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桂田富士郎 と日本住血吸虫発見100年

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桂田富士郎 と日本住血吸虫発見100年
岡 山医学 会雑 誌
第117巻May2005,pp.1-8
特別依頼原稿
桂 田富士郎 と日本住 血 吸 虫発 見100年
小 田晧 二
医療 法人 お だ うじ会
小 田病 院
キ ー ワ ー ド:日 本 住 血 吸 虫,桂
田富 士 郎,岡
山 医学会
日 本 住 血 吸 虫 発 見100年
1904年(明
治37)5月26日,岡
下 桂 田)が,新
jaPonicum
Katsurada」
Schistosomajaponicum
と命 名(の
Katsuradaと
改 称)し
見100年 の 記 念 す べ き 日 で あ る2004年5月26日
な っ た 岡 大 医 学 部 総 合 教 育 研 究 棟 の1階
て 桂 田 の 胸 像 除 幕 式 が 行 わ れ た.い
重 な 資 料 が 展 示 さ れ,続
滅 へ の 道 が 開 か れ た.
ちに
桂 田 が 新 し い 虫 体 を 発 見 し た わ ず か4日
後 の5月30
た.発
日 に,ド
イツ留 学 時代 の仲 間 で あ った 京大 の藤 浪 鑑教
に,新 装
授 も,片
山 地 方 で 解 剖 し た 患 者 の 屍 体 か ら1匹
の 虫体 を発 見 し た.し
ま まで未 公 開 の 貴
不 完 全 な もの で 直 ち に 発 表 に は 至 ら な か っ た.桂
生 の 世 紀 の 発 見-日
か ら新 種 の 住 血 吸 虫 で あ る と確 信 し た.5月26日
本 住 血 吸 虫 症 との100年 戦 争 」と題
古 くか ら 岡 山 県 に 隣 接 す る 広 島 県 神 辺 町 の 片 山 地 方
寄 生 虫 の 発 見 を 報 じ た 長 編 の 論 文 を 発 表 し て い る.
翌 月 の 岡 医 誌174号 に 次 の 記 事 が 見 ら れ る.
病 が あ り,地 域 住 民 に 深 刻 な 被 害 を 与 え不 治 の 病 と恐
治15)に
岡 山 県 医学 校 は片
「
桂 田氏 寄 生 虫
の 後 幾 多 の 研 究 を積 ま ざ る 可 か ら ざ る を期 せ ら る る も,
山 病 の 原 因 と して 寄 生 虫 説 が 有 力
す で に 邦 内 諸 家 も同 君 が 研 究 の 結 果 に つ い て 賛 同 の 意
治35)に
志 を寄 せ ら る る 向 き少 な か らず.去
最 大 の 感 染 地 甲府 で 開 か れ た 「山 梨 県 に 於 け る一 種 の
専 門 の 飯 島 博 士 よ りは,と
2年 後 の1904年4月6日
に 再 び 甲 府 を訪 れ,人
通 の 疾 患 で あ る との 認 識 の も と に,地
る頃 寄 生 虫動 物 学
くに 左 の 書 状 を 送 ら れ た り
とい う.… 貴 説 通 りヂ ス トマ 卵 な る こ と疑 う 可 く も あ
肝 脾 腫 大 の 原 因 に 就 て 」 の 研 究 会 に 出 席 し た.
し た.内
畜共
ら ず.し
か もBilharziaも
し くは,そ
れ に 近 き属 の 一
種 に 属 す る もの な り との こ と,貴 君 と全 然 同 意 見 に 立
元 の三 神 三 郎 医
に 感 染 の 疑 い の あ る ネ コ を解 剖
臓 を ア ル コー ル 漬 け に して 持 ち 帰 り,岡 山 医
専 の 研 究 室 で 慎 重 に 検 索 し,5月26日
に そ の 門脈 内か
ら新 し い 寄 生 虫 を発 見 して 世 界 の 学 会 か ら 認 め ら れ た.
平 成16年12月
〒715-0019井
自身 は こ
研究
吸 虫)を
視 さ れ て き た こ とに 関 心 を持 ち,1902年(明
師 の 協 力 に よ っ て9日
桂 田 富士 郎 君 の 本 誌 前号 に お い て
発 表 せ られ た る 一 種 の 寄 生 虫 に つ い て は,君
査 の た め に 教 師 を派 遣
山 に 多 い 肝 臓 ヂ ス トマ(肝
して い た 桂 田 は,片
に発
号 に,「山 梨 県 下 の 地 方 病 に 就 て 」5)と
題 して積極 的 に新
性 期 に な る と肝 硬 変 様 の 症 状 を来 た す 風 土
して い た.岡
の 吸 盤 と特 異 的 な 抱 雌 管 が あ る こ と
見 し て 早 く も6月 の 『岡 山 医 学 会 雑 誌 』(岡 医 誌)173
す る 記 念 講 演 会 が 開 か れ た.
山病 の 原 因 究 明 を依 頼 さ れ,調
田が
発 見 し た オ ス の 虫 体 も尾 部 が 切 断 さ れ 完 全 な も の で は
講 堂 で元 甲府
な か っ た が,2つ
れ ら れ て い た.1982年(明
のメス
か しその 虫体 は後 部 が欠 損 した
市 民 病 院 神 経 内 科 医 長 林 正 高 氏 に よ る 「桂 田 富 士 郎 先
な ど に,慢
紀の
わ れ て い る1-4).
