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Title いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか Author(s) 三谷

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Title いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか Author(s) 三谷
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いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
三谷, 尚澄
京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus (2005), No.8:
136-159
2005-12-10
http://hdl.handle.net/2433/24238
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
いつ、だれが、なぜ
<死ななければならない>のか
三谷 尚澄
はじめに
平成 13 年 10 月 26 日、東京都の行政情報や議会の動向を中心に報道する『都政新報』
という新聞紙上に、
「第三回少子社会と東京の未来の福祉会議」における石原都知事の発
言が掲載された。
「石原知事、福祉の会議で 大脱線 」と題されたその記事のなかで、
松井孝典東京大学大学院教授と石原都知事とのあいだで交わされた次のような対話が紹
介されている。
石原知事:福祉に戻ろう。福祉は年寄りの面倒だらけなんて言っていないで。この間すごい話
をしたんだ、松井さんが。もう私はひざをたたいて「そのとおりだ」と言ったけれども、女性がい
るから言えないけれども、すごいことを言った。詳しくは皆さんテレビ見てください。あなたその
うち女性人権の連中に殺されるかもしれない。それは本質的に余剰なものが、つまり存在の使
命を失ったものが生命体、しかも人間であるということだけでいろんな消費を許され、収奪を許
される。つまり特に先進国にあり得るわけです。………やめようか、これ。
松井孝典委員:福祉と全く逆になっちやうから。
石原知事:本当にだけど、あれが実は地球の文明なるものの基本的な矛盾というものを表象し
ている事例ですな。
松井委員:高齢化というのはそういう社会、まさに1。
「女性人権の連中に」云々という言い回しからも想像がつくとおり、また、別の場所
における石原氏の発言からも確認されるとおり、
「本質的に余剰なもの」
、
「存在の使命を
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いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
失ったもの」として石原氏が言及する「詳しくはいえないもの」とは、
「生殖能力を失っ
た女性」のことを意味するのだそうである2。石原氏の言い分を文字通りに受け取るのな
ら、これはあまりにも安直な女性蔑視発言であるとしか言いようがないであろう。この
種のブラックユーモアなり悪質な挑発に対しては、<石原慎太郎>特有の悪癖としてこ
れを一笑に付すか、あるいは――ある女性人権団体にならって3――都知事の見識を公式
に糾すなり、司法に訴えたうえで正式な謝罪を要求する、という以外に対応のしようも
ないように思われる。
しかし、ここで、われわれには一つの疑念が生じる。あからさまな女性差別のバイア
スは別として、石原氏の発言の中には、真剣に考慮するに値するある問題が含まれては
いないだろうか、という点がそれである。
「存在の使命を失ったもの」が、
「ただ人間で
あるという理由だけで・・・収奪を許され」ることで、
「惑星をあっというまに消滅させ
てしまう4」という言い分のなかには、
「挑発好きの政治家が発した軽率な暴言」の一言
で片付けてしまうことのできない、
ある深刻な論点が含まれているのではないだろうか。
誤解を恐れず、端的に言いきってしまうなら、
「地球の文明なるものの基本的な矛盾」と
いう石原氏の発言には、
「使命を終えた余剰な高齢者は、惑星を消滅させないために、す
みやかに舞台から姿を消さなければならない」
という非常に不愉快で――正直なところ、
積極的に論じることすらはばかられる――無責任な主張に直結する側面が含まれている
のだが、われわれはこの問題について、一度立ち止まった上であえて考え直してみる必
要があるのではないか。このような疑念を呼び起こす可能性が、石原氏の発言には含ま
れているように思われるのである。
これを言い換えるなら、
「福祉と全く逆」の方向にいってしまう「高齢化社会」の問題、
という松井氏の発言から推測されるとおり、一連の対話の内容には、その中に含まれる
「女性差別」としてのバイアスを抜き去ったとき、
「高齢者差別」一般に通じる論理構造
が含まれているのではないか、ということになる。あるいは、1932 年生まれの石原慎太
郎氏が念頭におくことはなかったであろうが、
「余剰なもの」
「存在の使命を終えたもの」
、
という彼自身の言葉遣いには、70 代の中盤から後半に差し掛かりつつある都知事本人に
対してもそのまま投げ返されざるをえない、
「老人一般」を対象としたあまりにも皮肉な
主張内容が含みこまれている、ということになる5。
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生命倫理学における「死ぬ義務」の思想とその現状
さて、石原発言にこれ以上深入りすることはせず、話を一歩さきへと進めることにし
よう。
「使命を果たした老人は、周囲の迷惑とならないうちに、すみやかにその命を終え
なければならない」という主張は、ここ数年来、生命倫理学上のアジェンダに姿を現し
始めるにいたっている「死ぬ義務」という思想を、端的に――あまりにも無遠慮に――
表現したものにほかならない。ここで、倫理学者たちのいう「死ぬ義務」とは何か、そ
のイメージなり全体像を明確にしておくためにも、ある医療関係者の発表した文章を一
読してみることにしよう。
超高齢化と少子化 ―― 死ぬ義務 とは
菅谷 昭(長野県衛生部長)
「今日の話の中で、 あのくだり は正直言ってガクッときたよ。でも改めて考えてみる必要が
あるかもしれんなぁ」
昨年の夏、東京で開催された関東方面在住の高等学校同窓生の集まる会で、「医療行政と
高齢社会」にまつわる講演を行なった時のことである。当日は 60 歳代なかばから 70 歳代を中
心とした数多くの先輩・同輩諸氏が顔を見せてくださった。私の話が終わった後の懇親会の席
上で、何人かの友人らが杯を重ねるうちに冒頭のような言葉を異口同音に発し、私のほうがび
っくりするくらい、その場の雰囲気が異様に盛り上がってしまったのである。
あのくだり とは、「われわれは日頃死ぬ権利を有していると主張していますが、他方で 死
ぬ義務 もあるのかもしれません」という、耳慣れない、ある意味では聴衆に恐怖感や不快感を
抱かせるようなフレーズであった。今年還暦を迎えた私の同級生たちがショックを覚えたので
あるから、先輩の方々はさぞかし複雑な思いで会場を後にされたのではと、いささか反省もし
ている。(中略)
「死ぬ権利」とか「死ぬ義務」などといった、あたかも 生きる ことを否定するかのごとき耳障り
な言葉を用いたのは、 人生,質か量か を個々の生き様の中で、身近な問題として改めて真
剣に問い直す時が到来しているのではないかと考えたからである。(中略) 最近の新聞報道
によれば、2002 年の日本人の平均寿命は、女性が 85.23 歳、男性が 78.32 歳で、男女とも過
去最高を更新したことが、厚生労働省の公表資料で明らかとなった。女性は 1985 年以降、ず
っと世界第 1 位を続け、男性も第 2 位である。(中略)
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いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
しかし一方、このような状況を手放しで喜べない現実が大きく立ちはだかっているのも事実
だ。(中略) 「超高齢化」にともない、当然のことながら今後各種疾病の増加により医療費は増
