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印刷版 - 文化庁
平成27年11月20日
史跡等の指定等について
文化審議会(会長
みや た
宮田
りょうへい
亮 平)は,11月20日(金)に開催された同審議会文
化財分科会の審議・議決を経て,史跡名勝天然記念物の新指定14件,追加指定等26
件,登録記念物の新登録3件,重要文化的景観の追加選定1件について,文部科学大臣
に答申しました。今回答申された史跡等の指定等の詳細については,別紙のとおりです。
この結果,官報告示の後に,史跡名勝天然記念物は3,178件,登録記念物は98
件,重要文化的景観は50件となる予定です。
<担当> 文化庁文化財部記念物課
課
長
課 長 補 佐
主任文化財調査官(史跡部門)
文 化 財 調 査 官(名勝部門)
主任文化財調査官(天然記念物部門)
文 化 財 調 査 官(文化的景観部門)
主任文化財調査官(埋蔵文化財部門)
調
査
係
電話:03-5253-4111(代表)
03-6734-2876(直通)
加
藤
川
島
佐
藤(内線2880)
平
澤(内線2881)
本
間(内線2883)
市
原(内線3142)
禰 冝 田(内線2875)
吉
野 (内線2878)
別
紙
史跡名勝天然記念物
種
別
(平成27年11月20日現在)
現在指定件数
今回答申件数
新指定
解除
合計(現在指定件数と答
統合に 申件数との合計)
よる減
史
跡
1,752
(うち特別史跡)
名
396
(うち特別名勝)
計
2
0
(36) (0) (0)
1,016
(うち特別天然記念物)
合
0
(61) (0) (0)
勝
天然記念物
9
5
0
(75) (0) (0)
3,164
16
0
(172) (0) (0)
2
1,759
(0)
(61)
0
398
(0)
(36)
0
(0)
2
(0)
1,021
(75)
3,178
(172)
(備考)
件数は,同一の物件につき,二つの種別に重複して指定が行われている場合(例えば,
名勝及び天然記念物など),それぞれの種別につき1件として数えたものです。
なお,重複指定物件を1件として数えた場合,
現在指定件数は,
3,054件
答申後合計件数は,
3,066件
1
です。
登録記念物
種
別
現在登録件数
今回答申件数
新登録
合計(現在登録件数と
答申件数との合計)
抹 消
遺跡関係
10
0
0
10
名勝地関係
79
3
0
82
6
0
0
6
95
3
0
98
動物,植物及び
地質鉱物関係
合
計
(備考)
件数は,同一の物件につき,二つの種別に重複して登録が行われている場合(例えば,
遺跡関係及び名勝地関係など),それぞれの種別につき1件として数えたものです。
なお,重複登録物件を1件として数えた場合,
現在登録件数は,
93件
答申後合計件数は,
96件
です。
重要文化的景観
種
別
現在選定件数
今回答申件数
新選定
重要文化的景観
50
0
2
合計(現在選定件数と
答申件数との合計)
解 除
0
50
「新指定・新登録・新選定」答申物件
《史跡名勝天然記念物の新指定》
【史跡】8件
きゅううたすつ さ と う け ぎ ょ ば
1
旧 歌 棄 佐藤家漁場【北海道寿都郡寿都町】
すっつちょうあざうたすつ
北海道の日本海側南部に位置する寿都湾に面する寿都町字歌棄にある,明治時代を全盛
えい え
も
ん
たてあみ
期とした佐藤家の漁業経営の拠点,漁場の遺跡。初代栄右衛門は建網の開発を行った。木
造二階建て,和洋折衷の主屋や邸内社等が残り,前浜に造られた鰊を一時的に貯蔵する
ふくろま
かんば
袋澗,背後の丘陵の干場とが漁場の佇まいを良好に残す。
(北海道の日本海側南部において,明治時代に漁業経営の拠点として栄えた漁場の遺跡。)
2
た て や ま じょう あ と
舘山 城 跡【山形県米沢市】
伊達家が勢力を拡大した天正15~19年(1587~1591)にかけての中心的な
城館跡。山城と山麓居館跡が良好な状態で残り,陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけ
でなく,中世社会の動向を知る上で重要。
(戦国大名伊達家の中心的な城館跡で,城館の構造や中世社会の動向を知る上で重要。)
3
てきがいそう
こ の え ふ み ま ろ きゅう た く
荻外荘(近衞文麿 旧 宅)【東京都杉並区】
昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿の別邸。昭和15年(1940)には,ドイ
ツ・イタリアとの連携強化や東南アジア地域への南方進出など,第二次近衞内閣の政治方
針を話し合った荻窪会談等の重要な会議が行われた。
(総理大臣を3度務めた近衞文麿の別邸であり,日米開戦前の重要な会議が行われた場所
として重要。
)
4
え
ど じょういしがきいしちょうばあと
江戸 城 石垣石丁場跡【神奈川県小田原市,静岡県熱海市・伊東市】
こうぎ ご ふしん
江戸城改修に伴う「公儀御普請」で用いる石垣の石材を採石,加工した石丁場の跡。江
戸時代前半の採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成のみでなく,諸大名の編成
をはじめとする「公儀御普請」の実態や,その背景にある社会的・政治的動向を知る上で
重要。
(江戸城改修に伴う「公儀御普請」で用いる石垣の石材を採石,加工した石丁場の跡。)
3
5
ま ごしなが ひ づか こ ふんぐん
馬越長火塚古墳群【愛知県豊橋市】
墳長70mの馬越長火塚古墳と直径20m前後の2基の円墳からなる古墳群。古墳時代
後期から終末期に築造され,副葬品の馬具や玉類は非常に高度な技術のもとに作られてい
る。墳形や副葬品は畿内地域との関係を示唆する。当該時期における政治や社会のあり方
を知る上で重要。
(東海地方を代表する,古墳時代後期から終末期にかけての前方後円墳を中心とした古墳
群。)
6
が くえん じ けいだい
鰐淵寺境内【島根県出雲市】
ざ お う しんこう
島根半島の北山山系に位置する山林寺院。蔵王信仰,山林修行の場として古代に開創し,
えんりゃくじ ま つ じ
中世には延暦寺末寺となり,出雲大社とも強い結び付きを有し,多数の僧坊を構えて繁栄
した。境内は中世の面影をよく残し,中国地方における仏教の中世的展開を知る上で重要。
(中国地方を代表する山林寺院。中世には多数の僧坊を構えて繁栄。中世仏教の展開を知
る上で貴重。
)
7
こうたち こ ふん
甲立古墳【広島県安芸高田市】
ふきいし
中国地方山間部で新たに発見された墳長77.5mの前方後円墳。墳丘には葺石が巡り,
いえがた は に わ
