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−演劇集団わだち
﹁やどかり﹂
矢 野 喬 ・作
又川邦義・演出
’
82全リ演東・画会議の
ゼミナール・演劇講座・総会を
成功させよう
,
東会議・ゼミナール
・と
き
8月2
1日出 ・22日旧)
・ところ
青森市雲谷スカイランドホテル( f
t
0
1
7
73
8-2
1
2
1
)
・参加費
8,000円(宿泊・交流会費共)
・フ。
ログラム
﹁ミュー ジカル青春﹂
− 劇 団2月
かたおかしろう・作
深海ひろみ ・演 出
2
1日 1
6
:
0
0
2
0
:
0
0
2
1
:
3
0
2
2
:
0
0
2
2日 8:
3
0
1
0
:
0
0
受付食事
1
9
:
0
0 モデル上演弘演「太鼓」
講演 ・大橋喜一氏(劇作家 ・劇団民芸)
フィルムとお話、黒さんを偲んで。
大交流会
講演 ・川村光夫氏(劇作家 ・ぶどう座)
分 科 会 、私と劇団伊、この一年の我々の舞台。
リ也域文化をどう創り出すかグ
1
5:
0
0 閉
i』
ヨ
ミ
連 絡 先 干0
3
0青森市本町 1-61
4 劇団支木
東会議・総会
同一会場で
(
宮0
1
7
77
74
6
7
7)
8月20日幽 ・2
1日(
土
)
西会議・演劇講座
創・ 2
1日仕)・22日(
日)
・と き 8月20日(
63
0ト9
2
3
8-9
)
・ところ 大 阪 ・ 大 淀 区 ・ 淀 川 会 館 (
宮0
・受講料
15,000円 ( 各 コ ー ス 定 員 40名)
・内容 く
2
0日 午 後 6時開講〉
−人形京芸
マクリ ックの昌険 ﹂
脚 色 ・阿羅安、栄
原作 ・藤藤惇夫
演 出 ・幸 晃 彦
第 1コース
第 2コース
第
3コース
「演出 ・演技の実際」
「演技の基礎訓練」
「舞台裏の仕事」
ふじたあさや氏
永曽信夫氏
板坂普次氏
作本秀信氏
木村嘉次氏
西村恭子氏
<
2
2日 1
2時閉会〉
連絡先
宮0
67
6
89
9
5
7)
干5
4
2 大阪市南区谷町7
-1
3
9-1
0
3 劇団大阪 (
商会議・総会
同一 会 場 で
(
日
) ・23日(
月
)
8月22日
#
−道演集合同公演
﹁流氷の海に女工節が聴える﹂
原作・合図 一道
脚色 ・本山節弥
演出・山根義昭
細田寿郎 ・演出
・京浜協同劇団「ゼロの記録」 大橋喜一・作
﹁死神やらい﹂
−テアトル・ハカタ
中村ジヨ|
宮本佳子
堤穂瑞
日本﹁ん﹂文オペラ
−劇団石るつ
作・間安伸治
演出・境野修次
−劇団同胞
﹁遺書配達人﹂
脚色 ・小田和生
原作 ・有馬頼義
演出 ・沢田和彦
でフンナよ木からおりてこい﹂
−劇団大阪
水上勉・作
小松幹生 ・脚色
堀江ひろゆき ・演出
−劇団あまんじゃく
﹁
狂人なおもて往生をとぐ ﹂
演出・しんどう・りょうた
−劇団螺線館
(京浜協同劇団)
﹁夜の空を朔ける﹂
作 ・広 渡 常 敏 構 成 ・ 螺 線 館
演出・嶋田三郎
護
城谷
一通夜 ・告別式の記録一
作・清水邦夫
黒さんさようなら・...
︵
提供・劇団はくるま ・山口和紀
D D R ロスト ック市の市街
六月八日、逝く
黒沢逝く、の知らせを受けたのは 、六月八
日、出動支度にあわただしい朝の六時だった。
﹁ゼロの記録﹂川崎公演の十目前。覚悟して
いたとはいえ、 ζんなに早く逝くとは:::。
繕古場の二階に住む劇団員四世帯の緊急打合
せ。細田、原科、中沢︵いずれも劇団創立メ
ンバー︶の三人が約四0キロ離れた償浜市戸
塚区の黒さん宅へ飛ぶ。ぼくは事務所へ銭り、
電話にかじりつく。二百本ちかい発信と受信
の聞をぬって新聞十二社への送信。
当初、自宅で行う乙とになっていた通夜と
葬儀が、全リ演乙ばやし事務局長や﹁演劇会
議﹂萩坂編集長らの意見もあって、劇団でや
あり、変更の電話連絡と劇団での会場準備に
る乙とになったと現地からの連絡が昼すぎに
劇団員全員︵実働二十数人︶、一了三日の
着手。
休暇をとる乙とを要請、稽古を一週間中止す
その夜、予定してい た ﹁﹁ゼロの記録﹄上
る ζとを決める。
演運動の会﹂︵紋谷正人会長、約百人︶の集
いは予定どおり行う。劇団始まって以来の地
なくてはならない。約四十名の人が集まり、
元での実行委員会形式の運動の芽を大事にし
六月九日、通夜
日頃ぼくらが迷惑をかけている近所の人たち
はハイピッチで進む。﹁東京﹂、﹁朝日﹂、
も、﹁お互いさまよ﹂と手伝ってくれ、準備
﹁赤施﹂など各紙に黒沢の卦報が載る。問い
九日、通夜。関昭三氏︵川崎文化会議︶、
合せと弔電がしきり。
驚きと悲しみのうちにも、上演を成功させよ
約千本の白菊に包まれ た真っ白のパ・ネル、
うと誓い合う。その会が終って十時から ‘劇 団のぼる氏︵ほおずきの会︶らの加勢も受け
団員全員で稽古場を片付け、葬儀に向けての て準備をしていると乙ろへ.萩坂委員長、乙 その中にあの柔和な黒さんのカラ l写真が飾
a くりにかかる。遺族と相談のうえ、喪
ばやし氏らも早々と到着。打合せのあと、両 られる。神奈川県知事、川崎市長をはじめ、
体制 つ
主が妻の黒川シ〆エさん、葬儀は黒川家、全 氏はさっそく陣頭指鐸。乙ばやし氏の自が赤 全国の演劇仲間、文化団体から贈られた生花
いで手伝ってよ﹂などと元談をとばしながら
や花環約四十本が繕古場の内外を埋めつくす。
﹁黒さん、そんな所で寝つ ζろがっていな
せっせと祭壇をつくる若者たち。それは黒守口
日本リアリズム演劇会議 、川崎文化会議、京
無理なお願いにもかかわらず快諾して下さ
った斉藤徹氏︵人形劇団ひとみ座︶ K、遭体
んが愛用した毛糸の帽子やめがね、そして最読経のあと、生前の芦がテープで流された。
浜協同劇団、ほおずきの会の五者による合間
葬とし、葬儀委員長には四十数年来の友人で
の到着を待ってデスマスクをとってもらう。
.−全国からかけつけてくれた全リ演加盟劇
札幌から、青森から、大阪から、名古屋から
全リ演を代表して仲武司議長代行の弔辞。
元彦氏。黒さんが好きだった﹁トロイメライ﹂
と﹁仕事の歌﹂を心をこめて弾く。
明かす。
てくれた静芸の山崎欣太氏らは稽古場で夜を
の創設者のひとりで京浜に創造的刺激を与え
ー、石渡健司氏も駆けつけてくれた。東リ演
の文化運動に貢献したうたとえ運動のリーダ
の顔も見える。黒さんと共に神奈川の労働者
んできた劇作家の大橋喜一氏、神谷量平氏ら
その数は四百人を超えようか。同じ時代を歩
忙しいなかを駆けつけてきてくれた人たち。
七時、乙ばやし氏の読経で焼香が始まる。
引き継いでゆく青年たちだ。
んに育てられ、黒さんのやり筏したしどとを
ある萩坂桃彦氏と決まる。
はいられない。年表には出て乙ない歴史をた
ぐりながら年表を書く。
六月十目、告別式
十目 、告別式。劇団運営委員長の細田寿郎団の仲間たちの恩いが乙もる。友人代表の秋
がふるえながら司会に立つ。萩坂葬儀委員長葉栄一氏︵共産党川崎市議会団長︶は、故人
のあいさつは、最期まで演劇への想いを断ちの業績を讃えたうえで、﹁永い問、乙くろう
切れなかった故人を紹介。昭和の初期から労さま。﹂と結んだ。安らかに:::とは言わな
κ
にちがいない。参列者約三百人を代表して献れていたのだろう。
働者演劇 かけてきた二人の友情。それは単かった氏の弔辞には、故人がやり疾したしど
に二人の関係を超えて聴く人に感銘を与えたとを引き継乙うとする参列者の意思が ζめら
花、献灯をするのは全リ演の山崎欣太氏︵劇議論をたたかわせ、黒沢議長を支えてきた
団静芸︶と川崎文化会議の代表。それに、五全リ演乙ばやし事務局長が、故人の希望によ
ζ
百数十の席を二日間とも超満員にして黒沢のり自ら読経を詠む。浄土真宗円成寺の僧侶と
最後の作品﹃サチの麿﹄を成幼させた﹁ほおして数多く詠まれたであろう読経のなかで
告別式で配る乙と Kなった黒さんの活動年
ための原稿が遺品として奥さんのシヅエさん、の録音だが、生活者としての演劇、、つくりを全
期まで手を入れていた﹁黒沢参吉劇作集﹂の演劇鑑賞団体の会員を相手K講演をしたとき
ずきの会﹂の仲間たちと京浜協同劇団。黒さんなにも無念さを乙めたものがあったろうか。
表を作成するため、﹁わが演劇遍路﹂を再読
κ
する。生活 目もくれなかった時代の奥さん
と長男明君らの苦労をあらためて思う。そし 長男明君︵お才︶、次男栄君︵お才︶から捧国に訴えて回った黒さんの 、あの謙虚で熱つ
て、乙の十年近く、﹁作品が書けない﹂と悩 げられる。﹁もう一本書きたい、どうしてもぽい訴えにあらためて胸を打たれる。
み、﹁劇団に自分の活動の場が見つからない﹂ 書きたい。﹂と言っていたという奥さんの言最後に、乙ばやし氏が合同葬主催の五者を
と劇団活動から離れて活動した苦悩の時代を 葉が蘇る。パックのピアノ演奏は、黒さんの代表して﹁黒さんに捧げる ζとば﹂を読む。
ぼくら自身の苦悩とからみ合わせて考えずK 作品に音楽をつけ、黒さんを慕ってきた安達それは一俣の中にも全リ演のしごとを引き継い
2
3
でいく決意に満ちたものであった。
葉にならない恩いがとみあげる。
黒さん。ぼくらは黒さんがくぐりぬけてき
たきびしさとあるいはそれ以上のきびしい情
目、乙の地で、乙の人々と﹂と劇団のスロー
況の中で生きていかねばなりません。﹁乙の
通夜、告別式あわせて約七百人の参列者。
三年前の創立時にかかげた黒さんの言葉をあ
ガンにうたい、﹁瞳のような団結を﹂と二十
ぼくらは歩む
﹁乙んなに盛大にしてもらって:::﹂と黒さ
劇作家山内久氏、共産党文化部長の西沢舜
んの奥さんが声をつまらせる。
一氏、中路まさひろ衆議院議員らの顔も見え
る。各界から百四十通に及ぶ弔電。黒さんが
お骨になった黒さんが稽古場に帰ってきた。
蒔いた種子のふくらみを知る。
いっさいの儀式が終ってから黒守口んのお骨を
葬儀の裏方で火葬場にも行けなかったぼくは、
に、一夜が乙みあげて何も吾日守えなかった。後念
抱いた。何かひと乙と言いたかったはず江の
です、黛さん。晩年の黒さんの苦悩とぼくら
κ つくったとの繕古場で検証し合いた
の苦悩とを、できれば創造の現場で、黒さん
かった。それができなかったのが無念です。
と一緒
﹁
誰Kでも芝居はできる﹂と言う黒さんの演
劇理念と、﹁労働者こそがもっと自分を鍛え‘
できたときに、初めてぼくらの労働者演劇が
高い文化を﹂とめざすぼくらの患いとが統一
新しい力をもっ ζとになったはずです:・・:言
浜。て
京すめ
協 か
同 み
劇j
し
固 め
な
城 が
護
) ぼ
く
谷ら
は
り
つ
歩
み
コ
て
同時に、あなたのすぐれた戯曲は、全国の演
今一度、自分自身をためしてみたいと話して
の歴史を、文化を、祭りを、そして演劇を地
劇への可能性と、それを切り開く道筋を、あ
くれました。苦悩する私たちのリアリズム演
域の住民の人々と一緒につくり出すために、
西の組織統一を経て、全日本リアリズム演劇
今、再び私たちの周辺では、きなくさい硝
たのでしょうか。
煙の臭いがただよってきています。全地球を
つ、あなたの強靭な精神力、生命力が奇跡を
蔽う人間殺りくの危機すら現実の姿をもって、
まだ全国統一後一年にも満たない時に、あな
を通じて歩んできた、前を向いて歩む人間の
やめます。それが、黒沢議長、あなたが生涯
たを失った悲しさやくやしさを吐露するのは
の議長として、まさに東奔西走の日々を送り、あなたの、人間の可能性を信じ、未来の展
以来、あなたは東日本リアリズム演劇会議てはいません。
あなたと固い握手をかわしたのが、始めての苦悩をわが乙との様にかなしみの目でいたわ
今、私たちは、あなたの遺影を前Kして、
と思っています。
様々な思いの中から、さぐり出していきたい
劇の道を、黒沢議長、あなたの残してくれた
私たちは人間の尊厳をかけたリアリズム演
浮びあがってきました。
議長として、病状にもかかわらず、西日本各
を、私たちはうかつにも知りませんでした。
う病巣が、再起不能にまで広がっていた乙と
だが、すで Kζ の頃、あなたの身体に巣食
地の劇団、サークルを訪ねられました。
会議が結成されるや、あなたは、その初代の
一九八一年、新たな歴史の胎動の中で、東・ なたは身をもって私たちに示そうとしてくれ
勇気と希望を与えてくれました。
劇仲間の共通の財産となり、数多くの舞台と
昨年秋、あなたは、戸塚の町で、自分たち
の証しとして、語ってくれています。
たがたどった六十数年の、人間への無限の愛
望を見すえた青年のような澄んだ瞳が、あな
けら
なって、人間の悲しみ、怒り、喜び、そして
︵関西芸術座・全リ演議長代行︶
仲武司
(また
出合いでした。り、はげました暖い言葉の音色を決して忘れ
らかれた会議の席上、私は西日本代表として、きびしい限と激しい口調。ある時Kは人々の
リズム演劇会議結成の準備のため、静岡でひ正義やものごとのあやまりを正した、あの、
思 い お こ せ ば 、 一 九 六 三 年 春 。 東 日 本 リ ア 今 、 私 た ち は 、 生 前 の あ な た の 、 時Kは不
改めて思いを馳せています。
ム演劇への熱い思いと、その闘かいの足跡に
った人間への愛、と真実をさぐる、リアリズ
今、その卦報陀接し、生前、あなたがたど
もたらすのでは、と願っていました。
してはおりました。しかしなおかつ、万に一
とを、私たちは心のど乙かで、一応の覚悟は
つの日か、今日の様な悲しい出来事がある乙
かねてから重い病床にあったあなたに、い
らせをうけました。
六月八日朝、私たちは、あなたの逝去の知
E
司
4
5
弔
あり方であろうと思うからです。
黒沢議長、本当に永い間御苦労様でした。
本当にお疲れさまでした。
一九八二年六月十日
ゆっくり、お休み下さい。さよなら。
秋葉栄一
へ日本共産党川崎市委員長
J
川崎市会議員団長﹂
fH
黒沢さん、あなたと私で最大の協力をした
κ
労働者の街川崎 、働く人の劇団が、しっ
のは乙の劇団の繕古閑帽をつくるときでした。
活動の一翼を担った上演活動は、革新市政に
乙の繕古湯が足場になって、川崎市の文化
のだと思います。
かりと根を生やす意義は、たいへん大きなも
主勢力の一員として、あなたと私は閉じ方向
続けられている乙とに深く感謝をしておりま
毎年劇団の皆さんのご協力で、立派な舞台が
わが党と後援会が主催するさつきまつりに、
なって、さらに発展し、続けられております。
ひそかに私は尊敬していました。
黒沢さん、あ江たが中心になってはじめた
す
。
してお城もできて、次々と立派な演劇を生ん
文化活動が、多くの同士山たちを生み育て、そ
一人の人聞が、自分の道を、一すじに乙 ζ
でいます。
まで追求した例は少ないと思います。
金も名誉も考えず、ひたすら演劇K命をか
黒沢さん、あなたの同志たち、あなたが養
けてきたあなただからできたととと思います。
成した人たちが、必ずあなたの意志を継ぎ、
あなたの願いをより発展させてゆく乙とを、
黒沢さん、安心してください。
私は堅く信じております。
黒沢さん長い乙とどくろう様でした。
一九八二年六月十日
さようなら。
加し、川崎の地 K労働者文化の灯をともし、
戦後、京浜協同劇団の創立に参加するまで、
幾多の困難をのり乙え、労働者文化創造の礎
そして、つねに、あなたは私たちの前にい
をきずきました。
れた者が豊かさを得、労働者が自信をとり一戻
純粋さを、そのまま今日まで保ちつづけた人
でした。貧しい者が幸せをかちとり 、虐げら
ったのです。
ために書かれた、あなたの多くの作品は、私
たのです。それだけでなく、労働者の幸せの
黒さん。
す、そのための文化を、あなたは追いつづけ
の創立に参加、直接じかに私たちの先頭K立
そして、ついに東日本リアリズム演劇会議
たち地域劇団、働く者の劇団の創造の指標だ
﹁サチの暦﹂の幕を開け、幕を閉じると共
たのです。乙れほど壮大なロマンは他にあり
ってくれるようになりました。
それはさらに全日本リアリズム演劇会議に
ません。
発展、今日、全国七十五集団の連帯の安めに
これほど雄大な夢は他にないのです。あな
たこそほんとうに純粋なロマンチストだった
嘘がっけない人を疑わない
連帯といえるでしょう。
仕事であり、黒さんだから ζそ生みだしえた
そして、 ζれは黒さんでなければできない
あなたはなったのです。
まるごと人を信ずる金に全く縁がない
る夢だったからです。
といっていいでしょう。それとそが歴史を創
の拍手であったのです。黒沢参士口六十五年の
とれほど黒さんにふさわしい最後はなく、
ら ζそ、みんなはあなたを慕い、あなたの言
黒沢参吉にしかない魅力なのです。それだか
は夢を追う黒沢参土口が培って来た魅力であり、
いう無惨があるだろうか、乙んな無情な乙と
あなたはついに癌におかされたのだ。 ζう
その矢先その矢先なのです。
あなたの柔和な暖かい、豊かな人絡。それ
演劇人として 、乙れほど美しい壮烈な最後は
黒沢参吉の仕事がはじまるというのに。
まだ六十五才だというのに、 ζれからとそ
ないのです。まさに黒沢参士口の最後です。
あなたは、 第一次川崎協同劇団の創立に参
があるのだろうか。
κ
あなたはロシア革命の年一九一七年 生れ、
葉を信じたのです。
でしょう。
人生に対する感動の拍手だったといっていい
あり、感謝の拍手であり、そしてまた、感動
あれは黒さんの人生花対する讃美の拍手で
でしょうか。
ルが聞えるでしょうか。熱烈な拍手が聞える
黒さん、いまあなたに、あのカーテンコー
た
。
に、あなたは、あなたの人生の幕を閉じまし
︵劇団はぐるま ・全 リ 演 事 務 局 長 ︶
こばやし・ひろし
黒さんに捧げる言葉
を生みました。
信じ、あなたに期待する多くの人たちの集団
かれ、信頼されるあなたの作風が、あなたを
また、いつも静か K話す話し方、誰にも好
文化活動、特に演劇活動に打込んでいる姿を
あなたが苦しい生活にも負けず、ひたすら
した。
をめざす友人として知り合い、貌しくなりま
せて、平和と独立、民主々義の確立を望む民
戦後、衣食住の深刻な国民要求の斗いと合
つをする乙とになりました。
会を代表して、あなたとお別れをするあいさ
黒沢さん、今日は、日本共産党川崎市委員
言
司
ロシア革命の、あの初心の美しさを、まさに
6
7
弔
ω想出︾
︽黒さん
急に想い出す−︸と
田信之
︵劇団さっぽろ ︶
黒さん||戸塚の自宅へ押しかけて昼から
黒さんllあなたには、まだまだ報告した
り、語り合いたいととがいっぱいあります。
焼酎に酔っぱらったり、支勿湖岸や積丹半島
で談笑したり、川崎駅周辺でデ lトを重ねた
乙とどもが H想い出 u になってしまうのは、
やはり早過ぎます。
私が﹁民芸﹂を退団し、フリ!という名で、
どの劇団にも所属出来ない焦燥と、体どとぶ
つかれば何とかなる式の野放図さの只中で、
あたふた生活していた時K、私的な面でも導
き励ましてくれたのが、黒さんだった。七二
てくれたのが、黒さんだった。
年以降、私を東リ演の活動へ引き込み、折に
ふれて、やけっぱちな行動と考え方を批判し
黒さんは、﹁京浜協同劇団﹂の期生と共 K
﹁俺たちのペガサス﹂を創りあげようとして
いた頃で、二人ともよく飲んだ。川崎駅前の
ラーメン屋で明かるいうちからビ lルを欽み
いうのに。浅念です。
大変元気だ uと報告を持ち帰ったばかりだと
黒さんは
だが、今回誌み直してみて、あの柔和な笑顔
の中に、黒さんは常に相手に厳しさを要求し
H
続けたのだという実感が強い。乙ばやしさん
始末で、青森と札幌のみんなに、
続けたのも、乙の頃だった。
黒さんに、仕事の乙とで親しく声をかけら
と一緒花、劇団では﹁はやてに走れ、あまん
︵劇団弘演 ︶
秋本博子
黒さんの想いを
私達の指標に
れたのは、﹁中野動演﹂の﹁明日を呼ぶ娘た
ち﹂だったか、﹁さっぽろ﹂の同作品だった
じゃく﹂を見てもらったのだが、乙の広い北
海道で専門劇団の果さねばならぬ課題の重要
さに、君はまだ気付いていない、まず何より
か。いずれにせよ、黒さんは、 H
若い人をほ
めながら育てる Hといわれていたが、私には
別の印象で、ほめられるととなど皆無だった
はじゃがいもに舌鼓で、まだだまだだと私を
羽ブロックとの連帯を強めたまえ||黒さん
のに、あの時ばかりは w君はいろんな所へ出 も地域K根づくとと、劇団を支えてくれる人
々の心をつかむ乙と、道内の劇団の統一と奥
どなかった時で、その一言がひどく嬉しかっ
かけて、核‘つくりに成功しているね Hといわ
れ、電車代にも事欠く毎日で乙ちら K余裕伝
﹁おりん口伝﹂弘前公演の時でした。まだ
た。乙の頃、黒さんは﹁高津研究所﹂の準備 叱吃され続けた。
中だった。
黒さん||あなたの逝かれる一週間前、劇 客入れの準備もしていないガランとしたロビ
以来‘﹁銅鐸﹂の早川さんの助言もあり、
団ではむつ、弘前で﹁常紋トン、不ル﹂を上演。 ーの片隅で静かに本を読んでいる、ベレ l帽
私は北海道に根を降す ζとを真剣にすすめら 七七年六月Kは H乙まかい雨の降っていた H の男の人llハッとして私は恐る恐る近づき
れ、七三年に初めて﹁さっぽろ﹂の仕事をし 津軽海峡を、私はその後も月に一度は往復し、 声をかけてみました。
﹁アノ、もしゃ、黒沢さんでは目・:﹂
につ乙り頬笑んで立ち上った黒さんとの初
た乙とをまたひとつ実現します。劇団では本 下さるというので心待ちにしていたのでした
川武一原作︶を上演、作間さんのやりたかっ
たりとも想像もしなかった。
の仕事を手伝うととになるとは、その夜、ふ
んがいっしょだったが、その後私が﹁弘演﹂
お見舞いにうかがって、﹁ほおずきの会﹂の
ととなど、逆に二人ともハッパをかけられる
れの報告を持って、四月六日に、早川さんと
は読んでいただけたでしょうか?|1iあれ乙
格的な中 ・高校巡演を始めました。﹁ユック﹂
れました。
あわてて舞台に居る作間を呼びにやったり、
ぜか乙の時の光景が鮮明 K想い出され一涙が溢
いらっしゃるとは||告別式K伺う車中、な
が、まきかロビ lでひっそりと開演を待って
対面でした。東リ演から黒沢議長が観に来て
る、ナゾる毎目だったと思う。秋田の総会后、
H
てから今日まで、北海道で黒さんの仕事を、
津
軽海峡文化圏 H構想を練っています。﹁弘
そして何よりもその考え方を、文字通り真似 演﹂では今秋やっと矢作京介脚色﹁農婦﹂︵津
作間さんの通夜に駈けつけた時も、勿論黒さ
﹁演劇会議官山﹂︵七七年八月︶誌上 K、黒
さんの一文があり、北海道 ・東北の旅のメモ
-1
0
-1
1
飯
さ平 .
でした。もう奥羽でお自にか、るのは無理だ
黒石劇研の、東リ演参加後初めての公演﹁若
リギリまで飲んだときの乙とです。
屋で、まだ二十代前半の私達数人と終列車ギ
ん。印象に銭っているのは、青森駅前の一杯
ろうと淋しい想いをしていましたら、その後 新鮮な感動をおぼえていたからかもしれませ
はもとよりプロック全員大感激致しました。
者たち﹂を激励に、再び訪れて下さり、劇研
~r
頓狂な出逢いになってしまったのですが、今
’
つ
部分は保留にしても加盟し、交流を深めてい氏にはたびたびおめにかかるようになった。
m
誰れも気付かずKいた非礼を詫びたりのすっ
思うとしみじみ黒さんとの出逢いだなあと胸
暖かくて静かで控え目で、激しい情熱は常
が熱くなるのです。
に内に秘め先ず相手の話を聞乙うとなさる方
κは殆んど
e
ロックゼミ
でした@その後奥羽 フ
いました。地理的花束リ演ゼミに参加出来る
参加して頂き私達の運動の指針となって下さ
のは劇団の中で精々一 ・二名ですので、私達
にとっては東リ演イコール黒さんという印象
でした@七八年春の十和田湖畔で聞いたBゼ
足の惑い私は走り回るゲ lムについてゆけ
た
.
ブロックゼミの帰り、各劇団公演観劇の帰
り旅行の途中の際、仙台に必ず立寄られ、酒
黒さんが居たから支木が東リ演に加盟したクゼミや各地の公演K、乙まめに足を運ばれ をくみかわしたものである。
ちょ乙んと座り、くずれず、各地の状況、
と言っても過言でありません。黒さんの人柄たのである。中でも仙小は再建七年目花して
は、東リ演のシンボルのようでした。演劇におきた劇団存続花関わる分裂さわさ﹂でお世話 問題点等、ときには凡帳面にノ l卜を取られ‘
とき陀は劇団員以上に心配し、喜び合ってく
人生を刻み乙んだ黒さんならではのものだつになった。乙のさわぎに心を痛められた乙ば
はなかったでしょうか。
れたものです。余りにも早い死のおとずれで
した状況下で何を演じたらよいか。劇団運営
全リ演の結成をみたとはいえ、乙の混沌と
たのだと思います。まだ川崎K行けば逢えるやしひろし氏と共にさっそく来仙された。
あった。それは﹁劇団よりもH氏がやめてし
まう事が惜しまれて仙台に出向いた﹂という
ったが、氏のハツタリのない、あたたかい気
趣旨のものであった。内心おだやかではなか
持、誠実さをあらためて認識したものであっ
た。又、東リ演加盟直後のある劇団の公演を
見に行った時の乙とである。合評会の席上で
たものである。私自身は一寸気負って勇み足
後その劇団がしばらく休団状態Kなってしま
い、お互にホゾをかみ、会うたび心配しあっ
私も黒沢氏もやや、きつめの批評をし、その
部K所属していた頃である。京浜協同劇団の
だったのだが、氏のは、演劇、舞台作りへの
に Hおとつつあん
H
黒さんとの出会い
その 別れ
群馬中芸︶
︵
村欽
一九六三年の夏でした。その千秋楽の目、ぼ
上に昇る﹂をもって、旗上げを行ったのは、
ぼくらが、風見銭介作の﹁日はまた断崖の
中
一
死であるというより、仙小にとっては、本当
をなくした心境である。
H氏K期待を寄せられていたかというととで さえ困難な時期花、氏の逝去は、単に議長の
際、ポツリともらされた言葉は、氏がいかに
結局劇団を去られたが、その後黒沢氏に会つ
ような気がして、とても信じたくありません。両氏の説得で退団を思いとどまったH氏
、
おとつつあんを
仙台小劇場︶
︵
木京子
tくした心境
鈴
思えば黒沢氏は何度仙台をおとずれてくだ
さ った乙とか。
故郡山氏と、東リ演加盟オルグに来仙した時
情熱のなせるためであったのはいうまでもな
氏と初めてお目にかかったのは、職場演劇
である。奇しくも仙台小劇場の一員となり、
2
u
v
。
、
再度おめにかかったわけであるが、憶えてお
られる記憶の良さにおどろいた。
−
−
・
A
qu
-1
2-
ミに容加して下さったのが最後でした。
ず、一卜休みしていた黒さんの隣りに逃げと
ですが、あの頃もう病魔が黒さんの体を犯し
だ
劇;企
回
団
支
み、﹁体力的に負けますね﹂と笑い合ったの
ていたのですね。その年の秋公演の﹁津軽謀
原ル
黒さんとの出逢いがいつの頃だったのかは
ン
’
叛人始末﹂はぜひ観たいと云って下さったの
藤ン
ボ
e
っきり思い出せないのは、何かあると奥羽 フ
ロックに来て頂いていましたし、その都度、
の
ですが果たされぬま、斗病生活に入られたの
演
く乙との方が大切だと思うよO i−−・:﹂というより、東リ演議長として、東北プロツ
にをう方な
せばるりあ黒てな間と黒俺怒程が
けて
政て話だっそん、よ方げさ自っさ肩さにつ知弘「いい当
治いすときんが身うはるん分てんをんだてら前おとな時
的 ね 乙 恩 な な lの に ま の を の い 、 た が っ ば ず に り 見 く
云 い と つ が 私 l置 言 ち で 青 強 た 弘 た 笑 て か 1
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l もたら達。きつがす森がか演いい出りもて口も弘羽
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どでっかまりものでな来の、い伝さ演で
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乙いてらでかし面くがる演「て」せかは
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の内義る味う
東
典型的な農業都市として発達してきたぼくでしたが、戯曲﹁ふかい庇﹂や﹁煤煙の下か動について﹂の、あの黒さんのいう﹁羅漢﹂
くらは始めて黒沢参吉さんと出会ったのです。新聞報道を通じての知識しか持ち合せませんした。きっと、﹁ほおずきの会と劇。つくり活
らの小さな衝は、その歴史的経緯から粗鋼介不ら﹂﹁日鋼室蘭﹂などは、テアトロや知人かさんたちが、あちこちに星をちりばめたよう
掃の気風が強く、ぉE い協同する乙とはおろらの資料提供で一通り読み回していましたし、に光っているのを、黒さんは必らず見取 って
か新しい言挙さえままならぬ、そんな因循な何よりもまして川崎という工業地帯での、労くれたと思います。
地域でありました。働者と密着した演劇創造の実践者である黒さ黒さんの壮烈な生を思うとき、ぼくは何故
当時、六O年安保後の、挫折と呼ばれる後んとその仲間が、ぼくらの舞台を見、また共だか宮沢賢治を思い浮べてしまうのです。
遺症と、次第に強まってきた反動攻勢の波のに観客に挨拶をおくつてくれた乙とに、強く
中で‘乙の地域の自立劇団や職犠演劇は巌滅感動したのです。
的打撃を受け、次々と活動停止や解散が相つ前年結成された東リ演への加盟委請も兼ね
ぐ中で、ぼくらはそれまでの﹁地方﹂というた黒さんの話は、あの八月の暑い夜、ぼくら
たように思います。
そして、 ﹁
私はどうやら勝ち目はないよう
に、私は返す言葉も見つからず、 二度三度と
ただ、うなづくほかありませんでした 。
また近々に顔見せますよね、ほんとにお大
乙うき一口って病室を出てから、その約束を果
、
ずい分ご助言いただいたのですけれど、それ
ばならない。可能な途を示唆し得る数少い偉
終息する直前まで仕事を離さなかった強靭︵おお︶きな先達の死であった 。
の読経で、黒さんを送った、乙ばやし・ひろ十五年、それ程長い刻とは言えまい。
しが ﹁乙うしてみんな了るんだ、俺は骨は拾好むと好まざるとにかかわらず、演出者は
しいな、その乙とが、私にと っても光明なん な人間の、それを支えた骨組みの大きさを見浅されたという思いがつよい。黒さんが了
だから・:・:・﹂と、最後K言われた、 乙の 、 る思いがした 。 っ
た年まで、短かか ったとは言えまいと奮い
光明という乙との、量り知れない深さと重さ
茶毘に立会 った多くの仲間違の中で、自身たその年まで、私は生きられたとして、あと
だけれど、塚さんにはなんとしても勝 ってほ
そ乙に骨が在った 。
よりもなによりも、二年前K喉頭、
カンで声帯
膝を崩さず端正な姿勢のままに飲んだ黒さ残念でならない。耐える乙とが才能であり、
を摘出している私の病状を、逆に気遣 って下 ん、いつも穏やかで静かな折目正しい口語で続ける ζとだけでも意味を持 った時代は速い
さっ て、面会時間の大半をそのととに費われ 語った黒さん・::生前の記憶にそぐわぬほどのだろう。混迷の時代には、それに相応した
の荒々しい大きさと、が っしりとした骨組で、具体性のある方法論や、実践がなされなけれ
んや京浜協同の仕事については、演劇雑誌や黒さんには是非観てもらいたい芝居でありま
りもまして大きな励ましとなりました。黒さで成立しましたが、望むべくもないとはいえ、 文団連と地域における文化活動の乙となど、
協同の仲間が駆けつけてくれた乙とは、何よ集を意図し、ふじた氏はじめ多勢の仲間の力
さぬまま、三カ月が過ぎようとしていた時の
ぬ二十数名の仲間と共に、しゃにむに劇団を偲ぶ、懐しい想いとな って銭ります。
発 足 さ せ て い っ た の で す 。 本 年 四 月 の 、 ぼ く ら の 創 立 初 周 年 企 画 公 演 あの悲報だ っただけに、自分の不甲斐無さに
ですからその旗上げ公演に、黒さんと京浜は、創立の精神に立ちかえ った 文 団 連 的 結 苛立ちさえ感じています。
あの臼は、岐阜でのフェスティバルの乙と、
た中でぼくらは、演劇的経験をほとんど持た浜の仲間の慰問袋も、今となっては黒さんを
思松私
き雄
塚
怠惰な私にはひどく応えた・・: 。
れている。
香気のある、その六十五年の生涯は、短かしかし、立ち上るにしても、抜け出るKし
かったとは言えまい、残していった J遍路 H ても、ことからしかない︵テアトロ七月号・
は、ずっしりと重い。そして次に用意され、萩坂桃彦︶そのなかで、先達の歩んだ道を、
何かを結実させる乙とがひどく困難な時代
まとめられようとした、黒さんの実践からの私なりに細々と受け継いで歩みつづけて行く
理論化、 ﹁
生活者の演劇﹂が生れるには時間しかないのだろう:: : ﹁そうなのだろうね、
が足りなかった ::
:。
黒さん﹂ ::
:。
になってしまった時だけに、とても、とても
lphu
-1
4
言葉を使うととをやめ、﹁地域文化の拠点的の小さな事務所で、空が白むまで熱っぽく続
形成﹂を合言葉に、脱変を試みようとしていき、ぼくらもまたこうしたぼくらの旗上げが、
ました。しかし、多くの民主的な諸国体は未全国の多くの仲間を結びあう、きずなとして
だその後遺症から抜けきらず、観念的にはぽの東リ演結成と決して無縁ではないと確信し
くらの主張を理解してくれでも、新しく生れたとき、お互い本当陀芝居をしていてよか っ
気
塚 遣
わ
越れ
函た
待出来そうにない状況にありました。そうしち、ぼくらの貧窮を聞いて送られてきた、京 切にねIlll。
た劇団を支え育てる具体的働きは、とても期たなあと感じあ ったものでした。婦られての
逆
い っぱいある筈の ﹁
黒さんの想い出﹂は、
わん﹂と、怒 ってでもいるような口調で言 っ 指導的役割をその肩に背負わされるが、随分
いま の私にと っては、乙 の乙とに 尽きてしま た。
と乱暴にのんだくれて生きている私K、その
。
うんです。
っ
前
々
日
の
黒
さ
ん
の
奥
さ
ん
の
言
葉
が
耳
に
筏
荷
は
重
い
・
・
黒さん、なんとしても勝ちます、勝ちます ていた 。し っかりとした声音だった。﹁最后創立以来:
、・
最もきびしい混迷の最中にある
よ。見ていて下さい 。
まで努力した人でした、勉強させられました﹂ ﹁
劇団埼芸﹂だが、私も大きな岐路に立たさ
田
恒
夫
骨となった黒さんが
自の前に在る
埼
団
劇
(
芸
)
﹁金魚修羅記﹂の
じいさんのイメージに
ダブって:・
ように思われます。﹁生れた家﹂がぼくをひ
きつけるのは、そういった黒さんの創造姿勢
そうはいっても、黒さんがぼくらに与えた
が鋭く感じられるからのようです。
かもしれません。労働者文化のすそ野をひろ
明るさは、黒さんのやっぱりホンネであった
よしだ・はじめ
げ、より多くの人間が創造のたたかいに参加
する乙とを喜びとした、黒さんの生き方が、
︵土の会︶
黒さんの作品の中では、﹁生れた家﹂が好それを物語っているでしょう。その喜びにむ
ねて考えずにはいられません。
己を律する
鍵が失われた
︵演劇集団未踏︶
立川雄三
きです。黒さんのもつ独特のロマンチックなかって自分の一生を組織した黒さんの存在を 、 黒沢さんというと、比較にならぬのは承知
で、つい私自身との対比をしてしまう。体質
東︵全︶リ演の会議などでみせる黒さんの風土記﹂︵改稿して﹁金魚修羅記﹂となりま
と厳しく葛藤している感じがします。土の会とのかかわりでいえば、﹁東京金魚
が、私にはすべて欠点なのである。だから、
らぬ。つまり、黒沢さんの長所となると乙ろ
的にも性格的にも正反対のような気がしてな
葉はあっても、はったりや権勢風を吹かす ζ
て、どう話せばいいのか﹀︿去り際、どんなより、いま戸塚地域で取り組んでいる﹁サチ
つ
め
か
し
も
い
、
的
意
窓
え
き
ひ
に
れ
そ
言葉があるのか﹀間近に死と向きあっていの暦﹂の繕古について。
界
世
が
己
、
し
仁
る
い
て
か
を
ら
ぐ
あ
大
K
Klでなく、ゆったり一歩々々を、だが永遠
る作家K。 三 月 の 中 頃 だ っ た 。 そ 乙 に は 、 生 命 の 最 後 の 灯 を か き た て る 様
な
る
れ
さ
ま
苛
に
ス
ク
ッ
レ
プ
ン
コ
、
は
て
っ
と
その前日、仕事の打合せで上京した﹁劇団
。
然
当
ど
さゥぽろ﹂の飯田君が、入院中の大橋喜一氏に歩み続ける︿意志﹀が、ずしりと迫って来
「
動
物
は
自
分
が
悪
い
と
思
っ
た
き
弱
く
な
る
」
を見舞った後、面会謝絶の黒さんに何とか会る。別れ際の﹁心配﹂なぞ一切無用だった。
シ
|
|
。
ン
ト
l
えないだろうかと難題を持ち出されたのだ。彼はベッドから身軽るに降り立ち、点滴用
た
る
す
律
を
己
、
と
な
く
い
が
方
う
ζ
実は私自身、昨年末の出版記念会いらい、年のポ lルを無雑作K つかんで転ろがし乍ら廊
し
が
地
心
く
ゆ
て
ち
堕
を
坂
急
、
れ
わ
失
鑑
の
め
を越してから聞こえてくる八もつ時間の問題﹀下をスタスタ歩き出した。ナ l ス・ル lムで
には 、無理にも観念させられていた。だから、台本﹁サチの暦﹂を受けとり、﹁読んで下さ
。
ぬ
ら
な
で
安
不
て
万が一つにでもと、京浜協同劇団に問い合せ、い﹂と私達に手渡した。もう、言葉はどうで
お
使
K、
に
う
よ
シ
ダ
え
さ
で
方
た
っ
な
く
か
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奥さんから﹁許可﹂を貰ったときは、正直、も良かった。限と阪が、︿別れ﹀を交すだけ
う
と
ん
ほ
、
は
て
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主
持
の
生
根
司
下
る
す
いたまま、彼は﹁全リ演﹂の ζと、反核問題、
通夜の席は、乙れっぽっちも情緒過多のな
ー生涯忘れ得ぬ鮮烈な﹁幕切れ﹂を残した。
い、彼れ向きのそれだったと思う。私は、黒
近づくにつれ、後悔にも似た重い気分に沈ん
演劇運動の今後などを、熱っぽく語った。何
その日、品川で電車を乗りかえるまで、一
でいくのを止めようともしなかった。︿逢っ
さんの遺影K、心置きなく﹁お疲れさま﹂と
さて、戸塚病院の階段は、一足々々が何と
柄なのだろうか。その日、黒沢参吉は|少くとも私にとって
以上に思われてならないのは、やはり彼の人欲を覚えて、もりそばを半分だけ食った。
数える程しかない。そのくせ、昔からの仲間いない。戸塚駅まで来て、私はもうぜんと食
のつき合いだが、じっくり語り合った機会はような|私たちは何を喋り合ったか、覚えて
思えば黒さんとは、﹁日鋼室蘭﹂の頃から帰り途、ホッとしたような、ガッカリした
シメタと胸弾ずませた筈だったが。だった。
。
い
り
’
つ
に
-1
6
情感が、歴史と人間とをとらえるリアルな眼今さらながら強く強く感じるほくです。
特徴は、﹁乙ばやしひろし流リアリズム﹂にしたが︶を劇団のために書いてもらった乙と
黒沢さんの前花出た時は無論のとと 、作品を
にふさわしい方だった。公平、公正、透明、
沢さんをおいてほかに考えられぬほど、それ
黒沢さんは東リ演 ・全リ演の議長として黒
れるのだ。
た。情熱をもった人々が創る努力の営みの中って、あらゆる愈味で新しい時代を画する仕 読んだりしていてもコンプレックス花苛まさ
対照される﹁労働者的ロマンチシズム﹂でしを落す乙とはできません。それは土の会陀と
H
おれは 、ねばな
に、未来へつながる明るさを信じようとする事となりました。頑国一徹、金魚、つくりを賃
笑い顔です。ぬいて死んでいったじいさんの役をぼくは演
そういう面を 、もしかすると黒さんは愈識じさせてもらいましたが、
的にぼくらに見せようとしたのかもしれませらないってセリフがだいきれえでな υという
﹁挫折﹂を経験したものの苦渋、より正確にのひとりであったと思います。孫や若者たち
ん。しかし、時として黒さんが示す表情には 、 乙の人物は、おそらく黒さんの愛する人物像 黒沢さんはいつも温顔をたたえ、きびしい言
て内蔵した情熱を行動化し、骨惜しみせず、
となぞ微塵もなく、控え目であり、それでい
E
最後の最後まで強い意志を貫かれた。
いえば、暗黒と希望との孤独な格闘から、自に、時の流れや権力に屈する乙とのない生き
」
銅
鍛 −
、
、.
