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第五十ニ巻 六 - 法然上人鑽仰会
同行 直物 田偲可》 毎月 一岡-自 由 昭和十年玄月三十日《徳三-宿便 BV-E一二玄 @ 昭和二十四年四月三十人目《逗鎗省特別m 睡a 眠 六 月号 穴月-目先行 昭和六十-年五月三十五日旬創昭和六十一年 第五十ニ巻 1 986-6 六月の秀句 か な し み 樹 も 草 も し . . . /、 月 風 基 hま か づ う すこ ヵ、 し ろ ま 梅 の も り 易 雨 影 し 』ま bま じ な 濃 紫 陽 花 ぬ 岡 日 大 国 野 野 日 主主 林 郎 裁 火 ま り し ; 六月号 ; この故に智者、心を繁けて、まさ に 諦かに 無量寿仏を観ずぺし 。 一一『観無量寿経』莫身観文 目次 法結 お念仏は私を生かして下さった・ H ・ H ・. .….. .・ H ・. .川 村悠穂…… (2) 金光上人と真似牛物語….. .・ H ・-……・・ ・ H ・ H ・-……佐藤堅瑞…・・ (7) <繍> 1 一紙小消息 | ⑪ あい費量き本願・ H ・ H ・ H ・ H ・.. . . ..・ H ・. . ..・ H ・ H ・ H ・. .村瀬秀雄… … (11) み仏とともに = 15= 一銭の願いにそむM ー・ . . . . . . ・ H・-安居香山 |… (18) r .. ] 俳諸における詩的象徴論…-….. .・ H ・. . . . .・ H ・-河野喜まを…・・・ (25) 。。長篇連破小説。。 立ち止まるな普通事 第24 回 ・・ H ・ H ・. . ・ ・寺 女の戦争 内 大 宮 …・・ (35) 挿絵松話事途文 表紙絵 n 、かり草」 - 1 松浦春子画 ー • 企zz Rs った 悠秘 かわむらゅうほ 川村 〈静関市西福島守住験〉 むことを知って退くことを知らなかった」 不自由を常と思えば不足 、 、 怒りは放と思 心に望起らば閤窮したるときを思い出 犠忍は無事長久の基 、 勝つことばかり知りてれくることを知ら 、 -2- お念仏は私を生かして下さ 日光に学童疎開中の皇太子厳 、 。 徳川家脱の遺訓を思い 、 と冷静に分析されていられたことです 陛下のお手紙から 出します 、 急ぐべからず 、 「人の一生は市荷を負うて辿き道を行くが如 し え なし 進 を忘れたこと」 、 すべし の如く 、軍 人がバッコして大局を与えず 「今度の時はあたかも第一次世界大戦の独問 「わが軍人は精神に重きを置きすき、 て科 学 を侮ったこと」 「わが同人があまりに息闘を信じ過ぎて英米 陛下のお手紙が公表されました。 下にあてられた昭和二十九年九月九日付 の両 四月十五日 • 及ぱぎるは過ぎたるより勝れり 」 と。 、 、 己を責めて人を責む ら ふい山小骨U わや の身 ← るな 。 、 だんだん戦争の悲劇も風化されて 話したくない話ですが 、 戦災当時のことを 、 お話してお ー ト 、 りました 。 、 入らない内に 。 私達が 焼夷欝の 、 養父は入りませんでした 防空濠に入ったか 、 。 、 雨が降ってきました その攻怒が終り 飛行 機も去ったので外に出てみると 折角建て直 した仮本堂兼路樫の建物も焼け落ちて残骸が すると 、 。 、 腰をおろし靴をぬぎま バラバラッという音がして 、 燃えていました 。 父はどこかと思いましたが 暗くて分りません 夜明けを待つより仕方が 。 ないと防空擦に戻り した 掩蓋の上に石でも降って来たかのような音が 木の枠の一部が燃え 、 、 火が吹きこ しました。何がはじまったのだろうと思って いる内に 、 β すぐパットもえ始め 、 それを手拭にしたし 、 た んで来ました。混んであったパケツの水がニ ・三杯あったので たき消したのですが 人 一緒に入っていた近所の 忽ち水がなくなってしまいました。煙も吹き 、 、 。 「もう フイゴの 蓋をバットあけて「私達は外に出ます」 、 といって飛び出しました 。 その時 火のように火が吹きこんできました • • 六月を迎えると戦災を思い出さずにはいら れません くるようですから 。 、 私の体験談を伝えることも一つの義務かと思 いますので きましょう 勤労動員署の職業訓練所の主任をやって 。 それは昭和二十年六月十九日のことでし た 、 それでも作業服にゲ 、 レた私は 仕事も早めに切り上げ自坊に帰っ 、 てきました。 「今日は空襲もなさそうだから 早めに寝ょう」と 、 こんで来たので 、 ルをつけたままフトンに入りました。 夜十時頃 普戒警報がなったと思ったら はや束郡方商が空襲されはじめました。十五 ・ が 、 ・子供三人 年の大火で境内の空地が多くなっていました が ・妻 その中に 庭の隅に防空前械を掘ったので 近所の人三人と私が入 養母 ー 3 - • 駄目だ」と思うと 家族の上に手を訟げ掩い 、 自分だけが防 く 、 それを取って防ごうとしたら焼け 私を見かけた K の人が、お父さ 、 ことが出来ない。この 安倍川の川底だったということで砂 いましたが助けにゆ 、 、 は 辺は昔 、 ったので 、 かぶさるようにしたのですが 足 又、火の粉は飛んでくるのでトタンがあ 利の多い所です 。その 小石が焼けており 、 、 空壕の外に出てしまいました。自の前、体 の 又 ず だしになっている広は立 っていることが 出来 、 足が宙に浮いてバッタリ 、 起き上ってかけようとすると 、 けだそうとすると 倒れ ていて 「 熱い」と投げてし・まいまし。 た墓石 リと倒れ 、息はも うつま 7 タ が宙に浮いてパ の践にと思い墓石に符り添うとこれも焼けて ・ ナム ロからはナ 、 って、息をしようとすると火をのみ込んでし ナムアミダ いる熱い 七転八倒という言葉があ りますが 、 まうようなので息を止め 、 あたりは湾明るくなり人の動 その辺をころげ細っておりました 。その内 。 ナムアミダというお念仏が出てく ・ るだけです ムアミダ く姿が見え始めました。時折り 、 アミダとロの奥で唱えるのが精一杯でした。 又いつ息が止まるのかとの思いが頭をか 火の川は 去り 、 一一一回のそ ようなこと ・ その火の中から外に出られ 、 そのお念仏が耳にきこえてくるような気がし て 、 すめるだけでした。ニ をしていたら うしろを振り返れば んはあっちにいますよと教えてくれましたが 、 父の方に行'』うと 立ち上 前は其陪な甚場であり 。 足の漢はヤケドをしたの 誰だか分りません 、 火の川が流れておりました。火の旋風が丁度 私だけがその鼠にすい出 ろうとしまし たが 、 っと歩き出し 弘を見かけ 、 誌の障から子供を背負い全 身から焔を出している女の人が 、 防空壕の上を通り 。 弘の子供の泣き戸かしらと思 その中から子供の泣き戸がきこえ 。 ました。すると か 、痛くてたまらないが、そろ 、 されてしまったのでしょう その火の川を見 ていると てくるのです • .jー - まわりは其赤な火の海でした。立ち上ってか -、 助けて l」と抱きついてきました て 「 。 抱き 、 気 つかれると犯にも火が移ってしまうので 、 、 くようにと避難場所をしらせてくると 近く ドンドソ行ってしまいました。 にいた人は 、 弘は靴ははいておらず 火ぶくれで足の襲が 、 コロコロころがして の毒だが突きとばして 摘く 、父 は息を引きとったのでつれてゆくこ 。 、 はいずって通りの方 焼夷弾の油の火か休 火を消してやりました 、 とも出来ず 仕方なく ヒィヒィという子供と 、 、 そのうしろにのせて貰い 動員暑 、 、 、 署の跡に戻 って来ましたが 署長は自分の家に乙いと 白いタジラの油薬をぬって貰い の焼跡につれていかれました。近くの日赤で ムっかり くなり 、丁度自転車にのった動員暑の先輩に についたのでしょう 。 その人と子供ぽ死んた それからはいずって掩蓋の無い防 、 に出ました。その頃にほ本通りも人通りも多 。 五人と父 ・ 背広を若ていました 、 。 両腕は真赤に焼けており 、 又、自転車のうしろにのせて貰い署長の家に 両納はなく 、 、 背中は円く穴があいており真赤にやけた背中 参りました。その中に 、 、 安倍川そばの田 町小学校に行 。 はじめ ・ 私を看護する為に若い女 の人が 、 まいました。そこで 、 石川政雄さんがヤケド 来たのですが私を見て気味悪がって帰ってし た 政雄さんという方の御家族が避緩していまし ニ ニ に八州聞という旅館を経営していた石川 。 そこへ連れていって 同宗の来迎院さんが が見えておりました 拡がそばによるとジー 残っているというので 。 ット見つめたのですが「 λ んな死んでしまっ 下さるように頼み来迎院さんに移りました 、 。 て脈をみましたが それも止まってしまいま がやって来て だったと思いま す。明るくなって防護団の人 した。時に昭和 二十年六月二十日朝四時近く 、 た」と告げると がっかり した のでしょう。 そのまま自を閉じてしまいました 腕をとっ が が倒れておりました 空産へ行ってみると 近所の人四 そうです 後で 聞 いた話ですが 女の人の戸が来たに耳の底に残っています 。 • 5- • 、 来迎院さんから には生キウリを大根おろしですりおろしてつ 、 、 、 っとかけ キウリを寸 布をそ し 乍ら ヤケドの上につけ 自分で術い手を動か しとキウりを心配 し て下さいまし けるとよいと教えて下さり 。 大級おろ た り 下し そ って頂 、 ま 町内 いて焼跡にいきま ζで火葬にしました 。 。 ぁ こうして幾変遣してゆ 、 忽に浮ぶ白川ヘムは昨日と同 、 、 昨日に変る今口のこの身 あの空は 、 hゃ 城下の作を何回口ずさんだでしょう まわりの山 、 じであるのに J山々は 普からずーっと見ていたのだな 、 お 、 、位の中を 、 簿皮が張るようになり 朝夕代えていたら 、 、 のであります。 いている時 この原稿を 枠内 、 文 、 天内ム ソ連での原発事 。 昭和の六 十年の歳月を顧み 。 