Comments
Description
Transcript
ミグエル・ルビオ 「アンデスの人々との出会い」1)
ミグエル・ルビオ 「アンデスの人々との出会い」 1) Miguel Rubio, «Encuentro con el Hombre Andino» (1983) 1973 年のことだ。私たちはセーロ・デ・パスコ銅山 これは私たちにとってほんとうに貴重な出会いであっ (現在のペルー鋼業中央公社)の国有化闘争を題材にし た。このときから私たちはその地域の歌を、中央部高地 た第一作「銅の拳」を携えて巡演の旅をおこなっていた。 の音楽を学び始めた。必然的に、いろいろな地域音楽の ペルー中央部の鉱山労働者集住地域を、私たちはほとん オムニバスになってしまうのだが。 ど隈なく歩いてこの作品を上演していたのだ。作品のコ こうして鉱山地帯の女性委員会が開催する祭りの中 ンセプトは、サンパウロ・テアトロ・アリーナの演出家 で、私たちははじめてワイラ、パサカジェ、ワイノの アウグスト・ボアールの、いわゆるジョーカーのシステ 数々を習い始めることになった。そう、焼酎とビールの ムに強く影響されたもので、俳優の装束は地味なシャッ 杯を交わしながら。なんとも複雑なアンデスの人々の心 ツとジーンズの青ズボンという特徴のないもの、芝居の のありようを、私たちはそのようにしてはじめて感じ理 その時々の必要に応じてどのような登場人物にでもなり 解するようになったのだ。 変わるという考え方に立つものだった。なにしろ生まれ このようにして私たちの前にまったく新しい視野が開 たばかりの劇団で民衆演劇の伝統にも疎く、辿るべき道 けていったのだが、それは思考の糸を辿ってというより は五里霧中だった。私たちはほとんどゼロから歩み始め も、観衆と経験を共有することを通して得られたもので たようなもので、ペルーで演劇に取り組みだした当時の あった。かくしてアンデスの鉱山労働者とそのたたかい 世代はこの点では大同小異の状態だった。今においてす のお蔭で私たちはこの地域の複雑な文化伝承をそのまま ら尚、その経験は未整理であり、私たちの演劇的記憶と の形で新たな演劇的企図の中に組み込む試みを開始し して集積化しているとは言い難い。 た。そこにおいてはたんに何を言うかではなく、それを アルパミナの労働者集住地域でのことだ。「銅の拳」 どう言うかが重要なのであって、そのことによってこ の上演が終わって鉱夫たちとのアフタートークに入った そ、私たちの演劇は真に民衆的な演劇として認知されう ときに、ある労働者が私たちにこう言うのだ。「同志諸 るものとなるのである。 君、君たちの芝居はとてもよかった。ただし衣装を忘れ てきたのは残念だったよな」。もちろん、私たちは何も 忘れていたわけではない。演劇の新しいやり方を提案し 社会的コンテクストと最初の証言 劇団の仲間内ではいつも言われていることなのだが、 ているつもりだった。欠けていたのは、どうやら衣装で 民衆運動との密接なかかわりの中で進められてきた私た はないようだ。彼らが私たちに言わんとしていたのは、 ちの 8 年間の活動は、『アルパ・ライク』という作品に お前さんたちは観衆を忘れているぞ、ということだった よって代表されていると思われるのだ。農民の暮らしを のだ。私たちがターゲットにしているはずの、その観衆 劇化することになった最初のきっかけは、1974 年 7 月、 を、だ。私たちは鉱山労働者の芸術表現のありようを視 ペルー農民評議会(Confederacion Campesina del Peru 野に入れてはいなかった。―それだけではない。当時 略称 CCP)の末端組織である農民地域連合 FEPCA(La の私たちは知らなかったのだが―彼らは農村の出身 Federacion Provincial de Campesinos)がアンダワイラ であり、村の豊饒な文化伝統の保持者たちだったのだ。 スでおこなった闘争宣言である。1969 年に法律化され まったくご尤もな話であった。