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ご講演録 (PDF: 15page / 256KB)

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ご講演録 (PDF: 15page / 256KB)
西村高等法務研究所 第 5 回ビジネス・ロー・セミナー
7 月 3 日にビジネス・ロー・セミナーを開催。東京大学名誉教授 兼 内閣府経済社会総
合研究所所長
岩田一政様をお招きして、「5 年間の金融政策を振り返って」をテーマにご
講演いただきました。
ご講演録
日時:2008 年 7 月 3 日(木)
講師:東京大学名誉教授
兼
内閣府経済社会総合研究所所長
岩田一政先生
テーマ:「5 年間の金融政策を振り返って」
【国会での所信表明】
本日は「5 年間の金融政策を振り返って」ということで、日本銀行の金融政策を個人的な
見方でどのように評価しているかと、自分なりの決算をしてみたいということでお話に参
りました。
私は 5 年前の 2003 年 3 月 18 日に国会の財政金融委員会で福井総裁、武藤副総裁と共に
所信を表明しました。それ以前は所信表明するということはなかったのですが、このとき
は民主党など野党が「これから総裁、副総裁になる人には事前にどういう意見を持ってい
るか国会で述べてもらう」ということを強く主張されたのです。所信表明にあたっては、
事務方が原稿を用意しようかと言ったのですが、それは断って自分が言いたいことを全て
述べました。最初に「こういうことをやります」とはっきり言っておけば、後になって自分
がどこで妥協して、主張を変えた、あるいはどこで後退してしまったかということが、よ
く分かるのではないかと思い、自分がその時考えていることは全て申し上げて所信表明し
たということであります。
当時はまだ不良債権の問題が重くのしかかっており、更にイラクへのアメリカの侵攻、
SARS の問題がありました。株価も相当低いところまで下がって、危機感がもたれていた時
期だったのではないかと思います。所信表明では、「90 年代半ば以降、デフレと不良債権
という双頭の竜が住み着き、日本経済は苦しんでいる。私はこれを退治したい。」と申し
上げました。なぜそういう比喩を使ったかといいますと、3 人が任命されるというのが外
国のメディアに流れた時に、30 年来の付き合いになる、イギリスのボルトー教授が送って
くれたカードに竜を退治に行く knight が白馬に跨っているという絵が描かれていて、「こ
れからあなたはデフレ・ドラゴンを退治に行くんだね。」と一言書いてありました。「あ
あ、これはなかなか私の心境に合っている。」と思って、そのドラゴンを退治に行くと申
し上げたのです。ただこのドラゴンはなかなか退治するのが大変で、不良債権を片付けよ
うと思うと、金融機関はその時既に自己資本不足ということがありましたので、却ってデ
フレが進行するリスクがある、この 2 つの問題を同時に解決しないといけないというのが
私の認識でした。
1 年後の 2004 年 5 月にシカゴ大学大学院ビジネススクールに招かれ講義をした時にこの
話をしたところ、カシヤップ、クロズナー両教授から、「デフレ・ドラゴンの息の根をしっ
かりとめるまで頑張れ。」と言われました。クロズナー教授は、今は連邦準備制度理事会
の理事でスーパービジョン関係の担当をされています。クロズナー教授の考え方は「二つ
問題があるのだから、対応するには二つの政策手段がないと問題を同時に解決できない」
ということでした。
私の基本的な考えは、「デフレは金融政策で対処する」ことでした。対処する時の導きの
糸と言いますか、基本的なアイデアは、古いのですが、スウェーデンの経済学者ヴィクセ
ルが 1898 年に書いた『Interest and Prices』という本でした。インフレ、デフレという
のは簡単に言えば、自然利子率と市場利子率のどちらかが上になるかということだと述べ
ています。ヴィクセルのいう自然利子率というのは実物資産に対する収益率均衡の利子率
で、市場利子率というのはマーケットで観察される利子率のことであります。私の理解
は、市場利子率というのは、マーケットで観察されると言っても、短期の金利ではなく
て、長期の貯蓄とか投資のバランスが変化する長期の実質金利、実物資本に対する収益
率、しかもそれは均衡の収益率という、その大小関係が問題で、デフレになるということ
はどういうことかと言うと、マクロ経済にショックが及んで、自然利子率が非常に低いと
ころに行ってしまうということでした。
例えばバブルの時に 3~4%あったと思われる自然利子率が、その後のバブル崩壊、95
年の円高ショック、97 年の財政のショック、その後続いた金融危機、そういうマクロの
ショックがあることによって、1%ぐらいに下がってしまった。長期の実質金利がそれよ
り高いところにあるとしますと、どうしてもデフレになってしまうということです。そう
すると、処方箋は明らかで、市場の利子率を出来るだけ低めに維持して自然利子率より下
の方に行くように、行くようにということを一生懸命すればいいと。
自然利子率の方はどうやって上げられるかと言うと、これはなかなか難しいのですが、
私がその時考えていたのは、基本的には金融システム安定化政策、つまり簡単に言えば不
良債権の処理をきちんと進めることでした。
不良債権というのは、金融面での症状を現しているわけですけれど、実物経済ではどう
いうことになっているかと言うと、要するに収益が上がらないところに人と資本、実物資
本が余分に貼り付いている。その結果、お金を借りて何か事業をやっても思ったような収
益が上がらない、それで利子も返済できず不良債権になっている。労働や資本の生産要
素、つまり配分が歪んだままになっているということが不良債権の裏側にはあります。
「失われた 10 年」には過剰債務、過剰資本ストック、過剰雇用という 3 つの過剰があると
言われるわけですが、それはとりも直さず、資源配分が歪んでいるということで、それを
効率的な資源配分に変えるということをやればいいと考えました。
ですから不良債権を処理するというのは、実は単に銀行部門のバランスシートからそれ