高し、さらに介護や福祉等にかかる費用もますますかさむのは明白である。それではこの莫大
な費用負担を一体誰が責任を持って負うのであろうか。果たして「少子化」世代にそのすべて
を負わせてよいのであろうか……。
そんなことを思い巡らすと、あの「死ぬ義務」なる言葉がちらついてしまう昨今である。われわ
れは改めて 生きている ことの意味を自らに問い直すべきではないだろうか6。
少しばかり長い引用ではあるが、その分、
「死ぬ義務」という発想の特質なり問題性が
相当程度明瞭に伝わるドキュメントになっているのではないかと思う。引用ついで、と
いうわけではないが、
「死ぬ義務」を論じたことで有名なアメリカの生命倫理学者、ジョ
ン・ハードウィッグによる、菅谷氏とほぼ同様の論点を表した次のような言葉をみてお
こう。
医学がさらに進歩し、現在の「致死的病気」の多く−−ガン、心臓発作、卒中、ALS、AIDSや
その他−−が完全に治療可能なようになれば、ほとんどの人間が、痴呆ないしは衰弱状態に
なるまで生きながらえるようになる日がやってくるだろう。このような医学の進展の結果、広範囲
に渡って死への義務が発生する、というのはありうることなのではないか。死ぬ義務が非常に
ありふれたものとなること、このことこそが、延命医療やわれわれのその利用の仕方がもたらす
ダークサイドに他ならなかったのだ、ということになるのかもしれない7。
ここで、さしあたって銘記しておくべきは、ハードウィッグの提唱する「死への義務」
という概念には、安楽死や幇助自殺等、延命治療の進展に伴って浮上してきた「死の権
利」の思想とは異質な発想が含まれている、という点である。
「義務」という言葉遣いが
示す通り、
「死にたくない」にもかかわらず「死ななければならない」場面がわれわれの
人生には訪れる可能性がある、ということを、ハードウィッグの主張は含意している8。
そしてこれは、
「耐え難い身体的苦痛」も、
「終末期の病」が実際に存在していることも、
患者が「死」を選択することの基準としては設定されていない、ということを意味して
いる。ただ「人生の終わりが近づきつつある」という「予見」の存在がそれだけで、
「死
ぬ義務」を生じさせるには十分なのだ、とされるのである。
139
この点に関して、ハードウィッグは次のように述べる。人生のエンドステージにおい
て、
「終末期の病気」が存在しないほうが悪い、とさえ考えることが可能ではないだろう
か。というのも、終末期の病気が存在しない場合、文字通り無味乾燥な生活が「終わり
の見えない」状態のまま継続されることになるからである。進行性の認知症を抱えた人
びとは、その他の身体的条件が健康に保たれているのであれば、健康であるその分だけ
「痴呆」症状の到来を絶望的な気分で待ち続けることになるのではないだろうか。愛す
るものすべてに先立たれ、人生に目的を見出すこともできず、自分は十分生きた、と実
感している人びとであれば、末期の病にかかったことを知って喜ぶ場合すらあるのでは
ないか。
このような事情を考え合わせるとき、
周囲の負担となる前にみずから死を選ぶ、
という「正しい選択」のあり方は、
「一つの道徳的知恵」としてさえ性格づけることが可
能である。ハードウィッグは、このような主張を行っているのである9。
これは、明らかに、論議を巻き起こさずにはおかない主張である。道徳的憤慨を引き
おこす、挑発的な主張とさえいえるかもしれない。
「快復の見込みがない老人は、死んだ
ほうがまし(would be better off)なのだからはやく死になさい」という発言は、どうひいき
目にみても、道徳的に不快な言動としか受け取りようがないであろう。死を積極的に論
じることが許されるとしても、それはせいぜい終末期医療の現場における「死ぬ権利」
を論じる場合に限られるべきである。すなわち、耐え難い身体的苦痛からの解放を求め
ての安楽死や、人間らしい死に様を求めての尊厳死といった範囲に限定されるべきであ
る。
「死ぬ権利」を飛び越えて、終末期の病を抱えた老人患者には周囲に負担をかけない
ために「死ぬ義務」を負う責任がある、などとは言語道断の発想であり、不謹慎なこと
この上ない。
「死ぬ義務」という一言を耳にするとき、われわれの脳裏に浮かぶのはこの
ような印象であるかもしれない。実際、
「死ぬ義務」の正当化、などという話題は、大多
数の識者たちの感情的反発を招きよせることが容易に予想されるテーマであり、そのよ
うな「火中のクリ」などわざわざ拾ってみようとは思わない。これが大方の反応という
ことになるだろう。
「死ぬ義務」というテーマに対するこのような反応は、ここ十年ほどの間に発表され
てきた生命倫理学関連の文献リストを参照しても、
「安楽死」や「医師幇助自殺」等の「死
ぬ権利」を主題とした論文に比して「死ぬ義務」が論じられることは圧倒的に少ない、
という事実からもうかがい知ることができる。また、
「死ぬ義務」という言葉にまとわり
つく残酷で非人間的な響き、
「死」のような不吉な話題を論じることは差し控えようとす
140
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
る文化的要因、そして、わが国においては、国民皆保険制度の存在により、介護に回る
患者サイドの人間が高齢者医療の負担を(アメリカ合衆国等にくらべると)比較的意識
しないですんでいる、などの事情を、その他の背景的理由として挙げることができるか
もしれない10。
高齢者医療費をめぐる現状と「死ぬ義務」の現実性
しかし、さきに引用した菅谷氏のエッセイが指摘する「超高齢化」と「少子化」の同
時進行、という深刻な社会的・財政的事情を考えるとき、
「死ぬ義務」がある意味で論じ
ることの不可避な緊急の課題として意識されざるをえないことも事実である。参考まで
に、2005 年 8 月 23 日付厚生労働省発表の資料によれば、2003 年度におけるわが国の医
療費の現状は次のようになっている。
1.国民医療費の状況
平成 15 年度の国民医療費は 31 兆 5375 億円、前年度の 30 兆 9507 億円に比べ 5868 億円、
1.9%の増加となっている。国民一人当たりの医療費は 24 万 7100 円、前年度の 24 万 2900 円
に比べ 1.8%増加している。国民医療費の国民所得に対する割合は 8.55%(前年度
8.55%)となっている。(中略)
5.年齢階級別国民医療費
年齢階級別にみると、0∼14 歳は 2 兆 316 億円 (6.4%) 、15∼44 歳は 4 兆 8602 億円
(15.4%)、45∼64 歳は 8 兆 7633 億円 (27.8%)、65 歳以上は 15 兆 8823 億円(50.4%)となっ
ている。・・・国民一人当たりの医療費をみると、65 歳未満は 15 万 1500 円、65 歳以上は 65 万
3300 円となっている。一般診療医療費の国民一人当たり医療費をみると 65 歳未満は 11 万
1400 円、65 歳以上は 51 万 7500 円となっている11。
また、同じく厚生労働省の試算によれば、平成 15 年度における 31 兆円強の国民総医
療費は、ほぼ 20 年先の 2025 年度には総額 69 兆円にまで跳ね上がり、そのうち老人医療
費は 34 兆円を占めることになるだろう、と予測されている。しかし、厚生労働省発表の
こういった一連の数字をみただけで、これが「多数の高齢者の(半強制的な)死」とい
う非人間的な発想を支持するだけの論拠たり得ているといえるかどうか。あるいは、こ
141
のような数字上の変化が、
実際の医療の現場にどのような影響を及ぼすのか、
その結果、
医療を支える「少子化」世代の生活にどのような負担を加えることになるのか。このよ
うな問いかけに対して、実感の伴った具体像を思い描くことは少々難しい、というのが
現在のところの私の正直な感想である。そして、このような感想を抱くその限りにおい
て、
「死ぬ義務」というようなショッキングな話題を論じることは、ことさらに奇を衒っ
た悪趣味な問題設定とまでは言わないものの、正面から論じるべき議題として取り上げ
るにはいまだ時期尚早ではないのか、というのが私の率直な個人的感想でもある。
しかし、そのような私の(楽観的で、おそらくは「世間知らず」に由来する)個人的感
想とは裏腹に、高齢者のヘルスケアに関わる「経済的事実」には、それだけで「死ぬ義
務」を社会的討議の論題として浮上させるだけの緊急性がある、と主張するほうが、む
