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は「べつかい」
「別海」は「べつかい」か「べっかい」か? 別海町教育委員会 はじめに 別海町に「べつかいちょう」と「べっかいちょう」の二通りの読み方があることは以前 から問題にされてきた。町側は、広報やホームページを通じて 1971(昭和 46)年 4 月 1 日 の町制施行を機に「べつかい」に統一したとの見解を示し、公文書や公共放送、公的機関、 ポスター、各種看板など、少なくとも公的な場面ではそれが定着してきていたように思わ れる。しかし、2007(平成 19)年 3 月 9 日に開かれた別海町議会定例議会での谷川博孝別 海町議会議員(当時)の一般質問によって、 「べつかい」に統一したという町側の説明に対 する疑問が投げ掛けられ、町制施行を機に統一したという町側の説明には根拠が無いこと が明らかとなった1。 それでは別海は「べっかい」と呼ぶ(読む)のが正しいのか、それとも「べつかい」な のか。本稿は、町名「別海」について歴史的に考察することで、その判断の一助になるこ とを目的としている。 I アイヌ語地名としての別海 「別海」は他の北海道の多くの地名と同様、アイヌ語を由来とする地名である。ここで はアイヌ語地名としての別海について、簡略に述べておきたい。 ノツケ通行屋でネモロ場所の通辞であった伝蔵は、1859(安政 6)年に記した「安政六 未年子モロ地名和解書 武四郎は『東蝦夷日誌 伝蔵自身才覚」の中で、「ヘツカイ 川折ル」としている2。松浦 ママ 八編』で、「(ニシベツ川の)北岸をヘツカイと言。名義、川が折 たと云儀か」と記している3。 1891(明治 24)年に出版された永田方正の『北海道蝦夷語地名解』では「Pet kaye ペッ・ カイェ。破レ川。又折川トモ」としている4。町勢要覧ではこの説を採用している5。これに 対してアイヌ地名研究家の山田秀三は、 「カイェ(折る)でなく、カイ(折れる、折れくだ ける、折れている)だったのではなかろうか」として、 「ペッ・カイ Pet kai」説を支持し 1 2007 年 3 月 9 日別海町議会議事録より。 「安政六未年子モロ地名和解書 伝蔵自身才覚」 『万覚帳』加賀家文書館所蔵。 3 松浦武四郎『東蝦夷日誌 8 編』北海道大学附属図書館北方資料室、多気志楼 91(8)。松浦武四郎著、 吉田常吉編『蝦夷日誌(上) 』 (時事通信社、1984 年) 、339 頁。 4 永田方正『北海道蝦夷語地名解』 (1891 年、[復刻版] 草風館、1984 年) 、411 頁。永田が野付郡を調 査したのは 1890 年 10 月から 11 月である。同書、5 頁。 5 別海町総務部総務課編集『北海道別海町町勢要覧 2003』 (2003 年) 、39 頁。 2 -1- ている6。 アイヌ語の「ペッ Pet」とは川のことであり7、アイヌ語を由来とする現在の北海道地名 にも数多く登場するが、子音で終わる名詞であり、和語にはない発音である。またアイヌ 語に「ペ」と「ベ」の区別はなく、時によっては「ベ」に近い音になる8。そのため、「ペ ッ Pet」で終わるアイヌ語地名の場合、基本的には母音で終わる和語に合わせる形で「ベ ツ」と書き表され、明治期以降多くの場合「別」の漢字が当てられた。現在の別海町でい えば、西別、本別、春別などがその例である。また、 「カイ kai」とは「折れる」という意 味の自動詞であり、「カイェ kaye 」とは「折る」という意味の他動詞である9。 この西別「川の折れている」場所がどこかは現在となっては特定できない。加賀家文書 には、1859(安政 6)年に伝蔵が記した根室地方の地名を解説した文書が残されている10。 「ヘツカイ 川折ル」というアイヌ語の意味とともに、現状の川の流れから 2 丁(約 200 メートル)南に昔あった川の流れの曲がっていた地点を示して「ヘツカイ成べし」と記し ている(資料 I-1)。つまりこの時点で、ベツカイの由来となった「折れている」川の流れ は既に変わっているということになる。 さて、 『加賀家文書』を含む江戸時代の文書や地図には、別海は「ヘツカイ」、 「ベツカイ」、 「ヘツカヱ」といった様々な表記で登場しているが11、中でも古いものとして、1790(寛政 ベ ツ カ イ 「蹩子葛乙」と漢字で記され 2)年の『夷酋列像附録』を挙げることができる12。ここには、 カナでルビが振られているが、カナ書きを敢えて避けて当て字を用いている。なお、厚岸 アツ ケ シ は「遏結失」と 3 文字にまとめられているのに対し、別海は「ベツカイ」の 4 文字それぞ れに漢字が当てられていることは注意すべき点である。 「遏」に「アツ」の 2 文字を当てる やすとし ことで、促音であることを表しているとも解釈できる。松前奉行支配調役の荒井保恵が 1809 (文化 6)年に著した『東行漫筆』には、番屋及び「子モロ夷人住居地名」のひとつとし て「ヘツカイ」、「漁業場所」として「ベツカイ」が挙げられている13。このように、「ヘツ 6 山田秀三執筆「別海(べつかい) 」の項目『北海道大百科事典下巻』 (北海道新聞社、1981 年) 、543 頁。 7 萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂、2002 年[増補版]、398 頁。 8 中川裕, 中本ムツ子『CD エクスプレスアイヌ語』白水社、2004 年、12 頁。 9 萱野前掲書、190 頁。 10 「安政六未年子モロ地名和解書 伝蔵自身才覚」 『万覚帳』加賀家文書館所蔵。 