団
劇昭
一1
7
分の存在を守りつつ、その地点から、現実 ・ ざまをの乙して乙の世に別れをつげていった
舞
未来に立ち向かおうとする人間の姿があった乙の主人公に、いま、黒さんのイメージを重
川見
(
重かった乙とか||指示された病室をノック
阜お
に、雑誌﹁世界﹂のほか数冊の読み注しを置 だけ言った。
ー可
したとたん、予想はすべて裏切られた。枕一冗
の
寸変に弾ずんでいた私たち︿生きて、もう一
後
度黒さんに逢える H ﹀も、戸塚駅︵病院︶が
最
黒さんとの旅
︵劇団展望︶
沢郁夫
κ
しなければ当分のあいだ大丈夫と医者に云わ
﹁実は今日ね、今日が、もしその日まで再発
た。乙のときは前のメンバーの他に、作曲家
黒さんは云っていた︶
との御主人が探してくれる、ありがたい、と
う平気々々﹂。﹁ハレェ/そですか 、んじゃ
も加わった。黒さんはさらに元気そうであっ
の安達元彦さんをさそい、﹁展望﹂の林陽子
κも連れてってもらっ
れてるその日なのよ、十二時まわったからも
お祝いしなきゃ、おおいにやりましょう/﹂
なんてふうになってしまい、肝臓を病んでい た。もと﹁劇団さっぱ﹂の鈴木解子さんのお
東京はんかでなく秋田県の山村まで﹁統一 らいビ lルのほかはタブーにしていた私も調 店︵テイル|ムと画廊﹀を栃木県小山に訪ね
劇場﹂の芝居を見に行きませんかという、い 子Kのってゴチになり、あげくのはてインタ たり、東・西リ演の集会もいくつかあったり、
ささか乱暴奇抜な提案 、黒さん︵とやっぱ チェンジでトイレに駆け出したとたん突んの ずいぶん黒さんにはつき合って頂いた乙とに
なる。今になってみると、あの元気さのなか
り呼ばしてもらう︶がイッパツで乗ってくれ めって胸を強打し、へたり ζんでしまった。
たのには、正直びっくりし、そしてたいへん
嬉しかった。しかし、なんてったって黒さん
我々のつくった手料理を川村さん御夫妻と囲
くえらい人である。
が乙められていたように思う。やはりつくづ
おかげで温泉にも入れず、黒さんの介抱係り には、僕らハタの者に心配かけまいというや
のつもりがあべ乙べに面倒みてもらうハメ K さしさと、俺は卜コトン頑張る、だからお前
伝った。乙の旅は、﹁ぶどう座﹂の繕古場で たちもいろいろ条件わるいんだろうが最後ま
であきらめずにやれ/という叱柁ゲキレイ
を持ち込み入念K寝所をしつらえた。おとと
lベキュなんかもできるのです︶、帰りは
んだり︵コンロもナベもすべて積み込んでパ
のからだが心配だ、僕らは車のなかにフトン
めているが﹁演劇集団 ・石るつ﹂の秋山昇、
し加年の秋である。僕ら、とは私と、今はや
でいた。それから乙っち、去年の春には生活
信がついたらしい、と僕らは勝手Kよろ
斉藤幸子、﹁展望﹂の小島政男。夜なかに東 ﹁統一劇場﹂の木村快さんも一緒になって、
北自動車道をひた走り、栗駒山l夏油温泉と 私の事故を除いてはまったく楽しく充実した
一泊づっゆっくりし、岩手県湯田の﹁ぶどう ものとなった。黒さんもすっかりからだの自
ζん
の公演を山内村で見せてもらい|帰りがけ
座﹂に川村光夫さんを訪ねてから﹃兄ちゃん﹄
﹁仙台小劇場﹂を訪れよう、というのだ。と 演劇研究会つくりましょうよ、なんて口実つ
乙ろが黒さんときたら、横になるど ζろか御 くり、伊豆白浜の民宿﹁いそしぎ﹂︵東リ演
の三役会議の常宿だそうで、黒さんが欠かさ
みながら、例の談論風発とどまるを知らずで、 ず飲んでいた煎薬﹁サルノコシカケ﹂も、乙
持参のショlチュウをうまそうにスイスイ飲
た
。
同じ頃に出発して同じ方向K向って別な歩み
j
、
‘
’
’
︵劇団静芸︶
島真木
黒沢さんに初めてお逢いしたのは
とりかえしのつかぬものだと思う。もし、あ
の一瞬がなかったら、私の中には、重苦しい
梅津幸三
芝居で返したい
た私は、独自な方法意識を強固に持 って歩い あの時の黒沢さんの笑顔をとり出して締めく
て来られた芳地氏の意識に触れた乙とによ っ / \ ス。
w
黒沢さんを偲ぶとき、私は思い出の中から、
したのだが、その頃から大きく踏み迷い初め
介氏をゲスト K迎えた創作部会花、私も参加 とりかえせぬ想いが澱んだ乙とだろう。
素朴な暖かい仲間同士山の支え合い、民主
H
全体会で、私は部会報告者として、﹁東リ
て、強烈な衝撃を受けた。
演育ちで、必要に迫られて書き初め、あまり
家というイメージと結びつけかねて、じっと
一九八二年六月九日、黒さんと最后の別れ
︵劇団やまなみ︶
ぶり、後手後手にしか対応出来ない苦しい試 家の参加を得て、夫々の作家の備につながる
行錯誤の時期が続いた。
あの夜の黒さんは多勢の仲間K固まれて、
白
え、酒のためだけではなく頬を紅潮させて H
沢さんの眼をのぞき乙んだ。それは、私に向 浪 u の弁天小僧を語り、歌い、仲間たちへの
われた。思いがけない ζとだった。私は、黒
ぐっときたよ﹂と照れたように笑いながら云 病躯にむちうって一つの大きな仕事をやり終
って乙られて、﹁今日の真木さんの報告は、
その頃から、かつての静芸を評価してくれ 感想を述べたのだが、黒沢さんがわざわぎ寄
た黒沢さんの無言の視線を、私は重く感じる
ようKなった。
黒沢さんの来静の折、幾度か我家に泊って
に思えて、言葉をのみ乙んだまま来てしまっ
るのは、硬質なゆるぎのない創造主体のよう
死というものは、生き残った側Kとって、
る ζとを自覚した一一際だった。
りの中K私も入り乙んでいったものだ 。
一瞬とまどいを感じながらも、その熱い高ま
い黒さんの、乙れまでにないはしゃぎように
のだが、引き出されなければうまく話せない ってやわらかく努かれていた。黒沢さんの生 熱い想いを述べた。人には暖かく自らに厳し
私の無器用さもあったが、黒沢さんの中Kあ と私の生が交差した、その交差路に立ってい
いただいたとともあり、話合う機会もあった
の出版祝賀会を想った。
をした夜、 ζの同じ場所での﹁我が演劇遍路﹂
出来れば黒沢さんをはじめ、東リ演育ちの作
とによって、逆に照し返された想いがする。
ζ
で歩いて乙られた芳地さんの意識K触れる
一つの創造的成果は、その裏K同時に負の
見詰めていた記憶が師団っている。
ような顔立ちの黒沢さんを、労働者を描く作 効率的でない道を歩いてきた自分自身の姿が、
いるみんなの後から、映画に登場する公家の
迷いと作者にほめられた心地よさで上気して
的な劇団運営 H等を最大級にほめられて、戸
た
。
出逢いの時でもあり、また群衆の一人として
一九七二年二月の第二回演劇大学の芳地隆
路
舞台にのった、十八才の私の初舞台でもあっ
五年静芸が﹁煤煙の下から﹂を上演した時だ
った。それは、静芸と黒沢さんとの初めての
差
問題の中で確かめてみたかったと思う﹂旨の
要因をもひそめている。私達も時代の波をか
五
九
交
-1
8
一1
9
大
あれから一年半、乙の夜の黒さんの顔は美
つ
、
ー
I
J
最近数年は東リ演には御無沙汰していて、
のものに笑う。
一九六七年春、やまなみは東リ演に加盟し
自身の道の開け江いままに、深い話が仲々出
同年代の私には私なりK分りもし乍ら、自分
誰でもが誓くであろうが、黒さんは演劇一
来なくなって了っていた。
ってのととだっ た。最初のふれあいは一九六
あった黒さんを心から悔むと同時に私の何処
筋に生き、死んだ。未だ力もあり必要な人で
かで、立派な生き方をし、生き尽してくれた
四年の一一月、﹁島﹂の舞台に、黒さんを先
時からだ。その時の寄せ書きのダルマは今も
一時、黒さんが書けなくなったと云い、京
と安堵に近い気持が動く。
のを見乍ら、黒さんは、演出も演技も出来る
浜協同劇団の仕事から少しづっ遠のいて行く
と、また一人で||。そしてそれは私たちの
書き出そうとすると、黒さんの顔が、いく
κ
明るさは、同時に、絶体K後へひかない強さ
中例のような感もあったのですが、黒さんの
日本の働く者の文化が当面している困難の集
東リ演の運動も、黒沢さん自身の創造も、
ていねいに、明るく、まじめでした。
たびたびの出会いでの黒沢さんは、いつも
て行きたい、いつもそんな思いでした。
々の後について、私なりに出来る仕事を果し
始めて黒さんが道演集 行った時の話にな
って了う。
など話合った。話は自然に黒さんの乙とにな
動物園の一隅で久々に演劇の乙と生活の乙と
た。緑一パイの中に心地よい涼風の渡る旭川
劇団やまなみの管野さんに久娠りにお会いし
先日、北海道に行く機会があって、旭川の
い乍ら肯んじなかった。
と考えもし云いもしたが、黒さんは穏かに笑
のだから、その方向で劇団K密着して欲しい
やまなみが狭い枠から抜け出して広い視野
での活動に眼をひらいていったのも黒さんに
代表される東リ演の仲間たちとの交流の場が
あったからである。そして黒さんのとの足蹟
が全国K及んでいる乙とを考えると、何と凄
黒さんが病を得てから、運営委員会で議長
つも浮んでは消え、﹁あんまり難しい ζと書
い人、だろうと思わずにはいられない。
かないでいいんですよ。﹂と例の顔が平和そ
H
︵名古屋演劇集団︶
丸子礼ニ
黒さんの明るさ
を誰かに譲りたいと云ったとき、﹁東リ演の
った︵もう十数年前だっ たか︶ 。管野さんは
云う。自分達の周りにも黒さんの世代の指導
者が何人かいたけれど、何時も話は﹁教えて
やる﹂乙とばかりだったのに、黒さんは全く
違っていた。一緒に考え一緒に話合い上から
教える姿勢が少しもなかった。私達には驚き
黒さんのイメージ
それは、久し振りの会合で、集合場所での
であり、未来につねに希望をもちつ。つけるl
私のなかにある
たいていは重そうなバッグを提げている。
﹁ゃあ/﹂といってニッコリ笑う姿でした。
であった。みんなと同じ立場に立って語り考
う。道演集の大勢K熱い共感と共に勇気を与
今でも私は、内に鋭さをひめた、ニッコリ
えていった。私達はそれ迄、黒さんの様な素
会議がはじまると、その中からは、資料や本
二十年前のことなど
さん、ハギさん、乙ばやしさんといった、運
同じ劇団から私がひきついだのですが、クロ
育というととで、私は一年間、川崎陀在住し
ほぼ二十年前、勤務先である東芝の社内教
︵劇団名芸︶
木英
章
少しでも働いてい乙うと思っています。
と笑う黒さんの顔を忘れずに、運動のために
や細かな、ていねいな書き方でびっしりと思
まっているノ lトが出て来るのです。
今、全リ演となりましたが、その前の東リ
演時代、年に、五、六回、いやもっとあった
運営委員会、三役会議、ゼミ、演劇大学等
かもしれない、本当に会議はよくありました。
ともあります。
と:::償浜の御宅にも一回だけうかがったと
々、京都で、岐阜で、浜松で、大宮で、等々
もっと、もっと黒さんと深い話合いがした
居を作りますよ。﹂と。
た。当時、﹁テア卜ロ﹂等でしか知らなか っ
云いたいけれど、黒さんは笑い乍ら云うだろ
東リ演の副議長は、五年ほど前、名古屋演
う、﹁これからも亡者や鬼たちと一緒に、芝 集の若尾正也が、老齢、過労で引退したあと、
た貴方K、どうか安らかにおやすみ下さいと
黒さん、さようなら。本来なら、戦いぬい
く ζと等々。
かった、芝居の乙と、時代の ζと、生きて行
ではない本当の教育者だったのだろう。
思いやりの深さに包まれて、﹁上からの教師﹂
であり教育者だった。黒さん独特のやさしさ、
そう、黒さんは芸術家であると共に組織者
晴しい先輩を知らなかった、と。
個人的でなく、人々全体として|そういう明
るさでした。
えてくれる乙とが黒さんの教育だったんだろ
H
。
議長は死ぬまで辞めさせる訳にはいかぬ﹂と
集
団也
東リ演加盟后も変る乙とがなかった。
や大橋さんを伴って、或いは京浜の仲間たち
山梨K足を運んでくれた乙とだろう。萩さん
私たちの手許にある。それ以来黒さんは何度
頭に京浜の仲間が大挙して駆けつけてくれた
京浜の仲間たちの粘りづよい働らきかけがあ
た。然しそれは、その数年前からの黒さんや
黒さんにはむしろ文団連全国交流会でお会い
劇正 な
屋
i
寅
-2
0
しかった。最后の瞬間まで芝居に生きとおし
古尾 よ
、
する乙とが多かったが、いろいろの立場を、
石若 ぎ
たその凄絶さを内に秘めた美しい寝顔であっ
さ
た
。
ん
動の中心を一身K引き受けて奮闘して来た人
栗
-2
1
黒
沢
﹃歌声は北の空K ﹄のとき、役者として出さもあった。
舞台を淡々と批評されたり、それからあれはの街川崎は、私の第二の故郷であり、青春で
せてもらったのだが、悲しい知らせ K、 一 同 帰 名 し て 数 年 後 、 東 リ 演 中 部 ブ ロ ッ ク で 黒
た黒沢さんと京浜協同劇団を、ためらいつつ
やっと訪ねた。幼稚園の一室では、丁度黒さ
金もなく、栄養不足気味だった私と、国鉄黒さんにその乙とを書き添えて、拙作をお
れ な い 乙 と と し て 、 い つ も あ る 。 杏 が 泣 い て る ﹄ と い う 作 品Kまとめた。
しくれとして舞台に立っとき、それは忘れらに鉛のごとく残っており、やっと昨秋、﹃銀
さんだった︶をほめられた。以来、役者のはぽつり言われた。その言葉が、ずっと私の心
えるたたずまいをしていた女優︵たしか根倉きたら、まず天皇を刺し殺したい位だ﹂と、
して中味がない﹂と指摘して、一人じっと耐の話陀触れ.﹁今、透明人聞になる乙とがで
鷲き悲しむシ l ンを観ていた黒さんが、﹁み沢さんをお呼びし、講演していただいた乙と
んな同じように驚く演技をみせようとばかりがある。事後、若手との懇談会のとき、戦争
んの作品﹁俺たちの夜﹄のけい乙中で、演出
︵郡山氏︶の注文に、後姿で漁師の演技を何
度も繰返してみえたのが、黒沢さん自身であ
った。ダメに対しても、けい乙後の私の拙な
い自己紹介にも、ウンウンとうな“すいて、柔
その帰りの夜だったろうか、京浜のみんな
和な視線を外さない黒さんに圧倒された。
と駅前の居酒屋へ足を運んだ。﹁ビールノ﹂
びっくりして帰ったエピソード、痔を患って
税務署が差し押えにきて、なんにもないので黒さん・・・おやじさん・・:さようなら。
軍隊で盲腸をがまんしていてぶつ倒れた話や、一つ生み出せなかった乙とが、悲しく、辛い。
った。一疾もろくて泣きそうな私は、黒さんは感動してもらえるような作品も、演技も、何
て、白からつくられた水炊きを馳走して下さまれたかどうか知らない。結局、黒沢さんに
つてのけた面々は、それが毎夜の習性のよう 労働者の劇団員井上氏を、ある夜自宅に招い贈りしたが、すでに病状が悪化していて、読
を注文した私に、﹁ブルジョアだなあ﹂と言
に、どぶろくと焼酎を痛飲して語り合った。
あっけにとられたような私に、黒さんは焼酎
をチピチビやりながら、私の所属する﹁でく
のぼうの会﹂︵現名芸︶の状態を細かく聞か
れて、﹁そういう自虐的な名前はいつか変え
日
師
!郎 匠
ので、死ぬ思いでずぼんを脱いだ想い出話な
’
フ
病院へ行ったら、看護婦さんが劇団員だった
森 て
以後、京浜へ気ままに参加させてもらった
と
た方がいいなあ﹂と笑いながら言われた。
幼ない時、父と死に別れた私にとって、そ
四賢 ぬ
団
どを次々と楽しくしてくれた。
の記憶といえば、不思議と自営の製粉業で朝
ム
寺
あの柔和な黒さんの顔を見る乙とはもう出来
ップをくみかわしたあの黒さんはもういない、
くる、十年ちかく会場で顔を合せ、一緒にコ
今年もまた東会議のゼミナールが近づいて
ったからだと思っている。
今でもそんな黒さんの励まし、陰の支えがあ
私が﹁小さな釈のある物語﹂を書けたのは、
を私のため開けていただけたのだ。
をつくり、あの人に、乙の人にと多忙な一日
たが、実に手まわしょく取材関係者のリスト
前もって上京の内容はお知らせしてはあ っ
た
。
口調 、私はあっという聞に包まれてしまっ
κ
と云う黒さん独特のあの柔かい人当りのよい
﹁島さんですね、お待ちしていました。﹂
問した ζとがある。
のため上京し、おそるおそる黒さんの宅を訪
れた、その時わたしもそれに作品をと、取材
かけに、七O演劇行動が東西リ演で取り組ま
し全国の演劇集団も意志表示しようとの呼び
今から十数年前になるか、七O年安保に対
さんではなく、黒沢先生だった。
変えらい人で雲の上の上の人、いわんやクロ
それ以前の黒さん K対する私の認識は、大
議︶を担当するようになってからであった。
名古屋の演集での演劇経験は全く未熟だし
(
宏
、
オ
も
f
尋
り
康
わけだが、その時々の黒さんの表情や言葉が、
から夜中まで働き続けたおやじの背中である
柔
和
な
、
人
つ
っ
乙
い
笑
顔
は
う
ち
の
女
性
障
今、鮮やかによみがえる。
あるときは、小道具の台秤を団氏と作って
。
た
し
で
て
も
大
に
いたら、﹁そんな目盛まで書いて、ムダな乙
一
って父のそれであったような気がする。煤煙
を
情
表
な
和
柔
の
あ
、
が
調
語
い
し
び
き
@
る
れ
薄
が、初対面のときの黒さんの背中は、私Kと
話
の
ん
さ
沢
黒
、
は
私
て
し
正
を
襟
り
入
き
聞
K
とするなあ﹂とあきれられたり、当時川崎へ
。
た
し
ま
血気盛んに乗り込んできた山口はぐるま座の
その前の国鉄演劇部では名代の大板役者だっ
たし、四日市で劇団結成の呼びかけ人になっ
た私であるが、ゆめ、演出や劇団代表などっ
ぐ源 ぃ
それが否応なく劇団活動の中心に位置し、
つ
の
分
自
、
れ
あ
が
白
事
る
な
何
如
。
と
乙
う
い
ロ
とめられないと思っていました。
力な勉強不足な自分にはがゆい思いをしまし
指導の全責任を背負う立場Kなると、全く非
てきたのは、一九六七年と患ったが、東京郊
た。本当に演劇人としてやれそうな気持がし
外の御岳山頂での、﹁東リ演ゼミナール﹂へ
始めて参加したときでした c
た
れ
さ
待
期
、
の
と
乙
ら
え
教
だ
ま
黒
さ
ん
私が黒さんと親しく話しをする機会を得た
乙
と
へ
の
お
返
し
は
出
来
得
て
な
い
が
、
何
のは、私が東リ演事務局の事務局員︵現東会
も
、
私
は
不
退
転
で
よ
り
秀
れ
た
運
動
を
と
-2
2
- 2
3
全国の仲間の貴重な体験が、状況分析への
対応、演劇各分野への取組みについてなど、
干天に慈雨の知く私はたくさんのととを教わ
り、爾来、東リ演そして全リ演の仲間との連
帯の中で、ひとつひとつ演劇人としての自信
黒沢議長との出会いは、そういう私にとっ
をわずかづっ貯えるととができました。
て始めての、演劇界の先生でした。特陀師匠
そが、唯一の師匠でした。
というべき先輩を持たない私には黒沢さん ζ
演劇講習会の講師で、﹁陽気なハンス﹂の
移動公演の観劇で二回、四日市に足を止めて
︶↑∼。
と
乙
る
す
動
活
劇
演
で
他
て
し
棄
放
を
団
た
っ
く
~』
団
は
の
四
日
市
で
蓄
積
せ
ね
ば
と
、
あ
葬
儀
目
霊
頂きましたが実K数多くのととを教えて頂き
士
ふl
集
団
民
主
義
の
確
立
乙
そ
が
、
活
動
源
泉
だ
る
ま=
)
が
義
意
在
存
の
動
活
演
リ
東
、
は
と
乙
る
す
認
容
を
出
リ
摩
。
う
ま
し
て
え
変
瞬
一
の
と
島
。
た
し
ま
い
誓
て
め
乙
を
心
に
前
ぼくらの首領にふさわしい荘重で人間の暖
が洋
言
に
よ
る
と
い
う
。
乙
ば
や
し
さ
ん
は
、
全
リ
演
の
ま
思
え
る
し
、
読
経
そ
の
も
朗
々
と
て
心
乙
ミ比
ん
と
然
当
ら
か
だ
り
ひ
の
友
朋
い
し
親
も
最
、
あ
︵劇団京芸︶
﹁生活者の演劇﹂
| 残された疑問符
藤沢
薫
東リ演の議長としてその存在は早くから知
務
局
長
で
あ
り
、
作
家
と
し
て
良
き
ラ
イ
バ
ル
色子事
去る六月十目、黒沢さんの葬送に参列した。
かさが惨みだす、別離のセレモニーも終り、
いよいよ出棺。しかし霊枢車らしきものはな
い。亡骸が乗ったのは、極く普通にみえるラ
イトバンであった。火葬場への葬送パスの中
κ
ム
手
いる乙とが幸せな思いとして焼きつきました。る八日前である。病室のベッドは空なので廊
ん、うん、うん﹂と大きくうなづきながら間しばらくして、点滴の管を体K つけたま 3
Kあらわれた黒沢さんは、いき
いて居られた。スタンドを杖
切って、 5月引日、 6月 l日の上演に漕ぎつ
けましたが、演出としても、集団のリーダー
その時の幸せそうな顔が今も鮮やかに浮んなり﹁誰が置いていったのか、 ζの金魚はね、
さんは、一四OO名の観客と舞台が共鳴し合
公演当日、劇場の再後部で観ておられた黒
ません。の惟検印した笑顔陀接した時、言葉を失いあや
言葉ではげまし続けていただいた乙とを忘れ戯っ子みたいな顔をしてね﹂と云われた。そ
けていて、遠い川崎から暖かく心の ζもったったんですよ。元気に泳いでるでしょう、悪
かり打ちひしがれている時も、いつも心にかの酸素をおくるブクブクをね、買って来て貨
その後も、長い劇団活動の中で困難にぶつんですよ、それで病院の人にお願いして、乙
できます。三目前に底にじっと沈んだま、動かなかった
ぃ、熱気にムンムンする場内から何度もそっ
ると、ロビ lで一夜をぬぐいながら、﹁とれで
忘れないととで、何分かのお返しが出来るうく倒れそうになる自分をやっと支えた。黒
いいんですね、乙れでいいんですね、乙の作 仕 事 を や り 続 け た い と 思 っ て い ま す 。 沢 さ ん の 優 し さ を 全 身 で 受 け と め な が ら 、 命
と抜け出された、私も気になって、ついて出
唆を送り返して下さいました。
送った時、暖かく丁寧な言葉ではげましと示
としても力足らず、その苦しさ、鳴きを書き
に入りました。初名の集団が 名を越える登 て語り合いましたが、舞台の成功に感動と興が張られており、その前に置かれた金魚鉢に
場人物の舞台に取り組む、それ乙そ大阪中の 奮をした若い劇団員達が、次々に話す取組の金魚がいた 0・もう十数年前になる﹁金魚修羅
働ぐ人々に参加を呼びかけ、知恵と力を出し 過程を黒さんは、ほとんど泣き笑いで、﹁う記﹂の上演を思い出していた。
ω
た
。
その夜の打上げ会は劇団員の家で行い、六下で待った。正面の墜に﹁ほおずきの会﹂の
その感動を胸K大阪で上演するための準備 帖2聞に初名位、仲間が詰めかけ、夜を徹し公演﹁サチの暦﹂の短冊型の小さなポスター
ろの歌﹂を川崎労働会館にまで鏡花ゆきまし
の ζとは解らず、ただとの作品を上演したく 未熟な私達の力いっぱいの仕事が、乙の労働
て、劇団員2名と共に、再演された﹁おふく 者演劇の大先輩にしっかりと受けとめられて五月三十日病院を見舞った。思えば亡くな
胸中を計り知る乙とは出来ませんでしたが、
ま置いて場内に戻ったが、その時の黒さんの
ざいまじた﹂とだけ云って、黒さんをそのま
度もおっしゃっていた。私も﹁ありがとうご
っていましたが、直接その人となり 触れた 品は乙んな風にして上演さるべきなんですゐ﹂
のは、私たちの劇団︵当時は南大阪演劇研究 と自分に云い聞かせるような小さな声で、何
会︶が黒さんの代表作﹁おふくろの歌﹂を上
演した一九六八年です。
その頃の京浜協同劇団は内部に複雑な問題
自松 せ
も
っ
た
の
で
あ
。
だ
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宗
教
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り
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来文
を抱えて苦悩していた時期ですが、私にはそ
は
忘
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乙
な
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と
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矛
盾
で
い
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。
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と盾
りに
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黒
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OO頁を超える﹁遍路﹂を
い。
生圃
活者
と病
いう
葉手
の響
中け て い た 頃 、 癌 の
ζの
の 脆 さ を 呪 っ た 。 乙 れ が 最 后 と な っま
た
。病
院﹁
耳
鼻﹂
科
棟言
で
術き
をのう
K、
造と
者の
照ら
され
いが
その時いたずいた脚本﹁サチの暦﹂
の創
あ
大根
手を術
をし
さ出れ
てた
い思た
わす
けるだ 。
る。
を職
とぐ
する
れわれにとっ
書きに、﹁ほおずきの会﹂の活動との
生で
活あ者
の演
そ劇し
て業
す
又わ
五
く乙
乙筆
とが
題で
るま
か業
。に よ っ て 、 身 心 の 生 命
演劇論が、京都北野の念仏寺にあるて
五恐
百ら羅
漢の
執
す課る
。は
﹁あ書
くい
作
になぞらえて書かれている。をとりもどすことが出来た﹂と。
点滴だけで命をつないだ五ヶ月、病 院 の 中 全 リ 演 へ の 発 展 的 合 流 を 目 ざ す 西 リ 演 の 最
で脚本を売り宣伝をやり、看護婦に付き添わ後の総会が昨年和歌山で関かれ、久々にお会
れて二度も繕古を観に行き、はじめての成果いした。私はあい変らずプラプラしていた。
原﹂省
暦﹂の終演の幕と共に人生の幕も閉じられた。て下さい
と文言われた。それが私がきいた
いこ
︶
黒沢さんが、まさに命をかけて求め続けた黒さんの遺︵
言劇
だ団っ
たら。
を問う﹁ほおずきの会﹂第一回公演﹁サチのじっと手を握って﹁早く直して、芝居書い
Cl
のできない要索として見つめてゆきたいと、い。それが三年ほど続いていた。そして神経
が﹁生活者の演劇﹂を提唱した。﹁生活者﹂だが、その前年黒さんは胃潰場で吐血して
いま改めて思う。労働者の街川崎で﹁労働者の失調からくる激しい舷畳で倒れて以来五年
演劇﹂の理想をか、げて歩んできた黒沢さんになる。昭和五十二年の元旦に発病であった。
記を﹁演劇会議﹂で読まれた黒沢さんは﹁乙
男の子じゃ、どうしたら。
れは駄目なのよ。
男の子絶対に、かい。
にも初心者の清新に比してうすよごれて見え
だけではない筈で、そとでのあがきが、どう
です。でも劇団という創造主体となるとそれ
子どもたちのしあわせのために働くひと K Kもそのような日常へのひろがりが可能な筈
を閉じて、償たわってからでないとね。
オレも聞いてみたい。が、それもちゃんと眼
いた。乙ばやし・ひろし氏の読経なるものは
森本景文氏から葬儀の詳しいレポートを頂
劇団月曜会 ︶
︵
清
女 の 子 知 ら な い わO i−−どうしたって、そ
女の子︵背く︶ええ。
じみいわれ、その事を伝えると彼女は﹁叩年
の苦しみはそれでむくわれたわ﹂といって涙
そうです、黒沢さん、音楽には誰でもふと
屋
んな貴重な人と是非話がしたいねえ﹂としみ
教室
Km年間つくして来た四紀会の女性の手
劇教室をやって来ました。
ω周年の時、その
は労働者あるいは働く者というととではあるいる。そして五十三年の秋に、丁度私が京大
﹁とろいめらい﹂の
会話から
岸本敏朗
︵劇団四紀会︶
ぐんだ。その彼女も今は劇団を去って、教室
はお期生を迎えた。
全リ演結成へのアピール文検討会の席で、
学者になってね。もしなれなかったら、無
女の子・::乙の街の空気をきれいにする科
理に科学者じゃなくてもいいわ、あたしじ
越K乙ばやしさんとやりあった。技術を乙え
るものへの理解を珍しく語気荒く訴えられた
黒沢さんは技術主義という事でいつになく激
男の子およめさんなんて、もらうもんか。
黒沢さんを、論点としてはとばやしさんに近
ゃない、およめさんをもらって、それから
女の子莫迦みたい、おとなになりや誰だっ
い僕も、文字通り生命をかけた執念にふれた
赤ちゃんが生れて:
て皆もらうわ、そして皆、およめさんと赤
のよ。:::科学者じゃなくてもいいけど、
ちゃんのしあわせしか考えなくなっちゃう 思いで、息をのんで見守った。
るといわれればどうすれば良いのか。僕達の
な ってね。
芝居は誰でも出来る、出来ないでもせめて
ャンとする人だから、わりと素直にみんなの
あの人は、意外とチャンとすべき所ではチ
顔をして聞いたかどうかはわからぬが。
その点クロさんはうらやましい。まじめな
見て下さいとでも言いなおせそうな﹁とろい
芝居は誰でも出来る
ll僕もそう信じて演
再び﹁トロイメライ﹂の一節です。ーーー
に黒沢さんともっともっと話がしたかった。
題
もがきは正にそ乙にあったのです。そのため
歌を口ずさむ日常の土壌があるように、演劇
黙
土
めらい﹂のクライマックスです。僕の大好き
およめさんや赤ちゃんと一緒に、乙の街の
女の子そうしたって、生きかえれやしない
ゎ、あたし。
が、自身の生き方と深くか、わる ζと を 思 う が 、 随 分 は が ゆ い 乙 と だ っ た ろ う 。 る 。 ﹁ 遺 雪 己 は 果 さ ね ば な ら な い と 思 っ て い
時、黒沢さんの求めた演劇の姿を欠かす ζと ど う し て も 、 ど う あ が い て も 作 品 が 書 け な る 。
想像できない強さがあった。われわれの創造ル操業の黒さんには、若僧の無責任な悠長さ言をむしかえし、くりかえし、噛みしめてい
その語気には、おだやかな日常からはとても病後だというのに足も手も口も、全生命をフな魅力を持った人だった。私は黒沢参吉の追
れた芝居の技術主義を憎悪を乙めて批判した。と叱られた。直接のおつき合いは短かかったが、不思議
かっている。乙、数年、黒沢さんは、上演さ返し﹁お前乙そ、早く病気直して芝居書け/﹂などの作品と共K私を演劇に近づけてくれた。
かったが、根幹のと乙ろでずっと重くのしか居を書いて下さい﹂と手紙出した。すると折アトロ﹂の頃、黒沢参吉の名が﹁光江帰る﹂
黒沢さんの主張する論の全てに向調は出来な﹁黒沢さん。自叙伝なんか書かないで、芝のも黒沢さんだった。もっと以前、古い﹁テ
演劇論の中身は疑問符のま、袋された。正直私と﹁劇団いとら﹂を西リ演に結びつけた
栗
な戯曲のひとつです。
無
-2
6
-2
7
遺
サ
iの チ
さ
i
寅ぼ 暦
劇
塾
践中であると報告した。のキャストが決ったのが一ヶ月前である。衣
ガン宣告、余命二年、それは﹁演劇遍路﹂裳も百四十人分も有り、二幕十場、三時間の
の著述にかけたのだから残りはもうけものだ、大芝居である。
と﹁生活者の演劇論﹂へのステップをふむ。黒沢は、どんな花が咲くかは皆んなが決め
夜を徹した分散会での論議も各分野で中心る事だからと言う、その咲く花を見たいとも
食が極めて細くなっている、物を食うと、死の宣告日はすでに数ヶ月も前に通過して
となった、草の根の文化論である。言う。
けの精彩があるだけだ。もする、公演の数日前から高熱が続く。
グl、と音をたてる黒沢の体からは、気力だいる。舞台げい古花、点滴をつるしての怠加
広島鳥取|徳井と、黒沢を見ていると死公演の翌日、感動を胸にした劇づくりの仲
の行進である。間からの報告を聞きながら、ビデオによる舞
まもなくして再入院である。演劇論の異端台を前 Kしてなみだする黒沢がいる。
児と自負している黒沢には、乙の中盤ほど、その夜である。同業者の芝居づくりの基準
つらい事はなかったはずである、乙れからのでは、およそ点数のつけられない舞台である、
都市と片田舎の差はあっても、同じ大道を進と言っていた矢先であった。平常の仕事に入
私たちは、観劇から打上げ会を通して、大六月に入って﹁黒沢さんに会って来ようかな﹂
ます。う会えると思うなよ﹂と言われて帰ってきた。
りました。カーテン ・コールでの、舞台と観六月八日朝、ふとんの中で黒沢さん逝く、
客の一体と江った興奮が、雄弁に物語っていの報を受けた。一月にお見舞いに行き、﹁も
乙の劇づくりの仲間花入れてもらった。全部
私は、自分遠の演劇塾の公演が終ってから
先であったのだから。
本が出来た、立げい古にも入った、その矢
いだしたと乙ろなのだ。
をやりたいと、小学生からお年老までが、通ロさんは。
集まって、戸塚の芝居を書いて、戸塚の芝居どえらい仕事を筏してくれちまったよ、ク
六十人近くの人達が、乙の指とまれ方式にどうしだったと恩われてならない。
﹁生活者の演劇論﹂ Kはなくてはならない土公演の会場をうめつくした人々も又それであ
全国文団連の広島集会が去年の十月花開か
れた、川崎文化会議から黒沢の原稿の代読者 壌であり、種子をまきつけたばかりであったる、草の根の文化の足がかりといえるだろう
のだから。か、私はとても心強くあり、新しい発見のし
もいいのかと聞くと、黒沢は一喝、﹁そんな
事を言っていると、団、お前は年老りになっ
てしまうぞ﹂と言われる。
原稿二十数枚での黒沢の言い分は、観る側
からの演劇論の展開であった。芝居は誰にで
る。それが福井にもあったし、今、戸塚で﹁ほ
も出来るという、なりふりかまわずの話であ
おずきの会﹂なる文化の会を、中心となり実
﹁戸塚方式﹂は
成功したのに
田島伸浩
︵福井 ・劇を つくる会︶
む仲間としての鮮を深める乙とができました。るが仕事にならない、逃がれるように戸塚の
卒直で誠実な黒沢さんは 、 ﹁福井方式﹂に山に行く乙とにする。
黒沢さん、哀しいです。学んだと述べていましたが、ほおずきの会の黒沢さんからいただいた黄色い封筒の東を
一戸塚の郷土の劇づくりが大きな一歩を踏み活動は、はばかる乙となく﹁戸塚方式﹂と呼持って電車に乗る。
六月六日御見舞にうかがってから、たったていますが、﹁戸塚方式﹂のいくつかをとり憶をたぐり寄せようとするのだが、頭は一点
だし、私たち福井の郷土劇ィつくり運動と、共ぶのが正当でしょう。三年半前、手術を受けて二ヶ月後のお正月、
にはげみ合おうとする矢先に逝かれるとはl。私たちはいま、三年目の劇づくりにかかっ初めて戸塚のお宅にお邪魔した。その時の記
二 日 で 届 い た 卦 報 花 言 葉 も あ り ま せ ん 。 い れ て い ま す 。 詳 し く 述 べ る 余 裕 は あ り ま せ に 凝 固 し たまま動かない。
あの時、﹁サチの暦﹂公演成功を祝す私たんが、黒沢さんの遺志を箔井の地に生かす乙封筒の、あとさきかまわず開いて読み出す。
ち一人ひとりに、病苦をおして差しのべられとが、何よりの手向けかと考えています。私は黒沢さんを﹁私のかけ乙み寺﹂とよく一言
1
解沢寺
さ」
事をしっかりと見聞させていただきました。ら﹁序論﹂を先に書き進めたいと書きよ乙し
聞は、黒沢さんの長い演劇遍路の最後のお仕い出の地である塩原︵温泉︶
ん
、
ほ子
﹁サチの暦﹂公演活動は 、御持論の H
演劇は︵是非塩原にお連れしようと栃木の友人と話
誰でもやれる μと の 真 髄 を 、 見 事 に 示 し て お し て い た の だ が | ︶ そ ん な 折 、 乙 の 手 紙 を も
ん
K、療養しなが
Kしていた。
た手には、まだ充分な力強さが銭っていまし知過を得たととを感謝し、併せて御冥福をっていた。劇研さっぱの八年間の劇団生活の
たのにl。 掌 の 温 く も り を 想 い 出 す に つ け 、 祈 り ま す 。 後 半 、 私 は し き り に 日 常 の こ ま ご ま し た 乙 と
i 木黒~
れした乙とが、いまとなっては口惜しい限りき、長々しい拙い手紙
要鈴完勺
です。黄色い封筒はその返信であり、彼の演劇論
e
黒沢さん。私たち福井の郷土劇 つ
くりの仲のメモがわりでもあった。彼の劇作苦闘の思
だ
五
:
-2
8
」
)る
の
崎
ー可
団
ん
と
として行かないかと言われた、私の様な者で
口
私たちの共感の熱い想いを伝えられずにお別や、さっぱ論を心情的に書き、訴え、時に泣
の
私
-2
9
ク
がら、そ乙乙乙に咲く、ほたるぶくろの優し
ざくのじつ Kおいしかった乙と、思い出しな
︵奥様と裏の畑でつくったものとか︶のたん
えば私の方が貧乏だったが、私は何とかして
違いではない、態度である。貧乏の点から云
り出ているからだ。乙とわっておくが生活の
れなかった生活態度の達いが、乙乙 Kはっき
う一辺読みたくなるだろうと書いてもいる。
﹁さっぱをやめる﹂﹁続ける﹂とくり返し
く黄味を帯びた白が、悲しい色あいに染まる
演劇で食おうと焦っていた乙ろだと思う、ど
κ
てきた私にあきれかえる乙ともなく、﹁あな
たのどんな役 立つのだろう﹂と言いながら
だ。劇作の上では時間的に私の方が先箪でも、
にデンと腰をすえ、私はとどのつまり余技で
うしてもクロさんと同じ道を歩けなかったの
語りかけ続けて下さった。数年にわたる手紙 のを見やりながら、私は黒沢さんの最期のお
を読み進める内に、私は見守られている安心 顔に対面した。
κ
感 ひたっていた自分を発見したのだった。
落ち乙んだと乙ろは同じで、クロさんはそと
結構だと戦場を放棄した乙とになる。彼はあ
くまで外に向い、私は内に閉じ乙もったのだ。
﹁演劇遍路﹂を読むとそれが始めからきまっ
ていたようなもので、一緒にやっていた乙ろ
﹁神谷さん。あんたはね。金をいっぱい儲
︵劇作家︶
谷量平
腹で思い出す
﹁さっぱ﹂をやめ、新しい仕事に没頭しな
がら一幕物を一つ、人形劇をいくつか創った。
一幕物の夜、﹁演劇遍路﹂をもって来て下さ
った。東リ演や劇団の仲間と共に黒沢さんと
の栃木、それが語り明かした最後の夜ではあ
けてね。とう腹をでっかく脹らませて生き 眼からウロコが落ちるような気がした@
いた乙とも、やはり同書の別な部分で、今ご
治路線のととだ。だからいつも誤解が生じて
エ
3
0
幾晩語り明かしただろう。一年半前の十二月
でも数年後には必ず、今はそれに向つての過
の裏面ではない。私の知ろうとしなかった政
裏面というのは云うまでもなくクロさん伺人
いていた K過ぎなかったのだと、あらためて
でも私の知らない裏面があって 、ただ私は書
程の時です﹂と私は言った。もう言い訳でき
なさいよ。乙う出っぱらかしてさ・:﹂
った。﹁もうしばらく芝居はつくれません、
る黒沢さんはいない。約束に江ってしまった
いつの乙とか、私はクロさんのように記録
をとっておかないからわからないが、何かの
ろになってわかったりするのである。生前一
ζの
ととが苦しい。
便築の中からはらりと落ちた紙片、初めて
ぶん以前の乙とだ。前後関係も忘れたから私
いに返事は貰えなかった。野暮を云うなと云
周で平間の家へ訪ねた時の乙と、だから‘ずい
って、狸のように腹をっき出して、脱みつけ
の方にも悪い点があったのだろうが、少し酔 度私はその乙とについて手紙を書いたが、つ
道すじの地図、たぐりょせようとしていっ乙
うに立ち表われなかった黒沢さんのお宅への
う乙とか、と私もそれっきりにした。しかし
戸塚に行く折、書き送って下さったお宅への
道すじ、三年半前書いて下さった地図に導か
ている理由はクロさんと私の、つい K埋めら 私としてはそれを踏み越さない限り、いよい
られたのをよく覚えている。乙れだけを覚え
あのお正月、テーブルにのった聖護院大根
れて二度目の坂道を登って行った。
よその違いを大きくするばかりだと思うので、乙の度の故黒沢の葬儀は故人所属団体等の公演の成功は自分の考えの正しさの証明、と
っても、畳山口とル l卜は違っても、眼ぎす人の意思どおり小林ひろし氏を煩わしとり行うが、ともした灯をどう発展させるかは後に
ζの機会をかりて、そういう乙とがあったと合同葬儀として行われ、葬儀委員長を若い日人に語り信じて逝った彼はしあわせそのもの
いう ζとを明らかにしておく。生活態度は違より交遊の深かった萩坂桃彦氏に、司祭を故でした。ひとりよがりのそしりもあるでしょ
山頂はいつも同じであったからだ。そ乙に乙うことができました。続く者にかかっているのだよ、とも聞えてき
そ三十余年の変らざる友情があったからだ。全リ演加盟団体から遠路、出席頂き、香典、ます。
君は外に向ってついに男子の本懐とも、演劇弔電、献花等贈られまた大勢の方々の出席に好んだ春の花々と一一緒に旅立った彼にいま
人の模範とも云うべき死をとげた。私もまたより心の乙もった告別式となりました。いちど手のぬくもりを、のおもい断ちがたい
内に向って、そのあるべき形の死を迎えたい。悲しみのなかにも暖かみと安らぎを感じさ日々ですが﹁前を向いて﹂の黒沢の信条に従
その時はじめて二人の違いが埋められ、越えせられた乙とに厚くお礼を申しあげます。い元気をとり戻して行かなければと思ってい
られるだろう。当日寄せられました弔電、弔辞も一五
O通 ま す 。
生前、冒頭に書いたような ζとに触れて君に及び、黒沢の演劇に賭けた情熱が乙だまと生前のど厚情、入院中おみまい、はげまし
は覚えているかいと聞いた乙とがあったが、なって私の胸に響いてくるようでした。乙のをいただき本当にありがとうどざいました。
。
ω
乙とができました。舞台の批評や感想を、ほ
様子は病室のベッドの上でビデオ Kより観る
おずきの会の呼びかけ人のひとり斉田先生に
述べたその夜半K逝ってしまうとはゆめ思わ
戸塚公会堂を超満員にし、最後迄熱心に観
れませんでした。
てくれた人々の感想は黒沢を満足させ、乙の
。
彼は﹁そんな乙とがあったかなあ;;:﹂と頭感激をみなさまKお伝えし乙れからも黒沢の
をかいて、例の微笑で笑った。トボけちゃいおもいが生き続いて行く乙とを願っておりま
けない。おかげさまでウエスト 、貧乏はもす。
y
乙とだろう。古には点滴を下げたまま二回出席し、公演の
ヅ
-3
1
神
とのまま・:・。腹を見るたびに君を思い出す震後の仕事となった﹁サチの麿﹂の舞台繕
本当にありがとう
ございました
−
−
−
,
l
l
黒
黒さんは戦友だ ったのに |
κ
の中 生きている﹁新劇﹂という一つの世界
も、自分から急に遠のきつつあるようにも感
の子不ルギ lが立ち去りつつある徴候ではあ
じられた。それはあるいは、わたしから劇作
るまいかとも考えられたし、今度の病気を境
にそれが決定的なものになるのではないかと
った。胃潰携の診断で結果的には全胃摘出の
いいがたいものであるらしいとは聞いて知っ
もあろう。黒さんの病状が望みあるものとは
昨年の暮、突然入院しなければならなくな 沢参吉氏︶の再入院の噂をきいていたからで
は、わたしの入院とほぼ前後して、黒さん︵黒
しに過してきた自分の、いうなれば多分に行
芸術的観点からも、あまり深く考える乙とな
劇の歴史的観点からも、専門家になるという
新劇の劇作家になるという意味を、日本の新
そうすると、本来が運動体であると乙ろの
も思えて、不安になった。
手術を受けるととになった。生れてはじめて
の自分が、いままでとはちがった客観性をも
的にも怠惰江労働者上りの一人の男、として
い乙んでしまったと乙ろの、芸術的にも理論
それでいつしか専門劇作家になったように思
き当りばったり的な身の処し方をしていて、
けるようにつとめた。
ふと、自らをかえりみて
調とはいえない日常生活が、入院でぷっつり
功率は一 OOパーセントといってもよいそう とにわかっていたのだろうか?との疑念に
で、生命への危険はまっ たく意識しなか った もしばしばさいなまれた。そうしたあまり快
アリズムを口にしながら、リアリズムがほん
っている乙とをたえず意識していた。日頃リ
ったかわりに 、入院を期忙して考えたその反
したならば、﹁演劇会議五θ号﹂に書けなか
をともなった意識でもあった。そして、退院
の自分は、芸術的Kも運動的Kもじつに中途
のだろう?﹂それは、専門的な劇作家として
﹁いったいおれは 、今日までなにをしてきた
って見えはじめてきたような気さえした。
し、手術を特陀怖れていたつもりもないので
と断絶される ζとになった。そして自分がそ
乙のと乙ろ数年、わたしは自分が行きづま
あったが、それでいて、ある暗い漠然とした
に重ね合せる乙とでしみじみと意識していた。
自分が生きているという現実を、黒さんの死く視つめていた。
﹁黒さんは死んだんだ。おれは病から立直
半端なものでしかなかったという、苦い反省
省のようなものを書かせてもらおうと、萩さ
ていた。体力的にも精神的にもかなりまいつまな会葬者の列のうしろの方に、一群れの黒
ていて、自宅療養の身にな ったとはいえ、しい服の奥さん方のあとに、肩をすぽめるよう
へおちいり、退院が延びるという結果になっ場は会葬者で混雑していた。わたしはさまざ
たしは何と答えたか記憶がない。多分なん陀
はじつに深い意味があると思う。その時、わ
がんばって下さい﹂と言われた。 ζの言葉に
てならないのだ。奥さんはわたしに、
ど乙かで奥さんに申しわけないような気がし
言葉がなかった。なぜかわからないが、心の
ばらくは読み書きをする力も出なかった。しにして並んだ。いつもは道具類が積みあげら
も市合える乙とができなかったのではあるまい
﹁どうか大橋さん、と れからは黒沢の分まで
かし、六月にはいると体力的にも精神的にもれていたけい乙場の壁面が、いまはすっかり
わたしは退院してずっと自宅療養の身であ
.刀
ど外出は控えるようにしていた。でも、黒さ
らで、その日の夜半に黒さんが亡くなった乙わたしは ζとあたらしく確認するような気持
とを伝えてきたのだった。﹁来るべきものがでよみかえした。
ではなかっ たはずである。いま考えると、無
んを見舞K行乙うと思えば行けなかったわけ
理をしても見舞にゆくべきであったのだ。そ
しかし、なぜであろうか、わたしはとても
さんとわたしは同い年だった。﹁黒さんは死飾られている黒さんの写真は、ちょっと微 れは黒さんに対してだけでなしに、なにより
ん だ 。 お れ は ま だ 生 き て い る ノ ﹂ 笑 み か け て い る よ う な 感 じ だ っ た 。 い ま に も もわたし自身のためにも。
う少し先まで::﹂という思いが走った。黒そして黒さんは死んでいったのだ﹂と。
とうとう来たのか。それにしても、せめても﹁全リ演が乙うしてひとつにまとまった。
直観的K Yもしゃ、黒さんが−−− Hと思った。の白さが鮮やかにわたしの自に映る。それら った。食べる ζとが面倒だっ たし、外を歩く
不幸な予感は的中していた。電話は萩さんか生花にかけられたそれぞれの劇団の名札を 、 のも一人では心もとなかったりして、ほとん
月九日︶、わたしの家にとっては幾分早い時写真が飾られていた。それを閤んで全国の各
刻K電話のベルが鳴った。その瞬間わたしは地域劇団から送られた生花が並んでいて、花
かなり回復してきたようであるが、ある朝︵六片づけられて、中央に至って簡素に黒さんの
状態陀なり、食事恐怖症ともよぶべきと乙ろとなく面映ゆいような緊張もあった。けい乙
って生きているが﹂またもやわたしはそれを
黒さんが亡くなった/
お通夜の︵夜︶
くり返した。黒さんの死と自分の生を、乙う
c
四月の末にやっと退院する ζと が で き た 。 そ の 夜 、 お 通 夜K京浜協同劇団のけい ζ場 して何度も確認しつ つ
けたのだ。
手術結果は良好であったが、術後の食事療法 に行 った。退院以後人の多く集る場所K顔を
黒さんの奥さんに会ったときは、まったく
の過程で、わたしは意気地江くも神経症的な出すのははじめてといってもいいので、なん
胃の切除についての今日の外科手術は、成
んに申し出たのである。
とができなかった。
原稿を承諾していながら、ついに筆をとる乙
いていささか軽く考えすぎていたわたしは、
そのなかであった。手術後の身体の状況につ
﹁演劇会議五O号﹂の原稿をたのまれたのは
的な急変だった。萩さん︵萩坂桃彦氏︶から だからなるべく黒さんの乙とを考えるのを避
九四五年八月の敗戦以来ともいうべき非日常 く自分のλ院の上にかぶせて愈議していた。
ていたから。わたしはその乙とを、なんとな
不安が心のど乙かにあった。それはひとつ K
宣
の入院生活、それはわたし信人にとって、一
胃に穴があいて
橋
病から回復しつつあるわたしは、思わずもなにか言いようでさえある。わたしばしばら
内
4υ
q
J
V
-3
2
大
乙んな析にふれ、いつも意識をチラと掠めたという乙とになってしまう。黒さんが亡く
かのように陰うつだ ったのに、わ れながらお気は出てきそうもない。結局、わたしは家に
どろいた乙とがある。あって自らの回復を養生しながら、待ってい
見舞にゆく勇気が出なかったのだ。まったく 表情をみて、それがまるで幽界から出て・きたうけつづけている黒さんの顔をみるなんて勇
自分の殻に閉じともってしまっていた。
カラ意気地なしだったわたし
ととろで、わたしの手術は二月のなかばにるのが黒さんのととだった。わたしの根底になるその時がいつくるかを。まさしくそれは
行われた。五時間かかったというから大きいはよたよたしながらも希望が定着していた。薄情といえるだろうし、情ない人間的態度で
うな存在だったのだろう。そして黒さんにと
160 いままで乙の乙とを、
ってわたしとは1
いったいわたしにとって黒さんとはどのよ
黒さんとわたしとは
程意識しなかったつもりだったが、麻酔がさ望﹂が濃いのだ。当時の衰弱した想像力では、対してとった態度なのだ。
部類の手術であろう。危険はまったくというでもわたしの意識に映っている黒さんは﹁絶あったろう。それがわたしが黒さんの震後に
まされ、病院の廊下をストレッチャ lで運ぼそうした絶望状況に生きつ♂つけている黒さん
れているとき、まっさきに意識を掠めたのは、の心の状態を、想像する ζとはとてもできな
﹁生き返っ た/﹂という思いだ った。以後のい乙とだった。できる乙となら黒さんのとと
病院生活でも、﹁生き返った﹂という乙の思はまったく忘れていたかった。そう思いなが
いは、しばしばわたしを訪れ、いつしか心にらいつも心のど ζかで黒さんの乙とを意識し
3
ったようで 、そ乙には父親の深い愛情が働い
民の家庭としては希なくらい芸術的な環境だ
ば、たしかに貧しかったかも知れないが、庶
環境は少し巽るようだ。黒さんの自伝によれ
ぼ閉じと考えていい。しかし少年時代の家庭
わたしは深く考えてみようとはしなかった。
定着していった。ていたようである。
二人は同い年で、暦の上では黒さんはわたし
またわたしは 、乙んどの入院生活で、自分わたしは入院して胃を切除した。その事実
が病気に対していかに精神的に弱い人間であは ||そして考えたくない乙とだが||形の より一 0ヶ月兄貴だ。学歴もおなじ小学校卒
業だけ、軍隊経歴も似たようなものだが、期
るかという乙とを思い知らされたようである。上では三年前の黒さんのたどったコ!スを、
間はわたしの方が長いようだ。生活水準もほ
それらは、家族や、同室の患者や、医師の言わ たしが後からたど っているような暗合をふ
動を通して、銭念な ζとながら客観的に証明くんでいる。わたしはいやおうなしにその乙
されてしまったようである。わたしの乙の精とを考えてしまう。そして、多分黒さんもわ
神的な弱さは、単に個人的な心理的なものだたしが入院した乙とをきいて、わたしの思い
けではなく、わたしという人間の、現在の社の裏返しから生れる別の感慨をもって、わた
会的な||階級的といってもいい||ある状しの乙とを考えている乙とだろう。わたしは
態を反映しているようにも思う。病院にいたそれらの乙とを考えるのがなにか怖ろしかっ ていたと記されてある。わたしは両親を小学
当時のわたしは、あるとき鏡花映った自分のた。とても戸塚まで出かけていって、点滴を 生時代に失い、老いた祖父母に育てられた。
い﹂と考えている明治の下層社会に生きた庶わたしに対する折り目正しい一面を、わたし立演劇をやっていた。当時の東芝の組合運動
祖父母は﹁貧乏人の子供は学問なんかいらなに折り目正しい一面があった。その黒さんのきたわたしは、東芝小向工場で組合運動と白
は育った。だから青年時代はもとより、二人って振舞っていた面がある。それはわたしが注目されていた。組織労働者として日本の民
民で、およそ芸術とは縁の遠い環境でわたしはまるで当然の乙とであるかのように感じとは日本の民間産業のトップをゆくものとして
がはじめて出会った敗戦直後の時点にあっていつしか身につけてしまった倣慢さの故であ主主義革命の先頭K立っているという誇りと
理解しているインテリであったはずである。感じてはいても心の寛い彼はあまり気Kもといた。﹁組織労働者﹂ Kあらずば人にあらず
も、黒さんはわたしよりはるかに芸術をよくると思う。黒さんはそれを感じていたはずだ。共花、かなりのおどり高ぶりをもともなって
しかし黒さんはいささかもいわゆるインテリめずに許していてくれたのだと、わたしは思といった気負いがどとかにあった。その時黒
臭さをわたしに見せた乙とはなかった。あるっている。思いたいのである。さんとはじめて出会った。わたしの前にあら
いはわたしの感受性の鈍さが、黒さんの内に乙んな乙とを書くのは、いつどろからかはわれた黒さんは、なんと、舞台写真屋さんだ
あるそれらを感じとる乙とができなかったのっきりしないが、わたしは黒さんの前で、専った。芝居好きで、すごく芝居に明るい、な
かもしれない。わたしは黒さんの自伝を読む門劇作家面をしていたのではないかと思い当んとも経歴のはかり知れない風変りな人だっ
乙とではじめて、彼の風変りとも見える言動るからである。乙とばや態度で露わに表わした。しかし彼は組織労働者ではなかった。そ
が、単に性絡に起因するものだけではなく、た乙とはなかっただろうが、心理的Kそれをれは、もっとも先進的だと自認していたわた
その恵まれた芸術的環境から発しているとともっていた乙とはたしかである。デリケートしたち||天下の東芝労働者||の白からみ
を知った。そして、人を見る乙とのにぶい自な神経をもっている黒さんがそれに気づかなると、運動の隊列の外側に位置する人民大衆
0
LV
、
・
う大首切りの嵐が労働組合をあれ狂った頃、
一九四九年以後、行政整理、企業整備とい
建設座への高踏批判
推測かもしれないが︶黒さんよ、許してほしまわっていた。
い思いをさせていたとしたなら、︵いい気なわたしたちはそんな稚い優越感をもって動き
分のボンクラ加減が思い知らされたのである。いはずはない。で、それがもし、黒さんに苦の一人にすぎないというととである。当時の
折り目正しかった黒さん
じつをいうと、わたしは黒さんについてあ
まり多くの乙とを知ってはいない。交際はか
東芝時代のこと
いいものかどうかよくわからない。親しい面考えてみると、黒さんとの交際では、わた
なり長かったが、間柄は﹁親しい﹂とよんで
わたしは演劇活動からはなれて組合の専従害
も多かった@お互いに気心も許し合っていた。しはなんとはなしに優越感に似た感情をもち 職場の自立演劇サークルは潰滅してしまい、
でも黒さんはわたしに対して、つねにど乙かっ。つけていたようである。戦後川崎へ渡 って
内ペ
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F
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3
4
記になった。レッド・パ lジ以後の組織防衛
のたたがいの中心に身をおいてみると、なん
といった組織方針の反映でもあっと。
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JJ門
のまたエリートでもあった。その点神奈川は東自協で目立った劇作家ーこ h
地方であって、格は一段と下であった。その家から、乙れからの日本のしん恥川[一一
リカフロレ F!