しろ近年の「高齢者ケア」をめぐる議論の主流に即した考え方、ということになるよう
である。では、実際のところ、
「財政的事情」を論拠とした「死ぬ義務」の主張にはどの
程度のリアリティが認められるのか。この問題に対する見通しがきくようにしておくた
めにも、この線に即して行なわれてきた主要な議論のいくつかに目を通しておくことに
しよう。
「財政的・経済的事情」に基づいて「死ぬ義務」を論じるさいに、かならずといって
いいほど言及されるのがコロラド州知事、
リチャード・ラムによる 1984 年の発言である。
ラムによれば、限られた医療資源の限界内では、これからさきも増加を続ける一方のコ
ストを支え続けることはいずれ不可能になる。何らかの形で、資源の割り当て(ないし
は「配給」
)のあり方に制限が設けられなければ社会全体が破綻してしまう。このような
「救命ボート12」の思想に基づくとき、
「木の葉が木から落ちては腐葉土となり、他の植
物が成長する手助けをするように」
、終末期の病を患っている高齢者には「死ぬ義務があ
り、後に続くものたちに道を明け渡す義務がある」
。すなわち、
「自分の子どもたちが、
無理をせずとも暮らしていけるようにしてあげる義務がある」
。これが、1984 年当時に
ラムが行なった発言の要旨であったとされる13。
また、別の箇所において、ラムは次のようにも述べている。平均的なアメリカの女性
にとって、子どもの養育に費やされる時間の長さよりも、年老いた両親のケアに費やさ
れる年月のほうが長くなる、
ということが予想されている。
平均的なアメリカの家庭は、
最悪の場合、両親のケアにかかる支出を引き受けることで、マイホームの購入資金では
なく、自分たちの後半生におけるヘルスケアの資金を犠牲にしているのである。ヘルス
142
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
ケアのコストは、アメリカにおける個人破産の最大の要因の一つとさえなるにいたって
いる、云々14。
このようなラムの発言を見ると、ただ苦笑いしてやり過ごすだけでは片付かない、非
常に深刻なメッセージが「死ぬ義務」の一言にはこめられている、と言わざるをえなく
なるようである。実際、
「死ぬ義務」の一言を生命倫理学上の問題として取り上げた「先
駆的業績15」と評されるマーガレット・バッティンの論文には、ラムの問題提起を受け
た上での次のような言葉がみられる。
ヘルスケアに関わる経済的、人的資源の限界に直面して、人はこう問わざるをえない。資源
不足が原因で、社会に暮らす全ての人びとに、必要とされる全てのケアを提供することができ
ないのなら、年齢や病状などの条件によって、ケアの割り当てを減らされるか受けとられなくな
る人が生じなければならないのではないか、と16。
医療資源の配分が限界に差しかかりつつある以上、
「社会の負担とならないために、高
齢者たちには死ぬ義務がある」
。これが、ラムなりバッティンによる発想の根幹をなすテ
ーゼである。そして、ラムやバッティンなど専門家の判断によれば、ヘルスケアにかか
るコストの負担は、州・国家レベルでの財政を破綻の危機に追いやり、個人レベルでの
ライフプランの大幅な変更や破産の原因としてすら位置づけられることになるという。
繰り返しになるが、こういった一連のデータをみると「死ぬ義務」の発想がある程度の
リアリティとともにわれわれに迫ってくる、という印象はいかにしても否めない、と言
わざるをえなくなるのではないか。
しかし、もちろんのことであるが、
「切迫した問題である」という事実がそれだけで「死
ぬ義務」の倫理的正当性を保障するわけではない。
「死ぬ義務」が、
「生命の尊厳」とい
った根源的価値を犯してまで実行されるべき規範的要求である、とされるのなら、その
正当性の保障はどのようなかたちで与えられることになるのか。仮に、終末期の病を患
った高齢者には「死ぬ義務」があるとして、人はいつから「高齢者」のカテゴリーに入
ることになるのか。いや、そもそもなぜ「高齢者」だけが死ぬ義務を負わなければなら
ないのか17。また、
「死ぬ義務」の該当者たちは、どのような方法でみずからの命を絶た
なければならないのか。
「義務」という言葉遣いが示すとおり、患者自身は心のどこかで
生き続けることを願っているのだから、医師による「安楽死」の実行は半強制的殺人を
143
意味するのではないか。それならば、文字通り患者は「自殺」の実行を強要されること
になるのか。
・・・直感的レベルを飛び越えて、ほんの少し想像力をはたらかせただけで
も、
「死ぬ義務」をめぐっては非常に雑多で複雑な問題が飛び交うであろうことが予想さ
れるのである。
それに加えて、
「死ぬ義務」の倫理学的検討とは、乱暴な言い方をしてしまえば、
「老
いぼれた死にかけの患者は死んだほうがましだ」という一方的な主張の是非をめぐって
争われる議論のことを言うに他ならない。直感的に言って、この種のショッキングな話
題を冷静に最後まで論じきることは非常に困難な作業になるだろう(というのが少なく
とも個人的な感想である)
。ともすれば、感情的で、エスカレートした短絡的な議論の応
酬や暴力的押し問答の繰り返しだけが後に残った、
という無益な結果にも終りかねない。
そこで、このような危険性をあらかじめ回避するためにも、現時点においては、
「死ぬ義
務」に対する賛成・反対を各論のレベルにまで踏み込んで分析する、という野心的な試
みはさしあたり放棄して、この問題をめぐってどのような議論が提示されているのかを
鳥瞰的に整理して示す、というより謙虚な問題に考察を集中する、という方策を採った
ほうが賢明であるように思われる。そこで、以下においては――「死ぬ義務」に対する
賛成・反対の直接的な態度表明は棚上げにして――「死ぬ義務」という深刻な問題にま
つわる概念上の交通整理を行う、という作業に専念することにしたい。
正義の原理に適った「年齢別配給」の思想:ダニエル・キャラハン、ノーマ
ン・ダニエルズ、マーガレット・バッティン
すべての人間、すべての病状に対するヘルスケアを提供するには資源が不足する、と
いうのなら、
資源の配分に関するなんらかの制限が実行されなければならない。
すると、
マーケットにヘルスケアの配分を任せるのではなく、合理的に擁護可能な配給政策が確
立されなければならないことになるが、この政策は「年齢に応じた配給」を正当化する
だろう。すなわち、
「老齢者が、第一に医療ケアから除外されなければならない」という
結論の正当性が保障されることになるだろう。ラムのいう「救命ボート」の思想を倫理
的に正当化することが可能であるとして、第一に採用される青写真はこのようなかたち
をとることになるだろう。
しかし、限られたヘルスケア資源の配分、という問題を考えるときに、
「年齢に応じた
144
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
配給」の思想、すなわち、
「高齢者が医療ケアから除外される最初の対象となるべきであ
る」という主張は、どのようにして道徳的に正当化されるのだろうか。この問題に対す
る典型的な回答として、以下、ダニエル・キャラハン、ノーマン・ダニエルズ、マーガ
レット・バッティンという、比較的名前の知られた生命倫理学者たちの議論を簡潔に紹
介しておくことにしよう18。
■ダニエル・キャラハン
まず、
「老いの近代化」という言葉で知られるキャラハンの議論はこうである。かつて
は、自分の家で生まれ、自分の家で死を迎える、というのが人間の生と死をめぐる極め
て一般的なあり方であった。しかし、急速な医学の進展とともに、高齢者の大半はその
最期のときを病院の一室で、最新の医療器具を取り付けられたままで迎えることが常態
化してしまっている。
「老いとともに訪れる死のとき」という発想が、いわば非日常化し
てしまっているのであり、人間はみずからの「老い」という自然な現象をありのままに
受け入れることができなくなってしまっている。このような現状に鑑みるとき、現代の
高度技術社会に生きる人間たちは、
「老齢」ということの意味を、さらにはそれにとどま
らず、健康、病気、死といった概念をめぐるすべての想定を、一から検討し直してみる
べき時期にさしかかっているのではないか。そして、このことの実行は、一般に、老齢
に限らず医学の「進歩」を絶え間なく追い求める姿勢を放棄するべきである、という結
論を導くのではないか。すべての病気は克服可能だし、人生は無際限に引き伸ばすこと
