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イスラエル国防軍の戦い

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イスラエル国防軍の戦い
ミリオタ雑記あれこれ
きらと
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
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︻小説タイトル︼
ミリオタ雑記あれこれ
︻Nコード︼
N4099BY
︻作者名︼
きらと
︻あらすじ︼
過度な期待はしないで下さい。個人的にまとめた内容です。こち
らから引用して間違っていても当方では責任を負いません。無断転
載した貴方のミスです。
※資料の追加に伴い加筆修正を行っています。
1
シナイ半島の戦い 第二次中東戦争
1.はじめに
地中海沿岸部、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトに囲まれ
たイスラエルは周辺諸国全てを敵に回したユダヤ人の国家である。
Defense
Forces︶は誕生した。1948年、イ
周りを敵に回した状況でイスラエル国防軍:IDF︵Israel
i
スラエル国防軍の前身となったHaganaは常備軍のPalma
Sadeh︵第1旅団∼第6旅団︶、Hel
Mishma
ch︵第9旅団、第10旅団、第12旅団︶、予備役・義勇兵のH
el
Arab
Israeli
W
r︵第7機械化旅団、第8機甲旅団、第9旅団︶、砲兵、工兵、空
軍で構成されていた。
イスラエル人の戦いは1948
arで知られるイスラエル建国から半世紀以上と長い。日本で一般
的に知られる中東戦争だけでも5回を数え、第二次世界大戦後の近
代戦を経験し貴重な戦訓が蓄積されている。今ではカビ臭いが、当
時の最新情報であり日本はもとより各国にもこぞって研究された。
一般的に中東戦争関連の本はそれなりに出回っているが、戦術レ
ベルで﹁どの大隊のどの中隊がどのように動いた﹂と戦史の観点か
ら語られた物は残念ながら少ない。一般的な読者を対象にした場合、
その辺りの細かい描写が求められないという事があるからかもしれ
ない。
戦史、戦術の参考では﹁第四次中東戦争シナイ正面の戦い﹂﹁ゴ
ランの激戦﹂﹁中東戦争全史﹂が身内向けに書かれた物の市販とし
て出ている。また邦訳された﹁砂漠の戦車戦﹂はかなり割愛されて
いる物を感じさせるが、当時の部隊運用と言う観点から記された貴
重な一冊と言える。邦訳で比較的新しい﹁イスラエル地上軍︱機甲
2
部隊戦闘史﹂は良書と言える。
※学研M文庫から出ている中東戦争全史は、中東情勢をコンパクト
に纏めている点では優れているが、部隊の動きなどを追う場合に比
較すると軍事史と言えない。M文庫以前に原書房から同じタイトル
で出版されているが、著者は異なる。
イスラエルとアラブ諸国の戦いは米ソが支援していた事で代理戦
争の側面があると捉えられているが、ユダヤ人とアラブ人が生存圏
を賭けた闘争であった。事実、第2次中東戦争で米ソは英仏イスラ
Crisis:Operation
Kadesh
エルの軍事行動を批難し占領地から撤兵する様に圧力をかけた。
2.Suez
︵1956︶
英仏は植民地主義から完全に脱却したとは言い難かった。スエズ
運河の利権。これを彼らは捨てられなかった。イスラエルにとって
エジプトは脅威であり英仏の軍事行動は渡に船であった。三者の利
害が一致した結果、いわゆる第二次中東戦争が発生した。
英仏がスエズ運河の利権を確保せんとエジプトに派兵の動きを見
Kadeshが始まった当時、イスラエル
せ、同調したイスラエルもシナイ半島に侵攻した。
Operation
との境界線に展開するエジプト軍は第4歩兵旅団、第5歩兵旅団、
第6歩兵旅団の3個旅団しか存在しなかった。これらの部隊は最前
Eitan中佐指揮の第
線に張り付いているにも関わらず充足率は低かった。
10月29日1659時、Raful
Passに運ばれ降下、
202落下傘旅団第890大隊395名がダコタ輸送機16機によ
ってスエズ運河東40マイルのMitla
北から第11歩兵旅団がGaza地区に侵攻。第77、第38任務
部隊︵Ugdah:師団規模︶が国境を越えて、それぞれエジプト
3
Ugdahは第4歩兵旅団、第10歩
第5、第6歩兵旅団を攻撃した。
南側を前進する38th
兵旅団、第7機甲旅団で構成される師団規模の任務部隊であった。
Ben−Ari大佐の指揮
※文献によれば師団と翻訳している物もあるが厳密には異なるので
以下、任務部隊と表記する。
尖兵を勤めた第7機甲旅団はUri
下、第9機甲大隊︵AMX−13戦車3個中隊、機械化歩兵1個中
隊︶、第82機甲大隊︵M4戦車2個中隊、機械化歩兵1個中隊︶、
第52機械化歩兵大隊、第61歩兵大隊、120㎜迫撃砲1個大隊、
25ポンド砲1個大隊、1個騎兵中隊で構成される。対するエジプ
ト第6歩兵旅団は第17歩兵大隊、第18歩兵大隊、第289予備
歩兵大隊、第78対戦車中隊、第94対戦車中隊、第3砲兵連隊︵
25ポンド砲×16門︶と貧弱な戦力だったが、山間部の隘路を守
備するには十分な戦力とも考えられた。
エジプト軍前哨のQusaymahで歩兵大隊を撃破した第38
任務部隊は第52機械化歩兵大隊、第82機甲大隊B中隊、騎兵小
隊が北上してUmmoatefを指向する動きを見せた。第82機
甲大隊と第52機械化歩兵大隊は下がり南から防御側の主陣地であ
るAbuageilaの後背を突く体勢に入り、Abuageil
aのエジプト第6歩兵旅団は三方向から挟撃される形となった。
Goder大佐指揮下、第10歩兵
北側では平野部が広がる地形により機動の優位性を発揮して快進
撃が行われた。Shmuel
旅団︵歩兵大隊3個、砲兵大隊、偵察中隊、対戦車/対空中隊︶は
10月30日∼10月31日、中央を前進。11月1日、Umm
Qatefの防衛にあたった。
IDFの目的はエジプト軍主力の到着前にシナイ半島に展開する
部隊を撃破し、スエズ運河に到達する事で英仏介入の大義名分と状
況を作り出すことだったと考えられるが、IDFの攻勢に対してエ
ジプト軍は第4戦車師団第1戦車旅団、第2戦車旅団のT−34戦
車、SU−100自走砲200輛を急派した。
4
3.その後
あれやこれやでIDFはエジプト軍を叩き潰しシナイ半島を制圧
するが、最終的に撤収する事になる。
5
ゴラン高原の戦い 第三次中東戦争
1.はじめに
イスラエルがアラブ諸国から嫌われる要因の一つに不法占拠と言
う問題が存在する。
ゴラン高原はシリア固有の領土であるが、第三次中東戦争でイス
ラエルが占領して以来、不法占拠された状態にある。第四次中東戦
争で領土奪還に燃えるシリアは逆襲を行うが敗北。失地回復には至
らなかった。
2.ゴラン高原の戦いの概要
1967年、IDFは全戦線で攻勢に出た。初戦で航空優勢を確
保したIDFは地上軍を侵攻させる。
シリアとの戦線は他の戦線に比べ均衡を保っていた。エジプト、
ヨルダンと脱落していく中、シリアも8日に停戦の受諾を宣言。
6月9日、シリア軍の防衛するゴラン高原に対してIDFは攻勢
を開始。停戦合意前に領土を掠め取ろうと言う策だった。
攻勢の主役となったのはエフラトの第1ゴラニ歩兵旅団、メンド
ラーの第8機甲旅団。ヘルモン山に沿ったゴラン高原北部から動き
出し、第2、第3歩兵旅団がガリリー湖を挟み込む様に動き突破口
形成部の南翼を固めた。
あれやこれやとIDFは前進を続けて戦争は呆気なく終盤を迎え
る。翌10日、シリアは停戦に合意する。
6
3.彼我の戦力
六日間戦争開戦当初、ガリリー湖からヘルモン山に至る80㎞の
戦線にシリア軍は8個歩兵旅団を展開させていた。対するIDFは
Bar
Kochva大佐:M5
Ram大佐:AMX−13大隊、セン
シリア正面の北部軍が3個旅団であった。
第37機甲旅団︵Uri
チュリオン戦車大隊︶
第45機甲旅団︵Moshe
Elazar准将は麾下の部隊から第
0/51戦車3個大隊、機械化1個大隊︶
第1歩兵旅団ゴラニ
北部軍司令官David
Peledの麾下に配属される。Ugda
Peledとし
37、第45機甲旅団はヨルダン河西岸地区の北部に派遣されEl
ad
て第9予備歩兵旅団と共にヨルダン軍第25歩兵旅団を撃破してい
る。
対エジプト戦、対ヨルダン戦終了後、北部軍には転戦して来た部
隊が加わる。
シナイ半島から
第8機甲旅団︵Mendler大佐:M4戦車2個大隊、機械化
1個大隊︶
第55空挺旅団︵Matt大佐︶
が転戦してきた。
この時、ゴラン高原で対峙するシリア軍地上戦力は5個歩兵旅団、
4個予備歩兵旅団、2個戦車旅団、1個機械化歩兵旅団に拡大して
IDFの前に立ち塞がっていた。
7
4.地上戦
6月9日金曜日、シリア軍の北翼に対する攻撃が行われた。守備
側のシリア第11歩兵旅団に対してIDFは3個旅団を攻勢に集中
した。戦力の集中、奇襲の効果は十分にあった。
この主攻を支援して第37機甲旅団がシリア第123歩兵旅団の
抵抗を粉砕し南下、第3歩兵旅団がGalilee湖北から南下し
南側から北上した第2歩兵旅団と握手した。第55落下傘旅団はシ
リア領内深く︵と言っても斜めに90㎞だが︶に侵入した。
Shamsで12∼3㎞。狭い範囲の戦闘だと理解
南北120㎞の戦線だが主攻の突破口は15㎞程、縦深の進撃は
Majdal
出来る。
この戦場では新旧の兵器が入り乱れて運用された。ソ連製M46
130㎜砲装備のシリア砲兵大隊は開戦前の嫌がらせには役立っ
たが、IDFの前進を阻止する程には活躍できなかった。
5.評価
第三次中東戦争は軍事的に見ると奇襲の成功例と言える。一般的
にはやり方が卑怯、汚いと見えるがIDFは少ない兵力を転用する
事で、戦場に投入する戦力を最大限まで高めた。
欲しい物︵領土︶を手に入れる為に手段を選ばず、停戦までの間
隙を突いた攻勢は状況判断に優れていたと言える。
8
Day
War︵1967︶開始時の概要
シナイ半島の戦い 第三次中東戦争
1.Six
1956年の戦いでIDFはシナイ半島を確保したのも束の間、
エジプトに返還された。イスラエルの領土的野心は収まらなかった。
1967年、ヨルダン領ヨルダン川西岸地区正面にはPeled将
軍のUgda︵AMX−13、センチュリオン各1個大隊からなる
1個機甲旅団、シャーマン戦車3個大隊、1個機械化歩兵大隊から
なる機甲旅団、1個歩兵旅団︶が、シリア領ゴラン高原正面には3
個機甲旅団、1個歩兵旅団、1個空挺旅団が、エルサレム地区には
第10機械化旅団、第55空挺旅団、第6歩兵旅団、その他2個歩
兵旅団が、エジプト領シナイ半島正面には3つUgdaが展開して
Forcus︵Mo
おり今度は望む物全てを手に入れようとしていた。
2.イスラエルの奇襲
6月5日0745時、Operation
red︶発動。当時、エジプト空軍はMig−17、シリア空軍は
Mig−21をそれぞれ保有していた。これに対してIAFはF−
4、A−4、Mirage等を投入した。初戦の奇襲に成功したI
AFはエジプト空軍の航空機186機を地上撃破した。0900∼
1200時にかけて行われた第二波は107機を撃破。これによっ
てシナイ半島の航空優勢は確保された。
Tal准将、
Sha
Medl
Arik
Albert
Yoffe准将、Ariel
シナイ半島方面のIDF地上部隊はIsrael
Abraham
ron准将のUgdaとAvraham
er大佐の第8独立機甲旅団が展開していた。Talの麾下には2
9
個機甲旅団、1個空挺旅団、1個機械化偵察部隊が、Yoffeの
麾下には2個機甲旅団が、Sharonの麾下には1個機甲旅団、
1個空挺旅団、1個歩兵旅団がそれぞれ配属されていた。
第一段階としてイスラエル領内に食い込んだ形のガザ地区への攻
撃が行われた。同地にはPLA第108歩兵旅団が展開していた。
攻勢の中心となったのはTal麾下の第7機甲旅団︵Shmel
Gonen大佐指揮下、M48戦車66両装備の第79機甲大隊、
センチュリオン88両装備の第82機甲大隊︶で第7機甲旅団前進
軸の左翼を第60機甲旅団が支えている。
0846時、前進開始。魔女の大釜が口を開けた。
アラブ諸国はソ連の影響を受けており、部隊編成や運用にも反映
されていた、当時のソ連軍戦車中隊は戦車3∼4輛の3個小隊と戦
車1輛の中隊本部で構成された。これにBMP、またはBTRの1
個小隊が随伴する。歩兵はAK−74、RPK−74機関銃、SV
D狙撃銃、RPG−7を標準装備していた。
6月8日、米海軍情報収集艦リバティー︵AGTR−5︶はIA
Fのミラージュと魚雷艇の攻撃を受け死傷者多数が発生した。これ
に対して米国はフォレスタル級空母サラトガ︵CV−60︶を派遣、
圧力をかけた。イスラエル側は誤爆であると発表する。
10
ゴラン高原の戦い 第四次中東戦争
1.状況
1967年シナイ半島における攻勢は1959年のおさらいに近
Day
Warで知られる第三次中東戦争はイスラエル
く、例によって北部沿岸は攻めやすい地形だった。
Six
Force︶は6月5日、スエズ運河西岸部、シナイ半島
の攻撃で始まった。イスラエル空軍︱︱IAF︵Israeli
Air
とシリア、ヨルダンの航空基地を襲撃。航空優勢を獲得、地上軍の
進撃を支えた。
ヨルダン領のヨルダン川西岸部はイスラエル領内に打ち込まれた
楔の様な物で、国防上の観点から放置は出来なかった。IDFは三
方向から侵攻し8日までに同地を制圧した。シリア領のゴラン高原
に対しては9日、10日に侵攻が始まり、第三次中東戦争はイスラ
エルの完全勝利で終わった。
イスラエルがシリアから奪ったゴラン高原は戦略上の要所で、こ
こからイスラエルの首都機能を持つテルアビブまで障害になるのは
ヨルダン川だけ。イスラエルへの入口とも言える。
失地回復に燃えるシリア軍とヨルダン川を越えられれば後の無い
IDF。どちらも譲れない。
Kip
いくつかの小競り合いを繰り返した結果、1973年10月にシ
リア軍、エジプト軍の先制攻撃で第4次中東戦争︵Yom
Drori大佐︶、第188機甲旅団︵Yit
War︶が発生する。10月6日、IDF北部軍は第1歩
兵旅団︵Amir
Shoham大佐︶、第7機甲旅団︵Avig
pur
Ben
Gal大佐︶を以てシリア軍と対峙した。※他に
Shelem大佐麾下、第31落下傘旅団が存在し
Ben
zhak
dor
Elisha
11
た様だが、具体的展開位置は不明。
シナイ方面のIDFは準備不足だった。スエズ運河東岸沿いにバ
ーレブラインと呼ばれる陣地群が構築されたが配備する戦力が不足
していた。シリアと接する北部軍は第1歩兵旅団、第188機甲旅
団で構成されており、9月中旬から第7機甲旅団が送り込まれ、1
0月6日の開戦時にはゴラン高原北側に展開完了していた。
一方、停戦ラインを挟み対峙するシリア軍の第7、第9、第5歩
兵師団はそれぞれ歩兵2個旅団、機械化歩兵1個旅団、戦車1個旅
団で構成されており、各歩兵師団は戦車約200輌を保有していた。
さらに後方には第1、第3戦車師団が控えており、戦車だけで見れ
ばIDFの10倍を初戦に投入していた。
Kippur
Warを第五次
※文献によっては1969年3月から1970年8月7日までの戦
闘を第四次中東戦争とし、Yom
中東戦争と表記する物もあるが、日本では一般的ではない。
※シリア軍の支援としてモロッコ1個混成旅団、サウジアラビア1
個戦車旅団、パレスチ︵PLA︶2個コマンド旅団、イラク1個戦
車師団、ヨルダン1個戦車旅団が参加した。
2.経過
Tourkmani大佐︶と第5歩兵師団︵Ali
ゴラン高原で第188機甲旅団の正面にはシリア第9歩兵師団︵
Hassan
Aslan准将︶が展開していた。シリア軍第一梯隊は第52、
第33、第12、第61歩兵旅団。空爆と砲撃と言うセオリー通り
の掃除が済むと堆土、対戦車壕に守られたIDF陣地に向かって地
上部隊が前進開始する。それぞれの歩兵旅団にはT−34戦車1個
大隊が付いていた。歩兵はサガー対戦車ミサイル、RPG−7で対
機甲戦能力が付与されていた。
第53機械化歩兵旅団、第51戦車旅団、第47戦車旅団、第1
12
32機械化歩兵旅団による第2梯隊は第1梯隊の構築した突破口を
拡大し戦果拡張を行った。
第188機甲旅団は2個師団の攻撃を受けて半日で保有戦車90
輛から12輛へと戦力を低下させた。旅団としての継戦能力は失わ
れており南部の戦線が抜かれるのも遠くないとIDFは判断、ヨル
ダン川にかかる橋梁の爆破が検討され始めていた。
ya'akov橋に空挺部隊を投入し確保、第7、第9
※シリア軍の攻撃計画によるとヨルダン川にかかるArik橋、B
enot
歩兵師団の到着を待つ予定だった。なお1973年当時、シリア軍
が保有した空挺技能をもつ部隊は第82落下傘大隊と第1コマンド
群で、開戦時にヘルモン山にヘリボン攻撃を実施している。
※シリア第5歩兵師団は助攻であり、第9歩兵師団の一部はNaf
kekhを目指しており第188機甲旅団が実際に対峙した兵力は
更に減っている。
圧倒的兵力のシリア軍はパープルライン︵停戦ライン︶に沿って
構築されたIDFの防衛線の突破を試みるが、その企図は失敗する。
IDFも無傷とは行かず、文字通り限界まで消耗された。
崩壊寸前の戦線を建て直そうとIDFは奮戦し泥沼の消耗戦が始
まる。
10月7日午前、第240機甲師団︵第79、第17、第19予
備機甲旅団︶がヨルダン川西岸から来援し南部戦線を引き継いだ。
午後にはガリラヤ湖南方から第146機甲師団が到着する。第24
0予備機甲師団の到着で第188機甲旅団は任を解かれたわけでは
ない。味方増援の到着でゴラン高原南部の戦線は持ち直し、第18
8機甲旅団は北部の第7機甲旅団応援に振り分けられた。
9日、ヨシ・ペン・シャネン中佐指揮の戦車11輛を加えても第
7機甲旅団の担当する20㎞の戦線で稼働する戦車は18輛とシリ
ア軍に比べて圧倒的に劣勢であった。
13
この状況でIDFはダマスカス方面に侵攻する事で、敵軍の後背
Laner准将麾
Eitan准将麾下、Ug
を脅かし戦線への圧力を反らそうとした。
Raful
Raful︵第36機甲師団︶、Dan
10日、Rafael
da
Peled准将麾下、Ugda
Musa︵第
Laner︵第240予備機甲師団︶が前進しMo
Musa
下、Ugda
she
146予備機甲師団︶が突破口形成部を保持すると言う流れだった。
尖兵となる第36機甲師団はこの時、第7機甲旅団の稼働戦車は第
77大隊9輛と第188機甲旅団残余戦力の11輛。精鋭とは言い
難い寄せ集めであった。
この攻勢に対してシリア第3戦車師団と第7機械化歩兵師団が立
Hajhouj
al
Maja
ち塞がり、応援のイラク第3戦車師団︵Lafta准将︶、ヨルダ
ン第40戦車旅団︵Heled
li准将︶がIDF突出部の右側面を叩いた。
in
the
th
Me
Middl
※第36師団は﹁ゴランの激戦﹂では機械化師団と記載されており、
Army
1948−73﹂でも36
Ugdaと記載されていた。﹁中東戦争全史﹂
Wars
Israeli
East
﹁The
e
chanised
M
divi
Israeli
︵原書房、1981年︶ではエイタン師団と記載されており﹁Ne
Conflict:
History﹂でもEitan's
ver−Ending
ilitary
Rafulとした。
sionとなっている。便宜上、手持ちの発行年度の新しい物を参
考にUgda
3.所感
第188機甲旅団は敵2個歩兵師団︵+︶を拘束し、味方主力に
よる反撃準備の時間を稼いだ事は指命達成と言える。
14
シナイ半島の戦い 第四次中東戦争
1.状況
シナイ半島と接する事はイスラエルにとっては軍事的脅威が大き
かった。機会があれば脅威は排除されねばならない。第三次中東戦
争でIDF機甲戦力は既存のM4シャーマン戦車、AMX−13戦
車の他にセンチュリオンMk.Ⅲ、Mk.Ⅴ戦車250輛、M48
パットン戦車200輛と大幅に拡大されており、エジプト軍を下し
シナイ半島を奪取した。ここから産出される原油はイスラエルを潤
した。
だがエジプトも、いつまでも屈辱に甘んじてはいなかった。
2.経過
イスラエルにとってシナイ半島は戦略上の要所であり、スエズ運
河その物が進攻部隊を阻止する防壁となり得た。運河沿いに展開す
Line︶と呼ばれていた。
るIDFは固定陣地による防衛線を構築しており、バーレブ・ライ
ン︵Bar−Lev
エジプトはIDFが重点防御としてかなりの戦力が割かれ、激し
い抵抗があると予想していた。シナイ半島奪還はエジプト軍の歩兵
5個師団を投入する大規模作戦となった。
スイート・ウォーター・カナルでの準備等、エジプト軍の初動を
見る限り、スエズ運河渡河作戦の計画は丁寧に余すところなく仕上
げられていた。
Gorodi
Gonen少将︶の反撃開始は遅くなかった。イスラエル空
迎撃側であるIDF南部軍︵司令官Shmuel
sh
Mandler少将麾下、第14機甲旅団、第40
軍はスエズ運河上空に現れ、第252機甲師団︵Avraham
Albert
15
1予備機甲旅団、第460予備機甲旅団︶も戦場に駆けつけた。北
から第460予備機甲旅団︵戦車96輛︶がエジプト第18歩兵師
団に、第14機甲旅団がエジプト第2、第16歩兵師団に、第40
1予備機甲旅団︵戦車130輛︶がエジプト第3軍を撃破すべく動
いた。IDFはスエズ運河東岸に渡河したエジプト軍への対処とし
て虎の子の機甲部隊を投入するも、歩戦分離した状況でATMの狙
い撃ちにされ期待した戦果を出すことができず逆に壊滅的損害を受
けてしまった。さらに空からの反撃もエジプト軍のSA6、SA7
携帯SAM、ZSU23対空機関砲等防空網に阻まれ次々と撃墜さ
れ、空軍は行動制限をせざるをえなかった。もはやスエズ運河東岸
部を奪還しえるだけの戦力はどこにもなかった。この間、エジプト
軍は後方の攪乱と遮断にコマンド部隊を送り込む積極性を見せてい
た。
エジプト軍歩兵師団は歩兵2個旅団、機械化歩兵1個旅団、戦車
1個旅団と標準的な編成をしていた。
エジプトのシナイ半島奪還作戦はIDFの反撃阻止、スエズ運河
東岸部確保で当初の作戦目的を達成した。
IDFの標準的編成は旅団を基幹としている。師団は臨機応変に
編成が変えられた。火消しとして部隊が抽出される事も珍しくない。
B
Bren︶を指揮していた。邦訳では部隊は指揮官名で
Adan︶はこの時、少将として第162予備機甲師団︵
﹁砂漠の戦車戦﹂の著者アブラハム・アダン︵Avraham
ren
Ugda
しか表記されていない為、かえって分かりにくいが麾下の部隊は第
217機甲旅団、第600機甲旅団、第460機甲旅団︵第252
機甲師団から移動︶、第202空挺旅団、歩兵旅団となっている。
10月14日、シナイ半島の戦いにエジプト軍戦車1000輛、
IDF戦車800輛が投入された。エジプト軍は戦車260輛、装
甲車200輛、IDFは戦車48輛の損害を出した。大規模な戦車
戦として注目を浴びる第四次中東戦争だが、24日∼28日にかけ
て発生したスエズ市防衛戦はエジプト軍が善戦してIDFを撃退し
16
ている。渡河作戦からスエズ市の戦いにに至るまで、この戦争はゴ
ラン高原、シナイ半島を問わず最初から最後まで対機甲戦闘におけ
る歩兵の携行火器︵AT3サガー、RPG7︶が威力を発揮した。
これまでアラブ側は兵力と言う数で勝っており、イスラエル軍は
指揮官の戦術構想や指揮、練度と言った質で勝って均衡状態に持ち
Ari
込んでいたはずだが、部隊・兵器の運用と言う戦技で負けた。
Sasson、Ugda
Magen、Shlomo
Co
Sharon少将の第143予備機甲師団であった。他のUg
IDF反撃の要となったのがAdanの師団とAriel
k
da
mmandの反撃は食い止められていた。IDFの反攻は大ビター
湖北部でMatmed周辺を確保する事で始まる。ここを起点にエ
ジプト領内に侵攻する事で、シナイ半島に展開するエジプト軍の後
of
Chinese
Far
背を脅かす事となった。エジプト軍もこの状況を看過していたわけ
ではない。いわゆるBattle
m︵中国農場の戦い︶ではSharon麾下の第14機甲旅団、第
421機甲旅団、第247予備空挺旅団が確保する渡河地域に対し
てエジプト領内からエジプト第116歩兵旅団、スエズ運河東岸の
制圧地域から第21戦車師団が攻撃に出た。この攻撃でIDFを排
除する事は出来ず、エジプト第25戦車旅団が北上するも、Ada
nの第217予備機甲旅団が前面に展開、第500予備機甲旅団が
側面に現れ、渡河地域周辺のIDFの戦力が増強されるに至った。
※﹁砂漠の戦車戦﹂の195ページに挿入された10月17日ID
Fの渡河作戦︵大ビター湖周辺の図︶によると、エジプト第3軍第
Nir大佐︶が阻止攻撃に出ており、ミゾー
Karen大佐︶、ナトケ旅団︵第217予備機
Reshef大佐︶、アリエ旅団︵第500予備機甲
25戦車旅団の前進にたいして、アムノン旅団︵第14機甲旅団:
Amnon
旅団:Areh
甲旅団:Natke
Amir大佐︶が攻勢に出ているよ
Raviv大佐︶とガビ旅団︵第46
リのエジプト第2軍第21戦車師団に対してツビア旅団︵第600
予備機甲旅団:Tuvia
0機甲旅団:Gavriel
17
うに見える。予備知識無しに図を見れば情報不足な上に読み取りに
くいと言える。
※経過は以下の通り。
①エジプト第21戦車師団の南下に対してIDF第14機甲旅団は
スエズ運河東岸部の渡河点を守ろうとした。南からAvraham
Bar−Am大佐のHarel旅団、東から第460機甲旅団、
北から第600予備機甲旅団が駆けつけてエジプト第21戦車師団
を包囲、前進を阻止した。
②北上してきたエジプト第25戦車旅団は第14機甲旅団を前に反
転、第217予備機甲旅団を攻撃。これに対して第500予備機甲
旅団がエジプト第25戦車旅団の側背を叩いた。
停戦時、エジプト第2軍、第3軍はスエズ運河東岸を維持してお
り、IDFもエジプト第3軍の後方、ビター湖を挟んだ西岸に機甲
7個旅団、機械化歩兵4個旅団、空挺1個旅団を展開させ制圧して
いた。
3.所感
エジプト軍は攻勢転移に失敗した。IDFは敵を軽視して損害を
負った。
18
南朝鮮の動乱
1.はじめに
韓国では戦争映画もたくさん作られているが、韓流ファンでもな
い一般的な日本人にしてみれば﹁朝鮮戦争って何? 美味しいの﹂
って話で、歴史的には朝鮮半島で﹁消費活動﹂をしてくれたお陰で
﹁朝鮮特需﹂と言われる好景気が訪れて日本の戦後復興を助けてく
れた。また自衛隊の元となった警察予備隊の発足、冷戦時代の直面
している敵の戦訓提供と言う意味でも大きい。この点から関連書籍
も多数出版されており、それなりには知られている。
流石に60年以上過去の話なので知らない世代が居てもおかしく
はない。一般的に流れている情報を箇条書きをしてみる。中にはガ
セネタもある。
北の攻撃に対して韓国ぼろ負け。九州で脱走兵が大暴れ。日本は
掃海活動で支援。上陸作戦で反攻、中国国境まで迫るが中国義勇兵
の参戦でぼろ負け︵これは正規軍だった︶。戦艦が艦砲射撃をした。
B−29をジェット機が撃ち落とした。避難民に紛れたゲリラの浸
透。韓国側による内ゲバ、自国民虐殺。いけいけどんどんと戦場を
拡げそうなマッカーサー元帥解任。戦争の長期化確定。韓国戦争︵
朝鮮戦争︶で韓国の女性がなんと﹁日本軍﹂に慰安婦として強制連
行されたetc。
︱︱と言う事で今回は海を挟んだ隣国に注目してみた。
2.攻めてくるよ!
