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ごあいさつ - 曹洞宗 玉寶山 長光寺

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ごあいさつ - 曹洞宗 玉寶山 長光寺
2012(平成24)年1月1日
1
第 17 号
ごあいさつ
住 職
松
倉
太
鋭
本 年 は 未 曽 有 の 東 日 本 大 震 災 が 起 こ り ま し た。 海 原
は裂け、大地は荒ぶれ、多くのいのちが失われました。
素 朴 で 善 良 な 東 北 の 人 々 に 対 し、 日 本 全 体 が 復 興 と 鎮
魂の願いの日々でありました。
人 間 は 大 自 然 の 中 に﹁ 生 か さ れ て い る 生 き る 者 ﹂ で
あ り ま す。 そ の こ と を 忘 れ て 大 自 然 を 開 発 し て、 都 合
た の で す。 こ の 度 の 原 子 力 発 電 所 の 事 故 を 私 た ち の 生
よ く 改 造 し て い く こ と が、 文 明 社 会 の 繁 栄 と 思 っ て き
き方の反省する契機にしなければなりません。
昔の日本人は天災を世直しの転機としてまいりまし
た。 ピ ン チ を チ ャ ン ス に し て き た わ け で す。 自 然 の 恵
みに感謝して、つつしましく生きる謙虚さこそ、﹁人間
の幸せ﹂の原点であるのではないでしょうか。
し か し、 あ れ か ら 半 年 過 ぎ て み る と、 は や 震 災 は 過
去 の も の と し て 忘 れ そ う に な っ て い ま す。 こ の こ と は
簡 単 に 忘 れ 去 る 問 題 で な く、 日 本 人 全 体 の 問 題 と し て
と ら え、 心 は い つ も 震 災 に 遭 っ た 人 た ち と 共 に あ る べ
きでしょう。
日 本 の 美 し い 自 然 は、 災 害 も 多 い こ と も 忘 れ て は な
らない教訓です。
良 寛
なにとなく心さやぎていねられず
あしたは春の初めと思えば
あすは春︵正月︶と云う夜
坐禅終了後、本堂にて法話を聞く参加者
玉寶山 長光寺
〒169-0073
昭和初期の本堂(戦時中の空襲にて焼失)
東京都新宿区百人町1-5-2
TEL:03-3209-5360
FAX:03-3200-7026
http://www.chokoji.net/
長光寺の歴史
歴代の住職の名前は幸い先代の故眞
一 利 子氏より預かった書面がありまし
右開基は武田氏の人と記録にこれ
有り候﹂︵原漢文︶
この文書から推察すれば、寺が開かれ
たので、これを手掛かりに位牌をつくり
た年代は不明であるが、鐘楼の鐘の銘に
参禅会より
文禄三年ということが彫られている。寺
毎月第一土曜と第三土曜︵第二
土曜と第四土曜は団体のみ︶の二
爆撃によって伽藍は灰燼に帰してしまっ
大空襲︵昭和二十年三月十日︶の焼夷弾
まったくありません。太平洋戦争の東京
か し な が ら、 裏 付 け と な る 古 文 書 等 が
となく、いろいろな資料が集まるように
と、伺ってみたりしているうちに、なん
鉄砲百人組の歴史を調べている人がいる
る人に何気なく聞いてみたり、あるいは
建設の傍ら地域の伝承文化に精通してい
し た が、 工 事 が 進 ん で お り ま し た の で、
ものを感じます。
間違いないところで、師弟の奥ゆかしい
の名にしないで、師匠の名にしたことは
明しました。寺の開山という名誉を自分
海翁寒刹和 尚 という方であることが判
実際の開山︵寺を開いた人︶は二代目の
す。夜の坐禅には勤め帰りのサラ
心者の方々の、二座に分けて開放
は毎回参加の方々、三時半より初
うごとに参加者が増え、二時より
時より行っている坐禅会は日を追
を開いた方は得 州 玄可和 尚 という方で、