を除くとかではなく、その裏にある雇用や実物資本の配分を、もっと合理的なものに変え
- 2 -
るということが本質の問題だという認識を持っていたわけであります。従って、不良債権
処理を進めるということは、資源配分を組み換えるということであり、それをミクロで言
えば、企業部門の再構築、restructuring になります。収益が上がらないところからもっ
と収益が上がるところに資源を移していくことであると。これは企業の内部、企業間、産
業間でも同じであるという認識を持っておりました。
金融政策と金融システム安定化策という 2 つの手段を使って双頭の竜を退治したらどう
かというのが、私が任命された時点での問題意識だったわけであります。
【デフレ克服の処方箋】
日本銀行が量的緩和政策に入った 2001 年の 1 月に私は大学から内閣府の政策統括官に
なりました。1 ヶ月程で額賀財政経済担当大臣が辞任され、麻生大臣が行った最初の記者
会見で、「日本はデフレだ。土地の価格も下がって、株価も上がらず、物価上昇率はマイ
ナスで、こんな中で景気なんか絶対良くなりはしない。」と仰いました。それ以前、役所
はずっと「日本はデフレでない。」という答弁を国会で行っておりました。デフレというの
は単に物価が下がることだけではなく、戦前のような、物価が 10%ぐらい下がった上に、
失業率も 2 割ぐらいになるというのがデフレであって、そうでないのはデフレでないとし
ていたのです。
ある新聞記者の方が僕のところに来て、「麻生新大臣は『日本はデフレだ』と言ってい
るけれど、あなた方はデフレではないと言っている。どうするんだ?」と言われました。
私もよくよくそれで思い返してみたら 98 年から 99 年にかけて企画庁の物価局に「ゼロイ
ンフレ下の金融政策」という貝塚先生が座長の研究会があり、丁度その頃から日本の消費
者物価が継続的にマイナスになり始めました。GDP デフレーターは 95 年ぐらいからマイナ
スなのですけれど。その時、「日本はデフレか?」という議論を戦わせました。「継続的に
物価が下がればデフレでしょう。」と、私 1 人だけ「デフレだ」と言いました。この時に消
費者物価指数は既にマイナスが始まっていたのですけれど、1 人しか「デフレだ」という意
見がなかったので、「日本はデフレでない」という報告書になりました。この報告書に基づ
いて、その後ずっと政府答弁は「日本はデフレでない」としていたのです。国際機関の定
義、アメリカの経済史、日本の過去などを調べてみると、実物経済面が強いから弱いから
ということと、インフレ・デフレというのは本来別の話であり、貨幣がどんどん膨張し、
物価が上昇するのがインフレで、貨幣が収縮し物価が下落するのがデフレだと。アメリカ
の場合も、南北戦争が終わった後に成長率は高いのだけれども物価が下落するという時期
がありましたが、これはデフレだと言っておりました。初めて私も腑に落ちました。また
IMF のデフレの定義は、「2 年以上一般物価が継続的に下落していればデフレ」というもの
でした。
「これなら宜しい、行ける」というので、3 月の月例報告でコラムを作り、「日本は緩やか
なデフレにある」というのを初めて出しまして、それで政府の見解を変えました。その 1
週間後に内閣府の代表として出席した日本銀行の金融政策決定会合があり、日本銀行は量
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的緩和政策に踏み切りました。その時に「生鮮食品を除く消費者物価が安定的にプラスに
なるまで、この量的緩和政策を続けます」という約束をした上で量的緩和政策に入りまし
た。
実は所信表明では、「この 3 つの手段を行えば多分日本はデフレから出られるだろう」と
いう処方箋、主として金融政策で何をやるのかについても述べています。
1 つは「物価安定数値目標」の公表です。日本銀行は 2001 年 3 月に量的緩和政策に入りま
したけれど、その時に、生鮮食品を除く消費者物価がゼロ以上になるまでこの政策をやり
ますと約束をしました。そういう約束をしているということは、とりも直さず、「これは
私の解釈ですけれども」と断って、「それは物価安定の数値目標の下限値を 0%と置いてい
るに等しい。しかし、下限値だけでなく、上限値も言うべきでありませんか?例えば 2%
というのを明示した方が、より調整がスムーズに行くのではないですか?」というのが私
の認識でした。インフレ目標、inflation targeting policy については私が任命される以
前から相当色々な議論があり、それは今もある意味では続いていますが、私は基本的には
考え方としては賛成でありまして、ただその実施方法はどこか特定の国でやっているもの
をそのまま直輸入すればいいというふうには全く考えておりませんで、名称もそういうこ
とで inflation targeting という名前は言わないで、「物価安定の数値目標」という名前に
した方がいいということで 0-2%ということを申し上げました。
2 つ目が日本銀行による外債の購入です。当時、日銀は量的緩和のもとで、マーケット
に流動性を供給する仕組みを導入しておりまして、私共が入った時は丁度アセットバック
コマーシャルペーパーとか、アセットバックセキュリティーも買い切ってしまう、オペ
レーションの対象に加えるというようなことも議論になっていて、7 月には実際にそれを
実現していました。普通は国債なのですが、言わば社債まで買うようにしたということな
のです。つまり既に、よりリスクがあると思われるところに踏み込んでいたわけです。
尚、アメリカの連邦準備がやっているのは、一定期間引き取っておく、預かっておくこと
です。クルーグマンは冷やかしで「最後の貸し手」ならぬ「最後の質屋さん」だと言っており
ます。
私の判断では、この時に残された領域は外債、例えばアメリカの国債を日本銀行が買い
切りオペをするという政策です。ただこの場合、為替レートに影響が出ることが問題とな
ります。為替レートについては財務省が主管で、日本銀行はエージェントといいますか、
財務省の指令を受けてどのくらい外国為替市場で介入するかということを実際に操作する
という役割分担になっているためです。日本銀行が外債の買いきりオペをするとなると非
常にディシジョンが難しいことになるわけです。