ホー ル にお い
い て 図 書 館3階
本 住 血 吸 虫 症 の 治 療,予
防,撲
発 見 さ れ,日
医 学 で 日本 人 が 果 た し た最 も輝 か し い 不 朽 の 業 績 とい
し
い 寄 生 虫 を世 界 で 初 め て 発 見 して 「日本 住 血 吸 虫Sokistosomum
入 貝)が
日本 住 血 吸 虫 の 発 見 と そ の 生 活 史 の 解 明 は,20世
大 医学 部 の初 代 病 理
学 教 授 で あ っ た 桂 田 富 士 郎 先 生(以
そ の 後 に 中 間 宿 主 の 片 山 貝(宮
受理
原 市 井 原 町582
図1 新 寄 生 虫 図6)
a口 吸 盤,b腹
吸 盤,c抱
電 話:0866-62-1355,1310FAX:0866-62-0145
E-mai1:[email protected]
1
雌管
至 り 申 し候 」.
また シ ン ガ ポー ル で も剖 検 死 体 か ら見 出 され,カ ッ ト
ー 吸 虫11)と命 名 され た.し か し命名 法 の規 則 に よって桂
東 大 動 物 学 教 授 の 飯 島 魁 は 日本 に お け る寄 生 虫 学 の
開 祖 で あ り,飯 島 に よ る 新 寄 生 虫 説 の 支 持 は,桂
と っ て 最 大 の 支 援 に な っ た もの と思 わ れ,桂
田に
田 が第1発 見 者 と認 め られ,藤 浪 は 人体 で の最 初 の発
田が 終 生
見 者 で あ るが,新 寄 生 虫 の最 初 の 発 見 者 とい う輝 か し
た
い栄 誉 は桂 田に 与 え られ た.日 本住 血 吸 虫 を発 見 した
桂 田 の 発 表 は 早 くか ら 多 くの 関 係 者 に 認 知 さ れ て い た
桂 田 の名 は学会 をは じめ 社 会 的 に も周知 され,学 者 と
こ とが わ か る.
して確 固 た る名 声 を博 して い た.
大 切 に し て い た 飯 島 の 葉 書 は 今 も 現 存 し て い る.ま
桂 田 は さ ら に7月
に も 甲 府 を訪 れ て ネ コ を解 剖 し,
オ ス ・メ ス 計32匹 の 異 体 吸 虫,し
擁 す る5対
1912年(大 正1)11月9日,桂
か もオ ス とメス が 抱
の 完 全 な 虫 体 を得 る こ とが で き た.8月
田 は釈 然 と しな い理
由 で突 然休 職 を命 じ られ た.看 板 教 授 と して学 生 に人
に
望 が あ った が,菅 校 長 との 間 に ふ か い亀 裂 が 生 じ,校
発 行 の 岡 医 誌 に 「日本 住 血 吸 虫 の 佐 賀 県 下 に於 け る 関
長 は文部 省 に桂 田非 難 の 報 告 を行 っ た.文 部 省 は校 長
係 に就 て 」6),『東 京 医 事 新 誌 』に 「山 梨 外 数 県 下 に 於 け
の 意 見 に よっ て桂 田 を休 職 処 分 と し,そ れ に対 し学 生
る 一 種 の 寄 生 虫 病 の 病 原 確 定 」7),『芸 備 医 事 』に 「日本
は桂 田の復 職 を要 求 して2回 に わ た りス トラ イ キ を行
住 血 吸 虫 病 の 本 態 に 就 て 」8),続け て9月
っ た.結 果 的 に は校 長 も辞任 す るこ とに な り,全 国 的
に 岡 医 誌 へ 「日
本 住 血 吸 虫 論 補 遺 第 一 」9)を投 稿 し て お り,さ
報 』 第6337号(8.13)や
に有 名 に な っ た 岡 山医専 の紛 争 は よ うや く終 結 した.
ら に 『官
新 設 の九 大 教 授 へ の 栄転 を辞 退 し,岡 山へ つ よい 愛着
独 文 誌10)へ も新 寄 生 虫 の 発 見
が 掲 載 さ れ た.
翌1905年
と期 待 を抱 い て い た桂 田に とっ て大 変 残 念 な幕切 れ と
に 同 じ吸 虫 が 中 国 の 湖 南 省 で 人 体 症 例 か ら,
な った.桂 田の在 任 は24年 で終 わ り岡 山は す ぐれ た有
名 教 授 を失 っ た.文 部 省 は桂 田 に休 職 を命 じた が,処
分 が早 計 で あ っ た と考 慮 した ため か,桂 田 を休 職 教 授
の ま ま,翌13年 に 万 国 医学 会 の 日本代 表委 員 と して ロ
ン ドンへ 派 遣 して い る.
帰 朝 後 の14年11月 に正 式 に辞 任 し,岡 山 か ら神 戸 に
移 っ て船 員病 及 び熱 帯 病 研 究 所 を設 立 して研 究 と後 進
の指 導 に専 念 した.神 戸 で も多 くの病 理 学,寄 生 虫学
の論 文,医 学 に 関す る指 導 的 な論 説や 評 論 を発 表 して
い る.退 職 後 も文 部 省 か ら ヨー ロ ッパ に お け る国際 会
議 へ の 出席,欧 米 に お け る医 学教 育 の視 察 を命 じ られ
て お り,1918年(大
正7)に
藤 浪 と と もに帝 国学 士 院
賞 を授 与 され た.そ の年 に 日本病 理 学 会 の会 長,29年
(昭和4)に
日本 寄 生 虫 学会 会 長,日 本 人 で最 初 の英
国王 立 医 学会 名 誉 会 員,31年 に 日本 病 理 学 会 の名誉 会
長 に推挙 され,戦 後46年(昭 和21)に 郷 里 の大 聖 寺 で
79歳 の 生涯 を閉 じた.
