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『悪の華』 研究のための予備的考察

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『悪の華』 研究のための予備的考察
『悪の華』研究のための予備的考察
岩
切
正一郎
『悪の華』は、1857年に初版が出版されるや、猥嚢、背徳の性格を問題にされ断罪さ
れ、裁判所から該当作品六篇の削除を命じられ、四年後の1861年に、新たに35篇の詩
を加え、第二版が上梓されたことは、よく知られている。さらに1866年の小詩集『漂
着物』出版、『現代高踏詩集』掲載の「新・悪の華」を経て、1868年暮れに、ボードレー
ルの死後出版として、第三版『悪の華』が刊行されたのであることも、周知の通りで
ある。
これら、三種類の『恵の華』のうち、最後のものは、詩集の構成にどこまで詩人の
意図が正確に反映しているのか明確には決定しがたいので、『悪の華』を研究する場合、
準拠するテクストとしては用いないのが普通である。
さらに、初版の作品は、削除された六篇を除く全篇が第二版に再録され、後者には
内容の面で重要な新作品が加えられているので、テクストには第二版を用い、削除さ
れた六篇を『断罪詩篇』として、詩の内容や形式の重要度を同等にあつかいながら、『悪
の華』を論じることが、一般に行われている。言い換えれば、研究、とくにある主題
を考察するようなそれにおいて、ある作品の詩句からほかの作品の詩句へと、あたか
も第二版におけるボードレールが、ゆるぎない脳髄から、ときに矛盾しつつも、全詩
作晶を、初版と第二版とのあいだに本質的な区別をおかず、一貫した詩法のもとに創
造したという仮定のもとに、多面的な詩的一理念的価値体系を分析、解明する方向で、
これまで多くの論考がなされてきたといって、よいであろう。
このことに鋭い批判の目をむけたのが、M.ベルコーの「『新悪の華』、理想主義と幻
滅」と題された論文である(l)。第二版に加えられた35篇に、新患の撃という呼称を与え
つつ、ベルコーは、初版と35の新作品との間に、決定的な内容の背反があらわれ、前
者がロマン主義的理想主義に裏打ちされているとすれば、後者はそのありうべき理想
そのものの意義を剥奪する意図で組織されたと考える。
その理由として、ベルコーは、次のような例をあげる。初版において、詩人は『理
想』にとり憑かれながらも、いまここで、それを開示するみずからの力に幻滅し、『墓
のむこうに置かれた光輝』をみいだすため死に救いをもとめる、それに対して、新作
品では、詩人が幻滅するのはおのれの力にではなく、その目的の非現実性、目的をも
たない企図の虚しさにである、と。事実、初版の末尾を飾る三篇の『死』は、地上で
は保証されない幸福を、あるいは創造の結実を、もたらすものは死であると歌ってい
るが、新作品にある「耕す骸骨」や「好奇心の強い男の夢」では、死すら嘘っきで、な
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にも解き明かすことがらをもたない、という内容に変化する。
ベルコーは、こうして第二版の特徴を、初版の理想主義的態度を浸食し確立される
脱一神秘化、幻滅の手法にあるとみて、さらに重要な視点を導入する。
すなわち、この新しい手法は、初版から延長して『悪の華』を完結するものではな
く、初版から変貌して、散文詩『パリの憂愁』へつながる詩的方法、正確には、新作
品と散文詩を同じ理念のもとに置き、一方は韻文に他方は散文に姿をとる新たな原理
のあらわれであると考察するのである。
この視点によって、これまでともすれば『悪の華』の二番煎じともみなされていた
『パリの憂愁』の、疎かにされていた意義も、新たに検討され直す必要があると、ベル
コーは論じ、またその方向で新しい散文詩研究は現在進められているとも、いえるだ
ろう。
われわれは、このベルコーの仮説をもとに、いま一度『悪の華』の内容を検討して
みたいと考える。第二版を編みあげることによって、ボードレールが「満足し、はと
んど申し分ない甜」とみなすに至った詩集の、その満足をもたらした理由を探りたいと
思う。それは以前に比べて、構成も内容もいっそう統一されたということなのだろう
か。もしそうだとしたら、その統一とは、いかなる意味でのそれなのであろうか。新
作品が初版の価値体系の仮面を剥ぎ、その真に秘密がふかく隠されてはいないことの
暴霜と、仮面や表面への賛美をもちこんだものであるとするなら、内容の自己破壊を
抱き込みつつ緊密に統一された世界において、なにがその中心を支配しているのであ
ろうか。
もちろん、これから問題とされるのは、初版と第二版とで、作品順序が変化したと
いう構成の違いによってもたらされる、詩と詩のあいだの、関係の緊密化といった変
容ではなく(それもまた軽視されてはならないが、以下に述べる分析のあとにはじめて
考察の対象となる課題である)、ある作品においてある言葉、たとえば死という言葉が
もつにいたる、意味の違いであり、また、その違いを産出することになった、初版と
新作品とにおける理念的な変化である。いっぼう、両者を貫く、変わることのない価