、 、 、 先 心の 、 三祖 まことの時はやはり ここに復興出来たのも 、 、 改めてヂ和の将さを痛感します」と 、 、 巾された祈聞を読みました が痛み の戦争による国民の犠牲を思うとき なお胸 「今ここに 在位六十年記念式典での陛下のお言葉として 政というニュースが流れています 、 人の世のはかなさを更めて思う !と思う時 、 十日ばかりして 、 蔭でヒッツリも出来ず きれいに直ってしま 。 いました。本当に仏様のお守りだと思う外 思いようがありません 、 、 だ包帯はしていましたが 焼跡にある父の死 体並に防空壕の家族の始米をしようと 引っぱ 木村を集め った近くの方々によっ死体を集 、 の人の連絡で来迎院の奥さんに小さな荷車に のせて頂き 、 した。集ま め 峨後六十年 あります 。 ・以忠上人も誤解されたことを思い出すもので 支えはお念仏であり 乃木前山内の金川 山川草木転た荒涼十里鼠躍さし新戦場 、 「 南無阿弥陀仏」ということであると 焼跡に立った時 、 征馬進まず 人語らず金州場外斜陽に立つ その後 - 6- 金光 、 と お宿をまえらそ 人三 真ま 余りの老 爺 である。 い a, M ゐ ゆ a, 市太夫は村一番の金満家で 家屋も土蔵も 、 非道の鬼とアダナのある市太夫という六十歳 呼び留たのは 栗原の村に隠れもなき、強慾 ぅ。」 「 旅 の御僧にお宿申 そう 上} 似ね 物忘 、 ニ主}プ 治、 ハ 佐さ 型T E 藤t 村 3 堅2 8 瑞ざ 、 ただなきものは 、 涙 で 高利を以て金は貸しても一 銭 一 たりとも 陪どこ 施しをしたことがない。 へら 小作を 泣 かせることはあっても年貢を減し たことは一度もない。まして神仏を拝し念ず -7- 首古す 田も山もあり 余 った身代で何に一つ不自由の 同情慈悲の ない身分だが 牛t 、 あたら本名 くのじゃ。さあ き、皆の者、 ワラジをとけ 足を洗ってあげよ そうして晩食の用意を急 るなどは夢にも御存じないから があるにもかかわらず鬼で通うた人非人であ げ。」 、 ことわる旅僧を無理矢理に留め、一泊の宿 、 る。 と思うたら三日たち四日すぎても家から出さ 無理強いに引留めて、はやくも十日余と 、 この旅僧とは何人であろうか。その頃、京 なった。 ず それが不思議なことに 、数日 前から毎 日 門 前に立って誰 を待つのか人待顔で「お宿をま ん でおる。六 十過 ぎた爺だか と呼 えらそ う」 旅僧を呼 る るの でもな かろ う。何を す 、 ら恋婦を待って とけ かと 村中の解ぬ謎となっていたが 都で名も高き浄土念仏の元祖法然上人の高弟 b . ごいしが ,、 eg んかんの ん じ 、 天台の 訴 訟の事で鎌倉 に滞在 中、 筑後 の国石垣山観音寺の別当で 、 、 ・ 8 ー - 留て 「お宿をまえ ら そう 」と いうの を聞い た は 一伝 部上人その人である。金光上人 で 、杭伊の 、 、 ので、さ ては旅僧 を 待っていたのかと少しは おそらく 学僧であったが 、 安楽 房の勧めによって 、他力本願の教義を信 じ訴訟の争いをやめて京都に登り 法然 上人 令す て、市 太 夫の行 動を怪んだが依然謎は謎であ のお弟子となられた。 あんら〈 dm , る。 法然上人御往生 の後に 浄土の法門に不 審 ある時は誰人にお開きしたらよろしうござい 、 「御親切は有難いが時刻がまだ早いので次の 宿まで参ります。」 ましょうとの親盛入道の尋ねに対して、「聖 、 「早かろうが遅かろうが、 是非とも泊って頂 三軒両隣の人達は、何れも互いに目を見合せ ら 謎は解たようでも 鬼が仏を呼ぶのであるか 狂気の沙汰ではないかと 向い • 行脚の旅につき、 さながら花洛 市太 夫 もまた殊勝 、 陀仏うし」と関与えるわけで も皆其の事実によったもので 、 、 しょ ,t ゅ, 、 鬼の市太夫の 正直正太夫と呼ばれる人があり を施したのが縁で 、 、 家 と一年余、その上に病死してしまっ こ 、 長き間お 懇ろなお葬式もしたのであった。する 、 、 と其の僧 其の夜の夢に現われて もし た。もとより正直な正太夫その間親切な着病 かける 其の僧は此の家に厄介を る時 門に立った托鉢の僧を留めて一夜の宿 も、乞食に施すことを楽みとしていたが、あ は貧しかったが平素自分の一飯をへらして の里に 市太夫の強慾の現れというのは、隣村遠回 強慾の現れであ。たのである。 、 隣村遠回の里におこった不思議な事実による のであった。旅僧金光上人を無理 に留めたの 益々謎である。けれどもその謎を解くには この市太夫の念 「南無阿弥陀うし 南無阿弥陀うし、南無阿弥 、 、 、 光房と金光房の両人は余が所存を知れり」と 、 仏は、一体何を意味するのであろうか。謎は 、 答えられてお られる程 数多くあるお弟子の 特に重きをおかせら れ た 人 であっ なかに た。 、 法然上人御自作の御像を頂き花 洛 をあとに 東 北 地方に念仏弘通の為 金光上 、 鬼の住家に 、 ったっこの間 はからずも 市太夫に留められて 仏の一逗留 十 日余りもな 村の内外老若男女の参詣する者数 人 は他力本願の理を説き易行の念仏を勧めら 、 、 昨日も今日も称 名の 芦があふれる状態 、 れたので 多く ら ,、,は ら hu であった。栗原村の鬼の家が こ のようなことで 吉水の御庵室のようなお念仏道場と化たので ある。 気に念珠をくり念仏を唱えていた。しかし其 、 南無阿弥陀仏が 、 、 の声が異様に聞えるので またもやそれが謎 となった。異様に聞える念仏とは 鬼の市太 夫の唱うる声にかぎって - 9- . 「我れは明朝牛となって当家の門に来るから心 世話になったことを感謝して その御礼に、 が、かくしても現わるるのは鬼の本性で、「南 無阿弥陀うし、南無阿弥陀うし」と声に出てお れまいと心にも無い空念仏を称えてはおった 、 おきなく使用して下さい。家門の栄えること ったのである。うしと声はでてることは当の この秘密 をお祈りします」と云われ、夢がさめたのであ 、 金光上 人 も室内に入 、 まして他人は 本人も気がつかず 、 った。はたして翌朝門前に大きな牛が来てお 夜は深々とふけ渡り 【主し を知る由もなかった。 遠回の る。正直正太夫の家はそれより日々栄え往時 、 bu 高 い米 を毎日食わせておいてたまるもの 、 障 -1 0- の水飲みは今や大百姓となったので hw b り寝床につかれ安らかに眠られた様子であっ ,しかい 里もいつの間に やら牛牧村と呼ばれるように 人鬼の市太夫であった。いつまで待っても彼 、 た。しのび足に室に近づいたのは 当家の主 羨まし なった。 、 、 の坊主め死にそうもない。十日もすぎはや半 月 くてたまらない。僧侶が牛に変ったとは儲け 、 か 色、 パッと照しだした月の光か 太万片 手に障子を開こうと手をのば 、 身体は、おさえつけられたように、四つんば 、 今夜はいよいよ打殺して牛になさ ね ば引 物じゃ 乞食僧侶でも何でもよい。見付 け 次 第家にひき入れて牛にして追使おうと 毎日 合わね 、 門前に立番して僧の通るのを待っていたので したその時 そのあきましい心を知ら 、 あった。そんなことを知らず計らずも通りか 子に映った大きな牛の影は量さしく自分の aJ 、 かった金光上人を見付け、これ幸いと無理矢 。.&&ひ& せっていたのだが 、 姿、これは不思議と思うとともに、市太夫の このような事実を鬼の市太夫には , 理曳留め一討に打殺して牛になそうと心はあ b aT いになってしまった 、 、 。 、 、 まさ お念仏にも南無 うめき苦しむ有様は 当家の主 人 鬼の市太夫が両手を この物音に驚いたのは金光上人で 室一から 出 てみると たて足をかがめ 、 に牛そのものの姿であった。 、 「ああ あきましいその姿 あ私と一緒に御像の前に。」 、 ょうよう御 像の前へと出 促がされても 市太夫は起 つことが出来ず 両 手両足で這い乍ら あ れ見ょ、鬼 てうずく まっ た姿を村人達は、「 dw 、 が牛 に化た。因果の道理思い知れ」と互いに ae ぎ 袖をひき噺けり、誰一人として哀れむ者なく ただ頓き笑うばかりであ 、 哀れにも 「吾れ 師法然上人よ 、 機悔の心がでたのか一旦のよ 、 -e ず と 思っ て、今我が唱 、 けて俄悔すれば五逆十悪必ず減す。汝の如き 者にも必ず仏は救済されるであろう。師 法 り賜わりし御像の前で十念を授けん。十念受 金光上人は懇ろに 不倒にも見えるのであった。 、 このように恥をさらしても市太夫には言 葉 った。 阿弥陀うし南無阿弥陀うしと問える市太夫の 、 が出なかったが 、 とう 声 あやしきこととは思っておったが とう牛に化けてしまったか。太万を所持して うな涙を流して頭をたれてる姿は 、 この金光を害するつもりか。仔細を語れ 理 、何か 言 由を申せ」と尋ねられても市太夫には戸が 出 ない。ただウソウソと附くばかりで 、 いたい様子だが 言 葉をだすことができな い。そのうちに夜が明けてはや村人は参詣に 来たのか仏室には念仏の鉦の音が聞える。 然上人より親く授け給ふ うる声について 、た とひ言葉は 出 な くとも心 「市太夫ょ、あの鉦は村人が朝の念仏の音で ある。一緒に念仏唱えて餓悔をせい。俄悔念 に受て繊悔をせよ。南無阿弥陀仏 南無阿弥 、 仏する時は如何なる罪業も滅せられよう。さ -11- 上人 様 、 、 十日半月無理に吾が家に泊めたのは 平紫は米一 粒も施さぬ極悪非道の此 、 陀仏」と一念二念 授けられでも市太夫は附 の鬼が 、 牛になるのを待つ為で に出て 、 牛 、 、 けても耳に 入らず 念仏唱えても心の底が声 牛と聞えたのもはづかし い。特 、 村人と共に教化を受 くばかりで受けられず 村人達は異口同音に 声を合せて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱う 一声高く南無阿弥陀 不思議や最後の一念によ 、 る念仏七声八芦九戸、市太夫はまだ受 けられ ない様子だったが うやく罪業が滅したのか に昨夜は待ち遠しきに殺して早く牛にせんも のと金光上人様の寝室にしのびよりしに 障 、 自業自得のこの 、 教わせ給へ金光上 、 人を加え対 ばこつで自分 、 畜生道か餓鬼道か が牛になったこのおろかさ 仏前 、 仏と受けて唱うることが出来た。それと同時 子に映った牛の姿 、 に身体も伸びて元の体になり 迷いの夢から さめることができたのである。 