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概要 (ファイル名:20070128discussion01_speech サイズ
基調講演「ガバメントからガバナンスへ」
講師
鈴木
庸夫
氏
(千葉大学法科大学院教授)
概要
(司会)
千葉大学法科大学院
鈴木庸夫教授から、
「ガバメントからガバナンスへ」というテーマで基調講演を
いただきます。
講演をいただくにあたり鈴木教授の簡単なプロフィールをご紹介させていただきます。
鈴木教授は、千葉大学法経学部教授を経て、2004 年から千葉大学法科大学院教授として活躍しておら
れます。主な専門分野は、行政法、政策法でございます。研究テーマの主なものは、地方分権、住民参
加等でございます。主な著書には、
「政策法務の理論と実践」、
「分権型社会における自治体法務」などが
ございます。
佐倉市における「協働」との関わりについてでございますが、平成 15 年度に設置した「佐倉市市民協
働型自治運営の推進方針検討委員会」や、平成 17 年度に設置した「佐倉市市民協働推進条例検討懇話会」
において、アドバイザーとしてご助言、ご指導をいただきました。
ただ今、ご紹介をいただきました千葉大学の鈴木で
ございます。
協働に係る地域まちづくり協議会の専門家は福川先
生なのですが、条例制定ということで、私にお鉢が回
ってきたということでございます。
今日は、条例についてのパネルディスカッションで
ありますけれども、その前段として、この条例の前提
になるものを少しお話したいと思います。
今、日本の社会の中では、分権改革が進行中であり
ますけれども、それと同時に、大人が変わらなければならない時代になってきていると思います。
先ほど、渡貫市長からお話がありましたけれども、いじめ撲滅宣言というようなことをしなければな
らないほど日本の社会は荒廃している状況がございます。
子どもたちがいじめをしているというのは、大人がいじめをしているということ、いじめ社会の中の
子どもたちは、いわば鏡でありますから、そういう意味では、大人が今変わらなければならない、この
ように思うところでございます。
さて、市民協働の推進条例についてですが、現在全国の各地で市民参加、あるいは住民参加というこ
とが非常に声高に叫ばれており、制度化がどんどん進んでおります。
なぜ参加が必要なのかということでありますけれども、この参加については、関谷先生が専門家であ
りますが、ジャンジャック・ルソー論がございます。ルソー論は、市民が自ら参加することによって学
習し、そして、自己変革をしていくという考え方であります。参加というのには、そういう根拠がある。
市民が参加をすることによって、自分の社会のことを知って、そして変えていくということですね。そ
ういうことを学習理論といいますが、参加の根拠は学習にあるというように言われております。
それで、たぶんこの条例が生き生きした形で実りあるものになっていくためには、みなさんも相当な
学習が必要だろうと思いますし、また、お互いの意見がぶつかり、ぶつけ合うということが必要なのだ
ろうと思います。
しかしこういうプロセスを、戦後の日本ででてきたかどうかということを振り返ってみますと、かつ
て渡貫市長とお話したことがありますけれども、マッカーサーは、「日本人の精神年齢は 12 歳である」
ということをいったことがあります。どうも、若者だけが精神年齢が低いのではなくて、我々の精神年
齢も相当低いのではないか。大人の精神年齢も相当低いのではないか、と思うところもございます。本
当に戦後の中で大人が、あるいは住民自身の精神年齢というのが、充実して高まってきたというときは
あったのだろうか。こういうことを私自身も反省を込めて自戒をするわけですけれども、こういう参加
の動向も一つにあります。
もう一つ、平成 21 年度から「裁判員制度」というものが始まります。ここにいらっしゃる方々も、い
ずれは裁判員になって、裁判で人を裁くということを経験するはずであります。今まで、日本では陪審
員制度を一回やったことがありますけれども、今度は、裁判官 3 人と 6 人の裁判員で一つの法廷を作り、
そして、重要な、重大な事件を裁くことになります。殺人事件であるとか、強盗事件であるとか、そう
いったものを裁くことになります。本当に自分自身を問うような事件にみなさんは関与するわけであり