実戦経験の無い自衛隊なんか目じゃないと言える大韓民国国防部
の陸軍。言うだけの経験を積んできていた。国土を戦場に変えた朝
鮮戦争、ベトナム戦争への参戦等だ。
19
Constabula
韓国軍の母体になったのは1946年1月14日に創設された南
Korea
Constabul
Reserve︶で当時、南朝鮮は米第24軍団の軍政下に
朝鮮警察予備隊︵South
ry
あった。
1946年6月に朝鮮警備隊︵Korea
ary︶へ、1948年8月15日に大韓民国が設立し9月5日に
警備隊から陸軍へ名称の変換、組織の改編を受けて国軍へと拡大す
る。その要因となったのは1948年から始まった北の侵略行為に
ある。
1948年2月、1946年に設立した南朝鮮労働党が非合法化
されゲリラ活動へと移行した。共産ゲリラに呼応する形で4月3日
に済州島、10月19日順天、麗水の第14連隊が反乱を起こし、
この過程で軍の改編が行われ続けた。
※﹁若き将軍の朝鮮戦争﹂では麗水・順天の反乱の結果、﹁4﹂の
数字が忌避され韓国軍では欠番とされたとある。
1950年、開戦時の韓国軍︵ROK︶は以下の通り。
第1師団:師団長白善燁大佐︵第11連隊、第12連隊、第13
連隊+砲兵、工兵大隊︶
第2師団:師団長李亨根准将︵第5連隊、第16連隊、第25連
隊+砲兵、工兵大隊︶
第3師団:師団長劉升烈大佐︵第22連隊、第23連隊︶
第5師団:師団長李応俊少将︵第15連隊、第20連隊、独立第
1大隊︶
第6師団:師団長金鐘五大佐︵第7連隊、第8連隊、第19連隊
+砲兵、工兵大隊︶
第7師団:師団長劉載興准将︵第1連隊、第3連隊、第9連隊+
砲兵、工兵大隊︶
第8師団:師団長李成佳大佐︵第10連隊、第21連隊+砲兵、
工兵大隊︶
20
首都師団︵第17連隊、第2連隊、第18連隊︶
当時のROKには旧日本軍、満州国軍出身者︵韓国系軍官︶が受
け入れられていた。第1師団長の白大佐は満州の軍官学校を9期で
卒業、終戦時は満州軍中尉。1950年4月には第1師団長に就任。
第2師団長の李准将は陸軍士官学校56期。第3師団長劉大佐は陸
軍士官学校36期卒で第7師団長劉載興の実父。
もっとも日本軍関係者だからと親日派とは限らない。陸軍士官学
校49期、終戦時少佐だった蔡秉徳は反日思想を買われて陸軍参謀
長に抜擢されたと言う。後に締結された日韓基本条約締結の反対派
も多かった。
建軍4年で開戦を迎えたROKは対ゲリラの治安維持を主任務と
した警察軍的な組織で、師団に対する砲迫装備は少なく北朝鮮軍︵
NKA︶に比べて火力は劣っていた。ROKは105mm榴弾砲、
57mm対戦車砲、81mm、60mm迫撃砲を与えられていた。
対するNKAは122mm、76mm榴弾砲、76mm自走砲、7
6mm対戦車砲、120mm、82mm、61mm迫撃砲を装備。
数と質、奇襲効果の面で勝っていた。
開戦に到る要因は韓国軍が先に手を出したと言う説もある。確か
に北を仮想敵として軍を整備していたが準備不足であり、日本で入
ポップン
手できる文献を読む限りでは北の奇襲であったと考えられる。
6月25日、北朝鮮は韓半島の赤化統一を目指し﹁暴風﹂を発動。
NKAは火砲600門、迫撃砲1000門の火力支援で正面248
ソウル
㎞の戦線を9個師団が突破した。この時、国境付近に展開していた
ROKは西岸に第1師団、第7師団、京城に首都師団、中央の春川
に第6師団、東部に第8師団で合計11個大隊と十分な数ではなか
った。攻撃の予兆はあったが、第4次中東戦争のイスラエルの様に
戦争の危機を認識していなかった。
さらにT−34戦車を正面に前進するNKA対して、当時のRO
21
Kは国内治安維持が限界の軽装備。山間部で機甲部隊は活躍できな
いと言う前提で、機甲戦力は僅かにM8装甲車27輛と言う状態だ
った。その為にゲリラ程度の侵攻なら撃退できると認識していた節
がある。
ソウル
対戦車壕や地雷原もない。NKA5個歩兵師団、1個戦車師団が
京城を指向、2個歩兵師団が春川、1個歩兵師団が東部沿岸を南進
ソウル
した。さらに後方攪乱を平行して行いROKの後背を脅かしていた。
兵力の集中から見ても京城でROK野戦軍の包囲を目指していたと
考えられる。
いわゆる三単位編成であったROKの師団は前方に2個連隊、後
方に1個連隊と、1/3を予備隊とする運用をした。師団には10
榴15門の砲兵大隊と工兵大隊が配属されていた。骨幹となる歩兵
連隊には対戦車中隊︵57mm対戦車砲6門︶が、歩兵大隊には迫
撃砲小隊︵81mm迫撃砲4門︶、中隊には軽迫撃砲小隊︵60m
m迫撃砲3門︶と対戦車班︵2.36インチバズーカ2門︶が与え
られていた。
ROKの士気は崩壊し逃げ出したイメージが付いているが各師団
は敵に抵抗していた。
ソウルの西翼となる臨津江北岸で第1師団の初戦は惨敗だった。
臨津江北岸に配置していた左翼第12連隊︵開城︶はNKA第6師
団、右翼第13連隊︵高浪浦︶はNKA第1師団の攻撃を受け後退。
南岸に至る臨津江鉄橋付近に第11連隊が展開、その右翼に後退し
た第13連隊が展開し抵抗線を構築した。師団工兵は第12連隊の
後退後、橋を爆破する計画であったが不発。橋は爆破できなかった
が第1師団は坡州を確保していた。
ウィジョンプ
第1師団の悲劇は自隊ではなく、他部隊によって引き起こされた。
議政府の陥落である。
開戦時、議政府正面の防備は第7師団が受け持っており第1、第
9連隊が並列配置で警戒に当たっていた。これに対してNKAは第
22
3、第4師団を投入して来た。それぞれの師団は第105戦車旅団
から戦車1個連隊の増強を受けていた。砲撃、戦車の突破、歩兵に
ソウル
よる側背遮断による包囲と言う定石通りの攻撃で第7師団を後退さ
せた。
議政府から京城まで32kmしかない。ROKは元から第7師団
隷下であった第3連隊を首都司令部隷下に配属させて代わりに第2
師団第25連隊を編入する計画であった。戦力の低下した状況で開
戦を迎え、第3連隊を復帰させると同時に第2、第3、第5師団を
応援として送り込もうとした。
25日午後、第7師団に第18連隊、陸軍士官学校生徒大隊を配
属。
6月26日、議政府東に到着した第2師団の戦力は師団司令部、
第5連隊︵2個大隊︶のみ。これでは攻勢に移るには戦力不足は明
らかだった。
だが反撃は強行され第2、第7師団によって実施された反撃作戦
が失敗。ソウル東北の議政府は26日13時に陥落し、第1師団の
右翼ががら空きになった。
※韓国国防軍史研究所﹁韓国戦争﹂に首都圏の作戦として図版が掲
載されているが一部、途切れている。陸戦史研究普及会﹁朝鮮戦争﹂
に掲載されている韓国第一師団の防御略図が補完してくれる。児島
襄﹁朝鮮戦争﹂では数行の記述のみだが、三野正洋﹁わかりやすい
朝鮮戦争﹂では局地的な戦場と言う事もあり省略されている。
参謀総長は李准将の反対を無視して反撃を強行させた。敗北の責
任を負わされて李准将は解任され、劉准将が第7師団と合わせて第
2師団の指揮権を与えられた。2個師団と言えばそれなりの戦力に
なりそうだが、残存戦力は6個大隊規模でしかなかった。
ソウルの東翼となる春川の第6歩兵師団は隘路と水量豊かな河と
言う地形を活かしてNKA第2師団を相手に27日まで耐え凌いだ。
第6師団が後退したのは両翼の友軍が崩れた為である。東海岸の第
8師団は背後に敵が上陸し挟撃されながらも内陸部に後退した。な
23
お韓国語で退陣、退却、退軍を回軍と呼ぶそうで、漢字を使ってい
ても日本語とは表記が異なる。
ソウル
国連では北朝鮮への制裁決議が行われていた。
27日、首都攻防戦が激化する。京城を守備するROKは第2、
第3、第5、第7、首都師団とそれなりに揃っていたが、雑多な部
隊で指揮統制に問題があった。
ソウル
ROKは果敢に抵抗するが無秩序な遅滞作戦で28日には漢江橋
ハンガン
が爆破され自滅した。開戦から3日目、28日に京城は陥落した。
第1師団は漢江を渡河準備中、米軍機の誤爆を受けた。
渡河点を爆破し、外縁部で抵抗を続けていた部隊を置き去りにし
たROKだが、第2、第7、首都師団を中核とした混成部隊で新た
に漢江防御線を構築しNKAの進撃を阻止しようとした。
3.米軍の来援
6月30日、米統合参謀本部は1個連隊戦闘団の投入を許可。そ
の後、2個師団の派遣と海上封鎖を承認した。
7月1日、日本に駐留する第24歩兵師団から先遣隊として第2
Smith︶指揮下のスミス支隊︵A、D中隊
1連隊第1大隊長のチャールズ・B・スミス中佐︵Charles
Braford
を除き、75㎜無反動砲×4、4.2インチ迫撃砲×4の増強を含
む︶が釜山に上陸。
戦場では友軍誤爆があり鳥山ではROKは米・豪軍の攻撃で20
0名の損害を受けた。遂には米軍機を撃墜し搭乗員を捕虜にしたと
ある。
7月2日、第6師団は後背を脅かされ弾薬欠乏により原州から忠
州に後退した。
米第24師団はソウル南、平沢∼安城の線でNKAの南下を阻止
しようとした。南下するNKA第4師団及び第107戦車連隊に対
24
してスミス支隊が立ち塞がった。
7月4日、スミス支隊は第52野砲大隊を指揮下に加え平沢の北
18㎞、鳥山に展開。右限界である92高地にC中隊、その左に位
置する117高地にB中隊がそれぞれ陣地占領をした。
翌日、7月5日0816時、鳥山の北5kmの京釜国道を南下す
る敵に対する阻止攻撃が始まった。これに対してNKA第105戦
車師団第107戦車連隊、第4師団第16、第18連隊は両翼から
迂回し後背を遮断すべく動いた。結果、スミス支隊は安城へと後退
する事となった。
※﹁韓国戦争﹂ではスミス支隊の指揮下に加わっていた砲兵中隊の
陣地右側88高地にROK第17連隊第2大隊が配備されていたと
ある。陸戦史普及会﹁朝鮮戦争﹂では触れられておらず、鳥山の戦
闘を描いた付図第4にも記載は無い。約30年経って補完された情
報と言える。
ROK第17連隊は竜仁でNKA第1師団、第2師団は利川でN
KA第2師団に遅滞戦闘で損害を与えている最中、既存の部隊を再
建する為に、首都師団、第1師団、第2師団に第3師団、第5師団
ピョンテク
の兵力を吸収し3個師団に再編成を計画。この3個師団で第1軍団
を創設。金弘壹少将が軍団長に就任。
鳥山を制圧したNKA第4師団は引き続き南下、平沢へと向かっ
た。ここには米第24師団第34連隊が展開していた。
7月6日、首都師団は鎮川に移動。予備役の金錫源准将が李准将
と交代して首都師団長に就任。
Macarth
一方の米軍も、ドン引きするほど修羅場だった。平沢に展開して
いた第34連隊第1大隊が天安に後退した。
7月7日、マッカーサー元帥︵Douglas
er︶の指揮下で国連軍編成。ROKは第3、第5、第7師団の再
ソウル
編成と第9師団の新設を決定。
ROK第1軍団は京城∼竜仁∼鎮川∼清州道で遅滞行動を実施し
25
たと言えば聞こえは良いが、NKA第2師団に押されていた。
第1師団は陰城においてNKA第15師団に対し遅滞する。
7月8日、NKA第9師団が天安に襲来。前日に埋設した対戦車
地雷は機能せず、米第34連隊は後退する。米第24師団は綿江南
岸に防御線を張る。
首都師団はNKA第2師団との戦闘でチャ峠に後退する。
7月9日、首都師団はNKA第2師団に逆襲。高地の一部を回復、
引き続き鎮川の奪還を目指すが10日、後退命令を受けて国連空軍
の支援下、清州に撤退した。
7月12日、第6、第8師団を以ってROK第2軍団を創設。金
白一准将が軍団長に就任。NKA第3師団の攻撃により清州を放棄。
H.Walk
7月14日、ROKはマッカーサーの指揮下に入る。
7月15日、ROK第2軍団設置。
7月20日、大田陥落。
8月1日、第8軍ウォーカー中将︵Walton
er︶の命令で国連軍、ROKは戦線を後退させ、韓半島南東部に
追い込まれた国連軍は南北に流れる洛東江を天然の要害として米4
個師団が西のX線、ROK5個師団が北のY線を担当した。ROK
の配置は西から第2軍団第1師団、第6師団、第1軍団第8師団、
首都師団、第3師団となっている。
奇襲大作戦﹂等でも触れら
洛東江防御線︵釜山橋頭堡︶の攻防戦と呼ばれる戦いで、映画﹁
戦火の中へ﹂﹁アベンコ特殊空挺部隊
れている。
この頃、ROKは16∼19歳青少年の学徒兵を現地徴用してい
た。他にも民間人の協力が多数あった。
26
戦場の一例:東部戦線の危機
1.8月攻勢に於ける浦項の戦い
PUSAN
PERIMETE
後退する国連軍は不退転の決意で洛東江を基点とした抵抗線を構
築する︵米軍公刊戦史ではTHE
R︶。1ヶ月と少しの間、この狭い地域を巡って戦いが始まった。
日本で釜山橋頭堡の戦いと言えば白准将のROK第1師団が注目を
浴びており﹁多富洞の戦い﹂の出版等で知られているが、他の戦線
でも危機はあった。いわゆる8月攻勢でROKの守るY線右翼の崩
壊。その危機がやってきた。
8月5日、ROK最右翼の東部沿岸部でNKA第5師団はROK
第3師団に攻勢開始。丸山を包囲。
6日、第3師団は師団指揮所が襲撃され指揮機能が麻痺する危機
的状況だった。これを失態と捉え師団長の交代が行われた。8日に
金准将が第3師団長に就任。
首がすげ代わったとは言え第3師団を取り巻く状況は好転するど
ころか危機的状況だった。隣接する第8師団はNKA第8師団に拘
束されて応援に来れない。対する敵は第3師団を拘束する事で行動
の自由を得て、NKA第12師団と第766連隊が浦項に迫ってい
た。
9日、五十川の江口洞橋を第22連隊は北岸に兵を残したまま爆
破した。
第8軍司令部では山地の踏破はゲリラ程度でROKには十分対処
できると考えていた節がある。開戦時のNKAに対する見積同様、
今回も甘く考えていた。第3師団は退路を断たれ長沙洞に包囲され
た。
10日、ウォーカー中将は第8軍の予備兵力を全てここに投入し
27
た。韓国戦争の帰趨を決めた戦いとも言え、浦頂を指向するNKA
の攻勢に対して、旅団規模の任務部隊である浦項地区戦闘司令部︵
浦項支隊:ROK第17・25・26連隊、第1ゲリラ大隊、海兵
大隊、米第18砲兵大隊C中隊︶と増強大隊戦闘団であるブラッド
レー支隊︵米第9連隊第3大隊、野砲・高射・工兵中隊︶が編成さ
れた。これらの増援を受けて金准将は戦線の崩壊を食い止めた。
8月11日、NKAの一部が浦項市内に突入、ほとんど無防備の
浦項は陥落した。浦項南部の迎日飛行場に危機があった。
8月13日、馬山と晋州地区でキーン作戦が始まった頃、首都師
団が火消しに到着。NKAを包囲せんと攻撃開始。
8月15日、首都師団、浦項支隊が安康里でNKA第12師団を
攻撃。この状況下で16日、第3師団は海上機動で包囲より脱出し
た。
一方、西部戦線を構成する第1師団では8月22日、356高地
の北1.2kmに位置する無名高地を第11連隊第2大隊を攻撃。
NKAの砲撃に混乱しパニックが発生した。米第27連隊左翼に危
機が訪れた。白師団長は混乱を建て直すべく師団長と言う要職にあ
るにかかわらず、大隊の先頭に立って突撃した。
2.9月攻勢に於ける浦項の戦い
9月、ROKの正面に展開するNKA第2軍団は7個歩兵師団+、
米軍の正面に展開するNKA第1軍団は6個歩兵師団+。ROK右
翼、浦項正面にはNKA第5師団が展開していた。
9月1日、ROK第1軍団長に金白一准将、首都師団長宋大佐、
第3師団長李大佐と指揮官交代が行われた。ROK司令部は敗因を
現場指揮官に押し付けたわけだが、兵員の補充でサポートする事も
忘れなかった。
ROK第1軍団を指揮官に金白一准将に、司令部要員1,275
28
名。麾下の部隊として首都師団:宋大佐指揮︵第1、第17、第1
8連隊︶16,376名、第3師団:李大佐指揮︵第10、第22、
第23連隊︶7,154名、第8師団9,106名が存在した。
第8軍司令官ウォーカー中将は朝鮮人の戦意を信用して居なか
った。不信感からテコ入れをすべくコールター少将指揮でジャクソ
ン支隊︵第21連隊︶を編成し、増援として投入した。韓国側も首
都師団へ第26連隊が追加戦力として投入した。
9月2日、NKAの攻勢開始。圧迫により第3師団は後退。
迂回した一部が戦線を突破に成功した。この浸透によって首都師
団左翼に脅威を受けた。
ROK第1軍団は首都師団、第3、第8師団を以って9月攻勢最
大の激戦に耐え、仁川上陸まで戦線を堅持した。この英雄的、献身
的戦いは﹁韓国戦争第2巻﹂、﹁朝鮮戦争第2巻﹂で詳しい。
この戦いで国連軍が持ちこたえられたのは北にはない空海軍の支
援、日本と言う後方基地での補充兵教育等環境が整っていた事も上
げられる。
29
Boshin Warでの賊軍はマジキチですか?
