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Hurd-mead, KC

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Hurd-mead, KC
Title
Author(s)
Journal
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女医史(2)
Hurd-mead, K. C.
東京女医学会雑誌, 10(4):409-424, 1940
http://hdl.handle.net/10470/18047
Twinkle:Tokyo Women's Medical University - Information & Knowledge Database.
http://ir.twmu.ac.jp/dspace/
女
一
蹴 (2)
K.C. Hurd−Mead M, D.著
「SydracとBoctus」と言ふ古い:Persiaの小聖が在る。これはBoctusと言ふ名の
:Bactria王と「Noahの洪水後842年, Japhetの子孫」と縮するSydracと嘗ふ名の
哲回者の闇に行はれた問答艦の書で,讐學並びに諸種の墨問を取り扱ったものであ
る。この書はフランス語に諜され,Le livre de la fontaine de toutes sciencesとし
J
て知られて居る。その開翁第一行に「吾が行く塵,V・づこでも,女人禮讃せざる無し
と言ふ有名な文句がある。それは扱て措いて,紀元前600年頃に東洋で,子宮に關す
る記録が,かくも詳細に記蓮されて居る鮎が,吾々をして興味深く感ぜしむる虚なの
である。
黒海の東北部に建配して,東はPersia,西はGreeceの間に住んだ螢族である
Scythian人・或は傳説的の女人國Amazon人の事柄に就ては・HerodotusもHip−
pocratesも何等記録を残して平なV・のは残念である。僅かに吾々の知る虞は,彼等が
愚鈍では無V・にしても,現今のLaplander入に似て居たと言ふことx,又女子が頗る
勇敢で,讐術及び文化的の仕事は絡て女子の手中に齢し,男子は只,人種存績の早
め,年に一一度優遇されたと言ふやうな話し丈けである。Amazonの女王で傳詮的に知
られて居るのは,PenthesileiaとAntiopeとHypPoliteの三入のみである。彼等は
Theseusに味:方し,或はAchillesに反封して三つた。 Amazonの女子が偉大なる禮
.躯を有したことは・Gree『eの彫刻家が大理石に浮彫りにしたものが・今日 Pelop−
ponnesusのBassaeの枇殿や, CariaのMansolusの墓に残って居るので推察せられ
るbこのMansolus墓は,其の妻Artemisiaが建てたものである。この女は當時の
Greece人中でもひとかどの仁者であり,國内の藥草を熟知し,叉或る藥草に命名し
た事もある。
紀元前の東洋諸國民は,仲々文化が進んで居たやうだ越蟻月が経過すると共に堕
落して仕舞つた。その理由は職箏と疫病,それに叉濫りに森林を伐採し,河川を閉塞
一第10巻409・ 一一
110
吉岡=女
署
史
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中古に於けるPersiuの解剖圖
(17世紀頃迄Mansur等に依て繰り返し模爲されたものである)
一第10巻410一
吉岡轟女 讐 史.
11忘
した罪に因るものである。人心が堕落して,物を教へる入も無くなり,物を習ふ人も
無くなって,絡には,昔は偉かったと言ふ傳読のみが残ると言ふ事に成ってしまった。
後章に述ぶるが如く,近來漸く目畳めて來た様子ではあるが,同斥敏の如き宿命論を
信じて居る以上は,三々,精棘丁丁から立上るのは困難であると思はれる。
以上基げた事柄に就て,その概論を述ぶれば:紀元前2000年から4000年に亘っ