ふんきゅうけいたい
後円部には精巧な作りの家形埴輪などが樹立していた。墳 丘 形態・葺石や埴輪を持つこと
は畿内地域と深い関係があったことを示す。古墳時代前期末の政治や社会,精神世界のあ
り方を知る上で重要。
(中国地方山間部で新たに発見された,古墳時代前期末の畿内的な特徴をもつ前方後円
墳。)
8
と
さ はんしゅやまうち け
ぼ しょ
土佐藩主山内家墓所【高知県高知市】
ひつざん
高知城跡の東南に位置する筆山に所在する,土佐藩20万石を領した国持大名山内家の
かつとよ
ぼとう
墓所。初代一豊をはじめ歴代藩主の墓塔が斜面の各段に配され,往時の状況を良く残す。
幕藩体制下の大名の墓制・葬制を知る上で貴重。
やまうち
(土佐藩20万石を領した国持大名・山内家の墓所。大名家の墓制・葬制を知る上で貴重。
)
4
【史跡及び名勝】
1
にしやま ご てんあと
1件
せいざんそう
西山御殿跡(西山荘)【茨城県常陸太田市】
とくがわみつくに
水戸藩2代藩主徳川光圀が元禄3年(1690)に隠居を許され,その後に居住した邸
宅跡。関東平野の最北端に位置し,谷津が入り込んだ奥に簡素な建物を造り,そこで『大
日本史』の校閲等を行った。光圀が理想郷と考えた景観が現在まで残る。
とくがわみつくに
(水戸藩2代藩主徳川光圀が隠居した邸宅跡であり,光圀が理想郷とした景観が残る。)
【名勝及び天然記念物】1件
1
びょうぶがうら
屏風ケ浦【千葉県銚子市】
千葉県北東部に位置する約10kmの海食崖で,かつての海底に堆積した砂や泥などか
らなる地層が,急激な風化と浸食を被って形成された。赤い断崖に荒波が打ち寄せる景観
めいしょ ず
え
は,近世以降現代まで,多くの名所図会,文学作品などに描かれてきた。
めいしょ ず
え
(千葉県北東部に位置する約10kmの海食崖で,多くの名所図会等に描かれてきた。)
【天然記念物】
1
4件
こ ち ち ぶ わんたいせきそうおよ
かいせいほにゅうるい か せ き ぐ ん
古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群
【埼玉県秩父市・秩父郡横瀬町・皆野町・長瀞町・小鹿野町】
かいせいそう
秩父盆地に広がる約1,700万年~1,500万年前の海成層とパレオパラドキシア
及び鯨類化石の標本。日本列島形成当時の日本近海で起こった地殻変動や生物群集及び古
環境の変遷を示すもので,地層の露出状況及び化石標本の産出状態が良好で貴重。
かいせいそう
(日本列島形成期の環境を示す海成層とパレオパラドキシア及び鯨類化石標本。)
2
じ せ い ち
オオヨドカワゴロモ自生地【宮崎県小林市】
カワゴロモ属の植物は急流の水中に生育,コケ類のような特異な形態を示し,タイ・中
国南部から南九州に隔離分布する。本種は岩瀬川のみに生育する固有種で,カワゴロモ属
植物の北限となる良好な自生地として貴重。
(流水中に生育し,特異な形態を示すカワゴロモ属植物の北限の自生地として貴重。)
3
ぐんらく
ンタナーラのサキシマスオウノキ群落【沖縄県石垣市】
サキシマスオウノキは通常,マングローブの後背湿地や海岸沿いに分布する,海流散布
ふ かい お
も
と だけ
型の種子をもつ常緑高木である。桴海於茂登岳山麓部では海水の影響を受けない,標高6
5
0~100mの渓流沿いに群落を形成しており,希少な立地環境の森林として貴重。
(山地性の森林とともに,海岸から離れた渓流沿いに発達した希少な立地の群落として貴
重。)
い
4
へ やじま
ねんとうひらまつ
伊平屋島の念頭平松【沖縄県島尻郡伊平屋村】
念頭平松は幹周4.5m,樹高約8mのリュウキュウマツで,枝張り東西約28m,南
北約24mという巨大な枝振りで優美な樹形をしており,
古くから地域の人々に親しまれ,
く
め
ご
え
保護されてきた。天然記念物「久米の五枝のマツ」とともにリュウキュウマツの二大名木
として著名。
(地域の人々に親しまれ保護されてきた,優美な樹形のリュウキュウマツの名木。)
《登録記念物の新登録》
【名勝地関係】
3件
しんどう し ていえん
1
新藤氏庭園【栃木県足利市】
明治末期に織物業者の住宅の離れに面して造営された池泉庭園。離れのある台地の上か
ら落ちる滝は落差が約3mあり,豪快な滝が造られている。地形を活かした特徴ある意匠
は,造園文化の発展に寄与している庭園の事例として意義深い。
(明治末期の商家の庭園。地形を活かした落差3mの豪快な滝が特徴の庭園。)
じっこくとうげ
2
ひ がねさん
十国 峠 (日金山)【静岡県熱海市・函南町】
古くからの信仰地である日金山は箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で,富
士山をはじめとした十国五島の景勝を望む好適地として知られており,近代以降には「十
国峠」の名で親しまれてきた意義深い事例である。
(近代以降広く知られるようになった四周八方に広がる陸海の景勝を望む好適地。)
まえがき し ていえん
3
じゅえんてい
前垣氏庭園(寿延庭)【広島県東広島市】
しげもり
昭和30年(1955)に酒造業を営む前垣氏の住宅に造られた枯山水庭園。作庭家重森
み れい
三玲によって設計され,造営当初の姿を今日までよく伝える。苔がはられた出島と白砂敷
で表現された水面が接する汀線は入り組み,砂の白さと苔の深い緑色が好対照をなす。
しげもり み れい
(酒造業を営む前垣氏の住宅に造られた作庭家重森三玲の設計による枯山水庭園。)
6
史跡等の指定等
7
《 史跡の新指定 》 8件
きゅううたすつ さ と う け ぎ ょ ば
1
旧 歌棄佐藤家漁場【北海道寿都郡寿都町】
旧歌棄佐藤家漁場は,北海道の日本海側南部に位置する寿都湾に面する寿都町字歌棄町
ぎょば
えい
に所在する,明治時代を全盛期とした佐藤家の漁業経営の拠点,漁場の遺跡である。初代栄
え
も
ん
右衛門は陸奥国信夫郡飯坂村に生まれ,嘉永5年(1852),ヲタスツ・イソヤ(歌棄・
磯谷)両場所の請負人となり,翌6年,磯谷に移住し,地域の行政的な役割をも担いなが
ら,開拓使による明治2年(1869)の場所請負制の廃止布達後も漁場経営を続けた。
たてあみ
ゆきなり
初代栄右衛門は建網(行成網)の開発を行い,北海道漁業の振興に大きく貢献した。佐藤
家は明治5年頃,歌棄に転住し,明治20年(1887)頃には道内でも有数の大規模経
営を行うに至った。二代栄右衛門の代に,和風と洋風を併せた九間取の住宅主屋と邸内社
ふくろま
かんば
社殿の建造及び前浜の袋澗の築造を行い,さらに鰊の干場として住宅裏手の段丘上の土地
も,明治31年(1898)に払下げを受けている。旧歌棄佐藤家漁場の最盛期の建物配
置は明治期の写真や明治34年(1901)の「家屋台帳」から把握できる。