はじめに
明治の御代になった時、天皇陛下のありがたさをわからないナン
センスな者たちがいた。左翼や売国奴とは違う。賊徒、賊軍と呼ば
れるマジキチだ。﹁会津戊辰戦史﹂では﹃幕府忠義の士﹄と表現さ
れている。造反有利と言う言葉もあるが、鎮圧する側とされる側の
立場による見解の相違で水掛け論にしかならない。
例えばマジキチとマヨチキは似ている。マヨネーズをどんぶり飯
にかけるのはマヨラーではなくマヨキチで良いと思うが、賛否両論
だろうと言う感じだ。
ということで今回は徳川幕府の残党、函館に散った土方歳三とか
のお話。
1.新撰組
それは幕末、軍事政権であった徳川幕府の傘下で運用された特別
警察で京の治安維持に当たり、当時はまだアングラな活動であった
勤皇の志士︵活動家︶を逮捕していた。同時期に江戸の治安維持に
当たった新徴組と言う浪士組織が存在した。こちらは3人扶持25
両の給金を貰っていた。
新撰組は当初から結束していた訳ではない。と言うかセクトだっ
た。
芹澤鴨︵木村繼次︶が新撰組の評判を落としているとして芹澤一
派を総括している。芹澤の腕は確かだったらしく、寝ている所を沖
田に斬られても逆襲し一太刀浴びせている。近藤も加わり二人がか
30
りで卑怯にも殺害している。内ゲバ怖い。
※小沢仁志主演の﹁実録新選組﹂では白竜演じる芹沢が良い人で、
小沢演じる近藤と仲良しだった。演出としては面白い。
近藤勇が京から来て御所守衛の衛士募集した時、伊藤武明︵甲子
太郎︶は同志89人と共に加わった。しかし付き合ってみると﹁こ
いつらってヤバい?﹂と言うことで、新撰組を離れ五條橋の東長圓
寺に引き揚げたが、邪悪な新撰組はこれを襲撃し﹁お前ら皆死んで
ね!﹂と抹殺した。
﹁局中法度書﹂と言う破れば切腹と言うおっそろしい代物も有名だ。
﹁近代日本国民史﹂によると決まり事は4つ。1.士道に背く間敷
事。2.局を脱するを不許。3.勝手に金策致不可。4.私の闘争
を不許。退職許さないとかブラック企業ですね!
薩摩が徳川を裏切り長州と手を組むと状況は変わった。﹁新撰組﹂
によると鳥羽伏見の戦い︵伏見戦争︶では、陸軍奉行並大久保主膳
正の麾下に京都見廻組︵佐々木只三郎︶と共に配属された。この時、
動員された新撰組は150人。近藤勇は城に残り、土方歳三が指揮
を執った。軍主力を陸軍奉行竹内丹後守が率いて伏見街道を進軍し
た。この戦いで敵は高所を押さえており苦戦した。歩兵頭窪田備前
守は1個大隊を率いて突撃、新撰組と協同で墨染まで進出する。
兵力で勝っていた幕府側だが、錦旗が翻ると朝敵となり賊軍の名
を負う事になる。完璧な理論武装だ。形式を重んじた当時の日本人
の士気を打ち砕くには十分だった。新撰組は淀川堤を陣地占領し、
後衛を勤めた後に大坂城に撤退した。この戦いで新撰組は70名を
失った。
※中井貴一主演の﹁壬生義士伝﹂では官軍の装飾で時代考証に致命
的な間違いがあった。
文久3年8月18日の京都政変で會津藩別動隊として勤めて以来
会津藩に附属し、鳥羽伏見の大敗後、幕府軍艦順動丸で大阪を脱出、
江戸に到着してからは甲府の防御に参加した。甲府は江戸に至る主
要戦闘地域の前縁であった。
31
﹁会津戊辰戦史﹂によると金5,000両、大砲2門、小銃500
挺を受領し鎭撫隊︵89人︶として動いた。新撰組の系譜に列なる
組織と言える。組織の中枢である近藤勇は大久保大和、土方歳三は
内藤隼人と称しているが大局的にはどうでも良い。
近藤、土方は地元なので募集して人員の補充を行ったが、一足遅
く甲府は3月4日に官軍︵土佐、高遠、因州︶の手に落ちていた。
勝沼で官軍を食い止めようとしたが、ノンポリで日和り見主義な藩
は薩長に与し、幕藩体制の結束崩壊が始まった。3月6日、砲兵の
支援で6個小隊の官軍と交戦する。官軍は本道の正面を谷守部︵因
州1個小隊、砲兵︶、右翼││日川より片岡健吉の3番隊︵因州2
個小隊、高島1個小隊︶、左翼より谷重喜の4番隊が前進した。稜
線に登った左翼は賊軍右翼に射撃を浴びせた。3月7日、前衛︵2
個小隊、砲兵︶は勝沼を抜き、賊軍を追撃し戦果拡張を目指す。フ
ルボッコで退却した近藤さんとその仲間たちだが、4月﹃賊魁大久
保大和本名近藤勇捕らえ││﹄そう、近ちゃんは捕らえられたので
ある! 新撰組局長は4月25日、官軍に逆らった大逆の罪状で北
豊橋郡板橋で首を斬られ、京の三條河原に送られた。
副長土方歳三は残兵を率いて市川に後退した。その後、大鳥圭介
と合流し東北を転戦し明治2年5月1日に戦死した。最期は陸軍奉
行、函館市中取締裁判局頭取の肩書きを持っていた。底辺から賊軍
の頭目とは言え大出世である。
2.幕府残党の反乱:明治元年4月11日、江戸は兵火の災をまぬ
がれ無血開城された。21日には大総督宮が入られ大総督府に定め
られた。﹁日本の物は皆天皇陛下の物﹂であるから返しただけだが、
徳川家の家臣は慶喜公が水戸に引退せられた後も納得しない。前将
軍の恭順に不満を持つ幕臣抗戦派││海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉
行大鳥圭介等は8月19日子の刻、2,000の同士と﹁開陽﹂﹁
32
回天﹂﹁幡龍﹂﹁千代田﹂﹁長鯨﹂﹁美賀保﹂﹁咸臨﹂﹁神速﹂に
分乗し品川を脱出した。
︵1︶宇都宮の戦い
賊将大鳥圭介は新撰組残党土方歳三等︵2,000人︶と合流し
た。﹁通俗日本史﹂では敗残兵の賊軍と記載されているが、大鳥は
優れた野戦指揮官で部下もフランス人の教練を受けた精鋭だった。
賊軍と記載するのは構わないが、相手を過小評価するのはよろしく
ない。
先鋒は江上太郎率いる伝習第1大隊、桑名藩士︵200名︶、大
砲2門。中軍は本多幸七郎日切る伝習第2大隊、後軍は第7聯隊︵
350人︶。
4月16日、武井村で防御陣地を構築した結城の官軍を撃破、死
傷者780損害を与えた。賊軍の損害は死傷者20。抵抗を排除し
つつ飯塚に前進する。
土方歳三はこの時、先鋒の一員として転戦した。19日に宇都宮
を攻略するが、官軍の到着で明神八幡と宇都宮城防御陣地を構えて
抵抗。宇都宮は奪還され日光に転進、戦闘損耗の激しさから会津方
面に退却する。
︵2︶上野戦争
池田大隅守、澁澤誠一郎を指揮官とする幕臣旗本の彰義隊︵1,
500人︶は上野山に籠って総督府からの解散命令に従わなかった。
武装勢力の不法占拠だが、寛永寺の僧侶まで協力していた。﹁幕末
快挙録﹂によると澁澤が武州飯能に振武軍を組織すると、彰義隊の
指揮官は本田邦之助となった。彰義隊は府下で巡警を行っていたが
官軍と衝突し死傷者を出すこともあった。自警団気取りだ。
33
彰義隊の言い分としては﹁徳川家の知行が決まるまでどこにも行
かないよ。ここには徳川家のお墓もあるし、それを守るために駐屯
してるんだ。わかってね!﹂そう言いながら3,000人を越える
勢力となった。徳川家の知行問題は﹁駿遠70万石﹂と寛大な処置
を取ることに決まっていた︵5月14日に発表︶が、はっきりと言
って主君の心情を察せず、この動きは迷惑だった。
5月15日、上野賊徒追討の命令が下り、軍務局判事大村益次郎
を指揮官とする官軍は13藩を動員し上野山を囲んで殲滅した。
上野に山門は9つあり、その内の南側にある正門と言えるのが黒
門と御成門であった。黒門口では西郷どんの率いる薩摩兵と彰義隊
本隊、萬字隊がガチでぶつかり合った。結果として砲兵の火力支援
で戦況は動いた。﹁西郷隆盛﹂によると官軍の展開速度が早く、上
野山の敵兵力は2,000人程で、市内に出かけている者も居たと
のこと。
彰義隊の残党は東北へと落ち延びて行った。
︵3︶東北戦争
奥羽諸藩が立ち上がると幕府海軍総裁であった榎本は、とりあえ
ず手元の船を纏めてかっさらうと松平正親、荒井郁之助等と共に仙
台に向かった。
途中、暴風雨に遭って﹁咸臨丸﹂は清水港に寄港した。乗員が上
陸している所、官軍3隻の襲撃を受けて沈没。榎本の暴挙に対して
﹁何しとるんじゃ、ゴラァ!﹂と朝廷は怒った。﹁榎本等は賊徒だ
から飯やんなよ﹂と布告した。広域指定の凶悪犯だ。
﹁薩長2藩は朝廷の命としょうして己の野心を遂げようとしている。
この奸賊は除かねばならない!﹂ってことで茹で上がっている奥羽
列藩に対して、政府は九條道孝を奥羽鎭撫総督に任命し、奥州の数
万の官軍討手を送り賊徒蜂起に対処させた。東北の諸国は数度の戦
34
で白旗をあげ﹁チキン野郎﹂と嘲笑されるが仕方ない。ちなみにド
ネルケバブにチキンもある。
﹁戊辰北越戦争記﹂によると幕府の歩兵隊長古屋作左衛門は兵60
0を率いて暴れまわった。会津から北越経由で信州に進出する計画
だった。
途中にあった城では金や米を要求し、信州飯山城では官軍に敗退
するがその時、市中に火を放っている。︵千曲川を挟んで対陣する
も砲撃を受け、上流を渡河した官軍に腰巻で攻撃を受け、さらに飯
山から挟撃された︶
﹁近代太平記﹂によると朝廷が会津征討の号令をかけて諸藩の兵が
動員された。尾州、加州、薩州、長州、越前、松代、松本等の兵が
越後口より進撃︵北越戦争でいわゆる長岡城周辺の戦闘がメイン︶。
薩州、長州の別軍、大垣の兵が白川口より進撃した。
征討に加わった加賀藩の﹁加賀藩北越戦史﹂によると加賀藩から
派兵された兵力は7,200人︵戦闘に加わる士、卒1,744人。
監軍、監察、軍使等953人、役夫等4,600人で後方支援の要
員が多かった︶で、一例をあげると家老津田玄蕃の指揮する部隊は
士73、卒33で構成されていた。今回の派兵で加賀藩に支給され
たのが金10万両、米1万石、弾薬・雷管30万発、草履20万足、
味噌、漬物、梅干し他。
﹁徳川十五代記﹂によると徳川の残党数千が長岡小千谷に集結しつ
つあった。これに対して庄内藩攻撃における官軍の行動計画は︵1︶
加州、高田、薩摩、長州の部隊が柏崎より青海川に前進する。︵2︶
尾州、松城、飯山、薩摩、長州の支隊は千曲川を渡河し、六田町か
ら小出島に前進する、となっている。
庄内藩は4月23日までの戦いで薩長兵を撃退し、逆に越境して
村山郡の各村を制圧した。﹁秋田戊辰勤王史談﹂によると秋田藩は
勤王、佐幕の間で揺れていたが、27日の第二次征庄軍に参加して
いる。小場小傳治︵兵600︶は新屋口から由利郡へ、梅津小太郎
︵兵300︶は仙北郡を越えて雄勝郡大澤口から矢島に進出したが、
35
この頃、秋田藩の火器充足率は低く槍や弓が主要装備であった。そ
の為、庄内兵の火力に圧されて敗退する。﹁近代戦は数ではなく火
力﹂と証明した。
会津藩、庄内藩は戦闘民族として歴史に名を残したが、いざ戦い
が始まってみると奥羽越列藩は一枚岩ではなかった。﹁荘内の歴史﹂
によると亀田藩、本庄藩は裏切り島津、鍋島、小笠原の兵を引き入
れた。
さらに発生した新庄の裏切りに対して﹁ゆっくりできない裏切り
者は制裁だ!﹂と、庄内藩は1番、2番大隊を投入した。
7月13日、舟形川を隔てて官軍と交戦。軍旗をゲットした。﹁
庄内戦争録﹂に地図等記載されているので参考になる。
新庄藩は積極的に攻撃参加していたようで﹁新庄藩戊辰戦史﹂に
よると8月5日、1番、2番、3番隊より抽出した兵10、教導1
のコマンドーによる夜襲を計画した。だが放火の時期を逸して引き
揚げている。8月8日の増田田口の戦いには1番、3番、5番、7
番、9番隊をやる気満々で投入している。
8月21日、首謀者である会津藩主松平容保の籠る若松城の防衛
に朱雀隊、白虎隊︵少年兵︶、玄武隊︵高齢者︶、青龍隊が組織さ
れた。これらの部隊は士中、寄合、足軽の3隊で構成される。この
他に大砲隊、遊撃隊、新遊撃隊、結義隊、奇勝隊、草風隊、順風隊、
別盾隊、純義隊、誠志隊、士官隊、新練隊、衝鋒隊等色々存在した。
防御計画は南方の下野、西方の越後口、東方の白川口に於いて防御
戦闘を行うと言う物だった。
8月22日、官軍が会津領内に進出。戸口原に阻止線を張った。
白虎隊この時、左翼に展開している。この戦いは23日に雨が降っ
たことで会津側の鉄砲が使えなくなり、官軍の突撃を受けて敗走し
た。白虎隊の最後は﹁お城が燃えてる、もう終わりだ!﹂って事で、
敵に斬り込んで玉砕しようと言う意見と、皆で自決しようと言う意
見が出て自決を選択した。同じ死ぬなら敵に損害を与えてから死ね
と言う事で、﹁こいつらアホか?﹂と言う意見もある。
36
9月22日、﹁ごめん、悪かった﹂と容保が降伏し若松城は陥落
した。
この戦は﹁賊のくせに逆恨みしてんじゃねえよ、糞虫が﹂と言う
事だが遺恨を残しまくった。
※山下智久主演の﹁白虎隊﹂を見ると、死に急いだなと再認識して
しまう。小林稔侍の演じた家老西郷頼母は反戦派であったが、家族
が自決した後は五稜郭まで転戦しており複雑な心情を感じさせた。
3.北海道キャンペーン
東北諸藩が官軍に降伏すると榎本達の立場は困った事になった。
﹁どこ行けって言うんだよ﹂
榎本は松平越中守、板倉伊賀守等と彰義隊の残兵を乗せた艦隊を
率いて蝦夷︵北海道︶に逃れ、10月10日に鷲木港に入った。そ
の中には賊将として名高い土方歳三の姿もあった。土方は近藤勇と
同郷で竹馬の友であった。近藤が捕縛され時、土方は﹁俺はまだ死
ぬわけにはいかん﹂と言う事で、榎本と会談した。徳川の恩を忘れ
なかったと言う意味では立派だが、忠義を尽くすべき方向を間違っ
ていた。
函館府知事清水谷公考は賊の襲来に対して迎撃の兵を向けた。
﹁いっちょやったるか!﹂
叛徒︵※銀河英雄伝説ではない︶は官軍を打ち破り大野村、文目
村を制圧下に置いた。続けて七重を取ると五稜郭に迫った。﹁やっ
べえ!﹂知事は船に乗ると青森にとんずらした。結果、10月26
日には五稜郭が無血で賊の手に落ちた。﹁幕末物語﹂等でも知事は
逃げたと記載されている。
江差、松前を12月中旬までに攻略し蝦夷を制圧下に置いた。
これに対して政府は、官軍を派遣するが寒いし雪解けの来年に攻
撃しようなんて話になった。そして明治2年4月8日、25,00
37
0の兵を乗せた輸送船団は青森を出港、9日早朝に乙部浜に投錨し
た。江差の賊軍は敵橋頭堡が拡大する前に海に追い落とそうと逆襲
に向かうが、頑強な抵抗に遭い目的を達成できなかった。
11日夜半、官軍は内陸部への進撃を開始したが先鋒の松前藩兵
は、松前から増援を受けた賊軍の逆襲を受けて後退する。賊軍の死
傷者は約20、官軍の死傷者は約120。
17日、副山城陥落。
なんやかんやあって土方歳三が死に、榎本は降伏し日本は統一さ
れた。
おわりに
明治政府から見れば徳川の旧幕臣なんて国家に反逆する賊徒でし
かなかった。日本人は判官贔で義勇奉公と言う面から旧幕府軍に感
情移入をするが、統治者にとって旧体制の武装集団は政権転覆を起
こしかねない火種であり根絶すべき物だった。なぜなら自分達は武
力で討幕を成し遂げたからだ。
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西南戦役の賊軍ってマジキチですか?
はじめに
西南戦争ってなによ? っ言うとマジキチなサムライが中央に逆
らって反乱起こし、天皇陛下が鹿児島征討の勅を下された。軍事史
くわんぐん
として見ると、日本陸軍が新兵制を初めて実地に運用した大戦争で
ある。賊徒は熊本城を囲み官軍と木葉高瀬山鹿間に戦い、警視隊が
活躍。八代では後背を突いて賊軍を撃破。熊本城に官軍が続々と入
ると、賊軍は鹿児島城攻撃。賊軍、城山に滅亡し鎮定されて涙目飯
ウマと言う風に捉えられている。
1.西郷どんの決断
明治6年、征韓論を主張するが行われないのに逆ギレして陸軍大
将と参議のお仕事辞めて田舎に帰った西郷どん。静かに暮らすつも
りでも周りが動いてしまった。
﹁天下革命的血漢﹂とか言われる我らが西郷どんの有能なプレーン
は﹁天下は大久保さんや木戸さんの物じゃねえよ。西郷さんと俺ら
の物にするんだよ。やるからには勝つんだよ﹂と勝手に暴れるわ、
色々と動いて﹁政府に問う所あり﹂と言って西郷どんを巻き込んだ。
明治10年1月30日の事である。
﹃人身穏やかのあらず﹄と言う事で国も暴徒化した事態を鎮圧すべ
く綿貫少警視︵麾下、巡査200人︶を長崎、かんたる一等大警部
︵麾下、巡査200人︶を熊本、三等大警部︵麾下、巡査100人︶
を佐賀県に送り込んだ。
ともかく賊徒と呼ばれていたが、彼らはへこたれずにマイペース
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で大胆な作戦を立案した。
2.熊本城、落とそうぜ!
さつぐん
西郷どんと仲間たち︵薩軍、賊など色々と呼ばれ方はある︶
︵1︶元サムライとかとか15,000人
︵2︶賊軍は増殖して4万まで拡大。﹁童話の戦争史﹂によると
熊本城 2,500人︵1個聯隊+︶
縣令︵知事︶の大山綱良は﹃官費を出して軍費にあて隆盛の便をは
かった﹄とある。
官軍関係部隊
︵1︶熊本鎮台
︵2︶たくさんの味方が戦闘を支援してくれ、陸軍52,000
人、臨時徴募兵3,700人、海軍22,000人︵軍艦11隻、
運送船44隻︶まで拡大
構想
︵1︶方針
プランA
フェイズ1 熊本城は3,000で包囲したままで、長崎に行
ってお船を奪うよ。
フェイズ2 大坂に向かうよ。神戸取って、策源地にするよ。
フェイズ3 東京に行くよ。横浜落とすよ!
プランB
フェイズ1 熊本城包囲したままで、豊後に行って、博多、小
倉を策源地にいただきます。
フェイズ2 高知で暴れるよ。ごめんね。
フェイズ3 大坂攻めて驚かせてやんよ!
