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ホーム・ルール反対はいかにア A - Kyoto University Research
Title Author(s) Citation Issue Date URL 19世紀末のアイルランド問題とプリムローズ・リーグ ―ホーム・ルール反対はいかにアピールされたか?― 小関, 隆 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (2005), 92: 41-118 2005-03 https://doi.org/10.14989/48667 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 『人文学報』第四号 ( 2 0 0 5年 3月) (京都大学人文科学研究所) 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ 一ーホーム・ルール反対はし、かにアピールされたか?一一 関 隆 はじめに<保守党支配の時代〉とホーム・ルール・クライシス 第 1 節 ホ ー ム ・ lレ ー ル を め ぐ る 論点 (1)国制への脅威 (2)帝国への脅威 (3)私有財産権への脅威,その他 第 2節 ナ シ ョ ナ リ ス ト の く圧制〉 (1)く危険で信用ならない〉ナショナリスト (2)ナショナリストと世論の手離 (3)く操り人形〉としてのグラッドス卜ン (4)予言されるく圧制〉 (5)く劣等〉なアイルランド人カソリック 第 3節 ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト へ の く 脅 威〉 (1) (善良な潜在的犠牲者〉 (2)アルスター・プロテスタントの危機 (3)アルスター・プロテスタントを見捨てるな (4)く 第4節 2つのアイルランド〉 保守党統治 に よ る く救 出 〉 (1)ユニオンの成功 (2)ソールズベリ政権の実績 第 5節 中 間 総括 : ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 の 構造 (1)二極構造 (2 ) ( メ ロ ド ラ マ 〉 仕 立 て (3)ホーム・ルール反対論のアピール力 第 6節 プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ の 現場 か ら : 労働者 に 向 け ら れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 (1)ランタン・スライド (2)教育・宣伝文書 (3)集会での発言 むすびに代えて:ホーム・ルール反対論の受容と展開 4 1 人文学報 はじめに:く保守党支配の時代〉とホーム・ルール・クライシス ブリテン政治史上, 95 年 を 除 け ば, 1 8 8 6 " " ' "1905 年は し ば し ば く保守党支配 の 時代〉 こ の 時代 の 政権 は 一貫 し て 保守党 と 呼ばれ る 。 1 8 9 2 ,....., (1 895 年以 降 は リ ベ ラ ル ・ ユ ニ オ ニ ス 卜 を 含 む ) の手中にあった。自由党政権の樹立を導いた 1 892年総選挙にしても,自由党の獲得議席数は 保守党=リベラノレ・ユニオニス卜同盟のそれを下回り,第 4次グラッドストン政権はアイルラ ンド・ナショナリスト党(以下ではナショナリスト党と略記)の支持があってかろうじて成立し えたにすぎな l )。逆に,保守党政権はいずれも庶民院内の圧倒的多数を背景に樹立された。保 守党による 1 2 0年間にわたる政治の支配」は, 1近現代 ブ リ テ ン の 政治 に お け る 最 も 顕著 で 重 要な現象の 1つ J 1近現代政治史 の 最 も 印 象 的 な 政治 的達成 の l つ 」 と 評価 さ れ て い る I) 。 〈保守党支配の時代〉到来の引き金となったホーム・ルール・クライシスの概略を確認し ておこう。 1 8 8 5年総選挙の結果(獲得議席数は,自由党 3 1 9,保守党 249,ナショナリスト党 86 )は 自治を求めるアイルランドの有権者2)の意志を明示したとの認識に達したグラッドストン は, 1886 年1 月 に ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 を 率 い る チ ャ ー ル ズ ・ ス テ ュ ア ー ト ・ パ ー ネ ル の 支 持 を 得て首相の座に就くと,ホーム・ルール法案(第 l次)提出の意向を明らかにした。これに対 し,ハーティントンを中心とする自由党内ホイッグ派は政権への参加を拒否,党内急進派の旗 手ジョジフ・チェンパレンも,法案の修正に失敗すると,政権を離脱した。 1 886年 4月 8日 に提出されたホーム・ルール法案は,自由党議員のうち 93人が反対に回ったため, 343 対313 で 否決 さ れ た 。 6 月7 日 , つ づ く 7 月 の 総選挙 で 自 由 党 グ ラ ッ ド ス ト ン 派 は190 議席 に 激減 す る。グラッドストンに反旗を翻した者たちはリベラル・ユニオニストを名乗り,総選挙後に成 立するソールズベリ首班の保守党政権との協調関係に入る。以降 1 905年まで,保守党とリベ ラル・ユニオニストの連携が政治の表舞台を支配することになる 3)。 1892 年 か ら 第4 次政権 を 率 い た グ ラ ッ ド ス ト ン は1893 年 に 第2 次 ホ ー ム ・ ル ー ル 法案 を 提 出し, 1私 と パ ブ リ ッ ク ・ ラ イ フ を つ な ぐ ほ と ん ど 唯一 の リ ン ク J 4) た る ホ ー ム ・ ル ー ル へ の 執念を示す。しかし庶民院は通過したものの,第 2次法案は貴族院の圧倒的多数によって否 決され,その後の政権は空転を余儀なくされる。第 1次法案の敗北がく保守党支配の時代〉の 成立を導いたのにつづき,今度は第 2次法案の敗北がく保守党支配の時代〉で唯一の自由党政 権を事実上の死に体へと追い込んだのである 5 )。 以上の経緯からもわかるように,く保守党支配の時代〉を実現させた最大の要因はホーム・ jレ ー ル ・ ク ラ イ シ ス で あ っ た 。 自 由 党 の 分裂 に よ っ て リ ベ ラ ル ・ ユ ニ オ ニ ス ト と い う 盟友 を 得 たことに加え,ホーム・ルール反対の姿勢を切り札としてフルに活用したことで,保守党は覇 権を享受できた。「保守党を 1 9世紀末の国家の主導的政党として改めて確立させた」のは,た しかにユニオニズムであった。保守党とリベラル・ユニオニストが正式に合同して保守ユニオ - 42- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) ニスト党を名乗るのは 1 9 11年のことだが,早くも 1 880年代から保守党はしばしばユニオニス 卜党と自称し,ホーム・ルール問題へのスタンスを前面に押し出しているヘ それでは,ホーム・ルール反対という姿勢は,どのようにアピールされることで,広く支持 を調達できたのだろうか?ホーム・ルール反対とさえいっておけば自動的に支持が集まる, というほど事態は単純でなかったはずである。く保守党支配の時代〉は,ちょうど 1 883 ' " "85 年 に 選 挙 制 度 に か か わ る 重 要 な 諸 改 革 が 実 施 さ れ た 直 後 に 到 来 す る 。 有 権 者 の 過 半 数 を 労 働 者 が 占 め る に 至 っ た 中 , 従 来 よ り も ポ ピ ュ ラ ー な レ ヴ ェ ル に ま で 働 き か け る こ と の 必 要 性 は 大 き く な っ て お り , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 の 訴 え に も ポ ピ ュ ラ ー ・ ア ピ ー ル を 最 大 化 す る た め の 工 夫 が 施 さ れ た も の と 思 わ れ る 。 問 わ れ る べ き は , ホ ー ム ・ ル ー ル を め ぐ る し 1 か な る 論 点 に 力 点 が 置 か れ , こ れ ら の 論 点 が し 、 か な る ナ ラ テ ィ ウ 、 、 へ と 構 成 さ れ る こ と で , 支 持 調 達 が 図 ら れ た の か , で あ る O 本 稿 で は , 183 年 1 1 月 に 設立 さ れ て 以 降 , I議会 内 の [保守] 党指導者 と 有権者大衆 の 間 の 決 定 的 な 架 け 橋 」 と な っ て , く 保 守 党 支 配 の 時 代 〉 を 支 え る ポ ピ ュ ラ ー ・ コ ン サ ヴ ァ テ イ ズ ム の 極 養 に 大 き く 貢 献 し た 「 ヴ ィ ク ト リ ア 時 代 で 最 大 の 大 衆 的 政 治 組 織 」 二 プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 以 下 で は リ ー グ と 略 記 ) が 展 開 し た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 に , 特 に 注 目 し た し 刊 。 以 下 , ま ず 第 1 '" 4 節 で , さ ま ざ ま な 場 面 で 発 話 さ れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 の 議 論 を 広 く 検 討 の 素 材 と し て , そ れ ら が し 、 か な る 論 点 を ク ロ ー ズ ・ ア ソ プ し た か を 確 認 し , つ づ く 第 5 節 に お い て , こ れ ら の 論 点 が し 1 か に 配 置 さ れ る こ と で ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 の ナ ラ テ ィ ヴ が 組 み 立 て ら れ て い た か を 整 理 す る ( ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 が 対 峠 し た 議 論 の 概 略 は , 各 節 の 冒 頭 に 注 記 す る ) 。 第6 節 で は , リ ー グ の 現 場 に 焦 点 を 合 わ せ , 第 5 節 が 大 づ か み に 整 理 し た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 の 構 造 を 参 照 し な が ら , 労 働 者 を ア ピ ー ル の 対 象 に 想 定 し て 展 開 さ れ た リ ー グ の ホ ー ム ・ / レ ー ル 反 対 論 の 特 徴 を 明 ら か に す る O な お , 本 稿 が 対 象 と す る の は ブ リ テ ン に お け る ホ ー ム ・ / レ ー ル 反 対 論 で あ り , ア イ ル ラ ン ド の ユ ニ オ ニ ズ ム に つ い て は 必 要 最 小 限 の 論 及 に 留 め る 。 ホ ー ム ・ ル ー ノ レ 法 案 の 内 容 を 確 認 し て お こ う 。 第 l 次 法 案 の 概 要 は 以 下 の 通 り で あ っ た 。 ダ ブ リ ン に 二 院 制 の ア イ ル ラ ン ド 立 法 府 ( 以 下 で は ダ ブ リ ン 議 会 と 略 記 ) を 設 置 す る 。 こ の 立 法 府 が 管 轄 す る の は , 王 室 , 戦 争 , 造 幣 , 関 税 ・ 間 接 税 ( ア イ ル ラ ン ド の 歳 入 の 3/4 を 占 め る ) の 徴 収 , 等 を 除 く , ア イ ル ラ ン ド に か か わ る す べ て の 問 題 で あ る 。 行 政 の 権 限 は 形 式 的 に は ア イ ル ラ ン ド 総 督 に 属 す る が , ダ プ リ ン 議 会 の 下 院 で 選 出 さ れ , 下 院 に 対 し て 責 任 を 負 う 行 政 府 が 実 権 を 握 る 。 ま た , ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー の ア イ ル ラ ン ド 選 出 議 席 は 廃 止 さ れ る 。 第 か な 規 定 に お い て 第 2 次 法 案 は 細 l 次 法 案 と か な り 内 容 を 異 に す る が , 最 も 重 要 な 相 違 点 は ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー の ア イ ル ラ ン ド 選 出 議 席 に 関 す る 規 定 を 覆 し た こ と で あ り , 選 出 議 席 数 の 削 減 ( 1 03 か ら 80 に ) と 投票権 の 制限 を 施 し た う え で, る こ と と さ れ た 。 1912 年 に 提 出 さ れ る 第 ア イ ル ラ ン ド 選出 議員 が ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー に 出席す 3 次 法 案 は , ア イ ル ラ ン ド 選 出 議 席 数 を 投 票 権 の 制 限 を 撤 廃 し た 点 を 除 け ば , 大 筋 に お い て 第 42 に 削 減 し , 2 次 法 案 に 準 ず る 内 容 で あ る が 。 た だ し , ~ 4 3 人文学報 第 3次法案を取り巻く環境は第 l次・第 2次法案の頃とは大きく違っているため,本稿では検 討の対象を第 1次・第 2次法案をめぐる議論に限定する。 本稿において単にナショナリストと表記する場合,その指示対象はいわゆるパーネル派の ホーム・ルーラー 0 8 90年 1 2月のナショナリスト党分裂後はパーネル派と反パーネル派の双方)であ る。アルスター・プロテスタントということばは,アルスターだけではなく,アイルランドに 居住していたプロテスタント全体を包括する意味で用いられる。また,訳出にあたっては,活 字で発表された書物や記事(リーフレ yトは除く) ,あるいは集会での決議には「である」体を, 手紙や演説には「です,ます」体を適用する。 第 l 節 ホ ー ム ・ ル ー ル を め ぐ る 論 点9 ) 同時代において,ユニオンということは、は 2つの意味 0 8 0 0年のユニオン法が樹立した連合王 国体制という大枠,アイルランド議会を廃止しウエストミンスターの帝国議会に連合させること)を込 めて用いられた。字義通りにいえば,ホーム・ルールとは,連合王国体制の大枠の中で立法府 の連合を解消することを意味したわけだが,実際には,ホーム・ルールはこうした字義をこえ る内容をもっ措置として批判の対象とされた。本節では,ホーム・ルール反対論が持ち出した 主要な論点を概観しておきた L 、。 (1)国制への脅威 ホーム・ルール反対論は国制をしばしば重要な論点として採りあげ,ホーム・ルールとはユ ニオンの撤回に他ならず,国制の根幹である連合王国体制の解体を意味する,と論じた。国制 の大義を自らの側に引きつけるこの論法を好んで活用し, I ホ ー ム ・ ル ー ル ・ リ ビ ー ル」 なる 表現を繰り返したのがリーグの創立メンバーの 1人,第 1次法案が浮上した時期には保守党内 の若手の旗手として活躍していたランドルフ・チャーチルであった 1 0 )。 ホーム・ルールは連合王国体制そのものを破壊するだろうという議論の根底には,ホーム・ ルールは最終決着たりえない,との認識があった。たとえば,ホーム・ルール反対派の知識人 として最も強い影響力を行使したといわれるオクスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ の法学教授 A . V. タ イ シ は , I グ ラ ッ ド ス 卜 ン が 構想 す る 国制 は イ ン グ ラ ン ド と ア イ ル ラ ン ド の国制的関係の最終的な決着でも長続きする決着でもありえない J I ホ ー ム ・ ル ー ル は 分離 へ の中間地点である」と断言している 11 )。そして,ホーム・ルールは第 1段階にすぎないという 見通しを裏書きするような発言が,実際にナショナリストによって行われでもいた。 1 88 5年 1 月21 日 の パ ー ネ ル の 演説 は よ く 知 ら れ て い る 。 - 44- 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) ナショナルな問題がどんなやり方,どんな手段で解決されるか,アイルランドにど んなやり方で全面的な正義がもたらされるか,われわれに予言できないのとちょうど同じ ように,どの程度この正義が為されるべきか,われわれには予言できません。……ブリ テン国制の下では,グラタン議会[1 7 8 2 ' " ' '180 年 の ア イ ル ラ ン ド に 存在 し た 大幅 な 自 治 権 を 有 す る 議 会 ] の 再 建 以 上 の も の を 要 求 す る こ と は で き ま せ ん 。 し か し , ネ イ シ ョ ン の 前 進 に 限 界 を 設 定 す る 権 利 な ど , 誰 も も っ て い な い の で す lヘ 第 l 段階 た る ホ ー ム ・ ル ー ル の 次 に 来 る と ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 が 想定 し て い た の は ア イ ル ラ ン ド の 分 離 独 立 で あ り , ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 や グ ラ ッ ド ス 卜 ン 派 は し ば し ば 「 分 離 党 」 と 呼 ば れ た 。 愛 国 主 義 的 な 論 調 で 知 ら れ , リ ー グ に 関 す る 報 道 に も 熱 心 だ っ た 新 聞 『 イ ン グ ラ ン ド 』 を 発 行 し て い た 保 守 党 議 員 エ リ ス ・ ア シ ュ ミ ー ド ・ パ ー ト レ ッ ト に い わ せ れ ば , Iホ ー ム ・ jレ ー ル と は , 帝 国議会 を 解体 し , 分離 し た ナ シ ョ ナ リ テ ィ を 樹立 し て し ま う 後 ろ 向 き の ス テ ッ プ 」 で あ っ た 。 白 治 議 会 の 要 求 を 掲 げ て は い る が , ナ シ ョ ナ リ ス ト が 本 当 に 目 指 し て い る の は 分 離 で あ る , と い う 認 識 は , 繰 り 返 し 強 調 さ れ た 。 そ し て , ダ イ シ が い う よ う に , そ れ は 「 連 合 王 国 制 の 根 本 的 改 変 」 に 他 な ら な か っ た 。 さ ら に , ア イ ル ラ ン ド に 端 を 発 す る 「 分 解 と い う 伝 染 病 」 が ス コ ッ ト ラ ン ド や ウ ェ イ ル ズ 、 に 波 及 し , 連 合 王 国 体 制 の 一 層 の 崩 壊 を 導 く 危 険 性 も 論 じ ら れ た 1 3 )。 (2)帝国への脅威 連合王国体制がホーム・ルールから被るダメージは帝国へのダメージに連動するものとして 把握され,この点も重大な論点となった。ホーム・ルールの核心は「われわれがかくも愛する 偉大な帝国をばらばらにすることである J,問われているのは「この偉大な帝国の結束と統合 は保持されるべきか否か」である,といった言説は枚挙にいとまがない 1 4 )。 それでは,国制へのダメージは t,かにして帝国へのダメージに連動するのか?保守党議員 デイヴィッド・プランケットは以下のように説明する。 この重大な闘争は,アイルランドとグレイト・ブリテンを結び、つける立法府のユニ オンという最も肝要なスポ y卜において,帝国統合の維持を問うものとなります。ユニオ ンこそが皆さんの帝国の最も肝要なポイントなのです。帝国には,皆さんが侮辱や損害を 被るかもしれない地域がたくさんありますが,広大な帝国中どこを探しても,これら 3つ の王国の完窒なユニオンに打撃を加えるほどのダメージが与えられうるポイントは他にあ りません 1 5 )。 - 45- 人文学報 帝国の中枢である連合王国の結束なくして帝国統合は維持できない,という議論である。 また,アイルランドへのホーム・ルールが他の植民地や自治領のナショナリズムに刺激を与 えることも危慎された。第 2次ソールズベリ政権の蔵相を務める(在任 1 887 ~ 92 年) リ ベ ラ ル・ユニオニスト,ジョージ・].ゴッシェンは,ホーム・ルールの譲歩は「もはやわれわれに は抵抗運動に対処する力がない」ことを「あらゆる被支配人種」に示す意味をもっ,と述べて いる O実際,ナショナリストは,ホーム・ルールと同様の要求を掲げたインドのナショナリス トと 1 880 ,.....,90 年代 を 通 じ て 友好 的 な 関係 を 結 び, 南ア フ リ カ のア フ リ カ ー ナ ーやス ー ダ ンの マフディ教徒を支持し,ブリテンのエジプトへの介入に反対していた。アフリカ情勢が緊迫す る中,アイルランドへのホーム・ルールが帝国のスケールにおいて反響を呼ぶだろうという見 通しは,深刻な懸念を喚起するものであった。外務省や植民地省の官僚がアフリカーナーをし ばしば「フィニアン」と呼び,インドの国民会議派を「インドのホーム・ルール党」と名指す 者もいたという事実も,アイルランドが植民地とパラレルに捉えられていたことを示すだろう。 同時に,アイルランドに対するブリテンの弱腰が他の列強諸国を勇気づけることも憂慮され た 16)。 もう lつ強調されたのが,アイルランドとブリテンの地理的近接である。第 1次ソールズベ リ政権のアイルランド大法官(在任 1 885年)であったアシュボーンはいう。「アイルランドは ほとんどわれわれの戸口に位置しており,ロンドンから数時間の距離です。カナダをアナロ ジーに持ち出すような考えは,完全なナンセンスを語っているにすぎません。」戦時における アイルランドの脅威が特に危慎され,ホーム・ルールにはブリテン及び帝国の軍事的覇権を動 揺させ,帝国の先行きを暗くする意味が見出された 17 )。 (3)私有財産権への脅威,その他 ホーム・ルールは私有財産権を脅かすものとしても批判された。アイルランドの地主(ブリ テン人不在地主を含む)の財産は土地戦争 0 879 ~ 82 年, 後述) の 展開 の 中 で 脅威 に さ ら さ れ て きたが,ダブリン議会という後ろ盾を得るなら,土地に関するアイルランドの借地農の要求に 拍車がかかると危倶されたのである。しかも,ホーム・ルールを突破口として,私有財産権へ の脅威はブリテンにも流れ込むと考えられた。]. ジェイムズ・スティーヴンは, S. ミ ル 批判 で、 知 ら れ る ジ ェ イ ム ズ ・ フ イ ソ ツ r タ イ ム ズ』 紙上 で こ う 問 L 、 か け て い る 。 「 ア イ ル ラ ン ド に お い て社会主義とジャコパン主義が解き放たれたなら,それらがイングランドに渡ってくるまでに どれほどの時聞がかかるというのか? J18) ま た , ホ ー ム ・ ル ー ル の 「 実 践 不 可 能 性 」 も 指 摘 さ れ た 。 焦 点 は ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー と ダ プ リ ン 議 会 の 関 係 で あ る 。 第 l 次 法 案 で も 第 2 次 法 案 で も , 前 者 の 優 越 が 一 般 的 に 規 定 さ れ る こ と は あ っ て も , ど の よ う な 方 法 で そ れ が 保 証 さ れ る の か , 具 体 的 な メ カ ニ ズ ム は 明 示 さ れ て い -4 6 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) なかった。 2つの議会の対立が予想されていただけに,これは法案の重大な弱みであった 19)。 ダプリン議会の経費を賄うために,ブリテン納税者の負担増が予想されることも,よく持ち 出される論点であった。リーグの機関紙『プリムローズ・リーグ・ガゼット J 2 0 ) (以下では「ガ ゼ y 卜 』 と 略記) はい う。 「 ホ ー ム ・ ル ー ル が意 味 す る の は , ア イ ル ラ ン ド 統治 へ の 現在 イ ン グ ランドが支出している以上の帝国財政からの支出であり,イングランドへの今よりもずっと重 い課税である。」さらに,ダブリン議会がブリテン製品に「敵対的関税」を課し,ブリテンの 産業や商業の障害となるという見通しも打ち出された 21 ) o ホーム・ルール反対論が採りあげた論点は以上で尽きるわけではな l ' oここでは,ホーム・ jレ ー ル が 多 岐 に わ た る 切 り 口 か ら 批判 さ れ た こ と を ま ず は 確認 し て お き た い 。 第 2 節 ナ シ ョ ナ リ ス ト の く圧制 ) 22) 改めていうまでもないが,およそあらゆる言説は構成され発話されることで自己完結するも のではない。それは,なんらかの受け手によって消費=(横領〉されるべき表象である。影響 力の獲得を目指す政治運動のコンテクストに置かれる言説の場合,論理的な精密さや対象の核 心を衝く鋭さ,対立する言説を封じ込める巧妙さ以上に,より多くの受け手に消費=く横領〉 されうる性質を有することが重要になる。ホーム・ルール反対運動に引きつけるならば,国制 や帝国といった論点がいかに重大な意味をもち,ホーム・ルール批判の切り口としていかに有 効であったとしても,それが運動を支持すべき,運動に動員されるべき人々へのアピール力を 豊かに備えていると考えられたか否かは別問題である。これらの論点は,演壇やジャーナリズ ムで発話しうる立場にあった者たちの多くにとって,自らをホーム・ルール反対へと駆り立て る主要な根拠ではあったかもしれな l ' oしかし,ホーム・ルール反対を説く議論において,こ れらの論点は必ずしも中心的な位置を占めていない。多くの受け手にアピールしうるとおそら くは考えられたがゆえに活用されたのは別のテーマ,すなわち,ナショナリストのく圧制), アルスター・プロテスタントへのく脅威),というそれであった。前節で見た論点がさしたる 意味をもたなかったわけでは断じてないが,ホーム・ルール反対論を僻敵してみると,く圧制 を強行しようとするナショナリスト〉とく圧制の脅威にさらされるアルスター・プロテスタン ト〉を主人公とする言説が最も広く流布されていたことがわかる。 (1)く危険で信用ならない〉ナショナリスト ホーム・ルール反対論においておそらく最も執槻に強調されたのは,ナショナリストがし、か に〈危険で信用ならない〉者たちであるか,であった。本稿でいうナショナリスト=ホーム・ jレ ー ラ ー は 合法 的 な 議会主義路線 を 基本 に 自 治議会 の 実現 を 図 る 者 た ち で あ り , 4 7 土地戦争 や そ 人文学報 の後の展開の中で,武力闘争によるアイルランド共和国の樹立を目指すフィニアンとは一線を 画す姿勢を採ってきたがベホーム・ルール反対論はしばしば両者の差異を抹消し,ナショナ リストは誰でも結局のところフィニアンと同類であると論じた。ハーティントンはいう。「ア イルランド行政府はパーネル氏の手中に入るでしょう。……この行政府は国民同盟[注 2 5 参 照]ないしフィニアン協会のメンバーの誰かによってコントロールされるでしょう。……こ の法案の下では,アイルランド立法府の信任さえ得られれば,アイルランドの行政機関の長が フィニアン協会のメンバーであっても合法的なのです。 J <ホーム・ルール・クライシスの時 代〉において,アイルランド人,特にナショナリストをフィニアンと結び、つけて表象すること は珍しくなく,フィニアンの手によるとされる過去のさまざまな騒乱が,ナショナリストの く暴力的・犯罪的〉な性格を示す根拠として動員された。「パーネリズムの現在の姿」は「四半 世紀前のフィニアニズムの佼滑な変種」であり,ホーム・ルール運動は表面的には合法的だが, 「根底ではアイリソシュ・リパブリカン・プラザフソド[フィニアンの組織]の密偵たちが絶 え間なく動き回り,ボイコット,暴行,夜襲,時には殺人が,必要なだけでなく合法的 なよき任務であることを人々の間で説得している」というのである 24 )。 ナショナリストの性格づけにあたっては,国民同盟 25 )の活動もしばしば持ち出された。 年 2月のアルスター訪問に際し,チャーチルは, 外のアイルランドでは, 1 886 I 国民 同 盟 の 支配」 の 下 に あ る ア ル ス タ ー 以 I 日 常生活 に お け る ほ ん の 些細 で 無害 な , 罪 の な い 行動 で あ っ て も , そ の行動への懲罰として財産や生命さえ奪われるのではないか,と考えずに行動できる者は l人 もいません」と演説している 26)。ブリテンにおける言及では,国民同盟と土地同盟とがしばし ば同一視されたが,ナショナリストのく暴力的・犯罪的〉な性格を描くに際にも,国民同盟の 運動方針に基づくプラン・オヴ・キャンペーン 2わであれ,土地同盟の指導下で展開された土地 戦争であれ,すべての首謀者はナショナリストであるとする論調がごく常套的に活用された。 「現在ホーム・ルールを要求して騒いでいる者たちは,殺人と暴力を扇動し,かつて何年もの 間アイルランドを恐怖政治の下に置き,コミュニティ内の平和的な人々には声をあげる機会を 一切与えようとしない者たちとまったく同一」と論じられるのである 28)。さらに,ナショナリ スト党議員の議事妨害戦術や,ナショナリストが直接かかわってはいないが,アイルランド担 当相フレデリソク・キャヴェンディッシュと担当次官卜マス・へンリ・パークが殺害された 1882 年5 月6 日 の フ ェ ニ ッ ク ス ・ パ ー ク 暗殺事件 も , く暴 力 的 ・ 犯罪的〉 なナ シ ョ ナ リ ス ト の イメージ形成に利用された 29 )。 また,さきに見たスティーヴンが「社会主義とジャコバン主義」ということは、を用いてナ ショナリストと農民運動に論及したように,ナショナリストはブリテンに対立する諸外国,と りわけフランスと結託する者たち,フランス革命の末育としても描かれた。庶民院における第 2 次 法案 の 審議 の 在 り よ う に 不満 を 表 明 す る 「 タ イ ム ズ』 は 以下 の よ う に い う 。 ~ 4 8~ 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) CRO¥ Y N I N G THE O ' C A L I B A N . Punch , 2 2D e c .1 8 8 3 . 図 版 ① 多 数 派 の 専 制 的 な 投 票 に よ っ て 自 由 な 討 論 が 抑 圧 さ れ た こ と は , イ ン グ ラ ン ド の 庶 民 院 よ り も フ ラ ン ス 革 命 期 の 国 民 公 会 に 相 応 し い も の で あ り , 間 違 い な く 議 会 を 崩 壊 ・ 堕 落 さ せ る だ ろ う 。 こ う し た や り 方 は , 議 会 の 作 法 の 規 則 や 伝 統 を 馬 鹿 に す る か の よ う に 無 視 し 対 立 す る 者 た ち を 踏 み つ け , 沈 黙 を 強 い よ う と す る 倣 慢 な 情 熱 に 充 ち た ア イ ル ラ ン ド 人 分 離 主 義 者 に よ っ て 主 に 構 成 さ れ る 勝 ち 誇 っ た 一 派 を イ ン ス パ イ ア し て い る 30 )。 さ き の 引 用 に 見 ら れ た 「 恐 怖 政 治 」 と い う 表 現 に も , ジ ャ コ パ ン 的 な イ メ ー ジ を ナ シ ョ ナ リ ス 4 9- 人文学報 トに付与する効果が明らかに期待されている。ナショナリストのく暴力的・犯罪的〉性格はフ ランス革命の記憶によっていよいよ強められ, I ア イ ル ラ ン ド に お け る フ ィ ニ ア ン の 収奪 に よ る支配」と「フランスにおけるジャコパンの収奪による支配」とは同種とされたのである。ま た,ナショナリズムとアイルランド人移民の浅からぬつながりゆえに,同様のコンテクストで はアメリカへの言及もたびたび行われた。『イングランド』にいわせれば, I彼 ら [パ ー ネ ル と その追従者]は,よく知られているように,長年にわたり彼らに資金と無法なエイジェントを 提供してきた大西洋の彼方のアイリッシュ・アメリカンのならず者たちの最終的な指令の下に ある」のだった 3 ])。 もう lつ重要なポイントとして,ナショナリストが抱くくイングランドへの敵意〉も頻繁に 指摘された。ナショナリストとは「女王の忠誠な臣民」でも「わが国の名声や偉大さを支えた いと望んでいる者」でもなく, I イ ン グ ラ ン ド を 憎悪 す る こ と を 公言 し , イ ン グ ラ ン ド の利害 に敵対する者J I外来 の 金 や 外来 の 支援 を 受 け て , イ ン グ ラ ン ド の 破壊 を 企 て た い と 望 ん で い る 者J I イ ン グ ラ ン ド に 対す る ア イ ル ラ ン ド 人 の 心情 を 毒 す る こ と だ け を 務 め と 者」だというのである 32)。もちろん, …… してき た <フランスやアメリカとの結託〉のイメージも,くイング ランドへの敵意〉の根拠の lつに位置づけられる O ダメ押しのように持ち出されたのがナショナリストの反道徳性であり, 1890 年11 月 に 発覚 し,パーネルの政治的失墜とナショナリスト党の分裂を招いた不倫スキャンダル33)は,まさに 格好の材料となった。「パーネル氏は……友人を欺いたり政治的同志を編したりしても平気 な人物のようだ。」反道徳性を指摘されたのはパーネルその人ばかりではない。「グラッドスト ン氏がパーネル氏を切り捨てたのは,ようやく世論が間違いなくパーネル氏に対して敵対的で あることがはっきりしてからだったことを銘記せよ。アイルランド党の一部がパーネル氏を党 首の地位から退けたのは道徳的理由からではなく,政治的理由からだったことを銘記せよ。」 さらに,ナショナリストはく嘘つき〉としても表象された。『ガゼット』に断続的に寄稿して いた筆名ジャック・プレインはいう。「彼ら[ナショナリストやグラッドストン派]は嘘を止 められないのだ。・…..嘘は彼らのたった 1つの商売道具なのである。 J 34 ) フィニアニズム,農村暴動,フランス革命,イングランドへの敵意,反道徳性,といった切 り口から遂行されたナショナリストニ「キャラクターが高潔でない革命家たち J 格づけは, (ダイシ)の性 <危険で信用ならない〉というイメージとして焦点を結んだ。そして, <暴力的〉 〈犯罪的) <革命的> <反イングランド的〉く背徳的〉等々のレソテルは,ナショナリストをく悪 漢〉に同定する効果をもった。 1 886年 2月 2 2日のベルファストにおけるチャーチルの演説が 最も包括的な一例といえるかもしれない。「パーネル氏が直接にコントロールしている力」と は, I海外 の エ イ ジ ェ ン シ に よ っ て 生 み 出 さ れ, 海外 の 資金 に よ っ て 育 て ら れ, 殺人, 暗殺, ダイナマイトによって活動し,夜間の略奪や真夜中の殺裁によって零細農民を恐怖に陥れ,暴 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) THE D Y N A M I T ES K U N K . Punch , 1 4June1 8 8 4 図 版 ② 力 を 人 間 に 限 っ て 使 う の で は な く , 人 聞 を 傷 つ け 脅 す た め に … … 無 害 で 攻 撃 す る こ と も 話 す こ と も 知 ら な い 動 物 を 損 傷 し 苛 む 」 も の で あ る 35 )。 (2)ナショナリストと世論の不離 く悪漢〉の造形に際しては,ナショナリストがアイルランドの世論を代表しているという想 定を解体することが重要な課題となった。世論の支持が認められる限り,し、かにく悪漢〉であ ろうが,彼らの要求にはある程度の正当性が担保されてしまうからである。たとえば, - 5 1 rホ ー 人文学報 I ' H E IRISH ・'VAMPIRE." Punch , 2 4Oc t .1 8 8 5 . 図 版 ⑧ ム ・ ル ー ル の 要 求 は 概 し て 作 り 話 で は な し 、 か と い う 印 象 を も っ て 」 ア イ ル ラ ン ド で の 取 材 を 遂 行 し た 『 タ イ ム ズ 』 の 特 派 員 は , 以 下 の よ う に 書 く 。 「 私 が 見 た と こ ろ , 対 面 で 静 か に 語 り , 自 分 の 本 当 の 意 見 を 開 陳 す る 時 , 彼 ら は ホ ー ム ・ ル ー ル 運 動 が 自 分 た ち の 国 に 害 を も た ら し た だ け で あ る こ と , 運 動 か ら 利 益 を 得 た の は パ ー ネ ル 派 だ け で あ る こ と を き ち ん と 認 識 し て い た。 J 36 ) < 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 な 嫌 が ら せ を 避 け た い が た め に , ア イ ル ラ ン ド 人 は ナ シ ョ ナ リ ス ト に 同 調 す る ふ り を し て い る だ け だ , と い う 主 張 で あ る 。 5 2 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) ナショナリストがし 1かに(うわべの)支持者の利益を裏切っているか, r ガ ゼ ッ ト 」 に は 以下 のようにある。 アイルランドの借地農たちがノ fーネル派議員たちの悪知恵と野心の犠牲であること,政治 的に悪名を馳せることを抜け目なく追求するこれらの者たちが単なる道具や手先としてだ け支持者たちを利用してきたことを,ユニオニスト党は常に主張してきた。彼らは公共の 場に借地農たちを集め,自分たちの徳と野蛮なサクソンの邪悪さや非道さについて長々と 説教をしてきた。彼らは,自分たちの恥ずべき目的に向けて,借地農たちの熱情に火を点 け,貧欲さにアピールし,純粋さや信頼を悪用し,不幸を利用してきた。議会の中におい てであれ外においてであれ,彼らが lっとして行っていないのは,貧困の克服や勤勉の鼓 舞,犯罪の根絶を目的とするような提案をし,計画を描き,運動に着手することである 37 ) 当然,このような者たちがアイルランド世論を代表する資格は否定される。 1 885年総選挙で のナショナリスト党の躍進にしても,それは世論の動向よりも選挙制度の改革に起因するので あって,ホーム・ルールの要求を正当化するわけではないと論じられたお)。 それでは,アイルランド世論のく実態〉とはどのようなものか?さきに登場した『タイム ズ』の特派員は次のようなインタヴューを紹介している。 勤勉でよく働く借地農(カソリック)。 「ひどい時代だ……これ以上悪いことはありえなし」この運動[ホーム・ルール運動] は大きな害 a だ pli n t y g r e a td a l eo fharm o fmoney 。 を 為 し た 。 一 一 ・ ・ ノ f ー ネ ル 氏Misther … … 自 分 の 財産 を 買 い 戻 し , 道楽好 き な 仲 間 に 金 を 払 っ て や る の に 足 り る ほ ど の 金 を も っ て い な か っ た と い う こ と じ ゃ な い の か リ ス ベ ク タ ブ ル な 羊 飼 P a r n e l lは金持ち ?J L 、 ( カ ソ リ ッ ク ) 。 「 こ の 運 動 は … … す べ て を 破 壊 し , 世 の 中 を 駄 目 に し て し ま っ た 。 こ の 運 動 が 始 ま っ て 以 来 , い い こ と は な に も な い 。 」 富 裕 な プ ロ テ ス タ ン 卜 の 農 夫 。 「 こ の 法 案 が 通 る か つ て ? … … も し も 通 っ た ら , 私 た ち は み な ア イ ル ラ ン ド か ら 出 て 行 く だ ろ う 。 こ の 国 は こ の 運 動 に よ っ て 押 さ え つ け ら れ て い る 。 