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ある横浜商人の賦 -中村房次郎考
ある横浜商人の賦 一中村房次郎考− 葛 横浜市中区役所 ある横浜商人の賦 一中村房次郎考− 開港時関内の繁栄 新港ふ頭倉庫 目 次 町会所の時計台 発刊にあたって 横浜市中区長 入 江 昭 明 日頃、区民の皆様がたには市政・区政の推進について、いろいろとご高配ご協力をいただ. という日太近代文化形 の開港以来、太市の歴史は間もなく一二〇年に達しようとしており き、まことに有がとうござい患す。 衷心からお礼申しあげます。 安政六年︵一八五九︶ ます。この間西洋文明摂取の門戸として、﹁ものみな横浜に始まる﹂ ました。 成のさきがけとなり、国際貿易都市としてまた工業都市として、一大躍進をとげ今日に至り その途上において、関東大震災と太平洋戦争下の災害とによ旦一度も焦土と化し、しかも 駐留軍による接収面積が、太市だけで全国の六二界を占めるという悪条件を克服して、奇跡 的な復興ぶりを示したのであります。 という視点から眺望することをねらいとして、従来刊行して そこには多くの先人たちの並々ならぬ努力があったことば、いうまでもありません。それ らの人々の活躍を﹁横浜商人﹂ :︰ 参りました郷土資料叢書の第五巻1﹁ある横浜商人の蹴†中村房次郎考﹂を編集いたしました。 中村房次郎の軌跡 増田嘉兵衛 0増田屋の創業 ○増田匡の発展 ○増田屋の危娩 ○その後の躍進 中村房次郎 房次郎のスタート⋮⋮ 房次郎の風格 ⋮ 房次郎の事業 ⋮ −鉱山の開発− ⋮ −経済恐慌−⋮ ⋮ ⋮ 束−︰= ⋮ 大正期の海岸通り −飛鳥田二代−・︰ −半井活−︰︰ 房次郎の交友 ⋮ 房次郎の死・家族 ⋮ 中村房次郎年譜 ▲ −芸妓の談−・ 重富太郎の葬儀− −約 −老松会− ⋮・ −忠臣蔵−⋮・ −陰 徳− ⋮・ −皇室崇拝−・⋮ 房次郎の横顔 房次郎と政界 ⋮ 房次郎と疑獄事件 −落盤事件−⋮ −閉 山−︰︰ 0 0 0 参考資料 表紙 3 3 4 =︰2 ⋮︰54 ⋮=55 =︰56 ⋮=粥 ⋮︰62 ⋮︰3 ︰=3 ︰︰51 ⋮︰51 =︰52 =︰2 ︰5 ==45 ⋮︰4 4 ⋮=43 ︰︰6 ==37 =︰41 ⋮=41 ︰︰ ....3 ︰︰・ 区民の皆様がたにいささか在りとも社会教育の面でのご参考に役立てば幸甚この上もあり ません。 昭和五三年十二月 2 2 2 2 ご一読の上ご叱正下さるようお願い申し上げます。 次 発刊にあたって 目 ある横浜商人の賦−中村房次郎考−=︰1 はじめに 横浜史略年表 −開港と横浜商人 ペリー来航 日米和親条約 ハリス来日 1 1 .:−〇 ︰︰=∴‖6 2 0 ....8 ︰︰・ 一一...〇 ︰︰ :: ⋮・28 ⋮・29 あとがき ⋮︰26 ・⋮・25 ==2 ⋮=23 ︰=別 ⋮15 == ⋮ 商人の横浜進出 甲州畳忠右衛門 ︰ ○ 中層星重兵衛 高島嘉右衛門 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 横浜商人の系譜 ○ 平 八 専 蔵 近 歳 有的 書三郎 惣兵衛 尾 幾 造 ○ 田 中 平 沼 伏 島 早矢仕 憲兵衛 幸兵衛 総一郎 ○ 原 ○茂木 ○ 若 ○ 〇 ○ ○ 大谷 安部 浅野 ⋮ 渡辺 富太郎 福三郎 ○ 原 ○ 0 0 0 0茂木惣兵衛︵三代︶⋮ 0 その他の商人群像 ⋮ のあとがきでいっている。 を語ることになりはしないかと。 の庁舎の 横浜史略年表 じ驚かされている。 そこになにか奇しき因縁のようなものを感 ものであることが判明した。 礎石は氏の経営した松尾鉱山から運搬された ま中区役所︵元横浜興信銀行太店︶ なお、この小誌作成途上の調査で、たまた とは非常に心残りである。 しかし、当初の意図に反して資料収集思う に任せず、きわめて寸足らずの形に終ったこ 土とその挽歌〟 そこでこの小誌では、中村房次郎関係の叙 述に主力を注ぎ、その事業と人間像との紹介 につとめることとした。それは即〝横浜の風 の名を挙げている。 ﹁横浜開港とその彼の発展に大きく貢献しな がら、伝記、追懐録のたぐいがいまだに蔑め られていない人々があり、非常に不便で残念 である﹂ そしてその一人として中村房次郎 著〝横浜物語″ 元神奈川新聞論説委員の白土秀次氏もその については選った記録が残されていない。 財界の双壁と称され、明治∵大正・昭和三代 竺且って横浜市政を彩った偉材、中村房次郎 ある横浜商人の賦−中村房次郎考− ほ じ め に はじめ昨年刊行した 〝横浜のおんなたち〟 虫と亡 の続編として ″横浜の漠たち〟 というテーマ で世に謂う 〝構浜商人〟 といわれたものに挑 戦をしたかったが、仲々至魅在業であった。 かって横浜という土地に映えた蜃気楼とも その当初の底知れぬ力強い開拓精神に比し フロyチア いうべき遥鱒浜商人″ とは何であったのか。 て持続性の臆さ、拶なさに興味が引かれた。 〝滅びの美しさ″ などとは云ってはいられな 済、政治などを語ることになるからだ。 い。それはいままでの横浜の土壌、文化、経 ところで 〝横浜商人″のなかでも、中居星重 兵衛、高島嘉右衛門、田中平八、大谷嘉兵衛、 浅野紘一郎等については、一冊に纏められた 伝記がすでに刊行されている。 また 〝横浜商人″ の活躍の頂点に位すると もいえる、後期派の豪商、原書太郎に関して は森太宋著〝原富太郎″最近出版された竹田 道太郎著″院三渓″等によってその足跡や人 物が浮彫りされているが、原と並んで横浜政 汽車開通 大正期の横浜ふ頭 一4一 国会開設 米騒動 明治一六年 越前屋呉服店開店 秩父騒動、加波山事件、横浜市茶業組合発足、浅野セノソト会社設立 内閣官制公布、天然痘流行、明治屋開業 保安条例のため東京の論客壮士五首余名横浜迂来る、東海道線−横浜由府浮 〝一七年 〝一八年 二〇年 市町村制公布、商法学校を商業学校と改む J・C・ヘボン 横浜蚕糸売込業組合設立 〝 二一年 大日太帝国憲法発布、東海道線全線開通、市制施行︵人月一一六、一九三︶ 〝和英語林集成〟 〝一九年 〝 二二年 間開通 〝 〝 〟 二五年 三四年 二三年 御真影、勅真の奉置布達、﹁君が代﹂制定、地主派・商人派の政争続く、横 ガス局市営となる、天然痘流行 じめて電灯点火さる、コレラ病流行、東京横浜間の公衆電話開始 大津事件、騎浜植木K・K開業、横浜船渠K・K設立、コレラ病再流行 第一回衆議院議員総選挙、立憲自由党結成、太町外十三力町の区会設立、は 共有物に関する訴訟起る、増田知−初代市長に就任、原善三郎−初代議長 〟 二六年 日清戦争、横浜築港桟橋完成、横浜米穀取引所開業 〃 〝 三一年 三〇年 二九年 神奈川県測院所−天気予報を始める 赤痢流行 わが国最初のベスト病発生、硫浜蚕糸銀行設立 浜生糸合名会社設立 若松親子 〟 二八年 二七年 〝小公子″和訳 〟 〝 日清講和条約、コレラ病流行、横浜商業会議所・生糸検査所設立、左右田銀 行創業、生糸直輸出合資会社組織 〝 条約改正居留地撤去、雲井町の大火︵焼失三、一七三戸︶、原告名会社設立 三三年 日太社会民主党結成︵即日禁止︶、第一回市域拡張 北椿事変、治安警察法、立憲政友会結成、生糸相場暴落に次ぐ暴落 〝一二二年 三四年 〝 〃 三五年 中島俊子 漁業組合法の制定にとも在い各地で漁業組合発足 ﹁平民新聞﹂創刊、日太輸出網同業組合設立、 度合名会社−富岡製糸場など四製糸場を買収 別封剛瓢、横浜電気鉄道設立・︵市電の前身︶− 〟 明治三六年 〝湘爛日記〟 日露戦争、横浜電気鉄道−神奈川大江橋間開通 〝上杉謙信㌃山崎紫紅 日露講和条約、京浜電鉄−品川神奈川間開通 臼太社会党結成、 横浜精糖会社設立、太牧三渓園公由 戦後恐慌 戊申詔書、痘瘡流行︵死者一五八︶、横浜鉄道−東神奈川八王子間竣工 開港斎十年記念条、市歌、市章制定、横浜公園−市民に解放、井伊大老銅像 除幕式、浅野鮫一郎−安善町・末広町の埋立に着手 〝横浜開港五十年史″ 第一 次世界大戦、生糸大暴落、 ベスト流行、茂木合名会社設立 磯子間坂地先海面埋立・松尾鉱業K・K設立 韓国併合、大逆事件、平沼銀行設立 明治屏・渡辺合名会社設立 四三年 四四年 渡辺銀行・日太鋼管K・K設立 ″日太アルプス〟小島鳥水 〟 四五年 三年 ヴェルサイユ講和条約、埋地の大火︵焼失三、二四八戸︶、帝国蚕糸組合藷立 〝桜の実の熟する時〟島崎藤村、詩誌〝海港〟柳沢健ほか 慌はじまる、茂木−横浜七十四銀行合併 米騒動、第一次世界大戦終7、シベリア出兵、浅野物産K・K設立、生糸恐 Y校市立となる 開港記念会館開館、増田貿易K・K、湘南電気鉄道・神中軌道K・K設立 憲政会組織、浅野造船K・K、YMCA・YWCA設立 第一次帝姦会社・横浜生糸K・K、臼太カーボンK・K設立 横浜駅高島町に新築、京浜間電事連転開始 二年 八年 七 六 五 四 年 年 年 年 大正 ︵大正元年︶ 〝 〃 〝 〝 〝 〝 四 四 四 三 二 一(⊃ 九 午 年 年 年 〝 〝 〟 〝 明治期の横浜市役所 第一次世界大戦 関東大要災 世界大恐慌 横浜大空襲 山手から石川町周辺左望む 大正 ″ 八年 九年 〝一〇年 〝平民新聞〝荒畑寒村、詩誌〝詩王〟北村初雄ほか ・横浜貯蓄銀行の 第一回メ⊥丁−、第一回国勢調査、日太生糸K・K設立、茂木合 〝嘘の果〟有島生馬、〝田園の憂鬱″佐藤春雄、〝ある女〟有島武郎 戦後恐慌、 名会社破綻、第二次帝蚕会社設立、横浜興信銀行−七十四 ワシントン会議、電車市営となる 業務を引つぎ開業、株相場の大暴落生糸恐慌 〝断髪〟佐々木ふさ ″一一年 生糸またも暴落、帝蚕会社解散 〝夢を喰ふ人〟松永延造 〝一二年 亀戸事件、大杉栄暗殺、虎の門事件、関東大震災︵六二、六〇八戸全廃 九八、000戸全壊・死者二一、三八四名︶ 〝太牧夜話″谷崎潤一郎 震災記念館開く、東京・横須賀、東京・国府津間電化 〟一四年 乗積電鉄−丸子多摩川・神奈川間開通、京浜新国道完成 普通選挙法公布、治安維持法、湘南電気鉄道K・K設立、野毛山公園開園 〃一三年 〝一五年 ″多情仏心〟里見辞 ︵昭和元年︶ 金融恐慌、山東出兵、東京・小田原間鉄道電化、東横電鉄全線開通、中区, 磯子区・神奈川区・保土ヶ谷区・鶴見区の五区制施行、第二次帝国蚕糸K・K 設立、ニューグラソド・ホテル開業 第一回普選、三・一五事件、不戦条約調印、磯子・滝頭埋立工事完成、横浜 興信銀行−第二銀行・左右田銀行・元町銀行・▼横浜貿易銀行の業務を引つぐ、 四年 。ソドン軍縮会議、農村恐慌、糸価暴落−明治二九年来の安価となる、国勢 世界経済恐慌により生糸大暴落、横浜市復興祝賀会開く、神中鉄道全通、.若 尾銀行閉鎖、横浜公園運動場・保土ヶ谷遊園地開く 横浜駅新築、市バス運転開始 五年 三年 二年 〝海に生くる人々″葉山嘉樹、〝密蜂の道〟笹沢美明、〝煉瓦女工〟野沢富 美子 昭和 ル 〃 〝 調査︵市人口六二万︶、横須賀線電車になる、湘南電鉄開通、松屋デパート ︵傍線の部は日本通史から抽出︶ 開港と横浜商人 本町通りの風景 ﹁江戸の日太橋より唐・・竺フソダまで、境 ︵一八五三︶六月三日ペリー提督のひきいる このような事情を背景にして、嘉永六年 欠の要件となった。 り、避難用、薪水食料補給用の寄港地が不可 の海洋をおし渡って、まずロシアの使節ラク なしの水路なり﹂ ︵海国兵談︶ といわれたそ スマンが根室へ来航、鎖国目太の扉をたたい ﹁櫓悼を に来航したのである。 ﹁泰然自若として罷在る船﹂ 四隻の黒船が、日太の開国を促すため浦賀沖 この たのは十八世紀末−寛政四年︵一七九二︶ の 王かn ことであった。 この世紀の半ばすぎごろからイギリスで始 で、浦賀から江戸へかけての沿道は上を下へ 用いず風力に逆らって快走する異船﹂ の出現 ることとなり、ここに近代資太主義世界が成 まった産業革命は、やがて欧米各国に波及す の大騒動となった。浦賀奉行所からは幕府へ 民家は避難のためにごった返し、昨日までの の注進の早馬がひっきりなしに走り、沿岸の 平和だった漁村は戦場のような混乱状腰に陥 にも迫ってきたのである。 独立後間もないアメリカでも十九世紀には いて早急に浦賀から長崎へ回航するように勧 戸清から姿を消した。 ユ】 立し市場拡大を求める潮流が、わが国の岸辺 いってから、隆枕力による生産がめざましい 泰平のねむりをさます正喜撰 にあらず、われはただアメリカ国家の命令を しない。﹁日太の国法はわが関知するところ 告したけれども、ペリーは全然耳をかそうと 遵守するのみ﹂ との態度であった。 狼狙ぶりを、痛烈に皮肉ったものである。 詠んだこの狂歌は、当時の幕府当局の苦悩と 正喜撰という極上茶を蒸汽船にひっかけて たった四はいで夜もねられず じょうさせん った。 りを示し、その製品の売捌きのためにも、ま 発達をとげた。特に紡績業は驚異的な躍進ぶ た競争相手のイギリスなどとの対抗上からも、 しん 清国を中心とする東洋市場の開拓が急務とな それとともにメキシコとの戦争 ︵一八四六 ったのである。 る回答を二応明春まで延期することを認め、 たび重なる交渉の末、ベリーは国書に対す は六月九日、急設した久里浜の応接所でアメ 但しその時にはさらに強力な艦隊をひきつれ の結果、幕府 リカ大統領フィルモアからの親書を受理せぎ な都市の成長、人口集中の現象が起ってきた。 るを得なくなった。日米両国の友好・通商・ ベリーの強引な﹁砲艦外交﹂ っては無人の荒野であった西部地方に、急激 というのがその内容である。幕府は国禁を説 石炭食料の供給および漂流民の保護を求める ∼一八一四七︶ で獲得したカリフォルニアに、 そこでこの地域とアジア東海岸との交易のた て来日すると予告し、六月十二日ようやく江 めに、太平洋航路開設の必要が生じたのであ 金鉱が発見され ︵一八四八−嘉永元年︶、か 和親条約の碑 ● ヽ 日米和親条約 れ、数回にわたる会談の結果三月三R〓日米和 親条約︵神奈川条約︶十二か条が調印された。 の開港、 来航船舶への物資補給、漂流民、渡来船員の その主な内容は下田、箱館︵函館︶ 鎖国日太に驚天動地の衝撃を与えた黒船来 ○ 航の翌嘉永七年︵一八五四−十一月に安政と ハ リ ○ ス 来 日 神奈川条約の約定にもとずき、7′リカの 駐日総領事ハリスが安政一二年︵一八五六︶七 月二一日伊豆の下田に着任した。ハリスの第 通商条約を締結することであった。この交渉 優遇、外交官の下田駐留、最恵国約款の承認 等であった。 りが行われた。アメリカ側からは電信楔、模 は難航に難航を重ね、二年近くの時日を費し 改元︶一月十六日、ペリーは日太の確答をう 型の汽車、時計、望遠鏡、小銃などが将軍や て、ようやく安政五年六月十九日神奈川沖に 一の使命は和親条約からさらに一歩前進して、 全権委員に贈られた。なかでも電線をひいて 停泊中のポーハタン号の艦上で、日米修好通 この交渉の途上で日米双方の贈物のやりと 一・六キロメートル離れた地点からの通信実 けとるため再び渡来し、今度はいきなり江戸 時の奥深くに進入、金沢の小柴沖に停泊した。 ひきいる軍艦は旗艦サスクエハナ以下七隻で ある。幕府は艦隊を浦賀に移動するように要 請したがにべもなく拒絶された。 商条約と貿易章程とが調印された。 その内容は箱舘、神奈川、長崎、新潟、兵 とすることや自由貿易についてのとりきめ、 庫を開港場とし、江戸、大坂の両部を開市場 机、花瓶、綱などを大統領やベリーへの答礼 領事裁判権等に関するものであった。この条 人も呼びよせ、その怪力ぶりを披露したり、 相撲の実演を行ったりしたが力士の力自慢と 汽車の運転は、まことに好個の対照であった。 という巨費を投入し突貫土事で波止場、奉行 ち約半数の三四名は江戸商人が占めていた。 に、横浜へ移住した商人ほ七一名で、そのう は金と銀との比価が一対十五であったが、日 相違であった。ヨ一口ヅパ中心の国際市場で 貿易が開始されてまず問題になったのは、 されている。 洋勧工場に異ならざりき﹂︵僕 等を何くれと無く陳列して以て日太人の需を .bとめ も都合がよい、横浜に変更する方針をとり、 島に類似して外国人と日太人とを隔離するに 開港場を港湾の水深も適度であり、長崎の出 かも知れない不安があった。そこで幕府は、 もはげしく、いつ何時不測の事態が発生する また東海道の宿駅であるため、人馬の往来 宅を設けたりするには不適当であると判断さ れた。 の居留地をつくったり、日太商人の店舗や住 地と海岸にはさまれた狭陰な地形で、外国人 は、外国奉行が綿密な調査を行った結果、台 約で安政六年六月二日開港と決定した神奈川 品として贈呈した。また江戸から力士を数十 次に応援の場所について幕府側は浦賀、鎌 験や、レールの上を走る模型の汽車の運転は、 倉を候補地にあげたが、ペリーはあくまで江 並居る幕史たちを撹日させた。 らも 戸に近い地点を主張してゆずらない。時のあ 日太側からは、金泥のすずり箱、漆塗りの かない交渉に業をにやしたペリーは、ついに 全艦隊に出動命令を下し、江戸を指呼の間に のぞむ羽田沖に投錨した。 この桐喝戦術によって幕府も譲歩せぎるを 得なくなり、 一月二八日、応接地として当時 選定し、ベリーもこれを承認した。 旗太荒川三郎兵衛の知行所であった横浜村を ﹁民戸八十七、東西十丁、又、十七八丁の 処もあり、南北も大抵十八丁程なり、水田少 く陸田多し、歪も天水にて研椿す﹂と新編武 蔵風土記稿に記された、武蔵国久良岐郡の一 寒村横浜村は一躍日米外交交渉の場とLて、 世人の注目を浴かることとなったのである。 横浜応接所での交渉は二月十日から始めら ハリスとの交渉では横浜村も神奈川の一部で あると主張したのである。そしてハリスの同 意が得られなかったにもかかわらず、既成事 所、運上所、道路、橋梁等の建設、外国人居 これは地理的に近いという理由のほかに、幕 実をつくりあげるために、幕府は九万六千両 留地と臼太側商人町の土地造成を行い、よう 府が江戸の問屋を通じて、横浜貿易をその掌 は、その著﹁懐往事談﹂ のなかで二 いうありさまであった。 幕府は万延元年︵一八六〇︶ を行い、金貨の品位を下げたため一応この問 二月貨幣改鋳 高島嘉右衝門のように投獄される老も出ると となり、小判を直接外国人に売却したため、 こで金貨が有利な輸出品として登場すること 金銀交換の方が三倍もの利潤が得られた。そ 太では一対五であり、商品売買の利益よりも ヨーロッパと日太との間における貨幣価値の やく開港期日に間に合わせて完了、こうして れている。 握下におこうとする意図があったためといわ この開港期の横浜商人について、当時神奈 ︵桜痴︶ 川奉行所の通弁をつとめていた福地源一郎 で越後星の屋号をもつ三井家に上って代表さ 種の類型をあげている。山は幕府の御用商人 海外に洗出した金貨は、約三十万両に達した 題は解決したが、それまでの期間に横浜から であり、他の一 れるような、﹁門閥の豪商﹂ いわゆる る ﹁冒 づら の三人がその先陣として名を列ねている。 甲州屋忠右衛門、中居星垂兵衛、芝匡清五郎 は誰かについては、いろいろな説があるが、 外国商人への生糸売込みを最初に行ったの の構成が定着していったのである。 これに次ぐ茶■油。銅などとともに輸出貿易 て輸出品の首位は生糸が占めるようになって、 が生まれたが、主流は売込み繭であり、やが 売込み商と輸入品を専門に取扱う引取り商と こうした過程のなかで、輸出を専門とする と推定されている。 はあわよくばの野心に燃え一獲千金をねらっ 険射利の輩にて尋常の商人には非ぎ﹂ た着たちで、﹁彼は当時の所謂山師にて、冒 であったという。 横浜商人の中心はこの未知の外国貿易とい 険投機商﹂ た。開港早々の商況は、﹁我も彼も相互に目 う事業に賭けを挑んだ、投機商人たらであっ 的なく、左ながら盲捜しの景色にてありき⋮ ⋮漆器・陶器・銅器・小間物・反物等の店を 思ひ思ひに陳列したるは、今より顕れば恰も 勧工場の景色なりき。