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東京 空襲
東京⼤空襲 戦略爆撃 > ⽇本本⼟空襲 > 東京⼤空襲 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第 空襲を⾏ったB-29 爆撃機 空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真 ⽇本本⼟空襲 のためのB-29 が並んでいるサイパン島 のイズリー⾶⾏場(1945 年) ⼟と化した東京。本所区 松坂町、元町(現在の墨⽥ 区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅⽥ 川。 空襲)を指すことが多い* [2]* [3]。この 3 ⽉ 10 ⽇ の空襲だけでも罹災者は 100 万⼈を超えた* [3]。 ⼆次世界⼤戦 末期にアメリカ軍 により⾏われた、 東京 に対する焼夷弾 を⽤いた⼤規模な戦略爆撃 の総称。⽇本各地に対する⽇本本⼟空襲、アメリ 1 カ軍による広島・⻑崎に対する原爆投下、沖縄戦 と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃 によっ 1.1 て⺠間⼈に⼤きな被害を与えた。 早⼄⼥勝元 によれば、空襲 としては史上最⼤規 模の⼤量虐殺 とされる* [1]。 対日戦略爆撃計画 焼夷弾爆撃有効度別地域 1942 年にはナパーム焼夷弾M69 が開発され、1943 年の国家防衛調査委員会 (NDRC) 焼夷弾研究開発 東京は1944 年(昭和19 年)11 ⽉ 14 ⽇ 以降に 106 部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下 回もの空襲を受けたが、特に1945 年(昭和 20 年) して⽕災を起こさせ、住宅と⼯場も⼀緒に焼き尽 3 ⽉ 10 ⽇、4 ⽉ 13 ⽇、4 ⽉ 15 ⽇、5 ⽉ 24 ⽇ 未明、 くすのが最適の爆撃⽅法であるとした上で、空爆 5 ⽉ 25 ⽇−26 ⽇の 5 回は⼤規模だった。その中で ⽬標の⽇本全国 20 都市を選定し、さらに東京、川 も「東京⼤空襲」と⾔った場合、死者数が 10 万⼈ 崎、横浜など 10 都市については焼夷弾 爆撃の有効 以上と著しく多い 1945 年 3 月 10 日の空襲(下町 度によって地域を以下のように区分した* [4]* [5]。 1 2 空襲の経過 2 • ⾮有効地域: 最有効地域 1、有効地域 2 以外の 郊外の住宅地域や防⽕設備の整ったオフィス 街を含む⼯場地帯。 • 空爆⽬標の⽇本全国 20 都市の主要部は M69 焼夷弾 1700 トンでを焼き尽くすことが可能。 アメリカ軍は⽇本家屋を再現した実験場を作り、 ⼤規模な延焼実験を⾏っている。実験⽤に⽴てら れた⽇本家屋は、室内の畳 を⽇系⼈ の多いハワイ からわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。 これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とさ れたことにより、東京⼤空襲を初めとする⽇本本 ⼟への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成 功した。 空襲を受ける東京市街、1945 年 5 ⽉ 25 ⽇。画⾯中央は 現在の東京⼥学館・⽇⾚医 センター付近、画⾯下か ら右上に延びるのは渋⾕川、画⾯下に⼭⼿線 と東横線 の交差と思しきものが⾒えることから広尾 上空と 定 される。なお、北⽅向は写真左側となる。撮影当時、現 地を南南⻄の⾵が吹いていたことがこの写真から⾒て 取れる。 1.2 大規模攻撃報告書 1943 年2 ⽉ 15 ⽇ 付けのアメリカ経済戦争局の報 告書「⽇本の都市にたいする⼤規模攻撃の経済 的意義」では爆撃隊対象都市の選定にあたって⼈ ⼝密度、⽕災危険度、輸送機関と⼯場の配置など を基準に弾爆撃有効度が測られ、⼀覧表が作られ た* [4]。特に⼈⼝密度は重視され、東京の各区⼈ ⼝密度順では、浅草区13 万 5000 ⼈が最⾼で、本 所区、神⽥区、下⾕区、荒川区、⽇本橋区、荏原 区 の各区が 8 万⼈以上とされ、3 ⽉ 10 ⽇の東京⼤ 空襲では、これらのうち荏原区を除いて代わりに 7 万⼈台の深川区 の北半分を加えた地域が焼夷弾 攻撃地域第⼀号となった* [4]。 また、アメリカ軍は江⼾時代の度重なる⼤⽕ や関 東⼤震災(1923 年)における被害実態を事前に 徹底的に検証し、⽊造住宅の密集する東京の下町 が特に⽕災被害に遭いやすいことを突き⽌めてい た。この成果を爆弾の選定や攻撃⽬標の決定に反 映させ、東京⼤空襲の被害地域・規模は関東⼤震 災 の延焼地域とほぼ⼀致しているのは偶然の⼀ 致ではなく、そして⼤震災時を⼤幅に上回った。 1.3 毒ガス散布計画案 アメリカ軍による空襲計画の地図(⽶軍報告「東京 -川 崎 -横浜都市 合体に対する空襲攻撃の効果」) 連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための 詳細な研究を⾏っており、散布する季節や気象条 件を初めとして散布するガスの検討を⾏い、マス • 最有効地域 1: 都市中⼼部商店街地域、密集地 タードガス・ホスゲン などが候補に挙がってい 域、住宅⼯場混在地域で⼀マイル四⽅あたり た* [6]。 の⼈⼝密度 9 万 1000 ⼈、都市⼈⼝の 25% を 占める地域。この地域は⼀平⽅マイルあたり 6 トンの焼夷弾で焼き尽くすことが可能。 2 空襲の経過 • 有効地域 2: 港湾施設、倉庫、貨⾞操⾞場など もある住宅地域、住宅⼯場混在地域、⼯場地 域で⼀マイル四⽅あたり⼈⼝密度 5 万 4000 ⼈、都市⼈⼝の 46% 以上を占める地域。これ は⼀平⽅マイルあたり 10 トンの焼夷弾で焼 き尽くすことが可能。 2.1 背景 1942 年(昭和 17 年)4 ⽉ 18 ⽇ に、アメリカ軍によ る初めての⽇本本⼟空襲 となるドーリットル空 襲 が航空⺟艦 からのB-25 爆撃機を使って⾏われ、 2.2 サン・アントニオ作戦 3 1943 年 8 ⽉ 27 ⽇、アメリカ陸軍航空軍 司令官ヘ ンリー・アーノルド ⼤将は⽇本敗北のための空戦 計画を提出する。⽇本都市産業地域への⼤規模で 継続的な爆撃を主張し、焼夷弾 の使⽤に関しても ⾔及していた* [9]。この時、アーノルドは科学研 究開発局⻑官ヴァネヴァー・ブッシュ から「焼夷攻 撃の決定の⼈道的側⾯については⾼レベルで⾏わ れなければならない」と注意されていたが、アー ノルドが上層部へ計画決定要請を⾏った記録はな い* [10]。 1944 年(昭和 19 年)6 ⽉ 15 ⽇からのマリアナ・ パラオ諸島の戦い で⽇本軍に連戦したアメリカ 軍は、7 ⽉ 9 ⽇にサイパンの戦い でサイパン島 を、 8 ⽉ 1 ⽇にテニアンの戦い でテニアン島 を、8 ⽉ 10 ⽇にグアムの戦い でグアム などのマリアナ諸 フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。 島 を制圧し占領し、テニアン島 にハゴイ⾶⾏場 南端はグアム で、北には⼩笠原諸島 があり、伊⾖・⼩ (現・ノースフィールド⾶⾏場)とウエストフィール 笠原・マリアナ島 を形成している。 ド⾶⾏場(現在テニアン国際空港)、グアム にア ンダーセン空軍基地、サイパン島 にコンロイ・イ ズリー⾶⾏場(現在サイパン国際空港)を建設し た。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶え ていたが、これらの巨⼤基地の建設、B-29 爆撃機 の開発と⽣産の完了により、B-29 爆撃機 の攻撃圏 内に東京を含む⽇本本⼟のほぼ全⼟が⼊るように なった* [11]。⽇本ではマリアナ諸島陥落の責任を 東条内閣に求め、1944 年 7 ⽉ 18 ⽇に内閣総辞職 した* [11]。 2.2 サン・アントニオ作戦 当初 1944 年(昭和 19 年)11 ⽉、第 21 爆撃集団 司令官ヘイウッド・ハンセル 准将はマリアナか らの⽇本本⼟空襲を実施する「サン・アントニオ グアムアンダーセン空軍基地(1972 年)。1944 年にB-29 1 号作戦」を開始した。ハンセルは 1944 年 11 ⽉ 爆撃機⽤の基地として作られ、ベトナム戦争 中はB-52 23 ⽇から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完 が展開した。 と天候に恵まれず戦果を上げることができなかっ た* [12]。 東京、名古屋の対する爆撃で主⽬標を中島⾶⾏機、 三菱重⼯、第 2 ⽬標を市街地とする爆撃の命令を ⾏いつつも、11 ⽉ 29 ⽇には、東京⼯業地域を第 ⼀⽬標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃 が⾏われ、1945 年 1 ⽉ 3 ⽇には名古屋のドッグ地 帯と市街地を第⼀⽬標とした昼間爆撃を実施して いる。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無 差別爆撃をテストしており、⼤規模な無差別爆撃 の準備が進めていた* [13]。 アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド は中国からの B29 の爆撃をやめさせてその部隊を マリアナに合流させ、1945 年 1 ⽉ 20 ⽇、ハンセ ルの後任としてカーチス・ルメイ 少将を司令官に 任命した。戦後ハンセルは「もし⾃分が指揮を執 り続けていたら⼤規模な地域爆撃(無差別爆撃) ⻩島の戦い を⾏わなかっただろう。⾃分の罷免は精密爆撃か ら地域爆撃への政策転換の結果である」と語って 東京も初の空襲を受け、荒川区、王⼦区、⼩⽯川 いるが、実際はハンセルの任期から無差別爆撃の 区、⽜込区が空襲を受けた* [7]。死者は 39 ⼈* [8]。 準備を進め、実験的に実⾏しており、無差別爆撃 4 2 空襲の経過 下⾕区は死者 3 ⼈* [7]。ミーティングハウス 1 号 作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって 離陸前から⽬標を市街地へ変更し、従来と同じ⽇ 中の⾼々度爆撃ではあったものの、使⽤弾種の 9 割に焼夷弾 が導⼊された* [18]。それまでで最多の ルメイの独創性は進⼊⾼度の変更にあった。従来 229 機が出撃し、神⽥駅 を中⼼に広範囲を焼失し、 * は⾼度 8500m から 9500m の昼間爆撃を⾏ってい 新戦術が効果的であることが判明した [19]。 たが、⾼度 1500m から 3000m に変更した。理由 1945 年 2 ⽉ 26 ⽇から 28 ⽇までの時期の B-29 に はジェットストリーム の影響を受けないこと、エ よる東京空襲は、昼間に 8000 メートル程度の⾼ ンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積める ⾼度を編隊で⾶びながらノルデン爆撃照準器 に こと、爆撃が正確に命中すること、⽕災を密度で よる⽬視照準を主⽤し、悪天候時には雲より⾼空 合流し⼤⽕災にできることであった。しかし低空 からレーダー 照準を活⽤する精密爆撃を意図し では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にし たものだった。⼯場などが⽬標のため、使⽤弾種 た。また機銃、弾薬、機銃⼿を B29 から取り除き も焼夷弾ではなく通常爆弾が中⼼だった。攻撃隊 ⼀機当たり爆弾を 200 キロ増やせるようにし、編 は東京⻄部からジェット気流 に従って侵⼊し爆撃 隊ではなく単機直列に変更した。ルメイの変更に を⾏うのが通例で、悪天候で攻撃⽬標を捉えられ 乗員は恐怖したが、結果的に B29 の損害は軽微で ない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃する あった* [16]。 ことがあった* [18]。 の⽅針についてルメイは基本的にハンセルの戦術 を踏襲している* [14]。アーノルドはルメイが中国 から⾏った⾼い精度の精密爆撃の腕を買い、1944 年 11 ⽉ 13 ⽇の時点でルメイの異動を検討してい た* [15]。 このルメイの⽴案の低空⾶⾏に兵⼠が難⾊を⽰す と、ルメイは葉巻 を噛み切って「何でもいいから 低く⾶ぶんだ」と⾔った。空襲時の東京を空から 2.3.2 2 号作戦 ⼀定の時間おきにスケッチ するため⾼度 1 万メー トルに留まっていた⾶⾏機もあり、帰還後ルメ 「ミーティングハウス 2 号作戦」と呼ばれた1945 イはそのスケッチを満⾜げに受け取った。ルメイ 年3 ⽉ 10 ⽇ の⼤空襲(下町⼤空襲)は、⾼度 1600– は、「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結 2200 メートル程度の超低⾼度・夜間・焼夷弾攻撃 する。これは天皇 すら予想できぬ」と語った* [17]。 という新戦術が本格的に導⼊された初めての空襲 だった。その⽬的は、⽊造家屋が多数密集する下 町 の市街地を、そこに散在する町⼯場もろとも 焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリ 2.3 ミーティングハウス作戦 カ軍は、⽇本の中⼩企業が軍需産業 の⽣産拠点と なっているためと理由付けしていた。