彼らについての芝居だと た土地改革が一向に進捗しないことに痺れをきらした農 いうのに、歌はない、女たちの衣装もない、というので 民たちが、実力で土地を奪還し、地主を追放するという はそもそもイメージの立てようがないではないか。出身 方針を打ち出したのである。この運動が起点となって 地の村の衣装が、女たちにとって村を離れた今もどんな 待ったなしの土地占拠闘争が新たな高揚を開始するのだ にか誇り高い宝物であることか。―おまけに物語の語 が、それは自らの悲惨と被抑圧状況、前資本主義的土地 り手の登場人物がいない。踊り手もいない。 所有関係、農村の停滞と貧困に対して農民自身が投げて 1)[訳注]翻訳にあたっては、以下を底本とした。 1983, pp. 8-22. , Grupo cultural Yuyachkani, ― 11 ― 返した回答であったのだ。アンダワイラスの農民たちは 農地改革のご都合主義的な性格と限界性を、あたかも患 部に指を当てるかのように暴いて見せたのだ。 農業を発展させ、この国の政治と経済を抑圧的で時代 peras pispischay」の歌詞を教えてくれたのである。 アルパ・ライク 長い懐胎、そして生誕 1975 年、CCP がアンダワヤラス農民の「連帯の集い」 遅れなものにしてきた諸条件に終止符を打つために、ア を計画したので、それに備えて、私たちはダンスの振 ンデス農民たちは彼ら独自のやり方を採用して行動にの り付けをおこなった。「プカポンチョ」が語ってくれた り出したのである。目標は地主所有地の全面的な再分割 話をベースに、そして彼が教えてくれたペラス・ピス であった。闘争は非常に大規模なものになり― 5 万 ピチャイ peras pispischay の歌と音楽を使った踊りであ 人以上の農民が土地占拠実行部隊の下に結集した―そ る。私たちはさらに二つのシーンを追加した。「土地収 のため弾圧にもある程度の歯止めがかけられていた。農 用」と「人民裁判」の場面である。さまざまな農村地帯 民代表と当局側が署名して締結されたトサマ・ワンカワ で、あるいはリマの、チンボテの、イーカの、その他の チョ覚書によって、土地収用を頭から否定することはで いくつかの都市の労働者やバリオ住民の前で、私たちは きなかったのだ。 この短い劇を上演することになった。CCP の諸行事も 私たちがリノ・キンタニーリャを知ったのは、この頃 また、私たちの重要な活動の機会となった。1974 年の である。FEPCA の総書記で、全力投球で土地占拠闘争 年次大会(テレブランカ、ワラール、マーヨ)、第 2 回 をたたかっていた。何も知らない私たちに彼は農民のた 臨時大会(1975 年 7 月、ケレコティーリョ、ピウラ)、 たかいの鳥瞰図を教え、彼らの経験を語ってくれた。そ 第 5 回年次大会(1978 年、アンタパンパ、クスコ)な れぞれの占拠地に設けられた娯楽委員会について語って どである。CCP は一切の関連資料を私たちに開示して くれたのも、彼だった。農民の士気の高揚、ふんだんに くれたし、私たちの方も、あらゆる関連情報を貪欲に探 湧出する創造的エネルギーに水路を提供する組織であ 索した。何といっても大きな刺激になったのは農民たち る。接収されたどのアシエンダにも闘争歌や小唄があっ の催し物で、目を見張るような農民の生活文化の実相を た。多くは集団で創作されたものだ。リノは何度も手紙 私たちはこの眼で確かめることができたのである。 をくれ、また歌ってもくれた。私たちはそれを録音さえ この最初の農村巡演を通して、私たちの目に観衆との もした。彼は私たちに実に多くのことを教えてくれたの 新しい関係の形が見えてくるようになった。観衆のアク だが、そこには思わず聞き耳を立てたくなるような事実 ティブな参加は作品形成の過程でも重要な要素となって も含まれていた。土地を求める農民のたたかいは彼らの いたのだが、上演の場でも、これが自ずと表面化するの 文化的創造性の解放をも意味するものであり、農民の芸 だ。観衆がスペクタクルを自分のものにしていくと、そ 術表現は闘争を通して新たに甦ったというのである。娯 の観衆の力で、私たちの芝居がつくりかえられていくの 楽委員会の活動はその何よりもの証拠である。 