て,Mesopotamia, Egypt, Greeceの三國民の四三上の智識は,實質的に同檬なもの
であった。今日三者の一般に信ずる虚に依れば:Tigris河とEuphrates河の滑岸に
佳したSumeria人は病魔を人格化した初めての理論家であって;馨者を言言者とし
て崇め,星學者を夢判断三又は憩の使者として尊重した。
、「
゚來この二大河の流域を焚吊したので,6000年前に湖って,非常に高い文化が此塵
に存在したことが知醸るやうに成?た・寳石・、金細工・陶器象牙彫刻・遡て精巧
なる家具などの獲掘物から推測して,彼等の商業は,西部より寧ろ東方諸國に向って
慶く行はれた事が窺はれるに至った。これ等の彫刻物に徴すれば,彼等の留紳の多く
は女子であった。Abrahamより2000年も以前にAmeria入及びBabylonia人は煉
瓦で大塔や三殿を建て,衛生を解し,温泉及び日光浴の慣値を知って居た。紀元前
3500年のShubad女王の墓に埋められてあった物晶を基ぐれば:冥土の族に使用す
る食糧は申すに及ばず,煉瓦に刻んだ鎭痛剤の魔方,燧石や青銅の外科器具,さては
化粧品,病魔退治の呪ひや御符などであった。
Assyria人は何回と言ふ紳を持って居た。 Ur, Nineveh, Babylon地方で,學者が
調査した数だけでも,約4000に上って居る。彼等は日月星辰及び,.木や桂までも拝
んだ。彼等は怪異を怖れたが,その丁丁は大抵の神々の怒りを和らげる事が串來たG
彼等は宿命論者であり,樂天的であったQ大讐聯をAshtar叉はMurnmd.と呼ぶ。
死と復活の女紳Gula.は往々,「三二」と呼ばれた。魚紳Eaは四三に回する有力な
讐神であった。彼は膏藥にする臭い「バタ」」を小袋に入れて携へ・松の實を藥に用
ひた。彼はIshtar紳と同じやうに,燧石や青銅の小刀,二刀,ピンセット,探針及
び骨や象牙の針・血止め用の焼石を携へた。治療に掛歴ては・Baa1帥もNebo紳も・
GnlaとIshtarを助手としたEa神ほど,人間学ら頼りにされはしなかった。 Ishtar
耐は人の悔みに同情して,常に涙を流すゆへ,一名「泣き女耐Jと呼ばれる位で,懸
愛,出産,一般治療,殊に婦人病の女憩として奪信された。この棘はAssyriaにては,
丁度Minerva MedicaがGreeceで奪信されたと同一であζ。不幸にも後年に至っ
ては,鼠飲観舞が,此の女棘の祭禮と連關されるやうになったが,國民の堕落史には
一第エ0管411一
112
古岡;女
讐
史
能く在る事として,何とも致し方なv・事どもである。
Gula紳の:方には,何等忌はしい事が附き纒って居ない。「大讐」と呼ばれたGula
祠1の,裾を長く垂れて黄金の御座に坐した像は,Greeceの女}帥と同じく,手に杖を持
って居る。彫刻と成って多く見られる圖は,僧侶及び僑尼の行列の岡である。これは
患者からの所願を携へて,Gula紳に伺ひを立てに來る有様を示したものである。
紀元前4000年頃のSumeriaの尼署者
(右手に鳩を持ち,左手に松明(産婆の標號)を持つ。)
その當時の撃方箋の標本とも言ふべきものを一つ騒げて見やう。
「眼が乾燥して困る時には,葱を磨り之を酒に混じて服用し,街ほ眼に油を注入す
べし」
共生の虞方を列基して見れば3
1)眼の鰍衝を治すには,「ヒマシ油」をビールに合せたものを眼中に注入すべし。
2)「アンチモン」針を角膜に挿入しても良し。
3)洗下剤としては,松毬(マツカサ)膠を用ふ。
4)金と黄色の砒素の硫化物より成る雄黄が普通で,時には同じ用途に砒素には娼
婦の乳に蜥蝪(トカゲ)の糞を混じたるを有効なりとす。
5)頭痛には「バルサムJと「ヒオシアミン」を混じて凍洗蘇を施すべし。
一第 10 巻412一一
吉岡=女
讐
史
113
6)鼻疾には三図と波藥(熱地に産する樹脂で香料藥剤に用ふる)を良レとす。
7)颪を騙除するには,硫黄と営ダー油を良しとす。
8)疹癬には粟粒を鳩糞で煉りたるものを張るべし。