集 会 や ら 飲 み 会 や ら 土 地 同 盟 や ら m ee t i n ' s andd r i n k i n 'andLandLagin' を し て い れ ば , 彼 ら は ず っ と 豊 か に a に か か わ り あ う 代わ り に , g r e a td a l eb e t t e roff 彼 ら は す べ て の プ ロ テ ス タ ン ト , す べ て の 地 主 を ア イ ル ラ ン ド か ら 追 い 出 す こ と を 望 ん で い る 。 」 -5 3 き ち ん と 仕事 に な っ て い た は ず だ。 人文学報 あえてアイルランド批りを演出してみせるなど,くナマの証言〉を装った窓意的な作文である 可能性が高く,ここに表現されているのは,く実態〉というよりもむしろホーム・ルール反対 派がこうあってほしいと思う世論の認識であるが,概してこうした調子で,ナショナリストに シンパシーを抱かず,ホーム・ルールを望んでいないアイルランド世論のく実態〉なるものを 描き出すことは,ホーム・ルール反対論において常套的なやり方であったお) 0 <危険で信用な らない〉ナショナリストは,アイルランドの世論を代表していないにもかかわらずそうである かのように装い,実際にはアイルランドの人々の利益を裏切っている欺摘的な存在として造形 され,く悪漢〉のイメージをいよいよ強められたのである。 (3) <操り人形〉としてのグラソドストン ナショナリストに同調するグラッドストンとその同僚に対しては,くナショナリストの意の ままにされる操り人形〉というイメージが付与された。アシュボーンは以下のように述べる。 「イングランドとスコットランドの選出議員にはホーム・ルールに反対する多数派がいるにも かかわらず,事実上ナショナリスト党議員の意のままにされている首相は,ブリテン選出議員 に猿ぐつわをはめ,討論を打ち切りました。」グラ yドストンに与えられた役割は,実はホー ム・ルールを望んで:はいないにもかかわらず,政権維持のためにキャステイング・ヴオートを 握るナショナリスト党に逆らうことができずに仕方なく彼らと同一歩調をとっている者のそれ, いわばく党利を優先させるがゆえに悪漢に操られるしかない相棒ないし子分〉のそれであっ た 40 ) 。 (4)予言されるく庄市 IJ ) ホーム・ルールの核心がナショナリストにアイルランドの支配権を委ねることであるとすれ ば,ダプリン議会を牛耳るであろう〈危険で信用ならない悪漢〉はし とになるのか? <悪漢〉の造形はく圧制〉の予言に連動していた。 基本的な主張は,ナショナリス卜がく暴力的・犯罪的〉である以上,ダブリン議会がく暴力 的・犯罪的〉な統治を試みることは間違いない,というものであった。「ホーム・ルール下の アイルランドの統治者がこれらの者たち[ナショナリスト]から輩出されること,そして,彼 らが自らの信奉する原理に則ってアイルランドを統治しようとすることは間違いない」。ハー ティントンの j寅g£にはこうある。 ここしばらくの間,アイルランドの多くの地方において国民同盟こそが本当のアイルラン ド政府となっていること,その政府の下で,きわめてすさまじい不正,残虐,抑圧が行わ れてきていることを,私たちは知っています。……アイルランドの多数派に抑制の利か 5 4 1かなる統治を実行するこ 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) T E M P T A T I O NO FTHEG O O DS T .G L A D S T O N E . Punch , 9 J a n .1886 図 版 ④ な い 権 力 が 与 え ら れ た な ら , そ の 権 力 が 少 数 派 を 抑 圧 す る だ ろ う と 信 じ る こ と は , 非 合 理 的 で は な い で し ょ う 4l )0 チ ャ ー チ ル の 挑 発 的 な レ ト リ ッ ク に よ れ ば , ナ シ ョ ナ リ ス ト が 支 配 す る ダ プ リ ン 議 会 は 「 化 け も の じ み た 機 関 」 で あ り , そ の 統 治 は 「 く び き 」 以 外 の な に も の で も な か っ た 。 ナ シ ョ ナ リ ス ト に よ る ア イ ル ラ ン ド 統 治 は , I ア イ ル ラ ン ド 国民 の 真 の 自 由 を 脅 か す 」 も の , 5 5 く庄市Jj ) の 名 に 人文学報 相応しいものとして描かれるのである 4 2 )。 く圧制〉の矛先が誰よりもアルスター・プロテスタントに向けられているという認識も,共 有された。 1 886年 6 月 1日の庶民院では,チェンバレンがかなり強引な演説を行っている。 アイルランド選出議員たちはかつてこういいました。アルスターを支配下に置くだ けの権力が与えられないような法案であれば,そんな法案はない方がいい,と。(パーネ lレ 派議員たちから「違う,違う」の叫び声。議事の妨害がつづ、く。)支配下に置くだけの,です。 (再び議事の妨害。)……ダブリンを支配する多数派の権力の下にアルスターを置かないよ うな法案は,です。……こんなことがアルスターにとってフェアなのでしょうか? 4 3 ) 特 に 強 調 さ れ た の が プ ロ テ ス タ ン ト 地 主 の 「 追 放 」 で あ っ た 。 保 守 党 議 員 パ ー ク は い う 。 「 も し も こ の 法 案 が 通 過 し た な ら , 士 地 貴 族 も 土 地 ジ エ ン ト リ も い な く な る で し ょ う 。 彼 ら は 追 放 さ れ る の で す 。 彼 ら は 土 地 を 買 い 叩 か れ る の で す 。 J r土地 を 買 い 叩 か れ る 」 と あ る 通 り , こ こ で 語 ら れ る 「 追 放 」 は な に よ り も 経 済 的 な 性 格 の も の , す な わ ち , 借 地 農 の 要 求 を 背 景 に , ダ ブ リ ン 議 会 が 強 引 な 土 地 購 入 = 自 作 農 創 設 政 策 を 遂 行 す る こ と の 帰 結 で あ る が , 宗 教 的 な 性 格 の 「 追 放 」 も 同 時 に イ メ ー ジ さ れ て い た 。 カ ソ リ ッ ク 教 会 の 意 を 汲 む ダ プ リ ン 議 会 が ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト を 迫 害 す る の は 不 可 避 で あ る , と い う こ と で あ る 。 チ ャ ー チ ル は 断 言 し て い る 。 「 … … ア イ ル ラ ン ド の プ ロ テ ス タ ン ト が , パ ー ネ ル 氏 が 演 説 者 た ち の 長 で あ り , ウ ォ ル シ ュ 大 司 教 [ 1 885 年 か ら ダ ブ リ ン 大 司 教 , ナ シ ョ ナ リ ズ ム や 農 民 運 動 を サ ポ ー ト す る 姿 勢 を 見 せ た ] が 聖 職 者 た ち の 長 で あ る よ う な 議 会 で あ る ダ プ リ ン の 議 会 の 法 に 従 順 な 姿 勢 を 採 り , ダ プ リ ン の 議 会 の 権 力 を 承 認 し , ダ ブ リ ン の 議 会 の 要 求 を 満 足 さ せ る , な ど と ほ ん の 一 時 で も 想 像 す る こ と が で き た の は , グ ラ ッ ド ス ト ン 氏 だ け で す 。 J 44 ) ブ リ テ ン 製 品 へ の 関 税 や ブ リ テ ン 納 税 者 の 負 担 増 の よ う な か た ち で ブ リ テ ン に も ダ メ ー ジ が 及 ぶ こ と も 論 じ ら れ は し た が , ナ シ ョ ナ リ ス ト の く 圧 制 〉 に 関 す る 限 り , 問 題 に さ れ る の は 圧 倒 的 に ア イ ル ラ ン ド 国 内 向 け の 政 策 で あ っ た 。 次 節 で 詳 し く 見 る よ う に , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 の プ ロ パ ガ ン ダ の 中 で , < 悪 漢 〉 の く 圧 制 〉 に よ っ て 脅 か さ れ る 役 割 は , 誰 よ り も ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト が 担 わ さ れ た の で あ る 。 (5) く 劣等〉 な ア イ ル ラ ン ド 人 カ ソ リ y ク ナショナリストのく圧制〉をめぐる議論の根底には,アイルランド人の能力や性格に関する ネガティヴな認識が横たわっていた。もちろん,アイルランド人とはいっても,ここで想定さ れているのは総じてユニオニズムを支持するアルスター・プロテスタン卜ではなく,多数派と してダプリン議会を掌握するであろうアイルランド人カソリック(以下ではカソリックと略記) - 56- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) である。く劣等〉なカソリソクの認識をホーム・ルール反対論の送り手と受け手がある相当程 度まで共有していたからこそ,く圧制〉の予言はリアリティをもちえたのである。カソリソク のく劣等性〉にかかわる議論を,以下で整理しておこう。 カソリックのく劣等性〉は,まずなによりも人種的なそれとして語られた。〈優秀なアング ロ・サクソンと劣等なケルト〉の二項対立は 1 9世紀前半以来論じられてきたが,ホーム・ ルール問題の浮上とともに,人種的資質の優劣に関する認識はいよいよ強められる。ホーム・ /レールをめぐる闘争はしばしば7ングロ・サクソンとケルトという人種の間の闘争として提示 され,く劣等〉なケル卜的資質の持ち主には自治能力が欠けていることが執助に指摘された 45 )。 1886 年5 月15 日 に ソ ー ル ズ、 べ り が 行 っ た 演説 は , 特に よ く 知 ら れて い る O ソ ー ルズベ リ に よれば,ホッテントッ卜の研究は,同じく「近代の自治的な制度を安心して任せることのでき ない,文明の原初的なレヴェルにしか達していない人々 Jが居住するアイルランドにも適用で きる。「皆さんは自由な代議制型の制度をたとえばホッテントットには与えないでしょう」と して,ソールズベリはダプリン議会がまっとうに運営される可能性を否定するのである O自治 を機能させうるのは「チュ一トン人種」だけであった。 アイルランド人が身につけている習慣はきわめて悪質です。彼らはナイフや銃を使うこと を習慣としており,このことは彼らを信用することとは両立しません O土地の管理人を殺 害する者あり,家畜を傷つける者あり,他人が生計を立てることを邪魔する者あり,法に 適った負債を支払おうとする人の足を銃撃する者あり,といった具合です。こうした行為 や脅迫によって,現在の政治体制の支持者になんらかのサポートを与えたり,なんらかの 取引をしたりする者すべてを,アイルランド人はひどい日にあわせるのです 46 )。 ソールズベリが描くカソリックのイメージは,く危険で信用ならない〉という意味において, ナショナリストのそれとほぼ重なりあう。そして,自治を適切に遂行するだけの人種的資質が 備わっていない以上,彼らが支配するダプリン議会の統治はく圧制〉にしかなりえないことに なる47J。 いうまでもなく, トレッ卜は, <劣等〉なカソリックの対極にはイングランド人が位置づけられた。パー I ア ナ ー キ ー の 本能J I個 人 の 自 由 の 抑圧 J I無法 な テ ロ リ ズ ム の 専制 」 する「コネマラのケルト」に, r諸大陸 に 植民 し , 民に法とよき統治を与えてきた J 広大 な 諸国 を 文明 化 し , I偉大 な 帝 国 的 人種」 を 特徴 と 何万 も の 異 質 な 国 た る イ ン グ ラ ン ド 人 を 対置 し て い る O こうしたアングロ・サクソニズムの人種論からすれば,手に余るであろうホーム・ルールを得 るより, r開 明 的 な 人種 の , 断固 と し て は い る が, 寛 大 で共感 に 充 ち た , 治される」ことの方が,カソリックにとってはるかに望ましかった 48 )。 5 7 誠実 な 手 に よ っ て 統 人文学報 興味深いのは,アングロ・サクソンの人種的優秀性が時にスコットランド人やウェイルズ、人 にも見出されていたことである。「帝国を維持するためには,われわれの偉大な祖先たちが示 したそれとあらゆる意味で類似した資質を活用することが必要である。これらの資質は,グレ イト・ブリテンを成す人種に継承されているとわれわれは信じる。 J I ウ ェ イ ル ズ人 の 性質 に は , イングランド人の場合と同じく,適切なコモン・センスとフェア・プレイや正義への愛が豊か に存在します。 J 49)おそらくはプロテスタンテイズムを共通の基盤に設定することで(つまり, 血統から文化へと人種認識の中核を移行させることで),次節で見るように,アルスター・プロテス タントにまで人種的優秀性を認めることも可能になるわけである。人種ということばこそ用い ていないものの,マシュー・アーノルドは, 1886 年1 月18 日 付 け の 手紙 の 中 で , I生来 の イ ン グリッシズム Engl i shismと忠誠心のセンター」であるアルスターのイングランドとの同質性 (I ケ ル テ ィ ッ ク ・ ア イ ル ラ ン ド 」 と の 異質性) を 強調 し て い る し , ダ イ シ に よ れ ば, アルス タ ー ・ プロテスタントは「これまで常に法を遵守し,連合王国の名誉ある保護に頼ってきたイングラ ンド臣民」に他ならなかった。アングロ・サクソニズムに依拠することで,アルスター・プロ テスタントは「ウサギのように繁殖し,半野蛮の状態で生活する」カソリックから差異化され えたのである 50 )。 人種と並んでカソリックのく劣等性〉の根拠に持ち出されたのが,カソリシズム信仰そのも のである。パーネルをはじめ,ナショナリスト指導者にはプロテスタントが含まれており, ホーム・ルール運動は必ずしもカソリックだけを基盤としていたわけではないが,ナショナリ スト党がカソリック政党の性格を強く有していたことも事実であり,この時代のブリテンでは アイルランド・ナショナリズムとカソリシズムを一体視する認識が浸透していた。そして,ブ リテンのプロテスタントからすれば,カソリシズムの意味するところは教皇崇拝であり,迷信 であった。さらに,ホーム・ルール反対論は,他にもさまざまなマイナスの属性をカソリック に付与している。いわく, I ロ ー マ ・ カ ソ リ y ク 教会 の 聖職者 が 行使 す る 精神 的 な そ れ だ け で なく強力な政治的影響の下にもある」ためナショナリストの扇動に容易に操られてしまう,寛 容を重んじ自由を愛する者たちではない,あるいは, のない祖先たちの長い系譜」をヲ|く者たちであり, チェンパレンにいわせれば, I カ ソ リ ッ ク 教会 は , I イ ン グ ラ ン ド を憎 む こ と を や め た こ と I き わ め て 好戦的」 で あ る , 等 々 。 そ し て , そ の 教義 に お い て も 信条 に お い て も , [プロ テスタントとの]平等では満足せず,支配を要求する」存在であるから,これらのマイナスの 属性はプロテスタントに対する支配において発揮されることになる。ホーム・ルール反対論が カソリックに施した性格づけを踏まえるならば,彼らが自治能力を欠き,ホーム・ルールを く圧制〉に導くであろうことは明らかであった 51)。 以上のようなカソリックのく劣等性〉に関する議論から透けて見えるのは,ホーム・ルール 反対派にとって,彼らは連合王国を構成するパートナーというよりもむしろ支配の対象だった - 58- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) ことである。連合王国体制の内実もまた,相互的な同盟関係というよりもむしろ支配と被支配 の関係であった。アルスター・プロテスタントはともかく,カソリソクにはく連合王国のシ ティズン〉という自覚はもちがたく,ブリテン人の側も明らかに彼らを見下していた。ホー ム・ルール論争は,連合王国の同等のパートナーという形式が内実を伴わないこと,アイルラ ンドが植民地的なポジションにあることを,わかりやすく明るみに出したのである 52 )。 導かれる結論ははっきりしていた。人種的にも宗教的にもく劣等〉なカソリックにはそもそ もホーム・ルールを要求するに相応しいだけの能力が備わっていない,これである Oオクス フォード大学の欽定歴史学講座教授を務めた経歴をもち,自由党系の「リトル・イングラン ド・ユニオニスト」として活躍したゴールドウィン・スミスのことばを借りるなら, ランド人の政治的本能はシティズンのそれではなく土民のそれ」であって, Iア イ ル Iア イ ル ラ ン ドの ケルトが依然として議会制統治の能力を欠いている」のは明らかだということである。 1 886 年 6 月 1 3日にハットフィールド・パークで行われたソールズベリの演説は,カソリックをあ からさまに「諸君の敵」と呼んだうえで,ホーム・ルールを「狂気の沙汰」と決めつけている。 どんなに強く諸君が彼らのよい性格を見出そうと思っても,どんなに強く諸君が彼らの状 態を改善しようと望んでも,彼らのうちの多数派が諸君を憎んでおり,しかも,その憎し みは昨日や今日に生まれた感情ではなく,長い歴史を通じて年や世代を経るほどに高まっ てきたものであって,グラッドス卜ン氏が採用したいわゆる救済政策もこの憎しみを激 化・拡大させただけだったのですから,これらのことを知っている以上,彼らの感情が 1 日にして覆り,彼らが昔からずっと考え感じてきたすべてのことを一瞬のうちに忘れるな どと想定すること,そして,諸君の友人たちゃ帝国の権限,統合を無条件に彼らの手に委 ねることは狂気の沙汰ではないでしょうか? 5 3 ) 第 l の テ ー マ を め ぐ っ て 展 開 さ れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 は , カ ソ リ ッ ク の く 劣 等 性 〉 の 認 識 を 基 盤 と し て ナ シ ョ ナ リ ス ト を く 悪 漢 〉 と ア イ デ ン テ ィ フ ァ イ し , ダ プ リ ン 議 会 が 設 立 さ れ れ ば , く 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 な く 圧 制 〉 が 遂 行 さ れ る こ と に な る , と 予 言 す る 内 容 の も の で あ っ fこ O 第 3 節 ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト へ の く脅 威 ) 54 ) ホ ー ム ・ ル ー / レ 反 対 論 が 予 言 す る ナ シ ョ ナ リ ス ト の く 圧 制 〉 に よ っ て 最 大 の 被 害 を 受 け る 集 団 に 同 定 さ れ , < 悪 漢 〉 に 対 置 さ れ る く 潜 在 的 犠 牲 者 〉 の 役 割 を 担 っ た の が , ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト で あ っ た 。 本 節 で は , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 が 繰 り 返 し 採 り あ げ た 第 2 の テ ー マ , - 59- 人文学報 アルスター・プロテスタントへのく脅威〉について検討したい 55 ) (1) <善良な潜在的犠牲者〉 アルスターやアイルランド南部に居住するプロテスタントはどのような人々として描かれた か?最も頻繁に行われた性格づけは,忠誠,勤勉,知的,といったそれであろう。たとえば, リーグが組織した第 2次法案反対の議会請願には, I ア イ ル ラ ン ド 独 自 の 立法府 の 創設 は ア イ ルランドの忠誠な住民たちの生命と財産を危険にさらす」という一節があるが,ここで想定さ れているのは明らかに勤勉で知的であるがゆえに財産にも恵まれたアルスター・プロテスタン トである 56 ) 0 <暴力的・犯罪的〉でイングランドを憎悪するナショナリストゃく劣等〉なカソ リックとは正反対の, <悪漢〉の対極に位置するく善良な潜在的犠牲者〉に相応しい性格づけ である。 アルスター・プロテスタン卜がこうした性格を身につけることができた根拠は,彼らが人種 的にも宗教的にもカソリ yクとは異なっている点に見出された。この時代にも甚大な影響力を 行使していたマコーリの「イングランド史」は,アングロ・サクソン人種とプロテスタンテイ ズムを論拠として,アルスターのプロテスタン卜・コミュニティを IIイングランド」の帝国 的社会の一分枝」と規定し,その対極に,ケルティックでカソリック,したがって文明水準の 大きく劣るアイリッシュ・コミュニティを置いた。 1 7世紀のアイルランドに関する叙述の中 では, I文 明 化 さ れ “ イ ン グ ラ ン ド 的 E n gli sh ry " な」 人々 と 「土着 の 」 人 々 と が以下 の よ う に対比されている。 -宗教を隔てているのと同じ境界線が人種を隔てていた。……同じ大地に 2つの住民 が居住し,地域社会においては交流していたものの,道徳的・政治的には分断されていた。 彼らは相異なる人種に発していた。彼らは相異なる言語を話した。 彼らは相異なるナショ ナル・キャラクターを有し,それらはヨーロッパのどんな 2つのナショナル・キャラク ターよりも相互に対立していた。彼らが位置する文明の段階は大きく違っていた。少数派 が多数派に対してもつ関係は,コルテスの部下たちがメキシコのインディアンたちに対し てもつ関係に似ていた。- 一方の側が示す知性,活力,組織性における大きな卓越は,他方の側の大きな数的優勢 を相殺して余りあるものであった。…… 2つの住民の一方が他方に対して行使している支 配は,貧困に対する富の,無知に対する知識の,未聞の人間に対する文明的な人間の支配 であった。 17 世紀 を 把握 す る 構図 は , マ コ ー リ に よ っ て, そ の ま ま1880 年代 に も 適 用 さ れ た 57 ) 。 - 60- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) く敬度で産業精神に富むがゆえに繁栄するアルスター・プロテスタント〉とくカソリシズム 信仰と人種的劣等性ゆえに経済的に遅れたカソリック〉の二項対立は,遵法的か無法か,忠誠 か不忠か,勇敢か臆病か,といった点についても延長された。さきに登場したジヤソク・プレ インが見出すアイルランド国民の 2類型は,明らかに各々アルスター・プロテスタン卜とカソ リックを意味している。「ある種のアイルランド人くらい優れた,勇敢な人間はこの世界に存 在しないし,ある種のアイルランド人ほどの臆病者もこの世界には存在しない。そして,勇敢 なアイルランド人は常に忠誠なアイルランド人であり,臆病なアイルランド、人は常に不忠なア イルランド人である。 J 58 ) 注目すべきは,産業精神に富む,知的,勤勉,忠誠,敬慶,勇敢,秩序尊重,といったアル スター・プロテスタントのイメージが,同時イ℃のブリテン人(とりわけイングランド人だが,ア ングロ・サクソニストな人種論がスコッ卜ランド人,ウェイルズ人にも適用されたことを想起すれば,ブ リテン人ともいいうる)が描きたがる自己イメージときわめて類似していたことである。そして, ここから浮上してくるのが,アルスター・プロテスタントはブリテン人にとって「親類知己」 である,という主張だった。「彼らは少なからず信仰を同じくし,帝国の精神を共有し,イン グランド人,スコソトランド人,ウェイルズ人を特徴づける倹約と忍耐という同じ優れた資質 を受け継ぐわれわれの親類知己……である。 J I 人種 に お い て も 宗教 に お い て も キ ャ ラ ク タ ー においても,彼らは,現時点でパーネル氏の支持者たちによって代表されているアイルランド 国民の一部分とよりも,イングランドやスコットランドに居住する仲間の臣民とより密接に結 びついている。」チャーチルによれば, ド国民のような人々」であり, I ア イ ル ラ ン ド の プ ロ テ ス タ ン ト は 本質的 に イ ン グ ラ ン I イ ン グ ラ ン ド と 一 体」 で あ っ た 59 ) 。 ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ニ ズム の拡張的適用はアルスター・プロテスタントをも対象に包含し,彼らを自分たちの仲間ないし 一部と見なすくわれわれ〉意識の浸透ゆえ, I親類知 己」 を く 圧制 〉 に さ ら し て は な ら な い , と いったアピールが共鳴を獲得しえたのである。 アルスター・プロテスタン卜の性格づけに際してもう 1つ強調されたのは,彼らをオレンジ メン 50 )と等置することの誤りである。「アルスター・ロイアリスト」を名乗る人物からの『タ イムズ』への投書は,以下のように図式的理解を否定する。 ブリテン庶民院の自由党議員の多くに見られる誤解を解くことをお許しくださ L 、。 すなわち,アイルランドのプロテスタントは J佐でも j孟々しいオレンジマンであり,ロー マ・カソリックは誰でもホーム・ルーラーである,という誤解です。アイルランドにおい て,そしてアルスターにおいてさえ,プロテスタン卜の大部分はオレンジマンではなく, ホーム・ルーラーはほとんど全員がローマ・カソリックではあるものの,ホーム・ルール に全面的に反対しているローマ・カソリ yクも大勢います 51J。 - 61- 人文学報 ユニオニズムとオレンジイズムを直結させる認識に対抗し,ナショナリストが喧伝するほどナ ショナリズムは浸透しておらず,アルスターのみならずアイルランド全土においてユニオニズ ムの影響力が強いことを印象づけようとする主張である 62) o ホーム・ルール反対運動をオレンジイズムに還元されてしまえば,運動への警戒心が強まり, 支持調達は困難になると考えられたため,オレンジメンを礼賛することばも時には聞かれたも のの,総じてホーム・ルール反対を唱える者たちはオレンジメンとアルスター・プロテスタン トを峻別することに力を入れた 63)。宗派にこだわらず,キリスト教全般を護持することを原則 としていたリーグも,オレンジ・オーダーからは距離をとった。「オレンジの原則はリーグの それと一致するか ? Jという支部からの問い合わせに対して,リーグ指導部ははっきりと否定 的に回答しているしオレンジ・オーダ一系の団体からの協力要請にも「きわめて用心深い」 姿勢で対応した 64) oホーム・ルール反対の世論を最大化するためには,戦闘的秘密結社(この 点ではオレンジ・オーターとフィニアンとは同じカテゴリーに収まる)とく善良な‘潜在的犠牲者〉の 聞に一線を画すことが求められたのである O (2) ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト の 危機 第 2節で見たように,ホーム・ルールは人種的にく劣等〉な者たちによる支配として把握さ れていたが,アルスター・プロテスタントに引きつけて論じられる場合,圧倒的に強調された のはカソリックの支配としてのホーム・ルール ( Hom e R ulemeansRomeRule) で あ っ た。 セ ント・パンクラスのリーグ支部に宛てたチャーチルの手紙はいう。 通常の状況であれば,教皇教撃退といった叫びによって政治運動を推進することを,私く らい避けようとする者はし 1ないでしょう。しかし,現在のような状況においては,主とし てアルスターに集中し,同時にアイルランドのあらゆる地方の小さなコミュニティにも散 在している皆さんの仲間のプロテスタントを深刻に脅かす危険を認識することは,皆さん の最も重要な責務であると私はいいたいと思います。彼らにとっては,独自の自立的な議 会がアイルランドに樹立されることは,イングランドのプロテスタントがもっ譲ることの できない権利である宗教的自由の喪失を意味するでしょう。「ホーム・ルールはローマの 支配を意味する」という古くからの,そして忘れられ気味の格言の厳粛な真理を,有権者 に説き聞かせ,認識させるのです ローム・ルールという事態は,第 るエドワード・カースンにいわせれば, 65 )。 3次法案をめぐる闘争の際にユニオニストを率いることにな Iア イ ル ラ ン ド のプ ロ テ ス タ ン ト に し て ロ イ ア リ ス ト な住民にほとんど革命に近い変化と帰結をもたらすに違いな」かった。ホーム・ルールは, - 6 2 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関) 「アイルランドの忠誠な人々,とりわけアルスターのプロテスタントを,彼らが数世紀にもわ たって抗争してきた相手……が掌握する無制限かっ絶対の権力の前に投げ出すこと J,つま り,アルスター・プロテスタントへの最大級のく脅威〉として描出されたのである。ホーム・ /レールが実施されてしまえば, I ア イ ル ラ ン ド 議会 に お い て ユ ニ オ ニ ス ト は 常 に 小 さ な 少数派 でしかなく,正義や保護を確保できるだけの力をもたない」から,チャーチルの表現を借りる なら,ダプリン議会が実施するのは「カソリックによる最も苛酷で恐ろしい抑圧」以外のもの ではありえなかった 66 )。 また,宗派的な抑圧に加えて,ダブリン議会がアルスター・プロテスタン卜にもたらす経済 的ダメージもしばしば論及された。リークーからアイルランド視察に派遣されたロパート・ノー フ、、ルとレジナルド・ベネットは, I こ の 国 に 守 る べ き 利益を有す る 者 た ち に と っ て , ホーム ・ ルールが意味するのは,彼らの生命の危機と,商業にかかわるそれであれ土地にかかわるそれ であれ,彼らの財産の確実な喪失」であるとの結論を導いている。アルスター・プロテスタン トが被る経済的ダメージが論じられる場合, I財産没収」 と い っ た イ ン パ ク 卜 の5郎 、 表現 も 用 いられたが,むしろ力点はアイルランドで最も繁栄するアルスター経済の荒廃に置かれた。ア ルスターがローム・ルールを遂行するダプリン議会によって課税のターゲットとされることは 避けられず,結果的にアルスターの産業や商業が衰退してしまえば,そのことはアイルランド 経済全体の弱体化を招く,ホーム・ルール反対論が提示するく圧制〉の経済的帰結は概ねこう したものであった 67 )。 (3)アルスター・プロテスタン卜を見捨てるな く圧制〉が予言される中で浮上してくる重要課題が,アルスター・プロテスタントの保護で あった。ホーム・ルール反対派にいわせれば,ホーム・ルール法案には「少数派保護のための たった 1つの条項も」含まれていなかった。保護条項もないままで, I暴動, 略奪, そ し て間 接的には暗殺にさえよって権力を獲得し,アイルランド議会を掌握した者たちから,ロイアリ ストは正義を期待できるだろうか? J68) と は し 、 え, I少数派保護 の た め の 実 践 的 な 規定 は ~ \か なるものであれすべて採用されるでしょう」といったグラッドストンの言明がまったく空疎 だったわけではなく,たとえば,ダブリン議会は特定の宗教を国教化したり,宗教活動の自由 を制限したりする権限をもたないことが法案には規定されていた。カソリシズムの支配を危倶 するアルスター・プロテスタントへの配慮ゆえである。しかし結局,ホーム・ルール反対派を ある程度でも納得させられるような,少数派の権利を明示的に規定する条項は,法案には盛り 込まれなかった 69 )。 情勢が緊迫する中,アルスター・プロテスタントからはく内戦の決意〉を叫ぶ言説が噴出し た。アルスターにダブリンのそれとは別の立法機関を設けるといういわば妥協的な選択肢も示 6 3 人文学報 されはしたが,圧倒的に耳目を集める力をもっていたのは,アルスター・プロテスタントは ホーム・ルールに武力をもってでも抵抗する,という語りの方であった。たとえばカースンは, 「アイルランドのロイアリストは,この邪悪な政策を打倒するために,あらゆる手段を尽くし, あらゆる武器を用いることを決意しています」と言明している。そして,武力行使を口にする のは,オレンジ・オーダーにコミットする者たちだけではなかった。「タイムズ』のベルファ スト特派員は以下のような情勢認識を示す。 事態が深刻なのは,オレンジ指導者の何人かが好き放題にライフルを語り,内戦の脅しを かけているせいでも,オレンジ系の団体が近年には見られなかったほど強力でよく組織さ れているせいでもな L 'I。事態が深刻なのは,プロテスタント住民の非オレンジの人々がオ レンジメンとまったく同じように奮い立ち,オレンジメンとまったく同じように決然とし たことばを,暴力的な脅しを弄んでいることである。……これまでオレンジ系組織に属 したことなどなく,現在でさえ公式にはかかわりをもっていない商人や聖職者,小売店主 や農民が,われわれがオレンジメンの口から発せられることに慣れているそれと同じくら い激烈で決然としたことばを用いているのであるから,ダプリンに樹立されるあらゆる議 会に服従することに抗し,ロイアリストが暴力を持ち込むだろうと推測しないわけにはい かな L 、。……この問題をめぐって,穏健な時期は過ぎ去ってしまったようである。国民 同盟の支配下に置かれるという可能性だけで,ロイアリストの頭から節度は放逐されてし まったのである。 勇敢さという人種的資質は 1 1 50万人のロイアリスト」に共有されているのであり,彼らは 「権利と正義が自らの側にあると感じているときには数[数的な劣勢]を気にしない」人々で あった 70 )。 アルスターから聞かれるく内戦の決意〉に対して,ブリテンのホーム・ルール反対論が打ち 出した基本的な掛け声はくアルスター・プロテスタントを見捨てるな〉であった。チェンパレ ンいわく, I わ れ ら の 仲間 の シ テ ィ ズ ン 」 で あ る 「 ア ル ス タ ー の 勤勉 で 遵法的 な 住民」 の 生 命 と財産を見捨てることは「大いなる背信と不名誉の行為」であった。ソールズベリはウエスト ミンスターの責務をこう指摘する o I議会 に は ア ル ス タ ー の 人 々 を 統治 す る 権利 は あ り ま す が , 彼らを奴隷制へと売り払う権利はありません。 J I ハ ル ト ゥ ー ム の 悲劇」 の 主人公 二 「 グ ラ ッ ド ス卜ン氏が見捨てた勇敢にして忠誠なゴードン J 71)にまでなぞらえ,いわば大義に殉ずるアル スター・プロテスタントのイメージが執劫に繰り返された結果,く親類知己を見捨てるな〉と いうスローガンは強いアピール力を発揮しホーム・ルール反対の正当性を主張するうえでき わめて有効な武器となった72)。 - 64- 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) ただし,本当に内戦が不可避となった場合,ブリテンからどれほどの支持が寄せられるか, この点についてアルスター・プロテスタントが楽観的でいられたわけではない。「試練の時が 到来したなら J,アルスター・プロテスタン卜を「心から J I徹頭徹尾」 支持 す る こ と を , I私 だけでなく,前政権の私の同僚全員を代表して,おそらくはイングランドの津々浦々の卜ーリ 党全体をも代表して」保証すると言明したチャーチルのような例もあったが,保守党のかなり の部分も含めて,ブリテンにおいては武力行使を日常的に語るような戦闘性は非国制的と受け とられたからである。オレンジ・オーダーへの違和感や警戒感も強かった。アルスター・プロ テスタントが置かれている苦境はブリテンにおいて関心を集め,く親類知己を見捨てるな〉と いう訴えは大きなアピール力をもったが,アルスター・プロテスタントへのシンパシーと戦闘 的なユニオニズムへの支持は直結していたわけではなかった。「数千数万の勇壮なイングラン ド人が……血,宗教,そして忠誠心において同志である人々の自由を守るだろう」といった 勇ましいことばは,ほとんどの場合,実質を欠いていた。ブリテン世論に全幅の信頼を寄せる ことのできないアルスターのユニオニス卜たちは戦闘性をエスカレイ卜させていき,そのこと がブリテン世論と自らの間の事離をますます大きくすることになる 73 )。 (4)く 2 つ の ア イ ル ラ ン ド 〉 以 上 の よ う な ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト を め ぐ る 議 論 を 通 じ て 顕 在 化 し て き た の は , ア ル ス タ ー と そ れ 以 外 の ア イ ル ラ ン ド は 別 物 で あ る , と い う 認 識 で あ っ た 。 『 タ イ ム ズ 』 の ア ル ス ター特派員はし寸。 ア イ ル ラ ン ド の 財 産 , 富 , 知 性 の う ち の 大 き な 割 合 を 有 し , 製 造 業 や 商 業 を ほ ぼ 独 占 し て い る に も か か わ ら ず , ア イ ル ラ ン ド 問 題 の 議 論 に お い て , ア ル ス タ ー 地 方 は 相 応 し い だ け の 考 慮 も 注 意 も 払 わ れ て い な し )0 … … [ ア ル ス タ ー で は ] ボ イ コ ッ ト や 農 村 の 殺 人 は 聞 か れないし,騒乱も稀であり,法的な責務は総じて遂行されており,法の権威は尊重され, 忠 誠 心 に 富 ん だ 議 員 た ち は 議 会 で ト ラ ブ ル を 起 こ し た り も し な い 。 そ の 結 果 , 時 と し て ア ル ス タ ー は 見 過 ご さ れ 忘 れ ら れ る 危 険 が あ る の で あ っ て , ブ リ テ ン の 公 衆 は 考 慮 す べ き ア イ ル ラ ン ド と は 国 民 同 盟 の ア イ ル ラ ン ド だ と い う 考 え に 導 か れ が ち で あ る <2 つ の ア イ ル ラ ン ド 〉 を 強調 す る 議論 は , 74 )。 ホ ー ム ・ ル ー ル は 必然 的 に 一方 ( 多 数派) によ る 他 方 ( 少 数 派 ) の 抑 圧 に 帰 結 す る , と い う 結 論 を 導 く に あ た っ て 有 効 で あ り , 広 く 活 用 さ れ た 75)。 <2 つ の ア イ ル ラ ン ド〉 の 認識 を 前提 に , 両者 を 共存 さ せ る た め に こ そ 連 合王 国 の 枠 が 不可 欠である,と論は進められる。「歴史的な要因,何世紀にもわたって戦われてきた抗争,出白 - 6 5 人文学報 と人種の相違に由来し,宗教の相違によって一層深刻にされている」アイルランドの分断を考 えるならば, 1 セ ク シ ョ ン の 一方 を 他方 の 絶対 的 支配者 に す る の は 目 に 余 る 不正」 で あ る 。 「 ア イルランド議会は, 2 つ の 激 し く 対立 す る セ ク シ ョ ン の う ち の 少数派 を , 制にさらさせるに違いなしリ。平和共存のために, 多 数派 の 無制 限 な 圧 12 つ の セ ク シ ョ ン は よ り 大 き な シ ス テ ム の 一部として,両者の敵対がより公平な仲間によってコントロールされるように,統治されなけ ればならない。」つまり,連合王国という「大きなシステム」の枠内で,ウエストミンスター という「公平な仲間」を通じて統治されることが必要なのである 76)。 アイルランドの単一性の否定はアイルランド国民の存在そのものの否定に行き着く。「真の アイルランド国民に類するものなど,まったく存在しないし存在したこともない。」アシュ ボーンはいう。 「アイルランドのことはアイルランド人に考えさせよ」…・・・これは大変もっともらしく, 訴える力のある言い方です。しかし, 1 ア イ ル ラ ン ド 人」 と は 誰 で し ょ う か ? 人 は , 同ー の人種に発し,同一の宗教,習慣,希望,怖れ,大志を抱く,好ましく団結した lつの家 族を思うでしょう。しかし,アイルランド人はそのようなものではありません。アイルラ ンド人種,アイルランド国民,などというものは存在しないのです。アイルランドにおけ る意見の相違には際限がありません。主としてローマ・カソリックから構成され,人種や 感情,さらには忠誠心を異にし,最貧の者たち,著しく教育を欠いた者たちを含む多数派 がいます。