それからもう一つ複雑なのは、財務省が介入した場合にそれを不胎化するかしないか、
ステラライゼーションか、ノンステラライゼーションなのかという問題です。これは「介
入政策は為替レートに影響を与えることができるかどうか」という昔からある議論なので
すが、単に介入しただけというのは多分あまり効果がなく、金融政策が拡大的な政策を採
り、しかもドル買いをやるというようなことをやると非常に有効だというのは古くから知
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られていることなのですが、私が内閣府にいた時から、内閣府では、「介入しても日本銀
行がそれを不胎化してしまう。マネタリーベースを見合った分だけ増やさないということ
をやっていると効果は薄くなってしまうので、そこは何とかならないか」という議論が行
われておりました。私自身は金融政策の 1 つの手段として外債を買うということがあって
もちっともおかしくないというふうに思っているのですが、ただ問題は政策の役割分担と
いうところがどうしても解けないということだったわけであります。
その後財務省が 20 数兆円とかなり強力に介入を行い、日本銀行は私共 3 人が行ってか
らも量的緩和政策を推し進めました。この量的緩和策の中身というのは、民間金融機関が
預ける日本銀行の当座預金の目標額を決め、その量を増やしていくというものです。所謂
準備預金制度に基づいて、民間金融機関は集めた預金の一定の割合を日銀に当座預金でお
かなくてはいけないと法律で定められています。大抵はギリギリで置いているのが通常
で、それが 5、6 兆円だったのですが、量的緩和政策に入ってからは最終的には 30 兆か 35
兆くらいの水準にまで上げていきました。ですから丁度量的拡大(マネタリーベース拡大)
の時期と財務省が介入政策でドル買円売りを行うということが事実上行われました。仮に
政府の部門と日本銀行を統合したバランスシートというのを考えてみますと、それで丁度
外債を購入するのと同じ効果がある。あるいは言葉を変えてみれば、不胎化介入をやると
いうのと同じ経済効果があるということが言えると思います。4 月末、5 月末位の時点か
ら「これは政府と日銀が一丸となって、不胎化介入をやり始めた」ということでマーケット
参加者の先行きの見通しが変わったのではないかと思っています。いずれにしても政策手
段の 2 番目に考えていたのが外債の件ですが、今になって思えば事実上やったに等しいの
です。
それから 3 番目の処方箋として物価上昇があっても長期金利が高騰するのを防ぐ方策と
して物価連動債の導入と、普通の国債をいつでも物価連動債に交換できる政策を考えてお
りました。戦前に国債を日銀が直接引き受けてマネーを出すということをやりましたが、
高橋是清は「そういう強い政策をやれば必ずインフレになる。そうなると金利が上がり、
多くの国債を保有する金融機関にはものすごい評価損が出る、それを放置しておくと危な
い。」というので、「市場価格で評価せず、簿価のままでやってよろしい」という指令を出
し、そのため問題が表面化しないでもったという経験があります。この他、東西ドイツが
統一した際、ドイツ政府はいつでも元本で長期国債を買い取るというオプションを付けた
国債を出しました。「これは非常にいいアイデアで、長期金利を安定化させる効果があ
る。」と思いました。金利が上がり、国債の価格が下がると長期国債を持っている人はロ
スが非常に出るわけですが、政府が常に元本で引き取るというオプションを付けているの
です。長期国債を安心して持っていられるため、結果としてマーケットの金利はそんなに
上がらないで済むという、いわばマーケットの自動安定化装置が組み込まれたような債券
です。この 2 つのヒントから、物価連動債と普通の国債をいつでも物価連動債に交換でき
ることを導入すべきだと考えたのです。これにより、長期金利はあまり上昇せずにすみま
す。もし、長期金利が上昇すると自然利子率を上回ってしまうので、またデフレに戻って
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しまうというリスクがあるため、その手当てとしてとるべきだと言いました。
物価連動債は 2004 年 3 月に導入されましたが、持っている国債を物価連動債にいつで
も変えられるというオプションを付けるまではいきませんでした。いずれにしても連動債
が導入されたこと自体、私にとりましては半分ぐらいは役に立ったかというふうに思って
おります。
振り返ってみると、私がやりたいと思ったことは概ねやったといえると思います。
【デフレを巡る 2 つの議論】
デフレをどういうふうに理解するかには 2 通りの見方があります。1 つ目の見方は大き
なバブルの崩壊、あるいは、アジア通貨危機とか金融危機とかそういうショックがあっ
て、自然利子率が低下することにより正常な均衡から一時的に乖離しているのだという見
方です。その場合は、量的緩和政策を継続して、自然利子率よりも低い市場利子率をなる
たけ維持することをやっていけば、恐らくデフレから出られます。これですと金融政策だ
けで対応が可能だということになります。それで 2003 年 10 月に、「安定的にゼロ以上に
なるまで量的緩和をやります」と 3 つの条件を明確にしました。
まず 1 つ目は、①足下の消費者物価がゼロ以上になる、②先行きもマイナスに戻らず、
プラスで行く、③安全弁のようですが、①、②となってもまだ解除しないことがある、こ
う明確にして、この 3 条件を守って量的緩和政策をきちっとやればデフレから出られると
いうものです。基本的には日本銀行はこの政策で対応したと思います。
2 つ目は、私の個人的な見解ということになるのですが、「日本経済は正常な均衡とデフレ
均衡という複数均衡の下にあり、90 年代半ば以降はデフレ均衡の近傍にある」というもの
です。
日本は単に一時的に自然利子率がマイナスになったのではなく、ゼロ金利になってし
まった、つまり金利をどんどん下げていったら、政策金利がゼロにぶつかってしまった。
ゼロ金利制約です。こういうことはほかの国でほとんど経験したことがない出来事なわけ
です。しかも GDP デフレーターで見ると 95 年から、消費者物価になると 98 年末から、デ
