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内容の要旨
行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として(姜)
かん み ひょん
氏
名
姜 美 賢
学 位 の 種 類
博 士(芸術文化学)
学 位 記 番 号
甲博文第 10 号
学位授与の日付
平成 23 年 3 月 22 日
学位授与の要件
学位規則第 4 条第 1 項該当(課程博士)
学 位 論 文 題 目
行為としての写真
― モダニズム写真の枠を超える写真表現として
論文審査委員
主査 教授
豊 原 正 智
副査 教授
山 縣 煕
副査 教授
犬 伏 雅 一
内容の要旨
本論文は1960年代における現代美術の変貌と軌を一にして、モダニズム写真から転換した「現
代写真」の多様な表現の理解可能性を探るべく、
「行為としての写真」という表現形式に注目し、
それが、従来のモダニズム写真の方法では捉えることが困難であり、新たな理解の枠組みを提
示しようとするものである。
申請者は、その具体的論証のために、三人の「写真的行為」、すなわち、ソフィ・カル、クリス
チャン・ボルタンスキー、シェリー・レヴィンのそれを分析する。そこでは、フィリップ・デュ
ボワの「写真的行為」論を一つのテーゼとし、申請者は、1970 年代後半以来、現代を代表する批
評家たちの拠点となった『オクトーバー』誌におけるモダニズム批判、および伝統的な芸術に
おける「作品」
「制作者」
「美的技術」などに異議申し立てをし、
「概念(concept)」を重要なキー
ワードとしたコンセプチュアル・アートにおける「脱物質化」に、
「行為としての写真」の読解
の方法を見出そうとしたのである。
論文は、以下のような構成になっている。
序文
第 1 章 「行為としての写真」−ソフィ・カルの作品から
第 2 章 「行為としての写真」−クリスチャン・ボルタンスキーの「写真の再構成」
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行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として(姜)
第3章 「行為としての写真」−シェリー・レヴィンの「リ・フォトグラフィ(Rephotography)
第 4 章 脱物質化と「行為としての写真」
結語
註
参考文献
図版
序文では、現代美術における多様な写真表現において共通なものとして、モダニズム写真と
は異なる写真表現のあり方があるが、その読解にはもはやモダニズム写真の見方では限界があ
るのではないかという申請者の問題意識が述べられる。そして、多様な現代写真のなかで、従来
のモダニズム写真からすれば極めて異質なのが、
「行為」を写真表現の中核とするカル、ボルタ
ンスキー、レヴィンの「行為としての写真」であり、彼らの「行為」を分析することによって、
「現
代写真」の理解の枠組みを提示あるいは基準の構築をしたいというのが本論文の目的である。
第 1 章では、カルの作品が分析される。ここでは彼女の作品に見られる自伝的内容、儀式的
なルールに従った行為、
「不在」をその行為によって浮かび上がらせようとするというカルの
一貫したテーマが、具体的な彼女の作品の分析とデュボワの「写真的行為」論の援用によって
明らかにされる。すなわち、彼が例示するマイケル・スノウの作品、
『オーソライゼイション
(Authorization)』に典型的に示されているように、そこにはスノウ自身が映り込んだ写真的行
為のプロセスを見ていくことで作品が成立するという、モダニズム写真の在り方からの断絶が
存在することが指摘される。
第 2 章では、ボルタンスキーの「行為」は、写真を「撮る」のではなく、既存の写真を活用し、
再構成することであるとする。テキストと借用されたアマチュア写真からなる再構成によって、
彼は写真の信憑性、客観性を暴き、それらを前提とする鑑賞者の意識を混乱させようとする。
ここでの写真は、虚構の再構成という行為のための手段であり、それは批評行為としての「写
真的行為」であるという。
第 3 章では、作者が明らかにされた写真の再撮影(リ・フォトグラフィ)によって自らの作品
とするレヴィンの「写真的行為」が分析される。このようなレヴィンの行為には痛烈なモダニ
ズム写真の批判がその背景に存在する。その論証に、モダニズム美学をその内部から批判でき
るメディアとして写真を捉えるロザリンド・クラウスやサンドラ・アーヴィング等の『オクトー
バー』の論文が援用される。そこでは、モダニズム美学を支えていた「作者」
「独創性」
「唯一性」
等に疑問が投げ掛けられ、その批判的手段としての写真の意義が主張されるが、それは正にレ
ヴィンの写真的行為に根拠を与えるとする。彼女の写真は撮影された内容には意味がない。彼
女が作品とするのは「オリジナリティ」や「作者」を問う再撮影の「行為」である。
第 4 章では、