だ。私たちはこの間の長いプロセスを通して、そのこと リノが後にカトリック大学でおこなった講演はホセ・ を痛感するようになった。だからためらうことなく、私 マリア・アルゲダス記念民衆文化研究グループによって たちは言い切ることができる。この作品は観衆との密接 出版され、これも後々、私たちの大事な研究資料となっ な関係の中で成長し、つくりかえられた作品なのだ、と。 た。彼の明解で含蓄豊かな語りはアンダワイラスの出 1978 年、ゴーリキー原作、ブレヒト演出の『母』と 来事の深い部分に私たちを導いてくれるものであった。 『アルパ・ライク』はいくつかの部分において、この証 言をほとんどそのまま摂り込んでいる。 いくつかの短い音楽劇を上演した後であったが、土地占 拠闘争が全国的に広がっている情況に鑑みて、私たちは アンダワイラスの主題にもう一度立ち返ることにしたの やはりその後のことになるが、クスコへの巡演の途 次、私たちはアンダワイラスのたたかいに参加した氏 である。アンダワイラスの闘争は、クスコ、プーノ、ピ ウラ、ランバイェッケに飛び火していた。 名不詳のひとりの男と識り合った。名前が分からない 私たちはもう一度アンダワイラスに立ち返り、この闘 ので、私たちは勝手にプカポンチョと呼んでいたのだ 争を見直したいと思った。アンダワイラスの闘争は過去 が、このプカポンチョの証言がベースになって私たちの 15 年間の大衆運動の中でも、もっとも重要なものとし 踊りの粗筋が出来上がっていった。『アンダワイラスの て語り草になっていた。私たちはその後の運動の発展に 径を通って』がそれだ。この男は私たちに、アンダワイ 思いを巡らしながら、彼らの日々の暮らしとたたかいを ラスで警察と衝突したときに死んだ僚友モイーセス・ア 都市の人々に知ってもらうための、もっと大がかりな作 ルセ・リャクタについて、そしてそのモイセスが伝統的 品をつくりたいと考えたのである。より大きなスペクタ な踊り唱法に合わせてつくった「ペラス・ピスピチャイ クルの形で村の人々の思いを伝えようとしたのだが、そ ― 12 ― の一方で、アンダワイラスの芝居を下敷きにしてその後 の捕囚と死を主題にした同種の催し物もいろいろな村で の舞台成果をもう少し活用したいという下心が働いてい おこなわれていることだ。 た。こうしてわが劇団初の本格的劇作品『アルパ・ライ ク』が誕生したのである。 こうした演劇表現を「専門家」たちが演劇と呼びたが らないとしても、そんなことを気にする必要はない。た しかなことは集団的な参加とコミュニケーションが実際 劇作の問題 におこなわれているということであり、それこそがまさ 今でこそ、私たちは経験を通して思い知らされてい に演劇ということの意味なのだ。 る。一回一回の作品制作、そのときどきの企図やアイ こうした省察のすべては、『アルパ・ライク』の創作 ディアがそれぞれに新たな創造の過程になるのであっ にとりくむ確かな心証を私たちに与えてくれた。私たち て、これはという一本道の方法など、あるべくもないの が知らずにすごしてきた自分たちの文化の富に立脚する だ、と。テーマへの迫り方にもさまざまな道筋がありう ことで、ドラマトゥルギーの新しい形をつくり出すこと るし、最初の構想段階だけでなく、後々の展開過程にお ができるに相違ない。私たちは今ではそう考えることが いても、多種多様な要因が影響を及ぼすのだ。そしてそ できるようになっていた。 れが最初の仮説の再検討を迫ることになる。こうしたこ とを踏まえて私たちの『アルパ・ライク』の経験を再検 証したいと思う。 俳優たちの仕事 農民たちの状況をあたまで知るだけでは駄目なのだと 私たちが最初に直面したのはドラマトゥルギーの問題 いうことを、俳優たちは制作の過程で思い知らされてい であった。―私たちはおそらく、この問題をいまだに た。個々の闘争に直面した際の彼の社会意識を理解しな 解決してはいない。演劇、音楽、ダンス、詩を、一つの ければならないのだ。知的な理解は出発点としては大事 作品の中に統合するにはどうしたらよいのか! 