ます。
こういう法制度ができることによって、簡単に拒絶はできませんので、皆さんは参加することになる
でしょう。そういうときに、本当に我々の持っている公共心、公共性、社会を支える力というものが試
されるようになります。こういうことが戦後初めて起こりつつあるということであります。
分権改革というものの実態をなす住民自身の自己教育というものが、今始まりつつあるんじゃないか
なという気がいたします。これを結論としてまず先に言っておきたいと思います。いわば、制度が出来
上がりつつある。そして、その魂を入れるのがみなさんのこれからの自己研鑽にかかっているというこ
とを申し上げておこうと思います。
さて、分権改革といわれているものが、ご承知の通り、明治維新、それから戦後改革、そして第 3 の
改革として、西暦 2000 年に分権一括法ができて、そして、この第 3 の改革である分権改革が始まったわ
けであります。
振り返ってみますと、明治維新というのは、日本が国際社会の中で国家として自立をする、独立をす
る、というための非常に大きな改革であったわけであります。第 2 の改革である戦後改革というものは
ですね、敗戦によって始まりましたけれども、形の上ではアメリカ型のデモクラシーを採用したという
ことでありましたし、内実としては、国家中心主義、個人主義が全然認められなかった戦前に比べ、個
人主義を中心とする社会をつくるという意味で、国家中心主義を排除する戦後改革が行われたわけでご
ざいます。
しかし、さらに内実を探り、社会や行政の仕組みが住民の主体性を持って担われたかどうかというこ
とになりますと、中心は、あくまで霞ヶ関であったわけであります。霞ヶ関は戦後復興のため、経済復
興のために、社会の仕組みはほとんど変えてこなかった、いわば、戦前の社会の仕組みと戦後の社会の
仕組みはあんまり実は変わっていない。霞ヶ関がいろいろと政策を決定して、そして、自治体がそれを
実行する。住民はそのサービスを受ける。こういう形で戦後改革がずっと進められたわけであります。
まあ、このことを称して、1940 年体制というような言葉もございます。1940 年といいますと、これ
は、日本が戦争に入る、国家総動員体制が整いつつあった時期であります。日本は、敗戦によって戦後
復興をしなければならなかったわけでありますから、何としてでも経済復興を図るためには、総動員体
制を維持しながら、戦争という目的を変えて、経済復興という総動員体制を敷いたわけであります。
1990 年代に入りまして、こういった仕組みが変わりました。自民党政権が、新党の細川政権に変わる。
私も驚きましたし、みなさんも驚いたこととは思いますが、自民党の一党独裁体制が崩れ、そして、戦
後改革に一つの終止符が打たれたというのが、大変強く感じられたわけであります。
細川政権の中では、豊かさの感じられる社会というものを実現するためには、どうしても分権という
ものが必要であるということになり、中央省庁が行ってきた画一的なサービスではなくて、個々の地域
に固有のオリジナリティーを持った施策が執られることにより豊かさを感じられるという認識に変わっ
てきたわけでございます。これが地方分権改革と言われているものでありますが、もう少し分かりやす
くいえば、戦後改革の中で始めて日本が、
「住民の、住民による、住民のための政治」というものを作ろ
うということが目指されたわけであります。これが、2000 年の分権改革の基本的な履歴であったわけで
す。しかし、現実は、あいかわらず中央省庁の影響というのは非常に強く、市長会あるいは知事会とか
いろいろ抵抗を試みておりますけれども、まだまだ、この分権改革というのは進んでいないわけであり
ます。
他方で、住民自身がこの分権後になお、担い手として十分成長しているかどうかということについて
は、まだまだ議論が足りないし、戦後まだ十分に制度が作られていないということが次第に認識される
ようになりまして、今日の参加条例、あるいは、こういう市民協働条例といったものが登場してきてい
るわけでございます。
この豊かさというものをどう感じることができるかということですが、日本の社会は物質的には非常
に豊かになったわけではありますけれども、精神面ではどうなのでしょうか。精神面の豊かさというも
のを感じることができるのだろうか。
先ほど渡貫市長は、参加によって公共的なものを作り出していく、そのことによって満足感というも