旧歌棄佐藤家漁場は前浜に築造された袋澗,居宅と邸内社,背後の干場と,海から陸地
へと連続して展開する北海道西海岸の漁場の佇まいを今日に伝えるきわめて貴重な遺跡で
ある。
2
た て や ま じょう あ と
舘山 城 跡【山形県米沢市】
よねざわ
こたるがわ
おおたるがわ
米沢盆地西縁の丘陵地の東端,小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330m
だ
て
じ か(け) き ろ く
の丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる城跡。
「伊達治 家 記録」に見える舘山
城に比定されている。山城は土塁や堀切で区画された3つの曲輪から成り,全長は約32
0mである。米沢市教育委員会の発掘調査の結果,伊達家が治世にあたった16世紀代と
上杉家の米沢入封直後の17世紀前半の遺構があることが判明した。
山麓部の居館群は米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出され,館
山東館では,掘立柱建物や庭園の可能性のある池状遺構,井戸跡等が検出されている。
舘山城跡は,伊達家が版図を拡大した天正15年(1587)~19年(1591)に
かけて政治的・軍事的な拠点となった城館であるとともに,山城と同時期の山麓居館跡が
む つ の くに
良好な状態で残っている。陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけでなく,中世社会の動
向を知る上で重要である。
8
てきがいそう
3
こ の え ふ み ま ろ きゅう た く
荻外荘(近衞文麿 旧 宅)【東京都杉並区】
荻外荘は,昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿の別邸であり,政治会談や組閣が
行われた場所である。JR中央線荻窪駅から南東の閑静な住宅街にあり,大正天皇侍医の
入澤達吉が伊東忠太に設計を依頼して昭和2年(1927)に建てた別邸を近衞が昭和1
2年(1937)に購入した。
近衞は五摂家の筆頭近衞家出身で,貴族院議長などを経て総理大臣となった。昭和15
年(1940),第二次内閣の組閣直前に行われたいわゆる荻窪会談は,近衞が外相・陸
相・海相に就任予定であった松岡洋右・東條英機・吉田善吾を荻外荘に呼び,ドイツ・イ
タリアとの連携強化や南方進出などを話し合った。また,第三次内閣では,昭和16年(1
941)の日米開戦約2か月前に,東條陸相・及川海相・豊田外相・鈴木企画院総裁を呼
んだいわゆる荻外荘会談が行われた。近衞は中国における陸軍の駐兵問題での譲歩を東條
に拒否され,日米交渉の糸口を見いだせぬまま内閣総辞職にいたった。そして終戦後の昭
和20年(1945)に近衞は荻外荘で自ら命を絶った。
現存の建物としては,居住棟,別棟,蔵がある。近衞が自決した部屋がほぼ当時のまま
残っており,保存状態は良好である。玄関や数々の会談の場となった客間棟は豊島区に移
築されたものの,昭和期の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所として重
要である。
え
4
ど じょういしがきいしちょうばあと
江戸 城 石垣石丁場跡【神奈川県小田原市,静岡県熱海市・伊東市】
伊豆半島とその周辺に分布する,慶長9年(1604)から寛永13年(1636)に
こうぎ ご ふしん
かけての,江戸城改修に伴う「公儀御普請」で用いる石垣の石材を採石,加工した石丁場
の跡である。海岸近くか,河川沿いなど水運の便の良い山中に立地しているものが多く,
採石と加工を行う山中の作業場,搬出前の石材をとどめ置く仮置き場,石材の搬出路であ
いしびきみち
る石曳道,船積みを行う港などからなる。山中の作業場は,いずれの場所でも石材の割り
取りのために矢穴が打たれた石材の散布からその所在を把握することができる。
江戸城を構築する上で,大量に必要とした石垣用石材の産地として,その採石・加工・
運搬技術やそれに伴う労働力の編成を知る上で重要であるだけでなく,江戸時代前半にお
ける諸大名の編成をはじめとする「公儀御普請」の実態や,その背景にある社会的・政治
的動向を知る上で重要である。現在,確認されている170箇所を超える石丁場跡のうち,
特に規模が大きく,保存状態が良好であり,採石から搬出までの工程が把握できるものを
指定する。
9
ま ごしなが ひ づか こ ふんぐん
5
馬越長火塚古墳群【愛知県豊橋市】
とよがわ
ま ご し な が ひ づか こ ふ ん
おおつかみなみこふん
くちあけづかみなみ
愛知県の南東部,豊川東側の段丘上に所在する馬越長火塚古墳,大塚南古墳,口明塚 南
こふん
古墳からなる古墳群である。馬越長火塚古墳は6世紀末葉の墳長70mの前方後円墳であ
る。後円部には横穴式石室が開口し,全長は17.5m以上で,石室からは高度な技術で
て つ じ こんどうそう
きょくようがたぎょうよう
作られた鉄地金銅装の 棘 葉形 杏 葉などの馬具,ガラス製トンボ玉などの装身具等が出土
した。大塚南古墳は直径19m,口明塚南古墳は直径23mの円墳で,出土した馬具等か
ら前者が7世紀初頭,後者が7世紀前葉に築かれたことが判明している。
ほのくに
馬越長火塚古墳群は6世紀末葉から7世紀前葉まで築造された古墳群で,文献で「穂国」
とされる地域に所在する。馬越長火塚古墳は,同時期において東海屈指の規模を有する前
方後円墳で,被葬者は出土した金銅装馬具から大和王権とのかかわりが考えられる。同様
の馬具は大塚南古墳と口明塚南古墳でも出土しており,規模は著しく小型化するも大和政
権との関わりは継続していたと考えられる。
本古墳群は東海地方の古墳時代後期から終末期にかけて,3世代にわたる首長墓系譜の
変遷を追うことができる事例として重要である。
6
が くえん じ けいだい
鰐淵寺境内【島根県出雲市】
きたやま
出雲市北部,島根半島西部の北山山系の山中に位置する,中国地方を代表する山林寺院
がくえんざん
ふ ろ う のたき
である。もともと鰐淵山といい,古代以来,浮浪 滝 を中心とする山林修行の場として発展
ざおう
りょうじんひしょう
ひじり
すみか
した。
平安時代には蔵王信仰の拠点として栄え,
『 梁 塵 秘抄』
(平安時代末期)に「 聖 の住所」
えんりゃくじ
として謡われる等,修験の場として知られていた。11世紀後半,天台宗延暦寺の勢力下
ふろうさん
に組み込まれ,12世紀後半に本格的な寺院浮浪山鰐淵寺として成立したと考えられる。
中世には,境内に多数の僧坊を構えて繁栄し,14世紀にはそれまで北院・南院に分かれ
