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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察--昭和 11年4月18日の増強をめぐって 孫. 志民 茨城大学教養部紀要(23): 147-163 1991-03 http://hdl.handle.net/10109/10010 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html 支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 一昭和11年4月18日の増強をめぐって一 孫 志 民 はじめに 支那駐屯軍(1)は中国に対する全面侵略戦争を導いた芦溝橋事件の主役であっただけに,中日関係 史上重要な位置を占めη・るといえよう。しかし,支那駐屯軍に関する研究は私見によれば中日両国と もにあまり見られていないように思われる。特に中日関係の「バロメーター」とも言われている支那駐屯 軍の兵力・編制の推移がいまだに不明瞭の部分が多い。言わば知っているようで,知られていない のが現状である。 しかし,中日全面戦争を論ずるにあたって,歴史的な経緯を踏まえなければ感情論に終止するこ とになってしまう。そういった意味で,支那駐屯軍の兵力・編制の推移を縦断的視野を以って解明 していくことが十分研究に値するのではないか。というのはその縦断的視野を通して,時代ごとの 特徴を読みとり,その本質的な変化を把握することができるからである。 支那駐屯軍の兵力・編制推移を辿りながら戦争と編制の関わり合いを考察し,中日全面戦争の原 点を見つめるのが本文の試みであるが,利用できる第一級資料が乏しいため,展開に不充分である ことを前もって断っておきたい。 1.発足当時の特徴 支那駐屯軍はその司令部が天津に置かれたため,「天津軍」とも通称されているが,その前身, すなわち発足当時の名称は「清国駐屯軍」である。1901年9月7日,清朝政府は列強の圧力の下で, 独,填,白,西,米,仏,英,伊,日,蘭,露などの11力国と屈辱の不平等条約「辛丑条約」(北 清事変に関する最終議定書とも言われる)を結んだのである。その第7条の第2項と第9条にはそ れぞれつぎのように書かれている(2}。 第7条 清国はユ901年1月16日の書簡に添付したる議定書を以て各国が其の公使館防禦の為め に公使館所在区域内に常置護衛兵を置くの椹利を認あたり 第9条 清国政府は1901年1月16日の書簡に添付したる議定書を以て各国が首都海濱間の自由 交通を維持せむが為めに相互の協議を以て決定すべき各地点を占領するの椹利を認めたり即此の 各国の占領する地点は黄村,郎房,楊村,天津,軍糧城,塘沽,芦台,唐山,藻州,昌黎,秦皇 島及山海関とす 148 茨域大学教養部紀要(第23号) このように,列強は義和団鎮圧のため,中国から華北における駐兵権を得た。 これより先の1900年9月,日本陸軍は参謀総長大山巌の上奏裁可によって混成一旅団による「清 国駐屯隊」を編成した(3》。これを土台にして,1901年4月にさらに「清国駐屯軍」を編成,華北に 派遣することに決定し,6月上旬からそれぞれの編成を完結し,逐次清国駐屯隊と交代させた。こ れで,日本初の海外駐屯軍が発足することとなった。その編制は「清国駐屯軍編制表(4)」によると つぎの通りである。 駐屯軍司令部 守備隊司令部 歩兵大隊 騎兵中隊 野戦砲兵大隊 工兵中隊 野戦病院 野戦兵器廠 憲兵隊 軍楽隊 総兵力は兵員3,444,非戦闘員556,合計4, OOO人であった(5)。 清国駐屯軍のこの編成に際しての際立った特徴は「集成編成」が採用されたことである。その理 由は広く全軍の粋を抜いて「列国精鋭の軍隊と伍して敢て遜色なかり」と同時に派遣師団の平時勤 務及動員計画上に大きな影響を及ぼさないということにある(6)。集成編成の上述の趣旨は兵員の選 抜にも反映されていた。 「編成要領」には,駐屯軍に編入すべき者は「技価優秀にして成るべく外 国語に熟達せる者」であり,それらのものは「身体強健教育充分にして且兵卒は成るべく第2,第 3年兵中より撰抜す但野戦砲兵の基幹は成るべく其各年次兵の全部を採用す」(7)とされている。 清国駐屯軍の発足と相前後にして,1901年4月6日及び29日,北京外交団(独,填,白,西,米, 仏,英,伊,日,蘭,露などの11力国によるもの)の諮問により,列国派遣軍司令官会議が開催さ れ,列国の華北にある駐屯軍の兵数,守備分担区域等について決議された。それによると, 1.最終議定書の第7条については,公使館守備の兵力総数は2,000人を超過しないことと決定 され,具体的な内訳は米150,独300,仏300,英250,日300,伊200,」奥200,露300 2.最終議定書の第9条については,「天津の守備隊は諸兵連合にて2,000人,山海関,秦皇島 の守備隊は1,500人」とされているが,「目下の占領時期と永続時間との間には必然変遷時期なる もの存在すべく此の時期のためには天津の守備隊を6,000人に増加するの必要認めらる,6,000人 中永続的守備隊たる2,000人以外の4,000人は独,仏,英,日,伊の5ケ国より出すべし」とある。 そして首都及び海浜間の連絡を充分にするため,北京,大沽,山海関間の鉄道線上,すなわち黄村 (伊),廊房・楊村(独),軍糧城・塘沽(仏),芦台・唐山(英),礫州・昌黎(日)はそれぞ れ300人を以て守備する。 その結果,列強の華北の総駐屯兵力は北京2,000,天津6, OOO,山海関。秦皇島1,500,鉄道守 備2, 700,総計12, 200となった。その内日本の割当数は北京300,天津1,400,山海関・秦皇島 300,鉄道守備600,計2, 600であった{8)。 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 以上の決議に基づいて, 149 日本は1901年11月に編成されたばかりの清国駐屯軍が第1回目の編制 改正を行った(9)。 清国駐屯軍司令部 個個個個個個個 歩兵(甲)大隊(4中隊) 歩兵(乙)大隊(2中隊) 騎兵隊 野戦砲兵隊 上海駐屯歩兵隊 病院 1902年11月,清国駐屯軍はさらに編制を改め,兵力も1,300人に減じた(10)。 