而して外国商館とても 是に同じく、毛織物・毛綿雑織物又は小間物 13 タウンゼント・ハリス 開港場横浜が誕生することとなった。 力士・大関鏡岩 そのころ−一八五〇年︵嘉、些二年︶ ころか ら、ヨーロッパで鱒養蚕地の地中海沿岸地方 に、微粒子病という蚕病が流行しはじめフラ ん﹂ の状態に陥っていた。日東からの生糸輸 ンスやイクリーの絹織物業者は、﹁生糸きき たぼかりでなく、こうした海外市場の需要の 出は品質が中国産などのものよりすぐれてい のである。明治十年ころから生糸はさらにア 波に乗って、いわば引っばり凧の形となった メリカ市場へも進出するようになり、生糸売 込み商を中心とする横浜商人の活躍は、ます しかし横浜商人のすペてが、順風満帆の道 ます目ざましさを加えていった。 繋して商品価格の調整、操作を行ったため、 を歩んだわけではない。外国商人が太国と連 い状勢の変化の渦中に巻きこまれたりして、 その変動への判断を誤まったり、思いがけな 明治初年までに多数の ﹁冒険投東商﹂が淘 没落の運命をたどった者も少なくなかった。 汰され、制覇をとげた少数の売込み商たちが、 その後の横浜における政・財界史をはなばな 群雄蜂起の観のあった初期の横浜商人と、 しく彩ることになるのである。 さらにそれを継承して奮闘した人々のなかか を紹介しェう。 ら、出生年代順に何名かを列挙してその略歴 横浜 0 甲州屋忠右衛門 文化六年︵一入〇九︶∼明治二四年︵一入九一︶ た。彼はこの磯を逸せず早速繰 上州吾妻郡中居村出身。数多い横浜進出の 締売買にも着手して、生糸の場合よりも多大 の価格差利益を獲得し、開店当初三十両の資 思う存分発揮し、短期間ではあったけれども 商人のなかにあって、特にその奇才と商魂を と異名されたのが、生糸売込 天保十年︵一八三九︶江戸に出て書店の手 み商の先駆者中居展墓兵衛である。 ﹁浜の門跡様﹂ 金さえ思うに任せなかった状態から、三万両 上ったのである。 の取引ができるほどの堂々たる大商人にのし このころが甲州屋の黄金時代で、売込み商 甲州八代郡東油川村の出身。甲州屋という のほかに両替商、質商、旅館業にまで手を広 才のころ日太橋に独立開店、火薬の研究と製 商号をかかげて登場した篠原忠右衛門は、結 造販売を行った。当時の静々たる学者文人と 局は不成功に終って消え去った横浜商人のひ しかし明治三年︵一八七〇︶、輸出先のフ も交友関係があり、水戸学を身につけ、三四 代をつとめながら内外の善籍を読破し、三十 った経済恐慌に見舞われ、甲州屋がストック ランスが普仏戦争に大敗しその結果として起 才の時には﹁子供教草﹂、三六才の時には げるようになった。 主職をつとめた豪農であった。安政六年五十 していた露程は二束三文の廉価となったため、 とりである。 才の時横浜町二丁目へ出店したが、土地の入 致命的な痛手を蒙った。 勧奨された一人であった。彼はわざわざ下田 横浜開港を目前にして彼も幕府から出店を という著書を公刊している。 手がおそくしかも遠路であるにもかかわらず、 その後忠右衛門は砂糖販売、洋服店開業な まで出かけて貿易に関する調査を行ったり、 ﹁砲薬新書﹂ 敏速に店舗を完成したかどにより、幕府から ど、種々の挽回策を試みたが奏効せず、つい 火薬販売でつながりのできた各藩の特産物専 賞賛をうけた横浜商人のさきがけである。 しかし郷里では豪農にかぞえられても、横 に横浜商人の列中から落伍して、失意のうち 似る﹂ とよばれた豪華な ﹁雲間に隠見する岐竜に といわれたように、彼の末路はまこと えたという。しかし たものであり、また奉公人も六十余名をかぞ にして金魚を泳がせるなど、世人を仰天させ 建物で、屋根は飼瓦葺き、天井はガラス張り ﹁浜の御殿﹂−﹁鋼御殿﹂ 横浜の太町四丁目に建てられた彼の店は あかがね 売の準備を進めたりした。 浜でひとかどの外国貿易を行うには資力不足 営業は四苦八苦の状態にあった。 に八二年の生涯の幕を閉じたのである。 彼の実家は高三十四石余を保有し、代々名 本町通りの賑わい で、文久元年 ︵一八六こ末までの甲州星の 文久二年になって甲州星の命運はようやく 開けた。ちェうど生糸貿易の躍進の時期に当 っで、これに着眼したのがきっかけとなった のである。彼は郷里の富農層と結托して資金 の融通をうけ生糸の産地買付けを行い、売込 却価格との差額によって巨利を博した。 み問屋として進出し、産地価格と横浜での売 甲州屋忠石衛門 にはかなかった。 彼は主として出身地の上州の生糸を取扱っ て莫大な利潤をあげたが、釆浜二年目Hに輸出 禁止品の銅を外国人に売ったとか、生糸輸出 量に関する幕府の制限を無視したとかいう理 原 ○ 善三郎 文政十年︵一入二七︶∼明治三二年︵一入九九︶ 武州児玉郡渡瀬村出身。原酎は渡漸の四大 ほかに製材、製糸業をも営み、善三郎は長男 旧家にかぞえられた名主格の家柄で、農業の しかしこれは表面上の話で、実際は尊王倒 として早くから家業のコツを会得し、特に武 由で捕えられ、財産を没収された。 に援助したり、桜田門外の変などにも関係し 幕論にくみしていた彼が、水戸浪士を財政的 生糸の出荷をはじめたが、単なる荷主の地位 は横浜東町の野沢庄三郎と吉村幸兵衛の店へ 開港後間もない文久元年︵一八六一︶、彼 州上州一円の糸市で敏腕をふるっていた。 ていたからであるといわれている。 従来の資料によると逮捕された重兵衛は、 元治元年︵一八六四︶八月二日に獄死したと そかに横浜を脱出し、一旦下総にひそみ、さ 時に彼が携帯した軍資金は二千両であったと て、横浜の太町三丁目に店舗を構えた。その には満足できず翌文久二年万全の準備を整え らに江戸に移って隠れ家に潜伏中、文久元年 この点、彼は開港とともに横浜へ蠣集してき 記されたものが多い。しかし一説によればひ 八月二日厄年の四二才で﹁流行の麻疹に躍っ ふもく て急死﹂ ﹁身体中に噴出物があったので毒殺 た。いわゆる徒手空拳の一旗組とは明きらか 開港直後の万延元年︵一入六〇︶ に、横浜 いう。これは当時としては実大な金額である。 ぁる﹂という。︵佐〝木杜太郎﹁朋堀新中店 説もあるが、いずれともわからない謎の死で に毛並が異なっていた。 屋重兵衛﹂︶ で開業していた外国商館は、イギリスの四六 店をはじめとしてアメリカの九店、次いでド イツ、オランダ、スイスを合せて約八十店に 達していた。これに対して同年の日東側の商 店は約百五十軒に及んでおり、そのうち生糸 亀足善三郎の店−通称﹁亀善﹂は、幕末の 売込み商は九三軒をかぞえている。 ︵一入九四︶ にはこの生糸売込み商 ︵一八二七︶∼明治二七年 慶応元年︵一八六五︶ 文政十年 衛である。善三郎が郷里からはじめて横浜へ 描浜商人の双壁と謳われたのが初代茂木惣兵 上州群馬郡高崎の出身。原善三郎と並んで るなど、横浜の財界に大きな足跡を残した。 生まれ︶ の店は、のちに惣兵衛が赤手空拳、 生糸の出荷を行った野沢庄三郎︵武州児玉都 は自ら陣頭に立って終始外国商人側と応戦す 議員歴としては明治十三年神奈川県会議員 横浜で最初の活躍の幕を切っておとした舞台 二二年横浜市制発足の時には市会議長、二五 年には郷里埼玉県選出の衆議院議員、二八年 茂木合名・茂木銀行の広告 彼の働きで野沢屋の業績はみるみる▲うちに 彼は野沢屋ののれんを正式にゆずりうけ、弁 議の結果店は廃業ときめられた。そこで翌年 上昇し、横浜屈指の商店となった段階で、文 その後桐生の網南新井長兵衛の養嗣子とな 久元年︵一八六一︶庄三郎が病死し、親族会 ったが、間もなく義家と衝突し茂木姓に復す 天通り二丁目Hに店舗を構え、その商才を縦横 に抜擢され名前を惣兵衛と改めた。 彼には一女やゑがあったが、男子に恵まれ 無尽に発揮しはじめたのである。 反物商今井仙七万に奉公し、二六才で支配人 八三七︶十二才の時呑竜さまで名高い太田の に生まれ幼名を惣次郎といい、天保八年︵一 惣兵衛は喜三郎と同じ文政十年、質商の家 でもあった。 列せられ、勲四等瑞宝章を授与された。 には神奈川県多額納税者として貴族院議員に ﹁横浜は薫きも悪しきも亀善の はら一つにて事きまるなり﹂ これは彼の飛ぶ鳥を落すほどの勢威を寓し なかったため、郷里の叔父原安兵衛の長男元 一筋に専念して信州上田方面の豪商からもそ るとともに、独立して高崎に出た。以来商道 たそのころの僅謡である。 三郎を婿養子に迎えたが、元三郎もやゑもと 経ないうらに彼はめきめきと頭角をあらわし、 生糸売込み商として独立開業以来、数年を もに早世し、二人の間に生まれた屋寿だけが の信望をになうようになった。 の手腕を買われ、生糸販売を委託されるほど り、いわゆる茂木王国三代の基礎を築き、野 原孝三郎と肩を並べる横浜商人の大立物とな して原家の次代をになったのが、三渓−原富 そのころ前記の野沢庄三郎が、横浜の弁天 彼の唯一の相続人となった。この星寿の夫と 通りで野沢星という雑貨商を営んでいた。と 珍樹奇石の数奇を凝らした庭園で知られた。 毛山の宏壮な邸宅はその隣接の原家とともに 太郎である。横浜の草創期における生糸貿易 界の巨星、原書三郎は明治一二二年二月六日七 に転向したものの不馴れのため思うに任せず、 ころが雑貨では利益が少ないので、生糸貿易 第二国立銀行副頭取、第七四銀行頭取等とし 明治にはいってからは横浜為替会社および 三才で永眠した。 そこで知人に相談し、信頼できる支配人をと いうことで推挙されたのが惣兵衛である。 ¶16 17 亀善の店舗 て活躍し、また公共事業にも貢献した。 熱海梅林の名勝を残したのもその一つにあげ られる。彼は明治二七年八月六六才で病死し ︵初代惣兵衛が晩年用いた名︶を襲名したが、 た。彼の二人の女瘡はそれぞれ惣兵衛、保平 若尾 幾造 ○ 文政十二年︵一入二九︶∼明治二九年︵一八九六︶ に店舗を開き、折から生糸相場 幾造は明治九年、独立して太町二丁目︵現 在の四丁目︶ の変動がはげしく倒産した業者の多かったな かで、巧みにその荒波をのりこえ着々と地盤 は、原書三郎、茂木惣兵衛・平沼専歳らに次 さらに愛知二群馬に製糸工場をつくるなど、 出店を創立して羽二重の直輸出をはじめた。 で買い集め、麻袋につめて天秤棒でかつぎ、 に着眼、甲府の水晶細工人から層水晶を安値 で高価に取引きされているのを目撃してこれ 横浜でたまたま、屏水晶が外国商人との間 が実現した。 品取引所の創立委員に加わり、翌年その開設 の副組長に就任、二六年には横浜蚕糸ほか四 しなかった。二三年には横浜蚕糸貿易商組合 明治十四年に設立された聯合生糸荷預所で 右衛門の三男として生まれた幾造は、三十才 ぐ有力株主となり、二二年には横浜市の第一 を築きあげたのである。 二代惣兵衛は病弱のため引退、保平が家業を の時異母兄の逸平から生糸の売込みを一任さ 甲州中巨摩郡在家塚村出身、同村の名主林 継承した。 れて釆浜したのがきっかけとなり、横浜商人 回市会議員に当選したが、第二回以後は出馬 義の波に乗って、野沢屋を合名会社茂木商店 茂木の二代保平は日露戦争後の日太資太主 としての道を歩むこととなった。 多彩な活躍を続けたが大正元年七月、二代惣 兄弟そろって数回横浜甲府間を往復、その後 と改め、また茂木銀行を設立したり野沢屋輸 兵衛の病没に次いで同年十月、二代保平も脳 発進は明治二九年六七才で病没、逸平は大 大敵を金科玉条にしていたという。 若尾商法は第一勉強、第二信用、第三油断 溢血のため急逝し、保平の長男良太郎が三代 晶大尽″と呼ばれるまでに成功した。 も水晶玉を売りこんだりして巨利を待、〝水 正十二年九三才で大往生を遂げた。 −一九二七︶ は初代幾造の長男、幼名林之助 通りの石川尾、次いで太町三丁目の芝屋清五 のち林平と称したが、明治二九年家督を継ぎ 二代幾造︵安政四年−一八五七∼昭和二年 郎方を定宿として、生糸の売込みと摘花およ 幾造を襲名した。 に並べたて、さしずめ貿易博覧会のようなあ く見当がつかず、雑多な商品をやたらに店頭 当初日太人も外国人も何が売れるのかかいも これらの製糸工場の製品は内外の博覧会で受 つくり、生糸の生産部門への進出をはかった。 明治村︵今の藤沢市辻堂︶ を設置、また鵜沼村︵今の藤沢市鵠沼︶ 神奈川県の藤沢と埼玉県の太庄に生繭乾燥所 父に引続き生糸売込み業を営むとともに、 りさまを呈していた時に、いち早く生糸に目 に機械製兼工場を と、 をつけていた生糸売込み商の先陣の一人であ 賞するほどの優秀なものであった。 間の鉄道敷設事業について ここへ投宿した大隈重信・ 渡航者の利用に役立てた。 った。 芝屋清五郎は横浜の芝生村の住人で、開港 び砂糖の引取り商をも営んだ。 専ら生糸の産地買付けに奔走し、幾造は弁天 資太が蓄積されると逸平は故郷に留まって 惣兵衛として家督を相続した。 彼は、実業界では横浜取引所理事 となったほか、 ・横浜電灯・横浜電線・日東鉄道・横浜鉄道 四三隼∼大正二年 、しかしこれは結局政府の手で行 町歩にわたる鉄道および国道敷地の埋立てを うこととなり、その代り横浜・神奈川間十三 彼が請負い、翌四年に完成した。現在の高島 など二十以上の会社の重役をつとめ、また若 い、また父とともに南部藩の依桁で陸前宮古 の家に生まれた彼は少年時代から家業を手伝 数七百人をかぞえる西洋式大私学校をつくり 人教師や福沢諭吉門下の俊才を紹曝し、生徒 明治三年秋伊勢山下竺向島学校を開設、外 町がそれである。 ない独自のコースを歩んでいる。 わりをもったのに対して、彼はそれとは緑の 初期の横浜商人の多くが生糸貿易とのかか 付近の鉄鉱山採掘に従事したりした。 尾銀行を設立してその頭取に就任、多彩な足 政界においては明治四十年横浜市参事会員 跡を印している。 の後貴族院多額納税議員に任ぜられた。 に選ばれ、四五年には衆議院議員に当選、そ 昭和二年逝去、享年七一才 また同五年には日太人の手による市内のガス 明治九年から神奈川台上の大綱山荘に隠滅 灯点火を実現した。 して悠々自適、もっぱら易理の研鎮に親しみ 開港とともに来浜、肥前星小助と名のって に開業した。しかし父の時代からの縁故で南 佐賀蓮の陶器、自蝋等の販売店を東町四丁目 部藩の財政援助をしたり、諸大名との取引の しかし二四年に至って再び実業界に復帰、愛 十五年以降は﹁易断﹂ 根岸加曽台に残存する旧若尾邸は、今風雨 不首尾が重なったりして、彼は外国人相手に 研究を行い、これが後年の高島易断に発展す 間投獄の憂き目をみた。この人卒中に易理の 一五〇〇万坪の高島農場を開拓、数千人の移 鉄道社長に就任、同時に石狩・十勝両平野に 知セメント会社を興し、翌年には北海道炭坑 三才の高令で黄泉の客となった。彼の功業を 明治の風雲児高島嘉右衛門は、大正三年八 ての開発事業に大きく貢献している。 民を入植させるなど、東北から北海道へかけ ることとなったのである。 の著述に力を注いだ。 御禁制の小判の売却に手を出し、足かけ七年 にさらされたまま苔むしており、見るものを して僅花一朝の夢の感を抱かせる。 墓地 の墓 森沢 尾 相 憲 慶応元年︵一八六五︶秋に出欲して高島嘉 公使館の建築で信用を博し、また同年の豚足 建築請負業および材木商をはじめ、イギリス 碑が高島山公園にある。 謡えて明治一〇年末に建立された、望欣台の 右衛門と改名、翌年坑浜で腕におぼえのある には灯明台事務所および官舎の建築をも担当 火事で彼の事業は大繁盛をきわめ、明治元年 した。さらに現在の尾上町に宏壮な高島屋旅 館を建て、京浜間を往来する政府要人や海外 19 熱海梅林茂木惣兵衛の碑 望欣台の碑 ○ 田中 平八 天保五年︵一八三四︶∼明治十七年︵一八八四︶ 信州上伊部郡西春近村出身、農家の生まれ で幼名を藤島釜吉といい、生来目から鼻にぬ 頭取となり、十二年には大蔵省為替方に任ぜ られた。 裸一貫から巨富を措んだ彼は、十五年掃部 山下の花咲町に豪着きわまる大邸宅を建て、 かり投機事業からは手を引くに至った。 世人を驚嘆させたが、この前後から肺患にか 平沼 専蔵 ○ 天保六年︵一入三﹂ハ︶∼大正二年二九一三︶ 武州入間郡飯能町出身。安政六年の開港直 取り商を営み、明治十一年以後は生糸売込み とめた。ほどなく独立して唐糸・洋織物の引 後に釆浜、海産物売込み問屋明石鼻商店につ 商の先達芝屋清五郎の業務をもうけつぎ、営 十六年熱海温泉で療養中、同地に私財を投 十八才の時、母親の叔父田中安兵衛の婿養 の顕彰碑を建立した。ここでたまたま出会っ じて水道を敷設し、また南朝の忠臣藤原藤房 たる地歩を占めるようになった。 業は着々と軌道に乗り、横浜の実業界に確固 ける怜倒さの持主であったという。 して失敗したり、購博場でけんか騒ぎを起し 子となり田中平八と改名した。米相場に熱中 これは彼の熱血漢ぶりが岩倉の気に入ったか らであるという。 た岩倉具視の知遇をうけることとなったが、 波瀾続きの生活を送り、元治元年︵一八六四︶ 設立︶ の頭取、横浜中央銀行・横浜貯蓄銀行 明治二三年以降平沼貯著銀行︵明治十三年 たり、勤王派浪士とかかわりあったりという 同年十月日太橋坂太町に田中銀行を設立、 十二月には横浜弁天通にその支店を設けた。 この銀行の業績は順調に進展し、大正五年 明治三〇年の初め、かって恩義をうけた伊 事会員に就任、次いで横浜市ガス局委員長を り、三三年には横浜市会議員に選出され市参 二七年私財八万円を投じて新吉田川を開要 張中、急病のため稚内の宿舎で不帰の人とな 大牧場を経営するという夢を抱いて現地に出 20 横浜での旗上げをもくろんだがこの時は失敗、 慶応二年︵一八六六︶再び来浜、生糸の売込 識見は業界から高く評価された。 の重役等として敏腕をふるい、その経営能力 彼は従来の経験に立脚して新しい銀行経営 彼は蓄財に巧みであったが同時に散財も惜 の構想を練り、明治四三年表町二丁目︵のち みと洋銀の投機的取引が囲に当り、南仲通二 丁目に開店して糸屋と称した。 ことんまで面倒をみた。富貴楼お倉も彼の後 しまなかった。これぞと見込んだ人物にはと 伊勢佐木町に移転︶ 彼もまた茂木惣兵衛・若尾幾造らと同じく、 であっ布♪ 発起人は専歳のほか六名、資太金は三十万円 に平沼銀行を創立した。 そのころメキシコで大銀鉱が次々に発見さ れ、銀の相場がはげしく浮動し、平八のよう ﹁天下の糸平﹂田中 平八は明治十七年六月 援をうけた一人である。 たのである。彼は間もなく横浜の富商の列に 五一才で病没した。葬 な勝負師にとっては絶好の機会が到来してい ちノになった。 入り、自他ともに﹁天下の糸平﹂と号するよ た市民の会葬者数千人 府高官も馳せつけ、ま 金運用の機関銀行を必要としたのである。 の頭取となり、翌年横浜為替会社が創立され ったが、第一次大戦後の恐慌の痛打は避けら には資太金山00万円に増資されるまでに至 生糸売込み商として大成するために、その資 るとその貸付方を命ぜられた。六年東京日太 が、花咲町から神奈川 博文、松力正義らの政 儀には岩倉具視、伊藤 橋の中外商業会社肝煎に就任、九年同じく日 幸もいり 太橋に田中組を設立、十年横浜第一大区区会 の良泉寺までの沿道に 五︶ の大番頭となり、 西南戦争の際には羅紗の大量買占めを行ない れず、横浜興信銀行に合併された。 堵列したという。 明治元年、彼は洋銀相場会所を発起してそ 神奈川通りの良泉寺 議員、十一年兜町に東京米商会所を創設して 困家庭の子女を就学させるために二万五〇〇 目に私立平沼小学校を創設し公共事業にも貢 ウオルシュ・ホール商会︶ み商号を田辺屋と称した。明治九年亜米一︵ に釆浜、生糸・蚕卵紙等の売込み業を営 献している。この学校は建坪一七〇坪、西洋 〇円の私財を投じて、明治三一年吉岡町四丁 式の平家建で生徒定点は四〇〇人、学費無料、 同社のために莫大な利益をあげた。 十一年初代茂木惣兵衛らとともに第七四国 年間経費四〇〇〇余円は一切彼の私費によっ 政治家としては県会議員・市会議員・貴族 てまかなわれた。 