「行為としての写真」の登場の背景が論じられる。申請者は、モダニズム写真か
ら現代写真への転換に、1960 年代以降のコンセプチュアル・アートの展開が大きく影響してい
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行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として(姜)
るという。この、マルセル・デュシャンにそのルーツが求められるコンセプチュアル・アート
のテーゼを「観念あるいは概念が作品の最も重要な側面だ」というソル・ルウィットに求め、
申請者は、そこにある芸術作品の「脱物質化」という思想が、写真的行為の結果としてあるい
はそのプロセスとしての「行為としての写真」の背景をなし、
「写真を概念的に利用」
(キャロッ
ト・コットン)するカルや、ボルタルスキー、レヴィンの「行為」を通底するものと考える。
以上の議論を通して、申請者は、結語において、以下のようにまとめる。すなわち、1960 年代
以降の現代美術の潮流のなかで、これまで芸術的地位を確保していたストレイト・フォトグラ
フィに代表されるモダニズム写真が、その「写真」という概念の変貌と共に、その地位が揺らぎ、
代わって、
「再現性」
「信憑性」
「オリジナリティ」という従来の写真芸術を支えていた観念とは
無関係に、多様な「現代写真」が登場する。その読解の枠組みの一つを、
「行為としての写真」
の方法と表現形式に見出し、現代における新たな写真表現の可能性を把握する一つの基準とす
ることができよう、というものである。
審査結果の報告
申請者は、すでに修士論文において、ソフィ・カルの写真論を提出しており、そこから生ま
れた問題意識が、モダニズム写真の後に続く多様な現代写真の動向、およびそれらの作品の解
釈をどのように行ったらいいかということであった。その一つの困難さが、やはり戦後美術の
動向、特に 1960 年代以降のめまぐるしい展開である。それはもはや、戦前の「・・・イズム」の
ように主義主張を明確にはできない「・・・アート」として括る他ない状況である。そこから「芸
術」
「芸術家」
「作品」
「独創性」
「唯一性」等の、これまで近代芸術を支えていた様々な概念の有
効性に疑問が提出される。写真もまたそのような現代美術の動向の波から逃れることはできな
かった。従来のような「写真」というジャンルは曖昧になり、現代美術との関係を深めて行く。
特に、コンセプチュアル・アーティストにとって、写真は、彼らの理念の実現に格好の手段と
なる。彼らはそれによって、芸術作品の「物質性」、写真の「再現性」を否定し、写真を情報伝達
の手段とした。
このような状況における写真の読解に何らかの枠組みを与えられないかという申請者の意識
は、カルと同様に、
「写真的行為」の結果としての写真表現を行うクリスチャン・ボルタンスキー
とシェリー・レヴィンを見出すことになった。カルを含めた彼らに「行為としての写真」という
概念によって、現代写真の読解の一つの枠組みが提示できないかという問題設定は、この論文
の独創的な点であり、評価されよう。山縣副査も「『行為としての写真』という 70 年代以降に登
場する新しい写真の立場に限定した論文としてまとまっている」と評価する。また、犬伏副査は、
「フィリップ・デュボアの『写真的行為』における写真行為にかかわるテーゼを一つの指標とし
て、1960年代におけるモダニズム写真から転換した『現代写真』の理解可能性を開き、その理解
の枠組みを呈示している」と評価する。同副査は、さらに、本論文が「修士論文以来、デュボア
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行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として(姜)
の『写真的行為』に注目して議論を深化させてきたことは評価すべきである」という。
申請者は、カル、ボルタルスキー、レヴィンの作品分析を通して、具体的に先の枠組みの呈
示の可能性を探るが、そこでは、カルのように作品それ自体で読解が可能な構造にはなってお
らず、彼女の行為の軌跡を辿ること、写真に付されたテキストとの関係によってしか理解の可
能性は開かれないのであり、作品それ自体で完結した自立したモダニズム写真における読解が
無効なことが主張される。それは、デュボワのスノウの作品に対する「写真家と観客を状況に
引き入れる装置」であるという指摘によって補強される。また、ボルタンスキー、レヴィンの
場合も同様に、自立的解釈の不可能性が主張され、批評行為としての装置として、新たな基準
を呈示しようとする申請者の論述は評価されなければならない。この点について、犬伏副査は
次のように指摘する、
「それぞれの作家の分析を通して、それぞれの作家の作品の生成につい
て詳細な分析が展開され、加えて、ボルタンスキーの分析では、批評装置としての写真、といっ
た新たな徴表も析出されている。こうした新しい徴表の提起なども含めて、ここでの分析は、