いずも
ていた寺内が和合・統一し,根本堂が創建された。また,出雲大社の祭事において鰐淵寺
だいはんにゃきょうてんどく
僧が大 般 若 経 転読を行う等,大社と強い結び付きを有するようになった。戦国時代以降,
戦国大名の介入によって寺領は次第に侵食され,近世には大社祭礼への関わりも途絶して,
寺勢は衰えたが,現在も中世以来の寺院景観を良く残し,江戸期の伽藍建築をはじめ,多
数の寺宝を蔵する。発掘調査等の結果,中世期の繁栄を物語る遺構・遺物が良好に残存し
ていることが判明した。中国地方における山林寺院の形成とその中世的展開,及び近世期
の変容を理解する上で貴重である。
10
7
こうたち こ ふん
甲立古墳【広島県安芸高田市】
え の か わ
甲立古墳は,広島県の山間部安芸高田市東部の江の川(可愛川)とそれにつながるいく
つかの河川の合流点に所在する。江の川は,下流において日本海側の石見地域とつながる,
中国地方最大の河川である。
ふきいし
本古墳は墳長77.5mの前方後円墳で,葺石が墳丘斜面のほぼ全面に施されている。
れきかく
後円部平坦面では墓坑1基を検出し,電気探査によると竪穴式石室や礫槨などの埋葬施設
きざいがた は に わ
であると考えられる。墳丘からは円筒埴輪と器財形埴輪が出土した。後円部平坦面には墳
丘に沿って円筒埴輪等が樹立し,その内側には5個体の家形埴輪が一列に配置されていた。
埴輪の特徴から古墳時代前期末,4世紀後半に築造されたと考えられる。
古墳は均整の取れた墳形,緻密に施された葺石,丁寧かつ精巧に製作された家形埴輪を
有し,築造に畿内地域の勢力が深く関わっていたことが考えられる。4世紀後半は大和政
権が朝鮮半島と対外交流において関係を深めた時期にあたり,本古墳が瀬戸内海と日本海
を結ぶ内陸部に築造されたことによって,大和政権の対外政策のあり方を知ることができ
る。さらに,後円部での埴輪群は当時の葬送儀礼のあり方を知ることもできる。古墳時代
前期の政治や交通そして葬送儀礼のあり方を知る上で重要である。
8
と
さ はんしゅやまうち け
ぼ しょ
土佐藩主山内家墓所【高知県高知市】
土佐藩主山内家墓所は,江戸時代,土佐藩20万石を領した大名山内家歴代の墓所とし
かがみがわ
ひつざん
て営まれたものであり,高知市中心部を流れる 鏡 川右岸沿いの丘陵,筆山北麓に位置する。
かつとよ
慶長10年(1605)高知にて没した初代藩主一豊が筆山に葬られたのを嚆矢として,
きそう
江戸参勤中になくなった藩主もその遺骸を国許に持ち帰って葬儀・埋葬する「帰葬」の方
とよしげ
式が採られた。歴代の藩主(十五代豊信を除く)と,藩主子女・正室・側室の一部が筆山に
しんにょじ
葬られ,菩提寺の真如寺において葬儀・法要が行われた。墓所は,南北約130m,東西
約200mの範囲で,最上段に初代一豊墓を,その下段に歴代藩主の墓域を置き,最下段
部に子女の墓域を配する構造であり,墓域の造営は6期の変遷がある。高さ3~5mの墓
き
ふ
標や,高さ2mの石灯籠,藩主の事績を記した亀趺といった巨大な石造物が立ち並ぶ。墓
むほうとう
いはい
標の形状は初代の無縫塔形に始まり,三代藩主からは位牌形に変遷する。発掘調査では,
覆屋ないし塀等の基礎遺構,石組み側溝等を確認した。藩主の葬儀等を記した文献史料や
図面等もよく残る。江戸時代の国持大名の墓所として威厳と風格を備え,幕藩体制下の大
名の墓制,葬制を知る上で貴重である。
11
《史跡及び名勝の新指定》
1
にしやま ご てんあと
1件
せいざんそう
西山御殿跡(西山荘)【茨城県常陸太田市】
とくがわみつくに
西山御殿跡(西山荘)は,水戸藩2代藩主徳川光圀が隠居した後に居住した邸宅跡であ
る。関東平野最北の谷津の最深部付近に位置する。光圀は寛文元年(1661)に藩主と
なり,『大日本史』の編纂を始めたことで知られる。元禄3年(1690)に隠居を許さ
れ,その後この地に移り住み,茅葺に土壁の簡素な建物に居住した。郷の入口に架けた橋
とうげんきょう
を自ら「桃源 橋 」と名付けたことからも,光圀がここを理想郷と考えていたことがうかが
える。光圀は御殿の周辺の山に鹿を,田に鶴を放ち,薬効のある草木を多数植えた。御殿
せいざん い ん し
での光圀は「西山隠士」などと称し,領内の巡検や,文化事業に取り組む一方,『大日本
史』の校閲などの作業を行った。光圀の死後建物は解体されたが,享保元年(1716)
に再建された。この建物は文化14年(1817)に焼失したものの,文政2年(181
9)に光圀居住時の三分の一の規模で忠実に再現されて残っており,敷地全体は現在「西
山荘」と呼ばれている。御殿の周囲には2つの池,滝,遙拝石,突上御門などを備えた庭
園があり,また紀伊徳川家より贈られたという熊野杉の木立がそびえる。このように,光
圀が理想とした景観が今日までよく残されているとともに,『大日本史』を自ら校閲した
記念碑的な場所として重要である。
《名勝及び天然記念物の新指定》
1
1件
びょうぶがうら
屏風ケ浦【千葉県銚子市】
しもうさ だ い ち
いぬいわ
屏風ケ浦は千葉県北東部に位置する下総 台地 を削る海食崖で,千葉県銚子市犬岩 から
あさひしぎょうぶみさき
しんせいだいせんしんせい
旭市刑部 岬 まで,新生代鮮新世以降の地層から成る露岩の崖が約10kmにわたって分布
する。一億年以上前の硬い岩石を基盤として約300万年前~40万年前の海洋性の環境
いぬぼうそうぐん
ふせいごう
かとり
で堆積した犬吠層群と,その上に不整合面で接する内湾的な環境で堆積した香取層や関東
ローム層から成る。切り立った落差約60mの崖は,比較的柔らかい火山灰層などから構
成されており,波浪の影響で崖面から剥離・落下した土砂が沿岸流により常に運び去られ
ることにより形成されてきた。その侵食速度は年間50cm~100cmと急激であった。
江戸後期以降,その特徴的な地形が形作る景観が名所記や名所図会等の出版物に取り上
げられるようになり,歌川広重の『六十余州名所図会』にも描かれた。そのような絵図等
によって,現地を訪れたことのない人々にも屏風ケ浦の一定の印象が広がったと考えられ
る。明治期以降は交通網が発達し,実際に訪れる人々も増加した。また,海食崖や愛宕山
12
からの景観は絵葉書やパンフレットなどの題材になるとともに,現在までさまざまな文学
作品にも描かれてきた。屏風ケ浦の地形は,地質学上,また観賞上の価値が高く,重要で
ある。
《天然記念物の新指定》
1
こ ち ち ぶ わんたいせきそうおよ
4件
かいせいほにゅうるい か せ き ぐ ん
古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群
【埼玉県秩父市・秩父郡横瀬町・皆野町・長瀞町・小鹿野町】