、 「ああ 恥かしゃ皆の人達、牛になったこの 市太夫悪業煩悩一部始終を残らずここに俄悔 、 正牛 坊と 名付けられ家を寺 L Aa' F 申‘,d' 人様 、助 け給え金光上人様。」 心の底から繊悔した兎の市太夫は 金光上 、 しよう」と涙ながらに話すのを聞けば 、「何 なり 人の弟子 それより数年の問 、 念仏 相 法然上人御自作の御木像を本尊 、 、 続怠りなく遂に殊勝の往生を遂げたの であっ として安置され と を隠そう遠回の里の正直正太夫が泊めた僧が 院となして 戸ウシカイムラ〉と其の 自分も僧を泊めて牛にな 、 村の名前さえ牛牧村 、 死んで牛と変って働いてから正太夫は富み栄 え 評判が羨ましくて た。村の名を真似牛村(凌在の商即応閣 潟制駒町字前夜 、 し宮み栄えんものと思うておった時 題箱 根山金光往生寺である 。 沼〉 。寺号は、石 丁度通 12 ー - りかかった御出家拷か、ここにおられる金 光 、 Lbwao , -a u 難 き @ 願 願にあひて」 、 、 、 さらに何れの生においてかこの身を 今ここに聞く。この身今生において度せ 「人身受け躍し 今すでに受く。仏法聞き践 し ずんば この帰敬文こそ人が人として生きてゆくよ 度せん。至心に三宝に帰依し奉る」ハ帰敬文) 村2 瀬ぜ 雄お 正三当 -司曹 I0I:l'1‘・・ t t J i b f 4量邑 E晋Eョ く 。 。 。 人身 海面には穴 がある浮 木 が -e ・・ ・a 司 人身を受け難いことは、音色 。また爪の上の土 の愉えが ある人 身を受 が浮木の穴に出会うのと同じくmmであると説 ることがない あって、風に吹かれて来に函に訪程 って留ま け海面に頭を出す ある。大海に住んでいる官屯が百年に一度だ が受け滋いことを説くのに百屯浮木の喰えが けることによ って人生の意義 が生れる いることの貴重さ有難さを繰 り返して思い続 秀ミ • 本 「うけがたき人身をうけて ' あひがたき本 し、 の基本である。人としてこの世に生を受けて 13 ー - あ 一 、 、 、 餓鬼 玄回生の世界を巡っている者は大 けている者は爪の上の批位に僅かであるが 地獄 。 。 こ く 地の土のように計り知れなく多いと説 っ のように希有な人身を受けているという幸せ てこそ、初めて人命の貴盛さを知る を思 、 、 。 この身の尊厳さを知ってこそ 今日一日を油 。 断なく精進して過すようになる その中に次の間がある 、 。 釈尊は生命の貨董さを尊んだからこそ六年 間の苦行をすてて山を下りに尼述縛河で娘か ら乳醸の供養を受けて体力を回復最 しも快 適な大樹の下宮選んで坐り給うたのである 釈琢は阿弥陀仏を讃歎して讃霊備を説き給う たが 。 しかも仏の出枇にあ 賞宜な生命を噂惜して寿命を完 。 「人としてこの世に生れてきたことは有難い ことである うしなければならない 。 、 人として生れ 信心と智慧が得られ い奉ることは稀にみる好俊縁に恵まれた幸せ である ることは稀有なこととして肝に銘じなければ ならない」ハ畠雨量持経〉 、 われ等は人身を受け しかも仏法にあうこ とができたのである。しかし仏法には聖人に 、 だけに適した教えと修行があり凡夫に相応 。 しい教えと修業がある その中にあって念仏 往生の法門は聖人から凡夫至 にるまでに適応 、 。 、 した教えであり 修行である このような念 仏往生の法門にあう ζとができたのは 釈柑" が阿弥陀仏の本願が成就されていることを明 、 。 かし給うたからである 六万の世界には数知 れぬ仏がましますが 釈尊がよくこの法門を 。 、 説いたとして 、田氏口同行に設歎し給うたが その中に次の句がある 、 疫病 、 。 、 兵 今また希有を教法を説いた 裟 、 「釈迦牟尼仏よ 難しい修行をよく な しとげ て仏となり 、 婆世界は濁った悪世となり 飢館 、 。 、 、 災がおこり、邪見がはびこり、人身は食り闘 行 が 行 われず 天 存 争し 邪行がさかんで苦 を完うする者が少ない時代あ でる このよう 多 な世間にあってこの上にない悟りを聞き くの人々のために念仏を唱えれば極楽浄土に - 1 4- よう 往生できるという難信の法を説いた 」 ハ阿弥 陀経〉 じ 念仏を唱えれば聖人でも凡夫でも同 に極楽往生できるという法門はまことに希有 、 。 法然上人は仏法にあえた喜び 次のように説いた 。 な教法であり それだけ難信の法であるとい 、 うことになる を 釈尊の出世に会えなかった 、 「迷いの世界を巡って幾度となく生死を繰り 返してきたのに 、 あるいは迷妄の世界をさ迷っていて 。 のはどこの世界に いたからであったのであろ うか どんな生き物であったために仏の説法を聞か 釈前吋が華厳経を開講 、 それとも 八熱地獄の底にいて 、 、 。 ' しかし限りなく長い時代を経てきたに 仏法を聞かなかったのかも知れない 古AアF】と 悲しみに耐えぬことで 。 に恥しいことであり ある 、 しても今や生れ難い人界に生れ 永遠に会え 。 なかったかも知れない仏の教えに会うことが 釈噂がまします時代に会え できたのである 、 なかったのは悲しみであっても 仏の教えが 。 たとえば盲亀が海簡の浮木の穴を 流布しいる時代に生を受けたことは大きな喜 びである 見つけたように緩めて稀にみる幸せである」 ハ一元久法務〉 。 上人は続いて次のように説いた 、 、 、 に消え去って広野に送られ 遠い山に葬られ る。屍は苔の下に埋められ魂は独り旅をさ 、 。く。移り変りを知らずに常に栄えることを 、 「朝に聞いた花は美しくても タベの風に散 。 なかったのであろうか り易く、タベに宿る露の命は朝の日に消えて 、 、 し給うた席にも参加できなかったし 浬繋経 願い 僻い命を悟らずにいつも同じであると 思っている。こうしている内に無常の風が一 。 の演席にも連なることがなかった ど説法の 地である量驚山の法席にも臨まず 入浬繋の 沙羅樹林に馳せ参じなかった 王会裁にいた 度吹き込めば 因縁和合の肉体は訟のごとく 。 九億の民の中の 三億は釈噂の名を知らなかっ たというが 。 恐らくこの三億の仲間であった のであろう Ri u • • ものは何もない。ただ身に従うものは後悔の がなく、七珍万宝が厳に満ちていても役立つ 迷い続ける。妻子容属は家にあっても伴う者 えれば上中下の 三識の区別があったにしても うか。どうしてわれ等凡夫が六字の名号宏明 人々を洩れなく収めとり給うているのであろ 弥陀仏が乃至十念の本願をたて、十方世界の 阿弥陀仏が 長い間にわたって修行し給うたのは、誰のた 。 涙である。やがて間踏の庁に着けば罪業の深 欽 極楽往生できぬことがあろうか 、 浅を間われ、界の軽置によって行先が定めら れる。間魔法王は罪人に問うていうのに ためであったのであろうか 。 。 それは往生させ それは修行の功徳 めであったのであろうか 何故修行 は仏法流布の世に生れていながら を来世の凡夫に与え給うためであった 。 阿弥 、 をせずに徒に帰ってきたのであるかと。この 陀仏が超散の本願をたて給うたのは、何んの 。 時われ等は何んと答えるつもりであろうか 今こそ速やかに生死の世界から逃れられる法 るという慈悲を末法の凡夫に与え給うためで このまま空しく悪世界に 門を求めて修行し あった。もしわれ等が念仏を唱えても往生で 、 戻ることがあってはならない」(向上〉 きなかったとすればっ阿弥陀仏はどうして仏 になり給うことができたであろうか 阿弥陀 更に続いて上人は説いた。 「願わくはもろもろの念仏行者、阿弥陀仏の 仏が仏になり給わなかったならば、われ等も われ等が往生できる 。 本願という宝珠をいまだに奪われずにいるな 往生できるわけがない 。 らば、信心の奥深くに納めておいてもらいた 阿弥陀仏が仏になり給うたからであ われ等が生死の世界を流転してき た という ることである」ハ向上〉 、 仏になり給うたことはわれ等が往生でき 、 のは 阿んのために阿 り い。もし奪い取られた者ならば深く信ずる心 によって疑惑と誹諮という水を浪み尽さなく 。 てはならぬ。宝珠な捨てたままで空しく迷い つてはならない の世界に mm - 16- 念仏の法門に会わなかったからであ 、 会ったとしても経法を信じなかったから 、 わけは り 。 法然上 きるのである。思えば念仏の法門にあったこ とは深い因縁に恵まれたからである 人は次のように説いた。 「極楽浄土に往生できる行には様 4に数多く である。釈尊は次のように給うた。 「人々は迷妄のために是非の区別がつかず の修行がある。そうわいってもわれ等が往生 、 そのために経法を信じない。死んでから来世 この世で快楽 するためには念仏の法門によるのでなければ 、 にどうなるかを考えないから できないのである。そのわけは念仏は仏の本 本願力に鎚ってたやすく往生 を追ってやめようとしない。愛欲の生活に溺 、 願の行であり 少しも道を修めようとし れてその日を暮し できるからである。極楽往生をとげなければ 、 ない。他人には無暗に腹をたてて怒り ' 自分 念 生死の世界から離れることができないし 、 ひたすら念仏を唱え、今 。 、 私は 四十八願の 一つ 一つに司もしこれができなければ とを心に決めなくてはならない 生においてこそ必ず迷いの世界から抜けるこ 往生したいと願い できない。このことを潔く信じて一筋に座楽 、 では財宝と色欲を貧り求めて暮す。このよう 仏の法門によるのでなければ極楽浄土に往生 死後には必ず悪世界におちて苦痛をう な生活をしている者は仏の道を修める道理が 、 こうした姿はまことに京れという 痛ましい限りである」(無盆涛緩〉 。 その中でいつまでも生死流転を続けねば 、 なく け 、 ならない べく 煩悩を断ずることができないわれ等ごとき 仏にならない』と純白い給うてい。 るそして 阿 念仏を唱えて極楽往生すれ 凡夫であっても 弥陀仏となって本願を成就し給うてから十劫 、 ば迷いの世界からたちまち離れることができ こうして人々が念仏を 唱えれば、一人も洩れなく往生できるのであ 。 の年月が経っている 仏の本願力によってで 、 る。