9)白髪染めには・蛇を二二で溶解したるものに膿汁を加へたるものを用ひる。
10).呪丈を唱へることは,藥晶に劣らぬ効力あることを忘る可からす。
煉瓦に刻みたる虚方書は,英國博物館及び其他の考古館に:て・観覧ずることが出來
る。同虚方書reは,讐師の三三を規定した法律丈が記録されセあるのを往々稜見する。
紀元前2250年頃,石柱に刻まれたH・mm…bi法典中曙師ゐ謝禮を明記したの
みならす,その罰則までも明記されて在る。それに依れば,’ T師の誤診の場合は何々
、とか,患者の死亡した場合には何々とか,片手を失った時には何々,爾手を失った時
には何々とか,又患者が貧民であった場合には,.その賠償として,遺族の者に金を支
佛ふ義務ある等の事まで規定されてある。甚だし》h例を言べば,當事者たる讐師のみ
ならす,其の妻子までも死刑に虚せらるNと言ふが如き場合もあった。
女馨にして結婚せざる者は,尼三者と威って,Ea帥なりGula神なりに奉仕する
やうに規定されてあった。尼馨は治療に從事すると同時に又祭式にも携はるのであっ
・fa。歯痛を治ナ場合には,回る藥草:を油で煉ったものを患部に張ってから呪文を三同
唱へる。歯痛は「轟」の業であると考へられて居た。その呪文なるものを示せば,下
記の如し。
二三の贔の言ふ事にや,
「神さま私しに何呉れる」
そこで神様言ふ事にや,
「乾V・た骨と木をやらう」
「乾いた木など何んになる, 歯の中歯ぐきに入れて呉れ,
歯ぐきを噛んで歯を食へば, それこそ私は満足だ」
そこで皆んなの言ふ事にや, 「轟歯の量め憎らしV・,
エアの紳さま,後生です,
どうぞ轟めを殺して」と。
Babyloniaの煉瓦や手石板や圓桂の中には,世界創造輝や大洪水の昔話しが彫刻さ
れて淺って居る。Gilgameshと言ふ男が,大洪水を門門して箱般を造ったと言はれて
居る。彼が船中で眩量がして來たので,Gula紳に二二をすると,三二は呪文を唱へて,
彼に水と不滅の藥を與へた。塵が,蛇がやって來て,その藥を奪ひ去ったのでlGilga一
一第 10 巻
413 一
l14
吉岡=女
馨
史
rneshはあの世へ行って蛆最にたかられ,塵に蔽はれてしまったと傳へられて居る。
総じて蛆贔とか昆轟とかが,一切の病理の基であるとされ,宗教と讐藥の力に依っ
てのみ,総ての引回が治療せらるsものと考へられた。
第耳節 Egyptの女騎
前節には紀元前敷千年の所謂東方諸國民中に於ける女警の朕況を述べたから,次に
は眼をEgyptに韓じてNile河畔の讐學を研究するのも亦,無釜ではないと思ふ。
Jnlius Caesar時代の史家Diodorns SiculusはHerodotus及び其他の上古の學者
が書き列した當時の風俗傳詮を研究して言ふには,Egyptの諸地方に於て,女子が殆
んど総ての:方面に,男子よ’り優勢な地位を占めて居たとの事である。或る時は,
Sparta流に,女子が事務所で働いて,男子は料理や機織りを爲し,或は狩猟や職孚に
出動し左と言寿。紀元前4000年には女子の王位綴承が正特輯されるに至った。紀元前
3133年目は:Ptah神の子孫と干せられる賢人Imhotepを御殿讐に任命したのは,
Nitocrisと呼ばれた女王であった。此の任命はImhotepが健康保全に關する讐書を
署はしたのに封ずる褒美の意昧であった。この馨書は世界最古の著書である。されど
術ほ古き傳読に依れば,紀元前4366年にMenphisに君臨したTetiと呼ばれる王
は,巧みな解剖學者であったさうである。埃及學者Budgeの読に從へば, Teti叉は
Tetaなる入は, Cheops時代にも生存して,紀元前3733年置,第四ピラミッドを建
設した者であったと言ふが,千年内外の開きは,今日から見れば,大した相違では無
いと思はれる。とにかくTetiは彼の解剖肇の書を公けにする以前に,動物並に三三
の解剖を行った者であるとV・ふのが,考古學者一般の輿論となって居る。
何庭でもさうだが,紳汝が讐術には重要な役割を演じて居るのを常とする。Isis紳