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いる。東自協︵東京自立劇
f協議会︶のみにし、プロレタリアがインテリ化してれいリ仕
光が集中していたと言ってしい。東自協で自の交流の母体となるのが労働組合と、
Lう同月冊以
立った作家や活動家は、自立演劇運動のなか図であった。
東京ばかり向いていたわたし
そ
何
日
日
付
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問
山
円
山
町
十
日
川
十
一
一
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明
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中
山
一
⋮
日
刊
日
刊
山
間
一
⋮
⋮
と不思議な乙とに、演劇とか文学とか美術と
かいった文化活動が、状況のきびしさをわき
まえない傷気ないい気なものに見えてくるの
ったマルクス主義の公式的な観念が、政治活
である。そして文化に対する政治の優位とい
動未経験なのぼせやすい頭を簡単に占領して
しまって、近視眼的な文化運動批判をぬけぬ
たわたしの﹁芽生え﹂を、新劇の審査員たちしろと言われる乙とはピ門一
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一
日
間
強
けと言ったりする。黒さんたちが建設座の運
な
か
でなぜかわたし一人だけが東自協の作家なるのは君たちだと激励されて、 ovL手K
動をはじめた乙ろ、わたしは自立演劇逐動O
た
ちの仲間入りをしてしまった。理由はよく劇運動のすぐれた部分が専門人れるゴリ凝
Bといった肩書で、それに高踏的な批判を加
からなし力、神自協のコンクールで上演し当然と考えた。専門家から、?t l c は
uh
ていると乙ろである。乙うした黒さんたちの
J
えたりした乙とは、黒さんの自伝Kも記され
地味な地域演劇運動建設の営みに対して、徐
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安日拐にそれだ
れた。乙うしてわたしは身を川崎においていとびついたと1
gA打J川川しは
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泊、東白協の創作劇に匹敵するレベルにあるを頂威する ζ
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ものと評価した乙となどが底にあったと早っ。本の文化革命のために必要な
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土方、村山、薄田、八回といった東京の専考えていた。わたしもお墨付き 川口汁﹂も
門演劇人たちはみなわたしの乙とを知ってく一人であった。しか コ
: J L f j Lた
々に形づくられてゆくわたしの思いあがり的
な態度が、より明らかになってゆくのは、一
九五五年ごろから、わたしが労働組合をはな
加し、一度また工場労働にもどったものの、
からである。︵わたしははじめ劇団青俳に参
れて、東京の専門劇団に加わるようになって
⋮
⋮
一
一
一
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は
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九
リ
り
いUT刊はい日開リパ μv
一九六一年に劇団民芸に参加し、今日にいた
計を家内の一屑におぶさるわけにもいかなかっ
ないから川崎に腰をすえる乙とにしたのでは﹄どの場合専門劇団 対して否定的であった。
などと思ったりもした。その乙ろ、すでにわそしてその槍玉にときどきあがったのが、わ
仕事がしたいのではあるまいか。それが出来はいなかったようである。その意見はほとん
っている。︶
たし、結局、戯曲を書くかなりの時間があっ
たしなどよりははるかに深く専門家や専門劇たしが属する劇団民芸の舞台であった。黒さ
同盟︶当時からの、専門演劇人を中央K
、そ曲を書くととは、すでに年令的にもれ川吋
れを囲んで全国の工場経営に自立劇団の網を!の限界で出来そうと i 3 つ
l f bてたし、一家の生
て、最低の生活保障をという乙とになると、
にうすれていって、頭にあるのは、新聞や演りした。以来わたしは黒さんとの話題では、
神奈川県で行われる演劇活動への関心は次第情がひそんでいるのではないかとさえ思った
いわたしの推測であった。 ζうして専門化しり偏見と考えたりした。ときには彼のなかに
て以後のわたしの意識からは、地元の川崎ゃなにか専門家というものへの憎悪のような感
道をアマチュア演劇にきめていた黒さんに対 K限る﹄といった断定を生む乙とがあった。
し、乙れはじつにあさはかな浅見きわまりなわたしはそれらの断定を負け惜しみととった
った。乙の点労働者自身が生きる適応性はす 団の内部を知っており、その結果自分のゆくんの論調はしばしば進みすぎて﹃芝居は素人
κ
専門劇団の文芸部に籍をおくより方法がなか
くなく、インテ リ出身者は有利 であると思っ
た
。
黒さんへのわたしの浅見
ζしていった。わたしは川ひ
とうして黒さんたちは川崎の地花線、っく地
域演劇運動をお
κ
そうとうするうちに、わたしはなんとなくくれた。そうした黒さんの気持は忘れえない
ならない過程ともいえなくもないが。たしの作品の成功をなによりも卒直に喜んで
とつ向うの東京の専門劇団、新劇なる世界に
界に適用する戯曲が、はたして自分に書ける
たわたしがいやおうなしに通りぬけなければては多くの場合たいへん好意的であった。わ
だろうか?多分に新劇花パラ色の夢を箔い
労働者上りというコム。フレックスをいつまでものである。
もひきずった専門家らしからぬ専門家となり、それに比べてわたしの黒さんの戯曲につい
劇雑誌にはなばなしくのると乙ろの、東京の専門劇団の舞台 ついての言及は控えるよう
新劇の舞台ばかりとなっていった@それはまにした。しかし黒さんはわたしの戯曲に対し
ていたわたしは、けっ乙う意気軒昂であった
黒さんは素人演劇としての地域演劇運動をすての態度は、どちらかといえば批判的である
とび乙んでいった。それはわたしにとっては
らしい。二人の歩く道ははっきりと分れてき
ほとんど未知の世界だった。専門の新劇の世
た。そしてそ乙でもわたしは、黒さんたちの
る﹁炉あかり﹂や﹁煤姻の下から﹂は好きな
すめる素人を標携する専門家になっていった。場合が多かった。もちろん好きなものもある。
川崎鶴見地区の庶民生活を情緒深く描 いてい
黒さんとの意見の衝突
仕事に対して、優越感に似たものを感じてい
た乙とを否定しない。専門劇団の舞台にのる
戯曲を書くには、自立演劇や地域演劇とはち
んは、どうやら専門劇団の舞台をあまり見て 蘭や三池闘争に出かけていった ζとや、出来
の衝突をする乙とがあった。乙の ζろの黒さ
ある時期、黒さんとわたしはしばしば意見 作品であった。しかし黒さんが、当時の労働
者の典型的な闘争を描 ζうとしてか、日鏑室
り高度な仕事なのだと。そしてわたしは不遜
がったきびしい水準が要求される。それはよ
にも ﹃黒 さんも、ほんとうは東京での新劇の
ミ
ηυ
内,
a
-3
6
上った作品については、どちらかといえば冷らくは芽が出なかった。上演還にめぐまれる
だの、ピンタ lだのの、西欧的な不条理劇の
たい態度をとっていた。﹁自分たちの住む足ようになったのは、六0年代のなかばすぎか 流行は、リアリズム演劇K対してなにを意味
もとの労働者の生活を描かないで、どうしてらである。同じ乙ろ劇作家黒沢参吉はか江り するのか。大学の学生演劇を母胎にして、日
大闘争の現場にばかり駈けつけるのか﹂など旺盛な創作力を示し、京浜協同劇団を中心 K 本の革新政党のすべてを日和見とし、既成新
は専門劇団に身をおいたとはいえ、むしろお演劇の戯曲に対して関心をもたなくなってい
ナリズムをにぎわせたが、それは戦前の築地
と言ったりもした。じつをいうとそれには羨上演がお乙なわれた。そして乙の乙ろからわ 劇の破壊を唱え、近代劇的ドラ 7トルギ lの
望の気持もだいぶあったのだ。当時のわたしたしは、黒さんの戯曲をはじめ一般に労働者 超克を叫ぶいわゆるアングラ演劇が、ジャー
いは労働者演劇の創作が不振といわれるなか
ってなんであるのか。リアリズム演劇、ある
で、学生演劇を土台にした若い劇作家たちの
時代の流れをつぐ既成のリアリズム演劇にと
時代よりさらにひどく、川崎から都心に通う民芸で一時研究生教育の責任者になったり、
いていたために、若干の舞台的な成果はあつった。理由は単純で、わたしの生活がべらぼ
電車賃にも事欠くありさまであった。だから、作品が労演の全国公演コ l スにのれば、旅に
その地位を高め定着してゆく過程。それらは
作品が、あたらしい時代の演劇として次第に
たとしても、その経済的な貧しさは、労働者うに忙しくなってきたからである@わたしは
たとえ資金カンパをつのったとはいえ、乙れ出たり、労演の学習会めぐりに出たりなど、
だわっているためか、いわゆるインテリ出身
ところでわたしは自分の出身にど乙かで乙
社会的にみていかなる現象なのか。
らの大闘争の取材に出かけられる黒さんたちいつしか専門演劇人としての生活花、精いつ
の行動力が、羨ましくてならなかったととはばい Kなっていった。乙うして労働者演劇か
のまんなかに身をおいて、闘争なる現象を描乙の少し前あたり、一九六二t三年ごろ、
たしかである。それと、何年間かを労働組合らは遠ざかっていった。
外からのり込んで取材したぐらいで、労働組成され、そのなかにおける黒さんの位置や行
に、異和感と共に興味、対立感と共に若干の
くととの難かしさを体験してきたわたしは、西リ演が、東リ演が、道演集がそれぞれK結 とよばれる人々の戯曲や評論のある種のもの
にとくKいちじるしい。そしていわゆるあた
合の闘争が描かれてたまるか、といった、根動が次第に重さを加えてくる乙とになると思 怖れを抱くというへんな性癖がある。それは
性のせまい縄張り意識のような感情が、羨望うのだが、その辺の ζとはわたしはよくわか その作品がわたしにとって理解しがたい場合
とまじりあって、他人の仕事を素直に受けとらない。
そして理解しがたいという事実を、双方の演
のに、乙の理解しがたい作品が多いのである。
らしい演劇状況の作者や評論家たちの書くも
くにつれて次第にかわってきた演劇状況に、
れ な い 惨 め な 状 態 に も な っ て い た 。 そ の 乙 ろ の わ た し の 心 は 、 七0年代が近づ
七0年代をむかえて
ベケットだの、イオネスコだの、アラパ lル 劇的な次元が異るためとか、相手の文章表現
自分なりに対応するのにいっぱいであった。
にとって、画期的な出来どとであると考える。 な公演活動を行う劇団民芸の舞台に、ほぼ直
れ、わたしはそれを日本の労働者演劇の歴史
わたしは一九六一年に民芸に入って、しば
がひとりよがりのためとか考える前に、まず
て何倍もの有利な条件をもっていたといえよ
結していた当時のわたしは、黒さんにくらべ
なっていた。戯曲の上演についても、全国的
自分の能力が未熟であり、硬直しているので
あったかは、乙まかくは知らない。だが全リ
そのなかでの黒さんの役割りがどんなもので
ていたというわたしのメリットが、乙乙らで
う。つまり頭を東京に向け、専門家をめざし
はないかと考えてしまうという、悲しいコム
演の結成の頂点から彼の名をとる乙とはでき
プレックスをもっている。それでなくても主
体性の弱いわたしは、乙れらの演劇的潮流に
ない。そして ζの仕事を残して、あわただし
それはわたしにまったく欠けているところで
地域演劇の実践者・組織者として意識した。
りも、ほんとうは戯曲を書く乙とにすべてを
が、黒さんは舞台ぜつくりゃ組織、つくりなどよ
念を燃していたときく。わたしは考えるのだ
さんは死の直前まで、戯曲集の刊行に強い執
やっと実を結んだという乙とは吾一守えよう。黒
心をかきまわされ、それを克服しようとそれ
く彼は世を去っていった。
ある。そのことで劇作家としての黒さんを意
わたしは黒さんの乙とを考えるのに、まず
なりの努力を重ねた。
だが、少くともそうした乙とで、わたしはよ
であったとしたなら、その点で黒さんよりは
かけたかったのではあるまいかと。もしそう
それらの乙とから学んだものが、わたしに
り大切ななにかを一時見失っていたような気
たしにとって気が楽であったから。話
識することを二次的にしていた。その方がわ
とっては無価値だったというわけではないの
がして江らない。不条理劇やアングラ劇的潮
κよれ
流を、その本質以上 K過大評価してこだわっ
である。わたしには出来そうもない乙とであ
宿に乙もって集中的に書き上げてしまうそう
生きてきたわたしは、それなるがゆえに一入
と。つねに下から上を見上げる乙とでばかり
黒さんはどのように意識していたのだろうか、
めぐまれた条件で仕事をしていたわたしを、
なければならない乙とを見失っていたのでは
る。でもそうしなければ黒さんは戯曲を書き
ば、黒さんは戯曲を書く湯合、ある短い期間
ないか。つまり自分としての主体性喪失への
ている乙とで、自分がもっと力を入れて考え
反省である。
その乙とを考えるのである。
年以後の黒さんはめぐまれないで苦労してい
一般に公表されるという過程でも、一九六五
書き上げた戯曲が活字になり雑誌にのって
黒さんにもっともよく似た演劇人はわたしで
は黒さんだったのではあるまいか。そして、
らいって、わたしにもっともよく似た演劇人
わたしはいま考える。年令、環境、経歴か
黒さんは戦友だったのに||
たようである。当時のわたしは、戯曲の活字
さんの何倍もの賛沢をしていたようである。
とも時間的な乙とに関する限り、わたしは黒
上げる時聞がなかったのかも知れない。少く
黒さんはわたしのことを
さて、今日、黒さんに死なれてみて、あら
全リ演の結成l北海道から九州まで、全国
あったのではないか。黒さんは素人演劇に徹
ためて黒さんとはわたしにとって何であった
の労働者劇団が自らの力で手をつなぎまとま
発表についてはあまり苦労をする必要がなく
かを考える。
る ζとができた。その内実がどんなものであ
-3
8
-3
9
それは労働者階級としての、自らの芸術を創
りだす ζとではなかったか。二人とも 、もっ
局のと乙ろ同じであったのではなかろうか。
底辺であえいでいる。しかし二人の理想は結
した。わたしは専門の道に自分をかけ、その
いってしまった。
去りにしあの頃のように。でももう黒さんは
お互いの作品について討論を交してみたい。
失わせていたのだとしか思えない。もう一度、
の言葉がぴったりする。二人とも軍隊経験の
とも良き戦友であるべきであったのだ。︵乙
でも、一方は素人に徹した 。その ζとで時
世代だったからでもあろうが︶
κ
には専門家の芝居に対しいささか頑江に対し
てはいなかったか。一方は専門家 なったが
ゆえに、いつしか自らを、素人K徹している
人々の上にあるような錯覚におちいり、それ
らの乙とが 、お互い Kお互いを卒直に語る乙
とを避けしめはしなかったろうか。お互いが
もっともよく似た体質をもっている ζとを意
識しながら、ある一定の距離以上に近づ乙う
とはしなかったのだ。わたしたちはもっと手
をにぎらなければならなかったのだ。事実黒
さんの方は何度か手をさしのべてくれていた。
乙ともいくたびか。わたしはそれに対して粗
わたしのせまいアパート陀足を運んでくれた
κしか対していなかったようK思う。その
雑
黒さんの気持K誠意をもって応じる謙虚さを
底Kは生半可な専門家意識がはたらいていて、
制同通信
テア トル・ハカタ
今年も早いもので上半期のスケジュールを
.
ウィの栄達グ
J
.
四
訳
喜一の﹁今宵はショート ・ドラマで﹂。いづ
九月は十二日初日、 二三日千秋楽で、大橋
乙れは
ス ・三木作 ・演出﹁愛さずにはいられない﹂。
会館、 M l初日砂防会館ホールで、ジェlム
第引回東京公演は、 9月幻目立川社会教育
H
、定時制高校をパックに、
そして再び叩月7日から﹁青春の砦﹂が東
愛の物語を展開していきます。
H
人間誰でも劣等感がある、人間誰で
れも乙もんど小劇場。十月八 日より十日迄、
いう名の本質を追求します。
海、中園、九州。﹁かげの黛﹂が近畿、関東、
O三 三 五 二 ! 七O五四︶
︵旧東京都渋谷区千駄谷五|三三|六
小劇場公演は爪生正美作・演出で ﹁手紙﹂
首都圏を年内一杯まで巡演します。
ま乙と K筏念です。本当に永い年月のど指導
朝日放送制作﹁五島崩れとテアトル ・ハカタ
地域で活動する劇団のルポルタージュで劇団
有難うどざいました。ど冥福を祈ります。
朝鮮、広島と漂泊う一人の女の運命を通して
反戦の炎を燃やす鎮魂詩。八月一日から四日
ルの所に、博多の地域劇団アトリエ座が百人 演します。世界中に核廃絶の声の高まってい
る今 、乙の戦時中の暗黒時代を逗しく生き、
居備丁と名づけ 、活発な演劇活動を行な って
いきたいと思っています。
思います。
公演。
スタート、秋には山口県へ。
小型班﹁ポケット劇場﹂は 、かたおかしろ
う脚本、藤沢薫︵劇団京芸︶演出﹁飴貿い幽
沖縄へと全国巡演。今期は以上三班の活動。
八月から公演活動を開始するのを機会に、芝 青春を燃やし尽した若者たちへの鎮魂のドラ 霊﹂他数本をもって東京から出発して、 6月
マで 、私達の戦争告発の意士山表示をしたいと 1 7月北海道巡演、秋から冬 Kかけて九州、
劇場﹁シアタァ ・PA Lふくおか﹂を創設、
テアトル ・ハカタの常設小屋から百メート 文化中ホールで、それぞれ労演例会として公
五島は福江、香珠子海岸で行ないます。
﹁グリックの冒険﹂︹原作斉藤惇夫、脚色
迄、﹁母の大罪﹂合宿僧古を、主人公の故郷 ルを終ります。尚、 ﹁青春の砦﹂は8月初日
l n日京都会館第二ホ lル、初日 l m白神戸 阿緩安栄、演出幸晃彦︶は関西の学校公演で
の砦﹂の東京再演で上半期の公演スケジュー
さて 、5月初日からはじまった﹁青春の砦﹂ 人形劇団京芸
七月は十八日初日、二九日千秋楽で、定村
今期、﹁猫は生きている﹂︵荒木昭夫脚本
忠士の﹁まぐだらの女﹂を上演します。筑豊、
﹁かげの砦﹂の地方公演は、 7月中旬で終り、
7月口 ・凶臼の両日、砂防会館ホール﹁青春 ・演出︶は引続き全国巡演︵西日本︶と学校
員全員が出演。
という新作を、日月下旬K上演の予定です。
O九 二 二 七 一 | 五O九O︶
浜小路ビル
︵印福岡市博多区古門戸町四−−
n
大博多ホlルにて﹁母の大罪﹂ B級戦犯絞首
俳優座劇場
も自尊心がある
9(日)∼2
1
(火
)
1
9
8
2
. 9. 1
刑第一号の由利敬の短い生涯を通じて戦争と
れ引っ
えフ
さ
お
111ν
46Lt
と
ま冗 長
るコ 釧
ブレヒトの会・ 1
0周年記念公演
の若者達﹂。 七月四日放映、 RKB毎日放送 青年劇場
黒沢議長のと逝去、惜しみても余り有り、
﹁わが青春のテアトル ・ハカタ﹂。いづれも
消化しました。六月二七日放送、 KBC九州
前売 2
,
30
0円
・問合せ 宮 0
3-5
8
5-7
6
4
4 (ブレヒトの会)
当日 2,500円
演出 ・千日是也
作 .B
.ブレヒト
-4
0
-4
1
》~,
勾
v
移動期間を6ヶ月延期。回年3月迄続演。
O こども、おや乙劇場及び小学生対象の
勇三・演出︶の公演が、各地で好評をうけ、
で終日にぎわう季節である。
劇団定期総会など、劇団繕古場は朝から夜ま
今でも耳に銭って居ります。心から御冥福を
黒沢議長本当 残念でした。東日本演劇フ
ェスティバルの時の熱意あふれる話し仮り、
κ
︵凶大阪市阿倍野区文の里四l 一八|六
関西芸術座
O六六二一|一二三一﹀
。全国中・高校生のための﹁ああ青春高校
野球﹂︵瀬戸洋・作、柴崎卓三・台本、上利 劇団ペルソナ
る予定です。
︵仰鶴岡市本町三一九十一高橋万
O二三五l二四|一六八八︶
九月二七日より第ロ期附属研究所がスター O五月二一日︵土︶、仙台小劇場の﹁桜の園﹂ いる新人公演で﹁太平洋ベルトライン﹂︵岡
ト、月水金週三回夜、十二月に終了予定。途 を観劇してきました。アマチュアの劇団がよ 安伸治・作、楢絡英三・演出︶及び﹁火のよ
うにさみしい姉がいて﹂︵清水邦夫・作、森
中3回の合宿、叩人規模で入団希望者、人形 くぞ大作Kとりくんだものだとその勇気に拍
、 6ス
下昌秀・演出︶を、 9月l日より5目
。
劇を専門的に深めたい人のための研究所、現 手
。予定していた創作劇は結局書けず、秋の公 テージを上演する。
在研究所生を募集中。
全リ演西会議としても、はじめての岡安作
十月八、九、十日は恒例﹁人形容席﹂。京 演は十一月二O臼︵土︶文化会館にて一幕物
二本、﹁結婚の申込﹂﹁毒きの乙﹂を上演す 品であり、大切にしたい公演である。
7月から9月までは、稽古や公演、そして
演目は
藤沢薫・演出
かたおかしろう・作
都府立文化芸術会館。
﹁
飴貿い幽霊﹂
﹁
まつりとうたのふるさと﹂
谷ひろし構成・演出
牛﹂石川多加子構成・出演
﹁
﹁迷作ロマン劇場﹂
つげくわえ、神門康子
﹁今日のニュース﹂
ω
﹁おかあさんだいっきらい﹂もまた、予定よ 祈ります。
入 場 料 前 売 一 五OO円
劇団は現在第 回﹁北海道演劇祭﹂︵函館︶
り一年延長し、加年4月まで続演。
当日一八OO円
O関芸スタジオ公演h H ﹁猫のダンス﹂ 6 へ向けて、札幌*フロック合同の﹁流氷の海に
︵側京都市左京区岡崎徳成町二四
女工節が聴える﹂︵原作・合国一道、本山節
日の出ピル 4 F
月
間ω日より幻日まで、 6 ステージを上演。
乙の作品は、水俣病公害の悲劇を訴え人類 弥・脚色︶に劇団をあげてとりくん℃居りま
O七 五 七 五 一 O四五一︶
の平和を希う、ミュージカルで、英国で物語 す。後一週間ですが、演劇祭の成功をめざし
劇団だいこん座
。相変らずの団員不足、団員募集の看板つく 化され、仏国で脚色上演されたもの。道井直 て毎日の繕古場通いです。
・
十一月は﹁花咲くチェリー﹂︵ロパ l卜
ったり、チラシ一万枚をつくって各方面にく 次訳・演出。
O関芸スタジオ公演ぬロは、恒例になって ボルト作︶に決定。演劇祭後直ちに稽古K入
ば ったが、その効果は?
シンガーのきたがわてつ氏を加えての舞台で
その後、春の演劇ゼミナールとして、チエ
ーホフの ﹁コーラスガ lル﹂﹁外交家﹂の 2
好評でした 。
︶
すが、観客は目標の半分余︵て一 OO人
本に取組み、五月三十日 K公演。
﹁ある遅い出発﹂を乙乙三年上演し、その活
行いました。相変らずの少人数の集団ですが、
六月に入り、的問、お、初日の三日間総会を
でした。五年前の初演時との、時の流れをつ
すl。
ります。
︵脱札幌市豊平区平岸四ーロ秋元博行方
劇団は三月に名古屋市青少年芸術劇場で、
︶
。二l八一一 し九O 六
﹁ロミオとジュリエッ卜﹂を上演したわけで
二
一
名古屋演劇集団
。五月公演﹁看護婦のおやじがんばる﹂も、
まずまずの好評で終る乙とができました。新 くずく思い知らされました。
人演出者の太田幸則を盛り立てて、特 Kスタ
以降、五月に研究公演として、﹁楽屋﹂、
ッフの張切りぶりが目立ちました 。
わ 六月には第十五期研究生の卒公として﹁笛﹂
大阪の ﹁
秋は、﹁演集﹂﹁名古屋﹂等と共に﹁名古 構成劇を上演と秋の公演準備を予定しており
だち﹂の皆さんとの何回かの交流も有難いと を上演し、新しく男 三人、女三人の団員を迎 動を通しての成果をもとに今後の活動の展望
との 一つでした。
えました。七月は恒例の子供劇場で﹁竜の子 をみつけようと討議が深められました 。
。八月アトリエ公演﹁あひる の靴﹂︵水上勉 太郎﹂を上演すべく、連日けい乙に励んでい
今後の当面の活動は八月上旬に﹁戦争を考
作︶のけいこが浦はじめ演出で始ま杓壬ふした。 ます。
える集い﹂︵仮称︶に、たけいしふもと作の
秋の合同公演﹁名古屋炎上﹂も作者の熊谷昭
黒沢議長の死、大変筏念でなりません 。ま
ます。
だ、たくさんの事を教えていただかなければ
屋炎上﹂を上演します。台本ができて八月よ
り本格的にスタートするところです。
その他八月一日に、反核文化大行動 Hピー
ならないのに。心より御室八倍をお祈り致しま
の各劇団から送り出された制作グループと、
吾氏から第二稿が出され、名古屋劇団協議会
若尾正也を中心とする演出グループが準備を
スサンディ・イン・名古屋﹂へ清成劇をもっ
相変らずけい古場の借金返済に頭を痛めつ
つも、暑さに負けず、がんばります。
O五二i八一二三六九一︶
︵知名古屋市南区汐田町三|四O
で議長の死に報いたいと思います。︵東田︶
0四二五|二四l O八 八 二
︵則東京都立川市曙町3|必 117
劇団なぎ
いまはただ、何を置いても黒沢さんの乙冥
四度目の取組みの﹁ある遅い出発﹂を3 ケ 福を深く深く祈ります。・::それにつけても
所4 ステージを二月に終えました。フォーク もう次号から黒沢さんの文章は機関誌に渇載
劇団協同
す。小さな集団の私達も、より一層頑張る事
すすめ、間もなくけい古がスタートします。
例年秋の移動公演ラッシュのためのけい古も
Oリクリエーション、ゼミ、等々もあり、又 て参加する予定です。
ありで、八月が六十日欲しいほどの忙しい夏
三
。 五 二 五 二 四l五九七五︶
︵制名古屋西区庄内通四i 一六
になりました。
劇団名芸
黒沢議長の死はなんとも悲しく辛いととで
-4
2
-4
3
κ
。芝居︵岡安伸治︶
されないのだ。唯一の私達の活動の指針 し は 初 め て 芝 居 が や ら れ る と の 乙 と で すす
ζ
︵附東京都練馬区豊玉中三|五|二l
てきた黒沢さんのあの文章は 、演 劇 会 議 の 大 を 観 る に も 、する方にも良条件の 小屋であ り
きな灯火は消えたのだ:::。乙の虚しさは 、 まして 、我 々 は た の し み に し て お り ま す 。 三 O 四 O三|九四八七三三八﹀
ハガキの演劇通信のスペースではぶっつけよ役者達は、原寸大で重さも同じくらい、音 演劇サークル麦の会
、か ま え を 猛 訓 練 全 リ 演 の 皆 様 御 元 気K御活躍の乙とと思い
うがありません, ,. 。 も 出 る 銃 を 持 ち 、 立 ち 射 ち
の毎日です。乙の銃は、裏生活の長い、一つます。然し残念でむらないのは黒沢参吉さん
全リ演の仲間の皆さん、お元気ですか。
健闘の乙とと存じます。劇団なぎも健在です。一つ着実K創り上げていく力を持ち続けていが亡くなられた乙とで、護しんで哀悼の意を
ただ今のと乙ろ、内部勉強会に終始していてる布施佑一郎の力作です。申しあげます。私達麦の会も生前黒沢さんが
ζ乙2年頃から研究生が減少してきていま御活躍なさった業蹟をもう一度かえりみ、今
大きな演劇ニュースをお伝えできませんが、
小規模乍ら頑張っております。機関誌の劇団す。市外にケイコ場が移ってからの乙とです。後の活動の糧にしていきたいと思っておりま
黒沢さんの死を越えてあかあかと燃えさせが、新しい募集の試みも考えています。さて私達は六月十て十二日、水上勉作﹁釈
ニュースも灯火の一つです。交通の不便さや遠距離が問題になっていますす。
ます。乙んな報告をみたら、﹁しようがねえ員一同で話し合っています。︵士口問︶
な あ : ・ ﹂ と い う 黒 さ ん の 顔 が 浮 か ぶ よ う で ︵ 郎 東 京 都 江 戸 川 区 北 小 岩 七 三l 二O
他集団との合同公演形態も含めて考えておりいる昨今、とにかくカンパッテいく乙とを全
きないかと考えております。人数が少いのでら芝居をつづけていくのがむづかしくなって
秋は、昨年は不参加でしたが 、東京働くもるととになっています。 ζうやって一年を終
のの演劇祭へ、なんとか創作をもって参加でえるというのが私達の乙よみです。働きなが
修次演出﹀花 、集団として協力参加し 、無事早速、秋の上演脚本を会員全体で読み合い討
、7月中旬に決め、日月M、お日上演す
幕を下ろす乙とができました。議し
6月川品、お、 m
m自に江東演の石るつの上演大変大きく、多くのお客様から好評をうけま
﹁
日本﹁ん﹄文オペラ﹂︵岡安伸治作、境野した。その上演を終ってホッとする間もなく
する現在の状況のなかで 、 乙の上演の意義は
ましょう。では又。︵風坂慶子 ・く ろ だ 代 筆 ︶ ︵ 姉 浜 松 市 中 田 町 五 九 五l 二 迦 内 枢 唄 ﹂ を 上 演 致 し ま し た 。 短 い 芝 居 で す
O五三四l六 三 六O 一 一 ﹀ が 、 大 変 な か み の あ る 、又右傾化になろうと
︵間大阪市北区天満三|一一一一九
・
﹂
岩井町セブン四O 二風坂方︶ 世仁下乃一座
﹁夜明けは静かだ・
劇団か らつ かぜ
作 ・ポリス ・ワシ lリエフ
訳 ・五月道子、宮沢俊一
演出平井新
m
9月4白浜北市民劇場共催で公演。
9月辺、お、初日けい古場で公演。
9月 −初日浜松市児童会館で公演。
浜北市では初めての公演となり 、まだ新し
い会館での小ホール、三OO名定席。乙乙で
ナルをノと思い続けて来ました。やっと実現
と一間火の玉となって取組んでいると乙ろでま可
乙の二十年間 、郷土の史実K基づいたオリジ
K、スペ ー ス仙川︵観客が
四O人も入ればいっぱいの会場︶で 6月日日
O三|六五九|八七O四 ︶ 江 東 で の 公 演 前
第十三回公演、日本﹁人﹂文オペラ︵岡安花上演しました。乙ちらの方がとの作品に適
演劇集 団石るつ
下乃一座協力。︵乙れは一九七五年秋、世仁演は何らかの形で、創作でいきたいと検討中
るとの芝居は、とてつもない大きなもので、
伸治作、境野修次演出︶を6月M ・お ・初日、在であったと思う。
が鼻先にぶら下って来ましたが、団員十二、
3ステージ、江東文化センタ ーホ ー ル 。 世 仁 現 在 、日本﹁ん﹂文オペラの総指中。秋公 三名の劇にとって 四十名程の役者を必要とす
んが、三笠市では団体 K呼びかけても熱の
ζ
必安江ょうです。他の市はどうかわかりませ
から個人アタック、しかも熱烈なアタックが
もっと巾を広げ働く市民一般︵文化協会加盟
の各サ ークル 、勤青協、労働組合など﹀の中
やっと出来たという状態でしたから、今年は
れメロス﹂も地元中高校生や湖O Bの協力で
下 乃 一 座 に よ っ て 初 演 さ れ た ︶ 。 で す 。 世 仁 下 乃 一 座 か ら の 合 同 公 演 の 申 込 み 尋常なやり方では実現不可能です。昨年の﹁走
江東文化センター開館記念行事参加、江東もあり、検討中。
劇団湖
H
火の玉 筏
影幌内暴動 μ
黒沢議長の卦報を聞き、余りの急な
言葉もありませんでした。本を出版さ れたり、
ζとに
青年演劇祭︵他に 、ち る る ﹁ 佃 猫 騒 動 ﹂ 、 あ ︵ 千 葉 市 幸 町 二 ! 日 七lm境野方
O四 七 二 四 四 三 六 一 八 ︶
すなろう﹁一一一年寝太郎﹂も独自公演で参加︶
と銘打って行いました。
歌︿昭和初期の流行歌や民謡︶、民舞、日
舞、笛、三味線、小太鼓と、芸ととの多い作
品で、役者は大奮闘でした。
とも乙の穫の岡安作品の中には、自分を、役
うな舞台ではなかったように思います。もっ
者の努力もあって、アンサンブルの欠けるよ
んで来たものを後に銭る者が守り育てない訳 もう不安になっている時期ではない。着火点
お祈り致します。黒沢議長が一生をかけ育く
ら本当に疲念でなりません。心から御冥福を
客演者を多数まねいての仕事でしたが、客演 まだまだそのお力を頼っていた私共でしたか
る乙とが直結する芝居作りが現在の課題です。
りでも多くの賛同者を見つけ、観る乙と演ず
言葉が団員の中から犠やかれています。ひと
リアリズム演劇活動の中での御活躍仮りから もり方が弱いので﹁やはり人だなあ﹂という
を、各々が前面に出すという面があり、各々
がありません。私共も頑張ります。
H
さて、
湖 Hも今年は創立二 十周年。記念
石るつの劇団員が全員参加できない状況で
の存在を強くする乙とで、調和がとれるよう
公演は十月三十日︵学校公演︶三十一日︵一
った仕事でした。世仁下の全面協力は生きて
今までの石るつの舞台、つくりではできなか
者に悩みながらも 、必らず実現させなければ
元演出﹁筏影幌内炭山暴動﹂に決定。現在役
般公演︶三笠市民会館で 、合田一道作、加藤
です。
その人々の出来る乙と担当して貰おうと必死
発行、暑中はがき戦術で、団員個々の知友人
簿K合わせ 、どんな協力支援でもよいから、
ありません。制作も今までにない、ニュ ー ス
に灯がついたのですから皆で創り上げるしか
に思いました。
いたと思います。
-4
4
4
5
︵附幻三笠市幌内住吉町九加藤方劇団では、荒木栄没後二十周年記念として、
O 一二六七|二|三O四四︶﹁わが母の歌﹂︵高尾隻・作並演出︶を、福
黒沢先生の御逝去を悼み、一同心から御冥して、七月九日︵信岡市民会館︶、七月二十
劇団あまんじゃく岡県内の合唱団を組織︵荒木栄を歌う合唱団︶
福を御祈り申し上げます。私どもの近況を報日︵戸畑市民会館︶に行う記念公演に全面的
。
告する乙とで 、先生への追悼の意とさせていに協力し、成功にむけて頑張っております
又、十月中旬K自主公演を予定しておりま
ただきます。
−
さて、今年第一作は、三月一九、ニO日、すが、目下、作品決定︵七月末︶にむけて選
劇団 2月
市民会館小ホ lルに於て、清水邦夫作﹁狂人考中であります。
︶
なおもて往生をとぐ﹂を好評のうちに無事終︵側福岡市南区高宮一|四lu 五O五
演しました。
しかたしん・作黒沢降幸・演出
かたおかしろう・作
﹁天満のとらゃん﹂
O
﹁のらね ζ ハイジ﹂
矢田喜久子 ・作深海ひろみ・演出
O
O
﹁一二年ねたろう・やさぶろうばっさ﹂
さねとうあきら ・ 作 村 上嘉利 ・演出
﹁ぶんぶん太平記﹂
村上嘉利、かたおかしろう・演出
O
﹁ミュージカル青春﹂
かたおかしろう・作深海ひろみ演出
しかたしん・作黒沢隆幸・演出
O
東川宗彦・作坪井教・演出
O ﹁平和の島硫黄島へ﹂
藤井寺市民会館初日︵土︶東大阪市立文化
8月お日︵水︶柏原市民会館幻臼︵金︶
会館初日︵月︶剖日︵火︶御堂会館大ホ ー
今回は 、今までとは違 った分野の戯曲で勝皆線、御元気で御活躍の乙とと存じます。
手が違いまし たが、新人の活躍が目立ち、今黒沢参吉さんの御冥福を心からお祈りいたし
後の活動になお一一層の活力を見出せた公演でます。
した。又秋の公演は、﹁宮城県芸術祭﹂に参さて劇団2月は劇団員灯名、連日 4班活動
加する乙とが決定、作品は、ジヤン・アヌイの多忙な日々です。とくに今年は、
H
誰かが
作﹁泥棒たちの舞踏会﹂を十月二O、二一目、戦争のシナリオを書いている、私達は演劇を
ω
すがそれでも集りが悪く、一人二役も三役も
しながらの繕古となっている状況です。
家庭の事情や考えの相違で退団していく団
後の組織の勝利を確認しえたと思う。
新人キャストの多い中で悪戦苦闘しているの
O二 三 六 三 二 四 一 O五
︶
の脚本選定中でもあ ります@
八月には青森でお会いしましょう。
︵蜘山形市東青田五八|五
黒沢氏の遺志を絶やすわけにはいかないの
が現状です。
ですから、少数でも頑張り続けるつもりです。
定期公演は十二月四日と決定しており、そ
西ビル 2 F
O二二二l六四|二三四O︶
から梅雨の今年の山形は、まさに快適な毎
劇団山形
。劇団の今後がかかっている﹁新人班﹂担当
に三条信幸が、事務局長には佐藤功が就任。
住所表示が七月五日より左記に変ります。
︵捌仙台市五橋三丁目六番二十一日づ
えた。﹁桜の園﹂の成功と行年の劇団の危機 する舞台を創らなければ入団者もないわけで、
の入団者 名、回年の﹁桜の園﹂公演の入団 員もおり、今回の公演の目的も、団員募集を
者ロ名をむかえて、明るい気持で総会をむか 第一に置いている程です。とは言っても感動
ω
な平穏な総会であった。﹁かげの砦﹂の昨年
三月の総会を、﹁桜の園﹂公演成功のため
延期、過去のどの総会よりも充実して、静か
e
p ル 9月1日︵水︶茨木市民会館いづれも
市民会館小ホ lルにて上演、文今回は同じ市通じ、平和を求めて創造と普及につとめよ
内の﹁劇研河鹿﹂との合同公演で、二つ劇団とかかげ、 8月K H平和の島硫黄島へ υを上 問6時ぬ分開演
O ﹁ぐうたら王とちょ乙まか王女﹂
が合同公演をする ζとが一つの新しい話題に演いたします。又 H平和のためのミニ公演 H
村山亜土・作さねとうあきら・演出
なっております。どういう作品になるか、乞と題し、戦争・平和をテ 1 7にした小作品を
他幼稚園公演、平和のためのミニ公演﹁原爆
う御期待。各地で上演する予定です。その節は是非御覧
︵蛾仙台市遠貝塚2|初| 佐藤方︶下さい。なお、今年度上演作品は次のとおり に夫を奪われて﹂教科書攻撃された国語教材
より。
劇団生活舞台です。
︵附大阪市東住吉区今川一|一 O|一一一
O ﹁でぶつちょライオン﹂
ごぶさた致しております。
ω
O六l七一四!九五四五︶
仙台小劇場
。当面のスケジュール
七月十五日︵木︶十六日︵金︶、パプテス
ト幼稚園、おとまり会花、石厄一脚色で、﹁へ
ンゼルとグレ lテル﹂︵ 分
︶ 2 ステージ。
八月六日︵金︶七日︵土︶、第三回仙台七
夕﹁平和と文化の祭り﹂︵市内文化団体、民
主団体約印で構成、仙台小劇場が事務局︶
八月二十日︵金︶二十一日︵土︶、何と東
会議ゼミと重なって、乙ばやしひろし脚色﹁ジ
、
ヤツクと豆の木﹂。仙台市民会館小ホ lル
4ステージ︵二干名の目標︶
十月十日︵体育の日︶十一日︵月︶、第幻
回全国国鉄の歌声祭典に、舞台・照明等にて
です。その最終の八月八日、劇団山形では、
散る頃、街は﹁花笠まつり﹂一色に染まるの
去の報らせを聞き、稽古を中断して黙梼をさ
さげました。
丁度、﹁やどかり﹂の僧古中花、黒沢氏死
ω
応援。
日です。サクランボの季節も終り、まもなく 演劇集団わだち
十一月三日︵文化の日︶、第九回仙台市民 紅花の黄色の花が街中に咲き乱れる乙とでし
お元気ですか。
まつり︵鈴木京子が舞台部門の会計︶に、﹁へ ょう。︵新幹線 K取り疲された山形は、県下
第6回大阪春の演劇まつりの参加作品とし
ンゼルとグレ lテル﹂をもって発表。
をあげて H
紅花の山形路 を売り出し、家々
て
、
本
誌
必
号
渇
載
の
矢
野
喬
氏
作
﹁
やどかり﹂
H
十一月二十六日︵金︶二十七日︵土︶、第 の庭に紅花を咲かせているのです。︶それが を又川邦義演出で、 6月
泊
目
、
臼に上演しま
した。男優に多くの協力を得て、一定の舞台
成果をあげる ζとができました。
川品目本公演、レパ lトリイ未定。
十二月K Hけい古場公演H の予定。﹁カル
問題から例会時聞を一時間遅らせているので
ラ1ルのおかみさんの銃﹂が有力候補、他県
公
民
館で﹁かげの砦﹂を上演します。
内移動の予定。
今、その繕古の毎日です。団員の銭業等の
O第十三回定期総会︵5月初日︶より
4佳
円
,
t
-4
6
当に残念でなりません。心よりど冥福をお祈
リアリズム演劇の大きな灯が一つ消え、本
を支えにしでいた部分が大きかったが、今回
か成り立たない。かつて過去に乙だわる ζと
もう一度過去を問いなおしてみたい﹂乙の
は、現実に背をむけず未来を生みだすために
今秋は、さねとうあきら氏作﹁ウメコがふ
り申し上げます。
西
H
M
のみなさん、
現在は八月八日の試演会にむけて﹁にんじ