40
プランC
フェイズ1 全軍で熊本城囲むよ。爆弾︵地雷火︶で石垣ぶっ
潰すよ。
フェイズ2 城落ちたら根拠地にするよ。潰れてるのに。
フェイズ3 九州制圧するよ。
︵2︶指導要領
ともかく西郷どんが立ち上がれば、内閣に不満を持つ九州、四国、
東北のお祭り野郎どもが便乗すると言う考えもあった。﹁農民、商
人出の傭兵なんか怖かねえよ。かかってこいよ﹂と鎧袖一触で葬り
東上するつもりだった。
3.彼我の動き
せうしやう
明治10年2月10日、寒くて大雪が積もる中を別府新助を先鋒
とし陸軍少将篠原國幹︵第二軍︶、村田新八︵第三軍︶、西郷隆盛
︵第四軍︶、池上四郎︵第五軍︶、陸軍少将桐野利秋︵第六軍︶、
桂四郎︵第七軍︶、蒲生彦四郎︵第八軍︶の総軍13,000人︵
各1,600人︶鹿児島に侵攻した。﹁西郷どん﹂によると2月1
4日には鹿児島から熊本に入っている。※﹁西郷南洲﹂では大隊﹁
南洲公逸話﹂では二番大隊、三番大隊と記載されている。
﹁西郷どんが? んなわけねえよ﹂
谷干城少将は西郷どんを信じていた。だが予想は裏切られた。﹃
2月18日開戦を公告﹄し2月14日、谷少将は米やら炭やら弾薬
やら溜め込んで、地雷を作り熊本城に籠り、東上を阻止しようとし
た。
﹁火薬庫って一ヶ所だと危険じゃないか?﹂
﹁そうですね。分けましょうか﹂
と言うことで15日に火薬庫が二ヶ所となった。
41
あれこれやって準備が終わりほっとするが、火事が起きた。
﹁ああ、せっかく準備したご飯が﹂
﹁そんな事より武器を!﹂
幸いにして弾薬は無事だったが、30日分の糧食が消し炭になっ
せいたう
た。その為、周辺から買い漁る事となった。
19日、鹿児島の賊徒征討の令が下り陸軍大将有栖川二品親王が
征討総督に任じられた。つまり天皇陛下もマジになったのだ。総督
本営は大阪東本願寺別院に置かれた。
同日、小倉に居た乃木少佐の分營第14聯隊は熊本に入らんとし
たが途中で賊軍に遮られた。
20日、第1旅団︵旅団長野津鎮雄少将、参謀長岡本中佐。東京
鎮台第1大隊、第1連隊第3大隊︵長谷川聯隊長が直率︶、大阪鎮
台第8聯隊第2大隊、東京鎮台予備砲兵第1大隊第1中隊、輜重兵
第1小隊、伝令騎兵半分隊︶、第2旅団︵旅団長三好重臣少将、参
謀長野津大佐。近衛歩兵第1聯隊、東京鎮台予備砲兵第1大隊第2
小隊、輜重兵第2小隊、伝令騎兵半分隊︶編成。※﹁西南記伝﹂に
よると明治の兵制は歩、騎、砲、工、輜重兵より成る。歩兵は小隊、
中隊、聯隊に区分され、旅団、師団、軍団は常設されていなかった。
旅団は2個歩兵聯隊︵各2個大隊︶に砲兵、工兵1個小隊を加えて
りょだんしれいちやうくわん
約3,000人。騎兵は数が少なく近衛と東京鎮台にしか存在しな
かった。この当時は旅団司令長官と呼称した。旅団の兵站を支えた
軍夫は最大25,000人であった。
同日、賊軍は熊本に入り熊本城を攻撃開始。桐野曰く﹁百姓兵が
百万居たって怖かねえ!﹂と力攻めしたが遂に抜くことはできなか
った。内地から官軍増援の到着を知った薩軍は、池上四郎︵麾下3,
000人︶を熊本城の抑えとして残し桐野利秋が山鹿方面、篠原國
幹が田原方面、村田新八と別府晋介が木留方面に向かった。
博多に上陸した官軍の正面軍は福岡城を本営に南下する。
22日正午、乃木少佐の第14聯隊は山鹿到着。夕刻、迎坂で村
田三介率いる薩軍︵+熊本の協同隊︶の斬り込みを受け午後10時
42
に退却、聯隊旗を失う。※﹁大山元帥﹂では植木木葉﹁乃木将軍﹂
では植木町と記載されている。
﹁うわ、俺もうダメだ。死んだ⋮⋮﹂と乃木少佐切腹しようとする。
が﹁落ち着けよ、死ぬには早い﹂と止められた。
﹁うわ、なにするだ。刀を返してくれ﹂
協同隊によって奪われた聯隊旗は花岡山の薩軍陣地に翻った。
後日、日露戦役で死傷者を出しまくった事を考えれば、ここで死
んでいた方が本人と周りの為にも正解だったかもしれない。
23日も薩軍は官軍を撃破するが、高瀬に官軍が進出しつつあっ
た。
2月25日∼27日、高瀬の戦い:乃木少佐の第14聯隊が苦戦、
第1聯隊第3大隊の前衛︵第1中隊︶は玉谷、船隅で敵を迎撃。2
6日、長谷川聯隊長は第8聯隊の2個中隊を指揮下入れ︵第3大隊
長は第2、第3中隊︵内藤正明大尉︶を指揮︶て植木に前進、寺田
の敵を撃破。27日9時、高瀬攻撃を企図した薩軍は、木葉街道を
正面に篠原國幹、別府晋介が前進。その右翼を桐野利秋が固め、左
翼として吉次峠から村田新八が攻撃開始した。この攻撃は官軍の砲
兵を前に破れ、ラストサムライかよと言うオチだった。
3月3日∼20日、田原坂の戦い:高瀬で破れた敵は田原、吉次、
木留、山鹿の要所を占領した。桐野利秋は山鹿から官軍の側面を圧
迫すると言う目的があった。﹁西郷南洲﹂では4日となっているが
3月3日、木葉、吉次から官軍は分進した。本街道より第1、第2
くわぐん
旅団が主攻で、野津道貫大佐の右翼支隊が吉次峠に進軍した。
﹁明治大帝の偉業﹂によると﹃皇軍の向ふところ敵なく﹄とあるが、
そんな訳もなかった。地形は天然の要害で急な坂、断崖絶壁、樹木
鬱蒼と生い茂り暗い中で薩軍の抜刀隊突撃を繰り返し官軍に死傷者
が続出した。
3月14日午前6時、山縣からの指示で警察から選抜された10
0人で編成された抜刀隊が右翼と左翼に当たり、その後に第1聯隊
第2中隊が続きながら三方向から分進した。確かに戦果をあげて前
43
進したが、篠原の逆襲を受けて撃退される事になった。15日、官
軍は攻撃準備中に薩軍300人の攻撃を受けて横平山を奪われた。
濃霧に乗じての攻撃で﹁歩兵第1聯隊史﹂によると樹幹を利用した
伏射や上から石を落としてくるので900人が死傷したとある。最
後は抜刀隊が奪還した。
16日間で官軍の死傷者は3,000人、1日に消費した弾丸は
210,000発。地獄峠呼ばれマジで半端ない戦闘で﹃旅順口の
白兵戦も、これ程ではなかったと云われる位な接戦﹄であったが、
暴風雨の吹き荒れる中で20日午前9時に植木を制圧、敵の弾薬を
焼却し植木以北を掌握する。
※﹁西郷隆盛伝﹂によると﹁お前、朝敵な﹂と手紙が着て西郷どん
は自分が国を敵に回した事を初めて知ったそうだ。え、今さら? って感じだが3月12日に軍人時代の制服とか身分を表す物を焼く
ように命じた。
3月21日∼4月6日、植木の戦い。後退した薩軍主力は向坂、
右翼が鳥巣、左翼が木留、三嶽に展開していた。3月25日、別軍
︵別働第1、第2、第3旅団︶は八代湾日奈久地区に上陸した。上
陸は26日に完了、未明に進撃開始する。別軍︵背面軍︶の目的は
北上して賊軍の後方連絡を遮断、正面軍と共に挟撃し包囲を解く事
にあった。
27日に高瀬を奪取、28日に松橋での掃討を開始、31日には
薩軍を追撃して一橋村まで前進した。賊軍は豊後、日向方面に退却
する事となった。
※歩兵第3聯隊第1大隊︵−︶は別働第2旅団に配属、第4中隊は
別働第3旅団に分派されていた。
4月12日、別働第5旅団を解き別働第1旅団︵旅団長佐高大佐、
独立歩兵2大隊、砲兵、工兵︶に編入される。
4月15日、別働第2旅団が熊本城到着。敵を撃破し16日に入
城した。官軍は本隊の4個旅団、別働隊の5個旅団、熊本鎮台兵を
加えて30,000以上に達した。そしてどうでも良いが、熊本城
44
と言うとガンパレ思い出してしまう。
一方、薩軍は宮崎、高鍋、左土原で破れ、肥後で失った兵力の回
復は不可能であったが、薩軍は延岡を拠点に豊後方面への逆襲を企
図していた。だが7月24日、都城、延岡も官軍の手に落ちた。
8月1日、西郷どんは大隅の城山の洞窟にビンラディンのように
逃げ込んだ。残る賊軍は372人。9月14日、官軍は包囲して2
4日に総攻撃を行った。
西郷どんは鉄砲の弾に射たれて﹁うえぇ、俺死んだああああ﹂っ
て事で、別府新介が介錯をすると首を持って岩崎谷に逃れた。この
首は後に埋められた物が発見され首実検で本人と確認されている。
明治大帝は西郷どんの死をなげき、明治22年に賊名を除き正三位
を送った。賊軍の首領にそこまでやるなら、薩軍の発行した軍票の
補償をしてくれと言うのが庶民の心情だろう。
残党はヤケクソになったのか、最後まで抵抗した。カルトはマジ
で怖いと言う事だ。池上四郎は竿の先に白いきれを結んで官軍の前
に現れた。降伏の偽装だ。山縣有朋陸軍卿は策略を見抜き攻撃命令
を下した。
9月27日、有栖川大将は鹿児島に入ると、各旅団の解散と帰還
を命じた。
百姓兵を以て庶民皆兵主義を可能にして頗る有力なることを証明
したが、薩軍の猛烈なる抜刀隊の突撃には少なからず苦しめられた
のも事実である。
45
満州事変の戦場拡大はマジキチである
はじめに
侵略戦争を美化するのはマジキチである。ただしミリオタは違う。
強さこそ格好良さの象徴で、善悪を問わず戦果の結果で判断を行
う。ゲームやアニメと同じで、戦史を楽しむ者にはそれで良いのだ!
戦えば破竹の快進撃、格好良い大日本帝国陸軍が大陸で悪い支那
人やっつける痛快な戦いを、日中の資料から追ってみた。
1.侵略せよ、中国東北部! 九一八事変
帝国主義諸国に蝕まれていた中国大陸で、朝鮮半島に隣接する中
国東北部に移民や経済的進出をしていた日本は、遼東半島の租借地
以外に南満州鉄道沿線にも独立守備隊を展開させていた。当時の中
国はチンピラな地方軍閥や共匪、匪賊が入り乱れ戦乱の渦中にあり、
各地に武装集団が独立勢力として存在していた。一般人から見れば
人様の土地なのに、そこにゴロツキな日本軍も加わったと言う状況
である。
この状況を憂いた蒋介石は中国を纏めようとするが、混乱に漬け
込み領土的野心に燃える大日本帝国は傀儡の南京政府を抱き込んだ
りしていた。そして遂に1931年9月18日、既得権益に固執す
る邪悪な関東軍の暴発で戦争への道を突き進んでしまう。柳条湖近
郊の満州鉄道を破壊、これをきっかけに日本軍は動いた。
板垣征四郎や石原莞爾が本当にマジキチで、天皇陛下の御意志す
ら無視して暴走したのかは問わない。大切なのは現地軍が動いてや
っちまった事だ。
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抗日戦争の始まり九一八事変は1931年︵民国20年、昭和6
年、皇紀2591年︶9月18日2220時に奉天の北側、柳条湖
付近の南満州鉄道が破壊された事で始まった。関東軍高級参謀であ
った鷹派の板垣征四郎がどんどんやれやれと発破をかけてしまい、
23時、多門二郎中将麾下の第2師団歩兵第16、29、30連隊
が行動開始。
※第2師団は4月に仙台から派遣されて来た。この事を中国側は、
中国北の寒冷地区で作戦を行う為に﹃日本の北方人﹄を送り込んで
来たと見ている。また日本軍高官も﹃満蒙問題の解決には軍事行動
しかない﹄と事変発生前に発言していた。
現地の武装勢力を指揮する張学良軍と戦闘状態に入ったが、南京
政府は不拡大を指示した。隣の国同士なので仲良くしなければなら
ないと思ったのかは定かではないが、我慢して辛抱し様としたのは
事実だ。
だが日本軍はそれを良い事に、先手必勝とばかりに攻勢に出た。
当時、南満州に展開して居た日本軍の兵力は概ね15,000人。
対する張学良軍は概ね20万と兵力で隔絶していた。やらないと先
にやられると言う危機感があったのかもしれない。
演習中であった石虎台駐屯の独立守備隊第2大隊第3中隊は北大
営に駐屯する王以哲率いる独立第7旅を攻撃、大隊主力も加わる。
歩兵第29連隊は瀋陽城を攻撃。長春の歩兵第3旅団騎兵第2連隊
は寛城子に向かい、第2師団主力は全般支援と言う状態だった。
当時の日本側発表によると、北大営の戦闘は7時間、戦死2、負
傷22。中国側の遺棄した屍320を埋葬。
中国側の記述によると、事件当時、旅長である王以哲と麾下の2
個団︵連隊規模︶長が不在であったと言う話が出来すぎ? 邪悪な
日本軍が卑怯にも留守を狙って攻めて来たらしい。だったら兵力的
優位があったのにぼろ負けしたのも仕方が無い。長春で独立第23
旅を指揮する旅長の李桂林が逃亡したのも仕方が無い。邪悪な日本
47
軍が強かったのが悪いのだ。
長春は日本侵略軍にとって吉林侵攻の要であった。ここに邪悪な
日本軍は歩兵第4連隊︵2個大隊︶、独立守備隊第1大隊1個中隊
の1,000人も配備して居た。対して正義の北軍は火砲36門、
人員7,000名と勇気凛々待ち受けて居た。長春城に700名、
寛城子に歩兵第163団の1個営︵大隊規模︶650名。だが、日
本軍は卑怯にも満鉄を使って騎兵第2連隊を長春に送り込んで来た
のである!
南嶺の戦闘で歩兵第4連隊第2大隊が戦死5、負傷16、独立守
備歩兵第1大隊が戦死38、負傷39。中国側の遺棄した屍200。
寛城子の戦闘で歩兵第4連隊は戦死24、負傷33。中国側の遺棄
した屍70。
19日、精強な日本軍は奉天に戦力を集中し、連戦連勝で瀋陽及
南満州鉄道、安奉鉄道沿線の瀋陽︵元から歩兵第29連隊、独立守
備隊第2大隊が駐屯︶、長春︵歩兵第3旅団司令部、歩兵第4連隊
、盖平、海城︵野砲第2連隊
︵騎兵第2連隊、独立守備隊第1大隊が駐屯︶、鳳城
が駐屯︶、撫順、本渓、鞍山︵独立守備隊第6大隊が駐屯︶、安東、
四平、公主
︵独立守備隊第4大隊が占領︶、
が駐屯︶、営口︵独立守備隊第3大隊が占領︶、遼陽︵元から第2
師団司令部、歩兵第15旅団司令部、歩兵第16連隊が駐屯︶、鉄
嶺︵工兵第2中隊、独立守備隊第5大隊が駐屯︶、開原、昌図等各
要地を制圧。開戦第一日で日本軍は支那兵1,600を捕虜にした
とある。
朝鮮軍は関東軍の支援として中国へ越境侵入。第2師団はその脇
を固めた。
南京政府外交部は日本公使の重光葵に軍事行動の停止を求めたが、
お茶目な日本軍はこれをスルーした。
20日、第2師団司令部が瀋陽から長春に前進。21日、多門兵
団は吉林へと進撃する。朝鮮軍第19師団が豆満江沿岸に進出。そ
の晩に混成第39旅団は瀋陽に展開した。
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そして勢いは止まらず22日、日本軍は蛟河、敦化、遼源等の城
を占領、海軍も渤海沿岸の秦皇島を占領した。25日に無敵の日
本軍は洮南市を占領、一週間で遼寧、吉林省の都市30を制圧した。
まさに快挙である!
※占領や部隊の進出、展開した日付が書籍によって異なるので、日
本軍の行動に関しては日本側の日付が正しいと思われる。
2.黒龍江の戦い
続けて満州事変の戦場は北に移る。
吉林省の省防第2旅旅長であった張海鵬は降伏後、日本軍に協力
した。その過程で発生した北満の黒龍江戦役││この戦闘は日本側
の記述によると、橋梁の修理作業を行う為に派遣された日本軍を黒
龍江軍が攻撃して来た事に起因するとある。日本側の視点では張海
鵬と馬占山の内戦に成る。支那軍の鉄道破壊は許せん、とまぁこん
な理由で動いた。
日本軍や傀儡の武総勢力に対抗すべく張学良は10月16日、馬
占山を黒龍江の主席代理に任命し統一指揮を実施した。
一方、日本軍は第2師団歩兵第16連隊より抽出した歩兵、砲兵
1個大隊に工兵中隊を増強した嫩江支隊として独立飛行第8中隊の
援護で前進した。
11月4日上午︵午前︶、日本軍の先遣中隊︵尖兵を命ぜられた
中隊︶が嫩江を攻撃。5日、再度攻撃を行う。日本軍の記述による
と、北岸を占領する黒龍江軍が了解を破り砲火開いた。不法射撃だ
から支隊主力に増援を送ったとある。ゆっくり出来ないげすな馬占
山は制裁と言う訳だ。
日本軍の推定した黒龍江軍の兵力は、歩兵騎兵約5,000、砲
30門、迫撃砲12門。中国側の資料によると正面には第2旅の2
個団、左右に騎兵第1、第2旅︵各2個団︶が展開しており、迂回
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して日本軍を包囲しようと動いたり、戦闘は激烈だったらしい。
この戦闘で日本軍は戦死36、負傷144の損害を受け、中国側
は200の屍を遺棄していたとある。中国側の資料によると日本軍
に戦死167、負傷600の損害を与え、黒龍江軍の損害は戦死約
500とある。
第2師団主力も集結、11月11日には独立飛行第8、9中隊も
到着し、多門師団は万一に備えて歩兵10個大隊、騎兵2個中隊、
野砲兵6個中隊、重砲兵2個中隊、工兵1個中隊の兵力を以て11
月13日に前進を開始した。日本側の記述によると対する黒龍江軍
はおおよそ歩兵騎兵20,000を下らず、砲20門、迫撃砲10
門、高射砲2門の兵力を有してると見積もられていた。
馬占山は11月17日、挑発的行動に出た。だから多門師団は1
1月18日より自衛行動に出た、とある。
※チチハルの戦いは陸士、陸大卒の元陸軍少佐で陸将の方が陸将補
時代に執筆した本が市販されている。
3.錦州作戦や吉林省抗日政府の討伐
第三の大都市である錦州にも日本帝国主義の触手が伸ばされた。
電光石火の動きはまさにHENTAIである。
10月8日、日本軍は錦州を空爆した。まあこの程度はアメリカ
も中東でやりまくってるので大した事では無い。
地上部隊は12月中旬から、匪賊討伐の協力と言う事で集結し始
めていた。中核と成ったのは11月に日本から派遣された第8師団
の混成第4旅団である。さらに混成第8旅団やら155mm榴弾砲
1個大隊︵第12師団︶、105mmカノン砲1個中隊︵近衛師団︶
、混成第38旅団やらあれやこれや。12月22日に地上部隊が進
行開始。翌年1月3日に錦州から北軍が全面撤退し日本軍は錦州を
制圧した。
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一方、吉林省では1932年1月、北軍騎兵第16師師長であっ
た于琛澄を指揮官に日本の傀儡軍が作られ抗日政府軍︵吉林自衛軍︶
を匪賊として討伐する戦いが始まった。同じ中国人同士が殺し合う
のだ。
吉林自衛軍の指揮官は李杜。麾下の兵力は、第22、25、26、
29旅、暫編第1旅、騎兵第1、第2旅。
この間、蒋介石率いる国府軍は大規模な増援を派兵しなかった。
日本の侵略が止まる事を期待して居た上に、蒋介石にしてみれば中
華民国統一の妨げに成る地方の軍閥何て知った事では無い。共産主
義者なら野垂れ死にしても構わないと言うのが実情だった。だから
地方軍閥は日本軍を消耗させてくれれば十分だった。
汚いけど合理的だ。共産主義のアカも滅んでくれたら、国共内戦
で負ける何て未来は無かったのだろう。
さて1月5日、吉林軍︵現代の中国では偽軍と呼ばれている︶が
第25旅と交戦、吉林省の反乱鎮圧協力と言う形で日本軍も参戦し
た。
長春から第2師団が北上し1月30日、第22旅と交戦した。北
のハルビンに集結した賊軍を2月5日、左翼第15旅団、右翼第3
旅団が並列配置され攻撃した。北西の安達から混成第4旅団も南下
しており袋の鼠だった。
4.一二八松滬戦役
東北が日本にぶんどられる中、1932年1月、上海は風雲急を
告げた。一二八松滬戦役︵上海事変︶の勃発である。
当時の中国は弱くて諸外国の食い物にされていた。その結果、﹃
租界﹄と言う形で外国の居留地が存在していた。在留邦人3万を守
るためと称し、日本は侵略的野心を剥き出しに租界の兵力を増強し
ていた。1月27日の時点で、展開する兵力は陸戦隊7,000、
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在郷軍人3,000で万を超えていた。
日本軍の見積りでは、上海を包囲する中国軍は正面に第19路軍
の3個師、第60︵兵数11,000︶、第61︵兵数10,50
0︶、第71師が展開。揚子江側に第78師︵兵数10,000︶、
上海の南に第81師︵兵数10,000︶が展開していると言う物
だった。
2月1日の軍事委員会で蒋介石、張学良らは対日作戦の防衛区を
4箇所に分担した。黄河以北の第1、黄河以南、長江以北の第2、
江南の第3、第4等である。
中国側の記述によると蔡廷鍇を左翼軍指揮官とする第19路軍︵
第60︵第119、120旅、独立旅︶、第61︵第121、12
2旅︶、第78︵第155、156旅︶師︶で第19路軍は上海を
全力防守、第87︵第259、261旅、独立旅︶、第88︵第2
62、264旅︶師が南京を防守すると言う計画だった。
上海は湖と沼に囲まれ大軍の運用に適していないが、このままだ
と中国軍が兵力差で勝つのは目に見えて居た。2330時、中国軍
は攻撃を開始した。口火を切ったのは第156旅第6団である。日
本海軍陸戦隊は卑怯にも小学校を防御拠点に利用していた。木の上
に死体の肉がかかる程の激戦だった、らしい。
29日20時、英米領事は喧嘩は止めてくれない? と申し込み
第19路軍は3日間の停戦に同意した。
2月2日、天皇陛下は日本軍の派遣を決定した。後出しジャンケ
ンの様に第9師団を送って、更に第12師団から歩兵第24旅団基
幹、騎兵、砲兵、工兵等を増強した混成1個旅団を第2艦隊に乗せ
て送り込んだ。一種の旅団戦闘団である。
日本軍の後出しに蒋介石は動いた。第87、88師を第5軍に改
編、張治中を指揮官に左翼軍として加えた。
※この中に、中国軍唯一の装甲部隊、南京の装甲兵団︵団長:杜
聿明︶も居た。
14日、張治中は15日を以て攻撃を命令。攻撃の重点は虹口公
52
園、日本海軍陸戦隊の司令部。
2月18日、日本は第19路軍の撤退を要求するが中国側は拒絶
した。中国側にしてみれば自己の領土で正々堂々としていた。でも
結局は3月始めに日本軍が反攻に出て、停戦する訳であった。
4.あれやこれや
その後も天皇陛下が、ちょっと命令無視で調子に乗るなよ的なニ
ュアンスを軍に漂わせながらも、長城戦役や熱河抗戦が発生した。
鉄道を破壊されただけで、何処まで攻め込んでいるんだと言う戦場
の拡大だが、特に熱河作戦は個人的にオススメの戦闘だ。
初めて熱河の文字を読んだ時は熱帯地方の河で行った作戦かなと、
ぶっ飛んだ印象しか持っていなかった。だがこの戦は素晴らしい!