ができる、という想定を見直すべきときがきている。この結論は、無際限な延命のため
に高額なヘルスケア資源への権利を主張することを、高齢者たちはみずからの判断のも
とに控えるべきである、というメッセージを含意するものである19。
以上のようなキャラハンの議論は、先述のハードウィッグのように「死ぬ義務」を明
示的に支持するわけではないし、むしろ、不自然で作為的な人生の終末に対しては強力
な反対を表明するのがキャラハンのスタンスですらある。しかし、死や生をめぐる文化
のあり方を再考することは「早められた死」の結論を導くことがある、という主張を、
キャラハンはためらいなく受け入れもする。これは、われわれは自然な死の訪れをため
らいなく受け入れるのでなければならない、すなわち、われわれには不自然なかたちで
死を先延ばしにする高価なヘルスケア資源への権利主張をさしひかえる義務がある、と
主張しているに等しい。だとすれば、いわば「受動的な死ぬ義務」の思想を、
「自然現象
145
としての老い」をめぐるキャラハンの規範的主張のなかに読み取ったとしても、それが
あながち強引で無理矢理な解釈にすぎない、と否定的に評価されるいわれはないことに
なるであろう。
■ノーマン・ダニエルズ
次に、
「社会的正義」の観点から、ヘルスケア資源の「年齢別配給(Age Rationing)」と
いう思想を積極的に肯定しようとするノーマン・ダニエルズの議論をみてみることにし
よう20。
ダニエルズによれば、たいていの配分的正義をめぐる分析は、高齢者のグループを幼
児、青少年、中年などのさまざまな年齢グループの一つと想定するが、これが誤解の源
となっている。つまり、
「グループ間の平等な競争」という前提のもとで各グループ間の
「配分の正義」が考えられているが、これがまちがいのもとなのである。そうではなく、
高齢者とは、
「同一の人格がその人生の後半のステージに立っているもの」とみなされな
ければならない。そして、
「高齢者」のステータスをめぐるこのような概念的シフトを行
なった上で、ロールズ的「無知のヴェール」の後ろ側における思考実験が改めてやり直
されなければいけない。
装いを新たにした無知のヴェールは、自分の病歴や体質、健康に関わる遺伝的特性、
自分の暮らす社会の医療状況など、医療資源の公正な配分に対するバイアスをみえなく
させるものである。すると、このヴェールの向こう側で、
「思慮深い貯蓄家 (prudential
savers)」――合理的で、人生全体をスパンとした自己利益の最大化を目指す人間――は
次のように考えることになるであろう。
第一に考慮すべきは、限られた医療資源は、老齢になってからよりも、より若いうち
に使用されたほうがより大きな効果を発揮する、という事実である。すなわち、老齢者
に対して医療機器が利用されるよりも、若年者に対して利用されたほうが、人間らしい
機能をより長く維持する結果につながる、という事実である。これは、年老いてから受
け取るケアの量が減少すればするほど、より多くが若い年齢へと割り当てられ、その結
果、その人自身の人生には、全体的にみて、より大きな利益が見込まれることになる、
ということを意味している。
この主張に対して、
「若者のために老人の命を犠牲にするのか」と反論する人は、老齢
者がその年齢にまで生き延びる可能性を高めてくれた政策から、当の老齢者自身がすで
146
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
に利益を受け取ってしまっている、という重要な論点を見逃している。あるいは、この
政策はその老齢者自身の人生全体における利益を最大化するものである――たんに老齢
まで生きるのみならず、慢性的な病気を抱えることなく人生の終盤を迎えるチャンスを
最大化するものでもある――という点を見逃してしまっている。
ここから、合理的に自己利益の最大化を目指す人間はこう考えることになる。全体量
の決まった医療ケアの支出計画をたてるなら、自分が若いころに生じる問題のケアや治
療により多くの資源を割りあてて、平均的な寿命にまで自分が生き延びる可能性を最大
化するようにしよう。そして、平均的な寿命を超えてからの延命治療に、限られた財的・
人的資源の多くをつぎ込むことはしないようにしよう。あるいは、人生の初期に生じる
病気に費用をより多くつぎこんで、人生のチャンスを狭めることになりかねない障害や
死亡の可能性を極力低くおさえることにしよう。そうすることで、自分の人生行路が標
準的な道筋をたどる可能性が最大化されることになるからである。
そして、
「思慮深い貯蓄家」がこのような政策に合意するのならば、正当な制度のもと
で資源が不足するような状況下において、ヘルスケアの割り当てが「年齢に応じた配給」
のスタイルをとることに対する道徳的合意が得られることになるだろう。すなわち、年
齢の最も高いグループへのヘルスケアの割り当てを減らし、若い世代に多くを割り当て
る「年齢別配給」の制度が正当である、という道徳的保障が得られることになるだろう。
以上が、ダニエルズによる「年齢グループ間における正義」をめぐる構想の概略であ
る21。ただし、ダニエルズの議論はあくまで医療ケア資源に関する「年齢別配給」の制
度が社会的にみて公正でありうる可能性を示しただけであり、彼の議論が直接に「死ぬ
義務」の思想を正当化しているわけではない。そこで、次に、ダニエルズの議論を援用
しつつ、
「死ぬ義務の正当化」というより直接的な課題に踏み込んだマーガレット・バッ
ティンの議論をみておくことにしよう。
■マーガレット・バッティン
ダニエルズの議論を受け入れて、終末期の患者や極端な老齢者たちは、若い人びとに
医療資源を公正に配分するために、医療資源の使用を差し控えなければならない、とい
う状況になったとしよう。通常の抗生物質など「お金のかからない治療」は、もちろん
高齢者たちにも割り当てられる。しかし、MRI、臓器移植、人工透析、人工呼吸器サポ
ート、大きな外科手術などの高額な診断や治療は認められないだろうし、また、入院、
147
高額なホスピスケア、専属ナースによる継続的な在宅看護なども当然許可されない。適
切に設定された年齢の上限を超え、
あらかじめ定められた老衰のレベルを超えた老人が、
一過性の、容易に治療可能な限度を超えた病気に罹患した場合、その老人たちには必要
とされる医療ケアへのアクセスが認められないことになる。
「スミスさん、申し訳ありま
せんが、われわれにはこれ以上なにもできないのです」
。これが、老人に対する医師たち
の最後通告であることになる22。
このような「年齢別配給」が是認される状況において、すなわち、終末期における十
分な治療が拒否される状況において、
「自己利益の最大化」を可能にする合理的選択とは
どのようなものになるだろうか。十分な治療が差し控えられる状況において、病状が通
常の健康状態にまで回復することは――奇跡を除いては――望み得ない。すなわち、病
気の苦痛に耐え忍びながら、人生をぎりぎりまで引き伸ばすことによって得られる見込
み上の利益は些少である。終末期の病がもたらす苦痛に耐え忍ぶ、という選択は、その
病状に対する十分なサポートや緩和ケアが提供される場合には、自己利益に適った賢明
な態度でありうるかもしれないが、
「年齢別配給」の実施されている社会体制下において
は決してそうではないのである。
そして、この点を突き詰めることから、幇助自殺や安楽死を通じて「直接に生を終わ
らせること(direct-termination)」が全体的な利益の最大化につながる、という思想の正当
性が保障されることになる。すなわち、ダニエルズの提示する「年齢別配給」のシステ
ムと「苦痛の回避」という合理的選択のモデルを組み合わせることで、たんなる延命治
療の差し控えを越えた「直接的な終末」戦略を合理的に正当化する可能性が切り開かれ
ることになる23。というのも、
「回復の見込みがない状況下での過酷な生」という条件を
考えるとき、幇助自殺や自発的・積極的安楽死は社会的に承認されるだろうし、そのた
めに必要とされる手段をすべての終末期患者に提供する社会政策が歓迎されることにな
るだろう、という事態は十分に予測可能だからである。これは、たしかに「死ぬ義務」
それ自体の存在を保証するものではないが、それでもなお「死ぬことのほうが好ましい
選択だ」という判断を明示的に支持する政策のあり方を示しており、それゆえ、自発的