生 前1939年(昭 和14)に 学 界奉 仕50周 年12)を記 念 して,
門下 生 に よ って母 校 の錦 城小 学校 に ブ ロ ン ズ像 が 建 立
され た.こ の像 は戦 時 中の 金属 供 出 に よ り姿 を消 して
図2 Fig.1 い たが,戦 後 に地 元 の加 賀 市 医 師会 に よっ て再 建 され,
新 寄 生 虫 図8)
日本 住 血 吸 虫 オ ス
A前
体 部a口
B後
体 部h腸
吸 盤b腹
f食 道 腺,g
吸 盤,c食
脚,e睾
加 賀 市 は新 た に市 の 中央 公 園 に桂 田 の レ リー フ像 を設
丸,
置 して顕彰 して い る.さ らに2004年6月 末 か ら2カ 月
抱雌 管
脚 会合 部
間 に わ た って,加 賀 市 の 歴 史 民族 資料 館 で 「
ふ るさ と
Fig.2 日本 住 血 吸 虫 メ ス
a口 吸 盤b腹
吸 盤,c腸
脚,d腸
9卵 黄 巣,h卵
道,d腸
黄 管,i穀
腺,j子
管 後 端 部,e卵
巣,f輸
の人 物 列伝 展 」 が 開か れ,寄 生 虫学 の先 駆 者 で あ る桂
卵,
田 と,日 本 で最 初 に脳 波 を記録 し色覚 研 究 で も優 れ た
宮
2
桂 田富士郎 と 日本住 血吸 虫発 見100年:小 田晧 二
桂 田富 士 郎 先 生 の顕 彰
除幕 式 の 冒頭 で,筆 者 が 発 起 人 と して 経過 報 告 と胸
像 の 由来 を述 べ た.次 い で 岡 田茂 医 学 部 長 が 「
新 型肺
炎 や 鳥 イ ン フル エ ンザ な どの感 染 症 は,依 然 として世
界 の恐 怖 に な って い る.日 本 住 血 吸 虫 症 で 苦 しむ地 域
の 人 た ち の ため に,今 で もや るべ き仕事 は多 い.顕 彰
事 業 を通 じて桂 田先 生 の画 期 的 な業 績 を伝 え,先 生 の
遺 志 を学 生 や教 職 員 が受 け継 ぐと と もに,法 人化 で期
待 が 高 ま る国際 貢 献 の一 環 と して,さ ま ざ ま な医療 貢
献 を模 索 した い」 と挨 拶 した.
つづ い て学 部 長 をは じめ,清 水 信 義 病 院 長,中 山容
一 医歯 学 総 合 研 究科 長
,小 谷秀 成 同窓 会 副 会 長(岡 山
図3 帝 国学士 院 賞記
県 医 師会 長),桂 田家 を継承 した孫 の 豊幸 氏,寄 生 虫 学
業 績 を残 した 元東 北大 学 長 の本 川 弘 一 の 資料 が展 示 さ
の稲 臣成 一 名 誉教 授,横 川 み ど り様,辻 守康 広 大 名誉
れ た.
教 授 等 の8人 に よ って胸 像 が 除幕 さ れ た.
除 幕後 に桂 田氏 が,遺 族 の代 表 と して 「
小 学校 時代
現 在 で は 日本 住 血 吸 虫 症 は 日本 か ら は 完 全 に 消 滅 し
て い る.し
か し過 去 の 病 気 で は な く,今
に祖 父 と同居 して い たが,寝 姿 を見 た こ とが な い.晩
で も中 国や フ
ィ リ ピ ン で は 多 くの 人 た ち が こ の 病 気 で 苦 しん で い る.
年 まで論 文 執 筆 に没 頭 して い た.泉 下 で満 足 して い る
03年 に は 久 留 米 で 「日本 住 血 吸 虫 発 見100年 記 念 国 際 シ
こ とで あ ろ う」 と謝 辞 を述べ た.
ン ポ ジ ウ ム 」が 開 催 さ れ,日
本 寄 生 虫 学 会 と国 際 協 力,
式 に は,か つ て本 学 部 に 勤務 した石 井 明教 授(自 治
国 際 厚 生 両 事 業 団 の 共 催 に よ り,世 界 中 か ら 多 くの 研
医 大),同
究 者 が 参 加 して 時 機 を得 た す ば ら し い 学 会 で あ っ た と
関 基 弘教 授,猫 協 の松 田肇教 授 等 の寄 生 虫学 者,さ
い う.ま
に本 学 関係 者 な ど60数 人 が 出 席 した.横 川 は,桂 田の
た 『医 学 の あ ゆ み 』 は 発 見100年 の 特 集 号13)を
発 行 し て お り,成
高 弟 で 台 湾 で横 川 吸 虫(Metagontmus
田 で も 「ア ジ ア の 寄 生 虫 症 へ の ア ジ
1008号 の2回
て横 川 定 に宛 て た桂 田 の手 紙 を,元 日本 寄 生 虫学 会 会
と2003年
長 の辻 は,日 本 寄 生 虫予 防 会 を通 じて黄 金 色 に輝 く桂
に わ た り,日 本 住 血 吸 虫 の 発 見 に い た る
経 過 と桂 田 の 後 世 に の こ る業 績 を称 賛 し て い る.桂
田賞 メ ダル を寄 贈 さ れ た.
田
除幕 式 が終 わ って,学 生 の 振 り替 え授 業 を兼 ね て林
は 生 前 か ら学 士 院 賞 の 賞 金 を も と に 寄 生 虫 学 の 研 究 者
に 「
奨 励 賞 」 を,没
後 の48年(昭
和23)か
ら は,す
yokogmoai Ka-
千 葉 大寄 生 虫教 授)の 未 亡 人 で,桂 田 の顕 彰 に協 賛 し
『日医 ニ ュ ー ス 』 は20世 紀 の 医 学 ・医
療 をふ り返 る 連 載 記 事 で,す で に2001年952号
ら
tsurada桂 田が命 名)を 発 見 した横 川定 の次 男宗 雄(元
ア 独 自 の 戦 略 研 究 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム 」 が 開 か れ た.
日本 医 師 会 の
じ く大 田伸 生教 授(名 古 屋 市 大),金 沢 の 井
氏 に よ る記 念 講演 が行 われ た.氏 は25年 間 に60数 回 も
ぐ
れ た業 績 に寄 生 虫 病 学 奨励 会 よ り 「
桂 田賞 」 が贈 られ
感 染 地 の フ ィ リピン を訪 れ て 現 地 で 医療 に従 事 し,ボ
て い る.
