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ヒューム:経験論・因果性・人格の同一性

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ヒューム:経験論・因果性・人格の同一性
http://www.geocities.jp/rightmind1994/empiricism
ヒューム:経験論・因果性・人格の同一性
● デイヴィッド・ヒューム (David Hume, 1711-1776):ロック,バークリーの経験論を受け継ぎ,
それをさらに深化・徹底させた.
● 主要著作
A Treatise of Human ature
1739-40
『人間本性論』
(『人性論』
)
Essays, Moral and Political
1741-1742
『道徳政治論集』
An Enquiry Concerning Human Understanding
1748
『人間知性研究』
An Enquiry Concerning the Principles of Morals
1751
『道徳原理研究』
Political Discourses
1752
『政治論集』
The History of England
1754-1762
『イングランド史』
Four Dissertation
1757
『四論集』
Dialogues Concerning atural religion
1779
『自然宗教に関する対話』
● ヒュームは,その哲学上の主著『人間本性論』において,人間本性の探究に「実験的方法 (the
experimental method)」を適用することを試みた.
*『人間本性論』の完全なタイトルは以下のとおりである:A Treatise of Human ature: Being an Attempt to
Introduce the Experimental Method of Reasoning into Moral Subjects.
1. 認識論
● ヒュームは精神の内容を一般に知覚 (perception) と呼ぶ.知覚は次の二種類に分類される:
(1) 印象 (impression):感覚と感情.
(2) 観念 (idea):思考や推論の要素.
印象と観念との関係:印象と観念はそれらの鮮明さ (liveliness) において異なる.印象が鮮明に
心に現れるのに対し,観念は印象のぼんやりしたコピー (faint image) であるとされる.例えば,
机を見ることによって得られる視覚は印象である.一方,後にその机の状況を想起する際,ある
いは,その机について考える際に心に浮かぶイメージは観念である.
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* ヒュームは「観念」をロックより狭い意味で用いていることに注意.ロックの意味での観念はヒュー
ムの意味での知覚に相当すると考えられる.
* 印象は感覚の印象 (impression of sensation) と反省の印象 (impression of reflection) に分類される.
(こ
れはロックの区別にほぼ相当すると考えられる.
)
● 知覚は単純知覚と複合知覚に分類される(この区別は印象と観念との両方に当てはまる)
.単
純観念は,つねに何らかの単純印象に由来する(すなわち,そのコピーである)
.一方,複合観
念は,複合印象に由来する場合もあるが,知性によって単純観念から構成される場合もある.
● 記憶 (memory) および想像 (imagination) の作用によって印象が再生された結果が観念であ
る.記憶により由来する観念は,想像に由来する観念より鮮明である.記憶は知性が受け取った
諸印象を,それらの相互関係(順序や位置)を変えずに再現するが,想像はそれらの相互関係を
変化させ,再編成することができる.
● 想像力は諸観念の相互関係を連合される仕方にはある緩やかな規則性・法則性が存在する.
その原理(観念連合 (association of ideas) の原理)は,類似 (resemblance),近接 (contiguity),因
果 (cause and effect) の三種類である.
* これらの関係は自然的関係 (natural relations) と呼ばれる.一方,知性が諸対象を能動的に比較する
場合に用いられる関係は哲学的関係 (philosophical relations) と呼ばれる.これらは,類似 (resemblance),
同一性 (identity),時間と空間の関係 (relations in time and place),量または数の比率 (proportion in quantity
or number),性質の度合い (degrees in quality),反対 (contrariety) および因果性 (causation) である.
● 実体の観念:実体は様態を支える経験不可能な対象ではなく,単純観念の束に他ならない.
* ヒュームによれば,哲学用語の意味を経験論的な観点からその妥当性について検討する必要がある.
したがって,ある哲学用語が意味や観念なしに用いられているのではないか(実際そのようなことは
非常に多い)という疑念を抱いたときには,我々はただ次のように問えばよい.
「いかなる印象から
その観念とされるものは導き出されたのか?」そして,いかなる印象も割り当てることができない場
合には,我々の疑念が正しいことが示される.