値の側面にも、留意する必要のあることはいうまでもない。
われわれは、本論考において、帽真の華』の初版と、第二版に新たに加えられた35詩
篇(本論ではそれを新作品と呼ぷ。1868年版に加えられた新詩篇のことではない)とを
区別し、それによって『悪の華』第二版の複雑な意味の方向のからみあいを、可能な
ら解きはぐす試みとして、いくつかの概念をとりあげ、初版と新作品とにおけるその
違いを検討する方法を、提出してみたいと思うのである。
それを始める前に、われわれが直面する方法論的な危険を無視するわけにはいかな
い。われわれは単純に、初版と新作品とを、『悪の華』の出版年代を根拠に、適時的に
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区別したが、F.W.リーキーの研究によれば、新作品のうちにも、じつは初版を構成す
る作品と同時期に制作された蕗が含まれている可能性は大きい(3〉。その場合、1857年
を境とする詩の理念的側面の区分は、有効性を失う恐れもある。また、初版の作品群
にも、おそらく幾多の時期的な区別を設けることも、例え全ての作品にわたる実証的
な試みは不可能であるとしても、その可能性を否定しさることはできないうえに、初
版と新作品とのあいだにみられる、ことあげされたある価値を、のちに否定する手法
は、すでに初版それじたいのなかにおいて展開されていると考えて間違いでほないの
だ、という問題も生ずる。たとえば、「善良な二人姉妹」における愛欲の快楽が、「血
の噴水」では失望に変わりミさらに愛欲の快楽から幸福な死への期待が、「シテール島
への旅」で断ち切られてしまうというふうに。
第一の問題点、すなわち制作時期の問題については、それほどの困難なく、解決は
与えられるであろう。仮に、新作品のいくつかが初版のものと同時期に完成されてい
たのだとしても、構成上の、いやむしろ理念的な統一性の理由から、初版への挿入を
見送られ、第二版へまわされたと考えるなら、まさにそのことじたいによって、ボー
ドレールが不協和音を組みいれつつ一段と複雑な続一体を、第二版で意図したという
果敢な実験の傍証ともなるからである。
第二の問題点は、そもそも自己撞着癖がボードレールの思考の本質的な部分に根差
しているだけに、初版と新作品のあいだにのみの問題といえなくなる。ただ、第二版
が詩人にまがりなりにも清足感を与えたという事実から、われわれは、初版に不完全
に展開されていた方法が、なにかより深い次元で、初版と新作品とのあいだに展開さ
れ完望な空間を、いや、空間ののぞましい破綻を、実現したと仮定するのみである。そ
れは、死が到達点であり、創造をうながす太陽であった初版の世界から、死そのもの
が日蝕し、ほかの到達点が設定される第二版の世界への移行に、うかがうこともでき
るであろう。それはベルコーのいうように、初版『悪の華』から、散文詩『パリの憂
愁』へ転回する大きな美学の転換のあらわれとして、位置づけられるように思われる
のである。
以上のことをふまえたうえで、われわれは、悔恨、忘却、秘密、到達点という四つ
の概念を考察し、初版と新作品とのあいだに、めざましい相違が存在することを例示
したいと思う。
1.悔恨
前臥第7号の稿で、私はこの主題を論じる際に、初版と新作品を区別しなかったの
で、大切な論点を見落としていた。それを補完する意味からも、まずこの概念につい
てみてゆきたい。
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J.E.ジャクソンは、『悪の華』において、悔恨(remords)という語は、脚韻として7回
使用されるが、そのうち6回は死(m鵬)あるいは死者(morb)と韻を踏むと指摘し、ボー
ドレールにあっては、悔恨と死が音韻的にも密接に関係していると述べている(㌔ジャ
クソンは第二版に準拠しているようであるが、これに『断罪詩篇』のうち「忘却の河」
に含まれる死一悔恨の韻をあわせれば、韻に使われた8回の(く悔恨>}のうち7度までも
がく(死,,と韻を構成することになり、ジャクソンの指摘はいっそう妥当性をもつものと
なる。
また、Ll.J.オースチンも、くく悔恨一死〉〉の結びつきの重要性を強調している(5〉。
J.ベルグランもこう確証する。「死と悔恨の組み合わせは、韻一この鎖環で、固く留
められている(占り
死と悔恨が音韻的に結びつくことは、疑う余地がない。問題は研究者が、この関係
をただちに意味論的な解釈の根拠としてしまうことだ。確かに、悔恨は、姐によって
比喩され、このメタファーを媒介として、死あるいは死者とふかくつながる。けれど
も、このつながりは姐を媒介とするときにそうなのであって、死と悔恨の韻によって
保証されてはいないのである。なぜなら、このふたっの語が韻を構成する7回のうち、
6度までがくく死一悔いもなく(SanSremOrds)〉〉の形で登場するからである。しかも、この
韻は一度も新作品には登場しない。このことは、悔恨という語の使用を、初版と新作
品とに分け、さらに四つのカテゴリーに分類することで、さらに興味ある事実をひき
だす。
カテゴリーA:くく死あるいは死者一悔恨なし〉}を韻のかたちで含む詩。
初版:「人と海」、「忘却の河」、「毒」、「陽気な死人」、「寓意」、「殺人