れたという成功の舞台でした。
ん﹂のけい乙に入っています。
十一月の二十周年記念公演の前にトラムの
でいます。︵藤原民子︶
台ながら、若さをぶっつけて必死に取り組ん
O 八三九|二二 O三九三︶
︵間山口市東山二|九一 O 藤 原 方
空梅雨で水が心配ですが、皆様いかがお過劇団弘演
演劇サークルトラム
︶
。 三 九 二 回 ! 六 一 O七
︵山東京都練馬区大泉学間町制I 8吉田方
ています。︵佐藤︶
たり﹂を日月1 ・2日に第は回公演として上 よしだの生きざまを、どう土の会初年の到達 O B会をやり、その場で先輩達に見てもらお
8月の 点と重ねあわせて示せるかが勝負だ、と考え うと思っています。にんじんになる人は初舞
演する予定です。
︵ 町 大 阪 市 福 島 区 福 島 六 ロl げ
演劇講座でお会いしましょう。ではまた。
川村ビル
O六|四五八|一四五五︶
黒沢さんの卦報を聞き哀悼Kた え ま せ ん 。 る 必 要 が あ る の で す が 、 私 達 人 間 に は と て も
しでしょうか。御無沙汰しております。弘前は雨のない梅雨です。作物には雨が降
今回は何も出さなかったのですが、司会と舞でおしているという感じがなきにしも非ず︶。
と思います。さて、大阪での春の演劇行事と
してすっかり定着した感のある﹁春の演劇ま
当 劇 団 は 新 人 を 中 心 に 、 昨 年 秋 の 研 究 生 公 ﹁ 夜 明 け 前 の カ チ ャ l シイ﹂
した。作・寺内田アキ子演出・熊本一
演 の レ パ ﹁ ブ ン ナ よ 木 か ら お り て と い ﹂ を 、 ︵ 復 帰 直 前 直 後 の 沖 縄 を 舞 台K、沖
堀江ひろゆき演出で再演するという形で臨み縄女性の生き織を描く書下し作品︶
ま し た 。 短 期 間 の と り く み に も か か わ ら ず 、 。 日 年2月 ζろ 叩 周 年 行 動 ぬ 4
キヤステイングを大巾に変更し、その上、音作・かたおかしろう演出堀江ひろゆき
わけですが、観客の反応は槻ね好評のようで予定されていますが、確定しておりません。
楽 も す べ て 新 し く 創 り 直 す と い う 冒 険 だ っ た 以 後 川 周 年 行 動 は 来 年 度 末 ま でK 尚6まで
す 。 た だ し 、 劇 団 の 身 近 な 人 た ち か ら は 、 か ︵ 叫 大 阪 市 南 区 谷 町 七 丁 目 一 ll
ぬlm
O六i七六八i九九五七︶
なり厳しい意見も出されております。中でも
6月初・幻日の両日、 2 ステージ満席で、
劇団夜明け
わない公演としては、劇団史上最高の七八O
しかし創作的には大成功で、大ホールを使
か、そして創造上の課題は。現在、劇団内で
の今日的願いをどれだけ伝えることが出来た
ら移動公演のすすめもあり、団内でもその気
名 も の 観 客 を 集 め る 乙 と が で き 、 乙 と に 動 員 討議中です。また、公演後、観てくれた人か
市中の由民さには、制作担当者が﹁なんで、乙ん
﹁にんじん﹂の居間してくれたものを本当に
劇団にとって力Kなります。
です。装置、効果の部門ですが‘ ζれからの
の自立が、少しずつ出来た乙とが大きな成果
す。四回目の小劇場公演を通して、スタッフ
持が強く、周辺の町村K声をかけつつありま
今後のスケジュール
なK入るんや﹂とあきれる程でした。
08月初・幻−n
日 全 リ演西会議第一回
︵演出、演技、裏方の 3 コl スを設け
﹁ 演 劇 講 座 ﹂ 於 大 阪 ・淀川会館
みっちり勉強します︶
-4
8
演劇集団土の会
三年がかりの、創立お周年企画第三弾とし
の中国プロックゼミでは、プレヒトの﹁第三演出︶を上演します。
さて、三月二十七日、二十八日、徳山市での公演﹁太鼓﹂︵木谷茂生・作、宮崎英世・
ぽいお話を聞かれないのかと時間念に思います。弘演は七月二目、三日︵計5 ステージ︶春
とうとうおなくなりになった。もうあの熱っすごしやすい梅雨となりました。
て、よしだはじめの創作劇﹁﹃回収不能﹂の
ω
戦記﹂︵倉田真・よじだはじめ演出︶を、
− 目、労立回会館ホールで上演する予定
mn
月
帝国の恐怖と貧困﹂の中の﹁スパイ﹂を四劇演出の宮崎は、昨年﹁見張番﹂にひきつづ
です。現在は、作者の改稿とともK、第一穏
ると乙ろです。
りましたが、ブレヒ卜 が 何 で あ る か と 奥 深 く 守 ろ う ﹂ を テ !?に体あたりです。役者も昨
団が上演いたしました。短期間K集中的Kや き 二 度 目 で す 。 前 の 経 験 を 生 か し 、 ﹁ 平 和 を
をもとに表現方法をさぐる稽古をすすめてい
﹁﹃回収不能﹂の戦記﹂は、劇団代表よし
六月二十七日には、山口市内の四つのサ l 員 で 、 エ ネ ル ギ ッ シ ュ な 舞 台 を / と 全 力 を 出
追求出来ずじまいの舞台になりました。年から今年にかけて入団したばかりの若い団
だの、教師お年、土の会初年の実践の総まと
スケッチ劇場で追求してきたものの集約点で
めであり、土の会がこれまで矢野喬創作劇や
台監督を引受け、八百人の子供達が集ってく秋には、﹁農婦﹂︵津川武一・作、矢作京
クル合同の第十五回乙ども劇場をやりました。してガンバッテいます。︵まだまだ若さだけ
﹁現在も未来も、過去をどう自分なりに評
す
。
価するか、受けとめるかという乙との上にし
)方
09月M ・ お 白 川 周 年 行 動 尚3
最高のロ集団が競演する盛大な催しとなりま
創作劇というととで三年前からねり上げて
介・脚色、飯田信之・演出︶に決定/
きた作品を、今年 、秋上演できるというとと
夏のゼミで 、皆様にお 会いできるのを楽し
で、劇団 一つとなってがんばっています。
みに/では、さようなら。︵咲間忍︶
︵附弘前市品川町 一ブラジル内
O 一 七 二 三 五i 四六七O ︶
黒沢氏の卦報K接し 、心から哀悼の意を申
劇団関胞
八日
4
9
し上げます。
三高
六桑
つり﹂も今年で六回目を迎える乙とになりま
改めて再演の難しさというものを感じており
ラツさ﹂が欠けていた等の意見は決定的で、
七条
l八
三丁
した。今回も大阪自演連の仲間のみならず、
六一 O余名の多くの人達に、﹁にんじん﹂
昨年の初演との比較で、﹁新鮮さ﹂や﹁ハツ
五四
日本アマ演連近畿支部等の仲間からも多数参
﹁にんじん﹂の公演を終了しました。
去る六月十一臼、旭川市公会堂において、
一川
六市
六末
|広
加をみて、乙の﹁まつり﹂がはじまって以来、
ます。
第八回公演﹁遺書配達人﹂︵有馬頼義・作、小
1
3
田和生・脚本、沢田和彦・演出︶を行いまし
た
。
劇団大阪
0旭
全リ演の皆さん、全国各地で御活躍の乙と
0
7
1
大事にしたいと思っています・
︵制中津川市北野丸山︶
劇団名古屋
五月一目、 劇団創立二十五周年を迎えまし
﹁ パ I ド ﹂8
が月
新4築
lさ
7日
れ、キャパて一四
O の大ホ ー ルで、
0名 劇 協 合 同 公 演 照 明 設 備 や 防 音 装 置 の あ る 舞 台 は は じ め て で
若尾正也 ・演 出 い る 。 一 方 不 安 も 銭 っ て い る 。
﹁名古屋炎上﹂熊谷昭吾 ・作 あ り 、 ﹁ 奇 蹟 の 人 ﹂ 以 上 の 創 造 が 期 待 さ れ て
O名で二 十 一名のレパを決め 、0
日月6 ・7日 会 員 数 二
七月公演﹁肥前松浦女人塚﹂
た。乙れを機に 、
最後になりましたが、黒沢議長の死を悼み、 Bや仲間に呼びかけてキャステイングしたが、
︵
作 ・岡部耕大 、演出 ・久保田明︶に取り組
劇団 員 一 同 黙 祷 を 捧 げ ま す 。 ︵ 岩 田 記 ︶ 病 気 者 江 ど 出 て 、いまだ確定していない。
んでいます。
制名古屋市熱田区新尾頭2121ω
しかし、﹁勲章の川﹂で一千名動員して目
乙の作品は、劇団が上演してきた作品と少
今年は﹁勲章の川﹂一本に絞っているので
O五二l六八二|六O 一 四 ︶ 標 を 突 破 し た い 。
黒石演劇研究会
し毛色が違いますが、三十代にはいった女優
たちの、新しい分野を切りひらき、俳優とし
を迎える。︵
ml目黒石市乙徳兵衛町日加貿谷方
O 一七二五lニl四O九七︶
巡演中で、当市での宿泊所﹁泉屋旅館﹂でのる全国から駆けつけていただき、ありがとう
苦しい繕古に入ってゆく。
京浜協同劇団
﹁勲章の川﹂は現在、東京芸術座が東北を劇団代表黒沢参吉の葬儀の際は遠路はるば
その乙ろ、第お固定期公演﹁勲章の 川﹂も
雲谷でのゼミが終ると、津軽は本格的な秋全力をふり絞って成功へと乙ぎつけたい。
て豊かになりたいという熱 っぽい想いに支え
られて、白熱した繕古が展開されています。
日常とはかけ離れたセリフ、設定にとまど
いながらも、女のすさまじい執念が日を追っ
て繕古場を充たしていきます。
また、研究所の卒業公演で 、久しぶりに新
のスタッフとかけもちで大変ですが、創造面
ど、倦古と併行して行われている。舞や激励、葬儀の際の香典、生花‘花環、弔
人演出家山岸裕孝がデビューします。本公演 交流会﹂や﹁勲章の川﹂の観劇体制をとるなどざいました。また、闘病中たくさんの御見
繕古は、近いうちに二回目の現地調査を行電などをいただきました乙とに厚くお礼申し
い、地元花岡町信正寺の住職や地味な調査活上げます。遺族の方もたいへん感謝されてい
κ
公演予定
での大きなパネ していきたいと思います。
動を続けておられる奥山先生や庄司先生とのる乙とをお伝えしたいと思います。
9月には演鑑の主催による演劇祭︵仮称︶
が聞かれ、地域の劇団 、5劇団が上演します。
の勉強会、さらKは﹁演劇会議﹂を教材K学委員長の細田寿郎、創立メンバーの原科清、
習 会 を 重 ね て 大 詰 め に な っ て い く 。 中 沢 研 郎 、若菜とき子、室野定子、水野哲夫
とくK、今回の特徴は、黒石市民文化会館らを中心に団結して引き継いでいきます。ど
交流や、能代在住のレポータ ー野添憲治氏と劇団は、黒沢のやり残したしどとを、運営
。 ﹁肥前総浦女人塚
語り継ぐべき意志なしゃ﹂
あな松浦、いまはもう
7月日 ・げ ・同 日 名 演 小 劇 場
。第十五期研究所卒業公演
うかよろしくお願いいたします。直后に︶黒沢氏の卦報を知らされました。
大橋喜一作、細田寿郎演出の﹁ゼロの記録﹂劇団員一問、故黒沢氏の乙れまでの活動を
κ
κ
﹀
は一年半の間に九回上演し、約四千名の観客偲ぴ、ご家族の皆僚はじめ、関係者の方に深
ζ
乙
で
も
札
幌
B
と
し
て
﹁
流
氷
の
l
﹂
を9月日
みていただく乙とができました。しんどいくお悔み申し上げます。
目に上演します。︵
N
し ζとではありましたが、東京で労働組合のさて、﹁流氷の海に女工節が聴える﹂︵合
︵仰札幌市中央区南M条西日丁目
五つの区労協がとりくんでくれたり、地元の回一道 ・原作、本山節弥 ・脚本、山根義昭 ・
O 一一|五五一|九七八四︶
川崎で初の実行委員形式の上演運動の会が組演出︶の初演は 、昨年日月3 ステ ージで九五 演劇集団おけ ら
ω
K 5名賛助出演。
O二九二 1五三|一三九七︶
︵加水戸市見和二二一五ーl二中嶋方
長K就任するとか。ゃったァ/わが劇団もや
っとメジャ ーになれそうです。・・︵誇大居士︶
中嶋がどうやら、県演劇団体連絡協議会の会
報︵?︶によると、乙の際、わが劇団代表の
務局となる見込み。また、信頼できる筋の情
水戸市内の劇団を代表して、﹁おけら﹂が事
月花は芸術祭への参加。乙の県芸術祭では、
きて、今後の予定は十月に自主公演。十一
たいへん貴重な経験だったと思います。
団創設以来初めての創作による連続公演は、
織されるなど、新しい動きが乙の上演を支え、 O人
。
地元の身障者の話をベ lス した創作劇﹁チ
私 達 を ふ る い 立 た せ て く れ ま し た 。 道 演 集 演 劇 祭 ︵ 隔 年 開 催 ︶ は 7月3日4日 ャリア﹂の公演も先月十三日の水戸市民芸術
今年の正月以来、全国公害集会など七つの函館市民会館にて。
祭
を最後に一応打ち切りとなりました。
大 き な 集 会 や 行 事 に 、 企 画 、 演 出 、 構 成 、 出 札 幌Bは、乙の﹁流氷の|﹂を、キャスト
昨年十一月の目立公演を皮切りに計四回公
演などでとりくみ.﹁ゼロの記録﹂の四回上を大巾花入れ換えて、目下けい古の真最中。
演。脚本、演技、制作と、ほとんどの分野で
演と重なって乙の半年間日曜も一日とて休み本番2週間前まで、劇団にれのあ周年記念公 少からぬ問題をかかえましたが、それでも劇
ませんでした。演﹁森は生きている﹂
秋の公演は、黒沢の逝去もあ って 検 討 中 、 あ と 日程で、密度の濃いけい古が要求さ
七月末までには決定したいと思います。夏のれています。
新劇人は﹁とろほう仙人﹂︵作 ・津島昇︶
と﹁わるいとおおかみ﹂︵作 ・荒木昭夫︶を
上演します。
ゼミナールにはこぞって参加したいと考えて︵編集部 ・附記。道演集演劇祭には ζばゃ
います。
し事務局長が参加、﹁流氷l﹂を観劇し、そ
黒沢への生前の御支援に感謝するとともに、の感想の一端を本誌に述べています。︶
今後ともよろしくお願いいたします。
5月花やり時出した札幌Bでの児童劇月間を
O九
︵幻川崎市幸区古市場二l 一
7月花一設定し、 5劇団が一週おきに土 ・日に
O四四|五一一 l四 九 五 こ は 公 演 し て い る 乙 と に し て い ま す 。
劇団新劇場
全リ演の皆さんど苦労様です。
︵個人的に ﹃わが演劇遍路 ﹄を読み終えた
-5
0
-5
1
。全国の.仲間の皆さん、日々御活躍の乙とと
人間度
お喜び申し上げます。
さて、私ども人間座も、早いもので、今年
ま
も会社みたいでなんだしーーなどと名称を決
問 公 演 Hと呼ぼうか、
μ
ったものをつくってみ たいと、七月二十日よ
地元阿佐ケ谷を中心に︿ひろばの演劇﹀とい
H
あなた自身による芝居‘つくりの集まり
を週一回、半年をひとまとまりとして始めま
り
郷﹂を上演する予定です@
めかねながらも、私達の方からいろいろな地︵小島政男︶
ハ
h
u
に ﹄を 上演いたします。 ﹃霞の谷に ﹄は、昭
児童館に勤める職員の方々や保母さん達と今から梅雨で迎えました今年の夏。またもや
三九三二七三九
j
i
l
l
域 や 職 場 で 活 動 し て い る 人 々 の と 乙 ろ へ 出 向 〒 凶 東 京 都 杉 並 区 阿 佐 ケ 谷 南 三i 三 三 二
κ
年第一回目の催しを持ちました。十六日︵金︶・あの五三年の水無し生活を繰り返えすのだろ
一
代といえば、日本のいわゆる﹁高度成長﹂の
十 七 日 ︵ 土 ﹀ に は 、 昨 年 に 引 き 続 き 、 東 京 ・ う か と 思 う と 、 暗 た ん と し た 気 持Kさせられ
ています。七月三日︵土︶花、学童クラブ・福岡現代劇場
はじまる年代で、農村から都市への人口の流
いて﹁上演と茶︵酒︶話会 ﹄の催しを行なっ
出が‘止まると乙ろを知らぬ勢いで遂行した
﹃ホ ビ ッ ト 村 学 校 ﹂ と い う 所 で 二 回 目 を 行 な さ て 、 劇 団 の 状 況 は と 言 え ば 、 結 集 最 悪 。
西荻窪の市民運動的な各種講座を開いているます。暑中お伺いいたします。
回公演を重ねた作品で、今回は実に十六年ぶ
頃です。京都府でも、昭和三十八年の袋雪を
績害賠償
HH
H
トラのパンツ H H
飼料調理人心得 υ
H
ひとり芝居
u k、 実
言いましょうか。もう、かなり前から劇団と
演劇教室﹁明日のす。しかし一方では燃え出したと乙ろとでも
ズより
います。演目は︿ま昼のちょうちん﹀シリ l 今 の 福 岡 の 水 行 政 と 同 様 、 ま さ に 枯 渇 状 態 で
μH
υ の五本を抜き出して組んでいしては取り組んでいた
ま す 。 茶 話 会 の 時 間 も 充 分 に と り 、 観 て く だ 験 的E っ本格的に挑戦しようという乙とKな
H
タラ網疲話
あなた﹂
村が各地に起乙り、幾多の集落が地図の上か
えようとした芝居です。
H
ひとり芝居
H Kどれほ
さった方々と私達と、芝居を仲立ちKし て 日 り ま し た 。 各 々 が 作 品 を 選 定 し て 、 自 分 の レ
他K、黒沢・ほおずきの会方式に刺激され、る ζとを承知のうえで己れを賭けてみたいと
たいと考えています。どの想像力をふくらませ得るか。鋭く問われ
月の初めに繕古場で上演し、好評を得るとと
が、後半となるとそうはいかないようで、と
にかく前回のように見かけのおかしさだけで
なく、本当の笑いを得るために連日工夫を乙
今、劇団員は実存日名。少いけれど全員が
らしながら、同惜士ロに励んでいます。
フル K活動できる状態なのでかなり充実して
七月からは三人という少数ながら本格的に
います。
作を始めました。話がまとまり次第、阪神間
小劇場部も動き出し、親子劇場を中心花、制
﹁内田事件﹂の集団創作は今迄一
しろさと役者の滑繕さで可成り受けたのです
、 二、三人が劇団 に入団す
思っているところです。乙の公演により
六
ll
次回はとれをパネ
l五 き な 喜 び で す 。
ができました。とにかく、士ロ里土口里語のおも
︵印一福岡市中央区薬院一
でしたが、幸い、久し振りの好評を得て、気
を良くしている所です。
とにかく一球人魂、全力投球でがんばってい
ですが、何事もやってみなければわからない。
がどれだけとれるか、すべての面で前途多難
各地で公演を打っていく予定です。公演の場
公 演 二 週 間 程 前 に 中 間 テ ス ト と 修 学 旅 行 が 立 夏 に 向 け て 螺 線 館 では、八月のピッコロフ
ます。
︶
て続き、彼女は気が気ではなかった様です。エステイパル参加の為の繕成と、十月本公演
尾尻コーポ 4 F
︵側尼崎市杭瀬北新町3lu
劇団阿波っ子
る乙とができました。特集|﹁吉里吉里集団乱心事件﹂と題し、六
て 、 彼 の ギ タ | 伴 奏 に よ り 雰 囲 気 を 盛 り 上 げ ﹁ 吉 里 吉 里 夫 人partl﹂は|緊急報道
。六月六日は、阿波の 十 郎 兵 ェ と 言 え ば 皆 様
トで上演しました。
で、彼自身が歌う曲はもちろん、婦人歌すべ作﹀を上演します。
もう一人はエキストラとして出演願った友人﹁吉里吉里夫人
p
a
r
t
2
﹂
︵
井
上
ひ
さ
し
原
。
四月三日 ・四日の﹁徳島まつり﹂ の公演で
は﹁花万﹂を2 回、初めて全員ダブルキャス
先生でテ!?ソングを初め、婦人歌十数回を 、 ︵ 広 渡 常 敏 ︶ を 再 構 成 し た も の を 、 十 月 に は
二人 に 作 曲 し て も ら い ま し た 。 一 人 は 学 校 の 八 月 に は 三 月 に 上 演 し た ﹁ 夜 の 空 を 滞 け る ﹂
役を演じてくれました。今回歌も多く使い、います。
しかし舞台度胸は大したもので、みどとに大の繕古に入り、相変らず忙しい毎日を送って
ふ う ち ゃ ん 役 を 演 っ た 子 は 今 中 学 三 年 生 で 、 黒 沢 氏 の 冥 福 を 心 か ら お 祈りします。
劇団螺線舘
の む と い う 状 況 だ っ た の で 幕 が 上 る ま で 不 安 ︵ 叫 岡 崎 市 元 見 町 三i 十l 三
O 五六四|一二|五O 一二︶
けでは足りず、まわりの友達などK出 演 を た て 行 く 乙 と に な り ま し た 。 ︵ 柴 田 ︶
乙の芝居はキャストが多いため 、 劇 団 員 だ で 、 期 限 を 切 ら ず に 今 后 と も な お 改 稿 を 重 ね
テlジ六百名程の観客で上演しました 。 の と 乙 ろ 、 上 演 す る ま で に は 至 っ ていないの
原作 ・山田民雄脚色・浅井克彦演出︶を2 ス な お 、 通 称
去る5月 初 日 に ﹁ 太 陽 の 子 ﹂ ︵ 灰 谷 健 次 郎 陽 の 子 ﹂ 以 上 に 人 材 が 必 要 か と 思 い ま す 。
岡崎演劇集団所です@乙の作品もキャストが多いので、﹁太
。九二七五一ーー七九八二︶で、ふじたあさや作﹁臨界幻想﹂を決定した
たつむらホワイテイ薬院四一O
κして、ロ月回日の予定
秋に向けての活動は以上の如くになります。る乙とになり、人材不足の我等にとっては大
らせて頂きましたので、是非とも購読下さい
わせるべく準備中です。各劇団宛に案内状送
の谷に﹄他五篇所載︶の出版、総会に間Kあ 頃 感 じ て い る 乙 と ・ 思 っ て い る 乙 と を 交 流 し パ l トリーとして、
。印号で予告しました
H
田畑実戯曲集 H︵﹃霞
中心に、過疎開題の本質を、私たちなりに考
した過疎の村に生きるひとりの戦争未亡人を
、 ζう
ら消えてゆきました。﹃霞の谷に ﹄は
期花、府北部の奥丹後地方を中心に、挙家離
りの再演という乙とになります。昭和四十年
O
和四十一年十一月 初演以来、約五十四の巡
て来る十月二十六・七の両日、﹁京都府文化
ょうちん・その五﹂または一本もの新作﹁棄
七左よ
五京り
|区お
七下願
二鴨い
一高い
|木た
四町し
七十ま
六ーす
す。また東働演参加の秋公演は、﹁ま昼のち
京つ
訪
移動小公演| 1 1 H出前公演 Hと呼ほうか H
都
0市心
H
出 張 公 演 υ というの
劇団展望
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芸術劇場﹂として、田畑実の創作劇 ﹃震の谷
で創立二十五周年を迎えます。乙れを記念し
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白
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内
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も御存じの﹁十郎兵ェまつり﹂。﹁花万﹂を定︶に向って話し合いに入ります。︵トンボ︶申し込みがあり、 7/3日現在で七、八八七
べ、子供の芝居もずいぶんやられるように
キ ャ ス ト の 大 巾 な 変 更 で 上 演 。 そ の た め 連 日 ︵ 徳 島 市 佐 古 三 番 八 | 一 七 船 越 方 枚 で 、 何 ん と か 九 、 000枚の大台を突破し
O︶ 満 席 で 本 番 を 迎 え た い と 思 い ま す 。 叩 年 前 と
劇団はぐるま比
げい古もしばしばでした。。八八六|二三五六七
公演で﹁花万﹂を上演。前日の仕込みには何今年の総会から、もう黒さんのやさしい語なった今日、乙れだけの観客が﹁親と子の劇
O六月二十二日。精薄者施設の一扇学閣の慰問
人かの生徒が搬入を手伝ってくれ、立ちけいり口と笑顔が見られなくなるといささか寂し場﹂を楽しみKしていていただけるのは、ほ
ζ何年間は、黒さんのロマンチシズムと楽観てきた乙とがまちがってなかったととを証明
古を観てくれ、とてもすばらしい観客でした。い限りである。東リ演、全リ演とおして、乙んとにありがたいことですし、私たちのやっ
帰りにはホタル狩を楽しみました。
﹁七夕まつり﹂の出し物として﹁泣いた赤鬼﹂伯楽 ・萩さん 。三者の個性、持ち味がうまく、上が年をとるにつれて、職場や家庭などの矛
。七月三臼︵土︶は徳島から車で一時間位か主義、乙ばやしの現実主義と悲観主義。乙のしてくれていると思います。しかし、問題は
かる、阿南市の﹁阿南乳児保育園﹂の園庭で両者をうまく天秤にかけて名裁きを見せる名ないわけでありません。歌と踊りや、中堅以
を上演。全くの野外劇場で、浴衣を着た子供噛み合って運営・指導がなされてきた所が大盾をかかえてなかなか結集ができず、ケイコ
達や父兄が千人以上も集り、夕方うす明るいきかったように恩われる。黒さんの果されたがスム ー スKいかない点などがあります。秋
て、前回公演とは大巾にキャストを変え、ま易しいものではなかろう。一番近く Kおられ決っていません。乙んな乙とはかつてなかっ
中で条件が悪く、出演者の勤務の関係もあっ役割は、誰れかが、とってかわる乙とがなまは、日月御浪町ホlル公演予定、レパはまだ
た。る
ζとは目 K見えている。どうぞ、御自愛な
5月日日、﹁花
O五八二六二|一六五二︶
たまた連日けい古の中でやっと仕上げました。た御両人が一番痛感されていられるにちがいたとと、とれも問題です。
乙れには劇団徳島の渡辺君に協力を頂きましない。今後、有形無形に負担がお二人にかか︵瑚岐阜市西野町一丁目
小学校で﹁花万﹂と﹁泣いた赤鬼﹂。八月一です。大阪春の演劇まつりには、
0
ζ れからの公演計画。七月二十六日、芝田さってがん張っていただくよう切望する次第劇団患吹
そのほか臼程は決っていませんが、七月、子の劇場、王子と乞食︵とばやし脚色演出ごてに走れあまんじゃく﹂︵作・しかたしん、
目、南小松島小学校で同じく乙の 2本 。 劇 団 は 、 今 、 日 年 目 を 迎 え た ﹁ 夏 休 み 親 と 万 ﹂ ︵ 作 ・ 多 国 徹 、 演 出 ・ 田 中 実 ﹂ 、 ﹁ は や
今は上演後の合評会の真最中です。古い演
ω
八月中に﹁児童ホlム﹂と﹁特別養護老人ホ再演、 7/お、川師、お目、 7 ステージ、於岐演出・大坊晴彦︶で参加。地元八尾では 6月
日公演、 4年仮りの児童劇でした@
lム・千歳園﹂での公演を計画しています。阜市民会館の最後の追い込みといった所です。
6月M目、劇団十年実の真部氏作 ・演出
ターも作りチケットも発売したのですが。︶
また八月の公演終了後、秋の本公演︵演目未 6月7日のチケット発売日 K六、一二八枚の
﹁行革を裁く河内法廷︸で照明、音響等で協
思わぬ後遺症も出て来たりして楽しい合評会
観客への影響を大きく上演二週間前の延期 技をケナしたり、自信を持ってみたり、又、
は劇団内外に波紋を生じました。私たちの運
H があり、
となっています。
力
。 7月お自には H
柏原市民の集い
かつて大和川を往来した柏原舟が復元、市内
ある乙とを意識しなくては活動の発展がない
動の成果は、プロセスと上演の結果の両方に
持だけで公演をやってきたのではないかとい
申し上げます。︵訪問団敏夫︶
れました黒沢参吉氏のど冥福を心よりお祈り
最後に、乙の誌面をかりて、先日亡くなら
にて上演の予定です。題未定。
ホールにて和田澄子の創作劇を森本景文演出
て、日月ロ︵金︶日︵土︶日、大阪郵便貯金
なお次回公演は、初周年記念公演ぬ2とし
を流れる長瀬川を航行する。東川宗彦氏の構
的責任について考えています。運動や学習の
いま、私たちは公演のもつ怠味とその社会
という判断Kたちました。
成台本でとの再現の演出と、大和川付替で団
地を失った側の圧屋、西村市郎右ェ門を偲ん
だ﹁念仏踊り﹂を橋の上で踊る。
ω
c
つつ
いて 月末﹁伊藤忠商事に小会社大阪
う反省もあります。とにかくいい仕事をめざ
工作所の企業再開をせまる大集会﹂で上演予 成果からの上演でなく、劇団という組織の維
定の構成詩劇︵台本 ・窪田 士口宏︶を東大阪セ
してがんばります。ご指導をお願いします。
新うつほビル 4 F
O六 四 四 七 O三O 一︶
中野健演出ご人の教師と十四人のエリート
ました。私達支木は春公演、きしだみつお作、
お元気ですか。劇団通信どぶさたしており
劇団支木
︵大阪市西区江之子島一|七|十一
ンター合唱とともに創り上げるととが決まっ
O 一 五 四 四 二l八O O九︶
当劇団では、創立初周年記念公演ぬ lとし
皆さん、如何お過しでしょうか。
梅雨らしからぬ晴天の暑い日が続きますが
劇団未来
︵釧路市貝塚一六|一九加藤方
て多忙です。秋上演予定は以上の取り組みで
延期、来春になりそうです。
最近、中学生の入団希望や若い劇団員が増
えつつあり、劇団なぎの風坂さんの協力でコ
卜パの勉強会など始めています。
O七 二 九 二 二 |O八八八︶
︵矧八尾市堤町一ノ四O
たち﹂を終え、休むひまもなく、秋公演﹁空
m目、寺下保演出にて宮本研・作
て5月お−
ミナールの準備にはいっています。
を飛んだ鵠と銀色の松ぼっくり﹂と八月のゼ
劇団てまり座
今迄に前例のない、 5ヶ月間という長いケ
から、今春演劇教室を卒業した新人まで、老 くれ、忘れられない舞台と江りました。いい
イ古期間でしたが、創立以来の古手メンバー
やや若い子不ルギ ーがが っぷり四つにくんで
脚本にめぐり会えた乙と。若いエネルギーと
﹁明治の枢﹂を上演致しました。
を7月η ・同日上演予定でしたが、けい古へ
若︵?︶男女三十数名、入りまじりながら、
五年目を迎えていま、試練の時期です。
の結集が思しくなく、準備もおくれ、作品の
何とか︵?︶やり終える事が出来ました。
第六回公演として上総英郎・作﹁光の騎﹂
未完成という事態もあって 、延期を決定、日
春公演は、たくさんの乙とを私達に媛して
月日− U日に変更しました。︵チラシ、ポス
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-5
4
000名を大きく上廻ったこと。−等々、
一
それにケイコ中に聞いた黒沢参吉氏の悲しい
燃える生きた舞台を生んだ乙と。歓客動員も
ミの成功を期待しております。
悲報をのりとえて、決意新たな総会、ゼ
流を楽しみにしております。黒沢議長の
もうすぐ夏のゼミナール、皆さんとの交
秋田 荷雀生誕一 O O年のつど い
一九八二年七月二四 ・二五日の 2日にわ
たって 、新宿御苑の壁装館ホlルで、雨雀
ζの祝典がもたれた。
先生には土方与士山先生とともにゆかりの劇
﹁演劇会議﹂誌も協賛の栄に浴していたの
団青年劇場の主催で、
て、大きなものを失った様に思います。心か
域演劇を生み出して行く同志として先輩とし
られない心暖まる話、
にあたる尾崎宏次氏の側近者でしかったえ
両氏の司会ではじまり、雨雀先生とは縁戚
午后2時定刻に、後藤陽士口、小竹伊津子
で、第一日自に参席した。
らのごめいふくを祈ります。
かくしゃくとして﹁種蒔く人﹂時代を語る
劇団静芸
黒沢議長御逝去の報は‘黒沢氏が建設座で
活動されていた頃からの深いつながりと、地
︵山桑名市森忠睦美ケ丘一 O五八
O五九四l三一|四二一 O︶
知らせ。ーとれらをしっかりうけとめ、秋公
演にとりくみたいと思います。
八月のゼミを成功させるための準備も 、奥
羽。フロックカをあげて進めています。仲間の
皆さん、ゼミで会うべし。来てけへのl。
︵
係 ・佐藤︶
ふじビル 4 F
︵附青森市本町一六|一四
。5月刊叩目、高橋健演出﹁竜の子太郎﹂を市
名作があるが、乙れは難しいから、青年劇
金子洋文氏、雨雀先生には﹁土地﹂という
m
∞才の高齢ながら、
民文化祭参加で市民文化会館で上演。五百名
の観客で一定の成果をあげたと思います。
いには満座爆笑した。つづいて、雨雀先生
場の力相応花、いい所だけ拾って演りなさ
の戯曲の解明を茨木憲氏、童話作家として
雨雀先生のおもかげを塚原亮一氏が彼露さ
の教え児たちによる作品朗読、合唱﹁みつ
れた。後半は、舞台芸術学院での雨雀先生
ばちの巣立つ朝﹂が感銘をよんだ。
ささやかではあったが 、奥ゆきのふかい
心にの乙る記念のつどいであった。︵萩︶
については、研究資料であるため出版部数も
いただきたく存じますので、何卒御諒承のほ
んが、左記の条件で著作権使用料を払わせて
﹃プロレタリア演劇 ﹄ ︵一
ど、よろしくお願い申し上げます。
﹁
じ
一、雑誌
O 五冊︶
九
二
一0 ・六l 一
﹃プロット ﹂ ︵一九三二 ・
一l九、一 O冊
︶ ﹃プロレ
タリア演劇 ﹄︵ 一九三三 ・
Fhu
ηi
-5
6
O 一七七七七|四六七七︶
劇団すがお
。創立初周年記念公演
6月5 ・6日 桑 名 市 民 会 館 に て
。7月お目、夏の親子劇場として地元服織の
﹁奇跡の人﹂伍藤かずお演出
手話通訳を入れた公演として注目をあび 新開地区で町ぐるみで﹁竜の子太郎﹂公演に
︵鎌田︶
O五四二|七二|O六O六︶
静岡市昭府町二八九|二
09月上旬に研究生十名が、小劇湯発表。
0日月中旬、小劇場形式で本公演の予定。
ましたが 、廻り舞台を使った漸新な舞台 とりくんでいます。今年で五年目ですが観劇
装置も好評で、劇団史上初の本公演二千 後文集を発行したり、すばらしい活動をして
いる地区子供会です。
名を越える動員に成功しました。
。次回公演
日月中旬親子劇場
﹁大どろぼうホッテンプロッリク﹂
乙の公演は恒例の員弁郡下全小学校巡演
の予定作品です。
つきましては、右の趣旨に御理解、御賛同
プ ロ ット機 関誌 紙復刻 についてお 願 い とと致しました 。
謹啓時下ますます御清祥の乙ととお慶び申
くださいまして、乙の企画の実現にあたり、
関係者の皆様の御協力、御許可をいただきた
乙く限られており、近年のきびしい出版状況
ζのため弊会では乙うした資料の保存と発展
のもとでム十分なお礼を致す乙ともかないませ
力を仰きながら検討を重ねて参りましたが、
を刊行すべく、ひろく各方面の御指導、御助 くお願い申し上げます。なお、乙の穫の復刻
さて、乙のたびプロット機関誌紙の復刻版
し上げます。
:
.
u
.
J口
関 西 に お け る 戦 前 プ ロ レ タ リ ア 演 劇 の 研 究 ︿三八﹀
日本プ ロレタリア 演劇 同盟
大阪 地方の プ ロレ タリア演劇
︵
プ ロット︶大阪支部 の活動
一
九 三三︵ 昭和 八︶年
向
原本収集をはじめ諸準備もととのいましたの
ζの雑誌は、新劇、プロレタリア文化運動
出版﹂の項の最後に、私は次の通りに書いた。願い申し上げます。
月に、突然 ζれに関連する一つの資料が一通
的継承の一助になればたいへん慶ばしい乙と
シリーズの﹁ロ﹂として、乙こに復刻する乙
と存じまして、 ﹁日本社会主義文化運動資料﹂
私の手元にきた。以下はその全文である 。
と ζろが、その原稿が本誌に発表された翌おいてその復刻が強く要望されております。
釆ないというととである 。﹂︵七二頁下段︶難であり、図書館、研究機関、研究者などに
九三 三年花、四冊或は五冊発行されたのだろの貴重な資料とされていながら、相次ぐ発売
ぅ。それを正確にする ζとは、今の私には出禁止および戦災等のため、今日とくに入手困
﹁
、 一
が、とにかく ﹃プロレタリア演劇 ﹄は
欽
4
2
0
前号の﹁Dプロット機関誌 ・機関紙などので、左記の委領で復刻させていただきたくお
八前がき ﹀
(
四
大
名
E
発:
恥
一、刊行期日
て刊行部数
一、定
てその他
一1六四冊︶﹃演劇新聞﹄ 劇 ﹄の最後の一間だけが欠けている乙とにな だけは確かだと思います@
っ
た
。
t二五号︶他
一
︵九 八 二 年 九 月 一 月 毎
乙の上は、現物の復刻を早く見たいと思う。同この年の大阪の社会状況︵前掲までの項
一
なお、その後復刻版刊行会の久保昭男氏かが撤かれる
ら頂いた手紙の一部に次のようなことが書い二月︵二十日︶以降大阪を中心K、西日本の
Kダブる所があるが、地方的状況を入れて
或は、それによって、今私の書いているも
月発行全五巻
二五O セット︵うち一 00 のが訂正すべき点が出てくるかも知れない。簡略な年表形式にする︶
一月 ︵二十 ・二十一日︶ 3 Lデ|のアジヒラ
セット分は製本せず︶
000
00
円セット価格六六、
全巻前払特価五九、
ましたらと教示願えれば幸いに存じます﹂大阪地方の共産党及び左翼団体活動、但し
乙の号につきまして、もしお心当りがどさい三月︵十三日︶﹁マルクス五十周年記念日﹂
表紙の欠けた本しか入手できずにおります。挙、︵二十九日︶虐殺さる。
である。共産党、共車問、全協などの組織に弾圧︵検
0円
﹁しかし 、た だ一冊、第2次 ﹃ プ ロ レ タ リ ア 挙 約 千 五 百 名 ︶
別巻︵解説、解題、回想記、
総臼次、執筆者索引︶を最 演劇﹄一九三三年六月号︵最終号︶が、うら︵二十日︶東京にて小林多喜二築地署に検
終回配本時に発行
一、御諒解いただきたい著作
後念ながら前記のように私も、との号だけが︵十五日︶﹁小林多喜二労農葬﹂︵天王寺
乙の話は松本克平さんからも聞いていたが、記念講演会は中止︵別稿︶
東京都文京区本郷一ーー五
一九八二年三月
電話︵O二一︶八一二lO二五三
戦旗復刻版刊行会
ζれで私も一九三三年度﹃プロレタリア演
のクーデタ ー発覚。
︵市電、国鉄、海員其他の職場︶に大衆的ス
九月︵ 二十日︶労農弁護士団検挙さる。/満
州事件記念日。突撃隊編成され、大工場
卜煽動行わる。
十二月︵ 二十三日︶日本共産党幹部検挙。
︵前略︶昨年には
世界の同志と腕を組んで
乙れよりコップ活動は非合法状態となり表
大阪では、戦旗座、構成劇場によって、二
八月 ︵廿四日︶ポユウ︵プロレタリアエスベ
ランチスト同盟︶大阪支部弾圧さる。
ピラ搬
十一月 三島無産者診療所弾圧のため閉鎖。
大阪東成無産者診療所開設。
一月︵廿・廿一日︶ 3 Lデ | ア ジ ピ ラ 撒 布 川3し デ 二 月 廿 、 廿 一 日 ︶ 斗 争
︵廿八 ・廿九日︶日ソ協会大阪支部主催で
きにプロットも出動。
﹁ソヴエ lト事情展﹂が朝日ビル六階で行 川﹁国際的演劇十日間﹂に参加︵一一月廿八日
︵中略︶
国際的十日間﹂のための催し
本年の乙の ﹁
は次の通りだ
神戸、二十五日、八千代座で全線座が公演
︵中略︶
準備中、出し物未定。
京都、二十六日 、日出会館、青服劇場が公
戦旗座、構成劇場、メガホン隊︵神戸︶
︵東京︶左翼劇場、新築地劇団︵大阪︶
﹁
機関庫﹂上演に戦旗座外五劇団が参加応援
の左翼、新築地の関西共同公演、大沢幹夫作
大阪、二十八日、三月一目、中央公会堂で
演準備中。
二月︵廿日︶東京にて小林多喜二検挙︵廿九
全線座︵京都︶青服劇場の七劇団を中心
三月一日︶
日︶虐殺さる。
三月︵十三日︶マルクス五十年記念祭中止︵後
乙れに関連した記事を集めてみると、まづ
江記事が出ている。
モル卜の績は進む
﹁昨年より今年へ
大阪支部
︵中略︶
展させているのだ。
十日間﹂を迎えて、全国の活動をとんな陀進
わが日本プロレタリア演劇同盟は﹁国際的
プロット全国現勢
﹃諸君の地方は!
また同紙第四面Kも
の予定で別に出し物選定中である。︵下略︶﹄
出︶。
︵十五日︶﹁小林多喜二労農葬﹂弾圧さる
四月 ︵廿五日︶日本プロレタリア作家同盟大 プロット機関紙﹁演劇新聞 ・第廿四 号﹂︵昭
多数検挙︵後出︶。
行われた。
に、大阪の同伴者劇団も含めて合同公演が
われる。
装甲列車ぬ 1 4
月二十三日二十四日両日 K ﹁
6 9﹂と ﹁ファッショ人形﹂を上演した。
面的K姿を消す。
オルグとして、北野、工藤、米沢ら検挙。
乙の一文 Kよって、以上の乙とが一応解決 と か ら も お 願 い し ま す 。 六 月 ︵ 十 九 日 ︶ 佐 野 ・ 鍋 山 の 転 向 声 明 発 表 。
プロット復刻の内容見本は六月下旬に出来共産党除名決定。
したととになると思う。即ち
﹃プ ロレタリア演劇 ﹄︵一 九三三年一 t六 るとの乙と、新聞広告も出ているので、金額︵十四日︶松竹少女歌劇団タ lキ|水の江
は張りますが、当時の乙とを知り、現在の状滝子︵東京代表︶ら高野山花てスト開始。
四冊︶となった乙とである。
況と対比してみる必要のあるものである乙と七月︵十一日︶神兵隊事件起る。日本生産党
代表山田清三郎
欠けているので、ど−つKも出来ない。うら表公会堂における労農葬開催を予定したが弾
紙一枚では、大した乙とがないようだが、乙圧さる。︵別稿︶
れの完全なものをお持ちになっている方があ五月︵一日︶分裂メーデー︵廿六日︶京都
ったら 、刊行会 宛 に ど 連 絡 下 さ る よ う に 、 乙 大 学 滝川事件起る。
l
b
.
.