フレがもう 5、6 年続いていて、ビジネスサイクルは一回巡っているくらいだ。だからこ
れは一時的に自然利子率が下がってのデフレというよりは、ゼロ金利制約にぶつかってし
まって、その結果デフレになっているというふうに考えた方がいい。
アーヴィング・フィッシャーは「名目金利は実質金利とインフレ率に分けることができ
る」と整理したのですけれど、名目金利がゼロになると、インフレ率は丁度その実質利子
率に等しくなるだけのデフレ率になっているという世界になるわけです。ミルトン・フ
リードマンという人が「最適な金融政策って実は何かというと、そういうデフレにするこ
とが最適だ」ということを 1960 年代末くらいから仰っているのですが、それは一種のデフ
レ均衡の世界です。私の考えは、日本はゼロ金利制約にぶつかってデフレ均衡のところに
日本は来てしまった、ですから均衡の実質利子率というか、自然利子率が 1%ぐらいであ
れば、丁度デフレ率も 1%ぐらいになるはずだと。現実の消費者物価というのも大体 1%
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ぐらい。デフレーター取っても 1~2%ぐらいで、実は割合安定的にマイナスの変化率で来
ていたわけですね。それが長く続いているので、これはむしろデフレ均衡の近傍にあるの
だという認識を、内閣府にいる時に書いたことがあります。
2003 年 5 月に東京大学の岩本康志教授とお昼を食べている時に、「なんだ、2 人共同じ
問題意識、考えを共有しているのだな。」と思ったのですね。それは、量的緩和だけでは
足りず、財政の力が必要になるということです。財政の方は 2001 年の、最初の骨太の方
針の時からそうだったというふうに私は記憶していますけれど、primary な budget の
deficit ですね。基礎収支って言うのですか、日本語でいうと。財政収支のうちから利払
費を除いた財政バランスを 2011 年までにゼロになるようにするという、基本的な方向の
もとで 2003 年以降やっています。これは、2000 年 12 月に官邸コンファレンスが行われた
時に森総理大臣、堺屋太一大臣、そしてイギリスから FSA のデービス長官、アメリカの連
邦準備制度の副議長を務めたことのあるプリンストンのブラインダー先生が集まりまし
て、その時に私は「財政部門の中長期的な安定性確保のためには primary budget をゼロ乃
至若干のプラスにしないと安定化しません」ということを申し上げました。小泉内閣の下
での、骨太の方針でこうした考えが採用され、この方向で財政運営を中長期的に行うとい
うことになりました。これは赤字を段々減らすという話ですから、普通の状態ですとリ
カーディアンといいますか、デフレ克服には役に立たないように見えるわけですが、しか
し、仮に日本経済がデフレ均衡のもとに、近傍にあるとすると、実はそれが助けになるの
が当然という、ちょっとここがトリックみたいで理解しにくいところがあるかもしれませ
ん。何故なら、基礎収支をゼロにする過程ではずっと財政赤字自体は増え、国債の発行自
体はどんどん増えていく。当時、小泉総理大臣は確か 30 兆円の国債を毎年出して、これ
以上また出すというのかと仰ったかと思うのですが。そういう国債が名目値で増えていく
と。じゃあ実質値ではどうなのですかと。実質値でいうと毎年 1%デフレ均衡だと。実質
値だともっと増えていくわけですね。遠い将来の実質の国債残高ってどういうことになる
かというと割引率は実質の利子率で割り引くと、1%で割り引くのです。実質の国債残高
というのは実は発散してしまうわけですね。これはマネタリーベースについても同じなの
ですが、マネタリーベースも名目値でプラスを出していれば、遠い将来には発散してしま
う。長い目で見るとデフレ均衡にはいられないはずだと。経済論の方では transversality
condition が満たされないっていう言い方をするのですが、横断条件が満たされない。こ
れは均衡解ではないと言って、複数の解がある時に除く、そういう条件を使って取り除く
ということをよくやるのですけれど。私も岩本康志さんは全く同じ考えだということが分
かり、「どうして日本はいつまでもデフレなのだろう?理論的にはいつか出られるはず
だ。」ということで意見が一致しました。
【速度制限論】
カンサスシティ連銀は毎年 8 月に景観の良い避暑地にあるジャクソンホールでカンファ
レンスを行っており、副総裁在任中 5 回参加させていただきました。そこには、世界の中
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央銀行の主だったガバナーがみんな集まっていました。アメリカの FOMC のメンバーも議
長以下殆ど全員集まっていて、緊急の委員会を開こうと思えばいつでも開けるくらいでし
た。それに加えて、大学の先生が報告し、ジャーナリストが議論に参加するという非常に
知的刺激のある会議でした。
初めて参加した 2003 年 8 月の会議のテーマは、「ルールに基づく政策か、それとも裁量
政策か」でした。グリーンスパンさんはその時「ルールでやるのは駄目だ、リスク管理政策
でやるべきだ」と仰っていました。
カリフォルニアのウオルシュ教授、この方は最適化ルールでやるべきだという考えなの
ですが、「物価上昇率の望ましい上昇率からの乖離、GDP ギャップの望ましい水準からの乖
離によって政策金利を変化させる『テイラー・ルール』に成長率の潜在成長率からの乖離
(速度制限)を加えた方が金融政策運営が改善される」と主張されました。これが、「中長期
的にデフレから脱出できるとしても、いつの時点で脱出できるか」と考える上で、心に
引っ掛かっておりました。
GDP ギャップという経済の全体の需要と供給のバランスは、供給超過だとデフレに、需
要超過だとインフレになりやすい、金融政策運営において重要な変数です。速度制限論は
どういうことを問題にするかというと、GDP ギャップの変化幅が実はインフレとかデフレ
の加速に与える影響力がより強い、つまり水準よりも変化分の方がより強く影響を与える
という議論です。1930 年代のアメリカではすごい GDP ギャップがありましたが、1 年でプ