誘拐ビジネス許さず、地方軍閥をぶちのめす痛快な作戦だった。
当時、蒋介石は国内の匪賊討伐を優先し、日本の侵略は後回しに
しようと戦争拡大を望んでいなかった。結果として昭和8年5月3
1日には停戦が成立した。蒋介石の安内攘外と言う政策の結果、上
海で最左翼を受け持った精鋭の第5軍も匪賊討伐で各地転戦する事
となる。
おわりに
今回は主に中国側の資料を参考にしたけど、中国側が日本軍の編
成や動きをほぼ正確に伝えている事に驚きを感じたが、参考文献を
見て笑った。日本の文献なら一語一句まで同じなのも当然だ。
逆に中国側の資料と照らし合わせると、当時の日本軍が正確に敵
戦力を見積もっていたり、戦闘経過を情報統制せずに一般に伝えて
いた事も面白い。勝ってる間は誤魔化す必要が無かったのだろう。
53
戦争って本当に良い物語ですね。自分に被害さえなければ﹁良い
ぞ。もっとやれ﹂と、最高の娯楽になります。
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支那事変を始めたやつはマジキチ︵1︶昭和12年7月∼12月
はじめに
ちょいちょい日中戦争で日本軍は負けていなかったと聞くけど、
支那事変ってなんなのか? ミリオタとして興味と疑問を持ち、大
東亜戦争開戦前までを纏めてみた。
戦争自体は満州事変の頃から続いていたけど1937年7月7日
の盧溝橋事件に端を発した。
支那事変は日中両軍の全面衝突に拡大し、日本の31倍の国土を
持つ大陸の広さを舐めていた日本は無茶苦茶強気のくせに、大東亜
戦争終戦時で100万の将兵を拘束されていた。格好悪いよね。
満州と言う限られた戦場とは違い、敵は奥地に後退する事で戦え
る。日本軍は長い戦いに引きずり込まれた。
中国側によると悪の日本軍は抗日戦の士気、物資面の土壌を破壊
すべく無人地区を作る三光作戦を行った、らしい。それを始めたの
が中国軍の教育にも当たっていた北支那方面軍司令官の多田駿中将
とのこと。
、冀西、冀中、
軍は第115師︵林彪︶、第120師︵賀竜︶、
正義の中国も黙って殴られていた訳ではない。毛沢東を指導者と
する中共軍の八
、察南、晋西
西等で遊撃戦を展開させた。
第129師︵劉伯承︶を東進させ東
晋東南、冀南、
一方、悪の日本軍は﹁人口比で5倍の中国、下手に敵を増やすわ
けにはいかん﹂と支配地域の住民を集団部落に移動させ、無人地区
を作りゲリラの活動を阻害した。COIN作戦の手段としては世界
中で行われた常套手段だが、とにかく日本軍はやった事が全て悪い
のだ! と言う事らしい。アホ臭い。
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1.盧溝橋事件
1937年︵民国26年、昭和12年、皇紀2597年︶7月7
日午後11時左右︵前後︶、北平西南三里盧溝橋の北方1Kmで夜
間演習中の支那駐屯軍歩兵旅団第1連隊第3大隊第8中隊は不法射
撃受けて一名が行方不明に成り、こりゃ中国第19路軍の攻撃だと
言う事で反撃を開始した。疾風の如く龍王廊を占拠、冀察第29軍
37師を襲撃し武装解除した。
だが行方不明の兵士は後で見付かっている。勘違いで戦争を始め
たのである。翌日、中国共産党は日本の侵略は許さん。断固として
抵抗するぞ、とアジっていたが11日、国民党政府外交部との合意
で日中両軍は停戦する。
※日本政府は7月11日に北支事変と発表した。
だけど、7月15日に国共合作が発表され﹁日本、ぶっ飛ばすよ﹂
と言われたので、日本政府も激怒プンプンで﹁チャンコロが舐めん
じゃねえよ﹂と北支へ40万の派兵を決定した。
※この当時、中国海軍は艦艇120隻︵第1∼第3艦隊の合計、6
万トン︶を保有していた。その戦力は日本海軍の1/20と大きく
開きがあり、最大の巡洋艦でも艦齢41年、排水量2,950トン、
個艦能力も低く渡洋作戦を阻止する事は不可能だった。
※当時の出版物によると﹃日本では、できるだけ事件が大きくなら
ないやう、また、できるならばわが駐屯軍と北支の支那軍との間で
事件が解決できるやうにと努力しました﹄、﹃帝国は極力不拡大方
針を堅持し、事件を局地的に解決すべく現地に於いて折衝を重ねた
るも∼﹄とある。努力とは戦場の拡大らしい。
7月28日、朝鮮第20師団が北平に進行。翌日に陥落した。3
0日には天津も攻略。
8月、蒋介石は傅作義を指揮官とする第7集団軍︵第35軍︵第
211、第218旅︶、第61軍︵第101師、新編第200旅︶、
騎兵第1軍、騎兵第6軍他︶を北平の側背に向けた。
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2.八一三松滬会戦︵第二次上海事変︶
平和を作る気があったのか? 外交で対話をしたのか、周りは諌
めなかったのか? その辺りはスルーして戦闘パートに入る。
8月9日、上海機場︵空港︶で海軍陸戦隊の大山中尉が殺害され
た事︵大山事件︶を受けて、もう二度とするんじゃねえぞ! と言
う事で中国側に下手人である保安隊︵中国警衛︶の撤退を要求した
が、拒絶。12日、中国軍2個師が到着し共同租界を囲む様に防壁
を築き戦備を固めた。
中国側の記録によると1937年8月13日上午︵午前︶9時1
5分、日本海軍陸戦隊一部が租界から越境してきた。中国軍第88
師第262旅523団先頭部隊と遭遇。これを火種に八一三事変は
勃発したらしい。日本側の記録によるとアイシス劇場付近で陸戦隊
の斥候が支那兵に射殺され、午後4時半に敵の砲撃が始まったとあ
る。
上海を管轄する第4方面軍は第8、第9集団軍で構成される。第
8集団軍は長江北岸、第9集団軍は杭州湾南岸を警戒していた。
軍事委員会は張治中を第9集団軍司令に任命した。直轄兵力とし
て第87、第88、第36、第61、第98、第11師。この他に
第39軍、第345旅、張発奎の第18集団軍︵第55、第57師、
独立第20旅、独立第45旅等も展開していた。
攻囲する中国軍は14日午前2時、江湾、八字橋等から一斉に攻
撃前進を開始した。陸戦隊が寡兵で抵抗を続ける中、日本政府は上
海派兵を決定した。
※当時の公式見解としては﹃南京政府の反省を促す目的を以て聖戦
を進めたのである﹄とある︵笑︶
15日、日本海軍は航空優勢を確保すべく96式陸上攻撃機で南
京と南昌の飛行場を空爆した。
中国側にとって厄介だったのは上海は他の列強が租界を持ってい
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た事で、日本の租界と隣接する為に戦闘行動は限定された物と成っ
た。
8月20日、全国を5個戦区に分けた蒋介石は閻錫山を第2戦区
司令官に任命した。閻錫山の指揮下に、楊愛源の第6集団軍︵第3
3軍︵新編第3旅、新編第8旅、第73師︶、第34軍︵第196
旅、第202旅、第71師︶、騎兵第2師︶、傅作義の第7集団軍
︵第35軍︵第218、第211、第202旅︶、第61軍︵第1
01師、新編第200旅︶、第68軍︵第143師、新編第40旅︶
、第17軍︵第21、第84師︶、第13軍︵第4、第89師︶他︶
等が配属されたが、一方で紅軍46,000名は蒋介石との合意に
より国民革命軍第八路軍︵8路軍︶に呼称変更したが、国府軍の指
揮下に配属され無かった。
23日、海軍の支援で揚子江下流及び呉淞付近で敵前上陸を慣行
した。黄浦江海岸では陸軍の上陸に先立って竹下少佐の指揮する海
軍陸戦隊70名が先行した。
国府軍は清朝時代の募兵に代わり1933年に兵役を制定し19
36年から適用をしたが、戦時動員の徴兵は根こそぎの動員に成る。
だからと言ってもヤクザや土民の集まりではなく、訓練も当初は軍
事顧問を呼び寄せて日本式、その後にドイツ式等を取り入れた正規
軍だった。
日本軍との戦力を比較すると、1個師団︵24,000∼28,
000︶に対して1個師の兵力は半分︵10,000︶で、武器は
自国生産よりも外国からの援助が主流だった。
事変当時の日本軍の攻撃は中国軍にしてみれば﹁砲火非常激烈﹂
との事だった。
8月28日には第11師団が羅店鎮に前進、皇軍必勝の信念の現
れで陸軍が敵の第一線を粉砕し戦線を押し上げると、日本の兵隊に
比べて意気地の無い支那軍の勢いは衰え始めた。11月5日には杭
州湾の金山衛東西海岸に第10軍︵右翼第18師団、中央第6師団、
左翼第114師団︶が上陸。13日には上海派遣軍の応援第16師
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団が上海北の白卯口に上陸、上海方面の敵の背後を衝くと決定的に
勝敗が決した。11月12日、上海から中国軍は撤退した。
※全軍撤退時、第61師師長であった劉安祺の口述によると第61
師と李延年の第9師が援護したとある。
※第10軍上陸後、中支那方面軍が設置される。
3.太原会戦:日本軍は中国軍を撃滅すべく北支那︵華北︶で作戦
行動を開始した。敵の野戦軍主力を撃滅すれば講話に応じるだろう
と言う考えだった。太原攻略は第5師団長板垣征四郎の個人的野心
でもあった。資源の獲得、新北支政権の結成も夢でしかなかった。
︵1︶忻口戦役
第2戦区の山西に日本軍が迫ると、蒋介石は第14集団軍を中央
より即応派遣させた。
応援を得た第2戦区は攻勢防御を計画した。右翼軍は9月21日
に太原に到着した朱徳指揮する八路軍第18集団軍︵第73師、第
101師、新編第2師︶、1482高地の占領を目指す中央軍は立
煌の指揮する第14集団軍︵第9、第15、第17、第19軍︶、
左翼軍は愛源率いる第68、第71、第120師、独立第7旅。予
備軍に第34、第35第61軍、第66師、独立第1、第3旅が控
えていた。
蒋介石は日本軍を舐めては居なかった。四川の第22集団軍にも
北上して山西に向かうように命じた。
第5師団長板垣さんが太原攻略の命令を受けて第21旅団、関東
軍混成第2、第15旅団を以て進行を開始した。
10月4日、陽明堡が占領され第19軍は敗走。兵士はむなしく
武城
のたれ死んだ。5日、独立第7旅団の陣地を攻撃。6日、独立混成
第1旅団が左翼軍陣地、第5師団主力が中央軍陣地を攻撃。
が陥落した。
59
13日、日本軍の一部が戦車の支援で威力偵察を行ったと中国側
の記録にある。
14日、混成第15旅団が原平を攻撃。第196旅は粘ったけど
敗走。前哨戦だけで、むっちゃくちゃに負けまくっていた。
※10月2日、8省13地区の紅軍が再編成され国民革命軍新編第
4軍︵新4軍︶と成った。10月11日、第2戦区の各部隊は計画
の位置に進出、陣地占領した。中央軍は右、中央、左地区に別れ、
それぞれ右翼兵団︵劉茂恩の指揮する第15軍︵第10、第83、
第85師︶、第33軍︵第68師︶、第34軍︵第71師︶︶、中
央兵団︵第19軍の王靖国指揮で第9軍、第61軍、増援部隊︶左
翼兵団︵2001年まで生きていた李默庵将軍の指揮する第14軍
15個団基幹︶、予備隊がお椀の形に配置された。
10月13日、忻口に日本軍は攻撃開始。第9軍の展開する中央
廷珍が板垣師団の猛烈な攻
地区、第15軍の展開する右翼で強硬渡河し激戦となった、らしい。
と言うのも14日には独立第5旅旅長
撃で死んでる。
、
※資料によっては﹃師﹄、又は﹃旅﹄となってる。何にしても、戦
死者が殉国と愛国美談に成ってるのは日本だけの特権では無い。
家麒とボコボコ死んでる。
※日本軍にとっては飯が美味い事に、16日には第9軍軍長郝梦
第54師師長
10月19日、第5師団は攻勢開始。お椀の右縁を殴る形だ。2
2日には増援として加わった萱嶋支隊︵支那駐屯第2連隊基幹で騎
兵、工兵を増強した旅団規模︶が原平に到着。24日に萱嶋支隊を
戦場に投入する。26日14時、左翼83師の防御を突破する。
10月31日の夜、閻錫山は撤退を決定。11月2日10時、忻
口より撤退を下達した。命令の本文を読めば陣地変換と理解できる。
新たな命令は持久防御と言う事だった。主戦闘正面には歩兵2万、
山砲2個団︵連隊規模︶、野砲1個営︵大隊規模︶、騎兵4個連︵
中隊規模︶。3日、第2集団軍は第3軍を編入。第14集団軍は第
27路、第15、第17軍、第94師を編入。第18集団軍は新編
60
第2師団を編入等と再編成された。
︵2︶太原保衛戦
前半の抵抗が激しかった分、後半戦は呆気なく短い。
11月3日、北支那方面軍より第1軍司令官に太原攻撃の統一指
揮が命ぜられ、4日、第1軍司令官は第5師団に引き続き太原攻撃
と占領を命じた。この時、太原は第7集団軍司令官の傅作義が指揮
する第35軍︵第211︵第419、第421、第422団︶、第
218︵第420、第435、第436団︶、第213︵第425、
第426団︶旅、独立︵新編︶第1旅︵第1、2団、砲兵第22、
23団︶、新編第3、第8、第9団、その他欠員ありの雑多な部隊︶
が防御工事をしながら待ち受けていた。
4日、日本軍は勧告を行った、らしい。その翌日5日、周恩来は
太原から逃げ出した。
7日、第109師団第31旅団の先遣隊が進出。20時から砲撃
が始まった。8日、第5師団は北側を猛攻。火炎が全域を覆った。
絶対に退かないと死を誓ったそうだが、南東から第20師団も迫っ
ており21時に撤退を命じた。
4.南京保衛戦
上海日本軍を包囲圧迫していた中国軍であったが、日本軍が左翼
に上陸した事で包囲は解かれた。
後退する中国軍を追撃する現地軍にとって南京は目と鼻の先にあ
った。
一方、唐生智を司令官に南京防衛に集められた兵力は雑多な部隊
だが数だけは揃っていた。
61
当初は88師、36師、教導部隊しか居なかったが、12月初め
第3戦区から9個師、12月4日に第7戦区から2個師の先鋒が到
着。最終的に約15個師の15万余人に膨れ上がった。内訳は第2
軍団︵第41、第48師︶、第66軍︵第159、第160師︶、
第71軍︵第87師︶、第74軍︵第51、58師︶、第78軍︵
第36師︶、第83軍︵第154、第156師︶、教導部隊︵第1
03、第112師︶、憲兵部隊︵3個連隊︶、江寧要塞部隊︵砲兵
第8連隊の1個大隊、対戦車砲8門、軽戦車10両、防空司令部所
属各高射砲部隊27門︶等であった。
三面を囲まれ背水の陣、戦闘が始まると﹃100万の日本軍が江
南を席巻し、南京を包囲している﹄等と悲鳴をあげ始めた。
各部隊は12月12日から撤退するわけだが、南京大虐殺の記述
へと移る。
10万以上の兵力を有した中国軍であったが、日本軍に破れ数万
の捕虜と平民20万余人の合計30万人を殺戮されたと言う。さす
が日本軍、連戦連勝で最強伝説の始まりである。
数字を上げると13日、第6師団が捕虜1500、第114師団
が捕虜1354人を殺害。14日、第16師団が捕虜1500余人、
国崎支隊が捕虜3000人を殺害等と凄い数だ。基本的には刺殺又
は射殺をしたそうだ、交代で殺ったのだろうか?
スーパーミラクル虐殺タイムの間、国府軍が自国民30万人が殺
されるのを指を加えて待っていたとは凄い! 見殺しにしてヘドは
出ないのだろうか?
南京攻略から日を置かず、12月14日、日本は北京に傀儡政権
の中華民国臨時政府を設立した。これを大義名分に蒋介石政権を相
手にせず、皇軍は﹃協力﹄と言う形で行動する。
おわりに
いやぁ、戦争って本当に良い物ですね。我らが皇軍は世界に武威
62
を知らしめたのです!
63
支那事変を始めたやつはマジキチ︵2︶昭和13年、またまた皇
軍は勝ちました
はじめに
南京を攻略しても、傀儡政権を立てても支那事変は年内に終わら
ず年を越えて続いた。
1938年︵民国27年、昭和13年、皇紀2598年︶1月、
中国軍も日本に対抗すべく戦備を整え、第5戦区は第3、第22、
24、11集団軍、第3軍団、第51軍︵第113、114師︶よ
チンタオ
り構成されていた。
1月10日、青島を攻略。黄河の南に渡り日本軍は連絡線を確保
した。一方、蒋介石も武漢に司令部を移転させた。鄧小平は18日、
第八路軍第128師政治委員に就任していた。日本軍の侵攻は止ま
山区に侵攻。27日、山西の南部、臨汾が
る事を知らず、破竹の進撃で2月3日、山東省の煙台を攻略。11
日、第1軍が集安の老
陥落した。3月2日、五寨の県庁を制圧。7日、山東省の威海に侵
攻。3月13日、板垣師団は南通を攻略。そんなこんなで日本軍は
ゆっくりの日を手に入れるべく敵を追撃し続けたのだった。
ってな感じで始まるけど、中国軍の単位がややこしい。師、旅は
そのまま読めるけど、団、営、連、排は日本語訳として連隊、大隊、
中隊、小隊と頭で考えないといけない。連だから連隊ではなく中隊
なのは誤訳しやすい。
1.台児荘戦役から徐州会戦まで
徐州と言うのは南京の北、山東省と河南の中間に位置する、黄河
を中心とした中原の地だ。
日本軍の行った南京攻略、黄河作戦によって敗退し徐州周辺に集
64
結した中国側は陣地を設営した。これに対して日本軍は1938年
4月中旬から行動を開始し、北から日本軍第10師団、青島から第
10師団、そして南の南京から徐州包囲の準備を行うと5月12日、
敵前渡河を敢行した。まさに大会戦であった。
3月14日、山東省方面で四川軍を撃破した日本軍は南下した。
四川軍は総兵力40,000の内、遺棄屍12,000を残す損害
を受け大運河の南に後退した。
3月17日、日本軍第10師団が前進、第2集団軍は痛烈な打撃
を与えた。
3月23日、瀬谷支隊︵第63連隊に砲兵を増強している︶は台
児荘に進出、第31師と交戦︵砲兵第7団の1個営:75mm砲1
0門、機械化重野戦砲兵の155mm榴弾砲2門の増強有り︶。日
本軍壊滅華軍大勝利の戦勝デマを放送していたと日本側の記録が残
っている。
では実際の動きはどうだったかと言うと、3月24日、日本軍は
攻撃を開始し。6,000の中国軍に対して300の損害を与えた。
︵中国側の記述によると24日、空軍の支援で第20軍団が反撃を
開始︶26日、敵の増援が到着し兵力差が10倍となった。
※徐州会戦の前半に分類されるこの戦いに、中国軍は29個師、1
個旅の28.8万人を投入していた。
27日には台児荘の一部を占拠、29日に瀬谷支隊支は台児荘の
半分を制圧した。第5戦区司令官李宗仁は第2集団軍︵第30︵第
30、第31師︶、第43︵第27、独立第44旅︶軍、第110
師︶に台児荘の死守を命令する。
28日、第65連隊は1個野砲大隊、2個野戦重砲大隊、その他
戦車の援護で戦力を集中して台児荘に攻撃前進した。これに対して
第31師は頑強に抵抗した。
31日、瀬谷支隊は包囲され、坂本支隊も第52軍、第75軍に
攻囲を受けていた。4月3日、李宗仁は第52︵第2、第25師︶、
65
第75軍︵第6、第139師︶に攻撃命令を出した。7日には日本
軍も第5、10師団主力が到着し中国軍は逆に包囲されかけたので
撤退する。
4月18日、徐州会戦として戦史に残る大会戦が始まる。中国側
の記述によると国民党軍は60万、日本軍は40万左右を投入した
とあるが、別の中国側の文献によると後半戦には64個師、3個旅
の24万人と空軍が投入されたとある。
この会戦には戦後、A級戦犯として処刑される土肥原賢二が第1
4師団長として参加していた。豫西で中国軍は土肥原将軍に第20
0、88、106師が抵抗。歩兵と戦車の密接な協力で手痛い損害
を与えた、らしい。らしいと言うのは、土肥原将軍が指揮して居た
のは第9師団を基幹に、砲兵2個大隊、騎兵2個中隊、戦車の増強
を受けていたとあるからだ。
日本軍は概ね三方向から北支那方面軍と中支那方面軍が徐州を包
囲圧縮する形で進軍した。
4月19日、山東省臨沂が陥落。
5月14日、第13師団の快速部隊︵戦車1個大隊を中核に、装
甲車1個中隊、自動車化歩兵2個中隊、工兵1個中隊︶が暴れまわ
った。
5月19日、徐州陥落。20日、第106師の1個団︵第200
師より戦車1個中隊の増強を受けていた︶が日本軍約500と交戦。
日本軍は士気も低く、大損害を受けて200の屍を遺棄して行った。
6月6日、河南開封陥落。
6月9日、花園口決堤事件。撤退する中国軍は黄河の氾濫を利用
して日本軍の追撃を絶ち切ったが、3省が被害を受け民衆にも莫大
な被害を与えた。
中国軍の死傷者は6万、一方の日本軍には31,000の損害を
与え、抗日戦開始以来最大の戦果で大勝利だった、と大喜びしてい
る。この戦闘の結果、正面決戦をしては負けるし持久戦を基本方針
66
とした。
※徐州は第二次世界大戦集結後の国民党と共産党の内戦でも戦場と
成った。1948年、劉峙は第2、第7、第13、第16の4個兵
団を中核に30個軍、75個師の総兵力80万を展開させていた。
対する共産軍は華東野戦軍の16個縦隊、中原野戦軍7個縦隊の6
0万。11月6日∼1月10日の戦闘で、国民党軍は5個兵団22
個軍の55万5千人の兵力を失っている。
2.武漢会戦
大本営は5月29日に武漢作戦を決定、6月15日には御前会議
で決定し、18日には大陸命第119号が下された。
動員された兵力は、第2軍︵第3、第10、第13、第16師団︶
、第11軍︵第6、第9、第27、第101、第106師団︶の合
計9個師団、3個旅団。その他人員合計35万人で、武漢三鎮︵漢
口、漢陽、武昌︶の攻略と敵の主力撃滅を目的とした武漢作戦が発
動された。
中国側も日本軍の攻撃を座して待っていた訳ではない。特級上将
蒋介石は来るべき襲来に備えて、武漢三鎮に於いて15榴の砲弾に
耐えられる半永久的な陣地を構築していた。この陣地構築は、第一
次世界大戦に参加したドイツの軍事顧問による助言があった。
日本軍の企図した所は両翼包囲で武漢三鎮を占領し、中国が膝を
屈し和平を結ばせる目的があった。中日全面戦争の開戦以来最大の
兵力を投入した戦いとなった。
※15日には並行して行う漢口作戦が承認される。
中国側は第5、第9戦区が主戦場と成った。14個集団軍、50
個軍の兵力110万が展開しており、勇猛な日本侵略軍は5倍近い
敵に果敢にも挑んだのである。
全般的な経過を見ると北より第2軍が迂回しながら敵の背後を遮
67
断、第11軍は南から揚子江沿いに頑強な敵の抵抗を排除しながら
進んだ。
6月13日、波田支隊が安慶、第6師団が安慶の北にある桐城を
占領。
※海軍は侵略戦争に荷担して無かったと言う海軍善玉論が散見され
るが、陸戦隊も頑張っていた。21日、陸戦隊は汕頭近郊の南澳島
を占領している。
中国軍の作戦指令を読み解くと山地及び長江沿岸の要所を頑張っ
て守ろうね! と言う話だが、日本軍は10月26日、武昌占領。
27日に武漢会戦は終了と成った。日本軍の死傷者は4万人に達し
た。
おわりに
﹁糞ったれのチャンコロどもめ。ぶち殺してやる!﹂と言うのは創
作の世界だけで、面と向かって言うのはマジキチだけだ。
敵を知り己を知れば∼何て言葉もあるが、戦闘戦史好きには何で
も良いのだ。
中華民国は中国大陸を統治する正統な政権で、中華人民共和国は
共産党不法に占拠してでっち上げた物らしい。そんな事を言うなら、
さっさと大陸反攻して実効支配から解放しろよと言う話に成るし、
中華民国には大陸反攻のチャンスが幾度かあった。例えば朝鮮戦争
当時、広州あたりに上陸して第二戦線を形成すれば朝鮮分断の悲劇
を回避できたかもしれない。
そんなこんなで中華民国の精兵はひたすら負け戦続きだった。
1945年、日本帝国政府及び日本帝国大本営が連合国最高統帥
に無条件降伏した抗日戦争終結後、国民党政府は共産党と重慶で会
談。お互い仲良くしましょう、と双十協定を結んだが邪悪な共産主
義者は、国民党政権を打倒すべく東北を制圧。野心を剥き出しに中
68
国人民解放戦争をでっち上げた。
1946年、国共談判破裂で、蒋介石は中華民国の恒久的平和を
実現する為に共匪との対決を決意した。自由主義陣営の盟主である
アメリカ様が蒋介石を援助したのも正義があったからだ。
3月、山東を包囲すべく蒋介石は大軍を投入。この中には、死後
やたらと美化されている張霊甫の整編第74師も含まれていた。迎
え撃つのは中共にしては出来る軍人であった栗裕を幕僚に迎えた華
東野戦軍。5月の戦闘で74師は第1、6、8縦隊に包囲された。
20万対4万の戦いである。
6月、中共軍が中原解放区と呼ぶ地域に国軍は前進、一応はこの
戦いで全面戦争に突入したとある。
1947年夏、中共軍が全面攻勢に出た。
開戦当初、国民党軍が優勢だったが、三大戦役で形勢が逆転し国
民党軍は台湾に追い込まれた。では三大戦役とは何だったのか?
