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ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究

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ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究
ヒマラヤ学誌 No.11, 45-53, 2010
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究
石川元直 1)、山本直宗 1)、山中 学 1)、中嶋 俊 1)、宝蔵麗子 1)、
Tsering Norboo2)、Ri-Li Ge3)、坂本龍太 4)、奥宮清人 4)、
松林公蔵 5)、大塚邦明 1)
1)東京女子医科大学東医療センター内科
2)Ladakh Institute of Prevention, Leh, Ladakh
3)Research Center for High Altitude Medicine, Qinghai University, China
4)総合地球環境学研究所
5)京都大学東南アジア研究所
うつ病の有病率は地域や文化によって異なることが報告されているが、高所地域における有病率は
明らかではない。60 歳以上の地域在住のラダーク人 114 人(平均年齢 69.2 歳、女性 58.8%)
、青海省
玉樹のチベット民族 173 人(66.51 歳、女性 61.3%)を対象に、Patient Health Questionaire-2(PHQ-2)
と Geriatric Depression Scale-15(GDS)を用いてうつ病のスクリーニングを行った。スクリーニング陽
性の住民に対し専門医が構造化面接を行い、うつ病の有無を診断したところ、ラダークでは 1.8%、
青海省では 2.3%にうつ病がみられ、2 つの地域でうつ病の表現型は異なった。
背景
うつ病の有病率を評価した報告はない。そこで本
うつ病は高齢者に最も多くみられる精神疾患の
研究では、これらの地域に住む高齢者のうつ病に
一つであり、高齢者の Quality of Life に悪影響を
関する調査を行い、有病率の比較や文化によるう
与え 、身体疾患とあわせて障害の重篤度を増し
つ症状の違いを検討することを目的とする。
1)
ている 2)。さらに、高齢者うつ病は自殺や死亡の
予測因子であることも報告されており 3)、その有
対象と方法
病率を明らかにすることは重要な問題であると考
インドラダーク地方の郊外にあるドムカル村は
えられる。また、異なった地域や文化における高
チベット高原に隣接する高地にあり、インダス河
齢者うつ病の有病率に関する研究は、文化・生態
の支流に沿って標高 3000m から 3800m に位置す
学的な要因を明らかにするとともに、症状の表出
る人口 1500 人ほどの小さな村である。電気や水
の仕方に影響する要因を同定するために役に立つ
道がほとんど普及していない文明途上地域で、昔
ものである。
ながらの伝統的な生活をする人が多い。中国青海
これまで、高齢者うつ病の有病率に関する報告
省の玉樹は標高 3700m にある人口 27 万人の古く
が多くなされているが、有病率は 1 ~ 16%とば
からの交易都市で、市場には四川省からの野菜や
らつきが大きい 4~10)。また、アジア地域では欧米
物資が豊富に立ち並び、年々拡大している。どち
に比べて精神症状よりも身体症状の訴えが多く、
らの地域も住民のほとんどはチベット系民族であ
うつ病の有病率が低いという報告が多い 11~13)。し
り、敬虔なチベット仏教信者である。
かしこれらの違いが、実際の有病率の違いによる
私たちは 2009 年 7 ~ 8 月にこの地を訪問し、
ものなのか、調査方法の違いによるものなのか、
60 歳以上の地域住民のうち、本調査に同意が得
または病像の地域差によるものなのかはまだ明ら
られたボランティアを対象にして、ラダッキ 114
かになっていない。過酷な環境下である高所では
人(平均年齢 69.2 歳)、青海省玉樹のチベット民
慢性的な低酸素血症による症状が多く、うつ病の
族 173 人(平均年齢 66.5 歳)をリクルートした。