者のワイン」。
新作品:0。
カテゴリーB:<く悔いなしsansremords〉〉という表現が、独立して使われる詩。
初版:0。
新作品:「決闘」。
カテゴリーC:悔恨の滅却や不在が語られる詩。
初版=「取り返しのつかぬもの」、「地獄墜ちの女たち一思慮深い家畜
のように」、「悲シクテサマヨエル」、「善良な二人姉妹」。
新作品:0。
カテゴリーD‥悔恨の存在が、その不在を希望されることなく語られる詩。
初版:「読者に」、「死後の悔恨」、「功徳」、「スプリーン一弘は千年生
きたよりも多くの」、「地獄墜ちの女たち-デルフィーヌとイッポリ
ット」、「聖ペテロの否認」、「屑屋たちのワイン」。
新作品:「あるマドンナに」。
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この分類によれば、悔恨という語は初版101篇中17の詩に登場するが、新作品35篇
中2度しか使用されていないp}。この頻度の差は、単なる偶然によるものだろうか。わ
れわれはそうではないと考える。悔恨という語の使用される表現うち、半数以上がそ
の不在をあるいは不在の願いを示すものとして現れ、またそれが、はとんど初版に集
中しているのは、ひとつの理念の反映と思われるからだ。ここでそれぞれの作品を分
析する余裕はないが、簡単にいって、初版においては、悔恨のない幸福な空間が夢想
されることが多いのだ。それは甘美な忘却の眠りに、あるいは夢想される天国につな
がる。(く死一悔いなし〉〉を含む韻は、この観点からすると、次のことを示唆する。すな
わち語り手一私が、一人称単数で、あるいは複数形に含まれて、死ぬ場合、初版にお
いてははとんど常に、ある至福の場所が想定されている。言い換えれば、語り手一私
は、悔恨が表現する内心の道徳的葛藤からきれいさっぱり脱けだしてはいってゆける、
文化的一宗教的な価値体系の枠外にある空間の存在を、確信しているのだ。そのよう
な空間は、三人称の人格にも想定されることがある(「寓意」は一例)。不思議なこと
に、《きみ〉〉が二人称で死ぬときは、悔恨や姐におそわれ、死は幸福を約束しないこと
が多い。これは地口でもなんでもなく、くくきみ}}の永遠性は、死ではなく詩のなかで約
束されるという了解があるからである。くくきみ〉〉の死にたいする態度は、新作晶でも変
化しない。だが、新作品において、語り手と死と悔恨の関係は微妙に変化する。つま
り、悔恨なくはいってゆける夢想の空間、とくに死の類似としての幸福の空間が、前
述したベルコーの言葉を借りれば、脱一神秘化され、幻滅の対象となり、言語化され
うる形では存在しなくなってしまうのだ。これはただちに、散文詩「この世のはかな
らどこへでも」に通じる世界観である。
悔恨が、G・プランのいうように内面における道徳的闘いの填であるとするなら(句、悔
恨のなさは、自己をさいなむ意識の欠如を指示するものでありえ、それは眠りや忘却
へつながってゆく。この監視する目の欠如こそ、初版における悔恨のなさを深く支え
る条件であり、「陽気な死人」のなかで、Cl.ピショワがその不手際を指摘する「日のな
い姐が死人の到来をみる」という矛盾した表現も、このような観点から、その妥当性
を回復することも可能なように思われる(㌔
監視する目の欠如は、ボードレールの美学にかんがみると、その正当性を主張する
ことができないように、一見すると思われるかもしれない。なにしろ、ダンディーと
は、眠るときも鏡をまえにして眠る存在なのであるから叩)。しかし、ダンディスムが、
大衆一俗物からおのが身を孤高に律し、超然と生きる道であると理解した場合、それ
と同じ効果を、洗練の極北のまさに対極点にみいだすことができるであろう。すなわ
ち、野蛮性である。そこには、キリスト教に立脚した道徳の葛藤がない。虐殺の好み
(「人と海」)、鮫のような眠り(「陽気な死人」)、噛む唾によって死へ運ばれる魂(「毒」
)、どれも、野蛮性によって特徴づけられる悔恨のなさであり、貧血症の文明の規範か
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ら逸脱する肯定的な価値である口■」
それらは、初版で展開される世界観であるが、新作品における悔恨のなさとは何で
あろうか。「決闘」にみられるとおり、私達一語り手と対話者-は、友人で一杯の地獄
へ悔いもなく転げ込み、憎しみを永遠化するのである。それは愛とは逆のやり方で相
手を忘れず、復讐を胸に誓い、永遠に監視しあう空間への悔いのない転落である。同
じ悔いのなさでも、初版とはまるでうらはらだといえるだろう。
悔恨そのものはどうであろうか。初版の「取り返しのつかぬもの」には、こう措か
れている。
きみは((悔恨〉〉を知っていますか、矢尻に毒をもち、
私達の心を標的にしているのです。
新作品の、「あるマドンナに」では、主客が反転する。
悔いでいっぱいの刑吏、ばくは七本のくく短刀〉〉を作ろう
きっさき筆削、やつだ、そして冷然たる曲芸師のように、
きみの愛のいちばん深いところを標的に、
ぼくは一本残らずそいっを打ち込んでやる、きみのぴくぴくするくり已、臓>〉、
きみのすすり泣くくく心臓〉〉、きみのせせらぐくり心臓〉〉のなかに!
