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「朝鮮教育令」から「台湾教育令」
2007 年度 財団法人交流協会日台交流センター 日台研究支援事業報告書 <第一論文> 「朝鮮教育令」から「台湾教育令」へ -学務官僚隈本繁吉の軌跡-(概要) 日本大学大学院文学研究科/国立教育政策研究所 阿部洋 派遣期間(2008 年 1 月 7 日~2 月 5 日) 財団法人 交流協会 <第一論文> 「朝鮮教育令」から「台湾教育令」へ-学務官僚隈本繁吉の軌跡-(概要) はじめに 「朝鮮教育令」(明治 44 年・1911)と「台湾教育令」(大正 8 年・1919)は、戦前日本 の植民地教育の基調をなすものであった(資料(1)参照)。 本稿は、これら二つの教育令の策定に関わった学務官僚隈本繁吉の足跡をたどることを 通して、それらの成立経緯を検討し、戦前日本の植民地教育体制構築過程とその特質につ いて、台湾の場合を中心に考察しようとするものである。 (1)韓国から台湾へ 隈本繁吉(1873-1952 年)は、明治末から大正中期にかけて、12年間にわたり朝鮮およ び台湾での植民地教育の枠組み作りにかかわり、自らが関与した植民地教育政策に関する 貴重な資料(『隈本繁吉文書』)を多数残したことで知られる(資料(2)参照)。 彼は、明治41年(1908)韓国に学部書記官として赴任し、保護政治下の韓国教育行政の 前線指揮官として、反日的教育救国運動弾圧の前線指揮を執るとともに、明治43年(1910) 併合後は、朝鮮総督府初代学務課長として、寺内正毅総督のもとで、「朝鮮教育令」原案 の策定にあたった(資料(3)参照)。この「朝鮮教育令」において、植民地教育の基本方針 として、「教育勅語ノ趣旨」に基づく「忠良ナル国民」の育成(第 2 条)と、「時勢ト民 度」に適合する「簡易ニシテ実用的」教育(第 3 条)、換言すれば「同化」と「差別」の 二つの原理が初めて提示されたことは、周知のとおりである。 隈本は、3年間の韓国在任の後、明治44年台湾に赴き、以後大正9年(1920)までの9 年間、台湾総督府学務課長・部長として、植民地教育政策の推進に精力的に取り組むこと になるが、彼が最初に直面した問題は、台湾領有以来総督府がとって来た「愚民化政策」 の下で高まって来た台湾人の教育要求、なかでも林献堂らの中学校設立運動に対して如何 に対処するか、という問題であった(資料(4)(5)参照)。隈本は、佐久間総督の「蕃地討 伐5ヶ年計画」への協力をテコにして林献堂ら郷紳層から提出された内地人並み「公立中 学校」設立案をもとに、中央政府との折衝に当たることとなる(資料(6)参照)。 (2)「公立台中中学校官制」をめぐる台湾総督府・中央政府間の交渉経緯 大正3年4月「台湾公立中学校官制制定ノ件」として閣議に提出された総督府の提案に 対しては、法制局から強硬な異議が提出された。それによれば、公立中学校の設立は、徒 に島民の「自覚心ヲ昂進シ不平ノ念横溢」して統治に障害を及ぼすものであり、台湾の教 育は植民地朝鮮の場合と同様、「簡易にして実用的」な教育を基調とすべきだとして、「公 立中学校官制」の公布に先だち、朝鮮の場合に準じて「台湾教育令」を制定することを主 張した。その結果台湾総督府側の激しい反発にも拘わらず、同官制の公布は大幅に遅れる こととなった(資料(7)参照)。 