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あなたへの務め - church.ne.jp

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あなたへの務め - church.ne.jp
2016/6/5
門戸聖書教会 礼拝説教
使徒の働き講解 2
使徒 1:12-26
あなたへの務め
1.教会誕生前夜に
わが家から車で 5 分くらいのところに、『蛍の墓』にも出てきますニテコ池という池がありまして、その
池 のお向かいのこんもりした木 々の間 に、大きな豪 邸 があります。あのパナソニックの創 業 者、松 下
幸之助さんのお家です。日本には、松下幸之助さんとか、本田宗一郎さんとか、大会社を一代で築
いた実 業 家 がおられて、そうした方 の伝 記 は実 に面 白 いものです。特 に面 白 いのは、やはり、その
会社を興す時、初めのころの話です。
松下幸之 助さんの伝 記にも興味 深い話 がありました。松下 家には、今でも、家宝 があるそうですね。
それは、まだ会 社が下 町の家 内 工業のような時代、食うや食わずで質 屋に通 い詰 めたころの、質屋
の通い帳なのだそうです。風 呂 代にも困 って、婦 人の指輪や帯、みんな質に入れた。それを家 宝に
するということは、どんなに成功しても、その頃の苦労を忘れないようにということなのかなあと、私のよ
うな凡人は思うのですが、意外とそうではないそうなのですね。松下幸之助さんは、こう言っている。
「今 から考 えてみると当 時 の数 年 間、われながらよくがんばったものだという気 がする。…身 体もそ
れほど丈夫でなかったけれども、ただ一日 一日を精いっぱい働 こうということで、それほどの苦労にも
感ぜず、むしろ生きがいを感じつつ・・・取り組んでいたように思う。」 むしろその時は、心に大いなる
希 望を抱 いて懸 命 に夫人とともに走り続 けていた、二 人の一 番 充 実していた時 代 であった、その頃
の希望を忘れないでいたい。そういう意味での家宝なのだそうです。
1
今年度 は『使徒 の働き』を学んでおります。これはいわばキリスト教 会の草創 期、ゆりかごの時代の
話 です。その原 点 を振 り返 りつつ、そこにあった生 き生 きした希 望 、あふれる情 熱 を感じ取 りたいの
です。特に今日お読みいただいた箇所は、まさにその助走の時、教会が誕生する前夜の話です。
十字架にかかり、復活されたイエス様は 40 日の間、弟子たちによみがえったご自身を示し続けら
れました。そうして、「主 よ。今 こそ」と気 がはやる弟 子 たちに対して、エルサレムに留 まって、聖 霊 が
与えられるのを待ちなさいと命じられ、天に昇って行かれるのです。その聖霊が降 って、教会が誕生
したのが、次の使徒 2 章の最初のところ。イエス様の復活からかぞえて 50 日目の「五旬節」(使徒
2:1)、ペンテコステの日でありました。
つまり、その間の 10 日間という短い期 間に、弟子たちが何をしていたか。キリスト教会が誕生し、キ
リスト教の歴 史がスタートする、その助走 期間、準備期 間に何をしていたのか。その非常に大 切な時
を描いているのが、今日の聖書箇所であるわけです。
1
『人 生 をひらく言 葉 』(松 下 幸 之 助 、PHP 文 庫 )「難 儀 はあるけど苦 労はしてまへん」より
1
2.心を合わせ、祈りに専念していた
その教会の誕生 前夜にあたる 10 日間に、弟子たちがいったい何をしていたのか。『使徒の働き』
を書いたルカは、二つのことにしぼって、そのことを記しております。
ひとつは、弟子たちは、何をおいても、まず、心を合わせ祈りに専念したということです。
使 徒 1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近 くに
あって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋 上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブと
アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユ
ダであった。1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、み
な心を合わせ、祈りに専念していた。
「この人 たちは…祈 りに専 念 していた」。みなさん、これは心 探 られるみことばではないでしょうか。
私 は心 探 られました。私 も、あちらこちらの教 会 に行 き、礼 拝 にも出 させていただきました。それで、