語り手は、悔恨と一体化し、初版では悔恨にされていたことを、みずからマドンナ
に実践する。それはあたかも、じぶんを苦しめていた力を暴力的にとりこみ、内心の
葛藤を冷然とおさえこみながら、サディックな愛へと噴出させる、暗い官能の源泉と
しての悔恨である。
新作品に登場する悔恨の不在と存在は、とくに発語された形としては、「決闘」と「あ
るマドンナに」がすべてである。もちろん、悔恨のない幸福を、悔恨という語をつか
わずに措くことはあるだろう。だが、そのあるなしをとくに意識して、語の使用によ
ってそれを強調する頻度は、初版において著しく高い。繰り返しのべるが、それは悔
恨のない夢想の空間が、初版においては、その実在可能性に語り手のことばを賭ける
ことができるという、存在の意義をもっていたからにはかならないと考えられるので
ある。
2.忘却
ボードレールは追憶し、『幸福なときを呼びおこす技』を知り、また、その『思い出
は岩より重い㈹。Jそのように記憶をひきとめていながら、いっぽうで彼は忘却の魅惑
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にもひかれ、かつまた、忘却されているものへ思いをはせもする。忘却は、眠りや官
能や死や憂鬱などと結びついて、『悪の華』のなかでさまざまな意味をもつ。
忘却oubli、忘れるoublierという語の使用を、ここでも初版と新作品とに分け、四つ
のカテゴリーに分類してみたい。
カテゴリーA‥
忘却の喜びが肯定されている詩。
初版:「灯台」、「忘却の河」、「毒」、「陽気な死人」、「血の噴水」、「殺
人者のワイン」。
新作品:0占
カテゴリーB‥
忘却されている存在、あるいは忘却される運命に言及する詩。
初版=「告白」、「綽われた鐘」、「スプリーン一弘は千年いきたより
も」。
新作品:「白鳥」。
カテゴリーC:忘却が芸術的創造と関係する詩。
初版:「不運」、「腐屍」。
新作品:0。
カテゴリーD:忘却が、くく忘れない〉〉という形で使われる詩。
初版:「ぼくは忘れてはいない」。
新作品:「旅」。
もちろん、忘却のアレゴリーであるレテや、その比喩的表現としての、時による摩
滅、といった概念をとりこまなければ、このようなカテゴリー分けは、忘却のテマチ
ックな研究に不十分なものではある。だが少なくとも、忘却あるいは忘れるという話
そのものに領域を限ってみた場合、そのための方向づけとなりうる、ひとつの傾向は
把握されるであろう。すなわち、初版においては忘却の喜びとなりえる場合が多いと
いう事実である。その場合、忘却とは詩人にとり憑いている、この苦痛に満ち満ちた
地上に存在を余儀なくされているという意識からの自己開放、さらには道徳的な葛藤
からの脱出、そして何の思い出もひつようとしない自己完結した幸福を意味するもの
となるだろう。
忘却のよろこびは眠りや死へつながる。この場合、そのよろこびをささえる構造は
初版において悔恨のなさを可能にしていたそれと似ている。すなわち、ボードレール
の詩世界のいっぼうをささえる記憶の重要性をなげうってまでもはいってゆける、幸
福な空間の存在が予想されているのだ。それはたとえば、「忘却の河」にその特殊性を
みることができるだろう。この詩では、忘却の眠りのなかで愛の行為に語り手は陶酔
するのを願うのだが、第4聯をのぞいて全体が命令形、意思の表現Ueveux)、未来形で
書かれているため、語り手の現在においてはまだ実現されていない状況の中で、あた
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かもその陶酔は夢想する眠りのなかでみる夢といった体裁である。このとき忘却は、
いっさいを忘れるというのではなく、その官能をのぞくすべてを忘れてかまわないと
いう意思の表明である。ところで、そのような忘却のよろこび、またそこで獲得を希