主としてプロテスタントから構成され,偉大な諸階級を含む少数派もいて,彼 らはきわめてはっきりと多数派と対立しており,私が今話をしている皆さんと同じくら い忠誠です。アイルランドのことはアイルランド人が取り仕切るべきであるという時に 意味されるのは,数の上での多数派が,私たちと同じロイアリストであり,私たちと同じ プロテスタントであり,なんらかの商業上の地位をもった少数派を管理することなので しょうか?77J アルスター・プロテスタントへのく脅威〉というテーマをめぐる議論は,人種的・宗教的に カソリックから差異化されたアルスター・プロテスタン卜をく悪漢〉のく脅威〉にさらされる く潜在的犠牲者〉として造形し,その保護を訴えるものであった。こうして,ホーム・ルール 反対に向けて提示されたナラティヴの 2人の主人公が出揃ったことになる。ただし,ナショナ リストのく庄市IJ )はあくまでもく来るべき災難〉であって,く潜在的犠牲者〉はく脅威〉には 直面しているものの,大きなダメージを現実にはまだ受けてはし 1な l \。つまり, 言されてはいても, <災難〉が予 2 人 の 主 人 公 の 対峠 が実 際 に し 1 か な る 展 開 を 見 せ る こ と に な る の か , として行方は定まっていないのである。 -6 6 依然 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小関) 第 4節保守党統治によるく救出〉恥 2 人 の 主人公 ほ ど 頻繁 に 論及 さ れ た わ け で は な い が , ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 に は く悪漢〉 か らく潜在的犠牲者〉をく救出〉する役割を担う存在も登場する。事態の打開策としてホーム・ jレ ー ル 反対論 が 打 ち 出 し た の は , ア ル ス タ ー の ユ ニ オ ニ ス ト が 叫ぶ よ う な く武力 に よ る 抵抗〉 ではなく,保守党のアイルランド統治であった。本節では,く救出〉にかかわる議論の概要を見 ておきたい。 (1)ユニオンの成功 ホーム・ルール反対論の前提には,連合王国体制と立法府の連合によってアイルランドは恩 恵、を受けてきた,という認識があった。 1 1 800年にユニオン法が通過するとすぐに,社会の平 和だけではなく,商業と繁栄にもきわめて大きな特筆すべき改善が生じ J, I今 日 の ア イ ル ラ ン ドは 90年前に比べてより自由であり,より富裕であり,より繁栄しており,より満足を味 わって」いるということである。チェンパレンによれば,グラッドストンがホーム・ルール政 策に転ずる以前は,自由党の対アイルランド政策も,アイルランドが抱える問題の「すべての 正当な原因」をあくまでもユニオンの枠内で除去し,アイルランド国民の間に「よりよい感 情」を醸成することを基本としていた 7針。 ユニオンを成功と評価してしまえば,つづく議論は明快である。第 I節で見たように,ホー ム・ルールは,立法府連合のレヴェルにおいてだけでなく,連合王国体制のレヴェルにおいて もユニオンを破壊しようとする企てとされたわけであるから,ホーム・ルールには百害あって 一利なしという以外の結論は出しょうがない。 (2)ソールズベリ政権の実績 第 2次法案への反対運動においては, 1886 年 以 降 の 第2 次 ソ ー ル ズ ベ リ 政権 の 対 ア イ ル ラ ンド政策がひときわ高く評価された。ユニオンがアイルランドに与えた恩恵は,アイルランド 担当相アーサー・バルフォア(在任 1 88 7 - 91 年) の 下 で の 統治 に よ っ て 最 も 集 中 的 に 実現 さ れ, 「多くの,さまざまな,永続的な改善」がもたらされたというのである 80 )。 ソールズベリ政権の対アイルランド政策の眼目は, 実現すること, I ア イ ル ラ ン ド 全体へ の 完全 な 正義」 I ア イ ル ラ ン ド 国民 が被 っ て い る 本 当 の 苦境 を す べ て 解 消 す る こ と J , を I法 を 維 持すること J,等々と表現された 8] ) 0 I ア イ ル ラ ン ド 全体へ の 完全 な 正義」 と い う 表現 は ア ル ス ター・プロテスタントへの配慮の重要性を指摘するものである。また, I本 当 の 苦境」 なる言 い回しには,ナショナリストが声高に申し立てるアイルランドの「苦境」の多くが実際にはさ したるものではない,という主張が込められている。さらに,法秩序への言及は, 6 7 Iブラ ッ 人文学報 ディ・バノレフォア J 82 )が示す強圧的な姿勢への支持を合意している。く暴力的・犯罪的〉なナ ショナリストに対処するためには多少の強圧は不可欠であるとの認識は,保守党の統治を称揚 するホーム・ルール反対論の多くに共有されており, ことば」は, rガゼ ッ ト 』 に 掲載 さ れ た 「有権者 へ の I強 力 で 結束 し た 統治が無政府状態 と 流血 か ら ア イ ル ラ ン ド を 守 る た め の 現在 唯 一の手段であることを銘記せよ」と呼びかけているお)。 ソールズベリ政権によるアイルランド統治への高い評価は,こうした統治がナショナリズム を掘り崩すことへの期待と結び、つけられていた。「土地購入こそがアイルランドの土地問題の 鍵であり,土地問題がいったん解決されるならば,他にはアイルランド問題などというものは まったくなくなるだろう」との認識をパルフォアが示している通り,特に重要な位置を占める のが土地政策であった。土地購入法による自作農創設の推進を中核とする保守党の対アイルラ ンド政策がナショナリズムの解毒剤となる,という見通しは,アーサーの弟であるジェラル ド・バルフォアがアイルランド担当相であった時期(I 895 -1900 ホ ー ム ・ ル ー ル を 殺 す 」 路 線 を 先 取 り し て も い た ホ ー ム ・ ル ー ル 問 題 は 年) に 始 ま る 「温情 を も っ て 84 )。 l" ず れ も 自 由 党 政 権 期 に 緊 迫 化 し て い る の で あ る か ら , ぐ 潜 在 的 犠 牲 者 〉 を く 救 出 〉 す る 決 め 手 と し て ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 が 打 ち 出 し た 保 守 党 政 権 の ア イ ル ラ ン ド 統 治 と は , い わ ば 旧 状 へ の 回 帰 だ っ た こ と に な る 。 保 守 党 の 対 ア イ ル ラ ン ド 政 策 を 貫 い て い る の も , I常識 と い う オ ー ル ド ・ フ ァ ッ シ ョ ン な 政策」 に他 な ら な か っ た。 ホ ー ム ・ ル ー ル運 動 が 台 頭 し て く る ま で は , 保 守 党 統 治 の 下 で ( 上 述 の チ ェ ン パ レ ン の 認 識 に よ れ ば , 自 由 党 統 治 の 下 で も ) , ア イ ル ラ ン ド は ユ ニ オ ン か ら 恩 恵 を 受 け と っ て い た , こ の よ う な く 順 風 満 帆 だ っ た 昔 〉 と い う 想 定 が ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 に は 埋 め 込 ま れ て い る の で あ る 。 チ ャ ー チ ル は 1 870 年 代 後 半 を こ う 回 想 し て い る 。 「 ほ ん の 何 年 か 前 , 当 時 総 督 で あ っ た 父 と と も に ラ ー ン [ ア ル ス タ ー の 港 町 ] を 訪 問 し た こ と は 私 に と っ て 楽 し い 思 い 出 で す 。 … … ア イ ル ラ ン ド が 平 和 か っ 静 穏 で 、 あ っ た 頃 の こ と で す 。 秩 序 と 繁 栄 の 時 代 で し た 。 J 85 ) < 悪 漢 〉 が 撹 乱 し て し ま っ た く JI 国 風 満 帆 だ っ た 昔 〉 へ の 回 帰 こ そ が く 救 出 〉 の 内 実 な の で あ っ た 。 第 5節 中 間総括 : ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 の 構造船 第 2 "-' 4 節 で 検 討 し て き た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 の 特 徴 を 簡 単 に 整 理 す る な ら , 以 下 の よ う に な ろ う 。 (1)二極構造 ホーム・ルール反対論は二極構造を成していた。二極とは一方におけるナショナリストとい うく悪漢〉と他方におけるアルスター・プロテスタントというく潜在的犠牲者〉であり, - 68- 2 人 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) の主人公は明確な対立関係に置かれた。そして,く悪漢〉のく脅威〉からく潜在的犠牲者〉をく救 出〉するために提示されたのが,保守党統治という処方筆であった。 一方の極に位置するく悪漢〉は, <暴力的・犯罪的〉な傾向を強くもち,革命の記憶と結び、つ いたフランスその他の諸外国からインスピレイションを受け,イングランドを敵視しさらに は反道徳的なく危険で信用ならない〉者たち,同時に,世論を代表しているかのように装って, 実は自己利益ばかりを追求する欺目前的な者たちであった。そして,このく悪漢〉に追随してい るのがグラソドストン派というく操り人形〉であった。首相と与党を援軍に得たく悪漢〉は, ホーム・ルールという〈圧制〉を実現しようとしている。来るべきく圧制〉の眼目はアルス ター・プロテスタントを迫害することにあり,ブリテンや帝国にもダ、メージは及ぶ。そして, 〈悪漢〉とく劣等〉なカソリックの間には,前者が後者の性質を集中的かっ最悪のかたちで体 現すると同時に,後者が前者によって欺かれ利用される,という二重の関係があった。こうし て描き出されるのは,誰もが反感を抱き,周囲にはばかることなく非難できる,実にわかりや すいく悪漢〉である。 く悪漢〉と対峠する位置にあるぐ潜在的犠牲者〉には,く悪漢〉とは対照的な性格が付与され る。彼らは忠誠かっ知的,勤勉かっプロテスタント信仰に篤く,経済的にも成功してきたブリ テン人の「親類知己」である Oそして,オレンジメンからは区別されるものの,必要な際には 武力行使をも辞さないだけの勇敢さをもっ人々でもある。このような人々が内戦もやむなしと いう状況に追い込まれており,ブリテンが見捨ててしまえば,く悪漢〉の毒牙にかかるしかな L 、。 ぐ潜在 的犠牲者〉 されている。 も ま た実に わか り やす く , 誰 も が容 易 に 感情移 入 で き る 存在 と し て 造形 2人の主人公が代表する悪と善の対抗関係,逆転も暖昧化もされる余地がないほ ど明瞭な対抗関係が,ホーム・ルール反対論の構造上の要で、あった。 一方におけるく悪漢〉とその支配下にあるカソリック,そして他方におけるく潜在的犠牲者〉 は,く 2つのアイルランド〉という現実を体現してもいた。ホーム・ルール反対論の想定する く昔〉には,しかしく 2つのアイルランド〉は必ずしも対抗関係にはなく,ユニオンの枠内で 各々がともに順調な歩みを見せていた。 < III員風満帆だった昔〉を掘り崩してしまったのがく悪 漢〉の台頭であって,く潜在的犠牲者〉は深刻な危機に陥っている。このような事態の打開策 はく悪漢〉を打倒して旧状に復帰することであり,グラッドストン派がく操り人形〉となってい ることを考えれば,その担い子たりうるのは保守党しかな~ )。ナショナリストを徹頭徹尾〈悪 漢〉として性格づけることで,ブリテンによるアイルランド支配の歴史をくよき統治の実績〉 へと反転させ,ナショナリストの排除を通じて保守党が二極化したアイルランドを調和的な状 態へと引き戻すれ 2つのアイルランド〉を温存する範囲内で)との見通しを語ることが可能にな る。もちろん,善悪の対抗の行方はオープン・エンデイングに委ねられているのではあるが87 )。 ~ 6 9 人文学報 (2) <メロドラマ〉仕立て 以上のようなホーム・ルール反対論の基本的構造は,なによりも「善悪の二極化 元論的な葛藤」を骨格としているという意味で, J I善悪二 <メロドラマ〉のそれに通ずるものといえよ う 88) 0 <メロドラマ〉仕立ての語りの様式が 1 9世紀イングランドのポピュラー・ポリティクス にかかわる言説の「中核的な美学の lつ」であり, I政治 的想像力 の メ ロ ド ラ マ 的形態」 が甚 大な影響力を行使したことについては,既にジョイスやヴァーノンの研究がある。 2人の主張 は概ね以下のようである。とりわけポピュラーな受け手を意識して発話されたこの時代の政治 的言説の多くは,社会を善と悪の闘争というかたちで道徳的に把握し,一方の側,すなわち自 分たちが属する善の側が最終的に勝利する展望を打ち出した。その際,善と悪を決定する基準 は受け手に共有されているコンヴェンショナルな道徳であるから,善悪の性格づけはことさら わかりやすく遂行された。そして,政治的想像力を勧善懲悪の型に整序するくメロドラマ〉は, 万人にとってアクセスしやすかった点においてだけでなく,くかつての黄金時代〉への回帰を 想定する点においても,同様のく黄金時代〉回帰の志向を色濃くもつポピュラー・ポリティク スにとってきわめて有用であった 89 )。 ジョイスやヴァーノンが論及している善悪を決定する基準に関して,付言しておく。支持調 達や動員を目的とする政治的言説にとって,自らが善であるとの認定を得るために受け手の価 値観や感情にうまくアピールできるか否かは,決定的な分かれ目であった。ホーム・ルール反 対論はフィニアンからジャコパン,パーネル・スキャンダルからマフディ教徒までを総動員し てナショナリストを議論の余地なきく悪漢〉として描き,対極にあるく潜在的犠牲者〉の善良 さや美徳を浮かび上がらせたわけだが,善悪の差異化を「あらゆる人々にわかりやすく」遂行 するにあたって人種と宗教というきわめて強力な基準をフルに活用しえたために,くメロドラ マ〉の力を通常の政治的言説以上に引き出すことができた。ホーム・ルール反対論が提示する 善悪の対抗関係は実に明瞭かっ堅固で、あり,それゆえにこそ,ホーム・ルール推進派が展開す る議論を封じ込めることに総じて成功しえたのである。 (3)ホーム・ルール反対論のアビール力 簡単に中間総括しておこう。 2つのテーマ(ナショナリス卜のく圧制),アルスター・プロテスタ ントへのく脅威»)を相対的に最もクローズ・アップしたホーム・ルール反対論は, ぐ潜在的犠牲者〉を両極に配する構造をもっていた。こうした構造に基づくくメロドラマ〉仕 立てのナラティヴが駆使されたのは,ホーム・ルール反対論を発話しうる立場にあった者の多 くが,ポピュラー・アピールの必要性が飛躍的に高まっていた状況の中,国制へのプライドや 帝国に関する危機意識以上に, <悪漢〉への憤りゃく潜在的犠牲者〉への共感にアピールする 方が,ホーム・ルール反対への支持調達や動員に向けてより大きな力を発揮できる,あるいは, - 70- <悪漢〉と 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 帝国主義にしてもナショナリズムにしても,二極構造のナラティヴの中に整序されることを通 じて,そのアピール力を最大化することができる,といった見通しと経験的な手応えを共有し ていたためであると考えられる。 こうしたナラティヴがもったと思われるアピール力をどう理解すればいいだろうか?ホー ム・ルール反対論を発話できる位置を占めていたのは,多くの場合,ある程度以上の知性と教 育の持ち主(少なくとも,そう自負する者たち)であり,彼らは,ホーム・ルールをめぐる状況を 単純な善悪の二極構造によって把握することが必ずしも正確ではないことを,強弱の差こそあ れ,おそらく認識していた。しかし,知性や教育に劣る(あるいは,全然もちあわせていない)と 想定される受け手(特にポピュラーな受け手)に向けて,彼らはあえて単純な構図を前面に押し 出した。アピールを強めるための仕掛けとして用意されたのが,悪媒なナショナリスト,善良 なアルスター・プロテスタン卜,というステロタイプ化されたキャラクター描写だったのであ る。そして,ステロタイプ化の根拠として最も頻繁に利用された人種と宗教は,優劣の認識と 強く結び、ついていた。ステロタイプ化されたキャラクターを両極に配するナラティヴに間断な く接することを通じて, <暴力的・犯罪的〉なナショナリストゃく劣等〉なカソリックから差異 化され,忠誠,知的,勤勉と称えられるアルスター・プロテスタントを「親類知己」とするこ とを許された受け手は,容易ならざる日常の中で,一時的にではあっても,自分はヒエラル キーの上位に位置するのだという優越感と安心感を享受することができた。ホーム・ルール反 対論がもっアピール力の lつの鍵は,誰もが抱え込み,同時に通常はなんとか抑制している差 別的な優越意識を安心感とともに解放する機能に求められるように思われる 90)。 第6節 プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ の 現場 か ら : 労働者に向けられたホーム・ルール反対論 前節までの作業では,議会,集会,新聞,書物,等々,さまざまな場におけるホーム・ルー ル反対論をほぼ無差別に採りあげ,そのナラティヴの基本的構造に関する仮説を提示した。も ちろん,ホーム・ルール反対を訴える言説は各々が固有のコンテクストを背負って多声的に発 話されたのであり,単声的なホーム・ルール反対論は想定しがた C '。前節で示した基本的構造 は,あくまでもホーム・ルール反対論が活用した諸論点、がどのような語りを織りなしていたか を大づかみに理解しようとする仮説でしかない。換言すれば,個々の言説のそれではなく,総 体としてのホーム・ルール反対論のコンテクストを浮き彫りにすることがこの仮説の役割であ る。本節では,この仮説を参照しながら,明らかに労働者を受け手に想定していたと思われる 議論に焦点を合わせ,ポピュラー・アピールを念頭に置かざるをえない場面でのホーム・ルー ル反対論の特徴を改めて検討してみた C ' a具体的な検討の素材となるのは,メンバーの概ね -71- 人文学報 90% を ア ソ シ エ イ ト 9 1) が 占 め た リ ー グ に よ っ て 作成 さ れ た ラ ン タ ン ・ ス ラ イ ド や リ ー フ レ ッ ト,そして,リーグの支部や地域のレヴェルで開催された集会における発言,等である。いず れの場合も,作成や発言の主体のほとんどが非労働者である一方,受け手の圧倒的多数は労働 者と考えてよい 92 )。 (1)ランタン・スライド まず採りあげるのは, 1870 年代 頃 か ら ブ ー ム と な り , 1910 年代 に 映画 に と っ て 代 わ ら れ る まで,非常に高い人気を誇ったランタン・スライドである。ランタン・スライドを用いたレク チャーは,エンタテインメント性を帯びつつ,ヴィジュアルな方法でリーグ支部のメンバー (主としてアソシエイ卜)を教育することを意図したイヴェントであり,支部において頻繁に開 催される「明らかに非常に人気のあるエンタテインメントの形態」であった。とりわけ農村部 の支部からの需要が大きく,こうした要請に応えて, 1888 年2 月 , リ ー グ指導部 は さ ま ざ ま な トピックに関するスライドのセットを用意し,それを支部に貸し出す活動を本格化させる。以 降 20 世紀 に 至 る ま で , こ の 活動 は 重視 さ れ つ づ け る (世紀 が転換 す る 頃 に は カ ラ ー 版 も 登場 し た ) 。 ランタン・スライドは,支部の主要な構成員であるアソシエイトを対象に想定して作成される 教材,プロパガンダの道具であり,たとえば,伴奏音楽が用意され,出席者による歌唱も行わ れたことから推察できるように,そこには,わかりやすく,かつおもしろいかたちで(,どんな に長く話をするよりもヴィヴィッドに J )メッセージを発信しようという意図が込められていた 93 )。 「ガゼット』は, 1888 年末 か ら1889 年初 頭 に か け て , I最 も 力 強 く ユ ニ オ ニ ス ト 党 の 原 則 を 説明し,ユニオニスト党の行動の正当性を主張するような, 15 枚 以 内 の マ ジ ッ ク ・ ラ ン タ ン・スライドの題材の最善のセット」という題目について,読者の応募を求めるプライズ・コ ンペティションを実施した。読者から寄せられた回答のほとんどがホーム・ルール問題を採り あげていることから,この問題こそが保守党の性格を最も浮き彫りにしやすく,関心を最も惹 きやすいテーマであると考えられていたと推測できる 94 )。 以下,回答の具体例に即して,ホー ム・ルールがどのように語られていたかを検討してみよう。 コンペティションの優勝をかちとった筆名セント・メアリズによる作品から O l 深 く 悩み, 絶望 し , 下を 向 い て い る エ リ ン に, ジ ョ ン ・ フ、、 ル が子 を 差 し 伸 べ る 。 2 エ リ ン は 上 を 向 い て ジ ョ ン ・ フザ ル の 顔 を 見, 3 ジ ョ ン ・ ブ ル と エ リ ン は 再 び平和 的 に 手 を 結 ぶ。 背景 に は , 自 ら の手を彼の手 と つ な ぐ 。 イ ン グ ラ ン ド 人, ス コ ッ トランド人,ウェイルズ人,アイルランド人から成るグループに取り囲まれたブリタ ニア。 ~ 7 2~ 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 語りのセッティングを設定するのがこの部分である。冒頭では, rエ リ ンJ = ア イ ル ラ ン ド が 「悩み」と「絶望」に苦しんでいる現状が提示される Oその元凶がナショナリストの台頭であ ることは,指摘する必要もないほど自明ということなのであろう。「再び平和的に」とあるよ うに, r ジ ョ ン ・ ブ ル J = イ ン グ ラ ン ド と ア イ ル ラ ン ド は か つ て は 友好関係 に あ っ た の だ が, 一 度はその関係が破壊され,今また再び(ナショナリストに立ち向かうために)結束したのである O そして,イングランドとアイルランドの友好関係が連合王国という大きな枠に包摂されたもの であることが示唆される。 4 繁栄 の 時代 の ア イ ル ラ ン ド の 農場。 5 土地 同 盟 の 時代 の 同 じ 農場。 6 勤 勉 と 繁栄 の 時代 の ア イ ル ラ ン ド の 農夫 の 家 の 内 部。 7 土地 同盟 の 時代 の 同 じ 農夫 の 家 の 内 部。 ここで語りは核心に入り,く悪漢〉が登場する O く III員風満帆だった昔〉の「勤勉と繁栄」を現在の 荒廃と対比することで, <昔〉を破壊し,アイルランドに「悩み」と「絶望」をもたらした主 体が土地同盟ないしナショナリストであることが明示される。 8 夜襲 の 恐怖。 9 ア イ ル ラ ン ド に お け る 家畜 の 損傷 [農民運動 の 中 で 用 い ら れ た 嫌 が ら せ の ー形態] 。 この部分の役割はく悪漢〉の性格を具体的に示すことであり,彼らはなによりも暴力に結び、つ けられて表象される。同時に, r夜襲J r家畜 の 損傷」 の 描写 で シ ョ ッ ク 効果 C ( メ ロ ド ラ マ 〉 の 常套子段)を出すことも期待されている。 1 0 1888 11 ア イ ル ラ ン ド の 借地 農 が , 年の ベ ル フ ァ ス ト , ロ イ ア リ ス ト の 大集 会 の 光景。 地代 を 進 ん で 支払 お う と す る 者 た ち に 対 し て ど う し て [嫌 が ら せ を ] し な け れ ば な ら な し 、 か を 示 す 。 1 2 2 つ の 旗。1 つ は 王 旗, も うl つ は ハ ー フ。 を 欠 い て い る 。 下 に 書 か れ て い る の は , r ユ ニ オ ン か , デ ィ ス ユ ニ オ ン か 」 。 〈 悪 漢 〉 に 対 峠 す る 者 と く 悪 漢 〉 に 支 配 さ れ る 者 と が こ こ で 登 場 す る 。 ユ ニ オ ニ ズ ム が 広 範 な 支 持 を 集 め て い る こ と が 主 張 さ れ る 一 方 で , ナ シ ョ ナ リ ス 卜 の 支 配 下 に あ る 借 地 農 が 心 な ら ず も 遵 法 的 な 仲 間 に 敵 対 さ せ ら れ て い る こ と が 伝 え ら れ る 。 い う ま で も な く , ナ シ ョ ナ リ ス ト は - 73- 人文学報 ユニオンを破壊する勢力に位置づけられ, r ハ ー プ J = ア イ ル ラ ン ド 世論 の 支持 を も た な い ま ま , ユニオニストとの聞に二者択一的な対抗関係を形成させられる。 13 正義, 法, 秩序 を 表 す 図柄。 14 右手 に パ ル フ ォ ア 氏, 15 プ リ ム ロ ー ズ の 花輪 に 固 ま れ た ビ ー コ ン ズ フ ィ ー ル ド 卿 左手 に ハ ー テ ィ ン ト ン 卿 を 配 し た ソ ー ル ズ、 べ、 リ 卿 。 [デ ィ ズ レ イ リ ] 。 下に は次 の文章。「プリムローズ・リーグに加入し,神と女王,そして祖国を支えよ。」 最後に登場するのがく救出〉の担い手である。まず,ユニオニズムの側に「正義,法,秩序」 という大義が属すこと(ナショナリズムがこうした大義を欠くこと)が表現され,ユニオニズムを 掲げて結束する保守党とリベラル・ユニオニス卜への信頼が詠いあげられる。そして,ディズ レイリをインスピレイションの源泉とし,その精神を継承するリーグこそがホーム・ルール反 対運動の中核を成すことが宣言される。ここには,受け手の多数を占めるアソシエイトに決起 を促す狙いが明らかに込められている。 全体の流れは,イングランドとの友好,繁栄と勤勉に彩られたアイルランドのく順風満帆 だった昔〉→く暴力的・犯罪的〉なく悪漢〉によるく昔〉の破壊,貧困と支配→ナショナリズム に対峠するユニオニズム→リーグと保守党によるく救出),とまとめられる。ナショナリスト から被害を受ける存在がアルスター・プロテスタントよりもむしろ借地農(その多くはカソリ y ク)に見出され,ナショナリストとアルスター・プロテスタントを両極に配するとはいいにく いが,善悪の二項対立,く昔〉と現在の対比,く救出〉の展望,といった構図が用いられているこ とは間違いな l ' o 次に,優勝こそ逃したものの, r ガ ゼ ッ ト 』 編集部 か ら コ ン ペ テ ィ シ ョ ン の 求 め に 最 も よ く 応えていると評価されたリンカンのコーラ・].マーシャルの作品。 l ポ ー ト レ イ ト 。 中 央 に ソ ー ル ズ、 ベ リ 卿 , ポートレイトの下には, r共通 の 危機 が, そ の 横 に ハ ー テ ィ ン ト ン 卿 と チ ェ ン バ レ ン 氏。 共通 の 敵 に 対 し て わ れ ら を 団結 さ せ た 」 と いうモットー。 冒頭では保守党を中核とするホーム・ルール反対派の団結が示され,その後しばらくはアイル ランドに焦点を合わせたスライド、がつづ、く。 2 悪 し き 強 圧 。 ス ラ イ ド を 半 分 ず、 つ に 分 割 し , 一方 に は カ ー テ ィ ン の 殺 害, 力一ティン殺害後,民衆にボイコッ卜されるカーティンの娘。 - 74- 他方 に は 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 3 正 当 な 強 圧。 ア イ ル ラ ン ド 王 立 警 察 の 長 官 と し て 「夜 襲」 の 悪 漢 を 逮 捕 す る ア ー サー・パルフォア議員のポートレイト。 「殺害 J I ボ イ コ ッ ト 」 と い う シ ョ ソ キ ン グ な ト ピ ッ ク で 農民運動 と そ れ に 結 び、 っ く ナ シ ョ ナ リ ストの悪練さを描くとともに,こうした「悪しき強圧」に対抗するアーサー・パルフォア及び 保守党政権の強硬策を伴うアイルランド統治への支持を明らかにする。「ブラッディ・パル フォア」に貼られがちなレッテルである「強圧」が意味のうえで二分され,通常用いられる意 味における「強圧」のレッテルはナショナリストにこそ相応しいことが主張される。 4 ウ ィ リ ア ム ・ オ ブ ラ イ エ ン氏 は「法J I秩序J [ ナ シ ョ ナ リ ス ト 党指導者] I忠誠J I真理J の ズ ボ ンBreeches。 それ I誠実J I 名 誉」 等 々 と 書 か れ た 緑色 の 大 き な 柄 の 入ったズボンである。各々の柄には穴ないし裂け目がある。その下には「オブライエ ンの約束違反 Breac h esJという説明文。 5 2 つ の 巻物。1 つ に は , I プ ラ ン ・ オ ヴ ・ キ ャ ン ペ ー ン は 民衆 が 貧 し く 負債 を 支払 え ないために実践された」と書かれている。もう 1つには, 1886 年6 月 か ら1887 年6 月までの聞にアイルランドの郵便局貯蓄銀行の預貯金が 2, 592, 000ポンドから 2 ,802 ,000 ポ ン ド に 上 昇 し て い る こ と を 示 す 計 算書 が 書 か れ て い る 。 巻 物 の 下 に は , 「貧しい人々の地代はここへ行った」という説明文。 6 土地追放。 危機 に 瀕 し た ア イ ル ラ ン ド の レ デ ィ が , I地代不払 い 」 を 叫 び, 蔑む よ う に前景の救貧院を指差す暴徒たちに固まれながら,家から追い出される。 7 2 つ の 楯。1 つ は 黒 い 楯 に 白 い 文字 で 「 キ ル メ イ ナ ム を 忘 れ る な J , も うl つ は 赤 い 楯に黒い文字で「フェニックス・パークを忘れるな J 95 )。 この部分では「悪しき強圧」の実例が列挙される。 4と 5ではナショナリスト側の言い分も示 されるのだが,それはあくまでも「約束違反」の対象でしかなく,ナショナリストは言行の一 致しない不誠実な者たちとして描かれる。もちろん,プラン・オヴ・キャンペーンやフェニッ クス・パーク暗殺事件はナショナリストのく悪漢〉ぶりを印象づける小道具である。逆に,女 性の表象を与えられることで,地主からは攻撃的なイメージが除去される。そんな地主は借地 農の追い立てを策す者としてではなく,彼らの蛮行の犠牲者として描かれる。「強圧」の場合 と似て,ここでは「土地追放」に関する通常の意味合いの逆転が遂行されている(借地農ではな く地主が犠牲となる ) 0 2 に見 られる 「 力 一 テ ィ ン の 娘」 も 同 様 だ が, 善悪 の 対抗関係 を ジ ェ ン ダーイとして提示することには,オーディエンスの約半数を占めたと想定される女性(概して支 部の活動に熱心なのは男性よりも女性であった)へのアピールの意図が込められていたと思われる。 - 75- 人文学報 8 ア イ リ ッ シ ュ ・ シチ ュ 一。 「パ ー ネ ル派 の ジ ュ ー ス 」 と い う ラ ベ ルの貼 ら れた鍋をか き回しているサ-・ウィリアム・ハーコート議員[グラ yドストン派の自由党議員, 1886 年 と1892 ' " ' '95 年 に 蔵相 L 1ハ ー コ ー ト の ハ ッ シ ュ , ち ょ う ど よ く で き ま し た」 と い う 説 明 文 。 9 11886 年総選挙, ユ ニ オ ニ ス ト に106 議席 の 多 数」 る G. O . M. I分離主義者の過てる指導者, 10 と 書 か れ た ス ラ イ 1"' 0 大敗 を 喫 す Gフラット」という説明文。 庶民 院 に 予算案 を 提 出 す るG.]. ゴ ソ シ ェ ン 議 員。 「 ユ ニ オ ニ ス ト 蔵相 ,G シ ャ ー プ , 2 ,377 ,000 ポ ン ド の 余剰 金」 と い う 説 明 文。 11 ホ ー ム ・ ル ー ル 法案 を 掲 げ る グ ラ ッ ド ス ト ン 氏, 1 ア イ ル ラ ン ド が道 を 塞 い で い る 」 。 地方自治法案を掲げるリッチ一議員[画期的な 1 888年の地方自治法を成立させた第 2 次 ソ ー ル ズ ベ リ 政権 の 地方 行政長官 J o 消火器であるこの法案はグラッドストンの 方へ発射され,グラッドストンは消えてしまう。 この部分で描かれるのは,パーネル派に追随するばかりで財政運営において無能なグラソドス トン派と, 1 フ ラ ソ ト J = 赤字 を 「 シ ャ ー プ J = 黒字 に 転 じ さ せ る 上手 な 財政運営 を 行 っ た 保守 党のコントラストである。ホーム・ルールによってウエストミンスターの機能を回復させると いうグラッドストン派の言い分(注 86参照)は,地方自治の拡大という保守党の対案を前に, 説得力を失ってしまう。明らかに,保守党のアイ/レランド統治への称賛が表現されている Oま た, 4 に 見 ら れ たBreeches とBreaches の 語 呂 合 わ せ も そ う で あ る が , チュー J 1 ハ ー コ ー 卜 の ハ ッ シ ュ J , 1ア イ リ ッ シ ュ ・ シ あ る い は フ ラ ッ ト と シ ャ ー プの コ ン ト ラ ス ト は, オーディ エンスの笑いを誘うための仕掛けとしても機能していると思われる。つづく 2枚のスライドは ホーム・ルールとは直接かかわらない内容のものである。 14 愛情 を 込 め て 子 を つ な ぐ3 人 の 姉妹。 中 央 に は , ヘ ル メ ッ 卜 と 胸甲, 三又 の 矛 を 身 に つけたブリタニア Oその横にはナショナル・コスチュームを着たスコットランドとア イルランド。「誰が分離するというのか」というモット一。 これまでの流れに, 1分離 J C ホ ー ム ・ ル ー ル は 分離 に 他 な ら な い と い う 含 意 ) 論が与えられる。対置されるのは, に 反対 す る と い う 結 3 つ の ネ イ シ ョ ン が 「愛情 を 込 め て 」 連合 す る ユ ニ オ ン の 体制であり,この体制がスコットランドやアイルランドのナショナルな独自性を否定するわけ ではないことが示される。また,この体制を守る存在にブリタニア(ここではインクランドの表 象として理解したい)が同定され,イングランドがアイルランドのいわば、後見人となるような状 態が肯定的に描かれる。さきに見たコントラストを踏まえるなら,後見人たりうるのは 7 6- C (救 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関 ) 出〉の担い手たりうるのは)保守党統治下のイングランドということになる O 15 赤, 白, 青 の グ ラ ウ ン ド に 大 き な プ リ ム ロ ー ズ。 プ リ ム ロ ー ズ の 真 ん 中 に は 帝国 の 冠 をかぶった女王陛下のポートレイト。その上には, 由」というモットー。その下には, I真 の ホ ー ム ・ ル ー ル, I真 の ホ ー ム ・ ル ー ラ ー , 帝国 と 自 女王 に 神 の 恵 み を 」 と いうモッ卜一。 いわばもう lつの結論が提示される部分であり,連合王国の表象である「赤,白,青J =ユニ オン・ジャックを基礎として, I真 の ホ ー ム ・ ル ー ル」 ニ 女王 の 統治下 に 置 か れ る こ と を ナ シ ョ ナリストの要求 n,わばく偽りのホーム・ルール»)に対置する。また,プリムローズと「帝国と自 由 J (リーグのモ y卜一)を持ち出して,連合王国と帝国を擁護するリーグの役割を印象づける。 最もクローズ・アップされているのは間違いなくナショナリストのく悪漢〉ぷりであり,対 照的にアルスター・プロテスタントはまったく角虫れられていない。アルスター・プロテスタン 卜に代わってく悪漢〉に対峠する存在となるのが保守党であって,この作品におけるグラッド ストン派はナショナリストのく操り人形〉というそれ以上に保守党の優位性を際立たせる役割 を担っている。 つづいて,筆名ユニティによる作品。この作品の場合, I ビ ー コ ン ズ フ ィ ー ル ド 卿 の 肖 像」 「スエズ運河株の買収によってわが国が獲得した利得を示す表」等,保守党の実績とその指導 者たちを称揚するスライドが半分近くを占め,アイルランドを直接的に採りあげるのは 8枚目 のスライド以降である。 8 9 10 1 21 3 14 騒乱状 態 に あ る ア イ ル ラ ン ド の 光景。 平和 的 な ア ル ス タ ー の 光景。 ナ シ ョ ナ リ ス ト 支 配 下 の ア イ ル ラ ン ド の 騒 乱 ( 道 徳 的 劣 位 を 表 象 す る ) と ユ ニ オ ニ ズ ム が 主 流 を 成 す ア ル ス タ ー の 静 穏 ( 道 徳 的 優 位 を 表 象 す る ) の 対 置 を 通 じ て , <2 つ の ア イ ル ラ ン ド 〉 の存 在 が 語 ら れ る 。 こ こ で は ナ シ ョ ナ リ ス ト に 対 峠 す る 位 置 に ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト が 据 え 1 5 ら れ , 両 者 の コ ン ト ラ ス ト が ア イ ル ラ ン ド を 把 握 す る 基 本 的 な 枠 組 み を 成 し て い る 。 な お , 枚 目 は リ ー グ の 指 導 者 を 紹 介 す る た め の ス ラ イ ド で あ る 。 4 つ め の例 と し て, 筆 名 カ ニ ン グ ズ ビ に よ る 作 品。 デ ィ ズ レ イ リ , 保 守 党 有 力 者 の 紹 介 に 充 て ら れ , ア イ ル ラ ン ド に 着 目 す る の は こ の 作 品 の 場合 も , 最初 の 3 枚 は 女王 や 4 枚 目 の ス ラ イ ド 以 降 で あ る 。 7 7 人文学報 4 熱湯 や 石, 熊手, 等 に よ っ て 警官 や 兵士 を 攻撃 す る 借地農 を 見 せ る ア イ ル ラ ン ド に お ける土地追放の光景。年来の地代滞納の額と件数,地主が許容しようとする減額の程 度を,横の部分の表によって示す。 5 ミ ッ チ ェ ルタ ウ ン る警官。 6 [マ マ] の 暴動。 ( a) 暴徒 に 追 わ れ て 急 ぎ バ ラ ッ ク へ 戻 ろ う と す (b)暴徒への発砲,避難のためにバラックへ這ってしぺ負傷した警官。 ア イ ル ラ ン ド に お け る 暴動 の 光景。 農夫 カ ー テ ィ ン の 殺害 の よ う な 。 「土地追放」にせよ「ミッチェルズ、タウンの虐殺」事件にせよ,専ら責めを負うべきは借地農 の側であるとの認識が提示され,彼らは地代を滞納するばかりでなく,同胞を殺すことも辞さ ず,治安維持勢力さえ圧倒してしまうほどく暴力的・犯罪的〉であると性格づけられる O発砲 があった場合でも,オーディエンスが同情すべきなのは発砲を受けた借地農ではなく,騒乱の 中で傷ついた警官なのである。借地農とは対照的に,地主は地代引き下げの意向さえもつ寛容 な存在として描かれる。 7 庶民院 に お け る ア イ ル ラ ン ド 人議 員 の 光景o 8 1885 年 の ダ イ ナ マ イ ト 爆破後 の ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー ・ ホ ー ル の 光景O ロ ン ド ン に お けるダイナマイト暴動のリストを添えて。 9 1 8 8 7 " " "88 年 に ア イ ル ラ ン ド で 発生 し た 暴動, ボイ コ ッ ト , 家畜 の 損傷 の 数 を 示 す 図。 可 能 で あ れ ば , 有 罪 と な っ た こ う し た 犯 罪 の リ ス ト を 添 え て 。 借 地 農 の 暴 力 と ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 議 員 に よ る 議 会 秩 序 の 素 乱 と が 結 び 、 つ け ら れ , < 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 な 借 地 農 と ナ シ ョ ナ リ ス ト が 同 類 で あ る こ と が 印 象 づ け ら れ る O そ し て , ダ イ ナ マ イ ト 爆 破 で あ れ ボ イ コ ッ ト で あ れ , す べ て を ナ シ ョ ナ リ ス ト の 仕 業 と し て 同 定 す る こ と を 通 じ て , 〈 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 な ナ シ ョ ナ リ ス ト の イ メ ー ジ が さ ら に 強 く 受 け 手 に 伝 え ら れ る ( こ の 部 分 も ま た シ ョ ッ ク 効 果 を 狙 っ て い る ) 。 