有病率が増加するとも考えられるが、高所住民で
地域住民におけるうつ病の早期発見は重要であ
e-mail: [email protected]
― 45 ―
ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究(石川元直ほか)
り、現在、the Patient Health Questionnaire(PHQ)14)
いえ」の単純な 30 項目の質問からなり、老年期
のような様々なうつ病スクリーニングツールが開
に起こりがちな身体的なうつ症状を含まないとい
発されている。感度と特異度が同等であれば、短
う特徴がある 18)。Sheikh と Yesavage は、30 項目
時間で済むツールの方が好まれる 15)。The two-
の中から過去の研究においてうつ症状と最も相関
item Patient Health Questionnaire(PHQ-2) と は
の高かった 15 項目を選抜して短縮版を作成した
PHQ の簡易版であり、高齢者のうつ病のスクリー
(GDS-15)19)。プライマリケアの現場では、高齢
ニングとして有用である。「物事に対してほとん
者に対して GDS-15 の感度は 79~100%、特異度は
ど興味がない、または楽しめない」と「気分が落
67~80%と言われている 20)。メタアナリシスでは
ち込む、憂うつになる、または絶望的な気持ちに
プライマリケアにおいて高齢者のうつ病の診断に
なる」という 2 つの項目に最近 2 週間どれくらい
は GDS-15 は GDS-30 よりも優れているという結
悩まされていますかという質問から成り、高齢者
果が出ている 21)。
に対して感度が非常に高いためスクリーニングに
参加者全員に対し、PHQ-2 と GDS-15(以下、
有用である 16)。私たちは 2 つの質問に対して重症
GDS)を用いてうつ病のスクリーニングを行った。
度によらず、「はい」であれば陽性とした。これ
PHQ-2 のいずれか、あるいは両方が「はい」で、
は Whooley らが PRIME-MD で用いている方法と
かつ GDS が 5 点以上であった住民を「うつ病の
同様である 17)。
疑いあり」と判断した。続いて、うつ病の疑いあ
高齢者に対するうつ病のスクリーニングとして
りと判断された住民に対して、スクリーニングの
は、the Geriatric Depression Scale(GDS)が広く用
スコアを知らない専門医が「精神疾患の診断・統
いられている。GDS はもともと「はい」か「い
計マニュアル第 4 版 Diagnostic and Statistical Manual
表 1. 参加者の特徴
表 1.参加者の特徴
P
ラダーク
青海省
114
173
女性 (%)
67 (58.8%)
106 (61.3%)
NS
年齢±SD
69.2±6.7
66.5±6.1
P=0.0004
PHQ-2 = 1 (%)
6 (5.3%)
30 (17.3%)
p=0.0031
PHQ-2 = 2 (%)
2 (1.7%)
34 (19.6%)
P<0.0001
5 ≦ GDS <10 (%)
86 (75.4%)
97 (56.1%)
P=0.0011
GDS ≧ 10 (%)
10 (8.8%)
18 (10.4%)
NS
PHQ-2≧1 かつ GDS≧5 (%)
17 (14.9%)
43 (24.9%)
P=0.0053
高血圧 (%)
60 (52.6%)
127 (73.4%)
P=0.0003
糖尿病(%)
9 (7.9%)
23 (13.4%)
NS
境界型糖尿病(%)
40 (35.1%)
59 (34.3%)
NS
チベット仏教 (%)
114(100%)
173(100%)
農業・牧畜業 (%)
52 (38.5%)
33 (18.3%)
P<0.0001
主婦 (%)
55 (48.9%)
61 (37.8%)
P=0.0365
その他 (%)
7 (12.6%)
24 (10.4%)
NS
無職 (%)
0
55 (33.5%)
P<0.0001
2(1.8%)
4(2.3%)
NS
人数
質問紙表
疾患別
宗教
仕事
うつ病 (%)
PHQ-2=The two-item Patient Health Questionnaire, GDS= The Geriatric Depression