アメリカ軍 2.3.1 1 号作戦 がミーティングハウス 2 号作戦の実施を 3 ⽉ 10 ⽇に選んだ理由は、延焼効果の⾼い⾵の強い⽇と 気象予報されたためである* [20]。 アメリカ軍の参加部隊は第 73、第 313、第 314 の三 個航空団で、325 機の B-29 爆撃機が出撃した。各 B-29 には、ほぼ全ての機関銃 や弾薬 を爆弾投下 機の多くから降ろし、焼夷弾の搭載量が優先され、 通常の約 2 倍の搭載量である 6 トンもの⾼性能焼 夷弾 を搭載した。この空襲での爆弾の制御投下弾 量は 38 万 1300 発、1783 トンにも上った。投下さ れた爆弾、焼夷弾が、当時の⽇本家屋を焼き払う ために最適化されたものだった。また、「低空進 ⼊」と呼ばれる⾶⾏法が初めて⼤規模に実戦導⼊ された。この⾶⾏法ではまず、先⾏するパス・ファ インダー機(投下誘導機)によって超低空からエ レクトロン焼夷弾 を投弾、その閃光は攻撃区域を 後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊 焼夷弾 を投下するB-29 爆撃機 の爆撃機編隊も通常より低空で侵⼊した上、発⽕ 1945 年2 ⽉ 25 ⽇(⽇) 、ミーティングハウス 1 号 点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46 作戦。神⽥区、本所区、四⾕区、⾚坂区、⽇本橋区、 を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、⾼ 向島区、⽜込区、⾜⽴区、麹町区、本郷区、荒川区、 空からの爆撃に⽐べて⾼いものだった。 江⼾川区、渋⾕区、板橋区、葛飾区、城東区、深川 3 ⽉ 9 ⽇夜、アメリカ軍編隊が⾸都圏上空に⾶来 区、豊島区、滝野川区、浅草区、下⾕区、杉並区、 した。⽇本軍は⼋丈島 に配備していた陸軍の実⽤ 淀橋区空襲、死者 195 ⼈、被害家屋 20681* [7]。宮 レーダー超短波警戒機⼄ によって機影を探知し、 城 も主⾺寮厩仕合宿所が焼夷弾 によって消失し、 ⽇本標準時9 ⽇ 22 時 30 分にはラジオ放送を中断、 局、⼤宮御所、秩⽗宮御殿などが被害にあった* [8]。 警戒警報を発令した。ところが、アメリカ軍機が 2.3 ミーティングハウス作戦 5 従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、 えていたが、⽇本列島では猛烈な⾵のために本⼟ ⽇本軍は敵機が房総半島 沖に退去したものと誤 配備のレーダーアンテナが揺れ精度が低下、また 認し、警戒警報を解除してしまった* [21]。これに 迎撃⾶⾏部隊は出撃することができずにいた。そ より⽣じた隙を突くように、3 ⽉ 10 ⽇ に⽇付が の後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能とな 変わった直後の午前0 時 7 分、爆撃が開始された。 り爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の⾼射 325 機の出撃機のうち 279 機が第⼀⽬標の東京市 砲 部隊の戦果を合わせて 12 機を撃墜、42 機を撃 街地への爆撃に成功し* [21]、0 時 7 分に 破する戦果を挙げた* [24]。 • 第⼀⽬標 - 深川区(現在の江東区) • 第⼆⽬標 - 本所区(現在の墨⽥区) • 第三⽬標 - 浅草区(現在の台東区) 誘導機を務めたトム・パワー参謀⻑は「まるで⼤ 草原の野⽕のように燃え広がっている。地上砲⽕ は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告した。 ルメイの部隊は最終的に 325 機中 14 機を損失し ただけであった* [25]。 • 第四⽬標 - ⽇本橋区(現在の中央区) 使用爆弾 へ初弾が投下されたのを⽪切りに、城東区(現在 の江東区)にも爆撃が開始された。 空襲警報 は遅れて発令され、初弾投下 8 分後の 0 時 15 分となった。遅れた理由は、アメリカ軍機 はウインドウ を⼤量に散布して陸軍が⽇本本⼟ に配備していたレーダー(超短波警戒機⼄)によ る捕捉に対抗しており、また当時吹いた強い季節 ⾵によってレーダーのアンテナが揺さぶられ精度 が低下し、編隊の把握に⽀障が⽣じたためであっ た。 この爆撃において投下された爆弾の種類は、こ の作戦で威⼒を発揮した新型の集束焼夷弾E46 (M69) を中⼼とする油脂焼夷弾、⻩燐焼夷弾 やエ レクトロン焼夷弾、ゼリー状のガソリン を約 50 センチメートルの筒状の容器に詰めたナパーム弾 などである。この焼夷弾は、投下時には各容器が ⼀つの束にまとめられており、投下後に空中で散 弾のように各容器が分散するようにされていたた め、 「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼 夷弾」と呼ばれた。 0 時 20 分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も 開始された。この他、下⾕区、⾜⽴区、神⽥区、麹 使⽤された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構 町区、⽇本橋区、本郷区、荒川区、向島区、⽜込 造のものだった。通常の航空爆弾では、瞬発また 区、⼩⽯川区、京橋区、⿇布区、⾚坂区、葛飾区、 は 0.02–0.05 秒の遅発信管 が取り付けられており、 滝野川区、世⽥⾕区、豊島区、渋⾕区、板橋区、江 破壊⼒は主に爆発のエネルギーによって得られ ⼾川区、深川区、⼤森区が被害にあった* [7]。災難 る。しかし⽊造の⽇本家屋 を標的にそのような爆 の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦 が防空壕 で 弾を⽤いても、破壊できる家屋が爆⾵が及ぶ範囲 のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず 誕⽣した⽇でもあった。 散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリ ⼀ 部 で は 爆 撃 と 並 ⾏ し て機 銃 掃 射 も ⾏ わ れ カ軍は、市街地を⽕災により壊滅させるため、爆 た* [22]。⽇本側資料では「アメリカ軍機が避難 発⼒の代わりに燃焼⼒を主体とした焼夷弾を⽤い 経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した ることとし、その焼夷弾も⽇本家屋に⽕災を発⽣ 後、中⼼に包囲された市⺠を焼き殺した」と証⾔ させるために新たに開発した。投下時に確実に⽇ するものがあるが、そのような戦術はアメリカ 本家屋の⽡屋根を貫通させるため、上述した形状 軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦 が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹 報告書によれば、⽬標が煙で⾒えなくなるのを避 流し状のものも個々の容器に取り付けられた。こ けるため、⾵下の東側から順に攻撃する指⽰が出 れにより、各容器が家屋の内部に到達して内部か されていた。体験者の印象による誤解と考えられ ら⽕災を発⽣させる確率が⾼められた。都内では る* [23]。 当時すでに、関東⼤震災を教訓にした燃えにくい 素材で建物を補強する対策がなされていた。しか し、防⽕性のある⽡屋根を貫いて建物の内部で着 ⽕剤を⾶散させ、中から延焼させる仕組みのこれ ら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この 焼夷弾の開発の参考にされたのは、⽪⾁にも同盟 国ドイツ によるロンドン 空襲において回収され た不発弾 であった。 被害規模 防空戦に出撃した機体の⼀つ三式戦闘機⾶ この空襲時には陸軍が早期警戒⽤に⼋丈島に配備 していたレーダー(超短波警戒機⼄)が機影を捉 当時の警視庁 の調査での被害数は以下の通り。 • 死亡:8 万 3793 ⼈* [7] 3 戦後 6 犠牲者の遺体を調べる警察官 • 負傷者:4 万 918 ⼈ • 被災者:100 万 8005 ⼈ • 被災家屋:26 万 8358 ⼾* [7] た鉄筋コンクリート 造の学校などに避難した⼈ も多かった。しかし⽕災の規模が常識をはるかに 超えるものだったため、⾄る所で巨⼤な⽕災旋⾵ が発⽣し、あらゆる場所に⻯の如く炎が流れ込ん だり、主な通りは軒並み「⽕の粉の川」と化した。 そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて 焼死してしまった⼈々や、炎に酸素 を奪われて窒 息 によって命を奪われた⼈々も多かった。焼夷弾 は建造物等の⽬標を焼き払うための兵器だが、こ の空襲で使われた焼夷弾は⼩型の⼦弾が分離し⼤ 量に降り注ぐため、避難⺠でごった返す⼤通りに ⼤量に降り注ぎ⼦供を背負った⺟親や、上空を⾒ 上げた⼈間の頭部・⾸筋・背中に突き刺さり即死 させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の⼈々を 巻き添えにするという凄惨な状況が多数発⽣し た。また、川も⽔⾯は焼夷弾のガソリンなどの油 により引⽕し、さながら「燃える川」と化し、⽔中 に逃れても冬期の低い⽔温のために凍死する⼈々 も多く、翌朝の隅⽥川・荒川放⽔路 等は焼死・凍 死・溺死者で川⾯があふれた。これら⽔を求めて 隅⽥川から都⼼や東京湾・江⼾川⽅⾯へ避難した 集団の死傷率は⾼かった⼀⽅、内陸部、⽇光街道・ 東武伊勢崎線 沿いに春⽇部・古河 ⽅⾯へ脱出し た⼈々には⽣存者が多かった。 ⼈的被害の実数はこれよりも多く、死者約 8 万 −10 万、負傷 4 万 −11 万名ともいわれる。上記警 視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を 含んでおらず、またそれ以外にも⾏⽅不明者が数 万⼈規模で存在する。⺠間団体や新聞社の調査で は死亡・⾏⽅不明者は 10 万⼈以上と⾔われてお これ以降も、⽇本側の産業基盤を破壊し、また戦 り、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大で 意を失わせるため東京への空襲は続けられ、また ある。両親を失った戦災孤児 が⼤量に発⽣した。 全国各地でも空襲が⾏われ、その結果多くの⼀般 外国⼈、および外地 出⾝者の被害の詳細は不明。 市⺠が犠牲となった。 また当時東京に在住していた朝鮮⼈ 9 万 7632 ⼈ 1945 年 3 ⽉から 5 ⽉にかけての空襲で東京市街の 中、戦災者は 4 万 1300 ⼈で、死者は 1 万⼈を軽く 50% を焼失した。また、多摩地区 の⽴川、⼋王⼦ 越すと⾒られている* [26]* [27]。 (⼋王⼦空襲)なども空襲の被害を受けている。そ この空襲で⼀夜にして、東京市街地の東半部、実 の後、空襲の⽭先は各地⽅都市に向けられていく。 に東京 35 区の 3 分の 1 以上の⾯積にあたる約 41 平⽅キロメートルが焼失した。爆撃による⽕災 の 煙は⾼度 1 万 5000 メートルの成層圏 にまで達し、 秒速 100 メートル以上という⻯巻 並みの暴⾵が吹 き荒れ、⽕⼭の⼤噴⽕を彷彿とさせた。午前 2 時 3 戦後 37 分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は 解除されたが、想像を絶する⼤規模な⽕災は消⽕ 作業も満⾜に⾏われなかったため 10 ⽇の夜まで 3.1 慰霊 続いた。当夜の冬型の気圧配置 という気象条件に よる強い季節⾵(いわゆる空っ⾵)は、⼤きな影響 を及ぼした。強い北⻄の季節⾵によって⽕勢が煽 ⾝元不明の犠牲者の遺⾻は関東⼤震災 の犠牲者 られ延焼が助⻑され、規模の⼤きい⾶び⽕も多発 を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。こ し、特に郊外地区を含む城東地区や江⼾川区内で のため 1951 年(昭和 26 年)には、震災記念堂か 焼失区域が拡⼤する要因となった。さらに後続す ら東京都慰霊堂 に名称が改められた。慰霊堂では るアメリカ軍編隊が爆撃範囲を⾮炎上地域にまで 毎年 3 ⽉ 10 ⽇に追悼⾏事が⾏われているほか、隣 徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒 接する東京都復興記念館 に関東⼤震災および東 川放⽔路 周辺や、その外側の⾜⽴区 や葛飾区、江 京⼤空襲についての展⽰がある。 ⼾川区 の⼀部の、当時はまだ農村地帯だった地区 東京都 は 1990 年(平成 2 年)、空襲犠牲者を追悼 の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲 し平和を願うことを⽬的として、3 ⽉ 10 ⽇を「東 が広げられたことにより、被害が拡⼤した。これ 京都平和の⽇」とすることを条例 で定めた。東京 は早い段階で⼤⽕災が発⽣した投下予定地域の上 都では墨⽥区 の横網町公園 に「東京空襲犠牲者 空では⽕災に伴う強⾵が⽣じたため、低空での操 を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族など 縦が困難になったためでもあった。 