蓄積さ かもしれないが、それを表現するとなれば彼の感性の世 れた素材は膨大で、それを出たとこ勝負に重ね合せて 界、日々の生活に触れることがどうしても必要になる。 も、どうにもサマにならない。物語も単一ではなく、語 これはなかなかに厳しい挑戦だった。一方では農民に対 りたい物語が錯綜しているのだ。その一方で、私たちに して投げかけられるステレオタイプな眼差し、つねに彼 は文学的演劇伝統という相変わらずの観念が付きまとっ らを野蛮視して蔑みの対象とする皮相な偏見を打ち破ら ていた。「戯曲」に特権的な地位を与えて、他の諸テク なければならなかったし、他方で図式的な讃美や英雄化 スト、ダンス、音楽、身体表現、視覚表現などを従と観 を斥けなければならなかった。農民の心の深層に対する る常識だ。 無知という点では、両極端は見事に一致していたので 私たちは実践を通して、そして手持ちの材料の豊饒さ ある。 を前にして、何がなんでも文学的テクストをスペクタク 手はじめに必要になったのはアンデス音楽、ダンスと ルの規定的なコードにしてしまうやり方に疑いをもつよ リズムの習得で、身体的な所作のありようを追求する上 うになった。もっと別な演劇の「書き方」だってあるは で、それは決定的に重要だった。即興演技では自分たち ずだと思った。私たちの手許には楽器があった。ダンス の都会風の立ち居振る舞いを脱臼し、―それは身体だ があり、歌があり、旗があり、さまざまなシンボルが けでなく、言語と思想の脱臼をも意味している―アン あった。アンデス世界の中でのその意味合いは私たちに デスの宇宙に自己を沈潜させることが目指されていた。 は分からなかったが、それは私たちに何ごとかを語りか 何とかかんとか最低限のリズムと音楽を習得した次の段 けていた。いくつかの地方で私たちが見た魔術は、音楽、 階で、私たちは登場人物を造型し、その行為の概略を想 ダンス、物語と、コミュニティの全員が参加してとりお 像する作業に入った。 こなう民衆の祭りとが一体化した、きわめて演劇性の高 こうした作業は現地の農民との直接的な接触と並行し い表現であることが見て取れた。たとえばワンカヨのコ ておこなわれた。農民の行事に参加し、また後期は演技 ロシアムでおこなわれたショーでは、あるハウヒーノの 中や演技後に彼らの意見を聞く機会をつくった。観衆と 集団が交互に声をかけ合って「アヴェリーノたち」とい の関係はこのように密接不離なものであったから、私た う名のダンスと劇、チリ戦争の一幕を伝えるアンデスの ちは作品を完成されたもの、こちらが一方的に投げかけ 物語を披露するのだ。私たちがそのときに見た「アヴェ るものとしてではなく、不断に修正に付されるものとし リーノたち」とは、チリ軍占領下のアンデスで、アヴェ て提起することになった。 リーノ・カサーレスを指導者にして敵と戦った農民軍の この一連の経験から明らかになったことは、新しい演 アレゴリーだった。さらに思い当たるのは、アタワルパ 劇の要件を満たす新しい俳優の養成が必要であること、 ― 13 ― とはいえその準備が私たちにはまったく欠けているとい 儀式を見たことがきっかけとなって)私たちの作品に厳 うことであった。俳優としてのアイデンティティの探求 かな雰囲気が与えられたように沿岸部での経験は私たち と、己れの現実にたいする認識を一つに結ぶこと、演ず の作品に楽しく軽快な調子を添えるものとなった。北部 るだけでなく、踊り、演奏し、歌うという、多様な芸術的 での上演はリマのラ・カチータ・デ・サンフェルナンド 才能を身につけること、そのことが求められているのだ。 公演に先立っておこなわれたのだが、上演が終わると会 私たちが舞台で造型した農民が、この国の演劇にかつ 場はいつも踊りの輪と化した。こちらが呼びかけたわけ て登場したことのない人物であったことは記憶されてよ ではないのだが、観衆と舞台の交流が成立した結果、自 い。アンデスの人間を血肉化するとき、―血肉化する ずとそうなっていったのだ。これにヒントを得て私たち ということは文字どおり肉化するということだ―私た が考え出したのは、今しがた演じた場面を風刺するやり ちは伝統的な演技の形式を断固として拒否せねばならぬ とりを芝居の最後に組み込むことだ。