Scale
表 2. スクリーニング陽性であった住民の内訳
うつ病(+)
― 46
―
人数
ラダーク/ 青海省
うつ病(-)
6
47
2/4
8/39
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
of Mental Disorders, Forth Edition: DSM- Ⅳ 22)」 を 用
(52.6%)
、青海省で 127 例(73.4%)に高血圧を
いた構造化面接を行い、大うつ病の有無を診断し
認めた。大うつ病と診断した症例のなかでは、ラ
た。この方法は質問紙表の簡便さと構造化面接の
ダークでは 3 例中 2 例に、青海省では 4 例中 3 例
正確さの両者の長所を生かしたデザインである。
に高血圧症の合併があった。
他にも、参加者に対して、病気の既往歴などの
同様に、糖尿病はラダークで 9 例(7.9%)、青
健康状態、運動習慣、喫煙、飲酒、食事などの生
海省で 23 例(13.4%)いたが、大うつ病と診断
活習慣、婚姻状況、学歴などの社会的な状況に関
した症例のなかではラダークでは 0 例、青海省で
するアンケートに加えて、身長、体重、血圧の測
は 4 例中 1 例であった。
定や血液検査を行った。
年齢と PHQ-2 あるいは GDS にはラダーク、青
海省どちらも相関はみられなかった。
結果
以下、大うつ病性障害と診断した症例を 3 例報
表 1. 参加者の特徴
参加者の平均年齢はラダークで 69.2 ± 6.7 歳、
ラダーク
告する。
114
人数
173
症例 1.ラダーク在住 60 歳女性
以上陽性はラダークで 7.0%、青海省で 36.9%、
女性 (%)
P
青海省
青海省で 66.5 ± 6.1 歳であった。PHQ-2 の 1 項目
67 (58.8%)
106 (61.3%)
GDS5 点 以 上 は ラ 年齢±
ダーS
クD で 84.2 %、 青 海 省69で
【主訴】易疲労感
.2±6.7
66.5±6.1
66.5%であった。そのうち、
質問紙表 PHQ1 項目以上で陽性、
NS
P=0.0004
【既往歴】数年前に高血圧を指摘されたことがあ
か つ GDS5 点 以 上 の 住 PHQ-2
民 は、
ダ ー ク で 9 6例
=ラ
1 (%)
(5.3%) るが、治療は行っていない。
30 (17.3%)
p=0.0031
(7.9%)
、青海省で 43 例(24.9%)であった。特
年前に父が病死し、その
10 日後に夫
PHQ-2 = 2 (%)
2 (1.7%)【現病歴】1
34 (19.6%)
P<0.0001
徴を表 2 に示す。
5 ≦ GDS <10 (%)
86 (75.4%)が突然死。以降、上記症状が持続している。農業
97 (56.1%)
P=0.0011
GDS ≧ 10 (%)
10 (8.8%) ができなくなり、自宅の坂を登るのが辛くなった
18 (10.4%)
NS
スクリーニングで「うつ病の疑いあり」と判断
PHQ-2≧1 かつ GDS≧5 (%)
17 (14.9%)ため自宅に引きこもりがちになった。
43 (24.9%)
P=0.0053
されたこれらの住民に対して専門医が面接したと
疾患別
ころ、DSM- Ⅳの大うつ病性障害の診断基準を満
【生活歴】ドムカル村で生まれ、婿をもらい、村
高血圧 (%)
60 (52.6%)
127 (73.4%)
糖尿病(%)
9 (7.9%)
23 (13.4%)
NS
境界型糖尿病(%)
40 (35.1%)
59 (34.3%)
NS
P=0.0003
たしたのは、ラダークで 2 人(1.8%)、青海省で
を出たことはほとんどない。嫁と孫の 3 人暮らし。
は 4 人(2.3 %) で あ り、 全 例 が 女 性 で あ っ た。
家事は料理のみ何とかできている。自給自足の生
伝統的な生活をしているラダークと近代化の進ん
活で、貧しい生活をしているが困ってはいない。
宗教
でいる青海省の間にはうつ病の有意差は認めな
チベット仏教 (%)
114(100%)毎日のお祈りの時間が最も幸せと感じている。
173(100%)
かった。抗うつ薬などの薬物療法を受けている人
仕事
【 現 症 】 身 長 158cm、 体 重 66kg、BMI 26.4、BP
はどちらにも一人もいなかった。
mmHg、ECG:
W.N.L.