その後、大正3年秋に至り、大隈首相の命令にもとづく内閣書記官長の法制局長官あて 審議督促(「依命通牒」)によって、ようやく「台湾公立中学校官制」の実質的な審議が 始まるが、法制局が提示する①中学校の修業年限は4年、入学資格は公学校4学年修了を -1- 原則とする、②将来「台湾教育令」を制定することを条件とする、との厳しい原則により、 審議は容易に進展しなかった。しかし、台湾総督府側には中学校開設に一刻の猶予も許さ れぬ緊迫した事情があり、結局法制局案どおりの閣議決定がなされ、大正4年2月2日「台 湾公立中学校官制」(勅令第 7 号)が公布された(資料(8)参照)。 公立台中中学校が開校されるのは大正4年5月1日のことで、予定を1年遅れての開校 であった。しかしその内容は当初の構想とは似ても似つかないもので、中学校の名前だけ はとどめているものの、制度・内容すべて内地人中学校に比べて程度が低く、台湾人側に 総督府に対する強い不信・不満を残すものとなった。 (3)「台湾教育令」案の策定過程 ところで、公立台中中学校問題はこれで一件落着というわけには行かなかった。中学校 設立認可の条件として「台湾教育令」の制定という課題が台湾総督府に課せられていたか らである。そのため、台湾総督府は中学校開校と同時に「台湾教育調査会」を設立して教 育令原案の策定にあたり、大正5年初めには第一次案を策定し、法制局に送付した。これ をうけて隈本は、内務省・法制局などとの折衝を行う傍ら、金子堅太郎、末松謙澄ら枢密 顧問官を歴訪して、教育令案の趣旨説明に従事した。 しかし法制局の総督府原案に対する拒否反応は強く、中等教育機関の名称変更(高等普 通学校・女子高等普通学校)や公学校の修業年限の短縮、入学資格の引き下げなど、あく まで「朝鮮教育令」に準拠すべきことをして主張して譲らず、審議は遅々として進まなか った。その背景には当時非立憲の弾圧政治により厳しい批判を受けていた寺内内閣の専制 的性格があったが、同時に寺内自身がかつて朝鮮総督時代に自ら朝鮮教育令の制定に深く 関わった経験を有し、台湾教育令の内容にも強いこだわりをもっていたことも上げられる。 そのため、その後台湾総督府から第二次案も提出されるが、その主張はことごとく無視さ れ、教育令審議は未解決のまま翌年に持ち越され、新に成立した拓務局に引き継がれるこ とになった。その間、隈本は列強の領土・本国における教育の実状視察のため、大正6年 末から1年余にわたり欧米に派遣されている。 (4)枢密院における「台湾教育令」の審議 寺内総理大臣により請議案「台湾教育令制定ノ件」が閣議に提出されたのは、ようやく 大正7年7月のことであった。「説明」によれば、「殆ント底止スル所ナキ土人向学心ノ 向上ヲ抑制」するために、「朝鮮教育令」を基準に、「台湾教育令」を制定する必要があ るとし、「抽象的知識ヲ授ケル高等普通教育」は「高等遊民ヲ生シ且ツ徒ニ土人ノ自覚心 ヲ高メル虞」があるので、発足したばかりの台中中学校も廃止し、公学校の修業年限も朝 鮮の場合に準じ4年に短縮するというのである(資料(9)参照)。 「台湾教育令」案は直ちに寺内総理大臣により上奏され、諮詢を受けた枢密院は7月6 日金子堅太郎ら審査委員6名を指名して、前後7回にわたり委員会審議を行った。ところ が委員会は7月11日に第1回会合を開催して以後、4か月余にわたって審議がストップ している。その間、米騒動により寺内内閣が倒壊し、代わって最初の政党内閣たる原敬内 閣が成立していた。