のが得られるのではないかというお話がございました。人間の本性かどうか分かりませんが、人がため
に尽くす、自分のためだけではなくて、社会のために尽くすというところに人間の喜びがあるんだとい
うことは、古代から言われてきたとおりであります。
デモクラシーの国であり、大元の国であるアメリカでは、どんな金持ちでもアメリカ人の二人に一人
は、週 2 時間以上のボランティア活動を行っているというデータが、先々週だったでしょうか、発表さ
れました。アメリカではたいへんボランティアが盛んです
し、それは社会的な義務であるということがいわれている
わけであります。これはどこにも書いていないのだけれど
も、アメリカ人の大人の通常の義務であり、社会的な義務
であるということになっているのであります。
日本の社会はどうでしょうか。そういう観点から見ます
と、まだまだ、マッカーサーの 12 歳であるというのは言
い過ぎだとは思いますけれども、我々はまだまだ、社会に
参加をして、ボランティアは当然であるといった社会にし
ているわけではないように思います。
さて、分権改革を推し進めるためには、こういう意味で住民自身が成長する、もっといいますと、大
人が大人になっていくということが必要であるわけですけれども、我々の社会の知識と、あるいは行政
に対する知識というものはまだまだ低いものがあります。
今日は、参考のために皆さんに紹介したいと思いスウェーデンの社会科の教科書、中学生向けの社会
科の教科書を持って参りました。
「あなた自身の社会」というもので、ここで書いてあることは、中学生
がぶつかるであろう、例えば、親の離婚であるとか、エイズの問題であるとか、あるいは麻薬の問題で
あるとか、アルコールを飲んでいいのか悪いのか、こういう、非常に中学生が直面するような課題が取
り上げられているのですね。このような教科書が、日本人にとって、今、我々にとって必要なものでは
ないかという感じがしています。
さて、レジメの二つ目になりますが、新しい公共空間ということ、それから、最後のガバナンスへと
いうことについて、お話したいと思います。
新しい公共空間という言葉、実はこれは公用語でございまして、総務省がよく使っている言葉でござ
います。決して私がつくった言葉ではございません。それくらいのいわば公用語になっているわけであ
りますが、何を言っているのかといいますと、実は、日本の社会は、公私の区別がだんだん曖昧になっ
てきているということを示しているわけであります。
例えば、昔というか、30 年くらい前を見てみますと、公共的な仕事これは行政がやることでありまし
て、そして、だいたい公共的なものといいますと道路でありますとか、公園を管理するとか、あるいは
街並みを整備するとか、あるいは犯罪を予防するとかですね、まあ、そういった意味で公共性というの
は非常に認識しやすい、行政が公共的なことをやって、それをさせればよいということであったと思い
ます。プライベートな世界、私の世界というのは、家の中の世界、プライベートな世界であり、家の外
の世界は公共の世界でありました。
ところが最近になりまして、この家の中の世界では、例えば児童虐待、ドメスティックバイオレンス、
家庭内暴力といったことが起きています。あるいは、介護をしきれない、家族が介護をしきれないとい
う形で、公共の部分が家庭の中にどんどん入っているのですね。
そうなってきますと、「公」と「私」という部分が成り立っていかなくなってくる。「新しい公共」と
いうものを考えていかなければならなくなってきているわけであります。一体公共とは何なのかという
ことが問われているわけでありますが、この「新しい公共」というものは、これは従来の公共というも
のとは違う形で捉えられていかなければなりません。正直言えば、この新しい公共空間というのは、ま
だネーミングの域をでていないところもございまして、どこまでが公共なのか、誰が公共として決める
のかということ自体、まだ十分に輪郭がはっきりしていないということが言えると思います。ただ言え
ることは、従来の公共性とか公私の区分であるとかそういうことはもう見えないものである。そういう
ところに今きているということでございます。これは、今後佐倉市で展開される地域まちづくり協議会
の活動とも関わってくるものと思います。
次にガバナンスについてですが、ごく簡単にだけ申し上げておきますが、「ガバメント」というのは、