戦場と成ったのは東北、華北、華東、中原、西北の地域であった。
︵1︶遼瀋戦役
民国37年、西暦1948年9月∼11月2日、東北の支配権を
巡って両軍は激突するが、中共軍が勝利を収め東北を制圧した。衛
立煌を指揮官とする国民党軍は第1、第6、第8、第9の4個兵団、
合計14個軍、44個師、約60万人の兵力を有していた。対する
中共軍の東北人民解放軍は12個縦隊、67個独立師の約70万人。
︵2︶淮海戦役
民国38年、西暦1948年11月6日∼翌年1月10日、徐州
は再び戦禍に見舞われた。この戦いで中共軍は長江以南に勢力圏を
広げた。東北野戦軍、中原野戦軍から成る中共軍は、劉峙を指揮官
とする国民党軍を捕捉撃滅した。
︵3︶平津戦役
69
民国38年、西暦1948年11月19日∼翌年1月31日、こ
の戦いで中共軍は国民党軍52万人を殲滅し、北平を含む華北を全
面制圧した。
蒋介石の基本方針は平津の防御だった。傅作義の指揮する河北の
国民党軍は第4、第9、第11、第17の4個兵団、12個軍、4
2個師、4個旅の約60万を展開させた。対する中共軍は東北、華
北解放軍の4個兵団、19個縦隊︵軍︶、48個師、20個旅の約
100万を投入して来た。
日中戦争から先走り過ぎたが、結局の所で国民党軍は弱かったと
言う結論に達してしまう。
70
前の戦争に負けた日本陸軍はマジキチですか?
はじめに
世間的に見て21ヶ条を主張する日本は厚かましくマジキチだっ
た。その内容で気になったのは1923年満期の関東州租借を99
年延長︵1997年返却︶、南満州鉄道と安奉線の期限を99年延
長︵2002年、2007年にそれぞれ還附︶で植民地や海外州と
して搾取する気が満々だった。日本人の満蒙における生存権云々は、
﹁お前、中国人でもないのに何をくれくれと請求してるの? ここ
は日本ではなく中国だよ。出ていってね﹂と言う事で、現在の日本
でも似た問題を抱えている。立場を逆にすると、いかに図々しい輩
だったか分かる。
どうのこうの言っても﹁日本は戦争に負けた﹂これは変わらない。
中国には負けていないとか、海軍が悪いとか、遺族の気持ち、倫理
観、そんな事はどうでも良い。博愛多いに結構。ただしそれを論じ
る気はない。
ミリタリーオタクの端くれとして、戦争ゲームの様に戦術を楽し
む事が今回の目的である。戦争は面白くて軍隊や装備は格好良い!
たくさん敵を殺せば英雄だ。趣味の世界でそれ以上の言葉は必要
でない。ゲルググを見て人殺しの道具、ゴジラは大量虐殺者とか言
われても萎えるだけだ。
今回、お手本にするのはマジキチの代名詞、無敵皇軍︵笑︶の日
本陸軍。
旧日本陸軍の作戦要務令は市販されているし、古書でも手に入り
やすいが面白くない。面白さを求めるなら上田信のイラスト入りの
﹁コンバットバイブル﹂を読んでいた方がマシだとも考えられる。
しかし軍事用語の基礎は旧日本陸軍で完成形となっている。ここを
71
スルーしていてはお話にならない。
国内最新である自衛隊の教範は﹁部内専用﹂であると言う事でオ
タク向けに売ってはいない。昔はネットオークションやamazo
n等で転売されていたが、今は元自衛官とかが古本屋に売った物を
探すしかないだろう。諦めて米軍か旧日本陸軍の教範を探した方が
手っ取り早い。と言う事でミリタリーオタクで戦術の検証が趣味と
か騙るなら、旧日本陸軍関連にもさらっと目を通しておいて損はな
い。負けたと言っても、明治から昭和に至る戦訓に基づいた教範は
読み応えがある。ただし、軍機で部隊名を伏せられている事が多い
ため、戦史として考証するなら複数を読み比べないと、例えば江橋
鎮の攻略に参加していた第11師団の事だ、等と正確に理解する事
は難しい。
1.戦争は難しいの?:始めるのは簡単。ボスニアのサラエボでは
マジキチな鉄砲玉が﹁オーストリア皇太子の玉取ったるどぉ!﹂と
やっちゃって世界大戦になった。小説のオチと同じで終わらせ方︵
勝ち方︶が難しい。
現在、満州事変は日本の侵略戦争と規定されている。当時、租借
地として大陸に進出していた日本は﹁満蒙は日本の生命線﹂等と呼
んでおり、多額の投資を行っていた。満蒙の利権に日本が固執する
ほど、現地人は反発し反日運動が発生した。日本はこれを匪賊と呼
称し在留邦人保護を名目に派兵した。自国内に外国軍隊が駐屯し我
が物顔で横行していれば不満に思うのも当然で、日中関係は急速に
悪化の一途を辿った。
軍国主義時代の日本国民は国や軍の行動を肯定し、他国を侵略し
こせきだい
ていると言う自覚すらなかった。一方、国の意思決定に携わる政治
家や軍人が居直ったのは罪である。
ペイターイン
昭和6年︵1931年︶9月18日、虎石臺に分屯する独立守備
歩兵第2大隊第3中隊は夜間演習中だった。2200、北大營南方
72
の線路が爆破され、犯人らしき人影を北大營方面に追跡してるとコ
ーリャン畑から2∼3個中隊規模の射撃を受けた。大隊に報告する
と3中隊は、野田少尉の小隊に敵の退路遮断を命じ、中隊主力は北
大營西北に突入し、大隊の到着を待った。
大隊長島本中佐は大隊本部、第1中隊、第4中隊を応援に出発さ
せた。第2中隊は準備が遅れ、後から残敵掃討に参加した。
北大營の戦闘は概ね0530頃に終了、我が軍の損害は戦死2、
負傷23。対して敵は320の死体を遺棄していった。0015、
奉天より北にある長春の在留邦人を守る長谷部少将にも日支軍隊衝
突の報告が入った。この時、長谷部少将の手元には歩兵第4聯隊の
2個大隊と独立守備隊の1個中隊があった。対して敵は長春市街に
長春市街南方4Kmの南嶺に1個歩兵聯隊︵2,300人︶
2個歩兵大隊︵1,000人︶、長春の北2Kmの寛城に歩兵60
0人、
、1個砲兵聯隊︵1,300人、火砲36門︶を展開させていた。
﹁準備だけしておけ﹂と言われたのに長谷部少将は﹁奉天では戦闘
が始まってるし、先に潰すべきだよね﹂と考えた。敵の歩兵は何と
なんれい
かなる。問題は砲兵と言う訳で、第2大隊長黒石少佐は第5、第6
中隊︵200名︶を率いて南嶺の敵砲兵第1大隊を攻撃、火砲16
門を破壊した。引き続き第2大隊を撃破すべく進軍するが、数で勝
る敵の頑強な抵抗に遭遇。膠着した時に公主嶺駐屯の独立守備隊︵
大隊長小河原中佐︶から倉本中尉の中隊が来援し撃滅した。
こんな感じで始まった満州事変だが、日本帝国陸軍は13万人を
動員、17,000人が戦死した。
日本軍は無敵で中国軍は弱かったと言う風聞だが、支那事変では
90万人を動員し191,000人が戦死している。さらに対英米
蘭戦の始まった昭和16年12月の時点で、中国・満州に125万
人の兵員、馬匹28万頭の戦力を拘束されていた。もし本当に無敵
皇軍だったのならば100万以上も兵力を投入して、中国を降伏さ
せらなかったのは何なのかと言う事に成る。
﹁幼稚なる後進国が先進国に模擬するは進化の一手段にして大に必
73
要なるべし﹂と明治の人も言っており、日本陸軍は諸外国に学び戦
争ができる軍隊になっていった。その課程で、古今東西の戦史、教
範類も研究された。一方で﹁我等の日本陸軍﹂では﹃日本陸軍はこ
れまで一度も負けたことの無い軍隊です﹄と記載されており、世間
的には無敵皇軍と盲信されていたのも事実だ。結果的に過信して敵
を過小評価すると惨めな目に遭う。
︵ア︶外線作戦と内線作戦
あるところにヒノモト王国と言う国がありました。即位したばか
りの王様が大臣を呼んで尋ねました。
﹁外線作戦と内線作戦ってなんじゃ?﹂
﹁おお、我が王よ! 今さらなんちゅー事をお聞きになるんですか。
最近の中学生ミリオタでも知っていますぞ。なんと嘆かわしい﹂
﹁いや、わし女の子にしか興味ないから。戦争はお前らの仕事﹂
﹁だまらっしゃい! 先王も草葉の陰で嘆いておりますぞ﹂
大臣はしかたなく説明します。
﹁手っ取り早く説明しますと、外線作戦はヒノモト王国軍が大アル
ニダー帝国に攻め込んで相手軍を包囲、または挟撃出来る状態です。
弱点としては、こちらが各個撃破されるかもしれない事です。内線
作戦はその逆で、こっちがフルボッコされそうな状態ですが、うま
くすれば相手を各個撃破できます﹂
﹁あらまあ、なんだか難しいね﹂
攻めるにしろ、攻められるにしろ相手が居なければ戦争は始まり
ません。面白くありません。そんな時はシミュレーションゲームで
す!
古代ギリシャのファランクスは、ギリシャの山岳地帯における内
線作戦に合わせて産み出された陣形だ。側面は脆いが、山岳地域の
走破は難しく迂回による側面や後背が突かれる事は想定の必要さえ
74
なかった。
古代の戦争は武器が剣や槍、弓程度で、歩くか騎乗するしか移動
手段は無かったから、ファランクスは利にかなっていた。だが現代
はヘリコプターや車両で移動が出来る。
Land
Component
Anacondaは、
2002年3月1日から16日にかけてアフガニスタンでタリバ
Forces
ン掃討の為に実施されたOperation
Combined
Task
Force
︵CJTF︶Mountai
Command︵CFLCC︶の指揮下で、Combined
Joint
nが設置された。この作戦には第10山岳師団、第101空挺師団
Valleyに投入されたがさすがにファランク
の3個歩兵大隊と特殊部隊からなる兵員1,700名の米軍がSh
ahi−Kot
スは組んでいなかった。火器の発達は兵員の削減に貢献している。
ナポレオンの得意とした分進合撃は縦隊による機動性があっての
物で、外線作戦で効果を発揮した。もっともナポレオンもクラウゼ
ヴィッツさんも外線作戦は否定していた。
防御戦闘に限れば、ナポレオンが酷評したフレデリック大王の横
隊でも効果はある。アフガニスタンで孤立したアメリカ軍の行った
戦闘行動も、意図はしてないだろうが古典的な横隊の応用例だった。
フレデリック大王の横隊は小銃兵の間に砲兵配置し、両翼に騎兵を
配置した。アメリカ軍はHMMWVに車載した機関銃、TOW、グ
レネードランチャーを要所に配置する事で、歩兵を支援した。
戦術は地形に応じて変化する。それが当然だ。
ナポレオン自身は戦力の分散を嫌っていた。2個の部隊で1個半
の部隊を攻撃する時、2個の部隊は1個+1個でしかなく、機動し
ている部隊は戦場の外でしかないと言う考え方であった。
︵イ︶大規模な会戦こそ戦の華?
会戦は決戦の要素を多分に含んでいる。その目的は敵軍を撃破殲
75
滅する事で、戦争の主導権を握ることだ。戦国時代の合戦でも多い
野戦だ。魚鱗や鶴翼の陣形にしても後続する部隊や隣接する部隊に
敵の側面を突かせる事を想定した隊形だ。中国軍と戦った日本陸軍
は退路に部隊を配置し捕捉殲滅するには、二重、三重の包囲を行わ
なくては取り逃がすと言う事を学んでいた。
ローマ軍団を初め、古代中国や中世ヨーロッパの軍隊は側面に騎
兵を配置する事が多かった。
かの皇帝ナポレオンも決戦を求め、兵は機動力の高さで勝利を重
ねた。迂回機動の成功例であるウルム会戦後に﹁僕は行軍だけで敵
を撃ち破ったんだよ﹂と言っている。
当時、フランスは英本土侵攻作戦の為、17万の兵を用意し、1
5万を国土防衛に用意していた。総兵力40万の内30万が即応出
来る体制だった。これに対してアンチ・ナポレオンのカルル親王が
兵9万でイタリアを脅かし、フェルディナンド大公が兵8万で南ド
イツを防衛する計画だった。ところがフェルディナンド大公の参謀
長マック大将は﹁喧嘩は守ってたらあかん。いてこましたれ!﹂と
言う事で、兵6万を率いてウルムを占領した。これを受けてナポレ
オンもランヌ、ミシェル・ネイ、スール、ダヴー、ミュラー、マル
モン、ベルナドット、オージロー、マッセナンと言った諸将と23
万の兵を率いて出撃した。およそ3倍の戦力があれば正面で拘束し
ながら迂回できたのも当然である。
日露戦役の奉天会戦は後続部隊の投入による包囲で、日支事変の
徐州会戦は分進合撃である。
ちなみに旧日本陸軍の歩兵は1分間に86m、騎兵で100m︵
諸兵科連合で1時間4Km、自動車化部隊で1時間12∼20Km︶
行軍すると計算されていた。※行進速度と距離は徒歩部隊に限れば
自衛隊に成ったからと超人に成るわけではない。自動車化部隊や装
甲車化部隊は若干向上している。
昭和12年9月12日から19日にかけて永定河南岸において第
14師団の遠山部隊︵歩兵第50聯隊︶、坂西部隊︵歩兵第59聯
76
隊︶、石黒部隊︵歩兵第2聯隊︶、森田部隊︵歩兵第15聯隊︶を
トー
並列配置した日本軍は、9月14日に拒馬河で中央突破を行った。
チカ
敵の第一線は正面幅80Kmで、約6個師団が展開し半永久的な陣
地を構築していた。これに対して砲兵の援護だけで坂西、森田、石
黒の中央部隊が前進し、左翼と連繋して包囲を実行した。この会戦
で日本軍は、敵の弱点に指向して火力を集中すれば突破できると結
論を出している。
この後、第14師団は引き続き南下し、保定を第6師団と共に包
囲する。保定は左を山、右を湿地に挟まれた要害であった。日本軍
は森田、坂西、石黒が保定の左翼を叩き、第6師団の岡本部隊︵歩
兵第13聯隊︶、安田部隊が保定の正面から、長谷川部隊︵歩兵第
47聯隊︶が保定の右翼を叩く形となった。砲兵の援護で前進した
日本軍は中国軍を撃破、追跡し戦果拡張を行った。
だが昨今の戦争では正面決戦を避ける事が多い。結局は勝てば良
いので、ナポレオンの大陸軍がロシア遠征で味わった焦土作戦やベ
トナム戦におけるVCによるゲリラ戦は会戦の回避と言える。相手
の土俵に上がらなかった弱者の頭を使った勝利と言える。
冷戦時代は通常兵器の量で優るソ連とそのお友だちが、アメリカ
のお友だち︵NATOとか日本とか︶に喧嘩をしかけてくるかも知
れないと言う脅威があった。大規模な会戦の舞台はドイツ本土が舞
台になる。しかしまともにぶつかっては消耗戦で負けてしまう。ア
メリカ君はドイツさんに学び、ロシア人をぶちのめすには斬減作戦
しかないと言う事で遭遇戦はともかく自分から進んでの会戦は避け
た。
︵ウ︶指揮系統
異なる指揮系統の指揮官同士が協同作戦を行う場合は、連絡を密
にするのは当然。それ以外に上級指揮官を決めて置く、と昔の人は
77
言っている。
マルビナス諸島をアルゼンチンが奪還した時、イギリスは海を渡
って侵攻部隊を送り込んだ。確かに上級司令部は存在したが司令部
は遠く離れたイギリス本土で、現場の指揮系統は統一されていなか
った。機動部隊の指揮官は制空権の確保と上陸部隊の護衛任務を与
えられていた。陸戦に関しては当初、海兵隊に指揮権があり陸軍は
後詰めだった。この件で機動部隊指揮官がなんやかんやと責められ
たが、責任転嫁に過ぎない。
現場の指揮系統は明確にされねばならない。
︵エ︶作戦を立ててみよう
1.まずは部隊の名称からタイトルを付ける。小説家になろう風
なら﹁ニート遊撃隊命令﹂﹁チート勇者支隊命令﹂とかそんな感じ
だ。2.命令の受ける側に必要な敵軍、友軍の状況。3.指揮官で
ある自分の企図する所、4.軍隊区分、各部隊の任務。特に任務は
明確で適切に指示しなけれならない。﹁山田、ニンジン切って﹂と
言うのは良いが、﹁どのタイミングで、どんな形か﹂はっきりしな
いと動けない。5.その他色々。
戦場を想定する場合、アメリカ第7艦隊が居るから、日米同盟が
あるから敵は侵攻できない。日本の海空自衛隊は水際で阻止する為
に陸上戦闘の想定事態が無駄だという意見を耳にする事がある。戦
場は、自国の事情に関係なく国際情勢に巻き込まれて発生する。例
えば朝鮮半島の現地住民は残念無念な民族である。大陸に突き出た
半島であるために、日本から見れば大陸進出の足場になり得た。
日露戦役は満州・朝鮮半島を緩衝地帯にしましょうという日本側
の提案を、ロシアのハローゼン公使が小村外務大臣に断った事で拗
れた。かくして朝鮮民族とは関係無しに日露は朝鮮を舞台に激突し
78
たのである。戦場は住民を考慮する訳ではない。
ではここで九州を舞台に戦争ゲームをしてみようと思う。元ネタ
にしたのは旧日本陸軍の教範だが弄くってある。旧日本陸軍の略語
については現代の頭で考えると誤訳するので、リセットして考える
必要がある。参考までに一例をあげると以下の通り。
F:敵軍
A:軍、または砲兵。ⅠA︵※1Aではない︶は野砲兵第1大隊で、
師団左翼隊にA一中と記載されていれば、それは軍ではなく野砲兵
1個中隊の配属と常識的に判断できる。大抵の場合、砲兵の記号も
併記されている。BAs一中は山砲聯隊1個中隊。SA一中は野戦
重砲聯隊1個中隊。
Bst:中隊段列。Rstは聯隊段列。
1D:第1師団、Dは師団。
K:騎兵。K三中は騎兵3個中隊、KAは騎兵砲。
DK:師団騎兵。
DKK:騎兵集団。日清、日露の戦争や第一次世界大戦でもなけれ
ば出てこない。
i:歩兵。i一大は歩兵1個大隊。
8iB:歩兵第8旅団。
1iB︵−2i︶:歩兵第1旅団︵歩兵第2聯隊欠︶。
Ⅲ/8i:歩兵第8聯隊第3大隊。Rは聯隊だが省略される事が多
い。
9/3i:歩兵第3聯隊第9中隊。
Ⅲ︵−9︶:第3大隊︵第9中隊欠︶。
9/2A:第2砲兵聯隊第9中隊。
TK二大:戦車2個大隊。
1FL:第1師団野戦病院。
。
P︵一小︶:工兵︵1個小隊︶。
1/3S:衛生隊1/3個
79
T:輜重兵。
FS:ファイブスター⋮⋮ではなくて電話隊。FTは野戦電信隊。
MG:機関銃。
MW:迫撃砲。
これらは一例に過ぎないが、大隊はローマ数字とか、歩兵第2聯
隊第3、第4中隊は3.4/2iとか法則があって、NATO基準
に慣れたら現代人にとって旧日本陸軍そのままだと難解過ぎる。と
言う事で、陸自教範の丸写しはダメなので弄っている。ちなみに旧
日本陸軍では隊標隊号と言い、同じ様に敵を赤色、味方を青色で表
記するが、もちろんオーバーレイは使わない。
軍隊が部隊の規模を表すSymbolが存在する。陸上自衛隊で
は部隊符号と呼び、旧日本陸軍では軍隊符号と呼ばれた物だ。WW
2でのドイツ軍好きなら装甲師団の編成等、簡単に読めるだろう。
だが2015年現在のNATO軍準拠で読むならAAP−6は最低
限度必要な知識となる。これは改訂を重ねられており、1985年
の物より分類が増えている。1950年の物は完全に別物である。
†
一罰百戒と言う言葉がある。一人、ぶん殴れば見せしめには十分
で躾られると言う意味だ。
ウリナラ半島の南北融和と統一は、冷戦構造の崩壊と民族主義の
嵐をもたらした。
この段階でヒノモト王国は大アルニダー帝国の意図に気付くべき
であった。
南北統一でウリナラ半島には陸軍だけでも南北合わせて100万
名以上が存在し、改編と縮小が行われた。この過程で行われた大ア
ルニダー帝国陸軍の大規模な配置転換を異常とは捉えられなかった。
全ては対ヒノモト王国戦争計画の流れだった。
80
国定教科書が反ヒノモト王国一色で埋まった2015年8月、昨
夜の台風で少なからぬ被害を受けた北九州福岡市に爆音が鳴り轟い
ていた。大アルニダー帝国軍による航空攻撃だ。唖然と口を開ける
人々の頭上を編隊が通過して行く。
航空自衛軍の基地は特殊部隊に攻撃され迎撃に飛び立てなかった。
哨戒中だったF−15DJはF−16Kアルニダー・ファルコン
に空対空誘導キムチ弾をぶつけられキムチ汁によって撃墜された。
陸上自衛軍にはヘリコプターもあるが戦闘機相手では的でしかな
い。対抗手段は高射特科のみで数さえ揃っていない。
奇襲を受けて敵の航空優勢と言う不利な戦局の中、西部方面軍は
大アルニダー帝国軍の上陸に備えて北九州に部隊の集結命令を出し
た。本州からの応援を待って反撃に出ると言うのが事前の計画であ
った。
九州の主要部隊は第4師団、第8師団と方面隊直轄部隊。これに
対して大アルニダー帝国軍は艦砲射撃でこれから上陸します、と言
うスタイルではなく、特殊戦司令部隷下の第707特殊任務大隊や
特殊部隊旅団、海軍特殊戦戦団︵UDT/SEAL︶を事前に分散
浸透させ後方攪乱を行わせた。さらに加えて空爆で粗方の駐屯地や
基地施設を破壊した。大アルニダー帝国軍は夜間飛行を控え、日没
と共にその日の戦闘が終わった。
ヒノモト列島は起伏に富んでおり、平野部よりも山地が多い。外
国軍の侵攻があったとしても遅滞行動で持久戦を行う事が可能だと
考えられた。そもそも海と空で防ぐから戦車は不要だ、とまで考え
られていた。
だが自衛軍は後手に回り、開戦1日目の空爆によって九州北部に
展開していた部隊の損耗率は40パーセントを超えた。
第2日目。橘湾に侵入した第1海兵師団を尖兵に堂々と千々浜海
水浴場に上陸を開始した大アルニダー帝国軍は、味方の航空優勢で
翌日までにヒノモト王国民の血で染まった橋頭堡を確保した。
第1海兵師団は第2、第3、第7の3個海兵連隊を中核にK55
81
SPH︵M109自走榴弾砲︶KH179︵155ミリ榴弾砲︶装
備の砲兵連隊、K1戦車装備の戦車大隊、KAAV7A1装備の水
陸両用大隊、偵察、工兵、支援の各大隊で構成されており、単独で
第4師団を排除する火力を有していた。
大アルニダー帝国軍は橋頭堡確保後の第1波として第1軍団から
第1歩兵師団、第9歩兵師団を中核に第2機甲旅団、第1工兵旅団、
第1砲兵旅団、第101通信旅団等からの増強を加えて長崎県に投
入した。
市内から逃げ遅れた非戦闘員の激辛料理を食わされる叫び声が銃
声と共に響く中で、第3日目。敵橋頭堡に対して陸上自衛軍は大村
市の第16普通科連隊と佐世保市から駆けつけた西方普通科連隊の
増援を受けて最初の攻勢をかけたが、敵の近接航空支援によって守
勢に回ってしまう。
戦闘終了後の夕方、中川浩二3等陸曹は部下の班員と共に撤退し
ていた。
地獄の業火から生き残った班員は3名。高機動車で北に逃げてい
る。ハンドルを握る田口光雄陸士長は自教でMOS取ったばかりだ
った。放棄された高機動車が動くと言う事でドライバーを任されて
いる。
﹁田口は佐賀県出身だったな﹂