第 2 回審査委員会が開催されたのは11月29日のことで、それ以後 急ピッチで委員会審議が進められた(資料(10)-①参照)。 -2- 金子委員長の「審査報告」が行われるのは同年12月13日の第7回会合の席上で、そ こでは寺内原案に対して痛烈な批判が為された。それによれば、「教育令」制定の趣旨・ 立案の骨子は、概して当を得ているが、公学校の4年制への引き下げは、明らかに「抑制 ニ失スル」ものであること、「島民向学ノ欲求ハ必然ノ趨勢」であり、これに適度の満足 を与えるのが「施政ノ要諦」であることを指摘して、公学校6年、入学年齢の満7歳据え 置きが妥当であり、島民の寄附により設立されたばかりの公立中学を廃止するのも穏当で ないとして、全会一致で寺内原案を修正し、現行制度のとおり据え置くことを決議した(資 料 10-②③参照)。 この審査委員会の見解の背景には、台湾教育令案の折衝過程において隈本が金子や小松 原など枢密院特別委員を歴訪して、精力的に総督府案への根回し工作を行っていたことの 成果が反映していたといえるが、より直接的要因としては、寺内内閣の後を受けて登場し た原敬内閣の姿勢・方針をあげなければならないであろう。12月18日に開催された枢 密院本会議の議論でも、寺内の「愚民政策」に対する批判が集中し、委員会修正案が支持 された。原総理大臣相も修正案を全面支持する旨の発言を行っている(資料 10-④参照)。 おわりに 台湾教育令修正案は同日枢密院本会議で議決成立のうえ上奏され、大正8年2月29日 勅令第 1 号として公布された。これにより寺内原案に見られた極端な抑制主義=「愚民教 育」の教育方針は斥けられた。しかし、その一方で本会議は「本令ヲ制定セムトスル趣旨 及立案ノ骨子ハ概シテ允当」として、植民地教育の基調を是認する委員会の見解を全会一 致で承認するのである。そして「朝鮮教育令」の二つの条文、すなわち、 第2条 教育勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス 第3条 教育ハ時勢及民度に適合セシムルコトヲ期スヘシ が、そのままの形で「台湾教育令」に継承されることとなり、その結果として、「同化」 と「差別」を基調とする植民地教育の基本方針が改めて確認され、これにより戦前日本の 植民地教育の基本的枠組みが最終的に確立することになる。 -3- 「朝鮮教育令」から「台湾教育令」へ— 学務官僚隈本繁吉の軌跡— (資料) 資料(1) 「朝鮮教育令」と「台湾教育令」の対比 資料(2) 隈本繁吉略歴 資料(3) 着任当初における隈本の台湾教育観 ①「台湾人教育ハ統治ノ方針ヲ体認シ世界ノ人道、列強ノ視聴ニ戻ラサル限ニ於テ衣食住 ノ安固ヲ図ルニ必須ナル智徳ノ開発ニ止メ、・・・カノ徒ラニ教育ノ普及上進ヲ企画シ 却 テ統御シ難キ遊民ヲ輩出スルカ如キハ根本ニ於テ誤レルモノト認ム。 ・・・表面上教育ヲ重視スルガ如クシ実際ニ於テハ何等進ンテ之ヲ奨励セズ、止ムヲ得 ザル限ニ於テ漸次施設スル等運用ノ妙アランコトヲ要ス」(隈本「台湾ニ於ケル教育ニ 関 スル卑見ノ一二並ニ疑問」明治 44 年 3 月 5 日) ②「台湾教育ハ政府ヨリ余リ指導提撕勧誘セス寧ロ人民ノ自奮自発ニ応シ、 時代相応ノ 施設ヲ為スヘキコト是ナリ。即チ台湾教育ハ漸進ノ方針ヲ執リ寧ロ教育セサルヲ以テ教 育ノ方針ト為スコト是ナリ」(持地六三郎「教育行政概要覚書」明治 44 年?) 