は偉大なる欝神であった。Osiris(地下の偉大なる耐にして死人の最高にして絶封
の審判者としての紳。彼の兄Setに殺された)の死髄.を取り弾め・四肢の分散を防
ぐためr之を「ミイラ・にしたのも・・i・であった6.・・1・の姉妹たるN・phty・とN・i・h
とは・夜を治める女王であって1曙夜の苦を救ふとされて居た。讐棘Ptahの妻Sekhmet
は女獅子の頭を有し,接骨讐であり,一般治療讐でもあった。蒙’古式の顔をして居る。,
にこやかなBes神は「,神殿斜向の産室を支配した。牝牛女棘Hathorは孚L児を哺育し,
石女を治療した。Sekhmetの妹Ubastetは産科耐であり,「二二子宮」のMeskhenet
は,産婦が股がる焼石を監督した(Galenは人間の子宮は二二なりと信じた)。
書紳は入間の病を癒すと同時に叉,人聞を害することも有るに因って,聯々の好意
一第1σ巷414一
吉岡;女
讐
史
115
を求める爲めの三門師ち賢き女子を必要とするに至った。この尼曾の穿る者は,絡本
を携へ,又或る者は神の紳託を受けて,それぞれの仕事に從罪した。.ls玲神へ¢)所濤
の言葉は;
「讃美すIsisの神よ。希くは苦痛を救ひ給へ,死より救ひ給へ。御身か子息Horus
を救ひ給ひし如くに」
この所蒔が何百同も繰り返されて唱へられる。下痢止めや緯轟下しの時には,Sekhmet
騨の前に尼侶’が同様の耕禧を捧げる。
上古のEgyptでは,女子は須からく署師たるべく訓練されてるるのが自然である
と考へられた事はt記録に徴して明かである。女子は;いつ何時でも,野立讐隅隅に
入學を許さnた。Pli・y及び其他の史家の傳ふる所に依れば, H・li6P・li・及び。・
(近代のC・i・・附近)には・古v・欝肇校が在って・斑gse・や其の妻も・この墨校で
讐學を肇んだとの事である。同校の卒業者は高給を以て招膀され,今日の謂ゆる無料
診療所を設けて,貧民を救濟した。EuripidesやHerodotu5はEgyptの女子の才能
をたNへ,その商工業及び讐學法律に堪能なりしことを稻讃して居る。第五王朝帥ち
紀元前2730年頃のEgypt最初の女讐はNeperrika−ra女王の治世に開業をして居
た。その子息は高曾であって,その墓碑にはその母を「主讐」と記させた。Menphis
にも讐學校が在って,こxでもPtahとImhotepが欝睾の神であり,轡肇の師匠で
あるとして崇められて居た。
Nile河のRosetta口の海邊にあるSaisに女子三門下校があって,此虚では物入
科及び産科學が専修された。同地で三見された碑丈は,近代の女早を喜こばすに足る
のもである。其の碑文に曰く「私はH:eliOPOlis市の讐學校から來て,當女子讐野牛
門學校に學び,聖母より讐學を授けられた。Jこれに依って見ても,同校の教授は女子
であって,當時め世界の俊才を敢育した事が窺はれる。’
Mellphisに近きSakkaraに存する讐紳Ptahの廟は,善美を蓋したもので,叉
5000年前の弓師の生活を示すもので,今日の旧師から見て特に興味ある物である。
Valley of Kingsに在る塚にMcrit Ptahと呼ばれたる,女馨の省像が刻まれて現存
して居る。
野生の教科用書としては,Tetiの解剖書が早くから使用されて居たことは,即きに
も述べたが,この書は外科警が使用するのみならす,木乃伊師も之を参考書としたの
である。この書に依れば;内臓機關や血管の作用は,小見が電話機に關して,粗策な
考へを持って居るのと同様に∵極めて幼稚なものであった。人閥の頭には二本の動賑
一一第108415一
116
吉岡=女
讐
史
が在って,心臓から畑夜を循環せしむるものなりと言ふ。又上肢と下肢とに二本の動.
脈が在り,額tcも頭にも眼蓋にも鼻孔にも,二本の動脈が在るとされた。左耳の二脈
からは「死」が,艦内に入り來るものとされて居た。
「 一一一..
㍗蟹}瀬}
納
恥 .
聴
.違
紀元前2300年
EgyPtの藥箱の外面
ぐ
.萄.