からの申し出により判明した 1942 年から 1945 年 爆撃の際には⽕炎から逃れようとして、隅⽥川や の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2013 年 3 ⽉時点で 荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われてい 79941 名が登載)を納めている* [7]。 3.3 戦争犯罪問題 7 ⾼裁 が原告側の上告を棄却し、原告側の全⾯敗訴 が確定した* [30]。棄却の理由で、空襲被害者救済 は裁判所では判断が出せず、国会 が⽴法 で⾏う とした点は、国⺠の受忍限度とした旧来の判断か ら踏み込んだと弁護団は敗訴だが評価した* [31]。 2010 年 8 ⽉ 14 ⽇、⽇本政府が空襲被害者に補償 を⾏う「空襲被害者等援護法」の制定を⽬指した 「全国空襲被害者連絡協議会」が結成* [32]。2011 年 6 ⽉ 15 ⽇には、超党派の議員連盟「空襲被害者等 援護法を実現する議員連盟」が設⽴された* [33] 「戦災により亡くなられた⽅々の碑」 台東区浅草 七丁⽬⼀番 3.2 補償問題 朝鮮⼈ 被害者については体験者の証⾔から当時 の状況を記録する運動もあり* [34]、さらに、朝鮮 ⼈強制連⾏ によって東京 に強制連⾏ された朝鮮 ⼈が東京⼤空襲の被害にあったと主張する朝鮮⼈ 強制連⾏被害者・遺族協会も 2008 年に報告書を 発表している* [35]。報告書では、東京での朝鮮⼈ 強制労働犯罪、そして東京⼤空襲による朝鮮⼈強 制連⾏被害者の惨状などが報告された* [26]。朝鮮 新報 は 2008 年 6 ⽉ 6 ⽇記事で「⽇帝は、空襲が あった後に天皇がこの地域を訪れるという⼝実を 設けて、朝鮮⼈ら死者に対する⾝元調査すらしな いまま、67 カ所の公園と寺院、学校の運動場な どに⼟葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息 を引き取った朝鮮⼈の遺⾻を⾃分勝⼿にむちゃく ちゃに処理する反⼈倫的な蛮⾏を働いた」「東京 ⼤空襲で多数の朝鮮⼈が犠牲になったのは、全的 に旧⽇本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因す る」とし、⽇本政府は被害者の遺⾻を遺族に送る べきだったし、さらに南北朝鮮を差別して北朝鮮 には⼀切の遺⾻が返還されておらず、これは国際 ⼈道法と⽇本の刑法に違反している重⼤な⼈権侵 害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じる べきと主張している* [26]。 2007 年(平成19 年)3 ⽉ 9 ⽇、「東京空襲犠牲者 遺族会」の被災者・犠牲者の遺族 112 ⼈(平均年 齢 74 歳)は、⽇本政府に対し、謝罪および総額 12 億 3,200 万円の損害賠償を求めて東京地⽅裁判所 3.3 戦争犯罪問題 に集団提訴 を⾏った* [28]。アメリカ軍 の空襲に よる⺠間の被害者が集団となって⽇本国に責任を 空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃 問うのは初。⽬的は、旧軍⼈・軍属が国家補償を だが、東京⼤空襲は東京そのものの殲滅を⽬的と 受けているのに対して国家総動員法 に寄って動 する無差別爆撃で多数の⾮戦闘員たる⺠間⼈が犠 員された⺠間⼈は補償が⾏われていないことを理 牲になっており、戦争犯罪 ではないかとの指摘 由に、「東京空襲が国際法 違反の無差別絨毯爆撃 も強く、2007 年の東京⼤空襲訴訟でも無差別攻 だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策によ 撃はハーグ陸戦条約3 条違反という主張がなされ り戦争を開始した政府の責任を追及する」ことで た* [3]。第⼀次世界⼤戦 後の 1922 年、ハーグ空戦 ある* [3]。法的根拠は、ハーグ陸戦条約3 条違反の 規則 が採択され、軍事⽬標以外の⺠間⼈の損傷を 無差別攻撃であった東京⼤空襲を⾏ったアメリカ ⽬的とした無差別空爆は禁⽌されていた* [3]。 政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、 ⽇本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲 ⽇本政府は、サンフランシスコ平和条約 により賠 被害について外交保護権を放棄した。これは憲法 償請求権を放棄している。 17 条の公務員の不法⾏為に該当する、また戦時災 国内法でも軍⼈、軍属とその遺族への特別援護 害保護法 によって国は救済義務を負っているが 政策が採られた⼀⽅で、⾮軍⼈に対しては不⼗ 懈怠した、などというものだった* [3]。なお、2006 分な対策しか講じられていないとして議論があ 年には⽇本軍による重慶爆撃 に対する謝罪と賠 る* [36]。 償を求めた重慶⼤爆撃賠償請求訴訟 が開始して 1964 年(昭和 39 年)12 ⽉ 4 ⽇に⽇本本⼟爆撃を含 いる。 む対⽇無差別爆撃を指揮した⽶空軍司令官カーチ 2009 年 12 ⽉ 14 ⽇の 1 審判決で請求棄却 * [29]。原 ス・ルメイ ⼤将に対し勲⼀等旭⽇章 の叙勲を第 1 告側は控訴 したが控訴棄却。2013 年 5 ⽉ 9 ⽇に最 次佐藤内閣 が閣議決定し* [37]、理由は航空⾃衛隊 4 空襲の⼀覧 8 育成の協⼒で、授与は 7 ⽇に⾏われた* [38]。 当時⾮難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄 作 ⾸相は「今はアメリカと友好関係にあり、功 績があるならば過去は過去として功に報いるのが 当然、⼤国の⺠とはいつまでもとらわれず今後の 関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答 える。⼩泉純也 防衛庁⻑官も「功績と戦時の事情 は別個に考えるもの」と答えている* [39]。勲⼀等 の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇 はルメイ と⾯会することはなかった。NHK 取材では戦争 責任についての問いにルメイは勲章を⽰して⾒せ た* [40]。 させ、東京や名古屋の軍需⼯場や港湾施設を ⽬標とした戦略爆撃を続けた。 • 1944 年11 ⽉ 27 ⽇、中島⾶⾏機武蔵製作所(2 回⽬)、渋⾕区、城東区、江⼾川区空襲、死者 41 ⼈* [7]。 • 1944 年11 ⽉ 29 ⽇、神⽥区、本所区、城東区、 江⼾川区、葛飾区 空襲。被害家屋 2952、死者 32 ⼈* [7]。当時軍⽤地 だった浜離宮 も空襲さ れた* [45]。 • 1944 年11 ⽉ 30 ⽇、芝区、⿇布区、⽇本橋区、葛 飾区空襲* [7]。⽇本橋区 への初めて空襲* [45]。 戦後ルメイは⽇本爆撃に道徳的な考慮は影響し たかと質問され、「当時⽇本⼈を殺すことについ てたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませて 12 月 いたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦 争に敗れていたら私は戦争犯罪⼈として裁かれて • 1944 年12 ⽉ 3 ⽇、杉並区、板橋区、江⼾川区、 いただろう。幸運なことにわれわれは勝者になっ 滝野川区、北多摩郡武蔵野町 空襲。死者 184 た」「答えは“イエス”だ。軍⼈は誰でも⾃分の⾏ ⼈* [7]。 為の道徳的側⾯を多少は考えるものだ。だが、戦 争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた* [41]。 • 1944 年12 ⽉ 6 ⽇、江⼾川区空襲。死者 3 ⼈* [7]。 ルメイは「我々は⽇本降伏を促す⼿段として⽕災 • 1944 年12 ⽉ 10 ⽇、麹町区、城東区、浅草区、 しかなかったのだ」とも述懐している* [17]。 江⼾川区空襲。死者 1 ⼈* [7]。 ⽇本本⼟爆撃に関して、ルメイは⼈道に反するこ とを知りつつも戦争における必要性を優先し現場 • 1944 年12 ⽉ 11 ⽇、⼤森区、品川区空襲。死 で効果的な戦術を考案し実⾏した責任があるが、 者 1 ⼈* [7]。 爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルド に命じ • 1944 年12 ⽉ 12 ⽇、豊島区、⼩⽯川区、東京 られた任務であり、ルメイの役割が誇⼤に語られ 湾空襲。死者 6 ⼈* [7]。 る傾向がある。ルメイの就任で B-29 の攻撃法が夜 間中⼼に変わったが、都市爆撃(無差別爆撃)の枠 * 組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、 • 1944 年12 ⽉ 15 ⽇、江⼾川区空襲 [7] 東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試 • 1944 年12 ⽉ 20 ⽇、世⽥⾕区 空襲* [7] ⾏などルメイ就任前から進められていた* [42]。 • 1944 年12 ⽉ 21 ⽇、 江⼾川区空襲、 死者 4 ⼈* [7]。 2013 年(平成25 年)5 ⽉ 7 ⽇、第 2 次安倍内閣 は東 京⼤空襲についての答弁書を閣議決定した* [43]。 • 1944 年12 ⽉ 24 ⽇、江⼾川区空襲* [7] 答弁書では、「国際法の根底にある基本思想の⼀ つたる⼈道主義 に合致しない」点を強調する⼀ • 1944 年12 ⽉ 27 ⽇、板橋区、中野区、杉並区、 ⽅、「当時の国際法に違反して⾏われたとは⾔い 王⼦区、淀橋区、城東区、⼩⽯川区、深川区、 切れない」とも指摘し、アメリカへの直接的な批 品川区、世⽥⾕区、葛飾区、麹町区、⽇本橋 判は事実上避けている* [43]。 区、京橋区、芝区、⿇布区、⽜込区、北多摩 郡武蔵野町、保⾕町空襲。死者 51 ⼈* [7]。 4 空襲の一覧 4.1 11 月 1944 年(昭和 19 年) • 1944 年12 ⽉ 30 ⽇、浅草区、本所区、⽇本橋 区空襲* [7] • 1944 年12 ⽉ 31 ⽇、神⽥区、本郷区、下⾕区、 浅草区、本所区、向島区 空襲、死者 5 ⼈* [7]。 • 1944 年(昭和 19 年)11 ⽉ 24 ⽇ に 111 機の B-29 4.2 1945 年(昭和 20 年) による北多摩郡武蔵野町 の中島⾶⾏機 武蔵 製作所、江⼾川区、荏原区、品川区、杉並区、 1 月 保⾕町、⼩⾦井町、東久留⽶市、東京港 など に対する初の戦略爆撃 としての空襲(サン・ • 1945 年(昭和20 年)1 ⽉ 1 ⽇、下⾕区、浅草区、 アントニオ 1 号作戦)を⾏った* [7]* [44]。死 本所区、向島区、江⼾川区空襲、死者 5 ⼈* [7]。 者 224 ⼈* [7]。これ以降アメリカ軍は 1945 年 (昭和 20 年)2 ⽉まで各回 70-80 機程度を出撃 • 1945 年1 ⽉ 5 ⽇、城東区空襲、死者 3 ⼈* [7]。 4.2 1945 年(昭和 20 年) 9 • 1945 年1 ⽉ 9 ⽇、麹町区、芝区、⽜込区、深 3 月 川区、⼤森区、杉並区、板橋区、北多摩郡武 蔵野町、保⾕町、⽥無町 空襲、死者 28 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 4 ⽇、豊島区、滝野川区、城東区、 • 1945 年1 ⽉ 11 ⽇、東京湾空襲* [7] • 1945 年1 ⽉ 27 ⽇、エンキンドル 3 号作戦* [44]。 麹町区、⽇本橋区、京橋区、⿇布区、⾚坂区、 ⽜込区、⼩⽯川区、荒川区、向島区、下⾕区、本 所区、深川区、王⼦区、葛飾区、江⼾川区、⾜⽴ 区、本郷区、浅草区、板橋区、中野区、杉並区、 荏原区、渋⾕区、北多摩郡⼩⾦井町、南多摩 郡元⼋王⼦村、恩⽅村 空襲、死者 539 ⼈* [7]。 エンキンドル 3 号作戦では、中島⾶⾏機武蔵 製作所を狙って出撃した 76 機の B-29 のうち 56 機が有楽町・銀座 地区へ⽬標を変更、有楽 町駅 は⺠間⼈の遺体であふれた(銀座空襲) * [44]。京橋区は⼤きな被害を受けた* [45]。 向島区、杉並区、本郷区、葛飾区、⾜⽴区、深 川区、荒川区、下⾕区、江⼾川区、北多摩郡 ⽥無町、保⾕町、府中町、久留⽶村空襲。死 者 650 ⼈、被害家屋 4085 ⼾* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 5 ⽇、江⼾川区、城東区、⽬⿊区、 蒲⽥区空襲。死者 2 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 7 ⽇、⼋丈島 空襲、死者 1 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 10 ⽇、ミーティングハウス 2 号作 戦。 • 1945 年1 ⽉ 28 ⽇、蒲⽥区、本郷区、浅草区、 荒川区空襲、死者 15 ⼈* [7]。 • 1945 年1 ⽉ 29 ⽇、葛飾区、伊⾖諸島 空襲* [7] 2月 • 1945 年(昭和20 年)2 ⽉ 2 ⽇、城東区、下⾕ 区空襲、死者 4 ⼈* [7]。 • 1945 年2 ⽉ 9 ⽇、深川区、王⼦区、京橋区、⾚ 坂区、葛飾区、江⼾川区、渋⾕区空襲* [7] • 1945 年2 ⽉ 14 ⽇、向島区 空襲、死者 47 ⼈* [7]。 