10 暴動 を 起 こ す よ う に と 人 々 を 扇 動 す る ア イ ル ラ ン ド 人議員 の 演説 か ら , 11 秋期議会 会期 中 に パ ー ネ ル派 と グ ラ ッ ド ス ト ン 派 が 行 っ た 演説 の 数 を 示 す 図o 暴 力 や 犯 罪 を 扇 動 す る ナ シ ョ ナ リ ス ト の 同 調 者 と し て , グ ラ 13 y ド ス ト ン 派 の 位 置 が 確 定 さ れ る 。 政権掌握以降 に ユ ニ オ ニ ス ト 党政府 が 成立 さ せ た 有益 な 方策 の リ ス ト 。 - 7 8 若干 引 用 す る 。 . . 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) 保守党のアイルランド統治の実績が高く評価され, <III員風満 帆 だ っ た 昔〉 が想起 さ れ る 。 この 作品は,支配下にある借地農をも含めて,ナショナリストのく暴力的・犯罪的〉性格を徹底し て強調し,地主や治安維持勢力をく被害者〉として位置づ、けつつ,保守党統治によるく悪漢〉 の打倒を展望している O 他の作品を見ても,く暴力的・犯罪的〉なく悪漢〉のイメージを強調する点は共通である O 単 一のエピソードとして最も頻繁に採りあげられているのはフェニックス・パーク暗殺事件であ り,この事件のスライドの前後にはほぼ例外なく他の暴力事件やフ。ラン・オヴ・キャンペーン のスライドが配されて,暗殺事件が突出した出来事ではなく,ナショナリストが遂行する暴力 や犯罪の一環であることが示唆されるのである Oまた,パーネルとオシエ大尉の会談, Iア イ ルランドと名づけられた通り」の「非合法会話の店と呼ばれている店」にボイコッ卜される教 皇,等,ナショナリストの反道徳J性を示すスライドも多い。オーディエンスを最も強く惹きつ けることができるのはく悪漢〉のキャラクターである,応募者の多くはこうした見方を共有し ており,競うようにしてナショナリストのく悪漢〉ぶりを印象づけるスライドを挿入しようと したと思われる。 く悪漢〉の対極に位置する存在はというと,く正義,法,秩序を体現するユニオニスト〉く静 穏なアルスター) <寛容な地主〉が登場する程度であって, <悪漢〉ほどの入念な性格づけは行 われていない。これは,善良さよりも悪掠さを描きやすいというヴィジュアルなメディアの性 格ゆえである以上に,く潜在的犠牲者〉に迫るく脅威〉が予言されるく災難〉であって,未だ 現実のものとなっていないことに依るところが大きいだろう。スライドでは, <災難〉の実績 はさほど採りあげようがなかったと思われる。アルスター・プロテスタント以上の頻度で登場 するのはグラッドストンであり,たとえば「グラッドストン氏の最近のヴァティカン訪問のス ケッチ」というスライドは,く操り人形〉が宗教的にも背信的であることを示唆する。また, 「パーティで楽しむグラッドストン氏」と「戦場で絶命したゴードン」を並置するスライドも あった。ゴードン(ランタン・スライドが好んで採りあげた英雄)とアルスター・プロテスタント のアナロジーを踏まえるならば,このスライドは,グラッドストンはゴードンにつづいてアル スター・プロテスタン卜をも見捨てるだろうというメッセージを表現するものに他ならず,実 際に「二重の遺棄:ゴードンとアルスター」と題するランタン・レクチャーが開催されてもい る。総じて, 15 枚以 内 と い う 制約 の 中 で , コ ン ペ テ ィ シ ョ ン に 寄せ ら れ た 作 品 が提示 し て み せる語りは,アノレスター・プロテスタントがぐ潜在的犠牲者〉として焦点化される程度は低い ものの,く悪漢〉たるナショナリストの性格づけをはじめとして, <メロドラマ〉的要素を少な からず備えたものであったといえる 96) 0 1888 年末 な い し1889 年初頭 に , リ ー グ指導部 内 の ス ラ イ ド 委員 会 で 作成 が決定 さ れ た 「 ア イルランド・スライド J (1 0 枚 セ y ト ) の 場 合 も , 以下 に 見 る よ う に , く悪漢〉 の く暴力 的 ・ 犯罪 7 9 人文学報 的〉性格を際立たせることに力を注いでいる。 l ア イ ル ラ ン ド に お け る 恐怖政 治。 a 1888 年5 月27 日 , マ ソ 力 一 シ の 殺害。 b 1888 年 3 月12 日 , パ ト リ ッ ク ・ ロ ビ ン ス ン へ の 暴行。 c 1888 年9 月 4 日 , ジ ョ ン ・ ミ ー ド の 殺害。 d 1887 年 11 月8 日 , ノ ぐ ト リ ッ ク ・ ク ア ー ク の 殺害o e 1888 年 5 月7 日 , ジ ェ イ ム ズ ・ ク イ ン の 殺害。 6 土地追放 の 光景。 7 獄中 で サ ン ド ウ ィ ッ チ と シ エ リ ー を楽 し む オ ブ ラ イ エ ン O 8 髪 を斬 ら れ, 9 家畜 の 損傷。 暴行 さ れ る 娘 た ち 。 1 0 I法 と 秩序 の 大義」 を 口 に す る グ ラ ッ ド ス ト ン O 「 殺 害 」 や 「 暴 行 」 を 集 中 的 に ク ロ ー ズ ・ ア ッ プ し (I 土 地 追 放 」 に し て も , さ き に 見 た 通 り , 通 常 の 意 味 と は 違 っ て , ナ シ ョ ナ リ ス ト が 自 分 た ち に 同 調 し な い 地 主 な い し 借 地 農 を 迫 害 す る と い う 意 味 で 提 示 さ れ て い る と 思 わ れ る ) , し か も , そ れ を ナ シ ョ ナ リ ス ト の 飲 酒 や グ ラ ッ ド ス ト ン の き れ い ご と と の コ ン ト ラ ス ト に 置 く こ と が シ ョ ッ ク 効 果 を も た ら し , メ ッ セ ー ジ に エ モ ー シ ョ ナ ル な ト ー ン を 与 え て い る 97 )。 「 … … こ れ ら の エ ン タ テ イ ン メ ン ト へ の 需 要 は 大 き い の で , 早 め の 申 し 出 を 受 け な い 限 り , グ ラ ン ド ・ 力 ウ ン シ ル [ リ ー グ の 最 高 指 導 機 関 ] と し て 今 シ ー ズ ン に す べ て の 要 請 に 応 え る こ と は 不 可 能 で あ ろ う 」 と い っ た 警 告 に 示 さ れ る 通 り , リ ー グ 指 導 部 が 作 成 し た ス ラ イ ド ・ セ ッ ト だ け で は ラ ン タ ン ・ レ ク チ ャ ー の 人 気 に 追 い つ か な か っ た た め , 支 部 と し て 独 自 の ス ラ イ ド を 作 る こ と も 試 み ら れ た 。 1 890 年 1 2 月 2 0 日 の 『 ガ ゼ ッ ト 』 に は , フ ィ ッ シ ュ ポ ン ズ 支 部 ( ブ リ ス ト ル ) の セ ク レ タ リ で あ っ た ア ー サ ー ・ キ ー チ が 子 紙 を 寄 せ , 雑 誌 に 掲 載 さ れ た イ ラ ス ト レ イ シ ョ ン を ス ラ イ ド に 転 用 す る こ と を 提 案 し て い る た と え ば , rム ー ン シ ャ イ ン』 O に 最近 掲載 さ れ た , 今 で は 有名 な 出来事 と な っ た 「パ ー ネ ル 氏 と 火 災 避 難 口 」 を 扱 う 力 一 ト ゥ ー ン を う ま く 利 用 す る 以 上 に 人 々 を 楽 し ま せ る や り 方 が , 現 在 あ り う る で し ょ う か ? も ち ろ ん , こ れ は ユ ー モ ラ ス な 主 題 の も, l つ で あ っ て , 他 に r グ ラ フ ィ ッ ク 』 や 『 イ ラ ス ト レ イ テ ッ ド ・ ロ ン ド ン ・ ニ ュ ー ズ』 か ら , ド の 情 景 , 等 に つ い て の 好 適 な 絵 が た く さ ん 抜 き 出 せ る で し ょ う 98 )。 8 0- アイ ルラ ン 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) またしても採りあげられるのはパーネルの不倫スキャンダルという題材である。ランタン・ス ライド全般を通じて,ヴィジュアルなかたちで徹底的に告発されるナショナリストの悪行こそ が最も大切な構成要素になっていたと考えてよいだろう。 (2)教育・宣伝文書 ランタン・スライドと類似した役割を担っていた教育・宣伝文書,特にリーフレットについ ても見ておこう。リーフレットの作成・刊行は, 1886 年総選挙 の 際 に 開始 さ れ て 以 降, リ ーグ 指導部の主要な任務の lつとなった(パンフレットやポスターも作成・刊行されたが,リーフレット の点数が圧倒的に多い)。リーグ指導部の位置づけでは,演説が軽騎兵ならリーフレッ卜は歩兵 であり,両者が結合して攻撃は完全なものとなる o r リ ー フ レ ソ 卜 に は 飛期 す る よ う な 雄弁 も 情のこもった熱弁もない。各々のリーフレットは単一の主題を採りあげ,その主題に関係する すべての議論を若干の簡潔にして要を得た所見へと濃縮するのである。」これらのリーフレッ 卜は 3ヶ月に 1, 000部を上限として各支部に無料で配布され,支部における教育活動の教材と して,あるいは戸別配布のために利用された 99)。 リーフレッ卜が充たすべき条件として挙げられたのが, r短 く , 簡潔 で , 堅固 な 合理性 に 裏 づけられ,単一のポイントに向けられ,プリムローズ・リーグ設立の基礎となった 3つの偉大 な原則[注 7参照]のどれかに結び、つく傾向をもっ」ことだった。わかりやすさに重点が置か れていたことは明らかだろう。 1 88 9年 4月 2 0日の『ガゼッ卜』には,いずれも農村部でリー グの活動に従事していた 2人の人物が手紙を寄せ, r今 や 自 分 た ち が完 全 に 無知 な 問題 に つ い て投票するという責任を負っている労働者」を対象とする場合, r小 さ い 印字, ラ テ ン 語や ギ リシア語から 5 1かれた長い単語」は避けられるべきことを主張している。「…… 1ページの リーフレットが最も受けとりがよいです。自分の村から外へ出ない田舎の人々は,都会の人々 に比べてずっとゆっくりしています。徹底的なボイコットや夜襲による殺害のような,真理を 示すイラストレイション入りリーフレットが,そのような人々をよりよく教育すると私は考え ます。」リーフレットもまたポピュラー・アピールを強く意識したメディアだったのであり, そこではナショナリストのシヨソキングな悪行の描写が有効と考えられていたことが推察され る 100 ) 。 1887 年12 月 の 段 階 で 出 回 っ て い た リ ー フ レ ッ ト は49 点 ( な い し 56 点) ,タイトルから判断 する限り,そのうち 33点(ないし 40点)はアイルランドに関するものであった Oこれらを テーマに沿って分類すると,ナショナリストのく暴力的・犯罪的〉な行状を扱ったものが 7点 (ないし 1 4点),グラソドストン派を扱ったものが 6点,ナショナリスト指導者を扱ったものが 4 点, 来 る べ き く庄市Ij ) を 扱 っ た も の が2 点, ユ ニ オ ニ ス ト を 扱 っ た も の が4 点, 保守党 の 対 アイルランド政策を扱ったものが 4点,その他が 6点,である。「ないし」というのは, 8 1 r国民 人文学報 同盟の圧制』が 8冊シリーズになっているためで,これらを各々 1点と数えれば,リーフレッ トが圧倒的に採りあげたトピックはく暴力的・犯罪的〉なナショナリストとそのく圧制〉だっ たことになる。センセイショナリズムを狙う「夜襲による殺害:パトリック・クアークの物 語J,情緒に訴えようとする「ある未亡人の真実の物語J,グラッドストン派の言い分を逆手に とる「グラッドストン氏が道を塞いでいる:ブライト氏からの手紙J,等々,タイトルからは ポピュラー・アピールのための工夫が窺われる。そして,第 l次法案をめぐる情勢が緊迫した 時期(及びその後しばらく)はリーフレットが最も精力的に発行された時期でもあり, 1887 年 10 月 ま で の 発行部数 の ト ー タ ル は300 万近 く に 達 す る 1 0]) 。 1888 年2 月24 日 に は , ト ー タ ル16 点 の リ ー フ レ ッ ト の 発行停止 が 決定 さ れ て い る が, こ れらのうちにも,タイトルからだけでも明らかにアイルランド関係であると推測できるものが 10 点, 他 に も グ ラ ッ ド ス ト ン を 扱 っ た も の が 2 点含 ま れ て い る 。 断片 的 に 言及 さ れ て い る リーフレットのトピックは, I フ ィ ッ ツ モ ー リ ス の 殺害J I ア イ ル ラ ン ド に お け る 法 へ の 抵抗」 「パーネリズムと犯罪」等であり,ナショナリストのく悪漢〉性を提示することに一番の力点 が置かれていたものと思われる 1 02 ) 0 ここで,リーグ指導部が刊行した「投票依頼者の教理問答:最もまことしやかなホーム・ ルール支持の議論への応答』を素材に,ホーム・ルール反対がどう論じられたか,具体的に検 討してみたい。この文書は分量にして 1 0ページに及ぶものであって, 1 ,......4 ペ ー ジ 程度 に 収 まる通常のリーフレッ卜とはやや性格を異にするが,それでも,コンパクトなスペースという 条件の下,わかりやすく端的に主張を伝えようとしている点で,リーフレットの特徴を少なか らず共有していると考えられる。また,ホーム・ルール反対を「イングランド人労働者」の利 害と結び、つけて主張する論調からは,この文書が第一に想定する受け手は労働者であったこと が推察できる O刊行されたのはおそらく 1 886年,ホーム・ルールをめぐる情勢が緊迫する中 でホーム・ルール反対の世論を改めて構築することを目的に書かれており,一問一答形式を 採っているのも,反対運動の中での活用を考慮してのことと思われる。以下では,この文書に 収録されている 1 0の質問とそれへの応答を順次見ていくこととする 1 03 ) 0 第 lの質問は, Iど う し て ア イ ル ラ ン ド は, イ ン グ ラ ン ド が ま さ に そ う し て い る よ う に, 自 らを統治することを許可されるべきではないのでしょうか ? Jである。これに対する応答は, まず「相互に激しく敵対しあう 2つのはっきりと異なる人種Jからアイルランドが構成されて いることを指摘し,両者を対比する。「一方のケルトはアイリッシュ・アメリカンによってコ ントロールされ,ブリテン帝国を破壊する目的をもって,イングランドからの分離に向けて運 動しています。他方のサクソンは忠誠であり,イングランド人やスコットランド人の大半と同 じ血と信仰を有し, 2 つ の 国 の 聞 の 立法府 の ユ ニ オ ン を 維持 す る こ と を 情熱 的 に 追求 し て い ま す。 J 104 )つまり,第 lの応答は人種的に区切られたく 2つのアイルランド〉の対照的な性格を 8 2- 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 提示することで,議論の大枠を設定するのである。明らかにく劣等〉と認識される「ケルト」 に関する描写は,第 2の質問 ( Iどうして 1 885年の総選挙においてアイルランドはホーム・ルールの 要求に誓いを立てた 85人の議員を当選させたのでしょうか? J) に 応え る 中 で, rア ジ テ イ タ -J の 描写と重ねられてし、く。 ケルティック・アイリッシュは,あらゆるケルト人種と同じように,アジテイターによっ て簡単に動かされます。アメリカのアイルランド人によって結成され,財政的に支えられ ている「国民同盟」と呼ばれる団体は,ケルティック・アイルランドの隅々にまで組織を 確立し,女王の権威を破壊するような影響力を各地で行使することを許されました。ケル ティック・アイリッシュの多くは文盲であり,読むことも書くこともできません。これら の人々は国民同盟やその手先の影響力によって投票に行き,ホーム・ルールを誓約する候 補者の名前のところに印を書き込むようにされました。したがって,さきの選挙の結果が 示すのは,アイルランド国民の声や意志というよりも,ブリテン帝国の解体を策し,その 後も策しつづけているアメリカン・アイリッシュの声や意志なのです 105 )。 「ケルティック・アイルランド」を支配する「アジテイター」という一方の主役は, rア メ リ カ ン・アイリッシュ」と結託し,ブリテン帝国の解体を画策し,無知で盲従しがちな「ケルト」 をいいように利用しているく悪漢〉として登場する。また, rケ ル ト 」 を 「ア ジ テ イ タ -J に 「簡単に動かされ」る者たちとして描写することで,世論動向のメルクマールであるはずの総 選挙結果がもっ政治的意味は希薄化される。ここでは「アジテイター」と世論の手離が示唆さ れていると考えてよかろう。第 3の質問 ( I貴方がいうように, 1885 年 に85 人 の ホ ー ム ・ ル ー ラ ー が当選したのはアメリカン・アイリッシュの手によるのだとする根拠はなにかあるのですか? J) に 対 す る応答では, r国民 同 盟 が ほ と ん ど コ ン ト ロ ー ル で き な い ア イ ル ラ ン ド の 地域 で は オンの維持を誓約する候補者が当選していること」が指摘され, rア ジ テ イ タ ー」 …・・・ ユニ と 世論 と は さらに切り離される 106 )。 第 4の質問は依然として総選挙結果にこだわる o r し か し 結局 の と こ ろ , 選挙結果 は ア イ ル ランド国民の望みをわれわれが判断するための唯一の方法です。そして,選挙結果は大多数が 分離を望んでいることを示しています。アイルランド人がそれを望むなら,なぜ彼らは分離を 許されてはならないのでしょうか ? J総選挙結果は「アイルランド国民の狂気」を示している にすぎないと決めつけたうえで,この質問への応答は, rア ジ テ イ タ ー」 の 支配下 に あ る 多 数 派に対置される少数派,すなわち「サクソン J (アングロ・サクソニズムを拡張的に適用されたアル スター・プロテスタント)には「アイルランドのすべての産業,すべての知性」が含まれている ことを強調する。日 IJの箇所では, r サ ク ソ ン 」 は 「富 と 知性, 8 3 住民 の 勤勉 を 代表す る 」 者 た ち 人文学報 として, 1住民 の 無知 と 偏狭 さ を 代表 す る J 1 ケ ル ト 」 に 対置 さ れ て い る 1 07) 0 <悪漢〉たる「ア ジテイター」のく脅威〉にさらされるもう一方の主役,忠誠にして知的,勤勉にして富裕な 〈潜在的犠牲者〉の登場である。第 4の質問への応答は,ホーム・ルールが分離に至ることを 議論の自明の前提にしつつ,つづけてホーム・ルールをめぐる対立の構図とその行方 = 1内戦」 を提示する。 分離につづ、いてなにが起こるか,考えてみてください。私が今言及した諸階級 [ Iサクソ ン」を指す]から成るアイルランドの 1 / 3は,分離への反対を宣言し,武器をもってこ の宣言を貫くでしょう。つまり,分離が意味するのは,まずなによりも内戦,アイルラン ド住民の少なくとも 1 / 3を代表するアイルランドに定住したイングランド人やスコット ランド人の末育が,残る 2 / 3に対峠する戦争です。イングランドやスコットランドは, これらの人々が破滅させられるのを容認できるでしょうか?彼らはグレイト・ブリテン との結び、っきに依拠する人々なのです。彼らはわれわれを信頼いわれわれのために災難 に遭い,われわれのために血を流した人々なのです。彼らを見捨てることなど,われわれ にはできません 108 )。 こうして,対立の構図とその行方の提示は,人種的・宗教的に共通性の高い,いわば「親類知 己」である「サクソン」を見捨てるな,という呼びかけに連動する。「ケルト」を支配下に置 く「アジテイター」を一方に, 1 サ ク ソ ン 」 を 他方 に 据 え る 二極 の 構図 に よ っ て ホ ー ム ・ ル ー ルの問題を把握し,その中での自らが採るべき立ち位置を自覚することを受け手にアピールす る作業が,この文書では第 1 '"'-' 4の質問への応答を通じて果たされるのである。 第 5 '"'-' 7の質問への応答で論じられるのはアイルランド統治のあり方である。二極構造の対 抗図式を前提としながら,いかなるく救出〉の展望がありうるかを提示しようとする部分とい える。まず第 5の質問 ( Iそれなら,貴方はどうするつもりですか?貴方はいつまでも強圧をつづける のですか? J) に対 し, 1強圧」 と は 「 自 ら 考え る こ と を し な い 人 々 を怖が ら せ る た め の 脅 し 文 句」であると断じた後,法の遵守を「強圧」と呼ぶのであれば,イングランドにおいてもアイ ルランドにおいても同様に「強圧」は必要であるとの認識が示される Oさきに見たランタン・ スライドが「悪しき強圧」と「正当な強圧」を区別したのと同じ論法で, 1正 当 な 強圧」 を 支 持する立場を打ち出すのである。「正当な強圧」とは保守党の対アイルランド政策の基本路線 に他ならず,その有効性が次のように語られる。「ユニオニストが決意しているのは,アイル ランドにおいて確固とした正当な政策を継続的に維持し,真の苦境を調査・矯正し,貧困な諸 階級の状態を改善することです。こうした政策が着実に遂行されれば,アジテイターは挫折し, 強圧の意味をもっ特別法を適用することも不要になるでしょう。 J I 0 9 )第 4節で検討した保守党 - 84- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 統治によるく救出〉という見通しに明らかに合致した議論である O第 6と第 7の質問はいずれ も 185年間にわたるユニオンの経験」は失敗だったのではないか,と問いただす趣旨のそれ であり,ここでの応答は 1 9世紀前半におけるアイルランドの人口の増加や産業の拡大を持ち 出してユニオンの恩恵を主張しようとしているものの,ユニオンの「失敗」という質問の想定 を説得的に覆すことに成功しているとはいえない。応答が試みるのは,ホーム・ルールが実施 された場合に招来される事態へと論点をずらし,質問をかわすことである O アイルランドからアイルランドの産業を放逐すること(それはナショナルな議会の設置がただ ちにもたらすであろう lつの帰結です)は,アイルランド人を今よりも幸せにするでしょう か?それは,ほんのわずかでもアイルランド人の満足を大きくするでしょうか?それは, アイルランドの土地を今よりも肥沃に,あるいは,アイルランド人の小屋を今ほど無惨か っ荒廃したものではなくすでしょうか?資本をアイルランドから流出させることで (1 8 80 年以 来, 新 た な 資本 を ア イ ル ラ ン ド に 投 下 し よ う と す る 資本家 が l 人 も い な い こ と は 銘記 さ れ るべきでしょう) ,アイルランドの産業に致命的な打撃を与えることで,このような議会は アイルランド、人の状態をかつてのそれよりも悪化させるでしょう 1 10 )。 ホーム・ルールの危険性を過剰なまでに強調するトーンは,ユニオンの「失敗」を云々するこ となど無意味であるかのような印象を残す。 第 8の質問は,ホーム・ルールがイングランド人労働者に与える影響を論点とする o Iわ れ われは聞かされています。……イングランドの産業の中心地に大挙して流入し,イングラン ド人労働者と競争するアイルランド人が,ホーム・ルールが与えるであろう恩恵を享受するた めにアイルランドに残るので,イングランドの労働市場にとって大きなアドヴァンテージが生 まれるだろう,と。貴方はこれを否定できますか ? Jポピュラー・アピールを意図する際, ホーム・ルールと労働者の利害とのかかわりを論じておくことが重要であったことは想像に難 くない(注 1 3 7参照)。この質問への応答はきわめて決然としている O ホーム・ルールが実施されるという噂だけで,まったく前例のない規模でアイルランドの 証券が暴落しました。現在グラッドストン氏に強し、影響を与えている無謀な~ )かさま師の 手中にアイノレランドの最高権力が収められた場合に産業と自分たちに降りかかるであろう 運命を察知したアイルランド北部の製造業者たちは,既にイングランドやスコットランド に移動する準備を始めています 0・・ e・..繁栄の喪失が意味するのは仕事の喪失であり,仕 事を見つけるために,今より多くの労働者がイングランドへと群がってくるでしょう。想 起すべきは,自分たちの国においてアイルランド人は貧しい生活に慣れていること,した ~ 8 5 人文学報 がって,収入が少なくても満足することです。ホーム・ルール法案が通過したら,イング ランドの産業市場は,イングランド全土の賃金率を引き下げるアイルランド人難民で満杯 になるでしょう l l l ) o 第 6,第 7の質問への応答が扱った内容を繰り返しつつ,ホーム・ルールがもたらすアイルラ ンドの経済的苦境がイングランド人労働者の利益を直接的に脅かすことを明示して,ホーム・ /レール反対への同調を誰よりもイングランド人労働者にアピールする部分である。 第 9の質問 ( I実験としてホーム・ルールを試みることに反対する理由などありえないのではないです か? J) へ の 応答 で は , こ の 文書 が 冒 頭 で 採 り あ げ た 論点 « 2 つ の ア イ ル ラ ン ド 〉 の 対立 と 内戦 の 可能性)が再浮上する。「第 2の集団 [ 1 2 / 3 J を 占 め る 「 人種JJ が第 l の 集団 [ 1 1 占める「人種 /3J を J Jの支配を試みることは,たとえ実験であるにせよ,内戦を引き起こすでしょ う。内戦が起これば,イングランドがアイルランドを再征服することが必要になります。内戦 はアイルランドの進歩を妨げ,文明の前進に背を向けることをアイルランドに強いるでしょう。 このような結果を導くかもしれない(われわれは確実に導くと考えます)実験のことなど,一時 たりとも考慮すべきではありません。 J l12 ) I ケ ル 卜 」 を 支配す る 「 ア ジ テ イ タ ー 」 の 「サ ク ソ ン」に対するく圧制〉が内戦を導く,というこの文書の最も基本的な議論が,終わり近くに なって再確認されるわけである。最後の第 1 0の質問 ( Iしかし,グラッドストン氏はこう述べてい ます。自分こそ本当のユニオニストであり,彼に敵対する者たちは単なる机上のユニオニス卜にすぎない, 彼らは抑圧によってユニオンを維持しようとするが,臼分は,じっくりと検討のうえ設定された条件の下, アイルランド人に自分たち自身の問題を扱うことを認めることによってユニオンを維持しようとする,と。 にもかかわらず,貴方はどうやってグラッドストン氏はユニオンの撤回を支持しているということができ るのでしょうか? J) に 対 す る 応答 で は , グ ラ ッ ド ス ト ン へ の 批判 が 展 開 さ れ る o I グ ラ ソ ド ス ト ン氏が政策に塗りつけるうわべの光沢」ではなく,政策の実態を直視すべきこと, Iグラ ッ ド ストン氏の対アイルランド政策が実施された場合,その確実な帰結は全面分離を支持する運動 であり,それに抵抗するのは不可能であること J,等々の指摘を経て,応答は次のような最終段 落で締め括られる。 1868 年 か ら1874 年 ま で, そ し て1880 年 か ら1885 年 ま で, グ ラ ッ ド ス ト ン氏は 自 ら の意 志に従ってアイルランドの運命を成型してきました。彼が次々と打ち出した政策はどれも, それが心情におけるユニオン[注 9参照]をもたらすだろうという理由で推進されました。 心情におけるユニオンは必要です。しかし,いずれの政策も不忠なアイルランド人の憎悪 を増幅し,いずれの政策も暴力に拍車をかけました。今日までにもたらされた結果は,ア イルランド人はかつて以上に不忠に,かつて以上に無法になった,というものです。われ - 86- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関) われを今まで、かくも頻繁に編してきた医者を,そのいんちき薬が,病を治すことはないに しても,きわめて確実に患者を殺すであろう医者を,われわれが再び信用することなど不 可能です I問。 ここに描かれるグラッドストンは,単なるく悪漢〉のく操り人形〉というよりも, I 自 ら の意 志に従って」アイルランドへの失政を繰り返してきた政治家である Oこの文書の第 3の主役と 見なしでもよいほどにその扱いは大きい。そして,最後の最後で用いられる円、んちき薬」を 処方する「医者」のレトリックは,ランタン・スライドでも確認された笑いを誘う効果を意図 する仕掛け,読者に対するとっつきやすさの演出と考えられる。 単一の文書,しかもリーフレットというにはやや分量の大きい文書を代表的な事例であるか のように見なすことは控えるべきだろう。それでも,グラッドストンが相対的に大きく扱われ ること,イングランド人労働者の利害を前面に出した議論が強調されること, <悪漢〉に関し てもく潜在的犠牲者〉に関してもその描写はやや具体性を欠いていること,といった特徴を備 えつつも,この文書が第 5節で整理した基本的構造を共有していることは否定できなし ' 0 ルト」を支配する「アジテイター」を一方の極に, I サ ク ソ ン 」 を 他方 の 極 に 配 し , lレ ー ル の 意味す る と こ ろ が 「 サ ク ソ ン 」 へ の く圧制〉 に 他 な ら ず, そ れゆ え, Iケ ホーム 内 戦 を 不可避 的 に招来する,との認識を提示して,保守党統治によるく救出〉を展望すること,これがこの文 書の中核的内容である Oさらに分量の小さいリーフレットにおいては,善悪の二極構造に立脚 し,こうした中核的内容へと一層絞り込まれた議論が行われていたと推測しても,それはあな がち無理なことではないように思われる。 もう 1つ,第 1次法案の採決を控えた 1 886年 5 月 2 2日の『プリムローズ・レコード』に掲 載された文章を紹介しておく。「イングランドとアイルランドの問に現存する関係」について の「簡潔なアウトライン」の提示を趣旨とするこの文章は,リーフレットの体裁を採ってはし 1 ないが,スペースの制約がある中で「簡潔Jにホーム・ルールを論じようとする際,いかなる 論点、がクローズ・アップされたかに関する有益な示唆を含んでいると思われる。ホーム・ルー ルが分離と帝国解体とを意味すること,ブリテンの統治の破壊を目指すナショナリストにグ ラッドス卜ンが盲従していること,アイルランドには 2つの敵対的なコミュニティが並存して いること,等を簡単に指摘したうえで,この文章は全体の半分を大きく上回る紙幅を割いてナ ショナリストを以下のように叙述する。「アイルランド国民の自選の指導者たち,ノ f ーネル氏, ダヴィット氏,そしてその仲間たち」は, I文 明 の 名 を 汚 す よ う な 恐怖政治」 を 実施 し て き た 人々である。 財産と人間にかかわる慣習法は,土地同盟の,あるいは彼らが呼ぶところの国民同盟の専 - 8 7 人文学報 制によって破壊されている。自由という神聖な名の下で犯されている残酷かっ暴力的な行 為については,口にするのさえ不愉快である。活字で伝えられるその報告で,われわれは ほとんど毎日のように吐き気を覚えている。農地に隣接する自分自身の家のキッチンの炉 端で‘静かに座っている人々が,窓ごしに射殺される。あるいは,覆面をかぶり武器をもっ た連中に襲撃され傷つけられ殺される Oそして,もしも家族の誰かが襲撃されている人物 を救い,暗殺者から臆病者の覆面を剥ぎとろうと試みるなら,……今度はボイコッ卜さ れることになる。どこへ行っても,教会に出かける時でさえ,非難と噺笑の声を浴びせら れるのである。暴動とボイコットは国民同盟の常套手段,当然の武器である。ボイコット とはなにを意味するか,ご存知だろうか?それが意味するのは飢餓と破滅である。 この専制には,他のほとんどすべての手段よりも残虐な,もう lつの特徴的な常套手段が ある Oすなわち,身を守るすべをもたず,攻撃してくるわけでもない動物を傷つけ切断す るという邪悪な残虐行為である。……国民同盟の専制は,これまで存在した中でも最も 耐え難い弾圧のシステムである。 こうした具体性に富んだく悪漢〉の描写をアルスター・プロテスタン卜に降りかかるであろう 〈災難〉の予告へとつなげて,この文章は閉じられる o I"彼ら[アルスター・プロテスタント] にとって,ホーム・ルールは全面的に嫌忌すべきものである。アーノルド・フォースター氏 [ 18 8 0' " ' '82 年 に ア イ ル ラ ン ド 担 当 相 ] を 引 用 す る な ら , 盟 に 手 渡 さ れ る こ と に な ろ う Jo J 1 14 I " 彼 ら は 身 も 心 も 貧 欲 で 残 酷 な 国 民 同 ) I " ア ウ ト ラ イ ン 」 の 半 分 以 上 が ナ シ ョ ナ リ ス ト の 「 恐 怖 政 治 」 の 描 写 に 充 て ら れ て い る 事 実 は , 第 l 次 法 案 の 採 決 が 迫 る 時 期 に 改 め て ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 を ア ピ ー ル す る に あ た り , < 悪 漢 〉 と し て の ナ シ ョ ナ リ ス ト と い う テ ー マ こ そ が 最 も 効 果 的 と 考 え ら れ て い た こ と を 示 す だ ろ う 。 対 極 に 位 置 す る く 潜 在 的 犠 牲 者 〉 の そ れ を 上 回 る イ ン パ ク ト を 受 け 手 に 与 え る こ と が , く 悪 漢 〉 の 描 写 に は 期 待 さ れ て い た の で あ る 。 リ ー グ 指 導 部 が 作 成 し た ポ ス タ ー を 簡 単 に 紹 介 し て お く と , う ち 187 3 点 が ア イ ル ラ ン ド を 採 り あ げ た も の で あ る 「 土 地 追 放 の 光 景 ( 誰 が 原 因 を つ く っ た か 年 1 2 月 の 時点 で は 4 点の (I プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ に 関 す る 真 実 」 以 外 の ? )J 1 強圧 と は な に か ? J1ア イ ル ラ ン ド 犯罪法 の 権 限 J ) 。 ナ ショナリストの悪訴さと保守党のアイルランド統治が,明らかにクローズ・ア yプされている。 その後, ており 1890 年1 月 ま で に3 点 が 追加 さ れ て い る が , ( I政府は海軍に対してなにをしようとしているのか? そ の う ち のI 点 が ア イ ル ラ ン ド を 扱 っ J 1急進 党 とともに「パルフォア氏はアイルランドのためになにをしたか? J) , [ 自 由党を指す] 第 l 次 法 案 と 第 2 次 法案 の 谷 間 の時期においても,依然としてアイルランドが重視されていたことがわかる 1 1 5) 0 (3)集会での発言 8 8 議員 の 見解」 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関 ) つづいて,支部や地域のレヴェルで、開催されたリーグの集会のような場面での発言に注目し てみよう。 1 893 年 3 月 1 6日にリヴァプールのトクステス支部でモリスン大佐が行った演説は, 本稿の課題にとってきわめて興味深い。 おそらく,アイルランドに独自の立法府と行政府を与えることに反対する最も強力な論拠 になるのは,その手中にアイルランドの統治が必ずや落ちるであろう者たちのキャラク ターです。 彼らはプラン・オヴ・キャンペーンを指導してきた……犯罪的な陰謀家であ り,ボイコッ卜の組織者……であり,アメリカのダイナマイターの親しい盟友であり, ブリテンとの関係に対する公然たる敵なのです 1 1 6 )。 最もアビール力をもつのはナショナリストのく悪漢〉としての「キャラクター」を知らしめる ことである,とはっきり語られているのである。ランタン・スライドや上述の「アウトライ ン」の場合と同じく,ナショナリストの悪錬さを繰り返し強調することが,支部や地域のレ ヴェルにおけるホーム・ルール反対への支持調達の試みの根幹になっていたと予想させる演説 といえる。 モリスンのいう「最も強力な論拠」は,実際,きわめて頻繁に持ち出された。 13 日 に リ ッ チ モ ン ド 女性 支部 で 演説 し た マ ー ル ボ ロ 公爵夫人 は , 1 886 年 3 月 r ア ジ テ イ タ ー に し て叛徒」 であるナショナリストを「テロリズム,アナーキー,反乱」によって特徴づけているし, 年 2 月 1 日 に エ ン グ ル フ ィ ー ル ド 支部 ス ト の 形 容 に 用 い た 単 語 は 「 治 安 妨 害 (パ ー ク シ ア ) ア ン ソ ニがナ シ ョ ナ リ J r反逆J r流血J r強奪J r不忠」 で あ る 。 「 プ ラ ン ・ オ ヴ ・ キ ャ ン ペ ー ン を 組 織 し た 無 節 操 な 政 治 家 た ち 支部), で 演説 し た W. R. J ( ウ エ ス ト ・ ラ イ デ ィ ン グ の セ ン ト ・ ニ コ ラ ス r土地 同 盟 と 協調 関 係 に あ る 者 た ち J ( シ ュ ロ ッ プ シ ア の リ 一 ト ン ・ ノ ル ズ 支 部 ) , 扇 動 家 た ち J ( サ セ ッ ク ス の へ イ ス テ イ ン グ ・ ア ン ド ・ セ ン ト ・ リ ー ナ ー ズ 支 部 ) , リ ス ト に く 悪 漢 〉 の レ で 常 套 的 に 行 わ れ て い る r暴徒 の r夜 襲 や ダ イ ナ マ イ 卜 爆 破 , 殺 人 を 行 う 者 た ち と 同 盟 す る , 唇 ま で す っ か り 反 逆 に 浸 っ た 人 々 の ケ ナ ウ ェ イ 支 部 ) , 1 8 9 3 J r革命 的 な 暴徒 J ( ノ ー フ ォ ー ク の 北 ウ ォ ル シ ャ ム 支 部 ) , 等 々 , ナ シ ョ ナ y テ ル を 貼 る こ と は , ア ソ シ エ イ ト が 主 た る オ ー デ ィ エ ン ス と な る 場 面 11 7 )。 ナ シ ョ ナ リ ス ト が ア イ ル ラ ン ド 世 論 の 代 表 者 と 自 称 す る 資 格 も 否 定 さ れ た 。 後 段 で 述 べ る く 忠 誠 な 南 部 , カ ソ リ ッ ク 〉 と い う 論 点 と も 連 動 し て く る の だ が , コ ー ン ウ ォ ル の キ ン グ ・ ア ー サ ー ズ ・ テ ー フ 、 、 ル 支 部 で 演 説 し た バ ー ネ ッ ト 少 佐 に い わ せ れ ば , ナ シ ョ ナ リ ス ト は 「 わ が 王 国 で 最 も 小 さ い 島 の ほ ん の 小 さ な 部 分 の 代 表 」 で し か な か っ た 。 ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー に 多 く の ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 議 員 が 存 在 す る 事 実 も , そ の ま ま ナ シ ョ ナ リ ス ト に 対 す る ア イ ル ラ ン ド 世 論 の 支 持 を 証 明 す る わ け で は な い 。 「 ア イ ル ラ ン ド の 有 権 者 は 自 由 な 選 択 を 許 さ れ た の で は な 8 9 ( デ ヴ オ ン シ ア 人文学報 く,政治的な,そして宗教的な影響力によって強いられたのです。したがって, 86 人 の ア イ ルランド選出議員はアイルランドの世論を正統的に代表しているわけではないのです。 