ラスに戻ることがあったんです。ギャップが 10 数%あって、1 年でプラスに浮上というこ
とは普通は起こりえないですが、それが起こってるというようなことがあります。以降、
アメリカではこの議論はかなり行われて、例えばグラムリックという理事の方は、「実は
GDP ギャップの水準を見るのじゃなくて、変化分の方がより大事なんじゃないですか」とい
うことを何年も仰っていました。
9 月に前連邦準備理事会理事で現在マクロエコノミックアドバイザーズというシンクタ
ンクの副会長をされているローレンス・マイヤー氏が来日されたときに速度制限論につい
て伺ったところ、一応式でも簡単に示せるということが分かりました。当時、日本の潜在
成長率は 1%ぐらいと思われていて、2004 年の成長率は 2.5%くらいだという予測がありま
した。この先 2、3 年潜在成長率 1%を上回る成長が可能であるとすれば、日本はデフレか
ら出られるはずだと私は理解しました。理論的にはデフレ均衡の傍にあって、今の量的緩
和と基礎収支をゼロにするという、中長期のゴールを明確にした財政政策運営をやってい
けば、しかもこの先 2、3 年成長率が潜在成長率を 1%以上上回れば必ず理論的にはデフレ
は終了するというのが私の認識でした。
そこで、2003 年末の講演で「GDP ギャップの変化に対する物価上昇率の反応が 0.4 程度
であれば、潜在成長率を 1%程度上回る成長が 2,3 年持続することによって、0.8%程度の
デフレは終了する」と話しました。その時は、皆さんびっくりして、そんなはずはないと
いう反応が中心でした。翌 2004 年の夏くらいに IT 部門の調整が入ったため 1 年くらいタ
イミングが遅れましたが、2005 年末頃から生鮮食品を除く消費者物価はプラスの領域に
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入ってきました。
【新たな政策枠組み】
そこで日本銀行は 2006 年 3 月に、前述の 3 条件を満たしたと判断し、量的緩和政策を
解除しました。その後 7 月に金利を 0.25%上げ、ゼロ金利を脱却しました。8 月に消費者
物価指数が基準改定になり、過去の基準改定の平均値である 0.3%ぐらいは下がるだろう
と個人的にはよんでいました。ところが実際はずっと大幅な改定であり、更に原油価格が
2006 年 9 月から急落し、1年程下がっていました。その両方の要因から、新しい基準で見
た消費者物価指数というのは、2007 年 2 月から再びマイナスになってしまいました。
日銀は 2006 年 3 月に量的緩和を解除した際に、2 つの部分からなる新しい政策枠組みを
発表しました。
1 つは物価安定の理解。日銀のボードメンバーである総裁と 2 名の副総裁、6 名の政策
委員、審議委員の計 9 名にそれぞれ、「中長期的に考えて物価の安定を数値で表すとすれ
ばいくらでしょうか?」というのを出して貰いました。例えば私は 1~2%、別の方は 0~
1%、0.5~1.5%など色々な意見が出まして、それを中長期の物価安定の理解ということで
明示しました。この数値を発表するかどうかというのも随分議論がありましたが、結果的
には私が国会で所信表明したのと丁度同じ 0~2%、中心値 1%ぐらいということで明示さ
れました。ですから、下限に加えて上限も明示されたことになるわけです。
それから 2 番目は 2 つの柱に基礎をおく政策運営です。1つは「1~2 年の予測の実現可
能性と乖離のリスク評価」です。1 年から 2 年の先行きについて、日本銀行の各委員が今年
の成長率と物価の上昇率について出した予測を出し、それを集約し、中心値はこのぐら
い、レンジはこのぐらいというのを半年毎に展望レポートとして発表しています。この中
心値にあたる成長率、物価上昇率が実際にどの程度の実現可能性があるのか。あるいは、
上ぶれ、下ぶれする可能性があるのかをきちっと点検しますということ。
もう 1 つは、前述のジャクソンホールでのカンファレンスでグリーンスパンさんが言っ
たのと共通しているのですが、リスクマネージメントポリシーに基づく考え方でありまし
て、起こる確率が非常に低くても、ひとたび起こった時にロスが非常に大きいような事象
に対しては予測期間を超えて点検しますというものです。具体的に言うと、デフレのリス
クがかなり出てきた、なりにくいとは思うけれども、なるかもしれないというようなこと
があるわけです。また、最近米国の住宅や原油などが色々言われていますが、バブルが起
こって、潰れた時のリスクを考えながら政策運営するというものです。
私の理解ではこの 2 つの部分からなる枠組みというのは、言ってみると最適な金融政策
運営です。中央銀行にとっての損失、つまり望ましい物価上昇率からの乖離、それから
GDP ギャップの望ましい水準からの乖離を常に最小化するように政策運営する、しかも足
元だけの最小化ではなく、先行きの全ての時点で最小化するという運営で、非常に適切な
枠組みだと思っております。
この枠組みができた時は、私はもうこれで国会で所信表明したことは大体大まかに果た
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しましたし、今後の運営方針も全部決まったので、いつ辞めてもいいかなというふうに
思っていました。
それからもう 1 つここは個人的な話になりますけど、2007 年 2 月の金融政策決定会合で
日本銀行が 0.5%に金利を引き上げた際、私は 1 人反対票を投じました。読売新聞などで
「岩田副総裁の反乱」と一面で報道され、居心地が悪かったですが、新たな政策枠組みに基
づいて、相当覚悟を決めて行いました。
反対した理由は、先行きの物価上昇率が安定的にプラスということは十分読み込めな
い、差し当たってマイナスが続くという状況のもとでは、新たな政策枠組みで、中長期と
はいえ、物価を 0-2%、中心値を 1%としているのに理解が得にくいのじゃないか、そして
予測の数字も 2 月の時点では 1 年とちょっとしか予測期間がないので、2 年分ぐらいだと
プラスになっているという姿を示すことができる、次の 4 月の展望レポートまで待ったら