祝されている教会、活気があり、聖霊の躍 動や温かみを感じる教会を見ますと、そこにはひとつの共
通点 がありました。それは、よく祈 っているということです。とても単純なことなのです。でも、それは真
実です。よく祈っている教会は祝されている。
今、JECA で一番多くの方が集っているのは、本郷台キリスト教会だと思います。 この本郷台キリス
ト教 会も祈る教 会です。元 々は、池 田 博 先 生 が、廃 品 回 収 をしながら開 拓 された 小 さな教 会でした
が、今では大きなダイヤモンド工 場 を買 い取 って会 堂にされたり、サッカーグラウンドを持っていたり、
地域のご高齢の方にお弁当を配るサービスをするなど、多くの働きをしておられる教会です。
元々、池田 先 生もそんなに祈る方ではなかった。朝のデボーションもしたりしなかったり。しかし、あ
る朝 、こたつで新 聞 を読 んでいると、奥 様 から、「あの、新 聞 を読 む前 にすることがあるんじゃないで
しょうか」と言われた。これは主の御声だと思い、悔い改めた。それから早天祈祷を始められるのです。
不思 議とそこにひとり集い、ふたり増えと、人が加えられ祝 されていった。さらには、ある時、スポルジ
ョンという英 国 の大 説 教 者 の話 をした。彼 が用 いられた秘 訣 として、説 教 している間 、ずっと講 壇 の
後ろの部屋で祈っている人がいたという話をしたら、「私にもやらせてください」という人が名 乗り出て
こられた。それがまた一 人 増 え、二 人 増 え、今では教 会 に祈 祷部 ができて、礼 拝の前には、座 席の
各列にひとり、礼拝の祝福のために祈りの奉仕をする人が与えられているそうです。
その池 田 先 生 が、今 日 の聖 書 の箇 所 についてこういう ことを言 っておられます。 2 弟 子 たちは、
「エルサレムを離 れないで、わたしから聞 いた父 の約 束 を待 ちなさい」 と言われている。この「エルサ
レム」は、まさに弟 子たちがイエス様を見 捨てて逃 げた場所 だというのです。イエス様は、そこに戻 っ
て、約束の聖霊を待ちなさいと主は言われた。
「皆 さんは、教 会 の建 設 、奉 仕 に、どんな思 いで携 わっておられるでしょうか。自 分 がここにいるの
は、ふさわしくないと感 じておられる方 もいるでしょうか。…しかし、(その場 に)置 いてくださっている
2
『祈 りは私を変 え、教 会 を変 える』(池 田 博 、いのちのことば社)
2
のは、ほかでもない、主です。イエス様が期待してくださっているのです。たとえあなたがどのように背
を向けるような思 いでそこにいたとしても、イエス様は…「エルサレムを離れないでいなさい」と言われ
るのです。エルサレム、それはあなたにとっていちばんつらいところでしょう。いたくないところでしょ う。
(しかしそこに)やがて聖 霊が降 り、新しい希 望 が、新 しい力 が注がれます。そしてそこはかつて知 ら
なかったようなすばらしい教会が誕生するところです。主はそれをすることができる方 です。」
心をひとつにし、祈 りに専 念していた群 れに、聖 霊 は著しい力をもって降られました。私たちも、心
をひとつに、祈る群れとなりましょう。
3.使徒の欠員補充
そして、もうひとつのことを、この時、最 初 の弟 子たちはしております。それは、ユダの裏 切 りと死 に
よってできた使徒の後任を新しく立てているということです。
「使徒」とは、元々イエス様ご自身が、福音宣教のため特別に訓練し遣わすため、ご自身のみそば
近くにいるように選ばれた 12 人の弟子 たちのことでした。その後、復活の主イエスに直接選ばれた
パウロなども使徒と呼ばれるようになりました。
ここでは、その十二 使徒のひとり、イスカリオテ・ユダの裏切りと悲 惨な末路が記されています。しか
し、それはともかく、12 名の使徒に欠員が出て、11 名のままにするということを、初 代教会はよしとし
なかった。それは、おそらく 12 という数字 が、イスラエルの 12 部族を表しており、やがてこの使徒た
ちがその 12 の部族を裁くものになると言われている(マタイ 19:28)ことと関係しているでしょう。
けれども、その大 切 な使 徒 の選び方 が、ちょっと変 わっているというか、意 表を突 くわけです。彼 ら
は、条件に合う候補者を二人選び出しました。
使徒 1:22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの
間 、いつも私 たちと行 動 をともにした者 の中 から、だれかひとりが、私 たちとともにイエスの復 活 の証
人とならなければなりません。」
