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高崎における近代工芸運動の考察 (2)
高崎における近代工芸運動の考察(2) 工芸運動の経過桧 A Study on the 本 Aqodern Hisashi 久 Crafts 志* Movement in Takasaki MATSUA(OTO* 1.工芸運動の経過 高崎における工芸運動は,井上房一郎(1898-)の欧州留学で得た「建築・工芸を通じ て社会的創造をなす+理念と,地方工芸振興の気運との呼応によって始められ推進されて きたが, 1934年8月1日Taut, たo Bruno (1880-1988)の参加によって大きく転換し Tautの強烈な個性と,それにもとづく明確なデザインポリシーによる工芸の企画と 生産のあり方は,従来のデザイン観や方法論を全く変換するものであり,これほ一地方工 芸にとどまらず,日本の工芸デザインを考える上で画期的な出来事と評価してよい。 1935 年2月12日には,この工芸運動の成果を発表し普及をほかる専門店として「ミラテス+ を銀座に開店させ,運動を大きく前進させる足場を得た。 ここで「ミラテス+を中心に,当時のTa甘もの工芸がどのようなものであったかを追っ てみることにする。 Tautの工芸に対する理念は, 「俗悪な飾りでなしに洗練された簡潔さ, 外見的ないかものでなしに良品質製作,追従的な模倣でなしに日本的な創造+に要約で 普,これは常に一貫した主張であった。これにつき当時の工芸ニュース誌は次のように解 説している。 「(Tantの)後半生を貫く華やかな合理主義建築における活動ほ,その豊富な技術上の また造形的な能力と共に,もはや動かすことのできない持論,産業芸術一般における一貫 せる依能主義的また合理主義的主菜を根強く育成して今日に至っている。来朝して2年 余,氏の造型的日本文化に対する強い憧憤と研究心は,他のいかなる親日来朝者よりも深 い理解を培っているであろう。少くとも建築・工芸に関しては。 (中略)氏は見識高い優 れたアイデアマンであり,しばしば人の意表に出づるものであるが,また仕事の常とう性 を越えることでもしばしば意表的であるという。そしてこの場合でも,仕事が無理だとい う人々の反対にもかかわらず,氏は頑固なほど主張し,またその主張は尊敬的に遂行され る1)。+ Tautを合理的主義的,機能主義的と断定するのほ多少問題を含むとしても,この評に *美術教室(Dept. of Fine Art) 91 高崎における近代工芸運動の考察(2) 見られるように, 1935年代にはTautの主衷はすでに高崎における工芸運動の一つの核 になっている。また「氏の主熟ま尊敬的に遂行される+との評も,現実にはこれに反する ことも多かったようだ。特に日本特有の素材についての理解は十分でなく,デザインされ Tautは竹と漆に特に たものについては,製作現場との間にしばしば摩擦が生じていた。 興味をもち多くの応用を企てているが,時にほ素材使用の適切さを欠き, ∴製作に難渋する こともあった2)。また経営上「売れるもの+との井上の見方から設計段階で葬むられ,坐 産されないものも多かった。 Tautはこれにほ不満の意を表しているが,現実には抗しが 「良質品の製作はそう簡単ではない. たかったようだ。 1年後の今日,私の案の約25% がようやく製品になっているに過ぎない+と彼は前記工芸ニュース誌に語っている。工芸 運動の主導者でほなく,また工芸の専門家でもない協力者としてのTautの立場を考えれ ば,この25%の製品化率ほむしろ高率だと考えてよいであろう。 「ミラテス+に展示,販売された主な作品ほ,竹工品ではバスケット,電気スタンド, 傘の柄,マガジンラック,木工品ではペーパーナイフ,飾りボタン,たばこ入れ,小箱, 家具額,漆工品ではナプキンリング,小箱,卓子などであり,特に漆を素地との対比とし て使用し,独自のデザインを生みだしたものなどが注目された。当時地方工芸品の生産 は,商品性を十分考慮するまでには至っておらず。ささやかながら保持できた技術,手法 TaⅦtの場合作品の質,そ に依拠し,それの運用に終始することが多かったのであるが, れも使用者側からの見方を先行させ,それに深い理解を示したことほ,地方工芸品のあり 方に対して画期的なものであったと思われる。 以上のような工芸の考え方,製作態度による作品は,当然のことながら当時の庶民の実 用品にはなり難く, 「高級な,気の利いた手工芸晶+にならざるを得なかった。従って 「ミラテス+の販売品は,限られた有識者か理解ある在日外国人が主たる顧客であった。 「その販売の6割位までが外国人+であったとされ 前記工芸ニュース誌の指摘によれば, ている。 Taut 自身は「日本人のための近代日本工芸品を目指している+と力調している のであるが,上記の事実ほTautが日本の庶民生活の実態を理解するにほ至らず,彼自 身の生活感覚からの発想とデザインであったことがうかがえる。 Taut自身,良質工芸品の普及は,理解ある一部有識者からと考えていたと思われるが, それにしても当時の日本の生活にはなじみにくいデザインと価格のものが多かった。例え ば,デザインにも作品の仕上りにもTautは満足して売り出したものの中に,折りたた み式の木製本立てがある。これほ底部が本の数によって左右三段に伸長でき,外側は蝶番 で直角に止まるもので,今日でもそのアイデアは高く評価でき,興味ある優れた機構にな っている。その上底部の伸長横構ほ,木の材質を変えて組合せ,それが効果的なパターン になるよう細やかな神経を行きとどかせている。これの価格が8円80銭であった。前 記工芸ニュース誌の「ミラテス+訪問記事の中に,この本立てを「恐ろしく高いもの+と 「値段が高いとい 驚嘆した記述がみえる。これに対しTautは次のように説明している。 うことについては,自分は悪いとほ思わない。良いということは高いという欠点を補うこ 9望 松 志 足るものだ。殊に良いものを作ることを忘れがちになっている日本の工芸品製作に対して 紘,むしろ敢て私は値が高くとも良いものを作る態度をとりたい。 (中略)良いものが私 の目標である8'。Jこの一貫したポ1)シーほ,経営上常に問題をもってはいたが,井上の理 解と経営によって初めて可能だったといえるo これにつき工芸ニュース誌は, 「この店が 単なる経営として以外に何かをもっているか,主張しているかを裏書きしいる+と書きそ えている。 「ミラテス+の工芸品が外国人向きであることに対して,これが将来大いに利点である とす畠次のような評価もあったo 「我が国の特に地方の工芸は,伝統の殻から出でて新時 代に対処する何等の術を知らず,また力もない現状において,一方我が国の今日対外輸出 雑貨貿易の隆盛は,この事工業的工芸品の販路を外国市場に求めることによって地方工芸 をうるおしつつある今日,ここに外国人向きの良き工芸品製作の最も好条件に恵まれた模 範的実験研究がなされつつあるということである。 (中略)日本の材料,技術をいかに生 かすべきかの教場としての存在を高く買っていいと思う。もともと,工芸産業的に何等特 殊な伝統技術を持たなかった高崎市を中心として,それがなされつつある点において,更 にこのことほ意味深いものがあろう4'o+井上の工芸運動の方向は,この評にあるように将 来は海外市場-の進出が企図されていたし6',またそうすることによって,地方工芸産業 の進展をほかろうとしたと思われる○ 日本特有の工芸材料として, Tautが特に注目したものの一つに竹皮がある。竹は群馬 県地方では豊富な材料であり,この地方の農家にほ欠かせない養蚕用晶として古くから使 われており,そのはかに各種の寵の類が前橋とその近郊で,竹すだれが高崎郊外で作ら れ,竹工ほ比較的盛んであった。竹皮は高崎郊外で下駄表として編まれており,㌔ Tautが 高崎在住の緊は千人以上の工人があって,全国一の生産地であったとされている6)o (下駄 表には主に輸入した支邦竹皮が使われていた。)これとは別に井上の先代が副業会という 授産事業をやり,藤を使う下駄表編みを農家の副業として教え,実施されていた。機械生 産でなく,家庭内工芸としての下地がすでに作られていたことになる。 Tautは竹皮を下駄表ではなく,各種の寵やパン入れなどに応用すべく着目した。当 晦,井上がドイツからとり寄せた雑誌の中に「バスト+で編んだ龍が紹介されていた。ド イツのバストほアフリカのしゅろの菓のようなもので,繊維は長く強く編みもの素材とし て適したものであり, Tautはこの技法を竹皮に応用すべくデザインした.竹皮を先ず長 いひも状にし,それを互に縫い合せて形状を作りあげる技法であるが,これはかなりの技 術と手間を要するものであった。井上の工房ではこの技術はなく,下駄表の技術指導者に 協力を求めることにし, Ta甘tもその仕事敷こ出かけ,でき上るのを期待の目をもって見 守っていたといわれる。 当時,この地方の下駄表の生産は順調で,商品と■しても安定した市場をもっていたか ら,その好条件を捨ててまで変った仕事に手を出す者は少なく,新しい工芸品を作ろうと することなど,好奇の目でみるばかりであったが, Tau七の熱意にはだされてようやく形 93 高崎における近代工芸運動の考察(2) を成すものを作り得るようになったと,当時の井上の協同着水原徳言(1911-)は述懐 「デザインはTaut,技術はドイツ,材料は日本の竹 し,また次のようにも記している。 (中 皮,それに高崎の下駄表の伝統が工夫を重ねて新しい工芸品を生みだしたのである。 Tatltがこの 略)竹皮編みは今まで竹皮になかった新しい生命を見出したものになった0 上なく愛した日本の竹,その竹の皮に新しい用途が生れたわけである7'。+ Tatltはこれに 染色をほどこすことを考え,この試作にも成功した。この竹皮編みは「ミラテス+でも好 評を博した工芸品であったといわれる。 このように地方工芸品の開発としては成功したものであり, Tautも特に気に入ったも Ta甘tの滞 のの一つであったが,前述のように竹皮の新しい工芸に手を出す人は少なく, 日中にほ,真にこの土地の工芸品にほなり得なかった。戦前下駄表の生産が下降した折, 一時見直されることほあったが,興隆を見るには第2次大戦後まで待たなければならなか った。 「ミラテス+の扱うTautデザインの工芸品数が増加するにつれ,これに関してほ彼は かなり満足の意を表しているが,井上にしてみればこの状熟ま経営上問題であり,侮には 大衆向けのものを持ち込むこともあった。で弧tはこれには我慢ならず,これらを「いか もの+と呼び,店から撤去するよう迫る徹底ぶりであった8)0 Tautほ来日直後,京都在住の何人かの名工を訪ね,そのデザインや製作態度,考え方 などを実見し,日本の伝統工芸のすばらしさに感嘆している。仙台の工芸指導所において も同様であったが,高崎の工芸運動においても,名工の工芸とは異なり,工芸の大衆化と いう前提はあったにせよ,工芸に対する考え方とり組み方は,名工のそれと全く別に考え 得るものではなかったと思われる。当時の地方工芸に携わる人達にとっては,日本の代表 的名工に接することなどあるほずはなく,その作品を実見することも稀であったから,こ の点でもTautは,日本人以上に日本の工芸についての知識を習得していた。従って,こ のような体験とこれまで世界をリードしたという自負をもつ建築観とによって,工芸にお いてもデザインと質に対する一定の基準が自己の内部に自ら形成されていたのほ当然のこ とであろう。この基準にあっては,国立工芸指導所の作品でさえもひとたまりもないもの Tatltデザインか指導によるもの以外は,上記 であった。)。まして高崎地方の工芸品は, の基準では全て「いかもの+とされてもいたし方ないことである。 群馬県知事君島清吉は井上の工芸運動を高く評価し, Tautとの協同の推進にもかなり の理解を示していた.理解といっても必ずしも工芸の質に対してではなく,行政の立場か ら地方産業の振興に資することを第一義にしたことは止むを得ぬことであり,井上に対し ては先ず「売れるもの+を要求していた。井上は知事の理解を得ていることによって,日 本にDWB (ドイツ工作連盟)10)のような組織を創設したいと考えた。