1945 年(昭和 20 年)の⼾越公園駅。空襲で周囲が焼け • 1945 年2 ⽉ 15 ⽇、⼋丈島、新島 空襲* [7]。⽶ 空⺟機動部隊艦載機による本⼟初空襲(ジャ ンボリー作戦)。関東の軍需⼯場が標的。 • 1945 年2 ⽉ 16 ⽇、⼤森区、渋⾕区、中野区、 杉並区、蒲⽥区、板橋区、世⽥⾕区、葛飾区、 ⽜込区、⽬⿊区、北多摩郡調布町、⼋丈島 空 襲、死者 3 ⼈* [7]。 野原と化している • 1945 年3 ⽉ 14 ⽇、新島 空襲、死者 7 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 18 ⽇、浅草区空襲、死者 2 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 30 ⽇、深川区空襲、死者 6 ⼈* [7]。 • 1945 年3 ⽉ 31 ⽇、四⾕区、⽜込区空襲、死者 • 1945 年2 ⽉ 17 ⽇、⾚坂区、⼤森区、淀橋区、 19 ⼈* [7]。 中野区、杉並区、蒲⽥区、城東区、深川区、⽴ 川市、北多摩郡武蔵野町、三鷹町、保⾕町、神 代町、⼤和村、砂川村、南多摩郡⽇野町、由⽊ 4 月 村、堺村、⻄多摩郡五⽇市町 空襲、死者 196 ⼈* [7]。城東区、深川区では死者 15 ⼈* [7]。 • 1945 年4 ⽉ 1 ⽇、淀橋区、豊島区空襲、死者 17 ⼈* [7]。 • 1945 年2 ⽉ 19 ⽇、神⽥区、京橋区、⾚坂区、 四⾕区、本郷区、本所区、深川区、蒲⽥区、江 • 1945 年4 ⽉ 2 ⽇、北多摩郡武蔵野町、板橋区、 ⼾川区、荒川区、王⼦区、板橋区、世⽥⾕区、 杉並区空襲、死者 220 ⼈* [7]。 ⾜⽴区、渋⾕区、城東区、葛飾区、北多摩郡⾕ • 1945 年4 ⽉ 4 ⽇、淀橋区、下⾕区、芝区、向島 保町、神代村、⻄府村空襲、死者 163 ⼈* [7]。 区、深川区、品川区、⼤森区、荏原区、蒲⽥ • 1945 年2 ⽉ 24 ⽇、浅草区、下⾕区、神⽥区空 区、江⼾川区、世⽥⾕区、⽴川市、北多摩郡 襲、死者 102 ⼈* [7]。 府中町、武蔵野町、⽥無町、東村⼭町、⼩平 町、清瀬村、保⾕村、久留⽶村、拝島村、村⼭ • 1945 年2 ⽉ 25 ⽇(⽇)、ミーティングハウス 村、国分寺町、三鷹町、昭和町、南多摩郡⽇ 1 号作戦。 野町、加住村、川⼝村、⻄多摩郡 福⽣村、⻄ • 1945 年2 ⽉ 26 ⽇、荒川区、⾜⽴区空襲* [7] 秋留村空襲、死者 710 ⼈* [7]。 10 4 空襲の⼀覧 • 1945 年4 ⽉ 7 ⽇、新島、杉並区、四⾕区、⼤ 森区、蒲⽥区、板橋区、世⽥⾕区、北多摩郡 調布町、武蔵野町空襲。死者 44 ⼈* [7]。 • 1945 年4 ⽉ 12 ⽇、杉並区、板橋区、荒川区、 滝野川区、北多摩郡 武蔵野町、⼤和村、保⾕ 町、⽥無町、南多摩郡 七⽣町、新島、空襲。死 者 94 ⼈* [7]。 • 1945 年4 ⽉ 13 ⽇ - 4 ⽉ 14 ⽇、城北⼤空襲* [46]。 B29 は 330 機。神⽥区、豊島区・渋⾕区・向 島区・深川区、淀橋区、⼩⽯川区、四⾕区、麹 町区、滝野川区、⾚坂区、⽜込区、荒川区、板 橋区、中野区、王⼦区(現在の北区 北部) 、⾜ ⽴区、本郷区、下⾕区、葛飾区、⽇本橋区、杉 並区、江⼾川区、城東区、浅草区空襲。死者 2459 ⼈、焼失 17 万 1370 ⼾* [7]。宮城御所も 1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で焼失した明治宮殿 被害にあう* [8]。 • 1945 年4 ⽉ 15 ⽇ - 4 ⽉ 16 ⽇、⼋丈島、荏原区、 ⼤森区、品川区、⽬⿊区、蒲⽥区、芝区、⿇ 布区、世⽥⾕区、渋⾕区、向島区、⽇本橋区、 江⼾川区空襲* [7]。B29・202 機。死者 841 名。 焼失 5 万 874 ⼾* [7]。主として⽻⽥・⼤森・荏 原・蒲⽥⽅⾯。隣接している川崎市も同時に 空襲を受けた(城南京浜⼤空襲) 。空襲・機銃 掃射を受け死傷者 4004 ⼈、約 22 万⼾もの家 屋を焼失した。 • 1945 年4 ⽉ 18 ⽇、北多摩郡 府中町空襲* [7] • 1945 年4 ⽉ 19 ⽇、荏原区、⽬⿊区、⼤森区、 渋⾕区、杉並区、世⽥⾕区、⽴川市、北多摩 郡 府中町、昭和町、⼤和村、三鷹町、⼩平町 明治宮殿 豊明殿。跡地には 1968 年現在の宮殿が建設さ れた。 空襲。死者 8 ⼈* [7]。 • 1945 年4 ⽉ 24 ⽇、⽴川市、北多摩郡 ⼤和村、 砂川村、⼩平町、東村⼭町、昭和町、⻄多摩 郡 三⽥村、古⾥村空襲。死者 246 ⼈* [7]。 • 1945 年4 ⽉ 25 ⽇、北多摩郡砂川村空襲* [7] • 1945 年4 ⽉ 28 ⽇ - 4 ⽉ 29 ⽇、北多摩郡昭和町 空襲* [7] • 1945 年4 ⽉ 30 ⽇、⽴川市、北多摩郡昭和町、 ⼤和村、南多摩郡 由井村、神津島空襲* [7] 5月 • 1945 年5 ⽉ 1 ⽇、⼋丈島、三宅島 空襲* [7] • 1945 年5 ⽉ 7 ⽇、⾜⽴区、王⼦区空襲* [7] • 1945 年5 ⽉ 12 ⽇、⾜⽴区空襲。死者 3 ⼈* [7]。 • 1945 年5 ⽉ 19 ⽇、浅草区、荒川区、向島区空 襲。死者 10 ⼈* [7]。 • 1945 年5 ⽉ 20 ⽇、東京湾⽻⽥沖 • 1945 年5 ⽉ 23 ⽇、浅草区、⿇布区 1945 年5 ⽉ 25 ⽇ の空襲を受けた東京駅 • 1945 年5 ⽉ 24 ⽇ - B29・525 機。死者 762 名。 焼失 6 万 5 千⼾。主として麹町・⿇布・⽜込・ 本郷⽅⾯。⽇本橋区、浅草区、麹町区、⿇布 区、⽜込区、本郷区、品川区、中野区、板橋 区、四⾕区、江⼾川区、京橋区、豊島区、蒲 ⽥区、荏原区渋⾕区、杉並区、⾚坂区、世⽥ ⾕区、⽬⿊区、芝区、⼤森区、淀橋区空襲* [7]。 死者 762 ⼈、被害家屋 64,487 ⼾* [7]。 4.2 1945 年(昭和 20 年) 11 7月 • 1945 年7 ⽉ 1 ⽇(死者 5 ⼈)、7 ⽉ 3 ⽇、7 ⽉ 5 ⽇(死者 3 ⼈)、⼋丈島 空襲* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 6 ⽇、⼋王⼦市、南多摩郡 加住村、 元⼋王⼦村、北多摩郡村⼭村空襲* [7]。死者 4 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 8 ⽇、板橋区、⽴川市、北多摩郡 久留⽶村、保⾕村、昭和町、⾕保村、南多摩郡 元⼋王⼦村、浅川町空襲* [7]。死者 4 ⼈* [7]。 東京駅のプラットホームの屋根も消失した。 • 1945 年5 ⽉ 25 ⽇(⾦)- ⼭の⼿ に 470 機もの B29 が来襲した(⼭の⼿⼤空襲)。死者 3651 名。焼失 16 万 6 千⼾。主として中野・四⾕・ ⽜込・麹町・⾚坂・⿇布、芝、世⽥⾕、渋⾕ 区、⻘⼭通り ⽅⾯。⽬⿊区、杉並区、⼩⽯川 区、本郷区、⼤森区、品川区、城東区、深川 区、浅草区、葛飾区荒川区、江⼾川区、滝野 川区、下⾕区、京橋区、淀橋区、⾜⽴区、神⽥ 区、荏原区、豊島区、⽇本橋区、王⼦区、板橋 区、向島区、⽴川市、北多摩郡 国分寺町、調 布町、三鷹町、⽥無町、⼩平町、⾕保村、昭和 町、砂川村、村⼭村、狛江村、多磨村、南多摩 郡 町⽥町、忠⽣村、鶴川村、稲城村、浅川町、 ⻄多摩郡 ⼤久野村、平井村、⻄多摩村、瑞穂 町、調布村空襲* [7]。死者 3242 ⼈、被害家屋 156,430 ⼾* [7]。国会議事堂 周辺や東京駅、皇 居 も被災し明治宮殿 が焼失した* [8]。御⽂庫 に避難されていた昭和天皇 は無事だった。死 傷者は 7415 ⼈となった。また東京陸軍刑務所 に収容されていた 62 ⼈のアメリカ⼈捕虜が 焼死した(東京陸軍刑務所⾶⾏⼠焼死事件) 。 • 1945 年5 ⽉ 29 ⽇、⼤森区、蒲⽥区、芝区、品 川区、⽬⿊区、四⾕区、⽜込区空襲で死者 41 ⼈* [7]。 • 1945 年5 ⽉ 31 ⽇、⼤島空襲* [7] 6月 • 1945 年6 ⽉ 5 ⽇、新島空襲* [7]。6 ⽉ 9 ⽇、⼋ 丈島空襲* [7]。 • 1945 年6 ⽉ 10 ⽇、板橋区、⽴川市、北多摩郡 ⼤和村、村⼭村、国分寺町空襲* [7]。死者 291 ⼈* [7]。同⽇の⼋丈島空襲では死者 2 ⼈* [7]。 • 1945 年6 ⽉ 11 ⽇、杉並区、世⽥⾕区、北多摩 郡昭和町、⼤和村、⼋王⼦市、⻄多摩郡⻄多 摩村空襲* [7]。 • 1945 年6 ⽉ 12 ⽇、6 ⽉ 15 ⽇ 神津島空襲、6 ⽉ 19 ⽇ 神津島と式根島 空襲* [7]。 • 1945 年6 ⽉ 20 ⽇、⼋丈島 空襲* [7] • 1945 年7 ⽉ 9 ⽇、北多摩郡空襲* [7] • 1945 年7 ⽉ 10 ⽇、下⾕区、板橋区、⽴川市、 北多摩郡東村⼭町、多磨村、調布町、⻄多摩 郡 福⽣町、新島 空襲* [7]。死者 6 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 12 ⽇-7 ⽉ 13 ⽇、蒲⽥区空襲* [7]。 死者 16 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 13 ⽇、新島空襲* [7]。死者 2 ⼈* [7]。 •(1945 年7 ⽉ 16 ⽇、⽶国ニューメキシコで最 初の核実験 成功* [47]) • 1945 年7 ⽉ 19 ⽇、江⼾川区、新島空襲* [7]。死 者 1 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 20 ⽇、東京駅 東側空襲* [7]。死者 1 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 27 ⽇、新島空襲* [7] • 1945 年7 ⽉ 28 ⽇、板橋区、渋⾕区、城東区、 三鷹町、南多摩郡横⼭村、元⼋王⼦村、⻄多 摩郡⻄秋留村、東秋留村、霞村空襲* [7]。死者 4 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 29 ⽇、北多摩郡保⾕村空襲* [7]。死 者 3 ⼈* [7]。 • 1945 年7 ⽉ 30 ⽇、⻄多摩郡⻄秋留村、新島空 襲* [7]。死者 1 ⼈* [7]。 8月 • 1945 年8 ⽉ 1 ⽇-8 ⽉ 2 ⽇、⼋王⼦空襲 B29・ 169 機。死者 225* [7] - 473 ⼈* [48]。焼失家屋 14,147 ⼾* [7]。⼋王⼦市、⽴川市、北多摩郡昭 和町、砂川村、⻄多摩郡 福⽣町、南多摩郡⽇ 野町、浅川町、横⼭村、元⼋王⼦村、川⼝村、 恩⽅村、由井村、江⼾川区空襲* [7]。 • 1945 年8 ⽉ 3 ⽇、杉並区、滝野川区、王⼦区、 板橋区空襲* [7]。死者 2 ⼈* [7]。 • 1945 年8 ⽉ 5 ⽇、 ⼋王⼦空襲* [7]。 死者 52 ⼈* [7]。 P-51 戦闘機が新宿 発⻑野 ⾏きの下り 419 列 ⾞に機銃掃射 をかけ、多数の被害者が出た湯 の花トンネル列⾞銃撃事件 が発⽣。 5 被害 12 • 1945 年8 ⽉ 7 ⽇、⼤島 空襲* [7] • 3 ⽉ 10 ⽇の下町⼤空襲 • 1945 年8 ⽉ 8 ⽇、⾜⽴区、板橋区、北多摩郡武 蔵野町、新島空襲* [7]。死者 72 ⼈* [7]。 • 太⽥仲三郎(実業家) • 1945 年8 ⽉ 10 ⽇、板橋区、王⼦区、滝野川区、 ⾜⽴区、⻄多摩郡霞村、多⻄村空襲* [7]。死者 195 ⼈* [7]。 • 豊嶌雅男(⼤相撲⼒⼠) • 1945 年8 ⽉ 13 ⽇、京橋区、蒲⽥区、⼤森区、 品川区、荏原区、芝区、下⾕区空襲* [7]。死者 29 ⼈* [7]。 • 枩浦潟達也* †(⼤相撲⼒⼠) • 1945 年8 ⽉ 15 ⽇、⻄多摩郡 ⻘梅町空襲 [7] • 吉村操(映画監督) • ⽴花家扇遊(⾊物芸⼈) • 古屋慶隆(衆議院議員・元内務省政務次 官) • 琴ヶ浦善治郎(元⼤相撲⼒⼠・世話⼈) • ⻄岩成吉(⼤相撲年寄) * • 徳三宝(柔道家) 5 5.1 • 増⽥勇(医師・ハンセン病 先覚者) 被害 • 六代⽬⼀⿓斎貞⼭(講釈師) • 初代吉慶堂李彩(奇術師) 死傷者数 • 天野喜久代(歌⼿・⼥優) 空襲による被害者の総数は不明であるが、1995 年 の東京新聞調査では全国で 55 万 9197 ⼈、東京で 11 万 6959 ⼈であった* [36]。 • ⼭岸荷葉(⼩説家・書家) 5.2 • 寿家岩てこ(⼤神楽・漫才師) • 河井荃廬(篆刻家) • 増地庸治郎(経営学者・東京商科⼤学 教 授兼東京帝国⼤学 教授)* [49] 死亡した著名人 • 柳亭左喬(落語家) • 5 ⽉ 25 ⽇の⼭⼿⼤空襲 • ⽯井菊次郎* †(元外務⼤⾂) • 織⽥萬(法学者) • 四代⽬柳家枝太郎 (⾳曲師) • 柳瀬正夢(画家) • ⾕⼝恒⼆(⼤蔵省事務次官) • 安藤照(彫刻家) • 加藤雄策(実業家・⾺主 空襲被害の翌⽇ に死去) 1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で焼失した東京府庁舎(⼤正時 代)。妻⽊ ⻩ 設計で 1894 年完⼯。 • 野村無名庵(演芸・落語評論家) * † ⾏⽅不明(死亡確定) 5.3 建造物 御所・御殿 • 宮城(1945 年 4 ⽉ 13 ⽇空襲* [8]) • 賢所参集所(1945 年 4 ⽉ 13 ⽇空襲で消失* [8]) • 賢所仮殿(1945 年 4 ⽉ 13 ⽇空襲で消失* [8]) • 御⽻⾞舎(1945 年 4 ⽉ 13 ⽇空襲で消失* [8]) 空襲で焼失した⼤⽇本帝国陸軍 参謀本部(明治末期撮 影) • 進修館(1945 年 4 ⽉ 13 ⽇空襲で消失* [8]) • 明治宮殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲* [8]) 5.3 建造物 13 1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で焼失した東京駅 の全景(1945 年 撮影) • 主⾺寮厩仕合宿所(1945 年 2 ⽉ 25 ⽇空襲* [8]) 空襲で焼失した徳川家継 霊廟有章院霊廟 • ⾚坂御⽤地 内にある各宮邸 • ⼤宮御所(1945 年 2 ⽉ 25 ⽇、5 ⽉ 25 ⽇空 襲* [8]) • 秩⽗宮御殿(1945 年 2 ⽉ 25 ⽇、5 ⽉ 25 ⽇空 襲* [8]) • 東宮御所(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲 [8]) * • ⻘⼭御殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲* [8]) • 三笠宮御殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲* [8]) • 伏⾒宮御殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲 [8]) * • 閑院宮御殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲 [8]) * • 梨本宮御殿(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲 [8]) * • 霞ヶ関離宮(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇空襲* [8]) 官公署 • 参謀本部 庁舎 • 海軍省・軍令部 合同庁舎 • 外務省 庁舎 • 司法省庁舎 • ⼤審院 • 駐⽇ドイツ国 ⼤使館 • 東京府庁舎(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で焼失) 鉄道施設 • 東京駅 - 丸の内⾚レンガ駅舎 • 帝都⾼速度交通営団 宗教施設 東 京 都 内 神 社 236〜326 社 が 被 災 し た と さ れ る* [50]。 • 明治神宮 - 本殿・隔雲亭 • 浅草寺 - 本堂(観⾳堂)・五重塔(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇焼失) • 増上寺 - 本堂(⼤殿)、開⼭堂、伽藍・五重塔、 徳川家霊廟* [51] • 寛永寺 - 弁天堂、徳川家霊廟 • 徳川家霊廟(旧国宝) • 増上寺内霊廟 • 徳川家宣 霊廟、⽂昭院霊廟(増上 寺)(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇焼失) • 徳川家継 霊廟、有章院霊廟(増上 寺)(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇焼失) • 芝 東 照 宮(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇ 焼 失* [52]) • 徳川秀忠 霊廟、台徳院霊廟(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇焼失) • 崇源院 霊牌所(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇焼 失) • 寛永寺内霊廟 • 徳川家綱 霊廟、厳有院霊廟(寛永 寺)(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇焼失) • 徳川綱吉 霊廟、常憲院霊廟(寛永 寺)(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇焼失) • ⿇布⼭善福寺 - 本堂 • 池上本⾨寺 - 仁王⾨・祖師堂・鐘楼・釈迦堂 (本殿)・御廟所(1945 年 4 ⽉ 15 ⽇焼失* [53]) • 伝通院 - ⼭⾨・本堂 • 法禅寺、安⺠寺(神⽥寺)- 全焼* [54] • ⾼岩寺(とげぬき地蔵)- 全焼 5 被害 14 • 眞光寺 - 富元⼭瑞泉院全焼* [55] • 泉岳寺 - ⼭⾨・義⼠館以外が焼失* [56] • 賢崇寺 • ⾶⽊⼭普⾨院圓通寺(円通寺)* [55] • 医王⼭泉⿓寺* [55] • 東光⼭⻑命院薬王寺* [55] • 熊野⼭⾼輪院安泰寺* [55] • 神向⼭華光院常演寺 • 善光寺東京別院 1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で消失した慶應義塾⼤学三⽥⼤ 講堂。⼤正4 年撮影 • 常端寺(向⼭) • ⽇枝神社 - 本殿・幣殿・拝殿・中⾨・透塀な ど旧国宝 • 愛宕神社 - 本殿・幣殿・拝殿・社務所 • ⽳⼋幡神社 - 隨神⾨ • 富岡⼋幡宮 • 神⽥明神 - 社殿(コンクリート製)を除く建 造物* [57] • 築⼟神社 - 1945 年 4 ⽉、空襲により社殿、社 宝全焼* [58] • 根津神社* [59] • 東郷神社 • 乃⽊神社 • 松蔭神社 • 靖国神社 - 遊就館、付属書庫* [60] • 須賀神社(台東区)* [61] • ⾺込⼋幡神社* [61] • 芝⼤神宮* [61] • 東京⼤司教座聖堂・カトリック関⼝教会 教育施設 • 東京帝国⼤学 - 懐徳館(旧前⽥ 邸) 空襲で全焼した東京⽂理科⼤学 • 早稲⽥⼤学 - 恩賜記念館・⼤隈会館(旧⼤隈 重信 邸) • 慶應義塾⼤学 - 図書館旧館・三⽥⼤講堂(1945 年 5 ⽉ 25 ⽇の空襲で消失) • 旧制東京⾼等学校(現・東京⼤学) • 明治⼤学 - 記念館、本館校舎。4 ⽉ 13 ⽇の空 襲による* [62]。 • 東京⽂理科⼤学 • 拓殖⼤学 - 恩賜記念講堂 • 東京農業⼤学 • 多摩帝国美術学校 • 東京⾼等⼯芸学校(現・千葉⼤学) • ⾼千穂⼤学 • 都⽴化学⼯業専⾨学校(現・⾸都⼤学東京) • 善隣協会専⾨学校 5.4 美術⼯芸 15 5.4 • ⼤成學館尋常中学校 美術工芸 • 順天中学校・⾼等学校 • 成城学園初等学校 • ⽇本⼤学予科 • ⼥⼦学習院 • 帝国⾳楽学校 • 東京都⽴⽇⽐⾕図書館 医療施設 • 東京⼤学医学部附属病院* [63] • 東京慈恵会医科⼤学附属病院 • 江東病院 • 慶應義塾⼤学病院* [64] • 三井記念病院 • 東京都⽴深川病院 • 城東病院 • 同仁会東京病院(明和病院) • 神尾記念病院 • ⻘⼭脳病院 空襲で消失した戦国時代 に⼤名結城晴朝 が作らせた御 ⼿杵(復元)。全⻑約 3.8m、重量は 6貫 (22.5kg) あったと いう。 • 松沢病院 • 右⽥病院(⼋王⼦) 戦災で焼失したものは国の指定⽂化財だけでも 170 点に上る* [67]。 文化的建造物等 • 松江藩松平家 上屋敷(⾚坂)の表⾨* [65] • 松岡映丘『間宮林蔵 肖像画』 • 薩摩藩島津家 中屋敷(外桜⽥) [65] • 堀内唯⽣『郊外早春』『秋景』『横浜湾を望む』 • 岡⼭藩池⽥家 上屋敷の表⾨* [65] • 下岡蓮杖 撮影による⾵景写真 の乾板 • 明治座 • ⻁徹『燈籠斬』 • 歌舞伎座 • 御⼿杵(天下三名槍 の⼀つ) * • 新橋演舞場 • 浅草国際劇場 • 両国の国技館(のちの⽇⼤講堂、現在の両国 国技館 とは位置が異なる) • 帝国ホテル(1945 年 3 ⽉ 10 ⽇空襲で被害) • 野々宮写真館アパート • • • • • 池上本⾨寺本尊(⼀尊四菩薩 像鎌倉時代 作、 四天王 像江⼾時代 作、法華経7 巻平安時代 作 うち 1 巻は現存、⽂化財未指定) 5.5 空襲を免れた地区 東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。周囲 ⼦規庵 - 1945 年4 ⽉ 14 ⽇ の城北⼤空襲で焼 が空襲で甚⼤な被害を受けながらも奇跡的に延焼 を免れた地域としては、神⽥区 須⽥町(現在の千 失 代⽥区神⽥須⽥町)や向島区(現在の墨⽥区京島) ⽇本料亭幸楽 - 撃墜された B29 が直撃し、⼤ が挙げられる。須⽥町では神⽥川 が、京島では東 破焼失 武⻲⼾線 沿いを流れていた⼩川がそれぞれ防⽕ 線となり、住⺠が川の泥や⾖腐などを投じてまで 偏奇館 - 永井荷⾵ 邸宅。膨⼤な蔵書も焼失。 懸命な防⽕活動にあたったことから、被害を免れ * 荷⾵は空襲恐怖症になったといわれる [66]。 た。またこの地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で 東京海上ビルディング 分解されずにそのまま落下したため不発弾となっ 16 7 主題にした作品 て軟弱な⼟中に深く埋まってしまい* [注 1]、その 17 年)のドーリットル空襲 から 1945 年(昭和 20 ため⻲⼾線で限られた地域が焼け残った。この両 年)5 ⽉ 25 ⽇の空襲まで記録写真を撮影しており、 地域は空襲以前にも関東⼤震災 の際にも延焼を 東京の空襲全体では撮影枚数は 600 枚を越える。 免れ、ほぼ⼤正初期の路地構成や建物の⾯影を今 東京都江⼾東京博物館 やすみだ郷⼟⽂化資料館 に残す、下町 ⼀帯の中では希有な地域である。但 には東京⼤空襲に関する展⽰がある。2001 年開館 し「⽣き残った」ことにより、⾃動⾞も通れない を⽬指して東京都平和祈念館 の建設も計画され 明治⼤正期の極狭路地が迷路のように⾛る同地帯 たが、実現していない。 は、現在では防災 ⾯で深刻な問題のある地域とし て懸念され、現在に⾄るまでさまざまな防災に関 するまちづくり、取り組みが⾏われている* [68]。 ただし、⾃動⾞が通らないがゆえに重⼤交通事故 7 主題にした作品 発⽣を⼤幅に防ぐことができているという実態も ある。中央区 の佃島・⽉島 地区も晴海運河 が延 映像 焼を⾷い⽌めたことから戦⽕を免れ、現在も戦前 からの古い⽊造⻑屋が残っている。対岸部の深川 • NHK 特集「東京⼤空襲」(NHK 制作)1978 年 区(現在の江東区)が 3 ⽉ 10 ⽇の下町空襲で壊滅 3 ⽉ 9 ⽇放送* [70]。 状態となったのとは、明暗が分かれた形となった。 •「3 ⽉ 10 ⽇東京⼤空襲語られなかった 33 枚の 丸の内・有楽町 付近では東京府庁 と東京駅 が空 真実」(TBS 制作)、2008 年 3 ⽉ 10 ⽇放送。 襲を受け全半壊したものの、内堀通り ⼀帯の第⼀ ⽣命館 や明治⽣命館 などが⽴ち並んでいた界隈 は空襲を免れている。これは、占領後の軍施設に 使⽤することを想定していたと⾔われている。宮 城 は対象から外されていたが、5 ⽉ 25 ⽇の空襲で は類焼により明治宮殿 が炎上した。このため、松 平恒雄宮内⼤⾂ が責任を取って辞任している。 東京帝国⼤学 付近はロックフェラー財団 の寄付 で建てられた図書館があったことから空襲の被害 は軽微だったが、懐徳館を焼失している。 • 1945 年 3 ⽉ 10 ⽇の空襲(ミーティング ハウス 2 号作戦)において初弾が投下さ れた 4 カ所の地域(現在の地域)につい ては 1978 年の NHK 特集では、深川区 は現在の江東区深川⽊場、本所区は墨⽥ 区本所、浅草区は台東区浅草、⽇本橋区 は中央区⽇本橋 と紹介され、2008 年の TBS 番組では、それぞれ江東区⽩河4 丁 ⽬、墨⽥区本所 3 丁⽬、台東区⻄浅草かっ ぱ橋道具街、中央区⽇本橋⼩網町とされ た。 また築地 や神⽥神保町 ⼀帯が空襲されなかった のも、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院 や救世軍 本営があったからとも⾔われるが定か ではない。神保町を空襲しなかった理由に古書店 小説 街 の蔵書の消失を恐れたためという俗説もある が、アメリカ軍は 5 ⽉ 14 ⽇の名古屋⼤空襲 で国 • うしろの正⾯だあれ - 海⽼名⾹葉⼦ の⾃伝的 宝名古屋城 を焼いたり、ドイツ のドレスデン爆 児童書および、劇場版アニメーション作品 撃 などで⽂化財 の破壊を容赦なく⾏っているこ • ガラスのうさぎ - ⾼⽊敏⼦ の児童⽂学 およ とから信憑性は低い。なお⽇本正教会 のニコライ び、実写映画、テレビドラマ、劇場版アニメー 堂(東京復活⼤聖堂)およびその関連施設も空襲 ション作品 を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が⾜り なくなったことによる本郷の町会の要請により、 • 終りに⾒た街 - 脚本家⼭⽥太⼀ の⼩説およ ⼤聖堂には⼀時的に遺体が収容された* [69]。 び、テレビドラマ化作品。主⼈公⼀家が第⼆ 次世界⼤戦 時、昭和 19 年(1944 年)の東京 にタイムスリップする。 6 記録 • ストックホルムの密使 - 佐々⽊譲 の⼩説。劇 中で⼭脇順三、真理⼦夫妻が東京⼤空襲に遭 遇する。 3 ⽉ 10 ⽇の空襲の惨状は、警視総監 より撮影の任 務を受けた、警視庁 の⽯川光陽 によって、33 枚 の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦 ラジオドラマ 後、連合国軍最⾼司令官総司令部 (GHQ) からネガ を引き渡すよう命令が下るが、⽯川はこれを拒否 • 君の名は - 1952 年に放送されたラジオドラ し、ネガの代わりにプリントを提出することで追 マ、および、それを原作とした映画、舞台、テ 求を逃れる⼀⽅、ネガを⾃宅の庭に埋めて守り保 レビドラマ作品。