阪支部機関誌 ﹃大阪の旗 ﹄第二号﹁小林多 和八年二月十五日発行︶の第一面に次のよう
喜二追憶号﹂として発行︵発禁︶。
六月︵十八日︶東京にて第2回コップ鉱大中
央協議会開催不可能となる。
七月︵十二日︶コ・ップ大阪地協内より共産党
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8
価
大阪地方の文化状況 ︵乙れも前項の如
同大阪地方のプロットの活動状況
くダブるが、簡略な年表形式をとる︶
化1
二月一目、事務所が襲撃され、脚本審議中
東健吉めている機関助手の兄次郎と庫内手の弟勝造、
︵久保栄︶︵左︶元製紙女工の娘せつ達が蚕の乙とを心配して
演出助手渡辺三郎︵構︶いたが、遂にその蚕は死んで仕舞った。年老
所長野及び東京藤森道枝︵出札街︶三好久子︵左︶
かけて杉山文治︵機関手
︵左︶印
・借導員︶高橋政︵戦︶
一九=二年五月より一 九三 二 年 九 月 に 三 沢 精 一 ︵ 機 関 庫 主 任 ︶ 甲 府 次 郎 ︵ 構 ︶
舞台監督丹野宰吉︵構︶弓削勝造大森義夫︵左︶
小道具製作責任元木勇西清板谷国一︵構︶
大道具製作責任龍田伝大谷︵機関助手︶辻井輝夫︵戦︶
衣裳浦崎利雨子大井︵機関手︶三木護︵全︶
照明岡田猪之介第二幕機関庫︵前幕より数日後︶
ル卜デ lの斗争としては、新築地左翼合同の
だった全員が検束された。が直ちに釈放。モ
κ
さて関西 おいてプロット系の東京の二大
劇団と関西の諸劇団が総力を結集した最大の
いる状勢を乗り切らんとする計画が進展して
公演をもっ乙とで 、次第に困難にな ってきて
きた。
弓削勝進︵一二男︶︵庫内手︶大森義夫︵左︶宮板修二︵機関手︶嵯峨善兵︵左︶一
第 一 幕 弓 削 の 家 主二年の五月 上 旬 ︶ 弓 削 次 郎 滝 沢 修
つね︵母︶原泉子︵左︶堀尾義隆︵機関助手︶藤ノ木七郎︵左︶
亀吉︵父︶仁木独人︵左︶小沢末贋︵機関手︶吉岡義夫︵戦︶
西清︵庫内手︶坂谷国一︵構︶千葉清文︵機関手、従業委員︶+白川和夫︵メ︶
せつ︵娘︶宮川章子︵構︶坂口俊︵機関手、従業員︶島田敬一︵新︶
文吉︵四男︶篠山信一︵戦︶助役田淵貢︵構︶
八千代座
x吏の減給は近い将来に下給従業員の賃銀引
て帰って来た従業委員の報告を中心に、官同給
小沢末魔吉岡義夫︵戦︶
木下大佐三木蒙︵全︶
助役田淵貢︵構︶
駅長永田修二
森雅也
木田信一
前田龍一 ︵
戦
︶
高利貸へ返すために働いている。機関庫に勤キリスト教の﹁人若し汝の右の頬を打たば左
家中のみんなが、蚕を養い、それで得た金を勝造はまけぬ気で上役K反抗するが、次郎の
では肥料の値上りや物価騰貴を乙ほしながら、すい込む練習を強いられていたのに対し、弟
諏訪湖畔の機関庫の傍ら、自作農弓削の家能率増進のためにボイラーの中に石炭を速く
ピラを撒く男森雅白機関庫で次郎は肋膜を病んでいながら、街
弓削次郎︵次男︶︵機関助手﹀滝沢修︵左︶其他庫内手多勢
中央公会堂
日ノ出会館
まづ上演脚本とスタッフ ・キ ャストを紹介
しよう。
プロレタリア演劇の
国際的十日聞東西合
同大公演
於二月二十五日
二十六日昼夜
二十八日
三月一日
大沢
六幕
の頬を打たせよ﹂の文句と共になだめられる。
他の従業員達は、乙うした騒ぎの中に東京の
下の先ぶれだと不平を云い合っていた。その
堀尾義隆藤ノ木七郎︵左︶
鉄道本省へ出かけて高給x吏減給反対と唱え
中で宮坂は従業委員のダラ幹ぶりにアナキ l
臨時列車の運転事務に追われ、出札債の道枝
で混雑する駅のホ 1ムで、駅長達は頻発する
郷里へ帰える製紙女工とそれを見送る人達
k発言し堀尾や小沢の正しい組織の活動を妨
害していた。
原泉子︵左︶
大井夏子
第四幕 宮坂修二の家︵周年七月二十一日夜︶
恋する堀尾花勤まされ斗争の戦列 参加する
決意を固めたl。
κ
は釣銭の間違いから悲しんでいる時、彼女の
杉本英子︵構︶
森正子
宮川章子︵構﹀
第三幕停車場︵三二年の一月下旬︶
女工 A
B
E
郁夫浅野翼︵矯︶
みよ子︵宮坂の委︶柳春江
三好久子︵左︶
嵯峨善兵︵左︶
堀尾義隆藤ノ木七郎︵左︶
宮坂修二
宮坂修二嵯峨善兵︵左︶
暴風雨の夜、宮坂は遂いに同志を裏切って
るの
)))
))))))))
九遇済の)))
其他
藤森道枝︵出札飴︶
田村豊子︵構︶
弓削次郎滝沢修︵左︶
千葉清文古川和夫︵メ︶
出札掛
新田育男︵構︶
駅員
石井発津子︵戦︶
1
庫
備山信一︵戦︶
ηノu
モタンガール l
て間近かに迫った従業委員の改選の手伝いを
l
夫
酔いどれて帰宅すると、従業委員の千葉が来
してくれと買収される。と次郎が労働強化の
前はか体
幕|けで
の。る宮
ぎ限前一辻高嵯西木三藤大島吉坂甲三森古前辻翌
た坂
ゎのの白井橋峨山田好ノ森田岡谷府木
川田共朝
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左左左新戦構構会
メ戦戦
く夜
さ給関八
れ年庫月
渡恩機
第 そ貨過
幹
原哲子︵戦︶
三浦豊
云額は船
3 2
と出ている。
舞台装置菊池良吉いた母は悲しみのあまり発狂して・:・。
出
﹁機関庫﹂関西公演に 、別陀一つ出し物を上
演して媛けるための準備をむしつつある。﹄
演
生
関
京神
都戸
大
阪
井泉肇
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村藤掘弓坂小西三大機千炭大五の物労
の森尾削口沢
沢
関葉台
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1
時
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,
,
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るーーー。
其処へ 、昨夜の貨物列車の運転中ボイラ ー 憎しみの中に更に悲恰な斗争への意志を固め
て全身大火傷をした次郎と助かった
が爆発し・
宮坂が帰ってくる。
廿八日三 月 一 日 大 阪 中 央 公 会 堂
旗座構成劇場大阪メガホン隊新人
出 演 劇 団 左 翼劇 場 新 築 地 劇 団 大 阪 戦
︵左︶東京左翼劇団︵新︶ 東 京新築地劇
だけやっと公演したのである。しかしそれも
以上の内、結局神戸、京都は駄目で、大阪
劇 場 ア ル ス ピ l タl小 劇 場 京 都 青 服
団︵戦︶大阪戦旗座︵構︶大阪構成劇
杉本英子︵構︶
松原卓
﹃B本に於ける ﹁国際的十日間﹂ の諸成果
κ
のあったのち、やっと公演の自由を斗い取っ
大阪では、当局との交渉で多少のゴタつき
て語り合った。
的十日間﹂の一文において見る乙とが出来る。て座談会を開いて、大いに当局の不当を抗議
する事を決議し、国際的十日間の意義 つい
、
の報告は 、次の如く﹃プロレタ リ ア 演 劇 ﹄ 第 り た の だ が 興業を許可されなかったのであ
二号︵一九三三年二 ・三 月 合 併 号 ︶ の ﹁ 国 際 る 。 京 都 で は 、 そ の 夜 、 百 余 人 の も の が 集 っ
乙の公演についての、プロットからの正式駄目になったのであり、京都は脚本検閲は下
神戸は脚本の検闘が遂に下りなかったため
劇場神戸全線座
不満の機をとらえて 、堀尾や道枝達の現業委
場︵メ︶大阪メガホン隊︵全︶神戸全
︵︶ 内は所属劇団の略名
xxk
︵
註人名
員会反対、自主的従業委員会の結成、
不完全な姿で。
八月一日 / 御 船祭をよそに全従業員の不平
依る労働強化 反対斗争のための精力的に此の
線座︵︶なしは不明︶
怠義ある日を斗っていた。
鉄道病院︵同年十月︶
木下和子︵新︶
弓削次郎滝沢修︵左︶
第 六幕
2
看護婦l
弓削藤造大森義夫︵左︶
小沢末広吉岡義夫︵戦﹀
西清坂谷国一︵構︶
藤森道枝三好久子︵左︶
たのであるが、初日も次の日もファシスト共
東京新宿の鉄道病院で一カ月半の入院生活︵前略︶
より織り出された芝居であったのだ。当局は
的 妨 害 で あ り 、 官 憲 と フ ァ シ ス ト 共 の 共 謀K
の妨害により、開幕中途から公演中止の止む
の 後 、 や っ と 火 傷 の 傷 も 癒 え た 次 郎 の 処 へ 勝 次 は 大 阪 、 京 都 、 神 戸 だ が 、 ζれは東西合
なきと至った。乙れは 、 ファシスト共の計画
κ
造の姉が再び製紙工場へ入り、 今 ス ト ラ イ キ 同 大 公 演 の 形 で 持 た れ た も の で あ る か ら 一 緒
して論じよう。乙の東京、大阪、京都、神
に入らうとしている報せを持って見舞にくる。
次郎も此の病院生活の間Kキ リ ス ト 教 宗 戸 の 東 西 合 同 大 公 演 は 始 め 、 次 の 様 に 計 画 さ
ファシスト共を使って開演中に客席にビラを
教への信仰をかなぐり捨てて兄弟全部が、全れた。
従業員と力を合せて斗う決意をする。そ乙え出し物大沢幹夫作﹁機関庫﹂六幕
中止させる手段を取ったのである。大阪の二
集まった観客には 、 公 演 中 止 の 己 む な き に 至 暴 力 団 の 男 た ち は 、 ニ ヤ ニ ヤ 笑 い な が ら 箸 官
手をうってきたが、当日会場の 日 ノ 出 会 館 に 私 も 一 人 の 男 を つ か ま え て 管 官 に 渡 し た が 、
まかせ、観客の動揺するのを口実に、公演を
小沢達が見舞花、続いて道枝が 、夫 堀 尾 が 敵 期 日 場 所 二 月 二 十 五 日 神 戸 八 千 代 座
日之出会館
日間の動員は約二千二百六十八名︵内労働者
の手に捕えられた事を報せ K来 る 。 | 皆 な は 二 十 六 日 京 都
七三%︶であった。︵下略︶﹄
κ抗議したが、
った理由を述べて諒解を求め 、 そ の あ と 座 談 と 話 を し な が ら 、裏口の出入口から出ていっ
との大阪公演には、私もメガホン隊所属の会を闘いて出演者と懇談、﹁国際的十日間﹂た。それを見て私たちは警宮
プロット員として参加していた。の意義とプロットの活動、さらに警察当局の﹁もうおとなしくなったのだから釈放した﹂
との公演に際して、最初は大阪側としては、暴挙を指摘して、全劇団と観客の抗議文を作と平然というのだった。
作品の検討を始め、移動劇団メガホン隊が主混乱しているから興行を禁止する﹂と宣言、
なんとか一幕物でも出そうかとの意見もあり、制発表する乙と決定した。やっと所轄天満署から箸長が来て﹁会場が
体 と な っ て 一 本 を 、 と も な っ た が 、 い よ い よ さ て 、幕は上げられ 、舞 台 は 順 調 に 進 行 し 直 ち に 会 場 を 閉 鎖 す る よ う 命 令 し た 。
の ﹁ 機 関 庫 ﹂ が 大 物 で 、 繕 古 も あ る し 、 と い 三 ケ 所K屯 し て い た グ ル ー プ が 一 勢 に 立 上 っ 力 団 の 暴 力 に い き ど お り 、 警 官 の 不 当 な 判 定
と な る と 、 適 当 な 作 品 も な く 、 ま た 合 同 公 演 て い っ た 。 だ が 、 第 一 幕 が 終 る 直 前 、 二 階 の 会 場Kはそれでも数百名の観客が筏り、暴
う乙とで流れてしまった。若し作品があれば、て階下に向ってビラをなげはじめた。何であ K怒りの声を合せ た。 私 たちは直ちに興行継
私の演出になる筈だったが、乙れで今回の公ろうかと、観客は立ち上ってビラを拾いはじ続を所轄に委講しようと訴え、デモを組織し
演には私は重要部署もなく、遊軍的に大阪公めた。次の瞬間、一階入口の通路から数名のて、公会堂前の橋を渡った処にある所轄天満
である中之島の中央公会堂︵市立で現存してにおどり上って、下りかけてきた幕をくぐっ所にあり、向いは地方裁判所で、笹察から未
演だけ手伝う ζと に な っ た 。 大 阪 公 演 の 会 場 男 が 、 通 路 を 叫 び な が ら 舞 台 に 殺 到 し 、舞 台 署 に お し か け た 。 ︵ 天 満 署 は 現 在 で も 同 じ 場
いる︶に行き、開場を手伝ったり、舞台裏をて舞台にいる俳優たちになぐりかかった。決の者を一時拘置する現在の問題の嘗察拘禁
見廻ったりしていた。私たち舞台轟にいた劇団員は、直ちに舞台法の戦前の悪名高き響察であった︶
に私たちは弁護士小 岩井浄氏と連絡をとり、
と乙ろが、会場は、階下席はまづ一杯だつに飛び出して、乙の暴力を阻み、一方舞台裏﹁興行禁止﹂の不当解除を要求した。交渉中
た が 、 二 階 席 は 、 正 面 と 上 手 、 下 手 の 舞 台 さ や 、 会 場 出 口 に 来 て い た 警 官 を つ れ てきて 、
わ の 三 ケ 所 に 小 人 数 の グ ル ー プ が か た ま っ て 暴 力 を ふ る っ た 男 た ち を 警 官K引 き 渡 し た 。 氏 を 警 察 署 に 迎 え 、 そ の 不 当 性 を さ ら に 追 求
、 一度出した命令を撤回
六時半、開演のドラが鳴り、世帯は上った。撒かれたビラには﹁赤の芝居をたたきつぶする命令権を持つ者は大阪府知事しかいない、
いた。会場は騒然となって成行きを見守っていた。した。しかし署長は
廿 六 日 の 神 戸 は 検 閲 で 上 演 禁 止 、 廿 七 日 の せ / ﹂ と い う よ う 江 文 句 が 書 い で あ っ た が 、 と い っ て ゴ 7かした。そ ζ で、小岩井氏を先
京都は、脚本は通ったが、興行不許可という疲念ながら証拠品は筏っていない。頭花、劇団員と観客は更にデモを組んで、天
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6
2
る。全集第十二巻の﹁白稿制作年譜﹂の中に
のっているもので 、 ﹃機関庫﹄の演出者、久
乙れは﹃久保栄全集﹄から採ったものであ
保栄のメモである。
一月一二/後六時文芸部会﹁機関
﹁昭和八︵一九三三︶年幻才
になっている︶でも次の記述がある。
また同書の﹁伝記おぼえ書﹂︵本文は償警
演出を兼ねて大阪に赴く︵一六三頁ご
記念︶関西公演の組織と﹁機関庫﹂の
二月l ﹁国際的十日間︵モル卜一周年
﹁一九三=一︵昭和八︶年幻才
が、乙れはプロット史における重委事件の一
官権が暴力団を使って、上演の自由を
奪う乙とを企画、実施した乙と。
口傭われた暴力団は、臼本生産党であっ
た乙と。今日まで右翼暴力団として有名
H
つであると思う。
かったから、あの報告しか書けなかったろう
前掲のプロット常中委の意見を書いた松尾
満橋を渡り、大手前の大阪府庁に向い、すで
に正面一扉の閉っている府庁正面前で、知事 K 卓一は、乙の時は東京にいて大阪に来ていな
不明という乙とで、抗議は翌日に筏す乙とに
面会を要求した。だが、知事は不在、行方は
して、一応解散した。
κ二
翌三月一目、事態は変化なく、六時半
日目の幕は上った。観客席は前日を少し上回
る位だったろうか。しかし前日と同じように
であり、ファッショ的存在である。
第一幕が終らうとする直前、会場に潜入して
いたと恩われる暴力団によって、二階からビ
の年表中に
それを実証するのが、今迄に書いた今年
κ
ラは撤かれ 、十名位 の男が舞台K躍り上り、
をとりあげておいたが、その主謀者の中
H
機関庫川︵作︶大沢︵演︶東︵助︶
庫﹂審議
ていなかった私たちは一瞬虚をつかれた形で
に日本生産党が関与していることを見て
七月十七日神兵隊事件
演技者 なぐりかかった。
まさか、同一の場面が繰返されるとは思っ
あったが、直ちK前日の体制をもって対処し
日 回 ︵ 築 ︶ 三O 一五人
全
二 月 国 際 的十 日 間 東 ・ 浅草公演 H
ω
砲艦コ
H
︵脚︶トレチャコフ/
クチユフエル
H
間に正面衝突が起っている乙とに注目さ
田辺︵2/ロから8日M回 浅 草 カ ジ
大隅︵演︶岡倉︵助︶依︵装︶
μ
︵演︶西︵装︶金須
九木︵装︶菊地︵l/幻|2/凶︶日
たが、総ては前日と一分も違わない方法で執
欲しい。
既に満州事件の発生している乙の時期の
線
行され、暴力団は裏口から自由釈放、興行禁
右翼ファッショの活動と、われわれとの
れたい。
私たちは今度は、観客に訴えると同時に、
止となった。
当時Kおいては、そのような関連と分析
機関庫
H
国際的十日間関西公演
︵左、新、神全京青大戦構共
同公演︺ 2/お神八千代︵禁止︶ 2
H
ノフオ lリ!︶
に押しかけた。乙れも前日同様のやりとりに
はまだ充分に出来ていなかった。
直ちに府庁に向ってデモを組織し、大阪府庁
乙れが、大阪における合同公演二日間の真
終った。
lv
八注
乙乙で一つのエピソ ード を婦人しよう。
大講
マルクス五十年祭記念
である。
相であった。乙れは私の実際に体験した記録
乙れは既K記しているように、大阪は2月
2/お|3
/お幻京日出︵興禁︶
以上略記号で書かれた処が多いが、乙とでを終えて、次のカンパニアの準備を進める乙
彼は文、無産階級解放運動に直接参加した。
彼の山の様な、実に偉大な著作は、俺達の
武器だ。
κ ﹁父危篤﹂の電報を受取り、直ちに久保は次のカンパニアとは﹁カール・マルクス没
は彼の偉大な業績である。インターナショ
世界中の労働者の団結の為めの斗争、それ
ナルの結成、第一一一インターナショナルは彼
﹁民主評論社﹂︵昭和M年7月刊︶の﹁新
三日夜、大阪天王寺公園内にある府立天王寺
祭記念講演会発起人会﹂が組織され、三月十
関係ある各団体を統合して﹁マルクス五十年
具体的に証明されてゐる。
ソヴエ卜同盟で、亦世界資本主義国家で
切の真実性は社会主義建設の勝利に輝く、
彼が死んで五十年後の今日、彼の言動の一
の仕事の基礎の上にうちたてられた。
劇の四十年﹄に附録として﹁新築地劇団上演
公会堂︵現在なし︶花おいて、大衆的集会を
大阪でも、その当時のプロレタリア文化に
はその先頭に立つことになった。
記録﹂がのっているが、昭和八年の頃K次の
無産弁護士
浪江次
辰己世
太田博
︵順序不同其他十数氏︶
迎えられるマルクス五十週年祭に参加せよ。
如く記載されている。
乙のピラは直ちに各方面K撒 か れ た 。 同
ので、それを披露しよう。日ソ文化協会
幸い大阪での五十年祭のピラを持っている講師
事を受けもち、講演者の顔振れを決定した。
コップ各加盟問問は、それぞれ分担して仕
諸 君 切 迫 し た 国 際 、 園 内 状 勢 の 中K、
を神戸
H
国際的十日間関
H
共開演中途にて中止解散さる︵二二九頁︶﹄
大阪は日本生産党の暴力妨害により三日
演しようとしたが、神戸、京都は上演禁止
京都、大阪でお、初、幻、ぉ、引の順で上
西公演として、大沢幹夫 H機関庫
成座間構成劇場共同で
﹃左翼劇場、新築地、神戸全線座、大阪戦
開く乙とKなった。
︿注2 ﹀
は補足しない。ただ、廿四日大阪での稽古前とになった。
帰京した。久保は神戸、京都、大阪での﹁機役五十年﹂を記念して、日本の各地で記念祭
力l ル・マルクスは無産階級運動の父だ。
三月十四日はカール ・マルクス の五十年祭
於天王寺公会堂
三月十三日夕六時半
幻目、 3月1日の二日間で、 ζの年は間年
でお日はなく、引は3月 l日の誤記である。
/1大中央 公会堂︵二五OO人︶日本
生産党/妨害ニヨリ中止舞台ゲイ古
前父危篤の電報幼稚園で稽古島敬
東京公演中単身大阪へゆきケイ古する︶印﹁マルクス五十年記念講演会﹂︵三月十
M臼 父 兵 太 郎 十 ︵ 死 去 ︶ ﹂ 三 日 ︶ と ﹁ 小 林 多 喜 二 労 農 葬 ﹂ ︵ 三 月 十 五 日 ︶
A
関庫﹂上演の状況を体験出来なかった。を挙行する方針であった。各地のコップ地協
︵一二二六二三七頁︶とにかくにも関西での﹁国際的演劇十日間﹂
寅
,
-6
4
-6
5
=
源経
=
同
医療同盟
作家同盟
問
同
演劇同盟
問
美術家同盟
弼次
審志雄
麟太郎
桓夫
戦旗社
申込所
北区中野町三ノ九三
と乙ろが突然的に二月二十日の小林多喜二
前記の如く、﹁マルクス五十年祭﹂は集会
禁止、続く﹁小林労農葬﹂も弾圧によって、
ふみにじられるという野蛮な作戦がとられた
との状況を﹃プロレタリア演劇﹄︵一二三年
のであった。
四月号︶は次の如く、二つの集会の大阪支部
が検挙され、築地位置察署において虐殺された
という悲報が発表された。乙の有名な作家の
繁
三郎
モルト日本支部プロット書記局
プロットの旗は進む
﹃
の報告として発表している@
乙の時期は丁度、関西では﹁機関庫﹂上演
死をおおいかくす乙と出来なかった。
三郎
欽治
のため京阪神三都では忙しい時だったので、
会大阪支部
源三郎
A 東京左翼劇場新築地劇団大阪支部三劇団
一時は荘然とした。しかしやがて中央からの
た
。
抱令に従つての行動が展開される乙とになっ
芳松
浩
浄
の公演に対するファシスト生産党と官犬との
即ち、三月十三日のマルクス五十年記念集 共同公演によって﹁機関庫﹂を上演した。乙
会は、コップ主催という理由で当局から禁止
コップ機関誌﹃プロレタリア文化﹄︵三三
祭カンパに於ては準備斗争期間を通じて全員
B 二月二十日l 二十八日のマルクス五十年
書を発表する。
されたので、ご一月十五日に、﹁同志小林多喜 共力による妨害に対して劇団より抗議文声明
年二月号︶は﹁マルクス五十年祭カンパニア
二労農葬﹂に結集されるととになった。
読め二十五セン
作家同盟大阪支部事務所
﹃プロレタリア文化﹄︵三月号︶を﹁小林労
計画し、またコップ地協の指導の下にかかる
つ事、及び芝居物語その他の出版物の発行を
展開のために、新テーゼ研究会を統一的に持
︵幻頁よりのつづき︶
八木浩氏の報告
そういうととをぼくはあの時、プレヒトの家
で講演したかったのだ、と始めてオランダで
ルト大学もプレヒ卜の家で、アジアにプレヒ
しみじみ感じたものである。とKかくフンボ
κ
トが生きている乙とを、このような意味で日
例
をとって活してみた。そしてそれがそうなら
本、韓国、中園、インドなどとプレヒト
- 6
6
プロキノ
農民
ット機関誌﹃プロレタリア演劇﹄︵二・三月
農葬・マルクス印年祭特集号﹂とし、プロ
K際して﹂というアッピールを発表、続いて サークル配属の実践化と教育活動の活発なる
︵労働者農民の
週間には移動活動の強力の展開、特に五日の
準備活動の上 K一二月一日l十三日の宣伝斗争
大衆の支
唯一の大衆雑誌
合併号︶は、コップの﹁マルクス叩年カンパ
ップ大阪地協の自己批判として、五十年祭カ
ンパと労農葬を切離して問題にされた事、計
画の不充分さ、アヂプロ活動の不活発等が指
摘された。﹄
失反デ l kは失業者衝に持ち込みを行い、そ
働く婦人
釈
?
放/
ニア﹂と﹁同志小林労農葬K参加せよ﹂を掲
卜
さ
載した。
益
百
ソヴェ l卜の反
ん
,
_
,十
r、
乙の労農葬カンパに対する大阪支部及びコ
部ノ
︵つづく︶
ねばならぬ、との強い決患で日本の土を再び一
踏んだのである。肝
五
れ)
の他講演会、展覧会、プロキノ公開への積極
的応援参加、演劇講習会の開設が行われた。
その成果については未だ報告が無く不明であ
るが、十三日に予定守口れていた講演会はコッ
プ主催という理由によって禁止された。
モルトデ l公演及び ζ の講演会等において
最も直接的に表われた白テロの強行に対する
日関
前係
後約
殆五
ι
込
大衆的逆襲の斗争は、三−一五同志小林労農
葬に結集され、コップ地協及び全農、市電自
助会、総評、労救等によって戦線統一のため
の団体協議会が設置され、その統一的指導の
セージの作製のために精力的に斗争を開始し
下花、アヂプロ活動手展開し 1 慰 問 金 、 葬 儀
基金の募集、サークルよりの抗議文及びメッ
た。かくて三月十五日労農葬は、午後三時よ
り、天王寺公会堂一で大衆動員を以って公然た
る開催を斗い取るべく決意されていたのであ
るが、五口々の逆襲に対して、極度の恐怖を感
じた笹察当局は、十五日正午を期して、各団
体の事務所を襲撃し、指導的分子の総検によ
ー ツ
十プ
券
拾方
銭 ζ
i
って労農葬ブッツブシを計画した。 ζれに対
して吾々は当日午後七時、指導部との連絡の
、コ
つ牲
た者
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労農救授会
ク|局
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十者|前小道竹谷大渡田藤武岩伊
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祭一|田井康内
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北区中野町五丁目三O
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不備のため統一的には行われなかったとはい
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え、心斉橋附近に約二十名の動員を以って街
頭デモを決行した。
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靴とくる。とてもとても山奥の現湯へ
演劇祭を見せてもらった全体の印象としてさ Eか 心 配 だ っ た 。 に 、 革
は、前のべた通り、演技が着実にのびているところが幕が開くや、私は芝居の中にずん来れる姿ではないから奇異である。
というととである@演技以前のくせとか、行ずん入りとんで行ったのである。それはさておき、そ乙で新聞記者から、か
動として解放されてい江い動きが殆んどなく、乙の芝居は劇団さっぽろの二十周年記念とって ζの部屋のタコだった中村秋蔵の生き埋
と乙ろが、それとは逆で演劇祭の観客は惨々全道各地から公演要請が起きたのだ。乙うしなくなり、ようやくタコ部屋は団結しはじめ
演技が創造としてかみあって来たからである。して上演されたもので、初演以来反響をよび、め事件が知・りされる。ケガ人の作次もついに
κ
たるものといってい、だろう。広い市民会館て再々演に入った舞台で、今回も五十ステ | る。乙うして北海道の悲惨な開拓史の中に観
﹁可哀そうねえ、乙れじゃやる気しなくな働現場である。﹁流氷の海に女工節が聴える﹂といって問題がないわけではない。何とい
OO人 い な い の だ 。 ジ を 乙 え る と い う 。 客 は 重 く 沈 む の で あ る 。 私 は 劇 団 さ っ ぽ ろ は
の客席 一
私の後にいた女の二人の先生が舞台は常紋トンネルのタコ部屋の苛酷な労一つの財産をもったと恩った。
るんじゃないの﹂といっておられたが、観客の男性版といってい、。大正初期、網走へ向っても二幕である。二幕の導入から、演技も
に同情されるようじゃ、まさK惨めである。う鉄道はタコ部屋労働Kよって生れたのだ。演出も戯曲もといってい\説明的である。
観客のいない演劇なんて演劇でないからだ。周旋人によってタコ部屋に送り乙まれた以上、まず作次の女房みよ︵長谷川京子︶に怨念が
舞台稽古を三本見せてもらった感じである。そ乙には一日十六時間の奴隷労働がまっていない 、呪いがないのだ。それが棒頭吉川︵吉
考えなければならない問題といってい、だろるのであり、そ乙から逃げる乙とはできない。川雅喜︶に鬼気迫るものを与えるとしたら、
演劇祭も無事K終って、劇団さっぽろの﹁常も半殺しにされ、つれ戻されるだけなのであそして、一幕で団結できなかったタコ部屋
ぅ。十重二十重の監視の目があり、逃げたとして舞台はさらに光るにちがいないと思った。
紋トンネル﹂の小樽公演を見せてもらう乙とる@の団結のモメントが生き埋めになったという
にな った。五日朝四時に起き、特急﹁北海﹂ある日夕コの作次︵今野史尚︶がケガをし、知りもしない中村であり、その舎弟になる乙
で函館を発った。七月の朝は早い、もう透き死の寸前にある。乙の状況から脱出しようととを誓うのも唐突である。中村の仲間で、棒
さすが連日の乙とでうとうとと体は重いのだ。とめようとするが、部屋はまとまらない。乙とすれば、その具体的な話によって爆発して
とおるような青空に包まれていた。それでも、山崎︵奥山重宏︶は親方への要求八ケ条をま頭が怖しくて口 K出せない者が一人でもいた
小樽の中学校六校の演劇教室で三日間の連続うしてトンネルは貫通する。道議会議員井駒もい、もしかし、中村のととについて全く知
公演の初日で、九時半開演という。乙れじゃ︵平川ひとし︶新聞記者中沢︵斉藤泰隆︶が識のないものが、中村の話を聞いて団結し、
開演と同時に眠ってしまうのでないかと、いお祝い花やってくる@ ζれがフロックコ 1卜八ケ条の要求となり、さらにその首謀者は山
も誰も立上らない。そして、それが突如中村
崎ときめつけられ、山崎一人叩きのめされて
﹁流氷の海に女工節が聴える﹂ Kしでも、
とを改めて教えられたといってい、のである。
即ち、地域性乙そが普遍性の基礎である乙
秋本博子
︵
劇団弘演 ︶
ー ﹁一人の教師と十四人のエリートたちに劇団支木︶ |
きわやかなアン サ ンブルー
評
北海道を舞台にした創作劇の強味を私は知っ
たのだ。
の回想となる、どうしても凝縮しない、しま
らないのだ。
また、もう一人の棒頭きんすじ乙と中塚
︵篠原章︶は軍隊帰りで鬼と怖れられている
のだが迫力が江い。弱さを補うためにがなり
たて、みいるような演技のひ弱さが感じられる
のである。新聞記者も線が余りにも細い、声
の音質も含めて細いので、最後のナレーター
がしまらないのである。親方の女房のセツ︵山六月二十四日青森市民文化ホ
ー
ル
で
劇
団
支
入学時三十八人だった乙のクラスも今では
下孝子︶も姐御 c
つ
く
り
が
邪
魔
に
な
っ
た
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で
木
第
十
七
回
公
演
﹁
一
人
の
教
師
と
十
四
人
の
エ
リ
半数以下の十四人。働きながらの、又は全日
なく、最後の乱斗場面の行動が実陀あいまい l卜たち﹂︵きしだみつお作・中野健演出︶
制入試に失敗した敗北感をのり越えながらの
ありながら、それ守れの人生をく Yり ぬ け 、 舞 台 は 定 時 制 高 校 の 保 健 室 。
た乙とを忘れてはいけない 。労務者のタコが圧倒されてし・まいました。仕事の都合で遅れ
それぞれの個性をもち、はみ出し者の集りでて来た連中は通路に坐つての観劇でした。
を作ってそれぞれの悩みを分り合う、落ちこ
案し決定させました。乙れまでにも学級新聞
クラス全員参加で総合優勝をという目標を提
て乙の生徒達K友情と連帯によって生きる喜
で あ る の が 銭 念 だ っ た 。 を 観 ま し た 。 多 少 早 め に 着 い た の で 会 館 の 喫 勉学は厳しく、ともすると無気力な、なげや
しかし、批判をどんどん重ねて、よりい、茶室でのんびり食事をしている中に会場は超 りな気持に流されてしまう。野村は何とかし
なお生きようとする、そ乙にまさに真擦の人いま校内クラス対抗の球技大会が開かれて
ぼれそうになる仲間を班単位で励まし合う等
と友情を今一ったしかなものにしようと懸命
変えて来ました。乙の球技大会を通して団結
びと力強さを与えたいと、今回の球技大会に
間を見出しえですがすがしい舞台だったのでいてバスケットの試合の真最中。四年機械科
して今では全校への出席率をほとるクラスに
舞台にしたいという衝動にかられる舞台だっ満員、あわてて空席をさがす始末で、先ずは
ある。の担任教師野村︵藤原浩平︶はその応援中ア
乙れで劇団さっぽろは北海道文化の大きなキレス騰を切ってしまい、乙の保健室で応急
ですが不慮の怪我で保健室の簡易ベッドに釘
核花なる跳躍台に立ったといってい、と思う。処置を終えたと乙ろです。下手奥の体育館か
との財産を生みだした意味は実に大きい。らは時折生徒のかん声が聞えてきます。
-7
0
- 7
1
.
劇
、先
その
とし
きの
陽は
そして乙の劇団の魅力は、創立時に
行
戯太曲
を﹂忠 実 に 舞 台 化 し よ う と す る 誠 実 な 劇 団
リか
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l作
森久 方 ぶ り に 、 観 劇 で
回け
公演
ム心・ゴ
て い た 自 立 演 劇 運 動 の 創 造 理 念 を 忠 実第
には受
のマ
姿キ勢シも
地|
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た、。
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演出
どん
﹂た 時 間 の 連 続 を 味 わ う 乙 と が で き た の
継 ぎ 、 そ れ を 発 展 さ せ よ う と し た 点本
に景あ
。﹁緊
張底し
今度
明治
﹂と
順番
そ の 理 念 と は 、 現 実 を 変 革 す る 必 要そ
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、て自
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幸﹁せ
だの
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、う残
念に
なな乙 と に 、 先 に 述 べ た
。点 で 共 危 倶 を ぬ ぐ い 去 っ て は く れ な か っ た 。
らが痛切に体験している﹁労働﹂のる
地
有させ、それを手段として、社会の変革を自力演の幕がおりたあと、つい先程まで舞台
のか
り超
る乙
難し
指す人と人との、あるいは人と社会とのか
のえ上
でと
展の開
ささ
れていた﹁明治﹂の時間が、見
職業的劇団が、いち早く放棄せざるを得な﹁明治の枢﹂を観てとはしなかったからだった。
わりを内容とする劇形式の創造といえよう。終ったぼくの胸に、再びあっく生き続けよう
依然として堅持しているととに、ぼくは心かを取り上げるときいた時、ぼくは無性になっ劇は、やはり悲劇でしかなかったのだろうか、
かった貴重な創造路線を、ひとり﹁未来﹂が去年の秋だったか、﹁未来﹂が﹁明治の枢﹂云いかえれば、﹁明治の枢﹂なる﹁歴史﹂
らの拍手を送りたい。かしく江っていた。というもどかしさでもあった。
いま﹁未来﹂の公演記録を繰ってみると、の存在だった研さんが、職業作家として自立名すら浅さはい若者たちの、痛みを伴なった
し か し 、 劇 団 の 勝 負 は 舞 台 に し か な い 。 第2期の自立演劇運動の中で、異色・異才さらに云いかえれば、劇中の、歴史にその
結成後の叩年までは、部分的ではあったが、した直後の気負いの中で書き上げた戯曲を、鋭く強い生き方の表出を、自立演劇の俳優な
素朴というよりも稚拙な演技と直面させられ、彼の処女作﹁僕らが歌をうたう時﹂を大阪府れば乙そ、との期待が強すぎたからだったの
他人事とも思えずに砂をかむような苛立ちを職演劇研究会で演出した乙とが契機となって、かも知れなかった。
それが、波田久夫という俳優を迎えた叩年目因縁を持つ寺下兄が演出するというのだ。曲のととにふれなければならないようだ。
覚えた舞台が、数多かった乙とを思い出す。大阪|東京の交流運動が始まるという貴重なその乙との説明のためには、しばらく、戯
銅山の鉱毒事件を素材として、その斗いに半
衆知のようK、戯曲﹁明治の枢﹂は、足尾
あたりから、舞台はすっきりと安定し始めた。なつかしさとは別に、危倶も感じていた。
それらの中で、とりわけ次の四つの舞台から果して﹁未来﹂の力量で、ぶどうの会の初演
を得なかったのではなかったかと、一瞬、誤
その限りでは、作者自身も述べているよう
造︶を主人公ょした﹁歴史﹂劇である。
生のすべてを捧げた田中正造︵劇では旗中正
からの問いか
第ロ回公演大橋喜一作、森本景文演出﹁コけが、今日の客席にどのように有効に届くの
受けた感銘は深かった。時とは時代状況の違う今、舞台
美しさ、生活体験とその観察から生れるリア
ンベア野郎に夜はない﹂だろうか::と。
第山田公演和田澄子作、寺下保演出﹁あ舞台は、かなりのまとまりを見せていた。
に ﹃鎮魂のための終曲﹂での主人公の完壁な
部についての批評を省略した乙とは申し訳な
死に象徴されているように、乙れは、完壁な
リ
テ
ィ
、
劇
主
題
へ
迫
る
切
実
な
ひ
た
む
き
さ
、
等
解したほど、その部分的な舞台の破綻は、ぼ
悲劇である﹂と云えよう。だが﹁明治の枢﹂
々
であるのだがーーー。
くにとって象徴的だった。
における作者の主題は、乙の戯曲を悲劇とし
考えてみれば、それらを﹁明治の枢﹂の舞
て完結させる乙とを許さなかった筈である。
台に期待し過ぎたのは無理だったのかも知れ
﹁未来﹂の未来Kょせる期待
その主題とは、乙の前後の作品群をみても明
な
い
。
何
故
な
ら
、
今
、
ぼ
く
ら
の
周
辺
で
は
、
そ
らかなように、﹁歴史にとって民衆とは﹂あ れが資本に対してであれ、政治に対してであ
実は、乙の拙稿、﹁明治の枢﹂の批評を‘
るいは﹁民衆にとって歴史とは﹂との強いリ れ、職場くるみでの斗いを体験しなくな って
劇
団創立初周年の意義とからませて、書いて
フレインにほかならず、乙の主題の故K、旗 既に久しい。だが、形乙そ違っても、名もな
はくれまいかと、某氏から依頼されたのだが、
中正造をとりまく、和三郎や治平たちが登場 い人々の真実は、自らを含め、到ると乙ろで
どうやら、ぼくの身勝手さが自立演劇の懐旧
し、彼ら青年群像の真撃な生き方が展開して、 あえぎ、隠され、ごまか8れ、圧迫され続け 談にも似た調子で流れすぎたようだ。
ζの戯曲はさらK活気づく・・:・・
ている。
繰り返すようだが、自立演劇第2期から生
従って、旗中正道の生涯を追う限りでは悲
新たな勇気を起乙して、それぞれの生活地
き
筏った劇団は、大阪地域では﹁未来﹂ただ
劇であるが、和三郎や治平という青年たちに 点を観察 ・
点
検
す
る
仕
事
と
、
劇
へ
の
取
組
み
を
一つである。当時から初年近くを経た今日、
視点を移せば、叙事詩的な民衆劇となる。そ 有機的につなぐととができればと、ぼくは願
ただいまの自立演劇をめぐる内外の情勢は、
ういう意味で、﹁明治の枢﹂は、従来の歴史
著しく変化している。今なお、劇団結成当初
劇とは異なり、異質の︵感情同化と異化の一 。
っ
,折角、貴重な紙面を注いて頂きながら、細 の創造理念で劇運動を成立させる ζとに疑い
を抱く向きが、あるやも知れぬ。それ以外花、
作用を観客にもたらすという二重構造を持つ
ユニークな戯曲なのでるる。
技者が、劇からはずれて主題の代弁をせざる
すぐれた劇の効用を果し得る理念や路線が、
終
そ乙で、冒頭のピッコロ・シアターに戻る
どなたか、施中を弔う言葉を、旗中を叱る言
か
りにあるとすれば、ぼくは、喜んでその転
﹁未来﹂の舞台に戻る。
葉をかけてやっては下さいませぬか。﹂との
後
を見守りたい。だが、それが、職業的劇団
ぼくは、自立劇団の俳優たちの、と云う ζ 語りで、激情をほとばらせてしまった演出・
︵専門劇団︶の亜流K過ぎないならば、その
とは職業俳優からは決して得られない、舞台 演技は、劇中で、旗中をのり超えようとする
舞台は、劇芸術のきびしさから、みじめな仕
の感動を求め過ぎているのだろうかと、自問 若者たちの形象の未熟さの故に、タツ子の演
打ちを蒙る筈だと、ぼくは確信する。
いが、終幕のタツ子露中夫人︶﹁どうぞ、
する。その感動とは、例えば、素朴さが持つ
t
ヴ
A
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- 7
5
2
のだがーー
自立劇団の個々の活動家たちが、とれから
もますます増加するであろう窓条件の中で、
営々と芝居づくりに励む、そのスサマジイま
での努力花、効率的に報いられる舞台が、つ
くれない筈はないのだ。﹁明治の枢﹂が示し
た舞台のまとまりは、その可能性を充分に、
内に秘めていた。
そのととは、今さら云うまでもなく、レパ
トリ lの選定、乃至戯曲創作の重要性を抜き
にしては成り立たない。
乙の秋の、お澄さんの創作戯曲による上演
の成功を祈って、ペンを欄く。
劇評・
演劇集団・わだち公演
﹁やどかり﹂に寄せて
444E
川川 4
ム
口
、V1
﹁やどかり﹂は、今、注目を浴びている﹁大
りたいと考えはじめる。というのは、舞台で
方の影響を受け、自ら森田のような人間であ
ている︶という恋人から、ものの見方や考え
︵
︶
A ・ ウ ェ ス カ | ﹁ 根 っ こ ﹂ よ り 作 ・矢野 喬
阪春の演劇まつり﹂の参加作品である︵演劇
見せてもらった陽子は、森田のいう乙となら
︵劇団十年実︶
まつりには十二集団が参加している︶。
何でも鴻呑みにしてしまう未熟さ、幼稚さが
真部
ω号に渇載されている。
戯曲は﹁演劇会議﹂
な者が立派な人に出会って育っていく過程に
が︶良いセリフも説得がない。仮りに、未熟
あって︵乙れは人物の設定なのかもしれない
会場は、府立青少年会館小ホ lル。初日は
瀬戸内海のちいさな町、半農半漁半勤、独
しても、それはそれなりに説得力がなければ、
ほぼ満席で幕が聞く。
ソドックスだが段々畑のある地方の家庭をよ
ただ単に恋人の乙とを褒めちぎり、弁護する
特の雰囲気を創り出している。装置は、オー
く出していた。人がど乙からでも出てくるよ
ていた。つまり五反百姓Kも満たない水呑み
代K問い直そうというのなら、乙の主人公・
物語の素材は古いものだし、それを敢て初年
という苦言を先ず書いたのは、実は、乙の
うな敷地の狭い所に建てている家の構造も出 だけでは、客席に響いて釆ない。
その浅野家には、町の習慣や近所付き合い
百姓の多い海岸地方の構図が良く分った。
った末娘陽子︵勾才︶がいる。
そのいかんによって魅力的人物になり得ると
がうるさい田舎の生活がいやで東京に出て行 浅野陽子の設定、掘り下げ方が重大であり、
って最初に祝ってくれた人だからもっと心か
保守的に近所手前を気にして暮らしている
陽子︵秋田和美︶は、東京で知り合った森 思うからだ。演技はハツラツとしていたが。
田︵舞台Kは登場しないが重要な役割を果し
ら湧いてくる反応があってもよかったのでは
ないか。それがはっきり出ておれば、未成熟
ている︶も黙らざるを得なくなるからなおさ
そ ζ へ、近所の飲んだくれ老人三上宗七
宗七老人の死の次に 、森田か ら、浅野家K
なままでも陽子の未来が見えたかもしれない。
所へ、派手な服花、ラジオカセットをさげて
︵山本惣一郎 ・劇団き ぜつがわ︶が、陽子の結
はやって来ないという手紙が届く。しかも二、
らおもしろくない。
包才にもなった女性が大きなラジオカセット
婚祝い Kと亡妻の片身である立派な帯を持っ
三日考えたすえ陽子とはうまくやって行けな
田舎に何かを与えようとする狙いとみたが、
をさげて帰ってくるととは、幼稚すきる人物
ってくれという老人を見直して感動する。
てくる。陽子はためらうが、真面目に受けと
東京から帰ってくる|| ζの登場は保守的な
に思えたし、また家族の者も気にせずラジオ
浅野家の住人はそんな娘さんを見たら噂した
何かあったようだし、その暗い部分が老人宗
まりも夫・広︵木下修︶と結ばれるまでに
さな町での出来事は 、陽子の出現が少し でも
人と人とが影響を与えながら生きていく小
なポイントでありながら流されてみえた。
ζの三つは ζの劇を組立てていく上で重要
解職された問題。
また、父・佑三が工場から一方的にパ l卜に
いから婚約は解消するという内容のものだ。
カセットを受けとってしまった。大事な小道
喜んで受けとったが、老人側から見れば、
まず乙の町ではラジオカセットを持って歩 陽子の母・春江と宗七が若き頃何かあったの
具に見えたがl。
ろうと思う。つまり、都会と田舎の生活の途
七の言動、行動の中に重なって見えかけた。
いてる娘さんは、そういないと思うし、 ζの ではないかと 、糸を引くような贈物だ 。
いを表現した小道具を、まり︵陽子の姉︶が
て彼、森田と﹁けんかする﹂乙とから再出発
変ろうとするのか、いや変りはしないといっ
貧しい町の悲しい部分が、宗七の演技にあっ
宗七は、陽子に贈物をしたその直後、ポス
するという、新鮮な発言で幕が下りたが、響
た。だが舞台の 他の人物の中にはね返 ってい
黙って当り前に受取ってしまったのは一考を
委するととろだ。
トに抱きついて死んでいる。近所の嫌われ者
陽子が再度めざめる話なら、なぜ片田舎に
まで話を持ち込む必要があったのか?