高崎での活動が軌 道に乗ってくると, J=の工芸運動をより組織的により強固なものにし,活動の拡大をはか DWBはその最もよい模範としてドイツに存在し ろうとするのは当然のなり行きであり, 94 松 本 久 志 ていた。 井上はTautにその旨を語ったようだが, Tautはこれに対し「これは全く見込みがな い+と即断しているo彼がその根拠としたものほ,当時の日本の実状をよく説明してい るo端的にいえば,日本でほ建築・工芸といった造形文化に対する社会的意識が,その質 を第一義とするまでには到底至っていないこと,従って芸術家や工芸家は社会的に十分な 権威を持ち得ていないのであり・ いということにつきる。 DWB的組織も日本ではドイツのDWBにはなり得な 「(DWBを鮭織し推進した)かつてのフィッシェル,べ-レン ス,ヴァソ・デ・ヴェルデ・メッセルのようなすぐれた質と権威とを併せ有する芸術家, 特に建築家が日本にはいない.従ってまたオスト-ウスやボッシュのような人も出てこな いのである+11'とTautほ記しているo日本にDWB的組織が結成されることは, Taut にとっても極めて望ましいことであり,そのような方向での活動が理想であることにほ違 いないが・これを即座に「見込みがない+と考えるところに日本の悲劇を見落胆してい る表情を読みとることができる。 県知事の理解ある態度は一応多としながらも,販売優先の考え方には「典型的な官吏根 性だ+として同意していない.井上の製作現場は経営上,一部Tautの同意を得ないも のの同時生産も止むを得ぬことであったo掛まこれを「はしにも棒にもかからない誤った 考え方+として排撃しているが,既に耗面に書きつけるだけで,実際には容易に理想が実 現され得ないのをほがゆく見つめるしかなかったようだoそこで「高崎での私の仕事もど うやら終りに近づいたようである+12'と見切りをつけたい気持ちを記している.高崎にお ける仕事の見切りは・当然ながら日本に対する見切りを意味していた.来日2周年に当る 1985年5月S日には「日本にひどく倦んできたJと記し,この倦怠から逃れるために も,著述に一層力を入れるようになったと思われる。 井上の工房の作品が好評を博するようになると,丸善がその一部の販売を引き受けるよ うになり,この横線から,この年の11月に「ミラテス+の工芸品展を丸善で開くことが 決ったoこれがTautにとって,一時の生気を廷らせることになったようだ。 10月に入 り彼は再び小工芸品のデザインに精力を注いでいるo ローソク立て,菓子皿,たばこ容 器,パイプ架,ゆで卵の朝食セット,ペーパーナイフ,書簡集入れセット,コンパクトな どがその主なものである。 展覧会は11月15日から21日までの一週間,日本橋丸善本店で開かれた。この展覧 会は「ミラテス+の工芸品展ということであったが, 「世界建築界の巨匠ブルーノ.タウ ト尉旨導小工芸品展覧会+と銘うたれて, Tatltの個展になった。出陳品目を当時の′くソ フレットによってみると,文房具,輿煙具,装身具,容乳盆,卓子,椅子,小物箱,時 計・照明器具,裂地,織物など雑多で,これの陳列にはTaut自身が指揮をとった。 会場にはTautのドイツにおける建築作品の写真,ドイツおよび来日してからの著書, 新聞雑誌に掲載した論文などが同時に陳列されたo丸善の発行したパンフレットを見る と・ Tatltを桂離官を初め「造型的日本文化+の評価者である旨紹介し,同時に建築家久 95 高崎における近代工芸運動の考察(2) 米権九郎と東京美術学校の和田三道教授の推せん文をのせている。久米ほ、Tautを,芸 術家としてあらゆる素質と数十年の経験を有する建築・工芸の指導者であると記し,和田 は同様趣旨のはかに,高崎における井上・ Tautの工芸運動を「われわれの常に推賞を禁 じ得ないところのもので,邦家のた捌こ祝福すべき一大存在である+18)と紹介している. 展覧会は連日多数の参観者を集め,作品の売れ行きも好調で大成功であった。 会期中連日会場に詰めて,展覧会を見守り,また購買客に親しく優したという。 Tautは 「日本の 人達が私の作品を静かに観賞し,細部にいたるまで,ていねいに吟味している様子を見る のは大きな喜びである。 (中略)とにかくドイツのすぐれた質がこの国で確認せられ,普 た多数の注文によって実証せられたことは,私にとって貴重な体験であった+14)とその喜 びを記している.この展覧会の成功は高崎の工芸運動,とりわけ井上・Tautの連携によ る工芸を広く世に知らせることになった。 2.工芸所の設立 Tautの参加によって工芸運動に一つの方向が明確化し,また県知事の理解が得られる ようになると,井上ほ県工業試験場高崎分場15)を独立させ,県と直結した機関とし,より 潤沢な資金で運営したいと画策するようになった。この高崎分場に隣接して井上の工房が あり,ここでの工芸品製作が活発化するにしたがって,高崎分場の業務も工芸にしぼられ てきて,実質的には井上の進める工芸運動に組み入れられた形になっていた。井上は県の 行政とより密接に結びつくことによって,工芸運動を組織的にし,また活動を有利にする ねらいがあったが,同時にTautをこの機関の嘱託として,よりよい身分の安定をはかろう としたと思われる。そしてこの機関の運営責任者として前稿でもふれた上野伊三郎(1898 -1972)を考えたのも,井上-Tatlt-工芸所の結びつきを強固にし得るとの判断であっ Tautとの問に言葉の壁がないば たと考えられる。上野はかつてウィ-ソで建築を学び, かりか, Tatltが日本に来るきっかけをつくった日本インターナショナル建築会の有力メ ンバーであり,来日早々のTautを先ず桂離官に案内し,日本の造形を最初に強く印象 づけた人である。その上,上野のリチ夫人はオーストリー人でヨゼフ・ホフマン門下の工 芸デザイナーであり,井上にとってこれ以上の人は望み得ないはどの人物であった. 以上のような了解のもとに井上ほTaut とはかって,県直轄の工芸所を設立すべくそ の趣意書を県に提出した。群馬県議会が工芸所の設立をとりあげ,これを可決したのは Tautは12月28 1985年12月暮になってからである。