農業・牧畜業 (%)
52 (38.5%)168/11833
(18.3%)
P<0.0001
主婦
(%)
55 (48.9%)表情は暗く、声量は小さい。身体所見では特記事
61 (37.8%)
P=0.0365
GDS の項目ごとに検討した結果が表 3 である。
(%)
(12.6%) 項なし。PHQ-2
24 (10.4%) はどちらも陽性で、GDS11
NS
GDS の平均はラダークで その他
4.8 点、青海省で
5.47点
点と
無職 (%)
0
であり、項目によっては陽性率が大きく異なるも
のもあった。
うつ病 (%)
2(1.8%)
55 (33.5%)
P<0.0001
高値。面接では興味の喪失、抑うつ気分、易疲労
4(2.3%)
NS
感、精神運動性の制止、希死念慮を認めたため大
PHQ-2=The two-item Patient Health Questionnaire, GDS= The Geriatric Depression
身 体 疾 患 ご と の 解 析 で は、 ラ ダ ー ク で 60 例
Scale
うつ病と診断した。解釈モデルは「血圧が高いの
表 2.スクリーニング陽性であった住民の内訳
表 2. スクリーニング陽性であった住民の内訳
うつ病(+)
人数
ラダーク/ 青海省
うつ病(-)
6
47
2/4
8/39
女性 (%)
6 (100)
33 (70.2)
年齢±SD
66.2±8.2
66.6±6.0
高血圧 (%)
4 (66.7)
32 (68.1)
糖尿病あるいは境界型 (%)
2 (33.3)
24 (51.0)
疾患別
― 47 ―
ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究(石川元直ほか)
表 3.GDS の項目ごとの陽性率(%)
表 3. GDS の項目ごとの陽性率(%)
ラダーク
青海省
Q1. Are you basically satisfied with your work? (No)
9.6
13.3
Q2. Have you dropped many of your activities and interests?
24.6
21.9
(Yes)
Q3. Do you feel your life is empty? (Yes)
22. 8
2 4.8
Q4. Do you often get bored? (Yes)
50.9
27.6
Q5. Are you in good spirits most of the time? (No)
13.2
63.8
Q6. Are you afraid that something bad is going to happen to
65.8
57.1
Q7. Do you feel happy most of the time? (No)
7.0
39.0
Q8. Do you often feel helpless? (Yes)
26.3
27.6
Q9. Do you prefer to stay at home, rather than going out and
61.4
44.8
50.9
72.4
you? (Yes)
doing new things? (Yes)
Q10. Do you feel you have more problems with memory than
past? (Yes)
Q11. Do you think it is wonderful to be alive now? (No)
0
9.5
Q12.Do you feel pretty worthless the way you are now? (Yes)
53.5
8.6
Q13. Do you feel fill of energy? (No)
19.3
62.9
Q14. Do you feel that your situation is hopeless? (Yes)
5.3
22.9
Q15. Do you think that most people are better off than you
70.2
45.7
6.2±2.6
5.4±2.8
are? (Yes)
Mean±SD (point)
で疲れやすい」であり、うつ病という概念を全く
もっていなかった。
来年までに借金を返せなければ今住んでいる家を
出なくてはならないが、返済の目途は全くない。
【 現 症 】 身 長 161cm、 体 重 99kg、BMI38.2、BP
症例 2.青海省在住 60 歳女性
194/116 mmHg、ECG: W.N.L.、空腹時血糖 141mg/
【主訴】易疲労感
dl、糖負荷 2 時間後血糖 251mg/dl
【既往歴】高血圧、糖尿病に対し薬物療法中
表情は暗く、動作は緩慢。高度肥満がある以外は
【現病歴】5 年前に母、2 年前に夫と娘、1 年前に
身体所見上、特記事項なし。PHQ-2 はどちらも陽