清国駐屯軍司令部 1個 天津駐屯歩兵隊(4中隊) 1個 北京駐屯歩兵隊(2中隊) 1個 山海関駐屯歩兵隊(1中隊)1個 天津駐屯騎兵隊 1個 病院 1個 清国駐屯軍は以上の編制と兵力を以て,常時は歩兵2個中隊を基幹とする部隊を北京に,軍司令 部,軍の主力を天津に位置し,また天津部隊から小部隊を列国軍司令官会議で議決された日本分担 の北寧鉄道沿線にある山海関,秦皇島,昌黎,藻州,唐山,塘沽に守備隊を分遣してきた。 2.兵力及び編制の推移 以上の経過によって発足した清国駐屯軍は辛亥革命による中国情勢の変化にかんがみ,1913年8 月に「支那駐屯軍」と改称された。支那駐屯軍はその1901年の発足から1936年の兵力増強までの35 年間において,中日関係の変化に伴ってつぎのような変遷及び特徴を見せた。 前述の如く,支那駐屯軍は発足してから集成編成が採用され,部隊の編成交代ごとに軍令陸乙(ll) を以て「編成及交代要領」を作成して実施することになっていたが,北京,天津駐屯歩兵隊の「編 成及交代要領」が見当らないのため,同じ制度を取り入れた「北支那派遣歩兵大隊及中支那派遣隊 編成交代要領」(12)を見ればつぎの通りである。 派遣大隊は「各大隊毎にユ師団に於て」編成し,中隊は「師団内各歩兵聯隊の某1中隊を基幹と し其の不足人員は当該聯隊内の者を以て之に充つ」のである(第5条)。 派遣大隊の交代は「毎年概ね9月に於て之を行ひ其の編成担任師団は交代の都度之を定む」とい うことであるが,隊本部は常駐であるのため,将校以下の一部は陸軍大臣が「臨時交代せしむるこ とを得」ということになる(第8条)。 また派遣大隊は「支那港湾上陸の日より原所属師団長の隷下を脱して支那駐屯軍司令官の隷下に 入り」とされているが,帰還部隊は「内地港湾上陸の日より支那駐屯軍司令官の隷下を脱し原所属 師団の隷下に復するもの」とす(第11条)。 150 茨城大学教養部紀要(第23号) 交代について,大正12年11月支那駐屯軍司令部より提出された「支那駐屯軍編成改正に関する意 見」{!3}には改正第1案としてこう書かれている。 軍司令部及各駐屯隊本部,軍通信隊本部並軍病院は之を常設す。 歩兵中隊,砲工兵員,軍通信隊本部外の通信員及各班並軍病院看護卒は1年ごとに交代せしむ(14も 同じ意見書の改正第2案は交代についてつぎのように記している。 軍司令部両駐屯隊本部及軍病院を常設とし歩兵中隊工兵々員及軍病院看護卒を1年交代とする こと現在の如し(15)。 以上の史料によって分るように,「満洲国」の事実上の主権者ともいえる関東軍と違って,支那 駐屯軍は1年交代制による集成編成部隊であって,正規の建制部隊ではなかった。 また,支那駐屯軍の兵力量も中日関係の緊張と険悪化の度合によって大きく変化を見せた。直接の 資料が見あたらないため,これまでに入手することができたいくつかの資料にもとついて,支那駐 屯軍の兵力推移を下表にまとめて見た。 支那駐屯軍兵数推移表 年 代 軍令部資料注” 永見俊徳報告(勘 1901 4000 5900(4月) 1926 603 600 1908 1911 590 1253 635 1927 1928 1912 2497 2400(夏) 1800(10月) 1913 1915 1922 1924 1776 479 588 1300(11月) 530 (夏) 1200(10月) 600 1100 1200 年 代 軍令部資料 永見俊徳報告 1929 1930 1931 1932 1933 1935 1400 6187(6月) ユ030(10月) 898 886 878 2638 1918 1984 887 887 887 1960 2003 注1. 軍令部「支那駐屯軍兵数問題に関する参考資料」(『支那時局報』昭和11年第1号一第6号) によるもの。 注2,支那駐屯軍参謀長「永見俊徳報告」(加登川幸太郎『中国と日本陸軍(下)』圭文社,1978年) によるもの。 上表が示した通り,支那駐屯軍の兵力推移はその発足以来の35年間をつぎの3期に分けられる。 その第1期は発足から1911年の辛亥革命までの編制改正に伴う逐次減少期である。この間,清 国駐屯軍の兵力は発足当時の5,900人台から1908年末の635人台まで減少された。1911年夏に 入ると,さらに530人台に減じられた。 第2期は辛亥革命,国民革命軍による北伐革命(1926年),日本の山東出兵(1927年5月は第1 次,1928年北伐再開の4月は第2次,第3次は同年の済南事件であった)などの一連の事件と日本 の軍備縮少期をはさんだ不安定期である。辛亥革命勃発に伴って,日本はその華北にある駐屯軍の 兵力を2回に分けて2, 400人前後に増強させた。その後,さらに華中地区にも手を伸して,「中清 (漢口)派遣隊」を送った。そのため,華北にある駐屯兵力を1,800人に減じた。1915年に入ると, 151 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 日本は北支那派遣歩兵第1,第2大隊(北清派遣歩兵第1,第2大隊)を撤退させ,支那駐屯軍の 兵力は中国の革命騒ぎ以前のわずか600人台にもどされた。その兵力量は後帝制問題と奉直戦争 (奉天・直隷派の対立・抗争,1922∼1924)にからんだ少量の増兵を除けば,600人台で1926 年までつづいた。 1927年4月,蒋介石の北進,いわゆる北伐にそなえて,列国駐屯軍司令官会議が開かれ,列国軍 の華北にある総兵力を「新装備を有する」20,000台(航空隊を含む)に増加し,尚増援隊のために はさらに5,000人の兵力が認められた(16)。これによって列国の華北における駐屯軍はそれぞれ増強 され,一時米は4,776,英は3,712,仏は2,855となった(17)。支那駐屯軍もその最高の兵力数6,187 人に達した(18)。しかし,今回の増強は交代を繰上げることによる定期交代部隊の増加配置の他に, 臨時派遣隊を送る形で実現したものであって,支那駐屯軍の編制そのものは特に変りがなかった。 北伐は予想以上早く完成されたため,列国は逐次撤兵を始め,日本も支那駐屯軍の減員を実施し, 9・18事変(満洲事変)直前に,その兵力数は2個大隊弱の887人になったのである。 第3期は9・18事変以来の在華北居留民急増に伴う増兵期である。この間,支那駐屯軍は増兵の ほかに,編制も改変された。1935年5月16日の軍令陸甲7号(19)「昭和10年度北支那派遣部隊編成 及交代に関する特別規定」により,支那駐屯軍の編制はつぎのように改められた⑳。 駐屯軍司令部 北京駐屯歩兵隊(2個中隊) 天津駐屯歩兵隊(8個中隊) 天津駐屯山砲兵第1中隊 天津駐屯エ兵1小隊 軍病院 同年7月現在の兵力数は2,003人である。 