11 1700(元禄 13)年に作成された「松前島郷帳(元禄郷帳) 」及びその附図である「元禄御国絵図中松 前蝦夷図」には「べけるゝ」という地名が見られる。 『元禄国絵図』北海道大学附属図書館北方資料室 所蔵、軸物 210。吉田東伍は『増補大日本地名辞典 北海道・樺太・琉球・台湾』 (1909 年、[復刻版] 冨山房、1972 年、340 頁)の「別海」の項で「ベケルルは、蓋ベツカイルルの訛にして、 (Pet kayeruru) 破川の海の義とす」としている。 「ルル rur」とは「海の潮」のことである。萱野前掲書 473 頁。地図 から見て、 「べけるゝ」が現在の西別川河口付近の地名ではないかと考えられる。しかし不正確な地図 以外にこれを裏付ける文書は無く、また「べつかい」か「べっかい」かという本稿の課題とは直接関係 してこないため、ここでは考察の対象とはしない。 12 松前広 『夷 附録』 (1790 年) 、北海道大学附属図書館北方資料室、 0019。 部編『 別海 』 (別海町 会、1972 年) 、32 頁。 13 「東 筆」 編『北方 料集成 巻』 (北海道 版 、1991 年) 、1 9 171、174 頁。 刻文では、 「 カイ」 、 「ベ カイ」と でされている 所があるが、 文は 長 酋列像 旧記 釧路開発建設 浜 遺跡 教育委員 荒井保恵 行漫 秋葉實 史史 第一 出 企画センター 6 ~ 翻 ヘッ ッ 促音表記 箇 原 -2- カイ」と「ベツカイ」が特に区別無く用いられている点は、加賀家文書も同様である。そ の他、「ベツカヱ」は『天保国絵図 松前国』(1838 年、国立公文書館所蔵、特 083-0001) に見られる これらの文字から当時実際にどのように発音されていたかを断定するのは困難である。 濁点や半濁点は時に省略され、また「つまる音」、すなわち促音も現在のように小さな「ッ」 ではなく、大きな「ツ」で表記されていたからである。この促音の問題については後述す ることにする。 Ⅱ 明治期以降の別海村 『開拓使事業報告 第一編』によれば、開拓使根室支庁は 1872(明治 5)年 3 月に根室 支庁管内の村名を初めて定めた14。しかし『開拓使事業報告』にはこれ以上詳しい記述はな く、それを裏付ける他の一次資料も今のところ見当たらない。しかし翌 1873 年 6 月に調査 され、翌月に提出された「根室国地誌調」によれば、野付郡の村名として別海村・野付村・ 茶巣骨村・帆仁恋村の 4 つの村名が挙げられていることから(資料Ⅱ-1)15、これが 1872 (明治 5)年 3 月に初めて定められた漢字表記の村名と推測される。これ以前にも、別海 あるいは別海村という漢字表記は明治初期の文書に見出すことができるが16、しかし一方で 「ヘツカイ」 「ヘツカヱ」 「ヘツカ井村」 「ベツカ井」 「鼈海」 「別貝」などの表記も混用され ており17、これらを「別海村」に正式に統一したわけである。 1875(明治 8)年 5 月 25 日、開拓使根室支庁は管内正副戸長に対して「別紙ノ通国郡村 名等総テ本字ニ相換」えたことを通達している(以下本稿では、この通達を「本字通達」 と呼ぶ。)18。ここでいう「本字」とは漢字のことであり、これまでのカナで書かれていた き 開拓使 業報告 第一 明治 第 根 提 根 支庁原 立 簿 例 ば 村 表記 根 花咲 根 土人々 藤 立 マ フィ F- / 表記 産 並畑 駅 逓 庚午 立 簿 や 陣ヨリ 岸続字チヤシコ 迄 切開ノ件 根 往 明治 辛 立 簿 ど ヘ 漁場持 善 撫育等閑ニ 勝手向申出 ノ件 申達 類 明治 ヨリ マデ 立 簿 ヘ ヱ 駅場規則 相定ノ件 申達 類 明治 ヨリ マデ 立 簿 ヘ 井 村 土人勘定ノ ニ 申達ノ件 申達 類 明治 ヨリ マデ 立 簿 井 鼈 井産 焼失 ノ件 指立状 第 号 午十一 ヨリ 二 十九 迄 立 簿 出 き 貝 帯刀 歴検 根 州 類 - 6だ 期 幕吏 延叙歴検真 開拓使 請 清 も 伸一 代 ノート 開拓記念 研究紀 号 参照 村 等 テ 字ニ改換ノ件 開拓使根 支庁庶 人民布達 明治八 立 簿 6件 だ 紙 欠 明治 根 県 纂 開拓使根 支庁布達全 ~ 紙も含 再 すべて大 な「ツ」である。 14 大蔵省編『 事 編』 、1885 年、185 頁。 15 「 六年 六月 室国地誌調」 『地誌 要 室 稿』 (北海道 文書館所蔵、 書 7072) 。 16 え 「別海 」の は 1871 年の「 室国 ・ 室・野附三郡 別帳」 ( 『 野家文書』 、北 海道 文書館所蔵 イクロ ルム、 2 2509)に、 「別海」の は、1870 年の『三郡 物 地 調 三年 』 (北海道 文書館所蔵、 書 242) 1871 年の「別海本 海 ツ 新道 」 『 室 復 四 未年』 (北海道 文書館所蔵、 書 304)な に見られる。 17 「 ツカイ」は 1870 年の「野付郡 山田 吉 付 方 」 『 書 三年 同四年三月 』 (北海道 文書館所蔵、 書 373)に、 「 ツカ 」は、1871 年の「 」 『 書 三年 同四年三月 』 (北海道 文書館所蔵、 書 373)に、 「 ツカ 」は 1870 年の「 義 付 」 『 書 三年 同四年三月 』 (北海道 文書館所蔵、 書 373)に、 「ベツカ 」と「 海」は 1871 年の「野付郡ベツカ 物会所 方 」 『 四 月 未 月 日 』 (北海道 文書館所蔵、 書 374)に見 すことが で る。 「別 」は、1871 年の目賀田 『北海道 図 室 (上)』に見られる。