父と息子が病死。それ以降無気力、易疲労感が続
性で、GDS10 点。ほとんど毎日の興味の喪失・
いており、数か月前から不眠も出現した。多額の
抑うつ気分・不眠・食欲減退・易疲労感・集中力
借金があり、将来が不安で毎日泣いてばかりいる。
の低下を認めたため大うつ病と診断した。
【生活歴】もともとは南京で遊牧民をしていたが、
玉樹で生活していた息子が亡くなってから息子の
症例 3.青海省在住 60 歳女性
家に引っ越し、現在は息子の子供 3 人と 4 人で生
【主訴】不眠、易疲労感
活している。嫁は、息子の死後、出家した。息子
【既往歴】1 年前に脳梗塞で右不全片麻痺、変形
は生前、腎不全を患っており、治療費として多額
性膝関節症
の借金を抱えていた。羊を売って半分まで返済し
【現病歴】1 年前に脳梗塞を発症し、後遺症とし
たが、去年の大雪で飼っていた羊が全部死亡。収
て右不全片麻痺があるため家事を思うようにでき
入は政府からの 3 か月ごとのわずかな補助のみで
なくなった。15 歳の三男はインターネットばか
ある。孫 3 人の学費に充てるのが精一杯で、食事
りしており、最近入試に落ちた。勉強するように
はほとんど毎食ツァンパ(大麦の粉)のみである。
言っても言うことを聞かないことをストレスに感
― 48 ―
ヒマラヤ学誌 No.11 2010
じている。さらに別れた夫の新しい妻から再三に
ため、単独ではなく、包括的な診断プロセスの一
わたる無言電話などの嫌がらせを受けており、最
部として使用すべきであると言われている 16)が、
近は涙を流すことが多い。
今回の私たちの調査でも同様のことが言える。
【生活歴】夫と 5 人の子供たちと遊牧民の生活を
また GDS を用いた他の報告ではカットオフを
していたが、13 年前に離婚。離婚後は長男が玉
5~8 点にすることが多いが、本調査ではカットオ
樹に家を購入してくれ、下の 2 人の子供たちと 3
フを 10 点にしてもなおラダークでは 8.8%、青海
人暮らし。長男からの仕送りで生計を立てている。
省では 10.4%の高い陽性率となった。GDS が高
【 現 症 】 身 長 157cm、 体 重 71kg、BMI28.8、BP
値となった理由を明らかにするために項目ごとの
123/77 mmHg、ECG: W.N.L.、空腹時血糖 101mg/
陽性率を詳しく見ていくと、必ずしも抑うつ症状
dl、糖負荷 2 時間後血糖 149mg/dl
を表していない質問がある可能性がある。例えば、
表情は暗く、診察中ずっと涙を流している。右不
GDS の質問票に含まれる「Do you often get bored?」
全片麻痺があるが、杖を用いて ADL は自立して
「Do you prefer to stay at home, rather than going out
いる。PHQ-2 はどちらも陽性で、GDS10 点。ほ
and doing new things?」といった質問はラダークで
とんど毎日の興味の喪失・無気力・不眠・食欲減
陽性率が高い。これはラダークでは一日の大半を
退・易疲労感・精神運動性の制止・希死念慮を認
農業やお祈りで過ごしており、外出する機会があ
めたため大うつ病と診断した。
まりないためと考えられた。
GDS は、もともと英語で作られたものであり、
考察
いろいろな言語で有用だと報告があるものの、チ
今回、私たちは質問紙表を用いてスクリーニン
ベット民族を対象にした調査は、調べ得た限り報
グを行い、うつ病の疑いがある住民に対して専門
告はない。うつ病のスクリーニングツールを非英
医が面接した。この結果、PHQ-2 の 1 項目以上陽
語圏で使用したときには文化的要因による影響を
性はラダークで 7.0%、青海省で 36.9%であり、
受けると言われており 26)、チベット民族に対しこ
GDS のカットオフを 5 点としたところ、陽性と
れらを単独でうつ病の有病率の調査に使用する際
な っ た の は ラ ダ ー ク で は 84.2 %、 青 海 省 で は
は注意が必要であると考えられる。
66.5%であった。DSM- Ⅳに従って大うつ病性障
今回の結果において抑うつの頻度は、地域在住
害と診断したのは、ラダークで 3 例、青海省で 4
の高齢者を対象とした他地域での報告よりも少な
例であり、全例女性であった。
く、全例が女性であった。他地域では女性は男性
DSM- Ⅳによれば、うつ病の地域における生涯
よりもうつ病の有病率が高いと報告されており、
有病率は、女性で 10~25%、男性で 5~12%、時点
ラダーク、青海省でも同様であった。また、有病
有病率は女性で 5~9%、男性で 2~3%であると報
率に関しては、アジア地域では欧米に比べてうつ
告されている 22)。高齢者に関してもたくさんの報
病の有病率が低いという報告が多く、私たちの結
告があり、リスクファクターとして貧困者、女性、
果も同様であった。うつ病と文化の問題はあまり