以上見てきたように,支那駐屯軍は発足以後の約35年の間,兵力量には激しい増減があったが, その間,一貫していたのは「交代制による集成編成」だった。これは支那駐屯軍という軍事力を考 える場合のきわだった特徴的な性格である。 一方,部隊の交代派遣期も兵力の変化によって大きく左右されるようになった。陸軍省r密大日 記』に現存している「派遣交代に関する詳報」(21)によると,大正元年の派遣交代期は11月中旬であ ったが,大正2年になると,4月下旬に変った。そのため,当年の「詳報」の意見款には「本派遣 隊の大部は初年兵にして第1期教育を終えたるのみにしてまた中隊教練及衛兵勤務を修得しあらず 此等のものを以て北清警備の委任に充つるは事変勃発の顧慮上梢適当ならざるの感あり故に少くも 第2期教育終了後交代を行ふを適当なりと思惟せらる」(22⊃と記している。その改正措置として,大 正3年の派遣交代期は9月中旬に変更された。 「軍隊教育令」によれば,9月中旬という時期はち ようど歩兵隊教育順次表(2期入営部隊)(23,の第3期終了に当たるが,その中身にっいては,同表 の摘要には「第2期に於て中隊を以てする教練及陣中勤務は完全に,大隊教練は略々完全に之を修 得せしむ」〔24,とある。その結果,大正3年の「派遣交代に関する詳報」の第4款には「派遣隊兵卒 は全部初年兵にして第二期の教育を終了したるもの及第3期に於て派遣せられたるものにして概ね 一般要領を会得しあるも傳令勤務に於ては尚大に其の程度を向上するの余地あり又集成中隊なるを 以て斉一を欠く点少からず」(25)という意見が記されている。その後,大正5,7,10年の「詳報」 152 茨城大学教養部紀要(第23号) によると,派遣交代期はずっと9月中旬であった。 ところが,中国の北伐革命に当たって,支那駐屯軍は昭和3年(1928)の派遣交代期を繰り上げ, 派遣部隊は5月19日,帰還部隊は8月29日として,「一時増兵」を実施した(26)。これによって,支 那駐屯軍の派遣交代期は再び5月中旬にもどった。このことについて,当時教育総監部本部長,後 支那駐屯軍司令官であった香月清司は「回想録」でこう語っている。 「初年兵を通州,北京の近郊と云ふやうな所で教育して居って周囲に支那兵,支那人が集って来 て見て居るが,一体初年兵の教育と云ふものは非常にみっともないものですからそれを見た者が皆 い け 軽蔑的な動作をやったりしますので,之は不可ない。支那駐屯軍の兵は内地で教育するか,満洲で 教育するかしてから向ふへ連れて行くやうにすべきだと云ふやうなことを意見具申したと思ひます。」(27} しかし,この意見具申は「承はり置く」という程度で余り重要視されなかったようである。この 派遣交代期の問題は支那駐屯軍発足当初の「全軍の粋を抜いて」,技価優秀なものしか編入しない 「集成編成」の趣旨に反したばかりではなく,昭和11年4月18日の兵カー挙増強とも関連して,つ いに芦溝橋事件における中日両軍の衝突のきっかけとなった。 3.列国軍との関係 支那駐屯軍の兵力推移,編制変遷とその特徴を把握するうえでは,必然的に列国の華北にある各 駐屯軍との関係を検討の視野に入れなければならないと思われる。 華北にある列国の駐屯軍の相互の関係について2本の史料がr密大日記』に残されている。その 一つは大正13年9月5日の支那駐屯軍司令官吉岡顕作が陸軍大臣宇垣一成に宛てた報告書(28)である。 もう一つは支那駐屯軍司令部が昭和12年1月末日作成した「北支那に於ける列国軍調査」(29)である。 その2本の史料によると,英米両国の華北にある駐屯軍は多重区処に置かれたため,自由に動く ことができない。その上本国と遥かに離れているため,消極的な姿勢を取りつづけてきた。それに 反して,仏国駐屯軍は「比較的自由」の立場にあるため,仏軍司令官は「悉く細部に至る迄の取極 を為さんとするの傾向あり」(30)という評判であった。それにしても,列国軍は「事変に際しては先 つ日本を利用せんとするの観念濃厚にして殊に迅速に兵力を招致せんが為に日本の在満兵力及旅順 海軍の利用に着眼しあるものの如く各国共に先つ日本軍の掩護の下に自国軍を支那に送らんとする 意考あり」(31,という見解であり,大半の列国軍は緊急時においてはその地理的位置からとりあえず 日本軍を有用視していたとされている。 支那駐屯軍はこのように列国軍において優位ではあっても,長期間自分の守備区域以外には手を 及ぼすことができなかった。それは,つぎのような事情があったからだと思われる。 「北支那列国駐屯軍守備区域変遷記録」(32,によれば,支那駐屯軍に割当てられた守備区域は藻州, 昌黎の外に山海関及び山海関・昌黎線路の中央点間とされていたが,その区域内に英国の利権に属 する開礫破務局の咽喉である秦皇島が含まれているので,英軍は日本側の警備不完全を口実にし て日本の守備区域に割込もうとしていた(33)。また,米国も列国軍の京奉鉄道(北京一奉天)守備 区域の短縮を主張することによって中国側に好意を示しながら,自国の利益を拡大しようとしてい た(34)。 以上のような事情があって,支那駐屯軍は楊村に一時派遣隊を送った(35似外には灘州一一山海関 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 153 間の兵力配備に止まった。と同時に他国の行動にも積極的に口を出すことはなかった。同じ「変遷 記録」には「第一革命に至り英軍は豊台,張荘間7カ所に配兵せり」と記されているように,英軍 は1920年6月までに豊台に将校1名,下士卒40名,また落釜に将校1名,下士卒20名を駐屯させて いた㈹が,この明らかな条約違反の駐屯に対して,支那駐屯軍はこれを英軍守備区域内のこととし て何一つの異議もとなえなかった。 このようにして,華北における列国駐屯軍は中国の主権を侵し,自国の利益を損わない限り,相 互に譲りあい,バランスのとれた兵力関係を維持してきた。支那駐屯軍の兵力と編制改正もその枠 組内で行われたと考えられるが,このイギリスによる豊台駐屯(条約外の駐屯)が,のちに重要な 意味をあらわすのである。 4.増強による変容 昭和10年秋以来,日本の「北支工作」(華北を中国から分離させてしまう)は急速に進展した。 これに伴い,抗日救国運動が中国全土に広まっていった。その対応策ともいわれる支那駐屯軍の増 強は昭和11年4月18日急遽行われた。これをきっかけに,支那駐屯軍の兵力は一気に従来の3倍に 増え,編制も次のように強化された。 