行しているとの情報を得て、同国への蚕卵紙 伏島近蔵 売込みを計画し、八十余万枚を携えて自ら渡 立銀行を設立、その頭取に就任し亜米一を退 昭和二六年から二期にわたって横浜市長に の架橋十一のうち、六橋は彼の出費によるも 職した。十四年イタリアで蚕の微粒子病が流 就任した平沼亮三は、同姓の平沼専蔵と同一 航したが現地での取引価格が折合わぬうちに、 のであり、横浜市内の交通運輸面に大きく寄 市水道局長をつとめた。 家系に見られることを、ひどく迷惑がったと 蚕児が発生し全蚕卵紅を海に投棄するという 院議員等を歴任し、また明治四囲年には杭浜 いう話があるが、両家に全く縁戚関係はない。 抜目に陥った。 これを完済したのである。帰国後横浜の水道 その後市政にも参画して地主派の巨頭とな 与している。 敷設に先立って、貯水池候補にあげられてい 三四年板垣退助らとともに出願した、北海 もつとめた。 し、三一年にはこれを大岡川に貫流させ、さ った。 道宗谷郡の官林開墾事業が許可され、ここに らに新富士見‖をも開通した。これらの河川 金があったという。 渡費を債務に当てたが、なおかつ莫大な余剰 た野毛山の用地を買収して巨利を得、この譲 せおうこととなったが、彼はもののみごとに そのために五十数万円という巨額の債務を 彼は平沼銀行の末路を知らずに大正二年に長 逝した。 平沼専蔵邸御←野毛山 早矢仕有的 ○ 天保入牢︵一八三七︶く明治三四年︵一九〇こ 岐阜県武儀郡笹賀村出身。医学と蘭学に志 を抱き大垣・名古屋で修業を着み、十八才の 暗から五年間郷里で医業に従事した。安政六 年︵一八五九︶江戸に出て日太橋で開業し、 次いで慶応義熟に学び福沢門下の四天王の一 人にかぞえられたという。 開港後の横浜の発展に注目して明治元年に 業して ﹁丸尾﹂ と称した。これが現在の 善﹂の濫鮨である。このころ死亡請合規則 ︵今の生命保険︶を立案して店別に加えたり、 また細流会社着金社中︵今の貯蓄銀行︶を組 を開業した。 織し、明治六年には弁天通りに唐物店︵今の 洋品店︶ その他丸善為替店・留易会社・石鹸製造所 ・荷物配達所など、きわめて多方面にわたっ ﹁丸 大谷嘉兵衛 ○ 弘化元年︵一入四四︶∼昭和八年︵一九三三︶ 伊勢国飯高郡谷野村出身。同地方は伊勢で も名高い太場の茶どころで、彼の生家にも茶 園があり、彼は茶の棄を指先でひとつまみし 小倉藤兵衛力に奉公、慶応元年︵一八六五︶ 文久二年︵一八六二︶横浜の製糸売込み南 ただけでその良否を鑑別できたという。 には横浜正金銀行が設立されたが、彼はその 同家の養子となったが、二年後義家を出て、 て独創的な事業を展開している。明治十二年 主動力的存在であった。また日太最初の生命 保険会社である明治生命を、東京の木場町に ベーカー商会は他の同業者をはるかに凌駕し に雇われた。茶の神様のような彼の活躍で、 居留地のスミス・ベーカー商会の製茶仕入係 明治三四年二月、この実業界の変り種、気 創設したのも彼である。 医者としては明治三年天然痘の大流行の際 骨稜々の人物の死は各新聞の鉄面を一斉に飾 来浜、医者・政治家・実業家として多彩な活 動を展開した。 英人医師ニュートンの指導の下に初めて乳児 った。 立って、彼は横浜の実業界・政界 教育界に 以上のような貿易商としての成長の地盤に 産乾物貿易、二三年には生糸貿易をも開始し ている。 易の発展に尽力した。また明治二二年には海 就任するなど、生涯を通じて製茶の改良と貿 出を目ぎす日太製茶会社の開設とその社長に 進会審査委員、茶業組合中央会の創設、直輸 それからの彼は茶商協同組合の設立、製糸共 万ポンドに達するという盛況ぶりであった。 商を始めたが、明治三年には売込み高一〇〇 その後彼は独立して、元浜町で製茶売込み て美大な利益をあげ、主人のスミスを狂喜さ せた。 に対する種痘を実施し、また政府の命をうけ て横浜吉原町に梅毒病院を設立、その院長と なり、さらに共立病院にも関係して手腕を発 揮した。 政治面では明治十一年のガス局事件に当っ て、附与金取戻し訴訟の総代となり、高島嘉 右衛門を屈服させて示談にもちこむという成 果をおさめたが、この訴訟費用は一切彼の自 弁であったという。明治十二年には第﹂回県 会議員選挙に当選、後に県会副議長の要職を 勤めた。 実業面では明治二年、新浜町で書店を開業 し、のち相生町に移り薬品医療器臭店をも兼 六︶∼大正八年︵山九一九︶ 越中国富山城下の出身。幼名加島岩次郎。 総身がぶるっ な 江戸在住の伯父安部長兵衛の養子となり、安 でぎゆっと振られた 切りに、横浜貯蓄銀行頭取、横浜貿易商総代 とした。痛かったが嬉しかった。三十余年を − 横浜貿易商組合魔理、横浜商業会議所会頭等 経た今日でも当時の光景がありありと目に見 に江戸日水橋の榎並足に 共事業に寄付、これを設立基金として、無試 大正八年、臨終に際して一〇〇余万円を公 ぶりを示した。 太国内の主要都市に支店を設けるという発展 の株式会社に改組し、イソド・中国その他日 大正七年にはその商店を資太金五〇〇万円 業界の重鎮となった。 太鋼管・第二国立銀行等の重役をつとめ、実 社長に就任、その他横浜製糖・満州製粉・日 清紡績株式会社・横浜製油肥料製造株式会社 〇万円の日太製糖株式会社を設立、さらに日 三年市会議員に当選、三七年には資太金一五 ・製粉事業や外米・肥料の輸入商を営み、二 仲通りに増田屋安部幸兵衛商店を開業、製糖 明治十七年募兵衛と含意の上で独立し、南 外米などの海外取引を開始した。 衛と共同してその営業を継承し、砂糖・麦粉 あうこととなったが、彼は支配人の増田寡兵 撰夷派の迫害のために同店は閉鎖の憂き目に とめることとなった。文久三年︵一入六三︶ 仕え、開港とともに新設された横浜支店につ 政六年︵一八五九︶ を歴任、その他倉庫業・保険業・船舶業等閑 文字どおり日太茶業界の最高指導者であった。 昭和八年八九才の高令で没するまで、彼ば と晩年の彼は語っている。 える﹂ 政界においては明治五年横浜区会議員にあ 係会社は多数にのぼっている。 会議員に当選、前後九年間にわたって市会議 げられて以来、二二年の市制施行第一回の市 長の職をつとめ、二三 年には神奈川県会議員 にも選ばれ、さらに由 十年には貴族院議員に 教育界では、十五年 任ぜられた。 に発足した横浜商法学 校︵現横浜商業甘同等学 となり、二六年以後は 校し創立発起人の一人 て、精力的な活動を続 横浜市教育会会長とし けた。 なお彼は三二年秋、 アメリカで開催された 万国商業大会に出席、 太平洋海底電線の敷設 とアメリカの製茶輸入 明治期の輸出用茶箱レッテル 22 23 明治期の丸善書辟 かかげ、自由啓発の明るい教育を展開した、 験、無採点、無賞罰の三無主義という方針を 県立商工実習学校が大正九年に誕生をみたの ど、社会事業に大きく貢献している。 浅野総〓即 ○ て石炭の残骸よりも高価に﹁売る﹂ ことがで 明治十年の西南戦争当時、渋沢の紹介で長 きたのである。 崎から石炭の大量移入を行って巨利を博し、 十一年にはガス局で廃棄するコールタールの 嘉永元年︵一入四八︶∼昭和五年︵一九三〇︶ 越中国氷見郡薮田村の出身。生家は医者で した、コレラ予防用の石炭酸原料として、衛 販売を引うけ、これを十四年に京浜間で流行 生局へ売込みこれまた美大な利益を得た。 ろいろな商売を試みたが悉く失敗、﹁紘一邸 とあだ名された。 あったが六才の時父に死別。成長後郷里でい でなく損一郎だ﹂ 工部省深川セメント工場の払下げをうけ、こ 十七年にはそのころ操業休止状態にあった、 逃げのような形で上京、氷水屋などをやった 明治五年二三才の時、債鬼の目をかすめ夜 後、横浜の味噌琶油商小倉島に奉公し、ここ 住居をこの工場に移して活躍を始めた。これ る匿名組合として経営することとなり、彼は が浅野セメントの出発であり、セメントが浅 れを浅野三万円、渋沢一万五千円の出資によ 独立して竹皮商を始めたが六年には薪炭・石 で包装用に使う竹皮の需要が多いのに着眼、 このころの彼は故郷に残した債務の追及をの 炭販売業に転向し、横浜の住吉町で開店した。 資を行い、三一年には絶資太八十万円の合資 を建設、その後安田善次郎の協力によって増 に至って渋沢や大倉喜八郎と共同で門司工場 野財閥の基野手業となったのである。二七年 へ納入することになり、これが彼の成功 がれるため大塚医大熊良三という変名を用い 一︶ ていた。翌年石炭を王子妙子部︵隠理渋沢栄 といわれた彼は、そのほ のきっかけをつくったのである。 ﹁多角経営の鬼﹂ 会社に成長した。 治二十年には渋沢とともに札幌ビール かにもいろいろな事業に手を広げている。明 次いでそのころ横浜ガス局に堆積放置され ていたコークスの払下げを一手に引うけ、こ ビールとなる︶、同年同じく渋沢と協力して 年、日太ビール・大阪ビールと合併、大日太 ︵三九 れの利用法を研究して売りさばいた。石炭の 残骸利用の次に彼が着手したのは、人間の排 九年には浅野回漕部をつくり、t一六年には自 盤城ガラスを設立、また海運界へも進出し十 泄する残骸−糞尿の処理であった。彼は県費 を設け、さらに県庁および役人官舎全部の汲 ら委員長となって日太海運同盟会を組織し日 補助をうけて横浜市内六三か所に﹁公同便所﹂ 取権を得た。糞尿が肥料として使用されてい 太郵船に対抗した。 取となったが、同行は昭和初 年には渡辺銀行を た時代だから、近郊農村や千葉県下へ輸送し 江戸日太橋の出身。渡辺家は古くかち日太 の老舗であった。 橋で海産物商を営み、長者番付にも載るほど 祖父明石星治右南門は盤城国に鉱脈を発見 し、幕府の軍艦用石炭御用達を命ぜられた人 に当って数万両といわれる莫大な資金を投入 である。七代福秀の時、安政六年の横浜開港 ・海産物などを取扱った。これを舷承したの し、元浜町に明石星分店をかまえ石炭・蚕糸 と名のり、はじ 年の金融恐慌の際に閉鎖された。大正十年以 降東京電灯その他多くの会社に関係し、横浜 の財界に大きな足跡を残している。 政界にあっては明治十四年以来、県会にも 長らく議席をもち、二六年から三八年まで横 浜市会議長の要職をつとめた。三七年には多 額納税者として貴族院議員にまた横浜市参事 会員に列せられている。 彼は横浜の政界を二分する地主派・商人派 の中にあって、はじめは商人派に属していた が共有物事件を契俄に地主派に接近、三五年 の市長選挙をめぐって再び商人派と行動を共 にした。また三六年の総選挙の際には、横浜 から立候補した加藤高明・奥田義人を後援し、 24 である。なお横浜駅前に社会館を建造するな 行等枚挙にいとまがない。 なお彼は大正九年子安町の丘上に浅野総合 中学︵現在の浅野学園︶を建てたほか、関東 大震災に当っては救援金一〇〇万円を寄付、 鶴見の浅野共済病院の設立など、公共事業に も大きな貢献を果している。 彼は昭和五年食道癌のため大磯の別邸で、 多彩をきわめたその生涯を終えた。 が福三郎で屋号を﹁石炭鼻﹂ めは外国艦船への石炭売込みを専業とし、の 浅野学園内に吃立する彼の銅像は、自らの 発起によって埋立てた京浜重工業地帯の変遷 の看 ち海産物貿易商に発展して﹁石偏商会﹂ 島田三郎を推す中村房次郎とは対立的な立場 をとった。 機略縦横、剛毅果敢、事に当っては快刀乱 麻を断つと質讃された彼は、昭和九年八十才 の長寿を保って他界した。 なお彼の夫人は明治・大正・昭和にわたっ 献し、横浜にお よ己んかく ける ﹁巾梱界の て社会事業に貢 六年、森太文吉らとはかって岡野町に横浜魚 一大明星﹂ とい 油会社を設立、二七年、岩尾幾造らとともに である。 われた渡辺たま 鉄道開設に尽力、二八年に鱒横浜商業会議所 墳浜鉄道会社を発起し、神奈川・八王子間の 込み商十九名の代表として原告側に立ち、二 に関する訴訟が提起された時には、海産物売 二二年第一回市会議員に当選、共有物事件 にあげられるようになった。 は副社長に就任、横浜経済界の第一級の人物 加わり、同六年横浜生糸改会社の発足の際に 明治二年横浜為替会社設立当初の頭取時に 板をかかげた。 を、今もなお見守っているかのようである。 浅野総一郎銅像除墓式︵大ほ︶ 渡辺福三郎 旧県立商工実習校 ○ 原 富太郎 屋寿とはやがて想思の仲となった。いろいろ な曲折はあったが、明治二四年二人の恋愛は 岐阜県厚見郡佐波村の旧家青木久衛の長男 明治三二年一代の豪商善三郎が病没し、ま 屋寿十八才、媒酌人は中島信行・湘姻夫妻で あった。 実を結んで結婚が成立した。憲太郎二三才、 として生まれた。青木家は清和源氏の流れを だ弱冠三一才の彼が原家の屋台骨を双肩にに ︵明治元年︶ 慶応四年︵一八六八︶∼昭和十四年︵一九三九︶ くむ土岐氏が遠祖であるといわれ、加納藩の なう身となり、翌年さっそく人事と組織の抜 てから東大、一つ橋、外語、慶大、早大、中 大等出身の俊秀を技術面、経営面に続々と採 用した。 彼は善三郎以来の生糸問屋業をさらに拡張 して、それまでは総輸出の八〇繋が外国商館 経由であった生糸の直輸出をもくろみ、輸出 部を創設してり∴コソとニュー・ヨークに代理店 をおき欧米市場の開拓にのり出した。また輸 出商社の第一人者である三井物産でさえまだ 着手していなかった対露輸出へも先鞭をつけ たのである。ちなみに明治四二年、俳優座の 女優東山千栄子は、当時原合名会社モスクワ 郎と結婚している。 支店長であった東京帝大法科卒業の河野通久 先代善三郎は郷里の渡瀬村に小さな製糸工 場を経営しており、彼は無論この事業をもう あるが、彼の人員整理の力法は温情に溢れ、 大嶋、四日市などの大工場を買収、三井に代 けついだが、やがて明治三五年富岡、名古屋 十分な老後の生活保障と名誉とを尊重したも こうして少壮実業家原富太郎は、桂首相の 西戸部に五一三坪の土地、および家屋新築資 動にも献身し始めた。 成長し、祖業の継承とともに公共的分野の活 たとえば大正五年に退職した一番頭に対し 金三千円を与え多年の労をねぎらっている。 ギュラー・メンバーとして出席できるまでに 郎の孫娘の星寿が通学していた。後年徳富蘇 冗員整理の一方では新人登用に力を傾注した。 招請による財界代表月例懇談会に最少年のレ 峰が﹁その風釆はなんとなく西園寺陶庵公を 横浜生糸検査所の検査部長高橋信貞を招聴し て、名誉店員の称号を贈り終身年金五千円と のであったため、きわめて順調に遂行された。 わって日太一の大製糸業者となった。 いかなる時代忙も革新に抵抗はつきもので の精神で事業を逓める。 三、経営を合理化し冗費を省き、積極進取 所に配する。 二、冗員を淘汰、人事を刷新し、適材を適 から合名会社組織に改める。 一、原商店の企業形態を今までの個人企業 に提示した。 太的改革に着手して、三つの基志方針を店員 もとで代々名主格をつとめた家柄である。 父久衛は晩年画筆をよくし、また母方の祖 父高橋杏村は詩文と絵画の大家であり、その 長男鎌書は抗水と号し、これまた詩画に秀で ていた。後年の ﹁美術家﹂原三渓にはこうし た血脈が流れていたのである。小学校卒業後 大垣の難鳴塾で漢籍を学び、次いで京都の草 場船山の門に入りさらに漢学と詩文を修め、 船山の推薦で東京の跡見女学校の助教師とな った。音大郎二十才の時である。 しかし教職に生きることが素志ではなかっ たため、教鞭をとるかたわら早稲田の東京専 門学校に入学し、政治学・法学を学ぶことと した。この学校の校風から彼は権力に屈しな い独自邁往の精神をくみとったのである。 想はしむる﹂ と書いたほどの、眉目秀麗の好 て、原家の技術顧問に据えたのは先代存命中 跡見女学校には、ちょうどそのころ原善三 青年で時に憂国の熱情をたぎらせては、自暫 の明治三一年末であったが、彼の時代になっ 学博士は﹁≡渓先生 街愛好は遊戯の域を脱し、心霊に徹して して偉大なる日太美術の育成着であった。岡 三渓先生を措いてほかにあるまいと思う﹂ う人は昔ならおそらく太阿弥光悦、当今では 臭味を解し、達人の域に達していた。こうい いじりというものではない。人生と芸術との 高潔な人格の発露といってよい。金持の骨董 倉天心に率いられて官学アカデミズムと対抗 評している。 偉大なる実業家原富太郎はまた、原三渓と 彼は病床に親しむようになっ の頻を紅潮させる彼と、それを見守っていた 要文化財、古建造物の移築を陸続と行った。 大正九年第一次大戦終結後の経済恐慌に際 び蚕糸業救済に尽挿した。同年茂木合名の破 した、日本美術院の横山大観、下村観山、安 して、第二次帝蚕会社専務取締役に就任、再 綻に伴う第七四銀行の整理相談役となり、横 田敏彦、前田青郷らは、いずれも彼から精神 と 浜興信銀行の設立に当ってその頭取に推され、 れたら、恐らく無類の画匠になられたであろ ﹁三渓翁が画家専門で世に立た う﹂ 安田敏彦は 金融危機の収拾につとめた。 び彼が頭取であった第二銀行はともに全焼、 れる吾とともにすぐれた画人でもあった。 大正十二年の関東大震災により原合名およ 彼は横浜蚕糸貿易復興会理事長、横浜市復興 と語っているが、三渓自身大師流と評さ 全会長となり、横浜市再建のために挺身、こ いえる。 して知られた益田孝、高橋義雄、松永安左衛 も深い造詣があり、茶友としては斯界の雄と さらに静僧釈宗浜のもとで修業し、茶道に に対する生活の恩、共同生活の恩に万︵分の︶ ば横浜に必要なる事件に精力を集注し、横浜 門らがいた。この遺風をうけて供浜の茶会は 今も三渓園が中心になっているという。 三か月間も松風閣に逗留させ、インド美術と 大正五年に来日したインドの詩聖タゴールを、 心だった﹂と語っているが、この復興への努 彼は昭和十四年八月十六日、三渓園の自宅 日太画の交流に役立てたことも特筆に価する。 に囲まれながら安らかに瞑目した、満七一才 で腸疾患から急性肺炎を併発し、家族や友人 の生涯であった。 生糸の将来には悲観的な状勢の変化が訪れて 大正末期から昭和の年代に入ると、日太の 力はまさに彼が身命を堵したものであった。 の寿命を十年ちぢめたものは、その当時の苦 彼の晩年の茶友松永安左衛門は﹁三漠先生 一を報ぜんと決せり﹂ ﹁余は横浜に住み生存の恩を担へり、され また造園家としても一流の域に達していたと 園 の時の心境を彼は﹁随感録﹂の申で次のよう 渓 に述べている。 三 きた。生糸に代わる人絹とナイロンの登場が それである。原合名の事業も漸次縮少と後退 26 27 ○ 茂木惣兵衛 ︵三代︶ の改革に着手し、封建的資太主 性を身にまとっていた。そこで彼はいわゆる ﹁茂木王国﹂ もともと茂木合名の主業は生糸売込み問臣 括し、思う存分その手腕を発揮した。 リヨン、カルカッタ、上海、シドニーなどに 義から近代的資太主義への脱皮をはかり、利 設置し、棉花直輸入については東京支店が、 うを張って支店をロソドン、ニューヨーク えたきた番恩安斉羊三を、敢然として斥け新 海外直輸出業であったが、彼は三井物産の向 大正元年、父保平急逝のあとを継いだ≡代 進気鋭の長与程三を総支配人に据え、さかん 益分配制蜜を採用し、また三代にわたって仕 茂木惣兵衛は当時弱冠十八才、名古屋の第八 綿布絹布の直輸出については大阪支店がハ生 明治二六年︵一八九二コ∼昭和十年︵一九三五︶ 高等学校三年生として在学中の青年であった。 に人材の登用をはかゥたのである。 めに、昼は支配人の横に鋲坐して手形の書き なった彼は、家業のテクニックを習得するた 輸出が杜絶し糸価は暴落して∵横浜の問屋の は、この生糸貿易業に対する大打撃を与えた。 であったが、大正三年に勃発した第一次大戦 そのころの横浜の中心的企業は生糸貿易業 の大貿易商となったのである。 兵衛、西に伊藤忠兵衛﹂ありと表われるほど など、横棒的な拡張策をとり、﹁東に茂木惣 糸羽二重の直輸出については太店が担当する 学業半ばの身から一転して茂木王国の当主と カやら印形の押し力までも学び、夜は家庭教 財力では在荷を持ちこたえることが不可能の 三十才未満の青年にすぎなかったが、茂木の 大正七、八年の景気絶頂期には、彼はまだ 師について大学課程の勉強を続け、三年間は 状況に陥った。 