村でためしにやっ し、また、私たちのやり方を定型化してはならない。今、 て見ると、すこぶる乗りの良い反応が得られ、芝居はワ ここの状況に応答しうる肉化でなければならないのだ。 サビの利いた構成になった。観衆にはつねに不意打ちを と、私は思っている。役者がいきなり傍らにやって来て、 舞台構成 観客は、たった今、舞台でおこったことについての意見 最初の私たちの出発点がアンダワイラスの一連の事件 であったことは先に述べたとおりだが、その後の農民闘 争の全体像を私たちは劇の中に組み込みたいと考えた。 そこで第 1 景ではタワンティンスーヨの旗をかかげた農 を求められる。彼は出来事の証人となり、あわよくば舞 台に出て登場人物たちの一味と化することになる。 結びに代えて 民たちがホセ・マリア・アルゲダスの詩「わが創造主な 私たちは『アルパ・ライク』で、新しいドラマの概念 る父 トゥパック・アマルーよ」を唱えて登場すること を追求した。踊り、語り、音楽、歌、祭りを一体化した にした。つづくアンダワイラスの場面は証言だが、その 私たちの伝統的な演劇表現、そこでは演劇は、日常的な 後のシーンはとくに具体的な事実を想定しているわけで ものへと注意を差し向け、しかし同時にその日常に裂け はない。衣装、音楽、ダンスについても、それは同様で 目を生じさせる事件でもあるのだ。 ある。強いて言えばアプリマク流域のものが多いとは言 『アルパ・ライク』は、たんに一つの具体的成果であ えるが、しかし他の地域の音楽やダンスもモティーフと るにとどまらず、果てしなく遠くへと私たちを歩ませる してとり込まれている。プーノのワカワカの音楽、トゥ 道を切り拓いたのである。長年の、そして昨日今日もな カマノス(プーノ)の音楽とグアルディア・カンペシー お続いている文化支配にたいする粘り強い抵抗、それを ナなどだが、その衣装の方はクスコのチュンビヴィルカ 通してたえず更新され新たな生命を与えられつづけてき ノスのそれにヒントを得ているといった具合だ。いろい た芸術的諸表現に、それは私たちの目を差し向けるもの ろな要素を組み合わせるときの基準はリズムのテンポと であった。アンダワイラスの農民のたたかいは、私たち その強度、そしてジャンル(詩、歌、ダンスなど)の如 の学びの何たるかを語る証左であった。その中でたえず 何である。変化と観衆との関係を考えて決めている。 生まれる新しい歌は、彼らの自由へのたたかいと底深く この構成は(構成といっても開かれたもので、つねに 変更が可能である)初演時の観衆の反応を念頭に置い 繋がっていた。 以下でお読みいただくのはスペクタクルのテクスト、 て、とくに彼らの集中度とスペクタクル後の意見を参考 というよりも、その近似物である 2)。はじめて観衆に接 にして、その後の公演の中で決めていった。北部の農村 したとき以来、それは長い時間をかけて書きつづられ、 での予備公演(チュルカナス、ヤパテラス、ソルンブレ、 書き変えられてきたものだ。文学的な価値があるなどと タランドゥラカスなど)と、つづいてレッケ(ランバヤッ 思ってはいない。演劇は文学ではないし、読まれること ケ)でおこなった上演は、山岳地帯の農村とは大きく異 を目的にしているわけでもない。演劇以外の形式では伝 なる海岸部の農村であるにもかかわらず、私たちにとっ えきれない演劇的経験、俳優と観衆との関係を抜きにし て非常に有益なものとなった。意外にも見えない糸で二 ては伝達不能な諸々の経験をあえて覗うためのテクスト つの地方はしっかりと繋がっていたのだ。海岸部の観衆 的な手がかりと考えてほしい。 は作品の本質を的確に捉え、私たちの作品の形成に寄与 文化集団 ユヤチカニ してくれたのである。チンチェロス(クスコ)での出会 ミグエル・ルビオ いによって(たぶんウルバンバ渓谷の村ヴァラヨックの (訳:里見実) 2)[訳注]原文ではこの後、『アルパ・ライク』の戯曲本文、リノ・キンタニーリャの証言、歌詞と譜、写真などが掲載されている。 ― 14 ―