どうかというものでした。その時に議論は随分色々して、「物価は絶対すぐにプラスに戻
る」というご意見も随分強く、私は 1 人が「いや、少なくとも 9 月まではマイナスじゃない
か。」と申し上げていました。結果はやっぱり 9 月までがマイナスで、その後原油は再び
急騰を始め、今は思ったよりも物価が上がってしまっています。また、食料品の価格も上
がり、物価上昇率が上がっていますが、その時点では予測は難しかったということが言え
ると思います。
副総裁で反対票を投じたというのは、日本銀行の古い歴史でも例がなく、私が最初の例
だということです。ただ日本銀行法をよく読みますと、副総裁の役割について 2 つ書いて
あります。1 つは総裁を補佐して業務の執行を補佐すること(第 22 条)、そしてもう 1 つ
は、職務規定に関わらず、政策委員会においては独立して委員としての職務を実行する
(第 16 条)ということです。そして過去には 16 条を発動した人がいなかったということで
す。私も大分悩んだのですが、16 条で行こうと決めたわけです。その時に思い浮かんだの
が、バンク・オブ・イングランドのことでした。バンク・オブ・イングランドでは 1~2 年前
にマーヴィン・キング現総裁が minority になったことがありました。マーヴィン・キング
氏は副総裁の時も、2 番目に多く反対投票をしていました。これは決定会合をどういうふ
うに考えるかということで、ボードメンバーの一員、個人として説明責任をどのくらい重
視するかということと、全体のコンセンサスとしての見解についてどうやって説明責任を
果たすかというバランスの問題があります。バンク・オブ・イングランドはそれが明解で、
全て個人責任に尽きるということなのです。総裁であろうが、副総裁であろうが学識、見
識に基づいて 1 票を投ずる、その人が minority になろうが多数派になろうが一切関知し
ないということで徹底しています。国によってそこには違いがあり、日本銀行はバンク・
オブ・イングランドと連邦準備制度理事会の中間ぐらいだというふうに私は思っていま
す。政策枠組みの中での意見の相違というのは当然あり得るというのが私の理解です。
【交易条件の悪化と賃金の下落】
その後原油価格が急速に上がり始めました。原油価格については、色々な議論がありま
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すが、私は 2004 年半ば以降、原油が金融資産、liquid asset に変化していると思ってい
ます。先程言いましたように、2006 年 9 月から 2007 年夏にかけて 1 年ぐらい一時的に価
格は下落致しました。グリーンスパンさんが 2005 年 4 月に原油の高騰についてスピーチ
をしたのを私は今もよく覚えているのですが、その中で先物市場の動きに注目し、「先物
市場でコンタンゴになったので在庫蓄積が進む、その結果価格は下がるだろう。」という
ことを仰っていました。コンタンゴというのはどういう状況かと言うと、直物価格、ス
ポットと先物の価格で、先物の方が高くなることです。通常はバックワーデーションと言
うのですが先物が低いのです。その差はどうして出るかと言うと、リスクをヘッジしよう
とする人の取引相手はリスクを負うのでそれに対してリスクプレミアムを払わなくてはい
けない、その分は先物価格が下がらなくてはいけないというのは古くからよく知られてい
ることなのですが、それがコンタンゴという異常な状況になった、これはいずれスポット
価格が下がる予兆だと仰っいました。「いつになったら下がるのかな」と待っていたとこ
ろ、2005 年 2 月からコンタンゴになって、上昇を続けた原油価格がようやく下がったのは
2006 年 9 月でした。その結果、生鮮食品を除く消費者物価は再びマイナスになってしまっ
たのですが、2007 年夏に上がり始めた。アメリカのブッシュ大統領は「不安定な中東から
の石油に依存するのは耐えられない、将来は中東からの石油を 75%減らし、かわりにバイ
オ燃料に切り替える」という演説を 2006 年 1 月に行い、その演説に基づいて 2007 年夏に
緊急備蓄も倍にするということをやりました。しかも、WTI という優良な形質のオイルも
備蓄に加えるとしたので、これは私の個人的な推測ですけど、おそらくマーケットはびっ
くりして、1 回下がったものがそこからはまた急騰を始め、今は誰も止められない状況に
なっているところです。実は今も 5 月下旬からコンタンゴなのです。ですから先行きすご
く上がっているように見えるけど、どこかで落ちるかもしれないと予測する参加者も私は
少なからずいると思っています。
その結果、経済にはどういう影響が及んだかというと、エネルギー、食糧などの輸入物
価がどんどん上がる、しかしながら、内需はどちらかと言うと、停滞、抑制されていま
す。
それはどうしてそうなってしまうかと言うと、経済学では交易条件と言うのですけれ
ど、輸入価格が急上昇する一方、輸出価格はあまり上がらない。そうすると、相対価格が
不利になるわけです。これまでは 1 単位輸出すれば、何単位かの輸入ができたものが、今
度は 1 単位輸出しても、その半分しか輸入できない、これを交易条件の悪化といいます。
実質の国民総所得の今年の第 1 四半期の成長率は前年比でマイナス 0.5%であるのに対
し、表面上というか普通の GDP の成長率は前年比 1.3%増加しています。GDP が増加して
いるのに、相対価格の変化を考慮した上での所得で考えると、0.5%下落している、成長
していないことになります。
私の解釈では、今、家計部門や企業の経営者のセンチメントがものすごく悪くなってい
て、2001 年あるいは 2003 年とか、そういう悪かったところとほぼ同じところに来ている
のですが、そういうセンチメントの悪化というのは、こういう交易条件の悪化が作用して
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いるのではないかと思います。その結果、今みたいな状況になっている。
今年 6 月に内閣府経済社会総合研究所に着任して早々、景気動向指数の発表がありまし
た。研究所の所長の仕事の一つに景気循環日付というのを決めるというのがあります。吉