J I完全 に聖職者の支配下にある」ナショナリスト党は,カソリック教会の力に依拠していわばく偽り の多数派〉を形成しているのであり,そのような者たちが目指しているホーム・ルールとは 「ローマ・カソリック支配体制」に他ならない,と論は進められた(スコ yトランド南東部のギャ ラ・ウォーターズ支部)。ナショナリストは議会選挙にまでく悪漢〉に相応しい手法を持ち込み, ローム・ルールというく圧制〉を樹立せんとしている,というわけである 1 18) o さらに,ナショナリストの悪現さは,実際にアイルランドに居住し,ナショナリストの「恐 怖政治」を経験している者の発言によって裏書きされた。たとえば,第 2次法案が焦点となっ ていた時期にアイルランド南西部卜ラリーにおけるリーグの活動で注目を集め,ブリテンの多 くの支部に招かれたセント・ブレンダンズ支部のセクレタリ,ロウアン ( f生涯をずっとアイル ランド南西部ですごしてきたアイルランドのレディ J )は,ロンドンのホウボーン支部で, I現政権 が権力の座に就くと,あの騒乱に充ちた地域の恐怖政治が再開されました」と演説してい る 1 1 9) 。 ナショナリス卜の悪掠さを描いておけば,グラッドストン派に「彼の主人,つまりアイルラ ンド選出議員たち J (ミ y ド ラ ン ズ、 の ニ ュ ー ナ ム ・ パ ド y ク ス 支部) の く操 り 人形〉 と い う イ メ ー ジ を付与することは容易である。とあるダイナマイト爆破事件の「犯人」が釈放されたことに寄 せて,ベイズリ・ホワイトは卜ーキ支部で次のように語る。「これらの男たちが釈放されたの は,グラッドス卜ンの党が恐怖で動揺しているからです。彼らの政策は恐怖に支えられており, 彼らが提出しようとしているホーム・ルール法案は,商業用語を使うならば,恐怖に基づいて 振り出され,反逆に対して支払われるものです。 J I 2 0 ) I か つ て グ ラ ッ ド ス ト ン 氏 が 流血 と 強 奪 を通じて帝国の解体に向け前進していると呼んだ J (ダーラムの西ハートゥルプール支部) <悪漢〉 の意のままにされるく操り人形〉のイメージは,保守党に親近感を覚えるアソシエイトたちの 耳に心地よく響くものであったに違いなし」もちろん, I地位 を 獲得 し , 維持 す る た め に 」 グ ラッドストン派が自らの意志で「自分をアイルランド党に売り飛ばしてしまった J (ダーリント ン支部,プリマスのビーコンズフィールド支部)事情も無視されるわけではない。「……アイリッ シュ・ポリティクスのご機嫌をとるために,イングリッシュ・ポリティクスは放棄されねばな らないでしょう。なぜなら,アイルランド人が決定力を掌握しているからです。 J グのヴァレンタイン支部)つまり, (ウォーキン I グ ラ ッ ド ス 卜 ン 氏 は 80 票 を 得 る た め に ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 に 身を売った J (上記プリンシズ支部) ,ホーム・ルールは「単純な賄賂J (レディング支部)である, ということであり,こうした党利優先のイメージもリーグ支部のような場ではアピールしたと 思われる 1 2 1 ) 0 グラソドストンを批判する際には,例によって,ゴードンのエピソードが活用された。たと - 90- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) えば, 1893 年7 月26 日 , ク リ ス タ ル ・ パ レ ス で 聞 か れ た リ ー グ の サ リ 州 評議会主催 の 集会 に おいて,アシュボーンはこう演説している O この法案のすべての行には背信が,すべてのセンテンスには屈服が書き込まれています。 そこにはイングランドの失墜がつづ、られています。……こうしたことがグラッドストン 氏のキャリアにおいて初めてではないことを想起するのは,悲しくつらいことです。マ ジュパ・ヒノレでそうしたように[第 l次ボーア戦争において,ブリテン軍は 1 88 1 年 2 月 27 日 の マ ジ ュ パ ・ ヒ ル の 戦 い で 決定 的 な 敗北 を 喫 し た ], そ し て 勇 敢 で 騎士道精神 に 充 ち たゴードンを見捨てた時にそうしたように,この首相は世界の諸国の問におけるイングラ ンドの名声を汚してきました 1 22 )。 グラッドストンには M O Gとしてのく前科〉があるという論法は,英雄たるゴードンのイメー ジをアルスター・プロテスタントに纏わせ,アルスター・プロテスタン卜への情緒的なシンパ シーをオーディエンスから引き出す機能を果たした。 他方, <潜在的犠牲者〉はく悪漢〉ほどには念入りに描き込まれていない。最も頻繁に用いら れる「忠誠」をはじめ, I信仰 に 篤 い J I勤勉J I繁栄J I愛国 的 J I遵法 的」 と い っ た 単語 で 形 容されるという意味では,たしかにく悪漢〉と対峠するに相応しいイメージで焦点を結んでい るし,アルスター・プロテスタン卜を「われわれの肉と血を共有する 1 50 万人 J (上記北ウォル シャム支部)と呼んで,くわれわれ〉意識を喚起する語りも行われているのだが,く悪漢〉のよう に具体的なエピソードに即して生々しく描写されることはほとんどなく,いわばく悪漢〉の影 絵のような印象である 1 23 )。もちろん,ウォルセンド支部(タインサイド)主催の集会で G . H . ハヴロックが「アルスターの苦境こそがホーム・ルール問題にかかわる最大の問題です」と言 明しているように,アルスター・プロテスタントに迫るく脅威〉を重大視すべきとの認識は リーグの現場でも広く共有されていた 1 24 )。にもかかわらず,アルスター・プロテスタントに 関する言説がナショナリストに関するそれほど前面に出てこなかったのは,ランタン・スライ ドをめぐって簡単に触れた通り,前者の善良さよりも後者の悪練さを採りあげる方が,オー ディエンスに強いインパク卜を与ええたという事実(ないし発話する側のそうした思い込み)の ため,つまり,効果についての判断ゆえだったのではなし、かと推測される。また,支部や地方 のレヴェルにおける発言の場合,議会での演説や新聞論説に比べてコンパクトである(あるい は,コンパク卜に報道される)のが通例であり,網羅的な議論(あるいは,網羅的な報道)が困難で あったことも考慮する必要があるだろう。限られた時間(あるいは,限られた紙幅)の中で最大 の効果に結び、つく題材は, <潜在的犠牲者〉よりも〈悪漢〉であるとおそらくは考えられていた のである。 9 1 人文学報 とはいえ,簡潔にしか言及されないにせよ,暗黙の了解として済まされているにせよ, <潜 在的犠牲者〉の存在が想定されていたことは否定できない。「アイルランドのロイアリストに してプロテスタントである仲間への災難であり破滅J (ダービのジャーウィス支部), Iア ジ テ イ ターと無法な指導者に導かれる多数派への繁栄し勤勉な少数派の隷属 J (チェシアのノース ウィ yチ地区評議会),といった論調でホーム・ルールは把握されたのであるから, <潜在的犠牲 者〉が誰であるかは明瞭だったといってよい 1 25) 0 1893 年5 月4 日 に パ デ ィ ン ト ン の ベ イ ズ ウォーター支部が採択した決議は以下のようにいう。 本集会は,憤りをもってアイルランドに独自議会を設立することに抗議する Oそこからは 不可避的に,支配的な党派によるアイルランドの忠誠な少数派の権利と自由の侵害が試み られるだろう。 深刻な性格の内戦がその帰結であり,行き着く先は公的信用の破壊,商業 的繁栄の壊滅であって,最終的にはアイルランドの破滅とグレイ卜・ブリテンの名誉失墜, そして退化に至るしかないだろう 1 26 ) 0 ブリテンへのダメージも言及されてはいるが, I権利 と 自 由 」 につ いて も 「商業 的繁栄」 に つ いても,最大の被害を受けるのはアルスター・プロテスタントであるとの認識は鮮明である。 〈悪漢〉ほどにはクローズ・アップされないものの,善悪の対抗という構図の必要性は充たし ているといえよう。 ただし,く潜在的犠牲者〉をアルスター・プロテスタントに限定しない議論も,リーグの現場 ではしばしば展開された。アルスター以外のアイルランドにもユニオニス卜(カソリックを含め て)は少なからず存在し,彼らもまたく脅威〉にさらされていることが強調されるのである O たとえば,キング・アーサーズ・テーブル支部(既出)において,リーグ指導部から派遣され た弁士はこう述べている。 I · · · .. ·イングランド国民の間では,アイルランドにはロイアリスト はほとんどいない,という印象が支配的です。しかし,・…・・西コークのプリムローズ・リー グ支部は 6, 0 00人以上を擁しています。」さきに見たクリスタル・パレスにおけるアシュボー ンの演説もいう。「アイルランドの世論はホーム・ルール支持で一致しているわけではありま せん Oアイルランドの富,教養,商業,そして産業は提案されている分割に反対です。 プロテスタントがほとんどすべての l人まで法案に反対していることは事実ですが,多くの ローマ・カソリックもまた,この点に関してプロテスタントと一致しています。」そして, ホーム・ルールは, I ア イ ル ラ ン ド の 忠誠 な カ ソ リ ッ ク と プ ロ テ ス タ ン ト 」 の 双方 に と っ て , まったく同様に「不正であり抑圧的 Jなのだった(サマセ y卜シアの卜ウン・ヴァリ支部) 1 2 7 )0 〈潜在的犠牲者〉のこうした幅広い設定は,ユニオニズムの浸透を楽観的に主張し,アソシエ イトたちを勇気づけることばかりでなく,ユニオニズムへのコミットメン卜がプロテスタン - 9 2 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小関 ) テイズム(さらにはオレンジイズム)へのそれと同一視される事態を避けることを意図して行わ れた。宗派主義の排除というリーグの原則にとっても,アイルランド南部,そしてカソリック を自らの側につけるレトリックは重要であった。反カソリシズムの強調がポピュラー・アピー ルに効果的な力を発揮する場面は大いに想定できるが,非宗派主義というリーグの原則ゆえ, アソシエイトたちに対するアピールからは反カソリシズムの色彩は総じて除去されていたので ある 1 28) 。 そして,く忠誠な南部,カソリック〉の存在を主張する際にも,現地に身を置く者の発言は重 みをもっていた。さきにも登場したセント・ブレンダンズ支部のロウアンは,ランカシアのア ドリントン支部において,この点について演説している。 これまで,忠誠な住民はアルスターにいるといわれてきました。しかし,私はこの主張を 否定します。私は不忠なことで悪名高いアイルランド南西部からやってきました。そこに も大きく忠誠な lつの組織が存在します。ただし,そこでは誰もが忠誠を示すことで生命 の危険にさらされ,忠誠な人々は自己防衛のためにリヴォルヴァーをポケッ卜に入れて持 ち歩かねばならないのです。 ロウアンのような人物がヲ|っ張りだこの人気を得たのは, r ご く 最近 ま で …… アイ ルラ ン ド 南部にユニオニス卜がいることなど信じていなかった J r イ ン グ ラ ン ド の 平均 的 な 有権者 J , つ まり特に該博な知識を有するわけではない者たちに対して,く忠誠な南部,カソリソク〉の語 りが重大なインパク卜を与えうると考えられたためであった 1 29)。ただし, <現地からの証言〉 に依拠してく忠誠な南部,カソリック〉の存在に注意を喚起する場合も,アルスター・プロテ スタントについてと同様,彼らの善良さがナショナリストの悪珠さほどに具体的に描出される ことはなく,幅広く設定されてなお, <潜在的犠牲者〉は概してく悪漢〉の影絵に留まってい る。 ぐ潜在的犠牲者〉がく庄市1])の下に置かれてしまうような事態を放置することは,リーグに とって, r ア イ ル ラ ン ド の 全土, と り わ け ア ル ス タ ー 地方 の 女王 陛下 の 真 に 忠誠 な 臣民 に 対 す る卑劣な背信J (サウス・ケンジントンのジュビリー支部), r忠 誠 で 信仰 に 篤 い 少数派 へ の 恥 ず べ き裏切り J (ブライトン女性支部)に他ならなかった 1 30)。もちろん, も保護の対象に含まれる。 <忠誠な南部,カソリ yク〉 1 893 年 3 月 1 4日,ニューカースルの複数のリーグ支部が主催した 集会において,リーグのヴアイス・チャンセラーであったジョージ・ s .レインフォックスは 以下のように演説している。 -私は,北部の忠誠な住民たちのためだけでなく,アイルランド南部の忠誠な住民た 一- 93- 人文学報 ちのためにも,皆さんに訴えたいと思います。彼らについては,誰も声をあげないのです。 彼らには,自らの忠誠心を示す機会がなく,そうするための助けも支援も与えられてきま せんでした。というのも,南部においてナショナリスト党に反して立ち上がることには, 生命の危険が伴うからです。……今夜,私は特別に,この重大な問題に関してわれわれ と同じ側にいる南部の人々を支持し,彼らに助けと支援を与えることを呼びかけたいと思 います。 ユニオニズムのアイルランド南部やカソリックへの広がりを指摘するこうした言説は,ホー ム・ルール反対派が勝利の条件を備えつつあるというメッセージを合意し,反対運動の一翼を 担うアソシエイトたちにさらなる決起を促す作用を及ぼしたと思われる。さらに, I全階級 の 結集」を重要なスローガンとするリーグの性格を反映して,ホーム・ルール反対の一点におい ては,宗派のみならず階級の壁をもこえるべきこともしばしば強調された。 にダーリントン支部でロンドンデリ公爵夫人が演説したように, 体を意味する革命的計画」であるホーム・ルールは, 1 886年 4 月 28 日 I ブ リ テ ン 帝国 そ の も の の 解 I あ ら ゆ る 階級 が最 も 大切 に し て き た 権 利にとって致命的」な性格のものだからである日I ) 0 それでは,アルスター・プロテスタン卜,そしてく忠誠な南部,カソリ yク〉に支援の手を 差し伸べることとは,実践的にはなにを意味したのだろうか?集会の場で発せられたことば はかなり威勢がい L 、。「われわれはこの法案の立法化を阻止するためにあらゆる努力を行う」 (北ウェイルズ、のパワイス支部), I あ ら ゆ る や り 方で, 力 の 限 り を 尽 く し て ホ ー ム ・ ル ー ル 法案 に 反対する J (上述のクリスタル・パレスにおける集会) ,等々。ランカシアのディズ、パリ支部主催の 集会に出席した南ベルファスト選出の W .ジョンソン議員も, I こ の国の プ ロ テ ス タ ン ト の仲 間」が「感情においてだけでなく行動においても……アイルランドの同志とともに決起し, 団結する」ょう訴えていた。内戦の可能性もしばしば言及されており, I あ ら ゆ る や り 方」 と いった表現は内戦へのコミットメン卜をも辞さない決意を伝えるものと読める 1 32 )。しかし, 「あらゆるやり方」を一般的に語る言説は枚挙にいとまがない一方,具体的に武力の行使を提 唱する発言はほとんど見られない。一見して戦闘的な言説は,あくまでもアソシエイトが多数 を占めるオーディエンスを鼓舞し,反対運動への決起を促す狙いで使われていたように思われ る。第 2次法案反対運動の中では「立ち上がれ,アルスター」と題する「新しい愛国歌」が人 気を集め, I わ れ ら は ユ ニ オ ン か ら 離 れ る の か ? / わ れ ら を 創造 し た 神 に か け て , そんな こ と はない!/われらと諸君の頭上に/永遠に愛すべき旗を翻らせよ! J と い う コ ー ラ ス が繰 り 返 されるこの歌はリーグの現場でも国歌に劣らないほどの頻度で歌われたが,こうした歌に唱和 することも,戦闘的に「あらゆるやり方」を語ることも,気分の高揚に寄与する意味はあった にせよ,く武力による抵抗〉に実際にコミットする決意を表現していたようには受けとりがた - 94- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) い。カットン・アンド・スプロウストン支部(ノーフォーク)の決議にある「すべての合法的な 手段を用いることを誓う」といった表現の方が,リーグに集う人々のスタンスにより近かった のではあるまいか? 1 3 3 ) く 武 力 に よ る 抵 抗 〉 に 同 調 し よ う と す る よ り も , む し ろ 保 守 党 の ア イ ル ラ ン ド 統 治 に よ る く 救 出 〉 に 期 待 す る 点 で , リ ー グ で 展 開 さ れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 は 第 テ ィ ヴ に 一 致 す る 。 た と え ば , 1893 5 節 で 整 理 し た ナ ラ 年 2 月21 日, 自 ら が最高指導者 の 役割 を 担 う ボ ー ン 支部 ( リ ン カ ン シ ア ) に お い て , ア ン カ ス タ ー 伯 爵 夫 人 は 次 の よ う に 語 っ て い る 。 「 ア イ ル ラ ン ド が 必 要 と し て い る の は , 現 在 議 会 に 提 出 さ れ て い る よ う な 法 案 で は あ り ま せ ん O プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ の 集 会 で ソ ー ル ズ ベ リ 卿 が 述 べ た 通 り , ア イ ル ラ ン ド が 必 要 と す る す べ て は 20 年 間 の よ き 統 治 な の で す 。 」 上 述 し た ニ ュ ー カ ー ス ル の 集 会 で は , レ イ ン フ ォ ッ ク ス が , I正 当 な 強 圧 」 も 辞 さ な い よ う な 決 然 た る 統 治 の 正 当 性 を リ ー グ の モ ッ ト ー に 照 ら し て 主 張 し て い る 。 プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ の モ ッ ト ー は II mp e ri u m e tLibertasJ であ り , これは しば し ば 「 帝 国 と 自 由 」 を 意 味 す る も の と 訳 さ れ ま す 。 し か し , そ の 意 味 す る と こ ろ は も っ と ず っ と 大 き い の で す 。 そ れ は 「 秩 序 と 自 由 」 を 意 味 し ま す 。 秩 序 な し に は , 法 な し に は , 自 由 は 享 受 さ れ え な い の で す 。 グ ラ ッ ド ス ト ン 党 が 現 在 抱 い て い る ア イ デ ア 全 体 が す べ て の 法 に , そ し て 真 の , 本 当 の 自 由 に 真 っ 向 か ら 対 立 す る も の で あ る こ と を 主 張 し た い と 思 い ま す 印 ) 。 さ ら に , 保 守 党 統 治 に 期 待 す る こ う し た 語 り と 密 接 不 可 分 の 関 係 に あ る 認 識 , す な わ ち , Iユ ニ オ ン は ア イ ル ラ ン ド に と っ て 天 恵 で あ り , イ ン グ ラ ン ド に と っ て 純 然 た る ア ド ヴ ァ ン テ ー ジ で し た J ( 上 述 の ク リ ス タ ル ・ パ レ ス の 集 会 ) と い う そ れ , あ る い は , I も し も パ ル フ ォ ア 氏が ア イ ル ラ ン ド 統 治 を つ づ け る こ と が 許 さ れ て い た な ら , 私 た ち は も う こ れ 以 上 ホ ー ム ・ ル ー ル へ の 欲 求 を 耳 に す る こ と は な か っ た で し ょ う リ ー グ の 現 場 で は 表 明 さ れ た J ( 上 記 ビ ー コ ン ズ フ ィ ー ル ド 支 部 ) と い う そ れ も , 1 35 )。 と は い え , リ ー グ の 立 場 か ら す れ ば , 保 守 党 統 治 に よ る く 救 出 〉 を 座 し て 待 っ て さ え い れ ば い い わ け で は な か っ た 。 総 じ て 保 守 党 と 同 一 歩 調 を 採 る 政 治 団 体 で あ る リ ー グ 自 体 が , く 救 出 〉 の 担 い 手 で な け れ ば な ら な し 、 か ら で あ る 。 そ れ ゆ え , リ ー グ で 展 開 さ れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 に は , 保 守 党 統 治 に 期 待 す る と 同 時 に , 反 対 運 動 へ の 参 加 を 求 め る ト ー ン が 濃 厚 に 含 ま れ て い た 。 上 述 の よ う に , く 忠 誠 な 南 部 , カ ソ リ ッ ク 〉 へ の ユ ニ オ ニ ズ ム の 広 が り を 強 調 す る 議 論 が し ば し ば 持 ち 出 さ れ た こ と に は , ア ソ シ エ イ 卜 た ち に 反 対 運 動 へ の 参 加 を 促 そ う と す る 意 味 が 明 ら か に 込 め ら れ て い た 。 「 か つ て は そ の 名 が 犯 罪 と 反 逆 ば か り を ポ ピ ュ ラ ー ・ マ イ ン ド に 連 想 さ せ た 地 域 」 で あ っ た 「 ア イ ル ラ ン ド の 南 部 ・ 西 部 」 に お け る 支 部 の 奮 闘 ぶ り ( そ れ を 体 9 5 人文学報 現する人物が上述のロウアン,彼女がことさら脚光を浴びたのは,女性のオーディエンスを意識してのこ とでもあったと思われる)をクローズ・アップした理由も,まず間違いなくこのことにある 1 36)。 いわば活動家予備軍を対象とするホーム・ルール反対論は,当然のごとく,行動提起の性格を 色濃くもっていたのである。 支部や地域のレヴェルで展開されたリーグのホーム・ルール反対論に関する検討から明らか になるのは,ナショナリスト=く悪漢〉の性格づけが圧倒的に重視されていることである O 逆 に,ぐ潜在的犠牲者〉については,非宗派主義の原則ゆえに,そして,ユニオニズムの浸透を 印象づけようという意図ゆえに,アルスター・プロテスタントだけを焦点化せず,く忠誠な南 部,カソリック〉を強調する議論が展開されたものの,総じてナショナリストほどには丹念な 描写の対象にはなっておらず,むしろく操り人形〉への論及の方が頻繁なくらいである O バラ ンスは明らかにく悪漢〉の方に傾いているのであり,その最大の理由はく悪漢〉が受け手に与 えうるインパク卜の強さが積極的に評価されていたことにあると思われる。とはし 1え,く悪漢〉 の性格づけの延長線上にあるく圧制〉の予言は,あくまでもく悪漢〉とく潜在的犠牲者〉の対 抗という構図の中で行われた。つまり, <潜在的犠牲者〉の性格づけは概して軽く済まされる ものの,善悪の二極構造はしっかりと設定されていたのである。また,内戦の可能性を示唆し つつも,それに具体的に同調する姿勢は打ち出さず,むしろ保守党統治によるく救出〉という 見通しを強調する点においても,リーグの現場におけるホーム・ルール反対論は第 5節で整理 した図式に合致している。 前節までで見たホーム・ルール反対論の概要にぴったりと重なるわけではないが,リーグの 現場で,労働者を主たるターゲットとして展開された議論は,ランタン・スライドにせよ教 育・宣伝文書にせよ集会での発言にせよ,同じく二極構造を成していたと考えてよいだろう。 場面の制約のためもあって,そこでは, <悪漢〉が与えるインパクトに力点を置いてメッセー ジが発せられ,ホーム・ルール反対への支持・動員が図られた。国制,帝国,私有財産,等の 論点は,言及されないわけではないにしても,概して後景に退いている O労働者へのアピール 力を豊かに備えていると考えられたのは,これらとは別の論点だったのである 1 37 )。 むすびに代えて:ホーム・ルール反対論の受容と展開 本稿の検討で明らかになったのは,ポピュラー・アピールの重要性が飛躍的に高まりつつ あった時期のホーム・ルール反対論が善悪の二極構造を中核として構成されていたこと,そし て,労働者を主たる受け手に想定した場面においては,く悪漢〉のキャラクター描写を焦点と する語りが採用されたこと,である。では,このように構成されたホーム・ルール反対のア ピールを送られた側はそれをどのように受容したのだろうか?常に難問として残される受容 -9 6 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) の問題を,リーグによるプロパガンダの成果に対象を限定して,若干考察しておこう。 1892 年10 月1 日 の 『ガゼ ッ 卜 』 に は, I あ る 地 区評議会書記」 か ら の 以下 の よ う な 手紙 が 掲載されている。 去る総選挙に際して,私は本選挙区の保守党候補者,今では議員となった人物のための投 票依頼活動に従事しました。……私はしばしば友好的な有権者から説明や情報を求めら れました。ホーム・ルールのことを,現在はイングランドに居住しているアイルランド人 を集め,彼らが祖国で統治されるように,祖国へと送還することだと多くの人々が思って いるという話, Iユ ニ オ ニ ズ ム」 の こ と を, 救貧院 で 終生す ご す こ と だ と 思 っ て い る と い う話を,誰もが耳にしたことがあります。こうした話が真実であるかどうか,とても確信 はもてませんが,私が思うに,甚だしい無知は農村住民の間ではごく当たり前のことです。 ホーム・ルールやユニオニズムに関する誤解は「ごく当たり前」であるというこうした認識は, かなり広く浸透していた。この手紙を受けて,同日号の論説はいう。「去る総選挙は, ~)かな る地域で教育が最も求められているかをはっきりと示した。……都市だけでなく,この王国 のあらゆる村や集落にもプリムローズ・リーグが「光を広める」ことを可能とするような計画 を提示することは,地区評議会の責務である。」附リーグ指導部にとっても,農村部に蔓延す る政治的無知は放置できないものだったのである。 リーグのホーム・ルール反対論がポピュラーな受け手を想定し,わかりやすさを旨として構 成されたにもかかわらず,ホーム・ルールは本国送還であり,ユニオニズムは救貧法ユニオン にかかわると思い込んでいた者たちが多かった(しかも,ランタン・スライドやリーフレットの需 要が大きかった農村部において)という事実を,し、かに考えるべきなのだろうか?ブリテンの農 村住民の視点から見て,ホーム・ルールはポジティヴに,ユニオニズムはネガティヴに受けと められているのであるから, r ガ ゼ ッ ト 』 論説が い う 通 り , 憂慮 す べ き 事態 で あ っ た こ と は 間 違いない 1 39 ) 0 しかし,だからといって,リーグの訴えにもかかわらず農村住民の多くがホーム・ルールを 支持しユニオニズムを拒否したとは限らない 1 40 )。そもそも,上述の『ガゼソト』論説から読 みとれるのは,リーグの宣伝・教育活動が未だ充分に達していない農村部に「光を広める」べ きだ,という認識であって,ホーム・ルール反対論の浸透力に関する悲観的な手応えが示され ているわけではな L 、。あるいは,仮にリーグのホーム・ルール反対論に接した者たちの間で ホーム・ルールやユニオニズムについての j呉解が解消されていなかったにしても,ナショナリ ストの悪掠さが強いインパクトを伴って繰り返されることを通して,く悪漢〉への反感は受け 手の聞に植えつけられ,この反感はホーム・ルール反対へと比較的容易に導かれえたと考えら 9 7 人文学報 れる Oホーム・ jレールやユニオニズムがどのようなものとして把握されようが,憎むべきく悪 漢〉の横暴を許したくない,したがってホーム・ルールには反対すべきだ(ユニオニズムを支持 すべきだ) ,という理屈への共鳴さえ得られれば,プロパガンダはそれなりに成功だったのであ る。そして,こうした目的にとって, <メロドラマ〉仕立てのナラティヴは充分に有効であった と思われる O リーグの勢力拡大プロセスを,各々 3月 3 1日時点のメンバー数に即して見ると, 11,366 (うちアソシエイト1, 9 1 4) → 1 886年 2 00,837 (1 49, 266) → 1 88 7年 550, 508 1888 年672 ,616 (575 ,235) →1889 年810 ,228 (705 ,832) →1890 年910 ,852 年 1, 00 1, 29 2 (887 ,068) →1901 年1 ,556 ,639 1885 年 : (442,214)• (801,261) •1891 (1,4 1 6 ,473),となる。第 l次法案が政治的焦点 となった時期にメンバー数が飛躍的に増加していること,この増加がなによりもアソシエイト の流入によって実現していることは明らかである Oグラッドストンが第 l次法案提出の意向を 公にする直前, 1886 年1 月6 日 時点 の 数値 は106 ,893 (うちアソシエイト 70, 648)であるから, ホーム・ルール問題が浮上して以降の 1 5ヶ月弱の聞に,メンバー数は 5倍以上,アソシエイ トだけであれば 6倍以上という驚異的な成長があったことになる 1 41)。細かな推移がわからな いのは難点だが,メンバー数が1. 5倍になると同時に,アソシエイトの占める比率が 89 %か ら 9 1 %に上昇している 1 890年代についても,第 2次法案の浮上が勢力拡大とアソシエイトの 流入を促したものと推察される。「同時代で最も大きくかっ広まった政治組織 J 1 42)へとリーグ が成長していくにあたって,ホーム・ルール問題は決定的に重要な刺激を提供したのであり, アソシエイトの急増という事実は,リーグが展開したホーム・ルール反対論が,誤解を伴いつ つも,充分なポピュラー・アピールに成功したことを示すと思われる。 1889 年7 月17 日 , ア ー サ ー ・ パ ル フ ォ ア は リ ー グ設立 の タ イ ミ ン グ に つ い て 次 の よ う に 述 べている。「私が思うに,この偉大なる組織は最も必要とされる瞬間に誕生しました。イング ランドの歴史上初めて,帝国の名誉や安全,結束はもはや国家を支える両政党の支持を得なく なり, 2 つ の 政党 の う ちl つ に よ っ て , 自 ら 進 ん で 放棄 さ れ よ う と し て い る の で す 。 J 1 43) 設立 からほどなくしてホーム・ルール・クライシスに遭遇したリーグは,たしかに時代の申し子の ような団体であった。いうまでもなく,ホーム・ルール反対のためのリーグの活動は通常の水 準を上回るエネルギーをもって取り組まれ,メンバーの急増を促した 1 44 )。こうした急速な勢 力拡大や旺盛な反対運動を支えるだけの力(特にアソシエイトの急増に結びつくポピュラ一・ア ピールの力)が,リーグの現場におけるホーム・ルール反対論の語りには内包されていたので ある。 最後に,第 3次法案(1 9 1 2年提出, 1914 年成立) の 時期 に つ い て 簡単 に 述 べ て お く 。 第 l 次 ・ 第 2次法案の時期において,ホーム・ルールに反対することには,第 I節で見たような多様な 意味が込められ,これらの論点は中核となる二極構造のナラティヴの中に散りばめられていた。 -9 8 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) しかし国制はともかくとして, 1910 年 代 と も な る と , 帝 国 や 私有 財 産 権 に か か わ る ホ ー ム・ルールの意味は重大に変容していた。まず後者について見れば,アシュボーン法からバル フォア法を経て, 1903 年 の ウ ィ ン ダ ム 法 へ と つ づ く , 保守党政権 が導入 し た 一連 の 土地法 は , 地主と借地農の関係改善に重点を置いたグラッドストン時代の土地法に比べてより積極的に私 有財産権に介入し(地主による自発的な土地売却という建前は維持しつつ) ,借地農を自作農に転化 させていくことに効果をあげていた。ホーム・ルールなしでも,アイルランドの地主(ブリテ ン人不在地主を含む)の私有財産権には重大な規制が加えられたといいうるのであって,ユニオ ニズムと私有財産保護とを直結させることには無理が生じていた。また,帝国統合を守るため のホーム・ルール反対という前者にかかわる議論も, 1910 年 の 南 ア フ リ カ 連 邦成立 を 経 て , 1901 年 の オ ー ス ト ラ リ ア 連 邦 成 立, か つ て の よ う な 説得 力 を 発揮 で き な く な っ て い た 。2 つの事例は総じて成功し,自治能力を欠いているとされてきた植民地の人々でも政治的責任を 背負いうることを示すとともに,自治権の付与が帝国体制にとって必ずしも深刻な脅威となる わけではないことを知らしめ,ホーム・ルールは帝国解体を招く,といった主張を語りがたく した 1 4 5 ) 。 さらに,保守党政権が推進した「建設的ユニオニズム」路線は膨大な費用を必要としたため, 連合王国の他の構成部分が蔑ろにされているとの批判が浮上する。保守党統治によるく救出〉 という展望に,異議が突きつけられたのである。しかも, 結は, 1898 年 の 地方 自 治 法 に よ っ て , I建設 的 ユ ニ オ ニ ズ ム 」 の 1 つ の 帰 ア ル ス タ ー を 除 く ア イ ル ラ ン ド の 地方 自 治体 を ナ シ ョ ナリストに掌握させることであった。 1 906年以降の自由党政権下においてもアイルランドに 投入される予算が膨張をつづ、けた点に変わりはなく ( 1 895年から 1 9 1 0年にかけて 90 % 増 ) ,ホー ム・ルール運動が衰退の兆しを見せている中でアイルランドへの歳出が増大して~ )く事実に対 して,批判が急速に高まることになる。以上のような事態が積み重なった結果, 1 つ の 疑問 が 顕在化してきたのは当然のことであった。すなわち,ユニオニズムはなにを守るのか,である。 土地法で私有財産権が動揺させられ,ナショナリストが地方自治体を支配し,膨大な国家予算 の投入が必要となるアイルランドとのユニオンを維持することに,どんな意味があるのか? ホーム・ルールを与えても,帝国体制は揺らがないのではないか? こ う し た 新 た な コ ン テ ク ス ト の 中 で , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 は ~ 1 4 6 ) ) か な る 変 容 を 見 せ た だ ろ う か ? こ の 点 に つ い て 充 分 に 議 論 す る こ と は 本 稿 の 課 題 で は な い が , お そ ら く エ モ ー シ ョ ナ ル な 性 格 を ま す ま す 強 め た の で は な い か , と の 見 通 し だ け 提 示 し て お き た し 」 帝 国 や 私 有 財 産 権 と い っ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 の 論 点 が 機 能 し な く な っ た 以 上 , 受 け 手 の 情 緒 へ の ア ピ ー ル に い よ い よ 依 拠 せ ざ る を え な か っ た は ず だ か ら で あ る 。 ま た , 第 3 次 法 案 が 焦 点 化 し た 時 期 に は , 二 極 構 造 の 一 方 を 担 う ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト の 存 在 が 1 88 0 ""' 90 年代 と は 比 べ も の に な ら な い く ら い ク ロ ー ズ ・ ア ッ プ さ れ , ユ ニ オ ン を 擁 護 す る こ と と ア ル ス タ ー の 利 益 を 守 る こ と 9 9 人文学報 とが,ホーム・ jレール反対論の中で徐々に同一視されていく。ユニオニズムのくアルスター 化〉である Oそして, <潜在的犠牲者〉は従来以上に戦闘的な存在になっていた。彼らが口に するく内戦の決意〉は,アルスター義勇軍というかたちで,現実的な裏づけを与えられるので ある。 1 9 1 0年代の新たな状況において,ホーム・ルール反対論は,基本的な二極構造を維持 しつつ,く潜在的犠牲者〉への思い入れをいっそう強め,彼らの戦闘的なく内戦の決意〉に同 調する方向で語られることになるだろう 147)。 注 1) David Paterson , Conservatism , 1846-1905 , Oxford , 2001, p p .1 2 7-9; Liberalism αηd t u a r tB a l l (eds.) , C o n s e r v a t i v eC e n t u r y :TheC o n s e r v a t i v eP a r t ys i n c e AnthonySeldon& S 1900, Oxford , 1994, p p .1 7-9;DuncanWatts , Tories, Conservatives αnd 1914, London , 1994, p .1 1 6 ;P a u lAdelman , Gladstone , D i s r a e l i& 3rd edn. , Harlow , 1997, p p .6 4-6;N e v i l l eKirk , Chαnge, Lαter Unionists , 1 8 1 5 Victori,αn Politics , C o n t i n u i t yαnd C l a s s :Labouri n B r i t i s hSociety , 1 8 5 0-1920 , Manchester , 1998, p .2 0 0 ;RohanMcWilliam , P o p u l a rP o l i t i c si n N i n e t e e n t h C e n t u r yEngland , London , 1 9 9 8 ( 松 塚 俊 三 訳 「 十 九 世 紀 イ ギ リ ス の 民 衆 と 政 治 文 化 : ホ ブ ズ ボ ー ム , ト ム ス ン , 修 正 主 義 を こ え て 」 昭 和 堂 , ‘ Popu lar 2004 年) , p .9 3 ; Martin Pugh , Conservatismi nB r i t a i n :C o n t i n u i t yandChange , 1 8 8 0 1987', J o u r n a 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PL G と 略記 ) , 5) Adelman , o p .cit., p p .6 4-6;Paterson , 。ρ. 1 3Aug.1 8 9 2 . cit., p .1 2 8 . r i t i s h n e s ss i n c e1870, London , 2004, p p .9 5-6;JohnBelchem , Class, P a r t y 6) P a u lWard , B αn d t h eP o l i t i c a l System i n Britain , 1867-1914 , Oxford , 1990, p .2 3 ; Andrew Gamble , BetweenEuropeandAmericα : TheF u t u r eo fB r i t i s hPolitics , Basingstoke , 2003, p p .1 6 2-5, -100- 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小関 ) p .1 7 2;E .H .H .Green , TheC r i s i so fC o n s e r v a t i s m :ThePolitics , t h eB r i t i s h Conserv C o n s e r v a t i v e αtive Economics αnd I d e o l o g yo f Party , 1 8 8 0-1914 , London , 1995, p p .6 3-8;Robert Blake , The from P e e l t o Churchill , London , 1970, p .1 6 2 ; Bruce Coleman , P,αrty C o n s e r v a t i s mandt h eC o n s e r v a t i v eP a r t yi nN i n e t e e n t h C e n t u r yBritain , London , 1988, p p . 