天津部隊 支那駐屯軍司令部 支那駐屯歩兵第1聯隊第2大隊 同第2聯隊(第3中隊,第3大隊欠) 支那駐屯戦車隊(1個中隊) 支那駐屯騎兵隊(1個中隊) 支那駐屯砲兵聯隊(山砲,15榴各2中隊) 支那駐屯工兵隊(1個中隊) 支那駐屯通信隊(1個中隊) 支那駐屯憲兵隊,軍病院,軍倉庫 北京部隊 支那駐屯歩兵旅団司令部 支那駐屯歩兵第1聯隊第1大隊 電信所,憲兵分隊,軍病院分院 通州分遣隊(第1聯隊の1小隊) 豊台駐屯隊(第1聯隊第3大隊,歩兵砲隊) 塘沽駐屯隊(第2聯隊第3中隊) 唐山駐屯隊(第2聯隊第7中隊) 藻州駐屯隊(第2聯隊第8中隊) 昌黎分遣隊(第2聯隊の1小隊) 秦皇島分遣隊(第2聯隊の1小隊) 山海関駐屯隊(第2聯隊第9中隊) 茨城大学教養部紀要(第23号) 154 以上の総人員は約5, 600である(37)。 尚歩兵大隊は歩兵3中隊,機関銃1中隊と大隊砲を含む完全装備の編成である。これによって支 那駐屯軍は,重砲兵大隊を持つ優良装備の砲兵聯隊と完全装備の歩兵旅団を中心とした部隊となっ た。 また軍司令官は関東軍司令官と同格の親補職になった。部隊もいままでの1年交代制が永駐制と なり,さらに6月18日,宮中正殿において天皇から勅語と軍旗2硫が2歩兵聯隊に親授された。「外 国において編成された部隊に軍旗を親授されたのは,これが最初であって,永遠に中国に止まり, 再び内地に還ることなき軍旗として,意義頗る深いものがあった」という指摘のように,支那駐屯 軍は終に発足当初の「集成編成部隊」より「軍旗を擁する建制部隊」に変った。その意味は実に重 大である。 5.考 察 1.増強の理由と必要性について 支那駐屯軍の増強理由について,同年5月15日の陸軍当局談はつぎのように説明している。 「近時北支の情勢殊に抗日を標諦する共産軍の脅威,平津地方における共産党及び抗日団体の運 動等は帝国の為に洵に憂慮に堪へない,而も平津,翼東就中北寧鉄路沿線の在留邦人の数は近年頓 に激増しているのである。然るに支那駐屯軍現有の兵力は極めて僅少であって万一の場合その任務 の遂行を全うすることは頗る困難である。」(38) 概して言うと,増強の理由は(1)は「北支」の防共,②は居留民の保護である。 これに対して,中国政府は早くも5月18日に駐日大使許世英を通じ,次のような覚書を日本外務 大臣に交付して,このにわかな兵力増強に強く反対の態度を示したのである。 「日本は平津駐屯軍を増加せんとし情報に拠れば速かに実行する由なるが査するに義和団議定書 に於て各国が数ケ処の駐兵権を會同商定することを認めたるは公使館及各関係国の北平より海口に 至る通路の安全を保護する在る処現在事実上駐兵を増加するの必要皆無なり。聞くに日本は今大に 駐屯軍を増加せんとし居る趣なるが右は明かに慣例に反するのみならず且広田前外相の宣布せる不 脅威不侵略政策にも符合せざるにより日本外務省に対し覚書を提出の上制止方要求せられ度。」(39) 中国側の新聞は当時より具体的な反論を展開した(40)。まず5月18日のr新京日報』は以下のよう に報じた。議定書に基づいて華北に大公使館,駐屯兵藪に在留民を有する国は日本だけではないの に,なぜ「独り日本のみ」が不安を感じ,特殊の手段を講じなければならないのか。又防共は「中 国の内政問題であって,日本の“オセッカイ”を要する問題ではない。」にもかかわらず,日本はこ れを口実にするのは何らかの「野心遂行の下準備に外ならない」と言明している。また,同23日の r福建日報』は日本在留民保護の問題に触れて「現在日本浪人の践雇による地方治安の撹乱,中国 主権の破壌,密輸問題こそあり,日本軍の不足による日本人の危害を蒙った事実を聞いていない」 と報じた。 即ち日本側の兵力増強の理由はなんら存在せず,理由のない増強であるなら,その必要性ももち ろん欠けているはずである。これを裏づけする材料として当時の支那駐屯軍参謀長であった橋本群 の「回想」が注目される。彼は言う。 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移にっいての一考察 155 「これ丈の兵力を北支へ置けば大丈夫だと云ふ考であったのですが之が大いに検討を要するもの と思われるので,今から考へるとこれ位の兵力だったら無かった方が良かったと思ひます。」(41) 2.増強の目的について それでは,必要のない増強はなぜ執行されたのか。この問題を解くためには「増強の目的」に触 れなければならない。大方の見方は「陸軍中央部は,関東軍をして完全に(北支から)手を引かせ るためには,支那駐屯軍の現在の戦力が余りにも弱体であり,また,四周の中国側軍隊の軽侮を受 ける虞れがある。」(42}というものである。つまり支那駐屯軍の兵力増強の目的は「今後満洲は関東軍, 華北は天津軍のナワバリと確定するはからい」(43)である。その有力な証言は,当時参謀本部作戦課 長の要職にあった石原莞爾の「回想」である。石原は言う。 「中央部が関東軍の北支に手を出す事をどうしても止めさせ得なかった為に遂に其対策として天 津軍を増強しました。」(44) しかし,支那駐屯軍増強の前後に陸軍中央部から出した指示を振返って見ると,結論は必ずしも そうではないように思われる。昭和11年1月13日,支那駐屯軍司令官に対する指示として決定された 「第1次北支処理要綱」には,いままで関東軍と支那駐屯軍とに委ねた「北支工作」は「支那駐屯 軍司令官の任ずる所にして」,関東軍及在北支各機関はこの「工作に協力するものとす」と同時に, 「自治機能強化に関する指導は財政経済特に金融,軍事及一般民衆指導に重点を指向し」とされて いるように,支那駐屯軍が重い注文をつけられるようになった。その具体的な注文の第1号として, 3月12日,「翼察政権の協力のもとに山西省当局に共産軍掃蕩を行わせ,しかもこれを山西,翼察 合流の契機に利用し,必要な場合の共産軍掃蕩の援助は中央軍にたいしてでなく,日本軍に求める ように指導する」(45,という決定が支那駐屯軍に下された。 ところが,この注文は,いままで公使館と鉄道の守備,居留民の保護を主任務としてきた支那駐 屯軍にとっては,受けようとしても受けられないものである。その直後の4月18日に実施された支 那駐屯軍の増強は支那駐屯軍が悩んでいるこの問題を解消するためのものではなかったかと思われる。 つまり支那駐屯軍の増強の主眼は「関東軍をして完全に手を引かせるため」の所要軍事力を作るこ とではなく,「北支自治」に当たる内面指導の所要軍事力を作ることである。このことは増強兵力 の算定基調にも見られる。当時支那駐屯参謀長で,兵力算定の現地最高担当者であった永見俊徳は こう回想している。 