に患者の死期を早めるという選択が、原初状態における推論によって支持されることを
示す議論となっているのである。
以上が、キャラハン、ダニエルズ、バッティンの三名が提示する「死ぬ義務」をめぐ
148
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
る論証の概要である。そして、このような議論に対しては、さまざまな方面からの反論
が次から次へと提出されるであろうことが予想される。たとえば、
わが国の高齢者とその予備軍たちは、若いころずいぶん苦労してきた。戦後の、まったく物
のない時代に育ったのである。その点を考えれば、「資源の平等な配給」を論拠とした「死ぬ
義務」の正当化は、実際問題として、こどものころから豊かな暮らしを経験してきた現在の若者
たちが老齢にさしかかったころあいをみて論じ始められるべき問題である。すなわち、この論
法が妥当性をもつ、と判断するには、いまだ時期尚早である。
といった異論が予想される。また、
「老人が死ぬ」ことで「社会の負担」は本当に減らせるのか? 医師幇助自殺や積極的安楽
死による「死ぬ義務」が実行に移されたとしても、それが社会体制全体におけるヘルスケア資
源の割り当てに良好な影響を及ぼすかどうかは定かでない。現在医師幇助自殺や積極的安
楽死が社会的に許容されている国々で、末期の患者や極度の老齢者が自発的に死を選んだ
ケースをとりあげても、せいぜい人生最後の数週間が繰り上げられることにしかならない。老齢
者たちの義務的選択が、医療支出全体に対してほんのわずかな寄与しか行なわないことにな
るのであれば、老人たちは文字通り無駄死にだということになりはしないか24。
といった現実的な路線からの反論も予想される。
しかし、さきに述べた通り、
「死ぬ義務」の正当化をめぐって行なわれるであろう「頭
から湯気のでる」論争の細部へと立ち入ることは、今は差し控えることにしたい。そし
て、以下ではさしあたり、上に見た三名とはまったく異なる視角から、そしてそれゆえ
に単独で大きな反響を引き起こすことになった、ジョン・ハードウィッグの論考へと考
察の手を進めていくことにしたい。
愛するものたちのためにこそ、私は死ななければならないのだ:ジョン・ハ
ードウィッグによる「死ぬ義務」の定式化
ハードウィッグによる議論の要点は、痴呆ないし衰弱状態の高齢者を抱えることで、
149
ケアの担い手である家族や愛するものたちに対してあまりにも重い負担がかかることに
なってしまう、という主張に集約される。
「死」の問題を、親密な他者とのつながりを欠
いたアトム的個人の問題として想定する「個人主義の幻想」とは決別して、われわれの
人生が家族や愛する者たちと結びついたものであるという根源的事実にまで立ち返って
思考するのでなければならない25。これが、ハードウィッグの発想の根幹をなすテーゼ
である。
われわれの死が自分ひとりの問題ではなく家族の問題であるということは、家族のメ
ンバーが早すぎる死を迎えたときのことを考えてみればよい。そのときのわれわれの悲
しみは二重なのである。すなわち、いなくなってしまったもののために悲しむのと同時
に、われわれは愛するものを失った自分たちのためにも悲しむのである。逝ってしまっ
た人間の輝かしかったはずの未来だけをわれわれは惜しむのではない。それと同時に、
その子とともに暮らすことでもたらされたであろう、自分たちの幸福な生活が失われた
ことに対しても、われわれは深い悲しみを覚えるのである26。
そして、このような論点を考慮に入れることから、悲劇的なことではあるが、愛する
者の死、という事実の残酷さを考え合わせてすら、私が死んだほうが、自分の愛する者
たちは幸せに暮らせることになるのだ、という思考の妥当性が理解されるようになる。
すなわち、愛するべき者たちのために、われわれには死ぬべき義務が生じるときがある
のだ、というハードウィッグの中核的主張が理解可能なものとしてわれわれの視界に入
ってくることになる。以下、この点めぐるハードウィッグの論証を追いかけていくこと
にしよう。
われわれのケアに時間をさくことで、愛するものたちの人生が深刻な犠牲にさらされ
ることがある、というのは疑いえない事実である。ケアを行うこと、あるいは、1日 24
時間、一週間に七日、病人から目を離すことができないというだけでも、その負担は圧
倒的なものであろう。
ましてや、
そのような生活が何年にも渡って続くとしたらどうか。
介護する人間自身が疲れ果て、その人の人生までもが破滅させられてしまう結果に終っ
ても、なんら不思議はないであろう27。
介護の苦しさにまつわる負担として、ハードウィッグは、
「あの男ったら、私とセック
スしようとするの!
あの男ったら、私とセックスしようとするの!
あの男はだ
れ!!」と叫びながら部屋に駆け込んできたある女性のことを報告している。この女性
は、アルツハイマー病を発症しており、
「あの男」とは、彼女と 40 年以上連れ添ってき
150
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
た愛する夫であり、そして、この夫は過去十年にわたって彼女の介護に専念してきたの
であった。この出来事は、たしかにこの老女にとっても恐ろしいことだっただろう。し
かし、その夫に対しても、この出来事がどれほど恐ろしいものであったかをわれわれは
考えてみる必要があるのではないか28。
また、たんに経済的な要因を考えただけでも、愛するものたちの生活に対する負担は
莫大なものである。ハードウィッグは、6 ヶ月後の生存可能性が 50 パーセント以下、と
診断された患者を例に出しつつ語っている。これらの患者が、入院の後に退院したケー
スのうち、約三分の一は家族からの相当程度の介護を必要とし、その 20 パーセントにお
いては、家族のメンバーが仕事をやめるかライフスタイルを大きく変化させることにな
り、ほぼ三分の一の家族は貯金をすべて使い果たし、30 パーセント弱の家族が主たる収
入源を失う結果となっている29。
あるいは、金の話に終始するのが卑しいとかつまらないというのであれば、介護する
家族のなかに、仕事をやめ、みずからのキャリアを放棄しなければならなくなるものが
出る、という事実を考えてみればよい。生涯の仕事を失うことの心痛はいかばかりであ
ろうか。また、人生も後半にいたってから貯金を失えば、定年までの残りわずかな時間
でそれを取り返すのは容易なことではないであろう。あるいは、借金の支払いのせいで
子どもの大学進学の夢が断たれたとしたら、その子どもの人生が被る影響はいかばかり
であろうか30。
たしかに、病気や老いは誰の責任でもない。しかし、病気や老いにどう対処するか、
という場面に立ち会うとき、みずからの身の処し方をめぐってわれわれが道徳的過ちを
犯す可能性が生じるのである。みずからの介護に携わることで、愛するものたちが背負
うことになるさまざまな負担や苦痛のことに思いを馳せ、そのものたちの幸福な人生を
願えばこそ、みずからの人生を終わらせるべき「義務」の生じるときが、われわれの人
生には存在するのではないだろうか。家族や愛するもののことを思いやる義務とは、自
分自身が健康で、力強く人生を歩んでいられるあいだにだけ生じるものではない。病に
倒れ、自分自身の人生が苦しい状態におかれているときですら、家族や愛するものたち
に対する最善の選択はなにか、という点にわれわれは思いをいたす必要がある。
「死ぬ義
務」が生じるのは、身近な人間たちに対するこの一般的な義務の文脈にもとづいてのこ
となのである31。
もちろん、われわれの家族には、死をむかえるまで私たちのそばにいつづける責任が
151
ある。
家族には、
病気に対処するために大きな犠牲を支払う覚悟をしておく必要がある。
そこを否定するつもりは毛頭ない。しかし、家族内の病人をめぐる議論は、まるで責任
が一方通行であるかのように語られるべきものではないはずである。痴呆、衰弱、末期
の病気などから生じる重荷に家族は耐えなければならない、とだけ考えることは、自分
の家族を私の福利のための手段へと貶めることである。家族の連帯、利他的行動、愛す
る人の不運という重荷を抱えること、これらは「二方向に通じる道」なのである32。
次のようなケースを考えてみよう。うっ血性の心臓疾患で死に瀕した 87 歳の女性が、
死を恐れるあまり、最も強力な(the most aggressive)延命治療を執拗に願いでた。彼女の
APACHEスコア33から判断して、六ヶ月後の生存可能性は 50 パーセント以下と見積もら