それというのもわれ等ごときの修行の功 徳によってではなく - 17- 時代になっても、一由冗の念仏を唱えた者に至 か。末法万年が過ぎて経法が減し尽した 後の 仏になり給うたことを誰が信ずるのであろう 唱えて間もなく息が絶えた。円照は道心堅固 一遍と勧めると、円燃は高戸に一遍の念仏を ので、議知訟として傍にいた法然上人がいま 寺で臨終を迎えた時に念仏を九遍まで唱えた 信西の子の遊蓮房円照が西山の善峰の三鈷 るまでが往生できる。五逆十悪を犯した極悪 な念仏行者として知られていたが、治承元年 る。もし往生できない者がいたなら、阿 弥陀 の罪人までも十芦の念仏を唱えれば往生でき 。 〈二七七)僅か三十九歳で往生をとげたので 上人はいつもいっていた こ る。まして仏法が流布している世に生れ、五 。 「伶土の法門と遊遊却に会ったことこそ (勅修 、 あった 陀仏と唱えれば、必ず往生できることに疑い の世に生を受けてきた思い出である」 ある。上人はいつもいっていた 。 「念仏を唱えている者が 十 人いたとして い」ハ常に仰られける御悶〉ハつづく〉 た ると信じて、念仏を唱えていなければならな いことがあっても、自分独りは必ず往生でき とえ九人までが臨終に心を乱して往生できな 、 の教えによって念仏の功徳を知りえたことで 人が聞いた浄土 宗にあったことであり、上人 われ等にとっての今生の思い出は、法然上 がない。いまわれ等が念仏往生の本願にあい よくよく喜ばなくてはならない。しか 御伝第四十四) 、 車中ったのはまことに深い因縁があったからで あり し本願にあったといっても、もし信じなけれ ば会わなかったのと同じである。今は深く本 願を信じているのであるから、念仏を唱えれ ば往生疑いなしと信じなくてはならない。必 ず心を一つにして励んで念仏を相続し、今生 において生死の世界を離れて極楽浄土に柱生 しなければならない」ハ大胡の太郎突秀が饗室 のもとへつかはす御返取) 18 ー - 逆の罪を犯したわけでないわれ等が南無阿弥 • 。『 浄土 』表紙版画絵販売についてのご案内 『浄土』六 月号をここにお届けいたします。… 、 … どうか、『浄土』誌の充実と継続のために 会員諸兄の皆さまの暖かいご支援とご高配 を心よりお願いゆし… 上げます。… 。今回… 好鮮の『浄土』誌表紙版画絵 は、本年の正月号より、松浦春子先生の清勉な作品を頂酷似しております 、 、 、 おことわりさせていただきます。・しか 『浄土』表紙絵よりはずっと大きく約却 価×却価位の大きさですが、額縁の大きさ 聞えれば掌いです。… し込み先〉 〒 m 畠申 会振替〈東京〉八 東京 郵千代図区飯田繍 一 l 一一 l 六… 上 人 鎖仰 八一二八七 - 19- も、松浦先生のご好意を得て、本 車 率額縁に装丁して阪売させていただいております。額縁代も含めて、金二五 000 円 というお求めや す いお値段で、季節感に溢れた芸術味 豊 かな版画鋳物が購入できるわけです。どうぞ 大きさの方は 、 振替にて ご注文願えれば幸いです。… また 申し訳ありま せ んが 、 でいえば却価×印個穫の大変豪議な一個となります。… 一ふるってご注文 一〈 …法然 l …し現在のところ、昨年度の小林治郎先生の版画絵も、正月号から十二月号までの在庫も充分にありますので、 一なお限定販売のため、予定数に遣しましたら i出 、 、 私自身 の考えからではなかった 、 、 私は 。 。 そのこま それは念仏信仰に 、 心から感謝 そうした両親の篤い信仰心 、 お 吾が身を省 、 よく私に言つ さぞかし両親も 。 来だに両親の信仰心の何分 、 今日の私があるのだと ておいた。今にして思えぽ 。 があったればこそ して い る 、 。 いや何十分の 一にも到達していない そうでありながら のて 今吏のように繊悔している 、 。 、 お念仏を み仏の道につかえ 小さな寺 さ せてくれ 、 学者になってもらうことを願っ 。 私達に草取りや 、 もう私がだいぶん成人した頃 、 。 、 ればそれで充分満足なのだ 」 でももって ているわけではない 「何も偉い幼さんや たものである 両親は 浄土でなげいているに違いない みて 、 かい経緯については すでに始めのところで細かく述べ 、 篤い両親の 切なる願いのたまものであった は 私がわづか十歳の時 仏道修行の旅にでたということ • 、 私はこうした両親の希望を 何処かで満たしてあ げ ね - 20- ざん こ う い やす 安居香山 守fち弐ト =15 = も み 仏 と と 一親 の願 い に そ むい てー 〈大正大学設授 ・ 文博〉 、 、 いつも考・えていた 。 しかし 弘の人生を押しやった 、 。 それは 、 、 、 、 あらぬ 時の流れ 、 その 強聞な意志を持ってい 。 私のカでは そして恥自身が持っている性の動きは はならないと 人の述 点向へと 余程 つはの河絞れのように押し流されてしま 、 抗し切れぬ人間の運命というべきものてもあった か 渦中に巻き込まれたとき 、 。 、 かつはの河流れのように 人と時の波に押し流され 両親の願いに対する強い意志力を持たなかった弘 、 。 なければ う は ることか多かった 小学校六年生の時、いよいよ百万遍の刃仙院の義子と 、 両親の喜びは一入であった 。 その式 将来、片岡麟向上人の後継者となるため得度式を 、 、 紅白のお併を持って祝いにやってきた。雨親 ってもらった時 なり や に両親は 、 私か百万適法主ぼ林彦明大 ろうか e 、 弘は父から 聞い たよ 両親が希望に胸をふくらませる 、 昭和二 十 七 、 一件び百万遍の舟仙院継承問胞が 、 それらしい嘆息の言葉を うに覚えている。 しかしながら戦後 弘にでてきた。そして 。 寺に養子に行くとい 東京教育大学の助手とし 、 、 決定し兼ねていた 、 私を育ててくださった母は 、他 片岡 麟 角上人がご他在で住職とし 、 まだ結婚もせず 。 、 三あったが 。 時がやってきた。その頃弘は 、 て勉強してレた う話も二 八年の頃である ・ 、 一方 持仙院では 、 。 、 或る時 、 片岡上人 から、 京都に行く機会があれば 折を見て持仙院を 母の混成筋に当る叔母が 片岡上人の世話をさ 。 母の霊前に詣でていた 、 て活砲しておられたが 界され 、 れていた 訪ね 、 弘としても 、 、 、 、 っき その頃は東京に生活を中心 有り慾い申し出ではあるので すぐ京都に帰るという決断は 、 しかし 。 「どうだろう 寿仙院を嗣いでくれないか 」 。 と話があった 派ねていた 百万遍に入ることになったからであ 、 、 二聞では寺を持つという希盟の糸 を置いていたため 、 こ う した両親の喜びは、つかの間のことであ 、 の切なる願いが 実現する時がやってきたからである。 しかし 確かに両親は 、 息子の出位のためには致し方がない った 。 降ってわいたように 。 僧正の栄子となり る と思ったであろうが 、 が絶たれたような淋しさを 感じとっていたのではなか • n a 色 めても結 機 です 」 「今の状態でよければ 、 、 も 、 寿仙院を嗣ぐことを決 、 形 まだお元気でおられたの 将来 、 当分の聞はそれでよいということで話はきまり と返事をした。片岡上人 で それは 、 、 打ち破ら 私が東京の小金井 、 私の勝手な判断と行動で 。 。 かけつけてきてくれた。夢が蒋び実現する 、 ひしとかみしめていたのではなかろうか 、 ばかりの披露が 檀家にされた。との時も 両親は紅白の 、 餅を持って 喜びを しかしこの夢も れることになってしまった 、 、 失火で焼失し 、 、 それを機会に 、 小金 もとは浅草にあった。立派な本堂があ かの 鱗髄院長兵衛が出入りしていたという にある幡随院に入ることになってしまったからである。 幡随院は 有名な寺であり ったそうであるが 井に五千坪の土地を購入して移転してきた。 、 僅かな小遣いもだしていた 。 東京六 二十人近い学生が寄宿していた。一切の経 、 ここには伊達育英奨学会で経営している白道寮という 学寮があり 費を奨学会が持ち 大学の学生や 。 、 そして私は 、 昭和 十七年四月大正大学に もろもろの大学生がいた。大正大学の学 生も数人いた ー - 22 、 一一建築途上の鱗随院 〈昭和 18年 4 月現在〕一一 。 、 、 この学寮に世話になることになっ 、 った 、 。 。 朝夕の勤行をし 。 、 広大 。 しか 戦時中でもあったの 、 。 夕方とも カンカン照りの耳の日 山に登る石段造り なかなかの盤労働であった その頃の震な仕慌であ 最近 日曜を除いて毎日であるだ 、 一人 の大 工が 、 こ これも 宇治 、 仮窓 堂 毎日大のこぎりで いた。 われ われは庭の隅に建てられた られるということで 木を切って 、 で抑制タの効行をしていた。戦 時中から戦後にか け て の本堂は立派に 出来上った。そして 本尊 は 庭の 景観と共 小金弁の名所となっている。私の青春時 代 がささげ 、 の平等院の阿弥 陀如来 に模して作られたもので、作者は 、 沢田晴光 氏 であった。今日この 本堂は に られた一つの場所である。 。 そして昭和十八年 、 、 戦連急をつげる中で 、 学業 半 弘はこの 鰍 随院の白道 祭 で 大正大学の学生時 代 を送 った 、 加藤精 神 、 金田一京助 、 、 石井 教 道 、 藤塚剤、伊藤吉之 助 、 友松円務 、 {子 一年生の時はまだ授業らしい授 栄 を受 ばにして学徒出陣をした。大学二年の十二月の事である。 大正大学在学中 、 けることができた。 縫 尾緋医 弁伯寿 福弁康願など鐸々たる大先 生 の警 箪事 工場での作業 が 、 授 う勉強.ところで はなか . 、 指導を 受 け得たことは 大きな喜びであった。 も なると 、 大村経巌 、 中島真家 咳に援し 。 ライキを起す者 ト 二年生と ス 、 、 、も しかし W 4事 教練は勿論のこと 国民服や学生 服 に 。 、 。 業にとってかわった。 教 授も学生も 毎日を過した 学 業 途 中 で私 は学 、 、 巻脚緋聾で そして った その石段を登って 勉強どころではなかった 、 、 よくまあこれを引きあげたもの この寺に行き 、 。 