たからです。かろうじて残ったのは疎開
なりました。何かを願いながら行動すれ
また、開基︵寺を建立した寄進者︶は
甲州の武田氏の遺臣︵法名は直心軒祖道
リーマンも参加して熱心に坐って
長光寺は、いままで徳川家康の江戸入
祀ることにいたしました。
本堂建築に着手してからも、相変わら
府にともない、百人組鉄砲隊駐屯ととも
ず長光寺の歴史については不明のままで
に建立されたと伝承されていました。し
していた本尊さま
︵釈迦如来と薬師如来︶
円成居士︶で建立されたことが、この古
おります。
十二月の一日から七日まで臘八
摂心︵一週間の坐禅︶が始まりま
しております。
と過去帳だけでありました。
文書から読み取れます。
平成十年に住職に就任しました。とに
ば、どこか通じるものです。
何人かの手を煩わし集まった資料のな
かく本堂の再建をしなければなりませ
かに文政十年に編纂された﹃文政寺社書
途 端 に 参 加 者 が 増 え、 今 更 な が
ネットにホームページを開設した
した。このままでは先細りになる
調べに図書館へ行ったりしましたが、よ
ん。それと並行しながら長光寺の歴史を
に長光寺のことが載っていることが判明
ら、ネットの持つ威力を感じまし
上﹄という古文書がありました。この中
当初は、武蔵野という名に似合う原野
坐禅会を始めた当初は、参加者
にささやかな御堂が農地にかこまれて
が 三、四 人 と い う 時 が 長 く 続 き ま
うとして手掛かりがなく、建立された年
ら数年後です。朝鮮との戦いがこう着状
行所︶に長光寺の歴史と、敷地の見取り
文禄三年︵一五九四︶という年は秀吉
の朝鮮征討︵天正十九年・一五九一︶か
しました。この文書は時の幕府︵寺社奉
態 か ら 休 戦 和 議 に か た む い て い た 年 で、
の で は な い か と 思 い、 イ ン タ ー
て、ようやく、当初のおぼろげな寺の姿
た。長光寺は都心の坐禅道場の寺
昨年も鉄砲隊が来てくれました( 9 月 23 日)
あったことが想像されます。
は依然不明のままでありました。
が見えてきました。
文化の爛熟期を迎えた安土桃山時代のこ
といったイメージが定着したよう
図を届け出たものです。この文書によっ
この書面に、
とです。
﹁玉寶山長光寺、大久保南百人町、牛
込宗参寺末、境内除地千五百十五坪
翌年の文禄四年には関白秀次を石田三
な感じがいたします。
余、
開闢年代相知れ申さず候。但し、 成が詰責し、高野山に幽閉して自刃させ、
曹洞宗の教えを学ぼうと思った
ら、まず坐禅をすることです。檀
の兆候がみえだした頃のことです。
ごたらしい事件があって、秀吉政権崩壊
と併せて、自己を見つめ、自分の
信徒の皆様もお寺の先祖の墓参り
更に三条河原で子女を処刑するというむ
開山得州玄可和尚 寛永九子六月
鐘銘に文禄三年の由相見え申し候。
六日寂。
ることをお勧め
す坐禅をしてみ
中の仏様を見出
月十三日寂。
いたします。
︵続く︶
開基直心軒祖道円成居士 慶長二
中興海翁寒刹和尚 元文四未年十
酉年三月朔日卒。
長光寺ホームページ http://www.chokoji.net/ または「長光寺」で検索して下さい。
2
2012(平成24)年1月1日
秩父観音霊場に参拝
去 る 十 月 三 十 一 日 に 檀 信 徒 の 方、 梅 花 講、 写 経 会 、
参 禅 会 の 有 志 で 秩 父 観 音 霊 場 の 巡 礼 に 出 か け ま し た。
昨 年、 一 番 よ り 始 め て 十 一 番 札 所 ま で 廻 っ た の で 本 来
な ら ば 四 月 八 日 に 行 く 予 定 で し た。 し か し 東 北 震 災 を
目の当たりにして自粛。秋に順延したわけです。
こ の 日 は 天 気 予 報 で は 朝 は 小 雨、 そ れ か ら 曇 天 と い
う こ と で し た が、 幸 い 日 中 は 晴 天 に 恵 ま れ、 十 二 番 か