北海道大学附属 図書館北方資料室所蔵、図 492 (1 ) 399。た しこの絵図は、目賀田が安政 に として北海道を 調査して作成した「 図」を、 の要 により 書した のである。 18 山田 「アイヌ語地名の近現 に関する 」 『北海道 館 要』 (33 、2005 年)、 119 頁 。 「国郡 名 総 本 」 室 務課『 年』 (北海道 文書館所蔵、 書 1472、1 目) 。た しこの文書にはその「別 」が けている。1885( 18) 年に 室 が編 した『 室 書 巻上』123 144 頁には、この別 めて 録され -3- 町村名をなるべく二字を超えない「相当之文字ニ改正」したのである19。別海村に関する部 分のみを引用すると次のとおりである。 「野付郡 ヘツカイ村 改 別 海 村 」(資料Ⅱ-2) しかし前述のとおり、実際には既に漢字二字の「別海村」になっており、この時点まで 「ヘツカイ村」が正式な村名であったわけではない。求められた雛形に忠実に根室支庁側 が作成した結果、既に使われなくなっていた「ヘツカイ」の表記が再び引っ張り出されて きたと考えられる20。ただしこの通達により、漢字表記の「別海村」が正式な村名であるこ とが改めて確認されたということはできる。 ところが先の「根室国地誌調」と「本字通達」とを比較すると 10 余の村の名前が欠ける などの不備があり、札幌本庁から調査するよう求められている21。本庁はその欠けている村 (名称が完全に一致しない村も含む)だけを対象に読み方についても照会していることか ら、 「本字通達」に記載されたカナ書きが、その地名の読み方であると本庁は認識していた と考えられる。この件に関して『開拓使事業報告 第一編』には、1875(明治 8)年「三 月各郡町村名称ノ仮名ヲ本字ニ改ム左ノ如シ」として、町村名にカタカナでルビを振った 一覧表が掲載されている22。漢字表記、振り仮名の両方に若干の相違はあるものの23、「本 字通達」に挙げられたカタカナの旧称が振り仮名として用いられていることも、このこと を裏付ける。なお別海村には「ベツカイ」とルビが振られている。 ママ ところで『別海町百年史』には、 「明治 8 年 5 月24日開拓使は本字の使用を布達し、別海 地方の各村は次のように決定された。 野付郡 ノツケ(野付村) 根室郡 ベツカイ(別海村) ヒライト(平糸村) ニシベツ(西別) アツウシベツ(厚別村)」という記述があ 24 る 。この記述だけを根拠にして、別海の読み方は「べっかい」ではなく「べつかい」が正 しいということはできない。これまで述べてきたように、 「本字通達」のカタカナ旧称が漢 字村名の読み仮名であると考えられるものの、 「チリツプ」 (散布)、 「チヤシコツ」 (茶志骨)、 市立釧路 伸一 判官 折 平内宛 全 村 等 称改 ノ件 明治七 庁往 立 簿 件 件 根 支庁へ 照 回答 雛形 判官他 折 平内宛 根 轄各村 称呼ノ ニ 問合ノ件 庁往 明治八 従八 至十二 立 簿 6 件 開拓使 業報告 第一 ~ 6 述 お 字 達 原 紙 ず 一 表 欠 開 拓使根 支庁布達全 開拓使 業報告 どち 表記 原 忠実 判断 き 例 ば 開拓使根 支庁布達全 シ 村 改 厚 村 ウシ 誤植 思わ 開拓使 業報告 ウシ 記 原 体 シ 記 も 沿 ⅡATUSHIBETSU 後 厚 村 漢字 合わせ 形 む 呼ば 根 市 洋 篇 ビ 史 記述 出 ひ 標津 史 標津 役場 6 挙げ 該当 記述 土 史 原 参照 だ 原 村 ひ ている。 図書館蔵。 19 山田 前掲、119 頁。 20 1874 年 12 月 7 日松本大 より 田 「北海 道国郡 名 名 正 」 『 年 本 復』 (北海道 文書所蔵、 書 1135、13 目)にこの に関する 室 の 会と のための がある。 21 松本大 2 名より 田 「 室所 名 義 付 」 『本 復書 年 月 月』 (北海道 文書館所蔵、 書 148 、50 目) 22 大蔵省編『 事 編』 、1885 年、185 18 頁。 23 前 のと り、 「本 通 」の 本には別 として附されていたは の 覧 が けているため、 『 室 書 巻上』と『 事 』の らの が 本に かの はで ない。 え 、 『 室 書 巻上』には「アツ ベツ 別 」とあるが、これは「ア ツ ベツ」の と れる。 『 事 』には「アツ ベツ」と されている。しかし 本自 に「アツ ベツ」と されていたと 考えられ、 『北海道 海図』(資料 4)には「 」 と書かれている。その 「 別 」は に る で「あつべつ ら」と れることになった。 『 室要覧』 ( 川常 堂、1913 年) 、177 頁(中 )のル より。 24 『別海町百年 』 (別海町、1978 年) 、531 頁。この の 典の とつとして『 町 』 ( 町 、19 8 年)が られている。 する は同書 374 頁にある。別海町郷 資料館所蔵「 『別海 町百年 』 稿」 。た し、この 稿には「べつかい(別海 ) 」と らがなで書かれている。 -4- 「シヤリ」(斜里)、「シヤナ」(紗那)のように促音・拗音と考えられる文字もすべて大き く書かれているためである。 現在促音は「っ」 「ッ」と小さい文字で表すが、これが一般的になったのは戦後のことで ある。種々の仮名、符号による表記が用いられたり、あるいはそもそも表記されなかった 促音が、 「つ」 ・ 「ツ」という表記にほぼ統一されるのは 15・6 世紀に入ってからであった25。 