九州の古賀寺の阿弥陀堂に模して造 われながら感心するほどである 、 、 一日中のアルバイトが義務づ 、 ったようである 、 僧俗を問わず そうしたことにな 住職の神 林礼堂師と 、林 彦明上人とが懇意であった 入学すると同時に た ため 、 学技休暇 中 には 、 この白道寮生活は 臼胞や 丁度その頃 。 本堂が建築中であり 。 、 けられていた ここのアルバイトは 私達学生は労働にはそれ程苫にしなかった 半ば程度であった 、 、 で 、 な庭の整備も し 、 住職の神 林 師白からが指仰を取り が 、 石運びをやった 私達は汗水をたらして 。 それも戦争 中 のこととて 、 、 風呂に入るのがやっとというこ 夏休み中は 、 、 、 合のふしぶしが痛み 。 皆ふらふらで 、 中 なると 、 とも多かった けに しかし もいな か った 、 本堂に詰るのであるが だと 本堂は台湾檎で お • 一一大正大学旧本館一一 、 、 、 出陣中の昭和十九年九月 、 、 、 。 そし 頭はからっぽになっ 。 いかに当時の教育界が 、 、 。 どんな 全くの一からの 、 むさぼるように誌ムふけった 知識欲に飢えていただけに 、 、 何時戦死しても 大学の卒業資絡があ 。 昭和十九年度の卒業生だけが 卒業論文なしに大学 。 殆んど勉強らしい勉強もしていないの 当時の国家的配慮であった 。 大正大学から卒業証占が師匠のもとに送 徒出陣してしまうのであるが 二十七日付で 、 られてきていた るという お蔭で私は に 、 除隊してくると立派な大学卒業生であった て を卒業した珍しい例となった 軍隊生活の二年間で 、 戦争の犠牲になっていたかのよい例と合えよう 忍自身も 。 空襲の為烏有に帰しており 、 てしまっていた。帰ってみれば沼津に位いていた学生時 代の本は やり直しであった 本ても出版されれば 、 それでも 、 、 明日への希 私は時代の流れのま 平和になったととは 一日記け母校の研究生として東京に通う時だけ 、 弘が専門とする中国留学の勉強は 昭和二十一年の秩 頃から 。 。 。 〈つづ く 〉 両親が願っている寺に入るという方向 、 大いに弘にも与えてくれた 、 であった 望を まに押し流され とは 、丸 で遣う方向に動いていた -24 ー 芸術において ・ ける詩的象徴論 お 人 恐v の 害善 t る 雄ぉ 問 とハ ・ 世界最短 ・ 三五あらん人は 、俳者也、十句におよばん人は名 キリ言えるであろう。 y 「一世のうちに、秀逸の句 、 、 俳 一 「象徴」ということは、最も大切な、必要不可欠の曾葉なのであるが、 この語の其毅は 、 l 「俳諾」という文学は、表音文学 ・僅々十四 |十七字の 文学 であって 、 、 その「俳諮」文学を確立 ・完求したところの芭蕉は、 従ってそれは、世界最高 ・至厳の文学 ・詩である 例えば 河5 、 め 至難の詩型であり じ 一般には余り知られていない!と本には思われる。 文学 譜 bま むかし先師 、凡非 につげて日 • 俳 -25- 。 人也。」下略 と断言している 名人でさえも 、 最高 。 、 一世に十句位しか作れない程、俳 諾は最高 、 ハ「俳諮問答青根ケ巡・答併子問難弁」〉 この 「象徴」が 至厳 、 ・ 至高に要請 せ ら 、 至難の「詩」文学であるーというのが その「 俳 ・ 、「 俳翁」においては 至難の「詩」文学であるが放に ・ 、 その「詩的象徴 」が如実に看守せられるのであるが 諸先生方 、 、 譜」確立者であって、古今無双の「俳人」であった芭蕉の突に端言 ・切句なのである。 その 、 れるのであって 芭蕉の代表的名句においては 芭燕句解において 、 この 「象徴」の語を使用したところ 某大学の講師先生か 、 の芭頚句解においては、その「詩的象徴」を正解して居られるものが皆無と言ってもよい、ほ極ど め て少ないの 。 、 一切「詩的象徴」が存しない!というのであろうか。&〈笑に耐え - 26- である 、 私は、 嘗て某学会誌において ら 「 徴 象 」の語義 。 :: 古典の解釈に、 「象徴」などという宮諜を使われるのは、どうかと思われる: 、 と陥に毘せられたことがあり、私は、微苦笑合禁じ得なかった 。 それでは 、万葉秀歌ゃ、芭蕉秀句など には ないではないか 、 弘説したいと思う。 以下、その「象徴」に就て、 一 、 ヌの名家 、 sa'S ら これ或は 左説を掌げておきた い。 上悶敏の 、 、 山 獄 と共に旧るきものならむ。 、 、 、 。 言 その語殺 古代ギリシャ轄 世 界文学をリードした!とも宮えると 〈明治三十八年「 海潮音」序) 。 明“ 接は 、ロハ類似の怜隙防険随片同区陣円ほげ。下 、 、 その ω吉田gs の語版は 当代における 、 、 そ「共 ・匂F030 後世において ω1・ω当fω吉 田 となった前置詞であり 、 、 必ずしも概念 自由詩型を説け す 二十余年の傍削西新時を以て 、 突に燦 燭 の美を恋に 、 、 、 終に象徴を唱へ 、 蓋し 、 彫心 鍍 骨の技巧 清新の機運を促求し 、 般に標拐する所あるは 、 このの創出者とも雷うべき 、 、 発 展の極に達し 之に観る所ありて 詩人の飢怨に煩似したる、一の心状を説者に与ふるに在りて 、 、 、 本義として 必ずしも近代の創意にあらず 、 高諸派の名米に於て 之を作詩の中心とし 、 「象徴」の語義に就ては伺よりも先づ 、 持に象徴を周ゐること 然れども 。 、 l 之が助を施りて エルレ ・ 一転機を生ぜずんばあらざるなり。 。 、 は -ゅ の訳であるが の ω吉田σo 、 人各之裁は見を異にすべく ∞ cs 、 「共にする」「類似する」の意なのであって放に「管」 、 主主 鳴矢とす 、 近代の併詩は に 中略 マラルメ り。 象徴の用は 〈傍線河野) その go フランスの近代詩として 、 を伝へむを勉むるに非ず。されば併に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて 詩人も未だ説き及ぼざる 語道断の妙越を翫賞し得ぺし。 。 、 対する解釈泳 故ドト協同詩に 略 、 、 σo寄 「サンボ日スム」ω】コヨ 右の「象徴」という訳語は ころの の ωE S H σ色』O であって 、 f『gmO52・ω-FOR すなわち は 、戸三時 今 にする」と 、 凝いなく 、 、 、 ・ その 春夏秋冬 また 息たちはそれを 、 、 、 、 「同情」ということになるのである。 ぬであろう 。 朝夕 :・晴曇・遠近などに応じて ・ 、 l 偉大 崇高 ・ 神政 ・ 則「象徴」 せられていることに 、 クリストの宮税自体に 、 その「象徴」附概念が上代から厳存してい 、 例えば 、「 新約型宙」におけるところの ・ 、 右の富士や山緩の「象徴」に窺がわれるように、「 類似」 または 、 「偉大」その他が 「山桜花」には 「敷島の大和心」がハッキりと 「象徴」せられ 。 、 印ロgi すなわち「投げる」「振り出す」の意であるから、「忽徴」即 「交響殺」となり 「感情」・冨匹て を「共にする」と 、 ζれを「共に提出するもの」の意を解して、多 く誤ら かの富士山を仰き見たならば 、 そして ωzBgEoの gzod 〈 は 58g 、 g-ゅ の語殺は 誰しも 、 、 。 その 、「 象徴」は 、 「般島の大和心」が 「山桜花」と「共に提出されている 、 永遠等々の感じが「共に提出」されている事実を認めるに苔さかではあるまい。 、 政島の大和心を人聞はば 、 朝日に匂ふ山桜花 、 富士山容には 誰しも疑いないであろう 、 万 。 その「新約」には 、 -28- 本居茸長に 有名な左の 一首が存する。 、 是の一首において は すなわち ているのであって 、 周知のように マザマザと罰取し得るのである たことは サンボルの語自体が 古代ギリシ十時代から存したのであるから 「比喰」の観念と 密接に相関する 、 . イエス とあって 、 、 、 危と& 。 卑近な「比喰」を以てするよ 、 、 その語られた言葉の内包するところの「象徴」 を 多し 、 群集に対する説教としては 。 之より入る者 、 その 、「 比愉」は ・ 必らずや常に 、「 比喰」を用いた、と言われているのであるが、蓋し 一一;登一一 回) 一 ハ「マタイ伝」一 一 曹にて鮮 終 に諮りたまふ。醤ならでは、向事も語り給はず。 、 、 金制官・張昧な庶民 イエスはその説教に方って すべて此等のことを 、 、 、 方法は有り得なかったりであり 紀元前後当代におけるところの り他に 、 前提とせずには 決して成立しなかった筈である。 。 、 (「マタイ伝」七傘・一一-一〉 「端雷 切語」的「忽 。 、 之を見出す者紗なし 突に私たちの 「人生哲学」を如実に教示するところの 、 ハッキリと厳存して 、 その道は広く 疑いもなく 、 、 、 わが国の古代 に も その径は細〈 、 タリストの代表語とも言うべき 左の一語が存ずる 狭き門より入れ 、 、 滅びに至る門は大きく 。 すい佳い この様な「象徴語」は 敢て外国の古代のみに止どまらず 。 切句は ・ 生命に至る門は狭く この端宮 、 徴語」ではないか そして いたのであった 、 掛かに神武 、 イスケの二子 ・ 、 綬靖らの暗殺を謀ってい ることを知ったイスケは ・ 、 直ち 伯仲武帝が袈じた時 その庶兄ハ日本記には綬mmwの庶兄〉タギシミミの命が 神武の皐后であ ったイスケヨ リ艇 を謀ったのであるが彼が 、 に綬靖ら両人に 左の二首を贈っているのである。 -29- JII ぞゐぬき 木タ風た のさ吹り 騒 Z ばむ火 業れか畝 ぐ と山 るす ・ 、 疑いないであろう。 ミを屠って 符武の次帝となったのであるが 万 、 、 、 、 タギシミミの暗殺計画を察知し 逆にそのタギ シミ 〈 古事記 中 ・ 巻〉右両首に、ハッキリと比喰 ・ 象徴が存したことは そして綬錆ら両人は 本両歌の 「象徴」的示唆によって かは 3寝室 む雲騒Z 立 ととぎち ι. 風山木河 吹昼のよ 火 、 本二首は「万業」制の 、格 調高い詠鼠であるので 、 この両首のような 古代歌のみならず 、 いた事実を、両首に如実に立証するであろう。 