資料(4) 急務としての公学校教育の整備・拡張 ①公学校教育:「抑制」:から「普及」へ 「・・・従来ニ比シ稍々公学校ヲ増設シ初等教育ノ普及ヲ謀ルハ本島百年ノ長計ニ シテ統治上緊要欠クヘカラサル施設ナリ」(「台湾総督府学政大要」大正 2 年 11 月) ②「公学校規則」の改訂(大正元年 11 月) 「第一条 公学校ハ本島人ノ児童ニ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シテ国民タルノ性格ヲ養成シ竝 身体ノ発達ニ留意シテ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」 資料(5) 台湾郷紳層の中学校設立要求への対応 ①佐久間総督:台湾郷紳層の中学校設立要求容認の背景=「理蕃 5 ヶ年計画」 「討蕃事業カ端ナクモ台湾人ニ対シ中等教育機関設立ノ好機会ヲ与フルコトトナリ・・ ・(理蕃事業の遂行にあたり)台湾人ノ賦役其他ノ奉公容易ナラサルモノアリ、辜顕栄、 林献堂・・・其他ノ郷紳ハ之ヲ好機トシ、総督ニ請フニ討伐事業ニ致セル島民ノ赤誠ヲ諒 トセラレ対台湾人子弟中学校ノ設立ヲ許可セラレンコトヲ以テシ、且ツ幸ニ許可セラルト セハ之カ創設費ノ如キ敢テ辞スル所ニアラス」(『台湾教育令制定由来』大正 11 年) ②公立中学校設立に関する本島人紳士・隈本学務部長の合意概要(大正 2 年 5 月) 「本島人中等学校ノ内容・位置・経営ノ方法ニ亘リ、辜顕栄・林献堂・林烈堂・・・等 ノ代表者ト会見数次ニ及ヘリ・・・ 1.位置 中部トスルコト 2.経営方法 官立トセス公立トナスヲ利便トスルコト 3.学校ノ名称及修業年限 名称ハ台湾公立中学校トシ修業年限ハ五ヶ年トス、学科 目ノ内容ハ内地人中学校ニ比シ多少ノ斟酌ヲ加フルコト」 -4- 資料(6)「公立台中中学校官制」をめぐる台湾総督府と中央政府との交渉経緯 ①内田民政長官の大隈内務大臣あて説明書「公立中学校設置ノ必要」(大正 3 年 6 月 4 日) ・「台湾ハ領有以来方ニ二十年諸般施設ノ進捗ト共ニ国語学習ノ必要日ニ加ハリ島民向学 心ノ発達亦頗著シク・・・資力アルモノノ子弟ニシテ進ムテ上級ノ学校ニ学ハントスル者 亦漸ク多キヲ加フ」 ・「固ヨリ新附民ノ子弟ニ対シ徒ラニ高等ノ教育ヲ授クルカ如キハ統治上深ク戒ムヘキモ ノナリト雖モ島民ノ資産アル子弟ヲシテ程度稍々進メル普通ノ教育ヲ享シメ島民ノ規範 タラシメルハ施政上利便トスル所、且ツ此趨勢ハ人道上敢テ抑止スヘキニアラズ・・・殊 ニ島民有志中二十数万円金ヲ醵出シテ校地校舎ノ寄附ヲ申出ツルモノアルニ至レリ」 ・「・・・名ハ中学校ト称スルモ其実際ノ程度ニ於テハ内地人中学校ヨリモ低ク且ツ其ノ 教育ノ内容ニ就テモ種々斟酌ヲ加ヘタル学校ヲ中部地方ニ設ケ・・・」 (「台湾公立中学校官制ヲ定ム」『公文類聚』第 39 編・大正 4 年・第 5 巻・官制 4) ②高橋法制局長官の大隈内閣総理大臣あて「上申書」(大正 3 年 6 月 8 日) ・「土人中学校ヲ設立シ・・・抽象ノ教育ヲ授ケテ文明的意識ノ向上ヲ助長セシムルカ如 キハ徒ニ土人ノ自覚心ヲ昂進シ不平ノ念横溢シテ統治ニ障害ヲ来スハ之ヲ歴史ニ徴シテ 事跡明瞭ナリ・・・我国嚮ニ朝鮮ヲ併合スルヤ実ニ此ノ点ニ注意シ夙ニ朝鮮教育令ヲ制定 シテ土人教育ノ規範ヲ定メ就中高度ノ普通教育ヲ鎖ス方針ヲ確定セリ、然ルニ今台湾ニ於 テ土人中学校ヲ設立セムトスルハ啻ニ最近ニ確定シタル我カ朝鮮教育令ノ方針ニ逆行シ・ ・・我国殖民地ノ教育方針ノ統一上ヨリ謂フモ許容スヘカラサルヤ論ヲ竢タスト謂フヘシ」 ・「此ノ際断然姑息ノ手段ヲ棄テテ抜本的塞源ノ方策ヲ講シ、以テ斯ノ大勢ヲ制スルニ非 