戦前の小学校教科書では、1900(明治 33)年まで大きな「つ」が用いられ、1904(明治 37) 年に一度小さい「っ」に統一されるも、4 年後には再び大きな「つ」に戻された。昭和期 になると低学年向けの教科書では再び小さな「っ」が復活するが、高学年向けの教科書で は大きな「つ」が引き続き用いられた。すべての促音が小さな「っ」になるのは、1946(昭 和 21)年に現代かなづかい26が告示された後に発行された 1947(昭和 22)年の教科書から である27。よって、戦前の文献に見られる表記が「べつかい」「ベツカイ」であることを根 拠に「べつかい」と読むのが正しいとはいえないのである。 それでは明治初期、 「別海村」は実際にどう呼ばれていたのであろうか。それを知る手が かりとして、ローマ字で地名が書かれた地図や当時別海を訪れた外国人の著作を調査した。 カナや漢字表記とは異なり、ローマ字で表された地名は当時の実際の発音に則しているた めに促音であるか促音でないかを判断できると考えられるからである。 まず開拓使が公刊した地図として、1876(明治 9)年の『日本蝦夷地質要略之図』を挙 げることができる。これは 1872(明治 5)年に開拓使に招聘されたアメリカ人地質鉱山技 師ライマンが北海道中を調査旅行して作成された日本最初の広域地質図である28。資料Ⅱ-3 にその部分図を掲載したが、別海は「BEKKAI」と表記されている。釧路が「KUSURI」、根室 が「NEMORO」と記されているなど、この時点における開拓使の地名把握とは一致しないと 考えられるローマ字表記もあるものの、開拓使が発行した地図に「BEKKAI」と記されてい る事実は重要である。これ以降、明治期に発行され、別海がローマ字で記されている地図 を挙げると、『北海道沿海図』(1883 年、資料Ⅱ-4)、『北海道地質略図』(1890 年、資料Ⅱ -5)、 『北海道地質図』 (1891 年、資料Ⅱ-6)、 『北海道地質及鉱産図』 (同年)29、 『北海道地 勢及鉱産図』 (同年)30であるが、そのいずれもが別海を「BEKKAI」と表記している。 『北海 道沿海図』を除けばすべて北海道庁及び道庁技師による地質図・鉱山図であるため、地名 は再検討されずにそのまま使われた可能性はあるが、一貫して「BEKKAI」である。これら 遠藤邦基「特殊音節(撥音・促音・長音)の表記法--「はねる・つまる・引く」という説明が必要とな ったことの意味」 ( 『關西大學文學論集』50(3)、2001 年) 、7 頁。 「促音をあらわすには、つを用い、なるべく右下に小さく書く。 」 (昭和 21 年「内閣訓令第 8 号 「現 代かなづかい」の実施に関する件」『官報』号外 1946 年 11 月 16 日) 野澤卓弍「小学校国語教科書・表記の変遷」 『九州女子大学紀要』第 41 巻第 1 号、2004 年、68~69 頁参照。 秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』(北海道大学図書刊行会、1999 年)、385~387 頁。 神保小虎等『北海道地質及鉱産図』(1891 年)、北海道大学附属図書館北方資料室所蔵、図類 466。 阿曾沼次郎『北海道地勢及鉱産図』(北海道庁、1891 年)、北海道大学附属図書館北方資料室所蔵、図 類 829。 25 26 27 28 29 30 -5- の地図の表記から判断する限り、 「別海村」と地名が漢字で定められて以降、開拓使及び道 庁はその呼び方を「べつかい」ではなく「べっかい」であると認識していたといえる。 ところが、明治初期に別海を訪れた外国人の残した文章及び地図を見ると、この開拓使 と道庁の認識が、当時の住民の地名認識とは必ずしも一致していないことがわかる。 「ブラ キストン線」でその名を知られるイギリスの動物学者ブラキストンは、1869(明治 2)年 に北海道内各地を旅行し、10 月 7 日に別海に立ち寄っている。この時の旅行記録を 1872 (明治 5)年、イギリスの学術雑誌に発表しているが31、その論文と地図において、ブラキ ストンは別海を「Bitszkai」と記している(資料Ⅱ-7)32。ブラキストンが誰から聞き取っ たのかは不明であるが、 「べっかい」ではなく「べつかい」を聞き取ったものである。また 明治 2 年の時点の記録であることから、江戸時代後期から「ベツカイ」の番屋・漁場では 促音の無い「べつかい」という呼び方が引き続き使われてきたと考えられよう。 ブラキストンは 1881(明治 14)年に再び根室地方を旅行し、1883(明治 16)年 2 月か ら 10 月にわたって『ジャパン・ガゼット』誌に「蝦夷地の中の日本」を連載、後にそれを まとめたものが出版されている。その中では、「Bitszkai」の他33、「Bitskai」とも記して いるものの34、「べっかい」と思われるローマ字地名は見られない。 1888(明治 21)年にアイヌ民族の調査を行ったイギリス人ヒッチコックは、当時の別海 (本別海)も訪れて家屋の写真なども残しているが、本文の中で二度にわたって別海の 2 種類の読み方を併記している。その文を抜粋すれば、"A similar house at Bekkai or Bitskai, near Nemuro" 35 と、"At this village, Bekkai, or as the name was also pronounced, Bitskai"36である。特に「べつかい村とも発音されていたべっかい村」と記した後者は重要 であり、住民から聞き取とったことがはっきりしているのである。