井上, 日に県庁に知事を訪ね, Tautはこれを有望と考え,彼なりの工芸 工芸所設立の具体策につき直接話合っている。 所設立計画案をねり井上と協議している。 Tatltは「(井上氏ほ)私の書いた計画書を読 んで,日本では全く新しい試みだといった。井上氏は予算を組んで県会に提出し,追って は所長に私の推せんする上野君を迎えるつもりらしい。こうして行く行くは,この工芸所 から組織的な仕事が生れるようになるだろう+16)と大きな期待をこめて記している. 2月5 Taut,上野の三人で群馬県知事を訪ね上野 日京都から上野を呼び寄せ,井上, を紹介し,エ芸所長に推す件を話し合っている. Tautは「この話は予定通り成立する見 96 松 本 久 志 込みである+1丁)と記しているところから,所長上野で円満了解されたことが察せられる。 群馬県工芸所が県工業試験場から分離独立し,発足したのは1986年4月1日であ るo当時県のエ芸指導機関が全国にいくつか設立されているが,この工芸所のように高崎 の工芸運動を背景にもち・それを指導する井上・Tatltという民間人と世界的建築家の推 進によって設立をみたのほ・極めて特異な例である○国立工芸指導所長国井喜太郎(1884 ∼1967)の記述によれば,当時県工芸指導所を全国6か所に設立する計画があったという. それは秋田,福島,神奈川,静岡,大阪,福岡であったとされているから18),群馬県ほこ の計画の中には入っていなかったことになるoこれらの6県の工芸指導所ほ,国立工芸指 導所の推進という力を得ての設立である。また,この6県の工芸指導所で最も早いとされ る秋田県が1936年の設立であり・群馬県工芸所はこれと同年の設立であるから,工芸の 県指導機関としてほ最も早い設立機関の一つである○なお上記6県ほ,そjlぞれ特有の地 方工芸をもち,地方の産業工芸成立の基盤のそなわった県といえるが,群馬県の場合前稿 でもふれたように・木工,竹工,漆工などの工芸生産はあったが,それらほいずれも零細 な組織や家内工業的生産であって,地方工芸としてほ全国的にも振わない経路をたどって きていたoこうした県に最も早く県の工芸指導境関が設立されたのほ,高崎における工芸 運動の背景と井上の達見指導力に負うところ極めて大であるといえるであろう。 地方公設の工芸指導所としては・大分県日田工芸指導所の1897午,徳島市工芸指導 所の1901年設立の記録があるが,これらほ県直結のものでほなく,地方都市の特殊工芸 の研究指導境閑であるo工芸の県指導機関としては,上記7県についで茨城,石川,岐阜 の各県に設立されている10)0 群馬県では1986年3月81日付で県令を発し,県工業試験場と工芸所の規定を定め 4月1日付で施行している20'。工芸所規定による業務ほ第1粂として規定し,次のよう になっている。 1・木,竹,金属,漆及布烏工品二閑スル試験及研究 2・木,竹,金属,漆及布烏工晶ノ原料及材料ノ品質ノ鑑定 8・木,竹,漆及布吊工品製作二閑スル伝習及講話 4 織物の整理,精練及漂白 5 試験研究ノ為製作シタル木,竹,漆及布畠工品,加工シタル其ノ材料並調製シタル 其ノ意匠図案ノ配付 6.展覧会の開催 これを見ると業務範囲は,井上の工芸運動の範囲を出るものでほなく,試験研究や原材 料の品質鑑定を主としており,工芸運動を有利に展開する上での公設機関の役割の明確化 がみられる.工芸所を中核として,地方工芸の一大飛躍をほかろうとするねらいは見られ ないが,これはこの地方が特有の工芸産業をもたないところから積短姿勢はとり得なかっ たものと思われ,当面工芸の振興は,井上の工芸運動を主力とせざるを得なかったことが うかがえる。 97 高崎における近代工芸運動の考察(2) Tautは「私は上野君 工芸所の管理者として,井上らの希望通り上野の就任が決ると, (中略)同君が高崎-来るように がこの新しい任務を立派に果すことを信じて疑わないo なったのは大変うれしいことだ+乏1)と記し,かねてからの思惑通りの上野の就任を喜び, Tautほ上野を工芸所長就任と日記に 共に仕事ができることに大きな期待を抱いている。 記しているが,正式には「所長事務取扱,嘱託+であった.前記工芸所規定第S粂は「所 長-地方商工技技師ヲ以テ之ニ充ツ+としており,上野がこれまで県とほ直接関係をもた ない京都在住の民間建築家であったことから,県の官吏が,上野を正式の高等官技師であ る所長にいきなり任命することを阻んだためといわれる。 井上, Tautほ高崎分場嘱託の身分が,工芸所設立とともにこの方の嘱託になってい る。工芸所規定でほ第2条として「所長,地方商工技師,商工主事補,商工技手+を置く= としており,嘱託についてを恵一切ふれていない。 工芸所の組織としてほ所長事務取扱のはかに,庶務係,意匠計画係,染色係,塗工係, 木工係,竹工係,機械係から成り,各係は1-5名のスタッフであり,これに機関夫,袷 仕,小便各1名を配したものになっている.前稿でふれた俵田有障は,意匠計画係の商工 技手として配されている雪空)o 以上のようにして工芸所は発足したが,組織,スタッフとも弱体であり,県予算もかな り切り詰められたものであったようだ. Tatlt 「この施設 lま工芸所設立を喜びながらも, がこれから先どんなものになるのかほ誰もわからない+と将来-の不安の念も日記に記し ている。 3.工芸所設立後とTatltの離日 井上の工芸運動の製作面での中核をなす「高崎木工製作配分組合+紘,牌詞に発展しそ の規模も拡大して, 1985年半ばにほ組合員450人,職工25人の大きさになり,織物の タスパン組合も資本金2万円の株式会社とし,大きな経営体にまで成長した。工芸所設立 後もこれら井上の経営体と工芸所との関係は,高崎分場のときと同様に継続された。これ までと異るのは井上・Tautの関係の中に,新たに上野が加わったことであるo工芸所の 所長人事は前記したように,工芸所設立約1年前から井上・Tautが構想し,県に対して 画策してきたものであり,上野招聴は最も望ましい人事のほずであった。これが思わぬ事 態を招くことになり,前記水原は「これほ残念ながら失敗であった+と断定している。