1 8 6-9;C a t r i o n aBurness , ‘The Makingo fS c o t t i s hUnionism , 1 8 8 6-1914' , S t u a r tB a l l& I a nH o l l i d a y (eds.) , Mα ss Conservαtism: TheConservatives London , 2002, p p .1 7-8;Robin Wilson , ‘Imperialism t h eP u b l i cs i n c et h e1880s, αnd i nc r i s i s :t h e “ Irish dimension"' , MaryLangan& B i l lSchwarz (eds.) , C r i s e si nt h eB r i t i s hSt αte , 1 8 8 0-1930 , London , 1985, p .1 5 1;Paterson , o p .cit. , p p .2 1 2-6;Seldon& Ball , o p .cit. , p .1 9 ;Watts , o p .cit., p .1 1 6 .I ユ ニ オ ニ ス ト J の 呼 称 、 は , 保 守 党 単 独 を 指 す こ と も あ れ ば , 保 守 党 と リ ベ ラ ル ・ ユ ニ オ ニ ス 卜 の 総 称 と し て 用 い ら れ る こ と も あ る 。 7) MartinPugh , TheT o r i e sα nd t h ePeople, 1 8 8 0-1935 , Oxford , 1985, p .1 6 ;G .E .Maguire , C o n s e r v a t i v e Women: A H i s t o r yo f Women and t h e Conserv 持 」 を 3 大 目 標 と し て 1 883 年 を 迎 え る 頃 に は 約 11月 17 日 に 設 立 さ れ た リ ー グ は , I 宗教, 1891 1 50 万 の メ ン バ ー を 擁 す る に 至 っ た 。 Party , 1 8 7 4-1997 , αtive Basingstoke , 1998, p .4 7 ;Pugh , ‘Popular Conservatism' , p . 2 5 9 . 国制 , 帝 国覇権 の 護 年 に は 約100 万, 20 世紀 1913 年 ま で は 保 守 党 か ら 形 式 的 に は 独 立 し た 団 体 で あ っ た が , 実 際 に は 保 守 党 に き わ め て 従 順 で あ り , < 保 守 党 支 配 の 時 代 〉 に お い て , 「 保 守 党 指 導 者 が 党 へ の 支 持 を 獲 得 ・ 確 保 し よ う と す る 際 の 主 要 な 武 器 」 の 役 割 を 果 た し た こ と は 間 違 い な い 。 初 期 の リ ー グ に つ い て は , 小 関 隆 「 プ リ ム ロ ー ズ の 記 憶 : コ メ モ レ イ ト さ れ る デ ィ ズ レ イ リ J ~ 人 文 学 報 8) John Kendle j 89 号, , Ireland αnd 2003 年 1 2 月, 第 3 ・ 第 5 節。 t h eF e d e r a lS o l u t i o n : TheDeb αte o v e rt h eU n i t e dKingdom Constitution , 1870-1921 , Kingston , 1989, p.45 , p . 4 9 ; A.J. Ward , TheI r i s hC o n s t i t u t i o n a l T r a d i t i o n :Res ρonsible Government αnd ModernIreland , 1 7 8 2-1992 , Dublin , 1994, p p .7 3-5; O'Day , o p .cit. , p p .9-10, p p .1 6 1-3 . 9 ) 第 1 節 に か か わ る 主要 な 論点、 に つ い て の ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 の 議論 は , 概 ね 以 下 の よ う で あ っ た 。 ホ ー ム ・ ル ー ル が 意 図 し て い る の は 連 合 王 国 体 制 を 強 化 す る こ と で あ る 。 な ぜ な ら , ホ ー ム ・ ル ー ル は 連 合 王 国 体 制 へ の ア イ l レ ラ ン ド 人 の 忠 誠 を 育 み , 現 状 で は 「 紙 の 上 の ユ ニ オ ン 」 で し か な い も の を , I心情 に お け る ユ ニ オ ン 」 にす る か らであ る。 し た が っ て, アイ ルラ ン ド の 連 合 王 国 か ら の 分 離 独 立 に つ な が る ど こ ろ か , 分 離 の 要 求 を 鎮 静 化 し , 分 離 を 防 止 す る こ と が ホ ー ム ・ ル ー ル の 役 割 で あ る 。 も ち ろ ん , 分 離 を 望 む 者 も 存 在 し な い わ け で は な い が , パ ー ネ ル に 率 い ら れ た ナ シ ョ ナ リ ス ト の 多 数 派 は ダ ブ リ ン 議 会 に お い て 分 離 の 要 求 を 抑 え 込 む だ ろ う 。 ホ ー ム ・ ル ー ル が 連 合 王 国 体 制 を 崩 壊 さ せ な い 以 上 , そ れ は 帝 国 統 合 に ダ メ ー ジ を 与 え る こ と も な ~ \ 。 む し ろ , ホ ー ム ・ ル ー ル は , ア イ ル ラ ン ド 人 か ら 「 イ ン ペ リ ア ル な 愛 国 主 義 」 を 引 き 出 し て 帝 国 の 強 化 に 貢 献 す る し , ア イ ル ラ ン ド 統 治 を め ぐ っ て 国 際 的 に 失 墜 し て い る 「 ブ リ テ ン の 名 誉 」 を 回 復 さ せ る こ と に も な る 。 は MGと田 αnd Times , B~己), 4 Jan. , 1 0May1 8 8 6 ;M a n c h e s t e rGu αrdian (以下で 9Feb. , 8, 9, 2 2Apri l, 8, 14, 1 9June1 8 8 6 ;A n t o i n e t t eBurton (ed.) , P o l i t i c s Em 1 0 1 人文学報 ModernI:γeland , London , 1980, p .5 0 ;AlvinJackson , HomeR u l e :AnI r i s hHistory , 1800ュ 2000, London , 2003, p .8 2;O'Day , o p .cit. , p p .1 1 1-2, p .1 2 5 . 1 0 ) Times , 3June1 8 8 6 ;PLG , 1 8March1 8 9 3 ;MG , 1 5F e b .1 8 8 6 ;R .F .Foster , LordRαndol ρh C h u r c h i l l :A P o l i t i c a lLi f e , Oxford , 1981, p .2 5 4 ;Gamble , o p .cit., p .5 2 ;Hepburn , o p .cit. , p . 4 9 . 0J a n . 1887, Primrose League Papers 1 1 ) GrandC o u n c i lMinute Book , 2 Library , , vo. l2, B o d l e i a n Oxford;England , 5Sept .1885, 2 6June1 8 8 6 ;A .V .Dicey , England 旨Case HomeRule , London 1886, p.26 1, p .2 8 7 ;C h r i s t o p h e rHarvie , .V .D i c e yandIreland JamesBryce , A , 1 8 8 0-188 359, A p r i l1976, p a s s i m ;AlanO'Day , ‘Home 7' , E n g l i s hH i s t o r i c a lReview , vo. lXCI, n o . 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G l a d s t o n e ' sI r i s hPI αrli I sIt αment: Settlement? , London , n .d., p .2;Dicey , o p .cit., p . α F i n a l vii , p p .1 7-9, p p .2 2 6-7;AlanO'Day , TheE n g l i s hF.αce o fI r i s hN a t i o n a l i s m :P a r n e l l i t e I n v o l v e m e n ti nB r i t i s h Politics , 1 8 8 0~ 86, Dublin cit. , p .3 7;HughCunningham , 1977, p .8;Pearce , o p .cit. , p p .7 4-8; C o n s e r v a t i v eP a r t yandPatriotism' , Robert Col I s& P h i l i pDodd (eds.) , E n g l i s h n e s s :P o l i t i c sandCulture , 1 8 8 0-1920 , London , 1986, p . Kendle ,oρ. , ‘The 2 8 6 . 4A p r i l1886, PrimroseLeaguePapers , vo. l 1;P r e c e p tt o 1 4 ) GrandC o u n c i lMinuteBook , 1 t h e Members o ft h e Primrose League PrimroseLeaguePapers , , i s s u e d by t h e Grand Council , 1 5 June 1886, vo. l 2;MG , 2 4F e b .1 8 8 6 ; Times , 1 0May1 8 8 6 ;PLG , 5 Nov. 1 8 8 7 . 1 5 ) Times , 1 7June1 8 8 6 . 1 6 ) PrimroseLeague , TheP r i m r o s eLe αgue U n i o n i s tAssociation Smith , , E l e c t i o nGuide , London , 1914, p p .1 0 5-6;L i b e r a l O p i n i o n so fEminentLi TheT o r i e sandI r e l a -102- ber,α l Authors , London , n.d. , p .2;Jeremy 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関 ) o p .cit. , p .8 3 . 1 8 ) Dunne , o p .cit., p p .1 4 6-7;Robb , 0ρ. cit., p .1 8 8 ;Blake , o p .cit., p .1 6 0 ;Green , o p .cit. , p p . p .cit., p .2 3;G'Day , I r i s hHomeRule , p p .1 1 2-3;G'Day , TheE n g l i s hFace 8 5-6;Belchem , o o fI r i s hNαtion αlism , p .8;Pearce , o p .cit., p .1 4 2 ;GrahamDavis , 。ρ. cit. , p .2 0 3 . 1 9 ) Times , 2 0April , 3June1 8 8 6 . 2 0 ) 1887 年 1 0 月 の 創刊 当 初 は 週刊 , リ ム ロ ー ズ ・ レ コ ー ド ~ 1893 年 9 月 以 降 は 月 刊。 価格 は l (注 5 1 参照) と の 関係 が 険悪化 し た こ と が , と い う 気 運 が 高 ま っ た 直 接 的 な 原 因 で あ っ た 。 発 行 部 数 ペ ニ 。1887 年 1 月に 「 フ。 独 自 に 機 関紙 を 発行 し よ う 5, 0 0 0 で ス タ ー 卜 し た も の の , メ ン バ ー へ の 浸 透 は は か ば か し く な く , 支 部 役 員 さ え 購 読 し て い な い と い う 指 摘 も あ っ た 。 G ra n d C o u n c i lMinuteBook , 6 J a n .1887, PrimroseLeaguePapers , vo. l 2;G a z e t t eCommittee Minute Book , 14, 2 8 Sept . 1887, Primrose League Papers , vo. l1 4 ;L a d i e s ' Executive 6June1896, PrimroseLeaguePapers , vo. l1 3 ;GrandC o u n c i l CommitteeMinuteBook , 2 l3;PLG , 9June1888, 1 9Sept . MinuteBook , 2 May1901, PrimroseLeaguePapers , vo. 1 8 91 . 21 ) PLG , 1Sep . t1 8 8 8 . 22) 第 2 節 に か か わ る 主 要 な 論点 に つ い て の ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 の 議論 は , 概 ね 以 下 の よ う で あ っ た 。 パ ー ネ ル が 率 い る 多 数 派 の ナ シ ョ ナ リ ス ト は , rセ ク タ リ ア ニ ズ ム の脅 し 」 に も 「フ ィ ニ ア ン の 反 乱 」 に も 「 秘 密 結 社 の 拡 大 」 に も 依 ろ う と し な い , 法 や 秩 序 を 尊 重 す る 人 々 で あ り ( 議 事 妨 害 の よ う な 好 ま し か ら ざ る 行 動 も と る が ) , く 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 と の イ メ ー ジ は ご く 少 数 の ナ シ ョ ナ リ ス ト に し か 適 用 で き な い 。 ア イ ル ラ ン ド の 「 正 統 的 代 表 J で あ る ナ シ ョ ナ リ ス ト が 掲 げ る ホ ー ム ・ ル ー ル の 要 求 は , ア イ ル ラ ン ド の 多 数 派 世 論 に 支 持 さ れ て い る O ま た , ア イ ル ラ ン ド 人 カ ソ リ ッ ク は ま ず な に よ り も ヨ ー ロ ッ パ 人 の 一 員 で あ っ て , そ れ ゆ え 彼 ら は , ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト に 劣 る こ と な く , 自 治 能 力 を 備 え て お り , ホ ー ム ・ ル ー ル を 通 じ て 責 任 と 権 力 を 担 う こ と で , 自 由 と 国 制 に 相 応 し い 存 在 へ と 進 歩 し て い く こ と が で き る O 仮 に 現 時 点 で な ん ら か の 問 題 点 が ア イ ル ラ ン ド 人 カ ソ リ ッ ク に 見 出 さ れ う る に せ よ , そ れ は 人 種 や 宗 教 よ り も ブ リ テ ン 支 配 の 歴 史 に 由 来 す る の で あ る か ら , 彼 ら を 劣 等 視 す る の は 間 違 っ て い る 。 MG , 9 Feb. , 9, 2 2April , 1 4June1 8 8 6 ;D .G .Boyce , ‘In t h eFrontRanko ft h eN a t i o n :Gladstoneand 8 6 8-1893', DavidBebbington& RogerS w i f t (eds.) , G l a d s t o n e t h eU n i o n i s t so fIreland , 1 Centen Essays , Liverpool , 2000, p p .1 8 8-9;L .P .Curtis , Jr. , Anglo-Sαxons andC e l t s :A αry S t u d yo fA n t i I r i s hP r e j u d i c ei n Victori Romani , Nαtionαl Char,αcter αnd α n P u b l i cSρirit England , Bridgeport , 1968, p p .9 8-1 0 0 ;Robert i nBr it, αin αnd France, 1750-1914 , Cambridge , 2002, p.202 , p p .2 2 4-6;S t e v eGarner , Racismi nt h eI r i s hExperience , London , 2004, p p . 1 3 5-7. ただ し, チ ャ ー ル ズ ・ デ ィ ル ク や エ ド ワ ー ド ・ フ リ ー マ ン を は じ め と し て, 人種論 を 精 力 的 に 展 開 す る ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 も 存 在 し た の で あ り , 人 種 主 義 的 な ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 派 , 人 種 主 義 を 否 定 す る ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 , と い う 図 式 は 成 立 し が た い 。 P e a rc e, o p .cit., p .1 4 8; Dunne , o p .cit., p p .1 6 6-8 . 2 3 ) 1878 年 か ら79 年に か け て, さ ま ざ ま な 不一致 を 残 し な が ら も , そ し て フ ィ ニ ア ン の 協 力 関 係 が 形 成 さ れ た チ ャ ー 」 の 具 体 化 と し て , (=r ニ ュ ー ・ デ ィ パ ー チ ャ ー 1879 年 1 0 Engl αnd , 農民運動, J) o rニ ュ ー ・ デ ィ パ ー 月 に は パ ー ネ ル を 会長 と す る 土地 同 盟 が 設立 さ れ , 導 の 下 で , 借 地 農 が 主 た る 担 い 手 と な る い わ ゆ る 土 地 戦 争 が 高 揚 し て し 2 4 ) ナ シ ョ ナ リ ス ト 党, 1く。 1 4June1 8 8 -103 そ の指 人文学報 A p r i l1890, 2 5Apri l, 1 7Oct .1 8 91 . 2 5 ) 1882 年 1 0 月 に そ れ ま で 土地戦争 を 指導 し て き た 土地 同 盟 に 代 わ っ て 設立 さ れ, カ ソ リ ッ ク教 会 の 支 持 も 得 て , ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 の 選 挙 区 組 織 と し て 機 能 し た 団 体 。 ナ シ ョ ナ リ ス 卜 党 に 対 す る 農 民 運 動 の バ ッ ク ・ ア ッ プ を 確 保 す る う え で , 決 定 的 な 位 置 を 占 め た 。 2 6 ) P r i m r o s eRecord (以下では 2 7 ) 1886 年 か ら1891 1 2June1 8 8 6 ;MG , 15,23 F e b .1 8 8 6 . PRと略記), 年 に か け て 展 開 さ れ た 農 民運動 の 形態。 地代 の 減額 に 応 じ な い 地主 へ の 地代 支 払 い を 拒 否 し , そ の 分 を 「 追 放 」 さ れ た 借 地 農 の 支 援 に 利 用 し た 。 ボ イ コ ッ 卜 戦 術 も 駆 使 さ れ fこ O 2 8 ) PR , 1 5A p r i l1 8 8 6 ; PLG , 2 0 Sept . 1890, 7 J a n .1 8 9 3 ;L i b e r a lU n i o n i s t Association , C o e r c i o ni nIrel αnd; o rWhyt h eCrimeActWα s Passed , London , n .d. , p p .1-4. 図版 ① は , 実際にはく暴力的〉な土地同盟(アイルランド版キャリパン)が穏健であるかのように強調して, 農民運動との連携を強めようとするパーネルを描く。 ' C ro w n i n g t h e O'Caliban' , Punch , 2 2 D e c .1 8 8 3 . 2 9 ) Michael d e Nie , The Etern I r i s hI d e n t i t y α nd t h eB r i t i s hP r e s s .1 7 9 8-1882, αl Rαddy: Madison , 2004, p p .2 4 8-5 1 ;L .P .Curtis , J r., Cα ricα tu re , Aρes andA n g e l s :TheI r i s h m a ni n Victori NewtonAbbot , 1971, p .3 8 ;Curtis , Anglo-Sαxons αnd Celts , p.25. さ ら に, αn 1 8 8 4 年 か ら 翌 年 に か け て , 庶 民 院 や ロ ン ド ン 塔 を 標 的 と し た ダ イ ナ マ イ ト 爆 破 事 件 が つ づ い た 事 実 も , ナ シ ョ ナ リ ス ト と 暴 力 と を 結 び 、 つ け る こ と を 容 易 に し た 。 1 884 年 2 月 26 日 に ヴ ィ ク ト リ ア 駅 で 発 生 し た 爆 破 事 件 を 報 じ る 『 イ ン グ ラ ン ド 』 の 記 事 は , 本 文 中 で は 「 フ ィ ニ ア ン J 1ア イ ル ラ ン ドJ と い っ た こ と ば を 一 切 用 い て い な い に も か か わ ら ず , 1 フ ィ ニ ア ン の 蛮 行」 と い う 断定 的 な タ イ ト ル を 跨 踏 な く 掲 げ , ナ シ ョ ナ リ ス ト が 事 件 を 引 き 起 こ し た か の よ う な 印 象 を 伝 え て い る England , 1March1 8 8 4 ;EdwardA .Hughes O , Britain αnd G r e a t e rB r i t a i ni nt h eN i n e t e e n t h Century , Cambridge , 1920, p .1 2 3 . 3 0 ) England , 5Sep t .1885, 9J a n .1 8 8 6 ;Ti mes , 2 8J u l y1 8 9 3 . 31 ) PR , 2 1J a n .1 8 8 6 ;England , 1 0A p r i l1 8 8 6 ;PLG , 1 6F e b .1889, 2 5A p r i l1 8 9 1 ;deNie , 0ρ. cit. , p.213 , p .2 4 8 ;C a t h e r i n eHall , K e i t hMcClelland & JaneRendall , D e f i n i n gt h e Victori αn N a t i o n :Class , Race , Genderandt h eReformActo f1867, Cambridge , 2000, p .2 2 4 ;Pearce , oρ. cit. , p .76. 図版 ② で は , 殺人 を も 厭わ な い ナ シ ョ ナ リ ス ト (I ダ イ ナ マ イ ト ・ ス カ ン ク J) 金 銭 的 に 支 援 す る 者 た ち へ の 対 処 を ア メ リ カ に 要 求 す る ジ ョ ン ・ ブ ル が 描 か れ て い る 。 ‘ を The DynamiteSkunk' , Punch , 1 4June1 8 8 4 . 3 2 ) Times , 2 8Jan. , 1 0May 1 8 8 6 ;I r i s hLoyalandP a t r i o t i cUnion , JohnDeasy , M.P., i n Ireland , Dublin , 1887, p .1 L i b e r a lU n i o n i s t Association , Whαt t h eP a r n e l l i t e s Pre αch , London , n .d., p p .2-4 . 3 3 ) 1890 年 11 月 , パ ー ネ ル の 政治 的盟友 で あ っ た ウ ィ リ ア ム ・ へ ン リ ・ オ シ エ と 妻 の 離婚訴訟 に 際 し て , パ ー ネ ル が オ シ 工 夫 人 キ ャ サ リ ン と 10 年 来 の 関 係 を つ づ け て き た 事 実 が 露 呈 し た 。 ノ f ー ネ ル が 党首 に 留 ま る 限 り 自 由 党 と ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 の 同 盟 関係 は あ り え な い と す る グ ラ ッ ド ス ト ン の 意 向 を 受 け な が ら も , パ ー ネ ル は 党 首 の 座 を 退 く こ と を 拒 否 し , 結 果 的 に ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 は 分 裂 し た 。 3 4 ) PLG , 2 9 Nov. , 2 0D e c . 1890, 2 0May 1 8 9 3 ;Smith , Britain αnd Ireland , p .3 9 ;Paterson , o p .cit., p p .2 1 7-8 . 3 5 ) MG , 2 4F e b .1 8 8 6 ;deNie , 0ρ. cit., p p .2 0 8-1 0 ;R .E .Quinault , ‘Lord RandolphC h u r c h i l l 1 0 4 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関) andHomeRule' , AlanO'Day (ed.) , Reαctions t oI r i s hNation 5;Dicey , o p .cit. , p .2 5 5;Curtis , Anglo-Sαxons αnd , London , 1987, p p . 3 2 4 Celts , p .5 1 ;Romani , aρ. cit., p p .2 0 1-2; Boyce , ‘In t h eFrontRanko ft h eNation' , p p .1 8 8-9. ちでも最もセンセイショナルに遂行されたのが, αlism ナ シ ョ ナ リ ス ト へ の レ ッ テ ル貼 り の う 1887 年3 月 に 『 タ イ ム ズ』 が 開始 し た 「パ ー ネリズムと犯罪Jキャンペーンであるが,このキャンペーンについては別稿を用意したい。 3 6 ) Times , 2 7May 1886. 図版 ③ は , ア イ リ ッ シ ュ ・ ハ ー プ の傍 ら で眠 る ヒ ベ ル ニ ア に 襲 し 、 か か ろうとする国民同盟という煽幅=吸血鬼(顔はパーネル)を描き,世論とナショナリストが現実 には対立していることを示す。‘ The I r i s h“ Vampire"', Punch , 2 4Oct .1 8 8 5 . 3 7 ) PLG , 8 N ov.1 8 9 0 . 3 8 ) Times , 2 0A p r i l1 8 8 6 ;MG , 15, 2 4Feb. , 2 9A p r i l1 8 8 6 ;Curtis , Anglo-Sαxons αnd Celts , p p . 5 4-5;Gamble , o p .cit. , p .5 4 ;deNie , aρ. cit. , p p .2 0 4-5 . 3 9 ) Times , 2 7May1 8 8 6 ;L ibe r alU n i o n i s tAssociation , F a c t so nt h eI r i s hQuestion , London , n.d. , p p .1-4 . 4 0 ) PR , 3 0J u l y1885, 2 5Feb. , 8 May1 8 8 6 ;Engl MG , 2 3F e b .1886. 図版 ④ は , αnd , 19, 2 6June1 8 8 6 ;PLG , 2 2J u l y1 8 9 3 ; グ ラ ッ ド ス ト ン に 迫 る 誘惑 の 中 で も 最大 の も の が, 穏 や か な 仮面 の 下 に 停 猛 な 表 情 を 隠 す 「 分 離 主 義 者 」 に よ る ホ ー ム ・ ル ー ル と い う 誘 惑 で あ る こ と を 描 い て い る。‘ T e m p ta t i o n o ft h eGoodSt .Gladstone' , Punch , 8J a n .1 8 8 6 . ) Times , 1June1 8 9 3 ;PLG , 1 7J a n .1 8 9 1 ;MG , 2 7A p r i l l 8 8 6 . 41 4 2 ) Times , 2 7May1886, 1 4Aug.1 8 9 3 . 1886 年 4 月 2 8 日 に マ ン チ ェ ス タ ー で聞かれ た ア イ ル ラ ン ド 忠 誠 愛 国 同 盟 の 集 会 に は ホ ー ム ・ ル ー ル 支 持 者 が 介 入 し て き た が , ; 寅 壇 か ら は , Iパ ー ネ ル 氏 の 手 先 」 の こ う し た 行 動 こ そ , ホ ー ム ・ ル ー ル が も た ら す く 圧 制 〉 を 先 取 り す る も の で あ る , と い う 趣 旨 の 発 言 が 相 次 い だ 。 「 彼 ら は 今 , 自 由 な イ ン グ ラ ン ド に お け る 公 共 的 な 討 論 を 抑 え つ け る た め に こ こ に 来 た の で す 。 彼 ら の 武 器 は ア メ リ カ の 暗 殺 者 の ラ イ フ ル で あ り 短 剣 で す 。 . . 彼 ら が こ ん な こ と を す る の は , ダ イ ナ マ イ ト を 使 っ て ロ ン ド ン ・ ブ リ ッ ジ や 庶 民 院 を 爆 破 し た の と 同 じ 狙 い の た め で す 。 そ れ は 同 じ ゲ ー ム の 一 環 な の で す 。 ブ リ テ ン 流 の 自 由 を , ブ リ テ ン の 力 を , そ し て す べ て の 知 的 な 自 由 を 破 壊 す る こ と を , 彼 ら は 望 ん で い る の で す 。 J MG , 2 9A p r i l 1 8 8 6 . 4 3 ) λ iG , 2June1 8 8 6 . 4 4 ) Ti mes , 1 5Jan. , 2 7May1886, 1 4June1 8 9 3 ;DavidHempton , R e l i g i o nαndρ o litica l c u l t u r e i nB r i t a i nandI r e l a n d :Fromt h eG l o r i o u sR e v o l u t i o nt ot h ed e c l i n eofempire , Cambridge 1996, p .1 0 7 ; Parnellism , Foster , 。ρ . cit. , p p .2 5 3-4; James Loughlin monarchyandt h ec o n s t r u c t i o no fI r i s hidentity , , , and Loyalty 割 引ionality 1 8 8 0-5"D .GeorgeBoyce& AlanO'Day (eds.) , I r e l a n di nTransition , 1867-1921 , London , 2004, p .4 8 . o l i t i c si nBrit 4 5 ) Shamit Saggar , RaceandP U l s t e rUnionismandB r i t i s hNation αl αin , New York , 1992, p .3 2 ;JamesLoughlin , I d e n t i t ys i n c e1885, London , 1995, p .1 0 ;JohnTurner , ‘Let tin g g o:TheC o n s e r v a t i v eP a r t yandt h eendo ft h eUnionwithIreland' , Alexander e i t hJ .S t r i n g e (eds.) , U n i t i n gt h eKingdom?:TheMαking Grant & K London , 1995, p .2 6 0;DavidPowell , N a t i o n h o o dandI d e n t i t y :TheB r i -105 o fB r i t i s hHistory , 人文学報 o p .cit. , P P .2 0 2-3;deNie , o p .cit. , p p .5-13 , p p .2 6 7-8, p p .2 7 5-6;Curtis , A nglo-Saxons Celts , p.34 , c h a p s .8-9;Garner , o p .cit. , p p .1 2 3-4, P P .1 2 7-8, p .1 3 5 ; Paul Ward , αnd ‘Nation alis m andN a t i o n a lIdentity' , p .2 1 3 . fSalisbury , 1881-1902: UnionismandEmpire , London , 4 6 ) Richard Shannon , TheAgeo 1996, p p .201-2;O'Day , I r i s hHomeRule , p p .1 1 5-6;Coleman , o p .cit. , p p .1 7 4-5;Garner , o p .cit. , p .1 2 7 ;Curtis , Anglo-Sαχons andCelts , p p .1 0 2-3 . ) Curtis , Anglo-Sαxons andCelts , p p .5 1-2;Cunningham , TheC h a l l e n g eo fDemocracy , p . 47 1 9 5 . 4 8 ) PR , 2 2 Oct .1 8 8 5 ;PLG , 5 Nov. 1887, 4 June 1 8 9 2 ;England , 1 5May 1 8 8 6 ;Reginald fR a c i a lAnglo-Saxonismi nGreatB r i t a i nb e f o r e1850', Journαl o ft h e Horsman , ‘Origins o H i s t o r yofIdeas , vo. lXXXVII , no.3 , J u l y-Sept .1976, p p .3 9 0-9, p p .4 0 5-7;Curtis , Angloュ Sα xons α nd Celts , p p .5-6, p p .1 1-2, p p .2 8-9 .p p .6 9-7 0 ;de Nie , o p .cit. , p p .2 2-4, p p . 2 6 7-8, p .2 7 1;Cunningham , TheCh αllenge o fDemocracy , p .1 8 3 . 4 9 ) PLG , 3D e c .1887, 1 8March1 8 9 3 . 5 0 ) MG , 2 9A p r i l1 8 8 6 ; PLG , 7 May 1 8 9 2 ; England , 1 7J u l y1 8 8 6 ; Dicey , 0ρ. cit. , p .1 4 5; p .cit. , p .1 3 1;Loughlin , U l s t e rUnionismαnd B r i t i s hN a t i o n a lIdentity , p p .2 3-4 . MacRaild , o 51 ) Times , 1 5A p r i l1 8 8 6 ;MG , 1 8Feb. , 2 7Apri l, 2 June1 8 8 6 ;Loughlin , ‘Nationality and p .4 8-9;Loughlin , U l s t e rUnionismandB r i t i s hN a t i o n a lIdentity , p .1 2 ;Curtis , Loyalty' , p Anglo-Saχons αnd Celts , p .2 6 ;O'Day , TheE n g l i s hFaceo fI r i s hNationalism , p p .1 2 0-5; p .cit. , p p .1 3-7, p p .2 6 7-8, p p .2 7 5-6;Garner, de Nie , o 。ρ. cit. , p p .1 1 4-6;H a l le t a I., o p .cit. , p p .2 1 0-1;Hempton , 0ρ. cit. , p p .1 4 6-8;Smith , TheT o r i e sαnd Ireland , p p .1 0-1 . カ ソ リ ッ ク な い し 「 パ デ ィ 」 を ア イ デ ン テ ィ フ ァ イ す る に あ た っ て は , 人 種 と 宗 教 の 他 に も , 階 級 を は じ め と す る 複 数 の フ ァ ク タ ー が 欠 か せ な か っ た 。 ホ ー ム ・ ル ー ル と の か か わ り に お い て 彼 ら の く 劣 等 性 〉 を 論 ず る 場 合 , 圧 倒 的 に 活 用 さ れ た の は 人 種 と 宗 教 と い う 切 り 口 で あ っ た が , そ れ で も , 零 細 農 民 ( 借 地 農 ) と し て カ ソ リ ッ ク を 性 格 づ け る レ ト リ ッ ク も 珍 し い も の で は な か っ た 。 一 例 と し て , ~ プ リ ム ロ ー ズ ・ レ コ ー ド 」 に 見 ら れ る 「 ア イ ル ラ ン ド 人 零 細 農 民 」 の 叙 述 を 挙 げ て お く 。 「 ア イ ル ラ ン ド 人 零 細 農 民 は い つ も ト ッ プ ・ ハ ッ ト に ド レ ス ・ コ ー ト を 身 に つ け て 仕 事 に 行 く 。 イ ン グ ラ ン ド の 労 働 者 が 朝 の 6 時 に は 仕 事 場 に い る の に 対 し パ ト リ ッ ク が 8 時 半 よ り 前 に 仕 事 を 始 め る こ と は 稀 で あ る 。 