﹁はい武雄市です﹂
少なくとも自衛軍の駐屯地や戦場からは離れている。家族の無事
は信じられた。
﹁ここはやばい。ともかく駐屯地まで戻るぞ﹂
﹁了解です﹂
結局、駐屯地は放棄し長崎県の部隊は佐賀県に引き上げるよう命
令が出た為、佐世保から後退する5曹教や教育大隊の面子と合流し
た。油断せず周囲を警戒しながら撤退する中川3曹達は、春日市か
ら駆けつけた第19普通科連隊の斥候班と合流する。
82
†
小説パートを終えて状況を説明するとこのようになる。
敵
︵a︶敵は長崎を制圧。敵が動員できる兵力は概ね10個師団以内、
航空兵力は味方より優勢。
︵b︶1個師団が南下し熊本に進出中。
︵c︶戦車を含む機械化部隊が本日夕方、佐賀県に侵攻、状況は不
明。
味方
我が軍は九州北部の防衛を目的としている。
なお道路、橋梁に対する空爆やゲリコマの活動は無く移動に支障
はない。戦闘地域の住民避難は自治体と行政の協力により完了済み。
配属部隊及び関係部隊
第4師団︵−︶:残存戦力は佐賀に集結中
第8師団︵4個普通科連隊基幹︶:熊本に集結中
西武方面特科隊:佐賀に展開中
第3高射特科群:佐賀に展開中
第8戦闘団︵第8普通科連隊基幹︶:佐賀に移動予定
第17戦闘団︵第17普通科連隊基幹︶:佐賀に移動中
この他、通信、施設、輸送の増援と航空自衛隊の支援がある。
九州が戦場になるなんてナンセンスだという意見があるかもしれ
ない。マブラヴやガンパレードマーチの様な人類対怪物の設定は突
飛だが、国土が戦場になる可能性は否定できない。
1757年、フリードリヒ大王は戦力の2/3を失い危機に瀕し
ていた。1758年、ドーン大将の第1軍︵64個歩兵大隊、45
83
個選抜兵中隊、17個騎兵聯隊︶、バセニー大将の第2軍︵35個
歩兵大隊、28個選抜兵中隊、48個騎兵中隊︶、ナダスチー将軍
の第3軍︵6個歩兵大隊、4個選抜兵中隊、24個騎兵中隊︶の他
に軽装部隊︵イタリア、ギスニア、ダルマチャ、チロル人等60,
000人︶等の兵力が迫りつつあった。
敵はこちらの事情を気になどしない。むしろ弱点を突いてくると
言う訳だ。なにしろ大王自身も、1740年にシュレージェンに侵
攻している。自国の都合による侵略だ。一方で、モルヴィツの戦い
は大王の立場からすると﹁ゆっくりできないオーストリアのババア
が攻めてきた﹂と言う被害者意識であったかもしれない。
彼我の状況と言う材料は揃った。ここから何をするのか考えてみ
たい。
任務分析を行い、構想、指導要領や各部隊の任務を決定する。※
今回のゲームでは兵站、人事、指揮、通信は割愛する。
まず敵情分析して見る。少なくとも熊本に敵が進出して佐賀県の
敵が不明と言う事は分かる。これを深読みすると佐賀から熊本に転
進してるかもしれない。あるいは熊本に合わせて同時攻撃をしかけ
てくるかもしれない。安易に﹁各個撃破出来る﹂と考えるなよ、と
昔の人が教えてくれている。敵の装備や錬度も知りたい所だ。
※大陸で旧日本陸軍が戦っていた頃の相手は弱いと言うイメージだ
クリーク
が、日本陸軍は冷静に分析していた。上海事変で敵はソ連の軍事顧
問の指導を受けており、天然の地形を利用して野戦築城を行ってい
た。さらに日本軍よりも優れたチェコ、ベルギー、オーストリア、
ドイツ、アメリカと言った欧米の火器を装備していた。機械化や火
力の増強は今も昔も宿願だが、明らかに日本が劣性だった。さらに
地雷も頻繁に利用されていた。
地形の判断だが、九州の地形や道路事情で考えねばならない。戦
前以上に日本の国土は開発され、都市部に限れば過密しており攻め
るには向いていない。と言っても守る側にしてみれば国民の財産で
あり制約も多い。お互いが演習場で戦う訳でもないので、民家を巻
84
き添えにする事は避けられない。道路事情が発達していると言うこ
とは、通れる道が多いと言うことで、守らなければならない場所も
増える。
ゲームを進める上での初期配置によっては苦境に立たされる場合
もある。敵情を確認する事が大切だ。
騎兵の活躍した最後の時代とも言える日露戦役。明治37年当時、
日本の調査でロシア軍は、170個歩兵大隊︵1,670,000
人︶、1485個騎兵・驃騎兵中隊︵172,000人︶、700
個砲兵大隊︵167,000人︶、220個工兵中隊︵57,00
0人︶を動員可能と目されていた。対する日本陸軍は、現役の他に
予備役、後備役を動員して13個師団、2個騎兵旅団、2個砲兵旅
団を編成した。最終的に新設師団、後備師団、後備旅団の編成、臨
時特設部隊の増設で1,088,996人に達した。この内、99
9,868人が外地に送られた。
︵オ︶偵察ってどうやるの?
陸自の偵察小隊、司令部付隊と旧日本陸軍の捜索隊とは少々異な
る。捜索隊の編組は1個騎兵中隊又は戦車中隊︵装甲車︶に、所要
に応じて普通科、特科、施設、通信が配属される。
徒歩斥候は定番だが﹁敵情がわかんねえ﹂となると﹁攻撃による
捜索﹂がある。一部の兵力で攻撃し抵抗の強弱によって敵情を調べ
る威力偵察だ。戦闘の報告は1.敵の兵力、装備、行動、2.彼我
の損害、3.残った弾、燃料とかの数となっている。戦闘詳細報告
だとこれに+αで気象とか色々増える。
この他に捕虜から所属部隊、任務、編成、装備、最近受けた命令、
他の部隊はどうしてるのか、﹁最近の調子どうよ。給料ちゃんと貰
ってる?﹂﹁疲れてないか﹂﹁萌えアニメは好き?﹂等と聞くこと
は幾らでもある。
85
†
太陽がじりじりと照りつける暑い昼間は外に出たくはないが、攻
めてくる敵にとって季節は関係無かった。
﹁豚足、豚足﹂
アルニダー兵が捕らえた市民を肥溜めに突き落として笑い声をあ
げていた。頭まで沈められて文字通り糞まみれだ。
﹁調子に乗りやがって⋮⋮﹂
物陰からその様子を監視しているのは自衛軍の兵士だ。第19普
通科連隊に編入された中川3曹は本部管理中隊情報小隊に配属され
た。北から第40普通科連隊、第19普通科連隊、第41普通科連
隊を並列、伊万里∼武雄∼嬉野を結ぶ線をFEBAとして陣地防御
し敵の襲来に備えていた。西九州自動車道と長崎自動車道の交差す
る武雄ジャンクションは交通の要所と言える。中川3曹の指揮する
斥候班は偵察に来ていた。
︵助けられなくてすまん︶
市民の避難は完了していると聞いていたが、実際はかなりの人数
が取り残されていた。しかし威力偵察でも無ければ斥候班が積極的
な攻撃を行う事は無い。
中川3曹は部下を促し、近くの中学校を目指し移動した。
大規模災害等で学校は避難場所になる。だが現状から考えて、中
学校は敵に制圧された可能性は高い。寺の裏山を登り監測所として
学校の様子を確認した。
学校の運動場には戦車や装甲車、トラックと言った車輌が駐車し、
天幕が並んでいた。四隅にはL−90と同じ35mm機関砲が配置
されていた。プールサイドでは若い女性を侍らせてバーベキューを
やっている。前線が近いにもかかわらず余裕を見せていた。
中川3曹は通信帳にメモのペンを走らせながら、敵の配置に漏れ
がないよう確認する。
86
†
てな感じで、普通は戦闘を回避するのが偵察の仕事。集められた
情報が師団長や連隊長の決心、判断に繋がる。戦局の判断について
旧日本陸軍第106師団長中井良太郎中将は︵1︶戦史︵2︶戦理
︵3︶現況を上げている。戦略、戦術を知らないのは基礎を知らず
に囲碁をするような物で、戦史戦理を勉強しなさいよと述べている。
旧日本陸軍は騎兵をこよなく愛した。騎兵は第一に斥候の任務を
持つ。そして追撃や迂回攻撃に活用された。師団騎兵︵師団に1個
騎兵聯隊︶、旅団騎兵︵騎兵旅団に2個騎兵聯隊︶として運用され、
時代の変化に伴い機械化され装甲車も配備される様になる。
1870年、独仏戦争時のフランス陸軍は胸甲騎兵、槍騎兵、竜
騎兵、猟騎兵、驃騎兵、カラビニエ聯隊等の騎兵252個中隊が動
員された。こうなると、ただの偵察ではなく立派な衝撃力だ。ナポ
レオンの時代、フランス大陸軍で騎兵は騎兵集団として運用された。
それよりも古いフリードリヒ大王の時代は、最大単位は中隊単位で
運用された。1741年のモルヴィッツ会戦でプロシアのフリード
リヒ大王は、オーストリア軍の侵攻企図を察知するや、4月5日に
はノイシュタットに軍勢を集結させ、8日にはナイス河を渡り迎撃
に向かった。強風と大雪が積もり進軍は困難を極めたが10日には
天候が回復、27個歩兵大隊と32個騎兵中隊を5列縦隊の隊形に
組み直し行軍させた。この戦いで大王は驃騎兵を斥候に放っている。
2.戦闘についてあれこれ:火器や車両と言った機材の性能が向上
して、陸上自衛隊が旧日本陸軍より火力や機動力で勝っていると言
っても、比例するように敵の戦力も向上している。自衛隊より対抗
部隊を低く見積もる事が正しいとも思えない。
︵1︶防御:攻撃は最大の防御と言うが、防御は防御。攻撃とはや
り方が違う。
87
戦場での勝利とは、少ない損害で大きな戦果をあげること。これ
は100年前でも変わらない事だ。そして指揮官は速やかな状況判
断を下す事が求められる。﹁今後、どうするのか。その範囲はどこ
までなのか﹂と言う事だが、はっきり言って抽象的で分かりにくい。
具体例で考えてみたい。
旧日本陸軍は﹁優勢な敵﹂に対しては防御、﹁やや優勢な敵﹂に
は攻勢防御と決めていた。
陣地を﹁警戒陣地﹂﹁主陣地﹂﹁後方陣地﹂に分けていた。コロ
ッケで言う所のさくさくとした食感のパン粉が外殻の警戒陣地でG
OPLだ。ぐにぐにと潰されたじゃがいもは主陣地でFEBAに当
たる。塩コショウは要点に準備された機関銃の急襲火力だ。後方陣
地はキャベツ。これらの陣地は、400m以内を小銃、600m以
内を擲弾、800m以内を軽機関銃の対処で火網を構成し隣接部隊
と補い合った。火器には最大射程と実用射程がある。砲迫の殺傷効
果は有効火制地域を知らなければならない。﹁これ射ったら、どこ
まで飛んで、どれだけ殺せるのかにゃ?﹂と言う事だ。それによっ
て作戦図や火力運用計画が立てられる。
歩兵にとって怖い物に戦車が存在する。歩兵の対戦車装備が進歩
したから﹁戦車なんか怖くねえよ!﹂と言う威勢のいい意見もある
が、一部の先進国で大国を除いて歩兵の装備は貧乏なままだ。旧日
本陸軍の場合は、︵1︶火砲、対戦車砲、高射砲で撃破︵2︶肉薄
攻撃︵爆薬持った歩兵、工兵︶の対処しかなかった。対戦車戦闘は
自然の障害の利用が望ましい。河川等は敵TKの突進を阻止してく
れる。
それで、まぁなんやかんやと陣地に籠って敵を陣地前で潰す等を
やると、逆襲のチャンスがやって来る。予備隊は戦果の拡張や不測
の事態に投入されるので、敵から見える位置に配置してはいけない。
これ等を逆襲計画で表記される。
対空挺・ヘリボン戦闘計画まではさすがに旧日本陸軍に存在しな
88
かった。対空計画は一応、立てられている。
あ、どうでも良いが少なくとも陸上自衛隊では車両の乗り降りを
Movie
2︵橋を爆撃したやつ︶
﹁乗車﹂﹁下車﹂と言う。これは旧日本陸軍も同じだが、劇場版の
機動警察パトレイバーThe
では﹁降車﹂と言っていた。この語源は何だろう?
†
伊万里市の南に広がる腰岳∼牧ノ山∼青螺山∼黒髪山∼神六山は
敵の東進を阻止する防壁だったが安心はしていない。ウリナラ戦争
時代、北ウリナラ軍はウリナラ半島南部の、いわゆる釜山橋頭堡ま
で大アルニダー帝国軍を追い込んでいた。東海岸は山岳地帯で大規
模な部隊の侵攻はあり得ないと考えられていたが、結果は北ウリナ
ラ軍歩兵は山地を踏破し浦項へ攻め込んだ。山があるからと安心は
出来ないと言う実例だ。これらを踏まえて第19普通科連隊は神六
山に稜線陣地を築いている。
連隊の方針は、県道343号線、104号線、45号線に左から
1中隊、2中隊、3中隊を並列配置し敵の武雄市に対する敵の進撃
を阻止することにあった。突破した敵には予備隊︵4中隊︶が当た
る計画だが、隘路は攻める敵にとっても不利な地形と言えた。
﹁班長、あのダムぶっ潰してウリナラの奴等を全滅させられないで
すかね﹂
中隊に配属されたばかりの新隊員が声をかけてきた。ドーランを
塗りたくった顔で視線だけを動かす班長。
3中隊の陣地占領している左手側には古木場ダムがあった。夏バ
テと戦闘の疲労で水に飛び込めば涼しいだろうなどと考えてしまう。
﹁そう言う事は映画の中だけで、出来るならやってるんじゃないか﹂
ダムを爆破するまでもなく、砲迫に支援された敵は第40普通科
連隊第1中隊の守る4号線の方を移動していた。敵は1個機械化大
隊規模で、自分達の方で無くて良かったと言うのが本心だ。
89
†
︵2︶攻撃:敵を包囲し戦場で殲滅することが原則
作戦要務令がマジキチなのは攻撃の部分で、﹁敵が優勢でも攻撃
しろ﹂と書いてる所にある。
攻撃は敵の端っこ、隣接部隊との繋ぎ目、モヤシで弱そうな部隊、
突出部等がある。佐藤大輔の小説﹁レッドサン・ブラッククロス﹂
で日本軍がドイツ軍の守る高地を攻める描写があるが、あれは防御
の要所で、旧日本陸軍も﹁攻めたら自分の損害も多い﹂と記してい
る。他に敵の退路を圧迫する攻撃もある。
1914年、第1次欧州大戦︵第1年目︶、タンネンベルヒの会
戦は内線作戦の典型として歴史に記されている。
包囲には一翼、両翼、全包囲がある。包囲を行う部隊は皆一緒に
動くか、後ろに着いてきていた部隊が後から加わるか、初めからい
た部隊の一部が移動して包囲を完成させるかの違いがある。
前衛は敵が各個撃破か拘束を狙うだろうから、先制攻撃を行うべ
く野戦特科の増強が望ましい。本隊は幾つかの梯団に分かれて後続
する。日露戦役で日本陸軍第1軍は戦力集中して上陸し、事後は朝
鮮北部に前進した。
大正時代の陣地攻撃は塹壕戦の延長でしかなく、準備陣地、第1
陣地、突撃陣地︵間には連絡壕︶と言う物を構築し攻撃を敢行する
という考え方だった。騎兵は捜索任務に当てられていた。
第一次世界大戦登場した戦車は世界に衝撃を与え、開発競争が行
われたが運用は試行錯誤の途中だった。ヨーロッパ大戦のポーラン
ド戦役では独ソの機械化部隊が18日でポーランドを降し、西方戦
役ではオランダが43日で降され諸兵科連合の機甲戦が脚光を浴び
るようになった。だが日本はそれ以前にも注目はしていた。
戦車は機動力、攻撃力、防御力を兼ね揃えており戦場の主役とな
90
り得る。﹁砲兵が耕し、歩兵が占領する﹂の通り、歩兵は引き続き
重要な役割を担っており、装軌車等を利用して戦闘に協力するよう
に変化すると考えられていた。
実際、明治37年2月8日、朝鮮に上陸した第1軍は鴨緑江まで
の200Kmを走破するのに2ヶ月半がかかった。それに対して満
州・上海事変で機械化された日本軍は活躍しており、戦車は歩兵の
先頭に立って前進を援護し︵歩兵直協用として︶戦果を拡大した。
昭和5年、国産の89式戦車が誕生したが、昭和6年の満州事変
勃発時に日本の機甲部隊は久留米の第1戦車隊と歩兵学校教導隊に
しか常設部隊は存在しなく、英国製戦車やルノー戦車が混ざってい
た。それでも百武大尉を指揮官に臨時派遣第1戦車隊が編成され大
陸に投入された。昭和8年2月、熱河省及び北支反満軍撃滅に坂本
西右衛門中将の第6師団や西義一中将の第8師団が投入されたが、
この際、第16旅団長川原少将の率いる挺身隊︵第16旅団司令部、
歩兵第17聯隊︵約1個大隊半と乗馬小隊欠︶、戦車隊、特設山砲
1個中隊︵1個小隊欠︶、衛生班の一部、関東軍自動車隊︵本部及
び3中隊︶よりなる︶は2日に凌源を占領、3日に平泉に突入する
と言う戦功をあげており、百武大尉の戦車隊も貢献した。
都市部の攻略は時間がかかる。例えば、平壌は朝鮮半島北部のと
ある一族が支配する王国の都である。この都はそれなりに重要な都
市であった。朝鮮の役、日清戦役では戦場となり、日露戦役では通
過点、それと現在も継続中の朝鮮戦争では南朝鮮軍に占領されてい
る。
文録元年︵1592年︶、釜山を攻略した日本軍は5月27日に
臨津を渡り6月9日には平壌の対岸に達した。6月11日、国王は
、29日に朝鮮兵とそれぞれを撃退している。
またしても脱出。16日には陥落した。その後、平壌に迫った敵を
7月16日に明軍
次に平壌が戦場になったのは翌年の文録2年1月5日で、日本軍
は城外の朝鮮軍を夜襲した。結果的に、8日の夜半に平壌から日本
軍は撤退した。
91
明治26年、朝鮮の動乱で邦人保護や居留地の警護を目的に混成
旅団を送り込んだ日本だが、7月20日に大本営が連合艦隊に清兵
増派の阻止混成旅団に﹁眼前の敵を撃破すべき﹂と命じ、戦闘発生
し日清開戦となった。﹁図説陸軍史﹂では3頁ほどしかないが、よ
く纏められている。
混成旅団は第5師団から大島義昌少将の歩兵第9旅団を基幹に、
各部隊を編合して派遣された。この際、歩兵第11聯隊第1大隊に
騎兵、工兵小隊を附属して先行させている。で、旧日本陸軍は兵站
を疎かにしていると言う風潮だが、少なくとも清との戦闘に備えて、
兵站監部、兵站司令部2個を派遣している。また当時の朝鮮半島は
道路が発達しておらず、馬匹の運用困難な地形で、行李は馬の代わ
りに輜重隊の他に軍夫の人力に頼る事に成ると予想された。その為、
現地で徴募したが監視の兵が必要だった。
第5師団が仁川に上陸、第3師団が元山に上陸すると、第1軍と
して動き兵員12,000と火砲44門を以て平壌を包囲した。城
壁防御の清軍は15,000人と火砲32門。9月15日に総攻撃
を実施。20時間の戦闘の末、16日に攻略した。
明治37年2月に日露が開戦すると、6月8日に仁川と鎮南浦に
第1軍が上陸し平壌集結させ、鴨緑江を渡った。今回は戦禍に巻き
込まれず済んだ。
まあ、そう言う訳で都市の占領は時間がかかり、熱河省で川原挺
身隊が行った占領は早いと言う事が分かる。
†
第13特科隊、第13戦車中隊の増強を受けた第17普通科連隊
や第1空挺団の到着を受けて西部方面軍は反撃を開始した。第8師
団も逆上陸作戦で大アルニダー帝国軍の後背を衝く作戦だ。
﹁長崎を取り返すんですね!﹂
﹁そうだな﹂
92
田口の言葉に答えると中川は鉄帽の顎紐をきつく引き締めた。自
衛軍の車列が西に向かって移動を始めた。
敵の砲撃は威力が衰えていた。同盟国のペドメリア連合国が行っ
た海上封鎖が効いて、補給が滞り始めていた。
†
おわりに
突撃が頓挫した場合、側面から攻撃を受けた場合等と旧日本陸軍
も色々考えており、ただの突撃馬鹿ではなかった。
用語の一部をすり替えただけで現代でも通用する内容で、なんだ
かんだと言っても、旧日本陸軍は陸上自衛隊の前身であり血脈は引
き継がれている。
93
選択と結果
はじめに
何かをやると言う事は結果が伴う。良い結果なら問題はないが、
それが害悪を撒き散らす結果となると話は違ってくる。﹁立派に戦
って死んだからその話は終わり﹂とは言えない。
1.綿西の戦い:軍神古賀聯隊長の寓話で著名な戦い。古賀中佐は
部下をたくさん死なせて自分も戦死して、反乱鎮圧︵COIN︶作
戦で戦力の小出し、分散は駄目だよと身をもって教訓を遺してくれ
た。
満州事変の起こった昭和6年︵1931年︶、第2師団の投入に
よって北満は日本の勢力圏に入った。目の上のコブを排除したが、
南満の錦州には張学良軍の別動隊が残っていた。その戦力は58,
000人、馬匹3,000頭、火砲70門と侮れない規模だった。
日本はこれら武装勢力を兵匪や匪賊と呼称し、第2師団、第20師
団から2個旅団を派遣して昭和6年12月末から討伐を行った。昭
和7年1月3日には綿州城に入城し、目標を達成すると引き続き遼
西一帯を掃討する事になった。だがすんなりと進んだ訳ではなく、
問題はその後にも発生した。
朝鮮羅南の騎兵第27聯隊︵聯隊長古賀中佐︶は昭和7年1月5
日に綿州を出発し、6日には南西50Kmにある綿西に到着した。
錦西は山間部の街で7日2100時、匪賊約500の襲撃を受ける
が2230時には市内から撃退。翌日には市内の捜索を行い隠匿さ
れていた武器を押収した。
94
0400時、松尾少尉指揮下、輸送監視隊︵26名︶は師団司令
部のある綿州に帰還すべく出発したが、錦西周辺にはおおよそ5,
000の敵が分散しており、後方連絡線が遮断されていた。この為、
匪賊の襲撃を受けて通訳、騎兵2を含めて全滅︵死体から下着まで
取られ、肝臓、陰茎を切り取られていた︶した。これが第1の悲劇
である。
斥候を放ち周囲の状況を把握した古賀中佐は、9日0930時︵
0940時と書かれている物もある︶、南西の敵を撃破すべく騎兵
50、歩兵40からなる兵を率いて討伐に向かった。内訳は騎兵第
27聯隊本部、同第1中隊︵山田大尉以下、臨時に4個小隊編成︶、
騎兵機関銃隊︵星野大尉指揮下、HMG×2︶と歩兵第73聯隊の
1個小隊︵石野中尉以下28名、騎兵機関銃隊よりLMG×4を配
属される︶だけだった。1000時、綿西南方の上坡子付近で敵の
攻撃に遭遇した。
1250時、本隊が戦闘で拘束されている間に約600の匪賊が
街に襲来し侵入した。聯隊本部を置いた建物の留守番、軍旗護衛小
隊は数で勝る敵に対して屋上に上がって迎撃した。これが玉砕覚悟
にまで追い込まれた第2の悲劇である。
1600時に本隊は上坡子付近の遭遇戦での討伐を終えて街に帰
還するが、襲撃を知ると北門から親泊中尉、西門から古賀中佐、山
田大尉、東門から中原中尉、石野中尉、南門から丸山中尉がそれぞ
れ兵を率いて突入した。聯隊長戦死に始まり、将校もどんどん死ん
だり負傷して山田大尉が代理として指揮をとった。
電話線が切断されておらず残っていたので応援を要請した。無線、
電信等の通信機器も満足に配備されていなかった時代では奇跡に近
い。
10日に足立大隊が到着、12日に依田旅団から1個砲兵中隊、
1個歩兵中隊が到着し敵は撃退した。古賀中佐の指揮・統制は正し
かったのか多くの課題を残して聯隊の戦いは終わった。
95
2.アメリカさんの場合:レッドウイング作戦って感動する話か?