古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群は,東西・南北とも約15kmの埼玉県秩父地域
しんせいだいちゅうしんせい
の秩父盆地に広がる新生代 中 新 世(約1,700万年~1,500万年前)の海成層とパ
レオパラドキシア及び鯨類化石の標本である。現在の日本列島の原型は,新生代中新世の
約2,000万年前から1,500万年前にかけて形成された。この時代,秩父盆地は東
に開いた古秩父湾を形成しており,秩父盆地に分布する約200万年分の地層には地殻変
動による湾の形成から終焉までが記録されている。
また,古秩父湾には海棲哺乳類をはじめ多様な生物群集が生息していたことが化石から
確認されており,その代表が約1,200万年前まで環太平洋地域の海浜で生息していた
パレオパラドキシアや鯨類など大型海棲哺乳類である。秩父盆地は日本有数のパレオパラ
ドキシア化石産出地で,日本産出標本の5分の1が報告されている。これらの地層と化石
群は,日本列島形成当時の日本近海で起こった地殻変動や生物群集及び古環境の変遷を示
すもので,地層の露出状況及び化石標本の産出状態が良好であり,学術上貴重である。
2
じ せ い ち
オオヨドカワゴロモ自生地【宮崎県小林市】
オオヨドカワゴロモはカワゴケソウ科カワゴロモ属に属する水生植物である。カワゴケ
ソウ科植物は熱帯から亜熱帯地方を中心に分布し,カワゴロモ属はインド以東のアジアに
約10種が分布している。タイ・中国南部等に生育が知られているが,フィリピン・台湾
かくりぶんぷ
には分布せず,日本では鹿児島県と宮崎県南部に4種が隔離分布している。この仲間の植
物はほとんどが急流の水中に生育し,流水中に適応した特殊な形態に変化し,種子植物で
ようじょうたい
あるが形態はコケ類・藻類のようである。根は平たい葉 状 体 となり岩の表面に広がり,葉
しんじょう
は小さな 針 状 で光合成は根から変化した葉状体で行っている。
いわせがわ
本種は昭和3年に確認されたものの,平成11年になり新種記載された,岩瀬川にのみ
こゆうしゅ
たそう
に生育する固有種である。日本に生育する同属の種と比較すると,葉状体が多層で厚く堅
そごう
くなることから,捻れたり,捲れ上がることで,非常に粗剛で極めてざらつく特徴がある。
13
このような通常の植物とは異なった特異な形態を示し,隔離分布を示す学術的価値が高い
植物である。カワゴロモ属の中でも独特の特徴を持ち,北限にあたる良好な生育地として
貴重である。
3
ぐんらく
ンタナーラのサキシマスオウノキ群落【沖縄県石垣市】
じょうりょくこうぼく
サキシマスオウノキはアオイ科サキシマスオウノキ属の 常 緑 高木である。インド洋,
さきしましょとう
太平洋岸の熱帯・亜熱帯地域に広く分布し,日本では奄美大島を北限とし,沖縄島,先島諸島
がいかく
くうげき
に分布している。果実は外殻につやがあり硬く,内部に空隙の多い構造で水によく浮き,
ちょうりゅう さ ん ぷ が た
ちょうせき
ちょうかんたい
散布様式は 潮 流 散布型と考えられる。このため,分布は 潮 汐 が達する潮 間 帯 湿地やマ
ングローブ後背林として群落を形成しており,通常は沿岸地に分布する。
ふかい お
も
と だけ
とうろくぶ
対象地域は,石垣島の中央北部に位置する桴海於茂登岳(標高477m)の東麓部から
ふ かい
みやら
お
も
と
出ているンタナーラ川と呼ばれる河川と,桴海と宮良をつなぐ於茂登トンネルの南出口が
交わる地域周辺である。サキシマスオウノキ群落は,海岸から9km以上離れ,標高が6
0~100m の地域に発達している。周辺の尾根筋や斜面のやや乾燥した地域にはケナガ
たにぶ
エサカキ-スダジイ群集,斜面下部や湿潤な谷部にはオキナワウラジロガシ群集など山地
性の自然林が発達している。サキシマスオウノキは河川沿いの不安定な崩壊地で,常に過
湿な環境に群落を形成している。このような海岸から離れた渓流沿いに群落が発達してい
る例は少なく,学術的価値の高いものとして貴重である。
4
い
へ やじま
ねんとうひらまつ
伊平屋島の念頭平松【沖縄県島尻郡伊平屋村】
あくせきじま
さきしましょとう
いりおもてじま
リュウキュウマツはトカラ列島の悪石島から先島諸島の 西 表 島までに分布する固有種
である。念頭平松は幹周4.5m,樹高約8mと幹の太さや高さはそれほど大きくはない
が,枝張り東西約28m,南北約24mという巨大な枝振りの優美な樹形のリュウキュウ
ご
え
マツで,天然記念物「久米の五枝のマツ」とともにリュウキュウマツの二大名木として著
名である。マツ類では珍しく半円形の傘のような自然樹形を形成している。伊平屋島には
松枯れ病を発症させる線虫を媒介するマツノマダラカミキリが確認されていないため,地
元ではマツの苗木や材の持ち込み等を禁止して保護を図っている。
う ふ た な ぶし
念頭平松の枝振りの美しさについては,伊平屋村に伝わる古歌である大田名節の一節な
ろうじゅめい ぼ く し
どに歌われ,昭和12年に沖縄縣山林會により作成された「老樹名木誌」に「枝ノ形状饅
頭形ニシテ庭園ノ盆栽仕立ノ如シ」と形容されるなど,古くから樹形の優美な樹木として
地元住民に認識されていた。地域の人々に親しまれ保護されてきたリュウキュウマツの名
木として貴重である。
14
《特別史跡の追加指定》
1
3件
ひ こ ね じょうあと
彦根 城 跡 【滋賀県彦根市】
い
い
け
江戸時代,徳川譜代大名筆頭格として知られる彦根藩主井伊家歴代の居城として営まれ
そうがまえぼり
た近世城跡。城跡の南東部に位置する外堀( 惣 構 堀)の一角,土塁が良好に遺存する地点
を追加指定する。
2
ふ じ わ ら きゅう せ き
藤原 宮 跡【奈良県橿原市】
持統天皇8年(694)から和銅3年(710)まで営まれた古代の都城跡。藤原京跡
だいり
だいごくでん
の中心部に位置し,約1km四方の区画内に内裏・大極殿,役所群が建てられた。条件の
整った部分を追加指定する。
3
みず き あ と
水城跡【福岡県太宰府市・大野城市・春日市】
天智天皇3年(664)
,唐・新羅の侵攻に備えて大宰府防衛のため築造された防御施設。
全長約1.2㎞に及ぶ土塁と濠からなり,古代の軍事・政治等を知る上で貴重。条件の整
った部分を追加指定する。
《史跡の統合,追加指定及び名称変更》
1
1件
おとくに こ ふ ん ぐ ん
乙訓古墳群
てんのう
もり こ ふ ん
天皇の杜古墳
てら ど おおつか こ ふん
寺戸大塚古墳
い つかはら こ ふん
五塚原古墳
もといな り
こ ふん
元稲荷古墳
な ん じょう こ ふ ん
南 条 古墳
も
ず
め くるま づ か こ ふ ん
物集女 車 塚古墳