パ ッ ト は い つ で も ア イ リ ッ シ ュ ・ ジ ン ト ル マ ン " g i n t l e m a n " 量 の I ri s h なのであ る。 1 /3 ・・・… パ ッ ト は イ ン グ ラ ン ド の 農 業労働者 だ っ た ら 収穫 す る で あ ろ う し か 土地 か ら 引 き 出 さ な い 。 そ し て, ア イ ル ラ ン ド 人の キ ャ ラ ク タ ー に 関 し て は ウ イ スキーのボトルが重要な位置を占めており,このことには聖職者もかかわりをもっている o アイルランドの労働者は例外的な生き物である。彼は,自分が耕作している土地が自分のものに なるだろうと信じているばかりでなく,まったく耕作することなしに土地は自分が求めるものを 産出すべきだと確信している O ……地代を支払わねばならないとは思っていないので,彼らは 土地が利潤をあげるようにと努力することは時間と労力の浪費だと結論したのだ。その結果, ジェンティリティに相応しく半ば飢えながら,そして,セント・パトリックを讃え, ~ 1 0 6 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) 降はリーグ指導部の「パ卜ロネジの下」に置かれるが, 1886 年5 月 に ハ ー テ ィ ン ト ン を 攻撃 す る記事を掲載したことをきっかけに,このパトロネジは撤回される。 関係はさらに険悪化する。 Gran d 1 88 7年 l月には,両者の C o u n c i lMinuteBook , 5May1886, 6J a n .1887, Primrose LeaguePapers , vo. l 2; PR , 1May , 1 1Sept .1886, 1 5J a n .1 8 8 7 ;deNie , op‘cit. ,p p .4~ 5, p . 2 4 . r i s hH i s t o r i c a lDocumentss i n c e1800, Dublin , 5 2 ) AlanO'Day & John Stevenson (eds.) , I p .1 2 7 ;Jeremy Smith , ' C o n s e r v a t i v eI d e o l o g yandR e p r e s e n t a t i o n so ft h eUnion with Ireland , 1 8 8 5-1914' , Martin F r a n c i s & I n a Zweiniger-Bargielowska (eds.) , The Conserv αtives αnd B r i t i s hSociety , 1 8 8 0-1990 , Cardiff , 1996, p p .2 2-4;deNie , aρ. cit吋 p .264, p p .2 7 5-6;Gamble , o p .cit. , p .6 4 ; Loughlin , ‘Nationality p. 2 1 7, and Loyalty' , p .4 6 ; Jackson , ‘Ireland , t h eUnion , andt h eEmpire' , p p .1 2 4-5, p p .1 5 0-1 . 5 3 ) MG , 1 4June1 8 8 6 ;I r i s hLoyalandP a t r i o t i cUnion , G o l d w i nS m i t haη Mr. G l a d s t o n e' s Scheme , Dublin , 1887, p p .6-7;L ibe r alU n i o n i s tAssociation , Diαlogue b e t w e e naR a d i c a l Nonconformist , John, 。ρ. and αHome Ruler , William , London , n.d. , p p .2-3;John Davis , cit., p .3 5 ;deNie , aρ. cit. , p p .2 2 2-3;Powell , o p .cit., p p .7 5-6;Curtis , Anglo-Saxons Celts , p.45 , p p .9 8-100;O'Day , I r i s hHomeRule , p p .1 1 2-3;Adelman , Harvie , oρ. aρ. cit., p .3 0 0 ;A . ] . \九 T ard , aρ . aρ. αnd cit. , p p .6 2-3; cit., p p .7 1~ 2;Pearce , o p .cit., p p .1 4 8-9;Dunne , cit. , p .150, p .1 7 2; 安 川 悦 子 『 ア イ ル ラ ン ド 問 題 と 社 会 主 義 : イ ギ リ ス に お け る 「 社 会 主 義 の 復 活 」 と そ の 時 代 の 思 想 、 史 的 研 究 』 御 茶 の 水 書 房 , 1993 年, p.114. ホ ー ム ・ ル ー ル を 支持 し , ア イ ル ラ ン ド の 状 態 を 人 種 論 的 に 説 明 す る こ と を 拒 否 す る 立 場 に あ っ た 歴 史 家 ジ ェ イ ム ズ ・ ブ ラ イ ス に し て も , ア イ ル ラ ン ド 人 を 「 自 制 心 J r穏 当 さ J r相異 な る 目 的 の 相対 的 な 重要性 の 判断 力 」 等 を 欠 い た 「 非 政 治 的 国 民 」 と 捉 え , そ の 自 治 能 力 に 関 し て 重 大 な 留 保 を 表 明 し て い る J amesBryce , Englαnd αnd O I r e l a n d :AnI n t r o d u c t o r yStatement , London , 1884, p p .4 •5 ,p p . 9-10, p p .3 4-5 . 54) 第 3 節 に か か わ る 主要 な 論 点 に つ い て の ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 の 議論 は , あ っ た 。 ア ル ス タ ー に お い て も 選 出 議 員 の 過 半 数 を パ ー ネ 概 ね 以下 の よ う で j レ 派 が 占 め て い る の で あ る か ら , ア ル ス タ ー = ユ ニ オ ニ ス ト と い う 図 式 は 「 フ ィ ク シ ョ ン 」 に す ぎ な し 、 。 つ ま り , ユ ニ オ ニ ス 卜 は ア ル ス タ ー の ほ ん の 一 部 を 代 弁 し て い る だ け で あ る 。 ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト の 多 く は ア イ リ ッ シ ュ ・ ネ イ シ ョ ン の 自 覚 を 共 有 し て お り , 彼 ら も 含 め て ア イ ル ラ ン ド は l つ の 独 自 の 国 民 を 構 成 し て い る 。 そ し て , ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト こ そ が 「 ア イ ル ラ ン ド 社 会 の 本 来 の 指 導 者 」 な の で あ っ て , ブ リ テ ン の 不 当 な 支 配 が 払 拭 さ れ れ ば 、 , 彼 ら は , 者 」 の 伝 統 に 沿 い , 18 世紀 の プ ロ テ ス タ ン 卜 r ポ ジ テ ィ ヴ な 1 8 世紀 的 役割 」 を 果 た し て い く だ ろ う 。 1 レ ー ル に 反対 す る 少数派 の 保護 は 考慮 さ れ る べ き で は あ る が , も ち ろ ん, 「愛国 ホーム ・ そ れ 以 1: :1 こ 尊重 さ れ ね ば な ら な い の が ア イ ル ラ ン ド 全 体 の 多 数 派 の 意 志 で あ り , 少 数 派 の 意 向 が ア イ ル ラ ン ド の 将 来 を 左 右 す る こ と は 間 違 っ て い る 。 少 数 派 こ そ カ ソ リ ッ ク と の 共 存 に 向 け て 努 力 す べ き で あ る 。 MG , 1 2Jan. , 9 8 8 6 ;P h i l i p Lynch , TheP o l i t i c so fN a t i o n h o o d : Sovereignty , Feb. , 9 April , 8 June 1 B r i t i s h n e s s and C o n s e r v a t i v e Politics , Basingstoke , 1999, p . 1 7 ; Alvin Jackson , ‘Iri -107 人文学報 地位を失って以降も,アイルランド教会信徒とプレズビティリアンとの聞には小さくないギャッ プが残されていた。それでも,非国教化がプロテスタントという総括的なタームで語ることを容 易にしたのは事実である。また,アルスターと南部のプロテスタン卜の問,あるいはプロテスタ ン卜の労働者と雇用者の間,等にも対立の火種は存在したが,ことホーム・ルールに強硬に反対 する点では,多様な背景をもっアイルランドのプロテスタントの聞に統一戦線ができていたと考 えてよ L 可。「プレズビティリアンとアイルランド教会信徒,メソディストと他のキリスト教諸派 は,このようなくびきに抵抗するという決意において,初めて堅く結束しています。 J May 1 8 8 6 ;PLG , 7 May 1 8 9 2 ; RonaldMcNeill , U l s t e r ' s Sf αnd Times ,27 f o rUnion , London , 1922, p .1 2 ;PaulBew , I d e o l o g yandt h eI r i s hQ u e s t i o n :U l s t e rUnionismα nd I r i s hNationalism , 1912-1916 , Oxford , 1994, p p .4 0-5;AlvinJackson , ‘Irish unionism' , D .G .Boyce& Alan O'Day (eds.) , D e f e n d e r so ft h eUnion , London , 2001, p p .1 1 7-8;Boyce , Ireland , p p .5 45 . た だ し , イ ン グ ラ ン ド の ノ ン コ ン フ ォ ー ミ ス ト の 多 数 派 は ホ ー ム ・ ル ー ル 支 持 の 立 場 を 採 り , こ の こ と は ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト に と っ て は 背 信 に 他 な ら ず , 深 刻 な 不 信 感 の 根 拠 と な っ た 。 AlanMegahey , ‘ “Irish P r o t e s t a n t sf e e lt h i sb e t r a y a lk e e n l y . . . " :HomeRule , Romer u l e .GeorgeBoyce& RogerS w i f t (eds.) , Problemsα nd P e r s p e c t i v e si n andnonconformity' , D p .1 6 6-71 . I r i s hH i s t o r ys i n c e1800 , Dublin , 2004, p 5 6 ) Times , 1 5J a n . 1886, 7 Sept .1 8 9 3 ;Pearce , 0ρ. cit. , p .7 7 ;Loughlin , U l s t e rUnionismand B r i t i s hNα tiona l Identity , p p . 7-8 . 5 7 ) I r i s hLoyalandP a t r i o t i cUnion , GoldwinSmithonM r .G l a d s t o n e ' sScheme , p . 5;James Loughlin , ‘ “Imagining Uls t e r ":TheNortho fI r e l a n dandB r i t i s hN a t i o n a lIdentity' , S .J . Connolly (ed.) , KingdomsU n i t e d ? :G r e a tBritain αnd 1 1 0 ;Loughlin , U l s t e rUnionismandB r i t i s hNation αlIdentity I r e l a n ds i n c e1500 , Dublin , 1999, p . , p p .2 4-5 . 5 8 ) PLG , 2 7 May 1 8 9 3 ;D .G .Boyce , N i n e t e e n t h C e n t u r yI r e l a n d :TheS e a r c hf o rSt αbility Dublin , 1990, p p .2 0 3-7;Hempton , 0ρ. cit. , p .111, p .1 1 6 ; Loughlin , ‘ “Imagining , Ul ster "', p p .1 1 0-3;P aulWard , B r i t i s h n e s ss i n c e1870 , p p .1 5 8-9. ア イ ル ラ ン ド 忠 誠愛 国 同 盟 が1886 年に刊行したノぐンフレッ卜「ユニオンか,分離か』は, プロテスタント Jに加えて, I人 口 の 1 / 4 を 占 め る ア イ ル ラ ン ド の I人 口 の も う l つ の 1 / 4 を 構成 す る ア イ ル ラ ン ド の リ ス ベ ク タ ブ ルで知的なカソリック」をもナショナリストを支持する勢力から切り離し,ホーム・ルールを叫 んでいるのは, I 自 分 た ち が耕 作 す る 土 地 を , そ れ に 対 し て 支 払 い を す る と い う 通 常行 わ れ る 事 前の手続きなしに白分の所有下に置くことを目指している零細借地農」をはじめとする「人口の 一番下の半分」でしかない,という議論を展開している。自らにとってさらに有利なように二項 対立の境界線を引き,教養や知性,財産や地位を全面的にユニオニズムの属性として描き出す論 法である。 1 9世紀後半のアイルランドを代表する歴史家 W . H .レッキによれば, I ほ と ん どすべ てのプロテスタント,カソリックのジエントリ,専門職に就くカソリックの大部分,カソリック の中流階級の重要な一部,軍隊や警察にいる膨大なカソリック」を包括するユニオンを支持する 少数派(この場合は 1 1 /3J) こ そ , I生来統治 に あ た る べ き 集 団 」 で あ っ た 。 PR , 2 1J a n .1 8 8 6 ; England , 1 6J a n .1 8 8 6 ;I r i s hLoyalandP a t r i o t i cUnion , Uniono rSe ραration -108 ?, 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) 60) オ レ ン ジ ・ オ ー ダ ー の メ ン バ ー を 指 す 通 称。1795 年 に 設立 さ れ た オ レ ン ジ ・ オ ー ダ ー (設 立 当初はオレンジ協会)は,アイルランドにおけるプロテスタン卜支配体制の護持を最大の目的と する秘密結社である。ホーム・ルール問題の浮上とともに,労働者階級や下層中流階級を中心に 急速に組織を拡大・強化し,強硬なユニオニズムを主張する先頭に立った。 61 ) Times , 2 8A p r i l1 8 8 6 . 6 2 ) A l v i nJackson , TheU l s t e rP a r t y :I r i s hU n i o n i s t si nt h eHouseo fCommons , 1 8 8 4-1911 , Oxford , 1989, p .7, p p .1 0-1;Jackson , ‘Irish unionism' , p .1 1 9 ;JohnDavis , o p .cit. , p .3 4 . 6 3 ) Engl αnd , 1 4 June 1884, 2 7F e b .1 8 8 6 ;C h r i s t i n e Kinealy , ‘The Orange Order and r e p r e s e n t a t i o n so fBritishness' , StephenCaunce , EwaMazierska , SusanSydney-Smith , & John K . Walton (eds.) , R e l o c a t i n gBritishness , Manchester , 2004, p p .2 2 5-6;Burness , oρ. cit. , p .3 1;MacRaild , o p .cit. , p .129, p .1 3 6 . e b .1887, PrimroseLeaguePapers , vo. l 2; PR , 5June , 6 4 ) GrandC o u n c i lMinuteBook , 3F 1 6 Oct .1 8 8 6 ; Robb , 0ρ. cit. , p.79 , p p .1 9 4-6;Loughlin , U l s t e r Unionism N a t i o n a lIdentity , p p .3 9-4 0 . 1887 年 3 αnd 月 に ア イ ル ラ ン ド の グ レ ン ギ ア リ 支部 B r i t i s h (キ ン グズ タ ウ ン ) が 支 部 メ ン ノ 〈 ー に プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 祈 り を 強 い て い る 事 実 が 発 覚 し た 際 , リ ー グ 指 導 部 は 支 部 閉 鎖 に よ っ て 厳 し く 対 処 し て い る 。 Grand C o u n c i lMinuteBook , 3March , 5May , 3June , 2 1J u l y1887, PrimroseLeaguePapers , vo. l2 . 6 5 ) PLG , 1 8 March 1 8 9 3 ; Times , 3, 1 1 March 1 8 9 3 ; Cunningham , The Ch αllenge o f p .1 3 4-5 . Democracy , p 6 6 ) Times , 2 0F e b .1 8 9 3 ;PLG , 2 J u l y1 8 9 2 ;PrimroseLeague , o p .cit. , p p .1 1 4-5;Pearce , o p .cit. , p .1 0 5;Foster, 。ρ. cit. , p .2 5 4 . 6 7 ) England , 5S ept .1 8 8 5 ;PLG , 1May1 8 9 5 ;Times , 2A p r i l1 8 9 3 . 6 8 ) PLG , 1 8F e b .1 8 9 3 ;O'Day , I r i s hHomeRule , p .1 6 2 ;Jackson , HomeRule , p .6 2 . p .cit., p.86 , p .1 0 8 ;Hepburn , o p .cit. , p .5 0 ;JohnDavis , o p .cit. , p .3 4 ;Jackson , 6 9 ) Hempton , o HomeRule , p .8 3 ;Boyce , N i n e t e e n t h C e n t u r yIrel αnd , p .1 8 3 ;Boyce , ' I nt h eFrontRanko f p .1 8 9-9 0 ;GrahamDavis , o p .cit. , p .2 0 9 ;A .J .Ward , o p .cit. , p .6 9 ;Loughlin , t h eNation' , p U l s t e rUnionismαnd B r i t i s hNαtion αl Identity , p .2 2;Kendle , o p .cit., p .4 1, p p .4 5~ 6, p .51 . 7 0 ) PR , 2 1J a n .1 8 8 6 ;Times , 1 4May1886,20 F e b .1 8 9 3 . 71 ) I 中 国 の 英雄」 ゴ ー ド ン 将軍 は , ス ー ダ ン で の マ フ デ ィ 教徒 の 反乱 の 際, エ ジ プ 卜 軍守 備 隊撤退 の た め に ハ ル ト ゥ ー ム に 派 遣 さ れ た が , 政 府 の 指 示 に 反 し て マ フ デ ィ 教 徒 撃 退 を 企 図 し 逆 に ハ ル ト ゥ ー ム に 包 囲 さ れ た 。 世 論 の 高 ま り に 抗 し き れ ず , 最 終 的 に 首 相 グ ラ ッ ド ス ト ン は 救 援 軍 を 派 遣 す る も の の , 1885 年 l 月 , 救援軍 到 着 の 2 日 前 に ハ ル 卜 ゥ ー ム は陥落 し , GaM(GrandOldMan) た 。 〈 英 雄 ゴ ー ド ン を 見 殺 し に し た グ ラ ッ ド ス ト ン 〉 は , (Murderero f Gordon) と 呼ば れ る こ と と な っ た。 ト ン と 決 裂 し た ジ ョ ン ・ ブ ラ イ ト が , 教 徒 へ の 「 ス ー 夕 、 ン で の 屈 服 ゴ ー ド ン は 戦死 し な らぬ M a G ホ ー ム ・ ル ー ル を め ぐ っ て 盟友 グ ラ ッ ド ス I 反逆者 の 党」 へ の 「 ア イ ル ラ ン ド で の 屈 服」 と マフ ディ J を 並 置 し , い ず れ も 「 テ ロ リ ズ ム へ の 屈 服 」 で あ る と 論 じ て い る よ う に , ゴ ー ド ン の ア ナ ロ ジ ー で ア ル ス タ ー の 問 題 を 語 る こ と は 珍 し く な か っ た 。 G re n fe ll Morton , HomeRuleαnd t h eI r i s hQuestion , Har 1 0 9 人文学報 TheT o r i e sα nd t h ePeople , p .9 0 ;Dicey , 0ρ. cit. , p .1 4 5 ;Paterson , o p .cit., p p .2 1 2-3;Robb , o p .cit. , p .1 8 8;孔 1 egahe y , o p .cit. , p .1 7 7 . 7 3 ) MG , 15, 2 3F e b .1 8 8 6 ;England , 20, 2 7Feb. , 2 9May1 8 8 6 ;Bew , o p .cit., p .4 6 ;Smith , The T o r i e sandIreland , p .1 4 ;Loughlin , U l s t e rUnionismαnd B r i t i s hNation Loughlin , ‘ “Imagining Ul ster"', p . 1 1 9 ;Hempton , 0ρ. αl Identity , p .4 0; cit. , p .1 5 0 ;Jackson , TheU l s t e rParty , p .16, p p .1 1 6-7, p p .1 2 4-9;Jackson , HomeRule , p .6 2 ;P a u l Ward , ‘Nationalism and N a t i o n a lIdentity' , p p .2 1 5-6;O'Day , TheE n g l i s hFaceo fI r i s hNationalism , p p .100-1 Megahey ,oρ . cit. , p .1 7 5 ;Morton , 「包囲された「ブリティッシュネス 代思想 J 28 巻13 号 , 0ρ. cit. , p p .9 4-5;Graham Davis , 。ρ . cit 円 p . 210; J :北アイルランドのユニオニズムにおける和解と困難 2000 年11 月, 戸慧瑛 J ~現 p . 2 0 2 . 7 4 ) Times , 2A p r i l1 8 8 6 . 7 5 ) MG , 10, 2 7A p r i l1 8 8 6 ;Dicey , o p .cit. , p .1 4 8 ;Curtis , Anglo-Sαxons andCelts , p p .1 0 1-3; O'Day , I r i s hHomeRule , p .1 6 4 ;Loughlin , ‘ “Imagining Ul ster"', p p .1 1 2-3;A .J Ward , o p .cit. , p .9 1;Quinault , o p .cit. , p . 3 3 5 . 7 6 ) PLG , 2J u l y1 8 9 2 ;MG , 2 7A p r i l1 8 8 6 . 7 7 ) PR , 6N ov.1 8 8 6 ;PLG , 1J u l y1 8 9 3 . 78) 第 4 節 に か か わ る 主 要 な 論点 に つ い て の ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 の 議論 は , 概ね 以下 の よ う で あ っ た 。 ユ ニ オ ン は 強 い ら れ た も の で あ り , ブ リ テ ン の 統 治 は 強 圧 に も 救 済 に も 失 敗 し て き た 。 そ れ ゆ え , ア イ ル ラ ン ド 人 は ホ ー ム ・ ル ー ル を 望 ん で い る 。 ホ ー ム ・ ル ー ル へ の 対 案 と し て 保 守 党 が 打 ち 出 し て い る の は 強 圧 の 方 針 に 他 な ら ず , 有 効 な 処 方 筆 た り え な ~ ¥0 MG , 6, 1 8Jan. , 9 Feb. , 8, 2 2April , 7, 8, 1 4June1 8 8 6 . 79) PLG , 1 8Aug.1888, 1 7J a n .1891, 1 8F e b .1893. ン 実 施 ま で の い わ ゆ る 「 グ ラ タ ン 時 代 を 成 し て い た 。 ユ ニ オ ン へ の 高 い 評価 は , 1782 年か ら ユ ニ オ J (I グ ラ タ ン 議会」 が 存在 し た 時代) の 否定 的 評価 と 表裏 1 88 5 年 1 2 月 24 日 付 け の 「 プ リ ム ロ ー ズ ・ レ コ ー ド 』 論 説 に よ れ ば , 1グラ タ ン 議 会 」 は イ ン グ ラ ン ド の 利 益 を 損 ね た ば か り で な く , ア イ ル ラ ン ド に お い て プ ロ テ ス タ ン ト に よ る カ ソ リ ッ ク 抑 圧 を 招 い た 。 宗 派 的 抑 圧 の 帰 結 が 1 7 98 年 蜂 起 で あ り , こ の 論 説 は 蜂 起 を 「 内 戦 」 と 規 定 す る こ と で , ホ ー ム ・ ル ー ル は ア イ ル ラ ン ド の 内 戦 に 至 る , と い う 上 述 の よ う な 見 通 し に い わ ば 歴 史 的 裏 づ け を 与 え よ う と し て い る 。 PR , 2 4D e c .1 8 8 5 . 8 0 ) PLG , 2 3March 1889, 2 0D e c . 1890, 2 5A p r i l 1891, 7 May1 8 9 1 ;Reporto ft h eGrand 9May 1886, PrimroseLeaguePapers , vo. l 2;O'Day , I r i s hHomeRule , p p . Habitation , 1 p .cit. , p p .201-2 . 1 1 5-6;Shannon , o 81 ) PLG , 1 7J a n .1 8 91 . 8 2 ) 1887 年 9 月 9 日, コ ー ク 州 ミ ッ チ ェ ル ズ タ ウ ン に お い て 警官隊が群衆 に 発砲 し , 3 人 が 死亡 す る 「 ミ ッ チ ェ ル ズ タ ウ ン の 虐 殺 」 事 件 が 発 生 し た 。 こ の 事 件 の 責 任 者 と し て , パ ル フ ォ ア は 「 ブ ラ ッ デ ィ ・ パ ル フ ォ ア 」 と 呼 ば れ る こ と に な る 。 1 88 7 年 強 圧 法 の 制 定 そ の 他 を 通 じ て ナ シ ョ ナ リ ス ト を 積 極 的 に 告 発 し て し 、 く パ ル フ ォ ア の 統 治 手 法 は , ナ シ ョ ナ リ ス ト を く 暴 力 的 ・ 犯 罪 的 〉 な イ メ ー ジ に 結 び 、 つ け る と い う ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 の 志 向 性 を 政 策 的 に 遂 行 す る も の で あ っ た 。 J ac k so n, HomeRule , p p .6 8-9 . 8 3 ) England , 1 7 Sept .1 8 8 7 ; PLG , 2 0D e c .1 8 9 0 ;I r i s h Loyal and P a t r i o t i c Union , The P r i v i l e g e soft h eI r i s h Ten “'Heartィending " αnt , Dublin , 1887, p p .1-3;I r i s hLoyalandP a t r i o t i cUnion , A I r i s hEviction , D u b l i -110 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関) Ruleo rTempe r,αnce: Whichi st h eC u r ef o rIrel ' sDiscontent? , London , n .d., p .2;de αnd p .cit. , p p .2 3 6-7;Morton , o p .cit., p p .101-2 . Nie , o 8 4 ) L ibe r alU n i o n i s t Association , U l s t e r ' s Apologyf o rb e i n g Loy London , n .d., p .4; αl , O'Day , I r i s hHomeRule , p .1 8 2 ;O'Day , TheE n g l i s hFaceo fI r i s hNationalism , p p .9 9-100; 高 橋 純 一 『 ア イ ル ラ ン ド 土 地 政 策 史 』 社 会 評 論 社 , jレ ー ル を殺す」 と い う 表現 は , 1997 1 8 9 5 年 1 0 月 1 7 pp.75-91 . 年, 日, I温情 を も っ て ホ ー ム ・ ア イ ル ラ ン ド 担 当 相 に 就任 し た 直後 の ジ ェ ラ ル ド ・ パ / レ フ ォ ア が リ ー ズ で 行 っ た 次 の 演 説 に よ っ て 人 口 に 拾 突 す る こ と に な る が , こ の 表 現 そ の も の は そ れ 以 前 か ら 用 い ら れ て い た 。 「 も ち ろ ん , 温 情 を も っ て ホ ー ム ・ ル ー ル を 殺 す こ と が で き る な ら , 政 府 と し て は 大 変 に 嬉 し い わ け で す 。 J AndrewGailey , I r e l a n dandt h eDeath 8 9 0-1905 , Cork , 1987, p p .2 5-6, p p . o fK i n d n e s s :Thee x p e r i e n c eo fc o n s t r u c t i v eunionism , 1 34-5. 8 5 ) PR , 2 5F e b .1 8 8 6 ;MG , 2 3F e b .1 8 8 6 . 86) ホ ー ム ・ ル ー ル推進 派 が重視 し て い た に も か か わ ら ず, か っ た 論 点 の l つ に , ホ ー ム ・ ル ー ル ( 第 反対派 が積極 的 に 論 じ る 姿勢 を 見 せ な 1 次 法 案 に 限 ら れ る ) に 伴 う ア イ ル ラ ン ド 選 出 議 席 の 廃 止 に よ る ウ エ ス 卜 ミ ン ス タ ー の 機 能 不 全 解 消 が あ る 。 ア イ ル ラ ン ド に か か わ る 議 題 に 時 間 と エ ネ ル ギ ー を 奪 わ れ る こ と も , ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 議 員 の 議 事 妨 害 に 悩 ま さ れ る こ と も な く な れ ば , ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー は 本 来 の 機 能 と 権 威 を 回 復 で き る , と い う 議 論 で あ る 。 「 ア イ ル ラ ン ド が 道 を 塞 い で い る 」 と い う 決 ま り 文 句 が 広 く 用 い ら れ た 。 MG , ibe r alU n i o n i s tAssociation , “Ireland 1 8 8 6 ;L shαII 9, 1 8Jan. , 9Feb. , 2 2Apri l, 1 4June n o tB l o c kt h e Wαy" , London , n .d. , p .1; D .A.Hamer , ‘The I r i s hQuestionandL ibe r alPolitics , 1 8 8 6-1894', O'Day , R e a c t i o n st oI r i s h p .2 4 7-8;Pearce , o p .cit., p .4 9;deNie , o p .cit., p p .2 6 5-6, p .277. Nationalism , p ま た, 本節 で 整 理 さ れ る ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 の ナ ラ テ ィ ヴ と の 対 峠 に お い て ホ ー ム ・ ル ー ル 推 進 派 の 言 い 分 を 簡 単 に 特 徴 づ け れ ば , 以 下 の よ う に な ろ う 。 ま ず , ン ド 統 治 は 失 政 と 評 価 さ れ る か ら , 1801 <II 買風満 帆 だ っ た 昔〉 年以 降 の ブ リ テ ン に よ る ア イ ル ラ は 想定 さ れ ず, ホ ー ム ・ ル ー ル の 要求 は 正 当 な も の と 捉 え ら れ る 。 正 当 な 要 求 を 掲 げ る ナ シ ョ ナ リ ス 卜 は ア イ ル ラ ン ド 世 論 の 代 弁 者 と し て 位 置 づ け ら れ , 一 部 の 過 激 な ナ シ ョ ナ リ ス ト と 差 異 化 さ れ て , < 悪 漢 〉 の 役 割 を 免 れ る 。 し た が っ て , ナ シ ョ ナ リ ス ト と ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト の 聞 に は 対 抗 関 係 は 設 定 さ れ な い 。 対 抗 関 係 ど こ ろ か , ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト の 多 く は , ア イ リ ッ シ ュ ・ ネ イ シ ョ ン の 構 成 員 と し て , ナ シ ョ ナ リ ス 卜 を 支 持 す る ( さ ら に は ホ ー ム ・ ル ー ル 達 成 後 の ア イ ル ラ ン ド を リ ー ド す る ) 存 在 と 見 な さ れ る 。 善 悪 の 対 抗 関 係 を 描 け る と す れ ば , そ れ は 自 由 党 主 導 の ホ ー ム ・ ル ー ル 路 線 と 保 守 党 主 導 の 強 圧 路 線 の 聞 に で あ っ て , い う ま で も な く , 前 者 の 勝 利 こ そ が ア ル ス タ ー ・ プ ロ テ ス タ ン ト を 含 め た ア イ リ ッ シ ュ ・ ネ イ シ ョ ン の 未 来 を 聞 く こ と に な る 。 87) ブ リ テ ン で 語 ら れ た ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 の 著 し い 特徴 の l っ と 考 え ら れ る の は , の ア イ ル ラ ン ド 人 移 民 へ の 言 及 が き わ め て 少 な い こ と で あ る 。 ホ ー ム ・ ル ー ル に よ っ て 移 民 の 流 入 が 拡 大 す る だ ろ う , と い っ た 見 通 し は 示 さ れ る も の の , ブ リ テ ン 内 部 に 存 在 す る く 悪 漢 〉 の い わ ば 尖 兵 と し て の 移 民 に 着 目 す る よ う な 議 論 は ほ と ん ど 見 ら れ な い 。 主 た る 敵 を 海 の 向 こ う に 設 定 し , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 派 が 多 数 を 占 め る と 想 定 さ れ る ブ リ テ ン 内 部 に は 深 刻 な 亀 裂 を 見 出 そ う と し な い 姿 勢 が 認 め ら れ る の で あ る 。 こ う し た 意 味 で は , ア イ ル ラ ン ド で 発 話 さ れ た そ れ ほ ど の 切 迫 感 を ブ リ テ ン の ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 は 伴 わ ず , む し ろ 一 歩 距 離 を と る 雰 囲 気 さ え 漂 わ せ て い る 。 8 8 ) < メ ロ ド ラ マ 〉 の 他 の 特 徴 の 多 く も , ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 論 に は 備 わ っ て い る と 思 わ れ る 。 た -111- 在ブ リ テ ン 人文学報 とえば,くメロドラマ〉では善悪は擬人化され,単純明快に二分される善玉と悪玉の聞にはし、か なるなれあいも存在しえないことが通例とされるが,この点は,ナショナリストの悪訴さとアル スター・プロテスタン卜の善良さを執助に描き込み, <悪漢〉とく潜在的犠牲者〉の聞に逆転も暖 昧化もありえない対抗関係を構築するホーム・ルール反対論のトーンに一致する。そして,善悪 の抗争が,善悪を和解させ悪をも包摂しうるようなユートピアへではなく,悪の排除と現存社会 の浄化へと到達することがくメロドラマ〉の基本的なパターンであるのに似て,ホーム・ルール 反対論が示すく救出〉の見通しも旧状への復帰である。ここでは, <2 つ の ア イ ル ラ ン ド 〉 の 解消 は展望されていな L 、。また,悪玉の登場までは世の中はうまくいっており,悪玉が退治されると 秩序が回復する,という意味で, <メロドラマ〉を展開させる原動力は悪玉であるわけだが, ホーム・ルール反対論においても, <悪漢〉の台頭によるく11/員風満帆だった昔〉の撹乱にせよ,く悪 漢〉の打倒によるく順風満帆だった昔〉の再建にせよ,いずれも最大の規定要因はく悪漢〉の動 向である。さらに,わかりやすく善悪の闘争を提示し,受け手を同一化へと誘おうとするくメロ ドラマ〉に不可欠な姿勢も, <悪漢〉とく潜在的犠牲者〉の性格を誤解しようのないところまで幾 重にも描き込むホーム・ルール反対論にはっきりと刻印されている。