ラ ン テ ィア 団体 「
地 方 病 に い どむ会 」 を結 成 し,募 金
岡 山 で は 中 山沃 岡大名 誉 教 授(元 日本 医史 学 会会 長)
に よ って 海外 の 患者 の救 済 を行 って い る.『
寄 生 虫 との
に よっ て,桂 田の 業 績 が 医 学 史 の 立場 か ら医 学雑 誌 な
百 年 戦 争 一 日本 住 血 吸 虫症 ・
撲 滅 へ の 道 』14)の
著者 であ
どに紹 介 され て い る.し か しな が ら最 もゆか りの 深 い
る.
岡大 医学 部 で は,今 まで何 らの顕 彰 も行 われ て いな か
除幕 され た胸 像 は高 さ34cm,幅23cmの 大 理 石 彫 刻 で,
つ た.発 見100年 を迎 えて 岡 山 で桂 田 を顕 彰 すべ きで あ
1970年 頃 に 岡 山 の某 医師 か ら寄贈 され た もの で あ る.
る とい う趣 旨か ら,昨 年5月26日
高 さ約1mの
に記 念 事 業 として胸
古 び た木 製 の台 の,桂 田富士 郎 教 授 と書
像 の 除幕 式,資 料 展 示,講 演会 が実 現 す る こ とに な っ
か れ た厚 さ5cmの 木 の 台座 に 置 か れ,長 い あ い だ非 公
た.
開 の 資料 室 の一 隅 で 眠 っ て いた.寄 贈 者 の 氏名 は あ る
が,作 者名 と製 作 年 は どこに も記 され て い な い.高 齢
3
で 引 退 して い る 寄 贈 者 は 「こ の 胸 像 は 義 父 が 所 有 して
い た もの で,義
父 は 岡 山 医 専 の 卒 業 生 で あ る が,私
岡 大 に 関 係 な く義 父 と 同 居 し た こ と も な く,像
家 に あ っ た か 知 ら な い 」 とい う.そ
い つ 作 ら れ た か,作
あ っ た.
は
顕 彰 を 目 前 に し て,か
が なぜ
ね て 念 願 して い た 桂 田 の 出 身
地 で あ り墳 墓 の 地 で も あ る 加 賀 市 を 訪 れ た.北
の ため 大 理 石 像 が
加 賀 温 泉 駅 で 下 車 し,ま
へ,次
者 名 や 由 来 に つ い て も全 く不 明 で
陸線の
ず レ リー フ 像 の あ る 中 央 公 園
い で 古 い 城 下町 の 大 聖 寺 に 着 き,錦
城小学校 に
設 置 され て い る 等 身 大 の ブ ロ ン ズ胸 像 と,旧 宅 を外 部
か ら 見 る こ とが で き た.中 山 の 墓 参 記15)に,桂 田 家 の 墓
地 は 市 内 に あ る全 昌 寺 の 背後 の 山 中 で一 番奥 ま った 高
い 場 所 と あ り,予 想 以 上に わ か り に く い 難 所 で あ っ た.
住 職 に よ る と金 沢 の 桂 田 家 に よ っ て 墓 地 が よ く管 理 さ
れ て お り,り
て い た.奇
っぱ な 大 きな墓 石 に新 鮮 な花 が 供 え られ
縁 とい う べ き で あ ろ う か,直
が お 参 り を す ませ,私
で 同 時 刻 に,し
前 に 桂 田一 家
夫 婦 と駅 前 の 同 じ ホ テ ル の 食 堂
か もお 互 い に 近 くの 席 で 昼 食 を とっ て
い た こ とが わ か っ た .
遺 族 の 存 在1)は 承 知 し て い た か,神 戸 の 戦 災 で す べ て
を 焼 失 し て 郷 里 へ 引 き 揚 げ た と記 され て い る.僅
資 料 で も何 か 残 っ て い な い だ ろ う か.か
抱 い て 金 沢 の 桂UI氏 に 電 話 し た.突
かな
す か な期待 を
然 の問 い合 わせ に
もか か わ らず 「多 くの 資 料 が あ り,ご 覧 い た だ け れ ば
大 変 光栄 で す 」 とい う返 事 に 仰 天 した.金
宅 ま で 夫 妻 に 送 迎 し て い た だ き,帝
学 と理 学 の 学 位 記,内
献,書
簡 な ど,多
国 学 士 院 賞 記,医
閣 や 文 部 省 か ら の 公 式 辞 令,文
くの 未 公 開 の 貴 重 な 資 料 を 時 の 経 つ
の も忘 れ て 拝 見 す る こ とが で き た.そ
図4 沢駅か ら自
の 上,岡
山で の
除 幕 式 の た め に 大 切 な 資 料 の 拝 借 をお 願 い した と こ ろ,
除 幕 式 ・記 念 講 演 会 ボ ス ター
初 対 面 な が ら,即
座 に ご承 諾 をい た だ け た の は望 外 の
幸 い で あ っ た.
桂 川 家 の 座 敷 に は 錦 城 小 学 校 と同 じ等 身 大 像 の 原 型
が 置 か れ,す
ぐ傍 に 英 国 王 立 医 学 会 の 名 誉 会 員 証 と,
岡 山 と全 く同 じ)(理 石 像 が 飾 ら れ て い た.像
岡 山 と変 わ ら な い が,16×16em,高
石 の 台 座 が 付 い お り,表
に2段
表面
の本 体 は
さ14cmの 同 じ大 理
面 と背 面 に 向 か っ て 右 か ら 左
に 刻 字 され て い る.