ら 二 十 五 番 ま で 和 気 藹 々 の 内 に 廻 り ま し た。 そ れ ぞ れ
の 札 所 に は い ろ ん な 趣 が あ り、 秋 の 一 日 を 楽 し く 巡 拝
す る こ と が で き ま し た。 最 後 は、 つ る べ 落 と し の 陽 に
追 わ れ る よ う に う ま く 時 間 内 に お 参 り を 終 え ま し た。
二 十 六 番 か ら 三 十 四 番 の 満 願 札 所 ま で、 も う 一 回 で す 。
桜の季節に又、お参りをしたいと存じます。
秩父観音巡りに参加して
小 倉 光 雄
思 い ま す が、 江 戸 時 代 の 庶 民 の 学 校 で、 江 戸 末 期 に
全 国 に 一 万 五 千 五 百 ヶ 所 も あ り、 明 治 維 新 の 際 に 近
代化へスムーズに対処できたのもこの学問の底力が
あ っ た か ら だ と 思 い ま す。 生 徒 達 が 寺 子 屋 の 師 匠 を
敬 愛 し そ の 記 念 に 建 て た﹁ 筆 子 塚 ﹂ が 秩 父 に 残 っ て
い た の で す。 当 時 の 師 匠 に は 武 士・ 浪 人・ 隠 居・ 神
官 も い ま し た が、 僧 侶 が 最 も 多 く 寺 子 屋 と 称 さ れ て
いました。
日本がこれからもっと素晴らしい国になるには教
育 が 基 本 だ と 思 っ て お り、 私 は 毎 週 金 曜 夜 に 地 元 公
秋晴れの十月
末日 檀家、御
詠歌、写経、坐
観音巡り︵十二
民 館 で﹁ 川 口 自 主 夜 間 中 学 ﹂ と い う 現 代 の 寺 子 屋 活
禅の方々と秩父
寺∼二十五寺︶
動をボランティア仲間としています。
と戴いた﹁慈光﹂を頼りに各寺毎に般若心経を唱え、
結んでいた
寺での御詠歌の旋律は周囲に響きわたりました。
御 詠 歌 が 寺 院 毎 に あ る こ と を 知 り、 な か で も 秩 父
事 件 ︵ 明 治 十 七 年 ︶ に ゆ か り の あ る 二 十 三 番、 音 楽
たしましょ
音巡りをい
ご一緒に観
た。
の 食 事 も お い し く、 満 足 で き た 格 安 バ ス ツ ア ー で し
手 が 伸 び て し ま い、 弁 天 堂 の 秋 の 味 覚 の デ ザ ー ト 付
今 回 初 め て お 会 い し た 方 々 と も 和 気 藹 々 と な り、
車 内 で 次 々 と 回 っ て く る 差 し 入 れ の う れ し さ、 つ い
はお早めに
ご連絡下さ
い。
し く な り ま し た。 と い う の も﹁ 寺 子 屋 ﹂ を ご 存 知 と
わ っ て 外 に 出 ま す と﹁ 筆 子 塚 ﹂ が 建 っ て お り、 う れ
私 が 印 象 に 残 っ た の は 十 六 番、 西 光 寺 で し た。 回
廊内の四国八十八ヶ所の仏像を鑑賞しながら巡り終
う。申込み
思 い ま す。
第 23 番音楽寺にて
感謝 合掌
※﹁筆子塚﹂の写真は神山さんからのご提供です。
﹁寺子塚﹂全景
皆 様、 本 当 に 有 難 う ご ざ い ま し た。 次 の 機 会 を 楽
しみにしております。
名 刹 長 光 寺 の 歴 史 も 学 び、 長 光 寺 独 自 の 御 詠 歌 の
誕生を心より念っております。
に参加させて戴
きました。坂東
三十三ヶ所、秩
父三十四ヶ所の
日本百観音巡り
の初めての経験
でしたが、住職
すが、参加
御 詠 歌 を 奉 じ 、 納 経・ 御 朱 印 と い う 目 的 を 全 員 が 達
ご夫妻のご先達
希望の方は
成いたしました。
だきたいと
会に仏縁を
是非この機
途中から
ではありま
筆子塚について
2012(平成24)年1月1日
3
4
2012(平成24)年1月1日
長光寺の弟子、永平寺へ上山。