「私は現在北支に保有する支那の兵力は宋哲元の指揮する3ケ師で,一般の情勢上他の方面にあ る支那軍がこれに合流することは先ずあり得ないことと判断し,宋哲元の3ケ師に対し駐屯軍が十 分なるrにらみ』をきかせ,万一の際にも独力でこれに対処し得るためにはどれだけの兵力を保有 すれば良いかということを基調として算定の研究に入ったのであった」〔469つまり「北支」に十分な にらみをきかせる兵力を作ることが増強のねらいである。 そして,筆者に言わせれば,もし関東軍に華北から手を引かせるだけの目的なら,ほかの有効な 手段があるはずである。この点について,同じ「石原莞爾中将回想応答録」にはつぎのように述べ られている。 「当時天津軍の増強等といふ方法によらず統帥の威力により関東軍に手を引かせる様にすればよ かったらうと責任者として自責の念に駆られるのであります。」(47, 156 茨城大学教養部紀要(第23号) っまり換言すれば,有効な手段を講じなかったのは違った目的が存在したからである。 また,支那駐屯軍が増強されて3カ月も立っていないうちに決定された「第二次北支処理要綱」 (昭和11年8月11日関係諸省間決定)は「第1次北支処理要綱」の方針をつぎのように一変した。 「1 北支処理の主眼は北支民衆を本位とする分治の完成を援助し該地域に確固たる防共親日満 の地帯を建設せしめ併せて国防資源の獲得藍に交通施設の拡充に資し以て一は蘇国の侵憲に備へ一 は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむるに在り,2.右目的達成の為には該地政権に対する内 面指導に依ると共に之と併行し南京政権をして北支の特殊性を確認し北支の分治を牽制するが如き 施措をなさず進むで北支政権に対し特殊且包括的なる分治の権限を賦与せしむる様施策するものと す。」〔48♪ これを契機に「北支分治」は対ソ戦に備える国防資源を獲得するための「経済開発」を具体的に 進むと同時に,南京政府の下に行おうとする段階に入った。それは「北支分治」に対応するための 軍事力が一応確保されたからではないかと思われる。 3.軍旗親授された意義について 前文に触れたように,海外において編成された部隊に軍旗を親授したのは支那駐屯軍は始めてで ある。このことは重要な意義を有するのである。 まず,日本の軍旗はフランス式の大きな影響下で制定されたとは言え,丸ごとの模倣ではなく, 日本独得のものに仕立て上げられたのである。権威のある説明は日本軍旗について次のように述べ ている。 「我が軍旗の竿頭に附せられたる菊花御紋章は畏くも皇室の御紋章であり,旗面に書く日章は我 が国古来の国民的信仰たる日の神の知らす日の本を象徴し,之に十六條の光線を附せられ,皇威八 紘に輝くの状を示し,其聯隊號は陛下の御震筆と漏れ承るは実に尊き極みである。これを天皇御躬 ら授け給ふことは即ち錦の御旗其儘と申上ぐべきであり,従って軍旗の在る所即ち陛下の御馬前で ある。」(49〕 つまり日本の軍旗は天皇の象徴として位置づけられてきた。それは軍旗に対する扱いにも表され た。欧米では,国家元首が軍旗に対して敬礼するのが常識であるが,日本では,明治初年,「御旗」(5ω の頃は天皇,皇后及び大臣に対して敬礼を行っていた。明治20年,軍旗は天皇,皇后,神霊に対し て敬礼するように改められ,更に明治23年には天皇及び神霊のみに対して旗礼を行うこととされだ5ど 当然国家元首である天皇は軍旗に対して敬礼しない。それと関連して,軍旗の守護にあたる誘導将 校,旗手,護衛下士並びに軍旗中隊は軍旗への敬礼しか行わない。また,宮中における親授式にお いても,聯隊長と聯隊旗手は東御車寄より宮殿に参内し,御車寄に軍旗を進めるのは普通であっだ53 御車寄とは天皇だけが専用される表玄関であって皇后といえども,単独の場合は東御車寄を使用す るのである。これらの事例を綜合して言えば,日本の軍旗は皇軍たる象徴であると同時に,天皇の 身替でもあった。 そして,日本の軍旗が「聯隊旗」とも俗称されているように,歩兵・騎兵聯隊しか親授されなか った。それは日本の軍旗制度の独得のものであり,日本陸軍の編制の特徴でもあったからである。 大江志乃夫氏の区分(53)によると,日本の陸軍は旅団,師団などに編成されている。師団以上の組 織は原則として戦時又は事変に際してのみ編成される。師団以下の軍隊の平時編制は「常備団隊配 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 157 備表」という形で軍令として制定され,官報に公示される。その「常備団隊配備表」によれば,日 本陸軍の平時編制の最大単位は師団とされているが,最小単位は聯隊とされている。また「軍隊内 務書」も「軍隊教育令」もその対象が一貫して聯隊以下の部隊とされ,兵営も普通聯隊単位で設置 されていたことを踏えて考えれば,聯隊が日本陸軍の核心的な存在であったことはほぼ違いないこ とであろう。そのほかに,「歩兵操典」には「聯隊は将校団の団結,教育の統一,編制及歴史に基 き独立して一方面に於ける戦闘を遂行するに特に適するものとす」,「聯隊は他の援助を胸算する ことなく自力を以て戦闘を終始す」とされているように,聯隊は大隊と違って,独立して一方面の 戦闘を終始する能力と規模をもつ戦闘単位であった。その進出すべき地線は「通常師団の進出すべ き地線に一致す」(54)とされている。 ところが,前文にすでに触れたように,支那駐屯軍は条約に基づいて編成された1年交代による 「集成編成部隊」であって,正規の建制部隊ではなかった(軍旗を奉じなかったのはそのためであ る)。その任務も公使館及び北京より海口に至る通路の安全を保護することに限られていた。しか し,支那駐屯軍の昭和11年4月18日の増強に伴う軍旗親授はこれらを全部逆に換えさせてしまった。 それは「辛丑条約」に対する拡大解釈並びに中国の主権に対する侵害以外の何ものでもない。だが, 中日両国においてはいまだに,この問題を論及していない。筆者にとっては,これは極めて不思議 な事である。 4.豊台駐兵の是非について 周知の通り,豊台と言う所は戦略上の交通の要点である。鉄道が京漢線,天津,北京など各方面 へ行く分岐点になっているため,軍事上ここを押えることは大変重要なことである。そのため,中 国の第29軍(司令官宋哲元)のユ個大隊が豊台を駐屯していた。「辛丑条約」においても豊台が駐 兵指定地域外とされている。 ところが,支那駐屯軍は昭和11年4月18日の増強を契機に,今まで手が届けなかった豊台に1ケ 大隊を分置するようになった。その経過について,「橋本群中将回想応答録」にはこう語っている。 