序盤で東京⼤空襲が起こり、 管したという。この 33 枚の写真は、東京⼤空襲 ヒロインの⽒家真知⼦と後宮春樹が出会う。 の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、⽯ 川⾃⾝は本当はこのような写真は撮りたくないと ⾔っている。なお、⽯川はほかにも 1942 年(昭和 映画 17 • 空軍⼒の勝利 - 1943 年に公開されたアメリカ • 東京が戦場になった⽇ - 2014 年、NHK 合衆国 のディズニー 映画。ウォルト・ディズ ニー・プロダクション)制作。実写・アニメ の 絵本 合成。終盤、空襲で東京を焼き尽くすシーン がある(ただし、史実のサイパン島 からでは • せんそう・1945 年 3 ⽉ 10 ⽇東京⼤空襲のこ なく、アラスカ州 から敵地の東京に向かう) 。 と(2014 年東京書籍 / 塚本千恵⼦ / ⽂・塚本 やすし / 作・絵) • 君の名は - 1953-1954 年、⼤庭秀雄 監督。詳細 は上記を参照。 • 東京⼤空襲ガラスのうさぎ - 1979 年、橘祐典 監督。詳細は上記を参照。 8 • 戦争と⻘春 - 1991 年、今井正 監督 8.1 テレビドラマ 注釈 [1] ⼆発が不発弾となったことは確実で、更に⼀発が 不発弾となったと⾔われているが確定的ではない。 • 君の名は - 1962 年、フジテレビ、詳細は上記 を参照 8.2 • 君の名は - 1966 年、⽇本テレビ、詳細は上記 を参照 脚注 出典 [1] 早⼄⼥勝元 『図説東京⼤空襲』河出書房新社〈ふ くろうの本〉、2003 年。 • 君の名は - 1976 年、NET テレビ、詳細は上記 を参照 [2] 奥住(1990 年)、58 ⾴。 • ガラスのうさぎ - 1980 年、NHK、詳細は上記 を参照 [3] 内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京⼤空襲訴 訟における被災者救済の憲法論―」専修法学論集 (106), 1-51, 2009-07 • 終りに⾒た街 - 1982 年、テレビ朝⽇、詳細は 上記を参照 [4] 今井清⼀「戦略爆撃と⽇本」⽇本ペンクラブ電⼦ ⽂藝館編輯室、2007 年。2014.10.27 閲覧 • NHK連続テレビ⼩説 [5] E・バートレット・カー『戦略・東京⼤空爆』⼤⾕ 勲訳、光⼈社、1994 年 • 君の名は(1991 年放映)- 詳細は上記を 参照。 [6] Britain considered chemical attack on Tokyo in 1944 Times June 26, 2009 • すずらん(1999 年放映)- 萌が⺟親探し のため、⽣まれ故郷を離れ上京するが、 [7]「東京都戦災史戦災⽇誌」昭和 28 年。リーフレット 「東京空襲犠牲者を追悼し平和を記念する碑」東京 東京⼤空襲に遭遇する(その後、⻑男・ 都⽣活⽂化局⽂化振興部⽂化事業課、平成 25 年 3 光太郎を連れて、北海道に疎開する)。 • 純情きらり(2006 年放映)- 劇中で佳境 に差し掛かった頃に東京⼤空襲が起こ る。 • 花⼦とアン(2014 年放映)- 第 1 話序盤 及び第 24 週後半で、1945 年4 ⽉ 15 ⽇ の 東京⼤空襲に遭い⼤森の⾃宅兼印刷会 社が消失。 • 終りに⾒た街 - 2005 年、テレビ朝⽇、詳細は 上記を参照 • 東京⼤空襲 - 2008 年、⽇本テレビ。監修海⽼ 名⾹葉⼦。 ⽉。 [8] ⼩倉庫次 侍従⽇記『⽂藝春秋』2007 年 4 ⽉号 [9] 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 108 ⾴ [10] 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 133-134 ⾴ [11] 吉⽥裕「アジア太平洋戦争」岩波書店 2007,p154-5. [12] NHK スペシャル取材班『ドキュメント東京⼤空 襲: 発掘された 583 枚の未公開写真を追う』新潮社 134-135 ⾴ [13] 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 128-129 ⾴ • オリンピックの⾝代⾦ - 2013 年、テレビ朝⽇、 奥⽥英朗 原作。主⼈公の落合昌夫が 15 歳の 時に、妹の有美と共に東京⼤空襲に遭遇し、 [14] ⺟が亡くなるという回想場⾯が存在する(ち なみにこのエピソードはドラマオリジナル要 [15] 素であり、原作では主⼈公が異なるためか⼀ 切語られていない)。 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 128-129 ⾴ NHK スペシャル取材班『ドキュメント東京⼤空襲: 発掘された 583 枚の未公開写真を追う』新潮社 136 ⾴ 8 脚注 18 [16] 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 136-137 ⾴ [41] ⻤塚英昭『原爆の秘密「国内篇」昭和天皇は知って いた』成甲書房 117 ⾴ [17]「読売新聞」平成 18 年 3 ⽉ 10 ⽇号社説より [42] 荒井信⼀『空爆の歴史―終わらない⼤量虐殺』岩 波新書 136、139 ⾴、NHK スペシャル取材班『ド キュメント東京⼤空襲: 発掘された 583 枚の未公 開写真を追う』新潮社 62-63 ⾴ [18] 奥住(1990 年)、33 ⾴。 [19] 奥住(1990 年)、47、50-51 ⾴。 [21] 奥住(1990 年)、76-77 ⾴。 [43] “東京⼤空襲で答弁書「⼈道主義に合致せず」”. 共同通信社. 47NEWS. (2013 年 5 ⽉ 7 ⽇) 2013 年 5 ⽉ 9 ⽇閲覧。 [22] 奥住(1990 年)、79-80 ⾴。 [44] 奥住(1990 年)、168-169 ⾴。 [20] 奥住(1990 年)、72 ⾴。 [23] 奥住(1990 年)、73 ⾴。 [24]『本⼟防空戦』渡辺洋⼆・著 [25] ゴードン・トマス, マックス・モーガン・ウイッツ 『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』TBS ブ リタニカ 151-152 ⾴ [26] 朝鮮新報 2008.6.6 [27] 季刊「戦争責任研究」(⽇本の戦争責任資料セン ター)第 53 号 [28] “東京⼤空襲、国を提訴遺族ら 12 億円賠償請求”. 共同通信社. 47NEWS. (2007 年 3 ⽉ 9 ⽇) 2013 年 8 ⽉ 25 ⽇閲覧。 [29] “東京⼤空襲の賠償認めず「救済対象者の選別困 難」”. 共同通信社. 47NEWS. (2009 年 12 ⽉ 14 ⽇) 2013 年 8 ⽉ 25 ⽇閲覧。 [30] “東京⼤空襲で原告敗訴が確定最⾼裁が上告退け る”. 共同通信社. 47NEWS. (2013 年 5 ⽉ 9 ⽇) 2013 年 8 ⽉ 25 ⽇閲覧。 [31] 2013 年 8 ⽉ 17 ⽇ 23 時 NHKE テレ放送 ETV 特集 「届かぬ訴え ~ 空襲被害者たちの戦後 ~」 [45] 中央区空襲被害の状況 中央区平和記念バーチャル ミュージアム、中央区。 [46] 4.13 根津⼭⼩さな追悼会、平成 25 年 4 ⽉ 11 ⽇、 豊島区政策経営部広報課。灰の中からの脱出城北 ⼤空襲後の暮らし ⽮島勝昭、「戦争と平和」サイ ト。2014.10.29 閲覧。『豊島区史』通史編 2、3。 『決 定版昭和史第 12 巻空襲・敗戦・占領』毎⽇新聞社 1983 年。 [47] 吉⽥裕「アジア太平洋戦争」岩波書店 2007,p214. [48] ⼋王⼦市郷⼟資料館編『⼋王⼦の空襲と戦災の記 録』 [49] 「デジタル版⽇本⼈名⼤辞典 +Plus」、 「ブリタニカ 国際⼤百科事典⼩項⽬事典」 [50] ⽯井研⼠「戦後の東京都の神社にみる境内建物の ⾼層化について -上 -」神道学 155 号, 1992, p18. 東 京都神社庁「東神」昭和 37 年 2 ⽉ 20 ⽇ [51] 増上寺公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [52] 芝東照宮公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [32] “空襲被害の補償求め全国組織「援護法」制定を 訴え”. 共同通信社. 47NEWS. (2010 年 8 ⽉ 14 ⽇) 2013 年 8 ⽉ 25 ⽇閲覧。 [53] 池上本⾨寺公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [33] “太平洋戦争の空襲被害援護法制定へ動き加速超 党派議員連法案来年提出”. 中国新聞. (2011 年 7 ⽉ 6 ⽇) 2013 年 8 ⽉ 25 ⽇閲覧。 [55] 天台宗東京教区公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [54] 神⽥寺公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [56] 泉岳寺の歴史 泉岳寺公式サイト、2015.4.1. 閲覧 [34]「東京⼤空襲・朝鮮⼈罹災の記録する会」“東京⼤ [57] 空襲・朝鮮⼈罹災の記録”2013 年 11 ⽉ 22 ⽇閲覧。 [58] [35] 朝鮮⼈強制連⾏被害者・遺族協会「⽇本の東京に 連⾏され、⽶軍の空襲によって犠牲になった朝鮮 ⼈強制連⾏被害者問題に関する調査報告書」2008 [59] 年。 「東京⼤空襲・朝鮮⼈罹災の記録」PARTIII「葬 り去られる犠牲者」に光を、⼀粒出版・2010 年 [60] [36] 宍⼾伴久「戦後処理の残された課題―⽇本と欧⽶ における⼀般市⺠の戦争被害の補償―」国⽴国会 [61] 図書館レファレンス. (695)2008-12 [37] 朝⽇新聞⼣刊昭和 39 年 12 ⽉ 4 ⽇ [38] 朝⽇新聞⼣刊昭和 39 年 12 ⽉ 7 ⽇ 、神⽥明神公式サイト、2015.4.1. 閲覧 築⼟神社公式サイト、築⼟神社御由緒。2015.4.1. 閲覧 益⽥兼房「⽇本の⽂化財建造物の被災と修復に関 する基礎的考察」、歴史都市防災論⽂集 vol.1,2007. ⼩堀桂⼀郎「靖国神社と⽇本⼈」PHP 新書 ⽯井研⼠「戦後の東京都の神社にみる境内建物の ⾼層化について -下 -」神道学 157 号, 1993 [62] 浮塚利夫「戦時下の明治⼤学図書館」 [39] 昭和 39 年 12 ⽉ 7 ⽇ 47 回衆議院予算委員会 8 号 [63]「東京⼤空襲と東⼤病院」 「東⼤病院だより」NO.48, 平成 17 年 1 ⽉ 24 ⽇ [40]『NHK 特集 東京⼤空襲』でのNHK の取材 [64] 慶應義塾百年史: 別卷⼤学編 p147(745) 19 [65] ⾦⾏信輔「描かれた⼤名屋敷」 、 「加賀殿再訪―東 京⼤学本郷キャンパスの遺跡] 」 (東京⼤学コレク ション) 。⽂化庁編『戦災等による焼失⽂化財[増 訂版]建造物篇』便利堂、1983 年(⽂化庁編『戦 災等による焼失⽂化財』戎光祥出版、2003 年) [66] 川本三郎「空襲による『恐怖症』」 『荷⾵好⽇』岩 波書店、2002 年(岩波現代⽂庫、2007 年) [67]『戦災等による焼失⽂化財―20 世紀の⽂化財過去 帳』戎光祥出版、2003 年 [68] 原啓介:まちづくり・地域づくり (6)「こわれない」 を⽬指す下町のまちづくり --東京都墨⽥区京島地 区『地理』56(10), 20-32, 2011 年 10 ⽉号 池⽥ほか:3012 耐震防⽕同時補強技術の⽊造密集 市街地への適⽤可能性と延焼シミュレーションに よる⽕災延焼抑制効果の検討: 墨⽥区京島地区に おけるケーススタディ(防⽕)『研究報告』2010(I), 533-536, 2011 年 3 ⽉など多数 [69] ⾼井寿雄『ギリシア正教⼊⾨』教⽂館 (1980) [70] NHK特集東京⼤空襲 - NHK 名作選(動画・静⽌ 画)NHK アーカイブス • 内藤光博「空襲被災と憲法的補償―東京⼤空 襲訴訟における被災者救済の憲法論―」専修 法学論集 (106), 1-51, 2009-07 • 平塚柾緒(編・著)『⽶軍が記録した⽇本空 襲』草思社、1995 年。ISBN 4-7942-0610-0 • 村上義⼈『⼿拭いの旗暁の⾵に翻る』福⾳ 館書店〈福⾳館⽇曜⽇⽂庫〉、1977 年。ISBN 4-8340-0549-6 • ⼭本茂男 ほか(著)『B29 対陸軍戦闘隊―陸 軍防空戦闘隊の記録』今⽇の話題社、1985 年、 新版。ISBN 4-87565-304-2 10 関連項目 • チャールズ・ブロンソン(B-29 爆撃機の後部 機関銃⼿として東京⼤空襲を戦った) • ドレスデン爆撃 • 重慶爆撃 9 参考文献 • ゲルニカ爆撃 • ⽇本本⼟空襲 • 奥住喜重・早⼄⼥勝元 『東京を爆撃せよ―東 京⼤空襲の本当の標的は何だったのか?』三省 堂〈三省堂選書〉、1990 年。ISBN 4-385-43157-4。 • E・バートレット・カー『戦略・東京⼤空爆』⼤ ⾕勲訳、光⼈社、1994 年 • A・C・グレイリング(著) 、鈴⽊主税・浅岡政 ⼦(訳)『⼤空襲と原爆は本当に必要だったの か』河出書房新社、2007 年。