塾
紀元前2300年忌
茱Egypt女王の藥箱の内容
一第 10 巷 416_
吉岡=女
磨
史
117
Egアptの讐書には,最初に腹部に關することが記され,次に眼科,泌尿科,寄生轟
病,丹毒,癩痴,火傷,水腫と言ふ順序で記されて居る。42雀に亘る大百科僻典も在
って,法律馨野台の他の事項を網羅し>izものであった。就中,讐學の部が4雀で,こ
の中一省は婦人科に,省ほ1雀は眼科に冷するものであった。この特典製作の年代は
明確では無いが,多分紀元三世紀頃と推定される。
Egyptで三見された二丁(古代Egypt人の製紙原料)製の紙に書かれた回書の中
で,最も重大覗されるものは,George Ebersに依って見出された古文書である。こ
のLeipzigの考古三者Ebers教授が1874年に,奮都Thebesで獲見した紙草の古文
書は,紀元前1600年頃の作と見倣される。Edwin Sm{thの紙草古文書として,今日
Chicagoに存する長さ1841/2吋,巾13吋の物は,上野と脊髄の外科傷を取扱つた
圖で,Ebers丈書より一・暦古いものとされて居る。上古のEgypt入は,讐書にも馨
者にも不足し無かった。と言ふのは,各世紀の人が前世紀の人の仕事や材料を踏襲し
て,別に薪機軸を出さなかったからであるQ
男女共,それ故に今時は讐學を學んだが,時代の攣化に依っても憂らぬ同じ治療法
を使用したことが,容易に推察し得られるQThebesの寺院に,紀元前1420年頃書
かれた彫刻が在る。それには奴隷の少女が,女子の患者の足を手術して居ると,患者
の家人が感心して傍観して居る圓である。多分この少女は,その師匠たる女讐の弟子
らしV・。要するにMosesの時代のEgyptでは,これが普通の習慣であった事を示
して居るものである。外科手術の圖は,寺院及び墳墓の壁には下れでは無V・。例へば,
Thebesタ)南K:om Omboの寺院の壁には, CleopatraがCaesarと其子Caesari叫
と共に坐ってる圖が在って,その近くた:Ptolemy十三世が立って居る圖が在るQ傍
に5人の馨者が附v・て居るが,これは皆讐紳で,その中の二三は女学IsisとSekhmet
である。他の三肺はPtah, Horus, Thothである。 Thothは胃病を司る紳であるか
ら,Ptolemyの病氣が何であったか凡そ推察せられ得る。五紳とも生命の鍵を手にし
て居る・この場面は手術室を示す。長い卓上には,外科用具が列べられてある。其の
器具を列潤して見ると:小刀,凸角,鉗子,烙鐵,鉤,手圓鋸,海綿,針,油壼,副
木,鎭凹型の芥子汁,.「マンダラケ」汗容器,滑剤のための「ヒマシ」油容器,牛門
葉毛蕗花草,ちN草の如き器法用材料容器(これ等の藥草は今日でも栴那や「タマリ
ンド」樹と共に寺院び)境内に栽培されて居る)。
吾々は少なくとも一人の外科讐の名を知り得る。それはHr,nkharn−Sayと呼ばれる
人で,この人の墓はMenphis地方に存在する。彼は紀元前4500年以前,帥ち第六
一第 10 巻 417一
118
吉冊=女
讐
史
王朝時代に生活した。その墓門に,彼が患者の前に坐し,方形の石刀を以て患者の片
腕を切断して居る圖が刻まれて在る。その傍に他の患者が待って居る。その中の一人
は,順番を待ち蕪ねて,その痛む腕を抑へながら泣顔をして居る。これに附随した圖
に,腫瘍を刺して居る外科讐と看護婦や幼学に割禮を施して居る産婆等が刻まれて
あるが,惜しV・事には,大手術を施して居る圖の部分が殿れてしまって居る。され
ど當時,女讐は帝王切開を施したり,癌腫を除去したり,巧みに石刀を使用したり,
叉接骨に副木を用ふるに巧みであった事物が,Herodotusの三見談として傳へられて
居る。婦入科に下しては,Sir Flinders?etrieの三見にかNる,紀元前2500年頃の
Kψum文書と回する古文書が在る。これは婦人科及び,獣欝學を取扱つたものであ
るQこの書には魔術呪法の如き事は全然含まれて居なv・。この書に依れば,妊娠診断
な総て:專門の女警に委任された。出生する児の性は,産婦の顔色に依って推定され
た。産婦の顔色が青い時は.,男兄が生れる。婦人の眼の下に「ホク・」の在る者は,
子供が少ないとされる。子供が出來る出來なv・かを試すには,男の子の母親の乳に
西瓜の汁を混じた物を知りたV・當人に飲ませて見て,若し之を吐くならば妊娠するも