サレハ国家ノ禍害終ニ計ルヘカラサルカ如シ・・・依テ已ニ遅シト雖此ノ機会ニ莅ミテ台 湾ニ於テモ朝鮮同様土人教育ノ根本方針ヲ確立スルコト最モ緊要ノ事業ニ属スルモノト謂 フヘシ」 ・「・・・大体左案ノ趣旨ヲ以テ閣議決定相成可然 第一、台湾土人ノ教育ニ付テハ簡易ナル産業上ノ教育ヲ主トシ普通教育ヲ従トスルノ 本旨ニ依リ朝鮮教育令ノ規定ヲ参酌シ勅令ヲ以テ其ノ根本的規則ヲ制定スルコト ニ閣議決定スルコト 第二、万一閣議ニ於テ此ノ際右様決定スルコトヲ得サルノ事情アラハ台湾土人ノ教育 ニ付テハ朝鮮教育令ト同様ノ主義ニ依リテ施設ヲ為シ殊ニ普通教育ノ程度ハ厳ニ 朝鮮ニ於ケル程度ヲ超ユヘカラサルコトニ決定スルコト」(同上) ③江木内閣書記官長より高橋法制局長あて「依命通牒」(大正 3 年 9 月 12 日) 「別紙提案決定ノ儀ハ之ヲ後日ニ譲リ目下ノ処内務大臣請議台湾公立中学校官制案等ノ 審議ヲ進メラレ度別紙及返送候」(同上) 資料(7)「台湾公立中学校官制」の制定公布 -5- ①内閣書記官長より寺内総理大臣あて「台湾公立中学校官制ヲ定ム」(大正 3 年 12 月 4 日) ・「別紙内務大臣請議台湾公立中学校官制ヲ審査スルニ右ハ台湾土人ノ為ニ内地人高等普 通教育ノ機関タル中学校ト大体同様ノ中学校ヲ設ケ以テ土人ニ高度ノ普通教育ヲ授ケム トスルニ在リ」 ・「案スルニ土人教育ニ関スル問題ハ殖民政策上最モ重要ナル案件ニ属シ一度其ノ施設ヲ 誤レハ国家永遠ノ禍害ヲ貽スモノ尠シトセス・・・就中普通教育ノ普及向上ヲ図ルカ如 キ ハ徒ニ土人社会ノ文明的意識ノ発達ヲ助長シ遂ニ統治上甚タ有害ナル結果ヲ生スルノ 虞 アリ・・・右台湾公立中学校官制閣議決定相成ルニ付テハ将来台湾土人ニ対シ厳ニ朝 鮮 教育令ニ定ムル限度以上ニ普通教育ヲ施ササルコトトシ・・・」 ・「追テ右閣議決定ノ上左案ノ如ク内務大臣ヘ指令相成可然ト認ム 内務大臣ヘ指令案 台湾公立中学校ノ施設ニ付テハ凡テ朝鮮教育令ノ趣旨ニ鑑ミ殊ニ左ノ各号ニ依ルヘシ 一、台湾公学校四学年ノ修了ヲ以テ入学資格トスルコト 一、修業年限ハ四学年トスルコト 一、可成抽象的智識ノ注入ヲ避ケ生業ニ関スル簡易ナル知識技能ノ伝授ヲ旨トスルコト」 (同上) 資料(8)「台湾教育令」制定をめぐる台湾総督府と中央政府との交渉経緯 ①寺内内閣総理大臣より閣議請議案「台湾教育令制定ノ件」(大正 7 年 7 月 5 日) 「台湾土人教育ノ根本方針ヲ定メ其ノ範囲程度ヲ限定スル為台湾教育令制定ノ必要ヲ認 ム依テ別紙勅令案ヲ提出ス 右閣議ヲ請フ」 ・台湾教育令(原案) 第二条 教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルヲ以テ本義トス 第三条 教育ハ時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期スヘシ 第七条 公学校ノ修業年限ハ四年トス但シ土地ノ情況ニ依リ之ヲ短縮スルコトヲ得 第八条 公学校ニ入学スルコトヲ得ル者ハ年齢八年以上ノ者トス ②制定理由説明書 「・・・近時台湾土人ノ向学心ハ日ニ月ニ向上シ徒ニ高度ノ知識ヲ希求シテ已マサルニ 至 ラントスルモノアリ、今ニシテ之カ準縄ヲ定メ其ノ拠ル所ヲ知ラシムルニ非サレハ弊 害 ノ及ホス所遂ニ国家百年ノ計ヲ誤ルナキヲ保セス、是朝鮮教育令ノ範ニ則リ台湾教育 令 ヲ制定スルノ必要アル所以ナリ」 ③台湾教育令案ノ要旨 「一、抽象的知識ヲ授クル高等普通教育ハ或ハ高等遊民ヲ生シ且ツ徒ニ土人ノ自覚心ヲ 