慢性身体疾患、認知症、無職者、社会的孤独など
にも大きく、そのデータも様々で統一した見解を
が明らかになってきている
。しかし地域ごと
示すことは容易ではないが、抑うつ気分の表現パ
の有病率に関してばらつきが大きい。質問紙表単
ターンとうつ症状との関連は人種や民族によって
独でうつ症状の有病率を報告したものもあれば、
影 響 を 受 け て い る こ と が 指 摘 さ れ て い る 27)。
専門医による構造化面接による正確な調査を行っ
Evans と Mottoram28)は、社会・文化的な違いを無
たものもあり、この調査方法の違いが有病率の差
視することは誤った診断をもたらすおそれがある
につながっている可能性がある。今回私どもの検
ため、臨床家は自分と異なった人種の患者を診断
討でも PHQ-2 と GDS を用いた検討で抑うつの陽
する際には、その患者の文化的背景に基づいて症
性率は大きく異なり、調査方法の違いが有病率の
状を診ることが必要であると述べている。
バラツキに大きく影響していることが窺われる。
うつ病発症の原因として近親者との死別が多
PHQ-2 は高齢者では感度 100%、特異度 77%であ
かったが、青海省では生活苦や家族の不和、子供
りスクリーニングに有用であるが、偽陽性が高い
の進路に関する悩みなど近代化に起因すると思わ
23~25)
― 49 ―
ラダーク・青海省高地住民におけるうつ病研究(石川元直ほか)
れるものもあった。近代化とうつ病、あるいは西
る大うつ病性障害の頻度は一般人口の約 2 倍であ
欧化とうつ病の関係を論じた報告もあるが、今回
り 36)、両者が合併すると死亡率が上昇すると指摘
の私たちの調査では、伝統的な生活をしているラ
されている 37~40)。大うつ病と診断した症例のうち、
ダークと、近代化の進んだ青海省との間にはうつ
ラダークでは 3 例中 0 例に、青海省では 4 例中 2
病の有病率に有意差を認めなかった。近代化ある
例に糖尿病、あるいは境界型の合併があった。症
いは西欧化が理由でないとするならば、チベット
例数が少ないため結論づけるには至らなかった
民族の文化的特性を考えなければならないであろ
が、今後症例数を増やして、うつ病と高血圧、う
う。西欧では近年、家族の結びつき、共同体の結
つ病と糖尿病の関連性を調べていく必要がある。
びつきは薄くなりつつあり、それがうつ病の増加
本研究にはいくつかの問題点がある。一つは、
の一因となっている可能性がある。しかしチベッ
う つ 病 の 有 病 率 が 低 い 原 因 と し て、GDS と
ト民族は家族を中心とする結びつきは極めて強
PHQ-2 を用いたスクリーニングではうつ病の住民
く、そのような強い対人ネットワークがうつ病の
を十分に拾い上げられなかった可能性がある。
発生を抑えているのかもしれない。
GDS も PHQ-2 も英語で作られたものであり、先
宗教とうつ病の関係を論じた報告は少ないが、
述のように非英語圏の国で使用された場合、文化
宗教に対する信仰心が深いと気分障害になりにく
的要因による影響を受けると考えられる。二つ目
いという報告がある 29)。今回の対象者は全員敬虔
は、ランダムサンプリングではなく、ボランティ
なチベット仏教信者であり、
「どんなときに幸せ
アで参加者を募ったため、うつ病の高齢者が研究
だと感じますか」という問いには、過半数が「お
調査に参加しなかった可能性があり、参加率につ
祈りをしているとき」と回答している。信仰心が
いての検討が必要である。三つ目として、サンプ
うつ病の発症に抑制的に働いている可能性が示唆
ル数が少ないため、今回の結果がラダークあるい
されるが、今後他の宗教と比較することが必要で
は青海省全体のうつ病の有病率をあらわしている
ある。
とは言えず、今後大規模な調査が望まれる。四つ
ほとんどのうつ病患者は、うつ病の精神症状を
目として、本稿では大うつ病の有病率が低いこと
身体疾患に起因すると考えていた。ラダーク、青
を示したが、minor depression のような閾値下のう
海省に共通する特徴として、うつ病を絶望や意気
つ病障害については検討していない。
消沈と表現することが少なく、「考えすぎる」と
表現することが多かった。参加者のなかでうつ病
結語
について知っている人は皆無であり、住民のみな
抑うつの症状は文化によって異なった表現があ
らず、地元の医療者もうつ病の正しい知識をもっ
り、文化的背景を考慮したスクリーニングツール
ている人は少なかった。Lai ら 30,31) は、中国漢民
の利用および診断が必要である。
族のコミュニティーではうつ病患者は身体症状の
みを訴え、精神症状を訴えることはほとんどなく、
参考文献
さらに、多くの人がうつ病を治癒可能な疾患だと
1)
Unutzer J, Katon w, Callahan CM, et al.
は思っていないと報告しているが、私たちが調べ
Collaborative care management of late-life