のとされ,若し三三したら,不妊娠と定まる。不姫症の治療としては,動物の腺を與
へ,一 閧フ運動を行はせ,女讐が採集した藥草を服用させる。
凹田堅地にてば,死罐の「ミイラJ製作術と合せて,女艦の解剖を教へた。三下の
受持ちは,小見を割回することS,臨月の産婦を祉殿に回れて行って,留紳の御加護
を念じつX,出産の手傳ひをする事である。この際,男1曾は三殿の屋根に登って,日
月星辰の蓮行を測定して産児の星占を行ふ。出産が長引くとか又は難産の場合には,
男曾は鰐二三及び,その他の丁々に大聲を立てX,所願を捧げつ回申託を求める。神
紳の像ぱ肚殿の遠V・暗い所に立てられてあって,尼曾が其の取次ぎ役を演ずるのに,
やっと聞司る位の所である。寄託を尼曾が取次ぐ時の言葉は,大抵極って居る。曰く
「麟礁の近くでテンピ・油燃やせ・・「サ・ラ酒で随麟せよ・・.「大獅の
粉末を酢で練って,産婦の腹に張れ」と高唱するのである・
陣痛中,産婦は焼v・た石の上に跨がり,叉は産床に腰かけて,看護婦の爾L引するに
任せたものである。産婦は自分7)苦痛などは少しも意に介せす,ひたすら産児が善V・
星の下に生れる事のみを念じて苦痛を忍んだ。Egypt人は星古肇及び天文學には精通
して居たD此の肇問はBabylonia人から傳へて伺ぼ之を獲達せしめたものである。
小児科の二二は,轡師二三が治療する計りでは無.く,一般普通人も,特別な法則に
從って治療を怠らなかったのである。小見の食餌として一定の食物が,法律で規定さ
一第 10 巻418一
吉岡・・女 讐 史
11剃
れて居た。果物,、魚肉,野菜,・豆類が多量に給與された。小見を昆轟の毒より豫防す
る混めに,小児を裸山にして,全身に「ヒマシ」油を塗布した。併し,Sir William
Wilcocksの指摘音る如く,蚊は豆が多量に作られる地方では,人艦を刺さなv・さう
である。上古Egypt人の奇習の一として,二三を防ぐ爲めに,犬の肉趾や臆馬の蹄
から取った油と椰子の實を潰した液を混じて,小児の頭に塗ったと言ふ。蛆轟は羊歯
及び南瓜の種子で駆除されると言ふ。
Tutankhamen王の塚に近く,Ramses第三世の塚の壁に面白V・悲批的な圖が在るn
それは父なる人が,その子を1 9. is神の虞へ連れて行って,治療を乞ふて居ると,この
讐榊は左手を基げて,この小児が助からない事を表示した圖であるQ叉一方には,智
歯が生えるので歯痛を病んで居る少王女に,Isis紳が,頸飾りを與へつN,少女の顎
を基げて,同情的に口中を覗V・て居る圖が在る。叉一つの圖は,片足萎えた少年を,
尼信がIsis神の塵へ連れて行って,治療を乞ひつX,供物を捧げてみる圖である。
Isisは其の少年を治療したので,尼が眞直ぐになった事を,同圖の右手に小形にして
表はして居る。
Isfs神へ捧げる供物は・常rc・n花,白果,白衣であって,尼僑が祭壇にちかづくの
も,それぞれに作法が在った。尼讐は祭壇叉は紳像の前に立ち,患者の代理として次
のやうに所るo
l大回Isis憩に回り奉る。私は哀れな某であります。何卒私の病を:雫癒し給へ」等。
これに樹してIsis紳は,それぞれ治療の紳託を宣するのである。
讐棘の賜ふ庭方書は,紙草紙又は:瓦板に記されて,今日世界の方々の博物館で見ら
れる。Cheops朝時代から:Ptolemy朝時代に亘った記録が現存して居る。膏藥D外
に煎藥も在IP,樹ぼ植物を粉末にした散藥,乃至は動物の死骸叉は糞便より製したる
散乱も在った。この外に御符や頸飾りが,病魔を退治するに効力ありとして尊重され
た。史家の傳ふる所に依れば,讐師が匙を投げた後には,患者を路傍に憺ぎ出して,
一般通行人から,何がな治療の相談を求めたさうである。藥局方は三者のみならす,
一般の學者が之を記臆して居たし,叉學者は庭園に諸種の藥草を植えて,之を自家用
とし,又公衆の利釜を計ったものである。今日河の荒蕪地には,これ等の藥草が野生
して居る。
紀元前23GO年頃の女王Mentuhetepよpl紀元前1500年頃の女王Hatshepsut 1・と
至るまで,又写1500年を下って,かの有名なCleopatraに至るまで,女王たる者
は常に馨術の研究者であ鱈且つその配下には,常に女馨,看護婦及び,奴隷で治療
一一・一一 第 10 $…』419一
120
1;岡二女
讐
史
重
、竺
囲
さ らら
ぜ㍗