せる勢いであった。しかしその内面を子細に と第七四銀行の破綻を収拾するために創設さ にもついに演滅の悲運が訪れた。この茂木家 牛病に冒され昭和十年四月、旧店負の好意に ト松屋の前身鶴屋を亀の橋際に開店した古屋 な経済哲学の権威者喜一郎、明治二年デパー 作、その子息で財界人であるとともに世界的 28 とんど昼夜の別なく努力した。 かけ五首万円の救済資金をうけることとなり、 検討すると、きわめて危険な綱渡り的経営を 将来はどこまで伸びるのかと、業界を瞳目さ 三百人近い従業員を擁する茂木銀行および茂 帝国蚕糸株式会社が設立され、社長に原富太 この事願を打開するために、政府へ働らき 木合名会社の首脳者となった彼は、挨拶回り 行っていたのである。拡張資金は自己資太で 当時の金額で約一千万円の財産を相続し、 の殊に横浜正金銀行副頭取の井上準之助から、 このことについて彼は、﹁私の様な若輩の 郎、副社長には惣兵衛が就任した。 次のようなことばを聞かされた。 では不足となり、日太銀行からの融資やコー かない、さらに事業の発展につれてそれだけ なくすべて第七四銀行からの借入によってま 一面には日太の封建的経済組織及び社会観織 謂はば青二才が相当の活動を為し得たのも、 力のない人間は人が相手にしない。頭の働き ル資金の吸収、為替尻の利用などにまで奔走 ﹁今後の実業家は茂木家の主人でも何でも、 がないものはダメだ﹂ であると思ふ。▲:・:当時二十二、三才の私が その途上で襲来したのが大正九年の経済恐 が、或る一定の社会的位置を私に与へた結果 この一言は彼に強い感銘を与え、事業経営 と述べている。 相次いで事業を拡大し、社内磯構の大改革を となり、繁栄を誇り続けてきた茂木合名会社 慌である。機関銀行の第七四銀行は休業状態 行い総務部を新設して傘下の茂木合名、茂木 れたのが横浜輿伝 ともいわれた西村喜三郎、外交 よって建てられた熱海トンネル近くの寓居で、 学士で明治屋を創業した磯野計、太平洋の架 徳兵衛、大学南校︵今の東京大学︶卒業の法 最愛の妻春子にみとられながら、四三才の短 スタートして左右田銀行を創立した左右田金 幹部として活躍した釆栖壮兵衛、両替商から 官栗栖三郎の父であり横浜における改進党の 脹崖㌃ 光景、島田三郎の岳父にあたり、〝散 ︵Y校︶設立の首唱老となっ 父業を経 し県・市 行であり、整理相談役に 銀行、鉱業 その後彼は鉱山業、雑貨輸出、棉花輸入等 る﹂ 帝蚕の副社長になったその事実が之を証明す する始末であった。 の大きな支柱になったのである。仕事に熱中 していくうちに彼は古めかしいおた 店な 風の、主 従関係によって左右される封建的経営に対し て、深い疑問を抱くようになった。 当時日本の大資太家三井は別格として、三 菱でも住友でも茂木家同様古色蒼然たる封建 は原富 茂木家の没落につ 井坂孝 その理由を質問したのに対し、富太郎は、 ﹁茂木さんはノウということをはっきりい えなかったのが、失敗の原因であったと思う。 人からなにか持ちこまれると、なんでも大な った﹂と語っている。 り小なりある程産まで賛成するのがよくなか 敗軍の将、茂木惣兵衛はいう。 ﹁私は銀行取付に対し重役である全責任を イギリスで指導をうけたラスキ教授の影響 かい生渡を終えた。 ューグランド・ホテルの経営に腐心した野村 け橋をめざしてサムライ商会を始め、またニ の苦闘と粒々たる努力とに依って築上げた茂 負って、殆ど全部の財産を投出し、何十年か にょり、社会民主主義の立場に近い ﹁プロブ 木合名会社は、資金の欠乏から正金銀行の後 レム・オブ・フェデレーション﹂をはじめ、 地元横浜芝生村の出身で生糸売込み商の先 洋三などである。 援もなく継続出来ず、遂に閉店の巳むなきに 若干の著作が遺されている。 陣をつとめた芝屋清五郎、回漕業者として手 人々は数多い。 以上のほかにも横浜商人の系列につらなる その他の商人群像 ○ 至った。・=私は資太主義から離れた。資太主 義の罪悪を匡正することの不可能な現代社会 を知悉した。私は、予てからの宿望であった 学徒として一生を社会のため捧げる好級を把 捉し、研学のため渡英したのは大正十二年三 そして彼は昭和八年までロソドン大学に在 月であった﹂ 学し、政治・経済学の研究を続けるかたわら 朝田叉七、上級久留里藩士の家に生れ詩・書 にも長じて寧静と号した天下の糸平の女婿木 腕をふるいのちに横浜ドックの会長となった 村利右衛門、渋沢栄一の従兄で五陵廓の残党 国際労働会議、第一一イソターナショナル会議 を中心とする数冊の著書を携えて帰国した彼 の経歴をもつ渋沢喜作、その次男の義一、慶 等にも出席した。﹁ギヤケの法理論的政治観﹂ 論﹂ ﹁改造﹂等に論稿を寄せたりしたが、翌 は、東京政治経済研究所員となり、﹁中央公 明治屋一尾上町 中村房次郎の軌跡 中村房次郎(老松山人)の色紙 中村房次郎 ー30¶ 練をくぐりぬけ、独自の分野を開拓 港以来の横浜商人として、多くの試 選抜されて江戸店に転勤した。これがその後 こで四年間をすごし、嘉永五年十八才の時に 一、表間口七間 大通北側 此坪百五拾坪 奥行弐拾間 の彼にとって、飛躍のきっかけとなったので 江戸の榎並足は日太橋堀江町にあり、大坂 此銀百八拾匁 ある。 した一人であった。 ○ 増田屋の創業 店の主人庄左衛門の分家筋に当る、中村庄兵 衛、同書兵衛の二人が経営を担当し、店員三 ﹁ 未三月 増田募兵衛は天保六年五月十五日、伊賀国 上野町早坂七面屋敷に生まれた。父は伊助、 十数名という、当時としては相当大規模な店 魔 舗であった。 乾天 母は松子という。幼少の時父を失ったために 乾物 りよったりの年ごろでもあり、共に青雲の志 一、菜種 十月七日 一、雑穀 水油 茶 砂糖 未五月廿七日 干魚 母の手一つの苦しい境涯のなかで育った。そ この榎並臣の筋向いの両替店に、彼より少 を語りあって二人はすっかり意気投合した。 未七月三日 し年下の越中生まれの少年店員がいた。似た 後年功成り名とげた彼は、帰郷して生誕の この両替店の丁維小僧こそ、のちの安田善次 涯の孤児となったのである。 の母も嘉兵衛十一才の時に世を去り、徴は天 地を訪れ低梱去る能わず、その地の一画約三 郎その人であった。一は増田屋を創立し、一 生糸 湯の井戸として記念し、増乃井と名づけた。 ﹁ の時代に誓った友情は終生変ることなく、晩 年大磯に隠棲後も隣接して別荘を構え、刻頸 同断 憲兵衛 店支配人 江戸住宅に付 榎並屋庄兵衛 ︵朱︶ ﹁改嘉兵衛持﹂ 囲扇 干貝 小間物 染草 傘 草顆 絵具 煙草 太物 海草 呉服 玉子 三十余人の店員の中から抜擢された弱冠二五 かねてからの念観であった外国貿易にたずさ 才の彼が、支配人として大いに商才を発揮し ︵現在の に乗るとでもいおうか。 わる機会をつかんだのである。まさに蚊竜雲 安政六年六月、横浜は開港場として出発す 榎並産もこの年の三月、太町二丁目 立割地を貸与し、諸国商人の移住を勧奨した。 ることと克ったが、幕府はそれに先立って埋 の交わりを続けたのである。 きわめて多様の商品を取扱うこの横浜店で、 は安田財閥を築き、互いに大成した後も、こ 〇坪を買とり、そこに残っていた古井戸を産 そしてまた野毛山の自宅の近くに設けた豊 川稲荷を視る老松神社に、 霜の夜に思いそいつるぬれ衣 ぬいて着せたる人の心を という母を偲ぶ碑をたてたのである。 ﹁われ亡きのちは都に出て、立身出世の道 を講ぜよ﹂との母の遺言に従い、嘉永元年 ︵一八四八︶三月、十四才の春を迎えた彼は ー31 並屋横浜支店は火災のために焼失したが、彼 から開始された。文久二年︵一八六二︶、榎 のちの増田屋と横浜とのつながりはこの暗 この時彼は二八才。開国は国是であり、万国 田屋寡兵街商店ののれんをかかげて発足した。 だ募兵衛は決然としてこの店を譲りうけ、増 横浜店の閉鎖にふみ切ったが、これを惜しん 目をつけ、もっぱら砂糖の取扱い中心に移行 取り業を兼ね、さらに砂糖貿易の有利な点に ていたが、独立後の増田匡は金巾、唐糸の引 の商魂はますます燃えさかったのである。 数多い横浜商人のなか.で、砂糖商として洋 いわれている。 糖を輸入したのは、増田屋が囁矢であろうと 彼によって火蓋を切られた外国語︵香港括︶ の析浜輸入は、その後の砂糖需要の増大につ れて、良質廉価な輸入洋糖が大阪中心の和糖 市場を圧倒するようになり、洋糖輸入商とし ての増田屋は確固不動の地歩を築きあげ、開 ﹁文久三年三月下旬、浮浪の徒江戸市中を 三郎、茂木保平等との断金の交わりは、この のである。また終生までの盟友であった原書 業数年にして横浜屈指の豪商の列にはいった へ、金銭を掠奪し其猫教当るペからず⋮⋮一 横行し富豪の家に押し入て壊夷の軍資金を唱 明治新政府は、内外の商業と金融の保護促 下に 察のため 生活の水準が高まり、砂糖の国内需要が大き もなしに切ぬけた。このころから日太人の食 固まった増田尾はなんらの動揺 明治三年十月、政府は に洋銀券の発行も併せて許可された。 この為替会社には、通商司から金券のほか 中沢五兵衛、増田嘉兵衛、原書三郎 茂木保平、吉田幸兵衛、鈴木保兵衛 役員︶として次の六名が就任した。 三丁目に横浜為替会社を創立し、その頭取︵ 治二年七月、増田嘉兵衛が中心となり、水町 広く民間に通商会社と為替会社をつく 進を図るために通商司を設置し、その管轄の 金銭を掠め人命を奪ひ、殊に英人原罪金請求 おそわ の件に憤慨して将に横浜を襲んとするの風説 るよう勧誘した。これに呼応して横浜では明 枕安眠せる事勿りき﹂︵額浜開港五十年史︶ 盛んなり。当時横浜市民は一日一夜として高 層過激なる撰夷団体新教組五る老江戸に現れ ころから始められた。 開店当初はもちろん擾夷派浪士の脅威が続 いており、 増田屋の発展 ○ 独立開業した空文久三年八月九日、長男増 蔵が誕生した。 通商は世界の大勢であるという強い信念をも っていたのであるっ していった。 開港はしたものの、幕府の開国政策に反対 する尊王擾夷運動の波が高まり、万延元年︵ 一八六〇︶には桜田門外の変、続いて文久二 年八月には生麦事件が発生し物情騒然たる状 況であった。 撰夷派浪士による居留地および貿易業老へ の襲撃説がさかんに流布され、榎並足も﹁天 誅﹂の脅迫にさらされた。文久二年九月十五 日の外字新聞には次のような記事が掲載され ている。 脅しの張札 一、第十月十九日︵我九月七日︶の夜横浜近 伊勢徳 傍の奉行所の門に左の如き書付を張付け たり。 第一番 万徳 鰯屋 海屋 第二番 榎並屋 伊豆倉 永喜崖 なか 汝等多く外国人と交易し、我国真の利害を という状況であったが、募兵衛は身の危険を 高島屋 森屋 ︵下略︶ 忘却し貴人を憐むの心なきに於ては、他所 顧みず、卒先店頭に立って商売一途に精進し た。 開港直後の横浜商人は、前述したように売 込み商と引取り商の二種に別れて、それぞれ に於て既に行える如く天誅を加うペき者な りロ この脅喝をうけたため、恐れをなして十月 輸出と輸入のどちらかを主業としていた。榎 与えたものである。 主義に対して大きな打撃を 中に閉店し、横浜から退散したものが十指を かぞえたという。榎並屋もこれに脅えついに 三日、横浜 七日、太町四丁目三九番地の留守宅で次男が 弧々の声をあげた。これが後年の中村房次郎 理の必要に迫られ、明治十七年八月末に支配 この恐慌のために増田星は事業の抜太的整 この為替会社は明治四年十一月に発布され 人安部幸兵衛と枚を別つこととなり、督産を 脱皮して製糖事業にまでのり出すようになった。 さらに一大飛躍期を迎え、販売業の領域から である。 た国立銀行条例にもとずき、一旦解散、七年 折半し辛兵衛は南仲通三丁目に、新たに増田 も、通学中の横浜商法学校を退学して、新発 を相続し、当時まだ十五才だった次男房次郎 ロシアなどの甜菜糖を一手に引うけ 後はいち早く台南に支店を設け、三一年には ジャワ糖やムロ湾糖をも直嘲入した。日清戦争 ガ‖り′・・i、 貿易を通じて、ドイツ、オ⋮ストリア、ハソ まず明治二六、七年ころからいわゆる商館 そのため砂糖貿易を主力にした増田匡ば、 く伸長しはじめた。 七月第二国立銀行として改組されたが、嘉兵 屋安部幸兵衛商店を開いて独立した。 嘉兵衛には二男二女があった。長男増歳、 衛は取締役として名を連ねた。 ○ 次男房次郎、長女たき子、次女とめ子である。 維新の黎明とともに増田臣を創業した彼の 増田屋の危機 活躍は、その後ますます精彩を加え、国立第 こととなった。これが中村房次郎の実業界入 足した増田屋噂歳商店再建のために専念する 尽力した。その苦悶が報いられて、増田屋は 32 33 幸兵衛と分離した増田臣は、長男増蔵が家督 二銀行、金銀分析所の設立に次いで、明治五 この明治十七年の恐慌も、二十年には一応 りの第一歩である。 年原善三郎等と計って南仲通に金穀相場会所 をつくった。これはわが国における取引所の 濫腸といわれている。 再び盛運をとり戻すことができたのである。 輸入に主力を注ぎ、また国内販売網の拡張に った関係上累を避けるために、増田屋を改組 明治二二年、横浜に市制が布かれ兄増歳は 解消した。この間に増蔵、房次郎兄弟ば洋糖 して安部幸兵衛を支配人に任用し、商号も増 明治七年、図らずも旧主榎並屋が破産の憂 田臣事兵衛商店と名のり、彼は表面からは隠 て二六年には神奈川県会議員となり、更に構 翌二三年市会の一級議員に選出された。続い き目に際会した。彼はその債務の保証人であ となった。しかし実権は彼が掌挺しており、 退して、長男増蔵がこの新設された店の社員 増田嘉兵衛 両増田昆︵増田増蔵商店と安部車兵衛商店と は、当時併せて両増田星と称せられていた︶ 需の増大に庸まれて、まさに順風に帆をあげ 槻︶することとなり、翌三九年四月、房次郎 た形となった。 はこの製粉機械と米人技師二名を同伴して帰 の脇力によって、資太金三十万円の台湾貿易 横浜市史稿によれば、明治三年の横浜商人 朝した。工場は神戸市内の新川運河畔に建設 会杜を創立したのである。 録中に増田犀募兵衛の営業品目として、砂糖 、当主の名を冠して増田増蔵製粉所と称し し この会社は結局失敗に終わり解散したが、 とともに石油が掲げられている。当時の横浜 た。川二年房次郎はセ社の持株全額を譲りう しかしこれはわが国の、台跨における製糖事 で石油を商品として取扱っためは、寡兵衛唯 け、同年五月これを資太金五十万円の株式会 業進出の隆運をもたらしたものであった。 一人であったという。そのころ石油の国内消社増田製粉所に改組し、セ社と線切万して新 一方国内でも三二年、横浜線町に増田製糖費はほとんど灯火用に限られ、需要もたかの らしく門出した。 所を設け独力で製糖事業を開始、続いて三八 知れたものだったからである。 こ のころからようやくその製品﹁宝笠﹂ の 年には安部幸兵衛商店と協同で、資太金二五 二六年、ニューヨークのスタンダード石油 声 価が高まり、日清、日太両製粉会社と並ん 〇万円の横浜製糖株式会社を創立した。この 会社が、山下町八番地に日太総支店を設け、 で、臼太における三大製粉業者として不動の 会社は後日、明治製糖に合併されて明治製糖 オランダ屋敷とか蘭八とかと称せられていた。 地歩を確立したのである。増田崖の事業のな 川崎工場となった。 増田屋は安部幸兵衛、桑原福次郎商店と提携 かで、大正九年の恐慌をも切ぬけて残存した また国内版売網充実のため三三年、大阪、 して、合名会社三明商店を創立し、スタンダ のは、この増田製粉と松尾鉱業の二つであった。 名古屋にそれぞれ支店を開設、東の増田屋ば ード社の名古屋以東における総代理店となっ 明治三七、八年の日露戦争は、十五億円の 西の鈴木商店と並んで、わが国の糖業界を二 た。この三明商店はその後増田臣の傍系事業 戦費と二〇万六千人の戦死傷者という莫大な 分する盤石の地位を築き上げたのである。 として発展し、四一年スタンダード社が制度 犠牲を払って、ともかくもわが国の勝利に終 ○ 改革により総代理店制を廃止するまで、東日 った。 大正八年、今 るなど、社会事業へも貢献している。 の横浜駅東口付近に勤労者用の公衆浴場を作 への進出を企て、まず日太からは羽二重の輸 間、日豪貿易の 出、オーストラリアからは牛脂の輸入を行い 増田屋の広告 明治四十年にはシドニーに社員岡部正、竹内 このころから従来の羽二重のほかに、過燐 清之介名儀で実質上の支店を設立した。 とに着眼し、とりあえず過燐酸肥料四千トン、 酸肥料や硫黄が輸出品として重要性をもつこ これが増田犀の対豪硫黄輸出の囁矢であった。 硫黄五十トンをアデレード港に出荷したが、 その後北海道産の硫黄を中心に、わが国か らの硫黄の対豪輸出はますます盛んとなった 増田商店は増田合名へ、さらに増田貿易株 のである。 砂糖部、小麦ならび小麦粉部、肥料部、雑貨 式会社へと発展し、最盛時には取扱い商品も 部門にわたる豪勢さであった。 部、鉱石部、金物部、羊毛部、船舶部等の多 太店は横浜にあり、国内支店としては東京 所としてはPソドン、ハンブルク、ボンベイ 神戸、名古屋、下関、小樽。海外支店、出張 カルカッタ、シドニー、メルポルソ、スラバ ヤ、ウラジオストック等にわたり、きわめて 広汎な取引市場を持っていたが、大正九年大 異人の遠馬 本における唯一の元充実老として活躍した。 その結果は日太の経済界のあらゆる分野に その後の躍進 増田星は二一年以後、太格的に輸入小麦粉 大きな影響を与えた。増田屋商店もこれを機 明治二七、八年の日清戦争は、日太資本主 をも取扱うようになった。この年にシャトル 会に貿易部門の強化をばかり、従来の増田屋 義経済の発展に一つのエポックをもたらしたD のセントニアル製粉会社との間に、販売代理 とは別に三九年、新たに資太金五万円の合名 三億六千万円の賠償金の獲得によって、財界 契約を結んで小麦粉輸入を開始したのである。 会 社増田屋を創設した。代表社員は増田増歳 はひじェうな活況を呈し三十年には金太位制 さらに三八年十一月には、房次郎自身が渡米 と中村房次郎の両名である。 度も確立されたのである。 し、セ社と直接交渉して両者の共同出資によ いわば増田屋商店の﹁外国部﹂が独立した この戦後景気は、また増田屋にとってもさ る製粉会社設立が実現した。 もので、この薪合名会社増田星商店が後年の らにいちだんの飛躍を迎える好機となり、砂 この日米共同出資の新製粉会社は資太金五 房次郎をして、松尾鉱業経営への契機をつく ー34− −35− し、兄増蔵とともに一家再建に尽力すること 房次郎の人柄に強烈な影響を与えたのは、 となった。この増田屋異変は十五才の多感な ろう。この学校は前記のように在浜商人の子 彼が学んだ横浜商法学校長美沢進の薫陶であ 中村房次 郎 明治三年︵一入六六︶∼昭和十九年︵一九四四︶ ろうが、彼はよくこの試練を乗り切って後年 少年にとってば、かなりのショックであった で明治十五年に創立されたものであるが、そ 弟教育のため、小野光景、茂木保平等の提唱 の風格を形成したのである。 検浜の張子房と称せられたような、重厚篤実 きいが、その人生のスタートはこのように必 着用し、洋傘を携帯するというイギリス風ス 美沢は岡山県出身。常にフロックコートを 生の美沢が就任したのである。 ずしも担々たるものではなかった。次男正雄 タイルで登校したといわれている。美沢はさ すがに福沢の期待にそむかず、四十余年の長 や、当時の恩師美沢進先生の膝下を離れまし こに過ぎなかったが、彼の生涯を通じて変ら 少年房次郎の在学年数はわずか三年そこそ を挙げまして、明治十七年九月三日に兄増田 て、増田増蔵商店の店頭に立ちましたのが十 なかった天の恩と人の恩を忘れぬ不動の信念 教育に専念した偉材であった。 