そ の最も重要なことは,上野が独自の判断が夫人リチを工芸所の嘱託にすべく県に上申し, 認可を受けたことである.この間の事情を水原ほ次のように記しているo 「上野氏は夫人のデザインを最も高く評価し,むしろタウトデザイソよりも優先させ たo これはタウトの示す工芸的意匠はいわば建築家であるタウトの余技であり,上野リチ 夫人は,ウィ-ソのヨセフ・ホフマン門下として,ウィ-ソ工作連盟同人としての盛名が ある意匠作家であり,国際的なその道の専門家であるという考え方が重きをなしていた。 上野氏自身もいわゆるウィ-ン・セセッションの巨匠と仰(tlヨセフ・ホフマソの門下でウ ィ-ソに学び,そこに本来の作家活動があったことほ当然である。ところがタウトにとっ 98 松 本 久 志 てはセセッ㌢ヨソは過去の残影であり,それを越えてドイツ表現派の強烈な主張を生みだ した最も戦闘的な第一線に立った輝かしい経歴があり,グロピウスに互して国際的に,そ の後の世界建築をリードする老となったという自負がある。今更ウィーソ・セセッション 風の再現など許すはずがなく,始めから上野リチ夫人を関係させてはならぬ+皇4'という条 件で上野を所長に推せんしたのだという。 一方,この件に関して,上野には後に次のように説明した一文がある. 「工芸所としてタウトの新しいスケッチを更に求めたのであるが,以前のスケッチのう ちまだ試作に及んでいないものが多くあるから,それらができてからでないと新しいスケ ッチを出すわ桝こほゆかないということで,前に仕残してある分をミラテス関係者と共に 検討したが,商品とするには適しないとの理由で試作を見合せることになった。そこでリ チ・上野にもデザインさせることになった+雪8)のであるという. (Tautがリチデザインを腰うのは,デザイン的主張ばかりでなく,その師ヨセフ・ホ フマンに対する肌合いの悪さも大いにあり,その先入感があったとの見方もある。) 更に上野は夫人のデザインのはかに,自分のデザイ./を井上, 製作図面を措かせ試作したので,井上, Tautの東認なく部下に Tatltとの間の溝を深くした.そして工芸所発足 約5か月後にTatltほ「私は,日本における最大の演友に所長の地位を世話したもの の,今となってほ同君を支持できないのである。これは私にとって実に悲しむべきこと だ+27)と記すまでに至っている. 前稿でもふれたように,高崎の工芸運動にTautが加わって以後は, Tautのデザイン またほ指導による工芸品には井上・Tautの印を押し,責任を明確にしてきたのであり, 工芸所設立後も同様継続を意図して釆たのであるが,上記のような事情によってこのこと ほあいまいになり,これを変える結果を招くことになった。高崎での工芸の仕事ほ従来の ように円滑には運ばなくなり,こうした事態が, Tautにはむしろ日本に対する希望を失 なわせる結果となったといえるかも知れないと水原は述べている。 以上のような事情ほ,高崎における工芸運動を考察する上で一つの意味をもっていよ う.即ちこの工芸運動ほ,結局井上・Tautのいわば個人の活動領域にとどまるものであ ることを自ら意味していることである。どのような場合でも,社会的活動範囲を拡大しよ うとすれば,各種の権限が生C,それの委譲によって更にその活動が拡大されるというパ ターンをとるのが一般であろう。上野にしてみれば,工芸所ほ独立した公的磯閑であっ て,井上・Tatltの工芸運動との連携をはかりながらも自立させ,仕事の上でも独自性を 出して行く必要はあったであろう。ともあれ,上記のような事態の発生が,高時における 工芸運動の限界を教えることにもなったのである。 Tautほ高崎に釆て2周年を迎えた8月1日の日記に「この2年間の実績はどうだった ろう。私は測り知れぬものがあると思う。だがこのことほ私個人だけの問題でほない。あ の時以来,日本には解放された線と形とが生れたのだ。まさに解放された工芸である+28) と高崎の工芸運動における成果を自負をもって記している。しかし,この時以来離日ま 高崎における近代工芸運動の考察(2) で, 99 Tautの日記には自己の工芸活動についての記述はみられない。 上記のような事態発生以後,日本に特に倦怠を感じ 今でほ「これ以上日本を知りたい とは思わない+とさえ考えていたTa11tのもとに,トルコから招蒋の手紙がとどいたの -ソス・ベ が9月11日である。手紙は先にトルコで活躍中死去したドイツの建築家, ルツィヒ(1869-1986)29)の後任に補せられているとの文面であった。.Tautはすぐに「衆 知した。尽力を乞う+細)と手紙の主ヴァ-グネル宛に電報を打っている。日記にr「今日は 感慨無量だ+と新しい任務-の喜び,恐らくそれ以上に日本を去れる喜びを記している。 日,東京,京都を経由して下関 これでTautの離日は決り,高崎を去ったのは10月8 から船で日本を離れたのは10月15 4. 日と日記にほ記されている。 Taut離日後の工芸運動 日本橋丸善本店で小工芸品展が開かれてからちょうど1年後, 1か月後の1936年11月13 日から19 Tautが離日してから約 日まで,同じ場所で第2回の展覧会が開かれ た。丸善の発行したパンフレットには「建築界の小泉八雲,ブルーノ・タウト氏が日本に のこした工芸の良識をしのぶべき,小工芸品展覧会+と書かれ,さながら回顧展になっ た。このパンフレットにほ,前回同様久米権九郎が推せん文をのせ,滞日中のTautを 日本が相応の処遇をしなかったことを遺憾としながら,今回の展覧会は「名人の遺作を見 る魅力である+とし,更に「日本の持つ良さを材料にも,形にも,また殊にもこんなには っきりと見せてくれた人は日本人にも少ない+と評している。出陳工芸品は,前回のもの にガラス器,陶器,金属器が加わり 数十点にのぼったB幻.工芸ニュース誌は, 「第2回 「ミラテスもようやく確立の ミラテス新作展+として新作の写真10点をのせて紹介し, 時期にタウト氏を失った。がむしろ今後のひとり歩きに我々は大いに期待しよう+$8)と書 いている.翌年の1937年4月24 覧会が開かれている。 日から28 日まで,丸善名古屋支店でも同じ形で展 19$7年の工芸所の職制表によると,意匠計画係に嘱託として井上とともに上野リチの 名が記載されている。