われている対象とは、良識の規範によって禁じられていることがらであり、忘却とは
また、その戒めを無視する行為でもあるのだ。そのように破廉恥なことを、監視の目
を忘却しつつ廠望するとき、それは社会にとってきわめて危険なものともなりえたで
あろう。
忘却のよころびが語り手に許されるのは、それにともなう眠りや死の官能の、なに
ものにもおびやかされない悦楽が保証されているからである。それは初版における忘
却の一側面であるが、新作品ではこの側面は姿を消す。その理由をわれわれはこう考
えたいと思う。新作品において、ボードレールは最終的な避難所、忘却とともにはい
ってゆける安息の空間など、どこにもないという世界観を展開することになるからだ
と。
とはいえ、初版においてもすでにそのような幻滅の手法は使われていることを忘れ
てはならないだろう。「血の噴水」において、語り手ほ愛のなかに忘却の眠りをもとめ
失望するのだから。けれど、初版においてはすくなくとも死が、その可能性を保ち続
けていることにも注意するひつようはある。新作品においては、その死までもを詩人
は愛をのせた解剖台のうえにのぼらせ失望することになるであろうし、そのときひと
っの予定された空間、忘却のよろこびにひたされた言語化可能な空間の夢想をメタフ
ォリックに表現することば、覚めた意識、それを嘘と認識しての心構えセしか、望ま
れなくなるといえる(13I。
このように、悔恨や忘却という語の使用を検討することにより、初版と新作品との
間にみられる相違を指摘することは可能となる。その相違を、ベルコーの言葉を借り
て今一度確認しておけば、新作品において、くく幻滅の美学>〉が誕生するということであ
る。すなわち、ボードレールにあっては、『初期の主人公を魅惑していた理想の空しさ
から醒め、理想主義的な魂に魔術的な夢が照らしだすあらゆる天国の非現実性に目を
開かれた詩人には、その登場人物に、詩人がそれに欺かれていない幻想への有益な同
意を吹き込むしかないのだ㈹。』
このような変化は、なによりもまず、詩人みずからへむけられた、ある種の味気な
さの感情、じぶんのなかに隠匿されていたはずの神秘性にたいする、暴露的な思いと
相たずさえてゆくことになる。秘密という概念がそこに関係してくるだろう。
3.秘密
秘密という言糞は、名詞の形では初版に11回、新作品に3回使われ、また形容詞(秘
10
密の)でほ、初版に7回、新作品に0回の使用である。名詞に限って言えば、頻度にそ
れほどの差はない。だが、その使われ方に注意すると、さきにみた変化と対応する内
容が含まれている。
初版においては、秘密はまず深みと密接に関係している。
人よ、だれも君の深淵の底を測ったものはない。
おお海よ、だれも君の親密なゆたかさを知らない、
そんなにも君達はおのれの秘密をもらすものかと守っている!
(人と海)
あまたの花々ゆかしく放つ
秘密のように甘い香り
ふかい孤独のなか。
(不運)
そして裸の奴隷たち、身には香りをしませ、
掠欄の菓でぼくの額をあおいでくれた、
かれらのはかならぬ気遣いはふかめることにあった
ぼくを愁わせる痛ましい秘密を。
(前世)
こうした秘密は、胸ふかくしまわれ謎めいた印象をつくりだす効果を持っ。従って
「秋のソネット」でも、それは明かすことを拒まれている。
水晶のようにあかるいきみの眼はぼくに言う。
くくあなたは変わった人ね、あたしのどこがいいのかしら,〉
t可愛くしていればいいんだ、黙っていてくれ!ぼくの心は、
古代の獣の無邪気さのほかほ、何にでも苛立っ、
きみに地獄の秘密をみせる気はないよ、
〔…〕
初版における秘密にたいし、まず深さの点では、秘密のない深みが新作晶において
登場する。
11
ぽくは知っている、もっとも愁いにみちた瞳があると、
たいせつな秘密をかくしていたりしない睡。
宝石のない美しい宝石函、形見のないロケット、
おまえよりもっと虚ろでもっとふかいんだ、空よ!