いうまでもなく,一時的に 抑圧された善玉が最後には悪玉を倒すことがくメロドラマ〉の常套パターンであり,この過程は ホーム・ルール反対論で、は未決の将来の領域に属するが,保守党統治によるく潜在的犠牲者〉の く救出〉の展望は,明らかに勧善懲悪の見通しに合致している。ピータ-・ブルックス(四方田 犬彦・木村慧子訳) r メ ロ ド ラ マ 的想像 力 』 産 業 図書, ン ・ マ リ ・ ト マ ソ ー ( 中 燦 忍 訳 ) 2002 年, p .36, p p .3 9-4 1, p .2 7 6;ジャ r メ ロ ド ラ マ : フ ラ ン ス の 大衆文化』 晶 文社, 1991 年, p.15 , p .47, p.53 , p.57 , p .5 9 . i s i o n so ft h ePeo 8 9 ) P a t r i c kJoyce , V ρle: Industri αl Englandandt h eq u e s t i o no fclass , 1 8 4 0 1914, Cambridge , 1991, p p .3 1 0-1;P a t r i c k Joyce , ‘The c o n s t i t u t i o nandt h en a r r a t i v e h ec o n s t i t u t i o n :New s t r u c t u r eo fV i c t o r i a n politics' , James Vernon (ed.) , Rereadingt nα rra tives in ρolitical h i s t o r yo fE n g l a n d ' sl o n gn i n e t e e n t hcentury , Cambridge , 1996, p p . o l i t i c sand t h eP e o p l e :A S t u d yi nE n g l i s hP o l i t i c a l Culture , 1 8 1-5;James Vernon , P c . 1 8 1 5-1867 , Cambridge , 1993, p p .331-3;JamesVernon , ‘Notes towardsanintroduction' , Vernon , Rereadingt h econstitution , p p .1 4-5 . 90) も ち ろ ん, こ う し た 差別 的 な 語 り に 自 尊心 を く す ぐ ら れ た の は 受 け 手 の 側 だ け で は な い 。 知性 と 教 育 を 自 認 す る 発 話 者 た ち 自 身 も 同 様 の 優 越 意 識 を 共 有 し て い た の で あ り , 主 観 的 に は 受 け 手 へ の 仕 掛 け を 施 し て い る つ も り で あ っ て も , ス テ ロ タ イ プ 化 さ れ た キ ャ ラ ク タ ー 描 写 を 駆 使 す る 際 に は , 彼 ら も ま た 快 感 を 覚 え て い た は ず で あ る 9 1) O リ ー グの メ ン バ ー シ ッ プ は, ナイ ト, デイ ム, れ る 。 各 々 が 男 性 と 女 性 に 対 応 す る ナ イ ト と デ イ ム に は , ア ソ シエイ 卜 と い う 3 1 ポ ン ド 1 ウ ン の 入 会 金 が 求 め ら れ る 。 1 884 年 3 月 に 導 入 さ れ た ア ソ シ エ イ 卜 ( 1 つ の カ テ ゴ リ ー に 大別 さ シ リ ン グ の 年会費 と 半 ク ラ 88 5 年 4 月 頃 ま で は , 男 性 は エ ス ク ワ イ ア , 女 性 は コ ン パ ニ オ ン と 呼 ば れ た ) の 場 合 , 会 費 は 低 く 抑 え ら れ る の が 通 例 で あ り , そ の 圧 倒 的 多 数 は 労 働 者 に よ っ て 構 成 さ れ た 。 G ra n d C o u n c i lMinuteBook , 2 2March , 1 0May1884, 18,30 March1885, PrimroseLeaguePapers , vo. l 1;Pugh , TheT o r i e sα nd t h e Peo ρle , 92) p .2 4 . 残念 な が ら , て い な い 。 筆 者 は , 本稿執筆 の 時点、 に お い て リ ー グ が 作成 し た ラ ン タ ン ・ ス ラ イ ド の 現物 は 入 手 で き 2004 年 6 月, リ ー グ ( 現 在 も 存続 し て い る ) の セ ク レ タ リ に 問 い 合 わ せ の 手 紙 を 送 っ た が , 返 答 は 寄 せ ら れ て い な い 。 図 像 な し で ラ ン タ ン ・ ス ラ イ ド を 論 ず る と い う 意 味 で , 1 1 2 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) 本節の分析には重大な制約が課せられている。 9 3 ) J o i n tL it e r at u reCommitteeMinuteBook , 2 5Nov.1887, 1 0F e b .1888, PrimroseLeague .1 4 ; Grand C o u n c i l Minute Book , 2 5 July , 7 Nov. 1901, Primrose League Papers , vol Papers , vo. l 3;PLG , 1 2J a n .1889, 3 0Sep t., 1D e c .1893, 1F e b .1 8 9 4 ;B e a t r i xCampbell , TheI r o nLαdies: WhyDoWomenV o t eTory? , London , 1987, p .2 5;Robb , o p .cit. , p.92 , p p . 187-8 . 1893 月 の 時点 で は , 年 1 2 9 0-100 分程度 を 要 す る ス ラ イ ド ・ セ ッ ト , ス ラ イ ド に 即 し た レ ク チ ャ ー の テ ク ス ト , ラ ン タ ン , 伴 奏 音 楽 の リ ス ト が , 1 晩 1 ポ ン ド 1 0 シ リ ン グ, 4 ポ ン ド で 貸 し 出 さ れ た 。 政治 的性格 を も た な い ス ラ イ ド ・ セ ッ ト も 用 意 さ れ , 105 分 を 要す る 「 不思議 の 国 の ア リ ス 」 から 1 0 分で終了 す る 1 週間 こ ち ら の 場 合, 「 セ ン ト ・ バ ー ナ ー ド 犬」 までさ ま ざ ま で あ っ た 。 9 4 ) PLG , 19,26 J a n .1 8 8 9 . 95) キ ル メ イ ナ ム は ダ プ リ ン の 刑 務 所 の 名 称。1882 年 5 月, パ ー ネ ル は 土 地戦争 の 鎮静化 に 努 め る 旨 の 「 キ ル メ イ ナ ム の 密 約 」 を グ ラ ッ ド ス ト ン 政 権 と 結 び , キ ル メ イ ナ ム か ら 出 獄 し た 。 9 6 ) PLG , 1 9J a n .1 8 8 9 ;Robb , o p .cit. , p .1 8 8 . 9 7 ) S l i d e sCommitteeMinuteBook , n .d .[ 18 8 8o r1889?], PrimroseLeaguePapers , vol .1 4 . 9 8 ) PLG , 2 0D e c .1 8 9 0 . 9 9 ) J o i n tL i t e r a t u r eCommitteeMinuteBook , n .d . [1886?], 1 4June1887, PrimroseLeague l1 4 ;GrandC o u n c i lMinuteBook , 1 4April , 1 8Nov. 1886, PrimroseLeague Papers , vo. Papers , v o l s .1-2;Reporto ft h eAnnualMeetingo ft h eL a d i e s 'GrandCouncil , 8May .1 2 ;PLG , 1 5Oct . 1887, 1 9Jan. , 6, 2 0A p r i l1889, 1 7June 1891, PrimroseLeaguePapers , vol 1893. 自 ら 作成 ・ 刊行 す る だ け で な く , リ ー グ は ユ ニ オ ニ ス ト 系 の 他団体 が作成 し た リ ー フ レ ッ ト の 普 及 に も 力 を 注 い だ 。 と り わ け 緊 密 な 関 係 を 結 ん だ 団 体 が , ダ ブ リ ン に 本 拠 を 置 き , ア ル ス タ ー の み な ら ず , 後 述 す る く 忠 誠 な 南 部 〉 の 意 志 を も 代 表 す る と 見 な さ れ え た ア イ ル ラ ン ド 忠 誠 愛 国 同 盟 で あ り ( こ の 団 体 に は リ ー グ の メ ン バ ー も 多 数 加 入 し て い た ) , リ ー フ レ ッ 卜 か ? 6 点 を 各 々 Jr ア イ ル ラ 1887 年1 月 に 同 団 体 の 5, 00 0 部 購 入 し た の を 皮 切 り に , そ の 後 も 『 ア イ ル ラ ン ド 国 民 と は 誰 ン ド人に と っ ての イ ン グ ラ ン ド」 グによる普及活動は高く評価されたらしく, と い っ た リ ー フ レ ッ 卜 の 普及 に 努 め た 。 リ ー 1887 年秋 頃 か ら リ ー フ レ ッ ト は 無料 で 提 供 さ れ る ようになる。リーフレットやパンフレッ卜のいくつかはブリテン(ないしイングランド)国民に 呼びかけるスタイルを明確に採用しており,たとえば, じられる o Iイ ン グ ラ ン ド 人よ, r 国民 同 盟』 は次の よ う な ア ピ ー ル で 閉 貴方 た ち は こ の よ う な 冷血 な 暴政 を 黙認 し , 国民 同 盟 の よ う な 組織を指導する人々と関係をもっグラッドストン派を支持するつもりなのですか?国民同盟と は,貴方たちの不幸なアイルランドの仲間たちを踏みつけ,アイルランドに破滅をもたらしてい る団体なのです。」さきに触れた『ユニオンか,分離か」が,抗争の核心をプロテスタン卜とカ ソリックの問にでも地主と借地農の問にでもなく, I イ ン グ ラ ン ド の 友 と イ ン グ ラ ン ド の 敵 の 間」 に見出しているのも,ブリテンの読者へのアピールを想定してのことである。「迫りくる抗争に あたって,イングランドとスコットランドの国民はどちらの側につくのだろうか? Loyal and P a t r i o t i c Union , The Nation P a t r i o t i c Union , Union or 守 Sψαration? αl , JI r i s h League , Dublin , 1887, p .4;I r i s h Loyal and p p .2 1-2 J o i ntL i t e r a t u r e Committee Minute 7 Jan. , 1 6 Aug. , 1 1 Nov. 1887, PrimroseLeaguePapers , vo. l1 4 ;GrandC o u n c i l Book , 2 MinuteBook , 3 0Aug. 1887, PrimroseLeaguePapers , vol .2 I r i s hLoyalandP a t r i o t i c nt h eI r i s hL o y a landP a t r i o Union , Mr.Goschen , M P , o 1 1 3 人文学報 o p .cit. , p p .1 9 6-7;Morton , o p .cit. , p p .9 2-3. リ ー グ の 刊 行 し た リ ー フ レ ッ 卜21 点 の コ ピ ー を 筆者は入手したが,これらのうちには直接的にアイルランドを扱ったものは含まれていない。 1 0 0 ) PLG , 1 5Oct . 1887, 2 0A p r i l1889, Robb , o p .cit. , p p .9 3-4. ラ ン タ ン ・ ス ラ イ ド の 場合 と 同 じく,リーフレットの需要がとりわけ大きかったのは農村部においてであった。 1 01 ) PLG , 8 Oc t., 2 4D e c .1 8 8 7 ;Robb , 0ρ. cit. , p .1 9 2 . < 悪 漢 〉 と し て の ナ シ ョ ナ リ ス ト の 描 写 に 力 を 注 ぐ 点 で は , ア イ ル ラ ン ド 忠 誠 愛 国 同 盟 の リ ー フ レ ッ 卜 も ま っ た く 同 様 で あ り , 刊 行 さ れ た 1887 66 点 の リ ー フ レ ッ ト の う ち 年に 32 点 が こ う し た テ ー マ を 採 り あ げ て , と り わ け 国 民 同 盟 の 「 恐 怖 政 治 」 に 焦 点 を 合 わ せ な が ら , ナ シ ョ ナ リ ス ト の 悪 行 を 告 発 し て い る 。 I ri s h u b l i c a t i o n si s s u e dd u r i n gt h ey e a r1887, Dublin , n.d. andP a t r i o t i cUnion , P Loyal リ ー ドマ ンによれ ば,ボーア戦争中に実施された 1 9 0 0年総選挙 ( l \わゆる「カーキ選挙 J )の運動期間中に保守党 およびリベラル・ユニオニス卜が発行したリーフレットとパンフレットのうちでさえ,ボーア戦 争を主題とするものは「半数以上」といった程度であった。第 l次法案が葬られ,ソールズベリ が安定政権を率いていた 1 88 7年に,リーグのリーフレットがここまで集中的にアイルランドを 採りあげている事実は,このテーマがもっアピール力が高く評価されていたことを示すと思われ る。また, 1 カ ー キ 選 挙」 に あ た っ て は , <イングランドの敵〉としてアイルランドのナショナリ ストとトランスヴアール共和国大統領ポール・クルーガーを同列に置くようなプロパガンダも展 開された。 Readman , ' T h eC o n s e r v a t i v eParty , Patriotism , andB r i t i s hP o l i t i c s :The Paul o u r n a lo fB r i t i s hStudies , vo. l40, n o .1, J a n .2001, p p . Caseo ft h eG e n e r a lE l e c t i o no f1900', J p .1 1 9-2 0 . 1 1 0-1, p 1 0 2 ) J o i n tL it e r at u reCommitteeMinuteBook , 2 5Feb. , 1 4June , 1 6Aug. , 2 9Sep t., 11, 2 5 Nov. , 1 6D e c . 1887, 10, 2 4F e b . 1888, PrimroseLeaguePapers , vo. l1 4 ;L a d i e s 'E x e c u t i v e 8Oct . 1887, P rimroseLeaguePapers , vo. l1 .1 CommitteeMinuteBook , 2 ラ ン タ ン ・ ス ラ イ 民 国 。 る あ で 者 牲 犠 の 」 治 政 怖 恐 「 盟 同 民 国 も ス リ ー モ ツ ッ ィ フ , く じ と 名 人 た し 場 登 に ド と こ た し 言 証 で 廷 法 , は ス リ ー モ ツ ッ ィ フ ・ ラ ノ 女 少 た っ な と 児 孤 , れ さ 害 殺 を 父 て よ に 盟 同 に 態 事 な う よ る あ で 要 必 が 行 随 の 隊 官 警 も に く へ 会 教 , り な と 象 対 の ト ッ コ イ ボ に 由 理 を 。 た っ 陥 L i be ral n.d. , p p .1-2. U n i o n i s tAssociation , NorahFitzm ま た, αurice andt h eNαtion αI League , London , 1886 年6 月28 日 の 『 イ ン グ ラ ン ド 』 に 掲載 さ れ た 「労働者 へ 」 と 題 す る 記事は,それがナショナリストの仕業であることを一切立証しないまま,貧しい女性が犬に噛み つかれ負傷した,片腕の労働者が夕食中に踏み込んできた 5人の男に耳を切り落とされた, 1土 地追放」を行った地主の牛 8頭が焼き殺された,といった事件を列挙し,ナショナリストの〈悪 漢〉性を印象づけんとしている。 Engla nd , 1 0 3 ) Primrose League , 2 8June1 8 8 6 . C a n v a s s e r s 'C a t h e c h i s m :B e i n gR e p l i e st ot h e Most P l a u s i b l e Ar g u m e n t si nF, α vou r o fHomeRule , London , n .d . [1 た び た び 886 ? J 刊 行 年 が 1 88 5 年 総 選 挙 に 「 さ き の 選 挙 」 と し て 言 及 し て い る こ と , の 経 験 」 を 指 摘 し て い る こ と , 称 が 用 い ら れ て い る こ と , 等 か ら 推 測 で き る 1 886 年 で あ る こ と は , 185 1 リ ベラル ・ ユニオニス 卜」 と い う 1 8 8 5 O 1 0 4 ) Ibid. , p .3 . 1 0 5 ) Ibid. , p .4 . 1 0 6 ) Ibid. , p .4 . 1 0 7 ) Ibid. , p .4, p .1 0 . 1 0 8 ) Ibid. , P P .4-5 . 一 1 4 ~ 年間 に わ た る ユ ニ オ ン 年以前 に は 存在 し な い 呼 19 世紀 末 の ア イ ル ラ ン ド 問題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ (小 関 ) 1 0 9 ) Ibid. , pp. 5-6 . 1 1 0 ) Ibid. , p .7 . 1 1 1 ) Ibid. , pp. 9-1 0 . 1 1 2 ) Ibid. , p .1 0 . 1 1 3 ) Ibid. , pp.1 0-1 2 . 1 1 4 ) PR , 22May1 8 8 6 . 1 1 5 ) PLG , 24D e c .1887, 1 1J a n .1 8 9 0 . 1 1 6 ) PLG , 1 A p r i l1 8 9 3 . rイ ン グ ラ ン ド』 も, 1886 年 4 月, ホ ー ム ・ ル ー ル 反対 を し 1 か に 労働者 に 訴 え る べ き か , モ リ ス ン の そ れ と 似 通 っ た 議 論 を 展 開 し て い る 。 「 ア イ ル ラ ン ド を 独 立 さ せ る こ と に 反 対 す る 政 策 の 論 拠 は , 教 育 の あ る 者 た ち に は き わ め て 重 要 で あ る が , 労 働 諸 階 級 が 理 解 で き る よ う に す る こ と は き わ め て 難 し L可 。 し た が っ て , 並 外 れ た 知 性 の 持 ち 主 を 相 手 に す る 場 合 は 別 に し て , こ れ ら に つ い て 詳 し く 語 る の は 避 け よ う 。 そ の 代 わ り , 犯 罪 諸 階 級 の 意 の ま ま に さ れ て し ま わ ん と し て い る 誠 実 な ア イ ル ラ ン ド 人 の た め に , イ ン グ ラ ン ド の 労 働 者 に 嘆 願 し よ う で は な い か 。 特 に レ デ ィ た ち に は そ う し て ほ し L、 。 な ぜ な ら , レ デ ィ た ち こ そ 誰 よ り も う ま く 嘆 願 が で き る の だ か ら 。 … … 令 状 配 達 人 と し て の 仕 事 を し た と い う だ け の 理 由 か ら 自 宅 の つ つ ま し い テ ィ ー ・ テ ー ブ ル で 殺 害 さ れ た 男 に つ い て , 夫 の 血 ま み れ の 遺 体 に す が っ て 泣 き , 遺 体 を 握 り し め て い る 哀 れ な 妻 を 瑚 笑 し な が ら 取 り 囲 む , 罪 深 い 悪 魔 の よ う な 狂 人 た ち に つ い て , 語 る の だ 。 た ち の 悪 い 臆 病 者 の 一 団 が 自 分 た ち の 前 に 子 ど も た ち を 集 め , こ れ ら の 哀 れ な 子 ど も た ち の 身 体 を 覆 い に し て 安 全 を 確 保 し た う え で , 警 察 に 投 石 し た パ リ ナ の 騒 動 に つ い て , 語 る の だ 。 地 代 を 支 払 っ た と い う 嫌 疑 を か け ら れ た た め に , 地 面 に 縛 り つ け ら れ , ~.寧 j孟 な 犬 に 足 を 噛 ま れ そ う に な っ た 哀 れ な 女 性 に つ い て , そ の 間 , 拍 手 と 歓 声 で 犬 を は や し 立 て な が ら 取 り 囲 ん で い た 悪 党 た ち に つ い て , 語 る の だ 。 正 直 者 が 仕 事 を 奪 わ れ , 身 の 破 滅 に 追 い 込 ま れ , 国 か ら 追 放 さ れ て し ま う ボ イ コ ッ 卜 の 残 酷 さ に つ い て , 語 る の だ 。 J England , 8 A p r i l1 8 8 6 . ) England , 2 0March , 1 May1 8 8 6 ;PLG , 2 1Jan. , 1 8Feb. , 4 March , 15, 1 8April , 2 9July , 1 17 1 6Sept .1 8 9 3 . < 悪 漢 〉 イ メ ー ジ の 下 で ナ シ ョ ナ リ ス ト を 描 き 出 す 点 に つ い て は , ブ リ テ ン で の 発 言 と ア イ ル ラ ン ド で の そ れ の 聞 に 質 的 な 違 い は ほ と ん ど 見 ら れ な し 、 。 た と え ば , 29 日 , 1892 ア イ ル ラ ン ド 南西部 キ ン セ イ ル に お け る リ ー グ の 集会 で, 年 1 2 月 ウ ィ リ ア ム ・ ジ ョ ン ソ ン 大佐 は 以 下 の よ う に ナ シ ョ ナ リ ス ト の 危 険 性 を 語 っ て い る 。 「 私 自 身 は ア イ ル ラ ン ド 人 で あ り , そ の こ と を 誇 り と し て い ま す 。 し か し , こ の 犯 罪 [ ダ ブ リ ン で 発 生 し た ダ イ ナ マ イ ト 爆 破 事 件 ] は ア イ ル ラ ン ド 人 に よ っ て 行 わ れ た も の で あ り , 実 際 に 犯 行 に 及 ん だ 者 の 背 後 に , い わ ゆ る ナ シ ョ ナ リ ス ト を 支 援 す る 大 変 に 強 力 な 党 派 を 形 成 し て い る 一 群 の ア イ ル ラ ン ド 人 と ア メ リ カ ン ・ ア イ リ ッ シ ュ が い る こ と は 疑 い も な い , と い う 結 論 に 残 念 な が ら 到 達 せ ざ る を え ま せ ん 0 ・ … ー ホ ー ム ・ ル ー ル を 与 え た ら ど れ ほ ど 重 大 な 悪 が ア イ ル ラ ン ド で 行 わ れ る こ と に な る か , イ ン グ ラ ン ド の 人 々 に 教 え ら れ る な ら ば , こ の 事 件 は イ ン グ ラ ン ド の 人 々 の 目 を 聞 か せ る 効 果 を も つ だ ろ う と 私 は 確 信 し ま す 。 ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 が , イ ン グ ラ ン ド に と っ て 考 え う る 限 り 最 強 の 友 と な る こ と を 望 ん で い る 調 停 者 の よ う な ポ ー ズ を と る の は , 大 い に 結 構 な こ と で し ょ う 。 し か し 私 は は っ き り と い う こ と が で き ま す 。 ア イ ル ラ ン ド の ナ シ ョ ナ リ ス ト 党 は , イ ン グ ラ ン ド 人 を 憎 悪 し , 嫌 悪 し て い ま す 。 J PLG , 7 J a n .1 8 9 3 . 1 1 8 ) PLG , 14Jan. , 2 2J u l y1 8 9 3 . 1 1 9 ) PLG , 1 7J une 1 8 9 3 . 1893 年 5 月 に リ ー グ の 女性 メ ン バ ー を 統括 す る 機 関 で あ る レ デ ィ ズ ・ グ ラ ン ド ・ カ ウ ン シ ル の 年 次 大 会 に 招 か れ た 際 の 演 説 で は , ロ ウ ア ン は , I首相 が ア イ ル ラ ン ド -115 人文学報 の愛国主義の模範例だと持ち上げる Jウルフ・トーン(対ブリテン蜂起へのフランスからの援軍 の組織を試みたユナイテッド・アイリッシュメンの指導者)に言及し,イングランドをフランス に差し出そうとした人物としてトーンを性格づけている o I彼 の 愛 国主義 の す べ て は イ ン グ ラ ン ドへの憎悪と自己の利益でした。そして,今日の愛国者たちもきわめて似通った性格の者たちで す。」こうした論じ方もまた,ナショナリストをフランス革命のイメージに結び、つける効果を意 図したものといえる。 PL G , 1 3May1 8 9 3 . 1 2 0 ) PLG , 4 Feb. , 1 5J u l y1 8 9 3 . ) England , 1, 8May1 8 8 6 ;PLG , 1 4Jan. , 4March , 1 8April , 1 7June1 8 9 3 . 1 21 1 2 2 ) PLG , 2 9J u l y1 8 9 3 . 1 2 3 ) PLG , 2 5March , 1, 1 5April , 1 6Sept .1 8 9 3 . 1 2 4 ) PLG , 2 5March1 8 9 3 . 1 2 5 ) PLG , 2 5March , 1 5A p r i l1 8 9 3 . 1 2 6 ) PLG , 1 3May1 8 9 3 . 1 2 7 ) PLG , 2 7May , 22, 2 9J u l y1 8 9 3 . 128) 実 際, リ ー グ の 現場 で は オ レ ン ジ イ ズ ム の 礼賛 ど こ ろ か , が ほ と ん ど な オ レ ン ジ イ ズ ム へ の 論及 そ の も の L 、。 1 2 9 ) PLG , 1 7June1 8 9 3 . 1 3 0 ) PLG , 2 5March , 1A p r i l1 8 9 3 . 1 31 ) PR , 2 4A p r i l1 8 8 6 ;England , 1, 8May1 8 8 6 ;PLG , 1 8March1 8 9 3 . 1 3 2 ) England , 8May1 8 8 6 ;PLG , 2 1Jan. , 1 1March , 1, 1 5Apri l, 2 9J u l y1 8 9 3 . 1 3 3 ) PR , 8May1 8 8 6 ;PLG , 8, 1 8April , 1 7June , 2 9J u l y1 8 9 3 . 1 3 4 ) PLG , 11, 1 8March1 8 9 3 . 1 3 5 ) PLG , 1 7June , 2 9J u l y1 8 9 3 . 1 3 6 ) Reporto ft h eAnnualMeetingo ft h eL a d i e s 'GrandCouncil , 2 3May1889, 1 9May1890, 8 May 1891, PrimroseLeaguePapers , vol .1 2 ;L a d i e s 'GrandC o u n c i lMinuteBook , 1 4 March1890, PrimroseLeaguePapers , vo. l1 2 ;PLG , 1A p r i l1 8 9 5 . 137) 充分 に 予 想 さ れ る こ と だ が, リ ー グ に お け る ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 は , ホ ー ム ・ ル ー ルが い か に ブ リ テ ン の 労 働 者 の 利 益 に 対 立 す る か , と い う 論 点 も 採 り あ げ た 。 た と え ば , ダ ー ビ シ ア の オ ー ク ス 支 部 で 演 説 し た J . E. ク ッ ク は い う 。 「 ア イ ル ラ ン ド に ホ ー ム ・ ル ー ルが与 え ら れ る な ら ば , わ が 国 の 労 働 諸 階 級 に は 多 大 な 困 難 が 生 ず る で し ょ う 。 ど ん な 職 種 に お い て で あ れ , ア イ ル ラ ン ド 人 が や っ て き て , 彼 ら か ら 生 活 の 糧 を 奪 う こ と に な る で し ょ う 。 J 世 的 な 利 益 を 論 点 に し よ う と す る で は , こ れ リ ー グ に よ も の で は な い が , PLG , 2Sept .1893. 1 8 6 現 年 総選 挙 に あ た っ て 『 イ ン グ ラ ド 」 が 発 し た 「 レ イ ト ・ ブ リ テ ン の 労 働 者 へ ア ピ ー ル 」 も 同 様 で あ り , ナ シ ョ リ ス ト の く 圧 制 〉 や ア ル タ ー ・ プ ロ テ ス ン 卜 へ の く 脅 威 ) , あ る い は ホ ー ム ・ ノ レ ー ル の 軍 事 的 含 意 , と い っ た 論 点 も に I グ ラ ッ ド ス ト ン 氏 の 政策 の コ ス ト J ( ア イ ル ラ ン ド 経 済 の 破 壊 , 移 民 ブ リ テ ン へ 流 入 軍 事 費 の 負 担 増 , 等 ) が 重 要 論 点 に 位 置 づ け ら れ て い る 。 Englan d , 1 2June1 8 8 6 . 1 3 8 ) PLG , 1Oct .1 8 9 2 . 139) も ち ろ ん, ホ ー ム ・ ル ー ル 反対論 の い わ ば 思惑通 り の 受容 が 示 さ れ て い る 事例 も あ る 。1886 年 4 月 24 日 の 『 イ ン グ ラ ン ド 」 に は , I わ ず か な 収入 で 養 う べ き 子 ど も を 5 人 も つ 」 イ ン グ ラ ン ド 人 労 働 者 で あ る リ ー グ の メ ン バ ー が 編 集 部 に 宛 て た 手 紙 が 掲 載 さ れ て い る が , こ の 手 紙 で は , 1 1 6 19 世紀末 の ア イ ル ラ ン ド 問 題 と プ リ ム ロ ー ズ ・ リ ー グ ( 小 関 ) ホーム・ルールが分離を意味すること,ブリテンとアイルランドが「平和的かっ幸福に一緒に暮 らす」ためには,とりわけ「忠誠なアイルランド人の幸福」が保証されるためには, I帝 国議 会 の導き」が欠かせないこと,等,ホーム・ルール反対論の提示する論点をなぞる調子で,ホー ム・ルールに反対すべきことが主張されている。雄弁をもって知られ,人気の弁士としてリーグ の演壇にしばしば登場した労働者 H . ].ペティファーが 1 88 6年 5月 8日の『イングランド』に掲 載した「労働者への呼びかけ」の結論部分も,教科書通りといえる。「ホーム・ルールは究極的 には分離を意味します。分離は両国の没落を意味します。そして,連合王国の没落はイングラン England , 2 4 ドとアイルランドの労働者にとって同じように破滅と飢餓を意味するのです。 J Apri l, 8 May1 8 8 6 ;PLG , 1 4Jan. , 4 F e b .1 8 9 3 ;PrimroseLeague , TheP r i m r o s eLe αgue E l e c t i o nGuide , p p .2 1-2 . 140) ホ ー ム ・ ル ー ル 支 持 を 表 明 し た 支部 も 皆無 で は な か っ た よ う で , 187 年 3 月 に は, グラ ッ ド R o b b, o p .cit. , p . ス ト ン の 対 ア イ ル ラ ン ド 政 策 を 支 持 す る 決 議 を 採 択 し た ウ ェ イ ル ズ 、 の と あ る 支 部 に 対 し , リ ー グ 指 導 部 が 釈 明 を 要 求 し て い る 。 釈 明 に よ れ ば , こ の 決 議 は , 地 元 の ホ ー ム ・ ル ー ル 支 持 派 が 支 部 の 集 会 に 多 数 押 し か け , 集 会 を 牛 耳 っ て し ま う 中 で 採 択 さ れ た も の で あ っ た 。 1 9 2 . ) Grand C o u n c i lMinuteBook , 6 J a n . 1886, 3 1 March 1887, PrimroseLeaguePapers , 1 41 v o l s . 1-2;Pugh , TheT o r i e sandt h ePeople , p .2 7 . 1 4 2 ) McKenzie& Silver, 。ρ. cit. , p .v . 1 4 3 ) PLG , 2 7J u l y1 8 8 9 . 1 4 4 ) Robb ,oρ . をあげれば, cit. , p p .5 8~ 60, p p .1 8 8-2 0 0;Pugh , TheTories 1893 年4 月10 ~ 28 日 に は , αnd t h ePeo ρle , p p .8 9-90. 一例 全 国 で 少 な く と も52 の ホ ー ム ・ ル ー ル 反 対 集 会 が リーグ支部によって企画され,少なからぬそれにはリーグ指導部から弁士が派遣された。 PL G , 8, 1 5A p r i l1 8 9 3 . 145) も ち ろ ん, オ ー ス 卜 ラ リ アで も南ア フ リ カ で も, 自 治 の 担 い子 と な る こ と が認 め ら れ た の は 〈 白 人 〉 住 民 で あ っ て , 先 住 民 は 排 除 さ れ て い た わ け だ が , 19 世紀末以 来 , < ケ ル ト 〉 と し て 以 上 に く 白 人 〉 と し て の 自 己 を 強 調 す る よ う に な っ て い た ナ シ ョ ナ リ ス ト か ら す れ ば 、 , オ ー ス ト ラ リ ア や 南 ア フ リ カ の 事 例 は 自 ら の 自 治 能 力 を 証 明 す る 意 味 を も っ て い た 。 G a r n e r,。 ρ. 7. ま た , こ の 時期 の ユ ニ オ ニ ズ ム と 帝 国 主義 の 微妙 な 関 係 に つ い て は , cit. , p p .1 3 5 AlvinJackson , ‘The I r i s h 8 8 0~ 1 9 2 0 :c l a s s e sandmasses' , K e i t hJ e f f e r y (ed.) Unionismandt h eEmpire , 1 E m p i r e ' ?:A s p e c t so fIreland αnd t h eB r i t i s hEm ρire , , シ4 n I r i s h Manchester , 1996, p p .1 3 5-9 . r i s hQ u e s t i o n and B r i t i s h Politics , 1868~ 1996 , 2nd edn. , 1 4 6 ) D . George Boyce , The I Basingstoke , 1996, p p .4 0-1;Smith , ' C o n s e r v a t i v eI d e o l o g yandR e p r e s e n t a t i o n so ft h e UnionwithIreland' , p p .2 6-3 0 ;Smith , TheT o r i e sandIreland , p p .1 5-7;O'Day , I r i s h HomeRule , p .188, p .2 3 5 . l s t e rParty , p p .2~ 4, p p .1 4-5, p.322 , p .3 2 6 ;Jackson , ‘Irish unionism' , 1 4 7 ) Jackson , TheU p p .1 2 3-5 Smith , ' C o n s e r v a t i v eI d e o l o g y and R e p r e s e n t a t i o n so ft h e Union with Ireland' , p .3 0;Smith , TheT o r i e sandIreland , p .8;Smith , Britα In αnd Irelαnd , p p .6 4-5; o r i e sandt h ePeople , p .1 6 5 ;Wilson , 0ρ. cit. , p .152, p p .1 5 5-8;Gamble , o p .cit. , Pugh , TheT p .1 7 2 ;A . ] . Ward , o p .cit. , p p .5 9-60. 一例 と し て, ユ ニ オ ニ ズ ム の 歴 史 叙述 の パ イ オ ニ ア ・ ワークとなったロナルド・マクニールの『アルスターによるユニオンの f羅護』を見ると,ホー ム・ルールをめぐる闘争のクライマックスを成すのは,第 3次法案の提出から成立,第 l次大戦 -117 人文学報 による施行停止,分割に関する交渉を経て,アイルランド自由国成立に至る時期であり,第 l 次・第 2次法案はいわばクライマックスに向けての前史として位置づけられるにすぎな l )。そし て,クライマックスにかかわる叙述の中では, 無に応じて,アイルランドには 1 ブ リ テ ン 君主 と ブ リ テ ン 国旗 へ の 忠誠心」 の 有 1 2つの国民」が存在することを前提に,一方の極にある「ナ ショナリスト J (I 合 法 的 ナ シ ョ ナ リ ス ト 」 と 「 フ ィ ジ カ ル ・ フ ォ ー ス ・ ナ シ ョ ナ リ ス ト 」 は 同 類 とされる)を,ロパー卜・エメットやウルフ・トーンといった「イングランドへの憎悪だけに よって突き動かされ,武器の力によって,時には(われわれの時代のロジャー・ケイスメントの ように)イングランドの外敵の助けによって,アイルランドの完全独立を達成しようとした者た ち」の伝統の延長線上に位置する「叛徒」と性格づけ, rT忠誠」 の 伝統 の 継承者」 た る 「 ユ ニ オ ニスト」ないし「ロイアリスト」に対置する議論が駆使されている。 14. 以下 の 文献 も 参照 の こ と 。Irish M c N eill , o p .cit., p p .2ュ U n i o n i s tAlliance , F,αcts o fR a d i c a lMisgovernment;and t h eHomeRuleQ u e s t i o nDownt oDate , Dublin , 1 9 0 9 ;S .Rosenbaum (ed.) , R u l e :TheC a s ef o rt h eUnion , n .p., 1912, r pt .NewYork , 1 9 7 0 . 1 1 8 Ag,αinst Home