仕事の推進には前項に記したような事情があったが,上野は夫人リ チのデザインをかなり重視していた。工芸所課立直後にもリチのデザインとして「竹製ピ ソ、セット,パン龍,オードプルセット,竹製ボタン,テーブルかけ,ロクロ製の玩具など を作るようになって製品に多種性を加えた+とし, Taut離日後は「彼の残したスケッチ に併せてリチ・リックスのデザインの試作を試み,追々商品化していった。リチ・リック スの作品は多種に亘るが,ロクロ細工色漆塗の重ね箱,モダーソ化したコケシ,ホームス パンのショール,竹寵の類が多かった。 ■筆者も群馬県の山々に生えふさがる篠竹を利用し た竹椅子のデザインをした+84)と上野は記している。これによってもTautが離日したと きからのデザインは,上野夫妻中心の活動になっていることがうかがえる。更に作られた 作品ほ, 「それがタトゥの作品であるか,上野作品であるか全くわからなくなっている。 タウト・井上という証印をつけておくという契約などは全く消失してしまっている。一般 180 松 本 久 志 からもそれほ混同,誤認きれていることが多い+描)と水原が記しているところを見ると, 井上・T弧tの工芸運動の方向は,かなり変更されていることがわかる-o トルコ紅行ってからもT姐tほこのことを気にか軌 憂慮する言葉を記した手紙を水 原に書き送っているo高崎における工芸運動, 「ミラテス+ほ常に良品質工芸品の生産と 普及乾あるとし, Tautは死に至るまでそれを気にかけていたようだ.水原宛の書簡にほ 次のような-紡が見られるo 「ミラテスについてほ,良い趣味の規格を活かしつつ保存するよう願っている。私に代 って悪いもめを斥抗 いかものやいんちきを売ることを禁じる者がありうるだろうかo井 上さんがその位置にいてほしいものだ・.+さ唱) 工芸所設立2年後の1988年4月23日に群居県知事土産正三は,工芸所に国立工芸 指導所長国井暮大敵東京高等エ芸学校教授木椅恕-を抱き,エ芸所の経営方針会議を開 いたo これ紅ほ県議会議員2名,県経済部長等変名,各工芸関係組合の代表,それに上 野,井上を加え20名が出席した. ここでの知事の挨拶から察すると,この会議は,地元工芸産業の振興に直接寄与するよ うなよ9実質的な工芸の研究と,一部に限られたものでなく応用範囲の広いもののの研究 指導とに,エ芸所の経営方針の変更を求めようとするものであった.国井はこれを受け て「工芸の質の改善に外国人を痕んでやるのは結構だが,これは国費でやることであっ て,地方の機関ほその地方の当業者との結びつきを密にし,当業者に犠牲をはらわせない で地方エ芸晶の開発・改善をはかるベきである。Jこの工芸所の徒事は趣味が高過ぎる.工 芸所の趣味,個性が中心になっているが,産業として発展させる場合にほ大衆性にもとづ く研究,低価格が必要だ+との趣旨を述べ,エ芸所の性格を批判し,その考え方の変更を うながしている。 木槍も同様に, 「群馬県は買被っている。それに工芸所の作品は一般人にとって親しち に欠ける.生活にぴったり来ない。作品の経済化の研究も必要だ+8T'と述べ,井上・Taut 以来の工芸運動の方向を暗に批判した。井上もエ芸所の持つペき機能が十分発揮されてい るとはいえないので,改める方がよい旨発言しており,この時点で工芸所と自己の工芸運 動とのある程度の分離はやむなしと考えていたと見られる。 こうした発言によって,知事は上記の思惑通りの結論を得ることになった。国井,木棺 の発言ほ両氏の立場を考えると,あまりに現実的に過ぎ意外に思えるのであるが,当時の 緊迫の度を増しつつある社会情勢の中では,地方の経済的自立のための産業振興が急務で あったのであり,これもやむを得ぬ考え方であったといえよう。このような事件によっ て,高崎の工芸ほ方向を変えざるを得なくなり, Tatltの一貫した主張である工芸の良趣 味,良質化という蒲導理念は,その主座を降りざるを得なくなった. Tautの工芸ほ,こ の時点で既に過去のものになりつつあったとみてよいであろうo 時局ほ次第に軍事色をつのらせ,工芸所が地場産業のた如ことり組んでいた木製玩具の 1軌 高崎にお汁る近代工芸運動の考察(2) 中に,軍国玩具を登場させぎるを得なくなり!試作きれた兵隊,大砲,機関銃などの玩具 杏,知事自ら義官-献上にあカミっているo工芸所の性格ほ全く変ったものになったo 竹皮業界では支那竹皮の輸入がとまり,また履物にも擬革製が登場し,下駄表の生産ほ 急速に衰退した。 19$8年当時これに従事する職工は約70、名,内職に副業とする者を含 めると約2千人の関係者がいたといわれる。当時下駄表にほ,捻とんど支部竹皮が使わ れ,しみ状のはん点がある日本産の街皮ほあま哲使われなかったようだo ここ■で注目され たの添ミT&tlt指導旺よる働皮編みであり,日、本産竹皮のほん点がかえって作品に渋味を与 えることになった。工芸所は各種容器類の姪かに, -ツドバ.3グ,ラソドセルまで皮革代 用品として試作し,業界救済にのり出さざるを得ない状況になった紬). 5∴工芸運動の終息 19$8年暮Tautほトルコで客死し,時を同じくして井上の先代も死去した.井上は先 代の家業をつぎ,従来のように工芸運動のみに専念することほできなくなった。 19終年 9月,上野は3年半の工芸所の仕事を辞して京都に帰ったo当時の社会情勢から,すでに 2代所長とし 上野夫妻の造形感覚は,純粋にほ生かし得る状態にほなかったといえようo て秋田県工業試験場長近藤将照が就任したが,この時点でTaut関係のものほ全て取り 除かれて,工芸所ほ県の役所然としたものになった。 この時,県工業試験場を総合試験場として改革し,工芸所を廃止する案が県主脳部の問 にもち上った。工芸所の活動が旧態依然たる竹木細工であって,時局下の県産業に益する ところなしと見られたためである3B)o近藤所長ほこれには強硬に反対し,工芸所存統を県 に具申した。高崎市側でも市長ほじめ,地元選出代議士,県議,それに井上も加わって協 議し,工芸高崎の振興を促進するため工芸所を存続させるベく運動を行うことにした40)0 その後県では,時局下の一般情勢と予算上から試験検閲の統合ほ不可能紅なり,これによ ってようやく工芸所の存続が確定した。 