医 学 博1二桂 川 富 士 郎 先 生 就 職 満 二 十 年 当 時 之
肖像
背面
明 治 四 十三 年 七月 十 四 日 直接 門 下生 作 之
在職20年 の 祝 賀 会 に つ い て,岡
医 誌 に 「桂 田 富 士 郎
君 記 念 会 」16)の記 録 が あ る.そ れ に よ る と 台 座 に 刻 ま れ
た 明 治43年7月14日
に,病
理 学 教 室 に お い て直 接 指 導
を 受 け た 門 下 生 が 市 内 の 備 前 家 に 夫 妻 を招 待 し た.
席 上ま ず 代 表 の 陶 山 〓 治 氏 が 桂 田 の 偉 大 な 業 績 を 称
図5 え,こ
除 幕式
4
の 優 れ た 大 研 究 者 か ら,直
接 に 指導 を受 け た こ
桂 田富士 郎 と日本住 血 吸 虫発見100年:小
とは大 き な誇 りで あ る と述 べ た.次 い で片 山誠 治 氏 が
日本 住 血 吸 虫 の発 見 者
<記念 品 目録>を 贈 り,桂 田が 海 外 留 学 に 出発 す る当
桂 田富士郎先生
田晧二
(1867-1946)
日の行李 や 家財 が散 乱 して い る中 で,な お 懸命 に 吸 虫
か つ て広 島県 片 山地 方 や 山梨 県 甲府盆 地 な ど各 地 に,水 田 に入
に関 す る論 文 を執 筆 して い た非 凡 な精 力 と,門 下 生 の
る と皮 膚 のか ぶ れ,発 熱,血 便,次 い で肝硬 変 を来 す 風 土病 が あ
論 文 を必 ず 一 字 一 点 に至 る まで訂 正 す る,責 任 感 を重
り,原 因不 明 の奇病,難 病 と して恐 れ られ て い た.
ん じる態 度 に 深 い 印象 を与 え られ た と挨 拶 した.
1904年(明 治37年),現 在 の 岡 山大学 医学 部 の前 身 であ る岡 山医
最 後 に桂 田が 「
私 は浅 学 非 才 なが ら幸 い に健 康 で,
学 専 門学校 の病 理 学教 授 だ った桂 田富 士郎 先 生 は,甲 府 の 流行 地
なお 多少 の 前 途 が あ る もの と信 じて い る.在 職20年 の
で解 剖 した猫 の 門脈 内か ら新 しい寄 生 虫 を発 見 し,「日本住 血吸 虫
お祝 い をお 受 け すべ きか ど うか 迷 っ た.し か し諸 君 の
S6kistosomajaponi6um
催 しは教 室 関係 者 に 限 りそ れ以 外 の参 加 をすべ て 断 っ
大 き く貢 献 した この業 績 に対 して,1918年(大
て い る こ とに,強
Katsurada」
と命 名 した.医 学 の進 歩 に
正7年)に
帝 国学
士 院賞 が 授与 され た.ま た先 生 の名 を冠 す る 「
桂 田賞 」が贈 られ
く興 味 を覚 え感 謝 に耐 え ない.不 肖
て い る.
を顧 み ず 諸 君 の 厚 意 をお受 けす るこ とに した.教 室 の
日本 住 血 吸 虫は 日本 か らは撲 滅 され た が,今 で もア ジア に広 く
盛 否 は研 究 者 の 多寡 とそ の励 否 に よ って 決 定 す る.岡
分 布 して 多 くの人 々 を苦 しめ てい る.日本 住 血 吸 虫発 見100年 を記
山 医専 の さ さや か な 我 が病 理 学 教 室 が,多 少 とも世 に
念 し,桂 田先生 を顕 彰 す る とと もに,先 生 の使 命 とされ た寄 生 虫
そ の存 在 を認 め られ た の は諸 君 の お陰 で あ る.む しろ
感 染 症 か ら人類 が解 放 され る こ とを念 願 す る.
私 が 諸 君 に感 謝 しな け れ ば な らな い.こ の たび の優 待
2004年5月26日
は衷 心 よ り慚 愧 に耐 えな い と ころ で あ る」 と謝 辞 を述
岡 山大 学 医学 部
べ て い る.
岡 山 医 学会 と桂 田富 士 郎
ブ ロ ン ズ像 の 背 面 に は,当 時 の新 進 気 鋭 の 彫刻 家 で
あ っ た樽 谷 清 太 郎 の サ イ ンが刻 まれ て い る.桂 田家 の
岡 山 県 医 学 校 が 近 畿 ・中 四 国 で 唯 一 の 国 立 の 第 三 高
台座 と祝 賀 会 の 記録 か ら,岡 山 と金 沢 に あ る2つ の大
等 中 学 校 医 学 部 に な っ た の は1888年(明
理 石 像 は,在 職20年 の祝 い と して1910年(明
立 医 学 部 の 岡 山 へ の 設 置 に 関 し て,学 校 側 は も ち ろ ん,
治43)に
作 られ た寿 像 で あ る こ とが判 明 した.
治21)で,国
高 坂 駒 三 郎 を中心 と した学 生 が 団結 して 強烈 な誘 致 運
しか し作 者 名 は不 明 で あ る.そ こで 岡 山県 立 美術 館
動 を行 っ て い る.岡
山医 学会 は研 究 発 表 機 関 の必 要 性
に調 査 を依 頼 した.学 芸 員 に よ る と非 常 に りっぱ な作
か ら,学
品 で,高 度 の 技 術 を有 す る一 流作 家 の手 に よ る もの と
発 足 し た.岡 山 医 学 会 雑 誌 第1号17)が
推 測 され たが,作 者 を特 定 す る こ とは で きなか った.
年12月13日
大 理 石 像 の作 者 名 は,祝 賀会 で贈 呈 され た記 念 品 目録
は,幹
に記 さ れ て い た こ とで あ ろ う.桂 田 に贈 られ た像 は桂
当 し た.