ISBN 978-4-30922460-2 • A. C. Grayling, "Among The Dead Cities: The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan," Walker & Company, March 20, 2007. ISBN 0802715656 • ロナルド・シェイファー『アメリカの⽇本空襲 にモラルはあったか戦略爆撃の道義的問題』 深⽥⺠⽣訳草思社 2007 年 • 早⼄⼥勝元『図説東京⼤空襲』河出書房新社 〈ふくろうの本〉、2003 年。ISBN 4-309-76033-3 • 宍⼾伴久「戦後処理の残された課題―⽇本と 欧⽶における⼀般市⺠の戦争被害の補償―」 国⽴国会図書館レファレンス. (695)2008-12 • ⽥中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と⼤量虐 殺」現代社会研究 12 号、京都⼥⼦⼤学現代社 会学部、2009 年 • 東京都(編)『東京都戦災誌』明元社、2005 年。ISBN 4-902622-04-1 • 名古屋⼤空襲 • ⼤阪⼤空襲 • 広島市への原⼦爆弾投下 • ⻑崎市への原⼦爆弾投下 • ⾨前仲町駅 - 建設現場から空襲で被災した親 ⼦らの遺体 6 体が発⾒された。 • ⽇本本⼟防空 • 戦争犯罪 • 極東国際軍事裁判 • ⽇本の戦争賠償と戦後補償 11 外部リンク • 東京⼤空襲・戦災資料センター • 東京空襲犠牲者遺族会 • 中央区空襲被害の状況 - 中央区平和記念バー チャルミュージアム、中央区。 • ⼀般戦災死没者の追悼まんが⼦ども太平洋戦 争物語 - 総務省 12 ⽂章および画像の出典、投稿者、ライセンス 20 12 文章および画像の出典、投稿者、ライセンス 12.1 文章 • 東 京 大 空 襲 出 典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2?oldid= 57963057 投稿者: Lupinoid、Cozy、Mishika、Hiruandon、Nnh、0null0、Tanuki Z、SEKIUCHI、ゐ、Johncapistrano、Batman~jawiki、 Ko-kun、杉⼭真⼤、Robbot、S.S.Exp.Hashimoto、Inaiinaibah、Miya.m、⾼⽊あゆみ、0 太郎、NiKe、おはぐろ蜻蛉、Kzy、 Shimoxx、March、Tdk、Poo-T、SuisuiBot、Chuta、Mop、Los688、A6M4、HidE、Asia~jawiki、浅野ます道、Unamu、まぬ、かな べえコバトン、ブリキ、NIKE、RadioActive、Godd、Ajtnk、三⽇⽉、03、Deewell、経済準学⼠、⽔野⽩楓、Okura、KASAGI、 橄欖岩、TAMA、DCyokohama、松茸、Coq、Tast、Eskimbot、Emu~jawiki、Bandalgom、MelancholieBot、TEy、パの字、春野秋葉、 Kanjy、都の⻄⻄⼋王⼦、こぶまき、PANYNJ、Cave cattum、A-Taul、Straysheep、Tom-spring、⽩⽷、Musashino、Takeler、⼀騎 当千、Escarbot、Osu-mike、BOT-Superzerocool、Tiyoringo、浩、Northface、番組の途中ですが名無しです、Post0、ぬこ1号、 Ttwo、FANSTARbot、Uzkick、はじれす、Bankokuya、Triglav、Onverwacht、Yuyu2006jp、⾼槻、竃⾺、VolkovBot、Chiba007、地 理さん、TXiKiBoT、Harpoon、Tokorozawa22、Dr jimmy、那珂川、遼瞬、逝きる⼒、SieBot、Type85、Louperibot、七篠権兵衛、 まほろ、Loveless、Reishiki-sen、BotMultichill、Kurihaya、Namazu-tron、あんも騎⼠、⼀粒、Halfd、岩⾒浩造、しまあじ、トキ オ・ポーロ、JR1NVB、Reedo、Alexbot、新茶、Kliment.A.K.、花蝶⾵⽉雪⽉花警部、Kanohara、Tribot、Snlf1、BotSottile、Kevin doraemon、Albambot、ボッスン、東冨、紅美鈴、拓殖魂、Point136、廿粁、Nori216、Nallimbot、Chichiii、⽩拍⼦花⼦、ク・ルー ル、Rubinbot、Esp3~jawiki、ゼロ 78、Xqbot、男梅、ロンドル、Tomyan、Zazanasawa、Dontakosu、Watchdog daemon、ムッソリー ニ、XYZA、Yaiza、RedBot、Toyotomi4sei、Stukn、Tokyokanagawachiba、多摩に暇⼈、MastiBot、Hayasesyape、流⽊の上、なび お、栗巣裕充、Terumasa、半⽉熊、朋ちゃん様、Dokomonta-Bot、Euler2011、草刈機、Bhairava、Harani0403、るっか、寒河江、 Lanwi1、Siomi、モアリップ、Lorettibarrend、和成、Jack.51、もみじ⿃、みしまるもも、MahdiBot、MITIZANE、Lovedownsize、 Gerarish、Addbot、さんぽーる、Whogaga、Yqm、Asturio Cantabrio、Pontetower、Sidiouschancellor、Lod-aiko、Manjiro1031、My atsu 05、茨華仙、Blue masaki kubota と匿名: 207 12.2 画像 • ファイル:1945-3-10-2.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/1945-3-10-2.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html 原著者: ⽶軍撮影 • ファイル:Andersen_AFB_with_150_B-52s_1972.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Andersen_AFB_ with_150_B-52s_1972.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: U.S. Air Force photo 081209-F-0000X-002 from the Andersen Air Force Base website 原著者: USAF • ファイル:B-29_bombing.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/B-29_bombing.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.trumanlibrary.org/photographs/view.php?id=550 原著者: United States Army • ファ イ ル:Boeing_B-29_Superfortress_2.jpeg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Boeing_B-29_ Superfortress_2.jpeg ライセンス: Public domain 投稿者: ? 原著者: ? • ファイル:Cenotaph-Taito_Tokyo_at_Sumida_Park-Bombing_of_Tokyo_in_World_War_II.png 出典: https://upload.wikimedia. org/wikipedia/commons/1/1b/Cenotaph-Taito_Tokyo_at_Sumida_Park-Bombing_of_Tokyo_in_World_War_II.png ライセンス: CC BY-SA 3.0 投稿者: Slef Shot 原著者: Namazu-tron • ファイル:Commons-logo.svg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Commons-logo.svg ライセンス: Public domain 投稿者: This version created by Pumbaa, using a proper partial circle and SVG geometry features. (Former versions used to be slightly warped.) 原著者: SVG version was created by User:Grunt and cleaned up by 3247, based on the earlier PNG version, created by Reidab. • ファ イ ル:Devastated_Tokyo_station_building_from_platform.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/ Devastated_Tokyo_station_building_from_platform.jpg ラ イ セ ン ス: Public domain 投 稿 者: Scanned from p.124 of “History of stations. Terminals in Tokyo”/ 「図 説 駅 の 歴 史 東 京 の ター ミ ナ ル」124 ペー ジ か ら ス キャ ン 原 著 者: 不 明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload. wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https:// upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia. org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファイル:Disambig_gray.svg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5f/Disambig_gray.svg ライセンス: CC-BYSA-3.0 投稿者: The original file was drawn by Stephan Baum and first uploaded in February 2005. 原著者: Stephan Baum (recolored by Mzajac, converted to SVG by Booyabazooka) • ファ イ ル:Farsari_Shiba.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Farsari_Shiba.jpg ラ イ セ ン ス: Public domain 投稿者: Musée Nicéphore Niépce; Collection du musée Niépce. 'Thé/Laque/Photographie'". 原著者: アドルフォ ・ファル サーリ • ファイル:Firebombing_of_Tokyo.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Firebombing_of_Tokyo.jpg ラ イセンス: Public domain 投稿者: Library of Congress 原著者: US Army Air Forces • ファイル:Houmei-Den_of_Meiji_Palace.JPG 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0c/Houmei-Den_of_Meiji_ Palace.JPG ラ イ セ ン ス: Public domain 投 稿 者: 毎 ⽇ 新 聞 社 「⼀ 億 ⼈ の 昭 和 史 13」 よ り。原 著 者: 不 明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload. wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https:// upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia. org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファイル:IJA_General_Staff_HQ.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/IJA_General_Staff_HQ.jpg ラ イセンス: Public domain 投稿者: historical postcard, personal collection 原著者: 不明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' 12.2 画像 21 title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/ Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/ thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/ Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファ イ ル:Isley_field_end_of_war_lg.