そして 芭蕉句に おける「象徴」 私は、芭蕪句における、その「象徴」の 、 、 一 、 一 、 万葉 ・古今 。 ・ 実にその「古都記」の編集当代(そ おそらく「古事記」編集担当の誰か 、 ハッキリと「象徴歌」が詠出されて 、 、 新古今などにおいて、同様な「級徴歌」が肱出 ・ 一一 一首に就て、私見を述べたいと思う。 、 . 投前十四年前の延宝八年ハ二ハ八O) に 左の一句 41 ティピカルな 芭諸問は その自風樹立〈貞享元年 ・一六八四年〉の四年前 以下 せられていることは、もはや、例示されるまでもあるまい 、 の成立は、和銅五年・七一二年〉たる八世紀の初頭において、わ が屈の古歌に 、 が右の伝説に依って詠出したものではないかと私は愚考するのであるが な同巻の他歌に比して 「古事記」における右の二首が、真に、イスケヨリ艇の作歌であるか否かは、勿論、疑わしく、古拙色の明らか -3 0- 畝狭 吟出している 。 愚案ずるに冥途もかくや秋の暮 (向之岡〉 彼が、その自賭した秋暮風景に対して、「冥途」即ち「死の世界」の「象徴」を看取していたことは疑いな く、「死の世界」は、また、彼が其処に住むことを欲せずして、「隠遁」せざるを得なかったところの「世俗的 世界」でもあったことは、略々、疑いない。 〈其使) 人 31 ー その芭蕉は、その没年たる元禄七年三六九四年)の、没前十八日に、有名な、左の一句を吟出している。 誰も行く者は無く、俺一人だけが行くのだ 余 - 此道や行人なしに秋の暮 本句における 「秋の暮」も、 前句と同様に、 「死の世界」「世俗的世界」の「品車種」的表現ー一 と応 、、仮定 しておこう。 その「死の世界」まで来ている遣は、雪うまでもなく「生の世界」からつながっている道であり、「道を 行く人」は、勿論、「生の世界「を目指して行く人であろう。 の ところが、その「生の世界への追を行く人は、雄一人としていない!と、芭蕉は断じているのであるが、 はいざ知らず、凡そ俳句をやって居られる方 4は、本句の詩的余韻 ・ 余情として、 そ その芭蕉は 、 当代の俳 人は 余数に居ったのであったが ・ 、 、 、 、 、 「名人 でさえも 、 、 仮定 、 「俳賠 ハ笈日記) 自分 一人 し かいな 、 一世に十句」程度程し 震うまでもなく 、 、 し ておこう。 これ亦有名な これま た 言わば辞世句として その 「 詩的象徴 」意であると 病没五日前の十月 八 日に 、 吟出している。 、 至鍵であるところの 其の俳諮を目指して行く者 は、 当代において ・ 、 という、芭燕自身の弧行ハ高〉独往の詩意を 充分御理解せられるであろう。 最高 、 その芭燕にとっての「生の世界への道」 即ち他でもないその「生くる逝」こそは 、 への道」なのであり 勿論 か作れない ほ ど 、 い!というの か、本句の趣旨であり ところが 、 旅に病で夢は枯野をかけ廻る の一旬を 、 、 なお 、 略々 「象徴詩」的吟出であることは その生涯 、 、 、 必死に探求し ハ綴答物穏〉 、 「俳諮」を探求した。そして 旅中に病んでの旅舎での その彼が その真に「生くる道」を 、 、 符節を合して 、 充分お判りであろう。 もう一句が存する。 、 、 以上の私の仮説を、如実に立証するところの 。 、 今や何方にも その枯野を駆け廻り止まないーというのである。 、 必死に駆け廻りつつ 疑いないであろう。 ・ 、 、 本句の「枯野」が「秋の幕」と同然、いやそれ以上に死の世界」 「世俗的世界」の「詩的象徴」語であること は、万 笹はその枯野を 病没寸前の夢裡にさえも たことの 、 この一句が 、「 此道や」の一句と そして 点字元年、自風樹立当年の次の一句である 海くれて鴨の戸ほのかに白し 32 ー - ・冬寒で有名なところであるから 。 「鴨」は冬零であるから、その「暮れた海」が、「冬務」であることは疑いない 殊に本句の吟出地は熱田の海上であ って、名古屋附近は、その夏暑 、 、 。 、 「灰かな微光」を看取したのであって それはまた 、 、 その 、 まだスッカリ暮れ切っていなかったところの、灰かな微光が漂うていた その「死の世界」から「生の声」であるところの 「鴨の声」が聞えて来たのであ 「暮れた海」か、索、続出暗冥、まさに「秩の本」や「柏野り」 よな り「 も死、 如実 のよ 世界」であったろうことは 思いもかけず その 「 鴨の戸 」 の方向には 、 誰しも納得するであろう。 ところが る。 、 。 - 33- そして 、 。 。 弁証法 、 -, 死 ことであろう。 ‘。か 芭官燃はその「鴨の声」に 「 生ける験し」としての ・ チャンと定形句になるのに どうして、そのような民形を取ったのであるうか 、 七の即興形を採っている の世界」を彊高独往するところの彼自身の行路の宛然たる「象徴」なのであった 周知のように、本句は、五 ・五 、 海くれてほのかに自し鴨の戸 とすれば 。 私はそれを「死の世界」「生の戸」「正」・ 「反」的モメントを「合」的に止揚 ・統 一するところの 的吟出と解する。彼はハッキロと弁証法をも知っていたのである • って、その「象徴」なしに、真の「俳 彼は如述の柑僚に世界最短詩における「詩的象徴」を熟知していたのであ 譜」は成立しなかったのである . 111111111111111 1111111111111111111 111111 11111 111 111111111 11 111111 111 111・ 1111111 11 1 1 1 1 111 1 1 1U1 1 11 1 1 1 11 1 1 1 1 1 1 1111111111111 ‘ =広告 申 込要領= 向夏 、 暑さもそろそろの頃 謹 啓 。 O '- 、 『浄土』 、 心よりお願い 皆様いかがお過しでございましょうか。 、 「暑中見舞広告」に今回もまた宜しくど協力の程 の きて皆様にいつもながらど迷惑 を おかけいたしております 号へ まことにうれしく思いますが、 8 一律二O ど う 申し上げます。 、 、 (『浄土』 成巻 広告費 E 案 内 八 月 月 号〉 000 円 、 4 いつも変らぬご愛顧を願い 申込 欄 Eコ 、 広 泊二 七月七日 ハ月〉 暑 中見舞 • なお まで宜しくどうぞグ か新会員のご紹介の方もよろしくお願いします。 法然上人鎖仰会 。申 込〆切 ハガキ にて一一 “ “ “ “ 111111111111111111111111111111111111 1'1111111'111111111111 '11111111111111'11111111111 11111111111111111 11111111111111 H -3 4 食会*女女*食会食女*****女な女女*女食会食**女会食会** 回 さAF, 2 先日, 女 の 戦 場 ・hvAH どの相手は同じ一族 、 。 締絵 ・松 だからこそ武照伯 。 だが 、 こん 伯母の韓国夫人ではな 郭悔 良は行動してきたのである 母の命令にいっさいの疑惑もさしはさまずに とぐらいは承知している 子供心にも武照伯母が一族の柱石であるこ ヲ ' よ 。 。 。 祖母の楊氏 ーー 組母に相談する ζ と 。 そのころはすでに栄国夫 彼女にすれば韓国夫人も 、 伯母さまとは 守口つでも もはやあのお方 「それは武照伯母さまがおっしゃるとおりだ る 武照も腹を痛めて生んだ娘たちだからであ 。 J Z 。 は皇后さまなのだよ 皐后さまの命令に従う -3 5- く24> 文 少年は思いまどった 逮 人と呼ばれていた だ 海 . ***会**女*****会食**女女セ***台女**食会合女食会 のが臣下のっとめです」 。 、 皇后 王氏や鷲叙妃が殺聾される 一 。 つまり永徽六年2ハ玄五〉の冬十 一月 、 祖母は孫をさとすのだった 、 武照は カ月前 認を得て正式に皇后位に就いていたのだ つまり王皇后たちを 「鵡議〈ちんどく)を行 わんと謀る」として庶人の身分へ降絡させた って「皇后 、 淑妃 。 幽室をたずねまわ った 。 、 いづこに在る?」など と って未練を断ち切ろうとし 。 度が王 皇后たちの 「資治通鑑」は簡潔に拘く し て向宗のこの態 ないのである 結果と 生命を絶 、 ||又ハ主后〉臼〈宗+音ーもう鴫普を念 。 乞うこ わば妾らをして帯び日月を nA しめよ 。 武后 、 とれを聞いて大いに怒り 、 上(高宗)臼く。「朕すなわち処置するあ 。 。 酒聾の中に投 、 またこれを斬る 。 、 例の 薫叔妃が武后を罵った場合一は 「阿武 数日 にして死す じて臼〈「 ニ妃の品川をして酔わしめん」。と と各今一 一 白 。 手足を断ち去り 人を遣わして王氏及び蒲 氏を投〈ウ〉たしかむ らん」と 。 直後「武氏〈武照〉は門あらわれ勲肌 あり 。 誉れは叡閣に霊 H に明け暮れていたからで と の院 〈幽閉門〉を名づけて閏心院となさん」 。 地車にして棋 敵 ハえいふつ〉あり さきに才行 を以て選ばれて後庭に入る 、徳は蘭扱にか がやく。〈中略〉遂に武氏を く 以て朕に賜う事、政 君に同じ。立てて皐后と 。 新し 、 為すべし」〈資治通鐙〉と高宗高帝は公表した のであった だがそれが突感とならなかったのは 女の験い H い皐后の則天武后(以後はとう呼ぶ〉がなお悶 室での 〈則天武后〉妖滑なること、乃ちここに至る 。 ある。どうもこの立皇后の詔勅は後年に造ら 願くば古生ハたせル戸我れ猫となり 阿武 、鼠 生生その喉を犯せん」と錨写してい 、 れた臭気が強い。なぜなら自らの手で幽閉し となり 、 ておきながら高宗はこのあとも王岳后を見舞 - 3 6- 食会*************女*****女な*女****食会食 • 、 、 ふくろう〉氏」とあらため る。王后の姓を『 蝶 ハぼう 大蛇〉氏」とし竃畑 氏を「泉〈きょう たとも暫く。 ところで郭悔良は伯母韓国夫人の身辺を暁 、 ぎまわる必要はなかった。祖母が決定的な証 言を与えてくれたからである。 、 「この泰 伯母さまは子供を生んだけれど 」 :: : あの子の父親 は天子さまだったのだよ 」 「あの賢という赤やゃんがですか 、 き 彼女はおお 「お母さんも人が悪い 。 今の今まで、ひと宮 もそんなことをおっしぞらないで:::この点 、 は 陛下にたしかめておかねばなりません」 決定的な事実を 、 、 悔良の働きを褒めたあと 銅銭二枚をお駄 貨に与えた。 