田家 に あ り,除 幕 され た像 は も と も と病 理 学教 室 に保
生 と協 議 し て 積 極 的 な支 援 に よ っ て 翌89年 に
で,医
事,編
学 部 主 事(校
集 委 員,会
「こ こ に 明 治22年11月
あ る菅 会 長 の 他
計 な ど最 初 は す べ て 学 生 が 担
某 日,わ
が 岡 山 に お い て 医学
存 さ れ て い たが,桂 田の 退任 や,そ の後 の 内 山下 か ら
士,開
鹿 田へ の 医専 の移 転,病 理 学教 室 の火 災 な どに よ って
織 せ し第1回
学 外 に流 失 した の で は ない か と推 測 され る.
こ と に 慶 す べ き賀 す べ き こ と な り.そ
胸 像 は顕 彰 事 業 が 決 ま って 学部 長 室 に移 され,新 研
業 医,医
長)で
発 行 され たのは 同
科 学 生 等 諸 君 相 謀 り,岡
山 医 学 会 を組
を 第 三 高 等 中 学 校 医 学 部 内 に 開 か る.ま
立 せ られ た る,け
も そ も本 会 を創
だ し偶 然 に あ ら ざ る を信 ず.
御 影 石 の 台が 新 調 され た.像 は そ の上 の高 さ47cmの 透
お よ そ 医 学 な る も の は,す こ ぶ る 日進 の 学 術 に て,
一 日一 時 た る も忽 に す べ か ら ざ る は 勿 論 な り とす
.故
明 な ア ク リル ケー スの 中に 設 置 され,台 の 正 面 に 「
桂
に 広 く有 志 を募 り互 い に 知 識 を 交 換 し,こ
れ が 日進 の
田 富士 郎 先 生 の像 」,向か って右 側 面 の上 部 に桂 田賞 メ
学 理 に 遅 れ ざ ら ん こ と を 努 む る に あ り.こ
れ本 会 の創
ダ ル,そ の下 に下 記 の解 説銘 板 が はめ 込 まれ て い る.
立 せ ら れ た る起 因 な り とす.願
究 棟 に お け る除 幕 と公 開 の た め に 高 さ90cmの 重 厚 な 黒
精 励,彼
我 の 長 短 を補 い,も
進 歩 を 謀 ら ん こ と を.開
う」.
5
わ くは 諸 君 と共 に 刻 苦
って本 会 の 隆盛 と医学 の
会 に 際 し て い さ さ か 祝 意 に代
桂 田 は 病 理 解 剖 学 と と も に 法 医 学 も担 当 し,教
育 と
研 究 に 精 力 的 に 情 熱 を傾 け て お り,岡 医 誌 に 驚 異 的 と
も い え る努 力 の 記 録 が 残 さ れ て い る.第2回
会 総 会 の 「巨 大 細 胞 論 」 を最 初 に,そ
う に 発 表 し発 言 して い る.さ
岡 山 医学
の 後 も毎 回 の よ
ら に 岡 医 誌 に 桂 田 自 身,
ま た は 指 導 に よ る研 究 論 文,外
国 文 献 の 抄 録,医
度 や 医 学 史 に つ い て の 随 想,批
判,論
学制
戦 な ど も寄 稿 し
て お り,そ の 回 数 は 他 の 教 授 に 比 し て 圧 倒 的 に 多 い.
日本 住 血 吸 虫 の 研 究 中 も,岡
山 医 学 会 の 総 会,通
常会
で の 発 表 と 岡 医 誌 へ の 抄 録 報 告 を 欠 か して い な い.
中 山 の 調 査15)に よ る と桂 田 の 論 文 は200編 に 達 し,病
理 学 の あ ら ゆ る領 域 に 及 ん で お り,全 体 を 通 じて 寄 生
虫 に 関 す る もの が 多 い.赴
任 し た1890年 か ら在 任24年
間 の 岡 医 誌 へ の 論 文 は111編 で,1年
し た 翌 年 の28編 が 最 も 多 い.岡
共 著 も あ る が,創
刊 以 来,桂
間 の論 文 数 は赴 任
医 誌 へ の発 表 は少 数 の
田が 最 も多い の は 間違 い
な い と思 わ れ る.
図6 岡 山医学会 雑 誌
第1号
1904年(明
治37)か
ら 日本 住 血 吸 虫 の 研 究 に 関 す る
多 くの 発 表 が 見 ら れ る.
菅会 長 は こ の よ うに創 刊 の 辞 を述べ て い る.
「
桂 田 富 士 郎 君 は 学 術 取 り調 べ の た め に 東 京 に 出 張
桂 田が 岡 山へ 着 任 したの は,第 三 高 等 中学 校 医 学 部
が発 足 して2年 目の1890年(明
を命 じ られ,3月31日
治23)で あ る.1887年
に 出 発 上 京,本
月6日
に 山梨 県
下 に 転 じ,同 県 下 の 地 方 病 の 取 り調 べ を終 わ り,同9
に石 川 県 金 沢 医学 校 を卒 業 し,東 大 病 理 学 教 室 で初 代
日山梨 県 医 学会 春 季 総 会 の席 上 に お い て一 場 の演 説 を
教 授 の三 浦 守 治 に師事 した.三 浦 の推 薦 に よって 岡 山
へ 赴 任 し,3年 後 の1893年 に初 代 の病 理 学 教 授 に昇 進
行 い,10日
甲 府 を去 り12日 に 帰 岡 し た 」.消 息 欄18)に 報
じ られ て い る 甲府 へ の 出 張 記 事 が 最 初 で,解
剖 につ い
して お り,東 大 以 外 で は最初 の専 任 の病 理 学 教 授 で あ
て は 記 載 さ れ て い な い.新
っ た.岡 医誌 に よ る と初 め 助教 諭 と して赴 任 して い る.