時勢が更に緊迫の度を加えてくると,工芸研究はさながら代用品研究になった.商工省 では代用品工業振興展を開き,各工芸試験慣閑もこれに呼応したQ群馬県でほ特に竹の利 用が考えられ,竹製の-ソドバッグ,スコップ,バンド,指輪, -ヤーピソ,ペンシルホ ルダー,竹メダル,篠竹製椅子,寝台,竹織終による純などが研究開発された。街以外で ほセロフアン層のフットボール,桑皮からとる放経とそれによ-る織物, -ソドバッグなど がある。また,児童に国防思想普及用にと竹鏡までが研究試作された41)0 1朗盈年に入り工芸所は境線,染色関係を県政維工業研究所に移管し,業務方針を明確 に軍需産業と国民生活必需品の研究と指導におき,特に陸軍省需品研究所との提携によっ て,軍隊用個人食器,竹製航空機燃料補助タソクの研究が行われた4皇)o実質上エ芸所ほ, 井上の工芸運動との係りは極めて稀薄なものになった。 これと前後して, Tatltに直接指導を受けた俵田をほじめ,井上の工房で工芸運動を支 えた人達,それに工業試験場高崎分場時代に伝習生となり, ・その後井上の高崎木工製作配 102 松 志 分組合で職工として働き,井上・Tautの工芸運動を製作面で支えた人達の多くは召集を 受けて去って行った。前記のように,一時盛んに作られるようになった, Taut指導の竹 皮編みも,技術指導者を欠き,職工の多くも召集を受け,また戦時下七工芸品の需要もな くなり・絶えてしまったo戦事●下における必需品およびその代用品以外の工芸には,軍部 からの圧力も加えられるようになり,工芸生産の継続ほ不可能になった。 井上の片腕として仕事の推進に当った水原も召集され,工芸運動は実質上消滅の形にな つたo 1985年2月以来,正しい工芸の理念を守りつづけてきた「ミラテス+は71948年 12月に閉店した。それと時を同じくして,井上の工芸運動を支えてきた高崎木工製作配 分組合,井上工芸研究所も解散したoこれで約14年間にわたった高崎の工芸運動ほ終息 した。 6.戦後の再興 前掛こ記したように,高崎の工芸運動に何らかの係りをもっていた人達のうち,多くの 老が戦場に行き,帰還しなかった者もまた多かった。高崎分場時代から教えを受け,諺 計の指導的立場にあった俵田も戦病死し,戦前のまま木工や漆工のやれる者はいなくなっ たo従って戦前のような工芸運動の再興は不可能になり,井上自身再興しようとする意思 ほすでになかった。 高崎の工芸運動時,とりわけTaut指導による工芸品の製作として戦後再興されたもの は,竹皮編みが唯一のものといえる。戦後復員した水原は,引揚者の仕事として収入を考え るために・市に働きかけ資金援助を得て竹皮編みの再興をはかった。間もなく外地より引 揚げてきた下駄表の技術指導者の一人と共同し,先ず戦前に好評だったものから手をつけ, 次第に新しいものを生みだそうとした.苦心の末竹皮編み工芸品が商品として売り出せる ようになった掛土ほ,水原ほ他の仕事のため手を引いたが,その時ほ戦前と異り下駄表の 需要ほなく,これに従事していた人達は竹皮編みに移ることを望むようになったo前記し た副業会のように講習会を開いたり,材料を貸与して技術を習得させるなどして,製作者 の輪は次第に大きく広がり協同組合も組織されて,高崎市中広く行き渡った家内工業にま で育った。若い人の中にもこれに従事しようとする老も現れ,この竹皮編みを新しい民芸 として育てようとする抱負も生れて,これまでになかった全く新しい技法も創案された。 1956年水原は「(#前に興した)工芸の中で竹皮編みだ桝まタウトが居た雫よりも反っ て盛んになり,高崎が独特の工芸として誇り得るものになっている。当時わずか数人の者 が作ったにすぎない竹皮編みが,今では400人に余る人々の生業として成り立っている。 これからも形や用途ほ変化しても,この技術ほ長く伝えられ成長してゆくであろう+48)と, 自己の再興した竹皮編みの成功を喜び,将来への期待をこめて記している。戦後の苦難の 時代に, Tatltの遺作は多くの人の生活を支えるものになった。 しかし,その後に始まった高度経済成長は,工業による大量生産へと人々を引きつ机 地味で工賃の安い手工芸の仕事から人は次第に手を引くようになり,また,安価な工業製 品の普及で手工芸品の需要ほへり,竹皮編みほ水原の期待に反し産業としてほ成立しなく 103 高崎における近代工芸運動の考察(2) なつた。県広報誌によると,現在竹皮利用では,竹皮草履表を作る人が高崎市にほ一人残 るのみといわれるが,これはすでにTaut指導によるものではないo この作品は長時間 かけて竹皮を漂白・乾燥し,ひとさしずつ編む手法である。これも大変な労作であり,需 要も限られているところから,継東老はいないとのことである。このようにして,高崎の 工芸運動によって作り出された工芸, Tautの指導による工芸の製作は全て消滅した. 井上・Tautの工芸運動推進の一環として設立をみたといってよい県工芸所は,戦後ど のような経過をたどっ、たかを追ってみると概略次のようになる44)0 1946年,戦後9名の所員で再スタートをする。 意匠設計,木工,竹工,塗装の係に材料試験係を加え,試験的性格を付加す る。 主に竹工に重点をおき,技術伝習生の養成を実施する。 1949年,通産省より重要木工県の指定を受け,木工に力を注ぐ。 1950年以降,試験研究の専門機閲になる。 1958年以降,板曲竹,小木工品等の未利用材の産業化研究,家具構造,防虫防かび, 塗装の改善研究等の主として技術研究と技術指導を行う。 1962年以降,地場産業の技術振興に専念する。 1968年,群馬県工業試験場に併合され,その下部組織である工芸部として新発足し現 在に至る. 以上のように,戦後ほ地場産業のための技術開発と指導を主とした機関になり,戦前の 工芸運動の影ほみられなくなっている。現在では,県工業試験場の古い見本棚の片隅に, 気づかれないように置かれた井上・ Tautの証印の押された二・三の工芸品の断片だけが, 工芸運動時をしのばせる唯一のものになっている。 7.工芸運動経過のまとめ 高崎における工芸運動の経過を2稿に渡って追ってきた。