い げのやま こ ふん
恵解山古墳
い のうちくるまづか こ ふ ん
井ノ内車塚古墳
い の う ち い な り づか こ ふ ん
井ノ内稲荷塚古墳
いまざとおおつか こ ふん
今里大塚古墳
とりいまえ こ ふ ん
鳥居前古墳
【京都府京都市・向日市・長岡京市・乙訓郡大山崎町】
15
↑
(旧名称)
てんのう
もり こ ふ ん
天皇の杜古墳
てら ど おおつか こ ふん
寺戸大塚古墳
い げのやま こ ふん
恵解山古墳
おとくに
乙訓地域では,古墳時代前・中期の大型前方後円墳3基が史跡に指定されている。当地
域には,このほかにも前期から後期までの首長墓と目される前方後円墳等が存在しており,
一定の領域で古墳時代を通して首長墓が築かれた地域はないことから,古墳時代をとおし
ての政治状況を知ることのできる極めて重要な古墳群。既指定の3基の古墳を統合し,8
基を追加指定して,「乙訓古墳群」に名称変更する。
《史跡の追加指定及び名称変更》
1
み ろく じ かん が
4件
い せきぐん
弥勒寺官衙遺跡群
み ろく じ かん が
い せき
弥勒寺官衙遺跡
み ろく じ あと
弥勒寺跡
まるやま こ ようあと
丸山古窯跡
いけじりおおつか こ ふん
池尻大塚古墳
【岐阜県関市・美濃市】
↑
(旧名称)
み ろく じ かん が
い せきぐん
弥勒寺官衙遺跡群
み ろく じ かん が
い せき
弥勒寺官衙遺跡
み ろく じ あと
弥勒寺跡
まるやま こ ようあと
丸山古窯跡
む ぎ ぐ う け
ぐんが
弥勒寺官衙遺跡群は武儀郡家(郡衙)と考えられ,郡庁と寺とそこに瓦を供給した瓦窯跡
からなる。池尻大塚古墳は 7 世紀に築造された巨石を用いた不整方墳で,弥勒寺官衙遺跡
群の成立を知る上で重要な古墳であり,追加指定及び名称変更し,一体のものとして保護
を図る。
16
2
やましな ほ ん が ん じ あとおよ
なんでんあと
山科本願寺跡及び南殿跡【京都府京都市】
↑
(旧名称)
や ま し な ほ ん が ん じ な ん で ん あ と つけたり や ま し な ほ ん が ん じ
ど るいあと
山科本願寺南殿跡 附 山科本願寺土塁跡
れんにょ
ご ほ ん じ
うちじない
そと じ な い
山科本願寺は,浄土真宗中興の祖,八世蓮如が京都山科に造営し,御本寺,内寺内,外寺内
じ な い ちょう
からなる寺内 町 を形成した。蓮如が没した南殿と山科本願寺の土塁の一部が指定されてい
ご ほ ん じ
るが,発掘調査により山科本願寺跡の中心部分である御本寺部分の石風呂を伴う建物跡等
が確認されたため,追加指定及び名称変更を行う。
3
な
ら や ま かわら が ま あ と
奈良山 瓦 窯跡
う た ひ め かわら が ま あ と
歌姫 瓦 窯跡
お ん じ ょ が だにかわらがまあと
音如ヶ谷 瓦 窯跡
いちさかかわらがまあと
市坂 瓦 窯跡
う め だ に かわら が ま あ と
梅谷 瓦 窯跡
か
せ や ま かわら が ま あ と
鹿背山 瓦 窯跡
な か や ま かわら が ま あ と
中山 瓦 窯跡
【奈良県奈良市,京都府木津川市】
↑
(旧名称)
な
ら や ま かわら が ま あ と
奈良山 瓦 窯跡
う た ひ め かわら が ま あ と
歌姫 瓦 窯跡
お ん じ ょ が だにかわらがまあと
音如ヶ谷 瓦 窯跡
いちさかかわらがまあと
市坂 瓦 窯跡
う め だ に かわら が ま あ と
梅谷 瓦 窯跡
か
せ や ま かわら が ま あ と
鹿背山 瓦 窯跡
中山瓦窯跡は,平城宮北方の奈良山に分布する瓦窯の中でも最も早い奈良時代初頭から
前半期に操業していた瓦窯跡。平城宮第一次大極殿に瓦を供給するなど,平城宮・京の造
営過程を知る上で極めて重要。中山瓦窯跡を追加指定し名称を変更する。
17
4
とっとりはんだい ば あと
鳥取藩台場跡
ゆ
ら だい ば あと
由良台場跡
さかい だ い ば あ と
境 台場跡
よど え だい ば あと
淀江台場跡
はし づ だい ば あと
橋津台場跡
うらどめだい ば あと
浦富台場跡
あかさきだい ば あと
赤崎台場跡
【鳥取県東伯郡琴浦町・北栄町・湯梨浜町・岩美郡岩美町・境港市・米子市】
↑
(旧名称)
とっとりはんだい ば あと
鳥取藩台場跡
ゆ
ら だい ば あと
由良台場跡
さかい だ い ば あ と
境 台場跡
よど え だい ば あと
淀江台場跡
はし づ だい ば あと
橋津台場跡
うらどめだい ば あと
浦富台場跡
江戸時代末期に諸外国との緊張が高まるなかで,文久3年(1863)以降,鳥取藩内
ほ う き のくに
い な ば のくに
の沿岸警備のために伯耆 国 で六か所,因幡 国 で三か所,西洋式の城塞・砲台プランを取
り入れて築造された砲台場跡。赤崎台場跡を追加指定し名称を変更する。
《史跡の追加指定,名称変更及び一部解除》
1
ふるいち こ ふ ん ぐ ん
古市古墳群
こむろやま こ ふ ん
古室山古墳
せきめんやま こ ふ ん
赤面山古墳
おおとりづか こ ふ ん
大鳥塚古墳
すけたやま こ ふ ん
助太山古墳
なべづか こ ふ ん
鍋塚古墳
しろやま こ ふ ん
城山古墳
みね が づか こ ふ ん
峯ヶ塚古墳
はかやま こ ふ ん
墓山古墳
のなかこふん
野中古墳
18
1件
おうじんてんのうりょう こ ふ ん がいごうがいてい
応神天皇 陵 古墳外濠外堤
はちづか こ ふ ん
鉢塚古墳
やま こ ふ ん
はざみ山古墳
あおやま こ ふ ん
青山古墳
ばんしよやま こ ふ ん
蕃所山古墳
い な り づか こ ふ ん
稲荷塚古墳
ひがしやま こ ふ ん
東 山 古墳
わりづか こ ふ ん
割塚古墳
から と や ま こ ふ ん
唐櫃山古墳
まつかわづか こ ふ ん
松川塚古墳
【大阪府藤井寺市・羽曳野市】
↑
(旧名称)
ふるいち こ ふ ん ぐ ん
古市古墳群
こむろやま こ ふ ん
古室山古墳
せきめんやま こ ふ ん
赤面山古墳
おおとりづか こ ふ ん
大鳥塚古墳
すけたやま こ ふ ん
助太山古墳
なべづか こ ふ ん
鍋塚古墳
しろやま こ ふ ん
城山古墳
みね が づか こ ふ ん
峯ヶ塚古墳
はかやま こ ふ ん
墓山古墳
のなかこふん
野中古墳
おうじんてんのうりょう こ ふ ん がいごうがいてい
応神天皇 陵 古墳外濠外堤
はちづか こ ふ ん
鉢塚古墳
やま こ ふ ん
はざみ山古墳
あおやま こ ふ ん
青山古墳
ばんしよやま こ ふ ん
蕃所山古墳
い な り づか こ ふ ん
稲荷塚古墳
ひがしやま こ ふ ん
東 山 古墳
わりづか こ ふ ん
割塚古墳
から と や ま こ ふ ん
唐櫃山古墳
19
4世紀後半〜6世紀中葉にかけて形成された,応神天皇陵古墳を頂点とする列島を代表