1:23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
そこまでは、よいのです。しかし、それから彼らは、主に祈りをささげ、くじを引くのです。
使徒 1:24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。 1:25 この務めと使徒職
の地 位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分
のところへ行 くために脱 落 して行 きましたから。」1:26 そしてふたりのためにくじを引 くと、くじはマッ
テヤに当たったので、彼は十一人の使徒 たちに加えられた。
使徒たちが「くじを引いた」ということに対 して注解者たちは色々言っています。くじ引きで使徒を決
めるなんて、それは聖 霊 を彼らがまだ受 けていなかったからだとか、教 会 は誤ってマッテヤを選んで
しまったとか。内村鑑三の弟子の塚本 虎 二は自身で翻訳した『使徒の働き』の注に、「籤を引いた-
なぜこんな恥ずべきことをしたのだろう。イエス昇天後幾日もたたぬに」とまで言っております。 3
3
『新 約 聖 書 使 徒 の働 き』(塚 本 虎 二 訳 、岩 波 文 庫) P.116
3
4.くじによる選任
しかし、どうなのでしょう。使徒をくじびきで補充したことは、本当に「恥ずべき」ことなのでしょうか。
もし、この時、この二人の候補について、最後までみんなの選挙で選んだとしたらどうだったでしょう。
その場合、こう言う人が出て来 はしないだろうか。「あの使 徒のマッテヤさんを選んだのは、私だよ」。
使 徒が、主イエスご自 身 が選び出 され、立てられた人ではなく、単なる人 間 の代 表になってしまうの
ではないか。ユストと呼 ばれるヨセフも、マッテヤも、どちらも資格 を満たしている。人 間 的に見て、甲
乙つけがたい。ならば、どうした基 準で使 徒を選ぶのか。そういう時に、「すべての人の心 を知ってお
られる主 よ」 と、全 知 の主 に呼 びかけ、「このふたりのうちのどちらをお選 びになるのかお示 しくださ
い」と、主のご判 断 にすべてを委 ねようという姿 勢 において、「くじ」というのも、私 は一 つの方 法 なの
だと思います。
私 は、この時、くじが当 たったマッテヤさんと、一 方、くじに外 れたバルサバさんのことを思うのです
ね。マッテヤは、この日を境 に「使 徒 」となったわけですから、いきなり教 会 の大きな責 任を負 うことに
なったわけです。それはもしかして、大きな名誉かもしれないけれども、同時にとてつもない重荷を背
負 うことになる。マッテヤについては、聖 書 にこの後 、一 切 出 てきません。どういう人 生 をこの後 送 っ
たのかは分かりません。でも、他の使 徒たちの多くが殉教したり、島 流しに遭っているわけですから、
マッテヤも同じような苦難の道をたどったことでしょう。
一方で、バルサバはどうか。彼はくじに外れた。使徒にはなれなかった。もしかして、自分が選ばれ
なかったことで、残 念だったかもしれない。みなに認 められるくらいですから、伝道 者 になりたいという
思いがあったかもしれない。その道が閉ざされたわけです。もしかして、ほっとしたかもしれませんが、
(自分にはいけないところがあったのだろうか)と心ひそかに思ったかもしれません。
思えば、私たち、それぞれの人生で、実 際に別 にくじを引 くわけではないけれども、まさに、自分で
決められないような色々なものが、振りかかってきたり、割り当てられたりするわけですね。
例 えば、生 まれてくる家 ひとつとっても、随 分 違 う。 結 婚 相 手 によっても全 く違 う。どんな学 校 に入
って、どんな仕事をするのか。どういう才能 や賜物が与えられ、どのようなことができるのか。ある程度
選べるものもあるけれど、選べないこともある。病 気になったり、事 故にあったり、 どんな人 生、どんな
運命が自分に割り当てられるのか。それは当たりくじなのか、外れくじなのか、いや、自分でも自分の
人 生、こんなはずじゃないと思うような、とんでもない貧 乏 くじを引 いてしまうこともある。みなさん、自
分 が生きている場、自 分 が生きている人 生、どうして、私 がこんなこと にと思 うようなことが、私たちに
はあるのではないでしょうか。
5.くじはマッテヤに当たった
受付にまだ若干残っているかもしれませんが、『いのちのことば』(2016 年 6 月号)という書評誌に、
短 いお証しを書かせていただきました。そこに書 いたことですが、私 は幼 い頃、父を知 らずに育ちま
した。父の放蕩が原因で、母が 3 歳なるかならないかの私を連れて家出をしたからです。小学校 3
年で、再び父と暮らすようになるまでは、母子家庭状態でした。