、,嗣、懸樋.編戸凶
凡
つゆN瀦懇懇1
女讐の最古の糟記銀
女署か供物を捧げて,病見をIsis棘の慮へ・吏れて行くEgyptの石牌。
その男の子は脊髄茨白質炎てあった。そしてISisが之を治した。右手
に小さく示されたるは,亭癒せる少年。紀元前約3000年。
一第10巻420一
吉岡=女
讐
史
121
.に堪能な者が,多数居たのである。
女王Hatshepsutの智徳兼備なりし事は,New York及びLondonに存する彼女の
「方判別の記録に徴して歴然と輝V・て居る。その美にして叡智なる彫像はNile河畔,
Deir−El−Bahariの紳殿で見ると同様に,多くの博物館で見られる。この女王の像も讃
辮も,彼女の兄弟及びその櫃承者の爲めに摩擦し去られ作り替へられたが爲め,今日
では・鯨の獅偶総て其の糧瀦の徳行として言はれるやうになって崎つた・
然るに近年に至って,Hatshepsut女王は再認識せられ,幼見Mosesを太葦の中に1獲
見した女王は,此の女王であったのだと言ふに至った。考古學者Garstang教授は・
・最:近Jerichoに於ける甲轟を表はした寳石(古Egypt凹め護符)及び捺印に依っ
て,Israel入の「Egypt脱出」は,此の女王の治世直後に起つた事件なることを瞥見
したと言ふ。
女王Hatshepsutは英國のElizabethの如き名君であって,職争奪掠の時代に在って,
二三論者であpl,迷信魔術の時代に在って・眞面目な學者であった。果せる哉,三大
讐學校が,この女王の治世の間に榮えた。彼女はMOsesと其の妻Zipporahを
Heliopolis市へ留肥せし一めたらしV・。圖書館や天文毫を建設し,又公衆衛生の事に關
して注意を怠らなかった。樹ほ藥草園や,:巨大なる公園や,水浴場を設けて,一般民
.衆に衛生と娯樂を與へた。
この時代の一般警藥なるものは,前にも述べたが如く,頗る粗末なるものであった。
Sir Frederick Trevesの言へる如く,人々は甚瀬しく強烈な藥品を撰んだ・藥品が刺
激性にして飲み憎ければ飲み憎V・程,効力が有るものと考へられて居た。彼等は特殊
の吐剤,利尿剤,下剤,鎭隷剤,駆轟剤等を製剤した。海葱とCopper Salts,毒に
んじん,秦椰子と無花果の木の森,阿片の畑,その他第12世紀頃に至っても,人k
が用ひたものを,彼等は已に持って居た。
Hatshepsut女王時代以後に於て,人間は讐療の黒馬には,絵り進歩して居なV・とも言
へるのである。故に引時のEgyptの女王,町費,女讐の物語りを傳ふる, Egypt象
形文字を探って,藥局法を明かにすることが,今日の欧米諸國の科學者の責務である
と思惟せられる。!904年RosettaとDameitta支流の聞なるTantaのAmerican
・Miss{on Haspita1の初代院長が, Lawrenceと言ふ女留を同病院附き女馨に任命した
時,この女学は,上古のEgypt’の女讐が行ったやうに,近郷を隈なく巡同して,病
人を治療したり,衛生思想を普及して歩v・た。この病院は合衆三内の女子及び少年少
女の寄附金に依って建てられたものであった。Budgeの傳ふる虞に依れば,入院患者
一第 10 巻 421一
122
吉岡=:女
史
紀元前1500年頃Moses時代Egyptの最も有名てあった虫王Hatshepsut
第10巷422
吉岡=女
馨
史
123
・は毎年調川の病床を充し,毎日の施療施藥は数千人に上ったとの事である。臨床の馨
…師及び看護人は,一・切女子に限られ、てあるゆへ,Egypt古來の風が依然として丁丁さ
れて居るのを見るのである。第17−18世紀の頃,、「ミ・fラ」が粉にされて,藥品に使
用された事が在ったので・當時の英國の馨者Sir Thomas、Browne偉・下記のやうな
批評を加へた。
「光陰が割愛して淺したものを,今では貧慾が滑費して居る。Egyptの普通の「ミ
イラ」が傷の治療に使はれたり,Pharaoh(古エジプト王)の「ミイラ」が鎭痛剤
に使用されたりするのであるから,實になさけ無い。j
第三節 Hebrewsと其の女欝
Hebrew入の讐肇に思しては, Bible,’ralpnud, Niddah其の他の記録の中に多くを:
知ることが出回る。「子孫の繁殖」を耐から約束されてからは,衛生學者の必要と共に