五才でございます。爾来六十年間営々として は、この美沢校長の垂訓にもとづいていると 期にわたり孜々として倦むことなく、子弟の 中村房次郎が生まれた明治三年十月七日ば 仕事に励んで参りました。その間少しも変ら 増蔵を店主とする増員商店を創立されまする ﹁明治三年十月七日に父は横浜に弧々の声 は次のように語っている。 彼の政界、財界における業績はきわめて大 の校長として特に福沢諭吉の推薦により門下 サイバソ島が陥落してから間もない昭和十九年 九月、中村房次郎という一人の老人が死んだ。 中村房次郎は原富太郎、三代茂木惣 兵衛とともに明治の生まれであり、 業界に雄飛した⋮人である。 横浜商人であった父業を継承して実 その七五年の生涯には、烈々たる明 治の精神と生粋の浜ッ子としての気 概がみなぎっていた。 ○ 父嘉兵衛が、銀行業視察のため伊藤博文に従 ざる信念が、色々の力面に出たことと思ふの で他界した。 思われる。美沢は大正十二年九月、七十五才 房次郎のスタート って渡米中であったこと昼前述した。 でございますが、その信念ばいつも天の恩と 明治十六年二月、父の旧主榎並足中村初太 郎家の養子となって中村姓を名のり、二六年 鈴木達治ば、 は彼のよくなしうるところでばなかった。 美沢先生は平凡、しかもなおよく二人と肩を 夏目両先生は天才の人である。それに比べて 沢諭吉、夏目漱石、棄沢進の三人だ。福沢、 らず生徒から慕われている人が三人ある。福 ﹁明治以後の教育者の中で、いつまでも変 感べている。 ば、実沢の三三回忌法要の席上で次のように 幼時横浜で育った慶応義塾の同門小泉信三 父が横浜正金銀行の副頭取であったため、 五月、横浜切っての豪商、初代茂木惣兵衛の ということであるやうに存ぜられるのでござ 生来たくま 艦問題に閲し、コミッショソ事件で、帝国議 ﹁横浜政治家の開山島田三郎が時の海軍造 高等工業学校︵現横浜国大工学部︶ の校長に 迎えられ、名声噴々であった鈴木達治はいう。 東京高等工業学校数授から、大正九年額浜 しい健康の持 ︵中村房次郎翁、追悼会記録︶ 人の恩とに感謝しこれに報ゆる道に邁進した 妹に当る人である。 ﹁整頓﹂ います﹂ 養女あいと結婚した。あいは二代惣兵衛の義 これより先、明治十五年に在浜商人の子弟 教育を目的として、横浜商法学校︵規模浜商 業高等学校︶が設立されており、彼もここに 通学して順境の歳月をすごしていた。しかし 好事魔多しのたとえのとおり、明治十七年の 恐慌で家業が創痍を蒙ったため、学業を中絶 伝えられている。美沢 に始まり、﹁勉励﹂ ﹁正確﹂ ﹁緻密﹂ ﹁注意﹂ 直ヲ確守シ、決シテ人ヲ欺ク可カラザルコト﹂ ﹁精察﹂ ﹁機敏﹂ ﹁謹慎﹂ ﹁耐忍﹂ と続く十項目の校訓を定め、自ら率先遵守し、 会に於て一人舞台の獅子吼して山太内閣を什 モけだ し、天下の耳目を饗てた伝統は、いつまでも 横浜に残った。翁ば低かにその伝統の代表者 は申脊肥満で、私の初めて知 る四十台から、殆ど一太の黒髪を混へざる白 ﹁辱︵房次郎︶ 房次郎は少年時代一日も欠かさず必ず復議 であったと私ば思っている。 また生徒に毎朝読み聞かせたという。 夫であった﹂ 髪で、色艶の好い赫顔と相映じて好箇の美丈 或る件で私は翁と対談中、余りにも翁の偏 したこの訓戒を、生涯身を以て実践したので から暫らくの間、私を見ると清濁併呑の言葉 てもらいたいと懇望したことがあった。それ 執に対し、今少し清濁併せ呑むの寛容を示し 康でございます。父はこの健康につき天に感 を使って、私をからかった時代があった﹂ ﹁成時私は事業を計画し、その日諭見書を は樺太炭を得るためには、政党の力を借るよ 炭を要し炭質として樺太炭を必要とした。翁 翁に示し、その賛同を求めた。動力として石 と語っている。 といふ夙に確信を致して居たやうでございま ︵追悼会記録︶ り外に途が在い。鞠利権問題であるから、 自分としてはこの問題に触れ堅くないとて拒 絶した。利権問題に関する、私と翁との接触 とあるから、おそらく三 ︵松尾鉱山時報昭和十八年 べしであると思う。翁は真の意義に於て紳商 は、只この一事であったが、他は推して知る に白髪であった﹂ を浄化したことであろうと思うのであ 十一月二十四日号︶ 浜市︶ であったと信ずる。:⋮・翁の大功績は市︵横 いかと思われる。 十才ごろから銀髪の所有者であったのではな 上り⋮⋮伯林に於て撮影した写真を見ると既 ﹁明治三十八年三十六才にして欧米視察に れば、 また白髪の点については、正雄の追憶によ す﹂ 世の中のために人のために働けと命ぜられた tヽ︷ 謝し、またこの健康は天が自分をして、何か ﹁天恩の最も大きなものは父の稀に見る健 このことを裏書きして次男正雄は ︵煙州漫筆︶ ある。 横浜商業高校︵Y校︶ 36 ー37− 美沢 進 また私の知る限り、歴代の市長は廉潔の人で る。従って市政には前職事件は稀であった。 で、上半身をつき出して前進機関である下半 ぎりに馳せつける。乗車の暗も、降車の暗も じたのでありますが、故人の財力からします もよく御承知の通りであります。私は始終感 薄く、常に簡単質素でありましたことは皆様 は傭へて居らるべきであります。然るに故人 ならば普通の力ならば、当然自家用車くらゐ 改札口からホームまで、ホームから改札口ま ︵座州漫筆︶ 身を、おいてけぼりにするかの様に急がれる﹂ あった。同気凋求むるの結果であろう﹂ ︵座 州漫筆︶ 彼の清廉剛直を物語る好例は、後述のいわ ったので、現代流にいえばスタイリストとみ pます。 って居られたということは御承知の通りであ は決してこれをなされず、常に貸自動車を使 えるほど、端然として身なりは崩さなかった。 叉普通の考へからいひますれば故人ほど偉 挙措を敬しくない気激し屋だった半面もあ 時にば狂歌を作ったりもした。こんな話があ しかし大正九年のパニック後は、身を持する 大な事業を営み、且つ多大な資太を運用せら ユーモアを解し、依智に富み、座談に長じ、 る。伊藤博文が絶理大臣に就任した時、山県 こときわめて厳格、世間に遠慮して自家用車 るゝ社会的に重要なる地位に立たれる人であ ゆる横浜疑獄事件であるが、しかし他面よく 有朋の牙城貴族院の操縦に手こずり、伊藤ば にも乗らず、日常使用の腕時計はニッケルが ﹁七重の膝を八重に折って﹂貴族院にお百定 けいきl▲く 年の金融恐慌と 鈴木遠冶の著書 りますならば、定めし豪壮な家に住んで居ら 神奈川県知事、朝鮮総督府政務倫監等をつ とめ、大正十四年から第十代の横浜市長に就 任、震災後の復興に精魂をうちこんだ有青息 一は次のように述べている。 ﹁故人は我国の実業界に於ける成功者の一 人であります。その一生の間には幾多の波瀾 せられたと申して差支へないと思ひます。併 曲折がありましたとは言へ、晩年は確に成功 を持するや頗る 刀と異名されたほどのべテラソ行政官の経歴 大震災、昭和 わ、眼鏡は銀縁の至って粗末なものであった。 にしていたので、当時これが流行語になった。 参りをした。伊藤自らがこのことばをロぐせ ある時、横浜で某老政治家が演説を行い、 最後にお定まりのこの ﹁七重の膝を八重に折 ってお願いする﹂ といって結んだ。これを聞 いていた彼は隣席の人に、笑いながら太田道 七重八重膝ば折れども演説の 濯の古歌をもじって次のようにつぶやいた。 ︵元興信銀行専務斉藤虎五郎談︶ 実の一つだになきぞ悲しき のであります。と申すのは故人は単に己れの は、その類を異にして居られたと考へられる しながら故人は世間普通の成功者といふ者と 為にのみ資産をつくられなかったといふこと こういう当意即妙洒脱の才があり、これが せることにもつながったのであろう。 た。併し故人自身が自分 実に能く世の為、人の為に財を散ぜられまし 故人は能く集め能く散ずる人でありました。 であります。 また彼を商機に鏡敏な実業人として、大成さ またたいへんにせっかちな性格でもあった。 ﹁翁は非常に多忙の人であった。絶えず東 京に往復しているが、駅のホームで電車や列 ソヤリ待つことがない。発車時刻ぎり といふことは す。これは二、三年前であったと思ひま 私は野村洋三君と一緒に故人をお見舞した時 に酬ゐられるの の厚いのに感動したのでご に、私が門前で﹃君どうだ、この門はー∴と した ざいます。流石に英人もこれには非常に感服 ︵追悼会記録︶ いったが、あの根岸の門は実に簡単にして小 を持ち昭和十六年から二一年まで第十三代横 道長官・大阪府知事等の各県知事を歴任。剃 内務省をふり出しに、神奈川県知事・北海 ﹂ なる門である。この横浜市に於ける偉大なる 存在たる中村君の家の門としては、奨に簡単 彼はひとたび朋友としての情誼を結べば、 質素なるものでありました﹂ ︵追悼会記録︶ 終生これを変えることがなかった。その一例 じく第十七代市長に就任した半井渚は、陰徳 浜市長として、また≡四年から三八年まで同 の長者としての房次郎について次のように語 一39− として石膏はまた次のようにいう。 る。 ﹁私が昭和十三年に欧羅巴へ参りましたが その事が決りますと、故人は一目私を訪ねら ﹁中村さんは蔭の人でありまして、表面に れまして、あなたが今度pソドンに行かれる 出ることを避けて居られまして、何時も縁の ならば私の友人にガソソニーといふ友人があ 下の力持として働くこ七をその信条とせられ、 あります⋮・︰ 中村さんは色々の肩書を持つことが非常に 帽とん お妹ひのやうでありまして、殆ど何を調べま る。それにどうかこれを渡して貰ひたいと金 た時に、このガソソニーが非常に能くお世話 しても肩書はお持ちになって居りませぬ。殆 終始それを実践せられて居ったといふことで その後引続いてこのガソソニーと取引を級 ど唯一の肩書は明治三十五年から約十﹂年間 いひますと、前年故人がPソドソを巡遊され 続して居られたが、あの大正九年の恐慌の時 ばかり、市会議員といふ肩書をお持ちになっ 五万円を渡された。それはどういふわけかと に取引関係が一時なくなった。そうして債権 をした。 債務の関係を清算された。その後故人の事業 有吉隠−(第10代市長) この時に彼鱒横浜正金銀行の大久保頭取を 訪ね、 ﹁自分ばかって正金銀行に少なからぬ迷惑 をかけているので、銀行業に顔を出すのは借 越至極であるが、こういう事情で止むを得ず 副頭取にたるが、よろしゆうございますか﹂ と丁重な伺を立て、謙遜そのものの態度であ 昭和十五年十一月副頭取の地位ば辞任した ったという。︵斉藤虎五郎談︶ が、最後まで取締役として二恩典信銀行の興 隆に尽痺した。副頭取期間は五年であったが 第一は在任中役員として厘毛の報酬や手当 その間に特記すべきことが二つある。 用の椅子テープル等もすべて自費で購入し、 をうけとらなかったことはもちろん、副頭取 第二は政府貸下金に対する依還未済が理由 銀行備品に寄付したという。 となって、興后銀行の社屋新築が日太銀行に 容認されなかったため、彼は新築費四十万円 くその許可をとることに成功した件である。 に相当する私金を興信銀行に預金し、ようや その工事用の礎石は彼が経営する松尾鉱山 と運搬されたものであった。この興信銀行は から、建築記念の意味も含めて遠路はるばる その後昭和三二年横浜銀行と改称、社屋は三 六年から横浜市中区役所として転用され今日 に至っている。 戦前は増田昆を統裁し、戦後再起してからは 松尾鉱山の開発に全心全霊をうちこんだ。 彼の事業の成功は、いつも周囲からの信望 旧横浜興倍銀行本店 ︵現横浜市中区役所︶ 当時明治専門学校教授、のち横浜国大学長︶ 大正九年九月以降は、恐慌によって打撃を が就任した。 かねがね懇意の間柄であった鈴木達治から、 界のさきがけである。大正四年十二月、彼は 日豪カーポソはわが国におけるカーボン業 ができた。 学科の実験室をここに移して授業を行うこと 研究所はさいわい難を免れたので、商工の化 災で、横浜高等工業学校は焼失したが、この 当り昭和四年まで継続した。大正十二年の震 うけた房次郎に代わって、原憲太郎が経営に カーボン会社設立出資の件で相談をうけた。 て日太カーボン株式会社の創立があげられる。 に支えられ裏打ちされていた。その好例とし そこで彼はある集会の席上で五、六人の知人 渋民村は恋しかり 山見え来れば 松尾鉱山の一部 、 の西側 と郷愁を新たにした海抜二〇四一メートルの 凛を正すも 業家たちに化学工業の重要性を認識させて、 啄木にとって、終生忘れ得ぬ心のよりどころ 岩手山である。北上川と岩手山は漂泊の詩人 化学工業の播藍期だった時代に、横浜の実 て誰一人知る者がない。かんじんの彼自身が 後年の工業都市化の基礎をつくった功蹟は大 に協力を求めたが、カーボソとは何かについ 質問をうけても返答に窮する始末であった。 きい。 松尾鉱山はこの岩手山の西北力十キロ、岩 であった。 八幡平、茶白岳山地の南東腹に当り、西は茶 ぎ、日太の産業界そのものに多大の貢献を果 白、北は前森、東は鴨田の諸山に囲まれ、南 ていた。那須火山帯に属する東北日太の脊梁 は松川を隔ててこの岩手山に対し、標高約九 手県岩手郡松尾村字寄木の国有林内に位置し といえよう。 山の経営である 〇〇メートル、総面積一七、六五七、六七一 坪に及んでいた。すでに江戸時代の南部藩領 に彼の畢生の事 業であった。 これこそはまさ したのは松尾鉱 彼が関係した諸事業の在かで最も心血を注 とどのつまりカーボンとは何か、鈴木達治と は何者かは問わず、ただ中村房次郎その人を 信用するということで、共同出資の話がたち どころにまとまったのである。 彼はまた人絹事業の発展を予期して、早く も大正の初期釦軌跡死所の名のもとにこの研 究に着手し、全国で最初の ﹁特許権﹂を得る など、化学工業のバイオニアとして非凡な資 性の一端を示している。 この研究所は大正四年、彼の出資によって 40 41 ち帰ってつけ木に利用したと伝えられている。 のころから、この地域の硫黄露頭の存在が地 元に知られており、村民は時々その一塊を持 業への進出をはかった先覚者の一人にかぞえ られる。 河水が赤褐色を口重していたからであろう。 またこの露頭の下を流れる松川の支流が、青 から赤川と呼ばれたのは、この硫黄鉱のため ︵追悼会記録、中村正雄︶ 氏の手に戻ったのである。 君の友人等の探き同情協力により、 ては、そ 再び中村 この年この月に第一次大戦が始まり、ヨー ロッパからの化学工業品の輸入が杜絶し、わ が国は化学工業の勃興期に当っていた。 等と述べられており、この報告は彼に大きな 確信と勇気を与え、岡部名義の松尾鉱山の設 備、事業その他一切を引艶ぎ、増田匡同族、 原富太郎、三代茂木惣兵衛ら横浜財界人の出 資を待て、資太金三十万円の松尾鉱業株式会 社を創立し、社長に就任したのが八月一目で ある。 巨智部博士の調査結果は 一、⋮毒瓦斯ノ坑内二発生セサルコト 一、坑内無水ナルコト 一、鉱貸倒密ナルコト ございます﹂ ございますがいち㌍の時に詠んだ歌がございま す。それは﹃陸奥の荒野の中に駒を立てて如 何にして国を富まさんと思ふ﹄といふ歌でご ざいます。歌そのものは全く拙いものでござ いませうが、これに現れました信念こそ、父 が、松尾鉱山のことを死ぬまで忘れなかった ことを現わして居ると、私は信じて居るので ﹁約十里の道を馬の背に乗って登ったので 四月十一日、鉱脈調査のためそのころ地質 学の権威として知られた理学博士巨智部息承 を同伴、この時はじめて春なお浅い松尾鉱山 へ赴いたのである。 太格的な硫黄鉱脈の発見は、明治十五年秋、 松尾村の村民佐々木和七の紋渉にもとずくも のであった。しかし資金難のため手がつけら れず、佐々木は当時北海道から硫黄輸送を行 っていた横浜の回漕業者押野常松に相談し、 この話が房次郎の耳にも伝わった。ちょうど 師だった永井久太郎が、山師になっており、 そのころ房次郎の横浜商法学校時代の英語教 この永井救援のために彼は松尾鉱山の開発に 彼は貿易業増田合名会社の主宰者として、 手を借すことになったのである。 当時の輸出商晶としての硫黄の将来性に確信 を持ってはいたが、始めは自らこの鉱山を経 営する意思は毛頭なく、ただ旧師に酬いよう 人柄を示す佳話といえよう。 という一念から出発したものであった。彼の として担当した。 明治四四年、鉱山は彼の経営に移ることと なったが、実務は増田合名の岡部正が代理人 彼が四囲の状勢に応じて、松尾鉱山の開発 に太腹を入れるようになったのは、大正三年 にはいってからである。この点でまだまだ流 通金融面にのみ主力を注ぐ人々の多かったな 恐慌であった。これに対処した房 について伊沢多善男は次のように述べている。 ﹁第一次欧洲大戦後我が国に襲来したパニ いくはく この廃物祝された硫黄が幾許も経ないうち ∼やうになり、需要が無限大に拡がると共に、 に一躍化学工業界の貴重原料として迎へらる ックは全国的にいろいろの悲喜劇を生んだが、 横浜の原とか茂木とか安部幸兵衛とか、その 育委員︶ を鉱山所長に登用した。 を期して鈴木達治の援助を仰ぎ、また鈴木の 推挙によりその教え子の林知義︵昭和二三年 十一月一日∼三一年九月三〇日、筒浜市教 大の一途をたどったのである。 戦後も化学肥料をはじめ、硫安化学工業の 発展期で、人綿スフ、製紙、肥料、染料等関 連工業の原料として、蘭責硫化鉱の需要は増 大正十一年には全国産の四分の一に近い九 千トンの生産をあげ、文字どおり日太一の硫 黄鉱山として、別子などの含銅硫化鉱ととも も伸長した。 にわが国の化学工業に大きく貢献し、輸出額 に解消したにもかかわ らず、房次郎は債務者に対して、松尾鉱業の 収益金の二〇珍を十年間支払うという、彼な らではの誠意を披脛した。 −落盤事件− 禍福はあざなう縄の如しという。次に彼が ち時代の花形として脚光を浴びるに至った。 松尾鉱山の出鉱量は殆ど無限大である為、忽 日太鉱業界垂ぜんの的となり各力面から買収 い 正しい処世感度にも拘らず、天魔悪戯して松 増田商店も同様大波を被って致命傷を受け 他の大商店もこのガラを受けて痛手を蒙った。 たが、この悲運に際会し身を以て処した中村 の申込が殺到したとも聞いてゐるが、斯くし もんしゆつた はれてゐる。それは兎も角、中村君に取って の不幸事は鉱山事業界には往々生ずるとも言 聯か誇大に取扱はれた傾きがあるがこの程度 い雲 即ち昭和十四年十一月十日の事で、世上に 尾鉱山岩盤落下死傷者発生の椿事が出釆 ﹁運命の神はどこ迄皮肉乎、この中村君の 当面した難関は鉱内落盤事件である。 君の態度は実に立派在もので、同君の面目躍 て君は奈落のドン底から好況の絶頂に浮かび いつの場合を問はず、凡そかういふ数千万 ︵追悼会記轟︶ ちなみに伊沢多善男は長野県出身。男爵。 上ったのである﹂ 如たるものがあった。 円もの大きな財産整理をする際には、その血 割とか二割とかを必ず隠匿するものであり、 ト、 生粋の内務官僚として各県知事を歴任。警視 この松尾鉱山の惨事は畢生の一大恨事であっ 通例だと聞いてゐる。然るに中村君はそんな 清算人の力でも気を利かして態と見逃すのが 卑怯な真似はせず、一銭一厘の徴に至るまで 意気が阻喪するとは信じないが万々一を惧れ 一、災禍発生深憂に堪へぬ。こんな事で君の その内容は 取敢ず一軍を送った。 たが、パ君は阪神力面旅行不在だったので くや、直ちに慰めもし激励もし上うと電話し た。その理由は後に記すが、私はこの変を開 その男らしさには、清算事務に当った井上 たのである。 しみじÅ 準之助や井坂孝君等は泌々感服したが、債権 もし恐縮もしたさうだ。事は当然のやうだが 者の諸君も君の潔よいこの態斐を知って驚き 実際にはなかなか出来ない芸である。然るに ¶43一 松尾鉱山の一部 し た 綺麗サッパリ丸裸になって全財産を投げ出し 伊沢多幸男 君一流の徹底したもので、老姿心を呈した私 所ある語調であった。且っ叉執った善後策が 通り机置するから安心を乞ふ﹄と深く期する 頗る沈着平静で﹃お手紙は拝見した。