報 じ た 岡 医 誌173号 の 第1報.5)は,多
◎ 桂 田富 士 郎 氏 は本 部 助教 諭 を拝 命 し本 月十 九 日着 岡
さ れ た 貴 重 な 歴 史 的 な 論 文 で あ る とい え る.欧
し い 寄 生 虫 の 発 見 を詳 細 に
せ られ た り
は21編 で,と
氏 は病 理 解 剖 学 の教 授 を担 当 す る由
的 に そ の 権 威 が 認 め られ て い た.
◎叙任及辞令
超 多 忙 で あ っ た 桂 田 は,新
本 会 の叙 任 及 辞 令 を官 報 に 由 て調 査 す れ ば大 略左 の
大 学(九
如し
た.岡
叙高等官入等
桂 田富士 郎
第 三 高 等 中 学校 教 授
大 医 学 部)病
理 解 剖 学 講 座 の 兼 担 を命 じ られ
の 上 「首 下 が り病 」 の 調 査 の た め
岡へ の正 式 赴 任 をつ よ
く要 望 さ れ,両 校 の 校 長 同 士 の 了 解 も成 立 し て い た が,
桂 田 は 九 州 へ の 転 任 を受 諾 し な か っ た.桂
年俸金三百六十円下賜
第 三 高 等 中 学校 教 授
は 帝 大 教 授 へ 昇 任 す る よ り も,何
桂 田富 士 郎
田 に とっ て
は と も あ れ,自
分が
発 見 し た 寄 生 虫 研 究 に 没 頭 す る こ との 方 が は るか に 重
第三 高 等 中学 校 医 学 部 勤務 を命 ず
第 三 高 等 中学校 教 授
究で
設 の 京都 帝 国大 学 福 岡医 科
徳 島 へ も出 張 を命 じ ら れ た.福
(九月一 日内閣)
に,研
医 誌 の 記 録 に よ る と再 三 に わ た っ て 福 岡 へ 出 張
し て 講 義 を行 い,そ
桂 田富 士 郎
文発表
くに 寄 生 虫 の 病 原 的 意 義 に つ い て は 世 界
住 血 吸 虫 を発 見 し て 半 年 後 の1905年1月
(8号,1890.7.27)
任 第 三 高 等 中学 校教 授
くの 研 究 者 に 引 用
桂 田富 士 郎
要 で あ っ た に 違 い な い.
桂 田 の3時
(九月一 日文 部 省)
間 睡 眠 に よ る 研 究 生 活12)は超 人 的 と驚 嘆
さ れ て い た.東 大 出 身 教 授 の 中 に あ っ て 地 方 医 学 校 出
(46号,1893.10.10)
6
桂 田富士 郎 と日本住 血 吸 虫発 見100年:小
お き,学 生 間 は も ち ろ ん,学
田晧二
生 と教 授 と の 相 互 意 志 の
疎 通 親 睦 を増 加 し得 た る 利 益 の 多 大 な り し こ と は,73
翁 の 今 日,記 憶 を新 に す る も の あ り」.こ の よ う に桂 田
は,揺
籃 時 代 の 岡 山 医 学 会 と医 学 会 雑 誌 に と っ て 最 大
の 功 労 者 で あ っ た,と い っ て も過 言 で は な い で あ ろ う.
98年(平
た 第9回
成10)の'8月,千
葉 の幕 張 メ ッセ で開 か れ
の 国 際 寄 生 虫 学 会 の 開 会 式 に 天 皇 ・皇 后 両 陛
下 が 臨 席 さ れ た.
「寄 生 虫 感 染 に よ っ て 起 こ る病 気 は 古 くか ら人 類 を
苦 しめ て 来 ま し た.我
が 国 に お い て も,寄 生 虫 に よ る
様 々 な 疾 患 が 知 ら れ て い ま した.命
寄 生 虫 症 と し て,地
に か か わ る重 大 な
域 社 会 に 悲 惨 な 状 況 をつ く り 出 し
た もの に 日本 住 血 吸 虫 症 が あ り ま す.こ
虫 と して,桂
の病 気 の病 原
田 富 士 郎 博 士 に よ り 日本 住 血 吸 虫 が 新 種
と し て 記 載 さ れ ま し た … 」.世 界 各 地 か ら700人 を超 え
る参 加 者 を 迎 え た 開 会 式 の 祝 辞 の 冒 頭 で,陛
下 はこの
よ うに 桂 田 の 業 績 をた た え るお 言 葉 を述 べ られ て い る21).
日本 住 血 吸 虫 の 虫 卵 は,中
図7 岡 山医学会 雑 誌
第173号
国 湖 南省 長 沙 の 馬王 堆 古
墳 で 発 掘 さ れ た 紀 元 前 の 女 性 遺 体 か ら も発 見 さ れ て い
る とい う.日 本 住 血 吸 虫 症(Schistosomiasis
japonica)
身 とい うハ ン デ ィ の 克服,東 大 以外 で は初 め て の病理
は,せ
学教 授 の 自覚 と責 任,さ
い る広 く 国 際 的 な 人 畜 共 通 の 疾 患(zoonosis)で
らに地 方 の研 究 者 で も東 京 や
ま い 地 域 の 風 土 病 で は な く,古 代 か ら 存 在 し て
京都 の 学 者 に遅 れ を と りた くな い,と い う負 け じ魂 と
撲 滅 へ の 道 は ま だ ま だ 遠 い.た
意 気 込 み が,の ち に校 長 との衝 突 に発 展 した もの と中
血 吸 虫 が 消 え 去 っ て も,桂
山は 推論 して い る15).
は な い で あ ろ う.