れている。徹底的な延命治療の結果、衰弱の度合いは増しつつも、彼女は二年間生きな
がらえた。しかし、彼女の唯一の肉親である 55 歳になる娘は、その間の介護と経済的負
担の大部分をわが身に抱え込むことで、貯金のすべて、住んでいた家、その当時の仕事
とその後のキャリアをなにもかも失うことになった。87 歳で、六ヶ月間生き延びる 50
パーセントの確率を失うことと、55 歳で貯金と家と生涯のキャリアすべてを失うこと、
そのいずれがより大きな負担であるかを、
われわれは問い直す必要があるのではないか。
われわれのほとんどは、後者の負担のほうがより大きい、と判断するのではないか。大
略このように議論を進めた後で、ハードウィッグは次のように述べている。
自分の命を維持するために、人生を共にしてきた相手の生活を破滅させてしまうこと。あるい
は、自分の寿命をもう少し引き延ばしたい、というだけの理由で、息子のたちの生涯の仕事を
犠牲にさらし、孫たちの生活を苦しいものにしてしまうこと。これらのことは、道徳的に考えて許
されることなのだろうか。私には、許される、という答えを想像することができないのである。そし
て、このような考え方こそ、私に死ぬ義務の存在を確信させるきっかけとなった事情なのである
34
。
結論にならない結論:
「死ぬ義務」の「思想」がつきつける「現実」の重さ
以上に示した「死ぬ義務」の正当性をめぐる論証とは別に、ハードウィッグは「死ぬ
義務」の実行にまつわって生じる可能性のある、非常にプラクティカルな問題にも言及
を行なっている。詳細を論じる暇はもはやないのだが、ハードウィッグの取り上げる論
152
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
点の中から大きなものだけをざっと列挙しておこう。
○そもそも「老齢者」とは、そして「死んだほうがましな人間」とはだれのことなのか。
○「死ぬ義務」を背負った人間はいつ死を決断するべきなのか。
○どのようにして死ぬ決断を下すべきか――ひとりで決めるのか、家族との相談をもつのか。
○家族にはどのようにして自分がやがてこの世を去ることを伝えればよいか――残された家族
が感じる良心の呵責や罪悪感をどう考えればよいのか。
○残された家族が世間から後ろ指を指されて肩身の狭い思いをすることはないか。
○決断を下したのち、自分はどのように死にいたるプロセスを実行すればよいのか――自殺
するのか、家族に手を貸してもらうのか、医師による幇助自殺を遂行するのか。
○そもそも死という絶対的終末の恐怖を人間は克服することができるのか。
大略このような問題についても、ハードウィッグは綿密で周到な考察を加えている35。
さて、以上みてきたように、ハードウィッグの議論には、とりたてて精緻な概念的論
証が含まれているわけではない。
「患者個人の QOL ではなく、当人をケアする家族の負
担」を中心にすえるべきだ、という倫理学的原則を宣言した後は、具体的事例を積み重
ねることで読者の説得をはかる、というかたちで彼の論述は進められている。
そして、おそらくはこのスタイルのゆえにこそ、
「お金」や「現実の負担」の問題が切
迫した状況で生じたときには、人間の尊厳も、自己決定も、QOL も、倫理的な原則に依
拠した反対論のなにもかもが片端から吹き飛ばされてしまう、というある種異様な印象
が、
ハードウィッグの議論には与えられることになるのだろう。
別の言い方をするなら、
ハードウィッグの議論には、
「老人介護に十分な金をだせる裕福な家庭の人間であれば、
「死ぬ義務」はこれほど深刻なかたちで生じることはないだろう」
、というあまりにも冷
厳な含意があり、この「現実がもつ過酷さ」という要因こそが、それに対する反論の立
ち上げを困難にする、ハードウィッグに特有の説得力を与える結果につながっているの
であろう。
もちろん、ハードウィッグの議論に理論的側面からの反論を加えることは十分に可能
である。たとえば、ハードウィッグ自身は、レクイエムの流れる美しい自宅の一室で、
愛する家族と信頼できる医師にみまもられつつ、厳かに人生最後の使命が遂行される、
153
といった理想的な「義務の遂行」を思い描いているようである。しかし、当然のことな
がら、
「死ぬ義務」の要求を受け入れることがそういった「美しい死」の実現を約束して
くれるわけではまったくない。うす寒い病院の一室で、すべての身内をなくした老人が
孤独のうちに幇助自殺を実行する、という情景が呼び起こすもの悲しさは、少なくとも
「死ぬ義務」の受け入れをひるませるだけの力をもつであろう。
また、次のような指摘がなされるかもしれない。お金に代表される家族の負担が主た
る問題なのだから、社会保障を徹底的に充実させる方向で議論を進めればそれでことは
足りる。政策的なレベルで対応可能なハードウィッグの問題提起に対し、倫理学的な見
地から真剣に取り合う必要はない。彼の主張など馬耳東風に聞き流し、倫理学上の論題
リストから切り落としてしまえばそれでよい、と。この反論が、少なくともことの真相
をついた指摘でありえていることを、私はあえて疑おうとは思わない36。
しかし、それと同時に、たとえば、国民皆保険を誇るわが国において生じた次のよう
な事件をみるとき、
「社会保障の充実」という選択肢がハードウィッグの問題提起に対し
てどれほど有効な回答たりうるか、という点に関しては、いくばくかの――おそらくは
十分な理由をもった――不安が残らざるをえないのも事実である。以下は、つい最近の
朝日新聞紙上に掲載された、ある悲しむべき事件を伝えた記事からの抜粋である。
老老介護 悲しい結末――福井の夫婦 旧火葬場で心中か 認知症の妻案じ
老夫婦はなぜ、このような形で最期を迎えたのだろうか。福井県大野市の旧火葬場で・・・焼
けて白骨化した2遺体が見つかった。県警は歯の治療痕から、うち一人を近くの男性(80)と断
定した。もう一人は行方がわからない妻(82)とみている。妻は重い病気だった。将来を悲観し
た心中の可能性が高い。遺言状に記された日付から、男性は一年以上も前から死の準備を進
めていたことがうかがえる。・・・発見者によると、炉のそばには男性の車がエンジンをかけたま
まの状態で止まり、クラシック音楽が流れていたという。県警が発見したとき、火はまだくすぶっ
ている状態だった。車内には、数枚の給油伝票に殴り書きした「遺書」があった。・・・「7 日午前
0 時 45 分、点火します。さようなら」・・・自宅の日記帳にも、「妻と共に逝く」との記述があった
37
。
この悲劇が突きつける「現実」をどう受け止めるのか。社会保障の充実こそ、悲劇の
くり返しをさける最善の道筋である、と考えることはもちろん可能である。しかし、そ
154
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
れと同時に、ハードウィッグの主張が説得力をもつこともまた、すなわち、
「死ぬ義務」
の遂行が、その過酷さにもかかわらず悲劇を最小化することにつながる場面がわれわれ
の人生にはある、という発想が、相当程度のリアリティをもつこともまた、否定しがた
い事実であることをこの悲劇はわれわれに教えている。ここで、ハードウィッグの語る
非常に印象深い(と私には思われる)一説を引用しておこう。
死ぬ義務はとても残酷なものに思われるし、残酷なものとなることも多いであろう。生き続けた
い、と心から願う人間が、それにも関わらず死ぬ義務を背負う、ということは、われわれの人生
をとりまく悲劇の一つである。家族と愛するもののためを思えばこそこの義務が発生する、とい
うのは悲劇的でもあり皮肉でもある。・・・家族たちがわれわれのことを気にもかけていないなら
ば、われわれが家族に対する重荷になることもないであろう。・・・われわれは、そのような悲劇
や皮肉を避けられる幸福な世界に暮らしてはいない。われわれは、この現実に対して眼を閉
ざすべきではないし、見たくもない現実など存在しないのだ、という振りをすることもできない。
とにもかくにも、この悲劇を最小のものとしなければならないのである38。
私には、このようなハードウィッグの見解に対して、有効な反論を投げ返すだけの力
がない。終末期の親や配偶者の介護に苦しみ、財政的にも精神的にも限界状況にある人
に、
「死ぬ義務は残酷にすぎる。肯定することはできない」と伝えることが私にできるだ
ろうか。――あなたなんかに私の気持ちはわからない。その一言を投げかけられれば、
