降ほとんど途絶えることなく日本の文化行政の方向付けに関与し てきた経緯と、そのことがいかにして日本の政治的言説空間の「無化」に働いたかを論証 している。 (14)佐藤誠三郎・松崎哲久、1986、『自民党政権』中央公論社 (15) 「大平総理の政策研究会」全メンバー表を末尾(表 1)に掲げておく。この表の作成にあたっ ては梅原宏司氏の協力を得た。記して感謝したい。 (16)梅棹忠夫の思想と行動については慎重な評価が必要とされよう。梅棹の場合は、さまざま の公的機関からの要請を受けるというよりも、自らの思想を具体化するツールとして行政 や政治を利用してきた面が強いからである。梅棹いうところの「文明史的」な俯瞰の視点 から物事を見るということ、そしてそれが行政や政治の側の目論見とどのように交錯、あ るいは一致していたのか、いつか検証してみたい。 (17)大阪大学を拠点に、一時期、ある種の「長富ネットワーク」が形成されていたことはほぼ 確実である。山崎正和、長富祐一郎、竹中平蔵、そして本間正明(前政府税調会長)らが、 大阪大学の関係者であること、また、大阪大学には経済官僚のための教授ポストが実質的 に用意されていることは、一部ではよく知られている。山崎をのぞく他の 3 者は、経済官 僚として比較的近い関係にあったと思われる。本間が政府税制調査会長に就任したことを 紹介する日本経済新聞の記事(2006 年 11 月 8 日夕刊「行動派経済学者、税改革に挑む 政府税制調査会長に就任 阪大教授 本間正明氏」)によれば、本間は、小泉政権下で 5 年 半に渡り経済財政諮問会議民間議員を務め、「行動する経済学者」の先駆的存在であったと される。竹中平蔵前財務相や太田弘子経済財政担当相(当時)の能力を見出し、経済学者 が政策に携わるきっかけをつくったとも紹介されている。 ■参考文献 梅原宏司、2009、「戦後日本政治における「文化行政」の位置づけ─「文化」は国家戦略の中に いかに包摂されたか─」(立教大学提出博士学位申請論文) 海老坂武、2007、『祖国より一人の友を』岩波書店 大平正芳、1983、『回想録』資料編(大平正芳回想録刊行会編集)鹿島出版会 大平総理の政策研究会、1980、『報告書』(全 9 巻)大蔵省印刷局 北山晴一、2009、「80 年代を語ることの意味─時代はいかにして閉じられていったか─」、『境界 を越えて 比較文明学の現在』立教大学比較文明学会)所収、85 ∼ 107 頁 公文俊平、1993 年、「大平正芳の時代認識」 http://www.glocom.ac.jp/proj/kumon/paper/1993/93_10_00.html(2008.12.03) 佐和隆光、新藤宗幸、杉山光信、1877、『八〇年代論』新曜社 ジャン・ボードリヤール、1979、『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店(翻訳 1979 年、仏語 版 1970 年) ソフトノミックス・フォローアップ研究会、1985、『報告書』(大蔵省委託研究)全 37 巻、大蔵 省印刷局 辻邦生、1980、『森有正∼感覚のめざすもの』筑摩書房 堤清二、1996、『消費社会批判』岩波書店 中尾佐助、1990、『分類の発想』朝日新聞社 村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎、1979、『文明としてのイエ社会』中央公論社 ̶ 44 ̶ 21 世紀社会デザイン研究 2009 No.8 山崎正和、1984、『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社 田中明彦研究室、2010、『世界と日本』(日本政治・国際関係データベース)東京大学東洋文化 研究所 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/(2010.01.09) François de Singly, 2005, L’ Individualisme est un Humanisme, Paris, Ed. de L’ Aube, coll. « essai » 他に、日本経済新聞の各号(2006 年 11 月 8 日夕刊、11 月 17 日朝刊および夕刊、12 月 18 日朝刊、 2007 年 3 月 5 日朝刊) ̶ 45 ̶