(
『人間知性研究』2 章 17 節)
‘When we entertain, therefore, any suspicion that a philosophical term is employed without any meaning or
idea (as is but too frequent), we need but to inquire, from what impression is that supposed idea derived? And if
it be impossible to assign any, this will serve to confirm our suspicion.’ (An Enquiry Concerning Human
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Understanding, 2, 17.)
● 抽象観念について,ヒュームはバークリーの見解をほぼ踏襲した.
● 知性による探究の対象は,観念の関係 (relations of ideas) にかかわるものと事実の問題
(matters of fact) にかかわるものに分けられる.
前者は主として数学(算術,代数,幾何学)における探究である.真である数学の命題は,そこ
に含まれる観念の関係によって必然的に成り立つ(その否定は論理的・概念的矛盾である)
.そ
れは確実な知識であり,それが真であることを確かめるために経験を必要としない.
(例:
「5 + 7
= 12」,
「x + y = y + x」,「三角形の内角の和は 180 度である」.
)
事実の問題にかかわる探究においては,単に観念の諸関係を検討するのみならず,それらの観念
に対応する事物の間の関係を経験によって確かめる必要がある.事実の問題にかんする真なる命
題は必然的ではない.また,それらの多くは確実ではなく,なんらかの程度の蓋然性を持つのみ
である.
(例:
「机の上に本がある」
,
「すべてのカラスは黒い」
,
「光の速度は秒速 300,000 キロメ
ートルである」
.)
● 事実の問題にかんする推論は,因果関係 (causal relation) に基づく.
事実の問題にかんするすべての推論は,原因と結果の関係に基づく.その関係によってのみ,我々は記
憶と感覚の証拠を超えることができる.
(
『人間本性論』1 巻 3 章 2 節)
All reasonings concerning matters of fact seem to be founded on the relation of cause and effect. By means of that
relation alone we can go beyond the evidence of our memory and senses. (A Treatise of Human ature, 1. 3. 2.)
2. 因果性の分析
● 因果関係はいかなる印象に由来するか.
(a) 空間的近接:原因と結果は空間的に近接するか,またはそれらの間に空間的に近接する出来
事(対象)の連鎖が存在する.
(b) 時間的継起:結果は原因に引き続いて起こる.
しかし,これらの関係は因果関係の必要条件であり,十分条件ではない.原因と結果の間には,
必然的結合 (necessary connection) が存在すると考えられる.言い換えれば,前者は後者を引
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き起こすものと考えられる.しかし以上の関係からは必然的結合の観念は生じない.
● 必然的結合の観念は何に由来するか.
(1) 原因と結果の間に論理的な必然的関係は存在しない.A が B の原因であるとしても,A が起
こって B が起こらない状況を考えることは可能である.言い換えれば,A の観念に B の観念は
含まれない.
例:《火》の観念に《熱さ》の観念は含まれず,
《カラス》の観念に《黒い》という観念は含まれない.
一方,
《独身者》の観念に《結婚していない》という観念が含まれる(両者の間に論理的関係がある)
.
(2) 恒常的連接 (constant conjunction):二種類の出来事 A, B について,A と B が常に隣接し,
A が B に先行する(両者が恒常的に連接する)場合,A は B の原因であり B は A の結果である
と言われる.
我々は原因を次のような対象と定義できるだろう.すなわち,ある対象が別の対象によって伴われ,ま
た第一の対象と同様のすべての対象に,第二の対象と同様の対象が伴う場合,第一の対象は原因である.
これは言い換えれば,もし第一の対象が存在しなかったら,第二の対象も存在しなかったであろう場合
である.
(
『人間知性研究』7 章 2 部 60 節)
…we may define a cause to be an object, followed by another, and where all the objects similar to the first are
followed by objects similar to the second. Or in other words where, if the first object had not been, the second
never had existed. (An Enquiry Concerning Human Understanding, 7.2. 60)
(3) 必然的結合の観念は,知性の習慣に由来する:出来事 A に別の出来事 B が恒常的に連接す
るのを経験すると,我々は A を観察したときに B が起こるのを期待する習慣を身につけるよう
になる.この傾向の印象が出来事 A と出来事 B との間に必然的結合があるという観念を生み出
す(この印象は反省の印象である)
.