陽子は森田という恋人以外に自がないとし
職場を解雇されパ lトに置きかえられた父
物、暮しの方に厚味があっておもしろかった。
陽子の思考の変革より段々畑のある町の風
ても、乙の老人宗七の突然の死は、彼女にと
見えなかった。
ただ婚約に破れた陽子が再び、東京に戻っ
ってくる陽子の結婚相手 ・森田 信之を迎える
であったとはいえ、乙の浅野家の、特に今結
ているのか、そ乙が見えない。
ために 、陽子に ふりまわされる。当然 、姉の
が浅かった。
なかったのは筏念だ。
まりはおもしろくないので陽子の気健全注意
婚祝いをもらった陽子と、過去に何かあった
陽子を迎えた浅野の人たちは、三日後にや
するが、まりもまた、親K婿をもらってもら
H妊娠し
がった動揺があったはずだが、その場面では
かも知れない母親の春江には、別の者とはち
しかし、陽子は周囲に遠慮せず、むしろ森
い、同居している手前強くは言えなかった。
田ゆずりの革新的・批判的な言葉で、家族た
それには口達者なまり︵ちがまさし
ちの固守する町の因習をなで切ってしまう。
7
6
-7
7-
認
潟
然るに、乙の﹁やどかり﹂は、さわやかに
祐三︵近藤孝行︶の仕末、街に出た長男夫婦 出する人だけに、役者側からの積極性がなけ
ればハ lトは届かない。役者を大事にすると
︵
夫 ・豊川克幸 Hき。つがわ、妻 ・谷口恵子︶
の、困っている実家を振り返えらず、自分宜 いう前提があるからだ 。
テージで九千人の親子づれが観劇。とれが
7月刊ωu
・お 目、岐阜市民会館で七ス
−
はぐるまの役者たちも、乙の熱い観客に
て、すっかり定着してしまった。
はぐるまの夏休み親子劇場
かれと生きている存在。また陽子のように、
十一回目であるが夏休みの子供の行事とし
物づくりにも押えがきいて、まとまりのある
乙の土地を離れて東京に出ょうとする仲村久 仕上り、新人をよく引 っぱ り、ベテランの人
美︵橋口しゅう ζ︶。彼女は町役場の職員と
どう満足してもらえるかで涙ぐましい努力
舞台だった。
しかも、まり︵ちがまさ乙︶の好演は、﹁わ
いう職を持ちながら、変化のない土地を離れ
をみせる。王子︵浜口江美︶乞食の子卜ム
たいという乙の人たちにはより大きな興味
者K影響を与えてくれたと思う。
だち﹂の財産にとどまらず、大阪自演速の役
その立場が変っただけで、みにくい 、大
客席の乙どもたちに直結する。
︵河井せつ子︶がとくに良く、その熱気は
まった。単K演技力の問題ではないと思う。
かかわらず、感動が得られ作弛かったのは何故
個々の人物についても実在感があったにも
が持てたのに、陽子には浅い人物K写ってし
乙の ζとは、もしかすると台本に大きな委
人の社会でモミクチャにされながら、正義
因があるのかも知れない。今都会の人口は、
大半が地方出身だ。その人たちの大半が、再 か。それは、ウエスカl作品の中にみるよう
とやさしさをもとめて冒険をかさねる二人
の少年が、フィナ ーレ で抱き合うときの観
な、生き方を鋭くついた人物の存在感が、浅
び静かな田舎を大切 Kしたいと願っている現
ばやしひろし︶にはあり、その過程で、た
乙の盛り上りへの適確の計算が演出︵乙
客の冗奮は圧巻である。
かわらず、客席に伝わって来なかったのは何
くさんの見せど乙ろが布石される。トムの
故かを、今一度台本を読みながら考えたい。
実がある中で、﹁わだち﹂の人たちは、乙の かったからではなかろうか。
﹁やどかり﹂の一方のテ 1 7を集団として 、
役者はそれぞれ熱演、好演していた Kもか
どうとらえていたのだろうか。
婦の日常生活を見せる。
りませんか。年がいもなく:・﹂ととまどう
いる。ぼくは街の女房に起用された制作部
の土田玲子に拍手をおくる。︵もも︶
小津作品となると想像できると思うが、乙
にとって可成の負担である。
うした老夫婦をさりげなく出すととは、俳優
﹁あの町は遠い日﹂は青年劇場でも上演し
ているが、後藤陽吉、小竹伊津子をもってし
でも、リアリティ追求K力が入りすぎて、僅
わさ、つつましさによって、かえって、乙の
ぶどうの場合の方が、逆花、演技者のひよ
か乍ら裏目に出るという難しさがある。
哀れな、小さな話にかなうという不思議な乙
美しい場面が登場したりする。
ジヨルジュが六十九才になった。マリーが、
﹁
サチの暦﹂ ︵ほおずきの会︶
︵
5月刊ω日 目黒 ・社会教育会館︶
功績である。
乙れはとりもなおさず、演出者煩一内俊一の
命さとなって、戯曲の思想を奏でるのだ。
きれぬよわさが、かえって誠実さとなり、懸
とも起きるのである。
奥島英夫も北崎登世美も粧ろうとして粧り
ハピl・パlスデl・ツーューを歌い乍ら、
ケlキをもって仕事場にくる。ジヨルジュは
﹁あなたと一緒にいたいのよ、アゴンダンジ
7リl。
労働者の破局的な終駕がそ乙にのぞく。
ユは終ったのよ、ね:::・﹂と
∞
m 才の誕生をむかえたジヨルジュは鉄工労 修羅のようになって鉄を打っている@﹁死ぬ
働者あがり。鉄の町アゴンダンジュで、鉄屑 としたら鉄と一緒だ、出ていけ﹂とどなる。
のなかに働きつめた男である。いまはアゴン
終幕の一つ手前の場景。マリ ーが歌い乍ら
ダンジュを遠くはなれて ζの村に住むが 、や
はり、鉄からは離れられない。住居の一角に
セラ﹂である。そして、突然絶句して、ガク
庭の囲いにパラを植えている。歌は﹁ケセラ
仕事場をつくって相変らず鉄を叩いている。
何とも悲しい設定である。
お茶の話、湯沸器の乙われた話、離れてい
津安二郎の映画が影を落している、と訳者の
ゼルの作品には、色濃く、日本の映画監督小
ζの、フランスの日常性演劇の施手ヴエン
知らない。しかもその公演は、連日超満員、
話が、かつて岸田国士にあった以外、ぼくは
の黒沢は息をひきとった。それと似たような
院の個室で七日に見て、翌八日の未明、作者
公演は六月五目、六日で、そのビデオを病
る娘の話。昼のひととき、ジヨルジュに愛を
小沢傍認氏が貴重な報告をしている。
ッとなる。マリ lは死ぬ。
妻の 7リlは乙ういう夫に影のように寄り
添って生きてきたが、もはや七十三才、食事
いってととはよく知っていらっしゃるじゃあ
もとめられて、マリlが﹁私が御一緒出来な
の支度も倣うい。
閑二、回路栄一、山口和紀などが活躍して
父カンテイの島源三、浮浪者の鮮れの船渡
演出の又川邦義氏とは、私の作品lUター
κ
彦
治郎、浦田ひさし、なみ悟朗、番兵の熊崎
κ
b
u
−h
y
けイノ
介
41
×
ンして田舎 一戻ってきた娘が、村の腐敗した
土
反
村政 怒りを感じて、周囲の反対を押し切り
x
釆
火
村会議員に立候補するという話しを演出して
もらった。また自演連の合同公演作品﹁ああ
ばした演出家だ。きめ細かく、ていねいに演
青春高校野球﹂の演出も手働け、ヒットをと
評−
観劇
︵演劇集団ぶどう︶
感
村はずれの片隅でひそかに生きている老夫
﹁
あの町は遠い日﹂
雑
- 7
8
一 79
。
車
ぬいたサチの一代が、折々のエピソードでつ
カーテン・コールで、舞台と客席が、涙と拍創芸の服部豊もよ乙はま青年座の松本栄も 婚、出産と家業、戦争、敗戦をくぐって生き
手の交歓という乙とであれば、それで尽きた素人とはちがうからである。
づられ、黒沢の筆はさすがに手馴れている。
乙れもまたいかにも黒さんらしいものである
そして一貫しているヒューマンな持情性は、
話である。乙のととはぼくにもう一つ複雑に作用して
κちがいでないかれらの演技は何に支えられていたの
おそらく黒さんも舞台の出来、不出来、演くる。おまつり参加以上のものとして、素人
技の巧拙などは二の次に考えていた
ない。芝居は誰にでもやれる、スタッフもキだろうか。若し、そ乙に、素人ではないぞと
との作品の要求する一種の透明度は、寄せ
が、乙れを上質の物語K構成するのは、それ
ほどラクな乙とではない。
あつめたお祭り騒ぎのような乙とで出せるも
ヤストも公募、文字どおり一人ひとりが皆んいう白侍があるとしたら、乙れは黒さんの思
サークル基本のつくり方で、必ず出来るはずぼくは恩ぅ。
なのため、みんなはひとり一人のためという、考に合わぬだろう、合つてはならぬだろうと
︵演劇サークル麦の会︶
よく知られていると思うので筋書きは省く。
水上勉の花−岡山事件にまつわる話の作品。
﹁釈迦内枢唄﹂
︵
6月4日戸塚公会堂︶
のとは別であろうとぼくは感じた。
l
の実証が ζ乙K得られれば、それでいいとしありていは、何もそんな小六ケ敷い乙とで
しかし、実は、舞台の実態は、必ずしも黒フのよとはま青年座の渋谷祐司が、アタフタ
たにちがいない。ないかもしれぬ。公演日も定まり、演出チ
はないか、とぼくは思う。だろう。
さんの夢みた純粋思考とは合わなかったのでと助っ人をあつめたというのが本当のと乙ろ
乙れを言って疑しめる気持は毛頭ない。むだとすれば、公演が終り、もう一度、ほお
しろ、ぼくの感じた乙との誤りを願うほどのずきの会は裸に戻るととである。
乙はま青年座や劇団ょせあつめや劇団創芸や成多数の女性たちの活躍、サチの成長過程に
演技者がいて、乙んども阿部里砂が、体当り
麦の会には相変らず、なかなかいい女性の
ものだが、あの舞台の成立を可能にしたのは、その萌芽は皆無ではない。その他多勢の登
何よりも、あとさき、ふじという般の一人
誰でもではあっても、その誰でもの中に、よ場人物や、母親、娘、子どもたちに扮した可 語りできかせ、見せる芝居である。
川崎演劇塾の有力なメンバーがいて、その支合せて演じた四人の女性たちは、紛れもない
の語りくちには尋常でない難しさが冶る。方
も適確に思えたが、やはり奥羽に近い秋田弁
で敢闘している。ふじに与えた演出のミザン
それでいいじゃないかと言ってしまえばそ脚本は、戸塚女性百年史のサブタイトルが
援なしには出来なかった事実をどうみるか。﹁ほおずきの会﹂の産物のようである。
れまでだが、客席の声の中に﹁とても素人とあって、むしろ、たんたんとした自然主義風
公衆電話をかけていて、話が喧嘩になって
れたぼくは、忙しい中、やりくりした。
は思えないね﹂という嘆声を耳にするとき、の年代史になっている@
言に徹すれば、機微にわたっての客席への伝
や は り 乙 れ は ま ず い と 思 う 。 出 生 、 義 務 教 育 、 女 中 奉 公 、 紡 織 女 工 、 結 達が損われるし、後者に意をもちいると方言
のリズムを失うという厄介さがある。
物語は昭和の初め、場所は東京浅草か深川
で見るとはっきりするが、作者の頭には初め
乙れは別に文学的な表現ではなくて、舞台
ン﹁ひょうたん芸能社﹂。事務所が安アパー
が見える。乙とにちゃちな芸能プロダクショ
先方から切られる。そのシ l ンのあとにとう
むしろぼくは、中聞に挟まれた隠亡の飯内
っから﹁公衆電話﹂は人間︵黒子︶なのであ
それに一人語りは、語りの中に劇構成をし
一家のシ i ンに感心した。弥太郎︵磯与志一︶
る。歩き出した電話器を追いかけていってひ
れたほどの不況時代、エロ・グロ・ナンセン
あたり、しだれ柳をあしらった隅田川の背農
がひきしまった情念を漂わせて成功している
ストライキで煙突男が出現したりする。︵乙
いうト書きがある。︿去りかける公衆電話を
し、幼い頃のふじ︵善方悦子︶の学芸会の踊
っぱり戻すのだから、とれは可笑しい@
とれに類した乙とはいくらもあって、とく
れは乙の芝居にも登場する︶、松竹少女歌劇
てゆく才覚がもう一つ必要である。阿部里砂
りの披露も裏切感があって美しく、脱走して
に初期のものにそれが顕著である。ぼくはそ
必死Kとめてlv
きた佳東白︵武内利久︶が清潔である@とか
れを、シナリオのコンテと映画監督の関係に
はそ乙までは仕了せていない。
く紋切型になりがちな憲兵︵広瀬幸司︶も見
のもとの頃である。無声映画がトーキーにな
のストライキで水の江滝子達がお寺に箱った
スで頒廃し、労働争議も盛んで、富士紡績の
昭和の初めといえば、失業都市東京といわ
トの一部屋というのだから、推して知れる。
好い芝居に江っている。
身にしっくりしてくる。先き頃の、長距離ト
乙乙に出てくる︶。何よりも剃那的、耽美的、
ひょうたん芸能社には、活動弁士、万才コ
した。チラホラと軍歌もしのびとんできた。
るわけではない。それでいて、妙に題名が中 投げやりで裏哀しいメロディの流行歌が風麻酔
別にオペラと一言守えるほどの歌芝居になってい
り、日本﹁ん﹂文オペラとしゃれてはいるが、 った。峡函館の弁士が失業する、︵乙の話も
題名の尋常一様でない乙とも御承知のとお
音響効果や音楽も繊細に入っていて、総体 似ていると言った ζとがある。
としてまとまった舞台の印象を・つけた。
カーテン・コ l ルでいかにも自足した感じ
の挨拶があったが、身内の役者をベテランな
どと御披露なさるのは、どういうものか。
︵
6月日 B 八丁堀・福祉会館︶
ンビ、役者Kなりそ乙ねた役者、右翼くずれ
ラックの運転手の話K ﹁太平洋ベルトライン﹂
などもそうである。乙のへんのと乙ろ作者の
日本﹁ん﹂文オペラは一九七五年の作で、
のだから、その乙とを書くべきだろうが、見
︵劇団石るつ︶
のやくざまでが、そ乙にいる女をとり合った
岡安作品では第三作自になっており、勿論、
ていておもしろかったようには、とても書け
﹁日本﹃ん﹄文オペラ﹂
頭の中では、出来上っているらしい。
台本を字づらで追っただけでは想像もつか
周年、世仁下乃一座で初演。作者自身も気に
言ってみれば、乙の芸能社のてんまつ記な
ないおもしろさが舞台に出たりするのは、し
入っているらしいというので、初演を見そび
りしながら吹き溜っている。
ζんなのがある。
乙んどもたとえば
ばしば岡安戯曲に見ると乙ろである。
-8
0
-8
1
ない。また、その必要もない。
何故なら作者の書きたいのは、というより
薄れるのである。薄れはしたが、さすがにと
それは、ひよわなオカマの芸人市松が、さ
どめを刺す一コマはあった。
だが、石るつの境野エ リ コや小林江美子が、
解き放たれたようにイキイキと、つやっぽい。
やきついている場面が一つある。
生れたばかりのわが子を、男のあとを追う
見せたいのは、いや感じてもらいたいのは、
のに足手まといになって、濡れ手拭を顔に被
エリコ︶の凄艶な表情は忘れられない。との
せて殺すシ ー ンである。乙乙での歌子︵境野
いこに 、歓呼の声に送られて応召してゆく、
市松ほどではないが、ぼくも乙れと大差な
泣き笑いの兵隊姿を見せる幕切れである。
い軟弱な補充兵応召を体験していたから、痛
﹁かん乙踊りの唄﹂を奏でて応援する。
場面も二人の黒子︵岡安径子 ・青陰佳代︶が
ファシズムにとり込まれて落着するアイロニ
いほどわかる。小憎らしい趣向をしたものと
乙のひょうたん芸能社の末路が、たくみに、
若い岡安君は、いろいろと随分調べたろう
感心した。市松 扮した加藤金治が、そのあ
イだからである。
けれど、とても体験的、肉感的に、乙の時代
κ
を摘けるわけがない︵小説では、高見順の﹁い
たりなかなかいい。︵加藤金治は例の﹁大平
艶っぽさをみると、おそらく強力な岡安伸治
の仕事ではみられなかった木目の乙まかさや
演出は境野修次であるが 、かれのこれまで
やな感じ﹂という傑作があるがてそ乙で、
それにしても、ひとり一人の見せ場がもの
ンでも妙技をみせた︶。
その着想がナツメ口調の流行歌でつづる年代 洋ベルトライン﹂で同乗していたセールスマ
閉幕前の客席に﹁アラビアの唄﹂が流れ、
それと芸能社々長文佐ェ門で﹁土くれ﹂か
の援助があったと思われる。
いるものの、すなおすぎる劇団石るつの役者 ら客演した安原昇、歌子の情人のやくざに、
のおかげともき?える。
手塚孝夫の有効にはたらいた下座音楽︵伴
奏︶も無視できない。
が自殺した丘や東西両ドイツをへだてる八壁﹀
ム打倒の後、大きく産業発展した﹂﹁観客席
の近くKある。ロストックでは、﹁ファシズ
をみられれば様々な階層をみる乙とができる
だろう、戦後発展して来た人々だ﹂﹁一九三
てきた土壌に、再び戦争を起さない﹂﹁二度
五年に、決してファシズムを許さないと誓っ
とヒロシマは起さない﹂﹁新しい社会主義に
育った子どもは、資本主義の概要が全く分ら
ない、その場合芸術の果すニ lズが大きい﹂
ル女史は力説された。
と、ロストック民衆劇場の文芸部長のハンメ
失業者も失業芸術家もいない/すべての国
民が芸術文化にたずさわり、享受できる。そ
のように憲法にかいである。見学で、対談で 、
今日のDDRの発展を語る時、必ず、反ナチ
ズム、ファシズム廃絶を起点に、誰もが話さ
o
口
q
a
- 82
史という乙と Kなる。
を言う 、 いわば芸達者を必要とする乙ういう
たちには荷が勝ちすぎるとみたが、やれば出 もと中野勤演の森本拓次郎、すでにふれた加
﹁流転﹂﹁爆弾三勇士﹂﹁東京行進曲﹂﹁愛 芝居は、江東の下町の生活臭を身上Kはして
劇がはじまると、﹁若しも月給が上ったら﹂
に﹁東京ラプソディ﹂と出てくる。
して頂戴ね﹂﹁サーカスの唄﹂、フィナーレ
能社の芸人たちは、必ずしもウマクなくてい
乙れがやたらにウケる。乙の種のもの K ヨ 来るものである、というより、ひょうたん芸 藤金治もそうだが、とういう出来すぎた布陣
ワイぼくもかなりイカレてしまった。
しかし乙の狙いすぎたサービス過剰は、客
なりふりかまわず、かかったお座敷をつとめ
いのだ。むしろヨタヨタとして、無思想に、
席を、そしてほか江らぬ役者たちをよろとば
一
一
I
::
:
J
−クンツ女史が話された。リガはヒットラ ー
t
:
:r.
だから、そ乙が逆に、石るつによって異化
喜子
い国である﹂、﹁ファシズムが廃絶されて、
・
‘
。
rlAl
るというのが、かえって切なく、おもしろい。
山
︵関西芸術座・俳優︶
りの花々があり、緑の植木がある。真白のレ
対談第一日目。関口一番、﹁演劇密度の濃
ースのカ ーテンで窓は飾られている。
路ばたではプ ードルを抱いて立話しする婦
ている﹂と話されたのは、国際演劇協会代表
ドクタ ー フエツナ l博士である。
第二日目。現在の経済の安定をファシズム
廃絶の時点から話され、演劇へ、一席あたり
三0 マルクの援助をしている、と﹁リガ︵諸
国民友好連盟︶﹄にて 、副事務局長イリ lナ
一
一
スな主題l芸能社が離散、潰滅し、その解体
E
。
.
.
.4
せる度合につれて、本来あるべき筈のシリア
E1
の中で、芸人の一人ひとりが、ファシズムへ
・
・
・
ど乙も観客がいっぱいで 、
華やいでいました。
藤
rlAl
世仁下乃一座からの助っ人二村説子もそう
••l・
物質的保証が確立した﹂、﹁一、七OO万人
の人口で一、一OO万人動員している。一、
000人の中六七O人が必ず一年に一度は見
人、腕を組み合い、いたわり合って散策する
老夫婦。
みんな絵にしたいような、美しくゆったり
と静か花落着いた園、というのがパスの中か
らの第一印象でした。
国家の招待という最高の条件でプログラム
が組まれ、連日出かけた行く先々の劇場は、
.
‘
,
,
,
二
.
−
効果のように生かされる。
1
邑l
転落、変質してゆくという痛烈なサチlルが
告・ l
~~II
−
−
−
−
−
ザクセン ハウゼン強制収容所あとで
.
.
.
司
同
一
一
ほんとうにゴミ一つない街/高層住宅の立
ち並ぶ家々の 、どの窓辺をみても、色とりど
報
何故なのか気にかかる乙とだった。﹁見た
?た。買った記録写真集ももう出さないとか。
い/﹂というと、不思議そうな顔を案内の方
いつのまにか私は、同時代を生きた私の辰いして、若い人たちへのおみやげにした。︶
れる。||真の解説の翻訳を、機中で八木先生におねが
がされたという。教育上、逆 なっては、と
κ
メモに書きためた。ついて廻って通訳の市川さんの乙とばを聴く
もの絵本で、ロックフェスティバルで:・江ど
の自に特集を組んだり、文学の授業で、子ど
の歴史の時間で、様々な展覧会で、ヒロシマ
しかしDDRの反ナチズム教育は、学校教育
営の観光コースから外されているそうです。
ザクセンハウゼン強制収容所跡は、今、国
いう配慮もあるのでしょう。
史と重ねながら、通訳を通して入る乙とばを、ーーもう乙乙に立つだけで、案内の老勇に
万もの人が押し込められた六七棟のバラック
八O平方米、犠牲者と抵抗戦士の像の立つ慰
霊塔が大きく自につくが、かつて乙乙に二O
図画と木立の中にある強制収容所跡は、約一
ベルリンから一時間ばかりの郊外、静かな
それらのメモから、ザクセンハウゼン強制だけで、身内が震えた。
収容所跡のと乙ろをしるそう。
一、一 OO万以上がヨーロッパの国々で殺
された無数の大量殺害|ガスと撲殺の場で、
ドイツの愛国者にとって、乙のファシズムに
あの国と、現実の私たちの、 ζの国の遭いを
ももらさぬほど徹底してお乙なわれている、
青年を教育する乙と﹂とあり、乙の乙とは水
真の人間性のために正しい民主主義の精神で
は、整地され、一一棟を銭し、獄房棟、地下一房、 など.とクンツ夫人は話された。
一九四六年半ばに発効した新しい学校法の
狂気の展示室、そして死のZ ステーションガ
ス室、ガスかまどへつづく。かつての点呼場 第一章に﹁ナチズムと軍国主義の考えから離
れて、平和的で友好的な諸国民の共同生活と、
に立つ三本の首吊柱がたまらない/
俳
東けい
と乙ろで、どうも私にははっきり分らない
のだ、そのお人好しな男の変貌が。
しかし言葉の通じるドイツ人には分ったの
サラリとまとめたというと乙ろか・::ライプ
だろうか。演出は先刻御承知の内容だから、
の生き方、考え方やら芝居創りのもろもろを
に衣裳もつけている。だが、たった今客席か
綴帳の音もない早さ/確かに役者は舞台の上
乙のタイミング、その呆っ気なさ、そして
||エツ/舞台はもう動いている。
がかげりかけ:::途端に声がきとえた引い
れば/以前は::・自分としては:::とか
いたい所だ、言葉さえ通じれば、時間さえあ
笑いしてるんじゃないかなァl 乙乙で話し合
?面白いけれどもブレヒ卜氏、乙れでは苦
それにしても役者さん、あなたはどう思う
チッヒの︿肝っ玉﹀もそうだつた。
話し合い度い、中でも ︿臨界幻想 ﹀を終えた
東独は国柄や歴史が遭うだけ
ばかりの私は原子力発電の問題も、などと心
第一臼目、ベルリ lナアンサンブルの八男
見渡すほどのタッパと奥行きの空聞には、
は男だ﹀の幕開きである。
楽しんでいるのか、サービス精神で見せるの
いる役が大へんウケていた。各々が工夫して
つき、動き、声まで特徴的に徹底的に造って
の︿ビーバーの外套﹀では、メークから身体
7ン
次の、フォルクスビューネ。ハウプ卜
臼本でもね、ブレヒ卜氏苦虫かむよ:・など。
感想だけである 。
どの劇場もレパ lトリイシステムだから、
主演俳優の都合で演目はよく変る。 でも一晩
・
・
・
・
・
・
?
自由自在な演技、メークアクセントのみの自 か
その後幾っか見た実験劇場や新演出、新作
H
今日
、午後七時i八時の間、気 然体。既に手馴れているとは言え、身の動き
や悲劇も含めて共通しているのは、役者が非
に何かを演じているあち ζちの劇場。
はOOを観ょう
H
楽にや ってくる人々 。 ロビーでは食後のカク
行けるのではなかろうか。基縫技術に裏打ち
常にリラックスして見える乙とだ。乙 ζで観
された余裕というのか、コナレ切 ってるとい
の軽やかさ、セリフは飛び交いスムーズな運
乙のリズムは幕聞があったと恩わせぬ流れ
うのか、その個性K巾の広さを感じる。
る側は自分と同じような人間の世界に入 って
で次に受つがれるのだが、さすがに均衡のと
ぎ、仕僚で結構ドッと湧かせ、役者はいとも
テルを傾け喋り合う。
れた演技とアンサンブルである。
楽しげにどんどんお客をひっぱっていく。
やがて開幕の知らせ︵ベルの音とは限らな
い︶、三々五々自分の席につく。潮騒のよう
あ、為静まるナ u、ふわっと客電
H
な快いざわめき、それも何とはなしに引いて
いく気配。
ん一緒に走り出した。
ら上って喋り出したような錯覚を起さんばか
円
HH
。
りに劇は走り出していた。そして私ももちろ
︵
関西芸術座・俳優 ︶
。
づもりしていたが、すべてハズレた。従って
・
判
リ
た
00
﹁
﹁
υ
- 84
対する闘いを記録するととは、重要な義務で
あると言えよう。ザクセンハウゼンでは、二
七ヶ国二O万人以上の人々がとらえられてい
た。一 O万人以上の死者が出たとも確認され
κより射殺さ
ている。彼らはS S ︵親衛隊︶
粗末な狭い三段棚のベッドにカビたマット
﹁見たいですか?﹂﹁見たい/﹂
れ、ガスで殺され、首を吊られたりして、み
じめ江死に方をせざるを得なか った。奴隷の
レス、乙乙に五OO人も引:・:無人のベッド
語りあう乙とのできた旅でもあり、感銘を深
俣が乙ぼれる。
てきて、 一
私たちにナチの狂気を話L てくれる老勇に くする乙とのできた旅でもありました。
Kぎ?っ詰めの顔がいっぱい/うめきが迫っ
﹁どうぞ百才まで長生きして下さい/﹂と、
一九四一年九月から十二月には、ソビエト
首筋を撃って殺す特妹施設が作られたという。
ように働かされて殺されたものも数知れない。
英、オランダ、仏の兵士らも多く殺害された。
﹁五十年チェスを楽しみたい/﹂とほほえん
東京芸術座の清州さんがいうと、彼は静かに、
の
魅力的な、与えられたテ!?だが、上 っ面の
優
将兵が一万八千人殺害されているが、乙の際
||彼らが勇敢にとれに対して抵抗をやめな
R
κ、俳優たち
ち
だ。写真の﹁ガスかまど﹂は見せてくれなか
か った点も評価されなければならない。︵八
D
枚組の記録写真集のカパ 1の乙の言葉と、写
告・ 2
D
先ずはじめに断っておかねばならない 。
報
・ゴリキ l労働者演劇の、生命感いっぱいの
演技にも出合わなかった。むしろ、マキシム
故か感動した舞台は一つもなかった。心打つ
ただ稀に訪れた旅行者には、数少い 観劇の
だ、生活保障を約束されて。:: :?
犠の誘いを受けてプロの道へと入っていくの
と毎日訓練される彼らは、卒業となれば、劇
遂せよ、まずリズムを掴まえろ 、力を抜け、
ろ、戯曲 の思想を深くつかみ、思考を以て貫
だろう。
主義建設や
が、失業なし、解雇なしの泰平の役者に社会
が国の俳優も聞くべき乙とだ
餓え μ ている私は、
H
ポーランドの演劇人の毅然たる政府抵抗の姿
しかし、中途半綿花
K乙れで満足だと思っているのか、と。
むしろ私は役者に聞きたい。あなたは本当
H
餓え u の気迫が薄らぐのは当然
Hと言っていた
発刺たる芝居、アムステルダムのプレヒ卜劇
に共感したのである。
社会主義国三十年。舞台の上にも矛盾が出
我々が唯一見学した演劇大学エルンス卜・てきている乙とは確かだ 。最後の打ち上げパ
!八二 ・六 ・二O l
がゆく思っているのである。
プッシュの学長ミネツティ氏は俳優でもある。 iティで、日本の役者の現状|生活経済の苦 勢の記事を読みながら、我れと我が身Kも歯
是非わ
H
う。選ばれた若人たち@スタシステムだろう
=一人の演も先生がついて四時間はかけるとい
ぶさに見学できたのは望外の幸せであった。
さらに演劇関係者との対談、各地の劇場をつ
本のオペラ、コンサート1回を見て聞いて、
私を感動させた。大量生産で個性を失してし
た。妹の外、ビールの個性的なおいしさは、
いしさは、旅をより印象深いもの Kしてくれ
た街のたたずまいと美しい風土とピ lルのお
現は厳しく注意される。さて、乙の五t六行、
がプレヒトだろうが乙れで一人前の役者にな
まったビ 1 ルしか飲めない私達には、独特の
れはベルリンやライプチヒのような大都市で
里程標にした乙とは疑いはない。しかし、そ
日頃、忙しくて全リ演の仲間の公演を見る乙
ーセスハウス︵大劇場別席、喫茶劇場即席、
とも出来ぬととがあるような有様だから。
社会科学を学び、自分自身の立場から演じ
実験劇場即席附設︶がある。郊外も入れて人
らなきゃ嘘だろう。
癖のある味が何ともいえず、羨しいかぎりで
あった。ベルリン、ロストック二 7イプチヒ、
それぞれの都市K、独特の味をもったビ ール 口初万人足らずの都市K大小6 ツの劇場、 2 は実現可能であったろうが、ロストックのよ
、 2 ツの他目的ホール
ッのコンサートホ l ル
うな地方小都市では望むべくもなかったと思
があり、市民が乙れ乙そドイツ一であると自
があるから驚きだ。 ζれらの全てのホールは、 われる。だから、現に政府の到れり尽せりの
ロストック民衆劇場︵全スタッフ側名︶が統 保護下であっても、民衆劇湯は、演劇、オペ
どドイツのものと比べれば無同然。だから、
慢するのである。日本のビールの味の違いな
開している。そして、市民の誰れもが否定で
っ、つけている@ワイマ lル国立劇場も同様な
ろうか?社会主義ならではの手厚い保護と我
存在たりうるのは、一体いつの日の乙とであ
私達の劇団がロストック民衆劇場のような
とりあげ、同時に、息子の恋人に償恋慕する
ジア、ラテンアメリカ等の現代作家の作品を
セスハウスで見た。ドイツ、ソヴィエ卜、ア
て、夜、オペラ﹁クラヴィゴ﹂を同じグロ l
ハンメル作﹁プロシャ人がやってくる﹂を見
は一般的かもしれない。例えば、我々は、昼、
方法をとっていた所をみると、地方小都市で
風土に見合う味があるように、都市にも長い
が国の文化政策の貧しさを比べて、遠い困難
フ旬。
きぬ歴史的な共同財産となりえているのであ
ζの癖ある味を﹁まずくて飲めない、日本の 轄し、ベルリンに向うを張り、国際的視野に ラ、バレエ、音楽を有機的に結合させ、同一
ビlルの方がおいしい。﹂などとしかいえな 立ちながら、市民に根差した多彩な活動を展 組織でちがったジャンルの演目を交互上演し
い日本人を何と理解したらいいだろう?
やはり、文化の質の問題として考えるべき
歴史花裏打ちされた個性を際立させている。
ベルリン、ロストック、ライプチヒ、それぞ
な道程に思いを馳せると 胸 が締めつけられる
ではなかろうか。ビールにそれぞれの土地、
れの風土と歴史のなかで市民が育んだ文化の
好色爺を主人公とするような大衆性のあるオ
上に巾広い矛軟なレパ路線は注目に価する。
ペラを上演しているのである。我々の相像以
。
。
全てが都市の顔であるのだ。
ばかりであった。
κ
ハンザ同盟 加わり、港湾都市として栄え
たロストック、日世紀に建られたシユタイン
に一つの示唆を与えてくれているので簡単に
地域劇団の典型として独自な活動は、我々
全ての条件が絶対的K悪い我が固にあって、
だからとそ、市民の多様な委求に答える乙と
古い建物がただ大切に保存するだけでなく‘
感想をのべておきたい。
いきなり劇喝とオペラハウス・コンサ ートホ
ロスト ック 民衆劇場のこと
現代の市民生活の中に息づいている。乙れが
ヨーロッパの市民文化は 、都市に劇場とオ
ような街並み、そ乙に人が住み暮している。
門、クレンベザチ l塔、メルヘン K出てくる
歴史的伝統というものであろう。
ペラハウス、コンサートホ ー ルを持つ乙とを
だ
。
ができ、多くの支持が集まるにちがいないの
ζの古い街並みを少し入った路地の一角に
クライネハウス︵小劇場即席︶があり、グロ
t
ヴ
- 86
スタニスラアスキーとプレヒトの論争もやっしさ、仕事の少ない俳優、劇団運営の難しさ、
告・ 3
る
折よく古典研究の教室を覗く。いたリガの副事務局長クンツ夫人は
報
D D R演劇見たまま感じたまま
!
紀
と統一が可能となり、今や二本の柱とか。アルバイトの乙と、家庭育児の葛藤などをき
A ︿かもめ﹀
第四幕のトレ lプレフとニ lナ。その心の
日
前
劇
流れを追って凝縮した二人の空間をつくるべ
B ︿ドン ・カルロス﹀
く何度も細やかに指示される。写実の極か|。
両側の墜に一人づっ立って言葉だけを激し
口
く発するのだが、極力押さえて余計な感情表
短期間でかなりきっかったけど、実の多い
乙の問、 Llga ︵諸国民友好連盟︶の皆
旅であった。 2週間足らずで叩本の芝居、 2 さんの心からのもてなし、しっとり落ち着い
山
しい乙とではないという。又、出版局もあり、る弾圧が厳しくなったため、労働者が民衆酒
合はプロの役者や演出家が協力する乙とも珍九四八年三月革命の挫折後、労働運動K対す
演劇分野では創造方倍、レパトリー、俳優教を誤魔かし、痛烈に政府を風刺した所から来て
文化的大衆創造誌から、それぞれの専門誌、場にたむろし歌ったり踊ったりして当局の自
ールを同時に持つなんて ζとはまず不可能と
場のようにホールを拠点に、他のジャンルと
いっていい。目指すとしたら、と乙の民衆劇
結びつき、市民の多様な要求に対応してゆく
方向が大切なのであるまいか。はぐるまが﹁御 育 に つ い て の 資 料 も 出 版 し て い る 。 い る ら し い 。 又 、 そ れ が カ パ レ ッ ト ︵ 風 刺 寄
いずれ しろ、勤労者国民の芸術・文化を席︶の起源となったそうである。言葉がわか
κ
浪町ホール﹂を持ってから、自分たちの演劇
ている乙とは確なととである。短時間での対ごやかな雰囲気と、労働者の健康で強靭なヴ
とおしての質的発展という観点が一本貫かれらぬので内容は定かではほいが、楽しく‘な
話で詳しく聞くととができなかったが、プロァイタリティだけは確と感ずる乙とができた。
公演の他に、音楽や落語等の自主企画をやっ
ける文化の磐というような役割と可能性を拓
同様手厚い保護が加えられているのは当然で乙のような、浅草オペラ風大衆演劇が、今な
てゆくなかで、従来見られなかった地域にお
きつつあるのと撲を一にしていると思えてな
あろう。ぉ、労働者演劇にも受け継がれ、又、ベルリ
ゴ lリキイを訪れ、カパレット︵風刺寄席︶る。 ζの と と は ド イ ツ 演 劇 の 図 り 知 れ ぬ 豊 か 飽
旅の長後K、ベルリンの労働者劇団、 M ・ンにはカパレットを上演するための劇場もあ
らない。
勤労者演劇について
風ミュージカルを小劇場で見て、終演後交流さをかえって証明しているととになるだろう。一
現在、仰のアマチュア演劇グループがあり、会を持ったのでその綾子を報告し、まとめにドイツ人はほんとに礼儀正しく律気な国民
ある。生れてから死ぬまで労働者の生活に結ベルリンの東はいすれの住宅街の一階にあり、う乙とはめったにないそうである。と乙ろが
ゴ lキ|劇団の専属小劇場は、性をもっていて、飲んで大声をはりあげて歌
そのうち印ぐらいがかなり水準が高いそうでかえたい。 M ・
びついた行事などを通して、国民一人一人が広さは、閉口2問、奥行舞台含め 6間ほどし終演後のサロンでビールを飲みながらやった
とのように演劇や文化をつくってゆくかが考かなく、坐席はせいせい叩止りという所、で交流会は、大 いに盛り上り、とうとう、ロ|
慮され、憲法にも﹁すべての国民は、文化・も、パ!付サロンが人口にあり、舞台奥は楽レライ、菩提樹などドイツ民謡の大合唱にな
芸術に傍わる﹂という規定があるとの乙と。屋 にな っていた。上演作品は 、 ま だ 出 来 た て っ て し ま った 。その口火をきったのは、﹁蛮
﹁芸術的文化的国民創造﹂の専任者がおり、女がお出ましになり、スカートをまくりあげ唱にあったから、大いに名誉あると恩わなく
具体的な活動は﹁文化の家﹂を中心に行われ、のホヤホヤで題は失念したが 、の っ け か ら 美 勇 を ふ りしぼ った私の古調かわさき﹂の絶
れ専門家が一人以上はいるという。演劇の場イオリン生演奏っき@乙の上演スタイルは一ると、言葉がわからぬまま、睡魔と斗いなが
演劇だけにとどまらず、他の部門にもそれぞながら歌うのにはびっくりした。ピアノ、パてはなるまい。なぜそうなったかと考えてみ
らの強行スケジュールの消化、緊張で心労が会教育施設として、専門指導者のもとにスポが、演劇の豊かさの土台になっているんだと
重なりピ 1クに達していたとと.美人ぞろい l ッ、芸術など全ゆる分野の自分の好きなグ感じた次第です。
の女優障を目の当りにした乙と。そして、予ル lプ に 属 し 活 動 す る 乙 と が 保 障 さ れ て い る 。 震 後K、ベルリンの青少年のための専門劇
想外に親しめる内容や客席の盛り上りに感動もちろん、無料。湯﹁友だち劇場﹂を紹介し、筆をおきたいと
mmプl ル、体育館、大・のため椅子は小ぶり、入場料3 マルクl17
した乙となどが大きく作用してたようである。その施設の大きさ、りっぱさには溜息がで思います。劇団総員別名、客席側、子供専用
ζちらの熱い思いが以心伝心Kむ 乙 う に 伝 わ る ば か りだ ったo
り、両者にとって忘れえぬ感動的な出会とな小ホール、人形劇専門ホール、食堂完備といル夕、政府補助、年間削万マルク。レパは対
ったようである。う具合である。演
劇、
グ
ル ープも専用の小ホ l 象4才l 7才
、 8才l m才、は才lゆ才の 三
M ・ゴ lリキ l劇団、東働演などとも交流ルをもち、年齢縦わりで活動していた。私達ツのクラスにわけで検討され、教育関係者も
のあるライプチヒ、ハンス Hオン卜 1演 劇 大 が 見 学 し た 時 、 学 校 でlのついた通信表をも協力。主なものに第一のクラスは、メルヘン
学のア lドリング氏からも日本の労働者演劇ってかえったら、どのようにお母さんに言う作品、第二のクラスは、世界名作、第三のク
-8
9
と交流を求められているので、全リ演事務局かという即興劇をやってくれたが、そのうまラスは古典。人形劇、オペラ、ミュージカル、
ばドイツの労働者演劇についておのずと明らかと先生が聞いたら、私たちが聞く前に、ど用。一シーズン︵年︶湖回の公演をもち、ド
を通してぜひ進めたいものである。そうすれい乙とうまい乙と@何か質問が私たちにない音楽:::あらゆるジャンルの表現を創造K利
かになってゆく乙とであろう。んどん手をあげて逆に乙ちらが質問責めにあイツ園内はもとより全ヨーロッパを巡演。﹁友
以上。
った。彼等の屈託のない明るさ、旺盛な知的だちの劇場﹂の他4 ツの青少年専門劇団があ
好奇心は正直白をむいたくらいです。将来、るそうです。
俳優になりたい人と先生が聞くと何人かが手
をあげた。しかし、先生白く、﹁あくまでも
。
児賞演劇
四OOの児童演劇グループがあ
κて
全国
り、そのうち、ピオニ!ル演劇が幻、グループ
めにやっているわけではありません。演ずる
乙と、表現する乙とは、人間の社会的資質を
上演するととを目的とし、俳優を養成するた
の演劇、グループの活動に接する機会があった
養うのに必要だから行っているのです。﹂心
ある。ベルリンのピオニ l ル宮殿を見学しそ
ので紹介しておきたい。
子供たちは放課後、電車やパスで近くのピ 憎いばかりである。 ζのように演劇が国民教
ニオ l ルの家にや ってくる 。子供のための社 育と結合し、大きな役割を果している姿乙そ
。
告− 4
ゲーテもブレヒトも::
ーすべての演劇は新社会へ|
木
,
告
中・ソの場合は不幸な例外で、一般には双方
の大きなちがいについて介入しないものであ
る。それは友好ののりを越えるからである。
DDRもそれを慎重に守ろうとする。しかし
劇団の考える演劇価値は、そういうかきねを
突破する。なぜならかれらは直接の自国文化
乙んなにたくさんのかたが、ちがった体制
われるからである。
の演劇について交流した乙と、社会主義の演
争といわれ、戦後の大問題であった。一九三
ゲーテをどうみるかー
l 乙れは古典主義論
めにすべてをさいてくださったといって過言自由青年団秘書。彼女がみんなの前であいさ
元が社会主義建設にうっされている。今年の
われわれの滞独中の三月二二日はゲlテ没後
O年どろにも論争されたが、今日のそれは次
出さざるをえないのである。いる。一人五役が一人、四役が六人、三役が
百五O年にあたっていた。その前後の論壇で
ではない。その乙と自体の中に、わたしたちつをした。乙の街の青年が十日間も﹁ファウ
一言でいえば、 DDRの 演 劇 は 人 口 て 七 十 二 人 、 二 役 が 十 一 人 。 演 出 の カ イ ザ lは二
もとれが問題だった。二月のワイマルの祝典
代の歴史的意義﹂であった。それに劇作家ハ
品 ﹃プロシャ人がやってくる﹄を上演する劇
トック県全体の演劇についてすばらしい解説
2 ハンメル夫人がロストック劇場でロス
ックスやミュラ!やブラウンも、論説や劇作
盾も発展を持続的にさし示しつつ進展してい主義国のファウストをめざし、新しい創意を
を通じて積極的な反応を示している。
劇K及ぶすべてを、新しい社会主義社会に学朴なスタイルによって統一されている。例え
場へ。われわれは彼女による紹介で全観客の
ドリヒ大王もルツタ lもピスマルクも、論争
拍手をあびた。ゲ lテのみではなく、フリー
される。 ζれは歴史論争である。社会主義統
評価を限られた紙面でしるすわけにいかないの小部屋のうす板を立て、一歩さがって小人
ロローグでは、素材不満の向きはクル卜・パ
− 第 十 六回青年演劇祭の初日 、はなやか
ーと要求にあふれ、理性と感性の双方に広く
で、無価値なものには強く反抗し、エネルギ
どめいている。ファウス卜は価値評価が厳格
さで歴史と現実の異化を行う。ルタ!と大も
なが笑う。乙のコメディーは天衣無縫の気楽
lガl ︵党文化部長︶へ、とのべられてみん
の歴史上の仕事や人格が、農民への姿勢や日
な青年の奏楽に迎えられてライプチヒ劇湯に
一党がそれを提起する。だから ζの作品のプ
がえると幸いである。アレゴリーをふくむモダンな多くの形象がう
ので、以下三点の点描に止めるが、その他﹁世物らしく、悪意ありげK中をうかがう。ワル
界文学﹂という雑誌にしるした乙とと並読ねプルギスの夜では回転するピラミットに政治
く乙とに成功する可能性もある。いろいろなのシ l ンがすすむ。農民二人がグレートへン
をされ、それから夫クラウス・ハンメルの作
った誤りを、比較的小さい形でつみとってい庭もひもを引き、布をかけ、そ乙で二組の愛
ぴとろうとする意欲Kもみちている。乙の国 ・ば軽輪馬車を前面に、それが戸やたんすなど
には、社会主義の大きな国々がおかしやすかになるなどの装置の工夫が目立つ。マルテの
からプレヒトにいたる、また世界の巾広い演き生きした身体言語、たのしくコミカルで素
る。古典の受容や歴史の評価をめぐる論争も乙らす。一人何役もや ってみた りするが、旅
文化革命の中で極めて精細に行われ、ゲ lテ芸人風スタイル、強度に節約された装飾、生
役割を果たしており、その戦後史は社会の矛高く評価されているが、今回は現段階の社会 会議テ!?は、﹁ゲ lテと今日。われらの時
00万人の社会主義国の中でたいへん重要な十年間に三度ファウス卜にいどみ、上演史で
の国ではとうていできない無数の長所を思いスト﹄に興ずるのである。学生が七人も出て
学者の諸氏が、心からわたしたちの成果のたトヘンをやるヴェンツェル嬢はまだ学生で、
ヤワ条約機構諸国はほとんどよ乙ばいなので会支部と各地劇団の密接な交流がすすむなら 義が大きいわけである。 ζのととは日本の将
ある。︶ ζの恐ろしい米ソ対立をどう解くか、ば、双方にとってたいへん有意義な乙とであ 来にまた重要であろう。もちろん’つけ入れる
わたしたちの平和論がすぐDDRの平和論とろう@友好運動はひたすらK他国の理解、注 側の親切がないととうていなりたたない話で
あったが、 DDRの諸国民友好連盟、劇団人、
一致するほど簡単ではなかったが、互いに毎解、説明につとめてきた。
王座ははじけ国はゆらぐ。︵西東詩集︶それが全国的規模で行われたのである。本来 劇について論じた乙とも忘れがたい成果にち
東西均衡の主要課題KDDRは国の予算の協会会員に関かれたチャンスであって、日本 がいない。日本にいると、どうしてもDDR
の文化は知らされないし、また歪めて知・りさ
三分の一をあて、また乙 ζ五年に二五銘の軍の全劇団人に知=りされたものではなかった。
事費増をなしとげた。︵と乙ろが他のワルシしかし乙れを機会K、東京を含む全国友好協 れる乙とが多い 。そ乙で乙ういう交流団の愈
北と西と南は吹き飛び流はかなり実践的な経験があったが、今回は
はなかったい。大阪の劇団潮流、神戸の劇団どろとの交
らにみえたが、その破局の大きさは昔の比で劇団と友好協会の交流の面からも乙れは珍し
流が動き始める。乙の意味で今回の成果は深
みつめようといさみたって東ベルリンへ。とびつけた。
乙 ろ が 東 西 世 界 は 東 西 ベ ル リ ン で 、 東 西 ド イ 日 本 ・ドイツ民主共和国友好協会が乙んな く、また大きいものがあったと信じられる。
ツで、静かだがかつてなく厳しい、恐ろしいに大きなスケ ールで専門家たちをDDRK送 それは両国の文化運動と友好運動の双方に生
きて発展していく何物かを宿しえたように恩
対立を続けていたぺ乙れはゲーテの昔さながるのに成功したのは今回が始めてであった。
のにない手であって、自国の文化乙そが中心
安保条約三O年 、 経 済 の 大 園 、 世 界 八 位 の 回、演劇と平和という論議がかわされ、イン
である。よい意味において自己中心的である。
軍隊。憲法からひきさかれて矛盾と嘘に病むタヴューもほとんどその乙とが中心だった。
乙の国をあとに、二週間たらずの間だが、一今日の世界史の転機で乙れは実に重要な乙と そしてDDRと日本の専門家がドラマの評価
同二六人は、おちついた社会主義国の演劇をにちがいない。そのことへの熱意が双方を結 をめぐって論じるとき、からを破った深い交
i
¥
入り、﹃ファウスト第一部﹄をみた。グレ l はりわたされ、緊張している。
-9
0一
- 9
1
報
和見主義が、柔軟に、直線的歴史意識から解
放された形で構成され、観客と対決させられ
りと学ぶというなら、それはなみたいでいの
のとくりひろげ、ヌ iド、ショ l、セックス
乙とではない。ほとんどあきらめた方がよい 劇場のアムステルダムの一面を照らし出す。
乙の難題花、ブレヒ卜センターやベルリ lナ そ乙から下手つみの女人の闘いが、海賊ジェニ
イやシュン・テが、避妊禁止の刑法と斗う女
の楽しい、軽やかなスタイルに感心したもの
lナlアンサンブルの ﹃男 は男﹄をみて、そ
イ︵三文オペラ︶や娼婦ナナと交々に出る。
ラl ルたちが、ユダヤの娼婦やポリとル|シ
がうかび出る。斗志にみちたウラ lソワやカ
ている。湯面は歴史人物再論試験場という、
社会主義国DDRのユートピアである。大王
が自転車にのったり、ルターが電話したりし
の、チェコやスペインや香港での﹃男は男﹄
つ
け る。ベルリ
lアンサンブルはとりくみつ ‘
て、今日の社会主義建設や戦争と平和問題に
のアクチユアリティには及ばないといわれて
れられていたラウホの名作フリードリヒ大王
なしとげるのは至難のわさである。ブレヒト
つ、コミュ!ンのうた、﹁石炭がなくて乙ご
のもとに働く人の未来があった﹂とか歌いつ
﹁息子よ、お前がヒットラーの兵士となるの
いた通りであった。ライプチッヒマ﹃肝っ玉﹄
をみた。かつてのワイゲルやテレ iゼ・ギ l を知っておれば、首をくくったろうに﹂とか、
﹁パンも職もなかったがマルクスとレ l ニン
ゼ、さらにギ lゼラ・マイ K劣らない上演を
しかしひときわ高く、子守うたが胸を打つ。
そうである。ウンテル・デン・リンデンに忘
もかかわる。死や進化のようなアレゴリーも
から発つしているので、乙の作品のしかけた
は演劇大学の教育にも、今日の作家にも、生
しかしそれがそれだけに止まらず、乙の作
騎馬像がすえられた時︵一九八O年︶の論議
起爆剤はきわめて新鮮で有効である。
えている。だの K石炭が余っている。ゆえに
それをとってくる乙ととした、そうすれば暖
き生きと生きている。しかしプレヒト上演は
の作家たちにも、 DDR国民にも最重要テ 1 なかなかむつかしい。﹃三文オペラ﹄や﹃例
家が生涯考えているテ!?であり、同時に他
J
I
H
マ
令
。
いから﹂とうたって全体が閉じられたのであ
AHN
﹀ コ,こ 。
外と原則﹄なども上演していたが、みられな
7であると乙ろに、乙の作品のすばらしさが
あった。その他DDRの社会主義建設や生産
や家庭をめぐる重要作品も多いのだが、それ
テンとウイルマ・ヴアン・デル・ヴアル。と家にとけて流れる園、アンネをかくまって
むしろ ζ乙 で 帰 路 ア ム ス テ ル ダ ム で み た 構 乙 乙Kもブレヒトは生きている@ショ lウ
成劇﹃彼女らは乙うだ﹄についてしるしてみインド!のうちが外のどとく、外が内のどと
ょう。演劇集団ダイテンスペルのマラ・オッくひらかれた園、水が時 土より高く、生活
ブレヒトを図式化、政治化せず、生きた多闘った労働者の園、そして今、全千四百万人
κ
ちはノイチュによる﹃キッペンベルク﹄をそ
3 プレヒ卜はどう継承されているか、と
については割愛せざるをえない。︵わたした
の例として見得たのである。︶
うた、二六編。前半はアナーキーにみえるが、に反対しているとの固にこそ、プレヒ卜が生
様さでその女性観について考えさせる寸劇と中五百万の署名を集め、国民の七割が核戦争
う感じで、気色よくない。が、ドアをあける
ドアのむ ζうになにがあるかわからないとい
両側板壁でひと一人通れるだけの狭さ、木の
審査をめいめい受けて外に出るまでの通路が、
あまりいい感じのものではない。それに入国
のは、ドイツ的な制服制帽の男たちばかりだ。
地の底までなめたブレヒトの女性観をほのぼきている・︵以下町頁へつづく︶
人は問う。オルフォイスのようにばらばらに
ヒトから、まだわれわれが意識的に、しっか
散って世界の演劇の血となり肉となったブレ
告・まとめ
革命はもう完了したのだろうか
徹
であった。
ユワデスも不愛想ではないのだが、制服はい
るのかしらと思われるほどカチカチだ。スチ
そ ζ へ一人の日本人男性が、小柄なドイツ
一ケ所へまとめはじめる。
女性とともK入って来た。通訳として現地参
コク、ドパイ、アテネ経由でアムステルダム
びたったのが二O 日の午後三時半すぎ、バン
大きくおどっている。トイレットの手洗いの
ジネフ提案を断固支持する﹂という見出しが、
ツツランドの第一面には、﹁われわれはプレ
イツ社会主義統一党の機関紙ノイエス・ドイ
ったものだった。
とおかしくなるのだが、﹁救われた/﹂とい
けより握手する。その時の気分は、今考える
3﹂と大声をあげてか
へ。そ乙でD D Rのジェット機にのりかえて
水は故障のためか出ない。
という方がピッタリくる感じの、小さな旅客
余分な装飾はなく、木も草もまだ芽ぶいてい
といった感じだ。小さなターミナルビルにも プリギッテ・ニ lパl女史である ζとを知・り
さに平原のどまんなか、田舎のヒュ lジョ!