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/56/Isley_field_end_of_war_lg. jpg ライセンス: Public domain 投稿者: ? 原著者: ? • ファイル:Iwo_Jima_amtracs.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/Iwo_Jima_amtracs.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: http://www.archives.gov/research_room/research_topics/world_war_2_photos/images/ww2_155.jpg “Iwo Jima & Okinawa: #155”, Pictures of World War II, National Archives. 原著者: PhoM3c. Robert M. Warren, USN • ファイル:Kawasaki_Ki-61-14.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/30/Kawasaki_Ki-61-14.jpg ライセン ス: Public domain 投稿者: ? 原著者: ? • ファイル:Mita_grand_hall_1915.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0b/Mita_grand_hall_1915.jpg ライ センス: Public domain 投稿者: [1] 原著者: 三⽥メディアセンター • ファ イ ル:Otegine_spear_edge_with_scabbard.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Otegine_spear_ edge_with_scabbard.jpg ライセンス: CC SA 1.0 投稿者: 投稿者本⼈による撮影 原著者: 投稿者本⼈ • ファイル:Philippine_Sea_location.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Philippine_Sea_location.jpg ラ イセンス: Public domain 投稿者: ? 原著者: ? • ファ イ ル:Square_of_Meiji_Palace.JPG 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Square_of_Meiji_Palace. JPG ラ イ セ ン ス: Public domain 投 稿 者: 毎 ⽇ 新 聞 社 「昭 和 史 第 2 巻 昭 和 前 史・ 富 国 強 兵」 よ り。原 著 者: 不明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload. wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https:// upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia. org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファ イ ル:Togoshi-koen_Station1945.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Togoshi-koen_Station1945. jpg ライセンス: Public domain 投稿者: 「⽇本写真全集 7 都市の光景」(1987 年、⼩学館) P51 原著者: 中村⽴⾏ (Rikko Nakamura, 1912-1995) • ファイル:Tokyo-kushu-hikaku.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/Tokyo-kushu-hikaku.jpg ライセン ス: Public domain 投稿者: 古写真を元に、Rekishi-JAPAN が作成。原著者: Rekishi-JAPAN • ファ イ ル:Tokyo_Prefectural_Office_and_Tokyo_City_Hall.JPG 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cc/ Tokyo_Prefectural_Office_and_Tokyo_City_Hall.JPG ライセンス: Public domain 投稿者: 毎⽇新聞社「⼀億⼈の昭和史 11」 よ り。原 著 者: 不 明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファイル:Tokyo_kushu_1945-2.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/Tokyo_kushu_1945-2.jpg ライセ ンス: Public domain 投稿者: 写真のアップローダが出典を⽰していないのでどこからこの写真を持ってきたのか不明だが、 該当写真は 1953 年 8 ⽉ 15 ⽇発⾏の「東京⼤空襲秘録写真集」(雄鶏社刊) の 13 ページに「年若い⺟と⼦の命を奪つた 3 ⽉ 10 ⽇の猛⽕の跡」のキャプション付きで掲載されているので著作権問題はクリアされている。原著者: ⽇本語: ⽯川光陽 • ファイル:Tokyo_kushu_1945-3.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Tokyo_kushu_1945-3.jpg ライセ ンス: Public domain 投稿者: 写真のアップローダが出典を⽰していないのでどこからこの写真を持ってきたのか不明だが、 該当写真は 1953 年 8 ⽉ 15 ⽇発⾏の「東京⼤空襲秘録写真集」(雄鶏社刊) の 12, 13 ページに「道路⼀杯に横たわる焼死体、 誰とも知れぬ⼀⽚の灰のかたまりにすぎないが…」のキャプション付きで掲載されているので著作権問題はクリアされて いる。原著者: ⽇本語: ⽯川光陽 • ファイル:Tokyo_kushu_1945-4.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/Tokyo_kushu_1945-4.jpg ライセ ンス: Public domain 投稿者: 写真のアップローダが出典を⽰していないのでどこからこの写真を持ってきたのか不明だが、 該当写真は 1953 年 8 ⽉ 15 ⽇発⾏の「東京⼤空襲秘録写真集」(雄鶏社刊) の 116, 117 ページに「⽜込市ヶ⾕附近 (4 ⽉ 14 ⽇)」のキャプション付きで掲載されているので著作権問題はクリアされている。写真のアップローダのオリジナルの記述 によると、写真の撮影は 1945 年 3 ⽉ 10 ⽇頃となっているが、「東京⼤空襲秘録写真集」によれば 4 ⽉ 14 ⽇である。どち らが正しいのか不明なので、アップローダのオリジナルの記述を優先して掲載した。原著者: ⽇本語: ⽯川光陽 • ファイル:Tokyo_kushu_1945-7.jpg 出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Tokyo_kushu_1945-7.jpg ライセ ンス: Public domain 投稿者: ? 原著者: ⽯川光陽 • ファ イ ル:Tokyo_station_disastrous_scene_of_after_Great_Tokyo_Air_Raid.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ commons/6/63/Tokyo_station_disastrous_scene_of_after_Great_Tokyo_Air_Raid.jpg ライセンス: Public domain 投稿者:「マッカー サーの⾒た焼跡―フェーレイス・カラー写真集東京・横浜 1945 年」(⽂藝春秋、1983 年 8 ⽉)p34-35 原著者: Gaetano Faillace • ファ イ ル:Tokyostation-japan-afterfirebombs-1945.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/ 0c/Tokyostation-japan-afterfirebombs-1945.jpg ラ イ セ ン ス: Public domain 投 稿 者: Historical 原 著 者: 不 明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https: //upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファ イ ル:Toyo_Bunrika_University,_1945.jpg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/Toyo_Bunrika_ University%2C_1945.jpg ライセンス: Public domain 投稿者: ノーベル書房株式会社編集部「写真集旧制⼤学の⻘春」1984 年 1 ⽉ 20 ⽇発⾏ 原著者: 不明 <a href='//www.wikidata.org/wiki/Q4233718' title='wikidata:Q4233718'><img alt='wikidata:Q4233718' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/20px-Wikidata-logo.svg.png' width='20' 12 ⽂章および画像の出典、投稿者、ライセンス 22 height='11' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/30px-Wikidata-logo.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Wikidata-logo.svg/40px-Wikidata-logo.svg.png 2x' data-file-width='1050' data-file-height='590' /></a> • ファ イ ル:US_Strategic_Bombing_of_Tokyo_1944-1945.png 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/ US_Strategic_Bombing_of_Tokyo_1944-1945.png ラ イ セ ン ス: Public domain 投 稿 者: http://www.archive.org/details/ effectsofairatta47unit 原著者: United States Strategic Bombing Survey, Urban Areas Division • ファ イ ル:Wiki_letter_w_cropped.svg 出 典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Wiki_letter_w_cropped.svg ラ イ セ ン ス: CC-BY-SA-3.0 投 稿 者: こ の ファ イ ル の 派 ⽣ 元 Wiki letter w.svg: <a href='//commons.wikimedia.org/wiki/File: Wiki_letter_w.svg' class='image'><img alt='Wiki letter w.svg' src='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Wiki_ letter_w.svg/50px-Wiki_letter_w.svg.png' width='50' height='50' srcset='https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/ Wiki_letter_w.svg/75px-Wiki_letter_w.svg.png 1.5x, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Wiki_letter_w.svg/ 100px-Wiki_letter_w.svg.png 2x' data-file-width='44' data-file-height='44' /></a> 原著者: Derivative work by Thumperward from: 12.3 ライセンス • Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0