その重みに打たれて議論を継続する気力が消えうせてしまうだろう、というのが私の正
直な予想である。
「生命の尊厳」という抽象的な一言が、このような場面設定のもとで私
に対してどれほどのリアリティをもちうるか、私には自信をもって返答することができ
ない。
しかし、では逆に、自分が「死ぬ義務」の当事者の立場に立つような場合を考えてみ
たとき、私は自分にどのような回答を返すことになるのだろうか。たとえば、自分をこ
の年になるまで育て、見守り続けてくれた父親や母親を目のまえにして、
「あなたがたの
死ぬべきときがやってきたのだ」と論じることが私にできるだろうか39。正直、私には
自信がない。
「多少」などではすまない程度の、決して生易しくはない苦労が伴おうと、
論じるに値する議題として「その一言」が意識にのぼることがあろうと、ふれずにすむ
155
なら話さないでおきたい話題、として最後まで逃げ続けることを自分は選択するのでは
ないかと思う。父親の、そしてまた母親の命を、数十分後には奪い取ることになる装置
のスイッチがやがて押されることになる。この現実がもつ意味の重さを、自分自身に納
得させることが私にできるだろうか。これが、父・母の決断を、その人格の尊厳を本当
の意味で尊重することなのだ、そして、父・母が自分の知るとおりの人であるうちに命
をおえることが、全員にとって最善の決断なのだ、と自分に言い聞かせることができる
だろうか。
二転、三転、執拗に思いをめぐらせてみても、
「死ぬ義務」に対する賛成とも反対とも
つかないアンビバレントな答えを繰り返すだけのことしか、今現在の私にはすることが
できない。私自身が年をとり、自分を取り巻く生活環境が変わるにつれて、
「死ぬ義務」
をめぐる私の考え方はおそらく変化を経験するのだろう。もとより、
「死ぬ義務」の問題
は、一般的な解決策を期待できないところにこそその根本特質の一つが見出される、と
いうことのようにも思われる。だとすれば、重い宿題を背負っている、という自覚を忘
れることなく、
各人には自分自身の人生の宿題としてこの問題を考えていく必要がある、
ということだけが、
「死ぬ義務」をめぐる以上の考察から引きだせるせいぜいの結論だ、
ということになるのかもしれない。
* * *
最後に、
「倫理学上の問題」としての「死ぬ義務」の評価として、あえて結論めいたも
のを付け加えておくことにしよう。自分にも家族にもいずれかならずやってくる死の瞬
間に対する明確な問題意識を呼び起こす、という一点だけをとっても、
「死ぬ義務」の思
想には一考に価するだけの重みを認めることができる。
すなわち、
「死ぬ義務」
の思想は、
倫理学上の主要課題として問われるに値する深刻な問題提起を行っているのであって、
これを――冒頭にひいた石原発言と選ぶところのない――センセーショナルな挑発を狙
っただけの軽率な議論にすぎない、といって切り捨てることは許されない。この程度の
ことは、本稿における一連の議論を通じて確認することができたのではないかと思う。
156
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
1
『都政新報』平成 13 年 10 月 26 日版。ただし、本文中の引用は「石原発言に怒る会」ホームページ
(http://homepage3.nifty.com/hanishihara/)に掲載されているバージョンのものである。
(
「怒る会」につい
ては後述の註を参照。
)
2
たとえば、
『週刊女性』2001 年 11 月 6 日号、
「独占激白“石原慎太郎都知事吠える!”」に次のような
発言が記録されている。
(以下、石原氏の発言。
)
これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪し
き有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”
って。男は、80、90 歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そ
んな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。
なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)
。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラ
ックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうん
だよね・・・。
3
石原都知事の発言に対しては、市民団体「石原都知事の「ババァ発言」に怒り、謝罪を求める会」が
損害賠償(全国紙上での発言の撤回と謝罪、原告に対する金 11 万円の賠償金支払い)を求めて東京地
裁に提訴している。05・2・24 の1審判決は、差別発言の違法性をみとめながら、請求は棄却。団体側が
東京高裁に控訴の後、東京高裁は控訴を棄却、という経過をたどっている。
(訴訟の詳細については、
先述の「石原発言に怒る会」ホームページを参照。
)
また、
「女性蔑視」の問題は別として、個別に取り上げて詳細に論じるべき論点が石原・松井両氏の
発言に含まれていることは事実であるが、彼らの見識の是非自体を問うことは本稿の関心の外にあるし、
これをとりたてて論じることに本稿は関与しないことをここでお断りしておく。
4
「惑星をあっという間に消滅させてしまう」という表現自体は、前出の『週刊女性』誌に登場するも
のである。
5
もちろん、惑星物理学の大家である松井氏のいう「惑星の消滅」という言い回しは、惑星史ないしは
文明史といった広大な視点を念頭においた上でのものであろうと思われる。その限り、本稿が以下に論
じるような「高齢化する現代社会における資源の配分」や「高齢者とその家族の負担」という論点を、
松井氏自身の発言はまったく含意しない、と言われることになるかもしれない。これはたしかにもっと
もな指摘である。しかし、松井氏自身の(そしてまた石原都知事本人の)意向がどうあれ、彼らの発言
のなかに、急速に高齢化の進展する現代社会における「死ぬ義務」の思想に一脈通じる側面が含まれて
いることは、いかにしても否定しようのない事実であろうと思われる。
「高齢者一般」
・
「現代の高齢者
医療費支出」
・
「介護する家族の負担」といった論点に関する直接的言及が行なわれていないにも関わら
ず、彼らの議論が「死ぬ義務」一般を論じる文脈の上に乗せられてしまう、という事実は、後述の通り、
「死ぬ義務」の問題が軽率に、ときには感情的にさえ論じられる危険性を孕んだ話題である――それゆ
えに、冷静な議論のスタンダードを示しておく必要のある論題である――ことを証し立てる、一つの現
実的資料とみなすことが可能なのではないかと思われる。
6
『週刊医学界新聞』第 2568 号,2004 年 1 月 19 日.
7
John Hardwig (1997), Is there a duty to die? [Section: Circumstances and a Duty to Die; paragraph 5]: originally
published in: Hastings Center Report 27, no. 2. ただし、当論文からの引用は、ウェブページ上に公開され
たバージョンによっている。また、それに伴い、引用のページ付けは、論文内に示されたセクションの
タイトルと、そのセクション内部でのパラグラフ番号に従って指示する。
8
ハードウィッグ自身の言い方では、
(1)死期が迫りつつある状況下では、[延命ではなく、]症状の緩
和を目的とした(palliative)ケアを拒否する義務がある。
(2)終末期の病がまったく存在しない場合です
ら、自らの人生を終わらせる義務がわれわれにはある。
(3)最後に、自分ではまだ生きていたい、と
望む場合ですら、死ぬ義務が存在する可能性がある。という明確な言い方がされている。Hardwig, Duty
to die, [Section: Circumstances and a Duty to Die; paragraph 6].
9
Hardwig (1997), Dying at the right Time, in Hugh LaFolette ed., Ethics in Practice: An Anthology, p. 55.