仰せの た君は早速電話をかけて来た。その様子が叉 との要点だった。翌日、旅先から急遽帰京し へよ。 一、死傷者に対する慰藷は破天荒の好遇を与 る。転禍為福の大決心を以て一路邁進せよ。 な普通の行き方とは全然趣を異にし、君は多 ふところ 額の現金を壊にして即刻現場に志せ参じた。 これに就てもー那ともすると消極に堕し勝ち 得られる。 ついで いしや 序ながら被害者慰森のことに触れてみよう。 落下事件であるから、君の心中さこそと察し 立派な御殿さへ設らへてあるこの鉱山の岩盤 であり、これ等高貴のカ々の猟駐泊所として 営者たる中村君が確信を持って居たかほ明瞭 を賜ってゐる事実に敬しても、如何に鉱山経 は秩父宮同妃両殿下を坑内にお迎へして台覧 くせりであった。従ってその地力の農民等の 演劇・映画館その他福利厚生施設が到れり尽 はもちろん、清潔な社宅、購買組合、常設の 1閉山− 一雄が業務を継承した。 年喜一が検察界へ転身した後は、その子息の 田喜一が法律関係の相談役であり、昭和二四 は、当時松尾鉱業の顧問弁護士であった飛鳥 なお横浜疑獄問題やこの落盤事故について びなかった。 うな処置をとったため、全然世論の非難を浴 後に聴いた君の心境告白に日く﹃自分は松 いLや 自ら頗る恥ぢ入らざるを得なかった⋮⋮ そして仙台鉱山局長の許へ、・死者に対しては しっ 尾鉱山によって大へんな利益を授かってゐる。 それぞれ弔慰金一万円、負傷者へはこれに準 す亡ぷ 是は全く天の冥助であるが、こんな恵まれた ずる金円の贈呈力を申出でた。 入坑志望者が押すな押すなの盛況ぶりで、い 松尾鉱山の全盛期には完備した病院や学校 環境がどこ迄も続くことばあるべき筈はない。 そんな慰籍料の提供は他鉱山との権衡上困る 従業員の生活水準を向上させるために、企 の入りこむ余地は全くなか 覚悟してゐた。だからどんな災が釆ても動じ 事情を訴へ、篠力減額力を主張した。いろい 業収益を惜しみなく投入した房次郎の脳裏に 局長は勿論君の意表を諒としたであらうが、 ないつもりだった。が松尾にこの事件が惹起 ろ折衝の後結局最高七千六百円最低二千七百 は、イギリスのロバート・オウエソが目ざ 必ず何かしら神様のお戒があらうと常々から したことは真底意外千万であり、文中訳がな 円に折合って、それぞれ怒ろに贈ったのであ わゆる ﹁渡り者﹂ った。 い。私の予期は、自分の五体に降りかゝる災 抜けた破格の額であるといふことである。 るが、これしも従来の例に此すると当時飛び る程災害設備に十分十二分のことが施されて に対する安全度の確信は、何人が見ても肯け 松尾の不幸事を意外とする中村君の同鉱山 君自身の報恩感謝を意味する赤誠の現れであ 考へ力でなく、同鉱山によって恵まれてゐる ゞ多額のものを出しさへすればといふ浅薄な 局長の意見は無理もないが、君の主張もた ねんと であったが=⋮・﹄といふのである。 禍か、近親中に与へらるゝ不幸かといふこと あった。即ち斯界の学者技術家の権威を顧問 伊沢多善男︶ この事件の際、神戸出張中だった房次郎は ︵追悼会記録 に網羅してその意見を悉く容れた上に、尚ほ った﹂ 安全率を何割か加へたものである。 ハニグク から再起して、 たのは松尾鉱山の経営であ 黄分が廃棄物として除去され、これを利用す 愛着であった。趣味の少ない彼にとっては、 なかったのは、政界への関心と郷土横浜への ったが、これに次いで生涯彼の念頭から放れ 最も精力を集中し 通しもますます暗くなった十九年、社長中村 ることによってわざわざ硫黄を鉱山から採掘 であったともいえる ﹁父が政治に関係したのも、実は世間様に であろう。次男正雄は次のように語っている。 政治こそ一種の﹁趣味﹂ する必要がなくなってきたのである。 太平洋戦争時代は松尾鉱山も労力不足に陥 り∴ 生えぬきの社員以外にいろいろな労務者 斜陽の影が漂よいはじめ、ついに四四年閉山 対する報恩といふことが非常に大きな気持と をかなり多数雇い入れたが、それに対する優 二代社長正雄の次は福田董、続いて小島岩 という事態を迎えることとなった。 戦後下山することになったこれらの人々は、 す。・=⋮自分の住む町を良くするといふこと して働いて居ったやうに考へるのでございま た友人先輩、知己への報恩といふことの意味 がそれこそ先づ第一の大きな報恩であり、ま 太郎、五代目には神戸製鋼から山野上喜重が 的経営に代って、いわゆる近代合理主義的管 正雄社長や社員の一人一人と握手して、涙な 理力式を打均したため、六十日間にわたる松 着任した。この時に従来の中村流の温情主義 戦後しばらくの間は、資材不足によりやは 尾鉱山始まって以来の大ストライキが行われた。 で、政治に足を入れて居ったといふ夙に私は の化学肥料、さらに紙、パルプ、化繊の需要 閉山後十年を経た今、盛岡市を中心に在住 父はよく政治は自分の道楽だといふやうな 考へて居ります。 硫化鉱六五万トンと、いずれも戦前の生産量 解を招ねきやすい言葉でありまして、勿論政 尾の〝鉱脈〟 に熱中するのと同様の熱を父は政治這打込ん 屠ったといふことと、=て=イルフ、碁、将棋 が、父は衣食の道としての仕事を他に持って ことを申して居りましたが、これは非常に誤 あって、法人﹁松尾誠心会﹂ している旧従業員の有志たちは、互に出資し でいる。将来はリハビリテーショソ化を目ざ を結成 を突破し、全国産の三〇労を占めるようにな 治は道楽に為すべきものではないと思ひます 業も併せ行い、従業員は約六千人に達し、そ しての病院を滝沢村に設立、続いて老人ホー で居った。この二つの意味を政治は道楽であ ︵仮称︶ り、以後松尾鉱山全盛時代が展開された。 の子弟のために小学校中学校各二、定時制高 ムや劇場、さらに日太民話会を創設して民宿 として蘇生させようともくろん ど、教育面へも十分在配慮が行われた。 校︵昭和三四年から公立に移管︶一の建設な このころは、鉱山用の地力鉄道、パスの営 し、房次郎・正雄以来の伝統と夢を新しい松 が増大し、昭和二六年には硫黄八万五千トソ り生産が減少したが、やがて食糧増産のため がらに枚別したのである。 遇ぶりは他社に類例を見なかったという。終 こうして昭和三五年ころから松尾鉱山には 房次郎の逝去をみたのである。 硫黄も配給制となり業構が低 ロバート・オウエン自叙伝 44 −45− は るといふやうな言葉で表現したものと私は確 あろうが、如何に凋落しようが、終始一貫翁 り必要であったらしい。民政党が苦節十年で 次郎はかねてから大隈重信に私淑し、従って この選挙の時の政敵加藤高明は、のちに彼 信して居るのであります。 は民政党のために尽した。党のために消費し 大隈の結成した改進党の支持者であった。 また父が常に蔭に隠れて居るといふことは、 た翁の金銭は、莫大のものでぉったろうが、 あり、改進党の後身でもある憲政会の絶裁に が終生援助を惜しまなかった民政党の訂身で お褒めの言葉を数々戴いたのでありますが、 ぬ顔をして居った。知らぬ顔よりも、寧ろ隠 う。この選挙がとりもつ縁になって、彼の次 就任した。皮肉な運命のめぐり合せといえよ 寸竜の利権も求めないのみならず、全く知ら ︵煙 これは寧ろ父の趣味でありまして卜︰殊に政 州漫筆︶ さん許りに遠慮していたように見えた﹂ 治の方面におきましては自分が蔭に屠るとい ふことは、適材適所といふ意味が非常に多く あったと考へて居ります。自分が表面に出て に嫁いだが、不幸にも早世した。 彼は篤実謙譲の士であったから、人と争う 長︶ 女隆は島田の子息孝一︵のちの早稲田大学総 おける島田三郎対奥田義人、加藤高明の衆議 ことなどはめったになかったが、政党、政治 彼と政界との関係は、明治一二六年横浜市に 院議員選挙戦に始まる。奥田、加藤の両名は 居るよりも表面に出て下さる力は他に多いと いふことを考へて居ったといふ夙に思ひます。 伊藤博文の推薦をうけ、権力を背景にしてす こぶる優勢であったが、当時まだ年令三四才、 この背後に居るといふことが、また一面誤 するために表面に立たれないのだろうといふ は原敬の御意見番大久保彦左衛門と異名され 選出された有名な村野常右衛門がいた。村野 解を受けまして蔭に居るのは何か悪いことを 風に、誤解されたことがあるやうであります。 無援の島田を応援、全国一の激戦を展開して 白面の一青年に過ぎなかった房次郎は、孤立 原敬内閣時代、政友会には三多摩地力から その時父は常に左様なこと彗一一口う人自身の腹 た孤高活節の人で、原から鉄道大臣として入 点房次郎と一脈通ずる風格の持主であった。 島田三郎は明治十五年の改進党創立以来の た論客であり、尾崎行雄、犬養毅と並び称さ 党の内外から敬伸されたこの人が、反対党の て党務に奔走することで満足していた。この れた雄弁家で田口卯書から﹁彼は一二郎でなく 房次郎を評して日く﹁中村君は実に君子人だ。 閣を勧められたがこれを固辞し、一組務とし シャベロウだ﹂と評された人物である。横浜 然し、困ることば党派のことになると見さか 斗士として知られ、また衆議院で最も活虚し との関係でいえば商人派を代表していた。房 と、房次郎の党派心の旺盛さを笑 ﹁村野さんという人は非 ったという。ところが房次郎はまた房次郎で、 いがない﹂ この老政客に対して と笑いかえした。互によく政敵 常に高潔な人だが、党のことになると自他の 識別がない﹂ 。そして立派な公職者 々と援助した。平沼亮三氏、戸井嘉作氏、 三宅盤氏等中村氏に負うところが多かった。 を許していた。ある時、中村氏が翁︵伊沢多 従って横浜では政界の大御所として何人も之 いたが、大震災により廃墟と化した郷土横浜 浜市会は他府県の市会にみるが如き利権屋の る。斯くて選挙毎に優秀な人物を得たので横 田政周氏︵第八代市長、大正八年八月∼十一 と約束した。それで翁は内務次官をした久保 言下に﹃私が責任を負って必ず実現させます﹄ 大臣級の待遇をするかと反問した。中村氏は ー46− の問題になると全く別人の感があった。 の中を見透すものである。汚ない腹を示すも みごとに最高点で当選させた。 のであるといふやうに笑って居りました﹂︵追 悼会記録︶ また鈴木達治は彼と政界との関連について 次のようにいう。 ﹁翁は政党から生れ出たような人であった。 従って選挙運動のときは、全く寝食を忘れて いるかに思われた。翁は自ら険補者として立 てば、貴衆両院何れでも、又何時にても、否 もなく当選し待らるゝであろうが、終生議場 には立たなかった。翁は民政党の人で、民政 党の議員を作る人であった。立院補者は公認 横浜市政も彼の重大関心事の一つであった。 町田忠治らがあげら じたのである。 惟ふにその折は数十年間に数百万の巨貌に 君が私財を以って 世話して貰いたいと依頗した。翁は冗談半分、 喜男︶ て、尽し、護り、育成した。もっとも大正九 生れ故郷である横浜のために彼は一生を懸け 一文といへど出されなかったことば勿論であ 達するであらう。その間不正不浄の金はぴた の姿を目前にして、この復興こそ天命なりと い市会を形造り、我国自治体の一模範となっ 巣窟にも化さず、額稀なる清浄なる理想に近 を訪ねて、横浜市長に大臣級の人物を かり門を閉じ市政に関与することを遠慮して 年の恐慌による増田足の倒産後は、世間を悍 考え、再び横浜のために決起したのである。 たぐい 伊沢多善男はいう。 有吉忠一、青木周三、半井済民等、何れも翁 浜だけだった。その後、市長は渡辺膠三郎、 円、市長公舎、専用自動車を持った市長は横 を推薦した。その当時年俸一万二千 年五月︶ から選ばれたのは、横浜市長には大臣級の人 戦前歴代の横浜市長が中央政・官界の大物 努力の賜といはねばならぬ﹂ ︵追悼会記録︶ てゐるのも偏へに中村君の信条の顧現であり、 ﹁横浜と中村氏との関係は一身同体で横浜 に尽すことば自己当然の責務であるといふ固 中村君は 青木周三(第12代市長) 47 島田三郎 渡辺勝三郎(第9代市長) 市即中村の生命であった。君は市の発展の為 い信念の下にその生涯を捧げた。 久保田政周(第8代市長) の推薦した名市長であった。中村氏の隠然た る勢力とその声望のいかに大きかったかが分 る。そして中村氏の背後に翁は常によき相談 相手だった。﹂ 彼が横浜市政竺貝献した事例はあまりにも 数多いが、横浜市の工業都市化の構想もその 一つである。彼は、将来の横浜ば貿易一辺倒 るといふ夙に感じたと申して居ります。また その小舟が首尾よく通り掛かりました小蒸汽 によりまして、横浜港外に繋いで居りました、 大きな汽船に引張って行かれましてこれに助 のるうえ けられたのであります。これが偶々諾威の汽 ︵追悼会一記録、中村正雄︶ その夜沖合から燃えさかる市内の猛火を眺 船でございます﹂ から脱却して、その貿易の背後にあってこれ は、灰塵に帰した横浜市再建のために粉骨砕 め、九死に一生を得たことを天助と考えた彼 身を背い、原音太郎らとともに横浜市復興会 を支える、工業の発展に重点をおくペきであ ると考えていた。そのために、現在検浜工業 を組織し、それを実行に移したのである。 爬羅てき挟を試みた。所謂地下千尺まで掘下 は的が外れて居る。東京や京都は腐敗の穐で 見よう。周知の通り、横浜の一大疑獄と称せ あっても、横浜は達ふ。日太全国であそこぐ 事を憂へて時の司法大臣に向って﹃あなた力 人権疑郡、誘導訊問、或は不実供述の強要な げたけれどもなかなか水が出て釆ない。私は ど、あの手この手を用ゐて一中村を陥れんと られたあの事件は、召喚被疑者有数十名、予 夢辣の間にも、横浜を忘れることのなかっ は出やせぬ。これは中村といふ暑が大御所で らいキレイな勉はない。いくら掘ったって水 審取調べ一年有半に及び、帝人事件を摩する の中心になっている鶴見、神奈川地区の埋立 て工事を提唱し、ここに各種の工場を誘致す ることを主張した。 また工業都市化の基盤として、構浜市に工 に働らきかけて横浜高等工業学校の創設運動 業教育の専門学校設置の必要を痛感し、政府 を始め、これが成功して大正九年四月に開校 が実現し、初代校長に鈴木連治を迎えたので ある。 大正十二年の関東大震災後の復興に対する の時に彼は太町の店で、落下した梁の下敷き 彼の献身的努力も特筆に値する。この大震災 となり大けがをしたが、辛うじて海岸まで脱 出することができた。 ﹁その時その岸壁に一つの舟が漂って参り ました。=・⋮その小舟の中に父の日頃から信 てございます。:ニ:この舟こそ全く天の腸であ 仰致して居りまする伏見のお稲荷さんが祀っ ○ 房次郎と疑獄事件 た彼にとって、かりそめにもいわゆる横浜疑 の有罪老すらなく寧ろ却って君の人格に後光 したものだが、泰山鳴動鼠一匹も出ず、半個 むし 獄事件の被疑者の一人とされたことは、まさ なった神奈川県下某村に於ける火災保険金詐 当時一村挙げて検挙され、而も全部無罪と うでないやぅだ﹄と見解の相違に帰してドン 考はさうかも知れぬが検事の側ではどうもさ い人物だから⋮⋮﹄と忠告した。が﹃伊沢の あるからだ。彼は不正を蛇蝿祝してゐる正し らんでまず川崎市に疑献事件が起き、ついで ドソ進行させ、悪辣な手段を弄してまで中村 を添加する結果を見た。 九月には横浜市の土木局に飛火し、さらに水 だが、殊に横浜事件は抑々の出発点から狙ひ 取事件と共に、検察当局の甚だしい黒星もの 然らんとの謬断によるもの、このファッショ 外れで、東京市会の腐敗を見太に横浜市も亦 年有余の審問公判の結果遂に首数十名の被告 は全部無罪の確定判決を受けた。 をプチ込まふといふ瀬戸際へ釆た。しかし二 そも 件について伊沢多高男は次のように述べている。 に於ける厳然たる大御所であり、希に見る高 迷惑千万な事件であった。 的傾向の司法連中に狙はれた中村君こそ誠に くまで縁の下の力持を以て信条とされてゐた 誌にその名を謳はれることを極端に厭ひ、飽 くべし一箇年以上に亘って中村攻撃の筆陣を との前提から、横浜の検事局と通謀して、驚 市の大御所だから必ず悪事あるに決ってゐる 事は、ある新聞支局長の某が、中村は横浜 関係者で同時に中村君の親友である其々氏が のに累を及ぼすやうになって来たので、同社 相手取って告訴しようとした。新聞社そのも と今村力三郎君を訴訟代理人としその新聞を 段潤することば司法権の神聖を漬すものだ、 に居れなかった。漸く迄事実を歪曲し人権を 事致に到っては流石に温厚な君も憤慨せず らう。併しながら、世間的には余り名の通ら 潔な人格者であったことを知る人は知るであ からである。 張ったのに端を発したのである。︵昭和十年 ぬ特異な存在であった。し、君は新聞や雑 同君は、私より一歳の年少であったが君と ういふ場合になると見違へる程強い人となる 司法部廓倍の為にどこ迄も開ふと頑張る。漸 しかし中村君は、新聞社だけの問題ぢやない、 中間に立ち告訴取下げ運動に乗り出して釆た。 也さ 二月十九日に始まるこの新聞の私政太平記を 長き竺且ってゐる。:・:私の生涯に於ける交友 この某は或意味の正義派であるが、ファッ 看である。この感変には私も共鳴して﹃大い ば数千名に及ぶと思ふが、中でも君は最も擢 ショ流の独断を以て斯る過ちを犯した憫れむ んでたる大人格者の一人として私の畏敬おか ペき男であった。検察当局が亦この輩に倣っ かか 君が処世の純正無雑さを証処立てる顕著な にやり給へbと激励してゐたが、社関係の連 ざる心友であった。・= て取調に着手し多数の独断的被疑者を召喚し 論を寄稿した︶ の友交は明治三十年以来実に四十有八箇年の (現 横浜国大工学部) 指す。これに対し房次郎は横浜貿易新報に駁 ﹁横浜市の中村房次郎さんと言へば、同市 道局電気局にまで派及したものである。この この事件は昭和九年春、県営水道事業にか に青天の露寝であった。 むび 横浜高等工業学校 一例として、世に謳はれた横浜事件を挙げて −48¶ 一49一 名教自然の碑 中が有らん限りの取消的記事を掲載するから 許して呉れと懇願したので私もそれに同じ、 中村君も不平満々ながら陣を退いて、久しい 例である。 昭和十年四月、どらノいう名目かば不明だが 彼は検事局に召喚された。その時に検事は、 と訊ねたのに対し、彼は たでしょうね﹂ ﹁い ﹁あなたは町田商工大臣をお訪ねになりまし や町田商工大臣を訪ねたことはありません﹂ 間喧伝されたこの事件も、正義人中村房次郎 けり の名がはっきりやきつけられて局となった。 ﹁いや何月何日にお訪ねなさったでしェう﹂ と答えた。 いま時の世に漸ういふ人が一人でもあったこ この事件に当って盟友原音太郎は彼の潔白 とは誠に頼もしい次第である﹂ お訪ねしました﹂ とたたみかけたが、彼は﹁商 というと、検事は﹁同じぢ ﹁町田民政党総務を ヤないですか﹂ と検事は追及した。彼は 疑獄問題をめぐって示された彼の態度に関 を信じ、観音経を浄写して彼に贈った。 するエピソードは数多いが、次の詰もその一 ○ 彼の讐咳に接した旧社員−松尾鉱山勤続三 原三漢書1観音経写経 工大臣を訪ねたのではなく、民政党総務を訪 ねたのだ﹂ と突っぱねたので、検事もこれは 手ごわい相手だと思ったという。 担当検事は彼の銀行預金その他について、 種々詮索を試みたが遂に何の得るところもな く、結局検察陣の大失態で幕を閉じた。 と語ってその遺徳を偲んでいる。 松尾鉱業の閉山後しばらく経過した昭和四 八年から、首都圏在住の旧社員は老松会︵房 ド●ホテルその他を会場にし、知人朋友を招 ー51 房次郎の横顔 −老松会− けいがい 房次郎の松尾鉱東従業員に対する態度は、 次郎は翠松山人または老松山人の雅号を用い 権謀術数とか懐柔策とは縁遠い、全くけれん ていた︶という親睦会を結成して、毎年七月 七日−七夕の日に、松尾鉱業の元東京事務所 味のない誠意溢れるものであった。一年に一、 二度この鉱山を訪れる時には、土産として必 のあった新丸ビルのレストランで約百名が会 同し、懐旧談に花を咲かせ今なお中絶するこ ず虎星の羊かんとか高級の牛肉などを携行し、 社員一同に配布した。