する古墳群で18基が史跡に指定されている。5世紀後半に築造された,一辺30mの方
墳松川塚古墳を追加指定し名称を変更すると共に,指定地に錯誤のあった鉢塚古墳の一部
を指定解除する。
《史跡の追加指定及び一部解除》
1件
まるやま こ ふん
1
丸山古墳【奈良県橿原市】
全長約330mに及ぶ古墳時代後期の最大規模の前方後円墳。昭和44年の史跡指定告
しゅうていたい
示の際指定した周 庭 帯 部分において錯誤が認められたため,追加指定及び一部解除を行
う。
《史跡の追加指定 》
1
15件
しま い せき
嶋遺跡【山形県山形市】
うちこみしき
打込式の柱によって構築される建物群を中心に,その周辺の低地部からは各種木製品が
多量に出土しており,古墳時代後期(6世紀後半)の東北地方における集落構造や生活様
式の復元が可能になる稀有な遺跡。条件が整った部分を追加指定する。
2
あ
つ
か し や ま ぼうるい
阿津賀志山防塁【福島県伊達郡国見町】
文治5年(1189)の源頼朝軍の奥州遠征に備えて奥州藤原氏方が造営した防御施設。
あ
ぶ くまがわ
阿津賀志山中腹から阿武隈川にかけての約3.2kmにわたり築かれ,当時の土木技術や
防御思想を知る上で重要。条件が整った部分を追加指定する。
3
そ
や かいづか
曽谷貝塚【千葉県市川市】
おおがた ば ていけいかいづか
東京湾沿岸の北東部に集中する縄文時代後期後半の大型馬蹄形貝塚の代表であるととも
に,貝塚とその周辺に広がる居住域から,集落全体の構造がわかる遺跡。条件が整った部
分を追加指定する。
4
しもうさ こ が ね な か の まきあと
下総小金中野牧跡【千葉県鎌ケ谷市】
江戸時代,幕府が軍馬育成のため設けた牧の遺跡であり,幕府による軍馬生産の様相を
とっこめ
の
ま
ど
て
知る上で重要。放牧していた野馬を捕らえる「捕込」と呼ぶ施設と野馬土手からなる。条
20
件が整った捕込施設の一部を追加指定する。
5
した の
や
い せき
下野谷遺跡【東京都西東京市】
どこう ぼ
たてあなたてもの
ほったてばしらたてもの
土坑墓群・竪穴建物群・掘 立 柱 建物群による構造が明らかな,直径150mの関東南部
かんじょうしゅうらく
では最大級の縄文時代中期後半の 環 状 集 落 。首都圏でありながら遺存状態もきわめて良
好で,他に例をみない。条件が整った部分を追加指定する。
6
まつもとじょう
松 本 城 【長野県松本市】
信州を代表する近世城郭であり,本丸の南西隅に国宝松本城天守が建つ。現在は埋め立
てられ宅地化している西外堀について,条件の整った部分を追加指定する。
7
も
ず
こ ふ ん ぐん
百舌鳥古墳群
こふん
いたすけ古墳
ながつか こ ふ ん
長塚古墳
おさめづか こ ふ ん
収塚古墳
つかまわり こ ふ ん
塚廻古墳
もんじゅづかこ ふ ん
文珠塚古墳
ま る ほ や ま こふん
丸保山古墳
ちのおか こ ふ ん
乳岡古墳
ごびょうおもてづか こ ふ ん
御廟 表 塚古墳
やま こ ふ ん
ドンチャ山古墳
しょうらく じ やま こ ふ ん
正 楽 寺山古墳
かがみづか こ ふ ん
鏡 塚古墳
ぜ ん え も ん やま こ ふ ん
善右ヱ門山古墳
ぜにづか こ ふ ん
銭塚古墳
ぼう こ ふ ん
グワショウ坊古墳
はたづか こ ふ ん
旗塚古墳
て ら や ま みなみやま こ ふ ん
寺山南山古墳
しちかんのんこ ふ ん
七観音古墳
【大阪府堺市】
にんとくてんのうりょう
4世紀後半〜6世紀前半にかけて形成された,仁徳天皇 陵 古墳を含む古墳群で,17基
ちのおか こ ふ ん
が史跡に指定されている。追加指定しようとする乳岡古墳は墳長155mの前方後円墳で,
21
百舌鳥古墳群成立のあり方を知る上で重要。条件の整った部分を追加指定する。
で ん あ す か い た ぶきのみやあと
8
伝飛鳥板 蓋 宮 跡【奈良県高市郡明日香村】
舒明天皇2年(630)から持統天皇8年(694)の藤原宮遷都に至るまでの間,飛
あ す か おかもとのみや
のちの あ す か おかもとのみや
鳥に営まれた歴代天皇の宮跡。発掘調査の結果,飛鳥岡 本 宮 ,飛鳥板蓋宮,後 飛鳥岡 本 宮 ,
あ す か きよみはらのみや
飛鳥浄御原宮の遺構が重複することが判明。宮跡の中枢部分を追加指定する。
くまのさんけいみち
9
熊野参詣道
き
い
じ
紀伊路
な か へ ち
中辺路
お お へ ち
大辺路
こ
へ
ち
い
せ
じ
小辺路
伊勢路
く ま の が わ
熊野川
し ち り み は ま
七里御浜
はな
いわや
花の窟
【和歌山県田辺市・新宮市・海南市・有田市・東牟婁郡那智勝浦町・串本町・西牟婁郡
白浜町・上富田町・すさみ町・有田郡広川町・伊都郡高野町,三重県尾鷲市・熊野市・
度会郡大紀町・北牟婁郡紀北町・南牟婁郡御浜町・紀宝町,奈良県吉野郡野迫川村・
十津川村】
ほくそぎ
平安時代より中世・近世を通じて利用された熊野三山への参詣のための道。中辺路の北郡
ごえ
あか ぎ ご え
越と赤木越は,平成27年に指定された。北郡越と赤木越で条件の整った部分を追加指定
する。
10
こうやさんけいみち
高野参詣道
ちょういしみち
町 石道
みたにざか
三谷坂
きょうおおさかみち ふ どうざか
京 大坂道不動坂
く ろ こ みち
黒河道
にょにんみち
女人道
【和歌山県伊都郡高野町・かつらぎ町・九度山町・橋本市】
高野山への参詣道のうち,紀ノ川沿いから黒河口に至る黒河道と,高野七口に設置され
22
にょにん
おくのいん
た女人堂を巡る道として,あるいは 奥 院 背後の三山を巡る道として利用された女人道につ
いて,条件の整った部分を追加指定する。
な か ず ひがし は ら い せ き
11
中須 東 原遺跡【島根県益田市】
中世の港湾遺跡で,港を中心に展開した町の街区が良好な状態で残る等,その構造が判
ます だ
け もんじょ
明する希有な遺跡。また,
『益田家文書』と発掘調査成果を併せて検討することにより,中
世の港湾遺跡の成立と展開や,港湾を利用した交易の内容まで知ることができる点でも貴
重。条件が整った部分を追加指定する。
う わ じ ま じょう
12
宇和島 城 【愛媛県宇和島市】
とうどうたかとら
慶長元年(1596)藤堂高虎が山城を改修し,その後,慶長20年(1615)に宇
みずじろ
和島伊達氏が入城し,9代にわたって居住した平山城兼水城。作事所跡から上級武家屋敷
跡の一画に相当する部分の条件が整ったため追加指定する。
お ごおり か ん が
13
い せきぐん
小 郡 官衙遺跡群
お ごおり か ん が
い せき
小 郡 官衙遺跡
かみいわ た
い せき
上岩田遺跡
【福岡県小郡市】
こおり
7世紀の地方行政組織である「 評 」の役所跡としての上岩田遺跡と,そこから西方2.