すなわち少なくとも今 から 120 年前の時点で、別海は「べっかい」と「べつかい」の二通りの名前で呼ばれてい たのである。 その 2 年後の 1890(明治 23)年に北海道を一周旅行して別海も通過したイギリス人ランド T. Bl is on A Jo n in Y zo in:Jo n l of h Ro l G og phic l Soci of London Vol. pp. - . 邦訳 T.W.ブラキ トン 照男訳 ブラキ トン ぞ 旅 出 企画センター Ibid. pp. 6- . 邦訳 6 T.W.B. J p n in Y zo : s i s of p p s d sc ip iv of jo n s nd n in h Isl nd of Y zo in v ls b w n 6 nd Yo oh m p. . 邦訳ト-マ W ブラキ トン 藤唯一訳 八木 店 Ibid. p. . 邦訳 Rom n Hi chcoc Th Ainos of Y zo J p n "Th R po of h N ion l M s m fo " p. Smi hsoni n ins i ion. Uni d S s N ion l M s m . 邦訳 構保男 世界 民俗 人 化―明治 期 村 興出 だ 邦訳 一 Hi chcoc Ibid. p. . 邦訳 訳 ッ 村落 わち ビッ も発音 だ 訳 Bi s i 仮 表記 ば ビッ ろ ビッ ば Bi i 表記 き ッ ほど発音 違 ヒッ チコッ 明 異 発音 強 興味 引 敢 二度 わ 併記 違 31 ak t , ur ey e , ur a t e ya e ra a ety , 42, 1872, 77 142 ス 著、西島 『 ス ・え 地の 』 (北海道 版 、1985 年) 。 32 , 8 87 3 、40 頁。 33 , a a e a er e a er e r t e ur ey u ertake t e a e , at ter a et ee 18 2 a 1882, k a a 1883, 35 ス・ ・ ス 著、近 『蝦夷地の中の日本』 ( 書 、1979 年) 、133 頁。 34 , 37,73 138、270 頁。 35 y t k, e e , a a , e e rt t e at a u eu r 1890 , 451, t a t tut te tate at a u eu ,1892 、北 『 の 誌1 アイヌ とその文 中 のアイヌの から』六 版、1985 年、93 頁。た し では「別海」 の 語にまとめられてしまっている。 36 t k, , 453 101 頁。同 書では「ベ カイの 、すな その地名はまた カイと されているの が」と されている。 t ka は 名 にすれ 、 ツカイがより近 いであ う。 カイであれ kka と で るし、ベ カイとそれ に いはない。 クは 確に なる地名の に く を かれて えて に たって したに いない。 -6- ーは、 「Bitskai」37と記しており、また同書に附されている北海道地図も同様に「Bitskai」 である(資料Ⅱ-8)。厚岸を「Akkeshi」と記しているのとは対照的である38。 新たに漢字で定められた地名「別海」の読み方は「べっかい」であると行政側が考えて いたにもかかわらず、当時の住民はそれから 20 年経ってもなお「べつかい」を用いていた という事実は、江戸時代後期から明治中期に至る長い間、漁場・番屋などで使われてきた 和名としての呼び名は促音の無い「べつかい」であったことを窺わせる。 その後、1879(明治 12)年の大小区制廃止と郡区町村の編成を経て、野付戸長役場、別 海外四箇村戸長役場が発足し39、1906(明治 39)年には根室郡厚別村を加えて別海外五箇 村戸長役場となった(資料Ⅱ-9)。1923(大正)12 年 4 月 1 日には北海道二級町村制が施 行され、地方自治体としての「別海村」が誕生した(資料Ⅱ-10)。 この間、別海村には内陸部への開発と移民が進み、別海の読み方も次第に「べっかい」 が定着していったと考えられる。後述するように、「別海」と漢字で書いてあれば、「べっ かい」と読むのが促音の規則から言えば妥当であり、道行政側の認識も「べっかい」だっ たと思われるからである。しかし、1948(昭和 23)年に撮影された野球チームのユニフォ ームの胸の部分には「Betukai」の文字が見られ(資料Ⅱ-11)40、なおまだ「べつかい」と いう読み方が「別海村発祥」の地には残っていることを物語っている。 1960(昭和 35)年に提出された市町村台帳の市町村名の欄には、別海村のふりがなとし て手書きで「べつかいむら」とすべて大きな文字で記されている(資料Ⅱ-12)41。1962(昭 和 42)年 7 月 1 日付で提出された訂正版においても、このふりがなに変更は加えられてい ない。しかしふりがなという性格上、促音であっても大きく書かれることが普通であるか ら、促音か促音でないかの判断を下すことはできない。 A.H.Savage Landor, Alone with the Hairy Ainu or, 3,800 miles on a pack saddle in Yezo and a cruise to the Kurile Islands,London 1893(reprinting 1970), p.133. 邦訳 A.S.ランドー著、戸田祐 子訳『エゾ地一周ひとり旅』未来社、1985 年、180 頁。