ある時には社員の奥様 となく続けられている。 用に反物を贈呈して大喜びされたこともある。 昭和八年十二月、一係長の赴報に接して、 −忠臣蔵1 葬儀参列のために駈けつけ、降りしきる雪の 彼は大の歌舞伎愛好家であった。とはいっ 中を速製の藤椅子かごにゆられて登山したこ ても﹁藤十郎の恋﹂その他不義密通ものは嫌 ともあった。また太平洋戦争で出征する従業 悪し、﹁忠臣蔵﹂のファソであり、劇作家と 員のところへは、武運長久を祈る伊勢神宮の しては真山青果を好み、俳優では中村吉右衛 守札を、他人の手を借りず自ら一軒毎に配っ 門を晶負にしていた。 忠臣蔵上演の際には多忙な日程にやりくり て歩いたりした。 林知義鉱山所長は﹁どんな事態にぷつかろ をつけ、この時ばかりは家族同伴、新横浜舞 うと、私は中村社長のあとについていくつも 場や歌舞伎座での観劇を楽しんだ。 また毎年十二月十四日には、ニューグラン りだ﹂とよく人に語っていたという。 八年の松枝岩太郎は﹁ほんとうに親しみのも いて﹁義士会﹂を開き、赤穂浪士を中心とし てる人で、また大変な感激居士だった﹂、勤 た話題に興じたり、〝年の瀬や年の淑や〟と 続三五年の大藤才一郎は﹁全然いばらない人 一句案じたりして一夕をすごした。ある時の で、われわれをいつも﹃さん﹄づけであるい この会合では、例にょって参会者に土産の折 は﹃あなた﹄と呼んでいた﹂、勤続三〇年の 詰を塁上したが、その中味が真山青果の級曲 三富正夫は﹁陸奥の荒野の中に駒を立てての であったという。 歌こそ、偽わらざる社長の真情そのものだ﹂ 老松会 葉山青果一元線虫臣蔵 横浜疑獄事件判決記事 ー陰徳− は喜色満面、さっそく写真店にかけつけ、そ 抗浜の市営墓地の一つとして、現在の港南 の号外を手にした姿を撮影させた。この一事 区に日野公園墓地が開設されたのは昭和八年 を み ても皇室心酔ぶりのほどがうかがえる。 である。当時は交通不便の地で金持はタクシ ﹁私が故人に対して最も敬意を表したる所 ーを利用できたが、一般市民の墓参はひじェ の第一の点は、故人は常に皇室を尊崇するの ぅに難渋していた。 念が極めて厚かったといふ事であります。私 昭和十年、四女蕗の逝去に当り、この日野 は故人と懇談を致しまする際に、時折私が経 墓地の一角を入手して始めてその実態を知っ 験を致したることやら、文人から聴き及びま た彼は、横浜市当局へ技術し、翌年彼岸の三 したる、聖上陛下の御聖徳のことにお話を致 日間だけは特別に、墓地内までの市バス乗入 したことがございまするが、その節は故人は れ運転を実現させた。 必ず襟を正し敬虔なる態度を表されて、話を また彼が永眠した根岸旭台の地は、もと して居る自分の方が却って恐縮を感ぜしめら ぅに配慮していたが、彼は事いやしくも皇室 に関連のある行事であるというので、自ら率 先して応募し、そのために神奈川県では寄付 金がたちまち予定額を突破したという。 彼は民政党に所属していたので、政友会の −約束− 場にあった。 赤尾彦作とは氷炭相容れない政敵どうしの立 赤尾は平沼専蔵の顧問弁護士をつとめたり した弁護士会の長老で、横浜市会切っての雄 弁家として知られた人物である。その赤尾が、 ﹁敵ながら天晴れというのは中村氏のような この二人は関 れたやうなことがあったのであります。 た。しぼうはは死亡に通じて語呂が悪い。そ 時にはその御聖徳に感動の余りに、能く見 こで彼はこれまた横浜市へ改名を進言し、こ ると故人の眼底に光るものがあるやうに考へ れがとり入れられて昭和十五年四月一目、今 られたこともあるのであります。・︰ のような佳名に変ったのであるが、これらの その後横浜の復興が完成致しまして、聖上 ことについて彼は一切他人に吹聴しなかった。 陛下が行幸になりましたが、その時に故人は 交渉の模様をかげで見聞した、家族だけが知 全く無官であります。無位無官のこの方が特 っていたのである。 別なるお思召を以て破格の単独拝謁のお許し 東大震災後、描 ﹁芝生台﹂ ︵しぼうだい︶という町名であっ を受けられたのであります。この時の故人の 浜復興のために、 と語っている。 虎五郎回顧談︶ すれば、それで済む頼りになる人だ﹂ ︵斉藤 に証文を書く必要はない。こうしようと一諾 争を続けて来たが、あの人とは約束をするの 男をいうのだろう。中村氏とは始終激しい政 感激は実に筆紙に尽し難い様子であったこと −皇室崇拝− りを捨て政治的 従来の行きがか をたずさえて起 怨讐を忘れ、手 ち上ったのであ る。 方を招待したわけですが、このときに中村さ このときばかりは私が主人公となっておえら 町の美登里の二階でお祝いの会をやりました。 中村房 んと井坂さんがそろってシルクハットにモー ﹁︰︰︰日露戦争が終ると横浜の景気もすば を語っている。 彼は心底からの皇室崇拝者であった。正月 を私は記憶致して居るのであります﹂ ︵追悼 の一家団欒のかるたとりにも、百人一首はし 会記録、有告忠一︶ りぞけて、専ら明治天皇御製のかるたを用い 帝妄博物館の建設基金や、紀元二千六百年 たという。 記念の祝賀金の募集などに当って、政府は関 昭和八年十二月二十三日、皇太子継官明仁 東大震災の被害甚大であった神奈川県に対し 親王の誕生が新聞の号外で報道された時、彼 ては、なるべく県民の負担が重くならないよ ー富太郎の葬儀− りました。井坂 や美登 房次郎と原富太郎とは、前述のように明治 三六年の衆議院戟を契機に、昨日の敵は今日 の大御所も、 お開きすると﹃お前さんのお祝いだからだよ﹄ ニソグ姿で現われたのにはびっくりしました。 の友となり以来刻頸の交わりを数十年間続け いたものです。中村さんは表 里に私たちをよんで下さって豪 といわれてたいへんに恐縮したんですが、後 てきた。その富太郎は昭和十三年の暮れに肺 に私つてこれが進水式にいった帰りとわかっ かげでよく 井坂をんは藤、中村さんはかたばみ、徳右 て大笑いしたものです。 めんどうをみて知らん顔をなさる人でした。 アメ㌢カ陛隊がはいってきた時も、中村さ 立ちになることはありませんが、 炎を病んでから衰弱が加わり、十四年にはい ﹁山 ってからは病床にあることが多く、八月十六 日午前一時家族知人に見守られ、雪舟の 水画巻﹂を枕頭に飾って眠るがごとき大往生 れぞれの定紋つきで衰に寿とそめた座ぶとん 南門さんは竹に雀といったふうにみなさんそ んがその歓迎にいろいろ気を配っていました。 わざわざ﹃歓迎﹄という歌を幸堂徳知さんと をとげた。 杵屋勘五郎さんに作らせて、私、春子、照子、 この富太郎の死に当って、彼が葬儀委員長 を担当することとなり、故人の意志を付度し も時代がのんびりしていたからでしようね。 そのときの御祝儀の下されようも、中村さん、 を配ったのでしたが、こんなことができたの 井坂さんそれぞれ変っていましたよ。中村さ いろはの四人を呼んでおどらせて、招待した 中村さんはいわれることを聞きかえされる んは丁寧に水ひきをかけたものを差し出して て通夜も告別式も供花供物の類は一切謝絶し、 のがおきらいでときどき困ることがありまし ﹃おめでとう﹄と渡されたのですが、井坂さ アメリカの軍人さんを喜ばせたものです。 た。いわれたのが葉巻かハガキかわからない んは﹃これでふんどしでも買いな﹄といった ただ三渓園内に咲いていた蓮花だけを切とっ 告別式は十九日ときまりいよいよ柩が住み ときは両方持って行って文句のいわれないよ て仏前に供えた。 なれた邸を由る直前再び開かれて、遺族と最 うに努めたむのでした。私の方にお祝いごと 調子でした﹂ づ 後の別れを惜しんだ折も折、持仏堂の天授院 があると﹃いずれいつかうかがう﹄﹃おめで ︵横浜今昔︶ きて人々の胸を打った。 たしか昭和七年ごろ私が芸者になつて主十年 私の一生の思い出として残っているのは、 ちが恐縮してしまいました。 とう﹄とていねいにいたわりますので、こヶ から撞き出された鐘の音がゆるやかに響いて こうした劇的な場面の設定は、彼のとりは からいによるもので、なにごとにも細かい配 慮を忘れない彼の一面を物語る一例である。 ︵徳右衛門︶、 中村さん、井坂さんなどごひいきにして下さ 目を迎えたときでした?石川さん 十四才のとき吉奴の名で関内芸者として売 ったかたが虎が、しせりに一席設けることを すすめられますので、温い切って先代の常盤 −芸妓の談− り出し、明治、大正を通じ横浜随一の名妓と して謳われた外山美喜は、次のような思い出 52 一53一 日野公園墓地入口 ー飛鳥田二代− 飛鳥田一雄︵現社会党委員長︶が弁護士に 安部の弟分に日本で唯ひとり社会党の首相と なった片山暫がいた。片山も弁護士で、恐ら ︵北岡和義﹁ペらんめえ委員長﹂によ 方を教えてくれたらしい﹄と言って笑ったと ﹃片山先生は一雄に弁護士の仕事より政治の め飛びまわるようになって、飛鳥閏喜一は この仕事を通じて片山を知りその人終に重 く惹かれる:⋮・ 後年、飛鳥田が政界出馬を決 や事故原因について資料を集めた。 山へ行った。弁護団は泊り込みで、鉱害調査 なりたての一九四︼牢、岩手県の松尾鉱山で く安部の関係だろうが松尾鉱山事件を手伝う。 落盤事故が起きた。松尾鉱山は・・・■二・飛鳥田喜そこで飛鳥田は、父喜一や片山哲について鉱 一︵一雄の父︶が顧問弁護士をしていた。喜 ︼も民政党の政治家であり、中村の信任篤く、 実質的なスポンサーであったらしい。 中村房次郎は、けっして自分が表面に立つ ことをせず、しかも政治を利用Lて利権を漁 る、といったことには激癖であった。 毎月松尾鉱山から振り込んでくる莫大な金 額を中村は訪れる政治家にくれてやったとい る︶ ムを完成し横浜・川崎へ用水供給の水力発電 議員が来訪され、私はついに市定職を引うけ 田喜一民らを筆頭として十名ほどの横浜市会 度もここへ出かけたことはなく、伊沢多善男 うか栢淡というか、ともかく中村氏というの 氏に無料で貸与し利用させていた。潔癖とい この横浜政財界の大御所の伝記編集につい はそうした人柄であった。 て松尾鉱業閉山時の会長太田亥十二氏からも 相談があり、私なりにまとめてみたいと思い 立ち、その資料集めのために西区老松町の中 村家を訪れたが、これぞというものは残され ていなかった。 そこで中村氏の顧問弁護士だった故飛鳥田 −54− いう﹂ 春秋の筆法をもってすれば、政治家飛鳥田 一雄の誕生は松尾鉱山事件が、ひとつの機縁 になったといえるかも知れない。 そのころ市長選出は市会の議決による制度で 事業をおこした際、当時政治的には一布衣の る破目となったのである。 中村氏は売名的なことが極度に嫌いな人で かと考え、飛鳥田一雄市長をたずねて問い合 喜一氏のもとに、なにか保存されてはいない せたが、戦時中重要文書を疎開した際、その 疎開先自体が焼失してしまったとのことで、 ここでも手がかりになるものはやはり入手で 中村氏はまた実に礼儀に厚い人だった。晩 きなかった。 小泉三申 I、■ ぅ。昔の〝黒幕″といわれた実力者の気風の 良さを示す話である。折目正しい人で、保守 政界でもめたりすると大抵、中村の裁断で結 着がついた。私心がなく政治家に投資してい たから彼には頭が上らなかったのだ。 今の〝黒幕″と呼ばれる人たちが、児玉菅 士夫や小佐野賢治の名を出すまでもなく、完 ると雲泥の差である。 全な政商、利権屋になっていることとくらべ 飛鳥田の弟律之の話によるとよく父喜一の どを届けたことがあった。すると子供の使い 言いつけで、中村の屋敷に磯子で獲れた魚な でもちゃんと中村本人が玄関に出てきて、正 中村の長男正雄は、安部磯雄の娘を要った。 座をし礼を述べるといった昔風の厳格な陰の 政客であったという。 一半井清− 昭和五三年中秋のある日、半井清元市長 ︵現横浜信用金庫会長︶を訪れ、中村房次郎 に関する次のような談話をうかがった。 ﹁私が神奈川県知事︵昭和十一年三月∼十 身にすぎなかった中村氏が、わぎわざ私を訪 あった。横浜高等工業学校設立に尽力した時 あり、具体的な交渉のために赤尾彦作、飛鳥 ねてきて丁重な挨拶を述べられた。横浜市民 三年二月︶として在撒中だったころ、相模ダ の一人として感謝の意を表明されたのであろ や、その他の公共事業に多額の寄付をした際 によU う。その時に私と中村氏とは相識の間柄とな ったのである。 前を出すなら金は出さぬ﹄ ﹃自分の名前は絶対に出してくれるな。名 といい張っていた。 私は大阪府知事退職後、東京の田園調布に るつもりでいたが、その矢先官界の大先輩で 居をかまえしばらくは悠悠自適の境地にひた 中村氏が亡くなられた時、私は市長として へ参上したが、中村氏はいっも床上に半身を 市政談義やらを兼ねてときどき椴岸旭台の邸 起しわざわざ羽織を着用、威儀を正して迎え 年病床に就かれてからも、私は病気見舞やら 氏ほ終始舞台裏の人にとどまっていたため、 これは今 てくれた。 中村氏は、党派的には反対党の政友会所属 印象であ られない る﹂ だに忘れ たらしく、その政敵の小泉氏から伊豆の伊東 であり、〝政界の惑星″と称されていた小泉 の別荘を寄贈された。しかし自分ほただの一 策太郎氏︵三申︶と、どこかウマが合ってい あきらめざるを得なかった。 表だった資料がさっぱり発見できず、ついに 労について叙位叙勲の申請書を、賞勲局に提 の立場から、中村氏が永年市政に頁献した功 飛鳥圧一雄(弟18・19・20・21代市長) 片山 哲 出するためにいろいろ調査してみたが、中村 ある伊沢多善男氏から、横浜市長に就任して 半井清 55 飛鳥田喜一 くれというたっての要請をうけた。うちあけ 話になるがこれは中村氏が伊沢氏に ﹃今まであなたにはあまり無理なことを顛 (第13・17代市長) 知るを得たり﹂ とあるように、これを機縁と 禽太郎の手記に ﹁これより中村房次郎氏と相 した宮太郎とは一時政敵の間柄となったが、 の際に島田三郎を擁立した彼と、これに対抗 原京大郎である。明治三六年の衆議院総選挙 彼の莫逆の友としてあげられる第一人老は 房次郎の交友 の快事是に過ぐるものあるべからざる也。自 地は天下絶勝の境、友は尊敬心交の人、人世 あらぎるところ、況んや時は白雲紅葉の節、 に悠々其の秀麗の気を満喫せること未だ曽て を回顧して此の如く六日間に及び、山水の間 急遽忽忙の事無し⋮⋮ 予今年六十一才三十年 し画を作り閑日月を楽しむの人、此行亦苛も 是を東通す。先生常に悠々自適、時に詩を賦 六十年﹂ 政に尽した人物である。また 市長に当選、三十年にも引続き再選されて市 院多顔納税議員となり、昭和二六年には精浜 議院議員に当選、昭和七年、十四年には貴族 と呼びあう間柄であった。大正十三年にも衆 はあったが野次郎とは、﹁寛さん﹂﹁房さん﹂ ○ して二人は肝胆相照らす親友にかった。以来 ら其の幸福を喜ぶと共に、此の′機会を与えら 宗演の欧米旅行に通訳として随行、明治二九 洋三は岐烏県出身、明治二六年円覚寺の釈 の著書をもつスポーツマンでもあっ ﹁スポーツ生活 数十年間横浜の政・財界の問題で、この二人 れたる一に先生の賜として感謝するところな 年末サムライ商会という美術商を開業、昭和 た。 が共同歩調をとらなかったものはほとんどな り⋮︰・翠松山人﹂ 長井坂孝に次いで二代会長となり、横浜にお 一 ける経済・文化の発展につくした功労者であ 56 十三年にはホテル︰一ユーグランドの初代会 る。明治三八年、欧米巡遊の放から帰ってき 大正四年の衆議院議員適挙では島田三郎と かったという。 経営形態は異なっていたが、彼の事業には ともに、三六才の若さで中立派の自治倶楽部 た房次郎は、﹁若手ではピカーの利け者﹂ 禽太郎が協力し、音大郎の事業には彼が援助 大正九年の恐慌で増田星が破産に直面した時、 するといういわゆる唇歯輔車の間柄であった。 賀会が住吉町の料亭千畳世で開催された時、 から立候補した平沼亮三も当選した。その祝 ︼ 富太郎や井坂孝の奔走で、松尾鉱山だけは整 うわさされたが、その序次郎を大隈重信に紹 と 理対象から除外され、彼はこれを拠点として 介したのが洋三であり、房次郎と亮三を結び うけることとなったのである。 尾鉱山に関係して居りますが⋮⋮大正九年に 親友の言は聴くべきは聴く。容れられぎる この時の増田良問題に対し、富太郎と手を べきは盟友の忠告といえども断乎として拒絶 たずさえて示した井坂の好意が、感激家の房 する。ここに彼の真骨頂が表われており、こ 次郎の肺腑にしみて、以来水魚の交わりが続 うしたことがかえって彼らの友交の絆をより けられるようになった。 ﹁人の恩の第二の大いなるものはやはり松 いつそう強化したのである。 めてしまった。︵野村洋三伝︶ すよ﹂と言って何の未練気もなくさっさとや 富太郎、渡辺福三郎、若尾蔑造らとともに引 ﹁この四人の血盟は終生変ることはなかっ つけたのもまた洋三であった。 一二の手を握って義兄弟の誓いを立てた。 亮三は天保年間に、横浜の平沼新田を完成 熱血漢の彼は富太郎と亮三、それから野村洋 昭和五年、彼は松尾鉱山の発展状況の紹介 した平沼家の子孫九兵衛の長男。年令的な差 みごとな立直りをみせたのである。 を兼ね、富太郎を案内して東北地方巡遊の旅 に出た。松島、平泉、盛岡、松尾、十和田湖 帰浜した。時は十月の候で錦掠山野を彩り、 まで同行し、それから単身秋田、新潟を経て 都塵を離脱しての数日間、心ゆくまで互いの 心情や人生観を搬癒しあったのである。彼は 太郎に贈った。 この族行の写真帖に自筆の紀行文を添えて盲 ﹁⋮⋮今秋三渓先生東北に遊ぶに際し⋮⋮ 協力と団結こそは、横浜の発展の原動力であ た・⋮︰大仰な表現を許されるならこの四人の ったといってもいいだろう﹂ ︵ホテル・lユ ーグランド五十年史︶ ﹁派手好きで茶目っ気の多い平沼を除けば 原、中村、野村の三人はどことなく性格的に 似かよったところがあった。それでいてその 行動力にほ原が隠忍、中村が真情、野村は強 烈といったフォームをもっていた。三人はよ く早朝の三渓園で時事を論じ横浜の発展策な どを語った。 朝めしは原の自慢の蓮華飯であった。これ は開花したばかりの蓮の花に自販を盛り、こ といっしェに食べるのである﹂ ︵野村洋三伝︶ 彼の知友のなかで富太郎らよりはだいぶお はこの山も財産の一つとして銀行に提供致し くれて、親交を結ぶようになったのは井坂孝 ましたのでございますが、井坂孝翁その他友 人の方々の絶大なる御尽力に依りまして、こ である。 井坂ほ茨城県出身、正直一点張り、豪傑肌 れをまた父の手に戻して戴きましたところの、 の水戸っ子であった。明治二九年東洋汽船株 この御恩であります。若しこの御尽力なかり 式会社に入り、浅野惣一郎の片腕となって括 せば父はおそらく経済的に復活も出来ません 醍し、同社の横浜出張所主任をつとめている でしたでせうし、また念願も達し得なかった 間に三代茂木惣兵衛の知遇を得て、同店顔問 と存じます︰== に蒋聴された。大正四年東洋汽船を退いて横 またその恩の琴二は大正九年⋮:・一切の財 浜火災海上保険株式会社の取締役に就任、同 たげう 産を描ちまして、全く明日からの衣食にも窮 九年社長となり、その直後に訪れた戦後恐慌 したわけでございますが、その時故原三疾翁 で危機に祝した横浜財界の再建について、原 が生活の資にと多額のお金を御貸与下さいま 57 れに蓮の実と青紫蘇をかけ香りの高い味噌汁 序次郎は明治三五年から大正二年まで横浜 市会議員の職にあった。その三期目があと四 か月で満了という時に、彼は突如として辞意 を表明した。政治の舞台裏で行われる醜争の 井坂 孝 野村洋三 実態をみせつけられて、つくづくいや気がさ (弟15・16代市長) したのである。 富太郎と洋三はその短慮をたしなめたが、 彼は、 ﹁もちろんそんなことはわかっている。こ の任期を勤めあげれば終身の議員待遇となる いことを考える人間でないことは、あなたが わけですからね。