「現地では通州に置きたかったのであります……ところが当時陸軍省で梅津次官等は反対をされ ました。夫れは通州に置くと云ふことは条約にないからです。即ちr通州に兵力を置くと云ふのは 国際問題となった時に何等外交的に見ても根拠がない。そう云ふ所に駐兵すると云ふことは外交上 の弱点を惹き起す』と云ふので,之は尤な話でそれで其の次は豊台を考へたのです。豊台も指定地 域外でありますが,そこには十数年前英国軍が駐屯し何年か居て,どうした訳か引き上げてしまっ たことがあるのですが,当時支那側は何等抗議をして居らない。さう云ふ先例があることを陸軍省 が外務省で探し出しまして夫れでそこへ決まる様になって,取り敢へず城内に1大隊,豊台に1大 隊,天津に1大隊と分置して仮りに収容することになりました」《55〕。 この「回想」について,2点ほどっけくわえて説明する必要があると思われる。その第1点は陸 軍省が増強による刺戟を極力押えたかったということであるが,それは国際與論に対する配慮より もむしろ日本帝国主義の中国に対する「なし崩し」的侵略の正体が暴露されたくないということである。 というのはもし完全に{鬼偏化された翼東政権の処に1ケ大隊を置けば,その「北支分治工作」の正 体が現われてしまうことになるからである。第2点は,豊台は確かに戦略上の交通の要所であり, 指定地域外であるが,英軍の先例があるから,中国側が今度もとくに抗議しないだろうという甘い 158 茨城大学教養部紀要(第23号) 判断が陸軍中央部にあったに違いないということである。当時中国駐在武官であった磯谷廉介は日 本陸軍における対中国情勢判断について次のように語っている。 「蒋介石は中国を統一する力量はなく,中国はあまりに広大で,且つ異質なるにより,分治合作 が自然に適し,少なくも北支には親日満の政権を分立させることが,必要であり可能であろうとい う誤った対中国情勢判断が陸軍一般の通念であった。」(56} 確かに英軍の豊台駐屯に対して中国側は特に反対しなかった。それは南京政府成立前のこともあ り,中国では政府らしい政府ができていなかった。また,英軍当時は辛亥革命による「内乱」に備 える口実を持ちながら豊台一張荘間7カ所(英軍鉄道守備区域)に臨時増強による部隊配置を行 ったのである。その後の事情は資料が発見されていないたあ,なお不明だが,「列国の対支政策は 臨城事件以来俄然其の形を改め……逐次支那共管の域に進まむとするの傾あり」〔57)という記録を踏 まえて考えると,英軍はおそらくワシントン会議後に,自ら中国にある鉄道守備区域から駐兵を引 き揚げたと思われる。 一方中国も軍閥割拠から国民政府による統一へと向いつつある。とくに昭和10年以来の日本帝国 主義の露骨な「北支分治工作」が急速に展開されたため,中国共産党による「連蒋抗日」, 「抗日 統一」の気運が全国的な規模で高揚されるようになった。こういう現状において行われた豊台駐屯 並びに兵営,練兵場,飛行場の建設のための土地租借(北京の南玄関を拒する長辛店・豊台・芦溝 橋附近の土地)はいうまでもなく「辛丑条約」に対する拡大解釈であり,中国政府が「東京の政府 が,川崎や市川に外国軍の基地を認めることを欲しないと同じ心理を以て」{58)これらのことを拒否 したのはいうまでもないことといえよう。それにもかかわらず,支那駐屯軍は2回の豊台事件を起 して中国29軍の部隊を豊台から撤去するよう強迫し,ついに豊台を日本軍によって単独占領した。 このようにして,支那駐屯軍による豊台駐屯が芦溝橋事件の「直接原因」となった(59)。 5.増強と軍の「大方針」との関係について 「その頃(昭和12年夏),北支に軍事上のトラブルを起すことは大禁物とされ,この方面には絶 対に平和を保っことが軍の大方針であった。」(60)その背景はつぎの通りである。 昭和12年5月29日,日本の陸軍は「概ね昭和16年を期し計画的に重要産業の振興を策し以て有事 の日,日満及北支に於て重要資源を自給し得るに至らしむると共に平時国力の飛躍的発展を計り東 亜指導の実力を確立す」という方針をもつ「重要産業5年計画要綱」を策定した。当時陸軍として は,5年後において対ソ戦備を概成することを目的として,軍備の充実と国防産業の確立を中心と して推進していた。従って,「北支工作」もそれに応じなければならない。具体的に言えば,中国 での衝突を極力避けることであった。昭和12年4月16日,新しい「対支実行策」「北支指導方策」 が外務,大蔵,陸軍,海軍4大臣によって決定された。この新政策では「北支の分治を図り若くは 支那の内政を素す虞あるが如き政治工作を行はず」と,従来の「北支分治」方針は放棄されるよう になった(61)。しかし,この方針転換の具体的な進展は何一つも見ることができなかった。石原莞爾 の手で作られた「日支国交調整要綱」にはつぎのような具体策が示された。 1.豊台の兵力を通州に移転し通州天津を確保して翼東防衛の態勢を明にす 2.翼東は支那が満洲国を承認する迄の抵当なり 我勢力下にある間速に其大改革を断行し新支那建設の模範たらしむるを要す 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 159 3・天津軍の政治経済指導権を廃止し(北支は満洲と異る)北京に外交機関(要すれば大使館 附武官を中心とす)を置き翼察政権との交渉に当らしむ。翼察政権との交渉は融和諒解を主 とし強て我権盆を獲得せんとする行動を避く(62)。 しかし,現地の華北特に支那駐屯軍では,実際何の変化も起っていない。支那駐屯軍の豊台駐屯 は2回の豊台事件があったにもかかわらず,以前のままであった。また,聯隊編成以来,初めての 現役初年兵は歩兵第1聯隊が昭和12年2月28日,歩兵第2聯隊が同年3月1日,それぞれ秦皇島に 上陸し,各所属の中隊に配属され,入隊した(63)。さらに,それまでは1年交代による歩兵隊編制が 増強とともに常設による聯隊編制に変わったため,初年兵教育を含めた教育訓練を行わなければな らなくなった。たまたま「歩兵操典」もその時に改正され,新操典に基づく教育訓練は昭和12年3 月から開始された。従来の訓練演習は儀杖や礼砲の儀式用訓練と居留民・鉄道を保護するための軽 装した市街戦程度のものであり,夜間行軍はあったが夜間の戦闘訓練や射撃などが固く禁じられて いた(64)。ところが,今度の教育訓練の特徴の1つは内地部隊に劣らぬ猛烈さであった。そして夜間 の接散行動(薄暮)と払暁から黎明にかけての従深陣地の攻撃並びに,仮設敵に対する空砲射撃も 実施された(65}。