かねて予期してはいたが つきつけられて、相手が唯一人の肉親だけに 。 この灘をどう処理したらいいのか 。 武后の心中は複雑に揺れ動いていたであろ う 。 すぐに夫君高宗の部屋へおもむいた 事実 。 をたしかめると、息帝らしいおおらかさで、 あっさりこれを認めた 「過ぎたことは致し方ございませぬ。妾の血 を分けた妹の子です 。弘 太子の弟として脊て ることに致します」 「そうして欲しい。皇子 だから李姓を与えよ う」 揮良少年としては 。 店主家の姓であった李姓をもら ってこ の男 児は李 賢 息子と呼ばれた 新たな従第がまた 一人、息族内に誕生したこ ー - 37 。 誕の 悔内氏は戸をのまずにはおれなかった 子とも知れずにこの邸で襲われていたのであ る。 皇子さまがふえたわけだから 、 「 皇后さまに言っておやり。お腹を痛めずに また一人 っとお悦びになるよ」 視母は気楽な言葉を吐く 。 果たして伯母の 、 則天武后が悦ぶかどうか。不吉な想 像 が少年 の胸をふさぐばかりだった。 。 武后にこの証言を伝えたとき らかに笑った • • *公****会*女***~女****な*女*女*****セ**** • とになる。 で 、 首の左右から吊 、 どちらもつんざくような音色だった。店 の主人に紐で結んでもらい 。 。 現在はその季 っている 。 西明 牡丹の庭園として長安の 、 南方に小高い丘がひろがる 節ではなかったが 名所に数えられていた 丘の上に堂々たる伽藍が建 このときから二年後に千余人の僧俗が集っ 寺である。 。 るして吹きながら酉市の雑沓を抜けていっ 。 しめて西市へ走 もらう点観銅銭は唯一つの楽しみであった り た 少年は銅銭を鐙 、 。 沙漠の彼方で常用される口聞や食物 、 悔良の年ごろなら玩nH が主 。 。 的は君主を礼拝すべきかどうか、論議は て「不持活親問題」を論じ合った会踏叫切であ る 。 大 白熱した。現在の建物はインドの祇園精舎を 偲んで永徽〈六五一〉二年に造立が成った その楼台廊室は四千余魁を数え 原で羊を追って旅する異域人たちの角笛に少 った 。 玄袋 三蔵の沢経場となっ こ大仏閣 ちなみにこの時点、西明寺を統管するコニ であ た大慈恩寺と比川す る長安における 。 此処に在住する修法僧たちの寝室を兼ね 、 駐が十三第 。 年は言い知れぬ魅惑をおぼえるのだった小 朱と緑色 。 た 。 。 孤 独な寝 室に それ を 必 ベて吹き わけるの 。 ぶりな角笛なら銅銭一位で買えた さまざま 、 た修行場でもある 揮良は銅銭で、いつも角笛を買った。大草 もしなかった。 体となるはずだが、彼はそんな品には見向き が売られている が従来し 人たちの流禽地であった 異様な風俗の男女 皇宮般の西北方にひしめく密集地域は西域 る。 るのだが やがてこの銅銭は乾封〈六六六〉の泉宝銭に替 両親のいない悔良にとって伯母の武后から • な形をした音色も異 な る角笛を買いあさって は が たまらなく楽しい この日ば二簡の角笛が買え た -38- • **主主主永永女主女女*台女合企女会***台女*なななな*台女食会 。 綱」は、上座が「続高僧伝」の編者である道 、 3 ・・。 4Mdφh がそんなに寂しいのか。両親は 「お前、毎日 ワ・」 宜で 寺主は神泰、維那は倹素だった 「いい音色だな」 「いないよ」 「兄弟は?」 角笛を吹きながら牡丹の丘を登っていった 。 「それもいない」 悔良は、若い法師に呼び止め られた 「大食〈タl ジ l〉人の笛だよ」 「誰と暮しているんだ」 げた。 答えに窮した 悔良は正直 にありのままを告 「お前は大食人の子か」 「見れば、わかるだろ」 大食人とは西城、アラビア人のことであ ていたのだろう 「天子や王后と一緒だよ」 「どうもこうもないよ。うちにはこんな角首 「王宮にいる老か:::どうだ、寺のなかを見 る。 。 が沢 山あるん だ。買い集めているんだよ」 たくはな いか」 法師は別に驚かなかった 身なりから祭し 、 「買い集めて、どうする?」 「見せてくれるの」 「二つもぶら下げて どうするつもりだ」 「だから、ただ吹いているだけさ」 「ついておいで。お前らの年ごろの小坊主が 。 「なぜ?」 多勢いるぞ。ちっとも寂しいことなんかな っていった。 俸良はその法師について大酸の一つへはい い」 「なぜって:::寂しさがまぎれる」 ぶっきら捧な返事だが、少年悔良の返事に は日常生活の一端を覗かせる何かがあった。 若い法師は 、少 年の官向 県島 な身なりを見逃さな -3 9- . 回 偲良は大殿の隅々にまでひろがる緊迫と 噂 童子が在院していたと記録される。同顕貴神 以諾五戒 然後唱経 方可聞法 発露地醗悔先受三鍋 厳の気流に圧迫される思いであった。 の子弟たちとばかりは限らなかった。仏教信 増長善根 当時の西明寺には百五十人をこえる沙喝、 その子に正しい人生を歩ま 称三五戸 、 者となった親が 必護祐福 仏名仏子 せるべく僧院へ送りこんできたのだった。 だから少年僧たちの日常は、儀 式における H え者向ではなくて、僧俗が一体となって 添 信仰生活を深めようとする大乗教団ほんらい の生きかたを忠実に守っていた。 、 侮良が大殿の片隅に立ったとき 折しも少 年僧たちは黄昏の礼拝にいそしんでいた。朗 、 々と戸を張り上げて 全身を屈伸させては額 を床にすりつける動作をくり返す。 次下使与門徒弟子唱経 能不能願不願 念仏三五戸 仏説阿弥陀経 これは教偉から出土した唐代初頭における 「俗講」の「阿弥陀経総経文」の一説である。 手順を教えている。 「み仏の前でな、わが身を機悔しておるのだ」 「繊悔とは何ですか」 「俗講」とは加持祈踏ではない在俗信者たち 「阿弥陀経」を唱経する前にやっておくべき 「わが身の罪を悔い改めて、滑らかな身や心 の称名、唱経の讃歌だった官僚突が明らかとな 若い法師が説明した。 になってみ仏に祈るのだ」 -ω 一 •••••• 食会*****************女*****セセセ令令令合 るであろう 。 。 念仏に移り 、 、 機悔を 、 「 阿 日は こ そこから 形式もきわめて簡単で くり返したあと 弥陀経」の読諦となる 、 「さっきお前がたずねた蛾侮だが 今 。 聴いてゆくがよい 」 もちろ 、 H のすべ 。 のあと紫晴らしい和上による俄悔のお説法が ある 法師は侮良の耳もとでささやいた 、 ん少年は この大殿における H作法 。 てを見届けるまでは一歩も退かないぞ とい 小うるさげ に短 答えただけだった。 く じつは少年俸良には替滋和上が語る内容を 。 。 よく理解できなかった 唯一つのことだけが 脳裡へ泌みとおっただけである 。 上の繊侮とは限から 、 また全身の毛穴か -|織悔のやり方にも上中下の三段階があ る 。 眼だけから血が噴き出 下とは全身が熱く汗ばんでき 、 ら血を噴き出させる餓悔である 中とは毛穴 。 からは熱い汗を発し るものを言う 、 て、眼 から涙があふれ出る餓悔を言う。 した 。 そんな 状態になっ あえてこの日は法師に質問をするこ 死んでしまうのではなかろうか。 、 、 さし控えた。もっともっとあの警務 和 、 。 大殿を去ろうとしながら若き法師に念を押 、 「また やって来てもいいで し ょうか」 上とかいう人のお説法を聴いてからだ。 とは だが たら 像を絶する光景であった ういうことなのであろうか。揮良少年・には想 全身の毛穴や限から血が噴き出る とはど ー - 41 う気持を固めていた 列の先頭 にい た色白の僧が進み出て仏 、 やがて少年僧たちによる作法のすべてが終 ると 前に立った。 年のころは四 十前後か。燦々しい 目鼻 立ち で語り 出す声にもよく透る美しい響きがあっ た。 「あの お方は ?」 「善導和 上とおっしゃる 」 、 法師自 身 もそ の説法に聞き惚れて い たの で • A・ 骨骨骨骨お占お******女な女*****ななな女*女食会食女会 「あ 、 いいとも 、 いつでもおいで。今時分だ と必ず礼拝とお説法がある 。誰かに谷められ たら俊感を肪ねてきたと言いなさい」 「懐感法師ですね」 お前のことを寺 ところでお前は何と 。 「そうだ、万一わたしがいなくともそこへ鯵 。 かに坐っておればよろしい へ話しておいてやろう いう名前だね」 「俸内氏と申します」 「どこの揮良だね」 、 「休祥坊に栄国夫人という者の壁敷がありま す。栄国夫人はわたしの祖母で そこに住ん でいます」 に近い な」 牡丹の丘の下まで送ってくれた 。 ゆくて でも懐感法師はそれ以上 追求はしなかっ 。 ようとしていた 。 平祥坊の祖母宅に近ずくと 捕仰向此は思わず 、 にひろ が る長安の街はすでに薄閣でおおわれ た 、 もつぶやくのだった。 「伯母さま:::あなたこそは血の噴 涙きを出 させて餓悔しなければなりませぬ」 ところで、十一政の少年に餓悔を強要され ようとする当の剣天武后は天宮の奥 で思案に 夫人だが 。 、 。 四 あのままにしておいてよいもので くれていたのである。血を分けた実姉の務国 あろうか 武后の前に中位侍郎の李議府が現れた 。 。 中容侍郎と言 十になったばかり 自哲切除、見るからに秀 才官吏の風貌をそなえている ‘ えば内閣副書記官長ほどの要職である。天子 や王后と自由に会える立場にあるはずだ。だ 。 。 いわゆる 忍んで H H 両者の間にナマぐさい関係のない 、 。 「明後日、主上のお供をして東部へまいりま くであろう ことは早速かわされた会話で容易に祭しがつ ただし 来たことになる 伴って現れたのである 「休祥坊か・・・・・・なるほど天子や王后のお住居 が李義府は王后の弘口仰を川畑除する侍紳二名を - 42- • 女セセセ*女********************女***食会 す。留守のほうはしっかり頼みますよ」 掲の出身ということで 、 トを希望し、長孫無忌らの重臣によって一蹴 されたとき、同じ重臣たちから僻地へ左遷さ 義出川の忠 の皇后冊立を政庁内で運動しはじめたのであ れかかっていた李義府が逆転をねらって武后 、 る。 四 川省の回会吏員 Hと考えた。李義府の方は王后の出世 武后は李義府の背景が無派閥であったことを しているという基礎条件を必要とする。