しかしおれはそんなさもし たも御承知じやないですか。止めてもむだで 原 雷太郎 平沼亮三 活までの数年間を心配なしに衣食して居りま となり、松尾鉱山行きの際にも医師を同伴す 郎も、晩年は高血圧に悦み薬餌に親しみがち 平素、自他ともに健康を謳歌していた房次 房次郎の死、家族 れなかゥた事は、中村さんの御関係の御事業 て居った最後の暗まで、中村さんの念頭を離 私はおそらく中村さんの意識がはっきりし のであります⋮⋮ たのでその後も時々病床をお邪魔して居った ○ した。この御恩につきましては父は全く有難 るようになった。発病の直接の原因は落盤事 のことと横浜蒲の発展のことであったらうと したその一事であります。父はこれが為に復 い、死んでもなお忘れることが出来ないやう 件による心痛のためといわれ、最後の四年間 ⋮⋮私は今父と原三陸翁とは地下に於て対 な御恩だと感謝を忘れなかったと思ふのであ ります。 は三人の息女にみとられながら、全く病床に 録、半井清︶ 私は考へて居る次第であります﹂ 居ると思はれるのでございます。私の目の前 起って居りまして、横浜に御関係のある有力 する横浜に取りまして、簸めて厄介な問題が ﹁併し其当時は︰⋮・東京開藤間題と申しま 昭和十九年九月二四日午前零時三六分、根岸 に行きたい﹂ 魂を條け、また﹁もう一度達者になって松尾 ︵追悼会記 横たわる生活であった。 に何かこの二人の肝胆相照らした両翁がその な方々の皆心配して居られたといふやうな事 面を致しまして、父は必ずこのお礼を申して 手を取合って往時を回想し、またこの横浜市 情がありましたので、屡々私は病床を訪れま た、多彩な七五年の生涯の幕を閉じた。法名 との念願を抱きながら、ついに 横浜市政については病床にありながらも心 る姿が浮ぶやうな気が致すのであります﹂ の発展につきまして尽きざる物語りをして居 してそれ等の問題についてお話を致して居っ 野公園墓地に葬られた。葬儀委員長は伊沢多 ィス●カップ出場選手であり現在早稲田大学 58 旭台の自宅に於て至誠と努力で貫らぬき通し ︵追悼会記領、中村正雄︶ その後も市政のことにつきましては、病床 は大磯院仁山明義居士、遺骸は九月二六日日 に居られましても極めて深い関心を持って屠 たのであります。 死鳥のように再び羽ばたくことができたのは 第一次大戦後のパニックから、房次郎が不 井坂孝、原電太郎という二人の良友の支援に 梨園の人々も参列した。 増田家は元来浄土真宗の檀徒であったが、 ったままで、三女のシスター︵修道尼︶俊に 房次郎はその後臨済宗に帰依しさらにまた大 ょってカソり/ック教徒としての洗礼をうけた てお話を致して居ったのでありまするが、そ の為にも遠慮すべきではないかと考へたので 山阿夫利神社をも信仰しており神仏両道の信 ありまするけれども、御家族の方からは市政 が、葬儀は仏式で行われた。導師をつとめた 奉者であった。逝去の数か月前病床に杭たわ のことをお話を聴くのは、父として非常に楽 の後段々と病気が重くなられまして、或はさ みであるので決して病気に悪くない、ですか ﹁青山骨を埋むと維も名を埋めず﹂と二記して いる。 人道主義的傾向が強かったとはいえ、〝資本 郎の人柄を上く見ぬいていたからでしよう﹂ を辿っていくありさまを知らずに永眠したこ 家〟中村房次郎の子息に愛娘をめとらせたこ とは、あるいは幸いであったといぇるかも知 とは、世間注目の的となった。 このことについて京は﹁実父の磯雄が一掃次 れない。 松尾鉱山が\時流の変遷によって閉鎖の悲運 房次郎の晩年はあたかも太平洋戦争のさな 明治、大正、昭和三代にわたって活躍し、昭 かであった。彼の没後間もない十月、アメリ 和三年には社会大衆党委員長となり、また早 カ軍はレイテ島を占領、十一月にはサイバソ 稲田大学野球部の創始者として知られた安部 島からの本土空襲が開始され、日本の敗色は 磯雄の次女東である。正雄と京の月下氷人役 をつとめたのは羽仁説子夫妻であった。 歴然たるものとなっていた。 熱烈な皇室崇拝者であった彼が昭和二十年 正雄は早稲田大学在校中野球部の選手であ 八月のみじめな無条件降伏のていたらくをみ り、部長の安部とは配意の間柄であったが、 ずに瞑目したこと、また全心全霊を傾注した それにしても社会主義老の先銭である安部が えないといふ、かういふ風なお詰もありまし らどうぞ遠慮なしにお話をして下さって差支 円覚寺の朝比奈宗源管長はその儀の結句に、 ういふ事で病床をお邪魔することは、御病気 様が見えまするので、なるべく時々お伺ひし 嘉男であった。この葬儀には中村吉右衛門ら よるものであった。 め管理 彼岸が過ぎたある昼下り、港南区にある日 はじめ房次郎の墓地の所 野公園墓地をたずねた。 いる手が手間どっていた。 事務所に寄った。係の人が墓地台帖を操って 入口の壁に美空ひばり家と並んで著名人の 墓石一覧が粘ってある。 五姓田義松︵洋画家、ワーグマ∴/の弟子︶ 常山籍二郎︵歌人︶ 白瀬中尉︵南極探険家︶ 中村房次郎という名は見当らなかった。 中村家としては地味な二〇坪足らずのささ 彼の夫人あいは、彼に先立って昭和十五年 と語っている。 三月二三日七一歳の天寿を全うした。房次郎 こうした両家の関係もあったためか、正雄 夫婦ほ二男九女の子福着であり、九人の息女 は戦後日本社会党から参議院議員に立候補し がことごとくカソリック信者であったことか ようとしたが、いろいろな事梼で実現はしな らも、いかに清純篤信の家庭であったかが察 かった ちなみに京の令弟安部民雄は、往年のデヴ せられる。 長男長太郎は病弱︵昭和二二年五五才で長 。 やかな墓地だった。その一角には煙州銘木遠 虞の生垣の中にある鎌倉式の墓石だ。 治、富山保、林知義等の塞が隣接していた。 沈丁花の廣にまだ紅葉には間がある一本の 山紅葉が吃立していた。 ひどく爽やかな登城であった。 逝︶であったため、次男正雄︵際富太郎の一 子良三郎と同期の早稲田大学卒業︶が、彼の 死後松尾鉱山の社長に就任し父の遺業を乳ぎ、 すぐれた経営者ぶりを発揮した。旧松尾鉱山 の一角には今もなお、横浜生まれの里見醇の 筆になる﹁誠実の人中村正雄﹂の石碑が残さ れている。 正雄の妻は、キリスト教社会主義老として 中村正雄の碑 59 られまして、何でも聴きたいといふやうな模 中村房次郎の墓 家であり、劇団﹁仲間﹂ 全うし得たともいえる。 はなく、清廉潔白な その資産を受け継いだ房次郎は手を汚す必要 には汚い仕事にも手を染めたかもしれないが、 をつとめ、令妹夏子は丸山ワクチンで有名な の死に遭遇するまでの年月、その挙措を限に にはテレビにも出演するが、十八才の時祖父 あの謹厳な風貌からは想像しにくいいたず 文学部名誉教授、同じく道雄は自由学園教授 医学博士日本医科大学名著教授丸山千里の夫 人である。 してきた。﹁演劇人﹂中村俊一には、房次郎 ら好きの面もあり、ユトキアや洒落ッ気を愛 の主宰者であり、時 房次郎の長女節は内務省の官吏松崎謙二郎 の姿がどのように映じているか、その談話に していた。昭和九年の疑獄事件当時、祖父も 房次郎の孫にあたる中村俊一は新劇の演出 に嫁し、その長男仁は立教大学で日本文学を 耳を傾ける機会を得た。 〝紳商〟としての生涯を 担当しており、次女隆は前述のように島田孝 の結婚の媒酌人は原富太郎夫妻であった。一二 孫の私から見ても、これこそ弱点だというも 立派で、欠点を見出せない人間だというが、 にはいつも野毛タクシーを使っていたが、そ た。祖父は自家用車を持たない主義で、外出 家の前に常時串を張込ませては後をつけてい 関係者の一人ではないのかと疑った新聞社が、 女俊は父に洗礼を行った﹁サンモール教会﹂ のは見当らない。唯それは完全無欠な人間と の運転手に﹃Sさん ﹁人はよく祖父について、どこから見ても 所属の修道尼であり、四女砿は早世、五女篤 いう意味ではなく、俗ないい方をすれば ん付で呼んだ︶、角を曲ったら車をとめて新 一夫人となったが若くして逝去した。節と隆 は昭和二九年五八才でなくなった正雄の後継 エ恰好しい″、もう少し丁寧ないい方をすれ ︵祖父は誰に対してもさ 者として、松尾鉱山三代目の社長に就任した ば、他人には絶対弱味を見せたくないという けて下さい﹄といい、遵に新聞社の車を退か 聞社の車をやりすごし、こっちが後を追いか あれだけの事業をした人間だから、自己顕示 夜の宴会等に出席のため一旦帰宅し、別の一 私自身にもその傾向があるのでよく分るが、 〝エ 福田董の妻である。媒酌人は東宮付武官の海 サムライ気賀のようなものがあったと思う。 七女富士は野村洋三夫妻が仲人となり、法 欲は相当強かったと思う。しかしそれ以上に 着に着かえて出かけるのをよく見かけた。 軍少将でカソリック信者の山本信次郎夫妻が つとめた。 務技官村田隆興に嫁した。六女桂、八女恭、 強かったのは、その顕示欲を生々しく露出さ 目立ち過ぎるということを極端に嫌っていた しいと祖父に訊かれた。弟はすぐに﹃加藤清 祖父は非常に困った顔をした。図星だったの ﹃こりや清正の方が大分高いね﹄というと、 が、どう見ても清正の方の表情が生きている。 私には八幡太郎義家を買って来てくれたのだ 望しなかった。そして祖父は弟には加藤清正、 正がいい﹄と答えたが、私は特に何をとは希 〝政商″的な側面がつきまとうわけで、時 取りをして外地へ進出 発展に伴い、国策の先 れ へかけての大商人に見られる、多かれ少なか ﹁曽祖父の嘉兵衛には、幕末から明治初期 俊一はいった。 ﹁勿論幸運にも東吏れていましたよね﹂と といえる。﹂ またわざわざ同じ洋服を二着作っておき、 九女清︵山手カソリック教会附民幼稚園副園 け廻して面白がったりしたそうだ。 長︶ の三人は房次郎がみまかった根岸旭台の せることを恥じる気持だっ尤。近頃夙にいう 小学校四、五年生の頃だったか、五月の節 ならシャイな人間、つまり 〝テレヤ〟 であり、 句のために武者人形を買ってやるが、何が欲 濁酒なすまいで、亡父の面影を偲びながら、 今、静かな生活をおくっている。 だ8後で祖父は家人に﹃八幡太郎は買い代え するという事もせず、 ちつ持たれつ的癒着に 東京中心の政財界の持 も組みせず、横浜に執 着し、横浜の自由な辛 気を愛しすぎて、取り 残されていったという そしてまたその後継 事だろうか。 から所謂〝偉い人″というのはちっとも恐く しても、趣味人的色彩 者達は、例外ばあるに が強く、実業界の修羅 ないし、寧ろ子供の暗から出入りの大工さん 場を乗り切る気晩には とか会社の小便さん等と仰がよかった。有名 志向がなく、金銭に執着しないー 欠けていたのではない だからテ レビに出ると顔を覚えられて、或る種の有名 れが横浜という町の性 か。よくも悪くも、そ 人になるというのは計算外のことだった。そ 血−祖父は先代中村吉右衛門の有力な後援 う﹂と。 格そのものなのだと思 の他数え上げればきりがないが、芝店好きの 者だったし、父は小学生の私を築地小劇場へ 三十四年経つ。﹂ 連れて行った。そして私は芝居の世界に入っ 最後に彼は横浜商人についてこう語ってい る。 ﹁その没落は大正九年のパニックに始まる が、それを乗り越えた房次郎にしても、所謂 ことによって自己の名利を求めたわけではな 横浜政財界の黒幕などといわれながら、その く、昭和年代に入ってからの日本資本主義の 中村俊一出演「森は生きているJ 60 ー61一 安部磯雄 中村房次郎年譜 同年 一六年 三月 同月 二月 三年一〇月 一九年 七日 二於テ 横浜市中区老松町弐拾六番地増田憲兵衛ノ二 横浜市会議員二当選 等ノ外国貿易二従事ス 三五年一月 同三九年四月帰朝 株式会社増田製粉所ヲ設立シ社長トナリ大正九年辞任ス 横浜市会議員二当選 実業視察ノタメ欧米各国ヲ巡遊ス 一月 五月 経済調査会委員被仰付 社長二就任 大正二年一一月辞職ス 六月 横浜市会議員二当選 三年 四三年一月 同年 一二九年 三八年山一月 〇 大正 松尾鉱業株式会社ヲ創立 四年山一月 八月一日 〃 同年一二月 同年 〃 八年 横浜市復廃会員トナル 紺綬褒章ヲ賜ハル 青島製粉株式会社相談役トナリ昭和一四年二重ル 坊浜高等工業学校商議員二就任 組織二変更前ハ増田監合資会社業務執行委員︶ 〃 〃 一〇年 六月 九日 二月一一日 〃 同年 九月 六月 同年一二月 一二年 同年 昭和七年三月二八日辞任 早稲田大学維持員トナル 横浜船渠株式会社取締役二就任 三月 横浜火災海上保険株式会社︵同和火災︶取締役二就任 一五年一二月 二年 同月二三日 ○ 昭和 同年 帝国森林会評議員二就任 ″ 四月一日 同年 南洋協会評議員二就任 石油 京浜電気鉄道株式会社取締役二就任︵同一〇年一言二九日辞 大礼記念章ヲ授ケラル 辞任︶ 横浜生命株式会社︵板谷生命︶取締役二重任︵岡六年六月八日 六月 二月二七日 同年一一月 三年 同年 〃 〃 〃 〃 四年一月 〃 〃 四月二三日 経済界視察ノ為渡米 陛下行幸ノ際復興功労者トシテ単独拝謁ノ光栄二浴ス 任︶ 同年 六月 〃 〃 同年 神奈川県匡済会評議員監事二就任 〃 四月 日本経済聯盟会評議員二就任 五年 同年 湘南電気鉄道株式会社取締役二就任︵同八年六月二八日辞任シ 〃 〃 同年一二月二七日 四月三〇目 〃 62 63 横浜港細見 松尾鉱山視察の岩手県出身の斉藤実・米内光政両首相 同時二監査役二就任 同一〇年一〇月辞任︶ 財団法人顧予防協会評議員二就任 財団法人理化学研究所評議員二就任 六年一月 同年 日本赤十子社神奈川県支部商議員ヲ嘱託セラル 昭和 〃 同年山一月 横浜市臨時港湾調査委員会委員ヲ嘱託セラル 五月 〃 七年 九月 〃 同年 同年 同年 同年 九年 六月二八日 六月二〇日 五月二六日 同月 四月三〇日 二月二二日 横浜市財政調査会委員ヲ嘱託セラル 月本金属[業株式会社取締役二就任 常盤製粉株式会社ヲ設立シ爾来昭和t三年迄相談役二就任 日本亜鉛鉱業株式会社ヲ設立シ社長二就任 国際商業会議所日本国内委員会委員二就任 日應経済聯盟会理事二就任 横浜興信銀行取締役二就任 横浜商工会議所議員二就任 海軍協会横浜支部幹事ヲ嘱託セラレ其後評議員トナル 三月 横浜火災海上保険株式会社ヲ代表 同年一一月二五日 八年 〃 〃 常議員二選任サル 同年 七月一〇日 日清生命保険株式会社取締役二就任 満州化学工業株式会社監査役二就任 五月三〇日 同年 二月一六日 日本アルミニウム株式会社監査役二就任 同年 一〇平 六月二一日 横浜興信銀行副頭取二就任 日本カーボン株式会社監査役二就任 岡年 七月二六日 同年一二月二三日 同年 同年 三月 三月 横浜輸出興業株式会社監査役二就任 社団法人進交会設立卜同時1壷番長二就任 日取締役二就任 株式会社ホテルニュー㌧グラソド監査役二就任同年六月二〇 大日本工作製造株式会社取締役二就任 岩手県工業振興委員会際間ヲ委嘱セラル 財団法人横浜孤児院理事トナル 財団法人自治振興会評議員トナル ナル 財団法人伊賀文化産業協会評議員トナリ翌年八月二∪日理事ト 横浜市防空委員会委員ヲ嘱託セラル 横浜市選挙粛正委員会委員ヲ嘱託セラル 横浜商工会議所副会頭二就任 株式会社横浜興信銀行ヲ代表横浜商工会議所議員こ就任 財団法人実業教育振喪中央会評議員ヲ委嘱セラル 日本工業倶楽部理事二就任 油ノ栄二浴シ単独拝謁ヲ賜ハル 社長トシテ経営ノ松尾鉱山二秩父宮殿→同妃殿下御台臨 東北振興電力株式会社監事二就任 太洋鉱業株式会社ヲ創立シ社長二就任 ○月 七日 一日 同年 一一年一〇月 同年一〇月二四日 同年 八月二三日 同月二二目 三月一四日 三日 同年 四月 三月 同年 五月一三日 四月 三月二三日 同年 五月二三日 一四年 同年一二月一六日 同年 一三年 同年一一月 同年 同年一〇月 同年 五日 〃一二年一月二九日 〃 〃 〃 〃 〃 同年 64 65 原三渓画1大石良雄邸 追悼会記録 盛岡松尾会名簿 房次郎の書簡 今も残る松尾鉱山内ふるさと連絡所 松尾鉱山遠景 岩手開発鉄道株式会社監査役二就任 軍人援護会神奈川県支部顧問ヲ委嘱セラル 八月一七日 横浜市銃後奉公会顧問ヲ委嘱セラル 七月 同年 一目 昭和一四年 〃 九月 紀元二千六有年奉祝会名誉会員トナル 同年 同年一一月 〃 〃 同年 四月一九日 三月二五日 財団法人湘風会理事二就任 財団法人日印協会評議員ヲ委嘱セラル 財団法人大日本防空協会神奈川県支部評議員ヲ委嘱セラル 社団法人神奈川県匡済会会長兼理事長二就任 〃 同年 四月二七日 二月一七日 〃 同年 日本貿易報国聯盟会常任委員二就任 〃一五年 〃 同年一一月二九日 紺綬飾板ヲ賜ハル 〃 二日 同年一二月 横浜興信銀行副頭取ノミ辞任 取締役トシテ重任 〃 同年一二月一〇日 大政男賛会神奈川県支部顧問ヲ委嘱セラル 〃 同月一三日 日本亜鉛鉱業株式会社社長ヲ辞任 〃一六年 〃 〃 〃 〃 同年 同年 同年 同年 同年 同月 八月 同月 七月 同月 五月 二月 神奈川県防犯協会評議員 神奈川県警察後援会評議員 神奈川県尊徳会顧問 結核予防会神奈川県支部顧問 財団法人東北更新会評議員 析浜市臨時振興協議会委員二就任 同館T 〃 心月一〇日 監査役二就任 〃一六年 〃 同年 市立横浜商業専門学校商議員 大日本防空協会神奈川県支部戸部分会顧問ヲ委嘱セラル 〃 同年一〇月 五日 〃 編集グループ 〟 〃 社会教育係長 社会教育主事 社会教育指導員 中区役所福祉部市民課 〝 ル 康夫 ︵カット︶ 小林 66 巻頭の横浜市略年表ば、中村房次郎の生涯 に符節を合わせ、明治元年から昭和二〇年ま 横 参 浜 歴 考 史 年 ︵未刊︶ 今 資 表 昔 生渓史史 料 浜 六 霹 館 有 有 隣 隣 堂 笠 横浜而曹委員会 昭 和 書 院 昭 和 書 院 名 著 出 版 横浜市観光陥会 時時通信社 神奈川新聞社 兼 市大経済研究所 毎日新開社 横 でを抽出し、さらに太市にゆか 〟 〝 〟 〝 〝 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟 〟昭 53525148484848393833333231281911 あとが き 悼会記撃と、旧松尾鉱業社員大藤才=郡民 浜 松尾鉱業社史 横 夫夫男栄次次 この小誌では、周知のこととは思いました が、横浜開港の経緯についてもかんたん・ に作 触品名等をも、ご参考までに掲載いたしま し れる形をとりました。横浜商人の列伝に つた い。 ては、中村房次郎痴との均衡上あまり深入り 編、 集に当っては、伝記物の要件ともいえる せずー文字通りの略歴紹介にとどめたため ﹁述べて作らず﹂の立場をできるだげ順守す 中途半端な感じが屈めません。 また文体統忘ため、人名について竺切 るようにつとめました。︵工︶ 敬称を省略させていただき、引用文は原文を 尊重してそのまま転載することにしました。 これらの点ばよろしく御諒察を願います。 茂木惣兵衛遺文集 中村房次郎に関する資料は、さいわい根岸 中村房次郎翁追悼会記録 の中村家に保存されていた﹁中村房次郎翁追 所蔵の﹁松尾鉱業社史︵未完︶﹂とを借用し、 都 債 浜 の 誕 語 伝 実実籍 秀秀 道 太 孝郎 横浜経済文化事典 物 三 本土士 井田 これを重要な骨子といたしました。 なお元板浜市長半井清氏、根岸および老松 横 浜 野 村 洋 佃佃森森自白 石竹 町の雨中村家−旧松尾鉱業社員松枝岩大郡民、 前記の大藤才義民、三富正夫氏、および茂 富 太 郎 原 木家や中村家に縁故のある関取四郎氏尊かヨら コ ハ マ 散 歩 きわめて貴重な談話を承たまることができま 神奈川人物風土 記 した。 神 奈 川 の 人 物 写真等については、中村家、松枝氏、大藩 横浜開港五十年 氏、横浜市図書館係長半沢正時氏及び市広報 浜 の 脛 セノターなどから、いろいろご協力ご示唆を 三 いただきました。ここに深甚なる謝意を表し ます。 港麻績