(嘘によせる愛)
この詩では、深さそのもの、空ろさそのものが魅力となり、そこに隠されているあ
る対象物あるいはとある真実によって語り手の好奇心がひきよせられるのではないこ
とを窺わせる。逆に言えば、秘密を隠していることで意味をもっていた深み、そして
また孤独は、なにものにも支えられていない、深いこと孤独であること愁えているこ
と、それじたいの不可思議な魅力を獲得するといえるのだ。
秘密の点では、「いっもこのまま」が、「秋のソネット」と対称をなしている。
くくどこからあなたに、とあなたは言った、この不思議な悲哀は来るのでしょう、黒
い裸の岩にのぼる海のように満ちてくる〉〉
-わた■くしたちの心がひとたびその閥をおえたら
生きることば病。みんなも知っている秘密、
とても単純な悩みで、ぜんぜん謎めいていない、
それにあなたの喜びと一緒、だれの目にもはっきり輝く。
ヨ===E
こうして、秘密は孤独の深みからみんなの表面へとせりあがってくることになる。
仮面であるかもしれない美の真に、天国があろうと地獄があろうとどうでもよろしい
というボードレールの態度、秘密そのものにはたいした意味はな〈、隠された真実を
詩人ひとりが知っているという自負もなく、そもそも神秘的な真実があるのかどうか
すら疑わしいという観念が、その秘密の浮上と一体化していると思われるのである。
もちろん、秘密の概念について検討するには神秘myst色re、神秘的mystique、不可思
議なmyst6rieux、謎inigme、あるいは寓意としてスフィンクスなどのことばを調べなけ
ればならないが、それについてここでは簡単な示唆をするにとどめる。神秘的という
語は、初版に1Z回使われるが、新作品では一度も使用されない。またスフィンクスも
初版のみである。これらが、隠されていてその解明にむかうべき対象としての真理を
暗示するものであると考えるなら、後期ボードレールの美学は、不可思議性に特徴づ
けられると考えることができる。というのも、mySterieuxなる形容詞は、初版101篇に
3回使用されるのみにたいし、新作品35篇中、7回使用されているからである。
12
この傾向は、『パリの憂愁』におけるこの形容詞の多用として現れている。むろん、
不可思議なるものと神秘的なるものとは、意味上重なる場合もあるだろうが、とくに
『パリの憂愁』からおしはかると、不可思議なるものは、たとえば底しれぬ力、「悪い
硝子屋」において語り手を衝動的に豪華な破壊の陶酔へ駆りたてる、悪魔的な衝動に
結びついているし、「誘惑」においては地獄的な領域と関係している。それは理性によ
って他人の目からまもる秘密、あるいは精神によってときあかす対象としての神秘を
指し示すというより、人のなかに得体もしれず存在し、かれを逸脱へとつき動かす黒
いディナミスムのありようを指していると思われるのだ。この不可思議性は、『悪の
華』においては、新作品によってゆたかに導入される概念なのである。
4.到達点
初版と新作品とのあいだの相違、理想の空間が可能性として存在するかあるいは嘘
にすぎないか、それを知ることにふかい意味のある秘密がかくされているかいないか、
といった相違は、われわれの存在に到達すべき目的地があるか否かの問題にも影響し
てくる。目的butという語は、初版に3回、新作品に2回使用されるが、意味するとこ
ろは正反対である。すなわち、初版においては「貧者の死」で、死は『人生の目的、唯
一の希望v・2』とされ、「芸術家の死」で『標的butを射あてるためにv.3』と、目的の
存在が肯定され、「地獄堕ちの女たち-デルフィーヌとイポリット」で、『走れ、きみ
らの欲望の目指すところbutへV.90』と目的地への到達が意味あるものとされるのにた
いし、新作品では、「七人の老人」で『この百歳の双子、このバロックの幽霊は/おな
じ足取りでどこともしれぬ目的にむかって歩いていたv.3卜32』と目的地は語り手の
あずかりしらぬものとなり、また「旅」では『奇妙な運命だ目的は移動し/いづこにも
ないので、どこにだってありえるv.29-30』として、確固とした目的の存在そのもの
が消失する。
『赤裸の心』に、ボードレールはこう書いている。
なにものも、目的なしには存在しない。
ゆえにわが存在にはひとつの目的がある。どんな目的か。私はそれを知らぬ(【5〉。
直ちにかれは、その目的を知っているであろう『ある者』の存在をもちだし、その
者に明らかにしてくれるよう祈る必要を説きはするが、なによりも読者の琴線にふれ
るのはかれの無知である。おのれの生のむかう目的にかんする無知ないしその喪失は、
『悪の華』においては端的に死の意味の変化としてあらわれる。初版では、死は地上で
ゆるされていない幸福を開示する空間として探求の目的たりえたが、新作品ではその
価値を失い、「旅」の最後のストロフにみられるように、死はあらたに設定された目的
13
への船出の舵をとる船長、すなわち案内人の役をひきうけるにすぎず、それじたいが
目的の空間となることはなくなるのである。設定された目的とは、有名な『未知の底
に((新しきもの,,を』発見することである。それはなんら具体性のないゆえに、詩的創
造にとって普遍的である。それはあたかも、詩の目的と詩の動機とがひとつになった
ような目的であり、一回ごとの詩作の目的でありつつ、いったん完成され既知となっ