山口君は酔ってしまって、ベルリンへつくま
震に見える。出迎えの人影もなく、自につく
ないので、美しいというより、いささか殺風 明るい緑と白のツートンカラーのパスに乗り
乙む。
で狭いシ lトに身を沈めたままであった。乗
される。早速メ lド・イン・ハンガリーの、
君から同行の女性が、リガの対日関係の職員
はじめたとたんに、劇団はぐるまのタフマン
機の娠動は大きく、離陸して急角度に上昇し
通関手続きは簡単で街物を調べられる乙と
といった按配で、いささか緊張を強いられ
はその第二珍をしるした乙とになる。
K Lのジャンボ機にくらべると、ヒコ lキ ながら一時間、予定通り着陸したものの、ま も江く、ロビ l k全員揃ったと乙ろで、市川
ある私は、思わず﹁お
ベルリンへ||時差が八時間だから、日本を
加する、近畿大学講師の市川明君だ。面識の
発って約二九時間で、 DDRの土花、私たち
成田をK Lオランダ航空のジャンボ機で飛 かっく野暮ったい。機内におかれていた、ド
港K降り立ったのは、三月二一日の昼さがり
ルリンのシェ lネフェルト︵美しき平原︶空 糖は甜菜からとったもので、コーヒーに溶け
DDR ︵ドイツ民主共和国の略称︶の、リ 客も私たちを除くと五人も居たろうか。早遠 とそ乙は街物受取所で、すでに私たちの荷物
ガ︵諸国民友好連盟︶の招きで、日本DDR 出されてきた機内食も冷えきっていて、パン がベルトにのって出はじめていた。ホッとし
友好協会が派遣する演劇視察団の一行が 、ベ も闘い。ビ!ルはさすがにうまかったが、砂 たもののなんとも落着かない気分で、荷物を
松
-9
2
-9
3
報
そ乙へおくれてやってきたのが、今回の視
わぬ時間をとり、部屋に入 って時計を見ると、
れている、ピユツヒナ l作 ﹁ダン トンの死﹂
リンの中心部へむけて走りだした 。その 頃に
氏。簡単な歓迎の言葉を’つけて、パスはベル
で広場として建った乙となどを聞きながら、
って破壊しつくされた後、 DDR建設のなか
ツツが昔はスラム街であったとと、大戦Kよ
木先生花、ホテル品別のアレクサンダ i ・プラ
時半まで、一時間あまりしかない。同室の八
ナと、旅の疲れも吹っとんで興奮した。
の期待も大きかったので、初日からついてる
テアトロ誌でも最近紹介されており、私自身
ドイツツェテアタ l kよる ﹁ダン トンの死﹂
が、現在DDRで最も注目されている乙とは、
の内容説明をうける。
はもう巌初の緊張感からは解放されていた。
荷物を整理し、シャワーをあびてあわただし
察団受入れの直接の責任者であるクル|ガ l 最初の公式行事であるレセプション開始の四
るが、ひろぴろとした道路に街路樹がとぎれ
パスからの風且既については藤山報告にもあ
る乙となく続く。大戦の破壊をまぬかれた建
ンサンブル︵ドイツツェテアタ iは改装中で、
シデント Kぶつかったのだ。主演俳優病気の
と乙ろがである、今思っても悔まれるアク
乙 ζをかりて上演されていた︶へむかう。
六時半、パスでホテルを出発、ベルリナ lア
パノラマへ。
三七階のレセプション会場、レストラン・
く着替えをすますと、もう時間だ。
物、修復された古い建造物の聞に、新しい高
層の住宅や商店、公共施設などが自に入って
くる。日曜日という乙ともあって、自動車も
人影も少い。それに ζれみよがしの看板の煩
ため、ベルリナ|アンサンブルの、ブレヒト
いか。初日からついているど ζろではない、
作﹁男は男だ﹂にさし替えられているではな
リガの対日責任者フイツシャ l氏の、心あ
たたまる、ユーモアにあふれた歓迎の挨拶。
いのないのがいい。
クル lガl氏からは、全行程私たちについて
ガツクリときた。乙いつは幸先よくないナと
鉄とコンクリートの都会で、ケパケパしい
カと動きまわるととを余儀なくされている私 世話をして下さる、ヘルガ・ドウ l メ女史と
の日程にあったのだが、ともかくその日は、
不吉な気分におそわれる。﹁男は男、だ﹂は後
コマーシャルの氾濫するなかを、日頃セカセ
先ほどのニ|パ|女史の紹介があり、あわせ
劇場はレパートリーシステムで、毎日演目が
乙乙で一寸注解を加えておくと、 DDRの
それを観るより仕方がない。
たちにとっては、まさに心が洗われるようだ
転手のアドルフ・シュミットさんの紹介もあ
て全行程パス移動であるととを知らされ、運
美しく、清潔な街並みである。
つた。
その後ビールと食事を頂きながら、配られ
突然見えてくる東西ベルリンの境界を示す、 った。
あの有名な﹁カベ﹂ K緊張を覚えるものの、
たスケジュール表に即して説明があり、周到 替るのである。﹁ダントンの死﹂はもう私た
に準備された超過密スケジュールを、全員健 ちの滞在中は上演されないので、私の大きな
パスのなかの空気はもうすっか りなどやかに
康管理に心しながら全うしようと確認する。
紀行風の叙述は乙の辺りでピリオドをうと
期待は完全に断ちきられたのだ。
テル・シユタット・ベルリンに着く。
八木先生から早速今夜の観劇予定花組み乙ま
なっている。約四O分ほど走って、パスはホ
チェック・インの手続きがやや ζしく、思
だ乙とか、重労働を強いてしまったーーに恵
ー
l 彼のおかげでどれだけ話が有効にすすん
ロストックのフオルクステアターでは、ゲ
まれたにか、わらず、尻切れとんぼに終った
による公演、乙れは全員が観て交流した。
ーテ作﹁クラヴィ lゴ﹂。ハンメル作﹁プロ
ぅ。紙数に限りがある。
乙乙で視察団の構成について書いておく。
ととだ。特花、創造現場の演出者や俳優とつ
ベルリンだけでなく、ロストック、ライプチ
街の印象については、はじめKもふれたが、
全体の印象について語ってお乙う。
乙乙で、演劇の乙とから少し離れて、 D D
ライプチッヒのシャウスピ l ルハウスでは、 学も出来なかったのは筏念であった。
つ乙んで話合う場がなかった ζと、稽古の見
通訳の市川君を含めて総数二六名。東京芸
シャ人がやってくる﹂。ドンゼッティ作曲の
﹂ 。
オペラ﹁ドン・パスクア l レ
術座口、前進座、関西芸術座、プレヒトの会
各2、名古屋演劇集団、劇団はぐるま、劇団
ゲlテ作﹁ファウス卜第一部﹂。プレヒト作
ワイマ l ル国立劇場では、ゲーテの﹁ファ
どろ各l、照明家l、舞台美術家1、大学の
ウスト﹂ K−フドツィヴイル大公がつけた曲に
﹁肝っ玉おっ母あとその子供たち﹂。
の西島、副団長は大阪外国語大学の八木、前
先生3、それに私である。団長は東京芸術座
進座の高瀬、事務局長は東京芸術座の高橋の
よるコンサート。
一覧しておわかりと思うが、 DDRの新作 ツヒ、ワイマ l ル、ポツダムと、それぞれに
は﹁キッペンベルク﹂ ﹁プロシャ人がやって 歴史を感じさせる、その街独得のたたずまい
次に私たちの観た舞台を列記すると、ベル
くる﹂の二本だけで極端に少い。乙れはさび
各氏である。
リンでは﹁男は男だ﹂の他、フォルクスビュ
を見せていた。 DDRは社会主義諸国のなか
ーネでハウプトマン作﹁ビーバーの外套﹂。
個性的であり、画一的な感じはほとんど感じ
J
で、もっとも経済運営がうまくいっているよ
国立歌劇場でチャイコアスキー作曲﹁オネ l しかった。
乙の他花エルンス卜・ ブッシュ大学の見学、 うで、ひとびとの表情は明るくのびやかで、
られない。労働人口は不足しているくらいで、
ギン﹂。 TJPでノル原作ピゴット脚色﹁キ
の機会が十回。他K解説を受けながらの、美
そ乙での懇談もふくめて、二、三時間の懇談
マキシムコ lリキ 1劇場で
ツペンベルク﹂
術館、博物館、宮殿、演劇人専用の老人ホー
0
ロlゾフ作﹁雷鳥の巣﹂。ベルリナ l アンサ
現にホテルのメイドさんのなかには、ソヴェ
演劇クラブの子供たちとの交流など、わずか
ムなどの見学、ピオニ l ルパラストの見学と
卜から来ているというおばさんが居た。失業
ンブルでゴ lリキ!作﹁どん底﹂。メトロポ
ール劇場でレビュー約色彩の強いオペレッタ
な自由時間をのぞいて、スケジュールに追わ
が、文化生活を享受する条件も整っている。
に出まわ っているようだ。藤 山報告にもある
たされるそうだが、基本的な生活物資は潤沢
自動車の購入は、申込んでから四、五年待
の心配は全くない。
﹁白い馬﹂。モ ーツァルト作曲のオペラ﹁後
しかし残念な ζとには、数多い懇談の席も
宮からの脱走﹂。但し﹁キツベンベルグ﹂以
それぞれ短かくて、市川君という有能な通訳
れる毎日であった 。
ので、全員が観たわけではない。加えて、山
下は、二班乃至三班にわかれての観劇だった
口報告にあるマキシムゴ lリキ!労働者劇団
9
4- 9
5
ている。ゆったりとして、むしろ穏やかとす
化的な生活を享受する権利は確実に保証され
考えると、 DDRの人たちの、健康にして文
が、物価や、教育、福祉の完墜に近い整備を
収は千マルク︵日本円で約一O万円︶程度だ
本やレコードも絡段に安い。労働者の平均月
とき?っ。その原因が、先程あげた、物心両乙ちらを見ているひとびとが居り、はるか彼
滞している、活力がない。﹂﹁カベ﹂乙しに西を見やると、むとうからも
たかと、あらためて目をみはった。しかし停乙とを聞き、門をくぐって、観覧台の上から
しかし、なにか活力があるのを感じた。一年また,フランデンブルグ門で、国境整備の責任
ぶりでDDRK入ると、 ζんなにも清潔だっ者から、西からの執劫な挑発が頻発している
があふれ、昼間から酔っ払いが備行している。まいと、強く決意している ζとがよくわかる。
ら感じられる表情も、むべなるかなという思 面にわたるポーランドの重圧だと、彼は号己う方に装甲車らしきものも見える。 ζの国が東
を得なかった。したがって、乙の乙とについは崩すまいとすると乙ろから出発しているよ
ドイツ語がしゃべれないときでは、諦めぎるバランスの上に成り立っている平和を、まず
私も機会があれば、ポーランド問題についくる。
のである。西緊張の最前線にある乙とが肌身に伝わって
ても信じられなくて、複雑な思いに捉われた
くらいだ。
しかし市川君の話によると、市民生活の上
K、ポーランドは重くのしかかってきている
いがする。隣りにポーランドがあるとは、と
という。援助物資を大量に送り乙んでいる乙
ては市川君の言を信じるよりほかない。うに思える。現に軍備を増強しつつあるのは、
ドにおける社会主義再建のメドがたちつ
3あ
うだ。加えて、そのととによって、ポーラン
それだけなのだろうか。たかだか二週間たら君からの受売りだが、現在の兵役制度に対す
穏やかな表情に複雑な思いをいだいた原因は、半の徴兵を義務づけられている。乙れも市川
しかし、市川君が活力のなさを感じ、私が八木報告にもある通りだ。若者たちは、一年
っていた。しかし、過密スケジュールの上に、しかし、彼らの力説する平和は、現在の核
てDDRの人たちと、話をかわしたいとは思
とで、生活物資供給の面で影響も出ているそ
るのならまだしも、それは見えて乙ない。と
管理のゆきとどいた社会主義社会の限界が、ともあって、兵役期間中に離婚問題が発生す
感覚的である乙とをあえて承知の上で言うと、パーセントに満たないと言う。早婚という乙
なると、いらだち、やりきれなさという精神 ずの滞在で、断言は避けなければならないが、る若者たちの肯定的態度は、当局発表でも五
的負担も大きいという訳だ。
l スも少からず、社会問題にもなってい
どの懇談の席でも、 DDRの人たちは、平るとか。年金生活者や一部エリートを除いて
そ乙にはあるように思う。るケ
半留学した体験がある。今年も二月に日本を
うに、強制収容所跡を見学していると、乙のされているのだ。
和の大切さを力説した。藤山報告にもあるよは、西側への出国の道は、一般市民には閉ざ
市川君は昨年の三月まで、ベルリンに一年
発ち、西ドイツのいくつかの都市をまわって
るか、とのととですが。もちろん台本はかな
り前に各人に渡され、自分で勉強する時間は
ともあり、プレヒト研究の第一人者である、
ルリンでは、映画やテレビの仕事もあるので
シ
ュ 1 7ッ
ハ l氏との懇談の席で、その乙と 術を創造する資格はありません。もっともベ
実は、フンボルト大学の教授で来日した乙
うして ζのようになってしまったのか。
過去の誤ちを断じてくり返す理想主義だけで、現実をはかれないのは確
﹁西ドイツの衝はど乙も汚ないし、浮浪者 国の人たちが、 、
DDRK入った。
かである。しかし、以上のべてきたようなと
を手放しで礼讃するととは、やはり一面的に
三ヶ月の稽古期間が必要なのかもわかりませ
とがらに目をつむって、 DDRの豊かな生活
すぎよう。ポーランド問題にしてからが、や
をつっとんで話したかったのだが、時間切れ
ら、プレヒトを経過して、多様な演劇の可能
八木報告にあるように、伝統をふまえなが
話を演劇のととにもどそう。
なのか、社会的要因はないのかというような
は作家個人の責任にのみ帰せられるべきとと
ともっているとの批判も聞かされたが、それ
ミユラーたちが、個人的な関心のなかに閉じ
劇作家、ベータ l ・ハックスや、ハイナ l ・
もしている。日本の作品紹介も強く要望して
いても、大きな関心をはらっているし、上演
にラテンアメリカなどの第三世界の作品につ
ロストックの劇場は、社会主義圏以外、特
んがね。﹂
充分にあります。自分で勉強しない人に、芸
りきれなさ||活力の減退Kとどまっていて
で果せなかった。
性をまさぐっている姿に、学ぶととろ少くは
また、乙れからのDDR演劇を背負うべき
いいものだろうかという疑念をもっ。
なかった。
実は先にあげた作品以外花、私と市川君の
めくくろうと思う。
最後に、とっておきの話をしてとの稿をし
、
−
−
し
犬o
念であった。
しかし河東報告げ札あるように、総じて舞台 点についても、話合えずにしまったことは袋
そのものに充たされる ζとが少なかったのは
事実である。今、 DDRの人たちが、なにを
乙うしたなかで、ロストックの演劇人たち二人だけ、ハイナ l ・ミユラ lの﹁指会﹂の
は印象K残っている。八木報告や山口報告で舞台を、フオルクスビュlネの四階のスタジ
緊急にして重要な問題として問いつめている
のかを、うかがえるものがない。鋭い問題提
ζの地方都市の演劇人たちがもっている﹁わえるような感動を覚えたのである。
も触れられているので、だぶりは避けるが、オで、幸運にも観る乙とが出来、全身がふる
どの演劇関係者たちの話のなかでも、プレ
起が欠けているように思える。
lギン﹂観劇の目、団体行動か
﹁私たちの劇場での稽古期間はほ Y 一ヶ月ら逸脱しての観劇だったのだ。幸運にもーー
ひとつだけを引用しよう。って、﹁オネ
ヒトの果した功績の大きさは強調されるのだ が道をゆく﹂気慨は、同じく地方都市で活動視察団のみんな Kは、乙の誌上をかりてお
が、二つの舞台は私を失望させた。それだけ する私には、充分に示唆的であった。発言の詫びしなければならないのだが、仮病をつか
で断定する乙とはやはりはばからなくてはな
らないが、挑発すると ζろのない、牙をぬか
れたブレヒ卜花、ほかならぬDDRで遭遇し です。ベルリンでは三ヶ月かけているようで、とはけしからぬとお叱りをうけても仕方がな
ようとは、なんとも悲しい ζとであった。ど 彼らに言わせると、一ヶ月で芸術作品が出来いのだが。
- 96 一
-9
7
台は展開する。
ドビユツソンを演ずる俳優は、指令を発し
スでは革命は挫折する。指令を発した革命政
た責任者であり、革命挫折後は新しい権力陀
権が潰えた以上、指令は効力を失うこととな
論議があった上で、ガル lデッ夕、サスボ
実は乙の作品については、昨年八木先生か
ルタスは、自由な意志でジャマイカの革命運
ら﹁組い訳だが﹂と前提っきだが本を読ませ
が稽古にも時折り参加して、ミユラ|氏と親
で、自に見えぬ何者かからの指令にふりまわ
寝返る男アントワ 1 ヌと、エレベーターの中
る。さてそ乙で、三人はどうするか。
しくなったとと、初演の舞台の感想を聞いて
ンは指令の呪縛から自由になった思いの方が
動に身を投じる道をえらぴとる。ドビユッソ
てもらい、関心をもっていた。さらに市川君
いた。仮設ベンチで四O枚しか切符は売らな
いからずっと先まで売りきれている。したが
で、観る乙とが出来る﹂とさ、やかれ、迷っ
ドビユツソン一人を筏して去っていく。た Y とするドピユツソンの前で、ガル lデックと
ルをとりだすが、結局は処置する乙となく、
奴隷女をはべらせて、自己正当化を果そう
って観るのはまず無理l!という話も聞かさ 強く脱洛する。かといって裏切りの痛みに心 される不安に汗を江がす男も演じる。
アントワ l ヌ夫人を演じる女優は、ドビュ
れていたので、是非観たいとは思いながら諦 がうずかない人間ではない。乙の昼切り者を
めていたのである。と乙ろがDDRK着いた どうするか、ガル lデッ夕、サスボルタスの ッソンに革命の空しさを甘くさ、ゃく初恋の
B K、市川君から﹁ミユラ l氏の特別の配慮 両人は、あるいはナイフを、あるいはピスト 女も演じるし、絶望の天使としても登場する。
たのだが、エスケープして二人で観る乙とに
サスポルタスは、自分の掌をナイフで切り、
血の刻印をドピユツソンの白い顔にはりつけ
ンとロベスピエ l ルの葛藤を、グロテスクに
サスポルタスが、かぶりものをつけ、ダント
したのだ。つまり、裏からもぐり乙んだとい
う訳だ。
﹁革命は死のマスク、死は革命のマスク﹂
演じる劇中劇もある。
あるいは自分をいためつけ、あるいは裏切り という言葉が無限につ Yられたカーテンが下
一人になったドピユツソンの心はうずく。
る
。
ではないので、﹂プロットを紹介するのは難し
を正当化しようと苦悩する。︵乙の辺りの演
いわゆるリアリズムの手法で展開する作品
いのだが、中心に据えられているのは、フラ
して圧巻である︶しかし、真紅な血の刻印を
技は大きく矛盾をはらんだ人間を見事に表現
ではミュラ lは乙の作品全体を通して、な
可能だ。
それらの関連を、言葉で説明するととは不
げられもする。
ンス革命の時代、国民議会の指令Kよって、
消し去る乙とは出来ない。その末に、赤い刻
ジャマイカの革命運動を援助するべく派遣さ
れた、一二人の男をめぐる話である。
乙乙で、市川君が早稲田文学八一年九月号
にを語ろうとしたのだろう。
陀、ミユラーについて書いた文章の一部を紹
重要な手がかりを与えてくれる。ドイツ社会
はじめ︿課題﹀という風に私に話された︶そる、現実への妥協を状況のせいにしがちな体
は乙の作品の原題。何月﹀ C﹃吋河﹀のを、に乙たえたとも圭一守えるし、私たちのなか Kあ
かなければならない課題なのだ。︵八木先生本ではほとんど見られないだけに、したたか
過去の出来事ではない。 ζれ か ら も 続 げ て い 現 在 、 革 命 の 問 題 を 正 面 に 据 え た 作 品 が 日
きた彼。その彼にとって、革命は過ぎ去った演技の質が、そ乙にはあったのである。
DDRの建設ーl 革命K作 家 と し て 参 加 し て 他 のDDRの舞台では接する乙とのなかった
て坐り乙む。印象的な舞台の終りだ。
乙の展開に、 、
いろんな状景が掃人されて舞
奴隷商人の息子ドピユツソン、フランス農 印をはりつけた白い顔を、一人観客にさらし
彼らがジャマイカで工作中に、本国フラン
民出のガル|デッ夕、黒人のサスポルタス。
介してお乙う。
八カフ力的な飾りのない文体でつずられた
民主党の役員だった彼の父親は一九三三年一
うした彼にとって、 DDRの現実は、もどか質に、鋭くっきささってきたとも言える。
自伝的短篇﹃父﹂は彼の作品を理解する上で
た父はやがて階級斗争のあつれきに耐え切れ
月就寝中陀逮捕される。次の年の冬釈放され
浮き彫りにされかねない局面をも描きながら、か。
まかり間遭うと、革命のもつ筏酷な側面が面から取り組んだ舞台を、創るべきではない
語りたい乙とは、エピソードもふくめてま
しいのではあるまいか、と私は想像する。私たちも、私たち自身の革命について、正
を捨てた父親はやがて﹁労働者を殺じた者た
かっ裏切り者のドビユツソンを前面K押しだ
だまだある。がすで K与えられたスペースは
なくなり、﹁一九五一年、ポツダム広場を越
ちとその未亡人K年金を支払う﹂仕事にたず
た乙とは、無数のひとびとの死を賭けた、多
しながら、ミユラーが﹁指令﹂で語ろうとし
いて、そ乙で考えたととを述べて、私の報告
とっておきの、私にしか語れない舞台につ
- 9
8
- 9
9
えてベルリンのアメリカ管理区に移る。家族
シズムのもとでミュラ l 一家がなめなければ
オーバーした。劇場や演劇人たちの恵まれた
は、私たち自身が獲得していくべきもので、
るととを一方で示しながら、まだ革命は完了 条件についてあえて語らなかったのは、それ
くの革命の敗北の積み重ねの上K、現実があ
さわる。淡々とした事実描写の中から、ファ
ならなかった辛酸や、﹁引き裂かれた空﹂の
もとに父親を持つ彼の硯独が切々と伝わって
切りを正当化するととは出来ないーーーという
は終る。
限られた乙の誌面では割愛してもよかろう、
ととではなかろうか。しかも苦渋にみちた自
くるVと書きしるす市川君は、いくつかの作 してはいない乙と、 ζれから先、死を賭けて
品紹介をした後、次の言葉で ζの一文をしめ も貫徹していかねばならない乙と、いかに厳
くくる。八三月筆者がベルリンを去る直前、
ミユラ Jλ 最新作﹁クァルテット﹂の草稿を
分自身の半生を直視するなかでである。
という私の考えからである。
見せてくれた@彼の顔は且取初会った時と同じ
ホルツは、ミユラ lの思想を全身で引き受け
。
しく深い苦悩に苛まれる ζとがあっても、裏
ように顔の半分が笑っているようであり、も
て感動的であったし、他の俳優たちも作品の
ドビユツソン他を演じた俳優、ユルゲン・
ミユラ lは一九二九年の生れである。少年
要求するものをしっかりと受けとめていた。
V
時代をアカの子として身をかがめて暮し、戦
う半分が泣いているようでもあった。
後は、身も心も引き裂かれる思いを抱きつ\
。
台は展開する。
ドピユツソンを演ずる俳優は、指令を発し
スでは革命は挫折する。指令を発した革命政
た責任者であり、革命挫折後は新しい権力に
権が潰えた以上、指令は効力を失う乙ととな
論議があった上で、ガル|デッ夕、サスポ
実は乙の作品については、昨年八木先生か
ルタスは、自由な憲志でジャマイカの革命運
で、自に見えぬ何者かからの指令にふりまわ
寝返る男アン卜ワ l ヌと、エレベーターの中
ら﹁組い訳だが﹂と前提っきだが本を読ませ
が稽古にも時折り参加して、ミュラ l氏と親
動に身を投じる道をえらぴとる。ドビユツソ
る。さてそこで、三人はどうするか。
しくなった乙と、初演の舞台の感想を聞いて
ンは指令の呪縛から自由になった思いの方が
てもらい、関心をもっていた。さらに市川君
いからずっと先まで売りきれている。したが
いた。仮設ベンチで四O枚しか切符は売らな
で、観る乙とが出来る﹂とさ、やかれ、迷っ
自に、市川君から﹁ミユラ l氏の特別の配慮
めていたのである。と乙ろがDDRK着いた
れていたので、是非観たいとは思いながら諦
って観るのはまず無理ーーという話も聞かさ
ドビユッソン一人を疾して去っていく。たず
ルをとりだすが、結局は処置するととなく、
両人は、あるいはナイフを、あるいはピスト
どうするか、ガル|デッ夕、サスボルタスの
がうずかない人間ではない。乙の裏切り者を
強く脱落する。かといって裏切りの痛みに心
サスボルタスが、かぶりものをつけ、ダント
とするドビユツソンの前で、ガル lデックと
奴議女をはべらせて、自己正当化を果そう
女も演じるし、絶望の天使としても登場する。
ツソンに革命の空しさを甘くさ、ゃく初恋の
血の刻印をドビユツソンの白い顔にはりつけ
ンとロベスピエ l ルの葛藤を、グロテスクに
﹁革命は死のマスク、死は革命のマスク﹂
演じる劇中劇もある。
一人になったドビユツソンの心はうずく。
る
。
アン卜ワ l ヌ夫人を演じる女優は、ドビュ
たのだが、エスケープして二人で観る ζとに
サスボルタスは、自分の掌をナイフで切り、
される不安に汗をながす男も演じる。
したのだ。つまり、裏からもぐり乙んだとい
う訳だ。
いわゆるリアリズムの手法で展開する作品
ではないので、プロットを紹介するのは難し
技は大きく矛盾をはらんだ人聞を見事に表現
ではミュラ lは乙の作品全体を通して、な
可能だ。
あるいは自分をいためつけ、あるいは裏切り という言葉が無限につ Yられたカーテンが下
を正当化しようと苦悩する。︵乙の辺りの演 げられもする。
それらの関連を、言葉で説明する乙とは不
ンス革命の時代、国民議会の指令によって、
して圧巻である︶しかし、真紅な血の刻印を
いのだが.中心に据えられているのは、フラ
ジャマイカの革命運動を援助するべく派遣さ
にを語ろうとしたのだろう。
消し去る乙とは出来ない。その末花、赤い刻
印をはりつけた白い顔を、一人観客にさらし
に、ミユラーについて書いた文章の一部を紹
こ乙で、市川君が早稲田文学八一年九月号
て坐り ζむ。印象的な舞台の終りだ。
いろんな状震が婦人されて舞
乙の展開に、 、
れた、三人の男をめぐる話である。
奴隷商人の息子ドビユツソン、フランス農
彼らがジャマイカで工作中に、本国フラン
民出のガル|デッ夕、黒人のサスポルタス。
重要な手がかりを与えてくれる。ドイツ社会
自伝的短篇﹃父﹄は彼の作品を浬解する上で
はじめ︿課題﹀という風K私K話された︶そる、現実への妥協を状況のせいにしがちな体
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は乙の作品の原題 U開刃﹀ C﹃吋刃﹀のを、
過去の出来事ではない。 ζれ か ら も 続 け て い 現 在 、 革 命 の 問 題 を 正 面 に 据 え た 作 品 が 日
きた彼。その彼にとって、革命は過さ去った演技の質が、そ乙にはあったのである。
DDRの建設
ll革命に作家として参加して他のDDRの舞台では接する乙とのなかった
民主党の役員だった彼の父親は一九三三年一
Yられた
月就寝中K逮捕される。次の年の冬釈放され
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︿カフ力的な飾りのない文体でつ
介してお乙う。
た父はやがて階級斗争のあつれきに耐え切れ
浮き彫りにされかねない局面をも錨きながら、か。
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を捨てた父親はやがて﹁労働者を殺した者た
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しながら、ミユラ lが﹁指令﹂で語ろうとし
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シズムのもとでミユラ l 一家がなめ江ければ
くるVと書きしるす市川君は、いくつかの作
もとに父親を持つ彼の孤独が切々と伝わって
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も貫徹していかねばならないとと、いかに厳
してはいない乙と、とれから先、死を賭けて
とっておきの、私にしか語れない舞台につ
という私の考えからである。
限られた乙の誌面では割愛してもよかろう、
は、私たち自身が獲得していくべきもので、
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オーバーした。劇場や演劇人たちの恵まれた
品紹介をした後、次の言葉で ζの一文をしめ
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いて、そ ζで考えた乙とを述べて、私の報告
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語りたい乙とは、エピソードもふくめてま
ならなかった辛酸や、﹁引き裂かれた空﹂の
くくる。八三月筆者がベルリンを去る直前、
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ホルツは、ミュラ 1の思想を全身で引き受け
は終る。
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見せてくれた・彼の顔は最初会った時と同じ
て感動的であったし、他の俳優たちも作品の
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ミユラ 1は一九二九年の生れである。少年
要求するものをしっかりと受けとめていた。
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後は、身も心も引き裂かれる恩いを抱きつ\
。
一
’
私は大阪空港で板坂晋治︵装置︶、読売テ
大阪伊丹経由で北京空港に向った。
一一一月一五目、日航七八三便で成田空港から、
行十七名は、中国戯劇家協会の招待をうけ、
私たち演劇入社第二次友好訪中代表団の一
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文ぴ
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ひ
ろ
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名作﹃雷雨﹄に感動、翻訳紹介された方であ
Yいたのだ。
喜劇﹂に連載されたように東大時代K善局のお願いした所、暖い励しと資料も送っていた
第一線を歩んで来られた人だが、昨年﹁悲劇からなのである。公演パンフレットに原稿を
朝日ジャーナルの編集長とジャーナリズムのた、曹属先生とのつ江がりも、﹃雷雨﹄上演
り、中国と敵対関係Kあった三十年前郭沫若た時、朝日ジャーナルの編集長で、曹関先生
との対談を大きく掲載、その後、論説委員、へお手紙をたずさわったのを覚えている。ま
影山さんはかつて朝日新聞の学芸部長であちょうど、私が﹃郡上の立百姓﹄で訪中し
主張したのは私だった。て励まされて来たのである。
劇
j
国
寅 肴
占
説委員として来られた直後だったので、舞台驚いておられたが﹁どちらにしても、私は演
﹁いや 、地方劇団で乙れだけの舞台を観せれた。しかし、そんな乙とでひき下る私では
も観ていた Yく 乙 と が で き た 。 劇 人 じ ゃ な い か ら 団 長 な ん て ﹂ と 強 く 辞 退 さ
ていた Yくなんて思ってもいませんでしたよ﹂ない。
と強引に迫った。事実、私はそんな気持だつられた時にもお会いしているから忘れられな
・演劇雑誌﹁戯劇報﹂の編集長で
κ
ζろが、ふと気づいたら、劉先二本建で、共に古典京劇だった。
から、実
から、乙れにも驚いた。何か秋田か三沢の飛思う。常緑樹が殆んどないのだ。たととは覚えている。
行場K ついたような淋しさだったのである。
ζうして市内K入 り 、 和 平 賓 館 に 旅 装 を と だ か ら 、 日 本 へ の レジ ス タ ン ス を 錨 い た
税関を通過するや劉厚生先生の顔が見えた。き、私はなつかしい北京の人となった。﹃紅灯記﹄、朝鮮戦争での英雄を描いた﹃奇
ちの日航機だけで、他に全く見当らなかった一面に荒涼とした褐色が続く。大陸だなあという乙とで日本新劇団のために上演してくれ
だったが、なんとその時間帯で国際便は私ただ三月で芽生え前、畑も春まきがすんだ所で、公開されていなかったのだ。た Y、特別にと
私たちが着いたのは、一時間の時差で二時半四列五列と重なる見事な錫柳の並樹も、まはもうすでに古典京劇は一掃され、一般には
−
71ン と し で ♂ 嘘 の よ う に 静 か な の で あ る 。 直 線 の 自 動 車 道 路 は 普 の ま 、 で あ る 。 即 ち 、 第 二 次 訪 中 新 劇 団 と し て 行 っ た 時 に
色豊かな雑踏は全くない 。広い空港ビルはガの挨拶があって、自動車で北京へ向った。一いたといってい、。
だ
、はじめて
た。しかし、成田や羽田の、あの喧燥と国際劉厚生先生の歓迎のメッセージと影山団長質的に江青の指導がすでに前面に出
つて立派なビルとな り 、 設 備 も 近 代 化 し て い の 連 発 で あ る 。 や は り 中 国 は 礼 の 国 だ 。 廃 し 、 現 代 京 劇 を 提 唱 し て い る の
北京空港は、 ζれも十七年前とはうって変人と、熱い握手をし﹁ニ l ハオ、ニ l ハオ﹂六四年の京劇コンクールで江青は古典京劇を
正常化の恩恵といってい三かつては香港経る。十七年前を思いだせば、当然ありうる乙私たちが行った第二次訪中新劇団は一九六五
曲以外中国 へ入る途がなかったのを思うと、となのだが、日本ではそうした経験がないだ年五月に公演しているのだが、その年の秋に
一飛びである。けに、もう胸は一ばいである
。 思 わ ず 一 人 一 文 革 が 発動されているのである。と ζろが、
うのである・それでも十七年前とちがい国交家、俳優、舞台美術家のみなさん方なのであた古典京劇は全く見るととができなかった。
きく南に廻り、上海の上空を通って北京に向んな私たちを出迎えに来られた演出家、劇作そうだ。いずれにしても、十七年前は乙うし
京に入った。韓国の上空が通 れないので、大がニコニコしておられるのである。それはみぃ、。二本建の場合は必ずこうした組合せだ
飛行機は十一時半に伊丹を発って、直接北生の周辺 三 十 人 か 四 十 人 の 人 民 服 姿 の 方 々 前 者 は 立 廻 り で 、 後 者 は 世 話 も の と い っ て
諾してもらったのである。を求めた。と
かったからである。こうして強引に団長を承私はかけより、久しぶりの選遁を喜び握手観劇した。﹃武松打店﹄と﹃孔雀東南飛﹄の
影 山 さ ん を ぬ い て の 団 の 構 成 な ん て 考 え れ な 実 質 的 な 顔 で あ り 、 主 人 と い っ て い 三 の 吉 祥 劇 場 で 北 京 京 劇 団 第 二 団Kよる京劇を
歯自国問先生がどんなに喜ばれるかと思ったら、中国戯劇家協会の秘書長だから、招待者側の早速、その夜近くの王府井︵ワンプ lチン︶
た。い顔である
ら、私も乗気になれないんです。本当ですよ﹂十七年前Kもお世話になり、その後日本へ来
構成する上で秘書長の日笠氏から相談を守つけ と過分のおほめをいた Yいたのを覚えている。﹁影山さんが行かれるのだったらお伴する
た時、ぜひ影山さんになってもらうべきだと それから二十年のおつきあいで、何かにつけ気になるのですが、もし行かれないのだった
されたのが、団長の影山三郎氏である。団を
よろしく、二週間頼みますよ﹂と手を差し出
た。機内に入るや﹁ゃあや晶、乙ばやしさん、
顔見知りの人もいたし、はじめての人もい
ある。
私が文句なく影山さんを団長K推したのも、
大川達雄︵朝日新聞学芸部︶田中弘史︵演出・ る・
私と影山さんとのつながりも、やはり﹃雷そうしたつながりと、戯劇家協会の主席が曹
俳優 ・劇団ぼうふら︶水野鉄男︵元名演委員
長︶の諸氏らと共に、東京組と合流したので 雨﹂だった。上演に当って上演許可をお願い局先生という乙とが頭にあったからだ。
したととろ、ちょうど朝日の名古屋本社の論影山さんに早速電話したら、突然の乙とで
レビ、大阪芸大︶作本秀信︵音響、大阪芸大︶
や
にj
-1
0
0-1
0
1-
ト
)
京劇ばかりだったのだ。それが今回は逆に一
襲白虎連隊﹄というものばかり、即ち、現代
K参加したりする以外、何の仕事もない。相ま座で演出していた日笠世士山久氏が組織して
セサリーみたいなもので、中国側との座談会話劇入社というのは、かつて山口のはぐる
いったのである。顧問団なんていうが、アクくれる中国側の様子が私にわかって来た。
いって仕事のない私たちは仲よくデイ卜した窓口となった日中文化交流協会であり、もう
の長岡輝子さんも顧問団だったから、 ζれとけである。一つは第一次第二次訪中新劇団の
の街をうろつくだけだったのである。文学座中国との演劇文化交流の窓口は二つあるわ
談をうけるなんてむろんない。うろうろ北京いる中国との交流の窓口である。
本も現代京劇にお自にか、らなかった。
とくに古典京劇は話劇なんかとちがい、全
劉芸芝の妻が姑にいじめられ、家におれなく
く政治的教育臭がない。﹃孔雀東南飛﹄でも
なって、あの世での幸せを念じて二人が人水
ものである。一つが、乙の話劇入社である。日笠氏が山口
てくるたびに観客の爆笑を買っていたが、鴻
を見たり、寝室を見て廻ったりしている中に、それ以降は中国との演劇交流に専心するよう
明・清の都としてぜいを極めているが、王座はぐるま座と相容れなくなったためらしい。
から北海公園を歩き廻った乙とを覚えているのいが、相変らず四人組の革命路線を支持する
乙の故宮は一二一回一人で廻り、景山公閣のはぐるま座から出た事情については知らな
自殺するという話なのである。封建的家族制
玉増という名優だという。観客も実に素直に
臣下に一挙手一投足を見守られ、見つめられ、になったのである。
ゆっくり見学したら、とてもとても、一日か土木から一月という、年末年始は寺の仕事のか
ているか、また、若い人々は今当時をどうふ
もう一点は、あの文革が、どう中国K影響を
与え、中国の演劇界の人々はとれをどう考え
り返っているのか、それが知りたいというと
造物だった.その劇場のリハーサル室で、前
も、日本では通訳なんて雇いようがないから
翠琳さん、装置家の越鳴儒さん等十人ばかり
婦人代表団で来日された女流児童文学者の葛
んをはじめ、女優の方掬努さん、まだ、先日
述の劇作家の羅英さんと共に副院長の周来さ
さん.照明の岩崎令児氏、人形劇団プ lクの
だ。雇えば少くとも一日二万円はする。それ
いて説明があった。乙の数年、とくに政府か
三児童劇中園児童劇院らない。役者としての周恩来のイメージとも
二阿
-1
0
2一
度の矛盾である。実K KくKくしい姑で、出
楽しんでいるようだつた。むろん、満員であ
今回の訪中で全部で八本の芝居を観たが、
けても廻りきれるものではない・き入れ時で、とても参加ど乙ろではなかった
のない気の毒な存在に見えてくるから面白い。も、参加を強く求められたが、時期が十二月
かしづかれている皇帝というのは、実K自 由 一 昨 年 の 第 一 回 訪 中 代 表 団 が 組 織 さ れ た 時
る
。
すべて満席だった。実に羨しい限りである。
しかし、通訳の歩さんの話 よると、若者
κ
は京劇から離れつつあるという。﹁カン高い
話Kよれば非常K価値のあるものが、台湾のだ。その時は、ふじたあさや氏が副団長と
一夜をホテルで過し、午前中故宮を見学し
て廻ってようやく、団のメンバーと接待して
なったのだ。
んとならと思っていたととは前Kのべたが、
ぅ。そして今日となったのである。私は影山さ
へ持出されて、台北の故宮となっているといして参加している。
音楽、カン高い発声、頭に来ますよ、頭に﹂、
なるほどと思った。チ l ン、ジャラン、カ
lン、ヒュ!という楽器と鼻にか、る歌を一
時間も聞いていると、私の頭もキ l ンと耳鳴
りがして来たからである。
κ
十六日午前中は故宮を参観した。
六五年 訪中した時は、私は顧問団として
ともあった。
乙ういう接待の仕方は日本ではとてもでき
長谷川正明氏、長谷川さんは前の訪中で一し
の方々と話合った。
ら、子供のためにすばらしい児童劇を生みだ
まず、中国側から中国の児童劇の動きにつ
に食事ホテル代を合算すれば、三万、四万は
てもとても。そんな財政的な宴付けは新劇人
に応え、昨年は五O本の創作劇が生れたが、一
なら文化庁︶児童文化部が設けられた。それ
す必要が提起され、文化部に︵日本流Kいう
会議でも、ど乙でもない。
社会主義国だから、はじめてなしうる乙と
だといってい\だろう。
解放後文革までに約五O本が生れているから、間
いかに活発になったかがわかると思う。一
ージを出したいと思うし、宋慶
十六日の午後は五つにわかれて座談会をも乙れは量だけでなく、質もよくな っている。
一人形劇中国木偶劇団腫のイメージも出したいと思っている。ーー
った。周恩来のイメ
える方々が、私たちの接待にか、りっきりな
四舞台美術中央戯劇学院とれるが、作品の質のととをい
Q正伝について中央実験話劇院とれは挑さんの通訳、だったが何の乙とかわか
のである。という乙とは、私たちのホテルに
五照明効果首都劇場から、周恩来とか、宋慶麗のイメージという
っているのだ
くまで、何かと世話になるわけである。
私は団長・多田徹、小池さんらと共に中国のは、四人組と斗った近代化を意味している
新しく改築する乙とになったという話だが、四人組といえば、三突出の理論というのが
児童劇院に行った。のではないかと思う。
するまで、通訳の挑さん、芦さん共々世話K 確かにいわれる通り、相当古い劇場で危険建あるから紹介してお乙う。三突出というのは
戯劇家協会との折衝など、上海空港でお別れ
任者になっていたずいたのだが、西安上海の
とくに羅英さんは女流劇作家で‘一切の責
泊って朝早くから夜の観劇、パーティ等おそ
五人の工作員、運転手を含めれば、十人を乙
陸の四人の通訳のみなさん、それ以外に四・
さん、それに挑長興、穆小林、安也非、彰広
連絡委員会主任の李文敏さん、同じく周宝佑
の緯英さんが責任者で、中国戯劇家協会対外
作員という︶も中園児童劇院副院長で劇作家
税関もフリ lパスだし、接待員︵中国では工
ので、中国側の配慮は大へんなものである。
どちらにしてもわれわれは招待されている
団といってもスタッフが中心の構成だった。
氏、女優の井口幸子さんらである。新劇代表 軽くとんでしまう、それも二人三人なんてと
ょだった。劇団﹁風の子﹂の劇作家の多国徹
博之氏の奥さんである児童劇作家小池タミ子 ない。中国から、例え演劇代表団を招待して
日本側の一行は前記の関西組に加え、富田
巴j
四
江青なんかがいヨだした理論で、まず人物の円になり、年間の収入は十八万円、国家助成くて入院、断念し、今日の訪中となったのだ。
中で肯定的人物を突出させ、肯定的人物の中は倍の三五万円というから羨しい。それ以外それが、今日も血圧が高く、出発まで劇団も
でも英雄的人物を突出させ、英雄的人物の中に劇窃建設費が、今年一 OO万円予算化され、家族も不安を表明していたという。
で も 、 も っ と も 主 要 な 英 雄 を 突 出 さ せ る と い 近 く 工 事 に か 、 る と い う 乙 と だ っ た 。 い や 、 そ う い う ζとを知らない私は何が起
ぅ、とてつもない理論を文学、演劇、美術、ちなみに緩英さんの月給をのぞいてみると、きたかと思った。それ以後、ずっと北京では
音楽等凡ゆる芸術分野に押しつげたのである。一七 円という乙とだった。中国では高給取女医さんがつきっきりだった・万里の長城も、
O
30 一円は日本円で一四O円前後願和国も。夜ホテルにも必ず診察に来られた。
そして突出した英雄が出ると、赤いライトでといってい
ライトで暗く表現したというから驚く。何しそのあと、私が多国徹の﹁風の子﹂が日本である。いや、はや、中国の配慮には恐れい
浮ぴ上らせ、否定的人物が出ると、ブルlのである。そして、西安‘上海へと受けつがれて行くの
ろ、文革当時は十本に満たない三突出の理論を代表する児童劇団で、水準も非常に高い乙った。
c
まりと、対象三日目、同劇団の学校鑑賞を見せてもらっ
で武装した模範劇以外は認めなかったというとを話し、また、労演の行き つ
から、さらに焼くわけである。文革について的に観客団体としての、とども劇場の盛長、た。パスで劇場へ行く途中、赤いネッカチー
さて、児童劇院での座談会にもどるが、児ら、くわしく﹁風の子﹂の活動、とくにプロ﹁あれは﹂と聞くと、羅英さんが﹁今日の
は別の項目を設けてのべてみたいと思う。その背農について説明し、つ Yいて多国徹かフを首にまいた小学生が歩道を歩いていた・
少ないのに驚いた。郎ち、北京、上海、武漢、俳優と共K劇遊びをするようになる創造活動劇場についたら、劇場前の広場にも並んでい
童劇団は全国K五劇団しかないという・案外セニアムを取はずし、観客が劇の中に入り、お芝居の可愛い、お客さんですよ﹂という。
それぞれが年間三五Ol四OOステージ乙たようである・とくに女優の方掬芥さんが来﹁ニ|ハオ﹂というと、いろんな歓声が返
西安、溶陽に一劇団づ、あるわけである。について話をしたのだが、非常に興味が集った。
なしているという乙とだった。私たちの訪ね目した折、﹁風の子﹂を訪ね、公演を観て、って来た@子供は文句なく可愛い\そして
一
二O名が俳優で、あとはスタッフだろうとと乙ろが、座談会の最中K聴 診 器 を も っ た 題 名 は ﹃ 仔 似 伴 之 歌 ﹄ と い っ て 内 容 は 極 め
た北京の児童劇院は、総勢三二O人で、その強い感銘を受けて帰って来られたようで、話中国の子供は何かきびきびしているような感
中三五人が工作員︵経営総務のスタ γフ ? ︶ は 大 い に は ず ん だ 。 じ が し た 。
思う。三班1六班の公演班をもっているとい女医さんが入って来た。そして多国さんの血て単純で、健康で、たくましく、人に親切で
体はよく動いた。子役は男女共に女優さんが
るテンポの早い楽しい芝居だった。さすがに
が積木舞台を変え、役者が、各場で役を変え
万雷の歓声である・日本では考えられない乙中国花は立見席がない。映画でも芝居でも、
ると、一斉に﹁は lい、は!い﹂と手をあげ、だったのである。
んなは歯を磨きますか﹂と舞台からよびかけ八日までのチケットは全部売切れという盛況
入場料は十五銭t二十銭で一公演約三OO の時メンバー
κ入っていたのだが、血圧が高育劇だ。一話二話三話と歌でつないで、役者
うのだ。圧を計るのである。多国さんは一昨年の訪中ぃ、子になるにはどうしたらい、かという教
やっているようだつた。
舞台装置は青年座の﹃プンナ﹄のプランをでキャンセル待ちか、プレミアムがつくかど
とといってい、。全部指定席だから、人気のある芝居は、人口
いたずいたといっていたが、乙の積木舞台、うか知らないが、チケットをゆずってもらう
ような気がした。乙の作品の作者・挑一葦は台湾の配作家で、
別に﹁ブンナ﹄のプランという乙とでもないのを待つ人で一ぱいになるのである。
﹃プンナ﹄は大へんな反響のようで、ど乙現在台湾の中国文化学院戯劇研究所々長とい
でも﹃ブンナ ﹄の話が出た。﹁じゃ、やられう肩書だから、台湾の代表的作家にちがいな
-1
0
4-
てもとても、あれだけの肉体訓練はまだでき台湾の作家の作品を上演するという乙とは、防
てはどうですか。蛙の世界Kしであるから、いと思う。多数の作品、また芸術論集が出版