この運動は前述したように, 東京で作品発表したり, Tautの指導がかなりのニュースバリューをもって報道されたり したが,基本的には一地方都市における工芸運動に終始したものである。昭和初期にほ, 日本各地に地方工芸振興の動きがあり,それが地方産業の振興と貿易促進の気運とに呼応 して,地方特有の展開をみせたが,高崎の工芸運動もその一つである。高崎の場合,他の Taut 地方と異なり特有の工芸生産の歴史をもたないこと,井上, という藤代の知性と行 動力によって指導されたことが,きわめてユニークな展開をさせたものと考えられる。 戦後出版された日本の工芸・デザイン史に係るものの中には,高崎の場合を初め,地方 工芸の発展過程やその意義にふれたものは見られない。高度経済成長とともに華やかに展 開された産業ザデイソの陰にかくれ,地方工芸発展の意義は既に消滅したかに見える. れはまた,日本の工芸・デザイン史から見れば極めて局所的な動きであり,既に地方史の 中に埋没したものとも見られよう。 ■羊 104 松 本 久 志 ここにあえて地方の工芸運動をとりあげたのほ,高崎の工芸運動に見られるように,こ うした動きをこ人々の地道でひたむきな努力のあとがみられ,人間的工芸・デザイン史にな つているからであるo無機的に発展してきたとみられる現代産業デザインほ,今日いろい ろな視角から見直されなければならない時期に至っていると思えるが,地方工芸史のもつ 意味の再考ほ,その重要な一つの視角になると考えられる。 高崎における工芸運動の経過を追いながら,個々の事象についてはその都度考察を加え てきた。工芸運動全体のもつ意義,今日的評価については上記の問題ともからめて更に深 く検討が加えられる必要があり,後にその報告の機会を得たい。 Tatlt生誕100年を迎え るに当り,この小稿を記してみた。 なお,本稿に係る調査に際しては,井上房一郎(井上工業株式会社)水原徳言(水原企 画設計研究所)神原和夫(群馬県庁)の諸氏,並びに丸善株式会社社史編さん重から懇切 なご教示,ご助言をいただいた。ここに深く感謝申しあげたい。 注 1 2 3 4 6 6 7) 8) 9) 10) ll) 12) 13) 14) 15) 16) 17) 18) 19) 20) 21) 22) 「工芸ニュース+第4巻10号(1935) p. 12. 230. 横浜国立大学教育紀要 第18集わ. 前掲誌p. 19。 前掲認p. 13. 本稿に係る調査に際し,筆者が井上氏から直接聴取. 水原徳言「高崎の竹皮縮とタウ[J 「民芸+44号(1956)本稿では「群馬とブルーノ・タウト+ あさを社(1975)に転載されたものを参照した。 水原徳富 前掲書。 B. Tatlt 「日本一タウトの日記+篠田英雄訳 岩波書店1985年4月5日付o p. 228。 横浜国立大学教育紀要 第18集. Deuteher Werkbtlnd 1907年設立.芸術家,建築家,工芸家で組織し,芸術と工業,工芸と の相互協力によって,工業,工芸製品の向上を図り,更にこれを貿易,教育,宣伝紅結びつけ ようと活動した組織o Tatltほこれの有力会員であったo B.Tatlt 前掲書1935年4月23日付o Fiseher 1862-1938)。 フィッシェル(Theodor de Velde 1863-1926)。 ヴァソ・デ・ヴェルデ(Van Ernst O畠thaus 1874-1921). オスト-ウス(Karl ボッシュ(Robert Bosch 1861-1942). B. Tatlt 前掲書1935年4月23日付o 「小耳芸晶展覧会′くソフレット+丸善(1935)o B. Tatlt 前掲書1935年11 15月日付. 1927年から県立工業試験 群馬県工業試験卓資料「工芸部の沿革+.高崎分場は1921年設立. 1934年工芸部門を組 劇こ木工部が新設されたのを機に,群馬県下の木製品の指導を開始し, 織に加えたo B.Taut 前掲書1936年1月21日付o B. Taut 前掲書1936年2月5日付. p.盟0。 国井喜太郎腐彰会編「デザインの先覚者国井喜太邸+カタログ社(1969) 産業工芸試験場30年誌(1958) p. 290-291o 県令13号県工業試験場規定 県令14号県工芸所規定. 群馬県報 第1054号 B.Taut 前掲書1936年4月12日付およぴ5月5日付. 群馬県工業試験場資料。 高崎における近代工芸運動の考察(2) 105 p・ ll-12. 「エ芸ニュース+第4巻10号(1935) p・ 42J-43o 水原徳言「群馬とブルーノ・タウト+あさを社(1975) (1964) p. 29-30. 上野伊三郎「ブルーノ・タウト(2)+建築界第1笠巻7号 上野伊三郎 同書p. 300 B.Taut 前掲書1936年9月3日付. B. Taut 前掲書1936年8月1日付。 Poel五ig 1869-1936)0 -ソス・ベルツィヒ(Ⅱans B. Tatlt 前掲書1936年9月11日付. B. Tat1七 前掲書1936年10月15日付. 「小工芸品展覧会パンフレット+丸善(1936)。 「工芸ニュース+第6巻1号(1936)o 「デザイン+ (1962)。本稿では 上野伊三郎「高崎におけるブルーノ・タウトおよびミラテス+ 54-55に転載されたものからとったo 「群馬とブルーノ・タウりp. 35) 水原穂首 前掲書p. 43. p・ 463o 第3巻+菅生社弘道閣(19碑) 36) 篠田英雄訳「タウト全集 o 37) 群馬県工芸所経営方針座談会議事録(19碍) 38) 群馬県工業試験場「新聞切抜き資料+o 静) 岡資料1939年9月22日付朝日新聞o 4¢) 岡資料1939年10■月17日付都新聞。 41) 岡資料。 喝) 群馬県工業試験場資料「工芸所の沿革および経過+o 4き) 水原徳富「高崎の竹皮編とタウり民芸44号(1956).本稿では「群馬とブルーノ・タウト+ に転載されたものからとった。 44) 群馬県工業試験場資料「工芸所の沿革および経過+o 28) 24) 25) 26) 27) 28) 29) 80) 31) 32) 33) 34)