高ムルノ虞アルヲ以テ中学校ノ如キ種類ノ学校ヲ認メサルコト丶ナスコト 一、公学校教育ヲ卒ヘ上級ノ学校ニ進学センコトヲ希望スル者ハ可成提撕指導シテ実 業ニ関スル学校ニ入ラシムルコト丶ナシ最モ実業教育ヲ重ンシ・・・」 -6- (「枢密院決議・台湾教育令・大正 7 年 12 月 18 日修正決議」『枢密院会議記録』) ④「台湾教育令」の趣旨説明 「(台湾教育令)制定ノ目的ハ・・・教育ノ施設ニ対シ予メ一定ノ範囲限界ヲ設ケ、以 テ殆ント底止スル所ナキ土人向学心ノ向上ヲ適宜抑制シ、学校ノ系統及制度ヲ簡約ニシ テ民度ノ実際ニ適合セシメ専ラ実用ニ適スル施設タラシムルコトヲ期シ抽象的知識ノ伝 授ハ可成之ヲ避ケ生産的技能ノ普及ヲ以テ教育ノ主眼ト為サムトスルニ在リ」 (拓殖局『(秘)台湾教育令案参考書』大正 7 年 6 月) 資料(9) 枢密院における「台湾教育令」問題 ①審議経過 1.御諮詢 大正 7 年 7 月 6 日 2.委員指定 同日 審査委員長 委員 2.委員会 金子堅太郎 蘇我/小松原/岡部/一木/久保田/富井(6 名) 7回 第 1 回:7 月 11 日 第 5 回:12 月 7 日 第 2 回:11 月 29 日 第 6 回:12 月 12 日 第 3 回:11 月 30 日 第 7 回:12 月 13 日 第 4 回:12 月 2 日 3.会議及び上奏 大正 7 年 12 月 18 日 (「枢密院決議 台湾教育令・大正 7 年 12 月 18 日修正決議」『枢密院会議記 録』) ②金子委員長「台湾教育令審査報告」(大正 7 年 12 月 13 日) 「按スルニ今回本令ヲ制定セムトスル趣旨及其ノ立案ノ骨子ハ概シテ允当ナリト雖普通 教育ヲ僅ニ 4 年以内ノ公学校ニ止メムトスルカ如キハ明ニ抑制ニ失スルノ譏ヲ免レサル 所ナリトス蓋シ島民向学ノ欲求ハ必然ノ趨勢ニシテ之ニ適度ノ満足ヲ与ヘ略其ノ好ム所 ニ就カシムルハ即チ施政ノ要諦ナリ而シテ教育ノ程度稍高キニ上ルモ教科其ノ他ノ施設 ニシテ事宜ニ適セハ弊害醸生スルコトナク却テ善ク向学ノ趨勢ヲ利導スルヲ得ベシ」 (「台湾教育令審査報告」同上) ③本会議における主要な発言 ・「今回修正ノ精神ハ、現在ヨリ退却シテ現ニ許容セルモノヲ禁止スルコト可ナルカ、或 ハ少クトモ現ニ許容セルモノハ禁止セサルコト可ナルカノ点ニアリ。委員会ニ於テハ現ニ 許容セルモノヲ引下クルハ不可ナリト為スノ見地ヲ採レリ」(末松顧問官) ・「本案ニ対スル委員会ノ修正ニ付テハ内閣ニ於テハ全然同意ナリ。元来本案ハ前内閣ニ 於テ提出シタルモノニシテ現内閣ニ於テハ其ノ見込ヲ以テ相当ノ修正ヲ為スヘキ次第ナル カ、大体ニ於テ当院ノ御審議ニ委ネ然ルヘシト認メ本案撤回ノ手続ヲ取ラサリシナリ。今 回委員会ノ修正ニ対シテハ内閣ニ於テ同感・・・」(原敬内閣総理大臣) -7- (「枢密院会議筆記 台湾教育令・大正 7 年 12 月 18 日」同上) ④審査委員会の審議と原敬内閣総理大臣 ・「・・・尚ほ金子(委員長)は、台湾教育令の事に付、枢密院委員会は一致して年限短縮 即ち土人に可成十分の教育をなさざることに反対にて、余の意見を聞きたしとの事なりと 云ふに付き、余は同案を研究したるに非ざるも原則として土人を可成同化せしむるには彼 等を愚にするが如き旧策は取らざる所なるに因り主義に於ては賛成なるも台湾当局に一応 相談の上確答すべしと返事せり(其後台湾当局に法制局長官を以て協議せしめ、枢密院修 正通にて大体異議なき事となれり)」。(『原敬日記』大正 7 年 12 月 3 日) -8-