したがって,原因と結果との間の必然的関係は,出来事自体の間に存在する客観的関係ではなく,
知性の側に存在する主観的な関係である.
● 因果的推論は自然の斉一性 (uniformity of nature) の仮定に基づく.
自然の斉一性:
「我々が経験していない事例は,我々が経験した事例に必然的に類似している」
(
『人間本
性論』1 巻 3 章 6 節)
… instances of which we have no experience, must necessarily resemble those, of which we have. (A Treatise of
Human ature, 1. 3. 6.)
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自然の斉一性は理性によっては証明不可能であり,習慣に由来する.
未来が過去に似ているという仮定は,いかなる種類の論証にも基づいておらず,我々が慣れ親しんでい
るのと同じ物事の成り行きを未来に期待することを決定づける習慣に由来する.
(
『人間本性論』1 巻 3
章 12 節)
… the supposition, that the future resembles the past, is not founded on arguments of any kind, but is derived
entirely from habit, by which we are determined to expect for the future the same train of objects, to which we
have been accustomed. (A Treatise of Human ature, 1. 3. 12.)
3. 精神的実体と人格の同一性
● 知覚が内在する (inhere) 場所として精神的実体(=魂 soul)を仮定する必要はない.実体の
観念は明確な意味を欠き,知覚の説明として無用である.知覚がそれ自体で存在すると考えるこ
とに問題はない.
● 知覚が内在する (inhere) 場所として精神的実体(=魂 soul)を仮定する必要はない.実体の
観念は明確な意味を欠き,知覚の説明として無用である.知覚がそれ自体で存在すると考えるこ
とに問題はない.
● 人格の同一性 (personal identity) の問題:精神的実体が存在しないとすると,
(時間を通じての)
自我の同一性はいかにして保たれるのか?
* 単純かつ不変な精神的実体が存在すれば,人格の同一性はそれによって説明可能である.
● 同一性を保つ自我の観念は,経験からは得られない.
もし何らかの印象から自我の観念が生じるならば,その印象は我々の生涯を通じて常に同一でなければ
ならない.自我はそのような仕方で存在するとされているからである.しかし,いかなる印象も一定か
つ不変ではない.
(
『人間本性論』1 巻 4 章 5 節)
If any impression gives rise to the idea of self, that impression must continue invariably the same, through the
whole course of our lives; since self is supposed to exist after that manner. But there is no impression constant and
invariable. (A Treatise of Human ature, 1.4.5.)
私の場合には,自分の自我と呼ぶものを最も丹念に観察するとき,常に何らかの具体的な知覚(熱さや
冷たさ,明るさや暗さ,愛や憎しみ,苦痛や快楽)を見出す.私はどんな時も,知覚なしに私の自我を
捉えることは決してできず,知覚以外の何物をも観察することは決してできない(『人間本性論』1 巻 4
章 6 節)
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For my part, when I enter most intimately into what I call myself, I always stumble on some particular perception
or other, of heat or cold, light or shade, love or hatred, pain or pleasure. I never can catch myself at any time
without a perception, and never can observe any thing but the perception. (A Treatise of Human ature, 1.4.6.)
● したがって精神とは,常に流動しつつある様々な知覚の束あるいは集まり (a bundle or
collection of different perceptions) である.
● 自我が時間を通じて同一であるという観念は,記憶の連続性に由来する.
* 以上の意味で,時間を通じて同一性を保つ自我という考えは一種の虚構である.しかし自我が時間を
通じて真に同一であるか否かという問題は,語り方の問題であり,真の哲学的問題ではない.
● 自我が「様々な知覚の束」であるとすると,何によってそれらの知覚が一つの束として結び
つけられるのかという問題が生じる.ヒューム自身,これが彼にとって解決不可能な問題である
ことを認識していた.
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