自立的読解を超えて読解を求める存在を十分に説得し得ていると思われる」。
申請者は、さらに「行為としての写真」の分析から引き出そうとする枠組みの呈示のために
その背景を探るべく、
『オクトーバー』の理念に言及する。周知のように『オクトーバー』は、
アネット・マイケルソン、ロザリンド・クラウス、ダグラス・クリンプ等によって、1976 年に創
刊されるが、それまでの芸術論・芸術批評が、70 年代以降「ポストモダンの時代」
「メディア時
代」に入り、対応できなくなり、そのような時代の現代アートの新しい理論・批評の試みとし
て登場する。彼らの理念は、
「純粋」
「高級」
「オリジナリティ」
「唯一性」
「主観性」等、モダニズ
ム美学の基準に異議申し立てをする。申請者がレヴィンの「リ・フォトグラフィ」の「行為」の
背景に援用するのは、
「(写真は)原作と複製品、最初のアイディアとその模倣の区別の可能性
を解体する」
(クラウス)という主張であり、エドワード・ウェストンの『ニール』
(1925)のオ
リジナリティを否定し、レヴィンのその「リ・フォトグラフィ」のオリジナリティを相対化す
るクリンプの主張である。そこから、申請者は、レヴィンの「リ・フォトグラフィ」を「原作と
原作がもつオリジナリティという概念に異議を提起し、モダニズムの虚構を暴き出す」写真的
行為であるとするが、説得力のある主張であろう。
申請者が分析するもう一つの背景は、コンセプチュアル・アートの「脱物質化」である。申請
者は、先の「内容の要旨」でも示したように、それに続いて「作品の外観は重要ではなく、アイ
ディアの表現は数字、写真、単語、またはどのような方法であれアーティストが選択するもの
はすべて可能である」というルウィットを引用し、コンセプチュアル・アートが、従来の作品
におけるように、
「物質性」を作品成立の不可避的契機としないことに注目する。その「脱物質
化」はモダニズム写真批判としての「行為としての写真」と容易に結びつく。すなわちそれは
申請者によって、
「行為」という非実体的なものが彼らの作品の中核をなすこと、アーティスト
の思想や観念を伝える媒体としての写真として、
「批評装置」としての写真として捉えられる
のである。犬伏副査はそのことについて、
「作品概念を『もの』に限定しないという意味におい
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行為としての写真 ― モダニズム写真の枠を超える写真表現として(姜)
て『脱物質化』を用いて、作品概念の拡大を図る議論は説得力があり」、
「脱物質化」を梃子にし
て、
「現代写真のかなりの部分について、一つの読解の道筋を開く試みは一定程度成功している」
と評価する。
最後に、
「行為としての写真」が「写真を用いるアーティストの行為に作品を制作する目的や
意味」があり、それは、
「一枚の写真に写されている完結した構成の美」や「写真が何かの再現
であること」とは無関係であり、従って、鑑賞者は、受動的に作品を受け入れるのではなく、
「作
品を媒介としてアーティストとのコミュニケーションをとることで」作品の読解の可能性が開
かれると結論付ける。そのような「行為としての写真」の解釈とその方法およびそこにある思
想は、70 年代以降の現代美術と連動した多様な「現代写真」の読解の一つの枠組みを呈示して
いると評価したい。
これまで評価の面を述べてきたが、一方で、いくつか問題点も指摘される。すなわち、芸術
における「脱物質化」については非常に難しい要素をはらんでおり、山縣副査が指摘するよう
に、現代写真およびここでの「行為としての写真」において、
「単純には『物質化』を否定でき
ないのではないか、作品の内容をそれぞれの立場から議論し、更なる掘り下げが必要である」。
主査もまた同様の指摘をしておきたい。また、犬伏副査も、やや「脱物質化」という述語の使用
に曖昧なところがあり、
「作品生成におけるコンセプトの重視はもちろんであるにしても、そ
れを何らかの形で物質化することに十分思索が届いていない」と指摘する。
山縣副査の「モダニズム写真の代表としてのカルティエ=ブレッソンとレヴィンにおける写
真の『完結性』についてもう少し議論を尽くしてほしい」ということに関連して、犬伏副査も、
「モダニズム写真と行為的写真の二項対立にすべて還元されてしまうような論調が感じられる
ところもあり、一層精密な『現代写真』についての議論があればよかった」という。
以上が、申請者が以後研究者として克服しなければならない課題が残されたが、現代美術と
同様、多様で複雑な展開をしつつある「現代写真」にあって、その理解の枠組みを、
「行為とし
ての写真」として設定し、具体的に呈示しようとした試みは評価したいというのが、審査委員
の一致したところであり、よって、本論文を課程博士(芸術文化学)の学位申請論文に十分値
するものと認定する。
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