これも邦訳では「ビッカイ」とされている。 なおランドーは地図の中で、現在の稚内市抜海を「Bekkai」と記している。 『別海町百年史』 (534 頁)では、別海外四箇村戸長役場の開設を 1879 年 7 月としているが、これに は疑問が残る。 「戸長役場」の名称は同年 11 月 19 日の開拓使達によるものであり、また野付郡各村に 戸長一人が配置されたのは翌年 6 月 26 日だからである。大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類聚上』 (1885 年、大蔵省) 、140 頁、179 頁。根室県編『開拓使根室支庁布達全書 巻上』 (根室県、1885 年) 、 470~471 頁。また、複数の町村を一つの戸長役場が管轄した場合に「何町外何ヶ村戸長役場」と称する ことにしたのは、 1884 年 12 月 27 日の根室県布達によるものである。 北海道史編纂掛 『根室県 (布達) 』 、 北海道大学図書館附属北方資料室、道写本 284。当初は「野付戸長役場」で、野付郡の村のみが戸長役 場の管轄であったと思われる。根室支庁開拓権大書記官折田平内より根室郡役所・野付戸長役場宛「罐 詰用鮭魚西別側沿傍官有地於テ漁獲方」根室県編『開拓使根室支庁布達全書 巻下』(根室県、1885 年)、 520~522 頁。市立釧路図書館所蔵。なお『根室要覧』 (市川常洋堂、1913 年)には、 「[明治]十二年野付 戸長役場の設置あり」という記述が見られる。同書 6 頁(下篇)。これに根室郡の西別村と走古丹村が 加わり、茶志骨村が抜けて「別海外四箇村戸長役場」と同じ管轄になったのは、1884 年 10 月 13 日の根 室県告第 47 号による。 『標津町史』 (標津町、1968 年) 、206 頁。 福原義親氏が本別海の古い写真を収集・編集した DVD に収録されている。 別海村役場庶務係『市町村台帳綴 昭和三十四年起』別海町役場所蔵。 37 38 39 40 41 -7- Ⅲ 町制施行以降の別海町 1970(昭和 45)年 12 月 4 日、別海村長上杉貞は北海道知事に 1971(昭和 46 年)4 月 1 日から「野付郡別海村を野付郡別海町とすることの申請」をした42。この申請は 1970 年北 海道議会第 4 回定例会において議決され、1971 年 1 月 20 日に北海道知事から自治大臣に 届け出られた43。 町制施行の告示は、まず同年 1 月 25 日付の『北海道公報』(第 11407 号)に掲載され、 同年 2 月 6 日付の『官報』 (第 13237 号)に掲載されて正式な効力が発生したが、町名の読 み方については一切記されていない(資料Ⅲ-1)。しかし、別海町が提出した申請書には、 町名のふりがなとして「のつけぐんべつかいちよう」と記されている(資料Ⅲ-2)。この表 記が、拗音を含んでいることが明らかな「町」のルビも「ちよう」と大きく書かれている ことから、またふりがなという性質から、町名の読み方が「べつかい」である根拠とはな らない。しかしまた同時に、少なくとも書類上は「べっかい」と届け出たわけではないと 言うこともできよう。 1979(昭和 54)年 5 月 10 日、西ドイツ(当時)のヴァサーブルク市と別海町との間で、 姉妹都市提携の盟約が結ばれた。ドイツ語版盟約文には、 「BEKKAI」とタイプで打たれてお り、公文書という性格上、またこの盟約が町議会で承認されていることから、「べっかい」 が正しいという主張の決定的な論拠であるように思われる。 ところが、ヴァサーブルク市長から別海町長に宛てられた書簡の宛名には、一貫して 「Betsukai」と書かれている(資料Ⅲ-4)44。このことは、別海町がヴァサーブルクに対し ては当初から「Betsukai」と名乗っていたことを示している。別海町長からヴァサーブル ク市長に宛てた書簡の写しはあまり残っていないが、1982(昭和 57)年 9 月、1985(昭和 60)年 10 月 22、25 日付上杉町長名の書簡には、"Mayer of Betsukai Town"と記されてい る(資料Ⅲ-5)。佐野町長に代わってから最初のヴァサーブルク市長宛英文書簡には"The town manager in Betsukai" 、 東 西 ド イ ツ 統 一 を 祝 し て 送 ら れ た 独 文 書 簡 で は "Buergermeister von Betsukai"となっている。それではなぜ、姉妹都市提携の盟約文では 「BEKKAI」だったのか。ドイツ語の盟約文は別海町側が作成した日本語を元に、ある女性 が訳したものである45。この女性はヴァサーブルクと別海町の仲介役として大きな役割を果 村 申請 庶第 号 根 支庁 送 該当 マ フィ 化 根 支庁 保管 庁根 支庁 振興 A- 制施行 綴 お原 立 保存 根 支庁 管轄 一連 類 庁市 村 お マ フィ 化 保存 姉妹都市盟約 署 6 6 杉 長宛 佐 力 長宛 ド バッサーブ グ市姉妹都市提携 綴 No. 役場 宛 送 簡 女性 盟約 ド 訳 わ ド バッサーブ グ市姉妹都市提携 綴 No. 役場 42 「野付郡別海 を野付郡別海町とすることの について」 (1970 年 12 月 4 日付別 335 ) 。 室 に られた 文書は イクロ ルム されて 室 に されている。北海道 室 地方部 課『 3 町 関係 (別海町) 』 。な 本は北海道 文書館に されているが、 室 の 下にある。 