川先生を座長とする委員会があり、4、5 人の先生方と一緒に、「いつから景気が拡大始め
た、いつから景気が後退になった」という日付を決定します。アメリカでは NBR という学
者の組織が、政府とは独立した立場で、主に指標を見ながら決めています。
着任して早々の動向指数の発表であり、しかも従来のディフュージョンインデックスか
らコンポジットインデックス(合成指数)に変え、しかもそれで判断すると、景気局面が変
化した可能性もあるというタイミングでしたので、所長が記者会見を行い、説明すること
になりました。
金融政策というのは先程の最適な金融政策運営で考えると、1 年先 2 年先の経済の動向
を半年ごとに予測して見通しているのですが、私は 2007 年 2 月の時に、単に物価だけで
はなく内需、物価上昇率もあまり良くない、強くないとみていました。また、コンポジッ
トインデックスの先行指標で見ると、実はもっと前からピークアウトしていて、その内景
気動向指数(CI)もそうなるだろうという読みも同時にあったのです。どうやらその可能性
が出てきたというのが今の状況であります。
同時に私が一番驚いたのは、1 人当たりの名目賃金が 2006 年末からマイナスになったこ
とです。それ以前はプラスでしたので、安心していたのですが、その上、消費者物価が半
年はマイナスになり、内需もあまり強くないだろうという、こうしたいくつかのことが
あって 2007 年 2 月の金融政策決定会合では 1 人で反対したのですけれど。あまり自分で
言ってはいけないのですけれど、結果は私が恐れていた方に近い方向で動いているという
ふうに思います。
【サブプライム・クレジット問題と金融政策】
それからもう 1 つの問題というのは、サブプライム・クレジット問題でありまして、滅
多に起こらないのだけど、それが起こった時はすごいダメージが起こると、そういうこと
が今アメリカ経済で起こっております。
アメリカでは 2000 年 4 月に IT バブルの崩壊があり、一方、住宅価格は 97 年をボトム
に急騰をしていました。つまり、バブルが 1 つ潰れている過程で、もう 1 つのバブルがど
んどん成長していたというのが 2000 年の時のエピソードです。住宅価格は 2006 年半ばに
ピークアウトし、今はピーク時から 16%位下がっているのですが、その過程でコモディ
ティ、特に原油がどうもバブルだ。つまり、住宅バブルが壊れて大変で、流動性増やさな
きゃ、緩和を続けなきゃと言っている裏側で、もう 1 つ別のバブルが発生する事態になっ
ています。このようにチェーンで起こるというバブルを私はスタガードバブルと呼んでい
ます。日本の場合は、土地の価格と株がほぼ同時にバーッと上がって、進行するシンクロ
ナイズドバブル、オーバーラッピングバブルでした。
先進国では市場流動性が不足していて、資産取引を円滑にやろうと思ってもなかなかで
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きません。大体このぐらいの値段で売れると思ったのに、2 割、3 割ディスカウントされ
てしまうという、これをマーケットリクイディティが低い、市場流動性が枯渇していると
いいます。そこで、先進国の中央銀行が必死に流動性の足りない部分を補っています。そ
の一方で、コモディティには資金流入があり、そこではバブルが進んでしまう。スタガー
ドバブルの際の金融政策をどうしたらいいのかというのは、今のところ模範解答はありま
せん。もともとバブルが起こった時はどうしたらいいかというのは模範解答が難しいので
すけど、2 つがスタガードで出てきた時どうするのかというのは、すごく頭が痛い問題で
す。
金融政策も直接のことはあまり触れたくないのですけど、例えば欧州中央銀行(ECB)は
多分来月金利を上げ、そしてユーロはおそらく高くなるので、輸入物価も下がる可能性が
あり、ユーロだけとるとインフレ抑制には良いように見えるわけです。しかし、ドル安が
進むとドルで持っている資産が目減りしてしまう、それは耐え難いので、他のものにした
い、金やコモディティを持ちたいという動きになる可能性があります。
ユーロが上がるということはドル安、ドル安になると、そうするとますますドルを持っ
ているのは嫌だと思うと、コモディティの方に行ってしまうかもしれない。そうすると、
コモディティ価格がまた上がるかもしれない。これを負のフィードバックと言うわけです
けど、金利を上げて、うまくインフレを抑えられるかと思ったら、またコモディティが上
がって帳消しになる可能性があります。
アメリカの場合はもっと深刻で、金融緩和を進めようとすると、もっと明確に出ますの
で、これ以上は下げることはもう難しい。たとえ、実態経済がかなり弱くなるにしても、
簡単には下げられない。グローバルな経済とマーケットというのはリンクしていて、しか
もマーケットでは 2 つのスタガードバブルが破裂し、生成するという時にどうしたらいい
のかというのが 1 つの問題です。
もう1つの問題は、一国の金融政策はどの程度、長期実質金利に影響を与えることがで
きるのかということです。グリーンスパンさんは、政策金利が上昇しても長期金利がほと
んど動かない状況を「コナンドラム」、長期金利の謎と表現しました。
【グリーンスパンの 10 の原則】
最後になりますが、2005 年 8 月のジャクソン・ホールコンファランスで「グリーンスパン
の時代」を振り返るセッションがありました。
グリーンスパンさんは FRB 議長として 18 年活躍しました。その間、リセッションは
8 ヶ月ずつ、2 回の計 16 ヶ月しかありません。客観的に見ればこれほどの名議長はいな
い、マエストロだと。だけどどうしてそんなにうまくできたのだろうかということをプリ
ンストン大学のブラインダー教授が 10 の原則に整理したことに触れたいと思います。
ブラインダー教授は「グリーンスパンがどうして成功したか今も秘密だ、誰もその秘密
は分からない。けれども、グリーンスパンの後継者になる人が議長の部屋に行って机の引
き出しを開けたら、この 10 の原則が書いてあるに違いない」と、そういう紹介で、この 10
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の原則を書かれました。これはなかなか味があって、うまく書いているなと思います。