桂 田は 学 内 に あ っ て は,赴 任 翌 年 の91年 に 岡 山 医学
会 の 評議 員,95年
に会 誌 編 集 主 幹,97年 幹 事,98年
謝
に
と え世 界 中 か ら 日本 住
田富 士 郎 の名 は 消 え る こ と
辞
昨年11月 に貴重 な桂 田資料 が桂 田豊 幸氏 よ り岡大 医学 部 に寄
会 計 主 幹,ド イツ留 学 か ら帰 朝 後 の1903年 に は副 会 長
に推 され,会
あ り,
贈 され,資 料室 に展 示 され る こ とに な った.桂 田氏に深 甚 な謝
と会 誌 の発 展 の ため に尽 力 して 第一 人 者
岡
意 を捧 げ る とともに,桂 田富士 郎先 生 の顕彰 に当 たって ご指 導,
ご支援 をい ただ いた岡 田茂学 部長,中 山沃 名誉教 授,安 治敏 樹
山医 学会 総会 に お い て桂 田 は名 誉 会 長 に 推挙 され て お
講師,辻 守康広 大名 誉教 授,林 正 高先 生,横 川 み ど り様,本 田
に な って いた.退 職 して2年 後1916年(大
正5)の
尚武 同窓会 事務 局長 の各 位に感謝 す る.
り,『岡 山医 学会 五 十年 史 』19)の
明 治編 は桂 田がひ とりで
執 筆 した もの で あ る.会 と会 誌 創 刊 の 立役 者 で あ っ た
文
高 坂20)は,次 ぎの よ うに桂 田 の貢 献 を絶 賛 して い る.
1)
「余,業 を終 えて別 れ を本 会 に告 ぐるに先 立 ち,桂
献
森下
掘.
田富 士 郎 先 生 は 東 京大 学 病 理 学 教 室 よ り抜 きん 出 て,
石井
3)
小 田 晧 二:
幹 と研磨 に倦 む こ とな き学 識 は,会 長,幹 事 諸 氏 を輔
彰.
翼 して 日本 医 学 を我 が 岡 山 医学 会 に紹 介せ られ,本 会
日本 新 薬 株 式 会 社
2)
ア
第 三 高 等 中学校 医 学部 に赴 任 せ られ た.そ の 卓抜 せ 才
薫: あ る 医 学 史 の 周 辺
4)
明:
(2004)
5)
偉 大 な功 績 を想起 し,容 易 な らざ る 困難 に遭 遇 せ られ
た る を感 謝せ ず ん ば 非 ず.な お我 らが 当時,会 を組 織
6)
し会 誌 を刊 行 す るに至 りた るは,結 果 は 学術 上 は さ て
7
21 (1), 19-25.
日本 住 血 吸 虫 発 見100年
小 田 晧 二: 桂 田 富 士 郎.
(2004)
桂 田 富 士 郎:
(1904)
249-284.
日本 住 血 吸 虫 病 の 発 見 か ら100年. ミ ク ロ ス コ ピ
岡大 医学部 同 窓会報
事 新報
を盛 大 な ら しむ る と同 時 に,会 誌 に光 輝 を添 え られ た
(1972)
風 土 病 を 追 う人 と事 績 の 発
173,
桂 田 富 士 郎:
4176,
(2004)
一 桂 田富士 郎先 生 の顕
96, 58-67.
日本 住 血 吸 虫 発 見100年.
39-41;
4177,
日本 医
45-47.
山 梨 県 下 の 地 方 病 に 就 て. 岡 山 医 学 会 雑 誌
217-260.
日本 住 血 吸 虫 の 佐 賀 県 下 に 於 け る関 係 に就 て.
岡山医 学会雑 誌
7)
桂 田 富 士 郎:
確 定.
8)
東 京 医事新 誌
桂 田 富 士 郎:
(1904)
9)
100,
桂 田 富 士 郎:
(1904)
10)
F:
schli cher
nkheit
in
(1943).
311-326.
(1904)
1371,
13)
芸 備 医 事
14) 林
15) 中 山
岡 山 医学 会 雑 誌
Schistosomum
Zool
Jap
(2000).
沃: 開 講 記 念 一 岡 山病 理 学 事 始 め. 岡 大 医 学 部 病 理
学教室 開講 百 周年記 念誌
361-369.
verschiedenen
正 高: 寄 生 虫 との 百 年 戦 争 一 日本 住 血 吸 虫 症 ・撲 滅 へ
の 道. 毎 日新 聞 社
298-305.
durch
日本 住 血 吸 虫 発 見100年 特 集. 医 学 の あ ゆ み (2004) 208 (2),
73-97.
1442-1446.
日 本 住 血 吸 虫 病 の 本 態 に 就 て.
Parasit,
Annot
175,
日 本 住 血 吸 虫 論 補 遺 第 一.
176,
Katsurada
wird.
(1904)
山 梨 外 数 県 下 に 於 け る一 種 の 寄 生 虫 病 の 病 原
japonicum,
welchen
eine
Gegenden
ein neuer
endemische
Japans
(日 本 動 物 学 雑 誌)
menKran-
verursacht
(1904)
(1991)
岡山 医学会雑 誌
17) 岡 山 医 学 会 雑 誌 第1号.
岡 山医学会
18) 会 員 消 息. 岡 山 医 学 会 雑 誌
5 (3),
19) 岡 山 医 学 会 五 十 年 史.
147-160.
27-41.
16) 桂 田 富 士 郎 君 記 念 会.
(1904)
岡山 医学会
影 井
昇:
日 本 住 血 吸 虫 病 発 見100年.
日 本 医 事 新 報 (2004)
4189,
43-45.
12)
桂 田 博 士 学 界 奉 仕 第 五 十 周 年 記 念 会 会 誌.
(1995)
21) 辻
熱 帯 病 研 究 所
498.
171, 430.
岡大 医学部 同窓会報
79, 25-28.
守 康:
国 際 寄 生 虫 学 会 で の 天 皇 陛 下 の お 言 葉. 予 防 医
学事 業 中央会
8
246,
(1939).
20) 小 田 晧 二: 岡 山 医 学 会 と高 坂 駒 三 郎.
11)
(1910)
(1889).
予 防医学 ジ ャーナ ル
(2000)
360,
4-6.
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