43 この の書 は北海道 町 課に いて イクロ ルム されて されている。 44 1978 年 12 月 18 日付、1979 年 5 月 10 日付(この日は に 名した日である) 、1979 年 7 月 10 日付、1979 年 8 月 23 日付、198 年 1 月 13 日付、198 年 10 月 30 日付、1987 年 10 月 22 日付(以 上上 町 ) 、1988 年 4 月 11 日付( 野 三町 ) 。 『西 イツ ル 関係 1』 (別海町 所蔵) 。 45 1979 年 2 月 2 日付で町 に った書 より、この が 文の イツ語 をしたことが かる。 『西 イツ ル 関係 1』 (別海町 所蔵) 。 -8- たしていた。盟約文のドイツ語訳が事前に別海町で検討された形跡はなく、全面的に委任 されていたこの女性が翻訳してタイプ打ちしたものにヴァサーブルク市長が署名したと思 われる46。その際、別海が「BEKKAI」とタイプ打ちされたのが真相ではないだろうか。 「べっかい」という呼び方が定着していたと思われるこの時期に、なぜ敢えて「Betsukai」 を使っていたのであろうか。ヴァサーブルクとの姉妹都市提携に向けて町が動き出した 1978(昭和 53)年は、町制百年の記念事業として『別海町百年史』が発行された年であっ た。同書の序文には、 「当町が"ベツカイ"と呼称されるようになったのは、先人がこの大地 に入地してからであり、 (…)安政年間に至ってようやく"ヘツカイ"と称されるようになり、 今日の"ベツカイ"に近い表示がなされました。そして、明治に転じ、 “別海”と呼称された ものですが、正式の命名は明治五年の村名定めで"ベツカイ"を冠せられ、以来、幾度かの 行政的改革にも、村(町)名は一貫して変わることなく今日に至ったのであります」47(下 線筆者)と書かれており、仮名表記で書かれた促音の無い「ベツカイ」が正式な名称であ ると強調している。あくまでも推測に過ぎないが、この町史発行を機に歴史に対する関心 が役場内部で高まり、 「別海」の呼び方について歴史的な仮名表記「ベツカイ」を根拠に「べ つかい」と呼ぶのが正しいという合意形成が役場内の一部でなされたのではないだろうか。 Ⅳ 促音規則の検討 別海同様、同じ「別」で始まる地名として、根室管内の「別当賀」(べっとうが)、釧路 管内の「別保」 (べっぽ)といった地名が思い浮かぶが、これらはいずれも促音である。し かし、石狩市厚別区の「別狩」、また増毛町の「別苅」の正式な呼び方は「べつかり」であ り、いずれの地名も地元の住民のほとんどの人が「べっかり」ではなく「べつかり」と呼 んでいるという48。別で始まる地名だからといって必ず促音になるわけではないことがわか るが、それではそこに何らかの規則性はあるのだろうか。 語と語とが結合する時、その語の音がもとのままでなく多少規則的に転化することを音 転化の法則という49。「促音」はこの一種であるが、「t」という子音で終わる発音(現在の 中国語では失われてしまったが、かつて漢字には p、t、k という子音で終わる発音があり、 にっしょう これを 入 声 と呼ぶ。)を持っていた漢字が次のような条件を満たす漢字の前に来た場合に また、1979 年 5 月 10 日付別海町長宛の書簡でヴァサーブルク市長は、盟約に署名する数日前にこの 女性と盟約文の細部について話し合うことができたと記している。つまり、この話し合いで条文に使わ れている語句などが検討され、必要があれば変更が可能だったということである。なおこの女性は同年 8 月 24 日付の別海町長宛書簡の宛名には「Betsukai」と記しており、この時点においては正式な町名は 「べつかい」であると認識していることがわかる。 『別海町百年史』 (別海町、1978 年) 、10 頁。この記述の根拠は、本稿でも既に示した大蔵省編『開 拓使事業報告 第一編』、1885 年、185 頁にあると思われる。『別海町百年史』の該当個所は 259 頁であ る。ただし、このときに「ベツカイ」と設定されたことを示す資料は管見の限り見当たらない。おそら くは「本字通達」からの類推であろう。 石狩市教育委員会工藤義衛氏及び増毛町役場からの情報提供による。 橋本進吉「国語音韻の変遷」『古代国語の音韻に就いて 他二篇』(岩波書店、1980 年)、128 頁。 46 47 48 49 -9- 促音になるという規則が現在に至るまで行われているという。 「カ行サ行タ行音の前では促音となる。ハ行音の前では促音となり同時にハ行音はパ行 音となる。」50 そこで、入声の語尾 t をもつ「別」の後に漢字が続く場合、促音になるかならないかを 国語辞典などを用いて調べると、次のようになった。 別+ア行 促音にならない(別宴) 別+ +カ行 促音になる 促音になる(別格、別館、別記、別居)例外 になる 別+ガ行 別口 促音にならない(別願、別号) 別+ +サ行 促音になる 促音になる(別冊、別紙、別席、別荘) になる 別+ザ行 促音にならない(別時、別人) 別+ +タ行 促音になる 促音になる(別宅、別途) になる 別+ダ行 促音にならない(別段、別動隊) 別+ナ行 促音にならない(別納) 別+バ行 促音にならない(別便) 別+パ行 用例はない。 別+マ行 別+ヤ行 促音にならない(別間、別名、別問題) べっちゃく 促音にならない(別様) 例外 別 役 別+ラ行 促音にならない(別離、別流) 別+ワ行 促音にならない(別枠) べっぷく )例外 別+ +ハ行 促音になり 促音になり、 になり、ハ行音は 行音はパ行音になる 行音になる(別派、別府、別嬪、別腹 になる べつばら 別腹 べつばら べっちゃく このように、おおよそ先の規則が当てはまるが、 「別口」 「別腹」 「 別 役 」は例外である。 