これは「政府」のことであります。今申し上げたように公共的な仕事というのは、これはガバメントの
仕事である、政府の仕事として扱われてきました。地域においては、市の責任、市の権限という形で、
公共的な問題が処理されてきたわけであります。しかし、この新しい公共空間という言葉に見られます
ように、現在、現代の社会、日本社会というのは、この行政の守備範囲ということが、非常に曖昧にな
ってきている。それで、この公共的なものも何が公共的なものかということ自体も非常に曖昧なものに
なってきています。そういう中で多様な主体、NPO であるとか、あるいは、町内会であるとか、ボラン
ティア団体であるとか、そういう多様な主体がいろんなことを担っていく、こういう時代になってきて
いるということでございます。レジメのほうに、この図を、協働の関係図を図 1、図 2 と言う形で示して
おりますが、このように多様な主体によって担われる。これが、いわば「ガバナンス」という言葉で表
しているものでございます。もう行政だけの時代ではない、いろんな主体がいろんな公共を担って、い
ろんなコラボレートするということです。いろんな形で今、日本の社会を変えるために新しいガバナン
スが興っているということが言えると思います。
さて、時間もまいりましたので、三つほど課題を申し上げて私の話を終えたいと思います。
一つは、このガバナンスというのは、グッドガバナンス、良いガバナンスでなければならない。これ
をどう実現するかといいますと、三つの課題が私はあると思うのですが、一つは住民が変わっていかな
ければならない。これは住民同士の付き合い方、昔で言えば、住民同士の付き合い方はお互い様という
ようなものがありましたし、あるいは昨年でしたか、流行語になった「もったいない」という言葉があ
りましたけれども、住民自身がもっと社会的なもの、公共的なものに関わっていかなければならない。
そして、その付き合い方も変わらなければならない。場合によってはその付き合い方についてのルール
も決めていかなければならない。こういうことが、まず第 1 番目であります。
第 2 番目は、行政はどういう役割を果たすのか、行政の職員は一体どういう役割を果たすべきなのか
ということでございます。これは、私は、ファシリテイターであるべきだと思っています。ファシリテ
イターというのは聞いたことのない方もいらっしゃるでしょうが、簡単に言いますと、コーディネイタ
ーというのは、これは仕切っちゃうのですね、仕切り人なのです。ファシリテイターというのは、むし
ろ相手を活かしていくために、助ける人ですね。住民の自己実現のためにどういう方法が手助け可能な
のか、そういう助人の役割に徹するということであります。住民本位のグッドガバナンスを実現するた
めには、行政職員には、大いにこのファシリテイターになっていただいて、そして、住民主体の自治を
実現していただきたいと思っております。
3 番目は世代間のコミュニケーションの課題であります。日本では、世代間のずれといいますか、コミ
ュニケーションをとることが非常に難しくなってきています。例えば、高校生とはどれくらいコミュニ
ケーションができるのだろうか。中学生とはどれくらいコミュニケーションができるのだろうか、今、
デジタルデバイドという言葉もございますが、IT を使えるか使えないか、携帯電話を使えるか使えない
か、こういうことも含めまして、コミュニケーションをどう図っていくのか、次の社会を担っていく若
い世代とどうコミュニケーションをとっていくのかということは、このまちづくりにとって非常に大き
な課題となると私自身は思っています。スウェーデンの若者会館、私の日本語で言えば若者宿、そうい
ったようなものを通じて、我々はこの若い世代と交流を図り、コミュニケーションを図っていく必要が
あるのではないかというように思います。
以上、三つの課題を申し上げまして、これからのまちづくり協議会が果たす役割について、その一端
を述べた次第でございます。
課題は大変多いとは思いますけれども、パネルディスカッションの中で、できるだけ具体的に申し上
げたいと思います。
時間がまいりましたので、私の基調講演とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
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