ど乙でもやれるレパですよ﹂といったら、﹁とされているという乙とである。一
ていません﹂といわれたのには驚いた@肉体台湾との平和的統一という政治的な意味があ一
訓練では中国の俳優さんに追いつけないのに、るのか、また、純粋に作品にほれたのか、そ
ったという証しでもあるからである。
たいと思う@というのは文革以降乙れだけ変
かったので、少し長いかも知れないが紹介し
外国のものはよく見えるものだと思った。れはわからない。しかし、舞台が実に面白
十六日夜はいよいよ中国青年芸術劇院の
だけに楽しみだったが、さすが期待K応えて
ス団のリーダーのととである@
教育そのものなのに、それでも十分楽しみ、
﹃紅鼻子﹄である。青年芸術劇院は、つねに
﹃紅鼻子﹄というのはピエロの赤い鼻の仮
実験的先進的な乙とをする劇団である。それ 面をつけ、みん江に笑いを与えて廻るサーカ
芝居に入っているのには参った。歯を磨がか
ない子が歯を磨くようになる話のあと、﹁み
くれた。乙の ﹃紅鼻子﹄は今北京で大へんな
台湾の避暑地のホテルの物語であるが、ま
人気で、私たちが観た目、十六日すでに二十 ず、幕開きがスマートである。オープンステ
たず、観客の子供が実にすなおで、内容は
伍j
や、三人のボーイが、三つのテ ー ブ ル に 同 じ と い う の だ 。そのリ ーダーがピエロの仮面を
いのホテルのネオンが舞台下手正面にともるてくる。鉄道不通で帰れないので泊めてくれ
ージで、ライトが落ち、舞台の三分の一ぐらそ乙へサーカス団の一行がどやどやと入つ
の偶に現れる。そ乙で一幕は終る。
の時、一人の自のス lツを着た女性がロビー
サーカス団から‘ワーと歓声が起きる。そ
乙うした開幕は上海でも見られたが、六五り乙み、ロビーで踊ったり、はねたりするの受けた。演出は陳顛さんというメガネをかけ
ポ1ズで浮ぴ、同じ動きで夕食のセットするかぶった紅鼻子なのである。ホテル側は断る
所からはじまる。が、ど乙でもい、から泊めてくれと強引に人二幕との幕聞に応接室で劇団幹部の歓待を
年に訪中した時には、見られない演出である。だ。とたんに舞台は華やかになる。そして紅た女流演出家だった。乙れは私にとっては意
突如ニュースが入る。豪雨で山崩れがあり、鼻子は三組の悲歎に苦しむお客さん一人一人外だった。
k、 そ の 理 由 を 聞 き 慰 め て 廻 る の で あ る 。 影 山 さ ん が 芝 居 の 感 想 は す べ て 私 に 話 せ と
鉄道は不適で回通の見通しがないとつげる・
さらにアメリカからの旅客機が事故を起し行社長には、事故が現実のものとは限らない、いわれるので、﹁六五年当時見せていた Yい
ホテルには三組の逗留者がいた。を見てもいないのにきめてしまうのは早計で階段舞台の巧妙な使い方とい\全くアカぬ
方不明で、目下獲索中というのである。その別の便で来てるかも知れないし、死んだ現場た舞台とちがって、ライト、カーテンとい\
一人は紡績会社の社長で、行方不明の旅客あると説く。作曲者には才能がないなんて嘘けした無駄のない演出に参りました﹂といっ
機にアメリカ留学から帰る一人息子がのってだ。人間には誰にも才能はある。才能は生みたら、﹁二幕は手品があるが、乙れは素人の
もう一組は自閉症なのか、全く口もきかな楽しい話をし、サーカス団の仲間と踊り、人でボロが出るかわかりませんよ﹂と陳さんは
いるというので突如悲歎K襲 わ れ る 。 だ す も の だ と 力 付 け る 。 自 閉 症 の 女 の 子 に は 、 劇 団 員 が い ろ い ろ 工 夫 し て や っ た の で 、 ど 乙
い、表情も、何の感情表現もない娘をもっ悲間と人間のつながりがいかに楽しいかを示す.笑っておられた。
κ
しい夫婦で、転地僚養に来ているのだが、何すると全く無反応だった女の子が除々に反応二幕犯人るや、お酒も入り、泊めていた Y
の変化もなく、食事も母親が口までもっていしはじめるのである。サーカス団は.その度くお礼 と、サーカス団が自分のすべてのレ
けば、口を開けて姐しゃくするだけ。全く絶に歓声をあげ、ますますハッスルする。パトリーを披露するのである。
κ
望K打 ち ひ し が れ た 夫 婦 で あ る 。 乙 う し て 楽 し い 一 夜 を 創 り だ し た た め 、 一 輿 奮 状 況 で 幕 が 開 い た 。 楽 し い 踊 り と い \
も う 一 組 は 作 曲 で 身 を 立 て よ う と す る が 、 人 息 子 を 失 っ た と 患 っ て い た 社 長 も 元 気 を 取 手 品 と い \ ま た 、 鉄 の 鎖 を 体 まきつけ、
κ
コンクールにも落ち、ホテルに恋人と共に乙戻し、﹁酒は思う存分飲んでくれ、払いはわそれを筋肉の力でひきちぎるという見せ渇す
も っ て 作 譜 す る が 、 か い て も か い て も 思 う よ し が す る ﹂ と い \ ホ テ ル 側 も つ い に 宿 泊 を ら あ る 。大へんな筋肉 の盛上り 体はみるみ
やがて、サーカス団員は助けられてくる。
うにならず絶望的Kな っ て い る 男 で あ る 。 了 承 す る 乙 と に な る @ る 真 赤 に な る の だ が 、 な か な か 切 れ な い 。 舞
台も観客も固唾をのむ一瞬である。二回 ・三 を喜ばせ、少しでも世のためになる仕事をと
しかし、今妻に帰ってくれと迫られている
たのである。
と睡があう。その女の子の頬K ス!と一涙が流
自閉症の女の子は立上り、紅鼻子の奥さん
回ふんばるとついに切れる、同時K客席から 仲間と家を出奔、共に乙のサーカスをはじめ しかし、紅白昇子は帰って来なかった。
﹁ウオ |﹂という歓声。乙うし たスリルも色
気もある、実K楽しい華やかな舞台展開が続
夜が明けるやホテルのロビーは再び Kぎや
とを誓うのだった。
エロの帽子をすて妻との新しい生活花入る乙
いったのである。ピエロの帽子だけがロビー
人に幸せを与えるため Kまたとうとう消えて
人に幸せを与えるために現れた紅白界子は、
長い間があってゆっくりとよりそう。
れでるのだ。
のだ。二人は夜を徴して話合った。話は平行 れる。その一課はぬぐっても、ぬぐってもあふ
が部屋へ帰って行く。
かになる。雨は上り、すばらしい天気となり、
線をたどったが、ついに妻の嘆願に折れ、ピ
喧喋のあとの疲れが紅鼻子を鈍う。彼はロ
ビlで一人ぐったりとうずくまる。その紅鼻
乙うして楽しい夜もふけ、みんなそれぞれ
くのだ。
子を先ほどから片隅でじっと見つめていたの
に転っていた。何ともいえ江い幕切れだった。
客席で泣いていないものはいなかった。私も
﹁言葉が通じないのに ζんなに泣けるなん
私は副団長として、舞台で挨拶した。
泣けて泣けて仕方がなかったのだ。
て考えてもいなかった。乙れも自閉症の女の
昨夜と打って変って﹁できるできるぞ l﹂
社長が上気嫌で入ってくる。作曲志望者も、
うニュースが入る。
が自のス|ツの女性である。ゆっくりと彼女 鉄道は開通し、行方不明の飛行機を無事とい
は近づく。
﹁あなたは、神賜でしょう﹂。
して女性をみ、強く否定する。ととろがいき
一人で食べるようKなったと親は大喜びであ
と自信満々である。自閉症の子供も、朝食を
とたん紅鼻子はあわてふためき、ぎょっと
なり女性K仮面をひきちぎられるのだ。やは
ない演技、そ乙から生れる無表情な悲しみ、
子をやった郭珊珊さんの全幕一言のセリフも
それが伝ったからだ。私は演出の陳先生が手
という。その時一人のサーカス団員が海へ落
りました。芝居でお客さんが人らなくなった
品や、サーカスだけで十分金がとれるのに参
にして見ていたが、 ζれも玄人はだしで、手
めてそんなボロでもさがそうと目を皿のよう
ちたというさわぎが起きる・浪が荒く、誰も
ら、サーカスでかせいで下さい﹂といったら、
品でボロを出すかもとおっしゃったので、せ
動乙うとしない。突知、紅鼻子の仮面をかぶ
打ちひしがれ、疲れ切 った紅鼻子に、妻は
者はいない。ふりむきもしないのだ。
しかし、誰一人紅鼻子のおかげと感謝する
る
。
乙の仮面をを った瞬間、との俳優源開福生は
り、彼女の夫、神賜だったのである・
e
あっと声が出るほどりりしい美男子なのであ
る。パーティで素顔も拝見したが、私がうっ
乙の紅鼻子、実は金持に生れ、美しい妻を
り、走りだす。
そっと﹁人間というものは ζういうものよ﹂
めとり、何の苦もない平穏な暮しをしていた
のだが、そ れについにたえられなく怠 ったの
とり見とれてしまうような男性だった。
である。そして自分で自分の生活を創り、人
-1
0
6一
一107-
大きな声で笑われたのも ζのソファでたった。で一八OO名に達するという。それが司乙ので使い、あとは生産大隊に売る等、楽しい ζ
考えてみれば、私に向って芸術家なんてい学院も文革中は解散させられていたというかと、辛い ζとなど聞く、そして最後に農婦が、
ってくれたのは周総理以外Kない。はじめのら、江青四人組は凡ゆると乙ろに瓜跡を筏しとの子は芝居や歌が好きだよとい\歌えと
終りなのである。思わず苦笑した。ているわけである。いう。農村の青年は照れながらうたう。出だ
老舎先生が﹁感動しました、がんばって下建設中の附属実習劇場を見せてもらったが、しがなかなかうまくいかない、それが実にう
さい﹂と激励されたのは、乙の辺りだった。乙れがまた大へんな舞台機構なのである。八まかった。
申訳ないが﹃強い者は誰か﹄は私の頭からセリがあり、一つ一つが上ったり下ったりす田舎から出て来た新婚旅行の夫婦、何をし
想いは次から次へと浮んでくる・間のお盆があり、そのお盆全体にいくつかのこつめのコントは
しかし、実習公演で、乙の舞台機構を使つな公園の声が一ばい聞えてくる。﹁あのボl
はど乙かへふっとんでしまったのである。るのである。それが舞台の面より上Kも下にてい、か、人に聞く乙ともできず、公園のベ
も自由なのである。ンチ
Kもじもじしているのである。楽しそう
疑問も居間った。しかし、いずれにしても大へたんだ紙弊を出す。また二人は黙って何をし
んな機構はど ζにでもあるものでないからと、金ある﹂﹁ ζれだけある﹂と委は小さく祈立
ていろんな試みはできるかも知れないが、 ζ トKのりたい﹂﹁いくらだろう﹂﹁さあ﹂﹁お
十八日、中央戯劇学院を訪問した。
のを二・三紹介しよう。いずれも生徒が観察・三つめのコントは
教室で実習を見せてもらった。印象にある年に見えて楽しかった。
陽予情、日本に留学、新劇の洗礼を受けて最
最初のは農村へ入り、生活を共 したコン人、とくに共稼ぎの夫婦とのやりとりが面白
し 、 生 徒 が 創 っ た コ ン ト で あ る 。 た く ま し い 街 頭 の ピ lナツ売り姉妹と通行
卜で、そのものずばり演劇大学の学生と農民い。委がピ|ナツが欲しいという、無駄使い
κ
初に中国に近代劇を伝えた人である。一九五
作、評論︶の四つで、学生二七O人に対し、
教師一七O人というから羨しい限りである。
五年課程というととである。卒業生は今日ま
った。当時は東交民巷の近くで豊かな緑に包
会長の霧承志先生の主催でレセプションがあ
をしていたらきりがない。
ばかりである。とてもとても一人一人の説明
面白かった。豚を飼って下肥は一部は自留地留所まで送って来たが、なかなか別れられな
あとは出稼ぎをして稼いでいるといったのもパスの停留所の恋人同志である。彼女を停
﹁のってもいいよ﹂﹁・:・::﹂パスは通過し
て行く。取とめのない話が続く・次は終パス
である。﹁もう次は終パスだよ﹂﹁:::﹂
男の手が停留所の柵の上にのせている女の
際クラブ Kなっていた。
に案内されるや、戯曲家協会の諸先生の出迎
挨拶に入るや、私は兄の反戦運動の経過にふ
を贈った。
そして閉会に当り私のお礼の挨拶となった。
集、作品集、エッセイ集﹁乙、に根づいて﹂
えである。一人一人と握手してテーブルにつ
エレベーターにのって六階へ上り、ボーイ
女は小指をちずめる・男の小指はそれにから
条首相、重光外務大臣に直接戦争はやめて欲
ノ又、。
メインテーブル Kは、中国文学芸術連合会
しいとせっせっと訴えたのである。その結果、一
ませる。さらに薬指がからむ。女は恥しそう
副主席で劇作家・シナリオ作家の夏恒例先生が
迫害をうけ、無惨な死をとげたのだった。日
れた。
私の兄は日本の侵略戦争に疑問を抱き、東
κはのらない。終パスは出て行く。長い間が
つき、右隣が影山団長、左隣が私、その隣が
終パスが来る。二人の手ははなれるがパス
続く、 ζとばもなく、一一人はゆっくり歩きだ
私の兄は﹁中国に生れ、中国を愛し、中国一
何か岸田国士の作品みたいで、一番楽しか
す
。
った。何より、そ乙に政治的教育臭が全くな
いだけに、楽しく見れたのである。そして、
協 が ク
会 あ ラ
それがすべてフィレンツェ演劇祭でいわれた
仇j
年 国 夜
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戯
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同 家 ち
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五。中の
で セ の
中
プ夜
日 シ
友
ヨ国
好 ン 際
る李玉如の諸先生方である。
の俊拶があって型の如く乾杯宴会に入った。
私と団長は各テーブルを廻り乾杯して歩い
そして言葉すらつなぐ乙ともできなくなっ
う﹂と話している中K、一波がとめどもなくあ
ふれ、とめるととができなくなったのである。
たのだ。恩わぬハプニングに会場はシ 1 ンと
て廻った。影山団長は酒が強いから、どれだ
した華やかなパーティの経駿がない私は、そ
の出場忙なれるまでには時聞がか、った。
一人一人が中国の一流の俳優であり、女優
創った中日友好は血で結ぼれた鮮です。永久
小林先生の兄さんのように、私たちの先輩が
つまみと冷酒の交流会しか経験がなく、乙う なった。組尋先生が立たれた。
﹁私は黙っておれなくなり一言のべます。
ざしらず、日本の新劇人、とくに東リ演では
けテーブルがあっても大丈夫だが、団長はい
います。 ζれからもずっと生きて行くでしょ
との戦争K反対し、そして中国に骨を埋めま
夏術先生の歓迎の挨拶があり、団長の感謝 した。その兄の気持はいまも私の中K生きて
戯劇家協会副主席の越尋、劉厚生、劇作家の
-1
1
0一
陳臼塵、曹関先生の奥さんで京劇の女優であ
に顔をそむける。
手に近づぐ。男の小指が女の小指にふれる。
最後になり、さ、やかな団よりの贈物が団
まれた漏滑な二階建の洋館だったが、それが
中心街から東へはずれた所の大きなピルが国 長より劉厚生先生に贈られた。私は舞台写真
いのである。パスが来る。﹁のる﹂﹁:::﹂
演技、舞台美術は四年で、演出、劇文学は
学生が農村の生活を聞く、収入は年三OO まり、実に楽しい舞台だった。
O円 で 九 人 家 族 で 四 人 が 働 い て い る と い う 。 四 つ め は
学部は、演出、演技、舞台美術、劇文学︵劇 と の 対 話 で あ る 。 だ と 夫 が い う 、 二 人 の や り と り に 姉 妹 が か ら
生だったという。
二年大学制がしかれ、当時の副院長は曹関先
院が一つになってつくられた。初代院長は欧
から解放の翌年である。南京国立大学魯迅学 ん な 劇 場 で あ る 。 て い 、 お か わ か ら ん 。 そ れ が 実 に 素 朴 な 農 村 青
中央戯劇学院は一九五O年四月創立という
(
t
¥
)
日常性演劇だったのも偶然かも知れない。
つフ
六たでそ
はずみ、なんと三十分が三倍の一時間四十分
﹃郡立﹄の公演の時は一番お世話になったわ
の委員長で首都劇場の責任者だった。だから
すか﹂と聞いたら﹁いや、一般の市民ですよ﹂
満員なのである・﹁とれは生徒の家族たち
それが篤いた ζとK、劇湯は一般の銭安
一般の映画や演劇と同じように、チケット
というのである。
も話しこんだのである。
初日の目、いきなり私の手を引っぱってロ
けである。
お別れに最新作﹃王昭君﹄をいたずいた。
﹁小林宏先生、留念、一九八二・三・一九曹
先生は七十才だが
﹁九十才まで生きます。それまでに必ず日
ない当日売りとキャンセルをまっているのだ
ようやくわかった・チケットがないから、少
山の人を指さし、手まねで説明されるのが、
いつも満員だという。ちょっとわれわれの常
なんと中国戯曲学院の熱烈なファンがいて、
で、何のことかわからなかったが、人口の黒 を買い求めて入ってくるというのだ。それも、
ビーにつれて行かれた。通訳もいなかったの
本語を覚えます。乙んどは日本語で話しまし
という乙とだった。意味がわかったと思った
国・北京﹂とサインして。
ょう﹂といって大きく笑って、私たちを送っ
専門京劇団の入場料は一円から一円二十銭
識では考えられない乙とといってい、。
て出られるのである。
る。東京の演劇学校や研究所で考えられるだ
い舞台だった。ファンがつくのもわかるよう
てい
Eだろう。
な気がした。それにしても羨しい限りといっ
二十日の夜は劉原生先生以下工作員の方々
に、有名な北京料理の北京ダックをつついて
お礼の宴を催した。少々羽目をはずし、相互
に歌をうたったり、楽しい夜、だった。
が減少しはじめているという。一時は五OO 聞くと、中固にも三教九流といって賎しいと
いといって来たが、実際は除々に除々に観客日本には河原乞食という言葉があるが、と
とで歴史も古い。劇湯なんかで上演するようそして一九三六年張学良の軍隊K蒋介石が
定しているという。秦院とは歌う劇という ζ 場を見て来たが湯も何も出ていなかった。
EA
唱
﹁
﹁
υ
-1
1
4-
﹁とんでもない、乙、でどうぞ﹂といって
ら、自分の乙とのように私を抱いて喜ばれる だが、生徒の公演は五十銭で、乙れも人気の
のだった。また、帰国に当っては広東まで送 原因であるという。
日本でいうなら、専門劇団の入場料が三五
っていたずいたが、私が胃が弱く、当時四七
ろうか。とてもとてもである。
も﹁いやいや、大丈夫ですよ。遠来の友です
もの﹂といってエレベーターまで送って来ら
キロしかなかったのを心配して﹁一年ぐらい
中国に逗留して養生して下さい。健康にして
00円とするなら一七OO円という乙とにな
れた。
影山さんは車の中で﹁乙ばやしさん、来て
必ず奥さんのものに返しますから﹂と真剣に
国境を乙えた友情というものは知らなかっ
舞台はきびきびしていて、実にすがすがし
よかったよ、ほんと K﹂としみじみいわれた。
す、められた ζとを今でも忘れない。その表
なものである。私たちが ﹃雷雨 ﹄を上演した
たが、影山団長と車の中でそれをしみじみと
人間のつながり出合いというものは不思議 情すら思い出すのだ・
私も本当に来てよかったと思った。
乙とから、原作者、訳者、演出者が深い友情
確めあった。
院の生徒が上演する京劇を観にいった。最上
その晩私たちは午前中訪問した中国戯曲学
で結ばれるなんて。
人間というものはすばらしいものだ、人間
の出合いというものは実にすばらしいと思っ
日閣の滞在を終え、二一目、私たちは再び実
乙うして、楽しい、そして有意義な北京六
に多くの演劇関係者の方々のお見送りをうけ
ステージを ζなしたが、昨年は三OOステーされているという。三教とは仏教、儒教、道
曹島先生は六五年当時も北京人民芸術劇院 級生の公演であるという。
た
.
北京空港から西安K向ったのである。
一つはやはり、テレビ、映画の影響であり、春婦等々、それ以上は聞きもらした。いやい
ジという。教で、九流とは坊主、道師、乞食、役者、売
一つは劇場が都市に集中しすぎているととにや驚いた。私なんか坊主で芝居屋だから、実
よるといっていた。西安市に劇場は二O あるに賎しい身分なわけだ・
という。劇団は秦腔劇五、話劇二、児童劇て
観客が減少しても収入は下らないが、どう偽の発掘現場を見たが驚いた。なんと、四八
木偶劇︵人形劇︶一の九劇団である。名所旧跡では秦の始皇帝の陵の陶器の兵馬
しでも俳優を諦め、他の任務につかねばなら五米と五一五米に及んで等身大の本物の軍隊
西安はいうまでもなく唐の都、長安のあっ
古い都である。奈良、京都と友好都市を結ん
κ並べられているのだ。
江い人もあるというととだった。の隊列が、そのま、
当二万円、創作手当五000円 と い う か ら 、 そ の 一 部 六OOO体が堀られであったが、一
入は九万円、政府助成が二ハ万円、話劇団手り、それだけでなく文官もいるわけである・
西安話劇団は一年の支出が二九万円で、収隊長がおり、兵隊がおり、軍馬あり、戦車あ
西安事件のあった地でもある。また、延安の
鳴する愛国青年が集ったのであるが、乙の西
西安話劇団は全劇団員が共同生活をしていいう以外ない。皇帝というものは何を考える
四本創作しないと赤字というととになる。人一人の表情が全部ちがうのである。壮観と
る。洗濯物も干しであったし、子供も広い庭のか、ちょっとわれわれ庶民の感覚では想像
乙の西安市には地方劇として秦際劇がある。華清池は唐の玄宗皇帝と錫貴妃が愛用した
を走りまわっていた。をとえるといってい、。
方々、即ち、西安の各劇団の方々陀集ってい
ζちらの方は観客も多く話劇団に比べると安温泉で有名である。錫貴妃が使ったという浴
たずき、座談会をもったので、印象花田伐った
下で上演して廻っていたのである。乙とを要求された、いわゆる西安事件︵中国
になったのは解放後で、昔は街頭、広場、軒包囲され、日本に対して毅然たる姿勢をとる
さて、北京でもどとでも演劇は満員で羨し
乙とだけふれてお乙う。
西安話劇団で西省戯劇家協会の関係者の
たという感じだった。
それをたった三日いただけだから走り廻っ
の由緒ある地でもあるわけである。
安から入って行ったのだ。だから、中国革命
革命根拠地へ全国から毛沢東の呼びかけに共
それに抗日戦争のきっかけとなった有名な
でいるが、名所旧跡に事欠かない。
た所で、平安の昔、日本から遣唐使が訪れた
ないというととで会所見物が中心だった。
西安ではシーズン・オフで芝居はやってい
)
せ
で西安事変という︶も乙、で起きたわけであ 急寝台すべてで一二O円ぐらいだから、日本 自に南京についたが、ようやく緑の山が見え
たのだ。なんと、西安から南京まで二二時間、
円にして一万六・七千円である。
安から西へ向って二日なのだ。しかし、筏念
行ってみたい/という衝動にかられた@西
のだが、どうしてどうして行けども行けども
る
.
終介石の寝室、なまなましい弾痕もそのま
ながら、我々は東へ向 って行かねばならなか
た。頭になかったとしたら、委謀総長として
広さが頭にあったかと聞いてみたい気になっ
乙の中国と戦争した日本の参謀総長に、乙の
中国は十億の民がいて息がつまるかと思う
、浅されている。西安話劇団は﹃西安事変﹄
畑なのである。広い、た Yた Y広いと思った。
山らしい山が見えなかったわけである。
を劇化上演し、全国コンクールで第一位をと
った。
寝台車は四人一部屋の個室式でなかなか快
り、全国公演をしたという。
その他、三歳法師の寺、大雁塔、古代人の
にと挨拶に来た。洛腸、鄭州、開封、徐州、
居住跡の半披博物館、歴史博物館、高宗、則 適だった。西安を出るや列車長が団長副団長
天武石の墓、乾陵、高塚古墳の原型で、さら
は失格といってい、だろう。
食堂車へ行ってビlルを飲んでは、償Kな
南京を通って上海に入るのである。
二十ケ所ぐらい停車したと恩うが、停車は
に規模を大きくした永泰公主等の墓等々、走
り廻って見たわけである。
ったり、話し乙んだり@学生時代からの仲間、一
板ゃん︵板坂皿自治︶と共に‘実に楽しい旅だ旧
の中国人は見当ら江かった。四・五人見ただ
った。食堂車は殆んどわれわれだけで‘一般一
けである。寝台車も同僚だった。
いずれにしても日本のように旅行社は自に
いう乙とだった。
でできません。公用か仕事の出張が殆んどと
通訳の雰さんの話では一般の庶民は旅なん
がある。当初の予定では洛陽もよる予定だっ
あり諦める乙とになった。
たが、一五日間の日程ではどうしても無理が
なかった。三門峡を一時頃すぎたという記憶
深夜陀なっていったが、なかなか寝つかれ
分間停車なんて小忙しさはなかった。
夜は人形劇、車最終粛を見せてもらった。京 短くて五分、長いと十二・三分停車した。一
劇は多くの場合、約束事で椅子と机のような
ものしかはいが、車保院劇はリアルな装置が飾
乙うして三日間の西安もあっという間にす
られ、私たちにわかりやすい芝居だった。
上海への旅は寝台急行だった。西安を二三
ぎて、私たちは上海に向ったのである。
洛陽は漢の都であり、晋の都である。いわ
北京天津九日間、一五五円︵日本円にして
その広告をメモしたから参考にあげてお乙う。
ゆる中原で長安と共に中国の中心だった所で
た Yた Y篤いた乙とにたんたんとした畑ば
日十七時一分K発車、上海には翌日の二二時
かりで、誰がど乙から来て耕作しているのか
四O分についた。西安上海間一五一一キロ、
る。そして山が全く見えないのだ。二二時間 円︵同=二五OO円︶、広東海南島湛江一七
と思うくらい民家も見えない畑が続くのであ
できるように成熟し、自信のある社会主義に
つかなかったが、上海で一ケ所見つけたので、
ついでに北京から、シルクロードを通って
なるためには、まだまだ時間が必要なのかも
ある。鄭州をすぎた頃、朝になった。
新顔省のウルムチまでどれくらいか、るかと
んて、羅英さんには想像もできないだろうと
二七時間四O分の旅なのだ。特急だと二四時
いうと、特急でまるまる三日か、るのだ。特
思った。
間という。
日聞が七二O円︵同一 OO八OO円︶、上海
れ、親を殺され、妻子が犯され、傷つけられ
しいしありがたいが、日本軍に直接家を焼か
また、中国友好という政府のよびかけは正
知れないと思った。
二一七OO円︶、桂林昆明十三日聞が二二五
のすぐ近くの無錫太湖は日帰りで八円ハ同一
そして、劇団の財政状況、芝居の観劇収入
だが、﹁風の子﹂のような立派な演劇活動、
だけでは生活できない乙とは中国も同様なの
教育活動をしているのは、政府が全く助成し
通訳の銚さんは三十才前後で北京週報の日
一
二O円︶とあった。
る。日本円にして一一二OO円である。
た人々にとってはぬぐい切れない償りであり、
に流されるものだろうかと聞いたが、羅英さ
また、平和の大切さ、生命の大切さが子供 怒りであるにちがいない。それが何千万とい
にとって忘れてならないテ 1 7であるという るわけだが、中日友好のスローガンだけで水
ないのがまた理解できないわけである。
本語版編集エリートであるが月給八O円であ
桂林昆明の旅は三ヶ月間、広東海南島は九
話から、戦争は絶対いけないという点では一
ヶ月間飲まず食わずでためてようやく行ける
ζとがわかる。
のだから、一般庶民には簡単に旅が出来ない
んは、﹁中国人のために生命をなげだした日
フォークランド島のように強引Kアルゼン
しかし、それも納得がいかなかった。それで
われると、とんどは簡単陀われわれには伝わ 本人もいる。現K私は知っている。中日友好
らない。
は民衆みんなが支持している﹂といわれた。
致するが、ベトナムとの戦争は別であるとい
私たち一行の責任者である劇作家の羅英さ
んと通訳の挑さん、弄さんと、私と多田さん
の四人の間では長い旅だからいろいろ話がは
だとしても、英国は戦争手段には訴えるべき
ふれでいた。乙の観光客たちは、はたして日
チンが島を軍事占領した。即ち、それが侵略 すべてが帳消しになるとは、とても思えなか
後だと思う。優しい、いつも笑顔をたやさな
でなかったと私たちは思っている。まして中
本軍の侵略、そしてその筏虐行為に対して、
羅英さんはお係さんがおられるので六十前
ずんだ。
い、私にとっては姉さんのような方だった。
ても必要な戦争とは思えないからだ。
国とベトナムについていえば、双方がどうし
ど ζ へ行っても日本人の観光客が一ぱいあ
ったからだ。
児童劇作家だから、日本の児童劇の現状陀
三光作戦で焼きつくし、殺しつくし、奪いつ
た Y、日本の子供のおかれている状況、三
どうしても話が移る。
ものであって‘資本主義は不自由、不平等、
私たちの一行の中にさえそれを知らない人
乙の地、乙の街、乙の山で日本軍が四十年前
戦争の根源と学生時代信じて来た。また、そ
どれだけ心K終みをもっているのだろうか。
無主義とか五無主義とか、シラケ、中学生の
くした乙とを知って旅しているのかと思うと、
社会主義乙そは自由、平等、平和を求める
反乱は話してもなかなか伝わらないのだ。
う信じたいが、それが、乙の頃あやしくなっ
どうしてそれを放置しておくのか、なぜ教
やりきれない怨いにかられるのである。
すべての情報を公開し、 自由な政策論争が
て来たから困るのだ 。
育しないのかと不思議で仕方がないといった
感じである。とくに中学生が教師をなぐるな
-1
1
7-
日本人の負うべき宿業というべきものといっ
り生みだしえないと思った。そして、それは
みを‘夜一きをわれわれ日本人が背負わない限
がいた.棄の日中友好は、そうした歴史の重
る
。
だが、中にはチンピラ愚連隊もいるわけであ
ばかりと来ている。中国では待業者というの
の兄ちゃんばかりである。それがまた失業者
理を頼まれている自転車である。それに愚連隊
そとでお父さんの店から自転車を盗む ζと
になる。むろん、その自転車はお父さんが修
乙ういう社会的恥部は三突出の理論で固めの誘惑もあり、恋人もからまり、てんやわん
その街の兄ちゃんの中に蒋兄弟がいるのだ。と ζろが、弟の篤二毛青年を演じた翁さん
られていた六五年には想像もできない ζとだ。やがはじまるのだが、実に楽しい舞台、だった。
てい、だろう。
通訳の挑さんも芦さんも﹁疲れました﹂と
ぃ。弟の蒋二毛は仲間の丁青年と共に失業中九才といわれびっくりした・
兄蒋大毛は浪人中で大学の受かる見通しはなは六四才で、兄の蒋大毛を演じた重さんが四
いわせるほど、話ははずみにはずんだ。楽し
い議論だった。
だ。それが鵬首察の一網打尽でプタ箱入りとなお父さん役の王さんと共に人気絶頂で、芝
上海の宿は錦江飯店だったが、一杯のんで
ぐっすり眠った。なかなか設備のい\立派
る。居が終るやみんな総立ちでステージにどっと
警察署の宿直は婦人箸官の張さんである。押し寄せて行くのである。私は何が起きたか
なホテルだった。
ル弁当を張さんの所へ届けにくる。あわてたきたいためである。
その御主人王さんは教師停年の身、王先生夜と思ったら、ヵ i−アンコールに少しでも近づ
のは篤兄弟と丁君であるj王 先 生 は か つ て の 終 っ て 、 例 に よ っ て 例 の 如 く 舞 台 で 交 歓 し
恩師なのだ・先生もびっくり、そ乙で大へんたが、とても六十代とは見えなかった。少く
上海では昆曲と滑稽劇を観た。
劇の
昆曲は音楽も現代的で甘く、舞台も秦照一
なお叱りである。とも四十代である・日本でいえば藤山寛美と
とかが一ぱいあるという。蒋兄弟のお父さんのだ。いわば講談浪花節である。
からだ。枝子屋さんとか、簡単な修理屋さんン︶は伴奏である。琵琶とか三絃で伴奏する
当局の許可を受けて自営の途が関かれであるしておとう。評︵ピン︶は諮りであり、弾︵タ
自立するというのは、失業者救済のため、上海でもう一つ、評弾︵ピンタン︶を紹介
﹁仕事がないなら、なぜ自立せんのだ﹂いった所だろう。
ようにリアルで、京劇より親しみを感じた。
滑稽劇は、日本でいえば松竹新喜劇で大へ
んな人気である。劇場の人口は黒山の人だか
りだった@
﹃街灯の下の変りもの﹄という題だったが
面白いので少しふれておとう。
何しろ開幕といっても、オープンステージ は 自 転 車 屋 さ ん だ が ら 、 三 人 で 相 談 し て 自 転 五OO年の歴史をもっているそうである。
でライ卜・カーテンで始ったが、いきなり博 車の修理屋Kなろうと考える。そのためには昔は金持の家によばれたり、流しでやってい
いや、美人が多い。鳥肌たつ美人が何人も
えねばならない﹂といっていた。
止
に
輝していた。
帰国して話したら娘は﹁ほんと?﹂と目を
しぼられる演劇大学へ入れるわけである。
打ではじまったのには驚いた。はでな服の街 自転車を分解して構造を調べなければならなたが、今は書場といって寄席があり、乙れが
なかなかの人気で、上海だけで一 OOを乙す
書場があるという。観客も映画について多い
座談会K人る前にチベット族の﹃ロミオと
いるのだ。
ジュリエッ卜﹄のビデオを見た。チベットに
長いのは三国志や西腐記など二ヶ月も三ヶ
というのだ。
月も続くという.では﹁次のお楽しみ﹂とい
最後の二七日の夜はいよいよお別れの晩餐
史以来のシェクスピア眠、だと思う。堂々たる
はむろん近代劇なんかないから、チベット有
また、上海戯劇学院も訪ねた。
う所である。
上海戯劇家協会の主席で、夏街先生と同様、
シェクスピア劇だったが、チベット語がわか 会だったが子伶先生も出て来られた。先生は
すでにはじまっていたという乙とだ。先生は
子伶先生の話では、﹃郡上﹄の公演以前から、
六五年の秋文革が始ったとされているが、
と思う。
乙の辺りで文化大革命についてのべてみたい
その点K ついて、演出者はどうだつたのか 劇作家シナリオ作家として中国の長老である。
らないからうまいか下手かはわからない。
北京の中央戯劇学院同様、授業を参観し、
座談会に入った。踊りのレッスンはフラメン
コをやっていた。先生の厳しい指導で汗を流
率も一 OO人に一人というからきびしい。但
留学しているだけという。﹁私も留学しよう
置は非常に大きいが、それは抗日戦争を通じ、
中国の芸術文化運動の中で演劇のしめる位
である。
ちなみに﹃郡上﹄の中国公演は六五年の五月
がら﹃郡上﹄は見られなかったといわれた。
乙、おも北京同様大学制で四年制だが、競走 すでに強制的に農村に下放させられ、残念な
った。
今年はモンゴル族を募集するという乙とだ
ていた。
ュアンスがわからないから限界があるといっ
していたが、﹁高校を出てからでは体ができ と聞いたが、やはり、教師はチベット語のニ
てしまって限界があります﹂と先生はいって
いた。
舞台美術科ではモデルを中心に油絵をやっ
ていたが、同行の装置家板坂晋治は、皆なか
なかのデッサンカだといっていた。メークの
実習も見学したが、舞台美術科の中に装置、
J メ!クなんて俳優創造の一部
照明と共にメlクがあるのはちょっと納得が し、留学生は別枠で、現在アメリカ人一人が
いかなかった
かな﹂といったら﹁小林先生だったら教授で
続いて稽古を見学した。﹃雷雨﹄とシラ l お迎えします﹂といわれ、いさ、か照れた。
と恩っているからである.
そうした中で、中国の演劇の流れに二つの
心となったからである。
真剣に娘に留学させてもい、と思った。全 文工隊が文化的に民衆に接し、文化活動の中
んの月給が八O円で日本円では一万円ちょっ
寮制で授業料はタダなのである。通訳の挑さ
の﹃たくみと恋﹄をやっていた。女生徒はみ
んな美人だ。﹁ちょっと美人すぎるのではな
ンダー用のモデルを集めるのでないから、考 とだから、一万円も仕送りすれば、びっしり 流れが生れたのである。一つは蒋介石及び、
いか﹂と座談会でいったら、﹁たしかにカレ
-1
1
8-
一119-
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域で活動していた専門家という乙とになるよを生やして舞台を拒否した硬骨漢だからであ
うである。乙れが文化大革命の基本構図なのる。
日本の占領下で活躍した人々。乙れは多くは
専門家であり、即ち、﹁,臼い地域の専門家﹂
である。それはさておき、彼女はさら
ズムがたかまり、極左偏向と結びついたとい川高﹂を激しく攻撃している。三名とは名作、
とくに中ソの対立以降、中国のナシヨナリを加えはじめたのである。即ち、﹁三名、三
K話劇K圧力
といわれるようになった人々である。もう一
つは解放区で抗日戦争を斗いながら、文工隊
として活躍して来た人々である。
によると乙の頃から文化大革命の下地はでき名三高の連中が演劇界を牛耳っているという
洋、古﹂批判を行っている。即ち、干伶先生い出演料、高い原稿料の乙とをさす。乙の三
前者はいつ弾圧されるかわからない危険K える。六四年の演劇コンクールで江青は﹁大、名優、名演出である。三高とは高い賃金、官同
さ台されながら活動して来たのだし、後者は
大型のもの、西洋のもの、古いものばかりの専門家たちがそれに当ると思う。
はじめたのである@のだ.いうまでもなく、先にあげた白い地域
民衆と生活を共にしながら、武器をもって斗
いながら活動して来たのだ。
ζういう白い地域の専門家を打倒する乙と
やっていて現代革命を借いていない、それは
乙の二つの流れが一つになって中国文学芸
術家連合会とか、中国戯劇家協会とか Y生れ
走資派の仕事であるときめつけているわけでが文化大革命の使命であるという乙とになる。一
ある。そうなればスタニスラアスキー・シスと乙ろが、 ζの専門家たちは実質的な力と実印
たのである。
テムなんてふっとんでしまうし、翻訳創なん績を蓄えて来ているから簡単でないし、三突一
そして、その指導的地位についたのが、前
者の白い地域の専門家たちなのである。郭沫
て、とんでもない乙とにむる。出の模範劇をつくれといわれ、はいそうです
乙と Kなる。そして現代京劇が生みだされて現代京劇が話劇から学び、京劇の話劇化を
むろん、古典京劇は何をしているかというかと応じるような人々ではない。
若、老舎、丁玲、四漢、周場、夏街、下伶、
曹属、欧陽山首辱等々の著名人は、殆んどその
乙の現代京劇は、むろん三突出の理論で居んかもう必要がないというとと Kなる。と・つ
くるわけである。計ったのだから、江青に盾つくような話劇な
そうだが、三流女優の下積で、シナリオ作家
の出る幕はなくなるのは当然だが、との大御草﹂ときめつけ、ついに強制的K話劇団を解
められて行くのだ。乙うなれば名女形梅蘭芳して江育は紅衛兵の圧力を背震に話劇を﹁毒
一方で江青なんかは上海の映画女優だった
中に入ると思う。
たにちがいない。うだつの上らない江青は女
夏街、千三伶先生なんかは雲の上の上の人だっ
思った。
であるd 造反有理とはよくもいえたものだと
える・梅蘭芳は日本軍に占領されている間髭のは乙の時である。まさに無茶苦茶といって
が京劇を思うようにできるはずがないともいむろん.演劇大学である戯劇学院を解散した
なったものと思う。いや、彼がいたら、江青台関係者を農村へ下放させてしまうのである。
優をあきらめたのか‘延安に入り、結局毛沢 所は六一年になくなっている。ぃ、時Kなく散させ、思想改造を含めて数百人の俳優、舞
東夫人という玉の輿にのったのである。
ちょうど周恩来も重慶で任務K ついていた
わけだから、実権派、走資派はみんな白い地
ぃ、。ヒステリーである。
乙うして夏術先生は三角帽子をかぶせられ乙の文革時代のととについて通訳の弄さん
﹁文革はあなた Kとって何でしたか﹂
う地位にある。
紅衛兵にとづき廻されて足を折られるのだ。に聞いてみた。弄さんは極めて屈託のない人
上海で同じく通訳の挑さんの話を聞いた。
老舎先生はついに屈辱にたえかねて、入水自でいつもニコニコして、気を配ってくれる人 挑さんは復旦大学を出たばかりである。復旦
殺されるという有様だった。だった。
大学は北京大学を東大とするなら、京大とい
嘗恩先生は門番をさせられたそうだが、﹁ま﹁弄さんはあの時どうしてた﹂
﹁文革は私の家族を滅茶滅茶にしました﹂
﹁というと﹂
じめにやっていましたよ﹂といっておられた﹁高校二年で面白かった。何もわからない
が、劇作家が門番をして何の意味があるのか。が面白くて仕方がなかったんです。無我夢中
文革の猛威は 、まさに演劇界を粉砕したといだったんですもの﹂
﹁兄が三人いますが、三人共下放したので
へ入っていったのです。当時の青年の殆んど
ですよ﹂
﹁上海一一 OO万人の中一 OO万人が農村
﹁というとどれくらい下放したのですか﹂
にありつけた有様です﹂
番目の兄なんか、まだ二年前にようやく仕事
なく、長い間仕事さがしで苦しみました。三
番目三番目の兄は帰って来ましたが、仕事が
妻をもらい地方に居ついてしまいました。二
す。一番上の兄はまだ上海Kもどれません。
ってい、と思う。﹁ど乙の高校﹂
なんと、三突出の理論で固められた八本の﹁長春﹂
模範劇以外は上演が認められなかったという﹁それで北京まで来たの﹂
から恐しい。﹁うん﹂
との専門家を否定する、技術を否定する、﹁汽車賃は﹂
ある。とくに毛沢東思想はやはり東洋思怨で﹁北京での宿は﹂
精神主義は革命運動に必ずついて廻るもので﹁むろん、た主ですよ﹂
あ り 、 精 神 主 義 が 極 め て 色 濃 い と い え る 。 ﹁ そ れ も た Yです。ごちゃごちゃに寝たん
いわんや、労働者文化という言葉は、自信ですけど、帰れといわれるまでいました。だ
も歴史もないだけに、﹁労働者に学び、労働から勉強ど ζろじゃなかったですね。おかげ
者の中花入れ﹂ば、すべてが解決すると短絡で二年浪人しましたが﹂
の兄もエリート・コースだったにちがいない
彼が復旦大学のエリートだとすれば、三人
しやすい。それだけでなく、すぐ専門家を否﹁戸さんはついて廻りだったが、指導者は﹂
﹁じゃ文革は行きすぎだったのですね﹂
定したかと思うと 、その反動で迎合に つ な が ﹁ さ あ 、 ど う し ま し た か ねえ、挫折はあっ
﹁行きすぎというより、実K無駄な ζとで
る 弱 さ を も っ て い る の で あ る 。 た ん で し ょ う ね え ﹂ と い う の で あ る 。 汽 車 賃 す、無意味です﹂と吐きだすようにいった。
それが権力を伴って否定に現れたのが文化も宿屋賃もた Yというのは、そ れは権力に支
大革命といってい、だろう。えられなければできない官製反乱だった証拠
-1
2
1-
と思った。
﹁私は逃 れられたが、兄と同じような年齢
でしたら、同じ運命だと思うと恐しくなりま
中国旅行を通じて、やはり私たちは同じ東
かってますよというお顔だった。
﹁とは思いません、問題は四人組です。毛 いった。通訳されたのはその日本通の程表さ
主席の功績はそんな乙とではけが当れません。 んである。日本の新劇界の貧乏は十二分にわ
帝国主義の侵略と軍閥でばらばらにさせられ
た中国を統一したのですから﹂
いうか、心の交流を感じた。
国際演劇祭に行った時とはちがう、安らさと
H
正昭君
u訳して
ですね﹂といったら、
﹁よかったね、乙ばやしさん、よかったよ﹂
機内で影山さんに﹁乙んどの旅はよかった
洋人だと恩った。イタリヤのフイレンツェの
すよ﹂
・﹁というと、毛沢東の功績も晩年の間違い
功績は、それ以前の民族的屈辱を考えたら、
なるほどと思った。近代的国家に統一した
でマイナスを背負ったというととですね﹂
思った。四人組とはちがうのだ。
ζうして上海でずっとお世話になった窪麦
︵くばく︶さんをはじめ、四時英さん、通訳の
挑吉ん、苦ノさん、戯劇家協会上海分会副主席、 といわれた。﹁曹馬さんの
恩うから、ゃるか、考えてみるよ﹂
下さいよ、ぜひ﹂
﹁いや、訳したいねえ。誰もやってないと
劇関係者に送られ、上海空港から日本に向っ
た。謹麦さんは助教授で、しかも早稲田大学
影山さんも幸せそうだつた。
任徳解さん、同秘書長蘇平さん等、多数の演
社会科学研究所特別研究員を兼ねておられ、
日本の芝居はアングラから文学座、民芸、四
んかよりはるかに日本演劇にくわしいわけだ。
季まで昨年三十本観たといわれたから、私な
悲劇喜劇に随筆を連載しておられるが、日本
語で夢を見て、寝言をいわれる中国人といっ
お別れに当って、空港で挨拶したが、﹁中
てい、だろう。
返してい、か。文化を通じて日中友好のため
国の乙の暖いおもてなしに、私たちはどうお
に努力するととで報いる以外ありません﹂と
武司・藤沢薫
はぎ書房内
m川崎市川崎区渡田四!一一|三
T
一
電話 O四四︵鈎︶ O七七五
川崎信用金庫小田支店一三=一五二七へ
または郵便振替横浜OI一七ニニ七へ
-1
2
2-
中国民族としては当然のととといってい、と
︵前列左から 三人 目が震麦さん︶
片手落ちになった点をお詫び申し上げます。
いろいろと勉強しましたし、多くの人からの励ましもうけまし
た。改めてお礼を申し上げます。これからもどしどし皆さんの
日に関西芸術座を退団してから、フリーで仕事をする間に私も
きていたのですから、とっくにタイムリミットは過ぎていました。
小松徴
中へ入っていくつもりですのでよろしくお願いします。
。全リ演としては それぞれ第一回自のゼミナールと演劇講座、呼ぴ
︶
定価 五O O円 ︵送料二O O円
一九八二年八月一 O日発行
た。だから全く丈夫な人のように、死の間際まで、﹁サチの暦﹂の
能代振込は
発行所演劇会議発行所
森本景文
丸子礼二 ・仲
編集委員萩坂桃彦・こばやしひろし
五一号
合い、招き Aロい、結集して大成功をかちとりましょう。︵もも︶
見舞いに行った者が逆にはげまされたりしたのです。
︿﹀﹁黒さんを偲んで﹂の文章を いただく選択は、ぼくの一存になり
います。ぽく自身も﹁劇作集﹂の解説という仕事を遺言され、まだ
ましたが、紙面の都合もあって、やはり多くの人を落していると思
まだとても別れたとは思えず、追悼文を書ける余裕もありません。
黒さん、ごめんなきい。
︿﹀この編集後記執筆中、 劇団四紀会の新木祥之さんの急死 ︵七月十
日︶を藤沢薫きんからのお手紙で知りました。ぽくもお会いしたこ
とがあります。有能な演出者だったようですから、四紀会にとって
は痛手でしょう。心からお悔み申し上げます。
︿
﹀
東 ドイツ ︵
DDR︶の 演劇視察旅行記を森本編集委員の企画で、
への配慮が必要だったのですが黒さんの死去とかきなり、出来ず、
小松徹きんを中心にまとめてもらいました。ぼくも東京芸術座など
演劇会強
上演をすすめ、病床では﹁黒沢参吉劇作集﹂に着手していました。
しかしそうした奇跡だけに総る弱さを黒さんは持っていませんでし
そのなかで万が一の奇跡を希わなかったと言ったら嘘になりますが、
黒さんは死の前日まで元気だったのです。もちろん、それは体力的
六月一日付で小生劇団京芸に入団しました。五年前の五月三一
。小松徹さんからのごあいさつを紹介します。
のものですので興味深いものがあります。
。 こばやしさんの﹁中国への訪れ﹂は文化革命をはさんでの二度目
。
なことではありません。医師の予告を三ヶ月も半年もひき延して生
で追悼号を編むのは、やりきれない気持ですが、どちらも本当で、
。前号で﹁黒沢議長なかなか元気です﹂と書いて おきながら、ここ
。
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