このうち「別役」は「ア行ヤ行ワ行音の前では促音となり次の音はタ行音に変ずる」とい う室町時代までは見られた促音の規則性であり、江戸時代に入ると一部の言葉を除いて消 べつばら 滅した規則である51。「別口」と「別腹」が促音にならないのは、次に続く漢字が訓読みで あることが関係していると思われる。元となったアイヌ語を考慮せずに漢字だけで判断し た場合、先に挙げた「別狩」と「別苅」も「別」の後の漢字「狩」・「苅」が訓読みである ため促音にならないと説明できよう。 この促音の規則を「別海」に当てはめた場合、入声の語尾「t」をもつ漢字「別」の後に、 音読みでカ行の「海」が続くため、 「べっかい」がその読み方となる。一部の例外はあるに せよ、漢字二文字からなる言葉は固有名詞や近年使われるようになった略称なども含めて おおよそこの規則が当てはまることから、漢字表記「別海」は「べっかい」と読む方が一 橋本進吉前掲書、169 頁及び 176~177 頁参照。濱田敦は「次にカ、サ、タ、ハ(パ)行の清音が来 さへすればまづ例外なしに促音化するのである」としている。ただしその例外として「一高」 「葛飾」 という固有名詞を挙げている。濱田敦「促音と撥音(上) 」 『人文研究(大阪市立大学文学会) 』1(1)、1949 年、101、113 頁。 橋本進吉前掲書、176 頁。例えば「せっちん 雪隠」もその一例である。濱田前掲書、114 頁。 50 51 -10- 般的であり、「べつかい」と読むのは特殊な読み方の部類に入るといえる。 ところでアイヌ語地名に当てられた漢字は、本来的にはあくまでも当て字であり、漢字 を当てたからといって、その読み方までも漢字に合わせて変える必要はなかったはずであ る。しかし、できるだけ二字以下の漢字を当てるという開拓使の方針によって、漢字から だけでは本来のアイヌ語地名として読むのが極めて難しい、かなり無理のある漢字が当て られた場合も少なくない。 「本字通達」で挙げられている地名を例にすれば、斜里郡の「シ ユマトカリ村」には「朱円」という漢字が当てられた。この漢字に引き摺られる形で、現 在では「しゅえん」が呼び名になっている52。この例のように、漢字を当てた場合本来のア イヌ語地名から離れてしまう場合が見られるのであるが、アイヌ語を由来としながらも江 戸後期以降促音の無い形で発音されていたと思われる和語としての地名「ベツカイ」は、 「別海」の漢字が当てられることにより促音の規則が適用され、むしろ元となったアイヌ 語の発音に近づくという現象が生じたのである。ここに「別海」地名呼称問題を複雑にし ているねじれがあると考えられる。 おわりに 江戸時代後期、地名「別海」の元となったと考えられる純然たるアイヌ語は、和語の地 名として採用される過程において「ベツカイ」となり、それは文字通り促音の無い「べつ かい」と呼ばれていたと考えられる。それは明治初期まで続いたが、漢字の「別海」の漢 字が当てられたことにより「べっかい」が使われだし、明治中期の段階では両者が混用さ れていた。次第に一般化していった「べっかい」という呼び方が、その語源と考えられる アイヌ語「Pet kai」により近い発音であったのは、アイヌ語を尊重したのではなく、当て られた二文字の漢字「別海」の促音規則によるものであり、アイヌ語に近づいたのはその 偶然の産物といってよい。その後内陸部の開拓と移住が進み、 「べつかい」という呼び名は 次第に忘れ去られていった。しかし、おそらく『別海町百年史』の発行を契機として別海 の歴史に対する意識が高まり、「ベツカイ」という歴史的表記が注目され、「べっかい」で はなく「べつかい」が正しいという主張が出てくるようになった。この主張は、公の場で 議論されることなく非公式な形で行政側に採用されたため、両者が混用されることで混乱 が生じ、統一する判断を迫られた佐野町政時代に「べつかい」が「公式な読み方」として より強い形で様々な場面で打ち出され、現在に至っている。 以上が資料から辿ることのできた地名「別海」の読み方の歴史的経過であるが、それで はどちらの読み方が正しいと言えるであろうか。どちらの読みにも正当性があり、『「べっ かい」は誤りで「べつかい」が絶対的に正しい』とも『「べつかい」は誤りで絶対的に「べ っかい」が正しい』とも断定はできない。現在のように両者が混用されてきた歴史は少な くとも 120 年前にまで遡るのであり、どちらかに強制的に統一するのではなく、今後も両 52 立 民族文化研究センター『ポン カンピソシ 9地名』(2004 年)、4 頁。 北海道 アイヌ -11- 者を併用していくというのも選択肢のひとつであると考えられる。いずれにせよ町民の意 見も十分に参考にし、オープンな議論を重ねた上で、この地名呼称問題の解決を図るべき であろう。 参考文献 秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』(北海道大学図書刊行会、1999 年) 秋葉實編『北方史史料集成 第一巻』(北海道出版企画センター、1991 年) 遠藤邦基「特殊音節(撥音・促音・長音)の表記法--「はねる・つまる・引く」という説明が必要となっ たことの意味」 ( 『關西大學文學論集』50(3)、2001 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