た作品のつねに彼方にいて呼びかける声である。いかなるメタファーによってもその
姿を暗示できない対象、どのような海図にもここと記されていない目的である。
目的の喪失にかんしては、『パリの憂愁』にその展開をみることができる。「おのお
のに幻影」は一例で、これは『悪の華』の「旅のボヘミアン」と同工異曲の作品に一
見するとみえるが、そうではない。「旅のボヘミアン」では、旅の一団に『未来の闇の
親しい帝国』がひらかれている、すなわち彼らをむかえる空間が存在している0いっ
ぽう、「おのおのに幻影」では、旅人はじぶんがなんの目的へむかっているのか知らな
い。また語り手も『無関心』の重みにひしがれてそれを見定めてみる気持ちを喪失す
る。つまりそこには目的となる空間がないのである。
この不安定な存在の叫びを、われわれは「七人の老人」に聴くことができる。そこ
では語り手は死ぬのを恐がる。すなわち死はそこへむかう目的ではない。かといって
また、生のなかでおのれをつなぎとめる岸辺もない。
理性はむなしく舵をつかもうとした。
嵐にもてあそばれその努力も水泡に帰したのだ、
わがたましいは踊った、柄った、おいぼれの辞
帆もなく、ぱけものじみた岸辺もない海のうえで!
この最終行のsansbordsという表現は、ぽっかり口をひらいた空虚の荒れ騒ぐ果てし
なさを示しているように感じられる。そこには、死にも生にもゆくあてのない、絶望
の絶唱がききとられる。
結び
本論稿では、四つの概念を例にとり、F悪の華』を解釈するさいに、初版を構成する
作品と、第二版に新たに加えられた新作品とを内容の面で異なるまとまりとして捉え
ることの重要性を指摘しようと試みた。その区別を意識したうえでこそ、1861年版
r患の華jを構成する各作品の全体における意味を検討することは可能となると考えら
れるからである。われわれはそのための一方法を提案したわけだが、ある特徴的な語
の使用に着目することで、初版と新作品との理念的側面での相違を把握することがで
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きるように思われる。ここではとりあげなかったが、たとえば嘘という概念は、初版
においては『嘘もなく』という表現でしか登場せず、新作品にいたってその肯定的価
値が称揚されるようになる、ということも、判明するはずである。こうした分析にく
わえ、それらの語が他の散文作品、批評、また書簡でどのように使われているかを検
討し、『悪の華』の構成が、ボードレール的思念のいかなる要請によってなされている
かを理解する試みも行われねばなるまい。例えば、初期の小説『ラ・ファンファルロ』
にすでに嘘という語は美の一側面として使われているのに、なぜそれが詩集の初版で
は充分先鋭的にうちだされなかったか、というようにである。
この初版と新作品の区別は、『パリの憂愁』を論じる際に有効な視点を準備するであ
ろうし、また1861年以降に発表された韻文詩の解釈にも有益に作用すると考えられる。
注
ボードレールの著作に関しては、次のものに準拠した。
BAUDELAlRE(Char1es),dFuvrescompLites.Textes6tablis,Pr色sentesetannotes
parCl.
Pichois.Paris:Ga11imard,1975-1976.2vol.(BibliothとquedelaP)iiade).
-Correspondance・Texte6tabli.prisentietannotiparCl.Pichois,aVeCCO11aborationdeJ.
Ziegler・Paris‥Gal1imard,1973.2vol・(BibliothequedelaPliiade).
注では、作品集をOc.書簡集をCo.とそれぞれ略記する。
(1)BERCOT(Martine),qNouvelLesFLeursduMaLル:Id6aEismeetd6siLLusiorz,Actesdu
COlloquedu7Janvier1989.Sedes,1989.なお、ロマン主義における理想と嘘につい
ては、GIRARD(Ren6),MensongeromaT7tiqueetv6rit6romanesque,Ed.Bemard
Grasset,1961が参考になる。とくに、ジラールの提案するmim6sisの概念は、新
作晶ならびに『パリの憂愁』にしばしばみられるimiterという動詞が、ふたつ
の存在の類似を表現するさいに使われる事実を考察するための助けとなるだろ
う。ジラールが、模倣という語を避け、擬態という語を用い、二存在の類似で
はなく、ある者が社会一文化的な価値にかなう姿を擬するという意味でそれを
使用しているにしてもである。なぜなら、ボードレールにおける模倣という語
は、象徴や鼎応といった、いわば神秘化の方向からはずれ、みかけを擬してい
るということを意識した表面性の美学を指し示していると思われるからである。
(2)Co.Ⅱ,p.114.1861年1月1日母宛の手紙。
(3)LEAKY(F・W・),PourunechronoIqgiedesFLeursduMaL[196TL98S]inBaude[aire
COElectedessqys,1953-1g88■Cambhdge:CambridgeUniversityPress,1990.