depression in the primary care setting. JAMA
た地域でも同様の傾向があると言える。
近年、高血圧とうつ病の関連を指摘する報告は
2002;288:2836-2845
多く、うつ病患者は高血圧の発症リスクが 2~3 倍
2)
Penninx BW, Deeg DJ, van Eijk JT, et al. Changes
上昇すること 32~34) や、収縮期高血圧患者を対象
in depression and physical decline in older adults;
A longitudinal perspective. J Afect Disord
にした試験において、うつ病のある高血圧患者の
心不全の発症リスクは、うつ病のない高血圧患者
2000;61:1-12
に比べ 2.5 倍以上高いことが示されている 35)。今
3) Baldwin RC, Chiu E, Katona C, et al. Guidelines
回の調査では大うつ病と診断した症例のうち、ラ
on depression in older people; Practicing the
ダークでは 3 例中 2 例に、青海省では 4 例中 3 例
evidence. Martin Dunts, London (2002)
に高血圧の合併があった。同様に、糖尿病におけ
4)
Bland RC, Orm H, Newman SC. Lifetime
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ヒマラヤ学誌 No.11 2010
Summary
Depression among Community-dwelling Elderly People
in the High-altitude Regions of Ladakh and Qinghai
1)
1)
1)
1)
Motonao Ishikawa , Naomune Yamamoto , Gaku Yamanaka , Shun Nakajima ,
1)
2)
3)
4)
Reiko Hozo , Tsering Norboo , Ri-Li Ge ,Ryota Sakamoto ,
4)
5)
1)
Kiyohito Okumiya , Kozo Matsubayashi , Kuniaki Otsuka
,
1)Department of Medicine, Tokyo Women s Medical University, Medical Center East, Tokyo
2)Ladakh Institute of Prevention, Leh, Ladakh
3)Research Center for High Altitude Medicine, Qinghai University, China
4)Research Institute for Humanity and Nature, Kyoto
5)Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University, Kyoto
To determine the prevalence of depression in the high-altitude regions of Ladakh and Qinghai, we recruited 114
Tibetan subjects from Ladakh, India (mean age, 69.2 years; female-male ratio, 58.8%) and 173 Tibetan subjects
from Qinghai, China (66.5 years; 61.3%). The two-item Patient Health Questionnaire (PHQ-2) and the Geriatric
Depression Scale (GDS) were administered to the subjects. A psychiatrist interviewed the residents with a single or
double positive score in PHQ-2 and with a score of ≧ 5 points on the GDS. The prevalence of depression over 60
years old was 2.6% in Ladakh and 2.3% in Qinghai. There were differences in expression of the symptoms of
depression according to the culture.
― 53 ―
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