軽装備の騎兵はCOIN作戦に活躍する。しかし投入された戦力
が少ないと被害も増えると言う事を古賀中佐の事案は実証した。
Red
Wing、アフガ
次に扱うのは現代のアメリカ軍で映画﹁ローン・サヴァイバー﹂
でも有名になったOperation
KIA
ニスタンで行ったCOIN作戦は記憶に新しい。
Wingは初っぱなから躓きを見
2005年6月28日の戦闘で19人が戦死、SEALs史上最
悪の作戦となった。
Red
provinceで敵の指導者をぶち殺す為に
Operation
せた。Kunar
偵察任務を行っていたティームは4名。一般人を捕まえたが解放し、
その後に山をタリバン兵に包囲されてしまった。敵の装備はAK−
47、PK軽機関銃、RPG、82mm迫撃砲と火力は高くSEA
Lsは3名がKIAとなった。
Team
2︶を乗せた160th
SOAR
救助に向かったSEALs︵ティーム10及びDelivery
Vehicle
のCH−47チヌークは敵のRPGに撃墜されてしまった。死者の
追加である。
なんやかんやとあって生存者1名は後に収容され、標的は後にお
巡りさんに射殺されている。
おわりに
COIN作戦に民衆の支持は不可欠である事は過去の歴史が物語
っている。綿西に前進した騎兵第27聯隊は住民の歓迎を受けたと
あるが、匪賊の襲撃や市内に武器を隠匿していた事例から考えて、
すべてが不十分な状況で戦闘になった。航空支援も砲兵の火力支援
96
もない聯隊とは名ばかりの中隊規模の戦力で全滅しなかったのは奇
跡と言える。騎兵の本来任務は偵察と追撃にあり、頑強な敵の抵抗
に遭遇した場合は脆すぎる。
SEALs偵察ティームの場合、現地住民に救助された事が大き
な意味を持つ。
97
興味の尽きない現代軍事史
1.色々な素材を見逃してませんか?
ソ連の脱落によって東西両陣営の冷戦は終結した。ミリオタにと
って仮想敵のソ連崩壊は悲劇だろうか? そんな事は無い。世界が
火種を抱えていた。
その中でもアフリカの情勢は混沌としている。興味がある人は調
べて見ると良い。
はまればはまる世界で、例えばコンゴ民主共和国の場合、196
0年にベルギー領から独立後、現地兵による暴動が発生。カタンガ
の分離独立、国連軍の介入を経験。その後も、反モブツでMPLA
の支援を受けたFNLC︵コンゴ民族解放戦線︶がアンゴラから侵
攻したシャバ紛争。
ルワンダ、ウガンダ、アンゴラの支援を受けた反モブツのコンゴ・
ザイール解放民主勢力連合︵AFDL︶とUNITAの支援を受け
たモブツ政権の間で1996年、始まった第一次コンゴ戦争。
1998年、モブツ政権打倒後のAFDLでの権力闘争から、ル
ワンダの支持を受けたコンゴ民主連合︵RCD︶とウガンダの支持
を受けたコンゴ解放運動︵MLC︶の間で第二次コンゴ戦争で知ら
れる内戦が始まった。
内戦が限りなく繰り広げられておりいつまで続くのかと感心する。
当事者にとってはたまたものではないだろうが、遠く離れ直接的
影響の少ない日本人にとっては他人事だ。
軍事に興味ある者の中でもアフリカ関連はマイナーな分類に入る。
欧米のように最新装備に身を固め派手な戦果を上げている訳でもな
い。
住民虐殺と言うレベルでは確かに派手だが、それでも興味をかき
98
たてるものではない。遠く離れた世界の悲劇に過ぎない。
見方を変えれば反乱、クーデター、首都制圧。この単語は少し食
指をそそられる。ゲーム、小説、映画と言った創作物を構成する刺
激的な調味料。
WW2の末期戦、最貧装備で戦うリアルMプレイが好きなら、途
上国の貧弱な軍隊も楽しめると思う。軍事史を語る上で個人的主観
が少なかれ入るのは仕方が無いが、倫理観からの視点で語る事は無
駄になる。そう言う道徳的な事は他所で好きなだけ唱えれば言い。
戦場に平時の理論は通じないからだ。
20世紀は戦争の世紀と言ったが21世紀に入っても戦争は終わ
らなかった。大きい物ではイラク戦争とアフガニスタン戦争、グル
ジア戦争があった。アラブの春ではエジプト、リビアと政権が倒れ
シリアも公然と支援する米国の介入もあり存続が危うい。
2.中央アフリカの魅力
﹁中央アフリカで傭兵をやっていた﹂そんな話がある。中央アフ
SouthAfrica︶、中部アフ
Africa︶と南アフリカ
リカと言えば中央アフリカ共和国だ。
of
南部アフリカ︵Southern
︵Republic
African
Rep
Republic︶。言葉は似ているが、
Africa︶と中央アフリカ︵Cent
African
リカ︵Central
ral
地域と国名の違いがある。
中央アフリカ共和国︵Central
ublic︶は外務省が渡航禁止を通達するほど危険な国だ。中央
アフリカといえばボカサ皇帝を思い出すが今は帝国ではない。
2001年当時、政権を握っていたのはアンジュ・フェリックス・
パタセ大統領、パタセの統治に対して5月から軍高官のフランソワ・
ボジゼ・ヤングヴォンダを支持するボジゼ派のクーデター未遂事件
99
が多発生していた。
このまま政権を維持できればボジゼはテロリストの親玉、不満分
子扱いのままだっただろうがそうは行かない。
2002年10月には反乱軍が首都中心部まで侵攻した。首都を
攻められた時点で突っ込み所は満載だが、大統領警護隊を中核とし
た政府軍がリビアの支援を受けて撃退した。
これだけ大規模な反乱が多発していたと言う事は、パタセ大統領
に求心力が欠けていたのか政府の政策が不味すぎたとも考えられる。
結果としてパタセ政権は長くは続かなかった。2003年、ボジ
ゼ派の反乱軍は首都バンギに侵攻。空港、大統領官邸など主要施設
を制圧した。
この時、パタセはアフリカ各国首脳との会談のためニジェールを
訪問中で国内にはいなかった。だからと言って言い訳になる事も無
い。
ボジゼは大統領に就任し憲法を停止、国家暫定評議会を設置した。
カメルーンに避難したパタセ政権は、チャドがボジゼ派のクーデ
ターを支援していると非難したが負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
ボジゼの政権は2013年まで続く事になる。
ただ、ボジゼ派の政権掌握で中央アフリカが安定したわけではな
い。政情不安定でゲリラによる反乱がたびたび発生した。
2006年10月から北東部で反政府勢力の活動が活発化し、ビ
ラオ等の街を占拠する事件が頻発し多数の国内避難民が発生してい
る。
北東部の治安・人道状況改善のため、EU部隊︵EUFOR︶が
派遣されるが、2008年3月には国境なき医師団︵MSF︶が反
政府勢力の襲撃を受け死傷者を出している。
2009年3月からは国連中央アフリカ・チャドミッションが引
き継いだが2010年12月に撤退。スーダン、チャド、コンゴと
言った世情不安定な国と隣接していた事も、ゲリラのはびこる要因
であったと考えられる。
100
2011年1月の大統領選挙はボジゼが再選を果たし、6月には
CPJP︵正義平和愛国者協定︶が停戦合意に署名し明るい兆しを
見せた。しかし状況は一変する。
<i82141|3540>
2012年12月、反政府ゲリラ︵CPJA、UFDR、CPS
K︶から分派したセレカ︵seleka︶による攻勢が再開された。
北東部の主要都市都市占拠を制圧、南下して首都を目指した。
セレカの目的は政府との間に結ばれた停戦合意の履行を求めての
動きだとしているが、中部の都市を次々と制圧した。
事態を重く見た政府はチャドに派兵を要請。チャド軍が陸路にて
中央アフリカ入ったと言う。︵チャド軍がセレカの行動にどう対応
したかの詳細は不明︶
12月26日、首都の約75㎞地点まで侵攻したセレカ。チャド
軍の介入を要請しながら政府は交渉を続けていた。
2013年1月、政府とセレカの間で停戦合意するが政府は履行
Zuma︶大統領は二国間協定に基
しなかったと伝えられる。セレカは攻撃を再開し、南アフリカのジ
ェイコブ・ズマ︵Jacob
づき、南アフリカ国防軍︵SANDF︶400名を中央アフリカに
派兵することを承認した。
3月23日に首都北部にセレカは前進、政府軍と交戦する。24
日、大統領は首都を脱出し首都バンギ陥落。
25日、南アフリカ国防軍はセレカと9時間の戦闘で13名戦死
の損害を受けた。戦死した全員が第1落下傘大隊所属だった。
ボジゼ大統領は隣国コンゴに脱出し、セレカのミシェル・ジョト
ディア代表が自身の新大統領就任を宣言するとともに、バンギに外
出禁止令を発出した。
AU加盟国はセレカによる新政権を承認していない。首都では反
政府勢力や民兵による略奪行為が行われていると報道されていた。
南アフリカの現政権は失点を負った。SANDFは9日、中央ア
フリカ共和国に派遣していた兵士全員を撤退させたと発表した。S
101
ANDFがこの地へ派兵されるかどうかは微妙だ。
3.民間軍事会社の魅力
近年、創作物で注目を浴びる民間軍事会社も題材として面白い物
がある。
イラク戦争は2000年代に入ってからアメリカが行った軍事作
戦で﹁失敗してねえ?﹂と言う疑問符の付く戦いだ。最強の戦闘集
団であるアメリカ軍であっても手足を縛られては動けないし、やる
なら中途半端ではなく徹底的にやらねば成果は出ない。戦争は政治
の延長とよく言われるが、美学では勝てない。
戦争において首都の攻略は重要な意味を持つ。相手の屈服だ。だ
Olympia︵2004年1月、
がイラクはバクダッドが陥落しても各地で抵抗の火種が消えなかっ
た。
その為、イラク北部にTF
第101空挺師団から任務を引き継ぎ。第1軍団隷下第2歩兵師団
第3旅団と第25歩兵師団第1旅団が交代で配属される︶、北西部
に第1歩兵師団︵機械化歩兵︶、首都バクダッド周辺に第1騎兵師
of
Operation︶
団、バクダッド西のイラク西部を第1海兵師団︵海兵隊遠征軍︵M
AO
EF︶の担当した作戦地域︵Area
AtlantaはDenver︵西部方面︶、Topeka︵クル
ド人支配地域のRamadi周辺︶、Raleigh︵クルド人支
配地域のFallujah周辺︶、Oshkosh︵海兵隊担当地
域の南部全域︶となっている︶、バクダッドの南側、イラク中部を
第1機甲師団、ポーランド師団、イラク南部をイギリス軍が担当し
た。これでも人では足りなかった。
イラク戦争終結後の占領統治と戦後復興は民間軍事会社に大量受
注の好機をもたらせた。しかしそれは人材不足による大量雇用と質
の低下をもたらせた。
102
大きく報道された事件だけでも2005年5月28日にZapa
Canopy社、そして有名なBlack
Wate
ta社の社員︵Contractor︶、2006年7月8日にT
riple
rが2007年9月16日の事件、それ以前の2月7日や2004
Water創業者であるErik
Princeの業績が否定
年3月31日にも殺害行為を行っている。だからと言ってBlac
k
される訳ではない。
戦争の民間委託は珍しくない。ベトナム戦争中、CIAのダミー
Americaが300名のパイロットを雇い活躍し
Waterは傘下部門
会社Air
ていた。EO社に継いで有名なBlack
Services︵A
212、M
Worldwide
にAviation
23を運用した。
WS︶を創設していた。アフガニスタンではCASA
etro
死の部隊、傭兵としての側面から民間軍事会社を見れば、米ソ冷
戦時代のラテンアメリカと同様だと言える。ベトナム戦争後、アメ
リカは中米で公然、非公然を問わず支援を行っていた。悪名名高い
ホンジュラスの第316大隊もその過程で生まれた。︵ネグロポン
テ氏の働きは反共の国策に沿った物であり、後からの評価は時代に
そぐわない不当な物だと考えられる︶
かつての傭兵に対するロマンが創作物に登場する民間軍事会社に
は見える。個人としての傭兵と、企業による人材派遣と各種サービ
スの提供。戦争の民営化、軍事の民間委託は善悪抜きで見ると面白
い着想である。
ウクライナ情勢は忘却の彼方にあるが、2014年5月11日、
Blackwaterを前身とするPMC、Academiの参入
Servicesに社名を変えて、20
が﹁400名の傭兵﹂として報道されている。※Blackwat
erは2009年にXe
11年からAcademiの社名で知られている。
この傭兵集団はAcademiの傘下企業で、バルバドスで登記
されているGreystoneであった。ヤヌコーヴィッチ政権を
103
倒した親米派ではあったが、その後は親露派を正規軍が攻撃してお
りGreystoneも参加していた。
4.国際情勢はネタの宝庫
日本ではロシアやフランスが本格的参戦をした事でISISとの
対決が注目を浴びている。
元々はシリアのアサド政権を潰すために欧米が反政府組織を支援
していたら、ISISと言う無頼の輩が勢力を広げてしまい、自分
の足元に火が回ってしまったと言う訳。
他にも2014年にレソト、ブルキナファソ、ガンビア、201
5年にもブルンジでクーデターが起こった。相変わらずアフリカは
混沌としている
アラブの春でカダフィを対して民主化となったはずのリビアでは、
各派が入り乱れて内戦状態に突入しつつある。さらにISISもエ
ジプトやリビアに攻め込んでいる。
ISISの傘下に下ったボコ・ハラムがナイジェリアで攻勢を行
っており、チャドやカメルーン等の周辺国でも暴れており、少年兵
を強制徴兵したり無法者と言える。ボコ・ハラムの戦術は爆弾テロ
から歩兵戦闘へと規模を拡大している。ナイジェリアではボコ・ハ
ラムによって一般市民に対する拉致、殺害が横行しており、201
3年5月以降、ボルノ、ヨベ、アダマワの北東部3州に非常事態宣
言が発令されている。
中東に目を戻すと2015年12月4日、トルコ軍がイラク領内
に侵入しているとの報道が流れた。
Baghdadの北、Mosulの北東、Bashiqah地区
におおよそ1個機甲連隊の砲兵と戦車︵20∼25両︶、人員15
0名が進出しクルド人部隊を教導していると言う。
イラクにしてみれば、もろに領土侵犯な訳で抗議をしている。ト
104
ルコはISISに対抗するクルド人の支援と言う事だが、国際的に
批難を免れないので今後、撤退はあり得るだろう。
ロシアとの関係で揉めているトルコはイラクと国際世論を敵に回
してまでクルド人を援助するとは考えられないが、イラクの前政権
の承認を受けて派遣していたらしい。
vestを装備していたり架空戦
CNNの報道によるとクルド人部隊には女性戦闘員の姿があった
り、ISISはsuicide
記のネタとして捉えると色々妄想が出来て面白いと言える。
105
資料集めをしよう!
1.はじめに
小説を書くにしても、論文を書くにしても資料集めは最初にやる
事で、次にテキスト批評が行われる。書いている内容が正しいかは
複数の資料を照らし会わす事から始まる。
例題としてRooikatに関する記事のテキスト批評をしてみ
たい。
2.書かれている事を鵜呑みにしない
1︶Wikipedia
Wikipediaは検索の上位候補に上がる。Wikiped
iaは誤った情報が記載されてる事もあるが参考程度にはなる。例
えば南アフリカ国防軍の項目に赤道ギニアなんて書いてるが、位置
を考えてほしい。サイモン・マンの事件で南アフリカの軍歴のある
傭兵が参加していた為に混同していると考えられる。ソースの少な
い記事は要検証と言える。
日本語版Wikipediaの表記によるとRooikatは﹁
アンゴラ侵攻やSWAPO掃討作戦に従事した﹂とある。南アフリ
カの立場から言えばMPLAを認めておらずUNITAを正当な政
権として支援した戦いで﹁侵攻﹂ではないが、突っ込む所はそこで
はない。Rooikatがアンゴラの戦いに参加していると言う部
分。当時の対機甲戦闘はSADFのMBTオリファントの他にラテ
ルやエランド装甲車が支えていた。少数が配備されたG6ですら記
録に残っている実情から考えて、Rooikatの記録が見当たら
ないのはおかしい。
だがRooikatが居なかったとは否定できない。もしアンゴ
ラ内戦にRooikatが存在したなら試作車とも考えられる。
106
ここで英語版Wikipediaに目を向けてみる。
Produced︵生産開始︶は1989年となっていた。
89年と言う所で、日本語版Wikipediaの記述に再び疑
問を感じた。
その時期にSADFはアンゴラに展開していない。どう言うこと
か?
2︶その他のサイト
他の情報に目を向けてみた。
検索候補にニコニコ大百科が上がっていた。
ニコニコ動画とは違いユーザー登録しなくても閲覧できるのがあ
りがたい。
こちらの記述によると1989年に最初の量産型が完成してると
ある。
76と考えられる。
Free!によると1989年に76㎜砲型が2
76㎜砲搭載のRooikat
Wepons
40輛生産され、90年に部隊配備されたとある。こちらの方がす
んなり納得できた。
3︶書籍をあさる
一番早いのがネットで次が図書館や書店で参考文献を探す事にな
る。マイナーなジャンルだと国内では取り扱っていない事も多く、
海外からの取り寄せになる場合も多い。さあ、そうなるといつ届く
か、値段は幾らだ、支払い方法はとなるが、それは買う店で調べれ
ば良い。
届いた本に書かれている内容が正しいかどうかも比較しなければ
わからない。
例えば1992年に発行された﹁兵器とベトナム戦争﹂はベトナ
ム寄りな作者に書かれており、1996年に発行された﹁ベトナム
107
戦争/兵器ハンドブック﹂はアメリカ側資料を元に書かれている。
同じ朝日ソノラマの文庫版新戦史シリーズだが、内容に隔たりがあ
りすぎた。
2015年12月現在で入手可能な公刊戦史を元に読み比べると、
前者はジャンクション・シティ作戦におけるCゾーンを﹁おうむの
s
Beak︶、釣り針︵Fishho
くちばし﹂﹁釣針地区﹂と呼ばれていると書いているが、オウムの
くちばし︵Parrot
ok︶は、カンボジア領内であり、ジャンクション・シティ作戦の
範囲としてのCゾーンではない。さらにはシーダーフォールズ、ジ
ャンクション・シティ作戦ではほとんど戦果が無いような書き方を
して居る。
一方、4年後に発行された後者はカンボジア侵攻を扱っており、
さすがに混同をしておらず﹁Cゾーンは通称﹁犬の頭﹂﹁釣り針﹂
と言った辺境地区に面し﹂と書いている。面しているだけだ。
この二冊を比較しただけでも記述内容に隔たりがある。一冊だけ
を信じずに、色々な本を読む事が望ましい。
3.で、どう言うことなんだ
今回はSADFでRooikatがアンゴラ内戦に運用されたと
言う否定材料を探してみた。その人にとって真実とは、信じたい情
報を信じれば良いが、可能であれば公式な情報を元にした資料を見
つけ出す事が望ましい。
小説を書く場合は考証が甘いと有識者に指摘をいただくことにな
る。これはコミュニケーションと言う意味では問題ない。注意点を
上げれば、作品の指摘を作者はクレーマー扱いしてはならない。自
分の知識不足こそ反省すべき点である。
108
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4099by/
ミリオタ雑記あれこれ
2016年7月31日18時28分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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