(4)JACKSON(John
E・)t LaMorEBaude[aire.(Etudes
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Baudelairiennes
X.Nouvelle
s6rie-Ⅰ),Neuchatel・:AlaBaconniere,1982・P・112・
(5)AUSTIN(LloydJames),L・Universpo6tiquedeBaudeLaire・Paris:Mercurede
France.1959,P.314.オースチンは、くく悔恨一死〉〉の結び付きは、韻のかたちでも
強調されているとし、「陽気な死人」においても、否定形としてではあるがその
韻を使っている、とする。実際は、この韻はつねに"悔恨なし〉〉という否定の形
でしか使用されていないので、かれの譲歩には検討の余地がある。
(6)PELLEGRIN(Jean),R6versLbLlitedeBaudelaire・Pahs‥Diffusionauxamateursde
livre,1988,P.316.ベルグランはさらに、岨と悔恨の結びつきを論証してゆくが、
そのさい、「陽気な死人」では姐に悔恨がないという場面にぷつかり、そのため、
悔恨は語り手に善をのぞませる葛藤をひきおこす道徳的力を喪失した、ただ魂
を苦しめるのみの裸形のなまなましさをそなえることになると解釈する。むし
ろここでは、姐には悔恨がないと、素直に読むはうが正しいのではないだろう
か。つまり、語り手一弘の胸に悔恨がないときには、姐は悔恨を比喩するメタ
フォリックな力を奪い取られる、という事例として理解すればよいのではない
だろうか。
(7)以下)『悪の割における語の使用回数にかんしては、Aco〃COr血ceわ
Baude(airelsLesFLeursduMaL,editedbyRobertT・Cargo・TheUniversityofNorth
carolinaPress,1965.を参考にした0なお、前回、第7号の拙論の注で悔恨という
語は20篇の詩に使用されるとしたが、今回は19篇に減っている。それは、1868
年の第三版『悪の割に加えられた「沈思」を本論では対象外としたからであ
る。
(8)BLIN(Georges)・BaudeLaLre・Paris=Gal1imard・1939,P・40・
(9)ピショワは、プレイヤード版の注でいくつか語法的な詩人の未熟さを指摘し
ていて、その点は首肯できるものといえる。とはい阜、内容の面での指摘
疑問が残る。すなわち、「陽気な死人」で語り手が死体をよこたえるための深い
溝を掘る、その深さは正確に孤独の深さに対応しており、遺言や墓を嫌うのは、
じぶんの死を生者から注目あるいは監視されたくないという意思の表明である
と考えるなら、おのれの肉体をすすんで破壊にまかせるさいの仲間として働く
姐が目を、また耳をもたないのは、そのような器官を通じての心的つながりが
排除されているとも考えられるのであるQそれで死者の到来を視る』という
のは、確かに変かもしれないが、死者がやってくるのを感情を排して、一個の
死んだ肉体としてみよ、という意味に解釈できるだろう。
(10)Oc・Ⅰ.p・678・『赤裸の心』に、『ダンディーは途切れることなく崇高であるこ
とを希求すべきである。彼は、鏡の前で生き、眠るべきである』と読まれる0
(11)野蛮性の肯定については、ポー論Oc・Ⅱ・pp・325-326を参興されたい0
(12)それぞれ、「バルコニーV・Zl」、「白鳥v・32」o
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(13)忘却にかんするボードレールの考えの推移は、ポー論においてもうかがうこ
とができる。1852年発表のものでは、ポーの髄訂をこう評している0『かれの頭
脳のおそるべき緊張と仕事の厳しさのために、かれはワインやリキュールに忘
却の官能をもとめたに違いない〔…〕ポーはいっさいを酷訂の暗黒へとのがれ
た、墓の暗黒へとのがれるようにOc.Ⅱ,P.271.』ところが、1856年発表のもので
は、この説明は不充分であるとして、醜訂には夢の連鎖や一連の論理がふくま
れているとのべ、『ポーの髄訂は記憶の手段、仕事の方法、精力的で死に至るも
のではあるが、かれの情熱的な資質にふさわしい方法だったOc.Ⅱ一,pp.314315』と結論づける。,どちらも酷訂は死と結びついてはいるが、違いは歴然とし
ている。1852年甲ものでは、死は月的となる暗黒を比喩するし、忘却の官能が
髄訂の目的となっている。1856年のものでは、死は結果にすぎない。そこでの
目的は記憶である。
(14)Bercot,OP・Cit・,p・52
(15)Oc.Ⅰ,P.678.
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