則天 れた。悪智恵の肥大化はお互いの弱点を把湿 したのだ。そこへ同郷という共感度も加算さ まさしく利害のタイミングがぴったり合致 思っていた矢先だった。 いた。老いたる重臣連中の諌言を小うるさく 皇帝はこの若き中堅官吏たちの建策に飛び つ 武后の容色や才師官に心を奪われていた高宗 お前が同 みんな色限で見 、 武后は威厳を崩さずに念を押した。 「承知しております」 「 しっかり留守できるかどうかで 、 誠心が立証されるのですからね 郷 ています」 、 「それもよく承知しております 」 王義府はかつて萄の圏 、 、 にすぎなかった。中央へ取り立てられたのは 彼自身の実力による。科挙の試験に合格し 着荷と政庁内で地歩を固めたものだった。 則天武后も放水〈山西省)の生まれだが 先帝太宗の後宮にはいったころは四川省にい 便利 H 経絡に何やらキナ臭さいものが勾っているの た。父がそこの地方長官だったからだ。だが 後宮入りを遂 げた武后と王義府 との聞で何ら を多とした。美辞でこれを修飾すればお互い 英君が二代続いた唐王朝の三代目 高宗のど 、 なる。しかもその使命感は高祖から太宗へと が宮廷革命という使命感をになったことにも かの連擦があったとは考えられない。お互い にきわめて不安定な立場にあったからだ。 震 妃 Hという後宮内における特別ポス H 急速に接近したのはごく最近のことだ。武 后が - 43- 、 食会食女*****~長女女***~な****女**食女***女女** ジョンを心地好く満たしてくれるものであっ 武后は満足げに微笑む 季毅府も負けじと 「よろしい」 笑み“Hだけに関して 。 た。 こと て宮廷内で「挙毅府、笑中にあって万あり」 H 笑みをかえした 。 「留守を預かるやりかたですが、義府はまず は李義府の方が一枚上手であった。後になっ 武后は試験官のような口調で説閉した。 「猫にね」 きましょうね」 「猫の齢制府がやり易いように子猫も付けてお 。 と恐れられたぶ気味な笑みなのである 「化けた摘が王宮の奥を俳細するんです」 「子猫ですか」 、 「はい 侍郎奴は猫になります」 「粛淑妃の化身というわけね。それからどう 「明日、もう一度この時刻に錫除女たちを連 までもない 。 。 。 -|武后しばしば王、粛の銭たりをなすを 資治通鑑」が結く 由を 「 則天武后は高宗と同道で洛陽へ去った 理 町四,, 叩 吋・ 2・ 25J 川 』、川 その子猫が、甥の郭揮良であることは言う ましょう」 れて此処へいらっしゃい。子猫を引き合わせ しますか」 「いまわのきわに議ずいた呪いの 言葉がその まま実現します」 「鼠を喰い殺してしまうのね。毅府という男 はたいへんな悪者ね」 断末魔の粛淑妃が吐き散らした捨て台詞で 。 あった。「 :::我れ猫となり、阿武〈則天武 后〉鼠となり、生生その喉を施せん」|| 李幾府は眉ひとつ動かそうともしない 「あの侍稗たちのように盛一つ残さず、締麗 に錦除しておきますよ」 - 44- 何をやりますか」 • セ女女合女食会令***********セ*****, 怪 猫 . . . h., ・ ....,..._. " _ . '日 一. . . . J 、 二E ‘ 電 J 凡 '・ , ‘ 、 ¥ 11i1 s . -4 5- 令食会合会*令*********食会食食会やややややもる令-b bも 。 、 後移りて蓬帯保宮〈雄官)に居り またこ 見る。援を被り血宏そそぎ、死時の状の如 し れを見る。放に多く洛陽に在り。 。 玉虫后や 葡淑妃の亡 鑑に悩まされたという のである だが武后が去っても長安披内には夜な夜な 亡霊は立ち現れた。それも猫の姿であった。 。 どこからはいりこむのかし 残らず追い払ったはずだよ」 「そうでしょう その秘密を知っているのは李毅府と自分と 。 の二人だけだった 本十毅府がどこかから姶っ てきた 野良猫を、韓国夫人の部屋へ自由に出 入りできる俸由民が寝床へもぐりこませるので ある。 韓国失人の部屋だけではない 。 侍僻や官官 の寝室にも猫は跳梁した。たちまち怪猫伝説 はよみがえった。 議官うともなく仕掛人は字義府だというこ だらしなくなるも - 46 ー 「それが気味が悪いのよ」 と諮るのは従姉の賀脳剛氏である。武后の姉 韓国夫人の一人娘で 、未 だ十三歳だったが美 と視母の潟 とが知れわたってしまった ためにこの中部 の女どもは気がゆるんで H ボける。 のです」 、 李猫 Hと呼ぶようになった 。 氏などは褒め千切っている。 侍郎を 「母と妾が寝ょうとすると、お布団のなかに する。 と孝義府は悪般の意味を少 年の冊良に説明 も見たとともない猫なの 」 「だらしなくなるとは どういうことで すか」 、 「猫が :::たしか王后さまは妓内の猫を一匹 いつも猫が先にはいりこんでいるのよ。それ 。 「どんな具合なの」 「天子さまも皇后さまも留守でしょう。後宮 、 ら 後ろめたい思いを 噛 みしめながら惇良はト 形の天裏は武氏一族でも最上位 L- 合女*女女食********女***********食会食女女な そんなふしだらをさせてはいけません 女はすぐに男を寝室へ連れこむんです 、 。 。 巧宮と令色で 。 「あんたは未だ子供だからわからないだろう が よ 。 気味の悪い猫がいれば防げるわけですね」 帥噛んでふくめるように語る 。 この地位にまでのし上がった李毅府である 説得力は充分だった だが 。 、 その釈明が一気に崩れ去る事件が発 生した 、 すこぶる上機嫌だっ 、 祖母は敏之と賀蘭氏兄妹 。 怖良たちは組母楊氏に招かれ 滅外の邸宅 へ出かけていった 。 の孫たちにかこまれて た すでに立派な背年となっている孫息 。 ことに楊氏は孫の敏之を異常なまでに可愛 がった 子を愛人に見立てているかとさえ思われるフ ととも 女慾 山の 深い血筋 H シがあった。ここらあたりにも後年の則天武 后に見る年齢 を無視した を感じさせるは韓国夫人は嬰児の李賢 に後宮に居残った。 なごやかな夕食は夜陰まで続いた 。 揮良は 従姉の賀蘭氏と連れ立って王宮へ帰った。敏 。 った賀則氏が血相 之はそのまま祖母邸へ泊ることになった い ったん母の寝室へはい 。 を変えて揮由民の部屋へ飛びこんできた 、 「たいへんよ お母さまが:::」 「 何だって :::」 。 いったん寝台へ上がったにちがい 夫人は床に突っ伏していた。白い しかし、苦悶のあまり転ろげ務ちたの 。 韓国失人の弘房には凄惨な光景がむき幽さ 。 れていた ない であろう 、 これも吐 夜衣は吐血で染まり すでに気息はなかった。 、 仰向けになって死んでいる。不 、 しかもかたわらで巨大な黒猫が 血にまみれ 思議なのは嬰児の息子李賢だけが何事 もなか 。 ったかのように寝台ですやすや眠っているこ とであった 「この猫が戸外か ら議を持ちこんだにちがい ありません」 と急報を得て駆けつけた李緩府は冷静 に分 . -4 7- 食会合会食*****合食会**女食会会合会会***-trt.主とととF ふる 析 推現する。 、 た」 「その折の夫人は?」 ました」 「その議を・・・・ ・ ・ 」 H の称を与えられるのは一品 「たいへん御気分が好さそうでいらっしゃい 何関 H 「一品夫人の食物血へ吐きこんだのでしょ 」う 夫人に 「つまりまだ選が身体にまわっていなかった 押し通 位を示すのである。 も わけですね 」 、 そうとする。 自分がこしらえた筋書をあくまで 「そんなお料理を なぜ母が食べたのでしょ うか」 。 何を馬麗な、伯母の肌へ穫を入れたのはお 賀 蘭 氏はいぶかしがる 「そこが猫の魔性ぷりではないでし ょうか 前ではないか。彼女が食べ終って苦悶をはじ 。 議入りを見分けさせない妖衡を用いたにちが めたところで無理に穫を食べさせた黒猫を持 。 それがまかりとおってし . 少年の岬仲良でも簡単に解明できる議殺の手 る。 いありま せ ん」 すでに猫の魔 ち来たって此処へ投げ出したのにきまってい 。 「・・・」 ・ ・・ 賀 蘭 氏は黙りこんでしまう あの手この手でたっぷり後宮のな 、 法であった。だが 性ぶりは かえ構えつけてあるのだ。 まう後宮なのである しなければ、と思った。少年の脳裏にあの牡 仰由民は 一刻も平くこの汚濁の世界から脱出 、 「血がない。一品夫人が食した皿はどこへや った つ・」 率・毅府はまことしやかに部屋付きの侍稗を 丹の丘 西明寺の掌{予が鮮明によみがえって 訊問する。 きた。〈つづく〉 、 「全部お食べになったので、お下げ致しまし -48- い要領 一一一 、 、 、 続切 枚数 容 内 ま 月百 五日 字戸下め 語、り 紙 è生 用 五 J さー 枚 へいコ 。~司F や L、 e主 思 う 法 . . 、 、 然 上 人 鍍 ジかま どいめ面詰 ぞ うてにに て ま 、__. 法 図 l ニ然 よ 績 一 八局 二-五九 八. 八回 十l 債ー 七香番回 会仰 六│ 谷 川.林 印密昭 劇 .-彦 者 の 、 皆 下びて 機 い まで ヘ 函 誌- の れさ 員 諸 会兄 す す の i で皆読者梧 ま 『 」 あ も 様 りの広 て す~, くり 、 けま しお 心、 とを 設 宜 お ナとのい めを 、 • の 面充突 コた 新誌 刊 月 1 こし よ く を りご細 ー紹介 層 々 と どま 誌の 下さ発 行 下左記 散り 。な 協力す。面の繋 がい し さ ベを ~, 浄 会 費 十十種 土 一 年年重事五 五 年 一 金 一 長佐官 続 し 則所印 人行発 S集 人B 六五 4使biBi 八六 の 投 稿随時 た に お 。 り、と三 ど がら たび字』 土 『争努力 ど 省ピ :. 7 tこ 企 責 醇 ふる 不 従来、 おいて 進増の 年 費 会 つ期定な よはには な と 風 会 ら 。、さた誌仏 た -ヒ イ 仰 は せでをるた念 毎回由 自 度 程 l 月二刃 包可 十 日 一十 日五 日 行売 刷 印 十 一 巻 ., 号 月 ae、、 j ) 一 一 一 、 土 -, 浄 L . . . 購 定 規 読 第五十二巻 六 月号 鶴V 毎月一回 一目先行 昭和十年五月二十日《 鯵 三種園田便物可 昭和六十 一年 玄月二十五日印民 昭和六十一年六月-日発行