4
父親がいないということで、ひがむということはそれほどなかったと思いますが、やはり、「どうしてうち
にはお父さんがいないんだろう」と、寂しい思いがいつも心にあったように思います。
でも、今 度 は思 春 期 になって、どうして自 分 や母 が幼 い頃、寂 しい、辛 い思 いをしなければならな
かったのかということが分かってくると、父 への反発も覚えました。父のようにはなりたくないと。聖いも
のに憧 れ、聖 くなりたいと願 いながら、自 分 自 身もまた罪 深 いものであることに苦しみました。それが
聖書を読み、イエス・キリストの十字架によって救われるきっかけにもなったと思います。
でも、大学 時 代にKGKに行ったりして、本当 に恵 まれたクリスチャンホームで育った友人なんかに
出会うと羨ましいなと思いましたね。神学校時代はさらにそうでした。そこには、何 代も牧師の家系だ
とかキリスト教会のサラブレッドのような人がごろごろいるわけです。神学校の 3 年生の時、父と母の
関 係 がいよいよ極まって、私も見るに見 かねて、父 を家 庭 裁 判 所 に訴えることに踏 み切 りました。 そ
れで父と私の関係も壊れてしまって、自分でも苦悩しました。それが、神学校の 4 年生になって、今
度は父 の事業 が破綻して、父から助 けてほしいと連絡 がありました。その頃は、まだ、神 学 校を出た
ら、留学をして、もう少 し聖書の学びを深 めたい。ゆくゆくは、神学校でも教えられるくらいに学位もし
っかりとってという、夢というか、願いがありました。そのための資金も少しは残 っておりました。
色々考え、祈 り、そして、妻にも無 理を言 って、結 局、父 の事 業の 精 算を手伝うことにしました。そ
れは、私 にとっては自 分 の夢 とかビジョンといったものを捨てることを意 味していました。でも、そのこ
とで首の皮 一 枚になっていた父との関 係 が回 復され、ささやかな父 子の絆を取り戻 すことができまし
た。
私は、その頃、何となく人生の「貧乏くじ」を引いたような気持ちでいたのですね。でも、牧師を 15
年 してみて分 かったことは、ああ、まさに自 分 が人 生 で経 験 した悲 しみや痛 み、苦 しみこそが、最も
大きな財産なのだということです。弱さこそが、強さになるということです。
まだ、神学校を出たら、海外へ留学して学びを続けようと思っていた頃に、舟喜順 一先生に、こん
なことを聞いたことがあったのですね。「先 生、このテーマについて学びたいと思ったら、どこに行って
学べばいいですか?」 私としては、どこどこ大学 の、何という教授 に教 えを乞 いなさいというようなア
ドバイスを期待していたのです。すると、順 一先生は、にっこり笑ってこう言われました。
「主に教えていただきなさい」
この言 葉の衝 撃を忘 れられません。そして、まさに私 は、自 分で願ったわけではなかったけ れども、
人生の痛みや悲しみを通して、主イエスから大切なことを教えていただいたのだと思います。
みなさんは、いかがでしょうか。自分の人 生について、今 置かれている状 況について、納 得できな
いくて、いや、納 得できないどころか、理 不尽 極まりないと感じておられるかもしれない。とんでもない、
外れくじ、貧乏くじを自 分は引いたのだと思っておられるかもしれない。神様が自 分 に願っていること
は、こんなつまらない務めなのかと思っておられるかもしれない。
「くじはマッテヤに当 たった」-マッテヤがこの後、自 分 に割 り当 てられた務 めにどのように向 き合
い、どのように生きたのか、それは私たちには分かりません。ただ確かなのは、彼 が恐らく、その務 め
に真正面から向き合い、その務めを全うしたということだけです。
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ペンテコステまでの 10 日間、弟子たちがしたことを言い直せば、自分たちに主イエスが委ねられ
た務 めに向 き合 い、務 めを果 たす力 を求 めて、祈 りに専 念 したことでした。 聖 霊 よ、来 て下 さい。弱
い私 のところに、私 たちのところにと、ただひたすらに聖 霊 を求 めたということでした。それしか、彼 ら
にはできなかった。
主はあなたにどのような務めを委 ねられているのでしょうか。あなたへの割り当てのくじは何なので
しょうか。どのような道を歩むにせよ、聖 霊 があなたにその務めを全うする力を与 えてくださいますよう
に、聖霊が力強く私たちを満たし、働いてくださいますように、お祈りしてまいりましょう。
祈ります。
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