10
「死の権利」に比した「死ぬ義務」をテーマとした文献の少なさとその背景については、Konishi, E. and
Davis A. J. (2001), The Right-to-Die and the Duty-to-Die: Perceptions of nurses in the West and in Japan, in
International Nursing Review, 48, p. 18.を参照。
11
厚生労働省ホームページの報道用発表資(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-iryohi/03/index.html)
157
による。
12 なお、
「救命ボート」という言葉自体は、
「限られた資源の適切な配分」という倫理学上の問題を表
現する典型的な用語として一般的に用いられているものである。いうまでもなく、ここでいう「救命ボ
ート」とは、船が座礁ないし難破したさいに乗客を非難させるための小型ボートのことを意味している。
乗船していた船が沈み、かつ、乗客全員を救出するための十分な数のボートがない場合、誰をボートに
乗せ、誰を犠牲にするべきか。この点をめぐる選択ないし配分の問題が、
「救命ボート」問題の原型を
なすものである。また、この「救命ボート」の問題は、1841 年 3 月にニューファンドランド沖で実際
に発生した「ウィリアム・ブラウン号」の座礁事故に由来するものだそうである。
(ブラウン号事件の
詳細については、United States v. Holmes, Circuit Court, E. D. Pennsylvania. 26F.Cas. 360 (1982) の訴訟記録
を参照。
)一般に、乗客の話し合いにより、女性・子ども、既婚男性の順にボートに乗り込む優先権が
与えられた、とされているが、公判の記録をみるかぎり、そのような穏やかで美しい経過がとられるこ
とはまったくなかったようである。ショッキングなことではあるが、力の強い乗組員の一方的決定によ
り、男性の乗客たちが無理やり海の中に投げ込まれた、というのが実情だったそうである。
13
ここでのラムの発言は、New York Times, March 29, 1984. 収録の、GOV. LAMM ASSERTS ELDERLY, IF
VERY ILL, HAVE ‘DUTY TO DIE’ と題された記事に基づいている。なお、ラム自身は、この記事は自分
の発言に対する不当な誤解であり、自分は「高齢者に限らず、医療機器や人工心臓等の限られた資源を
独占的に利用している終末期の患者には死ぬ義務がある」という一般的な主張を行なったに過ぎない、
という旨の異議申し立てを行なっている。
14
Richard Lamm (2003), The Brave New World of Healthcare, passim.
15
バッティンの論文を「先駆的業績」として評価する点については;James Humber and Robert Almeder,
Preface, in Is There a Duty to Die?, Humana Press, 2000, p. ⅶ.
16
Margaret Battin (1987), Age Rationing and the Just Distribution of Health Care: Is There a Duty to Die?, in
Ethics, No. 97, p. 321.
ただし、バッティンの論文は、
「病を抱えた老人たちには死ぬべきときがある、という考えは、新し
いものとはとてもいえない」ことをはっきりと宣言しており、「先駆的」という言葉が文字通りに受け取
られるべきではない。バッティン自身は、自分の考えがそれほど新奇なものではない、ということの例
証として、エウリピデス、プラトン、トマス・モア、ニーチェ、セネカなど西洋の思想家、今村昌平監
督の『楢山節考』に登場する「姥捨て山」の風習、エスキモーやアメリカ・インディアンの土着的風習
などにも、
「死ぬ義務」の思想が明瞭にみてとられることを指摘している。cf. Battin(1987), p. 317-319.
17
この問題はとりわけ深刻である。
「患者自身のQOL」を根拠として「死ぬ義務」を正当化しようとす
るのなら、当然のことながら、生存可能性が低い状態で生れてきた新生児、終末期にある患者全般、重
度の障害をもつ人びとなどにも、ひとしなみに「生命装置の取り外し」や「幇助自殺」を通じた「死ぬ
義務」の実行が求められることになるからである。前掲の注で示したとおり、
「高齢者には死ぬ義務」
があることを主張したとされるラムその人でさえ、自分のいう「死ぬ義務」は高齢者に限らず終末期の
病状にある人全般にあてはまるものであることを主張している。
ここには、たとえば障害者の QOL が、本人の身体的障害に起因する本質的な要素だけでなく、
「こん
な状態で生き続けるのは可哀そうだ」という周囲の人間の「思いやり」を通じた社会的評価を通じて「構
成」されていく、さらには、
「死んだほうがよい人間」が社会の期待を通じて一方的に産出されてしま
う、という深刻な問題が姿を現している。
「障害」という QOL の社会的構成を媒介とした、
「死んだほ
うがましなもの」の社会的構成、という問題は、
「死ぬ義務」をめぐる論点としては不可避の、非常に
重要な問題であるが、その重要さゆえにこそ、本稿の範囲内では扱えない問題であることをここで断っ
ておかなくてはならない。この問題については、稿を改めた上で、再度慎重に時間をかけて検討したい
と考えている。なお、
「安楽死」の問題圏における「弱い vulnerable」存在者としての障害者、という論
点については、次の論文に教えられた。山本道雄(2005),
「安楽死問題におけるヤヌスの双面」
,神戸大
学哲学懇話会『愛知』第 17 号.
18
ただし、紙幅の都合上、いずれの論者の議論についても大幅に簡略化された説明をしか与えられない
ことをあらかじめお断りしておく。
19
Daniel Callahan (1998), False Hopes. Why America's Quest for Perfect Health Is a Recipe for Failure, passim.
20
Norman Daniels (1983), Justice between Age Groups: Am I My Parents’ Keeper?, in Milbank Memorial Fund
158
いつ、だれが、なぜ<死ななければならない>のか
Quarterly/Health care and Society, 61.
21
Daniels(1983), Justice between Age Groups, passim.
22
Battin (1987), Age Rationing, p. 325.
23
Battin (1987), Age Rationing, p. 333-334. また、以上の論点に加え、合理的な自己利益の追求者が「周囲
から強制されかねない死の恐怖」に耐えることができるのか、個人としての老人が有する基本的人権の
侵害であり、また、老人に対する虐待等の社会問題を引き起こす結果に終るのではないか、といった論
点をもバッティンは考慮しているが、本稿ではこれらの点に触れることはしない。Battin, ibid., 335-337.
24
この点に関しては、すでに試算を行なった先行研究がある。Ezekiel Emanuel and Margaret Battin (1998),
What are the potential cost savings from legalizing physician-assisted suicide?, in The New England Journal of
Medicine, 339(3), p. 167−172. イマヌエルとバッティンによれば、オランダにおける幇助自殺と安楽死の
データをもとに、合衆国において幇助自殺が全面的に合法化された場合のヘルスケアコストの低減量を
計算したところ、6 億 2700 万ドル、すなわち、ヘルスケアにまつわる支出全体のうち、わずか 0.07 パ
ーセントの削減にしかならない、という結果がでたという。この数字は、終末期の老人ケアを切り落と
せば医療財政が劇的に改善されるだろう、という短絡的な予測に、一定の警告を与えるものであるかも
しれない。
25
Hardwig, Duty to Die, [Section: The Individualistic Fantasy]
26
Hardwig, Dying at the Right Time, p. 53.
27
Hardwig, Duty to Die, [Section: A Burden to My Loved Ones; paragraph 2.]
28
Hardwig, Dying at the Right Time, p. 57.
29
Hardwig, Duty to Die, [Section: A Burden to My Loved Ones; paragraph 3.]
30
Hardwig, Duty to Die, [Section: A Burden to My Loved Ones; paragraph 4.]
31
Hardwig, Duty to Die, [Section: A Burden to My Loved Ones; paragraph 5.]
32
Hardwig, Duty to Die, [Section: A Burden to My Loved Ones; paragraph 9.]
33
Acute Physiology and Chronic Health Evaluationの略。
34
Hardwig, Duty to Die, [section: Objections to the Duty to Die, passim.]
35 Hardwig, Dying at the Right Time, passim.
36
また、不謹慎な話ではあるが、死ぬ義務が広範に受け入れられることで、わが国のマーケットにおい
て大きな比重を占めつつある「高齢者ケア」業界が深刻な経済的打撃をこうむる、という悪魔的な指摘
にさえ、一定程度の妥当性が認められるかもしれない。
37
朝日新聞 2005 年 11 月 12 日,14 版 39 ページ.
38
Hardwig, Duty to Die, [section: A Duty to Die and the Meaning of Life, paragraph 1.]
39
白状しなければならないが、自分自身が「死ぬ義務」を背負う場面というものを、私はまだリアリテ
ィを伴って想像することができない。
「決断」のプロセスがどのようなものになるか、何度か想像して
みようとはしたのだが、ぼんやりとした、実感のともなわない情景を思い浮かべることしか私にはでき
なかった。
(京都大学文学研究科 COE 研究員)
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