産婆及び小兄科讐の必要を下したものと推察される。衛生思想は宗教と並んで重要視
された。旧約聖書の創世記から馬拉基書に至るまで,自画の讐術を學んだ女警及び
Egアptに留回して學ルだ女馨が・女子三晃の治療に從回せる記事が・度k散見されて
居る。
聖書中の女欝と,その手腕に關する記事を墨ぐれば:Job X,10−12頁3 Psalms
CXXXr♪(,13−17頁中の早産に關する記事。 Ezekiel XVI,4−5頁中に乳児の注意
:法を論じた記事。Genesis XXV,19−24頁中にRe bekahの妊娠並にEsanとJacob
の出産に關する記事。Genesis XXXV中のBenjaminの出生とRachelの死に關ず
.る記事。Exodus I,15−19頁中には,撒人の産婆の名が記録されてある。 Genesis
XXXVIII,27−30頁中にはJudahの髪子PerezとZerahの記事:。この場合に長子
の手が,先きに’出たので,産婆が急ぎ,その手頸に赤紐を結び附けた。それから暫ら
く按腹をすると,次子が先きに生れ出たが,長子の手に結ばれた赤紐が誰擦となって,
’Perezが長子権を獲得したと言ふのである。
TalmudやNiddah中には,女欝の産科術に關する討論の記事が在って,その中に
は胎児蔵割,帝王切開,讐胎分娩,胎盤及び瞭形産の虚置法,並に産婦の死亡や月維に
即する引導法等も論議されて.ある。Exodus IV,25頁にはMosesの妻ZipPorah
(Midia人である)が燧石製の小刀で,その子に割禮を施こした事が記されてある。
’當時の産婆は,子宮疾患に膣槍鏡を使用するごとも心得て居たし,探針,外科用小刀,
烙鐵,動脈鉤等をも使用した。
一 第 10 巷 423一
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吉岡=女
讐
史
Hebrewの留師が何塵で讐學の教育を受けたのか不明ではあるが,前にも述べた如
く,Mosesは確かにEgyptのH:eliop。lisで馨學を學んで居る。これは男女共學の写
學校であったから,その妻ZipPorahも此虚e學んだものと思はれる。 Mosesは當
時の諸國の魔術や迷信を知って居た。後は大衛生二者で,野外生活の衛生法を熟知し,
山回を蒐集し,病者の爲に病院を建設すると共に,一般勢働者の爲に保護所をも立て・
た。Neuburgerの言ふ庭に依れば,當時は一般の男女とも診断の訓練を受け,何
時・何盧で如何にして患者を刺絡させるかを敏へられ・・40裁前の飲酒を戒しめられ・
諸病の治療法の書を携へて居たと言ふ。不妊症には「マンダラ」華を使用し,傷には
「サフラン」,「カンフル」,没藥,(高貴なる香水の一種)桂皮,方毎回,香油,油,酒を
用ひ,下毒には兜菊と「タラール」を用ひた。催眠術療法に關してはMoses, Samuel,
Ezra, Solomon, Christ及び使徒に依って盛んに行はれた。聖書は元より馨書では無
V・から,何等専門的の記事は見られないが,Harnackの言へる如く,Luke傅や使徒・
行傳中に,留語が出て居る所から察すると,Lukeが確かに旧師であったと考へられ
る。
Hebrew入はPoenicia人やEgypt入との交通が盛んであったから,自然東方の留1
術を輸入したに相違ない。彼等が解剖學上の智識を持って居た三族は,次の記録に徴:
しても明らかである。Exodus XXIX,13頁の肝臓に關する記事。 Psalms XVI,9頁
の心臓の記事。Dan{el IV,.5,13頁の頭騒に關する記事。 Deuteronomy XXVIII,22
頁の肺病と熱病に.關する記事。Job XVI,13頁の腎臓と膿嚢に關する記事。 Proverbs
VIIの性病に關する議論。 I Samuel,’ XXV,36−38頁の大酒に因る臓盗血に關する
記事等。
同地方には疫病が盛んに流行した。Judea地方だけでも,Christの在世中にユ503
同も疫病が在ったと言はれて居る。カ・sる地:方に在って,Hebrewゐ女讐が如何に活
動したかは,何等記録が存して居ないので,何とも批評することは出來なv・が,女馨
が旧記の働きを演じたことは,疑ひを上るべくも無V・と思はる。
一第10谷424一
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