これらの教育訓練の目的はともあれ中国第29軍が刺戟され,厳重な防衛体勢を取る ようになったのは事実であろう。 そればかりではなく,増強による編制改正は支那駐屯軍の部隊を「統帥なき統帥」に置かせるこ とになった。1937年7月7日夜芦溝橋においては謎の銃声」と「兵1名不明」によって中日両軍は 交戦状態に入ったが,8日夜遅く特務機関から「芦溝橋の中国兵は明9日午前4時撤退する如く協 定成立す」という通報があった。これに基づいて支那駐屯歩兵旅団長河辺正三は左記命令を下達し た(66)。 旅作命第7号 旅団命令7月9日午後3時40分於芦溝橋駅 1.芦溝橋を占領せる敵部隊は永定河右岸に撤退せり,軍は目的を達したるを以て原駐屯地配置 に復す 2.旅団は一部を以て芦溝橋を監視し主力を原駐屯配置に復せんとす。 3.歩兵第1聯隊(第2大隊欠)は成るべく速に戦場掃除をなしたる後適宜原駐屯配置に復すべ し (以下略) それにもかかわらず歩兵第1聯隊長牟田口廉也は「午後4時頃(7月10日)中国兵らしきもの龍 王廟出現」という報告を根拠に旅団命令を無視し,独断で威力偵察を命じたと同時に,下記命令を 下達した(67)。 支歩1作命第11号 聯隊命令 7月10日午後7時於一文字山 1.聯隊は敵の不信行為を贋懲する目的を以て之を攻撃せんとす 2.第1大隊は現在世良小隊(威力偵察に出した小隊)と対戦しある敵の側方より攻撃し一挙に 之を繊滅すべし敵を現地に於て繊滅したる後西5里店に集結すべし (以下略) 第一戦の銃声(威力偵察小隊による戦闘)を聞いた旅団長は副官を帯同して聯隊本部にかけっけ 160 茨城大学教養部紀要(第23号) たところ「聯隊長は現在の状況を説明し第1大隊に夜襲を命じたことを報告した。旅団長は黙々と して聞いていたが,第1大隊に攻撃を命じたことを聞くに及び,顔色蒼白今にも一喝するかと思は るる相貌となった。……旅団長は遂に一言も発せず踵を返して旅団司令部に引返へされた。日はな お高し。」(68) この事実には2つの問題が含まれていると思われる。つまり第1大隊に攻撃を命ずる前何故至近 距離にある旅団長に事前報告しなかったのか。また,第2の問題として,第1大隊が行動を起すま でにはまだ時間の余裕があるのに,聯隊長の命令を不可と考える旅団長が何故中止させなかったの か。考えて見ると,これらの問題こそ,下剋上による対支麿懲戦開始の経緯ではあるまいかと考え られる。牟田口廉也は後日当時の心境についてこう語っている。 「当時心中に浮ひしことはr遂にやッたな』と云ふ感じにて……驚きたるもさて更に他の一方に 於て憂慮の余り上司の指令をも受け度き心境絶無と云ひ難し,然れども此の事たるや過去に於ける 有らゆる此に類したる事件に於て現地の当時者が当然決心せざるべからざることを決心し得ずして 上司に指令を仰きし為に遂に適切なる処置に出つることを得ずして失敗せる例多きを豫てより遺憾 に思ひ此の如きは責任を上司に転嫁するものにして現地の責任者が現地の状況に磨じ任務に基き決 心することが最も適切なる所以なりとの平素よりの強き決心を有したるを以て上司に指令を仰かん とする考は忽ちにして消散せしむることを得たり。」(69) 即ち旅団長に報告すれば押えられる計算が大きい,そうであるならば,むしろ今度は自分の独断 で贋懲戦を開始しようと,牟田口廉也は思った。こういうことが可能になったのはいうまでもなく 増強による聯隊編制だと思われる。前文にすでに述べた通り,いままで支那駐屯軍の部隊編制は歩 兵隊であり,その兵力は発足当初を除けば,大体大隊規模で,多い時でも2ケ大隊(昭和10年増強 以後)であった。日本陸軍における大隊の位置は「戦術単位にして若干の歩兵中隊,重火器等を統 一使用し戦場に於ける一部の任務を遂行し得るものとす」とされているので,歩兵隊は支那駐屯軍 の本来の任務をみたすにはふさわしい編制であった。ところが,昭和11年4月18日の増強が支那駐 屯軍の部隊編制を歩兵隊から聯隊に変わらせたため,いままで単独で戦争を起こすことができなか った部隊(歩兵隊)は「他の援助を胸算することなく,自力を以て戦闘を終始す」という部隊(聯 隊)になった。これにょって,第1歩兵聯隊長牟田口廉也が局部戦争としか考えなかった「対支膚 懲戦」を開始できる戦闘能力と指揮権限を持つ結果となった。 この統帥に属すべき編制運用の妥当性について,実は早くも昭和11年2月の時点で,ゆゆしいこ ととして,最高統帥であった天皇から「其機構(支那駐屯軍の編制)を過大ならしめて,関東軍の 如く却て其統制に不便を来すが如きことなからしむべく当事者に注意せよ」(70,という注意があった。 それにしても,この憂慮すべきことは何の改善を見せずに,ついに芦溝橋事件における現地部隊長 の独断専行という形で現実となった。 皮苦にも,以上の実情が根強く存在する以上,たとえ方針転換を見せたにしても何の変化が起ら ないのは日本帝国主義の宿命であった。 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 161 6.おわりに 以上,中日全面戦争と深い関係にあった支那駐屯軍の兵力・編制の推移を手がかりとして,二つ の事実関係を読むことができたと思われる。一つは「辛丑条約」に基づいて発足した支那駐屯軍の 当初のきわだった特徴は正規の建制部隊ではなかったが,昭和11年4月18日の増強を境にして,そ の部隊は1年交代制をとる「集成編成」から軍旗を奉じる永駐制をとる「建制」へ,そしてその任 務もまた公使館及び北京から海口に至る通路の安全を保護することから「北支政権」に対する政治, 経済,軍事を含む内面指導へ一変した。これらのことは「辛丑条約」に対する違反行為ばかりでな く,中国の主権に対する侵害でもある。そしてもう一つ判明したことは当事者にものべているよう に, 「芦溝橋事件の直接原因」であった豊台駐屯が「辛丑条約」に対する拡大解釈であったという ことである。これらの事実を踏えて考察すると,中日戦争の原点はこの昭和11年4月18日の支那駐 屯軍の増強にあるのではないかと思われる。また,芦溝橋事件も実際その時点ですでに構造的に起 っていたと言えよう。 注 (1)中国の公文書,出版物では「華北駐屯軍」という表現を使っているが,本文では当時の歴史的なイメージ を伝える意味において固有名のまま使うことにする。 (2) 外務省『日本外交年表拉主要文書』(日本国際連合協会,昭和35年)197’−198頁。 (3) 陸軍省『明治天皇御伝記史料 明治軍事史(下)』(原書房,昭和41年)1110頁を参照。 (4) 『秘明治33年清国事変戦史附録第1動員編成及補充』(防衛庁防衛研究所蔵資料)附第26表を参照。 (5)同上 (6)同上,133’−134頁を参照。 (7)同上,136頁。 (8) 軍令部「支那駐屯軍の強化と其の影響」(『支那特報』第6号,昭和11年)4−7頁を参照。 (9) 「永見俊徳報告」(加登川幸太郎『中国と日本陸軍(下)』圭文社,1978年)155頁を参照。 (10) 同上 (11)陸軍の秘密事項即ち平時編制,諸勤務令等の発布に使用する発間区別番号符。 (12)陸軍省『密大日記』(大正3年)4冊の内1,派遣交代の部。 (13)同上,(大正13年)5冊の内4。 (14)同上,11頁。 (15)同上,22頁。 (16)軍令部「北支駐屯軍兵数問題に関する参考資料」(『支那時局月報』昭和11年第1号一一第6号)17頁を 参照。 (17) 同上,25頁を参照。 (18)同(9),156頁を参照。 (19)陸軍の軍事機密事項即ち動員計画・戦時編制等の発布に使用の発簡区別番号符。 (20)海光寺会『支那駐屯歩兵第2聯隊誌』(自家版,昭和52年6月)79頁を参照。 162 茨城大学教養部紀要(第23号) (21)派遣交代が実施されるごとに支那駐屯軍司令官より陸軍大臣に提出する報告書。 (22)陸軍省『密大日記』(大正2年)4冊の内1。 (23) 2期入営部隊は近衛,第19,第20師団,台湾軍,独立守備隊などを指すが,その歩兵は12月1日(前期) と6月1日(後期)とを分けて入営する。 (24)教育総監部『軍隊教育令 附説明』(昭和9年)附表第1其2を参照。 (25)陸軍省『密大日記』(大正4年)4冊の内1。 (26) 支那駐屯軍司令部「支那駐屯軍交代に関する報告」(陸軍省『密大日記』昭和4年)第1冊。 (27) 「香月清司中将回想録」(『現代史資料 日中戦争(4)』みすず書房,1963年)530頁。 (28) 「北支那駐屯列国軍協同防御計画策定に関する軍司令官会議の概況 其2」(陸軍省『密大日記』大正 13年)5冊の内5。 (29) 同上,(昭和12年)第12冊の2分冊の1。 (3① 同(28)。 (31) 同(28)。 「北支那列国駐屯軍守備区域変遷記録」(陸軍省『密大日記』大正14年)6冊の内5。 (32) (33) 支那駐屯軍司令部「支那駐屯軍編成改正に関する意見」(陸軍省『密大日記』大正13年)5冊の内4を 参照。 (34) 同上。 (35) 1916年5月の列国軍司令官会議において,楊村より天津東帖に至る仏軍の守備担任区域を臨時に日本の 担任区域に編入することが決定された。従って1920年7月再び仏軍に引渡されるまで,支那駐屯軍は31名の 守備隊を楊村に分遣しつづけた。 (36) 「北支那駐屯列国軍兵力配備要図」(陸軍省『密大日記』大正9年)5冊の内1。 (37) 陸軍大学校『北支那作戦史要 支那駐屯軍』(防衛庁防衛研究所蔵原本史料)3頁。しかし,「北支那 駐屯列国軍兵力配置要図」(陸軍省『密大日記』昭和12年年2分冊)には昭和12年1月末日現在の支那駐屯 軍の兵力は4,088とされているが,それは非戦闘員を除いた数字だと考えられる。 (38) 『東京朝日新聞』昭和11年5月16日夕刊。 (39) 軍令部「支那駐屯軍の強化と其の影響」(『支那特報』第6号)の直訳文によるもの。 (40)同上。有田外務大臣宛の南京駐在の須磨総領事と福州駐在の中村総領事発の「電報」によるもの。 (41) 「橋本群中将回想応答録」(『現代史資料(9)日中戦争(2)』みすず書房,昭和39年9月30日)326頁。 (42) 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北支の治安戦(1)』(朝雲新聞社,昭和43年8月25日)6頁。 (43) 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部『太平洋戦争への道(3)日中戦争(上)』(朝日新聞社,昭和37 年12月20日)185頁。 (44) 「石原莞爾中将回想応答録」(『現代史資料(9}日中戦争(2)iみすず書房,昭和39年9月30日)304頁。 (45) 同(43),184頁。 (46)陸軍中将永見俊徳『私と支那一在支公的勤務』(防衛庁防衛研究所蔵原本史料)363頁。 (47)同(44)。 (48) 『現代史資料(8}日中戦争(1)』(みすず書房,昭和39年7月31日)368頁。 (49)教育総監部『軍旗に就て』(精神教育資料第46号,昭和9年7月)24頁。 (50)錦旗は正式の名称である。古代臣下に征討を命じる時,内裏より錦旗又は節刀を賜わり,戦役中におけ 孫:支那駐屯軍の兵力・編制の推移についての一考察 163 る兵事の掌握,生殺与奪の権を委任する。凱旋,解任の時はこれを奉還する。これは明治元年2月15日の有 栖川宮熾仁親王が東征大総督に任された時までっついた記録がある。 (51)歩兵第39聯隊史編集委員会『姫路歩兵第39聯隊史』(自家版,昭和58年)821頁を参照。 (52) 高市近雄「歩・騎兵聯隊と軍旗(2)」(『借行』昭和63年6月号)3頁を参照。 (53)大江志乃夫『天皇の軍隊』(『昭和の歴史(3)』小学館,1989年3月20日)91 一 93頁を参照。 (54) 教育総監部『歩兵操典注解』(成武堂,昭和15年)278頁。 (55) 同(36),326 一・ 327頁。 (56) 防衛庁防衛研究所戦史室餓史叢書 大本営陸軍部(1)』(朝雲新聞社,昭和42年9月25日)363頁。 (57)同(25)。 (58)伊藤正徳『軍閥興亡史皿』(文芸春秋新社,昭和33年12月20日)15頁。 (59)同(41),(44)を参照。 (60)同(58)17頁。 (61) 「対支実行策」(『現代史資料(8)日中戦争(1}』みすず書房,昭和39年7月31日)400頁を参照。 (62) 石原莞爾「日支国交調整要領」(同上)376頁。 (63) 支駐歩一会『支那駐屯歩兵第1聯隊史』(自家版,昭和49年8月15日)7−−8頁,同(20)95頁を参照。 (64) 桂鎮雄「芦溝橋事件の世界謀略史的位置づけ」(『支駐歩兵会々報 芦溝橋事件50周年特集号昭和62 −5月』自家版)111頁を参照。 (65)長沢連治「芦溝橋事件を想起して」(同上)31頁を参照。 (66) 岡野篤夫『芦溝橋事件一日中開戦の実相』(旺史社,1988年8月15日)76頁。 (67)同上,78頁。 (68)同上,79頁。 (69)牟田口廉也「支那事変勃発時の真相蚊に其の前後の事情」(陸軍大学校『北支那作戦史要一最高統帥 部』防衛庁防衛研究所蔵資料)。 (70) 『本庄日記』 (原書房,昭和42年2月25日)235頁。