例えば 1 番目は「政策選択は、常にオープンにせよ。」どこかに新たな選択の値打ちがあれ
ば常に取り入れる。
2 番目は「知的ジャケットに拘束されるな。」最適化モデルにあまり縛られると失敗する
ということです。私はどちらかというとその方がいいと思っているので、今は 2 番目につ
いては 100%賛成というわけにはいかないのですが、しかし、縛られすぎるのは間違いだ
と思います。
3 番目は割合重要で「途中で政策の逆転はするな。」1 度方針を決め、この局面でインフ
レを必ず退治する、あるいはデフレを退治すると決めたら、途中で上げ下げをやっていて
はだめだ、どこを向いてやっているのか分からなくなってしまうということです。金融政
策は機動的に動かせるので、もっと早く動かして、すぐ上げて、あるいは下げてという方
は、結構マーケットに多いです。ヘッジファンドなんて実にそうで、もっと早くもっと早
く、じっとされていると要するに商売の種がなくなるというふうにも受け取れるのです
が、「日銀みたいにじっとしていて動かないのは、イライラする、もうとてもたまらん」と
いう感じのコメントがマーケットの人たちからはよく出てくるのですけど、「途中で政策
の逆転はするな。」というのは結構正しいやり方だと思います。財政政策でもストップア
ンドゴーは駄目なのです。あんまり批判してはいけませんけれど、90 年代の財政はかなり
ストップアンドゴーだったのではないかと思うのです。ですからすごい額を使ったにも関
わらず効果があまり出なかった。
4 番目は「予測は必要だが信頼できるものではない。」あまり自分の予測を信じ過ぎると
いけない、これもなかなか味があります。
5 番目は「リスク管理アプローチの方が役立つ。」起こる確率が低くても、大きいダメー
ジがあることがあるとすれば、余分に保険をかけなさいというものです。
6 番目は「景気後退は、成長余力を残すので悪い。」これも当然です。
7 番目も味があるのですが、「石油ショックの多くは景気後退を引き起こすものではな
い。」
8 番目「バブルを潰そうとするな、しかし後始末をきちんとせよ。」そもそもバブルかど
うかというのは短期間で 3、4 割下がって初めてバブルだったと分かるというのがグリー
ンスパンさんの主張です。これについては議論があり、私は今の原油価格はやはりバブル
だと思いますし、アメリカの住宅価格も実質価格で 83%上がっていて、こんなに上がった
ことは戦後ないのですが、そういうのはある程度分かるのではないかと思うのです。本当
にバブルだと思ったら少し早めに手当てをするということもあり得ると思うのですが、グ
リーンスパンさんは IT バブルの時も、irrational exuberance である、これは熱狂的価
格上昇でおかしいと言い、警告は発しましたが引き締めはしなかった。これには議論があ
るところですが、しかし後始末はしっかりとする、モップアップアフターと言っているの
ですけど、散らかしたらその後きれいに掃除するという、そういうことで対応すればいい
のではないですかと。この点は実は批判も起こっています。
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9 番目は「中立的な金利と比べた短期実質金利は意味のある指標である。」
10 番目は「すべて出来なくとも意気を軒昂に保て。」元気出しなさいよと。
以上、10 の原則があって、私も随分勉強させられたなというふうに思っております。
【日銀グランプリ】
最後に一言。日銀がどういうことをやっているのかということを 2 つほど紹介させてい
ただきたいと思います。
これまでに大学生を対象とした学生コンテスト「日銀グランプリ:キャンパスからの提
言」というのを 3 回開催しました。1 回目の最優秀賞は「電子ペーパーマネー・システムの構
築」、2 回目は「貯蓄から参加へ」で、3 回目は「子ども未来投資基金」でした。1 番目のもの
は ATM と同じようにパソコンからお金が引き出せれば、高齢者で寝たきりの人も助かるの
ではないかという提案でした。
海外でもこうしたことは行われていて、例えばアメリカでは「FED Challenge」、イギリ
スでは「Target 2.0」。これらは高校生対象なのですが、金融政策決定会合で政策委員が
行っているのに近い水準で議論を行っています。日本もそのぐらいになると随分金融の理
解が進むのではないかと思います。また、日銀では金融教育も行っています。
【日本銀行とは?】
日本銀行には 3 つの重要な機能があります。①お札(日本銀行券)を発行する「発券銀行」
としての機能、②市中金融機関から預金を預かり、国債・手形の売買や貸出しを通じて、
市場に資金を供給し、金融機関同士の最終的な決済を行う「銀行の銀行」としての機能、③
政府から預金を預かり、政府資金や国債の決済を行ったり、政府の代理人として外国為替
市場で外国為替の売買(介入)を行う「政府の銀行」としての機能です。
重要なのは、銀行券と当座預金という 2 つの決済手段と日銀ネットにより資金決済を最
終的に完了させるという、決済システムの最終責任を負っているということで、企業体と
しての仕事が随分あるということなのです。業務を執行する仕事というのはかなりあっ
て、今は副総裁が 1 人決まっていないのですが、手分けしないと国際会議が大変というこ
とだけではなく、普通の企業体や銀行と同じで日常的に色々な問題がありますので、それ
を管理するのは相当エネルギーがいる話なのです。
日本銀行の任務は、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する(日
銀法第二条)」ことなのですが、最適な金融政策というのは、結局物価を安定させる、GDP
のギャップをなるたけ小さくする、その変動を小さくするということなので、新しい政策
の枠組みというのは、それを忠実に実際に移す上で必要な政策の枠組みではないかという
ふうに考えています。
以
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上
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