こおり
ち く ご のくに み は ら ぐ う け
1㎞に位置する8世紀の地方行政組織「 郡 」の役所跡で,筑後 国 御原郡家に比定される
小郡官衙遺跡からなる遺跡群である。小郡官衙遺跡のうち条件が整った部分を追加指定す
る。
14
ちくぜんこくぶん じ あと
筑前国分寺跡【福岡県太宰府市】
聖武天皇の詔によって諸国に建立された国分寺の一つ。中央に金堂,北側に講堂,南東
がらん
きだん
の一角に塔,南側に中門・南大門を配する伽藍配置で,塔は上下二段からなる二重基壇を
持つことが特筆される。条件が整った部分を追加指定する。
15
かねいしじょうあと
金石 城 跡 【長崎県対馬市】
つしまそう し
しみずやま
対馬宗氏によって清水山山麓に築かれた平城で,対馬藩の政庁であり,外交の場であっ
た。確認調査の結果,御台所門の下部遺構が確認され,また既指定地の石垣の裏込め部分
も良好に残っていることが確認されたことから,追加指定する。
23
《天然記念物の追加指定》
1
ご
ゆ
1件
なみき
御油のマツ並木【愛知県豊川市】
旧東海道に残されたクロマツ並木で,江戸時代の面影を残す数少ない代表的なマツ並木
である。並木マツの根系の保護等の観点から,道路敷である指定地の外側15mを保存区
域とし,順次追加指定を進めており,条件の整った部分を追加指定する。
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登録記念物への登録
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《 登録記念物(名勝地関係)の新登録 》 3件
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しんどう し ていえん
新藤氏庭園【栃木県足利市】
かす が お か
新藤氏庭園は,栃木県足利市西部の春日岡と呼ばれる台地の南縁に位置する。新藤氏は
江戸末期から昭和にかけて織物業を営んでおり,二代目の睦十郎が明治末期に初代理一郎
のために離れを建てた際に庭園も造営されたという。
2階建ての離れは台地の上に建ち,離れが建つ上段部と園池のある下段部には大きな高
低差があるが,その地形を活かして落差約3mの豪快な滝が造られている。滝の下には石
組護岸のS字状の園池が広がる。また,庭園の東部からの流れは蛇行しながら離れの側を
抜け滝へとつながり,西部からの流れは直接園池に接続する。
2階からは高低差のある庭園を眼下に見ることができ,また建物から庭園に出て台地の
上段から下段へ,また下段から上段へ歩をすすめるにつれ庭景が大きく変わる。このよう
に垂直方向を軸に様々な景観を観賞できることが大きな特色であり,特に園池の岸からの
景観は,大ぶりのチャートで組まれた滝石組や離れ等を仰ぎ見るという迫力あるものとな
っている。地形を最大限に活かした空間構成はきわめて特徴的であり,栃木県の造園文化
の発展に寄与した意義深い事例である。
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じっこくとうげ
ひ がねさん
十国 峠 (日金山)【静岡県熱海市・函南町】
ふうしょう
十国峠(日金山)は箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で,風 衝 によりハコ
ネダケ,アズマササ,ミヤクマザサなどのササ類とハンノキ,アセビなどの低木林が優占
している。日金山は古くからの信仰の地で,中世以降,伊豆山権現と箱根権現を結ぶ信仰
の道の要所として,あるいは,
「山中他界」として死者の集まる霊山として知られるように
なった。
江戸時代後期における旅文化の発展に伴い,十国五島の景勝を望む好適地として知られ
るようになった。日金山からの眺望の特徴は,様々な絵画に描かれ,なかでも,葛飾北斎
ずしゅう ひ がねさんちょうぼう え ま き
の『豆州日金山 眺 望 絵巻』
(天保4年,1833)には周囲360度に広がる景色が一連の
ものとして表現されている。明治時代以降,数々の文学作品にも描かれて「十国峠」の名
が普及し,伊豆・箱根地域を代表する観光地のひとつとして定着してきた。その地勢と植
生の特徴から,富士山をはじめとした四周八方の景勝を望む好適地を成し,当地の歴史・
伝統にゆかりの景勝地として親しまれてきた意義深い事例である。
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まえがき し ていえん
じゅえんてい
前垣氏庭園(寿延庭)【広島県東広島市】
前垣氏庭園は,広島県東広島市で酒造業を営む前垣氏の邸宅に造られた枯山水庭園であ
しげもり み れい
り,庭園研究者で作庭家でもあった重森三玲が設計を行った。作庭にあたって重森は昭和
30年(1955)12月に前垣氏宅に滞在し,自ら指示をした。
庭園は本庭,前庭,中庭の3つの部分から成る。邸宅の座敷に面する本庭は,白砂敷で
水面が表現され,左右からの細長い出島を主とする陸地部分には苔がはられている。水面
と陸地部分が接する汀線は入り組み,砂の白さと苔の深い緑色が対照を成す。また,建物
の縁先には洲浜になぞらえた敷石が並べられ,その水際はうねるような曲線を描く。正面
中央に大ぶりな景石を据え,随所に立石と伏石を配置する。前庭は表門と玄関の間に造ら
れ,3つの苔地の築山,直打ちの飛石を配し,その他の部分は白砂敷にしている。中庭は
周囲を囲まれた坪庭で,3つの景石と飛石,沓脱石を配し,それ以外の部分に白砂を敷く。
3つの庭園は位置的に独立し,それぞれの意匠も異なるが,立石を中心に白砂,苔等の
材料を用いて造られた空間は,多くの枯山水庭園を残した重森の作風がよく表れている。
造園当初の姿を今日までよく伝えており,造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
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重要文化的景観の追加選定
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《 重要文化的景観の追加選定 》 1件
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でんとう
きんだいかいたく
さ
る がわりゅういき
ぶ ん か て き けいかん
アイヌの伝統と近代開拓による沙流川 流 域 の文化的景観【北海道沙流郡平取町】
沙流川流域の地域は,中近世のアイヌ文化期に起源を持ちながら,近代の開拓期には移
住者による農林畜産業に基づく景観が呈された歴史を持ち,今日においても重層的な文化
的景観が形成されている。条件が整ったことから,沙流川支流のアベツ川流域の,アイヌ
民族の伝承・伝説・信仰の対象が多く残る森林地帯を追加選定する。
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