ました。ちょうど三月十一日の東日本
に手甲、脚絆のいでたちで上山いたし
積雪の残る古道場に網代笠、袈裟行李
本山永平寺へ上山いたしました。まだ
今春、大学を終えた長光寺の徒弟松
倉 徳 允は三月八日に、福井県にある大
います。
役立つ貴重な経験を積んでくれると思
言われています。自分を鍛えて将来に
﹁若い時の苦労は買うてもせよ﹂とも
が、
普段の生活とはかけ離れた毎日で、
生活の延長というわけにはいきません
自由の無い生活です。もとより東京の
大震災日には入門前の旦過寮︵新しく
侍真寮︵宗祖の廟所︶という場所で宗
上山した修行僧がいる場所︶にいたの
いままで、
大庫院︵食事を作る場所︶
にいましたが、雪が降る季節になって
うですが、仲間には実家が震災に遭っ
祖にお仕えしています。
で北陸のためか、揺れも少なかったよ
た人もいたそうです。
ます。
たいと願っており
えを学んでもらい
お仕えし、尊い教
つくし心を込めて
もあります。身を
も有難いところで
きるという、とて
が宗祖にお仕えで
は厳しいものです
ます。日々の公務
から一日が始まり
水を汲み、道元禅師にお供えすること
今までの生活とは全く違い、毎朝三
ここは永平寺の中でも一番大変なと
時半起床で、お粥と麦ごはんと僅かの
ころで朝は午前一時半に起床し、白山
葉物だけの質素な食事、規律の厳しい
大本山永平寺上山記念 平成23年3月8日
長光寺の年間行事︵平成 年︶
行事です︶
穏な一年でありますよう祈祷する
新年祈祷と年頭行事︵新しい年が平
一月朔日∼三日
恩供養する期間です︶
春の彼岸会︵皆様の御先祖さまへ報
恒例の施食会︵法話と法要︶
︵皆様の御先祖さまへ報恩供養する
大 法 要 で す。 御 法 話 と 御 詠 歌 を お
となえいたします︶
恩供養する期間です︶
秋の彼岸会︵皆様の御先祖さまへ報
の予定。
第一、第三土曜日 参禅会
第二、第四月曜日 梅花流詠讃歌
写経教室
*春に秩父観音霊場参拝、秋に講演会
成道会︵お釈迦さまの悟りの日︶
その他月例行事として、
臘八摂心︵一週間の坐禅会です︶
十二月八日
十二月一日∼八日
盂蘭盆会︵お盆の行事です︶
九月二十二日
七月十三日∼十六日
花祭り︵お釈迦さまの誕生の日︶
五月二十三日
四月八日
涅槃会︵お釈迦さまの入滅の日︶
三月二十日
報恩摂心︵一週間の坐禅会です︶
二月十五日
二月一日∼七日
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▽長光寺のいま。
大久保界隈は今や韓流のメッカとし
て毎日歩道から人が溢れんばかりの様
相をみせています。百人町職安通りも
その余波を受けて、中年や若い女性た
ちの集う場所になって、ハングルの看
板の目立つ街になりました。みんなグ
ループで行動して独りだけの人は殆ど
見うけません。韓流スターのグッズを
買ったり、韓国料理店で食事をして好
きな俳優の情報を交換したり、露天の
料理をほおばったりして街を歩いてい
ます。
私は九月に渡米しまして、ロサンゼ
ルスの禅センターを訪ねました。この
寺はリトルトウキョウのそばにあるた
め、車で向かいましたところ、車窓の
風景はやはりハングル文字の看板が多
く目立ちます。日本人街をはるかに超
えた規模で、いまさらながら韓国のパ
ワーをみせつけられた思いです。
韓国の教育熱は過熱気味のようで
す。日本と同じ事情、つまり資源が少
なく、
国土も狭いということもあって、
師弟の将来に期待する気風は似たもの
同士のところもあるでしょうが、韓国
人気質に由来するその情熱と向上心は
日本人を超えるものがあります。
これらの是非は別として、日韓の親
善と文化交流が深まるならば喜ばしい
ことと言えるでしょう。ただ、いつま
でも日本優位が通用しないことは間違
いのないことです。
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